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弘前大教授夫人殺し事件民事一審判決/別紙 準備書面 ㈠

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はじめに

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 被告は、本訴の提起を受けて以来、本件再審判決並びに一審以来の刑事記録をつぶさに検討してきたが、その結果、本件刑事事件のきめ手となるべき白ズック靴、同海軍シャツに対して、数次にわたってなされた鑑定の経過が、本件刑事事件の正当な理解のために絶対に欠くことができない事項と思料されるのにかかわらず、その所以がほとんどなされていないことに気づき、これを捜査の推移に従って確定すべく努めてきたところ、偶々、青森県警察本部鑑識課にこれまでかえりみられることのなかった本件の鑑識関係文書(乙九七乃至一〇六、一〇九、一一〇、一一三号証等)が保管されていたのを発見し、右文書によって再度本件刑事記録に検討を加え、そのうえで関係者に対する調査を実施した。その結果、本件の捜査過程において原告等主張の如き証拠偽造等の疑念を差しはさむべき余地はいささかも存しないことを明白にすることができたものと信ずる。
 したがって、本件再審開始決定及び再審判決は、本件白ズック靴、同海軍シャツに対する証拠評価を誤り、数多くの重大な事実を無視乃至誤認してなされたものと断ぜざるを得ず、その判断には到底承服することはできない。
 以下に、本件鑑識関係文書とこれを受けて右調査の結果を勘案して検討を加えた被告の主張を詳述する。

第一

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    事件発生から上告審判決に至る経緯を、時間的推移に従って述べると、次のとおりである。

一 事件発生

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 昭和二四年八月六日午後一一時三〇分ころ、弘前市警察署〔丙11〕巡査等は、〔乙2〕等から、同日午後一一時ころ、弘前市大字在府町〔略〕〔乙〕方離座敷(松永方)階下一〇畳間において、右〔乙2〕と就寝していた同女の実娘〔甲〕(弘前大学医学部教授松永藤雄の妻で当時三〇年)が何者かによって殺害された旨の連絡を受け、右現場に急行したところ、被害者〔甲〕は、鋭利な刃物で左側頭部を一突きされ、既に左側頸動脈等切断により出血死しているのを発見した。なお、前記〔乙2〕は、犯行直後現場から逃げていく背丈五尺三寸位で白色半袖シャツ、半ズボンを着用した二〇歳過ぎの犯人とみられる男を目撃していた。そこで、現場に急行した警察官等は直ちに犯人並びに凶器遺留品等の発見に努めたが、これを発見するには至らなかった。
 弘前市警察署は、捜査本部を設置(別紙特捜本部編成表のとおり)し、青森県警察本部から〔丙12〕警部、〔丙2〕巡査部長等の応援派遣をえた。
 翌七日、現場付近の綿密な見分を実施し、午前六時ころには、〔丙5〕巡査部長等により、前記〔乙〕宅内(右松永方玄関前から門に至るまで)に五点、同家前路上より〔乙9〕宅前路上までに一八点の血痕が、また松永方東側窓下に犯人の足跡と思われる草を踏んだ跡が、それぞれ発見された。次いで、午前一〇時ころ、〔丙8〕所有の警察犬に右松永方東側窓下の足跡の臭いをかがせたうえ、その臭いを伝って歩かせたところ、犬は右血痕のある道を歩行して〔乙9〕方前で水を飲み、更に木村産業研究所前へ至るや、その場で犬は廻りはじめ、みると小指の先の半分位の大きさの血痕があった。犬は更に進んで〔乙55〕方前まで行って止まり、疲れて動けなくなった。
 翌八日、引き続き見分の結果、〔乙10〕方屋敷内の敷石、小門の敷石や笹の葉、〔丁2〕(原告那須隆の父)方と〔乙10〕方の間の垣根、更には右那須方に続いて血痕が発見された。
 その後、右事実に加え、犯行当日現場付近で犯人と思われる男を目撃した〔乙12〕等から得られた犯人の特徴が、原告那須隆に似ていたこともあって、同人に対する嫌疑は濃厚になり、その動静が注視されるに至った。

二 逮捕状請求

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 1 同年八月二一日、捜査本部は、当日原告那須隆が〔乙4〕方に出かけていることを把握していたところ、偶々右〔乙4〕から、捜査本部に電話で原告那須隆についての情報提供(右電話を受けたのは、当直員〔丙5〕巡査部長である。)があったので、午後一一時ころ、〔丙4〕巡査が右〔乙4〕方に赴いた。〔乙4〕は「那須が午後四時ころから午後九時ころまでいた。雨が降っていたので下駄を貸してやった。那須の靴を預っている。」旨述べ、 同人方玄関の下駄箱のうえに、白ズック靴一足が置いてあった。〔丙4〕巡査は、右白ズック靴を手にしてみたところ、白墨が厚くぬられ血痕とみられる斑痕があったので、直ちに右〔乙4〕から右白ズック靴一足の提出を受け、捜査本部に持ちかえった(なお右白ズック靴の領置調書は、翌八月二二日作成されたため、同日付の記載がなされている。)。
 2 〔丙4〕巡査は、山本正太郎署長に、原告那須隆が〔乙4〕方に預けた白ズック靴(以下「本件白ズック靴」という。)に血痕とみられる斑痕がある旨報告したところ、同署長は、これを重視し、午後一一時ころ、〔丙4〕巡査、〔丙5〕巡査部長を同道したうえ、松木明医師(東京帝国大学医学部を卒業し、しばらく同大学法医学教室に籍を置いたことがあり、当時は弘前市公安委員であったが、当地における血液研究者として知られていた。捜査本部は、本事件発生当初から、同医師に捜査協力を願い、同医師に対する信頼は厚かった。)を訪ね、持参した本件白ズック靴に付着している並痕の鑑定を依頼した。松木医師は直ちに検査を実施し、その結果、右斑痕は人血である旨判明したが、血液型については、深夜であることに加え、試料不足のため(検査に供した斑痕では血液型検査をするのに不足であったとの趣旨である。)、確認するに至らなかった。
 3 そこで、翌二二日、捜査本部は、本件ズック靴に付着している人血痕の血液型の確認を急ぐべく、〔丙〕鑑識技官に右ズック靴の検査を命じ、同人は直ちに松木医師のもとに赴き、同医師の指示のもとで右鑑定作業に協力し、遂に右人血痕の血液型はB型であると思われる旨の結果をえた。
 4 捜査本部は、松木医師の本件白ズック靴に関する右鑑定結果を得たことから、本件白ズック靴の人血痕は、犯行時被害者〔甲〕の血液(被害者の血液型がB型であることは、本事件発生当初に確認されていた。)が、 付着したものとの嫌疑を強め、青森地方検察庁弘前支部検事沖中益太に報告し、その了承を得たうえ、原告那須隆を逮捕する方針を決定し、同日青森地方裁判所弘前支部に対し、「犯行現場より連続的に被疑者宅までの路上に血痕があり、更に被疑者は八月二一日午後五時頃血液の付着している白ズック靴を、弘前市大字亀甲町〔略〕〔乙4〕(注、〔乙4〕の誤記である。)に預けたること判明、依って該ズック靴を松木医師に鑑定方依頼(付着している血痕を)の結果、被害者と同様B型なること判明及び八月七日昼前前記〔乙4〕(注、〔乙4〕の誤記である。)〔乙4〕方に 赴き警察で来たら八月六日にはお前のところに泊ったと言ってくれと故意にアリバイを作っている」ことを理由に逮捕状を請求し、その発布を得、同時に捜索差押令状の発布をも得た。

