太平記/巻第二十七

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巻第二十七

225 天下妖怪事付清水寺炎上事

貞和五年正月の比より、犯星客星無隙現じければ旁其慎不軽。王位の愁天下の変、兵乱疫癘有べしと、陰陽寮頻に密奏す。是をこそ如何と驚処に、同二月二十六日夜半許に将軍塚夥しく鳴動して、虚空に兵馬の馳過る音半時許しければ、京中の貴賎不思議の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷す処に、明る二十七日午刻に、清水坂より俄に失火出来て、清水寺の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台・鎮守まで一宇も不残炎滅す。火災は尋常の事なれ共、風不吹大なる炎遥に飛去て、厳重の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄定れる表事也。又同六月三日八幡の御殿、辰刻より酉時まで鳴動す。神鏑声を添て、王城を差て鳴て行。又同六月十日より太白・辰星・歳星の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘兵革相続、餓■満巷べしと天文博士注説す。又潤六月五日戌刻に、巽方と乾方より、電光耀き出て、両方の光寄合て如戦して、砕け散ては寄合て、風の猛火を吹上るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形の者見へて、乾の光退き行、巽の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪、如何様天下穏ならじと申合にけり。


226 田楽事付長講見物事

今年多の不思議打続中に、洛中に田楽を翫ぶ事法に過たり。大樹是を被興事又無類。されば万人手足を空にして朝夕是が為に婬費す。関東亡びんとて、高時禅門好み翫しが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮の沙門有りけるが、四条橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合せ老若に分て能くらべをぞせさせける。四条川原に桟敷を打つ。希代の見物なるべしとて貴賎の男女挙る事不斜、公家には摂禄大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹是を被興しかば、其以下の人々は不及申、卿相雲客諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷を打。五六八九寸の安の郡などら鐫貫て、囲八十三間に三重四重に組上、物も夥しく要へたり。已時刻に成しかば、軽軒香車地を争ひ、軽裘肥馬繋に所なし。幔幕風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若、東西に幄を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋の幕には纐纈を張、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚るに不異。舞台に曲■縄床を立双べ、紅緑の氈を展布て、豹虎の皮を懸たれば、見に眼を照れて、心も空に成ぬるに、律雅調冷く、颯声耳を清処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴し音取笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭を凝し、粧ひ紅粉を尽したる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練出たれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の金黒にて、色々の花鳥を織尽し、染狂たる水干に、銀の乱紋打たる下濃の袴に下結して拍子を打、あやい笠を傾け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠に由々敷ぞ見へたりける。一の簓は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚す。角て立合終りしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染てぞし出したる。斯る処に新座の楽屋八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎皮の連貫を蹴開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛上り、左へ回右へ曲り、抛返ては上りたる在様、誠に此世の者とは不見、忽に山王神託して、此奇瑞を被示かと、感興身にぞ余りける。されば百余間の桟敷共怺兼て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚叫びける間、感声席に余りつゝ、且は閑りもやらず。浩処に、将軍の御桟敷の辺より、厳しき女房の練貫の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚るとぞ見へし。大物の五六にて打付たる桟敷傾立て、あれや/\と云程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒をするが如く、一度に同とぞ倒ける。若干の大物共落重りける間、被打殺者其数不知。斯る紛れに物取共、人の太刀々を奪て逃るもあり、見付て切て留るもあり。或は腰膝を被打折、手足を打切られ、或は己と抜たる太刀長刀に、此彼を突貫れて血にまみれ、或は涌せる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。只衆合叫喚の罪人も角やとぞ見へたりける。田楽は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党は、主の女房を舁負て逃る者を、打物の鞘をはづして追懸る。返し合て切合処もあり。被切朱に成者もあり。脩羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前に有が如し。梶井宮も御腰を打損ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首の狂歌を四条川原に立たり。釘付にしたる桟敷の倒るは梶井宮の不覚なりけり又二条関白殿も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽の将碁倒の桟敷には王許こそ登らざりけれ是非直事。如何様天狗の所行にこそ有らんと思合せて、後能々聞けば山門西塔院釈迦堂の長講、所用有て下りける道に、山伏一人行合て、「只今四条河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已に日中に成候。又用意の桟敷なんど候はで、只今より其座に臨候共、中へ如何が入候べき。」と申せば、山伏、「中へ安く入奉べき様候。只我迹に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏の迹に付て三足許歩むと思たれば、不覚四条河原に行至りぬ。早中門口打程に成ぬれば、鼠戸の口も塞りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏、「我手に付せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申間、実からずと乍思、手に取付たれば、山伏、長講を小脇に挟で三重に構たる桟敷を軽々と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席座中の人々を見るに、皆仁木・細河・高・上杉の人々ならでは交りたる人も無ければ、「如何か此座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、彼山伏忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申間、長講は様ぞあるらんと思て、山伏と双で将軍の対座に居たれば、種々の献盃、様々の美物、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏と長講とに色代有て、替る替る始給ふ処に、新座の閑屋、猿の面を著て御幣を差挙、橋の高欄を一飛々ては拍子を蹈み、蹈ては五幣を打振て、誠に軽げに跳出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是助けよ。」と、喚き叫て感ずる声、半時許ぞのゝめきける。此時彼山伏、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推と見へけるが、二百余間の桟敷、皆天狗倒に逢てげり。よそよりは辻風の吹とぞ見へける。誠に今度桟敷の儀、神明御眸を被廻けるにや、彼桟敷崩て人多く死ける事は六月十一日也。其次の日、終日終夜大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原の死人汚穢不浄を洗流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部悉霊神の威を助て、清浄の法雨を潅きける。難有かりし様也。


