増鏡 (國文大觀)

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增鏡


きさらぎの中の五日は鶴の林にたきゞつきにし日なれば、かの如來三傳の御かたみのむつましさに、嵯峨の淸凉寺にまうでゝ、常在靈鷲山など心のうちに唱へて拜み奉る。傍にやそぢにもや餘りぬらむと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかゝりてまゐれり。とばかりありて「「たけく思ひたちつれど、いと腰いたくて堪へがたし。今宵はこの局にうちやすみなむ。坊へ行きてみあかしの事などいへ」」とて、具したる若き女房のつきづきしきほどなるをばかへしぬめり。「「釋迦牟尼佛」」とたびたび申して、夕日のはなやかにさし入りたるをうち見やりて、「「哀にも山の端近く傾ぶきぬめる日影かな。我が身のうへの心ちこそすれ」」とてよりゐたるけしき何となくなまめかしく、心あらむかしと見ゆれば、近くよりて「「いづくよりまうで給へるぞ。ありつる人のかへりこむほど御伽せむはいかゞ」」などいへば「「このわたり近く侍れど、年のつもりにや、いとはるけき心ちし侍る。あはれになむ」」といふ。「「さてもいくつにかなり給ふらむ」」と問へば、「「いさよくも我ながら思ひ給へわかれぬほどになむ。百とせにもこよなく餘り侍りぬらむ。來し方ゆく先ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御寺ばかりはつゝがなくおはします。なほやんごとなき如來の御光なりかし」」などいふも古代にみやびかなり。年のほどなど聞くもめづらしきこゝちして、かゝる人こそ昔ものがたりもすなれと思ひいでられてまめやかにかたらひつゝ「「昔の事の聞かまほしきまゝに、年のつもりたらむ人もがなとおもひ給ふるに、うれしきわざかな。少しのたまはせよ。おのづからふるき歌など書きおきたるものゝ片はし見るだに、その世にあへる心ちするぞかし」」といへば、すげみたる口うちほゝゑみて「「いかでか聞えむ。若かりし世に見聞き侍りしことは、こゝらの年頃にむば玉の夢ばかりだになくおぼゝれて何のわきまへか侍らむ」」とはいひながらけしうはあらず、あへなむと思へるけしきなれば、いよいよいひはやして「「かの雲林院の菩提講に參りあへりし翁の言の葉をこそ假名の日本紀にはすめれ。又かの世繼がうまごとかいひしつくもがみの物語も人のもてあつかひぐさになれるは、御ありさまのやうなる人にこそ侍りけめ。なほのたまへ」」などすかせば、さは心うべかめれど、いよいよ口すげみがちにて「「そのかみはげに人の齡もたかく、きもつよかりければ、それに隨ひてたましひもあきらかにてや、しか聞えつくしけむ。あさましき身はいたづらなる年のみつもれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事をだに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覽じ集めけるふる事どもはいかにぞ」」といふ。「いさたゞおろおろ見及びしものどもは水鏡といふにや。神武天皇の御代よりいと荒らかにしるせり。その次には大鏡、文德のいにしへより後一條の御門まで侍りしにや。又世繼とか四十條のさうしには延喜より堀川の先帝まではすこしこまやかなる。又なにがしのおとゞの書き給へると聞き侍りし今鏡には後一條より高倉院までありしなめり。まことやいや世繼は隆信朝臣の、後鳥羽院の御位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。その後のことなむいとおぼつかなくなりにけり。おぼえ給へらむ所々にてものたまへ。こよひ誰も御伽せむ。かゝる人にあひ奉れるもしかるべき御契あらむものぞ」」などかたらへば「「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事のつゞきを聞えざらむもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなむ。ひが事ども多からむかし。そはさしなほしたまへ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かのふるき事どもにはなぞらへ給ふまじうなむ」」とて、

  「「おろかなる心や見えむます鏡ふるきすがたにたちはおよばで」」

とわなゝかしいでたるもにくからず、いとこだいなり。「「さらば今のたまはむ事をも又書きしるして、かのむかしの面影にひとしからむとこそはおぼすめれ」」といらへて、

  「「今もまたむかしをかけばます鏡ふりぬる代々の跡にかさねむ」」。

     第一 おどろのした

「「御門はじまり給ひてより八十二代にあたりて後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子。御母は七條院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉の院御位の御時、后の宮の御方に兵衞督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覽じはなたずやありけむ、治承四年七月十五日に生れさせ給ふ。その年の春の頃、建禮門院后宮と聞えし御腹の第一の御子〈安德天皇〉三つになり給ふに位を讓りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一ぞうのみいよいよ時の花をかざしそへて、華やかなりし世なればけちえんにももてなされ給はず。又の年養和元年正月十四日に院さへかくれさせ給ひにしかば、いよいよ位などの御のぞみあるべくもおはしまさゞりしを、かの新帝平家の人々にひかされて、遙なる西の海にさすらへ給ひにし後、後白川の法皇、御うまごの宮たちわたし聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のまゝにおぼされけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ、「あなむづかし」とてゐてはなち給ひて、「四の宮こゝにいませ」とのたまふに、やがて御膝のうへに抱かれ奉りて、いとむつましげなる御けしきなれば、「これこそまことのうまごにおましけれ。故院の兒おいにもふ〈まイ〉みなど覺え給へり。いとらうたし」とて、壽永二年八月二十日、御年四つにて位に即かせ給ひけり。內侍所神璽寳劔は讓位の時必ずわたる事なれど、先帝筑紫へ〈にイ〉ゐておはしにければ、こたみ始めて三種の神器なくて、めづらしきためしになりぬべし。後にぞ內侍所しるしの御箱ばかりかへりのぼりにけれど、寶劔はつひに先帝の海に入り給ふ時、御身にそへて沈み給ひけるこそいとくちをしけれ。かくてこの御門、元曆元年七月廿八日御即位、そのほどの事常のまゝなるべし。平家の人々いまだ筑紫にたゞよひて、先帝と聞ゆるも御このかみなれば、かしこに傳へ聞く人々のこゝち、上下さこそはありけめと思ひやられていとかたじけなし。同じ年の十月廿五日にごけい。十一月十八日大甞會なり。しゆきがたの御屛風のうた、兼光の中納言といふ人、丹波の國長田村とかやを、

  「神代よりけふのためとや八束穗にながたのいねのしなひそめけむ」。

御門いとおよすげてかしこくおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。文治二年十二月一日御ふみはじめせさせ給ふ。御年七つなり。同六年女御まゐりたまふ。月輪關白殿の御むすめなり。きさきだちありき。後には宜秋門院と聞え給ひし御事なり。この御腹に春花門院と聞えたまひし姬宮ばかりおはしましき。建久元年正月三日、御年十一にて御元腹したまふ。おなじき三年三月十三日に、法皇かくれさせ給ひにし後は、御門ひとへに世をしろしめして四方の海波しづかに、ふく風も枝をならさず、世をさまり民やすくして、あまねき御うつくしみの浪秋津島の外までながれ、しげき御惠筑波山のかげよりもふかし。よろづの道々にあきらけくおはしませば、國に才ある人おほく、むかしに耻ぢぬ御代にぞありける。中にもしき島の道なむすぐれさせたまひける。御歌かずしらず、人の口にある中にも、

  「奧山のおどろの下もふみわけてみちある世ぞと人にしらせむ」

と侍るこそまつりごと大事とおぼされけるほどしるく聞えて、いといみじくやんごとなくははべれ。建久九年正月、第一の御子〈土御門院〉四つになり給ふに御くらゐゆづり申させ給ひておりゐ給ふ。位におはします事十五年なりき。今日明日はたちばかりの御齡にていとまたしかるべき御事なれども、よろづ所せき御ありさまよりはなかなかやすらかに、御幸など御心のまゝならむとにや。世をしろしめす事は今もかはらねばいとめでたし。鳥羽殿白河殿などもしゆりせさせ給ひて常に渡りすませ給へど、猶又水無瀨といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつゝ、春秋の花もみぢにつけても御心ゆくかぎり世をひゞかしてあそびをのみぞしたまふ。所がらもはるばると川にのぞめる眺望いとおもしろくなむ。元久の頃、詩に歌をあはせられしにも、とりわきてこそは、

  「見わたせば山もとかすむみなせ川ゆふべは秋となにおもひけむ」。

かやぶきの廊渡殿などはるばると、艷にをかしうせさせ給へり。御まへの山より瀧おとされたる石のたゝずまひ、苔ふかきみ山木に枝さしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたるかすみのほらなり。せんざいつくろはせ給へる頃、人々あまた召して御遊などありける後、定家の中納言いまだ下﨟なりける時に奉られける。

  「ありへけむもとの千年にふりもせでわか君ちぎるみねのわか松。

   君が代にせきいるゝ庭を行く水の岩こすかずは千世も見えけり」。

今の御門の御諱は爲仁と申しき。御母は能因法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつられけるほどに、この御門生れさせ給ひて後には內大臣〈通親〉の御子になり給ひて、すゑには承明門院ときこえき。かのおとゞの北の方の腹にておはしければ、もとより後のおやなるに、御さいはひさへひき出で給ひしかば、まことの御むすめにかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひたてまつらせ給ひける。かくて建久九年三月三日御即位、十月廿七日に御禊、十一月は例の大甞會なり。元久二年正月三日御かうぶりしたまひて、いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も父御門よりは少しぬるくおはしましけれど、御情ふかう物のあはれなど聞し召しすぐさずぞありける。今の攝政は院の御時の關白〈基通〉のおとゞ、その後は後京極殿〈よしつね〉ときこえ給ひし、いと久しくおはしき。このおとゞはいみじき歌のひじりにて、院のうへおなじ御心に和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治の頃千載集ありしかど、院いまだきびはにおはしましゝかばにや御製も見えざめるを、當代位の御程に又集めさせ給ふ。土御門の內のおとゞの二郞君、右衞門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位、定家の中納言家隆雅經などにのたまはせて、昔より今までの歌をひろく集めらる。おのおの奉れるうた〈へイ〉を、院の御まへにて自らみがきとゝのへさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も先に聞えつる攝政殿とりもちて行はせ給ふ。大かたいにしへならの御門の御代に始めて右〈左〉大臣橘の朝臣勅を承りて、萬葉集を撰びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今集、友則、貫之、躬恆、忠岑、天曆のかしこかりし御代にも、一條攝政殿〈謙德公〉いまだ藏人の少將など聞えける頃、和歌所の別當とかやにて、梨壺の五人に仰せられて、後撰集は集められけるとぞ。ひがぎゝにや侍らむ。そののち拾遺集は花山の法皇の自ら撰ばせまこへるとぞ。白河院位の御時は、後拾遺集通俊治部卿うけたまはる。崇德院の詞花集は、顯輔三位えらぶ。又白川の院おりゐさせ給ひてのち、金葉集重ねて俊賴の朝臣におほせて撰ばせ給ひしこそ、はじめ奏したりけるに輔仁の親王の御なのりを書きたる、わろしとてかへされ、又奉れるにも何事とかやありて三度奏して後こそをさまりにけれ。かやうのためしもおのづからの事なり。おしなべては撰者のまゝにて侍るなれど、こたみは院のうへみづから和歌の浦におりたちあさらせ給へば、まことに心ことなるべし。この撰集よりさきに千五百番の歌合せさせ給ひしにもすぐれたるかぎりを撰ばせ給ひて、その道のひじりたち判じけるに、やがて院も加はらせ給ひながら「猶このなみには立ち及びがたし」とひげせさせ給ひて、判のことばをばしるされず、御歌にてまさり劣れる志ばかりをあらはし給へる、なかなかいと艷に侍りけり。上のその道をえ給へれば、下もおのづから時を知るならひにや男も女もこの御代にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りしなかに、宮內卿の君といひしは村上の御門の御後に俊房の左のおとゞと聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、つかさあさくてうち續き四位ばかりにうせにし人の子なり。まだいと若きよはひにて、そこひもなく深き心ばへをのみよみしこそいとありがたく侍りけれ。この千五百番の歌合の時、院のうへのたまふやう、「こたみは皆世にゆりたるふるき道のものどもなり。宮內卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなむ、かまへてまろがおもておこすばかりよき歌つかうまつれ」とおほせらるゝに、おもてうち赤めて、淚ぐみて侍ひけるけしき、かぎりなきすきの程もあはれにぞ見えける。さてその御百首の歌いづれもとりどりなる中に、