三 本件海軍シャツの押収

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 同年八月二二日午後四時一五分ころ、〔丙10〕警部補、〔丙9〕巡査部長、〔丙4〕巡査等は、〔丁2〕方に急行し、原告那須隆に対し任意同行を求めた。
 ところで〔丙10〕警部補は、右那須方居室居にかけてあった海軍用開襟白色シャツを認め、これをその場で見分すると血痕とみられる斑痕(左胸付近)を発見したので、重要な証拠品であると思料し、右海軍用開襟白色シャツの押収方を〔丙9〕巡査部長に依頼し、自らは原告那須隆の任意同行にあたった(なお、右海軍シャツは当時原告那須隆が着用しており、任意同行を求められるやこれを着がえたものであった。)。
 〔丙9〕巡査部長等は、捜索の結果、凶器を発見することができず、また多数の衣類の存在を認めたが、明らかに血痕とみられる斑痕の付着しているものは、前記海軍用開襟白色シャツ一枚(以下「本件海軍シャツ」という。)のみであったので、これと対をなす鴨居の下にあったズボン一枚及び違法所持と認められる拳銃一丁をそれぞれ押収した(多数の衣類のなかから本件海軍シャツを押収したことは、捜査員が右証拠品を重視していたことの証左である。)。
 捜査本部は右押収にかかる本件海軍シャツに付着している血痕とみられる斑痕を重視し、捜査員はいずれもそのころ本件海軍シャツを検分し右斑痕を確認した。なお、同日午後七時三〇分ころ、弘前市警察署において原告那須隆を逮捕した。

四 本件凶器の未発見

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 ところで、捜査本部は、凶器の発見に全力を挙げるべく、また本件海軍シャツ以外に多数の衣類があった旨の報告に接し、念のため右衣類についても一括押収しておくべきものと判断し、再度翌二三日捜索差押令状の発布を得、〔丁2〕方を捜索したが、眼目である凶器の発見をなしえず、国防色ズボン二着、同ワイシャツ一枚、白ワイシャツ六枚、靴下二足、革バンド一本、ノート一冊、小手帳二冊、手紙六五通、名刺五一枚、赤皮編上靴一足を押収したにとどまった。
 捜査本部はなおも凶器の発見に腐心し、〔丁2〕方便所等の捜索に手抜かりがあったとの判断から、更に翌二四目捜索差押令状の発布を得、捜索したが、遂に凶器を発見することができなかった。なお、その際、〔丁2〕から黒ズボン一着、浴衣一枚、革バンド一本、白ズック靴(運動靴)一足、白運動シャツ一枚の任意提出を受けて領置した(なお右領置調書は、翌八月二五日作成されたため、同日付の記載がなされている。)。
 右のとおり二三日、二四日の両日なされた捜索差押は、凶器の発見に主眼が置れていた。

五 松木医師による本件海軍シャツに対する鑑定

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 1 捜査本部は前記押収にかかる本件海軍シャツを重視し、同年八月二三日ころ、松木医師に本件海軍シャツに付着する斑痕の鑑定方を依頼し、〔丙〕技官をして同医師 の鑑定作業に協力させた。〔丙〕技官は、松本医師の指示により、本件海軍シャツに付着している斑痕のうち乙一一一号証(鑑定書)図参記載の「⊗対照の点」とある部分を切りとり、これを検査に供した(実は、再審判決に至る全記録を検討するも、右点を、誰が、いつ、切りとったものか、明確にされてはいない。しかし、斑痕付着(部分)付近を対照の点として切りとることは、通常考え難いことである。現に松木医師においては、斑痕付着部分と全く関係のない本件海軍シャツ背面を対照の点として切りとっているのである。しかも、〔丙〕技官は昭和五一年一一月九日(再審)公判廷において、「あなたの記憶ですと、海軍シャツは一番最初にどこに鑑定に回されて、その次、どこに回ってという順序になりますか、記憶から。」 と質問を受け、「松木先生、一番先です。」旨、更に「科捜研に回す前に松木先生が鑑定したといういきさつあるんですか。」 と質問され、「……あるような気がします。」旨証言し、松木医師も同年四月二六日(再審)公判廷において、本件海軍シャツについて「一番最初に私、見ておりますから、その時切り取ったものと思います。」「それは引田先生のところへあげたのは私が調べたあとじゃないかと思いますが。」「私が最初にそれを見せてもらって一番先調べたというふうに考えておりますが。」と証言していたのであるから、右両名に十分記憶の喚起を促し、右証言の真偽に慎重な考察が加えられてしかるべきであった。後述するとおり、乙一一一号証、一一二号証の二等には誤った記載が散見されるが、これは鑑定実施等から相当時を経過してから書面として作成されたことによるもので、右書証等の作成日付及び記載の誤りについては、書証としての杜撰な点を非難するのは格別必要以上にとらわれるべきではない(右書証等の証拠評価は、捜査の推移を念頭において考察すべきものである。)。そして右鑑定の結果、本件海軍シャツ付着の斑猿は人血で、且つ、B型であることが判明した。
 2 一方、八月二三日、原告那須隆から血液を採取し、松木医師に右血液型の鑑定を依頼したところ、B型で被害者〔甲〕の血液型と同一であることが判明した (乙九六号証の一の記載中「昭和二四年八月二〇日原告那須隆の血液採取」とあるのは誤記である。右誤記については後述する。)。そのため、本件白ズック靴、同海軍シャツ付着の血痕が、B型であることを確認しただけでは決め手を欠くに至り、更に血液型区別の鑑定が必要となった。

