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太平記/巻第三十七

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巻第三十七

306 清氏正儀寄京事

相摸守は、石堂刑部卿を奏者にて、「清氏不肖の身にて候へ共、御方に参ずる故に依て、四国・東国・山陰・東山、太略義兵を揚候なる。京都は元来はか/゛\しき兵一人も候はぬ上、細川右馬頭頼之・赤松律師則祐は、当時山名伊豆守と陣を取向ふて、相戦ふ最中にて候へば、皆我が国を立離れ候まじ。土岐・佐々木等は、又仁木右京大夫義長と戦て、両陣相支て上洛仕る事候まじ。可防兵もなく助の勢も有まじき時分にて候へば、急ぎ和田・楠以下の官軍に、合力を致候へと仰下され候へ。清氏真前を仕て京都を一日が中に責落して、臨幸を正月以前に成進せ候べし。」とぞ申ける。主上げにもと思食ければ、軈て楠を召て、「清氏が申所いかゞ有べき。」と仰らる。正儀暫く思案して申けるは、「故尊氏卿、正月十六日の合戦に打負て、筑紫へ落て候しより以来、朝敵都を落る事已に五箇度に及候。然れども天下の士卒、猶皇天を戴く者少く候間、官軍洛中に足を留る事を不得候。然も、一端京都を落さん事は、清氏が力を借までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責られ候はん時、何れの国か官軍の助と成候べき。若退く事を恥て洛中にて戦候はゞ、四国・西国の御敵、兵船を浮べて跡を襲い、美濃・尾張・越前・加賀の朝敵共、宇治・勢多より押寄て戦を決せば、又天下を朝敵に奪れん事、掌の内に有ぬと覚候。但し愚案短才の身、公儀を褊し申べきにて候はねば、兔も角も綸言に順ひ候べし。」とぞ申ける。主上を始め進せて、竹園・椒房・諸司・諸衛に至るまで、住馴し都の変しさに後の難儀をば不顧、「一夜の程なり共、雲居の花に旅ねしてこそ、後は其夜の夢を忍ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉義一同して、明年よりは三年北塞りなり、節分以前に洛中の朝敵を責落して、臨幸を成奉るべき由儀定あて、兵共をぞ被召ける。


307 新将軍京落事

公家大将には、二条殿・四条中納言隆俊卿、武将には、石堂刑部卿頼房・細川相摸守清氏・舎弟左馬助・和田・楠・湯浅・山本・恩地・牲川、其勢二千余騎にて、十二月三日住吉・天王寺に勢調へをすれば、細川兵部少輔氏春淡路の勢を卒して、兵船八十余艘にて堺の浜へつく。赤松彦五郎範実、「摂津国兵庫より打立てすぐに山崎へ攻べし。」と相図を差す。是を聞て京中の貴賎、財宝を鞍馬・高雄へ持運び、蔀・遣戸を放取る。京白川の騒動なゝめならず。宰相中将殿は二日より東寺に陣取て、著到を付られけるに、御内・外様の勢四千余騎と注せり。「さては敵の勢よりも、御方は猶多かりけり。外都に向て可防。」とて、時の侍所なればとて、佐々木治部少輔高秀を、摂津国へ差下さる。当国は親父道誉が管領の国なれば、国中の勢を相催して、五百余騎忍常寺を陣に取て、敵を目の下に待懸たり。今河伊予守に三河・遠江の勢を付て、七百余騎山崎へ差向らる。吉良治部太輔・宇都宮三河三郎・黒田判官を大渡へ向らる。自余の兵千余騎、淀・鳥羽・伏見・竹田へ引へさせ、羽林の兵千余騎をば、東寺の内にぞ篭られける。同七日南方の大将河を越て、軍評定の有けるに、細川相摸守進出て申されける様は、「京都の勢の分際をも、兵の気色をも皆見透したる事にて候へば、此合戦に於ては、枉て清氏が申旨に任られ候へ。先清氏後陣に引へて、山崎へ打通り候はんに、忍常寺に候なる佐々木治部少輔、何千騎候と云共、よも一矢も射懸候はじ。山崎を今河伊予守が堅て候なる。是又一軍までも有まじき者にて候。洛中の合戦に成候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍は、皆跣立に成て一面に楯をつきしとみ、楯の陰に鑓長刀の打物の衆を五六百人づゝ調えて、敵かゝらば馬の草脇・太腹ついては跳落させ/\、一足も前へは進とも一歩も後へ引く気色なくは、敵重て懸入る者候べからず。其時石堂刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手に成て敵の中を懸破り、義詮朝臣を目に懸候程ならば、何くまでか落し候べき。天下の落居一時が中に定り候べき物を。」と申されければ、「此儀誠に可然。」とて、官軍中島を打越て、都を差て責上る。げにも相摸守の云つるに少も不違、忍常寺の麓を打通るに、佐々木治部少輔は時の侍所也。甥二人まで当国にて楠に打れぬ。爰にて先日の恥をも洗んとて、手痛き軍をせんずらんと、思儲けて通けるに、高秀、相摸守に機を呑れて臆してや有けん、矢の一をも不射懸、をめ/\とこそ通しけれ。さては山崎にてぞ、一軍あらんずらんと思ふ処に、今河伊予守も叶まじとや思けん、一戦も戦はで、鳥羽の秋山へ引退く。此を見て此彼に陣を取たる勢共、未敵も近付ざるに、落支度をのみぞし居たりける。「かくては合戦はか/゛\しからじ。先京を落てこそ、東国・北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上をば警固し奉り、同八日の暁に、宰相中将殿、苦集滅道を経て勢多を通り、近江の武佐寺へ落給ふ。君は舟臣は水、水能浮船、水又覆船也。臣能保君、臣又傾君といへり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持し奉り、今年の冬は清氏忽に敵と成て、相公を傾け奉る。魏徴が太宗を諌ける貞観政要の文、げにもと思ひ知れたり。同日の晩景に南方の官軍都に打入て、将軍の御屋形を焼払ふ。思の外に洛中にて合戦なかりければ、落る勢も入勢も共に狼籍をせず、京白川は中々に此間よりも閑なり。爰に佐渡判官入道々誉都を落ける時、「我宿所へは定てさもとある大将を入替んずらん。」とて、尋常に取したゝめて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取副て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸双べ、三石入許なる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、「誰にても此宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細を申置にけり。楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、「定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候。」と、色代してぞ出迎ける。道誉は相摸守の当敵なれば、此宿所をば定て毀焼べしと憤られけれ共、楠此情を感じて、其儀を止しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖をも不失。剰遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置て、郎等二人止置て、道誉に■替して、又都をぞ落たりける。道誉が今度の振舞、なさけ深く風情有と、感ぜぬ人も無りけり。例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。


