定西法師伝

 
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定西法師伝
 
元和年中に武州江府に定西と云る桑門あり其比年七十余膚には木綿の一重上には純子墨の衣腰に竹の筒を下けたり其中には箸一膳入たり手に持る三十六遍の珠数より外に寒にも暑にも身に貯るものなし我其比世にさすらへて江府にあり霊巌寺の門前によりて住侍る定西常に来りて吊らへり我去る者に向ひ定西は爰に見る並〻の道心者に​はカ​​て​​ ​かはれる法師柄も健るに物言やさしくいやしからす如何なるものゝなれる果そや答て曰此定西はいかなるものにやいかさま金山の代官なとして殊の外楽しかりし者にて昔着たるもの爰にも有とそ聞及ひ侍るなにと問ても語り侍らすと云或夜に定西来る唯二人指向にて浮世の有様なと打解て語り侍る序に思ひ出て問侍るには貴坊はそのかみよろしき人にて侍るや定西か曰いや其儀なし只賤しき者の子に侍らす詮方なさに道心者のまねをして乞食し侍ると答にけり夫はさこそ有らん其昔聞ても何かせん然共わかき者のならひ人の隠す事はあなかちに聞度侍るかく打解てしは見るにいかさまよし有けに心悪く候何をかさまて耻たまふと見えたり夫は却て仏こきたなしとやおほさん又人に洩へきにも侍らすはや有のまゝに語りたまへ定西聞て実に斯まて聞たまふを語侍らすはいまたいにしへに残る心の有かとおほさんも耻かし我若かりし時怪敷事の有しをさんけ物語申さん又人に洩したまふなと口堅めして語ける様は我本石見の産にて先祖は士にてあらん親は奉公もせす田地をも少しく持て身を助け居たり我年十九の時天正年中の比親に聞えけるはもはや二十にも及ひ斯てあらんも言甲斐なく候何方にも立出て奉公をもし侍るか商人にも成て見侍らんゆるしたまひてんやと云に父母涙を流して誠に汝かさ思ふらんも不便とおし計りたれ共我賤しけれは何方へやらんも聊かもすへき様なし此刀は先祖より持伝へたるものなれは其善悪は知らす是を汝にとらするなりいか様にも代つけて何方へも立出奉公せよ父母か事をは思ふへからすとゆるしけれは其刀を得てまつ京都へ上り石見へ下りし商人の知人を尋るにしかの由を語り此刀を売てたへと頼けれは安き程の事也先本阿弥に見せん幸によき手筋有とて持て行程もなく帰りて言けるはさても能仕合なり此刀は紛もなき左文字の正真也価百貫にかはんと言り早く売たまふへしと言思ひの外なる事なれは嬉しくて兎も角も其方を頼上ると打任せけれはかひしく走り廻りてことなうゆきあたひ百貫とて黄金五枚を得たり今こそあれ其比の百貫は世にも難有ことにし侍る京の者も歓て是を本として行々有付たまへと云夫も兎も角も頼申へし先石州へ帰りて父母にも見せけれは父母悦事かきりなし汝か行末も能からん此上は思ふ様にせよとて親共少しもとらす夫より先近所なれは芸州へ越て奉公を望まんと思ひ町屋に宿をかりて居る其あたりに宜敷商人の有にかたらひ念比にむつひけるか言様おことはいかなる望にて爰へはおはせしと言しかのよしをはしめよりありのまゝに語りけれはさては行末よかるへき人なり今時奉公を望ても馬に腰かける程の事はなりかたし又歩はたしの奉公は口惜我思寄たる事あり異見に付たまはんやといふ我こたへてそれは望所にて侍る見たまふことく未年もたらぬ身の親の側をやふ這出たるものなれは何の弁もなしオープンアクセス