或社会主義者

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動


 彼は若い社会主義者だつた。或小官吏だつた彼の父はそのためにかれをかんだうしようとした。が、彼は屈しなかつた。それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。

 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。彼の論文は彼等以外に誰も余り読まないらしかつた。しかし彼はその中の一篇、――「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信をいだいてゐた。それはちみつしさくはないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。

 そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。けれども彼等の会合へ顔を出すことは怠らなかつた。彼等は相変らず熱心に彼等の問題を論じ合つてゐた。のみならず地下水の石をうがつやうにじりじり実行へも移らうとしてゐた。

 彼の父も今となつては彼にかんせふを加へなかつた。彼は或女と結婚し、小さい家に住むやうになつた。彼の家は実際小さかつた。が、彼は不満どころか、可なり幸福に感じてゐた。妻、小犬、庭先のポプラア、――それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。

 彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。しかし彼の情熱は決して衰へたわけではなかつた。少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。が、彼等は――彼の同志は彼自身のやうには考へなかつた。殊に彼等の団体へあらたにはひつて来た青年たちは彼のたいだを非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。

 それは勿論いつのにか一層彼等の会合から彼を遠ざけずにはかなかつた。そこへ彼は父親になり、いよいよ家庭に親しみ出した。けれども彼の情熱はやはり社会主義に向つてゐた。彼はよふけの電燈の下に彼の勉強を怠らなかつた。同時に又彼が以前書いた十何篇かの論文には、――なかんづく「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだんものたらなさを感じ出した。

 彼等も又彼に冷淡だつた。彼はもう彼等には非難するのにも足らないものだつた。彼等は彼を残したまま、――或はだいたい彼に近い何人かの人々を残したまま、ちやくちやくと仕事を進めて行つた。彼は旧友に会ふたびに今更のやうにぐちをこぼしたりしてゐた。が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。

 それから何年かたつたのち、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。従つて今では以前よりもかく大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。しかし彼の情熱は、――そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。彼は時々とういすにより、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。それは妙に彼の心を憂鬱にすることもないわけではなかつた。けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。

 彼はたしからくごしやだつた。が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。それは株に手を出したあげく、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。その青年は彼の論文を読み、それをきえんに社会主義者になつた。が、勿論そんなことは彼には全然わからなかつた。彼は今でもとう椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。

(大正一五・一二・一〇)

この著作物は、1927年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。