308 南方官軍落都事

宮方には、今度京の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付順ひ進せんずらんと被思けるに、案に相違して、始て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池・伊予土居・得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守・同左衛門佐、其外の一族共、国々に多しといへども、或は道を塞がれ、或は勢ひ未だ叶ざれば、一人も不上洛。結句伊勢の仁木右京大夫は、土岐が向城へよせて、打負て城へ引篭る。仁木中務少輔は、丹波にて仁木三郎に打負て都へ引返し、山名伊豆守は暫兵の疲を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実は、養父則祐様々に誘へ宥めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方機を得ずと云者なし。さらば軈て京へ責上れとて越前修理大夫入道々朝の子息左衛門佐以下、三千余騎にて近江武佐寺へ馳参る。佐々木治部少輔高秀・小原備中守は白昼に京を打通て、道誉に馳加る。道誉其勢を合て七百余騎、野路・篠原にて奉待。土岐桔梗一揆は、伊勢の仁木が向城より引分て五百余騎、鈴鹿山を打越て篠原の宿にて追付奉る。此外佐々木六角判官入道崇永・今川伊予守・宇都宮三河入道が勢、都合一万余騎、十二月二十四日に武佐寺を立て、同二十六日先陣勢多に付にけり。丹波路より仁木三郎、山陰道の兵七百余騎を卒して責上る。播磨路よりは、赤松筑前入道世貞・帥律師則祐一千余騎にて兵庫に著く。残五百余騎をば、弾正少弼氏範に付て船に乗せ、堺・天王寺へ押寄て、南方の主上を取奉り、楠が跡を遮んと二手に成てぞ上りける。宮方の官軍、始は京都にてこそ兔も角もならめと申けるが、四方の敵雲霞の如く也と告たりければ、是程に能しよせたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先南方へ引て、四国・西国へ大将を分遣し、越前・信濃・山名・仁木に牒合て、又こそ都を落さめとて、同二十六日の晩景程に、南方の宮方宇治を経て、天王寺・住吉へ落ければ、同二十九日将軍京へ入給ひけり。


309 持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事

帝都の主上は、未近江へ武佐寺に御坐有て、京都の合戦いかゞ有らんと、御心苦敷く思食ける処に、康安元年十二月二十七日に、宰相中将殿早馬を立て、洛中の凶徒等事故なく追落し候ぬ。急ぎ還幸なるべき由を申されたりければ、君を始め進て、供奉の月卿雲客、奴婢僕従に至るまで、悦あへる事尋常ならず。其翌の朝軈て竜駕を促されて、先比叡山の東坂本へ行幸成て、此にて御越年あり。佐々波よする志賀の浦、荒て久しき跡なれど、昔ながらの花園は、今年を春と待顔なり。是も都とは思ながら馴ぬ旅寝の物うさに、諸卿みな今一日もと還幸を勧め申されけれ共、「去年十二月八日都を落させ給ひし刻に、さらでだに諸寮司さ闕たりし里内裏、垣も格子も破失、御簾畳も無りければ、暫く御修理を加てこそ還幸ならめ。」とて、翌年の春の暮月に至まで、猶坂本にぞ御坐ありける。近日は聊の事も、公家の御計としては難叶ければ、内裡修理の事武家へ仰られたりけれ共、領掌は申されながら、いつ道行べしとも見へざりければ、いつまでか外都の御住居も有べきとて、三月十三日に西園寺の旧宅へ還幸なる、是は后妃遊宴の砌、先皇臨幸の地なれば、楼閣玉を鏤めて、客殿雲に聳たり。丹青を尽せる妙音堂、瑠璃を展たる法水院、年々に皆荒はてゝ、見しにもあらず成ぬれば、雨を疑ふ岩下の松風、糸を乱せる門前の柳、五柳先生が旧跡、七松居士が幽棲も角やと覚て物さびたり。爰にて今年の春を送らせ給に、兔角して諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本の里内裏へ還幸なる。供奉月卿雲客は指たる行粧なかりしか共、辻々の警固随兵の武士共皆傍を耀してぞ見へたりける。「細川相摸守清氏は、近年武家の執事として、兵の随付たる事幾千万と云数を不知。其身又弓箭を取て、無双の勇士なりと聞へしかば、是が宮方へ降参しぬる事、偏に帝徳の天に叶へる瑞相、天下の草創は必此人の武徳より事定るべし。」と、吉野の主上を始進て、諸卿皆悦び思食ければ、則大将の任をぞ授られける。其任案に相違して、去年の冬南方官軍相共に、宰相中将殿を追落して、暫く洛中に勢を振ひし時も、此人に馳付勢もなし。幾程なくて官軍又都を落されて、清氏河内国に居たれ共、其旧好を慕て尋来る人も稀なり。只禿筆に譬へられし覇陵の旧将軍に不異。清氏は為ん方なさに、「若四国へ渡りたらば、日来相順ひし兵共の馳付事もや有らん。」とて、正月十四日に、小船十七艘に取乗て阿波国へぞ渡られける。


