弘前大教授夫人殺し事件再審開始決定

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○再審請求事件(仙台高等裁判所昭和四九年(け)第九号 同五一年七月一三日第二刑事部決定取消・再審開始・確定

【再審請求人】 那 須 隆
【異議申立人】 弁護人 南 出 一 雄 外二名
【原   審】 仙台高等裁判所

○判示事項[編集]

有罪判決確定後に真犯人として名乗り出た者の供述が刑訴法四三五条六号にいわゆる「明らかな証拠」に該当するとして再審開始決定がされた事例

○決定要旨[編集]

再審請求人に対する有罪判決の確定後に真犯人として名乗り出た者の供述は、本件においては刑訴法四三五条六号にいわゆる「明らかな証拠」に該当するものというべきであり(判文参照)、再審を開始すべきものである。

【参照】 刑訴法四三五条六号 再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡しをした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。
     六 有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。

○主文[編集]

 原決定を取消す
 本件につき再審を開始する

○理由[編集]

目次[編集]

第一 異議申立の趣旨および理由……三二六
第二 当裁判所の判断……三二六
一 はじめに……三二六
二 弁護人の主張……三二七
㈠ 〔己〕こと〔己〕の本件殺人事件に関する供述……三二七
㈡ 右供述についての検討……三三三
1 離座敷(犯行現場)および就寝の状況……三三三
2 東側窓からの見透し……三三六
3 引き戸の施錠……三三七
4 縁側の巾員……三三八
5 本件凶行および潜り戸のところまでの逃走の状況……三三九
6 逃走経路……三四七
7 〔乙10〕方内の血痕等……三四九
8 帰宅後の状況……三五三
9 その他の状況……三五四
10 まとめ……三五六
11 原決定の検討に対する考察……三五六
㈢ 原二審判決の検討……三六五
1 認定事実……三六五
2 有罪認定の理由……三六六
3 確率を支持する諸条件の検討……三六九
4 本件白シヤツの血痕について……三七七
5 動機について……三八五
6 那須隆のアリバイ工作について……三九二
7 〔乙10〕方および那須隆方附近の血痕について……三九三
8 まとめ……三九三
㈣ 結語……三九四

(用語例)[編集]

一 「原一審」―青森地方裁判所弘前支部
一 「原二審」―確定判決をした仙台高等裁判所
一 「原 審」―再審請求棄却決定をした仙台高等裁判所
一 那   須―申立人(再審請求人)那須隆
一 〔己〕  ―〔己〕こと〔己〕

第一 異議申立の趣旨および理由[編集]

 本件異議申立の趣旨および理由は、弁護人南出一雄、松坂清、青木正芳連名名義の異議申立書、異議申立理由補充書に記載のとおりであるから、これを引用する。

第二 当裁判所の判断[編集]

一 はじめに[編集]

 弁護人の所論に応え、再審における証拠の「明白性」について当裁判所の見解を示すならば、当裁判所は「無辜の救済」という基本理念を前提として、先に最高裁判所第一小法廷が昭和五〇年五月二〇日刑事訴訟法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」について示された見解に賛成であるので、これを引用してその説明にかえる。即ち右にいう「明らかな証拠」とは「確定判決における事実認定につき、合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠」をいうものと解すべきであるが、
 右の「明らかな証拠」であるかどうかは「もし当の証拠が、確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべき」であり、
 この判断に際しても「再審開始のためには、確定判決における事実認定につき、合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判における鉄則が適用される」ものと解すべきである。(括弧は当裁判所で付したものである)

二 弁護人の法令解釈の誤り、経験則違背、審理不尽による事実誤認の主張について。[編集]

 所論は要するに、原決定が、〔己〕の供述を真犯人のそれとしての信憑性を損わしめるというほどの矛盾はなく、かつ原二審判決の有罪認定の根拠となつた証拠の大部分につき、その証拠価値に疑問があることを判示しながら、結局丙の着用していた海軍用開襟白シヤツ(以下本件白シヤツという)に附着していた血痕が被害者の血液と一致する確率が高いから、これが本件凶行により附着したものと認めることができるとし、確定判決の正当性は動かし難いとして、再審請求を棄却したのは、経験則を無視し、尽くすべき審理を尽くさず事実を誤認したもので取消しを免れないというのである。
これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

㈠ 〔己〕の本件殺人事件に関する供述[編集]

 この点につき原審がその挙示する証拠により認定したところは、当審においてもこれを是認できるところであり、その記載によれば概要次のとおりである。(当審事実認定の証拠は挙示するもの以外は原決定の当該認定事実に挙示する証拠をそれぞれ引用する)

1 自分は本件殺人事件のあつた一〇日位前にミシン修理に使う長四角形のヤスリを、自宅にある手回しのグラインダーにかけて刃渡り約二〇ないし二五センチメートル、刃巾約三ないし三・五センチメートル、峰の厚さ約〇・三センチメートル、片刃で切先を短刀のように曲げ、これを砥石でさつと研ぎ、柄にはドライバーの丸い柄をつけた凶器を作成したが、右凶器のことは〔乙24〕という者も知つているのではないかと思う。
2 本件犯行当夜の自分の服装は、袖が手首のくるぶしから上約五・五センチメートルあたりまである白色のカツターシヤツを着、黒の長ズボンおよびゴム底で歩いても音がしない黒の色のズツク靴を履き、帽子、眼鏡を着用せず、覆面はしなかつた。
  また当時身長は約一七一ないし一七二センチメートル位、髪の毛をのばし、分けていた。
3 その頃癖のようになつていたが、当夜も女性にいたずらしようと思つて、午後一一時頃に家を出て歩き廻つていたところ、いつしか〔乙〕方附近に来たが、そのとき本件犯行の一〇日か二週間位前に〔乙〕方二階でミシンを修理したことがあり、その折二二、三才位の娘が二人いたことを思い出して〔乙〕方に入ることにした。
4 〔乙〕方へは表門わきの潜り戸から入つた。潜り戸には錠がなく、そこを通りながら腰のバンドの内側に挾んであつた前記の凶器を取り出し、鞘代りに巻きつけてあつた布切れを取り去つて、これをズボンのポケツトに入れ、凶器を握持してまず表門のほぼ正面(西側)の勝手口に向つたが、それはミシン修理に赴いた際勝手口から入つたからである。しかし勝手口には錠がかかつていて入れなかつたので、裏手へ廻わろうとして表門の方に戻り、東側道路に面した庭の方に来た。(別紙㈠参照)
5 すると本件犯行現場である離座敷の一部東側窓の下に差しかかつたので、同所に生えていた草の上に立ち、爪先立つて座敷の中を覗いてみた。
  その頃自分の視力は一・五であつたが、部屋の中は薄暗く、右方(北方)はぼやつとしてよくみえなかつたが、三〇秒位覗いているうちに、自分の前方に頭を向う側、足を手前側にして寝ている人(被害者)の頭の部分がみえ、その者の頭の格好から女と分つた。当時被害者と会つたこともなく、もとより同女を目あてにして来たわけではなかつた。覗いたときは、窓のガラスを通してであつたかどうかは記憶がない。多分夏だから窓は開いていたのではなかろうかと思う。また部屋に電燈がついていなかつたように思うがはつきりした記憶はない。覗いたときに蚊帳が吊つてあることに気付いたかどうかも記憶がない。
6 それから同女の身体に触れてみたいと思い(姦淫するまでの意思はなかつた)、南側にまわり、大きな四枚戸位の引き戸のあるところに来て、その東側から二枚目の戸の腰板の部分に手をかけて横に引いたら、錠がかかつておらず開いたので、身体が入る位開けた。右引き戸は下の方が板張り(腰板)で上は硝子が入つていた。引き戸の前には踏み石があつたと思う。引き戸を開けたところ、そこは縁側になつていた。縁側は板敷であつたような気がする。
7 そこで縁側に膝をつけ、左手に凶器をもち、ズツク靴を履いたまま、這うようにして三、四歩進んだら敷居のようなところがあり、そこからすぐ座敷で蚊帳が吊つてあつた。蚊帳までは障子その他の障害物はなく、すつと行けた。
8 そこで蚊帳の縁側寄りの裾の真中あたりを少し身体が入る位あけて、伏せるようにして中に入つた。一番手前に被害者が寝ていたが、同女の頭の位置は右敷居から約五〇センチメートル北方、西の壁から約一メートル東方の附近であつたと思う。蚊帳に入つた際には、被害者の北隣りに子供が寝ていたことには気が付かなかつたと思う。
9 被害者は上を向いて寝ていた。その服装は記憶がない。自分は同女の首から腰までの間の右横に、右膝は左膝よりやや同女に近づけてしやがみ、同女の上に屈みながら左手で(その頃凶器は自然に右手に持ちかえていた)、同女の乳房のあたりをすつと触れたら、同女が目を覚ましたようにぐつと動いたように感じたので、咄嵯に気付かれたら大変と思つて右手の凶器で同女ののどをぐつと刺した。刺すときは凶器を逆手に持ち、刃を自分の方向に向けていたが、刺した箇所はのどの真中辺かどうかははつきり分らない。ただ垂直に突き刺したつもりであつたが、同女が左の方(北方)へぐつと首をねじつたので、さらに頸部が切れ、そのときに水が流れるようにゴボゴボというような音がした。凶器を思いきり刺したところ、止まつてそれ以上刺さらなくなつたし、被害者が首をねじつたとき凶器が全然動かなかつたから、頸部を突き抜けて布団に刺さつたと思う。そして被害者ののどから右のゴボゴボという音がした瞬間、余りひどいことをしたなと感じ、また同時に子供のかなり大きな泣き声がしたので、隣に子供が居て、被害者の血を浴びて気がついたのかと思つて、一気に凶器を抜いて蚊帳から出て、侵入した引き戸から庭へ逃げた。子供の泣く声は聞いたが、子供はみなかつた。被害者の母親の姿はみなかつたし、「〔甲〕」と叫ぶ声も聞かなかつた。右凶行の際に自分は血を浴びなかつたと思つた。ただ凶器を握つている右手の手の平から手首にかけてだいぶ血がついた。被害者は声を発しなかつた。
10 引き戸から出て庭伝いに、通つてきた潜り戸のところに向つて走つたところ、その戸まで着かないうちに、犯行現場の座敷の方から「泥棒」と叫ぶ女の声を聞き、被害者のほかにまだ人が居たことが分かつた。「泥棒」という声は何回も叫ばれたわけではない。
11 凶器を手に掴んだまま、潜り戸から出て、別紙㈡のとおり右方(南方)へ曲り、進んでまた右方(西方)へ、さらにその先を右方(北方)へ曲り進んだが、血が垂れていたので、垂れないようにしようとして、木村産業研究所の中に入つた。当時同研究所の二階にはダンスホールがあり、同ホールにはダンスをしにしよつちゆう行つていて、その際研究所の門から入つて約二〇メートル先の北方寄りにある小屋に附属している便所を使用したことがあつたから、その小屋の傍を抜け、便所の裏(東側)の暗いところに行つたところ、そこに井戸があつた。井戸のあることはそこに行つてみて初めて知つた。そこで鞘代りにしていた布を凶器に巻きつけて三〇秒位で同所を出たが、そのときは、警察犬のことを考えて遠回りして行こうと思つた。
12 同所を出るとき、自転車に乗つて北方から近づいて来た人がいたが、それを通過させてから研究所を出て、別紙㈡のとおり右方(北方)へ進み、突き当つて左方(西方)へ折れ、那須方前を通つて茂森町に出た。それからその通りを右方(北方)へ進み、さらに右方(東方)に折れて覚仙町の通りを東進し、突き当つて左方(北方)へ曲つて本町に出て、次に右方(東方)、さらに進んで右方(南方)に曲り、当夜午後一二時頃に自宅に戻つた。木村産業研究所のほかには、途中立ち寄つたところはないし、一人として行き会つた者はいなかつた。
13 自宅に戻り屋外の水道で手に着いた血を洗つてから居間に入り、凶器は家の中の天井裏に隠した後休んだ。そのとき〔乙25〕は自分の寝室とカーテンで仕切られてある店の方で寝ていた。ところで帰宅後着衣を一寸みたが血は着いていなかつた。しかし念入りに調べてみたわけではない。
14 本件犯行の翌日新聞やラジオで本件「教授夫人殺し」のことが報道され、結果の重大さに驚ろいたが、弘前市百石町にある映画館「大和館」に行つて、その二階のスクリーンに向つて左側の便所内に凶器を捨てた。
15 また強姦致傷等の事件のため警察署内に拘束されていた際に、本件犯行についても三回位にわたつて自分が犯人ではないかということで取調べをうけたが、自分は頑強にこれを否認し、またその頃紙片に本件犯行の日とその夜は家に居たことにしてくれという趣旨のことを書いて、これを細く折つて差し入れの弁当箱の残飯の下に隠して家に戻したところ、その後保釈になつて家に帰つた際継母は右紙片を見たといつていた。なお右強姦致傷等の事件につき取調を受けていた際弘前市警察署内で洗面所に赴いた折に那須と顔を合わせたことがあつた。同人の弟は〔己〕と小学生当時に同級であつた関係から那須と〔己〕は相互に顔だけは知つていた。
16 またその後の強盗傷人の事件で秋田刑務所拘置場に留置されていた頃から、那須が無実の罪で自分に代つて服役していることに悩み、信仰の力でこれを解決しようとしてキリスト教に関心を寄せ、修道女との間においても、それとなく右悩みについて教えを乞う文通を重ねていたところ、右事件で有罪判決が確定し服役中の昭和四六年二月頃に宮城刑務所内病舎に入所していた折、同じ病室内にいた〔乙26〕らに対し、自分の代りに殺人で一五年の刑をつとめた人がいるが、自分はその事件の真犯人であるなどと告白した。
㈡ 右供述についての検討[編集]

 この点について、原決定がその挙示する証拠によつて詳細に認定しているところは、当裁判所においてもこれを是認できるので、これに基づき検討を進める。(ただし後記に反論を加える部分を除く。尚挙示証拠以外は原決定の該当部分の証拠を引用する。)