六 引田医師による鑑定

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 1 ところで、捜査本部は被害者が弘前大学医学部教授の夫人であり、同大学には法医学教室が設置されていたことから、同大学に鑑定を嘱託することにしたが、当時の検察・警察幹部は、同大学で法医学の講座を担当していた引田一雄医師(北海道帝国大学医学部卒業)の学問上の能力について、かつて〔乙58〕にかかる尊属殺被告事件において、凶器付着の血液型鑑定を誤った経歴を有していたこと等から全幅の信頼を置くことができず、そのため、事前に松木医師に鑑定を依頼して一応の判断を得たうえ、引き続き、引田医師に鑑定嘱託することとした(当時大学等の機関でなされる鑑定には、結果が判明するまで相当の日時を要することが通常であったため、その間、捜査方針を決定できないまま徒らに日暗を経過するのを避ける目的もあった。)。
 2 同年八月二四日引田医師に鑑定嘱託し、まず同月二三日押収にかかる国防色ズボン二着、同ワイシャツ一枚、白ワイシャツ六枚、靴下一足、革バンド一本、赤皮編上靴一足(乙八九号証)並びに同月二四日任意提出を受けた黒ズボン一着、浴衣一枚、革バンド一本、白ズック靴(運動靴)一足、白運動シャツ一枚(乙九〇号証)を一括して(本件白ズック靴、同海軍シャツは含まれていない。)行李に詰め、これを鑑識課雇〔丙13〕が、引田医師のもとに運び込んだ。
 右証拠品は、前記四記載のとおり念のため押取したものにすぎず、素人目にも一見して血痕様の斑痕を認めないものであったため、これらについては、捜査本部も松木医師に鑑定を依頼することなく、直ちに引田医師のもとに運び込み鑑定を嘱託した。
 そして、同日、引田医師から鑑定を実施する旨の連絡を受けた捜査本部は、前記山本署長等幹部が、本件白ズック靴を引田医師のもとに持参し、同医師に右ズック靴の斑痕(前記のとおり、既に松木医師により、右斑痕は人血で且つB型である旨の鑑定を得ていた。)の鑑定を依頼し、その実施に立会った(引田医師が昭和五一年四月二六日(再審)公判廷において鑑定物件が運び込まれた経緯について、「ズックはそれから間もなく、これは被疑者が履いていたくつだというので別個に持ってまいりました。」「……こうりに入れた衣類やなんかを持ってまいりまして、それから次いでズック靴を持ってまいりまして……」旨証言しているのは、まさしく右事実に添うものである。なお乙六〇号証参照。)。
 3 ところが引田医師は、本件白ズック靴についてルミノール反応検査を実施したが、反応を示さず、靴の紐について血液反応検査をしたが、その付着を認めない旨鑑定した(この点は、その後の捜査活動を理解するうえで極めて重要である。)。引田医師の右鑑定に接した山本署長等は、松木医師の鑑定結果と全く異なる判断がなされたことに驚愕した。そして引田医師のルミノール反応検査(同医師はこれまで右検査の経験がなかった。)が、 ルミノール液を噴霧すべきを筆で塗りたくっており、その不手際のため血痕が流されて反応がでなかったのではないかと疑い、前記のとおり同医師にかねて不信を抱いていたので、一層不信を募らせ、このような稚拙な(少なくとも同署長等はそのように理解した。)方法では到底承服し難いと考え(もっとも乙六五号証の記載をみると、既に松木医師の鑑定実施により付着血痕が失われた可能性が強いと思われる。)、即日検事沖中益太に報告のうえ、直ちに権威筋すなわち東京大学法医学教室ないし科学捜査研究所で再鑑定すべきことを決定した。
 4 本件海軍シャツは、この間前記のとおり松木医師のもとで鑑定に供されていたのであり、次いで引田医師に鑑定依頼される手はずになっていたが、右の如き経過によって権威筋への再鑑定が決定されため、本件海軍シャツは遂に引田医師のもとに運び込まれることはなかった(なお、山本署長は、昭和五一年一一月九日(再審)公判廷において、引田医師に対する本件海軍シャツの鑑定依頼について尋ねられ、「これは鑑定を依頼したと思いますが、はたして鑑定したかどうかということはですね。」旨懐疑的な証言(乙六〇号証)をしていたのである。)。
 八月二四日、原告那須隆の送致を受けた検察官は、翌二五日青森地方裁判所弘前支部に対し勾留請求し認容された。
 5 ところで前同日、捜査本部は前記決定に基づいて、科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)にその旨の照会をし、「被害者、容疑者の血液並びに物件を東大法医学教室に依頼し、東大で事務繁忙その他で迅速に出来ない際は、科学捜査研究所へ依頼するとよい」「鑑定物件は郵便等で送る等のことなく直接持参した方がよい」旨の返答を受け、直ちに右鑑定嘱託の準備にとりかかり、同日、まず引田医師のもとに運び込まれていた前記鑑定物件(同月二三日及び翌二四日押収ないし任提領置したもの)を引き揚げた(引田医師はその間後述するとおり若千の鑑定を実施している。なお、本件白ズック靴については前日二四日鑑定終了後引き揚げたものとみられる。)。

七 科学捜査研究所における鑑定

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 1 同年八月二六日弘前市警察署長は青森県警察隊長に対し、鑑定資料「一被疑者衣類並に靴、赤革編上靴一足、白色ズック靴二足(うち一足が本件白ズック靴である。)、黒ズボン一枚、海軍白ズボン一枚、進駐軍放出ワイシャツ一枚、国防色軍隊ズボン二枚、白ワイシャツ一枚、白半袖開襟シャツ二枚、海軍シャツ四枚(うち一枚が本件海軍シャツである。)、ランニングシャツ一枚、浴衣一枚、靴下二足、靴下止め一本、赤革バンド二本、計二二点、二血液、松永夫人血液(本件犯行場所の畳に付着したもの)一点、容疑者血液(原告那須隆の生血)一点、路上採取血液三点、計五点」の鑑定方を依頼した(本体白ズック靴、同海軍シャツだけを取りだして鑑定依頼したものではない。)。
 なお、前記五、2記載のとおり、このころには既に被害者と原告那須隆との血液型が共にB型であることが判明していたので、区別の必要から、「型が判明の場合はMN式で判別出来得るや否や、出来得ればその型」旨の鑑定事項が加えられた。
 2 青森県警察本部鑑識技官綿谷弘四及び〔丙〕技官の両名は、同月二七日前記鑑定物件を持参して上京し、科捜研に赴いたが、同研究所が繁忙のため、右物件の引渡 は同月三〇日になされた。
 3 科捜研では、警察技官〔丙3〕、同平嶋侃一の両名が同年九月一日より同月一〇日までの間、右鑑定にあたり、本件白ズック靴については、「血痕は証明し得ず。」との、本件海軍シャツについては、「汚斑は血痕であり、血液型はB型の反応を示した。」旨の鑑定をなし、他の物件については特段の検査の必要なく(この点前記六、2記載のとおり捜査本部においても同様の判断をしていた。)、「他の資料よりは、血痕証明至難であった。」旨の鑑定をなし、また、「三、松永夫人、容疑者、路上採取の血液は夫々血液型B型を示した。四、又敷石の血痕、那須裏の血痕は血痕反応を認めその血液型はB型と思われる。」旨鑑定した。
 4 なお、検察官は、勾留延長の請求をして認容され、九月一一日まで勾留を継続し、翌一二日から同年一〇月一一日までの間、本件犯行が変質者による疑いがあったので、原告那須隆の精神鑑定のため鑑定留置を請求し、認容された。
 5 ところで、前記〔丙3〕、平嶋鑑定書の作成送付が遅延し、科捜研に引渡された前記鑑定物件は、同研究所から九月二五、六日ころ国警本部秘書企画課を経由して弘前市警察署長宛に小包郵送されたので、同署に到着したのは、早くても同月三〇日ころであった。
 したがって、本件白ズック靴と同海軍シャツは、任提領置又は押収の当初から、終始鑑定のために供されていた(本件捜査においては、右鑑定こそが最重要であり、とかくもその結果を得なければ被疑者の弁解の真偽を確認することはできなかったのである。)のであり、捜査本部が科捜研から右物件の返還を受けたのが、先のとおり早くとも九月三〇日ころで、既に勾留期間徒過後(しかも、前記のとおり〔丙3〕、平嶋鑑定では、被害者と原告那須隆の血液型は、BM型で同一であるというのであるから、なお鑑定の必要があった。)であるから、その間、原告那須隆に対する取調にあたって、これを示すことがなかったからといって、何等あやしむにはあたらない。