310 可立大将事付漢楚立義帝事

夫大将を立るに道あり。大将其人に非ざれば、戦に勝事を得がたし。天下已に定て後、文を以て世を治る時は、智慧を先とし、仁義を本とする故に、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行はせ大官を授る事あり。所謂魏徴は楚の君の旧臣なりしか共、唐太宗是を用給ふ。管仲は子糾が寵人たりしか共、斉の桓公是を賞せられき。天下未定時、武を以て世を取らんずるには、功ある人を賞し咎ある人を罰する間、縦威勢ある者なれども、降人を以て大将とはせず。伝聞秦の左将軍章邯は、四十万騎の兵を卒して、楚に降参したりしか共、項羽是を以て大将の印を不与。項伯は、鴻門の会に心を入て高祖を助たりしか共、漢に下て後是に諸侯の国を不授。加様の先蹤を、南方祗候の諸卿誰か存知し給はざるに、先高倉左兵衛督入道慧源に、大将の号を授て、兄の尊氏卿を打せんと給ひしか共叶はず。次に右兵衛佐直冬に、大将の号をゆるされて、父の将軍を討せんとし給ひしも不叶。又仁木右京大夫義長に大将を授て、世を覆さんとせられしも不叶。今又細川相摸守清氏を大将として、代々の主君宰相中将殿を亡さんとし給ふ不叶。是只其理に不当大将を立て、或は父兄の道を違へ、或は主従の義を背く故に、天の譴あるに非ずや。されば古も世を取んとする人は、専ら大将を撰びけるにや。昔秦の始皇の世を奪んとて陣渉と云ける者、自ら大将の印を帯て大沢より出たりしが、無程秦の右将軍白起が為に被討ぬ。其後又項梁と云者、自ら大将の印を帯て、楚国より出たりけるも、秦左将軍章邯に被打にけり。爰に項羽・高祖等色を失て、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増とて年七十三に成ける老臣、座中に進出て申けるは、「天地の間に興も亡も、其理に不依と云事なし。されば楚は三戸の小国なれども、秦を亡さんずる人は、必楚王の子孫にあるべし。其故は秦の始皇六国を亡して天下を並呑せし時、楚の懐王遂に秦を背事なし。始皇帝故なく是を殺して其地を奪へり。是罪は秦に有て善は楚に残るべし。故に秦を打たんとならば、如何にもして、楚の懐王の子孫を一人取立て、諸卒皆命に随べし。」とぞ計申ける。項羽・高祖諸共に、此義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありと尋求けるに、懐王の孫に孫心と申ける人、久く民間に降て、羊を養けるを尋出て、義帝と号し奉て、項羽も高祖も均く命を慎み随ひける。其後より漢楚の軍は利あつて、秦の兵所々にて打負しかば、秦の世終に亡にけり。是を以て思に、故新田義貞・義助兄弟は、先帝の股肱の臣として、武功天下無双。其子息二人義宗・義治とて越前国にあり。共に武勇の道父に不劣、才智又世に不恥。此人々を召て竜顔に咫尺せしめ、武将に委任せられば、誰か其家を軽じ、誰か旧功を続ざらん。此等を閣て、降参不儀の人を以て大将とせられば、吉野の主上天下を被召事、千に一も不可有。縦一旦軍に打勝せ給事有とも、世は又人の物とぞ覚へたる。


311 尾張左衛門佐遁世事

都には細川相摸守敵になりし後は、執事と云者なくして、毎事叶はざりける間、誰をか其職に可置と評定ありけるが、此比時を得たる佐々木佐渡判官入道々誉が聟たるに依て、傍への人々皆追従にや申けん、「尾張大夫入道の子息左衛門佐殿に、増たる人あらじ。」と申ければ、宰相中将殿も心中に異儀無して、執事職を内々此人に定め給ひにけり。父の大夫入道は、元来当腹の三男治部大輔義将寵愛して、先腹の兄二人を世にあらせて見んとも思はざりければ、左衛門佐執事職に可居由を聞て、様々の非を挙て、種々の咎を立て、此者曾て其器用に非ざる由をぞ、宰相中将殿へ申されける。中将殿も人の申に付安き人にて御座ければ、「げにも見子不如父。さらば当腹の三男を面に立て、幼稚の程は、父の大夫入道に、世務を執行さすべし。」と宣ひける。左衛門佐是を聞て、父をや恨にけん、世をうしとや思ひけん、潜に出家して、いづちともなく迷出にけり。付随ふ郎従共二百七十人、同時に皆髻を切て、思々にぞ失にける。此人誠に父の所存をも不破、我身の得道をも願て、出家遁世しぬる事類少き発心なり。但此比の人の有様は、昨日は髻切て実に貴げに見ゆるも、今日は頭を裹て、無慚無愧に振舞事のみ多ければ、此遁世も又行末通らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、遂に道心さむる事なくして、はて給ひけるこそ難有けれ。