  「うすくこき野邊のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ」。

草のみどりのこきうすき色にて、こぞのふる雪の遲く疾く消えけるほどを、推しはかりたる心ばへなど、まだしからむ人はいと思ひよりがたくや。この人年つもるまであらましかば、げにいかばかり目に見えぬ鬼神をも動しなましに、若くてうせにし、いといとほしくあたらしくなむ。かくてこの度撰ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月廿六日、竟宴といふ事春日殿にて行はせたまふ。いみじき世のひゞきなり。かの延喜のむかしおぼしよそへられて、院の御製、

  「いそのかみふるきを今にならべこしむかしの跡を又たづねつゝ」。攝政殿〈よしつねのおとゞ〉

  「しき島ややまとことのは海にしてひろひし玉はみがゝれにけり」。

つぎつぎずんながるめりしかど、さのみはうるさくてなむ。何となくあけくれて承元二年にもなりぬ。十二月廿五日二の宮御かうぶりし給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を院かぎりなくかなしきものに思ひ聞えさせ給へれば、になくきよらをつくし、いつくしうもてかしづき奉り給ふ事なのめならず。つひにおなじき四年十一月に御位につけ奉り給ふ。もとの御門、今年こそ十六にならせ給へば、いまだ遙なるべき御さかりに、かゝるをいと飽かずあはれとおぼされたり。永治のむかし鳥羽の法皇、崇德院の御心もゆかぬにおろし聞えて、近衞院をすゑ奉り給ひし時は御門いみじうしぶらせ給ひて、その夜になるまで勅使を度々奉らせたまひつゝ、內侍所劔璽などをも渡しかねさせ給へりしぞかし。さてその御憤のすゑにてこそ保元のみだれもひき出で給へりしを、この御門はいとあてに大どかなる御本性にて、おぼしむすぼゝれぬにはあらねども、けしきにも漏し給はず。世にもいとあへなき事に思ひ申しけり。承明門院などはまいていと胸いたくおぼされけり。その年のしはすに太上天皇のそんがうあり。新院と聞ゆれば、父の御門をば今は本院と申す。猶御まつり事はかはらず。今の御門は十四になり給ふ。御いみな守成と聞えしにや。建曆二年十一月十三日大甞會なり。新院の御時も仕うまつられたりし資實の中納言に、この度も悠紀かたの御屛風のうためさるながら山、

  「すがのねのながらの山のみねの松吹きくる風もよろづ代のこゑ」。

かやうの事は皆人のしろしめしたらむ。ことあたらしく聞えなすこそおいのひが事ならめ。この御代にはいとけちえんなる事おほくところどころの行幸しげくこのましきさまなり。建保二年春日の社に行幸ありしこそ、ありがたき程いどみつくしおもしろうも侍りけれ。さてそのまたの年、御百首の御〈二字イ無〉歌よませ給ひけるに、こぞの事おぼしいでゝ、內の御製、

  「かすが山こぞのやよひの花の香にそめしこゝろは神ぞしるらむ」。

御心ばへは新院よりも少しかどめいて、あざやかにぞおはしましける。御ざえもやまともろこしかねて、いとやんごとなくものし給ふ。朝夕の御いとなみは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に八雲などいふもの作らせたまへるもこの御門の御事なり。攝政殿の姬君まゐり給ひて、いと華やかにめでたし。この御腹に建保二〈六イ〉年十月十日一の御子生れ給へり。いよいよものあひたる心ちして世の中ゆすりみちたり。十一月廿一日やがてみこになし奉り給ひて、おなじき廿六日坊に居給ふ。いまだ御いかだにきこしめさぬに、いちはやき御もてなしめづらかなり。心もとなくおぼされければなるべし。今一しほ世の中めでたく定りはてぬるさまなめり。新院はいでやとおぼさるらむかし。かくて院のうへは、ともすれば水無瀨殿にのみ渡らせ給ひて、琴笛の音につけ、花もみぢのをりをりにふれて、よろづのあそびわざをのみ盡しつゝ御心ゆくさまにて過させ給ふ。まことによろづ世もつきすまじき御世のさかえ、次々今よりいとたのもしげにぞ見えさせ給ふ。御碁うたせ給ふついでに若き殿上人ども召して、これかれ心のひきびきにいどみ爭はせ給へば、あるは小弓雙六などいふ事まで思ひ思ひに勝ちまけをさうどきあへるも、いとをかしう御覽じて、さまざまの興あるのり物どもとうでさせ給ふとて、なにがしの中將を御使にて修明門院の御かたへ「何にてもをのこどもに賜はせぬべからむのりもの」と申させ給ひたるに、とりあへず小き唐櫃のかなものしたるが、いとおもらかなるを參らせられたる。この御つかひのうへ人、何ならむといといぶかしくて、片端ほのあけて見るに錢なり。いと心えずなりて、さとおもてうちあかみて、あさましと思へるけしきしるきを院御らんじおこせて「朝臣こそむげに口惜しくはありけれ。かばかりの事知らぬやうやはある。いにしへより殿上ののり弓といふ事にはこれをこそかけものにはせしか。されば今かけものと聞えたるに、これをしもいだされたるなむ、いにしへの事知り給へるこそいたきわざなれ」とほゝゑみてのたまふに、さは惡しく思ひけりとこゝちさわぎておぼゆべし。大かたこの院のうへはよろづの事にいたりふかく、御心もはなやかに、物に委しうなどぞおはしましける。夏の頃水無瀨殿の釣殿にいでさせ給ひて、ひ水めして水飯やうのものなど若き上達部殿上人どもにたまはさせて、おほみきまゐるついでにも、「あはれいにしへの紫式部こそはいみじくはありけれ、かの源氏物語にも近き川のあゆ、西川より奉れるいしぶしやうのもの、御まへにて調じてとかけるなむすぐれてめでたきぞとよ。唯今さやうの料理つかまつりてむや」などのたまふを、秦のなにがしとかいふ御隨身、高欄のもと近く侍ひけるが承はりて、池の汀なるさゝを少ししきて、白きよねを水に洗ひて奉れり。「ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかな」とて御ぞぬぎてかづけさせ給ふ。御かはらけたびたびきこしめす。その道にもいとはしたなうものし給ふ。何事もあいぎやうづきめでたく見えさせ給ふ御有さまなど、千とせを經とも飽く世あるまじかめり。また淸撰の御歌合とてかぎりなくみがゝせ給ひしも、水無瀨殿にての事なりしにや。當座の衆儀判なれば、人々の心ちいとゞおき所なかりけむかし。建保二年九月のころ、すぐれたるかぎりぬきいで給ふめりしかば、いづれかおろかならむ。中にもいみじかりし事は第七番に左、院の御歌、

  「あかしがた浦路はれゆくあさなぎに霧にこぎいるあまの釣舟」

とありしに、きたおもての中に藤原の秀能とて年ごろもこの道にゆりたるすきものなれば、召し加へらるゝ事常のことなれど、やんごとなき人々の歌だにも、あるは一首二首三首にはすぎざりしに、この秀能九首までめされて、しかも院の御かたてにまゐれり。さてありつるあまのつり舟の御歌の右に、

  「契りおきし山の木の葉の下もみぢそめしころもに秋風ぞふく」

とよめりしは、その身のうへにとりてながき世のめいぼく何にかはあらむとぞきゝ侍りし。むかしの躬恆が御はしのもとに召されて、「ゆみはりとしもいふ事は」と奏して、御ぞたまはりしをこそいみじきことにはいひ傳ふめれ。又貫之が家に枇杷のおとゞ、魚袋の歌のかへしとぶらひにおはしたりしをも、みちのかうみやうとこそ世繼には書きて侍れ。近き頃は西行法師ぞ北面のものにて、世にいみじき歌のひじりなめりしか。今の代の秀能は、ほとほとふるきにも立ちまさりてや侍らむ。この度の御歌合、大方いづれとなくうち見わ〈イ無〉たして、すぐれたるかぎりをえり出でさせ給ひしかば、おのおのむらむらにぞ侍りたりける。吉水の僧正圓慈ときこえし、又たぐひなき歌のひじりにていましき。それだに四首ぞ入りたまひにける。さのみは事長ければもらしぬ。この僧正、世にもいとおもく、山の座主にてものし給ふ事も年久しかりし。その程にやんごとなきかうみやう數知らずおはせしかば、崇められ給ふさまも二なくものし給ひしかど、猶飽かずおぼす事やありけむ、院に奉られける長歌、