八 Q式血液型検査

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 1 捜査本部は、被害者と原告那須隆の血液型が共にB型で同一であると判明した後、前記のとおり科捜研にMN式による血液型の鑑定依頼をする一方、松木医師に被害者と原告那須隆の血液型を区別しうるか否かの鑑定を依頼した。同医師は、松永教授等を介して逐次血清液を入手し、まずMN式検査を実施したが、いずれもM型で区別ができず、更にQ式検査の必要をみるに至り、その結果、遂に被害者はQ型、原告那須隆はq型で区別し得ることが判明したのである。
 右の経緯は松永教授が、昭和二四年一二月一三日(第一審)公判廷において、「本件容疑者が検挙された時も、同人の血が血液型B型である事から判断出来ないという事になりましたから、私は友人へMNの血清を貰いたいと話したところ届いて来ましたから、松木博士と〔丙〕技手に更に検査方をして貰いましたが、家内と本件容疑者は共にBM型を呈しました。このBMの組合せは百人中七人位の割合となっており、これ又鑑別が明らかになりませんでしたから、更にQ型の存在につき調査したいから血清を欲しいといって村上教授に話したところ、同人はさっそく送ってくれ、その検査を施したところ、家内の血液型はBMQとなり、容疑者のはBMqとなりました。このQ型に対しqというのはQ型を持っていない事を表しております。そこでこの判別により容疑者の衣服持物にBMQの血液型を有していると間違いないと考えられました。」旨証言していることからもよく窺い知ることができる。
 2 そこで、次にQ式検査の経緯についてみる。捜査本部は、前記七、5記載の経過で、科捜研から鑑定物件の返還を受けたのであるから、松木医師の本件海軍シャツ、同白ズック靴に対するQ式検査は、同年一〇月に至って開始されたとみられる。
 ところで、同年一〇月一三日付で、〔丙〕技官が東北大学医学教室三木敏行助教授宛に、「㈠九月上旬松永教授を経由して貰った第一回の抗Qにより浸出した被疑者の血液型はqで被害者のものはQであったが、第二回目の送付をうけたもの及び〔丙〕技官が貰って来た抗QによるといずれもQとなった。㈡今回〔丙〕技官が貰って来た抗Qによると(B)型血球によれば強い凝集反応を呈し、(O)型については凝集反応を示すものをあり示さぬものもある。㈢以上による(イ)今回の抗Qは完全に吸着を行ったものであるか、(ロ)右項㈠㈡の結果は何に起因するか。」旨電話照会し、翌一四日同助教授から「一、第一回の「抗Q」と第二回目の「抗Q」とに因ってどうして別な結果が出たかは、電話の話だけでは不明である。当方の第二回に送付したもの及び〔丙〕技官に差し上げたもので不合理を感じないで使用している。二、〔丙〕技官に差し上げたものは凝集素を吸着してある。しかしBq血球の余り大量に吸着すると「抗Q」凝集素価が低下するから、軽くしか吸着していない。したがって凝集反応を行う際に余り長く時間をかけるとすべてBの血球に凝集して来る。」旨返答を受けていることに鑑みると、前記松木医師及び〔丙〕技官は、九月上旬ころから何回かにわたり、被害者と原告那須隆の血液型を区別すべくQ式検査を実施し、被害者がQ型、原告那須隆がq型であることがほぼ判明していたこと、しかしQ式は未経験の検査方法であったため、右鑑定作業は相当の困難を伴ったことを知ることができる。
 そして、三木助教授から右のとおりQ式の検査方法について指導を受け、抗Q血清の品質確認をしたうえ、翌一〇月一五日ころ、本件海軍シャツについて、Q式検査を実施し、付着する血痕はQ型であることが判明したのであるが、なお右結果については十分確信できるものではなかった。本件白ズック靴については、既に数次の鑑定を経て、付着血痕は失なわれていたので、Q式検査は不能であった。
 3 捜査本部は、右のとおり松木医師から、本件海軍シャツの血痕はQ型である旨一応の鑑定を得たことから、翌一六日前記三木助教授に正式に本件海軍シャツに付着する血痕の鑑定を嘱託することを決定し、その旨鑑定処分許可状の発布を得たうえ、翌一七日〔丙〕技宮に同助教授のもとへ本件海軍シャツ、松永夫人の血液が付着した畳床藁及び原告那須隆の血液(生血)を持参させた。
 同助教授は本件海軍シャツの左側襟の左寄り部分を切りとって検査に供するとともに、同日本件海軍シャツを〔丙〕技官に返還した。
 同助教授は同日より同月一九日までの時間、検査を実施し、「一、弘前市警察署鑑識係が持参した松永夫人殺害事件の被疑者那須隆の血液はBMq型に属する。二、別添 (イ)の海軍開襟シャツ(本件海軍シャツのこと)にはQ型の血液が付着して居る。三、別添(ロ)の畳床藁(被害者の血液が多量付着して凝固したもの)にはQ型の血液が付着している。」旨鑑定した。

九 公訴提起

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 1 検察官は、右木 鑑定を得たことで、本件海軍シャツに付着している血痕は、犯行時、被害者〔甲〕の血液が付着したものと確信し、前記〔丙3〕、平嶋鑑定に関する疑点を照会して解明のうえ、同年一〇月二二日前記三木鑑定書の送付を受けるや、同日、原告那須隆を本件殺人罪で再逮捕し、同月二四日、同罪により、青森地方裁判所弘前支部に公判請求した。
 2 なお、検察官は、これに先だつ同年一〇月一二日、原告那須隆を銃砲等所持禁止令違反で逮捕し、同月一四日勾留請求して認容され、 同月二一日まで勾留したうえ、翌二二日同禁止令違反で前記弘前支部に公判請求している。

一〇 松木医師による鑑定書作成

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 1 ところで〔丙〕技官は、松木医師のもとで実施した鑑定結果について、逐次弘前市警察署長宛に鑑定報告書を提出していたのであるが本件公判請求後、右鑑定内容を鑑定書の形式で書証化することとされ、そのころ一括して松木明あるいは松木明・〔丙〕名義の鑑定書が作成された。
 このことに関し、山本署長は、右鑑定書について、昭和五一年一一月九日(再審)公判廷において、「これは正式のあれは松木さんに依頼した鑑定は、警察の時点にまいったと思いますが、それ以外の鑑察庁に行ってから、直接検察庁に送られたんではないかというような感じいたします」旨証言している。
 しかし右書証化するにあたり、松木医師のもとでなされた鑑定は、鑑定嘱託の手続をとってなされたものではなかったため、後日になって嘱託書を作成しなければなら ず、また実際実施した検査日についても正確に記録化されていなかったため、鑑定書の作成日付、あるいは検査実施日付等は不正確なまま、いわば鑑定書としての体裁を整えるだけとも言える不用意な記載がなされることになったものとしか考えられない。
 この間の事情は、松木医師が、右鑑定書について、昭和五一年四月二六日(再審)公判廷において、「ただ、警察であとのためにメモとして取っておきたいというのがその時の署長並びに県の刑事部長さんの要望でしたから、その要望にこたえて、簡単にメモ的程度のものを作ったわけです。」「鑑定の依頼書もそれを受け取って私やったわけじゃないんですよ。それみんなあとから適当に書類の形式上作ったもんですから、日にちのずれなんかも、おそらくあると思うんですよ。」旨率直に証言していることによっても優に窺えるところである。
 2 鑑定書をみると、
  ㈠ 乙七七号証中の「昭和二四年八月二〇日」の記費は、「昭和二四年八月二一日」の誤記(付言すると〔丙〕技官は当初から原告那須隆の検挙日を八月二〇日と誤解していたふしがある)とみられ、
  ㈡ 乙七八号証中には「一、此の靴は本年八月 日」と日にちの記載もれがあり、
  ㈢ 乙九六号証の一中の「昭和二四年八月二〇日」の記載は「昭和二四年八月二三日」の誤記であり、
  ㈣ 乙一一二号証の二中の「……東北大学にて本撮映後即ち十月十八日頃切り採り……」とあるのは「十月十七日」の誤記であり、また「ヘはロの試験に対照とせる(斑痕無き箇所)穴。」 とあるのは誤記で、「ヘ」の部分は血痕付着部分であって松木医師の試験に供した箇所なのであり、対照の点として切りとったのは背面部分で ある。
等、多々誤記ないし不備な記載が散見されるが、これは前記の如き経緯で作成された書証であるからにほかならない(なお、乙一一二号証の二が第一審第一回公判期日である昭和二四年一〇月三一日以後の同年一一月一二日追送されていることからも、前記一〇、1記載の事実を窺い知ることができる。)。
 3 松木ないし松木・〔丙〕名義の鑑定書が、右の経緯で作成された事実は、これら鑑定書を証拠として評価するにあたり慎重を要するところではあるが、しかし、それが書証として形式上社撰な点を超えて直ちに松本医師の鑑定事実及びその結果の正確性を覆えすことになるものではないことにも、十分配慮されねばならない。