312 身子声聞、一角仙人、志賀寺上人事

凡煩悩の根元を切り、迷者の絆を離るゝ事は、上古にも末代にも、能難有事にて侍るにや。昔天竺に身子と申ける声聞、仏果を証ぜん為に、六波羅蜜を行ひけるに、已に五波羅蜜を成就しぬ。檀波羅蜜を修するに至て、隣国より一人の婆羅門来て、財宝を乞に、倉の内の財、身の上の衣、残る所なく是を与ふ。次に眷属及居室を乞に皆与へつ。次に身の毛を乞に、一筋も不残抜て施けり。波羅門猶是に不飽足、「同は汝が眼を穿て、我に与へよ。」とぞ乞ける。身子両眼を穿て、盲目の身と成て、暗夜に迷が如ならん事、いかゞ在べきと悲ながら無力、此行の空くならん事を痛て、自ら二眼を抜て、婆羅門にぞ与へける。婆羅門二の眼を手に取て、「肉眼は被抜て後、涜き物成けり。我何の用にか可立。」とて、則地に抛て、蹂躙してぞ捨たりける。此時に身子、「人の五体の内には、眼にすぎたる物なし。是程用にもなき眼を乞取て、結句地に抛つる事の無念さよ。」と一念瞋恚の心を発しゝより、菩提の行を退しかば、さしも功を積たりし六波羅蜜の行一時に破れて、破戒の声聞とぞ成にける。又昔天竺の波羅奈国に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみけるを見て、婬欲の心ありければ、不覚して漏精したりける。其かゝれる草の葉を妻鹿食て子を生す。形は人にして額に一の角ありければ、見る人是を一角仙人とぞ申ける。修行功積て、神通殊にあらたなり。或時山路に降て、松のしづく苔の露、石岩滑なりけるに、此仙人谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人腹を立て、竜王があればこそ雨をも降らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。不如此竜王共を捕へて禁楼せんにはと思て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕へて、岩の中にぞ押篭ける。是より国土に雨を降すべき竜神なければ、春三月より夏の末に至るまで天下大に旱魃して、山田のさなへさながらに、取らで其侭枯にけり。君遥に民の愁を聞召して、「いかにしてか此一角仙人の通力を失て、竜神を岩の中より可出す。」と問給ふに、或智臣申けるは、「彼仙人縦ひ霞を喰ひ気を飲て、長生不老の道を得たり共、十二の観に於て未足所あればこそ、道にすべりて瞋る心は有つらめ。心未枯木死灰の如ならずは、色に耽り香に染む愛念などか無らんや。然らば三千の宮女の中に、容色殊に勝れたらんを、一人彼草庵の中へ被遣て、草の枕を並べ苔の筵を共にして、夜もすがら蘿洞の夢に契を結ばれば、などか彼通力を失はで候べき。」とぞ申ける。諸臣皆此儀に同じければ、則三千第一の后、扇陀女と申けるに、五百人の美人を副て、一角仙人の草庵の内へぞ被送ける。后はさしもいみじき玉の台を出て、見るに悲げなる草庵に立入給へば、苔もるしづく、袖の露、かはく間もなき御涙なれ共、勅なれば辞するに言ばなくして、十符のすがごもしき忍び、小鹿の角のつかの間に、千年を兼て契給ふ。仙人も岩木にあらざれば、あやなく后に思しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは不疑。夫仙道は露盤の気を嘗ても、婬欲に染ぬれば、仙の法皆尽て其験なし。されば此仙人も一度后に落されけるより、鯢桓の審も破れて通力もなく、金骨返て本の肉身と成しかば、仙人忽に病衰して、軈て空く成にけり。其後后は宮中へ立帰り、竜神は天に飛去て、風雨時に随しかば、農民東作を事とせり。其一角仙人は仏の因位なり。其婬女は耶輙陀羅女これなり。又我朝には志賀寺の上人とて、行学勲修の聖才をはしけり。速に彼三界の火宅を出て、永く九品の浄刹に生んと願しかば、富貴の人を見ても、夢中の快楽と笑ひ、容色の妙なるに合ても、迷の前の著相を哀む。雲を隣の柴の庵、旦しばかりと住程に、手づから栽し庭の松も、秋風高く成にけり。或時上人草庵の中を立出て、手に一尋の杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつゝ、湖水波閑なるに向て、水想観を成て、心を澄して只一人立給たる処に、京極の御息所、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御帰ありけるが、御車の物見をあけられたるに、此上人御目を見合せ進せて、不覚心迷て魂うかれにけり。遥に御車の跡を見送て立たれ共、我思ひはや遣方も無りければ、柴の庵に立帰て、本尊に向奉りたれ共、観念の床の上には、妄想の化のみ立副て、称名の声の中には、たへかねたる大息のみぞつかれける。さても若慰むやと暮山の雲を詠ればいとゞ心もうき迷ひ、閑窓の月に嘯けば、忘ぬ思猶深し。今生の妄念遂に不離は、後生の障と成ぬべければ、我思の深き色を御息所に一端申て、心安く臨終をもせばやと思て、上人狐裘に鳩の杖をつき、泣々京極の御息所の御所へ参て、鞠のつぼの懸の本に、一日一夜ぞ立たりける。余の人は皆いかなる修行者乞食人やらんと、怪む事もなかりけるに、御息所御簾の内より遥に御覧ぜられて、是は如何様志賀の花見の帰るさに、目を見合せたりし聖にてやをはすらん。我故に迷はゞ、後世の罪誰が身の上にか可留。よそながら露許の言の葉に情をかけば、慰む心もこそあれと思召て、「上人是へ。」と被召ければ、はな/\とふるひて、中門の御簾の前に跪て、申出たる事もなく、さめ/\とぞ泣給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食ければ、雪の如くなる御手を、御簾の内より少し指出させ給ひたるに、上人御手に取付て、初春の初ねの今日の玉箒手に取からにゆらぐ玉の緒と読れければ、軈て御息所取あへず、極楽の玉の台の蓮葉に我をいざなへゆらぐ玉の緒とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固の聖人、久修練業の尊宿だにも、遂がたき発心修行の道なるに、家富若き人の浮世の紲を離れて、永く隠遁の身と成にける、左衛門佐入道の心の程こそ難有けれ。