  「さてもいかに わしのみ山の つきのかげ 鶴のはやしに

   いりしより へにける年を かぞふれば 二千とせをも

   過ぎはてゝ のちの五つの もゝとせに なりにけるこそ

   かなしけれ あはれ御法の 水のあわの 消えゆく頃に

   なりぬれば 其にこゝろを すましてぞ わがやま河に

   しづみゆく 心あらそふ のりの師は 我もわれもと

   あをやぎの いと所せく みだれきて 花ももみぢも

   散りゆけば 木ずゑ跡なき みやまべの 道にまよひて

   すぎながら 獨りこゝろを とゞむるも かひも渚の

   しがのうら 跡たれましゝ 日よしのや 神のめぐみを

   たのめども 人のねがひを みつかはの ながれも淺く

   なりぬべし 峯のひじりの すみかさへ こけの下にぞ

   うもれ行く 道はらふべき ひともがな あなうの花の

   世のなかや はるの夢路は むなしくて 秋のこずゑを

   おもふより ふゆの雪をも たれかとふ かくてや今は

   あと絕えむ と思ふからに くれはとり あやしき夜の

   わがおもひ 消えぬばかりを たのみきて 猶さりともと

   はなの香に しひて心を つくばやま 繁きなげきの

   ねをたづね 沈むむかしの たまをとひ 救ふこゝろは

   ふかくして 勉めゆくこそ あはれなれ みやまの鐘を

   つくづくと わが君が代を おもふにも みねの松かぜ

   のどかにて 千代に千年を そふるほど 法のむしろの

   はなのいろ 野にも山にも にほひてぞ 人をわたさむ

   はしとして 暫しこゝろを やすむべき 遂にはいかゞ

   あすかがは あすより後や 我がたちし 杣のたづきの

   ひゞきより みねの朝ぎり はれのきて くもらぬ空に

   たちかへるべき」。

 返歌

  「さりともとおもふ心ぞなほふかきたえでたえゆく山川の水」。

定家の中將、折ふし御まへにさぶらひければ「この返しせよ」とてさしたまはするに、いと疾く書きて御覽ぜさせけり。

  「ひさかたの あめつち共に かぎりなき 天つ日つぎを

   ちかひてし 神もろともに まもれとて 我がたつ柚を

   いのりつゝ むかしの人の しめてける 峯のすぎむら

   いろかへず 幾としどしを へだつとも 八重のしら雲

   ながめやる みやこの春を となりにて 御法のはなも

   おとろへず 匂はむものと 思ひおきし すゑばの露の

   さだめなき かやが下葉に みだれつゝ 元のこゝろの

   それならぬ うき節しげき くれたけに なくねをたつる

   うぐひすの ふるすは雪に あらしつゝ 跡絕えぬべき

   たにがくれ こりつむ嘆き しひしばの しひて昔に

   かへされぬ 葛のうら葉は うらむとも 君はみかさの

   やまたかみ 雲ゐのそらに まじりつゝ 照る日を代々に

   たすけこし 星のやどりを ふりすてゝ 獨りいでにし

   わしのやま 世にも稀なる あととめて 深きながれに

   むすぶてふ のりの淸水の そこすみて 濁れる世にも

   にごりなし ぬまの葦まに かげやどす 秋のなかばの

   つきなれば なほ山のはを ゆきめぐり そらふく風を

   あふぎても 空しくなさぬ ゆくすゑを みつの川なみ

   たちかへり 心のやみを はるくべき 日よしの御影

   のどかにて 君をいのらむ よろづ代に 千世を重ねて

   まつが枝を 翼にならす つるの子の 讓るよはひは

   わかの浦や 今はたまもを かきつめて 例しもなみに

   みがきおく わが道までも たえせずば ことのは每の

   いろいろに のちみむ人も 戀ひざらめかも」。

 返歌

  「君をいのる心ふかくばたのむらむたえてはさらに山川の水」。

新院ものどかにおはしますまゝに、御歌をのみよませたまへど、萬の事もていでぬ御本性にて、人々など集めて、わざとあるさまには好ませ給はず。建保の頃內々百首の御歌詠み給へりしを、家隆の三位又定家の治部卿の許などへ、「いふかひなきちごのよめる」とて遣して見せられたまひしに、いづれもめでたくさまざまなるなかに、懷舊の御歌に、

  「秋の色をおくりむかへて雲のうへになれにし月もものわすれすな」

とある所に、定家の君驚きかしこまりて、うらがきに、あさましくはかられ奉りける事などしるして、

  「あかざりし月もさこそは思ふらめふかきなみだもわすられぬよを」

と奏せられたり。院もえんありて御覽ずべし。げにいかゞ御心動かずしもおはしまさむとその世の事かたじけなくなむ。今もすこし世の中隔たれるさまにてのみおはしますこそ、いといとほしき御ありさまなめれとぞ。

     第二 新島もり

猛きものゝふのおこりを尋ぬれば、いにしへ田村などいひけむ將軍どもの事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで源平の二つながれは〈ぞイ〉時により折に隨ひて大やけの御守りとはなりにける。桓武天皇と聞えし御門をば柏原の御門とも申しけり。その御子に式部卿の御子と聞えしより五代の末に、平將軍貞盛といふ人、維衡維時とて二人の子をもたりけり。間近く榮えし西八條の淸盛のおとゞはかの太郞維衡より六代の末なりき。その一つ門亡びしかば、この頃は僅にあるかなきかにぞさま〈まかイ〉よふめる。さてかの維時が名殘はひたすらに民となりて、平四郞時政といふもののみぞ伊豆の國北條の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。又源氏武者といふも淸和の御門或は宇多の院などの御後どもなり。二條の院の御時平治のみだれに、伊豆の國蛭が小島へ流されし兵衞のすけ賴朝は淸和の御門より八代のながれに六條の判官爲義といひし者のうまごなり。左馬頭義朝が三男〈郞イ〉になむありける。西八條の入道おとゞ、やうやう榮花衰へむとて後白川院をなやまし奉りしかば、安からずおぼされて、かの賴朝を召しいでゝ軍を起し給ひしに、しかるべき時やいたりけむ平家の人々は、壽永の秋の木がらしに散りはてゝ、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、賴朝いよいよ權をほどこして更に君の御後見を仕うまつる。相摸の國鎌倉の里といふ所に居りながら、世をばたなごゝろの中に思ひき。皆人しり給へることなれば、今さらに申すもなかなかなれど、院のうへ位に即かせ給ひしはじめより世のかためとなりて、文治元年四月二のはしをのぼりしも、八島の內のおとゞ宗盛をいけどりの賞と聞ゆ。建久の初めつかた都にのぼる。その勢のいかめしき事いへばさらなり。道すがらあそびものども參る。遠江の國橋本の宿につきたるに、例の遊女おほくえもいはずさうぞきて參れり。賴朝うちほゝゑみて、

  「橋本の君になにをか渡すべき」

といへば、梶原平三景時といふ武士とりあへず、

  「たゞそま山のくれであらばや」。

いとあいだてなしや。馬くらこんくゝりものなど運び出でゝひけば、喜びさわぐ事かきりなし。その年の十一月九日權大納言になされて、右近大將をかねたり。しはすの朔日ごろよろこび申して、おなじき四日やがてつかさをば返し奉る。この時ぞ諸國の總追ぶく使といふ事うけたまはりて地頭職に我が家のつはものどもをなし集めけり。この日本國の衰ふる始めはこれよりなるべし。さてあづまにかへり下るころ、上下いろいろのぬさ多かりしなかに、年ごろもいのりなどしたまひにし吉水僧正、かの長歌の座主のたまひつかはしける、

  「あづまぢのかたになこその關の名は君を都にすめとなりけり」。

御かへし、賴朝、

  「都には君も〈にイ〉あふさかちかければなこその關はとほきとをしれ」。

その後もまたのぼりて東大寺の供養にもまうでたりき。かくて新院の御位のはじめつかた、正治元年正月あづまにてかしらおろして、おなじき十三日に年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下にもちゐられて、はたとせばかりや過ぎぬらむ。北の方はさきに聞えつる北條四郞時政がむすめなり。その腹にをのこ二人あり。太郞をば賴家といふ。おとゝをば實朝ときこゆ。大將かくれてのち、兄はやがてたちつぎて、建仁元年六月廿二日從二位、同日將軍の宣旨をたまはる。またの年左衞門督になさる。かゝれども少しおちゐぬ心ばへなどありて、やうやうつはものどもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守といひて故大將のありし時より私の後見なりしを、まいて今はうまごの世なれば、いよいよ身重くいきほひそふ事かぎりなくて、うけばりたるさまなり。子二人あり。太郞は宗時といふ。次郞は義時といへり。次郞は心も猛くたましひまされるものにて、左衞門督をばふさはしからず思ひて、弟の實朝の君に附きしたがひて思ひかまふる事などもありけり。かうは日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日とし二十二にてかしらおろす。世の中のこりおほくなに事もあたらしかるべきほどなれば、さこそ口をしかりけめ。をさなき子の一萬といふにぞ世をばゆづりけれどうけひくものなし。入道はかのやまひつくろはむとてかまくらより伊豆の國へいでゆあびに越えたりけるほどに、かしこの修善寺といふ所にてつひにうたれぬ。一萬もやがてうしなはれけり。これは實朝と義時と、ひとつ心にてたばかりけるなるべし。さて今はひとへに實朝故大將の跡をうけつぎて、つかさくらゐとゞこほる事なくよろづ心のまゝなり。建保元年二月二十七日正二位せしは閑院の內裏つくれる賞とぞ聞き侍りし。おなじき六年權大納言になりて大將をかねたり。左馬頭をさへぞつけられける。その年やがて內大臣になりてもなほ大將もとのまゝなり。父にもやゝ立ちまさりていみじかりき。このおとゞは大方心ばへうるはしく、たけくもやさしくもよろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、ものゝふのなびきしたがふさまも代々〈ちイ〉、にもこえたり。いかなる時にかありけむ。