1 離座敷(犯行現場)および就寝の状況[編集]
⑴ 離座敷の状況
  〔乙〕方表門は南北に通ずる道路に接し、同門わきの潜り戸からその北西方向に位置する離座敷までは直線距離で約四三尺(一三・〇二九メートル)あつて、その間の一帯は庭園に造られてあり、庭木が東側道路沿いの生垣に沿つて植えられてあるほか、やや迂回する状態で飛び石が潜り戸の近くから離座敷まで続いていた。離座敷階下の状況をみるに、同階下は八畳間の南側に接して巾約五尺(一・五一五メートル)の縁側があり、同所にはリノリユームが張つてあつたが、その縁側の南端には四枚戸の引き戸が取り付けられ、さらにその南側はすぐ右庭園に続いていた。右引き戸の構造は、いずれの戸も腰板の上に四段の八枚の硝子が二枚づつ横に嵌め込まれてあるものであつたが、上の二段は透明硝子、下の二段はすり硝子であつた。また引き戸のすぐ外側には、縦四尺横一尺四寸高さ一尺(縦一・二一二メートル、横〇・四二四二メートル、高さ〇・三〇三メートル)の踏み石が置かれてあつた。右表門わきの潜り戸は当時錠がなく、開閉は昼夜を問わず常に自由な状況であつた。
⑵ 就寝状況
  被害者〔甲〕は夫松永藤雄の転勤にしたがつて、昭和二二年六月頃から長男(本件当時八才)および長女(同四才)を伴い〔乙〕方二階建離座敷に移り住むようになつたが、〔甲〕の実母〔乙2〕(当時五九才)は昭和二四年八月一日その居住地の桐生市をたつて翌二日右被害者方に着き、三日に夫藤雄は長男を連れて所用のため酸ケ湯温泉に約一週間の予定で赴いた。夫がいまだ留守中の同月六日は非常に蒸し暑い日で、被害者と〔乙2〕および長女の三名は、午後九時頃入浴し、同一〇時頃に離座敷階下の畳敷部分八畳の間に蚊帳(縦九尺五寸―二・八七八五メートル、横六尺七寸―二・〇三〇一メートル、高さ五尺三寸―一・六〇五九メートル)を吊り、南から順次被害者、長女、〔乙2〕の順で、枕を西、足を東に向けて床に就いた(別紙㈠参照)。
 ところで各布団の位置は、被害者と〔乙2〕の分は互に少し離して敷き、長女の子供用のそれは被害者の布団に略重なるように敷いたが、被害者の布団は右座敷とその南側の縁側との間の敷居から丁度畳の横巾(約二尺九寸―〇・八七八七メートル)だけ離して敷居と平行に、また同布団の上端は西側壁から約一メートル(畳の横巾とさらに目測一〇センチメートル位)東方に離して敷いた。そして蚊帳の中央部の上にある二燭光の水色の豆電球は右就寝の際つけたままとしながら、蚊帳の上に新聞紙二枚を置いて、右電球の明りが長女のところだけに差し、〔乙2〕と被害者のところには来ないようにしておき、また縁側と座敷との間にある敷居上の硝子戸は閉めなかつた。
 ところで被害者が床に就いた時刻は〔乙2〕よりも五分位後であつた。
⑶ 〔己〕が、〔乙〕方表門わきの錠のかけられてなかつた潜り戸から屋敷内に入り、表門附近から東側道路に面した庭の方にきたところ、本件犯行現場の離座敷に至つたこと、被害者は東側から見た場合に、前方(西)に頭を、手前(東)に足を向け、蚊帳を吊つて寝ていたこと、離座敷の南側には、腰板の上に硝子が入つていた四枚の引き戸があり、その前に踏み石があつたこと、引き戸に接する室内は縁側となつていたこと、縁側の先に敷居があり、さらにそのすぐ先は座敷であつて、引き戸から座敷に至る間には、障害がなかつたこと、被害者は座敷の縁側寄りに寝ていて、頭は西の壁から約一メートル位東方であつたと供述するところは、前記状況と符合する。
 尤も〔己〕が、縁側は板敷であつたような気がするとか、被害者の頭の位置は敷居から約五〇センチメートル離れていたとかいうところは、前記状況とやや相違するし、また犯行当時被害者のすぐかたわらに寝ていた筈の当時四才になる長女を認めたか否かの点について、その供述に多少暖味な点は見受けられるが、本事件後長期間を経過していることによる記憶の薄れや、犯人として室内の状況について犯行当時すべてにわたり明確な認識をもつわけのものではないのが通常であるから、この程度の相違は、それ程重要なこととは認められない。
2 東側窓からの見透し[編集]
⑴ 本件犯行当時には、北側の窓には固く錠がかけられていたが、東側窓の室内より操作する落し錠は外れていた。そしてその窓下には繁つた草の上に、窓から室内を覗く際に踏みつけたと思われる足跡が薄く残つていた。
⑵ 東側窓は丈約一二四センチメートル、巾(ただし枠内側の巾)約三六・五センチメートルの硝子戸四枚からなり、その両側の二枚づつが縦に蝶番で結合されて、その各二枚づつが折畳まれるようになるほか、さらにその各全体が外側へも開かれる所謂観音開きの構造であつた。右各窓の硝子は四段となつていて、最上下の各一段は丈において中央二段より小さく、しかも横に二枚の硝子―中央二段は各一枚の硝子―が嵌め込まれてあつたが、硝子はすべて不透明であり、北から二枚目の硝子戸の下から三段目の上方隅に縦四寸(〇・一二一二メートル)横六寸(〇・一八一八メートル)の三角形状に硝子が壊れて穴があいていたが、同部分は地上から七尺余(二・一二一メートル余)の高さであつた。さらに南から二枚目の硝子戸の下から三段目は硝子が外されて、そのあとに煙突を通す穴(径約三寸五分―約一〇・六センチメートル)があいている亜鉛板が嵌め込まれてあつたが、同穴の位置も地上から約六尺七寸余(約二・〇三メートル)のところと認められる。そして東側窓には、同窓を十分覆う大きさのカーテンが取り付けられてあり、また東側窓の敷居下辺の高さは、メートル)のところと認められる。そして東側窓には、同窓を十分覆う大きさのカーテンが取り付けられてあり、また東側窓の敷居下辺の高さは、直下の地表から約四尺(約一・二一二メートル)で、その窓下の地表僅か東寄りには長さ一メートル位、巾八〇センチメートル位の窪みがあり、同所には草が生い繁つていた。
⑶ 〔己〕の身長は、昭和三二年当時約五尺五寸(約一・六六メートル)であり、昭和三四年の測定では一・六八二メートルであつたから、右窓から室内を覗くには十分の身長であつたことは明らかである。
 原二審証人〔乙2〕は「六日の晩は非常に暑かつた。〔甲〕が暑い暑いといつて窓を開けていたが、寝るときは私が全部閉めた」と供述するけれども、東側窓の錠が外されてあるところよりみれば、或は前記のとおり〔乙2〕よりあとから床に就いた〔甲〕が暑さに寝つかれないまま、再び同窓を開けたことも十分考えられる。したがつてもし〔己〕が同窓にかけてあつたカーテンに手をかけて少し開き、爪先立つて室内を覗いたとすれば、その供述するところの「東側窓の下に生えていた草の上に立ち……座敷の中を覗いてみた、部屋の中は薄暗く、右方(北方)はぼやつとしてよくみえなかつたが、三〇秒位覗いているうちに寝ている被害者の頭の部分がみえ、その頭の格好から女と判つた」と述べているところは、当時の状況に照らし矛盾するところがないばかりでなく、右窓下の繁つた草の上に窓から室内を覗く際に踏みつけたと思われる足跡が薄く残つていたという状況は、供述とよく符合する。原審証人〔丙4〕、〔丙5〕の各供述中右認定に副わない部分は、原審と同一の理由によりこれを採用できない。
3 引き戸の施錠[編集]

 引き戸の錠は、差込みのうえ、ねじつて締める構造のものであつたが、単に差込まれただけでは、戸を一寸かかえ上げたりすることにより、音もたてずに開けられること、犯行当夜は引き戸の錠は〔甲〕においてかけたものと思われ、〔乙2〕も同錠が差込まれてあることに記憶はあつたが、すつかり差込まれ、ねじつて締めてあつたか否かについては記憶がないこと、警察官の見分の際、当夜は右錠が差込まれてあつただけのように窺われることが認められる。
そうすると、犯行当夜は引き戸について十分な施錠がなかつたため、〔己〕の供述するごとく、引き戸の腰板に手をかけて、その手加減によつて同戸を外から容易に開けることができたということも十分に考えられる。

4 縁側の巾員[編集]

 〔乙〕方では、昭和三六年六月に本件犯行現場となつた離座敷を二階部分共そつくり母屋から切り離して曳行し、表門から入つた正面(北方)突き当りの奥まつた箇所に(当初の位置からは母屋を隔てて南西方の箇所。したがつて本件犯行当時の母屋の勝手口のあたりは右曳行前に取払われていた。)移築し、東側窓を含む東側壁面の部分に廊下、玄関および部屋等を継ぎ足してモルタル塗を施し、縁側は巾半間(約九〇センチメートル)広くして、その分だけ座敷を狭めたことが認められる。原審検証㈠において、〔己〕が犯行当時の縁側の巾は這うようにして三、四歩で渡れたとして指摘した地点は、現況の縁側と座敷との間の敷居より約八〇センチメートル南側の位置であつた。