313 畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事

畠山入道々誓・舎弟尾張守義深・同式部大輔兄弟三人は、其勢五百余騎にて伊豆国に逃下り、三津・金山・修禅寺の三の城を構て楯篭りたりと聞へければ、鎌倉の左馬頭基氏先づ平一揆の勢三百余騎を被差向。其勢已に伊豆府に付て、近辺の庄園に兵粮を懸、人夫を駈立ける程に、葛山備中守と、平一揆と所領の事に就て闘諍を引出し、忽に軍をせんとぞひしめきける。畠山が手の者に、遊佐・神保・杉原此を聞て、あはれ弊に乗る処やと思ひければ、五百余騎を三手に分て、三月二十七日の夜半に、伊豆府へ逆寄にぞ寄せたりける。葛山は、平一揆の者共畠山と成合て、夜打に寄せたりと騒ぎ、平一揆は、葛山と引合て、畠山御方を打んとする物なりと心得て、共に心を置合ければ、矢の一をもはか/゛\しく不射出、寄手三万騎徒らに鎌倉を指て引退く。児女の嘲り理なり。左馬頭不安思ひければ、新田・田中を大将として、軈武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野・下野・上総・下総八箇国の勢、二十万余騎をぞ被向ける。畠山は此十余年左馬頭を妹聟に取て、栄耀門戸に余るのみならず、執事の職に居して天下を掌に握しかば、東八箇国の者共の、命に替らんと昵び近付けるを、我身の仁徳と心得て、何となく共我旗を挙たらんに、四五千騎も馳加らぬ事はあらじと憑しに、案に相違して余所の勢一騎も不付、結句一方の大将にもと憑し狩野介も降参しぬ。又其外相伝譜代の家人、厚恩異他郎従共も、日にそへ落失て今は戦ふべしとも覚へざりければ、大勢の重て向ふ由を聞て、二の城に火を懸て修禅寺の城へ引篭る。夢なる哉、昨日は海をはかりし大鵬の、九霄の雲に搏が如く、今日は轍に伏涸魚の、三升の水を求るに不異。「我身かゝるべしと知たらば、新田左兵衛佐を、枉て打つまじかりける物を。」と後悔せりといへり。早く報ひけるを、兼て不知こそ愚なれ。抑畠山入道去去年東国の勢を催立て、南方へ発向したりし事の企を聞けば、只唐の楊国忠・安禄山が天威を仮て、後に世を奪はんと謀しに似たり。昔唐の玄宗位に即給ひし始、四海無事なりしかば、楽に誇り驕をつゝしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心にしめて、五雲の車に召れ、左右のをもと人に手を引かれ、殿上を幸して後宮三十六宮を廻り、三千人の后を御覧ずるに、玄献皇后・武淑妃二人に勝る容色も無りけり。君無限此二人の妃に思食移りて、春の花秋の月、いづれを捨べしとも思召さゞりしに、色ある者は必衰へ、光ある者は終に消ぬる憂世の習なれば、此二人の后無幾程共に御隠ありけり。玄宗余りに御歎有て、玉体も不穏しかば、大臣皆相許て、いづくにか前の皇后・淑妃に勝りて、君の御心をも慰め進すべき美人のあると、至らぬ隅もなくぞ尋ける。爰に弘農の楊玄■が女に、楊貴妃と云ふ美人あり。是は其母昼寝して、楊の陰にねたりけるに、枝より余る下露、婢子に落懸りて胎内に宿りしかば、更々人間の類にては不可有、只天人の化して此土に来物なるべし。紅顔翠黛は元来天の生せる質なれば、何ぞ必しも瓊粉金膏の仮なる色を事とせん。漢の李夫人を写し画工も、是を画かば遂に筆の不及事を怪み、巫山の神女を賦せし宋玉も、是を讃せば、自ら言の方に卑事を恥なん。其語るを聞ても迷ぬべし、況や其色を見ん人をや。加様にはりなく覚へし顔色なれば、時の王侯・貴人・公卿・大夫・媒妁を求め、婚礼を厚して、夫婦たらん事を望しか共、父母かつて不許。秘して深窓に有しかば、夭々たる桃花の暁の露を含で、墻より余る一枝の霞に匂へるが如く也。或人是を媒して、玄宗皇帝の連枝の宮、寧王の御方へ進せけるを、玄宗天威に誇て濫に高将軍を差遣して、道より奪取て後宮へぞ冊入奉ける。玄宗の叡感、寧王の御思、花開枝の一方は折てしぼめるに相似たり。されば月来前殿早、春入後宮遅と詩人も是を題せり。尋常の寒梅樹折て軍持に上れば、一段の清香人の心を感ぜしむ。民屋粛颯たるに衰楊柳移て宮苑にいれば、千尺の翠条、別に春風長かるべし。さらでだにたへに勝れたる容色の上に、金翠を荘り薫香を散ぜしかば、只歓喜園の花の陰に舎脂夫人の粧をなして、春に和せるに不異。