227 雲景未来記事

又此比天下第一の不思議あり。出羽国羽黒と云所に一人の山伏あり。名をば雲景とぞ申ける。希代の目に逢たりとて、熊野の牛王の裏に告文を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉有て、過にし春の比より思立て都に上り、今熊野に居住して、華洛の名迹を巡礼する程に、貞和五年二十日の事なる天竜寺一見の為に西郊にぞ赴ける。官の庁の辺より年六十許なる山伏一人行連たり。彼雲景に、「御身は何くへ御座ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬あつて建立ある大伽藍にて候なれば、一見仕候ばやと存じて、天竜寺へ参候也。」とぞ語ける。「天竜寺もさる事なれ共、我等が住む山こそ日本無双の霊地にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程に、愛宕山とかや聞ゆる高峯に至ぬ。誠に仏閣奇麗にして、玉を敷き金を鏤めたり。信心肝に銘じ身の毛竪ち貴く思ければ、角てもあらまほしく思処に、此山伏雲景が袖を磬て、是まで参り給たる思出に秘所共を見せ奉らんとて、本堂の後、座主の坊と覚しき所へ行たれば、是又殊勝の霊地なり。爰に至て見れば人多く坐し給へり。或は衣冠正しく金笏を持給へる人もあり。或は貴僧高僧の形にて香染の衣著たる人もあり。雲景恐しながら広庇にくゞまり居たるに、御坐を二帖布たるに、大なる金の鵄翅を刷ひて著座したり。右の傍には長八尺許なる男の、大弓大矢を横へたるが畏てぞ候ける。左の一座には袞竜の御衣に日月星辰を鮮かに織たるを著給へる人、金の笏を持て並居玉ふ。座敷の体余に怖しく不思議にて、引導の山伏に、「如何なる御座敷候ぞ。」と問へば、山伏答へけるは、「上座なる金の鵄こそ崇徳院にて渡せ給へ。其傍なる大男こそ為義入道の八男八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝・井上皇后・後鳥羽院・後醍醐院、次第の登位を逐て悪魔王の棟梁と成給ふ、止事なき賢帝達よ。其坐の次なる僧綱達こそ、玄肪・真済・寛朝・慈慧・頼豪・仁海・尊雲等の高僧達、同大魔王と成て爰に集り、天下を乱候べき評定にて有。」とぞ語りける。雲景恐怖しながら不思議の事哉と思つゝ畏居たれば、一座の宿老山伏、「是は何くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導の山伏しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺して、「さらば此間京中の事共をば皆見聞給ふらん。何事か侍る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。此比は只四条河原の桟敷の崩て人多く被打殺候事、昔も今も浩る事候はず、只天狗の態とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟、此比執事の故に御中不快と候。是若天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎申候。」とぞ答ける。其時此山伏申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒は惣じて天狗の態許にも非ず。故をいかにと云に当関白殿は忝も天津児屋根尊の御末、天子輔佐の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井宮と申は、今上皇帝の御連枝にて、三塔の貫主、国家護持の棟梁、円宗顕密の主にて御坐す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護の人也。而るに此桟敷と申は、橋の勧進に桑門の捨人が興行する処也。見物の者と云は洛中の地下人、商買の輩共也。其に日本一州を治め給ふ貴人達交り雑居し給へば、正八幡大菩薩・春日大明神・山王権現の忿を含ませ給ふに依て、此地を頂き給ふ堅牢地神驚給ふ間、其勢に応じて皆崩たる也。此僧も其比京に罷出しか共、村雲の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷りて不見。」とぞ申ける。雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部は一向天狗にて御坐すと申候は、如何様の事にて候哉らん。」と問ければ、此僧の曰、「其はさる事候。彼僧は殊にさかしき人にて候間、天狗の中より撰び出して乱世の媒の為に遣したる也。世中乱れば本の住所へ可帰也。さてこそ所多きに村雲と云所に住するなれ。雲は天狗の乗物なるに依ての故也。加様の事努々人に不可知給。初て此所へ尋来給へば、委細の物語を申也。」とぞ語ける。雲景、不思議の事をも見聞者哉と思て天下の重事、未来の安否を聞ばやと思て、「さて将軍御兄弟執事の間の不和は、何れか道理にて始終通り候べき。」と問へば、「三条殿と執事の不快は一両月を不可過、大なる珍事なるべし。理非の事は是非を難弁。此人々身の難に逢ひ不肖なる時は、哀世を持たん時は政道をも能行はんずる者をと思しか共、富貴充満の後は古への有増一事も不通。上暗く下諛て諸事に親疎あれば、神明三宝の冥鑒にも背き、天下貴賎の人望にも違て、我非をば知ず、人を謗り合ふ心あり。只師子の虫の師子の肉を食が如し。適仁政と思事もさもあらず、只人の煩ひ歎のみ也。夫仁とは施慧四海、深く憐民云仁。夫政道と云は治国憐人、善悪親疎を不分撫育するを申也。而るに近日の儀、聊も善政を不聞欲心熾盛にして君臣父子の道をも不弁、只人の財を我有にせんと許の心なれば不矯飾無云事。仏神能知見御座さねば、我が企る処も不成、依果報浅深、聊取世持国者有といへ共、真実の儀に非ず。されば一人として治世運長久に不持也。君を軽んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾其外の政道何事か可有。然間悪逆の道こそ替れ。