  「山はさけ海はあせなむ世なりとも君に二ごゝろわがあらめやも」

とぞよみける。時政は建保三年にかくれにしかば義時ぞ跡を繼ぎける。故左衞門督の子にて公曉といふ大とこあり。親の討たれにしことをいかでかやすき心あらむ。いかならむ時にかとのみおもひわたるに、この內大臣また右大臣にあがりて大饗などめづらしくあづまにておこなふ。京より尊者をはじめ上達部殿上人おほくとぶらひいましけり。さて鎌倉にうつし奉れる八幡の御社にじんばいにまうづる。いといかめしきひゞきなれば、國々の武士はさらにもいはず、都の人々も扈從しけり。立ちさわぎのゝしるもの、見る人もおほかるなかに、かの大とこうちまぎれて、女のまねをして白きうす衣ひきをり、おとゞの車よりおるゝほどをさしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうちおとしぬ。その程のどよみいみじさ思ひやりぬべし。かくいふは承久元年正月廿七日なり。そこらつどひ集れるものども、たゞあきれたるより外のことなし。京にもきこしめしおどろく。世の中火をけちたるさまなり。扈從に西園寺の宰相中將實氏も下り給ひき。さならぬ人々もなくなく袖をしぼりてぞ上りける。いまだ子もなければ立ちつぐべき人もなし。事しづまりなむほどゝて、故おとゞの母北の方二位殿〈政子〉といふ人、二人の子をもうしなひて、淚ほすまもなくしをれすぐすをぞ、將軍に用ゐける。かくてもさのみはいかゞにて、「君だち一所下し聞えて將軍になし奉らせ給へ」と公經のおとゞに申しのぼせければ、あへなむとおぼす所に、九條の右〈左イ〉大臣道家殿のうへは、このおとゞの御むすめなり。その御腹の若君の二つになり給ふを、下しきこえむと九條殿のたまへば、御うまごならむもおなじ事とおぼして定め給ひぬ。その年の六月にあづまにゐて奉る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのなかの御ありさまは唯かたしろなどを祝ひたらむやうにて、萬の事さながら右京權大夫義時朝臣心のまゝなり。一の人の御子の將軍になり給へるはこれぞ始めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「賴朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるはこの今の若君の御事にこそありけめ。かくて世をなびかししたゝめ行ふ事もほとほとふるきにはこえたり。まめやかにめざましき事も多くなりゆくに、院のうへ忍びておぼしたつ事などあるべし。近くつかうまつる上達部殿上人、まいて北面の下﨟西おもてなどいふも皆この方にほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし。劔などを御覽じ知ることさへいかで習はせ給ひたるにか、道のものにもやゝたちまさりてかしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ。かやうのまぎれにて承久も三年になりぬ。四月二十日御門おりさせ給ふ。春宮四つにならせ給ふにゆづり申させ給ふ。近頃皆この御齡にて受禪ありつれば、これもめでたき御行く末ならむかし。おなじき廿三日院號のさだめありて今おりさせ給へるを新院ときこゆれば、御兄の院をば中の院と申し、父御門をは本院とぞ聞えさする。この程は家實のおとゞ〈普賢寺殿の御子〉關白にておはしつれど、御讓位の時左大臣道家のおとゞ〈光明峯寺殿。〉攝政になりたまふ。かのあづまの若君の御父なり。さても院のおぼし構ふる事忍ぶとすれど、やうやう漏れ聞えてひがしざまにもその心づかひすべかめり。あづまの代官にて伊賀の判官光季といふものあり。かつかつかれを御かうじのよし仰せらるれば、御方に參るつはものどもおしよせたるに、遁るべきやうなくて腹切りてけり。まづいとめでたしとぞ院は思し召しける。あづまにもいみじうあわてさわぐ。さるべくて身のうすべき時にこそあなれと思ふものから、討手の攻め來りなむときにはかなきさまにてかばねをさらさじ、おほやけと聞ゆとも自らし給ふ事ならねば、かつは我が身の宿世をも見るばかりと思ひを〈なイ〉りて、弟の時房と泰時といふ一男と二人をかしらとして雲霞のつはものをたなびかせて都にのぼす。泰時を前にすゑていふやう、「おのれをこの度都にまゐらする事は思ふ所おほし。本意の如く淸きしにをすべし。人にうしろ見えなむには親の顏また見るべからず。今をかぎりとおもへ。賤しけれども義時君の御ために後めたき心やはある。されば橫ざまの死をせむ事はあるべからず。心を猛くおもへ。おのれうちかつものならば、二度この足柄箱根山は越ゆべし」などなくなくいひきかす。まことにしかなり。又親の顏をがまむ事もいとあやふしと思ひて、泰時も鎧の袖しぼる。かたみに今やかぎりとあはれに心ぼそげなり。かくてうちいでぬるまたの日、思ひかけぬほどに泰時唯一人鞭を上げてはせきたり。父むねうちさわぎて「いかに」と問ふに、「軍のあるべきやう大方のおきてなどをば仰の如くその心をえ侍りぬ。若し道のほとりにも、計らざるに忝く鳳輦をさきだてゝ御旗をあげられ、臨幸のげんぢうなる事も侍らむに參りあへらば、その時のしんたいいかゞ侍るべからむ。この一ことをたづね申さむとて一人馳せ侍りき」といふ。義時とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかゞあらむ。さばかりの時は兜をぬぎ弓のつるをきりて偏にかしこまりを申して身をまかせ奉るべし。さはあらで君は都におはしましながら、軍兵をたまはせば命をすてゝ千人が一人になるまでも戰ふべし」といひもはてぬに急ぎたちにけり。都にもおぼしまうけつる事なればものゝふども召し集へ、宇治勢田の橋もひかせてかたきを防ぐべき用意心ことなり。公經の大將一人のみなむ御うまごのこともさる事にて、北の方一條中納言能保といふ人のむすめなり。その母北の方は故大將のはらからなれば、一方ならずあづまを重くおぼしてさしいらへもせず、院の御心の輕き事とあぶながり給ふ。七條院の御ゆかりの殿ばら、坊門大納言忠信、尾張中將淸經、中御門大納言宗家、また修明門院の御はらからの甲斐の宰相中將範茂などつぎつぎあまた聞ゆれど、さのみはしるしがたし。いくさにまじりたつ人々、この外の上達部にも殿上人にもあまたありき。みず法ども數知らずおこなはる。やんごとなき顯密の高僧もかゝる時こそたのもしきわざならめ。おのおの心をいたして仕うまつる。御自らもいみじう念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御まへに夜もすがら御念誦したまひて、御心の中にいかめしき願どもを立てさせたまふ。夜すこし更けしづまりて御社すごく、燈ろの光かすかなる程に、をさなきわらはの臥したりけるが、俄におびえあがりて院の御まへにたゞまゐりに走り參りて詫宣しけり。「忝くもかく渡りおはしましてうれへ給へば聞きすごし難く侍れど、一とせのみこしふりの時、なさけなく防がせ給ひしかば、衆徒おのれをうらみて陣のほとりにふりすて侍りしかば、空しく馬牛の蹄にかゝりし事は今にうらめしく思ひ給ふるにより、この度のみかたうどはえつかうまつり侍るまじ。七社の神殿をこがねしろがねにみがきなさむと承るも、もはらうけ侍らぬなり」とのゝしりて、息も絕えぬるさまにて臥しぬ。聞し召す御心ち物に似ずあさましうおぼさるゝに、唯御淚のみぞいでくる。すぎにし方悔しうとりかへさまほし。さまざまをこたりかしこまり申させ給ふ。山の御輿防ぎ奉りけむこと必ずしも自らおぼしよるにもあらざりけめど、責一人にといふらむ事にやとあぢきなし。中院はあかで位をすべし〈りイ〉給ひしより、言に出でゝこそものし給はねど、世のいと心やましきまゝに、かやうの御さわぎにもことにまじらひ給はざめり。新院はおなじ御こゝろにて、よろづ軍の事などもおきて仰せられけり。いつの年よりも五月雨はれまなくて、富士川天龍などえもいはずみなぎりさわぎて、いかなる龍馬もうちわたしがたければ攻めのぼる武者どもゝあやしくなやめり。かゝれども遂に都に近づくよしきこゆれば、君の御武者もいでたつ。その勢六萬餘騎とかや。宇治勢多へわかちつかはす。世の中ひゞきのゝしるさま、言の葉も及ばずまねびがたし。あるは深き山へ逃げこもり遠き世界におちくだり、すべて安げなくさわぎみちたり。いかゞあらむと君も御心亂れておぼしまどふ。かねては猛く見えし人々もまことのきはになりぬれば、いと心あわたゞしく色を失ひたるさまどもたのもしげなし。六月二十日あまりにや、いくばくのたゝかひだになくて、遂にみかたのいくさ破れぬ。あらいそにたかしほなどのさしくるやうにて泰時と時房とみだれ入りぬればいはむ方なくあきれて上下たゞものにぞあたりまどふ。あづまよりいひおこするまゝに、かの二人の大將軍はからひおきてつゝ、保元のためしにや「院の上、都のほかにうつし奉るべし」と聞ゆれば、女院宮々ところどころにおぼし惑ふ事さらなり。本院は隱岐の國におはしますべければ、まづ鳥羽殿へ網代車のあやしげなるにて、七月六日入らせ給ふ。今日をかぎりの御ありき、あさましう哀なり。ものにもがなやとおぼさるゝもかひなし。その日やがて御ぐしおろす。御年よそぢに一つ二つや餘らせ給ふらむ。まだいとほしかるべき御ほどなり。信實朝臣召して御姿うつし書かせらる。七條の院へ奉らせ給はむとなり。かくておなじ十三日に御船にたてまつりて遙なるなみぢをしのぎおはします御心ち、この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじういかなりける代々のむくいにかとうらめしく。新院も佐渡國にうつらせ給ふ。まことや七月九日、御門をもおろし奉りき。このうつきかとよ、御讓位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十餘日にており給へるためしもこれやはじめなるらむ。もろこしにぞ四十五日とかや位におはする例ありけるとぞ、からのふみよみし人のいひし心ちする。それもかやうのみだれやありけむ。さて上達部殿上人、それよりしもはた殘るなく、この事にふれにしたぐひは重く輕く罪にあたるさまいみじげなり。中院ははじめよりしろしめさぬ事なれば、あづまにもとがめ申さねど、父の院遙にうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらむ事いとおそれありとおぼされて、御心もてその年閏十月十日土佐の國のはたといふ所に渡らせ給ひぬ。去年のきさらぎばかりにや若宮いできたまへり。承明門院の御せうとに通宗の宰相中將とて、若くてうせ給ひにし人のむすめの御腹なり。やがてかの宰相の弟に通方といふ人の家にとゞめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下﨟一人召次などばかりぞ、御供つかうまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし風吹きあれふゞきして、こしかたゆくさきも見えず、いと堪へがたきに、御袖もいたくこほりてわりなき事おほかるに、