一度君王に面をまみへしより、袖の中の珊瑚の玉、掌の上の芙蓉の花と、見る目もあやに御心迷ひしかば、暫其側を離れ給はず、昼は終日に輦を共にして、南内の花に酔を勧め、夜は通宵席を同して、西宮の月に宴をなし給ふ。玄宗余の柔なさに、世人の面に紅粉を施し、身に羅綺を帯たるは、皆仮なる嬋娟にて真の美質に非ず。同は楊貴妃の顕したる膚を見ばやと思召て、驪山宮の温泉に瑠璃の沙を敷き、玉の甃を滑にして、貴妃の御衣をぬぎ給へる貌を御覧ずるに、白く妙なる御はだへに、蘭膏の御湯を引かせければ、藍田日暖玉低涙、■嶺雪融梅吐香かとあやしまるゝ程也。牛車の宣旨を被て、宮中を出入せしかば、光彩の栄耀門戸に満て、服用は皆大長公主に均く、富貴甚天子王侯にも越たり。此楊貴妃のせうとに、楊国忠と云者あり。元来家賎して、■畝の中に長となりしかば、才もなく芸もなく、文にも非ず武にも非ざりしか共、后の兄なりしかば、軈て大臣にぞなされける。此時に安禄山と云ける旧臣、権威爵禄共に楊国忠に被越て、不安思ひけれ共、すべき様なければ力不及。係る処に、天子色を重じて政を乱り、小人高位に登て国の弊を不知を見て、吐蕃の国々皆王命を背と聞へしかば、「誰をか打手に向べき。」と議せられけるに、楊国忠武威を恣にせん為に、大将の印を被授ば、罷向て輙く是を可静由を望申ける間、是に上将軍の宣旨をぞ被下ける。楊国忠則五十万騎の勢を卒して、大荒峯に陣を取る。夫大将となる人は、士卒の志を一にせん為に、士未食将不餐、士宿野将不張蓋。得一豆之飯与士喫、淋一樽之酒与兵飲とこそ申に、此楊国忠明れば旨酒に漬て、兵の飢たるを不知。暮れば美女に纏れて人の訴をも不聞入。只長時の楽にのみ誇り、軍の事をば忘ても不云けるこそ浅猿けれ。去程に兵疲れ将懈りて、進む勢無りければ、吐蕃の戎狄共二十万騎の勢を引て、逆寄にこそ寄たりけれ。大将は元来臆病なり、士卒の心を一にせざれば一戦も不戦、楊国忠が五十万騎、我先にと河を渡して、五日路まで逃たりければ、大荒の四方七千余里、吐蕃に随ひ靡きにけり。敵はさのみ追はざりしか共、楊国忠此にも猶たまり得ずして、都を差て引けるが、今度大将を申請て、発向したる甲斐もなく、一軍せで帰らん事、上聞其憚有ければ、御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲たる兵を一万人首を刎て、各鋒に貫き、是皆吐蕃の徒の頚なりと号して、都へぞ帰参りける。罪無して首を刎られたる兵共の親子兄弟幾千万、悲を含て声を呑み、家々に哭すといへ共、楊国忠が漏聞んずる事を恐て、奏し申人なければ、御方の兵一万人は、敵の頚となして獄門の木に懸られ、大荒の地千里は、打平げたる所と号して楊国忠にぞ被行ける。上乱れ下不背と云事なれば、挙世、只楊国忠を滅さんずる事をぞ計りける。安禄山、此比大荒の境に吐蕃を防がんとて居たりけるが、時至りぬと悦て、諸侯に約をなし、士卒に礼を深して、「楊国忠を打べしと、宣旨を給たり。」と披露して兵を催に、大荒にて楊国忠に打れたりし、一万人の兵共の親類兄弟大に悦て、我先にと馳集りける程に、安禄山が兵は程なく七十万騎に成にけり。則崔乾祐を右将軍とし子思明ら左将軍として都へ上るに、路次の民屋をも不煩、城郭をも不責、安禄山朝敵に成て長安へ責上とは、夢にも人思ひよらず。箪食瓠漿を持て、士卒の疲をぞ労りける。此勢既に都より七十里を隔たる潼関と云山に打あがりて、初て旗の手をおろし、時の声をぞ揚たりける。玄宗皇帝は、折節驪山宮に行幸成て、楊貴妃に霓裳羽衣の舞をまはせて、大梵高台の楽も是には過じと思召ける処に、潼関に馬烟をびたゝしく立て、漁陽より急を告る■鼓、雷の如くに打つゞけたり。探使度々馳帰て、安禄山が徒、崔乾祐・子思明等、百万騎にて寄たりと騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、哥舒翰に三十万騎を相副て、咸陽の南へ被差向。安禄山既に潼関の山に打挙りて、哥舒翰麓に馳向ひたれば、かさよりまつくだりに懸落されて、官軍十万余騎河水に溺て死にけり。哥舒翰僅に打なされて、一日猶長安に支て居たりけるが使を馳て、「幾度戦ふとも勝事を難得。急ぎ竜駕を被廻て蜀山へ落させ給ふべき。」