そうすると右縁側の巾の点に関する〔己〕の供述は、信憑性が極めて高い。
5 本件凶行および潜り戸のところまでの逃走の状況[編集]
⑴ 〔乙2〕は眠りについてから一時間位した頃に、ふと目が覚めると、白い開襟シヤツらしいものを着た若い男が被害者の右肩から右腹部までの間で、しかも同女の敷布団の縁のあたりにしやがみ、身体全体はやや同女の顔の方を向いている格好で、前屈みになり、同女を覗きみるようにしている姿が目に入つた。そのとき被害者の頭は普段のとおりに枕の上にあつて左肩は枕の下になつており、顔はやや左側を向き、左手の二の腕は掛布団の上で肘関節から曲げて腹の中程におかれ、異常な姿勢ではなかつた(当時被害者はズロースを穿き、腹巻を締め、素肌の上に浴衣地の寝巻を着ていたものである。)。
 〔乙2〕は男の姿が目に入ると同時位に、男の右手が動いているように感じたが、咄嗟に飛び起き、「〔甲〕」と一回叫ぶと同時に男は蚊帳をまくり、引き戸から外へ逃げて行つた。
⑵ 縁側の引き戸のうち東側から二枚目の戸が約一尺二寸位(約三六・三センチメートル)開いていて、〔乙2〕はそのあたりまで行つて、「泥棒、泥棒」と叫んだが、男の姿は三間位(約五・四五メートル)前方の庭の暗闇の中にぼんやりその白い上衣だけが認められた。
⑶ 右⑴⑵の間に〔乙2〕が認めた男の特徴は、「腕が半分ほど出ていたから半袖と思うが、白色の開襟シヤツを着ており、また脛がみえたから半ズボンか長ズボンをまくり上げて穿いていたと思う。ズボンの色は白色か国防色であり、皮バンドをしていた。身長は五尺三寸位(約一・六メートル)、肩は垂れ、やせていたようで、髪は普通に分けていた。眼鏡はかけず、帽子もかぶつていなかつた。履き物は足袋か靴のようであつたが、逃げていくとき足音が全く聞えなかつた。」というものであつた。
⑷ 〔乙2〕は縁側よりすぐに引き返えして、蚊帳の西南隅の吊り手一箇所を外し、被害者の枕許に寄つたが、そのとき同女は頭を枕から外して布団の南側脇の畳の上に乗り出しており、首から血が出ていた。〔乙2〕は被害者を抱き上げたところ、首から血がどんどん出ており、同女は一言「死んでしまうわ」と息たえだえに言つただけで、その後はただハアハア息をするのみであつた。〔乙2〕は被害者の首に手拭を当てたりしたが、すぐさま〔乙〕の居る所へ赴き、同人を呼び起して、病院と警察への連絡を頼み、また被害者の許に戻つたが、同女は凶行を受けてから五分位後に死亡した。
 〔乙〕は警察署等に電話し、また警察官が現場に来る前に表門の所に赴いたところ潜り戸は一尺三寸位(三九センチメートル位)開かれてあつた。
⑸ 警察官により、本件犯行時刻は同日午後一一時一〇分頃と推定された。
⑹ 以上の状況と〔己〕の供述について
(イ) 〔己〕が供述する当時髪をのばしていたこと、犯行時刻が午後一一時過頃であること、被害者の首から腰までの間の右横に、右膝は左膝よりやや同女に近づけてしやがみ、同女の上に屈んでいたこと、凶行時において被害者は首を左側に向けていたこと、他から叫び声がしたときは、まさに凶行に及んでいたところであつたこと、叫び声を聞くや直ちに蚊帳から出て侵入した引き戸から庭へ逃げたこと、引き戸は侵入の際身体が入る位開けていたこと、庭伝いに走り潜り戸まで着かないうちに、犯行現場の離座敷から「泥棒」と叫ぶ女の声を聞いたこと、帽子、眼鏡を着用せず、覆面はしなかつたこと、ゴム底で、歩いても音がしない靴を履いていたことなどの供述は、当時の状況とよく符合する。
(ロ) 〔己〕が〔乙2〕の存在に気付かなかつたということについては、犯行の際に被害者に注意を集中していた結果と思われる。また〔乙2〕の「〔甲〕」という叫び声も同女が極度に驚愕狼狽した余り、明瞭な発声にならず、〔己〕にはこれが「子供のかなり大きな泣き声」に聞えたことも十分に考えられる。
 〔己〕の身長や体格については、仙台高等裁判所秋田支部昭和三七年一〇月二五日判決の同人に対する強盗傷人事件の被害者が〔己〕について証言したところは、「その男の人相は頬骨が高く、やせ型で、背は五尺三寸位であり、前髪を額に垂していた」というのであつて、〔乙2〕の供述する犯人の特徴と類似していることは注目される。
(ハ) 服装については、〔己〕は本件犯行当時左前膊部に入れ墨をしていてこれを隠すために袖の長目のシヤツを着ていたことを供述し、〔乙2〕が犯人は半袖の白色開襟シヤツであつたというところとは相違するし、またズボンについて〔己〕が黒の長ズボンであつたというのに対し、〔乙2〕は白色か国防色で半ズボンか、或は長ズボンであつたとしても脛がみえるようにまくり上げていたとする点においても相違がみられる。しかしこれらも狼狽した〔乙2〕において闇の中を逃走する犯人の姿をみる際に誤認の余地がなかつたとは云い切れないことであり、目を覚ました瞬間に同女の目に映つた白開襟シヤツは、〔己〕のカツターシヤツの白色と合致している。
(ニ) 被害者の創傷およびその成因に関しては、鑑定人木村男也作成の昭和二四年九月三日付鑑定書(以下木村鑑定という)同鑑定書添付の引田一雄作成の検案鑑定手記および鑑定人村上次男作成の昭和二七年一月三一日付鑑定書(以下村上鑑定という)によれば、
a 被害者の死因は、左総頸動脈の円周の約三分の二の切断(損傷)による失血死であつたが、右損傷をもたらした創傷は、右前頸部から刺入し、左方輪状軟骨の上縁を削ぎ、正中に向つて斜め上方に約二〇度の角度をもつて、また右上方から正中を越えて僅微ながら左頸稍下方に向い、左後頸部に穿通する刺創であつた。そして右貫通刺創の長さは約六ないし八センチメートル、右前頸部の創口の長さは両創縁が触れるように一直線に近くして計測した場合において約三・五センチメートル、左後頸部のそれは略右前頸部の創口の長さに照応した。そして創口はいずれも被害者の身体の長軸に対し横に切り開くものであつた。また左後頸部の創傷の約一センチメートル下方に、同傷と平行して長さ約一・五センチメートルの弁状傷が存した。
b 貫通刺傷は、頸部内部において二条の創管をなし(同創管は、前左方に僅かに彎出した弓状に近いもので、方向の異る二条のものと認められた)、恰かも襲撃が二度の刺突をもつて行われ、まず刃先が喉頭の前または前左に達したときに、凶器を完全に抜き終らないうちに、再び第二回の刺突が加えられたものとも考察されたが、右刺突の順序についてはこれを決することはできなかつた。
c 貫通刺創は、被害者を基準にして、刃を左方に、峰を右方に向けて突刺した結果のものと認められた。
d また頸部における貫通刺創および弁状傷のほかには、損傷その他暴行を受けた痕跡は全くなかつたし、右刺創は、声帯その他発声管内、発声に関する神経には及ばなかつた。
e bの二条の創管の成因を考察するうえにおいて、受傷時に被害者の顔がやや左側に向いていた場合を想定すると、創管は前右から後左に向いおよそ一直線に並ぶと認められ(しかし頸部内部の創管は皮膚創口の長さ三・五センチメートルほどにはなく、厚いところで約二・五センチメートルである。)、この程度の顔や頸部の回転、傾斜によつては、前頸部正中の皮膚に対し、頸部の臓器組織の変化が起きるところであるから、結局刺突の際に加害者の手許が僅微ながら狂い、また被害者において刃尖の刺つた瞬間から無意識、反射的に頸を廻わしたことがあれば、これらが複雑に関連することにより、頸部内部の二条の創管(前左方に僅かに選出した弓状の創管)が生ずるものと考察された。
f a後段の弁状傷は、犯人の手許が少し狂つて、例えば一度左に突き抜けた刃先がさらに下方の皮膚に軽く刺さつて直ちに外づれたために生じたものとも考察された。
g 〔己〕が被害者の右横に坐して被害者の咽喉部を垂直に刺したとすれば、まず凶器は逆手にもたなければ、体勢としては極めて不自然であるから、「逆手に持つて」刺したとの供述は首肯できる。また刃が自分の方に向いていたとする供述部分は、左右の横向きは除いて、その角度は一六〇度から一七〇度の巾のある範囲内のことであるから、右横に近い内側の刃向きであれば、柄の握りにぐつと力を入れて一気に突き刺せば刺創の方向と必ずしも矛盾はない。次に被害者が凶行時に上を向いていたとする点も同女が真上より約二〇度顔を左方に傾けていたことをも「上を向いて」と表現できるのであるから、その場合上方より垂直に突刺して本件創傷を生起せしめうるので、〔己〕の供述と刺創の状況との間に矛盾はないこととなる。
 被害者が真上より約二〇度顔を左方に傾けていたときに、〔己〕がその供述のとおり一気に刺突したところ被害者がさらに首を僅かに左方に傾けたとするならば、凶器の峰が輪状軟骨の上縁の附近にあたつていて、これが起点をなして刃先の方でさらに下方の創傷を拡大したこと、そしてその際左総頸動脈の創口と密着していた刃が少し離れて、該動脈から血液が迸出し(ただしその方向は専ら左頸部へ。)それが一因となつて〔己〕の供述するごとき「水の流れるようなゴボゴボという音」を発したこと、そして凶器を抜き去るとき上方の創傷をもさらに切り開いて拡大したこと、そして凶行後被害者の屍体検案に際し、被害者の顔が真上に向くように位置せしめたとき、右凶行によつて生じた傷は、右輪状軟骨附近において接する方向の異る二条の創管の存在を示すことになつたことが推察でき、その状況は〔己〕の供述と微妙に符合することとなる。
 そして〔己〕が「被害者が首をねじつたとき凶器が全然動かなかつた」と述べているところは、被害者が首を左に傾けたとき頸部を突き抜けた凶器の刃先が下方の皮膚にあたつたためであり、その際a後段の弁状傷が生じたとみれば、これまた創傷の状況は〔己〕の供述に符合して微妙である。
(ホ) 被害者の鮮血は、同女の頭髪、前胸部、背部、腰部に流れ、その衣類はもとより敷布団、畳に大量に滲みわたり、蚊帳の南側中央下部、座敷南西隅のタンスの下部、その附近の柱の下部等には明らかに迸出飛散した状況で附着していたこと、被害者のすぐ北隣りに寝ていた長女にも鮮血が飛び散つていたことが認められる。
 木村鑑定および村上鑑定を総合すれば、左総頸動脈部に損傷を受けた場合に、創口と凶器の密着の度合如何によつて、犯人が凶器を刺したときから、抜き終る瞬間および抜き終つた極く短い時間内に合計して少量の(大量でない)血液が被害者の右側創口から「迸出」または「噴出」と称すべき状態において出る可能性はあり、さらに凶器を抜き終つた後の短時間内(数秒ないし三〇秒位までの間)に被害者が頭部や顔の姿勢を変化せしめた直後に、せいぜい一〇秒間のところはなお血液を「迸出」または「噴出」する力は残りうるものであつたこと、また左頸部の傷は僅徴ながら上正中方から下側方に傾いているため、血液は直線的の噴出ではなくともかなり強い力で左頸部に沿い、左耳殻およびその後方に向つて流出したものと推定されることが認められる。
 そうすると〔己〕が凶行によつて手の平から手首にかけて被害者の血がついたが、着衣には気付くほどには附着していなかつたと供述するごとく、凶器を一気に抜いて直ちにその場から立ち去つたとすれば、その極く短時間内においては、被害者の右側創口から血液が迸出して着衣に容易に認めうるような程度において附着することもなかつたとみる余地があり、その後〔乙2〕が被害者の許に駆けつけるまでの間に被害者が動いて右側創口から蚊帳の方向に或は左側創口から長女の側に血液が迸出し、〔乙2〕が蚊帳の吊手を外した際或は同女を抱いたりしたときの同女の体勢によりさらに各創口から血液が周囲に迸出飛散したことも推測できるところであるから、〔己〕の着衣における血液附着の状況についての供述には不合理なところはない。
(ヘ) 凶器について
  木村鑑定によれば、被害者の創傷の状態から本件犯行に使用された刃器は、片刃の鋭利なもので、峰の厚さは、二、三ミリメートル前後、刃巾は一センチメートルから一・五センチメートル精々二、三センチメートル位まで、刃渡りは七、八センチメートルから一五センチメートル位と推定されたことが認められる。そうすると〔己〕の供述する凶器は、右推定の刃器に較べて長さにおいて一二、三センチメートルから五センチメートル位、刃巾において二・五ないし〇・七センチメートル大きいほかは、峰の厚さ、片刃である点において一致する。しかも右推定刃器の長さについては、右鑑定によれば、凶器が輪状軟骨を截断していないことから重量の軽い刃器と推定したことによるのであつて、右推定の長さ以上に長い刃器でも本件創傷をもたらすことが可能であることは、同鑑定においても指摘しているところであるから右長さの相違はさして重要でない。あとは刃巾の点のみであるがこの程度のことは長期間の経過による記憶違いということも考えられる。
(ト) 〔己〕が引き戸から出て潜り戸まで着かないうちに犯行現場の離座敷の方から「泥棒」と叫ぶ女の声が聞えたと供述するところは、〔乙2〕が「泥棒」と叫んだとき男の姿は三間位前方に見えたという供述と符合する。
6 逃走経路[編集]
⑴ 本件犯行の翌早朝現場附近の捜査を開始した警察官は、同日(昭和二四年八月七日)午前六時頃〔乙〕方敷地内の玄関前附近から表門に至る間の敷石上に五点、同門に接してその北側わきにある潜り戸の道路側(同戸の東方二尺五寸―〇・七五メートルの地点に血痕あり。)から同門前のアスファルト路上に出て同路上を南方に進み、突き当つて西方へ折れた先の在府町〔乙9〕宅前路上に至る間に一八点の点在する血痕を発見した。これら血痕はおおよそ大豆大から雀の卵大であつたが、鑑定の結果人血で、B型と判明した(別紙㈠㈡参照)。
⑵ 翌八日午前九時頃〔乙9〕宅前を西方に進み、十字路交差点を北方に行つた先の右側に所在する在府町木村産業研究所の前の電柱附近に直径約一センチメートルの血痕一点が発見され、これは鑑定の結果人血でB型と判明した(別紙㈡参照)。
 そして木村産業研究所前から北方にのび、かつそののびた先から東西に走る道路下の一帯にはなんら血痕を発見されなかつた。
⑶ 被害者の血液型については、本件犯行により被害者の身体から大量に流れ出した血液が明らかに附着したものと認められた畳或は畳床藁の血痕を検査対象として判定した結果B、M、Q、E型であつた。
⑷ 木村産業研究所の階上は、本件発生当時ダンスホールに使用されており、井戸は〔己〕の供述する箇所にあつて、直径一メートル位で、今次大戦前からあつたが、その終戦時には既に使用しておらず、木村産業研究所の者らは長いことその所在すら知らなかつた。同研究所の管理者は、本件再審請求がなされてよりこれを探し、同井戸傍の小屋を修理していた大工に教えられて始めてその所在を知つた程であつた。そして右小屋附属の便所は、終戦直後一時使用していたものである。
⑸ 原一審鑑定人古畑種基は、〔乙〕方屋敷内から木村産業研究所前に至る前記各血痕は、犯人の歩行にしたがつて、犯人自身或は犯人の携行物件から血液が滴下して生じたものであると認めることができるとしているから、前記路上血痕は被害者の血痕によるものとみてもなんら矛盾するところは認められない。また前記(5⑴)の〔乙〕は警察官が現場に来る前に表門の所に赴いたところ潜り戸は一尺三寸位(約三九センチメートル)開かれてあつたというのである。
⑹ 以上によると〔己〕が供述するところの「凶器を手に掴んだまま潜り戸から出て、別紙㈡のとおり右方(南方)へ曲り、進んでまた右方(西方)へ、さらにその先を右方(北方)へ曲り進んだが、血が垂れていたので垂れないようにしようとして、木村産業研究所の中に入つた。当時同研究所の階上にはダンスホールがあり、同ホールにはダンスをしにしよつちゆう行つていて、その際研究所の門から入つて約二〇メートル先の北方寄りにある小屋に附属している便所を使用したことがあつたから、その小屋の傍を抜け便所の裏(東側)の暗いところに行つたところ、そこに井戸があつた。」「そこで鞘代わりにしていた布を凶器に巻きつけて……同所を出た」(それから)「右方(北方)へ進み……茂森町に出た」という逃走経路は、当時の状況にまことによく符合するということができる。
 尚原一審検証調書(一回)によれば、〔乙〕方表門前の路上血痕のうち一点は門前の橋から北方九尺(二・七二メートル)のところに滴下していることが明かである。(別紙㈠参照)これは〔己〕が上申書で述べている「私宅には茂森町に向はずに弘前大学医学部の方向に行けば早いのですが、余り現場から近いと犬等使われると発覚する危険があるので、故ら遠回りをしたのです。」と述べているところから窺われる〔乙〕方門を出て北に行きかかつたが思い直して南に方向を変えて逃走したと思われる状況によく合致するところである。
7 〔乙10〕方内の血痕等[編集]
⑴ 昭和二四年八月八日午後一時頃那須方東隣りの弘前市在府町〔略〕〔乙10〕方屋敷内の玄関前敷石上に直径一ないし二・四センチメートルの血痕様斑痕六点、同屋敷内の南側(道路寄り)で那須方寄りにある笹藪(丈およそ一尺位―〇・三〇三メートル位)の中の笹の葉上に同様斑痕七点、那須方屋敷内で〔乙10〕方との境界となつているさわらの生垣附近の笹藪の中の笹の葉上に同様斑痕八点が、また同日午後二時頃に〔乙10〕方表門の東側に接する潜り戸の敷居上に同様斑痕二点が発見されたこと、右潜り戸には本件犯行の頃蔦がからみ、外部から一見しては潜り戸の存在が判明し難く、また同戸は錠をかけず常に開閉自由のところであつたこと、さらに〔乙10〕方と那須方との境にあるさわらの生垣の南端部分の周囲には、笹藪が繁り、その繁みに隠れて右道路からは望見できないが、右生垣には約二尺位(〇・六〇六メートル位)の間隙があつて、このため〔乙10〕方の笹藪の中を通り、この間隙を抜けると那須方屋敷内に達することができたことが認められる(別紙㈡参照)。
⑵ 鑑定人松木明作成の〔乙10〕方玄関前の敷石上の六滴の斑痕に関する昭和二四年八月三〇日付鑑定書によれば、右斑痕についてピラミドン反応試験、抗人血清家兎免疫血清反応試験が共に陽性を呈し、かつB型であることが、また同鑑定人作成の那須方と〔乙10〕方との境界垣根の附近から採取した小笹の葉上の斑痕に関する同月一五日付鑑定書によれば、右各笹の葉上の斑痕は、米粒の三分の一位の大きさで、赤褐色を呈し、一葉上に一個ないし数個附着していたが、これらはピラミドン反応試験、抗人血清家兎免疫血清反応試験において共に陽性を呈したこと、さらに原一審証人松木明および原二審証人〔丙〕の各供述記載によれば、〔乙10〕方潜り戸の敷居上の斑痕は、松木明において検査したところ、右各反応試験において陽性を呈したことがそれぞれ認められる。
 しかしながら鑑定人古畑種基作成の昭和二六年一〇月一三日付鑑定書によれば、右笹の葉上の血痕様斑痕をとどめているものと解すべき笹の葉一四枚の表裏の各斑痕につき、ベンチヂン、ルミノール各反応試験をなしたところ、陰性を呈し、血液の附着を証明することができなかつたことが明かである。右松木鑑定と古畑鑑定とは時期的相違はあるが、古畑鑑定は、さらに笹の葉の特性にも留意し、種々の事例を設定して検討を加えてみたが、右陰性の反応につきなんら疑念を抱くべきところは見出されなかつたことから考えてみると、笹の葉血痕に松木鑑定には直ちには採用し難いものがある。
⑶ 司法警察員作成の昭和二四年八月一〇日付報告書および領置調書、弘前市警察署長作成の同月二〇日付鑑定嘱託書控および鑑定人松木明作成の那須方便所附近の石上の斑痕に関する同月三〇日付鑑定書によれば、昭和二四年八月一〇日午後一時頃那須方便所附近の石上より直径約〇・三センチメートルの血痕様斑痕一点が発見されたが、鑑定の結果右斑痕は血痕でないと判定されたことが認められる。
⑷ 司法巡査作成の昭和二四年八月一四日付報告書および司法警察員作成の領置調書、弘前市警察署長作成の同日付鑑定嘱託書、原一審証人〔乙27〕、同那須とみ、同松木明、同〔乙28〕、同〔乙29〕および原一、二審証人〔丙〕の各供述記載ならびに鑑定人松木明作成の覚仙町〔乙29〕方裏―那須方裏でもある―の石上の血痕に関する昭和二四年八月三〇日付鑑定書によれば、昭和二四年八月一四日午後三時頃捜査中の警察官が那須方裏より通じる覚仙町〔乙29〕方裏出口附近にあつた漬物石上に小豆粒大の血痕様斑痕一点を発見し、これにつき鑑定の結果前記各反応試験は共に陽性を呈し、かつB型と判定されたことが認められる。
⑸ 鑑定人〔丙3〕および平嶋侃一共同作成の昭和二四年九月一二日付鑑定書は、路上採取の血液、敷石の血痕、那須方裏の血痕について鑑定したものであるが、右の対象となつた血液ないし血痕が前記に発見された血痕ないし斑痕のうちいずれのものであるか、またそれらとは別個のものであるかについて十分に特定できず、血痕反応は陽性であつたとしながらも、いかなる種類の反応試験をしたのかについては記載がなく、また原審取調の〔丙3〕および平嶋侃一作成の昭和二四年一〇月一九日付報告書によれば、抗人血色素沈降素反応試験は、沈降素の沈降価が酷暑に左右されたのか低くなつて、右各検査対象はすべて疑陽性を呈し、人血とも獣血とも判定できなかつたことが認められる(原審証人船尾忠敬の供述記載によれば、かかる場合通常反応は陰性の意味に解すべきであることが知られる。)。
 だとすると〔丙3〕・平嶋鑑定中右各検査対象につき、B・M型或はB型の反応を呈したとの鑑定結果は重要性を認めない方が妥当である。
⑹ 以上の検討結果を総合すると、〔乙10〕方屋敷内の玄関前敷石上および那須方裏より通じる〔乙29〕方裏の漬物石上にB型の人血痕が、また〔乙10〕方潜り戸の敷居には人血痕が夫々附着していたことが認められるのであるが、これらが被害者の血液に由来するものかどうかということについては直ちに断定し難い。
 原一審検察官は、犯人が所持していたジヤツクナイフの折込み溝に溜つていた被害者の血液が、〔乙10〕方右敷石上に犯人が立止つた際滴下したものとの推測を立てているが、それならば木村産業研究所前から〔乙10〕方までの間はおよそ二〇〇メートル程の距離があるが、その間に現場から木村産業研究所までの場合と同様必ずやいく滴かの血液の滴下はあつて然るべきである。ところがその間には一滴の血痕も発見されず、木村産業研究所前でぶつつり杜絶えていた。これは〔乙10〕方血痕等が被害者の血液に由来するものではないことを明らかに示しているとみるべきであり、それは同時にまた〔己〕が「血が垂れていたので垂れないようにしようとして木村産業研究所の中に入つた」(門から入つて)「小屋の傍を抜け、便所の裏(東側)の暗いところに行つたところ、そこに井戸があつた。……そこで鞘代りにしていた布を凶器に巻きつけて……同所を出た」(それから)「右方(北方)へ進み、突き当つて左方(西方)へ折れ、那須方前を通つて茂森町に出た」「木村産業研究所のほかには、途中立ち寄つたところはない」と供述していることが、極めて信憑性の高い供述であることを示しているとみることができる。
8 帰宅後の状況[編集]