一一 古畑種基による鑑定

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 検察官は、同年一〇月三一日第一審第一回公判期日において本件ズック靴、同海軍シャツを提出した。
 第一審裁判所は、昭和二五年七月六日、東京大学教授古畑種基に対し、本件海軍シャツ、同白ズック靴、畳表(被害者の血痕が付着したもの)等の鑑定を命じ、同教授は 同年七月六日より同年九月二〇日までの間、右鑑定にあたり、「海軍用開襟シャツ(本件海軍シャツのこと)には人血痕が付着しているものと判定する。二、畳表には人血痕が付着している。三、(イ)海軍用開襟シャツに付着している人血痕の血液型と畳表に付着している人血痕の血液型とは完全に一致し同一人のものであると推定される。(ロ)海軍用開襟シャツに付着している人血痕と、畳表に付着している人血痕とは、その付着の時期に時間的間隔を認めることが出来ない。四、海軍用開襟シャツの人血痕は男女いずれのものか不明である。五、畳表付着の人血痕に於いて、私の検査した範囲では血液型の異なる血痕は証明できない。六、海軍用開襟シャツ付着の人血痕は昭和二〇年一〇月頃ソーダ溶液で洗濯する以前に付着したものではあり得ない。一般に血痕についてのQ式血液型の判定可能期間は大体二〜三年位と推測する。七、白ズック靴には現在人血痕の付着を認め得ない。八、〔乙〕邸内より木村産業研究所路上を経て〔乙29〕方裏に達する人血痕は、加害者が逃走の際、加害者自身から或いは加害者の携行した物件から血液が滴下して生じたものと考へられるが、加害者の血液によるものか被害者の血液によるものかは不明である。」旨鑑定した。
 検察官は乙一三二号証記載のとおり論告した。第一審裁判所は、昭和二六年一月一二日、本件殺人の点について無罪の判決をした。

一二 村上次男による鑑定

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 検察官は、同年一月一九日仙台高等裁判所に対し、右判決について控訴を申し立てた。
 第二審裁判所は、同年七月二七日、東北大学教授村上次男に対し、乙第一三五号証記載事項について鑑定を命じ、同教授は同年八月三日から同二七年一月三一日までの間、右鑑定にあたり、
  (イ) 被害者が本件の記録に記載される様に仰臥し、その右側枕許に加害者が坐り、若しくはしゃがみ、上半身を前屈みにし、右手を以って凶器を刺し、被害者に又本件の記録に記載される様な創を作ったことを基礎とし、加害者がその時証第三号のシャツ(本件海軍シャツのこと)を着て居て、凶器を刺し初めてから抜き終る瞬間迄の間に、被害者の創口からの血液を直接受けたことを前提とすれば、証第三号のシャツの汚斑(既に切りとられてある部分を含む。但し明に血痕でないものやポケット裏の斑痕を除外する)の内、多くのものはその位置、形、量から考へて、その様にして生じ得ると考へられる。
 証第三号のシャツの汚斑(既に切られてある部分を含む。)の中には、先に述べた襲撃の際、被害者の刺入口から出た血液が、加害者の手拳等に触れて、方向を転じて付着し、生じ得ると考へられるものある。又先に述べた襲撃の際に、被害者の刺入口から出た血液が、一旦加害者の体部、衣類等に付着し、后之を二次的に受けて生じ得ると考へられるものもある。
  (ロ) 本件の被害者が、先に述べた襲撃を受け、母に抱きかかへられ、自己の名を連呼され、夫にひきつづいて、細い、小さい声で、簡単な言葉を述べることはあり得ると考へられる。
  (ハ) 証第三号のシャツのポケット裏の斑痕は現在切りとられてあり、その性質(大きさ、形、位置だけでなしに色やどちらから着いたか、血液検査の成績等)を直接知ることができない。従ってその成因も詳に知ることが出来ない。此の斑痕は血液でないものならば、その成因については知ることが出来ない。この斑痕がその周囲に、表布にも裏布にも、現在残る汚斑(又はその或るもの)と共に血痕であるとの前提が成立するならば、この斑痕は血液に汚れた物をこのポケットへ入れた為めに生じたであろうと考へられる鑑定。

一三 第二審判決及びそれ以後の経過

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 検察官は乙一三七号証記載のとおり論告した。
 第二審裁判所は、昭和二七年五月三一日原判決を破棄し、原告那須隆に対し懲役一五年の判決を言い渡した。
 右判決に対し原告那須隆並びに弁護人から上告中立がなされたが、同二八年二月一九日上告を棄却され、同年三月三日確定した。
 なお、本件については、昭和四六年七月一三日仙台高等裁判所に再審請求、同四九年一二月一三日棄却、同月一九日弁護人異議申立、同五一年七月一三日原決定取消再審開始、同五二年二月一五日控訴棄却、同年三月二日確定している。

第二

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    以上を要するに、本件捜査の推移は極めて自然で十分理解できるのであり、確かに捜査技術上稚拙な点のあったことは否めず、非難を加える余地はあるものの、決して証拠偽造等の疑念を差しはさむべき事実はいささかも存しないことが明白となったと信ずるが、更に重要な論点をとりあげて考察を加えることにする。