由を申たりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未終に、玄宗皇帝と楊貴妃と、同く五雲の車に被召て都を落給へば、楊国忠を始として、諸王千官悉く歩跣なる有様にて、泣々大軍の跡に相順。哥舒翰長安の軍にも打負て鳳翔県へ落ければ、安禄山が兵、君を追懸進て、旗の手五十町計の跡に連りたり。竜駕既に馬嵬の坡を過させ給ひける時、供奉仕る官軍六万余騎、道を遮て君を通し進せず。「是は何事ぞ。」と御尋ありければ、兵皆戈をふせ地に跪て、「此乱俄に出来て天子宮闕を去せ給ふ事、偏に楊国忠が驕を極め罪なき人を切たりし故也。然れば楊国忠を官軍の中へ給て首を刎、天下の人の心を息め候べし。不然は縦禄山が鋒には死すとも、天子の竜駕をば通し進すまじ。」とぞ申ける。跡より敵は追懸たり。惜むとも不可叶と思召ければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ被仰ける。官軍大に喜て、楊国忠を馬より引落し、戈の先に指貫き、一同にどつとぞ笑ける。是を御覧じける楊貴妃の御心の中こそ悲けれ。角ても官軍猶あきたらざる気色ありて、竜駕を通し進せざりければ、「此上の憤り何事ぞ。」と尋らるゝに、兵皆、「后妃の徳たがはゞ四海の静る期あるべからず。褒■周の世を乱り、西施呉の国を傾し事、統■耳を不塞。君何ぞ思召知らざらん。早く楊貴妃に死を給らずは、臣等忠言の為に胸を裂て、蒼天に血を淋くべし。」とぞ申ける。玄宗是を聞食て遁まじき程を思召ければ、兔角の御言にも不及、御胸もふさがりて、御心消て鳳輦の中に倒れ伏させ給ふ。霞の袖を覆へ共、荒き風には散る花の、かくるゝ方も無るべきに、楊貴妃さてもや遁るゝと、君の御衣の下へ御身を側めて隠れさせ給へば、天子自御貌を胸にかきよせて、「先朕を失て後彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、指も忿れる武士共も皆戈を捨て地に倒る。其中に邪見放逸なる戎の有けるが、「角ては不可叶。」とて、玉体に取付せ給ひたる楊貴妃の御手を引放て、轅の下へ引落し奉り、軈て馬の蹄にぞ懸たりける。玉の鈿地に乱て、行人道を過やらず。雪の膚泥にまみれて、見人袖をほしかねたり。玄宗は無力して、御貌をも擡させ給はず、臥沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様を、まのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶ぬ玉の緒の、長き恨とは成にけれ。其後に二陣の兵ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀へ落著せ給ひけり。則回■十万騎の勢を卒して馳参る。厳武・哥舒翰又国々の兵催立て、五十万騎蜀の行在へぞ参りける。安禄山が勢は、始楊国忠を打んとする由を聞てこそ、我も我もと馳集りしか、今の如は只天下を奪んとする者なりけりとて、兵多く落失ける間、安禄山が栄花、たゞ春一時の夢とぞ見へたりける。加様に都の敵は日々に減じ、蜀の官軍は国々より参りけれ共、玄宗皇帝は、楊貴妃の事に思沈ませ給ひて、万機の政にも御心を不被懸、只死しても生れ合べくは、いきて命も何かせんと、思召外は他事もなし。厳武・哥舒翰・回■等、角ては叶まじと思ければ、玄宗皇帝の第二の御子粛宗の、鳳翔県と云所に隠てをはしけるを、天子と仰奉て四海に宣旨を下し、諸国の兵を催て、八十万騎先長安へぞ寄たりける。安禄山、崔乾祐・子思明を大将にて、是も八十万騎長安に馳向ふ。両陣相挑未戦処に、祖廟の神霊百万騎の兵に化し、黄なる旗を差て、哥舒翰が勢に加り、崔乾祐と戦ける間、安禄山が兵共に破れ立て、一時に皆亡にけり。朝敵忽に被誅て、洛陽則静りければ、粛宗位を辞して、又玄宗を位に即奉らん為に、官軍皆蜀へ御迎にぞ参りける。玄宗はかく天下の程なく静りぬるに付ても、只楊貴妃の世にをはせぬ事のみ思召て、再び天子の位を践せ給はん事も、御本意ならねども、馬嵬の昔の跡をも御覧ぜばやと、思食す御心に急がれて、軈て遷幸の儀則を促されける。