NDLJP:125兎も角も御異見に洩へからすさらは急き薩摩へ下りて唐渡したまへ仕合よくて帰朝すれは百貫は千貫に成は必定なり夫は天に任すへし我今まて三度渡りて難風にあひ死人に同し事になりしこともあれと夫いまれの事なり又爰にてしつけぬ業の商をするとも損をする事はやすく利を得る事いかたかるへしと念比に教訓しけり我は是を聞て誠に是は能事なり便あらは文をたまはれかしといへはされはとよその便なくは進め申まし我唐へ渡時は便ありて薩摩の屋形の医師の法眼と言人を頼みて有しに慈悲深き人にて念比にいたはられしより今に年毎に音信せし法眼の方へ我遁れぬ者と云やり侍らはいさゝかも如在有まし今出船の時分也急きたまへとて文書てあたふ其儘赴かんと思ひ侍りしかいや万里の波を凌きて唐へ渡る身の父母のゆるしなくては叶ましと思ひ又石見へ帰り此よしを聞えけれは親も流石に余波をしけに見得けれとも止ても詮なしとや思ひけん兎も角もと許しけれは夫より筑紫への旅の空薩摩方へおもむき鹿児島に至りて医師の許に尋て行てけれは法眼に彼文を見せてしかのよしを演けれは法眼いと念比に聞えて今年は舟ももはやならす来年まて爰にて待て舟の事は才覚してとらせん則我等方に居よとて扶持せられける明れは霧を払て起座舗をはき庭を掃除し亦薬をきさみ更に只居せすまめに遣けれは法眼汝は若き者のよき者やとていよかはゆかられけりかゝる処に屋形の臣下比志島某と言人あり鹿児島より七八里も隔て居り其許より此法眼を迎に来る我も供に行んとて随て行比志島待請して言はれけるは我独娘年九才此比口中に瘡出痛甚しく早十日余り湯水さへたえ侍るおさなき者なれはよわりて命危く侍るによりはる申請たり法眼是を見て則薬を出しそくいにをし合足の裏に張付て明日は能からんと事もなけにそ言れける明る日ははや口中和らきおも湯を少し飲たりとて家こそりて悦ひ法眼薬を今一付し給へとて置鹿児島へ帰られけり五日過て比志島より酒肴黄金を持て法眼の許に来り我娘透と快也さても奇妙なる御薬かなとそ言はれける其後事の次に我法眼に言様日外の口中の御薬は誠に妙薬なり是は脉もいらすかゝる御薬をは我等ことき者も存知度事かなと聞えけれは法眼打笑て去事そかし知りて置へしとて即教られけり先其薬を拵へ申鉢に入て侍けり或時法眼我に言れけるは去(来カ)年の春は琉球国より使者舟の来る年也さあらは汝琉人と逢度々逢て知人なれは船中の事もかしこに渡ての事もかた心安かるへし商売は仕合次第替る事有まし但交趾か暹羅へか儘也答て言何方を知侍らすとかく御計ひに侍へしとそ聞えける其年暮春に成三月の末方琉球より使者船鹿児島へ着今般之使者は年来に替り佐志貴の王子とて王の弟也鹿児島に逗留二ヶ月計の其内に心地悪敷迚王子此法眼の薬を用られけり又振廻に法眼の許へおはしたり其時法眼我を呼出し王子へ引合せて言はれけるい此若き者を御舟に便船御国へ遣し度存る唐船の商売をさせて給はれ王子それは何より安き事なり随分いたわり申へしかしこに有内は我扶持し侍らん心易思召と念比にのたまひけりさて使者船の帰るに乗て琉球に至りかし此人は心やさしくやはらかにしていかにも打解て心易く語らひけり漸佐志貴の島に着て船待する事十日余り此島は別て王子の知処なれは下司待請て饗す其下司の娘年十二三計り此比口中を痛てオープンアクセス NDLJP:126且て喰事絶船中に琉球の医も有は薬をあたへけれともきかす我是を聞て近比麁忽なる事には候得とも口中の痛ならは我薬を知れり其儘いやし申さん御事は法眼のよしみの人なれは薬の事頼母数侍るはや薬をあたへてたへといふ則薬を出し足の裏に付けれは明日過半和はらきけり琉球人手を打て感しけり薬二付にて透となほりけれい親悦泡盛の酒干猪やうの物をしたゝめおくる船子まてもくれける夫より琉球の那波の湊に着てそこに日本町とて日本人計りの居る二三百軒有そこに家宿を転して置王子より扶持方以下を送られたり日本の者共尋来て