一 松木明・〔丙〕の本件白ズック靴、同海軍シャツに関する鑑定について

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 1 前記第一、一〇記載のとおり、松木ないし松木・〔丙〕作成名義の鑑定書は、鑑定実施から相当日時の経過した公判請求後に書証化され、作成日付及び検査実施日付等は、鑑定書としての体裁を整えるだけとも言える不用意な記載がされたので、形式的記載事項については正確と言い難いのである。したがって、右鑑定書記載の検査が現実にいつ実施されたものであるかを確定(このことは、本準備書面の「はじめに」で指摘したとおり、本件の理解のために不可欠の事項である。)するに当たっては、同書記載の日付を決め手とすることはできない。そこでそもそも鑑定依頼は、捜査の必要に応じてなされることに思い至し、まずもって捜査の推移を念頭におくことが肝要である。そうすると本件捜査は、被害者の血液型がB型であるので、容疑者の着衣等からB型血液付着の確認を得ることができれば、本件罪体と結びつきがなると判断されていた第一段階(原告那須隆を逮捕して同人の血液を採取し、被害者と同一のB型であることが判明するまでの段階に該る。)、被害者と原告那須隆の血液型をMN式で区別しようと試み、その結果、共にM型であることが判明するまでの第二段階(前記〔丙3〕・平嶋鑑定の時期がこれに該る。)、そして、更にQ式で区別しようと試み、被害者がQ型、原告那須隆がq型であることが判明した第三段階(前記三木鑑定の時期がこれに該る。)に区分される。
 また、松木医師、〔丙〕技官の鑑定作業は、科捜研における鑑定期間(捜査本部が鑑定物件の返還を受けるまで 一か月余ある。)をはさんで前後期に二分される。
 2 そこで、まず本件白ズック靴についてみると、松木明作成名義の乙七七号証、松木明・〔丙〕作成名義の乙七八号証の二通の鑑定書があるが、乙七七号証には、「靴紐についている斑痕は血液であり人血である。ロ靴(両)底及び右靴の上にある斑痕はいずれも血液である。」「血液型は試料不足(検査に供した斑痕では血液型検査をするのに不足であったとの趣旨である)のため検出不確実である。」旨の、乙七八号証には、「㈠該ズック靴に付着して居る斑痕は図壱のア点、図弐のエ点を除いては血液である。㈡該斑痕の血液中、図壱のう及びウ点、図弐のウ点のものは人血である。㈢図壱のウ点の人血の型はB型と思われる。」旨の、各鑑定結果が記載されており、右検査内容は前記第一段階に該ることが理解される。
 乙七八号証には、本鑑定は、……「昭和二四年十月十七日午後四時に着手し同十八日午後四時に終った。」旨記載されているが、 真実右日時に検査を実施したとする と、前記第三段階に該当することになり、そうすると、血液型検査を行いながらABO式検査のみでQ式検査を実施していないことは理解し難いことである。右記載はまさしく前に指摘したとおり鑑定書の体裁を整えるための不正確な記載にすぎないのである。
 そうであるからこそ、〔丙〕技官は、昭和二四年一二月一三日(第一審)公判廷において、「(本件白ズック靴を示され)……捜査第一課から送られて来て署長、〔丙10〕警部補外二、三名から夜間識別を松木博士に頼んだが、夜間であったため出来なかった様であるからも一回やって見てくれと言われました。見ると右靴の右外側は相当切り取った跡があり、又左踵にも血痕らしいものがついて居りその他肉眼で見えない程のものがついて居りました。」「……この鑑定状況を具体的に申しますと先づ靴でありますが、ルミノール反応を試したところ爪先が著しいB型を示しました。それから何の位白墨を塗ってあるかを調査すればもっと参考になったと考えましたが、水道の水で洗ったところ、相当の血痕が表われ、これを採血調査した処何れもB型でした。」旨証言しているのであり、右事実は、乙七八号証の記載に合致していることに注意を払わなければならない。
 また、右証言中にある「夜間識別を松木博士に頼んだが、夜間であったため出来なかった様である」とは、前記第一、二、2記載の松木医師が山本署長、〔丙4〕巡査、〔丙5〕巡査部長の訪問を受け、八月二一日午後一一時ころから深夜にかけて実施した鑑定を指すものにほかならず、右検査の結果については、山本署長、〔丙4〕巡査のいずれもが、松木医師から人血であると知らされたが、 血液型については、記憶がない旨証言しており、まさに前記乙七七号証の記載と合致するのである。すなわち、松木名義の乙七七号証は、昭和二四年八月二一日実施の、松木・〔丙〕名義の乙七八号証は翌二二日実施の、各鑑定結果を記載したものなのである。
 3 捜査本部は、右艦定結果を得て、原告那須隆の逮捕状請求に踏みきったのである。その後、本件白ズック靴は前記のとおり引田医師及び科捜研で鑑定に付されたが、いずれも血痕付着を認めなかったのであるが、これは前記〔丙〕証言に照らしてみると、右両鑑定に先だって実施された前記八月二一日、同月二二日の検査において付着血痕を資料として使いはたしたか、あるいは水洗いした際に流れたものと推測し得るのである。そのため、捜査本部は前記研究所から本件白ズック靴の返還を受けた後、右靴をQ式検査に供することができなかったのである。本件白ズック靴についてQ式検査の鑑定書が存在しないことに注目すべきである。
 4 次に本件海軍シャツについてみると、松木明・〔丙〕作成名義乙一一一号証の鑑定書一通及び〔丙〕作成の乙一一二号証の二の報告書(写真添付)一通がある。乙一一一号証の鑑定内容は、「㈠付着せる斑痕イ、ロは血液である。㈡其の血液は人血である。㈢其の血液型はABO式に於いてはB型、Q式に於てはQ型である。尚図参のハ点、ニ点について血液試験を行った処顕著な血液反応を示した。」旨記載されており、前記第三段階に該ると理解(なお、図参チ、科学捜査研究所にて行った点の記載がある。)され、前記第一、八、2記載の昭和二四年一〇月一五日ころ実施したQ式検査の鑑定結果と判断される(同証冒頭に「昭和二十四年十月十五日付弘捜(鑑)発第二四九号を以って嘱託せられた鑑定」の記載があり、もとより右記載を直ちには信用し難いものの、右考察と一致することは注意をひく事実である。なお、前記第一、五、1に記載したとおり、松木医師及び〔丙〕技官は、科捜研に鑑定嘱託する以前である昭和二四年八月二三日ころ、本件海軍シャツ付着の斑痕は人血で、且つB型であることを鑑定の結果把握していたのであり、本証にMN式の記載(捜査の推移に照らすと、松木医師が本件海軍シャツについて、MN式検査を別個独立の機会に行う要をみない。)がないのは、 右の結果を記載したにとどまったからである。)。
 また乙一一二号証の二には、添付されている本件海軍シャツの写真撮影日が「昭和二四年十月十日午前一一時」と記載されているが、これも直ちに正確な記載とは見難いので考察を加えると、右写真の説明文中の「一、イ、はq型血液(東北大学にて本撮映後即ち十月十八日(注、前記のとおり十月十七日の誤記である。)頃切り採りQ型の血液試験した箇所)、二、ロ、松木医師Q型血液型の試験せる跡の穴。ヘはロの試験に対照とせる(斑痕無き箇所)穴(注、前記のとおり右記載は誤りであり、ヘは血痕付着部分として切り採り試験した箇所である。)。」旨の記載から、右写真撮影日は、松木医師のQ式検査後で且つ、東北大学三木助教授のもとに本件海軍シャツを持参した一〇月一七日以前、すなわち、一〇月一五、六ころと理解し得るのであり、また右報告書の作成日は、同書の追送が同年一一月一二日なされていることからみてそのころの作成とみられ、そのため日時の経過により、先のような軽率ともいえる誤った記載がなされたと理解されるのである。
 以上、要するに、松木、〔丙〕の本件白ズック靴、同海軍シャツについての鑑定書は、捜査の推移を念頭に置けば、何ら疑義を差しはさむ余地は存しないのである。

二 引田一雄鑑定について

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 1 捜査本部は、前記第一、六、1記載のとおり、引田医師を信用しておらず、同医師に鑑定嘱託するに至ったのは、主として本件被害者が弘前大学医学部教授の夫人であったためにすぎなかった。それで弘前市公安委員で当地における血液研究の権威者であった松木医師に、まず証拠品等の鑑定を依頼し、一応の判断を得たうえ(早期に捜査方針を決定する目的もあった。科捜研の鑑定にみられるとおり、当時大学等の機関でなされる鑑定には、結果が判明するまで相当の日時を要するのが通常であった。)、引き続き引田医師に鑑定嘱託する方法をとったのである。
 2 次に、昭和二四年八月二四日ころ、引田医師のもとに運び込まれた鑑定物件について検討する。
 引田医師は、前記第一、六、2記載のとおり「こうりに入れた衣類やなんか」が持ちこまれ、次いで「ズック靴」が持ちこまれた旨証言している。そこで、右行李のなかに本件海軍シャツが含まれていたかは慎重な考察を要する。
 確かに証拠品である衣類、靴等全部を引田医師に鑑定嘱託する手はずであったことは間違いないであろう。同医師に対する鑑定嘱託書をみると、八月二二日、二三日、二四日〔丁2〕方から押収ないし任提領置した全物件(手紙類等は除く。)が記載(本件海軍シャツは「8海軍シャツ四枚」と記載されているうちの一枚とみられる。)されているのである。ちなみに右嘱託書に記載されている「2白ズック靴一足」とあるのは、本件白ズック靴ではなく、同月二四日任提領置したものである(その後科捜研に嘱託するにあたり「白色ズック靴二足」と記載されていることからも明白である。)。ところで、前記第一、六、2記載のとおり、八月二三日、二四日押収ないし任提領置した物件は、念のため押収したものにすぎず、素人目にも一見して血痕様の斑痕は認められないものであったため、右物件については捜査本部も重視していなかった。そのため、これらについては、松木医師に鑑定を依頼することなく、直ちに行李に一括して詰め(本件海軍シャツは含まれていない。)、これを鑑識課雇〔丙13〕が引田医師のもとに運び込んだ。そして、本件白ズック靴は、重要証拠品であるので、引田医師から検査実施の連絡を受けた捜査本部が、別途同医師のもとに持参したのである。
 それでは、当時本件海軍シャツはどこに所在していたのであろうか。前記第一、五、1記載のとおり、捜査本部は押収当初から本件海軍シャツを重要視していたのであり、松木医師に、本件海軍シャツに付着する斑痕の鑑定方を依頼し、同医師のもとで検査に供されていたのである。本件海軍シャツは、右検査を経て引田医師のもとに運び込まれる手はずであったが、その間に同医師が前記第一、六、3記載のとおり、本件白ズック靴に血痕付着を認めない旨鑑定したのを受け、即日科捜研に再鑑定を嘱託することが決定されたため、遂に本件海軍シャツは引田医師のもとに運び込まれることはなかったのである。また、同医師のもとに運び込まれていた前記物件名同月二五日には引揚げられた。
 3 そこで右事実を検証するため、次に引田医師の公判廷における証言を検討することにする。
  ㈠ 引田医師は、昭和二五年六月二日(第一審)公判廷において、