  「うき世にはかゝれとてこそうまれけめことわりしらぬわが淚かな」。

せめて近きほどにとあづまより奏したりければ、後には阿波の國にうつらせ給ひにき。さてもこのたび世のありさま、げにいとうたて口惜しきわざなり。あるは父の王をうしなふためしだに一萬八千人までありけりとこそ佛も說き給ひためれ。まして世くだりてのち、もろこしにも日の本にも國を爭ひてたゝかひをなす事數へ盡すべからず。それも皆一ふし二ふしのよせはありけむ。もしはすぢことなる大臣、さらでもおほやけともなるべききざみの、少しのたがひめに世にへだゝりて、そのうらみのすゑなどより事起るなりけり。今のやうにむげの民とあらそひて君のほろび給へるためし、この國にはいとあまたも聞えざめり。されば承平の將門、天慶の純友、康和の義親いづれも皆猛かりけれど宣旨にはかたざりき。保元に崇德院の世をみだり給ひしだに、故院〈後白河〉の御位にてうち勝ち給ひしかば、天てる御神もみもすそ川のおなじ流と申しながら、猶時のみかどをまもり給はする事は强きなめりとぞ、ふるき人々もきこえし。又信賴の衞門督、おほけなく二條の院をおびやかし奉りしも遂に空しきかばねをぞ道のほとりに捨てられける。かゝればふりにし事を思ふにも、なほさりともいかでか上皇今上あまたおはします王城のいたづらに亡ぶるやうやはあらむとたのもしくこそおぼえしに、かくいとあやなきわざの出で來ぬるは、この世ひとつの事にもあらざらめども、迷ひのおろかなるまへにはなほいとあやしかりし。四つにて位に即き給ひて十五年おはしましき。おり給ひてのちも土佐院十二年、佐渡院十一年、猶天の下にはおなじ事なりしかば、すべて三十八年が程この國のあるじとして、萬機のまつり事を御心ひとつにをさめ、もゝのつかさをしたがへ給へりしそのほど、吹く風の草木の靡かすよりまされる御ありさまにて、遠きをあはれみ近きをなで給ふ御惠、雨のあしよりもしげゝれば、津の國のこやにひまなきまつり事をきこしめすにも、難波の葦のみだれざらむ事をおぼしき。はこやの山の峯の松もやうやう枝をつらねて千世に八千代をかさね、霞の洞の御すまひ、いく春を經ても空ゆく月日のかぎりしらず、のどけくおはしましぬべかりける世を、ありありてよしなき一ふしに、今はかく花のみやこをさへたちわかれ、おのがちりぢりにさすらへ、いそのとまやに軒を並べて、おのづからこととふものとては浦につりするあま小舟、鹽燒くけぶりのなびく方をも我がふる里のしるべにかとばかりながめ過させ給ふ。御すまひどもはそれまでと月日をかぎりたらむだに、あすしらね世の後めたさにいと心ぼそかるべし。まいていつをはてとかめぐり逢ふべきかぎりだになく、雲の浪けぶりの波の〈イ無〉いくへともしらぬさかひに世をつくし給ふべき御さまども口をしといふもおろかなり。このおはします所は人ばなれ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて山かげにかたそへて、大きやかなるいはほのそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊などけしきばかりことそぎたり。まことに柴のいほりのたゞしばしと、かりそめに見えたる御やどりなれど、さる方になまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀨殿おぼしいづるも夢のやうになむ。はるばると見やらるゝ海の眺望、二千里の外ものこりなき心ちするいまさらめきたり。鹽風のいとこちたく吹きくるを聞しめして、

  「我こそはにひしまもりよおきの海のあらきなみ風こゝろしてふけ。

   おなじ世にまたすみのえの月や見む今日こそよそにおきの島もり」。

年もかへりぬ。ところどころ浦々あはれなる事をのみおぼしなげく。佐渡院あけくれ御行をのみし給ひつゝ、なほさりともとおぼさる。隱岐には浦より遠のはるばると霞み渡れる空を眺め入りて、過ぎにし方かきつくしおもほしいづるに、行くへなき御淚のみぞとゞまらぬ。

  「うらやましながき日かげの春にあひて鹽くむあまも袖やほすらむ」。

夏になりて、かやぶきの軒端に五月雨のしづくいと所せきも、御覽じなれぬ御心ちにさまかはりてめづらしくおぼさる。

  「あやめふくかやがのきばに風すぎてしどろにおつるむら雨のつゆ」。

初秋風のたちて、世の中いとゞものかなしく露げさまさるに、いはむ方なくおぼしみだる。

  「故鄕をわかれぢにおふるくずの葉の秋はくれどもかへる世もなし」。

たとしへなくながめしをれさせ給へる夕暮に、沖の方にいと少さき木の葉の浮べるとみえて漕ぎくるを、あまの釣舟かと御覽ずる程に、都よりの御せうそこなりけり。黑染の御衣夜の御ふすまなど、都の夜さむに思ひやり聞えさせ給ひて、七條院よりまゐれる御文ひきあけせさ給ふより、いといみじく御胸もせきあぐる心ちすれば、やゝためらひて見給ふに、「あさましくもかくて月日へにける事、今日あすとも知らぬ命のうちに、今一たびいかで見奉りてしがな。かくなからば死出の山路も越えやるべうも侍らでなむ」などいと多くみだれかき給へるを、御顏におしあてゝ、

  「たらちねの消えやらで待つ露の身を風よりさきにいかでとはまし。

   八百よろづ神もあはれめたらちねの我待ちえむとたえぬたまのを」。

初雁のつばさにつけつゝ、こゝかしこより哀なる御せうそこのみ常は奉るを御覽ずるにつけても、あさましういみじき御淚のもよほしなり。家隆の二位は新古今の撰者に召しくはへられ、大かた歌の道につけてむつまじく召しつかひし人なれば、夜晝戀ひ聞ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨にまゐりけむもかくやとおぼゆるまで、まきかさねて書きつらねまゐらせたる、「和歌所のむかしのおもかげ、かずかずに忘れがたう」など申して、つらき命の今日まで侍ることのうらめしきよしなど、えもいはずあはれおほくて、

  「ねざめして聞かぬをきゝてわびしきはあら磯なみのあかつきの聲」

とあるを法皇もいみじとおぼして御袖いたくしぼらせたまふ。

  「浪間なきおきの小島のはまびさしひさしくなりぬみやこへだてゝ。

   木がらしのおきのそま山ふきしをりあらくしをれてもの思ふころ」。

をりをりよませ給へる御歌どもを書きあつめて修明門院へ奉らせ給ふ。その中に、

  「水無瀨山我がふるさとはあれぬらむまがきはのらと人もかよはで。

   かざしを借る人もあらばやこととはむ〈ぬイ〉沖のみ山にすぎは見ゆれど。

   限あればさてもたへける身〈こイ〉のうさよ〈はイ〉民のわらやに軒をならべて」。

かやうのたぐひすべて多く聞ゆれど、さのみは年のつもりにえなむ。今又思ひいでばついでもとめてとて〈十六字イ無〉

     第三 ふぢ衣

その頃いとかずまへられ給はぬふる宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子なり。隱岐の法皇の御このかみなれば、思へばやんごとなけれど、昔後白川の法皇、安德院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御うまごの宮だちえりの時泣き給ひしによりて、位にも即かせ給はざりしかば、世の中ものうらめしきやうにてすぐし給ふ。さびしく人めまれなれば年を經てあれまさりつゝ、草ふかく八重葎のみさしかためたる宮の中にいと心ぼそくながめおはするに、建保の頃宮のうちの女房の夢に、かうぶりしたるもの數多まゐりて、「劔璽を入れ奉るべきに、おのおの用意してさぶらはれよ」といふと見てければ、いとあやしうおぼえて宮に語り聞えければ、いかでかさほどの事あらむとおぼしもよらで、遂に御ぐしをさへおろし給ひて、この世の御望はたちはてぬる心ちして物し給へるに、このみだれ出できて、一院の御ぞうは皆さまざまにさすらへ給ひぬれば、おのづからちひさきなど殘り給へるも世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、あづまよりのおきてにて、かの入道親王の御子〈後堀川院の御事〉の十になり給ふを、承久三年七月九日俄に御位につけ奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて法皇ときこゆ。いとめでたくよこざまの御さいはひおはしける宮なり。そんわうにて位に即かせ給へるためし、光仁天皇より後は絕えて久しかりつるにめづらしくめでたし。そのしはすに御即位、明くる年貞應元年正月三日御元服したまふ。御いみな茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母基家中納言のむすめ北白川院と申しき。家實のおとゞ又攝政になりかへらせ給ひて、よろづおきてのたまふも、さまざまに引きかへしたる世なりかし。又の年五月の頃法皇かくれさせ給ひぬれば、天下みなくろみわたりぬ。うへも御ぶくたてまつる。きびはなる御程に、いといみじう哀なる御事なめり。前の御門は四つにて廢せられ給ひて、尊號などの沙汰だになし。御母后〈東一條院〉も山里の御すまひにて、いと心ぼそくあはれなる世をつきせずおぼしなげく。この宮は故攝政殿〈後京極よしつね〉の姬君にてものし給へば、歌の道にもいとかしこう渡らせ給へば、大かた奧ふかうしめやかに重き御本性にて、はかなき事をもたやすくもらさせ給はず、御琴などもかぎりなき音を彈きとり給へれど、をさをさ搔きたてさせたまふ世もなく、あまりなるまでうもれたる御もてなしを、佐渡の院もかぎりなき御志の中に飽かずなむ思ひ聞えさせ給ひける。かの遠き御わかれの後は、いみじうものをのみおぼしくだけつゝ、いよいよしづみふしておはしますに、ふるく仕うまつりける女房の、里にこもり居たりけるもとより、あはれなる御せうそこをきこえて、十月一日の頃、御衣がへの御ぞを奉りたりける御返事に、

  「思ひいづるころもはかなしわれも人もみしにはあらずたどらるゝ世に」。

又御手ならひのついでに、からうじてもれけるにや、

  「消えかぬるいのちぞつらきおなじ世にあるもたのみはかけぬちぎりを」。

さこそはげにおぼしみだれけめ。おろかなる契だにかゝるすぢのあはれは淺くやは侍る。いかばかりの御心の中にてすぐし給ふらむといとかたじけなし。はかなく明けくれて貞應もうち過ぎ、元仁嘉祿安貞などいふ年もほどなくかはりて、寬喜元年になりぬ。このほどは光明峰寺殿道家また關白にておはす。この御むすめ女御に參り給ふ。世の中めでたく華やかなり。これより先に三條のおほきおとゞ公房の姬君まゐり給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしをおしのけて、前の殿家實の御むすめ、いまだをさなくておはする參り給ひにき。これはいたく御おぼえもなくて、三條后の宮の淨土寺とかやに引き籠りて渡らせ給ふに、御せうそこのみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじくおぼされながら、さすがに后立はありつるを、父の殿攝錄かはり給ひて、今の峰殿〈道家東山殿と申しき〉なりかへり給ひぬれば、又この姬君入內ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。めづらしきが參り給へばとて、などかかうしもあながちならむ。もろこしには三千人などもさぶらひ給ひけるとこそ傳へ聞くにも、しなしなしからぬ心ちすれど、いかなるにかあらむ。後にはおのおの院號ありて三條殿の后は安嘉門院、中の度參り給ひし殿の女御は鷹司の院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり。藤局わたり〈今の女御以下十八字流布本無〉今めかしくすみなし給へり。御はらからの姬君もかたちよくおはするに、ひきこめがたしとて內侍のかみになし奉り給ふ。おなじき三年七月五日、關白をば御太郞敎實のおとゞに讓り聞え給ひて、我が御身は大殿とて后宮の御おやなれば思ひなしもやんごとなさに、御子どもさへいみじう榮え給ふさまためしなき程なり。あづまの將軍、山の座主、三井寺のちやうり、山階寺の別當、仁和寺の御むろ、皆この殿のきんだちにておはすれば、すべて天下はさながらまじる人すくなう見えたり。いとよそほしくおもおもしげにて、內の御とのゐ所などに常はうちとけさぶらひ給へば、關白殿次々の御子どもゝ大臣などにて、立ちかはり御前に絕えずものし給ひて世のまつり事など聞えたまふ。北の方は公經のおとゞの御むすめなれば、まして世の重くなびき奉るさまいとやんごとなし。まことやその年十一月十一日阿波の院かくれさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならずおぼされければ御ぐしおろさせ給ひにけり。こゝら物をのみおぼして今年は三十七にぞならせたまひける。今一度みやこをも御覽ぜずなりぬるいみじうかなしきを、隱岐の小島にもきこしめしなげく。承明門院はさまざまのうき事を見つくして、猶ながらふる命のうとましきに、又かくおなじ世をだに去り給ひぬる御歎のいはむかたなさに、などさきだゝぬと口惜しうおぼしこがるゝさま、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召しつかひける御調度、何くれはかなき御手箱やうのものを都へ人のまゐらせたりける中に、たまさかに通ひける隱岐よりの御文、女院の御せうそこなどをひとつにとりしたゝめられたる、いみじうあはれにて御目もきりふたがる心ちしたまふ。家隆の二位のむすめ小宰相と聞えしは、おのづからけぢかく御覽じなれけるにや、人よりことに思ひしづみて御服などくろくそめける。