知人になり夫は九州の者中国五畿内の者大坂の者堺又は関東の者奥州の者も有四五日過て夜半打過る程に我宿の門をたゝく亭主起出て問へは都より日本人の迎に馬を牽せ来れる急きの御用なれは早々とくとそ言れけり亭主聞て不思儀なる事哉爰法度にて他国の人を都の構に足を入る事なし貴方は如何成人なれは都へ召るゝそやと問我も何たる子細を知侍らすはかゝあらんと言使者之者兎角いそき給へとせかむるゆへ馬に乗りて行夫より都まては十里計も有となん此使は王子の御内の者ゆへ船にて知たり皆々問やう何たる御用てはし有そ答て知侍らす頃日后宮の御いたはりとて皆気遣のよし承るもし左様の御用にても候やらん急程に夜明に都に着王子の舘に到れは対面してのたまふ様男を召るゝ事別の義にあらす后宮御口中をなやまし給ひ此三十日計湯水も絶させ給ふ唐人の医師療治すれとも効なし佐志貴島にて下司の女の口中をおことの薬てなをしけるよしをあからさまに申上けれは急き御薬を付よとの儀也早彼の薬を上られよ我由を聞て思ひ侍るは此薬を出したらはかしこき医共の其儘見るへし其上かゝる序に后宮とやらんを見て日本へ帰りての物語にもせんと思ひ王子に申けるは御口中の御事ならは其儘直し奉らん乍去此薬は手離して人に見せ申儀は如何なる勅命にても罷ならぬ其上薬の付やうに子細有事にて侍れはと答けれは王子それは尤の事也さあらは暫待へしと三司官寄合て相談有此三司之内左大臣は則后宮の父公也父の曰譬后の御悩大事に及ふ共日本人に見せて薬を付さする事は有ましき由を堅くのたまへは王子もしゐてのたまふへき様もなくさらは先帰れとて帰さるゝ漸道二三里も帰る程に又使追駆て先帰るへしとて呼帰さる王子の曰男の薬事既に叡聞に達し何かは苦しからん后の御命にかゆへき儀にあらす急き薬を付させよとの勅定也父も許されたり急き参内すへし乍去日本の装束にては如何なれは爰の衣裳にかへらるへしとて湯をあひせ新敷装束壱ツ下にかん包を添て借されたり芭蕉布中は段子上は浮文の紗なり琉球は四季共に日本の四五月比のことし曽て霜雪を見る事なしさて装束を着かへ小き板とそくいへらをこしらへて古革巾着より薬を取出し煉合懐中に入禁中に行城中はさのみ大きにもあらす石垣を登る事二町余りうつくしく石をみかきて畳めり石欄干に色々の花鳥の紋を彫付たり石の色は宇治石の茶臼をみかきたる色よりも光りて見ゆる也殿上にのほり廊を渡り爰に待とて王子は先奥に入り良久しく有て空たきの追風香はしくして引物吹物の声ほのかに聞え王子立出こちへとのたまふ随て入り玉簾の中に玉の椅子を立て后おはします其粧あたりもかゝやくやう也玉の簪とやらんをいたゝき顔に廻りにようらく下けて年の程は十五六と見得いとやさオープンアクセス NDLJP:127しき左右に侍女十人計立ならひたり屏風絵に楊貴妃を書たるを見るにいさヽかも替ることなし一人のとしよりたるおうこと人さしよりて后の沓をはつし薬を付さする其足の大サ十計の子の足程に覚えたり内々には后の御姿を能見んと思ひしか中々かゝやく如にて見られす何と薬を付たるも覚えすして退けり扨王子と連れて帰けれは王子も如何あらんあはれ此薬にて御本復あれかし我あからさまに申たりし事なれは心に祈る計也と聞えさせたまふ夜明る程に使走り帰りて后の御口中殊の外に和らき給ふ今朝はおも湯三口計あからせ給ふ御ものあませ給はすかゝる目出度事なしとて上下共に悦奉ると告けれは王子も心おちついてさて気とく成事哉只神仏のわさと感せられけり其後御使しは有酒菓子食籠なと荷ひつれてもて来る父公の方よりいはん方なき悦の使有其日御薬もちてもはや干て落ぬへし又付よとて参内す明る日はいよ和らきて御食もさわらす夫よりは城へ登るもむつかし薬を煉りて王子に奉り我付しことくにあそはせとてまかせけり薬付て五日目に透々と直らせ給ふ我なからかゝる不思儀はあらしと思ひて法眼の方をそ伏おかみける夫より御悦とて此方彼方の振舞酒肴を交る事もてあつかふ程也后の仰によりて王より勅使有日本より遥来る望何にても此国に及程の事は請によるへしと有話計にも草臥けれは日本町へ帰りける町の人共寄こそりて美敷仕合哉とて仰敬ひけり其中に和泉の堺の者おとなしけなるか忍やかに聞えけるは何にても望を叶へんとの勅命ならは此秋福建へ船一艘申請給へ爰に有しもの共の金を集めて貴方に誂へし然者限りなき利を得なん我等も御徳にて人に成へし搆て此事を人の教へたる様にのたまふなと知らせけりこの事なりと聞済して都に至りて有時王子と指向ひ物語の序に我君の御取成にてかゝる能仕合に逢奉り剰勅定を蒙る事類少き冥加也我薩摩より唐へ渡り侍らん望なりしを法眼の差図に任せ爰へ罷出る願は此秋福建の船一艘申請て渡り侍らん其外は望なし此旨を三司官へ仰られて給はれ王子おとろき此国始りてより此かた他国の人を是より唐渡したるためしなし此望は叶まし唯余の儀を望まるへし然共我意誠にそれはさこそ侍らんゆめ不存して申出たり然共余の儀を申たりとも是は法度夫はためしなしと有は申出しても詮なし我等かゝる賤しき身にて侍れともさして利欲にかゝわらす又偽をせす似合の商売は勅命ならすとも致し侍らん其上綸言は汗のことしと承れ我君の御薬を付し時既に此国の漿束を給り琉球人の姿となりし上は他国の者とも申難し所詮此望成ましと思召は片時も早く薩州へ帰して給はれ法眼を頼み唐へ渡り侍らんと憚る心もなく聞えけれは王子も案し煩ひて先三司官へ此旨語らんと云ける其後諸官集りて詮議まち也后の父公曰彼申所一々断至極せり先后の御悩みを此国の医共手を尽し日本人に見せし事此国の耻なり其上に綸言をひるかへさん事尚以然る可らす唯彼か望を許すへし彼か琉球人に成たると言所幸なり長く日本へ帰さるましきものなり此由を言聞さるへしと詮議一同せしかは王子我を呼て御事の望は叶へたり乍去琉球人に成りし上は永く日本へ帰さるましきの儀也本国へ帰らすとも唐へ渡らんや我思ひけるは日本へ帰されすは帰るまし末は兎もあれ先望を叶へへしと思ひ中いつ方も同し住家なれは我申たる詞返し侍るへからすオープンアクセス NDLJP:128と聞えけれは王子も御事は誠に並々の心たてには非すとて笑れけりさあらは先爰に有つけとて家を渡し后宮よりみめよき女一人給はりて男女十人計召仕歴々の身代に成名をは大和かな染とそ付られける琉球の習朝ことに可然臣下より銘々に后宮へ食籠を上る其中の然るへきを一品ツヽ我方へ一日もかゝさす給る明暮男女打交り此方彼方遊山翫水三味線にいせんと言ものを引き謡酒盛り計也日本の猿楽の能も三十番程あり数寄屋を搆へ茶の湯をせりおそろしき事なく又気遣をする事もなし只天上の楽もかくやと思ひし其年九月末に至り福建へ渡る日本町に居る者共色々望けれとも一人も不叶風よけれは夜ひる八日に汝福といふ湊に着日本にて未た見ぬ大船幾千艘といふ数を不知其れに十日計体て城向へ行其道三日路道々人の都へ登る事夥し是は十一月冬至に諸国よりの出仕遠国よりの使者とそ聞えし城府へ着て見れは町口と覚しき所に川流れ橋を懸たり其橋の長五町計り其あたりの家は川にのそみて作り懸川船の行かふ事数を不知町に入れは家作皆瓦葺二階丸柱にて大伽藍のことし家ことに大小によらす額を懸たり町口より城の西南の門まて一日路日本道十里余也其城には大明の天子の御連枝のおはしますとそ聞えし其天子のましなす都はいかほと有ん是に