 〔己〕は、自宅に戻り屋外の水道で手に着いた血を洗つたこと、居間に入つて休んだがそのとき〔乙25〕が店の方に寝ていたこと、また強姦致傷等の事件で警察署内に拘束されたとき、本件犯行の犯人ではないかということでも取調を受けたこと等を供述する。
原審証人〔乙25〕は、本件犯行当夜のことについて、〔己〕の右供述にそうごとく、〔己〕は午後一二時頃に帰宅し、水道で何かを洗つた旨の供述をなし、また〔己〕の父親と共に警察に呼ばれていつたときには、右状況を了知していたが、そのことには触れずに〔己〕は確かに家に居たと述べた旨を供述する。
原審身柄関係報告書、原一審証人〔丙6〕および原審証人〔丙7〕の各供述記載によれば、〔己〕は昭和二四年九月三日に逮捕された後弘前市警察署に留置されて強姦致傷等の事件について取調をうけたが、その際本件殺人事件についても同人が犯人ではないかということで取調をうけたこと、しかし〔己〕は本件殺人については頑強にこれを否認し、係捜査官は、〔己〕の家族や同宿人だけについて〔己〕のアリバイの調査を進め、その結果同事件の嫌疑はないものと判断したことが認められる。
これらのことから考えれば、証人〔乙25〕の前記証言には、原審が指摘するような前後矛盾する部分が認められないわけではないが、同人においても取調をうけた際〔己〕のアリバイについて不審を抱かせるような供述をしなかつたことが窺われるので、〔己〕帰宅の事実を同人が隠していた当時の記憶は残つていたとみても不自然ではなく、したがつて同証人の証言に暖味な部分があるからといつて、その全部について信用性が乏しいとすることはできず、また〔己〕のこの点の供述に信憑性がないということもできない。

9 その他の状況[編集]
⑴ 〔己〕の供述中「本件犯行の一〇日か二週間位前に〔乙〕方二階でミシンを修理したことがあり、その折二二、三才位の娘が二人いた」ということについては、原審取調の〔乙30〕(〔乙〕の五女)の検察官に対する供述調書の記載によりほぼこれを認めることができる。
⑵ 〔乙〕方表門の正面(西方)に同人方勝手口があつたことは、原一審検証調書㈠により明らかである。
⑶ 犯行の翌日「百石町にある映画館大和館に行き、その二階のスクリーンに向つて左側の便所内に右凶器を捨てた」と供述するところは、〔乙31〕の検察官に対する供述調書によれば、百石町にあつた松竹大和館は昭和二四、五年頃解体されていることが認められるので、今となつてはこれを発見するすべもないが、人夫頭としてこの作業に従事した〔乙31〕は、その際便壷(二階の便所のそれも一階の便所のそれと共通)から刃物が出てきたという記億はないと述べている。しかし作業の進行に伴い便壷は解体土砂等で埋没してしまうであろうし、捨てられた凶器も土砂に埋れたまま他に投棄されてしまうことは十分にありうることであるから、記憶がないということは、凶器がなかつたということにはならない。
⑷ 継母〔乙32〕に対し、差し入れの弁当箱に隠した紙片をもつて本件犯行のアリバイ工作をしたと供述するところは、原審証人〔乙32〕においてこれを否定している。しかし前記のとおり捜査官はその当時〔己〕のアリバイの捜査を進め、その結果嫌疑を抱くに至らなかつたという事情から推察すれば、それは〔己〕の右アリバイ工作が成功していたからではないかと思われるので、この点は寧ろ〔乙32〕の今更殺人という忌わしい出来事に巻き込まれたくないという思惑によるものか、さもなければ記憶違いではないかと推察されるので、〔己〕のこの点の供述に不信を問うことはできない。
⑸(イ) 原審証人〔乙33〕の供述および原審押収にかかる書簡二四通によれば、〔己〕は前記強盗傷人事件で秋田刑務所拘置所に留置されていた頃から、自分のこれまで歩んで来た罪深い過去を反省し、「生」に対する真剣な悩みがキリスト教を信仰することによつて救済されることを知り、偶々知り合つた修道女との間に文通を重ね、その間本件をにおわせるような「このまま打ち明けないでかくし通したとき死後の運命はどうなるか」といつた質問を出して教えを乞い、贈られた聖母マリヤの像を肌身離さず持つて朝晩祈りを捧げ昭和四六年三月七日宮城刑務所を出所するまでこの文通は続いていたことが認められる。
(ロ) 原審および当審証人〔乙26〕の供述によれば、〔己〕が服役中の昭和四六年二月頃宮城刑務所内病舎に入所していた折、同じ病室内にいた〔乙26〕らに対し、本件犯行の真犯人が自分であることを告白したことが明らかである。
(ハ) 〔己〕が告白までの経過として、自分に代つて那須が無実の罪で服役していることに悩み、これを解決しようとしてキリスト教に救いを求め、修道女と文通を重ねていたと述べていることは、証拠によつて裏付けられるのであり、告白の動機に必ずしも不自然な点は認められない。
⑹ 〔乙2〕の検察官に対する昭和二四年八月三一日付供述調書、原一審取調の実況見分調書、検証調書の各記載によれば、本件犯行によつて被害者の下着が乱された形跡は全くなく、また家の中を物色された形跡もなかつたことが明らかであるから、この点は〔己〕の供述に符合する。
10 まとめ[編集]

 以上〔己〕の供述の信憑性について、該供述と関係の全証拠とを対比しつつ検討してきたが、その結果は、本件発生以来長期間を経過しているため、忘却或は記憶の不鮮明な点は多少あるとしても、全体としては証拠によつて認められる客観的事実とよく符合し、殊に被害者の刺創の状況、逃走経路、血液滴下の状況などは、供述と微妙に合致し、その信憑性は極めて高いものであることが認められるのである。

11 原決定の検討に対する考察[編集]

 原審が〔己〕の供述を検討するに当り「注意を要することは、当審証人〔乙26〕の供述記載によつても明らかなごとく、〔乙26〕は宮城刑務所内で〔己〕から本件殺人事件の真犯人は同人であるということを聞いた後同刑務所より出所し、昭和四六年四月末頃に、既に同様出所していた〔己〕と同事件について話をし、次いで弘前に赴いて図書館等で新聞記事等を調べ、また請求人から事件記録など関係書類を借り受けることがあつて、これらにより同人は本件殺人事件についてかなりの知識を得たであろうことが推測され、また同人が右知識を得た後も何度か〔己〕に対し同事件のことを質しているということである。したがつて〔己〕の供述内容が右〔乙26〕の知識に由来するところなしとはたやすく云い難いところであるから、その供述が証拠と一致することをもつて、軽々に〔己〕を真犯人なりと判断することはできず、さらに諸般の情況に照らしその信憑性の検討を尽さなければならない」としているので、先づこの点について考察するに、