  「うしと見しありしわかれは藤ごろもやがてきるべきかどでなりけり」。

今年もはかなく暮れて貞永元年になりぬ。定家中納言うけたまはりて撰集の沙汰ありつるを、この程御門おりさせ給ふべきよし聞ゆればにや、いと疾く十月二日奏せられける。一とせのうちに奏せられたるいとありがたくこそ。新勅撰ときこゆ。「元久に新古今いできてのち、程なく世の中もひきかへぬるに、又新の字うちつゞきたる心よからぬ事」など、さゞめく人も侍りけるとかや。さて同じき四日おり居させ給ふ。御惱み重きによりてなりけり。こぞの二月后の宮の御腹に一の御子いでき給へりしかば、やがて太子にたゝせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、「かの承久の廢帝の生れさせ給ふとひとしく坊に居給へりしはいと不用なりしを」などいふめり。うへはおりさせ給ひて、その七日やがて尊〈院イ〉號あり。御惱み猶をこたらず。大かた世もしづかならず、この三年ばかりは天變しきりなゐふりなどして、さとし繁く、御つゝしみおもきやうなればいかゞおはしまさむと御心どもさわぐべし。今上は二歲にぞならせ給ふ。あさましき程の御いはけなさにて、いつくしき十善のあるじに定り給ふ事いとゆゝしきまでさきの世ゆかしき御ありさまなり。むかし近衞院三歲、六條院二歲にて位に即き給へりし、いづれもいと心ゆかぬためしなり。閑院殿の淸凉殿にてまづ御袴奉る。十二月五日御即位はことなくはてぬれば、めでたくて年かはりぬ。中宮も御ものゝけになやませ給ひて常はあつしうおはしますを院はいとゞはれまなくおぼしなげく。う月の頃年號あらたまる。天福といふなるべし。そのおなじ頃中宮も位去り給ひて藻壁門院とぞきこゆなる。今年も又例ならずなやませ給へば、めでたき御事の數そはせ給ふべきにこそと世の中めでたくきこゆ。祭祓なにくれとおびたゞしくまだきよりのゝしる。ましてその程近くなりては天の下やすきそらなく、やまやま、てらでら、社々、御いのりひゞきさわげども御物の怪こはくていみじうあさまし。遂に九月十八日にかくれさせ給ひぬ。その程のいみじさ推し量りぬべし。今年二十五にならせたまふ。若く淸らにうつくしげにて、さかりなる花の御すがた時の間の露と消えはて給ひぬるはいはむ方なし。殿うへおぼしまどふさまかなしともいへばさらなり。院にさぶらふ民部卿典侍ときこゆるは定家中納言のむすめなり。この宮の御方にもけぢかうつかうまつる人なりけり。かぎりなく思ひしづみて頭おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問へる返事に、

  「悲しさはうき世のとがとそむけどもたゞこひしさのなぐさめぞなき」。

當代の御母后にておはしつれば、天下皆ひとつすみぞめにやつれぬ。この御なげきにいよいよ院はしづみまさらせ給ひて、うち絕えて御遊などをだに御覽じいるゝ事なくて月日つもらせ給へば、御修法どもいとこちたく、やまやま寺々殘りなくつとめのゝしる。くすしおんみやうし祭祓など天の下騷ぎみちたり。又年號かはりぬ。文曆元年といふ。承久の廢帝十七になり給へるも五月二十日にうせ給ひぬ。いと若き御程に、いといとほしうあたらしき御年なりかし。隱岐にもうち續き哀なる事どもを聞し召し歎くべし。佐渡にはまして心うくあさましとおぼさる。この御さしつぎの宮猶おはしますは、修明門院養ひ奉らせ給ふめり。かくいひしろふほどに院の御惱み日々におもくならせ給ひて、八月六日いとあさましうならせ給ひぬ。世のおもしにておはしますべきことの、かくあへなき御ありさま口をしなど聞ゆるもなのめなり。大方御本性もなごやかにらうらうしく、御かたちもまほに美くしうとゝのほりて、はたちに三つばかりや餘らせ給ふらむ、若う盛の御程に、御才などもやまともろこしたどたどしからず、何事につけてもいとあたらしう坐しませば、世の人の惜み聞ゆるさま限なし。唯くれ惑へる心ちどもなり。後堀川院とぞ申しける。故宮の御はてだにすぎず、又とりかさねて諒闇の三とせまでにならむことを、いとまがまがしくゆゝしと皆人思ふべし。御契の程のあはれさもいとありがたくなむ。御禊大甞會などもいとゞのびぬ。唯こゝもかしこもたかきもくだれるも、都も遠きも島々も淚にうき沈みてぞすぐし給ひける。うち續きかくのみ世の中騷がしく、天變もしきりいとあわたゞしきやうなれば又年號かはりて嘉禎元年といふ。まことや三月の末つかたより攝政殿〈のりさねとうゐむ〉重く煩ひ給ふ。故院の御位のほどより大殿の御ゆづりにて關白と聞えしが、御門をさなくおはしませばこの頃は攝政殿と申すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いとあへなくうせ給ひぬれば、大殿の御歎たとへむかたなし。二十六にぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姬君、若君などものし給ふをも、今は峯殿のみ偏にはぐゝみ聞え給ひけり。攝政にも大殿たちかへりなり給ひぬ。かくて三度まつり事ををさめ給ひぬるにや。北の政所の御父はきんつねのおとゞなれば、かの殿とひとつにて世はいよいよ御心のまゝなるべし。今年ぞ御色ども改りぬれば、冬になりて御禊大甞會行はる。さまざまめでたくもあはれにも、いろいろなる都の事どもをほのかに傳へ聞し召して、隱岐にはあさましの年のつもりやと御齡にそへても盡せぬ御なげきぐさのみしげりそふ。慰めにはおぼしなれにしことゝて敷島の道にのみぞ御心をのべける。都へもたよりにつけつゝ題をつかはし歌を召せば、あはれに忘れがたく戀ひ聞ゆるむかしの人々、我も我もと奉れるを、つれづれにおぼさるゝあまりに自ら判じて御覽ぜられにけり。家隆の二位も今まで生ける思ひいでに、これをだにと哀にかたじけなくて、こと人々の歌をもこゝよりぞとり集めてまゐらせける。むかしの秀能はありしみだれの後、頭おろして深くこもりゐたり。如願とぞいひける。それもこの度の御歌合にめせば、今更にそのかみの事さこそは思ひいづらめ。例のかずかずはいかでか唯片はしをだに」」とて「「左御製、

  「人ごゝろうつりはてぬるはなのいろに昔ながらの山の名もうし」。

右家隆の二位、

  「なぞもかく思ひそめけむさくら花山としたかくなりはつるまで」。

秀能、

  「わだのはら八十島かけてしるべせよはるかに通ふおきのつり舟」。

山家といふ題にて、また左御製、

  「軒端あれてたれかみなせの宿の月すみこしまで〈まイ〉の色やさびしき」。

右家隆、

  「さびしさやまだ見ぬ島のやま里を思ひやるにもすむこゝちして」。

法皇〈御イ有〉みづから判のことばを書かせ給へるに、「まだ見ぬ島を思ひや〈るイ有〉らむよりは、年久しくすみて思ひいでむは今すこし志深くや」とて我が御歌をかちとつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうのはかなしごと、又は阿彌陀佛の御勤などに紛らはしてぞおはします。又御手ならひのついでに、

  「われながらうとみはてぬる身のうへに淚ばかりぞおもがはりせぬ。

   ふる里は入りぬるいその草よたゞ夕しほみち〈かけイ〉てみらくすくなき」。

この浦にすませ給ひて十九年ばかりにやありけむ、延應元年といふ二月廿二日むそぢにてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ歸らむの御志ふかゝりしに、遂に空しくてやみ給ひにし事いと忝く哀になさけなき世も今さら心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人ずくなに心ぼそき御ありさまいとあはれになむ。御骨をば能茂といひし北面の入道して御供にさぶらひしぞ頸にかけ奉りて都にのぼりける。さて大原の法華堂とて、今もむかしの御さうのところどころ三昧料に寄せられたるにてつとめ絕えず。かの法華堂には修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とゞめたりし水無瀨殿をわたされけり。今はのきはまでもたせ給ひけるきりの御數珠などもかしこにいまだ侍るこそ哀にかたじけなく拜み奉るついでのありしか。はじめは顯德院と定め申されたりけれど、おはしましゝ世の御あらましなりけるとて仁治の頃ぞ後鳥羽院とは更に聞えなほされけるとなむ。