猜みもどき合ふ輩、何れも無差別亡びん事無疑。喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し。されば近年武家の世を執事頼朝卿より以来、高時に到るまで已に十一代、蛮夷の賎しき身を以て世の主たる事必本儀にはあらね共、世澆季に及ぶ験に無力。時与事只一世の道理に非ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故に下剋上の一端にあり。高貴清花も君主一人も共に力を不得、下輩下賎の士四海を呑む。依之天下武家と成也。是必誰為にも非ず、時代機根相萌て因果業報の時到る故也。君を遠島へ配し奉り悪を天下に行し義時を、浅猿と云しか共、宿因のある程は子孫無窮に光栄せり。是又涯分の政道を行ひ、己を責て徳を施しゝかば、国豊に民不苦。されども宿報漸く傾く時、天心に背き仏神捨給ふ時を得て、先朝高時を追伐せらる。是必しも後醍醐院の聖徳の到りに非ず、自滅の時到る也。世も上代、仁徳も今の君主に勝り給し後鳥羽院の御時は、上の威も強く下の勢も弱しかども下勝ち上負ぬ。今末世濁乱の時分なれ共、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃なるべし。是以可心得給。」と語りければ、雲景重て申さく、「先代尽て亡しかば、など先朝久御代をば治御座候はぬ。」と問ければ、「其又有子細事に候。先朝随分賢王の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育の叡慮は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依有様に見へしか共、■慢のみ有て実儀不御座。され共其程の賢王も末代には有まじければ何事にもよき真似をばすべし。是を以て暫なれ共加様の所を以て其御器用に当り、運の傾く高時、消方の灯前の扇と成せ給ひて亡し給ひぬ。其理に答て累代繁栄四海に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠尭舜の功、聖明の徳御坐ねば、高時に劣る足利に世をば奪れさせ給ぬ。今持明院殿は中々執権開運武家に順せ給て、偏に幼児の乳母を憑が如く、奴と等しく成て御座程に、依仁道善悪還て如形安全に御坐者也。是も御本意には有ね共、理をも欲心をも打捨て御座さば、末代邪悪の時中々御運を開せ給ふべき者也とても王法は平家の末より本朝には尽はてゝ、武運ならでは立まじかりしを御了知も無て、仁徳聖化は昔に不及して国を執らん御欲心許を先とし、本に代を復すべしとて、末世の機分戎夷の掌に可堕御悟無りしかば、御鳥羽院の御謀叛徒に成て、公家の威勢其時より塗炭に落し也。されば其宸襟を為休先朝高時を失給しか共、尚公家代をば執せ給はぬ者也。さても三種の神器を本朝の宝として神代より伝る璽、国を理守も此神器也。是は以伝為詮。然に今の王者此明器を伝る事無て位を践御座事、誠に王位共難申。然共さすが三箇の重事を執行はせ給へば、天照太神も守らせ給覧と憑敷処もある也。此明器我朝の宝として、神代の始より人皇の今に到るまで取伝御座事、誠に小国也といへ共、三国に超過せる吾朝神国の不思議は是也。されば此神器無らん代は月入て後の残夜の如し。末代のしるし王法を神道棄給ふ事と知べし。此重器は平家滅亡の時、安徳天皇西海に渡奉て海底に沈られし時、神璽内侍所をば取返し奉しか共宝剣は遂に沈失ぬ。されば王法悪王ながら安徳天王の御時までにて失はてぬる証は是也。其故は後鳥羽院の始て三種の重器無して元暦に践祚有しに、其末流皇統継体として、今に御相承佳模とは申せ共、今思へば彼元暦よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道に勝し表示には、宝剣は其時までにて失にき。仍武威昌に立て国家を奪也。然共其尽し後百余年は武家雅意に任て天下を司ると云共、王位も文道も相残る故に、関東如形政道をも理め君王をも崇め奉る体にて、諸国に総追捕使をば置たれども、諸司要脚の公事正税、仏神の本主、相伝の領には手を不懸目出かりしに、時代純機宿報の感果ある事なれば、後醍醐院武家を亡し給ふに依て、弥王道衰て公家、悉廃れたり。此時を得て三種の神器徒に微運の君に随て空く辺鄙外土に交り給ふ。是神明吾朝を棄給ひ、王威無残所尽し証拠也。是元暦の安徳天皇の御時に相同じ。国を受給ふ主に随給はぬは、国を不守験也。されば神道王法共になき代なれば、上廃れ下驕て是非を弁る事なし。然れば師直・師泰が安否、将軍兄弟の通塞も難弁。」とぞ語ける。雲景重て申けるは、「さては早乱悪の世にて下上に逆ひ、師直・師泰我侭にしすまして天下を持つべき歟。」と問へば、「いやさは不可有。如何末世濁乱の義にて、下先勝て上を可犯。され共又上を犯咎難遁ければ、下又其咎に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人君主を軽じ給へば、執事其外家人等も又武将を軽じ候。是因果の道理也。されば地口天心を呑と云変あれば、何にも下刻上の謂にて師直先可勝。自是天下大に乱て父子兄弟怨讎を結び、政道聊も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。雲景、「今加様に世間の事鑒を懸て宣ひつる人は誰。」と尋れば、「彼老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山の太郎坊にて御座。」と答へける。尚も天下の安危国の治乱を問んとする処に、俄に猛火燃来て、座中の客七顛八倒する程に、門外へ走出ると思たれば、夢の覚たる心地して、大内の旧迹大庭の椋の木の本に、朦々としてぞ立たりける。四方を見廻したれば、日已に西の山端に残て、京へ出る人多ければ、其に伴ひて我宿坊にたどり来て、心閑に彼不思議を案ずるに、無疑天狗道に行にけり。是は只非可打棄、且は末代の物語、且は当世の用心にもなれかしと思しかば、我身の刑を不顧、委細に書載、熊野の牛王の裏に告文を書添、貞和五年潤六月三日と書付て、伝奏に付て進奏す。誠に怪異の事共也。