  ⑴ 問 白ズック靴と海軍シャツを鑑定して居ると言うが、シャツの血痕は古い血だという感じを持った記憶がないか。
答 シャツも左様であったが、ズック靴の紐は十分古かったと記憶して居ります。当時私としてはしみが血液であるか何うか確め血液なる事が判ったから、人血であるかを認定しなければ意味がないと思ったから、ルミナール、ベンチチンの各反応を試験したら全然反応が出ませんでしたから、この汚点は血痕であるか何うか疑はしい。たとい反応が出たとしても相当前のものであると言う事が言い得ると思いました。
  ⑵ 問 シャツを受取った時、その付着せる汚点を見たか。
答 見受けました。
問 その際汚点は血液でなく若し血痕であったとしても相当古いものだと言ふのか。
答 古い血とか言う事は難しいのですが、路上の血とシャツ、ズック靴の血と比べてみて色の具合からも違う様であり、特に靴の紐についてはベンチチン反応試験をしてみても水に溶けない点から見て血でない。血としても古いものだと言うことが出来ます。又ルミナール試験法では血が古ければ古い程反応が出ない様になって居ります。
  ⑶ 問 海軍シャツの汚点は人血であると言う事が判ったか。
答 多分靴の紐と同様為したと記憶して居りますが、明確なる証言をしたいから当時作成した鑑定書の控があるから之を見て証言することを許可ありたくお願いします。

旨述べて鑑定書をみたうえ、

  海軍シャツについては一旦受取りましたが鑑定して居りませんから訂正して置きます。

旨答え、

問 証人は海軍シャツも鑑定した様に述べたが、それも取消さず、その後見た丈けだと言うのは何う言う訳か。
答 鑑定はしませんが見るには見ました。
問 証人が先程鑑定したと言ふのは嘘か。
答 資料として持って来たのを見た丈けで別に鑑定書は提出して居りません。
問 不正確な記憶で正確な事を言ったと言ふのか。
答 それでシャツは見た丈けと言いました。

というのであり、海軍シャツについて尋問を受けてもこれにまともに答えず、白ズック靴の鑑定に話がそれてしまい、白ズック靴についての印象は比較的強いが、海軍シャツについての印象は極めて薄弱であることが理解される。先にみたとおり、山本署長等監視のなかで、まず本件白ズック靴の鑑定をしたからこそ印象も強く、比較的明確な証言をし得たものと判断される。
 ただし、本件白ズック靴についても、

問 靴を受取って見た時何処かの部分に汚点がなかったか。
答 全部見ましたが、紐以外の部分には見当りませんでした。
問 又切り取って居た個所もなかったか。
答 全然そんな個所がありませんでした。
問 靴の底が切り取られてあったのではないか。
答 底の部分に白くすれて居た個所がありましたが、その他は何もありませんでした。当時の警察官は松木博士の処へ持って行き見て貰ったと丈け言いました。
問 証人が見た個所は。
答 紐一点丈けでした。
問 その他に汚点がなかったと考えるのか。紐以外の部分には付着して居ても判らなかったのか。
答 紐が一番目につきましが、残りの部分は気がつきませんでした。
問 紐以外の部分について居たと言ふことは断定出来ないのか。
答 はい断定出来ません。

旨(前記第二、一、2記載のとおり、本件白ズック靴は松木医師の検査の際に一部切りとられている。)事実に反する証言をしており、最も入念に検査した本件白ズック靴についてさえ、不正確な証言をしているのである。引田医師の証言の証拠評価には慎重を要すると言わざるを得ない。
  ㈡ ところで引田医師は、同人がみた海軍シャツ付着の斑痕を新旧は別としてそもそも血痕様のものと判断していたのか否かについてみると、前記証言からも明らかなとおり、海軍シャツにほとんど関心を示していなかったことが理解でき、第一審ではその斑痕について

問 シャツについて居た汚点の色は。
答 褪灰暗色の状態のものでした。
問 証人が鑑定した路上の血痕とは色からしても違って居たか。
答 著名に違って居ました。

旨証言していた。
 ところが、昭和二六年七月三一日(第二審)公判廷においては

問 開襟シャツに血液らしいものはついていたかどうか記憶はないか。
答 あせた様な褐色の斑痕が左の肩の辺に二、三点あった記憶があります。
問 肩辺というのは肩の上の方か。
答 左の肩から胸にかけて赤褐色とは思われない帯灰暗色様のものでした。その個所にあったかどうかは記憶ありません。
問 帯灰暗色というのはどんな色か。
答 灰色がかったあせた様な黒ずんだ色という意味で、私は帯灰暗色という言葉が一番感じがでるので、此の言葉を使っています。
問 証人は夫は血痕だと思ったか。
答 私は経験からこれは場合によっては血かも知れないから是非検査して見る必要があると思っていました。

旨証言しているのであるが、そうであれば、まさにまず第一に証言するところの海軍シャツについてルミノール検査を実施したはずであり、右証言は、にわかに信用し難い(前述したとおり、本件白ズック靴、同海軍シャツ以外には、素人目でもよごれによる汚斑は格別、血痕様の斑痕は認められなかったのである。)。
 そして昭和五一年四月二六日(再審)公判廷において、

私は開襟シャツというふうに記憶しておりますが、四点あったかどうかこの点ははっきりしませんが、海軍シャツのところに、まあ肉眼的には血痕とは認めがたいような斑点がついておったという記憶はあります。

旨証言しているのであり、そうでなければ、引田医師の前記行為は理解し難い。引田医師は同人がみた海軍シャツ付着の斑痕を血痕様のものとは判断していなかったのである。まさしく本件海軍シャツは、引田医師のもとに運び込まれてはいないのである。同医師のもとに運び込まれたのは、シャツについていえば、本件海軍シャツと同型のもの三枚、類似するもの(進駐軍放出ワイシャツ一着、白ワイシャツ一枚、白半袖開襟シャツ二枚、ランニングシャツ一枚)五枚、合計八枚であった(本件海軍シャツは、前記第一、五、1記載のとおり既に松木医師のもとで鑑定のため一部切りとられていたのであるから、右シャツを見分しながら検査を実施しなかったとは解し難い。もとより引田医師は右切りとり跡について証言するところがない。)。
  ㈢ 更に引田鑑定書について検討する。右鑑定書には鑑定を実施した物件として、浴衣、白ズック靴、革バンド(細い方)、靴下どめの順で記載されているから、 引田医師は右の順に鑑定を実施したとみられる。本件ズック靴は、前記のとおり引 田医師から検査実施の連絡を受けた捜査本部が、他物件と別途同医師のもとに持参したことに鑑みると、同医師は、まず、浴衣の検査に着手し、本件白ズック靴の到着したところでこれを検査し次いで革バンド、靴下どめの順で実施したとみられる。そうしてみると浴衣は八月二四日任提領置したもの、革バンドは細い方と特定しているから、鑑定物件の革バンド二本共見分したとみられ、右革バンドは、一方は前同日任提領置したものであり、他方は同月二三日押収したもの、靴下どめは領置調書上明瞭ではないが、前同日押収した靴下に付いていたものと解されるから、右事実をみる限り、引田医師は鑑定物件を領置順(鑑定物件が領置順に整理されていたことの証左でもある。)に検査を実施したとみられる。
 同医師は、「まあ、私としてはそう持ってこられた以上はこれは全部、一応、目を通しまして、そこでまあ斑痕があるとすればそれについて調べると、そういうつもり でとりかかりました。」「まず、一応疑わしいものから検査していかなければ、たくさんの検査物がありましたので、とにかく、一番疑わしいと、検査しなければならない というものから検査していきました。」旨証言するが、にわかに措信し難い。前記の如き手順で検査を実施したからこそ、検査未了である海軍シャツの印象が極めて薄弱なことも当然と言えるのである。