     第四 三神山

さても源大納言通方の預り奉られし阿波院の宮はおとなび給ふまゝに御心ばへもいときやうさくに、御かたちもいとうるはしくけたかくやんごとなき御有樣なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思ひ聞えけり。大納言さへ曆仁の頃うせにしかば、いよいよ眞心に仕うまつる人もなく、心ぼそげにて何を待つとしもなくかゝづらひておはしますも、人わろくあぢきなうおぼさるべし。御母は土御門の內大臣通親の御子に、宰相の中將通宗とてわかくてうせにし人の御むすめなり。それさへかくれ給ひにしかば宰相のはらからの姫君ぞ御めのとのやうにて、けうどんみの釋迦佛養ひ奉りけむ心ちしておはしける。二つにて父御門には別れ奉り給ひしかば、御面影だにおぼえ給はねど、猶この世の中におはすとおぼされしまでは、おのづからあひ見奉るやうにやなど人しれずをさなき御心にかゝりておぼしわたりけるに、十二の御年かとよ、かくれさせ給ひぬと傳へきゝ給ひし後はいよいよ世のうさをおぼしくんじつゝ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院は心苦しうかなしと見奉りたまふ。はかなくあけくれて仁治二年にもなりにけり。御門は今年十一にて正月五日御元服し給ふ。御いみな秀仁と聞ゆ。その年の十二月に洞ゐんの故攝政殿〈のりざね〉の姫君九つになり給ふを、おほぢの大殿御をぢの殿ばらなどゐたちて、いとよそほしくあらまほしきさまにひゞきて女御參り給へば、父の殿ひとりこそものし給はねど、大方の儀式よろづ飽かぬことなくめでたし。うへもきびはなる御程に女御もまだかくちひさうおはすれば雛遊のやうにぞ見えさせ給ひける。天の下はさながら大殿の御心のまゝなれば、いとゆゝしくなむ。土御門殿の宮は廿にもあまり給ひぬれど、御かうぶりのさたもなし。城興寺の宮僧正眞性と聞ゆる御弟子にとかたらひ申し給ひければ、さやうにもとおぼして女院にもほのめかし申させ給ひけるを、「いとあるまじき事」とのみ諫め聞えさせ給ふ。その冬のころ、宮いたう忍びて石淸水の社に詣でさせ給ひ、御念誦のどかにし給ひて少しまどろませ給へるに、神殿の內に「椿葉のかげ二たびあらたまる」と、いとあざやかにけだかき聲にてうちずんじ給ふと聞きて御覽じあけたれば、明方の空すみわたれるに星のひかりもけざやかにていと神さびたり。いかに見えつる御夢ならむと怪しくおぼさるれど、人にものたまはず、とまれかくもあれといよいよ御學問をぞせさせ給ふ。年もかへりぬ。春のはじめはおしなべて、ほどほどにつけたる家々の身の祝ひなど心ゆきほこらしげなるに、む月の五日より內の上例ならぬ御事にて、七日の節會にも御帳にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々おぼしあへるに、九日の曉かくれさせ給ひぬとてのゝしりあへるいとあさましともいふばかりなし。皆人あきれまどひて中々淚だにいでこず。女御もいまだ童あそびの御さまにて何心なくむつれ聞えさせ給へるに、いとうたていみじければ、うちしめりくんじて居給へるいとをさなげにらうたし。大殿の御心のうち思ひやるべし。御せうと〈左大臣たゞいへ〉の若君も殿上したまへる、唯御門のおなじ御ほどにて、さわがしきまでの御遊のみにて明しくらさせ給ひけるに、かいひそみて群りゐつゝ鼻うちかみうち泣く人より外はなし。かくのみあさましき御事どものうち續きぬるは、いかにもかの遠き浦々にて沈みはてさせ給ひにし御なげきどものつもりにやとぞ世の人もさゞめきける。御惱みの始めもなべてのすぢにはあらず、あまりいはけたる御遊よりそこなはれ給ひにけるとぞ。いまだ御つぎもおはしまさず、又御はらからの宮なども渡らせ給はねば、世の中いかになりゆかむずるにかとたどりあへるさまなり。さてしもやはにてあづまへぞ吿げやりける。將軍は大殿の御子。今は大納言殿ときこゆ。御後見は承久に上りたりし泰時朝臣なり。時房と一所にて小弓射させ酒もりなどして心とけたるほどなりけるに、「京よりのはしり馬」といへば、何事ならむとおどろきながら、使召しよせて聞くにいとあさまし。さりとてあるべきならねば、そのむしろよりやがて神事はじめて、若宮の社にてくじをぞとりける。その程都にはいとうかびたる事ども心のひきひきいひしろふ。佐渡院の宮だちにやなど聞えければ、修明門院にも御心ときめきして內々その御用意などしたまふ。承明門院ももしやなどさまざま御いのりし給ふ。あづまの使都に入るよしきこゆる〈聞えけるイ〉日は兩女院より白川に人を立て、いづかたへか參ると見せられけるぞことわりに、げに今見ゆべき事なれども、物の心もとなきはさおぼゆるわざぞかし」」と例の口すげみてほゝゑむ。「「日ぐらし待たれて、城介よしかげといふもの三條河原にうちいでゝ、「承明門院のおはしますなる院はいづくぞ」と、かの院より立てられたる靑侍のいとあやしげなるにしも問ひければ、聞く心ちうつゝともおぼえず、「しかじか」と申すまゝに土御門殿へまゐりたれど、門は葎つよくかため扉もさびつき、柱根くちてあかざりけるを郞等どもにとかくせさせて內に參りて見まはせば、庭には草深く靑き苔のみむして松風より外はこたふるものもなく、人の通へる跡もなし。故通宗宰相中將の御おとゝを子にし給へりし、定通のおとゞばかりぞ、何となくおのづからの事もやと思ひて、なえばめるゑぼうし直衣にてさぶらひ給ひけるが、中門にいでゝ對面したまふ。よしかげはきり戶のわきにかしこまりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と申していでぬ。院の中の人々上下夢のこゝちして物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。世の人の心ちみなおどろきあわてゝ、おしかへしこなたに參りつどふ馬車の響騷ぐ世のおとなひを、四つじ殿にはあさましうなかなか物おぼしまさるべし。またの日やがて御元服せさせ給ふ。ひきいれには左大臣〈よしざね〉參り給ふ。理はつは頭辨定嗣仕うまつりけり。御いみな邦仁御年二十三。その夜やがて冷泉萬里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より劔璽など渡さる。踐祚の儀式いとめづらし。その後こそ閑院殿には追號のさだめ御わざの事などさたありけれ。廿五日に東山の泉涌寺とかやいふほとりにをさめ奉る。四條の院と申すなるべし。やがてかの寺に御庄などよせて今に御菩提を祈り申し侍る〈四字奉るイ〉もさきの世のゆゑありけるにや。この御門いまだ物などはかばかしくのたまはぬ程の御齡なりける時、誰とかや「さきの世はいかなる人にてかおはしましけむ」と唯何となく聞えたりけるに、かの泉涌寺の開山のひじりの名をぞたしかに仰せられたりける。又人の夢にも、この御門かくれさせ給ひて後、かの上人「われ速に成佛すべかりしを、よしなき妄念をおこして今一ど人界の生をうけて、帝王の位にいたりてかへりて我が寺を助けむと思ひしにはたしてかくなむ」とぞ見えける。まことに〈のイ〉その餘執の通りけるしるしにや、御庄どもゝよりけむとぞ覺え侍る。さて仁治三年三月十八日御即位、よろづあるべき限りめでたくて過ぎもてゆく。嘉禎三年よりはをかのやのおとゞ〈兼經〉攝政にていませしかば、そのまゝに今の御代の始も關白と聞えつれど、三月廿五日左のおとゞ〈よしざね。二條殿の御家のはじめなり。〉にわたりぬ。この殿も光明峯寺殿の御二郞君なり。神無月になりぬれば御禊とて世の中ひしめきたつも思ひよりし事かはとめでたし。大甞會の悠紀方の御屛風三神山、菅宰相爲長つかうまつられける。

  「いにしへに名をのみきゝてもとめけむ三神の山はこれぞその山」。

主基方風俗のうた、經光の中納言にめされたり。

  「すゑとほき千世のかげこそ久しけれまだ二葉なるいはさきの松」。

當代かくめでたくおはしませば、通宗宰相も左大臣從一位を贈られたまふ。御むすめも后の位を贈り申されしいとめでたしや。まことやこの頃右大臣と聞ゆるは實氏のおとゞよ。その御むすめ十八になり給ふを女御に立てまつり給ふ。六月三日入內あり。儀式ありさま二なく淸らをつくされたり。母北の方は四條大納言隆衡のむすめなり。女御の君いとさゝやかにあいぎやうづきてめでたくものし給へば、御おぼえいとかひがひしく、よろづうちあひ思ふさまなる世のけしき飽かぬ事なし。おなじ年八月九日后に立ちたまふ。そのほどのめでたさいへばさらなり。源大納言の家にむほん親王にてあやしう心ぼそげなりし御程には、たはぶれにも思ひより聞え給はざりけむと、めでたきにつけても人の口やすからず、さはとかくきこゆべし。

     第五 內野の雪

今后の御父は先にも聞えつる右大臣〈實氏〉のおとゞ、その父殿故公經のおほきおとゞ、そのかみ夢見給へることありて、源氏の中將わらはやみまじなひ給ひし。北山のほとりに世に知らずゆゝしき御堂を建てゝ名をば西園寺といふめり。この所は伯三位すけなかの領なりしを、尾張の國松えだといふ庄にかへ給ひてけり。もとは田はたけなど多くて、ひたぶるに田舍めきたりしを、更にうちかへしくづして艷なる園に作りなし、山のたゝずまひ木ぶかく、池の心ゆたかにわたつ海をたゞへ、峯よりおつる瀧のひゞきもげに淚催しぬべく、心ばせ深き所のさまなり。本堂は西園寺、本尊の如來は誠にたへなる御姿、生身もかくやといつくしう顯され給へり。又せんみやく院は藥師、功德藏院は地藏菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、瀧のもとには不動尊、この不動は津の國より生身の明王、簔笠うち奉りてさし步みておはしたりき。その簑笠は寳藏にこめて、三十三年に一度出さるとぞうけたまはる。石橋の上には五大堂、成就心院といふは愛染王の座さまさぬ祕法とり行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟數珠の絲までおなじ色にて侍るめる。又ほす院けす院無量光院とかやとて來迎のけしき彌陀如來、廿五の菩薩虛空に顯じ給へる御姿も侍るめり。北の寢殿にぞおとゞは住み給ふ。めぐれる山のときは木どもいとふりたるに、なつかしき程の若木の櫻など植ゑ渡すとて、おとゞうそぶき給ひけり。