228 左兵衛督欲誅師直事

斯りし処に、師直・師泰等誅罰の事、上杉・畠山が讒尚深く、妙吉侍者荐に被申ければ、将軍に知せ奉らで、左兵衛督窃に上杉・畠山・大高伊予守・粟飯原下総守・斉藤五郎左衛門入道五六人に評定有て、内内師直兄弟を可被誅謀をぞ被議ける。大高伊予守は大力也。宍戸安芸守は物馴たる剛の者なればとて、彼等二人を組手に定め若し手に余る事あらば、討洩さぬ様に用心せよとて、器用の者共百余人に物具せさせて窃に是を隠置、師直をぞ被召ける。師直は夢にも可思寄事ならねば、若党中間は皆遠侍大庭に並居て、中門の唐垣をかけへだてられ、師直只一人六間の客殿に座したり。師直が今の命は風待程の露よりも危しと見へける処に、殊更此事勝て申沙汰したりける粟飯原下総守清胤、俄に心替りして告知せばやと思ひければ、些色代する様にして、吃と目くはせをしたりければ、師直心早者なりければ、軈て心得て、かりそめに罷出る体にて、門前より馬に打乗、己が宿所にぞ帰ける。其夜軈粟飯原・斉藤二人、執事の屋形に来て、「此間三条殿の御企、上杉・畠山の人々の隠謀、兔こそ候つれ角こそ候つれ。」と語りければ、執事様々の引出物して、「猶も殿中様の事は内々告承候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。師直是より用心密くして、一族若党数万人、近辺の在家に宿し置き、出仕を止め虚病してぞ居たりける。去年の春より越後守師泰は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを、師直使を遣て事の由を告たりければ、畠山左京大夫清国紀伊国の守護にて坐しけるを呼奉て、石川城をふまへさせて、越後守は急ぎ京都へぞ帰上ける。左兵衛督は師泰が大勢にて上洛する由聞給て、此者が心をとらでは叶まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾修理進入道を使にて、「武蔵守が行事、万短才庸愚の事ある間、暫く世務の綺を止る処也。自今後は越後守を以て、管領に居せしむる者也。政所以下の沙汰、毎事慇懃に沙汰せらるべし。」とぞ委補せられける。師泰此使に対して、「仰畏て候へ共、枝を切て後根を断んとの御意にてぞ候覧。何様罷上候て、御返事をば申入候べし。」と、事の外なる返事申て、軈て其日石河の陣をぞ打出ける。甲冑を鎧ひたる兵三千余騎にて打立て、持楯・一枚楯、人夫七千余人に持せて混合戦の体に出立て、態白昼に京へ入る。目を驚す有様也。師泰執事の宿所に著て、三条殿と合戦の企有と聞へければ、八月十一日の宵に、赤松入道円心と子息律師則祐、弾正少弼氏範、七百余騎にて武蔵守の屋形へ行向。師直急ぎ対面有て、「三条殿無謂師直が一家を亡さんとの御意、事已に喉に迫候間、将軍へ内々事の由を歎申て候へば、武衛左様の企に及条、事の体不隠便、速に其儀を留て讒者の罪を緩くすべからず。能々制止を可加。若猶不叙用して討手を遣す事あらば、尊氏必師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿の討手に向て矢一仕らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安候。尚も只難義に覚へ候は、左兵衛佐殿備後に被坐候へば、一定中国の勢を引て被責上ぬと覚る許にて候。今夜急ぎ播磨へ御下候て、山陰・山陽の両道を杉坂・舟坂の殺所にて支て給り候へ。」とて、一献を勧められけるが、「此太刀は保昌より伝て代々身を不放守と存候へ共、是を可進。」とて懐剣と云太刀を錦の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。円心軈領掌し、其夜都を立て播磨国に馳下、三千余騎を二手に分て、備前の舟坂・美作の杉坂、二の道を差塞、義旗雲竜を靡かして回天の機をぞ露しける。されば直冬大勢にて上らんと被議けるが、其支度相違したりけり。