⑴ 原審および当審証人〔乙26〕の供述記載によれば、「病舎で〔己〕が人を殺したということを真剣に話したが、自分は半信半疑であつた。それは一回だけのことであつたが、〔己〕の話では身寄りもなく出所後の生活の目処もないというので、本人の更生に手をかしてやりたいと思い、自宅の電話番号を教えた。昭和四六年四月二五日出所したところ、〔己〕も迎えに来てくれていたので驚いたが、家族の者と一緒に連れて自宅に案内した。そこで〔己〕は二〇何年か前の夏弘前で教授夫人を殺した。自分は別の事件で逮捕されたので嫌疑がかからず免れたが、その代り外の人が逮捕されて服役してしまつたと話した。そのときも自分は半信半疑であつた。出所した者は暫らくは解放感に浸つてどこにでも出歩きたくなるものである。自分は旅が好きなので、弘前は始めてのところであり、観光をかねて〔己〕の話が本当かどうかを確めてみようと思い、同月二八日夜行で弘前市に出かけた。駅に降りて駅前の市場や街の食堂に入り、年輩の人を捉えてはそれとなく事件のことを聞いてみた。その中で那須という人が犯人だという話が出て、那須の家を聞き尋ね歩いて同人の昔の家の隣家に住む〔乙34〕に会つた。同人は、那須が犯人であつたが、一見ボケツとした感じで人殺しをするような人ではないのだという話を聞かせてくれた。その日はその程度聞いただけで帰つたが、やはり〔己〕のいうような事件はあつたのだなと確信がもてた。それでもつと詳しく聞くため〔己〕に会つた。メモは取らなかつたが、もう少し調べてみることにした。〔己〕は犯行現場附近の地図、逃げた道順を書いて説明した。同年五月二、三日頃また一人で弘前に出かけた。〔乙34〕方を訪ね事情を聞いたところ、図書館にでも行つて当時の新聞を見れば判るのではないかと教えられ、図書館に行き、昭和二四年八月の地方紙の綴りを出して貰い、そのうちの陸奥新報八月八日付の記事一部のみを見た。別にメモ用紙を用意して行つたわけでもないのでメモはとらなかつた。現場など判からなかつたが、木村産業という会社が判つた。その結果例えば、〔己〕は血だらけのまま表に飛び出し凶器を早く捨てようと思つて木村産業の井戸に行つたが捨てずに又逃げたというのであつたが、そこには井戸はなかつたし、その外にも相違しているところが沢山あつたように記憶している。しかしこれは本当かも知れないと思うようになつた。それで本職の弁護士に相談した方が良いと考え、丁度〔己〕が時効のことを心配していたので、そのことを聞くため、その頃仙台駅前の南出弁護士事務所を訪ねたが、まだ事件のことは話さなかつた。三回目は同年五月二八日頃で、その日は那須方に行き、同人の母に、このことは南出弁護士に調べて貰つた方がよいからと話して、風呂敷に包んだ裁判記録のようなものを預かり、夜行で弘前を発つた。夜汽車の中では警察犬のことが記載されている調書をばらばらめくつた程度で、あとは疲れて記録を枕にして就寝し、翌朝仙台駅に着き、まつすぐ南出弁護士事務所に右記録を持参し、同弁護士に預けた。その後NETテレビ局の人達と弘前に出かけたが、弘前に赴いたのはそれが最後であつた。自分がこのようなことをしたのは、〔己〕のいうことの真偽を確めることも勿論であつたが、自分は最初の罪で刑に服したとき、捜査官の取調が一方的で強権的であり、自分達のいうことは殆んど聞き容れて貰えないまま服役せざるを得なかつた苦い経験があつたので、〔己〕のいうことが本当であれば、那須もボケツとしていたというから自分と同様何もいえないまま服役してしまつたのではないかといつた同情の念が強く働いたと思う。本件をたねに金儲けしようと考えたことは全くないし、仮に本件をデツチ上げて金儲けを企んでみたところで、弁護士や裁判官、検察官に到底立ち打ちできる筈のものでもないこと位は誰にでも判ることであるから、そのような考えは毛頭なかつた。」概略以上の趣旨のことを供述しているのである。
 これによれば、〔乙26〕の知識は寧ろ〔己〕の供述を現地で確めるという程度の極めて消極的な知識でしかなく(相違したところが沢山あつたという記憶も〔己〕の供述と現地の模様の違いを記憶していたと思われる)、図書館で調べた新聞記事は前記の一部のみと述べてはいるが、同証人の証言中には同記事に記載がなく、他の新聞に記載されている事実に触れている部分があるので、同人は右一部にのみ現在も尚強く印象が残つていたものと思われ、これは同時に他の新聞記事に対する同人の関心の度合いの浅薄さを示すものと思われ、それも単に事件の真偽を確めるという大ざつぱなものでしかなく、那須方から預つた裁判記録は殆んど読んでもおらず、またこれらの知りえた事実を逐一メモしていたというわけでもないごとが明らかであり、それに〔乙26〕が〔己〕と共謀して架空の事実を作り上げる理由も必然性もないことについて、〔乙26〕が右に述べていることは十分に首肯できることであるから、原審が指摘するように「〔己〕の供述内容が〔乙26〕の知識に由来するところなしとはたやすく云い難い」とするところは、極めて疑問であり、にわかに左袒できない。
⑵ 原決定における「東側窓からの見透し」の項で、原審は「犯人が東側窓の下に立ち、室内の様子を窺つたかもしれないということは、犯行直後の捜査においてもかなり明らかにされていたところで、このことは当時新聞記事中昭和二四年八月一〇日付東奥日報に、松永教授が某氏に対して『凶行のあつた離れの窓下の草が一部踏みにじられている点から犯人が侵入口を探し離れの窓から内部をうかがつたものと推定される』と語つた旨の記事が掲げられていることや、原二審および当審証人〔丙8〕の供述記載、当審新聞記事中昭和二四年八月一〇日付東奥日報、同月九日および同月一二日付陸奥新報から、〔丙8〕が本件犯行後警察犬を使つて離座敷東側窓下の草の踏みつけられた跡の臭いを頼りとして、二回にわたり犯人の足取りを追跡したが、これについては新聞記者等において関心を抱いていたところであつたことが認められることによつても窺われる。したがつて右〔己〕の供述するところは、〔乙26〕の入手したであろう資料にかんがみれば必ずしも真犯人でなければなし得ないというほどのものではない」としてこの部分の〔己〕の供述の信憑性に疑問を投げているが、〔乙26〕がそのように本件の微細な点まで立ち入つて丹念に調査し、これを記録して帰つたという証拠は全くない。昭和四六年五月二、三日頃の朝弘前市に着いた〔乙26〕は、〔乙34〕方に行き、図書館で新聞を調べ、〔己〕から地図を書いて説明された現地に当つてこれを調査し、その日の夜には弘前市を発つているのである。このような〔乙26〕が「犯人が東側窓下に立ち、室内の様子を窺つた」ことまで調べ上げて〔己〕に教示したということは到底考えられることではない。この点は寧ろ〔己〕の供述が真犯人でなければなしえない程客観的事実に符合しているとみるべきである。
⑶ 次に「引き戸の施錠」の項で原審は「犯人の侵入口が縁側の引き戸であることを新聞が詳細に報じているところであるので、〔己〕の供述が証拠との関係において符合することをもつてたやすく同人を真犯人と断定するには至らない(当審新聞記事中昭和二四年八月八日付東奥日報―殊にその掲載図参照、同日付陸奥新報参照)。」としている。〔乙26〕が右陸奥新報を閲読していることは事実であるが、もともと果して〔己〕のいう事件があつたかどうかという大ざつぱな調査を目的として出かけている〔乙26〕であつてみれば、そのような微細な点まで事実を確めて〔己〕に教示したということは到底考えられない。この点の〔己〕の供述に合理的な疑いを挿む余地はないというべきである。
⑷ 更に「縁側の巾員」の項で原審は「〔己〕の右縁側の巾の点に関する供述は、およそ原審の裁判記録とか、〔乙26〕の前記調査などからは容易に知りえないところに関する供述として極めて信憑性の高いものというべきところであるが、ただ右当審検証㈠の際には、右曳家をした〔乙47〕が縁側部分の改造の点を指示説明したりしているので、〔己〕の右供述には全く他からの影響がなかつたとは即断し難い面がある。」としている。しかし当審における証人〔己〕の供述によれば、同人には右の点について他からの影響は全くなかつたことが明らかであり、他にこれを覆すに足る証拠はないから、この点の供述は寧ろ信憑性を高めるものとみるべきである。
⑸ 本件凶行ならびに被害者の創傷および成因に関しての証拠と〔己〕の供述が微細に符合していることは前記のとおりである。原審は、刃が自分の方に向いていたとする〔己〕の供述に証拠との相違点を指摘するが、この点も供述と刺創の状況との間に矛盾がないことは前述のとおりである。
 潜り戸までの逃走の状況についても、供述と証拠がよく符合していることは前述のとおりである。
 なお原審が服装の点にふれて「〔乙2〕が目撃した犯人のズボンに関してはその頃の新聞においては、『半ズボン』(当審新聞記事中昭和二四年八月八日付東奥日報)『白の半ズボン』(同月八日付陸奥新報)、『黒の半ズボン』(同月一〇日付陸奥新報)などと報道されていて、〔己〕がズホンを黒と供述したのは、右記事等に影響されたともみられる反面『半ズボン』の点において供述を合わせようとすれば極めて容易なところと解せられるにも拘らず、敢えて『長ズボン』と供述する点は、作為のない点を窺わせるものとみられないではない。」と説示していることは、同時に〔己〕の供述全般の信憑性を検討するに当り注目すべき点である。
 更に原審は「本件凶行および潜り戸のところまでの逃走の状況」の項で「軽々に断ずることはできない」としながらも、結局「〔己〕が前記関係証拠の内容を了知する機会がなかつたとすれば、右供述の信憑性は極めて高い。」としているのである。〔己〕が証拠の内容を微細な点まで了知する機会がなかつたことは一件記録上明らかであるから、その供述の信憑性は極めて高いことに帰するといわなければならない。
⑹ 原審は「逃走経路」の項で、「〔己〕の供述するところの『凶器を手に掴んだまま潜り戸から出て右方(南方)へ曲り……血が垂れていたので垂れないようにしようとして木村産業研究所の中に入つた』(そして同所内で)『布を凶器に巻きつけて……同所を出た』(それから)『右方(北方)へ進み……茂森町に出た』という経緯はまことによく符合するものということができる。」……「しかしながら、右路上の滴下した血痕の状況についても……当時の新聞記事は詳細であり、……すなわち『犯行現場から同町木村産業研究所前まで約百米の間に点々として残つている血痕は……』(当審新聞記事中昭和二四年八月九日付東奥日報)、『木村産業研究所前で止つていた血痕をさらに北方に延びた同町某家入口の庭石から発見』『同町沖中益太氏前の空地にあるふだん使用していない古井戸にかけているむしろが半分程ずれていることから、凶器を捨てた場所とも推定されるので』(同月一〇日付東奥日報)『血痕は屋敷内に三個、門を出て〔乙9〕さん宅に至る七十米の道路上に点々と十九個認められ、最後の血痕が一か所に七個も集まつている』(同月八日付陸奥新報)、『道路上に残した血痕は更にのびて凶行場裏手の木村産業研究所前コンクリート道路上に二滴及び四ツ角〔乙35〕氏宅前に一滴の血痕が新たに発見された』(同月九日付陸奥新報)、『木村産業研究所向い空地古井戸の井戸水の科学品鑑定を進める一方、井戸水をカイたが凶器らしいものは発見されなかつた』(同月一〇日付陸奥新報)、『在府町空地古井戸(警察犬がぐるぐる廻つて動かず)』(同月一二日付陸奥新報)等の新聞記事がみられるのである。したがつて〔己〕の供述する逃走経路(木村産業研究所内に入つた点を除く)については、一応新聞記事によつても判明していたところであり、また血痕の滴下についても殆んどが〔乙9〕宅前までであることによりみると、木村産業研究所前の滴下をもつて最後とし、以後発見しうるような滴下は生じ得なかつたと解することができるとすれば、必ずしも〔己〕の供述するごとく、木村産業研究所附近で凶器の後始末をしなければ、附近の状況に比べて不合理とも云い難い。したがつて〔己〕の逃走経路に関する供述(木村産業研究所に入つた点を除く)は、必ずしも真犯人でなければなし得ないというものではない。」としている。しかし〔己〕が新聞記事に由来する知識で供述を作り上げたものでないことは、ズボンの記事に照らしても、また〔己〕のいう井戸と当時捜査された古井戸とは遠く離れて全く場所を異にしており、〔乙26〕の調査してきた井戸とも相違していたことからも明らかなことであり、血痕の滴下は木村産業研究所前を最後としていたことは前記のとおりであるから、〔己〕が木村産業研究所の井戸で血が垂れないように凶器に布を巻いたと述べていることも証拠の上で矛盾はないのである。したがつて〔己〕がこの点について架空の事実を作り上げたとするような疑いは証拠上全くない。また原審は「〔己〕のいう井戸が、当時存在していたことは明らかであるが、しかし同人は木村産業研究所階上のダンスホールには本件犯行の二、三か月前から『しよつちゆう』行つていて、その際右便所を使用したことのあることを供述しているところである……から、同人において本件犯行前右小屋の便所を使用した際これを知る機会があつたとみる余地はある。」として〔己〕がそのとき始めて古井戸のあることを知つたという供述の信憑性に疑問を投げているが、〔己〕に若し自分の供述に信憑性を持たせたいと思うならば、警察犬が立ち止つて動かなくなつた古井戸が遠く離れた別の場所にあつたのであるから、その井戸を持ち出せばよかつた筈である。ところが〔己〕にはその供述全体から窺われるようにそのような素振りは全くみられないのであるから、この部分の同人の供述も、当時の記憶をありのままに述べているとみるのが妥当である。
⑺ 以上これを要するに、原決定が〔己〕の供述の信憑性を検討し、これに疑問を投げているところはすべて理由がないことに帰する。
㈢ 原二審判決の検討[編集]
1 認定事実[編集]

  原二審判決が認定した「罪となるべき事実」は次のとおりである。
 「被告人は精神医学上いわゆる変質状態の基礎状態である生来性神経衰弱症であつて、変質的傾向とみられる性行があつた。かつて深夜熟睡中の友人の枕元に立膝して、その首を締めつけ、君は寝首をかかれても判らないよと言つたり、強て新婚の友人夫婦と同室に寝たり、好んで夫不在中の他人の妻を訪ねて食事をしたりなどした。また音をたてずに戸障子をあけたり、歩いたりする方法や、相手を熟睡させる方法を話したり、証拠を残さずに人を殺せると話したりなどしたこともあつた。
 被告人居宅から三町足らずの弘前市大字在府町〔略〕〔乙〕方離座敷に、国立弘前大学医学部教授医学博士松永藤雄が、美貌の噂ある妻〔甲〕(当時三十年)及び子供二人と住んでいた。被告人もワンピースにサンダル姿の〔甲〕夫人を見たことがあつた。
 偶々昭和二四年八月三日約一週間の予定で松永教授は療養相談所開設等の用件で、長男を連れて酸ケ湯温泉へ赴き、〔甲〕の実母〔乙2〕が泊りに来て居た。同月六日夜は蒸暑い晩で、右離座敷階下十畳間に蚊帳を吊つてその中に、縁側に近く〔甲〕、次に長女、実母の順で二燭光の電燈をつけたまま寝に就いた。午後十時過頃昼の疲れでガラス戸の施錠も忘れたものの如く一同熟睡に落ちてしまつた。
 同夜十一時過頃、被告人は右寝室にこつそり入り、〔甲〕の右側枕元にしやがむように前屈みになり、殺意を以て所携の鋭利な刃物で仰臥している〔甲〕の左側頸部を、右から一突きに刺して左側総頸動脈等を截断し、因つて同女をしてその場で出血による失血のため間もなく死亡するに至らしめたものである」。

2 有罪認定の理由[編集]

 原二審判決は、右事実を認定するに当り、その証明十分ならずとのみ説明して無罪を言渡した原一審判決に対し、「当裁判所の審査したところによれば、たやすく原判決の如き結論に到達することはできないのであつて、原判決には重大な事実の誤認があるものと謂わざるを得ない」として次のとおり述べる。即ち

⑴ 原審第四回公判調書中証人〔乙2〕の供述記載によれば、本件犯人は犯行当時白い開襟シヤツを着ていたことが明かである。而して原審鑑定人古畑種基、同三木敏行、同木村男也、当審鑑定人村上次男作成の各鑑定書の記載及び当審第二回公判調書中証人古畑種基の供述記載によれば、被害者〔甲〕の血液はB、M、Q、E型であり、被告人の血液はB、M、q型であること、被告人が本件の頃も着用していたことを自認する海軍用開襟シヤツ(証第三号)に附着している血液はB、M、Q、E型であり、その附着時期は被害者〔甲〕が殺害されて血液が流出した時それが畳表(証第二十二号)に附着した時期と時間的間隔が認められないこと、以上の場合他の諸条件を考慮の外におき、右開襟シヤツの血液は被害者〔甲〕の血液が附着したものであるとみる確率は九八・五%であること、しかるに被害者〔甲〕は総頸動脈を切断されたものであり、右開襟シヤツ附着の血液の大部分は、その位置、形、量からして動脈から送出した返り血をあびたものとみられるから、右の確率は更に大となり、B、M、Q、E型の血液の人が被害者〔甲〕以外に何人あろうとも、その誰かが本件犯行時刻頃被告人の傍に居て、しかもその動脈から血液を噴出させて、被告人の着ていた右開襟シヤツに血痕を飛散させたものであるという立証がつかない限り、右開襟シヤツ附着の血液は被害者〔甲〕の血液であると推定されることが認められる。
⑵ しかるに被告人は、犯行当時のアリバイを主張し、それが次々に崩れるや、当時の記憶は一切空白なりとうそぶき、三転して当夜は外出したことなしと言い、而して問題の海軍用開襟白シヤツ(証第三号)については、血痕の附着している筈なしと強弁するのみで、これに対する合理的説明をなす能わず。
⑶ かくて前記推定を覆すべき証拠は何等ないのみか、却つて後記自判の際の証拠説明に詳記する如く、前記確率を全きものにし、推定を認定に高める他の諸条件が具わるのである。即ち
(イ) 被告人が本件の頃も穿いていたことを自認する白ズツク靴(証第二号)に噴出飛散したB型と思われる人血の細滴が附着していること、
(ロ) 被害者方から被告人方隣家に到るまでの道路上及び隣家宅地から被告人方へぬける部分の境界生垣の笹の葉上に、合計約三十余滴の小さな血液滴跡が発見され、それは全部人血で検定可能のものは皆B型と判定されたこと、
(ハ) 犯人を目撃した被害者の実母〔乙2〕は、被告人を面通しで見た時、被告人が犯人と全く同じであり、卒倒するように感じた程であること、
(ニ) 本件犯行の時刻の前後、被害者方附近で開襟らしい白シヤツを着て半ズボン様のものを穿いたしかも被告人の歩き方の特徴である内股に歩き、殆んど足音をたてない被告人に似た男に出遭つた証人が数人あること、及び
(ホ) 被告人自身も警察で、私は本件八月六日の夜十一時二十分に帰宅したが、それ以後何処かで私を見た者があればそれを認めるし、又被害者の実母が私であるというのであればそれも認める旨、私は記憶のない点と証人のことで困つているが、裁判の結果無期懲役になろうと何うなろうと裁判長の認定に任せ、控訴する気持はない旨自供していること、