第三

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    以上を要するに重要な論点をとりあげ考察を加えたが、証拠偽造等の疑念を差しはさむべき事実はいささかも存しない。 被告は、原告那須隆が本件白ズック靴、同海軍シャツ付着の血痕は、捜査機関が偽造したものである旨主張(具体的事実を指摘して主張するものではない。)するので、仮りにそのような想定に立って考察を加えてみると、以下述べるとおり、はなはだ理解し難い矛盾に逢着することになる。
 一 まず偽造を想定するならば、その時期は、前記第一、六の経緯に照らし、引田医師の鑑定後で科捜研に嘱託するまでの間と解するのが常識に合致するであろうが、本件白ズック靴は引田医師が血痕付着を認めない旨の鑑定をなし、次いで科捜研においても本件白ズック靴よりの血痕は証明し得ないとしていることは、右ズック靴に人為的な手(偽造)の加えられなかったことのなによりの証左である。また、第二、一、3記載のとおり本件白ズック靴についてQ式検査がなされていないことは、その後においても人為的な手(偽造)の加えられていないことを示するのである。右事実に照らす時、科捜研に嘱託するにあたり、本件海軍シャツのみを偽造したとするのは、理解し難い。それを疑ぐるのであれば、用意周到な捜査機関は、権威筋である科捜研に嘱託するにあたり(特に本件白ズック靴については、血痕付着の積極判断を得ることにその目的があったといえる。)、逮捕の決定的証拠となった本件白ズック靴にこそ人為的な手(偽造)を加えて然るべきものである。前記第一、第二記載のとおり、各鑑定を時間的推移(現実に検査を実施した日時)に従い、且つ、本件白ズック靴、同海軍シャツを統一して考察(この点は捜査機関の意図を理解するうえで極めて重要である。)するなら、偽造等の疑惑は 払拭し得るのである。更に第一、八、2記載のQ式検査の経緯をみても、偽造等の疑惑を差しはさむ余地はない。
 二 また、本件海軍シャツ付着の血痕の成因については、控訴審において東北大学の村上教授が第一、一二記載のとおり鑑定し、多くのものは位置、形、畳から考えて本件犯行態様によって生じ得る(むしろ成因が単純ではないことに注意すべきである。)とされ、特に注目すべきは(本鑑定の主目的でもあった。)、ポケットの裏に斑痕があった事実であり、同教授は「この斑痕は血液に汚れた物をこのポケットへ入れたために生じたであろうと考えられる」旨鑑定しているのであって、本件海軍シャツの斑痕状況に人為性を考えることは到底困難である(ポケットの裏に斑痕を偽造するものを予想し難い。)。
 三 更に、東京大学古畑種基教授は、昭和二六年八月二一日(第二審)公判廷において、

問 右証第三号開襟シャツに付着してあるような血痕は死後十六日以上を経過した人の血によって生じ得るものであるかどうか。
答 そのようなことは人工的処置を加えない限り殆ど不可能であると思います。
問 人工的処置というと……。
答 腐敗しないように又凝固しないように血液を処置して置くことであります。
  尤も絶対的に不可能とは言い切れませんが、シャツにあのような斑点をつけることは困難だと思います。証第三号シャツの血痕が飛沫によって生じたものと認められるから、その血痕を人工的に付着したものとは認めませんでした。

旨述べ、本件海軍シャツ付着の血痕は人工的なものと認められないと証言しているのである。万一後日作為により付着させられた可能性があるとするにしても、そのためには被害者の血液―しかも腐敗や凝固していない、いわゆる生血―が絶対に必要であることを証言している。捜査機関が、本件発生後被害者のいわゆる生血を保存(当時では技術的に困難である。)していた事実はないし、また捜査上その必要はなかったのである。このことは、原告那須隆を逮捕後、同人の血液を採取して鑑定の結果、被害者と同一のB型であることが判明し、更にABO式以外の血液型検査の必要をみるに至った際その後の〔丙3〕、平嶋鑑定、三木鑑定等いずれも犯行現場の畳に付着した被害者の血痕を鑑定に供している事実からも容易に知ることができる。
 四 最後に、本件海軍シャツ付着の斑痕の色あいについて検討する。
 これについては、古畑教授が

答 色の判別は同じ色を見てもそれは見る人の感じで表現のし方が違うものですから、本件の色についてはあまり問題にならないのではないかと思います。
  私の赤褐色というのは赤味がとれて褐色となったものを指すのです。現実に右シャツには二様色のものがあった訳ではありませんから、従って引田先生と私との色に対する判定の相違であると思います。
問 又国家地方警察本部科学捜査研究所法医学課の〔丙3〕外一名作成の鑑定書には「褐色」とあるが、これはどうか。
答 それは広い意味で使ったものと思います。褐色の中には、赤と暗とがあるのです。それ故それはたいした意味はないと思います。
問 色の区別の標準は……。
答 その時の色の度合、溶解の度合でいろいろ呼んでいるのが大体の標準でありますが、その外に見る人の眼によっても違いますから、はっきり決めることはむづかしいと思います。

旨証言しているとおり、その表現方法が確立(例えば色名帳の如き共通の標準色を設定して表現する。)していたわけでなく、各人各様にその感じを表現しているのである。しかも血液が凝固し変化していく色あいは複雑で、相当微妙な表現を伴なわざるを得ない(このことは日常経験的に容易に理解し得る。引田医師の前記第二、二、 3、㈡記載の証言でも、血痕という前提であるかは別として、「あせたような褐色」、「灰色がかったあせた様な黒ずんだ色」といい、同一色とはいい難い表現をしている。)。
 付着斑痕を、血痕と感じたか、その他の汚れと感じたかの区別は、経験上比較的確実な証言を求めうると解されるが、血痕の色あいについて、これを見分した者の表現の差異をとらえて、過大に証拠評価するのは当を得ないと考える。再審判決は、「証人〔丙4〕は灰色がかった赤紫(ぼたん色がかったねずみ)といい、証人山本正太郎は灰色がかったピンク(赤みのあるねずみ色)と赤みがかった鈍い紫色(赤ぶどう酒のような色)との間の色といい、証人〔丙〕はあかるい紫(藤色)とあかるい赤紫(つつじ色)との間の色かまたはあさい紫(紅藤色)と紫がかったピンク(薄紅色)との間の色であったと証言し、三者三様の色合いを供述しているのである。本来同じ色合いの印象であるべき筈のものが、前記色名帖に照らし三者の色合いに濃淡の相違があることは解せないことである。」 旨判旨するが、そもそも、二〇年余りを経過後に右のような証言を求め、その証言の差異を過大に評価するのは正当とはいい難い(既に述べたとおり、〔丙4〕、山本正太郎、〔丙〕、松木明等は、再審廷において極めて率直に証言しているのであるが、記憶喚起のための適切な配慮を欠いたため、重要な証言がなされておりながら、これから多くの重要な事実を引きだす機会が失なわれている。)。
 以上詳述したとおり、もとより原告等主張の如き捜査機関が右証拠品を偽造した事実は存在しない。
 再審判決は、本件白ズック靴及び同海軍シャツについての鑑定に関し、数多くの重大な事実を無視乃至誤認したえで証拠評価を加えているのであって、到底承服し難く、これの正当性を前提とする本件訴は棄却されるべきものと信ずる。

別紙

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