229 御所囲事

去程に洛中には、只今可有合戦とて周章立て、貞和五年八月十二日の宵より数万騎の兵上下へ馳違ふ。馬の足音草摺の音、鳴休隙も無りけり。先三条殿へ参りける人々には、吉良左京大夫満義・同上総三郎満貞・石堂中務大輔頼房・同左馬頭頼直・石橋左衛門佐和義・子息治部大輔宣義・尾張修理大夫高経・子息民部少輔氏経・舎弟左近大夫将監氏頼・荒河三河守詮頼・細川刑部大輔頼春・同兵部大輔顕氏・畠山大蔵少輔直宗・上杉伊豆守重能・同左馬助朝房・同弾正少弼朝貞・長井大膳大夫広秀・和田越前守宣茂・高土佐守師秋・千秋三河左衛門大夫惟範・大高伊予守重成・宍戸安芸守朝重・二階堂美濃守行通・佐々木豊前次郎左衛門尉顕清・里見蔵人義宗・勝田能登守助清・狩野下野三郎・苑田美作守・波多野下野守・同因幡守・禰津小次郎・和久四郎左衛門尉・斉藤左衛門大夫利康・飯尾修理進入道・須賀壱岐守清秀・秋山新蔵人朝政・島津四郎左衛門尉、是等を宗との兵として都合其勢七千余騎、轅門を固て扣たり。執事師直の屋形へ馳加る人々には、山名伊豆守時氏・今川五郎入道心省・同駿河守頼貞・吉良左近大夫将監貞経・大島讃岐守盛真・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・同弾正少弼頼勝・桃井修理亮義盛・畠山宮内少輔国頼・細河相模守清氏・土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄・佐々木佐渡判官秀綱・同四郎左衛門尉秀定・同近江四郎氏綱・佐々木大夫判官氏頼・舎弟四郎左衛門尉直綱・同五郎左衛門尉定詮・同大原判官時親・千葉介貞胤・宇都宮三河入道・武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・逸見八郎信茂・大内民部大輔・結城小大郎・梶原河内守・佐竹掃部助師義・同和泉守・三浦遠江守行連・同駿河次郎左衛門・大友豊前太郎頼時・土肥美濃守高真・土屋備前守範遠・安保肥前守忠真・小田伊賀守・田中下総三郎・伴野出羽守長房・木村長門四郎・小幡左衛門尉・曾我左衛門尉・海老名尾張六郎季直・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・二階堂山城三郎行元・中条備前守秀長・伊勢勘解由左衛門・設楽五郎兵衛尉・宇佐美三河三郎・清久左衛門次郎・富永孫四郎・寺尾新蔵人・厚東駿河守・富樫介を始として、多田院御家人・常陸平氏・甲斐源氏・高家の一族は申に不及、畿内近国の兵、芳志恩顧の輩、我も我もと馳寄間、其勢無程五万余騎、一条大路・今出河・転法輪・柳が辻・出雲路河原に至るまで、無透間打込たる。将軍是に驚かせ給ひ、三条殿へ使を以て被仰けるは、「師直・師泰過分の奢侈身に余て忽主従の礼を乱る。末代と乍云事常篇に絶たり。此上は如何様其へ寄る事も可有、急是へ御渡候へ。一所にて安否を定めん。」と被仰ければ、左兵衛督馳集たる兵共を召具して、将軍の御所、近衛東洞院へぞ御坐ける。此事の様を見、不叶とや思けん、初馳集たる兵共、五騎十騎落失て師直の手にぞ加りける。されば宗徒の御一族、近習の輩無弐忠を存する兵僅に千騎にも不足けり。明れば八月十三日の卯刻に、武蔵守師直・子息武蔵五郎師夏、雲霞の兵を相卒て、法成寺河原に打出て、二手にむずと押分て、将軍の御所の東北を十重二十重に囲みて、三度時をぞ揚たりける。越後守師泰は七千余騎を引分て、西南の小路を立切、搦手にこそ廻けれ。四方より火を懸て焼責にすべしと聞へしかば、兵火の余烟難遁とて、其辺近卿相雲客の亭、長講堂・三宝院へ資財雑具を運び、僧俗男女東西に逃迷ふ。内裏も近ければ、軍勢事に触て狼藉をも可致とて、俄に竜駕を被促持明院殿へ行幸なる。摂禄大臣諸家の卿相、周章騒で馳参る。宮中の官女上達部、徒歩にて逃ふためけば、八座・七弁・五位・六位・大吏・外記、悉階下庭上に立連。禁中変化の有様は目も不被当事共也。暦応以来は天下武家に帰し、世上も少穏なりしに、去年楠正行乱を起せしか共討死せしかば、弥無為の世に成すと喜合処に、俄に此乱出来ぬれば、兔にも角にも治まらぬ世の中と歎かぬ者こそ無かりけれ。将軍も左兵衛督も、師直・師泰縦押寄と云共、防戦に及ん事返て恥辱なるべし。兵門前に防ば、御腹召るべしとて、小具足許にて閑り返て御座けり。師直・師泰、義勢は是までなれ共、さすが押寄る事はなく、徒に時をぞ移しける。去程に須賀壱岐守を以て師直が方へ被仰けるは、「累祖義家朝臣、天下の武将たりしより以来、汝が累祖、当家累代の家僕として未曾一日も主従の礼儀を不乱。而に以一旦忿忘余身恩、穏に不展子細大軍を起して東西に囲を成す。是縦尊氏を賎とす共天の譴をば不可遁。心中に憤る事有らば退て所存を可申。但讒者の真偽に事を寄て国家を奪んとの企ならば、再往の問答に不可及。白刃の前に我命止めて忽に黄泉の下に汝が運を可見。」と、只一言の中に若干の理を尽して被仰ければ、師直、「いや/\是までの仰を可承とは不存、只讒臣の申処を御承引候て、無故三条殿より師直が一類亡さんとの御結構にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本を給て後人の悪習をこらさん為に候。」とて、旗の手を一同に颯と下させ、楯を一面に進て両殿を囲奉り、御左右遅しとぞ責たりける。将軍弥腹を居兼て、「累代の家人に被囲て下手人被乞出す例やある。よし/\天下の嘲に身を替て討死せん。」とて、御小袖と云鎧取て被召ければ、堂上堂下に集りたる兵、甲の緒をしめ色めき渡て、「あはや天下の安否よ。」と肝を冷しける処に、左兵衛督被宥申けるは、「彼等奢侈の梟悪法に過るに依て、一旦可誡沙汰由相計を伝聞き、結句返て狼藉を企る事、当家の瑕瑾武略の衰微是に過たる事や候べき。然此禍は直義を恨たる処也。然を軽々敷家僕に対して防戦の御手を被下事口惜候べし。彼れ今讒者を差申す上は、師直が申請るに任せ、彼等を被召出事何の痛候べき。若猶予の御返答あらんに、師直逆威を振ひ忠義を忘れば、一家の武運此時軽して、天下の大変親りあるべし。」と堅制し被申しかば、将軍も諌言違処なしと思給ひければ、「師直が任申請旨、自今後は左兵衛督殿に政道綺はせ奉る事不可有。上杉・畠山をば可被遠流。」と被許ければ、師直喜悦の眉を開き、囲を解て打帰る。次の朝軈妙吉侍者を召取んと人を遣しけるに、早先立て逐電しければ行方も不知。財産は方々へ運び取り、浮雲の富貴忽に夢のごとく成にけり。