等の諸事実が存するのである。
以上を総合して考えると、本件犯行の犯人は被告人なりと断ぜざるを得ない。」としている。(符号は当裁判所において付したものである)

3 確率を支持する諸条件の検討[編集]

 原二審判決が、那須に対する本件殺人事件について、有罪を認定するに至つた有力な根拠となつたものは、本件白シヤツ附着の血痕が、被害者〔甲〕の血液と同じ血液型の血痕であつたということである。そして同判決は、この血痕が本件犯行によつて附着したものと認定するに当り、べイーズの定理を応用し確率九八・五%の数値を根拠として、これにその挙示する前記(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の諸条件を認定したうえ、「前記確率を全きものにし、推定を認定に高める他の諸条件が具わ」つたとしているのである。
 そこで先づ右認定の諸条件について検討を加える。

⑴ 白ズツク靴(以下本件白靴という)の血痕について
  この点につき原決定がその挙示する証拠によつて認定するところは、すべて当裁判所においてもこれを首肯することができ、その結論も是認できる。その概略を述べれば次のとおりである(当審事実認定の証拠は挙示するもの以外は、原決定の当該認定事実に挙示する証拠をそれぞれ引用するものである。以下同じ)。
(イ) 本件白靴は、那須の父〔丁2〕が履き古して放置していたものであつたが、那須はこれを昭和二四年七月上旬頃靴修理業〔乙8〕に修理を依頼し、一週間位後に修理を終えて受け取り、以後これを常用し、本件犯行のあつた同年八月六日の頃も履いていた。そして同月二一日午後四時頃弘前亀ノ甲町〔略〕、〔乙4〕方を訪ねたときもこれを履いていたのであるが、同日午後九時頃同人方より帰宅しようとしたところ雨が降ついたため、本件白靴を同人方に預けて下駄を借りて帰宅した。同日午後一一時頃警察官〔丙4〕は〔乙4〕方を訪れて本件白靴の紐に血痕らしいものが附着していることを発見し、翌二二日同靴を領置した。その際における本件白靴は、左右両足とも前底は合成ゴム様のものであるが、踵は皮革であり、いずれの踵もその半分位に皮をつぎあてて修理した跡があつた。またいずれの後端にも摩滅を防ぐ鉄片各一箇(ほぼ扇状で最長の対角線は約三・五センチメートル)が打ちつけてあり、また各上部は、白色のズツク靴で靴紐を通す金属環が五箇づつ二列に並び、そこに一本の紐が通してあつた。また左足の靴の前底で栂指があたる部分には、長径約四・五センチメートル、短径約三センチメートルの隋円形状にゴムが貼りつけて修理されてあつた。右靴の状況からすれば爪先立つて歩けば兎も角普通に歩行する限り、敷石とかコンクリートなどの固い場所を歩くときには、踵の鉄片により音を発することが推測されるものであつた。
(ロ) 昭和二四年八月二四日付弘前市警察署長からの鑑定嘱託に基づき鑑定を実施した鑑定人引田一雄は、本件白靴の斑痕からは人血反応を認めなかつた。前記〔丙3〕、平嶋鑑定(昭和二四年九月一二日付)においても、血痕であることの証明はできなかつた。
(ハ) ところが鑑定人松木明および〔丙〕共同作成の昭和二四年一〇月一九日付鑑定書によると、別紙㈢に示す左足の靴において、ウ点に人血にしてB型を、う点に人血を、そしてあ、い点に弱い血液反応をそれぞれ認め(イ点については原審認定の理由によりその鑑定結果は採用できない)、右足の靴において、ハ点の斑痕のうちウ点につき人血を認めたのである(ア、イ、オの三点については原審認定の理由により鑑定結果は採用できない。)しかしこの鑑定に先き立ち松木明医師は前記引田鑑定の実施前即ち同年八月二二、三日頃に本件白靴を嘱託に基づき鑑定しているのであるが、同医師によつて作成提出された筈の鑑定書は、原一、二審の審理の過程において問題とされながら、遂に公判に提出されなかつた。
(ニ) 古畑鑑定㈠(昭和二五年九月二〇日付)によれば、いずれの部位においても血液の附着は証明できなかつた。
(ホ) 以上の各鑑定結果を総合して、原決定が「本件白靴には人血痕の附着を証明するものは、なんら存しないことに帰するから、同靴の附着物をもつて請求人の有罪認定の根拠とみることは、当裁判所の採り難いところである。しかも本件白靴を履いて本件犯行現場(離座敷)南側の庭の飛び石を走れば、踵の鉄片から容易に音を発するものと推測され、この点は〔乙2〕の前記供述………とは齟齬を来すところであつて、結局同靴の存在をもつて本件罪証に供することには疑問がある」とする判断は正しい。当審事実取調の結果も右認定を左右するものではない。原二審判決が挙示する(イ)の条件は否定されなければならない。
⑵ 那須方隣家の血痕、隣家から那須方をぬける部分の境界生垣の笹の葉上血痕について
  この点については、前記第二、二、㈡7の項で説示したとおり、これが被害者の血液に由来したものとは直ちに断定し難く、寧ろ笹の葉上のものは血痕であることが否定されたことよりみれば、那須が犯行後生垣をくぐり抜けて自宅に戻つたとする推理は成り立たなくなるので、原二審判決の挙示する(ロ)の条件も否定されなければならない。
⑶ 〔乙2〕の供述について
  原一審証人〔乙2〕は、犯行にみた犯人は那須に間違いなく、面通しでみたときには、同人が犯人と全く同じであり卒倒する様に感じたほどであつたと述べ、同人の検察官に対する供述調書(一、二回)では、犯人の横顔と後姿をみている。今でも犯人の横顔や後姿をみれば、その人が犯人であるかどうかの判断がつくと思うと述べた後、その供述の日と同じ日に中津軽地区警察署写真室の硝子窓から那須を透視し、犯人とそつくりである、右側からみた横顔の輪郭も全然同一である。頭髪が少しもつれて前に出ている格好、また後姿、胴の細さ、肩のさがつているところも全く同じで、犯人と酷似していると述べている。
  しかし同人は本件犯行後間もない頃に作成された司法警察員に対する昭和二四年八月八日付供述調書では、その晩は寝るとき二燭光の小さな電気をつけていたので、娘を殺した犯人の顔は殆どみえなかつたが、服装だけは大体みたと述べているのであつて、これによると、同人は結局犯人の輪郭から受けた印象をもつて那須を観察したに過ぎないことが知られる。それでいながらかくまでに断定的なことを供述するというのは、那須が容疑者として検挙された以後における同人に対する憎しみが強く働き先入感に大きく左右された疑いか極めて濃厚であるといわなければならない。原二審判決の挙示する(ハ)の条件は、それほど確実性のあるものではない。
⑷ 目撃者について
  原二審判決は、目撃者として原一審証人〔乙12〕、同〔乙13〕、同〔乙14〕、同〔乙15〕、同〔乙16〕、同〔乙17〕、原二審証人〔乙11〕の各供述記載を、また那須の歩き方は内股で特徴的であることを証するものとして、原一審証人〔乙18〕の供述記載を挙示しているのであるが、右目撃者らが、原一審或は原二審で供述しているところは、その男は内股であつたとか、白シヤツ半ズボンを着て白ズツク靴を履いていたとか、丈は五尺四寸位、肩のなで型の格好は那須に似ている、とかいう程度であつて、那須であると特定するまでには至つていないし、又各証人の目撃時間などもまちまちで極めて暖昧である。したがつて右目撃者の証言を那須が犯人であるとするための積極的な証拠とするには非常な疑問がある。原二審判決が挙示する㈡の条件もそれ程積極的な証拠価値のあるものではない。
⑸ 那須の供述について
(イ) 原二審判決が条件の一つとして挙示している那須の供述および関係証人の供述は、
a 那須の司法警察員に対する昭和二四年九月三日付第一回供述調書中の「私が八月六日の夜一〇時(判文中一一時とあるのは一〇時の誤記と認める)二〇分に家に帰つているが、若しそれ以後他の何処かで私を見た人があればそれを認める。又被害者の母が私であるというのであればそれも認める。」旨の供述記載
b 同人の司法警察員に対する同年九月八日付第二一回供述調書中の「私はこれまで殺人事件で色々取調をうけているが、私の記憶のない点と証人のことで困つている。裁判の結果無期懲役になろうが何うなろうが裁判長の認定に委せる。控訴する気持はない。」旨の供述記載
c 原一審証人〔丙2〕の供述記載中の「本件発生後満一月目の晩夕食後一応取調べたいと思い被告人の所へ行くと、被告人は今晩だけは何も聞いてくれるなと言つた。被告人は悲愴な顔をして月を眺め頭を垂れて取調べないように言つた。」旨の供述記載部分がある。
(ロ) そこで右各供述の趣旨を検討すると
a 右(イ)、aの供述記載部分は、その供述調書をみると「八月六日は午後七時三〇分頃自宅を出てから公園に月をみにいつた。午後一〇時二〇分頃帰つて寝た」と述べ、次いで「右時間の点は不確かである」と述べ、さらに「よく考えてみると同日の午後一〇時二〇分には家に帰つていた」と繰り返えし述べた後の供述記載であるから、それが犯行の嫌疑を容認した態度を示したものとするには疑問がある。原一審で取調べた丙作成の「所感」と題する手記によれば、右挙示の供述は係捜査官から「君が捜査の立場になつて逆に考えれば、容疑者よりも他人の証言を信用しないわけにはいかないだろうと詰寄られ、それは自分が取調べの立場なら或程度は信用するという風にいつたのが、私が自ら認めたことであるという風に書れた。それは立場を逆にした時である旨の了解と妥協のつもりと、自分が知つたことでないからそんなものはどうでもよいという気持でいた。」と弁解しており、右調書の供述録取者と同一人の録取にかかる那須に対する昭和二四年九月四日付供述調書中には「私はピストルは持つて歩いて見せたことはありますが、匕首やジヤツクナイフを持つて歩いたことはありません。若し私がジヤツクナイフを持つて歩いたというのを見たという人があれば私はそれを認めます。」という同様な供述記載があるところがらみれば、ジヤツクナイフの所持は勿論犯行自体を否認している那須には、無実の自信が根底にあつたからどうでもよいという気持で他愛のない無責任な供述をしたということも考えられる余地があるのであつて、結局右aの供述記載部分をもつて犯行を容認した趣旨と解することはできず、これを有罪認定の証拠とする根拠は極めて薄弱である。
b 右(イ)、bの供述記載部分は、その供述調書中冒頭記載部分であるが、同記載の直後には、「八月六日の晩のことについては、今またお尋ねの様であるか、私は確か大和館に前編の四夜(四谷の誤記と認める)怪談を見るに参つたと思うが、もしも晩に行つていないとすれば六日の晩は一体何をしているのであるか私の頭に浮んで来るものはありません。」との記載があり、また右供述の翌日の同月九日付司法警察員に対する供述調書中には「八月六日の晩の自分の行動が自分に判らないとしても、私はその犯行とは全然関係ない。」旨の供述記載があるのであつて、これらに照すと右bの供述記載部分は決して犯行を認める趣旨で述べたものとは認められない。寧ろこの供述も前項で述べたと同様他愛のない無責任な供述をしたとみる余地が十分にあるからこの供述も有罪認定の資料とするに足りない。
c 次に右(イ)、cの供述記載部分に続いて、同証人〔丙2〕は「自分はその時那須が犯人でないか、おそらく良心の呵責から何もきかないでくれと云つたと考えている」と供述しているのである。しかし「本件発生後満一月目」というのは、同証人の供述によれば、那須の供述を同証人が録取した昭和二四年九月六日付供述調書作成以前のことであることが窺われるところ、同調書をみると、那須の供述として「八月六日のことについて、これまで色々嘘を申し上げ誠に申し訳けありません、これから正直に申上げます」とある部分に続いて「この時午後八時四五分被疑者は室内から事件発生後一か月犯行当夜の月を眺め全く善に立帰つた表情を見せ、今度は謝りますと過去の罪悪を今此処に自白せんとの態度で本職に申立した」と記載されているところは、前記(イ)、cの供述記載部分とよく符合しているのであるが、同調書の右記載部分のあとの内容は、右証人が那須から受けた印象とは全く逆に、八月六日の晩は映画館えいつて午後一〇時過頃戻つた旨述べて、犯行を否認していることに変りはないのであり、これよりみても同証人が那須について印象を語るところは、単に同証人の思い違いとしか思われない。那須は原審公判で「今夜だけは取調をしないでくれと云つた記憶はないが、休ませてくれといつたことはある。悲愴な顔をしたことはない」と述べており、原一審証人〔丙2〕も前記(イ)、cの供述記載部分の証言後、同公判で前記のように一応取調をしようとしたところ、「那須が気持が悪いから」また「健康を害しているということであつたから取調べなかつた」と証言し、これは那須の右供述に符合するのであつて、同人が右証人のみるところの「悲愴な顔」をした原因というのは、那須の健康状態にあつたものと解する余地が十分にある。したがつて右(イ)、cの供述記載部分も有罪認定の証拠とするには不適切というほかはない。
⑹ まとめ
  以上を要するに、前記確率を積極的に支持するものとして原二審判決が挙示するところの前記(イ)、(ロ)、(ニ)、(ホ)の諸条件は右に認定したとおりすべて採用し難い諸条件であることが明らかでである。
4 本件白シヤツの血痕について[編集]