馬嵬の道の辺に鳳輦を留られて、是ぞ去年の秋楊貴妃の武士に被殺て、はかなく成し跡よとて御覧ずれば、長堤の柳の風にしなへるも、枕に懸りしねみだれ髪の、朝の面影御泪に浮び、池塘の草の露にしほれたるも、落て地に乱けん玉の鈿、角やと思食知られて、いとゞ御心を悩まされ、うかれて迷ふ其魄の跡までも猶なつかしければ、只日暮夜明れ共、此にて思消ばやと思食けれ共、翠花揺々として東に帰れば、爰をさへ亦別ぬる事よと、御涙更に塞あへず、遥に跡を顧させ給ふに、蜀江水緑蜀山青、聖主朝々暮々情譬へて云はん方もなし。日を経て長安に遷幸成て、楊貴妃の昔の住玉ひし驪山の華清宮の荒たる跡を御覧ずるに、楼台池苑皆依旧。太掖芙蓉未央柳、芙蓉如面柳如眉。君王対此争無涙。春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時、西宮南苑多秋草、宮葉満階紅不掃。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴断腸声、夕殿蛍飛思消然。孤灯挑尽未成眠、遅々鐘皷初長夜、耿々星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜花重。翡翠衾寒誰与共。物ごとに堪ぬ御悲のみ深く成行ければ、今は四海の安危をも叡慮に懸られず、御位をさへ粛宗皇帝に奉譲、玄宗はたゞいつとなく御涙にしほれて、仙院の故宮にぞ御座ける。爰に臨■の道士楊通幽、玄宗の宮に参て、「臣は神仙の道を得たり。遥に君王展転の御思を知れり。楊貴妃のをはする所を尋て帰参らん。」と申ければ、玄宗無限叡感有て、則高官を授て大禄を与へ給ふ。方士則天に登り地に入て、上は碧落を極め、下は黄泉の底まで尋求るに、楊貴妃更にをはしまさず。遥に飛去て、天海万里の波涛を凌ぐに、あはい七万里を隔てゝ、蓬莱・方丈・瀛州の三の島あり。一の亀是を戴けり。中に五城峙て、十二の楼閣あり。其宮門に金字の額あり。立寄て是を見れば、玉妃太真院とぞ書たりける。楊貴妃さて此中に御坐けりとうれしく思て、門をあらゝらかに敲ければ、内より双鬟の童女出て、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。」と問に、方士手を歛て、「是は漢家の天子の御使に、方士と申者にて候が、楊貴妃の是に御坐あると承て、尋参て候。」と答申ければ、双鬟の童女、「楊貴妃は未をうとのごもりて候。此由を申て帰侍らん。」とて、玉の扉を押たてゝ内へ入ぬ。方士門の傍に立て、今や出ると是を待に、雲海沈々洞天に日晩ぬ。瓊戸重り閉て、悄然として無声。良有て双鬟の童女出て、方士を内へいざない入る。方士手を揖して、金闕の玉の廂に跪く。時に玉妃夢さめて、枕を推のけて起き給ふ。雲鬢刷はずして、羅綺にだも堪ざる体、譬て言に比類なし。左右侍児七八人、皆金蓮を冠にし、鳳■を著して相随ふ。五雲飄々として、玉妃玉堂より出給ふ。雲頭艶々として、暁月の海を出るに不異。方士泪を押て、君王展転の御思を語るに、玉妃つく/゛\と聞給ひて、含情凝睇謝君王。一別音容両渺茫。昭陽殿裡恩愛絶、蓬莱宮中日月長となん恨給ひて、中々御言葉もなければ、玉容寂寞涙欄干たり。只梨花一枝春帯雨如し。将方士帰去なんとするに及て、「玉妃の御信を給候へ。尋奉る験に献ぜん。」と申ければ、玉妃手づから玉の鈿を半擘て方士にたぶ。方士鈿を給て、「是は尋常世にある物也。何ぞ是を以て験とするに足らんや。願は玉妃君王に侍し時、人の曾て不知事あらば、其を承て験とせん。不然は臣忽に新垣平が詐を負て、身斧鉞の罪に当ん事を恐る。」と申ければ、玉妃重て宣く、「我七月七日長生殿夜半無人上の傍に侍りし時、牽牛織女の絶ぬ契を羨て、「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。」と誓き。是は君王と我とのみ知れり。是を以て験とすべし。」とて泣々玉台を登り給へば、音楽雲に隔り、団扇大に隠て、夕陽の影の裏に漸々として消去ぬ。方士鈿の半と言の信とを受て宮闕に帰参、具に此を奏するに、玄宗思に堪兼て、伏沈せ給けるが、其年の夏未央宮の前殿にして、遂に崩御なりにけり。一念五百生繋念無量劫といへり。況や知ぬ世までの御契浅からざりしかば、死此生彼、天上人間禽獣魚虫に生を替て、愛著の迷を離れ給はじと、罪深き御契なり。抑天宝の末の世の乱、只安禄山・楊国忠が天威を仮て、功に誇り人を猜し故なり。今関東の軍、道誓が隠謀より事起て、傾廃古に相似たり。天驕を悪み欠盈。譴脱るゝ処なければ、道誓の運命も憑みがたしとぞ見へたりける。