230 右兵衛佐直冬鎮西没落事

斯し後は弥師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉を顰む。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆に御座けるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討奉れと申遣したりければ、同九月十三日、杉原又四郎に百余騎にて押寄たり。俄の事なれば可防兵も少くて、直冬朝臣既に被誅給ひぬべかりしを、礒部左近将監が若党散々に防けるが、何れも究竟の手足にて志す矢坪を不違射ける矢に、十六騎に手負せて、十三騎馬より倒に射て落したりければ、杉原少し疼で不懸得ければ、其間に右兵衛佐殿は、河尻肥後守幸俊が船に乗て、肥後国へぞ被落ける。志ある者は小舟に乗て追付奉る。此佐殿は武将の嫡家にて、中国の探題に被下て人皆順靡奉り、富貴栄耀の門を開き、置酒好会の席を舒べ、楽未央しに、夢の間に引替て、心筑紫に落塩の鳴戸を差て行舟は、片帆は雲に泝り、烟水眼に范々たり。万里漂泊の愁、一葉扁舟の浮思ひ、浪馴衣袖朽て、涙忘るゝ許也。一年父尊氏卿、京都の軍に利無して九州へ落給たりしが、無幾程帰洛の喜に成給ひし事遠からぬ佳例也と、人々上には勇め共、行末も如何がしらぬひの、筑紫に赴旅なれば、無為方ぞ見へたりける。九月十三夜、名にをふ月明にして、旅泊の思も切なりければ、直冬、梓弓我こそあらめ引連て人にさへうき月を見せつると詠じ給へば、袖を濡さぬ人はなし。


231 左馬頭義詮上洛事

去程に三条殿は、師直・師泰が憤猶深きに依て、天下の政務の事不及口入。大樹は元来政務を謙譲し給へば、自関東左馬頭義詮を急ぎ上洛あらせて、直義に不相替政道を申付、師直諸事を可申沙汰定りにけり。此左馬頭と申すは千寿王丸と申て久く関東に居へ置れたりしが、今は器にあたるべしとて、権柄の為に上洛あるとぞ聞へし。同十月四日左馬頭鎌倉を立て、同二十二日入洛し給けり。上洛の体由々敷見物也とて、粟田口・四宮河原辺まで桟敷を打て車を立、貴賎巷をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉勢多まで参向す。東国の大名も川越・高坂を始として大略送りに上洛す。馬具足奇麗也しかば誠に耳目を驚す。其美を尽し善を尽すも理哉、将軍の長男にて直義の政務に替り天下の権を執らん為に上洛ある事なれば、一涯珍らか也。今夜将軍の亭に著給へば、仙洞より勧修寺大納言経顕卿を勅使にて、典厩上洛の事を賀し仰らる。同二十六日三条坊門高倉、直義朝臣の宿所へ被移住、頓て政務執行の沙汰始あり。目出かりし事共也。