⑴ 本件白シヤツは、昭和二〇年中の戦後間もない頃那須が大湊に赴いた際偶々貰い受けたもので、そのときに既に中古品でありしみも処々についており、母とみおよび妹〔丁3〕において何回となく洗濯をしてきたが、本件発生の頃以後洗つたという記憶はなく洗濯をした際に、貰つてきたときからついていた汚点のあることは判つていたが、血痕様の汚点については気が付かなかつた。那須は貰い受けた以後これを作業用として本件発生の頃も着用し、昭和二四年八月二二日には午前八時頃からこれを着て自宅庭の松の木の手入れをしていたところ、警察官から弘前市警察署まで来るように云われたため、同シヤツを脱いで同人方玄関から入つて右側八畳間の東側に接した六畳間の鴨居に打ちつけてあつた衣服掛けにこれを掛けて着替えのうえ、同署に出頭したが、その後同日午後四時一五分から一時間にわたつて警察官により家宅捜索がなされ、本件白シヤツが右衣服掛より押収されたもので、日頃は物置小屋の傘などが置かれている入口のところに掛けて、松の木の手入れをするときにこれより出して着ていたものであつた。
⑵ ところでこの白シヤツに原二審判決が認定するとおり、被害者〔甲〕の血液型と同じB、M、Q、E型の血痕が附着していたことは、原審がその挙示する証拠により詳細認定するところで、この認定は当裁判所においてもこれを首肯できるところである。
⑶ 原一、二審および当審証人引田一雄、原二審証人平嶋侃一の各供述記載、引田一雄作成の昭和二四年九月一日付鑑定書、〔丙3〕、平嶋両名作成の同月一二日付鑑定書、同年八月二二日付捜索差押許可状、捜索調書、差押調書、同月二三日付捜索調書、差押調書、同月二四日付捜索、差押許可状、同月二五日付領置調書、同月二四日付弘前市警察署長より引田一雄宛鑑定嘱託書の各記載によれば、弘前市警察署では、同年八月二二日丙宅より海軍用開襟白色シヤツ一枚白色ズボン一枚、拳銃一挺を、同月二三日には国防色ズボン二着、同ワイシヤツ一枚、白シヤツ六枚、靴下二足、革バンド一本、ノート一冊、小手帳二冊、手紙六五通、名刺五枚、赤皮編上靴一足を、同月二五日には黒ズボン一着、浴衣一枚、革バンド一本、白ズツク靴(運動靴)一足、白運動シヤツ一枚をそれぞれ押収したうえ、同月二四日頃同警察署長は、当時弘前医科大学ならびに青森医学専門学校で法医学の講座を担当していた引田一雄教授の教室に、これら押収物を行季様の箱に雑然と詰込んで運ばせ、血痕の附着したものがあるかどうかの鑑定を依頼した。同教授は北海道帝国大学医学部を卒業し、弘前医科大学に赴任する前、台湾台北帝国大学に在職していた当時昭和一六年四月二八日発行の台湾医学会雑誌四〇巻四号、血痕の新旧判定に関する研究第一編誌上に「血痕の経時的変色について」と題する研究論文を発表している程の業績があり、弘前に勤務して以来昭和二三年より昭和二五年までの間に既に裁判所の依頼等で人体解剖を多数取扱つており、血痕鑑定等については固より豊富な経験をもつ法医学者であつた。そして本件発生と同時に弘前市警察署より路上血痕の鑑定等を委嘱されてその鑑定に従事していたのである。同教授は行季詰の前記押収物件を受取り鑑識課員と共に一点一点全部に目を通し、血痕とまではゆかなくとも黒ずんだしみのあるものを引出し、そのうちでも濃い色合いのものから順次ルミノール反応等を試み検査を進めた。その際本件白シヤツについては、肉眼で一応目を通しただけで詳しくは調べなかつたが、右肩から胸にかけて赤褐色とは思われない灰色がかつたあせたような黒ずんだ色(帯灰暗色)の斑痕が二、三点あつたのを認めたが、それは本件犯行現場附近の路上から採取した血痕とは色調からして著明に相違したもので、これを血痕とした場合でもずつと古いものと思われるものであつた。およそ人血がシヤツ等に附着したときは、最初は赤褐色を呈し、日時の経過と共にあせてくるものであるが、直接大気にさらされないような場合は数ケ月間は変らず、箪笥の中などに入れておけば一年以上も赤褐色を保つものである。それを着て毎日作業していたとしても一か月や二か月で帯灰暗色に変色するということはなく、洗濯した場合でも帯灰暗色に変ることはないのである。ところが引田教授が検査を開始した翌日頃何ら理由を告げることもなく、同警察署では右鑑定物件を全部同教授の手許から引上げ、同年八月二七日〔丙3〕、平嶋両鑑定人にこのうち本件白シヤツおよび白ズツク靴の二点を取出し、血痕鑑定を嘱託して引渡したため、引田教授は本件白シヤツの斑痕についての調査はできず仕舞いに終り、既に検査の完了していた浴衣に認められた褐色斑痕、白ズツク靴、革バンド靴どめに認められた暗色斑痕については、すべて人血反応を認めることはできないという鑑定結果を報告した。ところが〔丙3〕、平嶋鑑定が着手される直前においては原審も認定するとおり本件白シヤツの前面およそ一一箇所に「褐色ないし赤褐色」の色合いをもつ斑痕が存在していたことが認められる。即ちこの両者の間に斑痕の色合いについて「帯灰暗色」と「褐色ないし赤褐色」という色合いの違いが認められるのである。
  原二審証人古畑種基の供述記載によれば、右斑痕の色調の相違は、色調の判定についての相違に基づくものであるとしているが、同証人は引田教授が検分した際の色調を同教授について調査したわけではないのであるから、同教授のいう「帯灰暗色」と右証人のいう「褐色ないし赤褐色」とが同一の色調であるということにはならない。殊に引田教授は前述のとおり浴衣の斑痕については褐色という色合いの識別をしているのである。原一審証人〔丙9〕は那須方において差押えたとき本件白シヤツに血痕様のしみが附着していることを見届けたと述べているが、右証言は色合いについてふれているわけでなく、同時に押収した前記物件中にも「しみ」の附着しているもの数点があり、これらの「しみ」も血痕ではないかと疑つて鑑定を嘱託しているのであるから、同証人のいう「血痕様」を直ちに「褐色ないし赤褐色」の色合いを証言しているとみることはできない。他にこの色合いの違いについて、これが同一色調であるとするに足る証拠はない。
  今仮にこれを「褐色ないし赤褐色」の色合いをもつた斑痕であつたとするならば、那須とみ、同〔丁3〕は前記のとおり本件発生の頃以後本件白シヤツを洗濯した記憶はないのであり、那須が作業用に着用して大気の下に曝らしていたことがあつたとしても一か月は経過していなかつたのであるから、それは現場附近路上の血痕とそれ程変らない色合いをもつた血痕として附着していたと思われるので、引田教授がそれを路上血痕と著明に相違していたと見誤るようなことは到底考えられない。そればかりではない、那須が被害者の返えり血を浴びたこととなるそのような生々しい血痕を附着せしめたまま、そのシヤツを前記のとおり着用していたということも考えられない。殊に本件では那須は凶器を隠匿したこととなつているのであるから、凶器を隠匿した程のものが返り血を浴びた本件白シヤツを平然と着用していたということは、常識では考えられないことである。これらの点から考察しても本件白シヤツ附着の斑痕について、引田教授の識別した色合いは「帯灰暗色」であつたとみるのが相当である。この点に関連があるものと思われる前記証人古畑種基の証言は必ずしも右認定を妨げるものではない。原一審証人〔丙〕は「松木医師の所で靴やシヤツの血痕を検査したところルミノール反応が現われ焼光を呈して人血でかつB型であつた。しかし自分達の鑑定だけではと思い権威筋にも鑑定を依頼した」という趣旨の証言をしているが、それが何時の時点での検査であつたかは明確でない。原一審記録によれば、〔乙10〕方玄関前敷石等の血痕鑑定については、昭和二四年八月九日付で松木明宛鑑定嘱託がなされ、同年八月三〇日付で同人の鑑定書が提出されており、木村産業研究所前路上血痕については、同月一二日松木明宛鑑定嘱託がなされ、同月三〇日付で同人の鑑定書が提出されており、又覚仙町〔乙28〕方石上の血痕については、同月一四日松木明宛鑑定嘱託がなされ、同月三〇日付で同人の鑑定書が提出され、那須方裏石上血痕については、同月二〇日松木明宛鑑定嘱託がなされ、同月三〇日付で同人の鑑定書が提出され、笹の葉上の血痕については、同月一〇日付で松木明宛鑑定嘱託がなされ、同月一五日付で同人の鑑定書が提出されているのである。ところが本件白シヤツについては、同年一〇月一五日松木、〔丙〕宛鑑定嘱託がなされ、同月一九日付で右両名の鑑定書が提出され、白ズツク靴についても、右と同一日付で嘱託され、鑑定書が提出されているのであるから、本件白シヤツを、〔丙3〕、平嶋鑑定人に鑑定を嘱託する以前の時点で、かつ引田教授が検分した前後の頃に松木明に鑑定嘱託したという事実は証拠上認められない。若し鑑定を嘱託しておれば、右の各鑑定と同様本件白シヤツおよび白ズツク靴についても鑑定嘱託書と共に鑑定書が提出されていてよい筈である。当審における照会によつても明らかなとおり本件白シヤツについてはそれが存在しないということは、その時点では松木明、〔丙〕両名共本件白シヤツの血痕鑑定はしていなかつたと考えるほかはない。この点は〔丙〕作成の本件白シヤツの写真撮影が同年一〇月一〇日付でなされていることからも窺われるところである(関係書類追送書―一七五九頁参照)。そうすると〔丙〕が証言するところの、本件白シヤツに対するルミノール反応は人血でかつB型であつたというのは、〔丙3〕、平嶋鑑定以後のことであつて、昭和二四年一〇月一九日付鑑定書作成の際の検査結果を証言しているとみるほかはない。だとすると同証言でもつて本件白シヤツ附着の斑痕の前記色合いの違いを否定する証拠とすることはできない。
  原二審では、当時の弘前市警察署捜査課長をしていた〔丙6〕を証人として尋問しているが、その問答は次のとおりである。
 「問 那須を検挙してから同人のシヤツに血痕がついているのを発見して同人にその理由を尋ねたことがあるか
  答 私としては尋ねたことはありません、誰か尋ねたかも判然したことは判りません
  問 これに対し那須は血がついていないのだからその理由は知らないと云つたことはないか
  答 私は知りません
  間 那須にそのシヤツを見せたことはあるか
  答 私としてはありません」
  本件捜査にあたり極めて重要な証拠物である本件白シヤツの血痕について、捜査の第一線に立つ重大な責任を負つている者が、全く無関心といつてもよい程の関心しか示していないということは解せないことである。同証人は原一審においても「本件白シヤツやズツク靴の領置されたことだけは知つているが、〔丙4〕や〔丙9〕部長が知つていると思います」と述べて、本件白シヤツのことを聞かれると、いかにも責任を回避するような口吻に聞きとれる供述をしているのである。
  原二審における証人〔丙〕の問答をみると
 「間 松木博士に対する鑑定嘱託書は証人が書いたものか
  答 私が書いたように記憶しています
  問 シヤツについたものは人血だということは判つていたか
  答 既に松木博士の試験により人血だということが判つていたので人血と書いたのです」
 とあるのみである。しかしこの人血判定の時点は前記のとおり、鑑定嘱託をした昭和二四年一〇月一五日頃のことと解するほかはないのであるから前同様の理由で色合いの相違する事実を左右するものではない。他には本件白シヤツの斑痕について色合いの違いにかかわりのある証拠はない。
  原一審弁護人は、第二七回公判で引田一雄を証人として申請し、同証人のみた本件白シヤツの斑痕の色彩と古畑教授のみた色彩が相違している点ならびに何故に同証人の許から本件白シヤツを引揚げたかの点を立証しようとしたが、同証人の申請は却下された。
  何故に引田一雄の許から本件白シヤツを引揚げたのか、この点について述べているのは原一審証人〔丙〕の供述として「引田一雄がシヤツのルミノール反応を検査したがはつきりしないというので、科学研究所に念のため鑑定を依頼した」とあるのみである。当審証人引田一雄は、そのようなことをされたのは未だ嘗てない経験であつたので非常な侮辱を感じたという。引田教授は本件発生以来路上血痕など嘱託されて数々の鑑定をしてきていたことは前記のとおりであるから、結果はどうあれ、本件白シヤツについても鑑定報告をして貰つて何ら差支えなかつた筈である。それを中止させたのは「念のため」というだけでは理由にならない。
  尚検察官は、引田教授の鑑定能力を疑問視して、同人の証言よりは法医学の世界的権威者である古畑教授の意見の方が高く評価できるし、証拠としては、こちらを採用すべきであると主張する(最終意見書参照)。しかし引田教授が本件白シヤツについて鑑定を完了しておれば、これを学問的に批判し、評価することは許されるが、その事実がないのに、いたずらにその能力を評価することは、真実をみつめる態度とはいゝ難い。
⑷ 以上これを要するに、本件白シヤツの斑痕について、「帯灰暗色」と「褐色ないし赤褐色」の色合いの違いは何故か、この疑問点の解明がなされない限り、本件白シヤツ附着の血痕をもつて直ちに本件犯行に由来するものとすることはできない関係にあるといわなければならない。したがつて原二審判決が根拠とした確率九八・五%適用の問題も、その以前においてもう一つ存在する疑問点の解明がなされない限り事実認定にとつて無価値な確率となり、推定を認定に高めるということ自体無意味なこととなるのである。そして現在ではこの解明は不可能に近い。
5 動機について[編集]

 原二審判決は、本件犯行の動機について、那須は精神医学上所謂変質状態の基礎である生来性神経衰弱症者であつて、変質的傾向とみられる性行があり、またその無意識界には残忍性、サデイスムス的傾向を包蔵しており、また婦人に対する強い興味が鬱積していたものとみるべきであると説示し、本件犯行の動機は、同人のこの変質的傾向に由来すると推定することは可能であるとして、鑑定人丸井泰ママ作成の昭和二四年一〇月二五日付鑑定書の記載(以下丸井鑑定という)および原一審証人〔乙4〕、同〔乙5〕、および同〔乙6〕の各供述記載を挙示しているのである。