増たる大成所も有んやと驚かれし琉球人宿有て落着けれは色〻の珍物酒肴にて饗す其近所にてひしと宿取り有て夜もすから遊女をすへ諷酒盛にて夜の目も寝られす辻には大き成金灯籠のこときものともす家々に皆灯籠を掛たり夜更て見れは其火の元に人いくらも集り皆手に書物を持り是は昼は人にうかはれ隙なき下人ともの学問する也家毎に書物積かさね物を読声爰にて経読かことし其近所を見物せんと思へとも仮初にも道通りかたし城の門は大仏堂を見上るよりも高し其奥へは行ねはいかほと有やらんあらすしは見物しけれ共我文盲なれは書も止す皆名を忘れたりさて冬至に成けれは一番鳥より出仕始て殿守の様なる丸灯灯二ツ見えたりあの​本マヽ​​文に​​ ​に王のおはしますとそ聞えしさて門々は幾口も有昼のことくに灯灯をともせり此方より聞は普請のきやりのやうなる声大皷の音聞えたり何をいつれと見分けへき様なし口通せねはかりそめにも問へきやうなし明る五ツ時分に出仕終りたりと云夫より諸国の使者は思ひに帰ると見えたりさて商にかゝり紗綾縮緬緞子繻珍の類は日本の木綿や布の代よりも安し都に居事五十日計夫より汝陽に帰る道に宇治山と云山有爰の比叡山の如し皆茶の木有奥へ如何ほと続たる不知寺のみ有出家の容は禅僧也福建道の茶の名所也とそ聞えし日本にも茶の名所を宇治と云りと思ひ出し侍りし汝陽に至りこと共仕廻船を出し帰るさにいとゝ天気能風十分にて夜昼五日に琉球に着ぬ船の物を日本町へ配分してけれは利を得て喜事限りなし明年薩摩よりの商船に言伝て法眼の許へ御蔭にて能仕合に成たるよし委く言唐物かたの如く送る父母の方へ思ふ様遣し年ことに日本人と商をする程に思ひの外たのしくなり琉球人に金銀を借しけりかくある内に娘をもふけたり琉球人は弁才天の島なりとて男子よりも女子を敬ふ凡神の社は鎮西八郎為朝を祝ひたり今に為朝の弓矢社に有若盗人あれは穿鑿をするには弁才天の社に巫女有夫にや​本マヽ​​こみ​​ ​さとてし大成蛇をつれ来る人を集めて其蛇に見すれは心有者に喰付て聊も不違去程に盗人なとゝ云者なく男女のオープンアクセス NDLJP:129交りは国の習日本にて女は男男は女の作法也我つくと思ひけるはかくたのしくなりて日本に帰り親をも養てこそ甲斐も有如何せんと思へとも今なとは中〻許ましと思ひ薩摩使者船渡る其時法眼へ何卒して帰朝の事を被仰遣て給はれと言遣しけれは返しに先二三年も待能時分に侘てとらせんとそ言はれける其年福建へ又渡舟をも自由に金をも集めす琉球人と同船して渡ける何事も后の仰とさへいへは叶はぬ事なし夫より弥能成さて又三年目に使者薩摩へ行に法眼の元へ一度親に逢度よし歎き遣しけれは其時法眼夫者に言はれけるはヤマトカナソメか事存生の内今一度逢度よしを歎侍る暇を給れやかて返すへし此由を言は三司官も王子も終には返されすは叶はしと内々言れけると聞えし夫より少心□やうに見えたり又明年薩摩より船便りに法眼金染か事父は子の事を思ひて早失せ侍る母一人泣かなしみてことに目をなきつふし侍るならん王子の方へ言おこせられたり夫にても兎角許さす其後日本人と言合せて舟の度々作り文をしてひたと歎きけれはさらはとて許されたり嬉しさに取物も取あへす船をやとひて帰朝せんとす琉球人に借(貸イ)たるものも取らす元より家内の物は娘にとらせけり親さへ見届たらは又来るへしと言へと琉球人真と思ひ侍らす其時琉球にて貯たる物とては胡銅の花入に来国行と銘有三尺計なる大刀一腰金は五十貫目程琉球に在し事九年薩摩に着て法眼の許へ行始終の事語りかゝる怪しき事こそ聞えねと感せられけり夫より石見に帰りけれは父母も達者にて有思ひの儘に養育して悦事限なし頓て芸州に至り彼の教し商人に逢て如此の礼を云ひけれは聞人皆驚きぬ夫より本国に居漸々京大坂に登り商売し心易く侍大閤秀吉公御他界有て後関ケ原陣有て当御代に成る石見国の代官大久保十兵衛後に石見守となりし人来り石州に銀山出来て栄る事夥し其時我国の案内者なれはとて呼出し銀山の事なとに走廻る我一人娘を持比年十六生れ付よかりしかは石見守聞付押て被取ぬ悪敷事共不思儀の仕合と悦此女寵愛する事甚し夫によりて弥我に念比し国の事山の事とも大方我等に任せられたり其時彼琉球にて求し太刀と花入を石見守に捧ぬれはたくひもなき重宝と成て当座に金百枚を得たり夫より奢り栄る程に金銀は置所なき心地して侍る是にもをしはかり給へ印子の風呂釜台子一餝り印子の家具廿人前持し我に随ふもの限なし銀山へは諸国の悪党共の寄集る処なれは夫を少しの咎にても殺す事不知数今思ふに身の毛もよたちぬさても浅ましや悪行かなと悲め共かひなし其後琉球の事を聞侍し大明より若郡主部と言者来り日本の通路を留め使者船をも不来夫により薩摩の屋形家久琉球を申請責破り王をも四にして帰朝ありて慶長十四年駿府江府へ即供し下り給ぬ其時我大坂にて出合ぬれは琉球人地獄にて仏を見付たるとやらんのことく悦逢事哀なりし如形志いたしけり佐志貴王子もおはしけるか昔の物語して泣より外の事なし王子は駿府にて失たまひぬ其石塔は清見寺に侍るさて琉球の事を聞は后は琉球の噪きに驚きたまひて程もなく失たまひぬ我娘も其母も息災にて有と語りて皆涙をなかしける其後石見守弥威勢強くなり甲州を我儘にして佐渡の金山を代官し凡日本国の惣代官と言かことし仮初に行時も女房を百人計興にのせ先に立伝馬をかけ人足を借立栄花にさかえ奢を極め民百姓を悩め人を殺す事は只蛇を殺すオープンアクセス NDLJP:130よりも安く覚ゆ此石見守は根本奈良の猿楽なりしか如何なる天命にや一旦天下に仕へ漸々執権に及ひし其子共に至まて悪行は読とも書とも尽すましかゝりしほとに石見守天命尽て駿府にて御成敗になり其科は如何なる故にやしらす駿河責といふに逢て責殺されぬとも聞えし又病みて死けるとも聞えし其子藤十郎其弟外記其眷族所々に預けられ皆(首字脱カ)はねさせられけり哀と云者は一人も無くきひよしといはぬ者はなし其時我駿府に引れ拷問に及へかりしを急に申上金銀財宝塵も不残差上けれはさらは先召込よとて座敷牢に入置る一期の夢は二度に覚め昨日の栄今の歎きとそ覚えし其近辺に毎夜鉦皷を打て念仏申声聞えつくと思ひつゝけねられぬまゝに​本マヽ​​我か​​ ​浄土宗此年まて珠数を手に取たる事なけれは念仏申たる事なし若地獄極楽と言事のあらは我日比の悪業にてむけんならては沉むとも浮む事は有まし若此度命助たらは道心発志念仏を申て後世を願ひ侍らん兎角此世の楽は夢幻しのことしかゝる憂目に逢んとは兼ておもはさりし何程の財宝を貯へたりとて唯今の用には露計もたゝすと思ひて珠数を求めて物悲さの余り心も移らす念仏申侍しにかく可成縁かは又弥陀如来の御慈悲にやあやしき夢を度々見侍しより道心堅固の志起り終にかく成ぬさて其夢はと問いや夢は我心一ツにこそ真とも思へり人の聞て真とは思ふましき事なれは語るに及はすとて語らすしゐて問けれは語し様先物うき余りの心にもひたすら念仏申侍りしに或夜の夢に急に門を外より開き車を引入音しけれはあやしやと見るに絵に書ることく成火の車也火焔夥しく燃る中に石見守親子三人我娘来れり広庭に引下り一人の鬼石見守を寸々に引裂残る三人の者の口へ押入くらはす泣悲みなから喰ふ是はいかなる事そと見る程に膓と覚しき所をつかみて己是を喰へとて鬼我か口へさしあてけり気も魂も失て持たる珠数を口にくはへ心の中に南無阿弥陀仏とうつふしに成と思し程に夢覚たり大汗流れてしはらく人心もなし是はゆめなりけりと覚え大息をつく其膓のなまくさき事ゆめ覚て後も鼻に有かことしさてさて恐ろしき夢かな石見守か日比の悪行にて実にかく可恐事うたかひなし我娘は未死たりとも聞えすさまて悪行深かるへしとも覚えす生なから魂は地獄にこそ堕たりしや其比我娘は京に帰されし其後弥念仏申て精進をして魚をくはす又或夜のゆめに鬼とおほしきもの我娘を狸なとくゝりたる様に手足をくゝり提て我前へ置く娘泣悲みて我助たまへと云其由問はん心地もなく見る所に鬼彼か足を取て二ツに引裂おのれ是を食へとて差付たりゆめの中にいつそやのゆめのことしと思ひて珠数を喰はへ念仏申と思ふ程に夢覚たり其後信に道心の志は進み命さへ助りたらは出家せんと思ひ定め侍る又或夜の夢に石見守父子三人と我娘来り此度は火の車の様見えす顔色見し如くにて頭より下は犬の容にてつくはひたり扨は畜生地獄にや堕つらんと見る程に石見守涙を流し言様我地獄に堕てかゝる苦患は身のせし罪なれは悔悲しむにかひなし今我跡にて念仏一遍唱るものなし万却をふるとも片時の苦み遁るへき様なし汝に此事一言いはんと思ひしかと其隙なかりしに比日の念仏の功徳により聊の隙有て言葉をかはす汝此度の命助るへし然は今思ふことくに出家し汝か日ころの罪を助かり我等か苦しみをもすくへ今汝ならて頼へき者世界に又一人もなし是生オープンアクセス NDLJP:131々世々の宿縁なり汝か娘も死て如斯也去なから我等ことき深き罪はなけれとも我執心に引れて共に地獄におちたりと取もあへす又門外より火の車来る音しけれは夢覚たり其後あまりの不思儀さに去る便を求めて我娘の事を聞侍りしにはや死たりと聞えしそ不思儀也共中々なりかくて押籠られ有事一年に及へり明暮念仏を申彼か為に手向いかにもして此度の命をも助け給へ出家して身の罪をも助らんとのみ偏に弥陀如来をそ奉願ける我彼女より外に子もなし娘か母は十年以前に死て其後定たる妻もなし道心を発さん為には浮世のほたしもなきこそ嬉しかりし其後石見守下代の者皆赦免を蒙り命助りぬ我は石見守の銀山の案内を知りたる者なれは不相替下代被仰付んと聞えし程に頓て法華寺と申寺に罷りて出家を望けれは奇特成志也とて則髪をおろされける刀脇差衣類なとの有しを布施に上我下人三人有しに未金銀少し有しをとらせ財宝を親類に取らすへし再ひ我を尋へからすとて帰しける是より関東に善知識の数多有るよしを聞しかは鉢をひらき乞食して今爰に下り霊巌上人の御勧めに預り一心不乱に念仏し侍る彼石見守其外子供に至まて随分回向し侍とも我等こときの力に日比の罪障をのかれんとも思ひ侍らす我娘は其後夢にも見え侍るか常の姿なれは畜生道をもまぬかれ侍るかなや石見守は終に夢にも見え侍らす我は一日出家の功徳弥陀如来​本マヽ​​の​​ ​御様の願頼母敷今一日もなからへ念仏の功もつもりなは無間地獄の業をはなとかまぬかれさらんと命をしまれ侍ると語りて涙を流す程に後夜の鐘を撞けれは堂に登りぬ其彼か事を知りたる者に定西法師か俗名は何と云し何の志摩守やらんと申伝しか名字は忘れたりと聞えけるを夫より上方へ登りて今二十五年古き物語求て見終に怪かりし事共かなと思ひ彼法師か又人に洩すなと口堅めし事なれと今はなき世のむかし語りに成ぬれは筆に留め侍る未委き事も有之様に覚侍れとも老の物忘れ片はし計覚たるかきつ也


 明治三十四年十月校了               近藤圭造

 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。