232 直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事

去程に直義は世の交を止、細川兵部大輔顕氏の錦小路堀川の宿所へ被移にけり。猶も師直・師泰は、角て始終御憤を被止まじければ、身の為悪かるべしとて、偸に可奉失由内々議すと聞へければ、其疑を散ぜん為に、先世に望なく御身を捨はてられたる心中を知せんとにや、貞和五年十二月八日、御歳四十二にして御髪を落し給ひける。未強仕の齢幾程も不過に、剃髪染衣の姿に帰し給ひし事、盛者必衰の理と乍云、うたてかりける事共也。斯しかば天下の事綺し程こそあれ、今は大廈高墻の内に身を置き、軽羅褥茵の上に非可楽とて、錦小路堀河に幽閉閑疎の御住居、垣に苔むし軒に松旧たるが、茅茨煙に篭て夜の月朦朧たり。荻花風に戦で暮の声蕭疎たり。時遷事去て、人物古に非る事を感じ、蘿窓草屋の底に座来して、経巻を抛隙も無りけり。時しもあれや秋暮て、時雨がちなる冬闌ぬ。冷然しさまさる簾外には、香盧峯の雪も浦山敷、身の古はあだし世の、夢かとぞ思ふ思きや、雪踏分し小野の山、今更思ひしられつゝ、問人もがなと思へども、世の聞耳を憚て事問人も無りしに、独清軒玄慧法印、師直が許しを得て、時々参りつゝ、異国本朝の物語共して慰奉りけるが、老病に被犯て不参得と申ければ、薬を一包送給ふとて、其裹紙に、ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世にと有しかば、法印是を見て泣々、感君一日恩。招我百年魂。扶病坐床下。披書拭泪痕。と一首の小詩に九回の思を尽して奉る。其後無程法印身罷にけり。慧源禅巷哀に思て、自此詩の奥に紙を継で、六兪般若の真文を写して、彼追善にぞ被擬ける。