⑴ 那須は昭和一八年三月に私立東奥義塾五年を卒業した後満洲国興安総省に開拓団の経理指導員として赴き、程なく帰国し昭和二〇年五月頃一時青森県通信警察官を拝命したが、仕事としては専ら電話工事に従事していたため、司法警察官を強く希望して、昭和二一年三月三一日付で右通信警察官を依願退職し、警察官の募集を待ちつつ林檎店の事務員や種苗店の外交員などをして働いていた。しかし昭和二三年夏頃から本件犯行により逮捕されるまでの間は定職がなく、自宅において耕作、掃除等家事の手伝に従事していた。そして同人に対する知人、友人、雇主、近隣の者らその家族らの評価は、真面目、努力型、仕事熱心であり、また温順にして親切で近所の世話をよくし、頭脳は明断であり、博学であるが自説を曲げない強情さや勝気な一面がある。金銭に関しては不正はなく、強情さがなければ模範的である。女の話に対しては穢わしいという態度をとるが、犯罪の話には興味をもつているようであるといつたものであつた。
⑵ ところで犯罪に興味をもつという点については、例えば那須は紙一枚でも人を殺せるとか、人に気付かれないで部屋に入る方法とか、音を立てないで歩く方法とかを話し、また音を立てずに歩いてみせたり、さらに手の平を刀のようにして咽喉を殴れば倒すによいとか、泥棒はタンスを下の方から開けるとか話したり、空手や忍術の話にも関心を抱いていたことが認められるが、これらは同人の本とか人から聞いたことなどの請け売りであり、しかも当時は警察官になることを強く希望し、また定職がなく時間をもて余していた頃であつたからそのような話題に耽り、或は実演してみせたりすることがあつても、これをもつて正常を欠くとまではいえず、もとより直ちに変質的傾向に結びつけることには飛躍がある。
  〔乙4〕は、寝ているとき那須から立膝をして首を絞めつけられ、翌朝同人から寝首をかかれても判らないよと云われたことがあることを原一審公判で証言しているが、それが異常性格に由来するのか、冗談の過ぎたものなのか記録上は判定困難である。
⑶ 原二審判決が変質的傾向とみられる性行の一つとして判示するところの「強て新婚の友人夫婦と同室に寝たり」するということについては、那須が友人である〔乙4〕夫婦の許に度々泊るということを指すものと解されるが、これについても那須がそれは〔乙4〕の方ですすめるままに泊るのであり、しかも同人方には寝られる部屋が三つもあり、二階もあるが、夫婦の部屋に一緒に寝るようにすすめるからだと弁解しているのであつて、これを排斥する証拠もない。
⑷ 原二審判決は、夫不在中の他人の妻を訪ねて食事したりすることをも指摘しているが、それは〔乙4〕の妻〔乙5〕の姉〔乙6〕に関することであると解されるところ、那須が〔乙6〕を知つた時期は昭和二四年八月九日頃で、その頃〔乙6〕が同棲していた男との間に別れ話が持ち上り、〔乙4〕の先輩である那須に〔乙4〕を通じて話合の仲介を依頼してきたので、これに応じて両者の仲に入り尽力したりした。そして同月一五、六日頃〔乙6〕方を訪ね夕食を馳走になつたところ腹痛を起し同所で暫く休んだが、夫不在にも拘らず同女から泊るように云われてその言に甘んじて泊つたのであつて、別段同女に乱暴を働いたとか、情交を迫つたこともなかつたのである。したがつてこの事実から那須の変質的傾向を看取することはできない。原二審判決は、原一審証人〔乙6〕の供述記載中「事件後私方へ那須が来て泊つた時よく眠らなかつたようで、夢でも見たのか大変うなされていたので、今起してやろうかと思つた程であつた。何だか人が死んだ夢をみたり、松永宅の現場を廻る夢をみたりしたそうであつた」旨の部分を有罪認定の一証拠として挙示しているが、那須もその晩夜中に長坂町に火事があつて明け方〔乙6〕から大変うなつていたと云われたことを認めており、また真実犯人であれば、自分から進んで犯行を認めるような恐れのある夢を人に話すこともないと思われるので、若し〔乙6〕のいうとおりの夢の話があつたとすれば、それは却つて那須が犯人でないことを裏書きするものともいえるのである。
⑸ 丸井鑑定は、以上検討の経過とはおよそ著しく相違する結果を示しているので、次にこの鑑定を検討する。
(イ) 原二審判決は同鑑定中
a 「表面柔和に見えながら内心即ち無意識界には残忍性、サデイスムス的傾向を包蔵しており、相反性の性格的特徴を顕著に示す」
b 「精神の深層即ち無意識界には婦人に対する強い興味が鬱積していたものとみることができる」
c 「本件犯行の起つた日時及びその直後における被疑者那須の行動、被害者に対する関係その他被疑者丙の警察官及び検察官に対する供述を検討してみると、精神医学者、精神分析学者としての鑑定人は、凡ての事実を各方面から又あらゆる角度から考察し、被疑者那須は少くとも心理学的にみて、本件の真犯人であるとの確信に到達するに至つた」
 との記載を挙示する。しかしそこには色々と疑問の点があり、直ちに信用することのできないものがある。
(ロ) 先づ同鑑定三枚目裏に「内心に残忍性、短気な傾向を包蔵し、その傾向を抑圧する結果反動として極端に柔和な猫のような態度が表面にあらわれるに至つているものと察せられる。」と断ずる。
  しかしその資料は、〔乙20〕、〔乙36〕の供述などに「ねちねちしている」「ねつちりした尻の長い人だ」とか「現実的でない事を考えている人だと考えられる」とか、同鑑定人が僅か一回一五分位那須に面接して得た印象として「表面的には猫の様におとなしく、態度行動が一般に女性的である」ということや、転職、犯行時無職であつたことなどが挙げられるのであるが、そこからどうして「残忍性」があり、また表面的におとなしくみえるのはその「反動」であるといえるのかについては「精神分析学が教える処」からというだけでは首肯できない。
(ハ) 同鑑定四枚目表に「精神内界に残虐性の潜んでいる事を察せしめる」とする資料は、〔乙3〕の「被疑者は奇抜な思想の持主であるらしく特に女の話などに就いては『強姦』とか『殺す』とかいう言葉が出たりした」という供述であるが、右言葉の出た状況も、具対的内容も明らかでないし、また何故に右言葉から直ちに残虐性があると推察できるのか疑問である。
(ニ) 同鑑定四枚目表に「他人の死とか不幸を問題にし、これに無意識的に興味を持つ傾向があり、而かも意識的にはその反動としての偽善的、博愛主義的傾向を示した事が窺われる」と判断している資料は、〔乙37〕の「友人が死亡すると那須は誰よりも早くそれを知り、花をあげなければならないと友人の間を歩くのは不思議な点であり、偶然にその家に行つて聞いて来るのが一寸解せない位早い」旨の供述であるが、このことからどうして「興味」とか「偽善的」「博愛主義的傾向」とかいう評価がでてくるのか首肯できない。
(ホ) 原二審判決が挙示した前記(イ)、aの部分(同鑑定五枚目表)の根拠は、前記⑵において検討した那須の言動ならび〔乙4〕の「法律や医学の常識的知識が豊富であるが、犯罪の話に明るい」とか「証拠を残さず犯罪を行うことができるなどと云つている」とかいうことであるが、その評価については、右aの解釈のほかにも反対解釈の余地があるのにその検討がなされていないのは不十分である。
(ヘ) 原二審判決が挙示した前記(イ)、bの部分(同鑑定六枚目表)は、友人などの那須は女の話をすると軽蔑するようなけがらわしいというような態度をしておつたから謹厳な男だと思つていたという供述を引用しつつ、これに対し「内面的には女に対し常人以上の興味を持つて居たものと察すべく、この傾向を強く抑圧する結果反動として表面的には謹厳な人と見えただけのことである」と判断して、右bの帰結に至るのである。しかし女の話の内容も明らかにせず、しかも「常人以上」とした根拠は首肯できない。
(ト) 同鑑定八枚目裏の「精神における分裂的傾向、両極的相反性傾向、所謂二重人格的傾向等はいづれも相当顕著で」「これらは広義の変質的傾向と見て差支のないものである」としているのは、〔乙37〕や元の雇主の供述等である「一種の性格破綻者」とか「人によつて都合のよいように云う」とか「極めて陰険且つ狡猾で図太い」とかいうところを引用したものであるが、これを同鑑定人自身が正しいものとして把握できたとするその検討の過程は見当らない。また同鑑定人は那須や同家族らの捜査官に対するアリバイに関する供述を検討し、「被疑者に著しき虚言癖あることを認めざるを得ない」(同鑑定一四枚目表)とし「今仮りに百歩を譲つて被疑者の主張する忘却、記憶欠損、追想不能、記憶の空白が真実の事実なりとすれば、これは即ち精神分析学上の所謂『抑圧による忘却』の現われと説明する他なき事となり、八月六日の夜の被疑者の経験はこれを追想する事が被疑者の非常に苦痛となり、彼に堪え難き良心軋轢を惹起する事実を包含する事を推論せしむるものというべきである」(同鑑定一四枚目裏)としているが、那須の供述の変遷を右のように解釈するほかないとすることには賛同し難い。
(チ) 原二審判決が挙示した前記(イ)、cの部分(同鑑定二一枚目)について、同鑑定人が検討したところは「被疑者が松永夫人を見た事実があつたであろう事が明らかに察せられる」とし、しかるに被疑者が実際はみていないと云うのは「必要以上の否定が却つて肯定を意味するという原則を適用すべく、被疑者が松永夫人に大なる関心を持つた事延いては被疑者が真犯人ではないかと云う事を察せしめる有力な根拠が吾人に与えられることになる」となし、また那須が大型ジヤツクナイフを持つていることを否定していることにつき「真犯人でないならば平然として右ナイフ所持の事実を認め且つそのナイフのその後の行衛を明らかにし得る筈である」と断じ、また関係者の供述から那須が捜査に協力したことや、アリバイ工作をしたこと、また本件犯行の頃以降同人の態度に落着きがないことなどが認められるとして、同人には「精神分析学上の所謂懺悔強迫」の表われが看取されると判定した諸点である。しかし同鑑定の右諸点には同鑑定人の独断、先入感に左右された推論がきわだち、首肯できないものが多い。
  以上のとおり同鑑定は全体を通じて、基礎資料蒐集の方法、同資料に対する評価、推論の過程等において疑問の点が多く、原二審判決が動機として説示したところに対する証拠としては適正な価値を認め難い。
(リ) これに対し那須につき精神鑑定をした原二審鑑定人石橋俊実の鑑定書の記載によれば「顕耀慾的誇張的性向をもつ人間であることは否定出来ないにしても、それが正常域を著しく超えているとは断定し難い」「精神病質者(性格異常者)であるとの結論には達し得ない」「変態性慾者であるという断定は下し得ない」というのであつて、先に認定したような那須に対する周囲の人々の評価即ちその性格、日頃の行状、生活態度等を考慮すれば、右鑑定結果に寧ろより多くの適正妥当な価値を認めることができる。原二審判決は、右鑑定は「目下の段階では、被告人が変態性慾者であると確実に断定は下し得ない」というに過ぎないとして排斥しているが、右にいう「目下の段階」にはそれ程重要な意味はない。これを「過ぎない」として一蹴することは検討不十分の謗りを免れない。
6 那須のアリバイ工作について[編集]

 この点について那須が本件犯行に関してアリバイ工作を図つたと認め難いとした原審の認定は首肯できる。

7 〔乙10〕方および那須方附近の血痕[編集]

 この点については本件犯行に由来するものでないと解すべきものであることは前記のとおりである。

8 まとめ[編集]

 以上これを要するに、原二審判決が那須に対する本件殺人事件につき有罪を認定するに至つた事実と証拠との関係を仔細に検討すれば、いずれも決定的なものは何一つなく、寧ろ有罪を認定する方が極めて疑問であるとするものばかりであることが明らかとなつた。即ち本件白シヤツ附着の血痕については疑問点が存していることは前記のとおりであり、この疑問点が解明されない限り九八・五%という確率は左して意義あるものではなく、更に右確率に基づく推定を認定にまで高めるものとして挙示した諸条件は、いずれも否定ないし消極的に解されるべきものであり、犯行の動機についても原二審判決の認定には証拠上首肯できないものがあるのである。(因みにこの動機について〔己〕を真犯人とした場合原審がその挙示する証拠により認定するとおり、同人は本件発生当時ヒロポンを常用し昭和二四年五月六日犯した強盗致傷事件では、屋台店の女性に矢庭に背後から抱きついてねぢ倒し、同女の首をしめたりした上所携の匕首で同女の右頸部および右腰部に切りつけており、同年七月二一日犯した建造物侵入、強姦致傷事件では、弘前医科大学附属病院看護婦宿直室に侵入し、就寝中の看護婦を姦淫しようとして暴行に及んだが騒がれて目的を遂げず、所携の鋭利な刃器で同女の右膝蓋部等に切創を負わせ、更に同年九月二日看護婦を姦淫する目的で再び同病院に侵入しているのであつて、その女性を襲う性癖、犯行の突発性、狂暴性からみて本件犯行の動機の認定に左程不合理な点はないのである。)

㈣ 結語[編集]
1 〔己〕の供述には、本件発生以来長期間を経過しているため、忘却或は記憶の不鮮明な点は多少あるとしても、全体としては証拠によつて認められる客観的事実によく符合し、殊に被害者の刺創の状況、逃走途中の血液滴下の状況などは、供述と微妙に合致し、考えられる動機の点も含めその信憑性は極めて高いものがある。
2 これに反し那須に対し有罪を認定した原二審判決の認定事実と証拠とを仔細に検討した結果は、そこに疑問点も存していることが明らかとなり結局同人を有罪とするには証拠上極めて疑わしいの一語に尽きることが判明した。
3 これを冒頭に示した最高裁判所第一小法廷の見解に従い考察すれば、那須に対する原二審判決は「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則の適用をみるべき事案であり、〔己〕の供述は「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点」に立ち「当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価し判断」した結果に鑑み「確定判決における事実認定につき、合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠」即ち刑事訴訟法四三五条六号にいわゆる「明らかな証拠」に該当するものということができる。
4 しかるに原審が那須を本件〔甲〕殺害の犯人とした原二審判決の認定の正当性は動かし難いとし、他方〔己〕の供述がそれ自体において同人を真犯人となすについて決定的要素に欠けるとして「明らかな証拠」の該当性を排斥するに至つたのは、事実を誤認した結果によるものであつて、取消を免れない。論旨は理由がある。

三 よつて刑事訴訟法四二八条三項、四二六条二項により原決定を取消し、同法四四八条により本件につき再審開始の裁判をなすべきものとして主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 三浦克巳 裁判官 松永 剛 裁判官 小田部米彦)

別紙㈠[編集]

弘前市大字在府町〔略〕
〔乙〕方

別紙㈡[編集]

弘前市大字在府町附近略図
 但 距離は、〔丙〕作成の「血痕滴跡状況図面作成について」と題する書面添附の図面による。
   なお、〔乙〕方から〔乙38〕方(〔己〕方)に至る実線は、〔己〕の供述する逃走経路を示す。

別紙㈢[編集]

本件白靴略図

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