233 上杉畠山流罪死刑事

去程に上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗をば、所領を没収し、宿所を破却して共に越前国へ流遣されけり。此人々さりとも死罪に被行までの事はよも非じと憑れけるにや、暫の別を悲て、女房少人々まで皆伴て下給へ共、馴ぬ旅寝の床の露、をきふし袖をや濡すらん。日来より翫びし事なれば、旅の思を慰めんと一面の琵琶を馬鞍にかけ、旅館の月に弾じ給へば、王昭君が胡角一声霜後夢、漢宮万里月前腸と、胡国の旅を悲しも角やと思知れたり。嵐の風に関越て、紅葉をぬさと、手向山、暮行秋の別まで、身にしられたる哀にて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂の数よりも、思へば多き歎哉。絶ぬ思を志賀浦、渚によする佐々浪の、返るを見るも浦山敷、七座神を伏拝み、身の行末を祈ても、都に又も帰べき、事は堅田に引網の、目にもたまらぬ我泪、今津・甲斐津を過行ば、湖水の霧に峙て、波間に見へたる小島あり。是なんめり、都良香が古、三千世界は眼前に尽ぬと詠ぜしかば、十二因縁は心裡に空と云下句を、弁才天の続給し竹生島よと望見て、暫法施を奉る。焼ぬ塩津を過行ば、思ひ越路の秋の風、音は荒血の山越て、浅茅色付野を行ば、末こそしらね梓弓、敦賀の津にも身を寄せて、袖にや浪の懸るらん。稠く守る武士の、矢田野は何く帰山、名をのみ聞て甲斐もなし。治承の乱に篭けん、火打が城を見上れば、蝸牛の角の上三千界、石火の光の中一刹那、哀あだなる憂世哉と、今更驚許也。無常の虎の身を責る、上野の原を過行ば、我ゆへさはがしき、月の鼠の根をかぶる、壁草のいつまでか、露の命の懸るべき。とても可消水の泡の流留る処とて、江守の庄にぞ着にける。当国の守護代細河刑部大輔、八木光勝是を請取て、浅猿気なる柴の庵の、しばしも如何が栖れんと、見るだに物憂住居なるに、警固を居へてぞ置れたりける。痛哉都にてはさしも気高かりし薄桧皮の屋形の、三葉四葉に作双て奇麗なるに、車馬門前に群集し賓客堂上に充満して、声花にこそ住給しに、今は引替たる鄙の長途に、やすらふだにも悲きに、竹の編戸松の垣、時雨も風もたまらねば、袂の乾く隙もなし。されば如何なる宿業にてか斯る憂目に逢らんと、乍我うらめしくて、あるも甲斐なき命なりけるを、猶も師直不足にや思けん、後の禍をも不顧、潜に討手を差下し、守護代八木の光勝に云合せ、上杉・畠山を可討とぞ下知しける。光勝元は上杉が下知に随者也けるが、武蔵守に被語て俄に心変じければ、八月二十四日の夜半許に、伊豆守の配所、江守の庄へ行て、「昨日の暮程に高弁定信大勢にて当国の府に著て候を、何事やらんと内々相尋て候へば、旁を討進せん為に下て候なる。加様にて御座候ては、争か叶はせ給候べき。今夜急夜に紛れて落させ給ひ、越中越後の間に立忍ばせ給て、将軍へ事の子細を申入させ給候はゞ、師直等は忽蒙御勘気、御身の罪は軽成て、などか帰参の御事無るべき。警固の兵共にも道の程の御怖畏候まじ。只はや討手の近付候はぬさきに落させ給ひ候へ。」と誠に弐なげに申ければ、出抜とは夢にも知給はず、取物も不取敢、女房少き人々まで皆引具して、上下五十三人、歩はだしなる有様にて加賀の方へぞ被落ける。時しもこそあれ、霑交に降時雨、面を打が如くにて、僅に細き田面の道、上は氷れる馬ざくり、蹈ば深泥膝にあがる。簑もなく笠も著ざれば、膚までぬれ徹り、手亀り足寒へたるに、男は女の手を引、親は少き子を負て、何くを可落著処とも不知、只跡より討手や懸るらんと、怖ろしき侭に落行心中こそ哀なれ。八木光勝兼て近辺に触回り、「上杉・畠山の人々、流人の身として落て行事あらば、無是非皆討止よ。」と申間、江守・浅生水・八代庄・安居・波羅蜜の辺に居たる溢者共、太鼓を鳴し鐘を撞て、「落人あり打止よ。」と騒動す。上杉・畠山是に驚て、一足も前へ落延んと倒れふためきて、足羽の渡へ行著たれば、川の橋を引落して、足羽・藤島の者共、川向に楯を一面に衝双べたり。さらば跡へ帰て、八木をこそ憑まめと憂かりし江守へ立帰れば、又浅生水の橋をはねはづして、迹にも敵充満たり。只つかれの鳥の犬と鷹とに責らるらんも、角やと思ひしられたり。是までも主の先途を見はてんと、付順ひたりける若党十三人、主の自害を勧めん為、押膚脱で皆一度に腹をぞ切たりける。畠山大蔵少輔もつゞいて腹掻切、其刀を引抜て、上杉伊豆守の前に投遣、「御腰刀は些寸延て見へ候、是にて御自害候へ。」と云もはてず、うつぶしに成て倒れにけり。伊豆守其刀を手に取ながら、幾程ならぬ憂世の名残惜かねて、女房の方をつく/゛\と見て、袖を顔に押あて、只さめ/゛\と泣居たる許にて、坐に時をぞ移されける。去程に八木光勝が中間共に生捕られて、被差殺けるこそうたてけれ。武士たる人は、平生の振舞はよしや兔も角もあれ強見る処に非ず。只最後の死様をこそ執する事なるに、蓬くも見へ給ひつる死場哉と、爪弾せぬ人も無りけり。女房は年此日来のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしとも不覚と泣悲みて其淵瀬に身をも沈めんと、人目の隙を求給ひけるを、年来知識に被憑たりける聖、兔角止め教訓して、往生院の道場にて髪剃落し奉て、無迹を訪外は更他事なしとぞ聞へし。加様に万づ成ぬれば、天下の政道然武家の執事の手に落て、今に乱ぬとぞ見へたりける。


234 大嘗会事

去程に年内頓て大礼可有と、重て評定せられけり。当年三月七日に可行と沙汰有しか共、大儀不事行。乍去さのみ延引如何とて、可被果遂にぞ定りける。夫大礼と申は、大内回禄の後は代々の流例として、大極殿の儀式を被移て大政官の庁にて是を被行。内弁は洞院太政大臣公資公とぞ聞へし。即位の内弁を大相国勤仕の事先縦邂逅なり、或は不快也と僉議区也しを、勧修寺大納言経顕卿勧で被申けるは、「相国の内弁の先例両度也。保安・久寿の両主也。保安は誠に凶例とも云つべし、久寿は又佳例なれば、彼先規を争でか可被嫌。其上今の相国は時に当る職に達し、世に聞たる才幹なり。されば君主も義を訪ひ政道を■給へば、一人師範其身に当れり。諸家も礼を学和漢の鑒と仰て、四海の儀形人を恥ず。」と被申しかば、皆閉口して是非の沙汰にも不及、相国内弁に定り給ひけり。外弁は三条坊門源大納言家信・高倉宰相広通・冷泉宰相経隆也。左の侍従は花山院宰相中将家賢、右の侍従は菊亭三位中将公真也。御即位の大礼は四海の経営にて、緇素の壮観可比事無れば、遠近踵を継で群をなす。両院も御見物の為に御幸成て、外弁幄の西南の門外に御車を被立。天子諸卿冕服を著し諸衛諸陣大儀を伏す。四神幡を■に立て、諸衛鼓を陣振る。紅旗巻風画竜揚り、玉幡映日文鳳翔る、秦阿房宮にも不異、呉の姑蘇台も角やと覚て、末代と乍云、懸る大儀を被執行事有難かりし様也。此日何なる日ぞや、貞和五年十二月二十六日、天子登壇即位して数度の大礼事ゆへなく被行しかば、今年は目出度暮にけり。