  「山櫻みねにも尾にもうゑおかむ見ぬ世の春を人やしのぶと」。

かの法成寺をのみこそ、いみじきためしに世繼もいひためれど、これは猶山のけしきさへおもしろく、都はなれて眺望そひたればいはむかたなくめでたし。峰殿の御舅あづまの將軍の御おほぢにて、よろづ世の中御心のまゝに、飽かぬ事なくゆゝしくなむおはしける。今の右のおとゞをさをさ劣り給はず、世のおもしにていとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかたゞならずおはすると聞ゆる、奧ゆかしき御程なるべし。京にはさまざまめでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には御惱み聞えし程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみおぼしよる事どもありしも、空しうへだゝりのみはてぬる世をいと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく御惱みなどおもるやうにて失せ給ひにけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いとあはれなる世の中なるべし。かくて年かはりぬれば寬元元年ときこゆ。五月廿六日より最勝講始めておこなはる。關白をはじめ上達部殿上人殘りなく參り給ふ。左右大將〈たゞいへ、さねもと、〉の車陣にたつるとて爭ひのゝしりていみじうおそろし。右は上ず左は下﨟にておはしければ、御前どもかたみにひしめきてあさましかりけり。されども相向へて立てゝのちぞしづまりにける。又の日は久我の前內大臣〈みちみつ〉鳥羽の御家にて八講し給ふとて上達部多くかしこにつどひ給ふ。おとゞは更にもいはず、堀川大納言〈ともざね〉、御子の通忠の大納言殿、土御門の大納言〈あきさだ〉、通成の三位中將、通行の宰相中將などすべて一門の人々びりやうにておはして、多く高欄につき給ふ。ほとほと內の御八講にも劣らず見えたり。殿上人はまして數しらず。雅通のおとゞの書きおき給へるものに、公務の日なりとも暇を申してこの八講にあふべしとかや侍るなるに、誠にかゝるおほやけ事の折ふしも猶さし合せておはしつどふ。いとやんごとなきわざなめり。猶末の代にはいかゞあらむといぶかし。廿八日はうちの最勝講五卷の日にて、又人々かずを盡して參りたまふ。廿九日には法性寺の淨光明院にて普賢寺殿の御忌日の法事あり。この御堂の莊嚴のめでたさかぎりなし。まことの淨土思ひやらるゝさまなり。こゝもかしこもこの程はたふとき事のみおほくて耳ぞおほくほしかりける。まことやこぞより中宮はいつしかたゞならずおはします。六月になりてその程近ければ、十三社の奉幣勅使立てらる。日比の御いのりにうちそへ世の中ゆすりさわぐ。六日より七佛藥師五壇のみしほなどはじまる。中壇は櫻井の宮〈御鳥羽院の御子〉勤めさせ給ふ。今出川のおとゞにおはしませば御家の殿ばら絕えずさぶらひ給ふ。十日のあけぼのよりその御けしきあれば殿の內たちさわぐ。白き御よそひにあらためて母屋にうつらせ給ふ。天下のゝしりたちて馬車走りちがふさまいとこちたし。內よりも御使ひまなし。料の御馬にて雨の脚よりもしげく走りきほふ。さらでだにいと暑き頃を、汗におしひたしたる人々のけしきいとわりなし。后の宮いと苦しげにし給ひて日たけゆくに、いろいろの御物の怪どもなのりいでゝいみじうかしがまし。おとゞ北の方いかさまにと御心惑ひて、おぼし歎くさまあはれにかなし。かやうのきざみは高きも下れるもおろかなるやはある。なべて皆かくこそはあれど、げにさしあたりたる世のけしきをとりぐしていみじうおぼさるべし。うちの御めのと大納言二位殿おとなおとなしき內侍のすけなどさるべきかぎり參り給へり。今日も猶心もとなくて暮れぬればいとおそろしうおぼす。伊勢のみてくらづかひなど立てらる。諸社の神馬ところどころの御誦經の使、四位五位數をつくして鞭をあぐるさま、いはずともおしはかるべし。おとゞとりわき春日の社へ拜して御馬宮の御ぞなどたてまつらる。うちには更衣ばらに若宮二所おはしませど、この御事を侍ちきこえ給ふとて坊定り給はぬほどなり。たとひたひらかにおはしますとも、もし女みや〈御子イ〉ならばとまがまがしきあらましは、かねておもふだに胸つぶれて口をし。かつは我が御身のしゆくせ見ゆべききはぞかしとおぼして、おとゞもいみじう念じたまふに、ひつじのくだりほどにすでにことなりぬ。宮の御せうと公相の大納言「皇子御誕生ぞや」といとあざやかにのたまふを、聞くひとびとの心ち夜の明けたらむやうなり。父おとゞ「まことか」とのたまふまゝによろこびの御淚ぞ落ちぬる。あはれなる御けしきと見たてまつる人もこといみしあへず。公相、公基、實雄、大納言三人、權大夫實藤、大宮中納言公持皆御ゆかりの殿ばらうへのきぬにてさぶらひ給ふ。みしほどもやがて結願すべしとて僧ども法師ばらまでしたり顏に汗おしのごひつゝいそがしげにありくさへぞめでたき。月なみの御神事なるうへ、今日ひついて心やましき事とかやにてわざと奏し給はねど。御驗者櫻井の宮の僧正號〈覺仁法親王〉をはじめ奉りて、つぎつぎ皆祿たまふ。ほつ親王には宮の御ぞ大夫とりて奉り給ひ、字治のさきの僧正には公基の大納言、房意法印には權大夫公持かづけ給ふ。御馬はおのおの本坊に送られけり。又の日月なみの祭はてゝ御はかしまゐる。勅使隆郞〈良イ〉なりき。十二日三夜の儀式大宮の御沙汰にていとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち五位十人六位十人ならびたつ。御文の博士光兼朝臣、右衞門權佐すけさだ、大外記もろみつなど寢殿の南おもての庭に立ちて孝經の天子の章をぞよむ。その上達部簀子にさぶらひ給ふ。あしたの御湯はてゝ皆まかでゝ後、又夕の御湯殿の儀式さきのまゝにてはてぬる後、寢殿の南東の間に白き袖口どもおしいださる。しろゑの五尺の屛風たて渡して、上達部よりすゑきて、饗どもすゑわたす。公卿の座に人々二行につきあまるほどなり。右大將〈さねもと〉、大夫〈きんすけ〉、公基、實雄、以上大納言。中納言に左衞門督〈あきちか〉、權大夫〈さねふぢ〉、公持、侍從宰相〈すけすゑ〉、別當〈きんみつ〉、左代辨宰相〈つねみつ〉、新宰相〈さだつぐ〉、右兵衞督〈ありすけ〉、新宰相中將〈みちゆき〉などつきたり。その座の末に紫べりのたゝみに殿上人中將實直朝臣をはじめて數しらずまゐれり。御前のものども殿上の四位はこぶ。ちご御子の御ぞの案二脚はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫〈きんすけ〉らうえい「嘉辰令月」とのたまへば、有資聲くはへらる。又「昭王」とおし重ねていださる。御聲々しう德にあらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。十四日に五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり、實基の大將殿〈德大寺〉拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位中納言〈よしのり〉、篳篥兼敎朝臣、琵琶大夫〈きんすけ〉、箏のこと權の大夫〈さねふぢ〉、和琴〈ありけす〉、末の拍子もおなじ人なりしにや。安名尊、鳥破、席田、伊勢海、萬歲樂、三臺急例の事なり。かずかずめでたし。十六日七夜の御うぶ養、內よりの御沙汰なれば今すこし儀式ことにていかめし。關白殿、右のおとゞ右大將〈ともざね〉、大納言定雅、公相、公基、實雄。中納言には例の人々、顯親、實藤、公持、資季、公光、經光、定嗣、三位中將〈みちなり〉、殿上人頭中將〈もろつぐ〉より始めて殘るはすくなし。勅使藏人侍從宗基、目錄もちてまゐれり。大夫對面し給ひて白き御ぞかづけ給ふ。大〈本イ〉宮のものどもにもうちより錄たまふ。內膳司まゐりて、うるはしき作法にて南殿より御前まゐるさま、日ごろのには似ずけだかうめでたし。その後御あそびはじまる。人々の所作さのみは珍しげなくてとゞめつ。九夜は承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかどうるさくてなむ。こゝらの年ごろおぼしむすぼゝれつる女院の御心の中名殘なく胸あきて、めでたくおぼさるゝ事かぎりなし。閑院殿修理せらるゝ程とて十五日に御門承明門院へ行幸なれば、いとゞしげうさへ見奉らせたまふに御心ゆく事多く、げにいみじきおいの御さかえなりかし。覺子內親王とて御傍におはしましつる御うまご、これも土御門の院の姬宮さへこの廿六日かとよ、院になし奉らせ給へり。おほぎまちの院ときこゆ。うへのおなじ御腹におはすれば、よろづ定通のおとゞ事行ひ給ふ。院號のさだめ侍るまゝに、陣より上達部皆ひきつれて承明門院へまゐる。おとゞは御簾のうちにて女房の事どもなど忍びやかにおきてのたまひけり。其の夜又兵衞內侍の御はらの若宮〈宗尊親王の御事なり。〉、御いかの儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子ほどこそおはせねど、これも御門わたくしものにいといとほしうおぼすことなれば、御けしきにしたがひて上達部殿上人いみじうまゐりつどふ。關白殿まゐりたまひてくゝめ奉りたまふ。陪膳通成三位中將、やくそう家定朝臣つかうまつりける。人々のけんばい饗などはなし、建久に土御門院の御いかきこしめしける例とぞ。かくて中宮の若宮はその廿八日に親王の宣旨あり。さて七月廿八日に中宮も今宮も內にまゐりたまふ。例の事なればかなたこなたの供奉上達部、殿上人かずをつくして、ふるきためしもいと稀なるほどにぞ聞えける。宮は御輿、御子は靑絲毛の御車、近衞大將、檢非違使の別當をはじめてゆゝしき人々仕うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。閏七月二日、內にてみ子の御いかきこしめす。くら司より事ども調じて參る。御膳の物屯食折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりてうへこなたに渡らせ給ふ。御供に關白殿、堀川大納言〈ともざね〉、大夫〈きんすけ〉、左大將〈たゞまさ〉、關白殿の御子の三位中將〈みちよし〉、まゐり給ふ。うへくゝめ奉らせ給ふさまいといとめでたし。同じ事のやうなればこまかには書かず。かくて八月十日すかやかに太子にたち給ひぬ。〈後の深草の院の御事なり。〉おとゞ御心おちゐてすゞしくめでたう思すことわりなり。「大方のいみじかりし世の響に女み子にておはせましかば、いかにしほしほと口惜しからまし。いときらきらしうてさし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに淚ぐまれて忝う覺え給ふ」とぞ年たくるまで常はおとゞ人にものたまひける。中比はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりはことのほかに世にもおもくやんごとなう物し給ひつるに、この后の宮參り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ榮えまさり給ふ行く末推し量られていとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かゝる御末ども見給ふもさこそは御心ゆくらめとおし量るもしるく、其の年の十月七日かとよ、都を立ちて熊野に詣で給ふ。作法のゆゝしさ、昔の古き御代の御幸どもにも稍たちまさる程にぞ侍りし。御子うまごまでひき具し給ふ。大納言に實雄〈御子〉、公相〈御孫〉、公基。前藤大納言とありしは爲家の事にや。坊門前大納言もつゐせふに京出はこせふせられたり。大宮中納言〈きんもち〉、左宰相の中將〈さねたふ〉、右兵衞督〈ありすけ〉、殿上人は三十餘人侍りけり。いといみじかりし事どもなり。かくて同じき十月十一日は土御門の院の御十三年とて、大やけより御法事行はるゝもいとめでたし。大原にて御八講あるべければ承明門院も兼てより渡らせ給ひ、上達部殿上人參り集ふさまもこよなし。十二月一日は石淸水の社に行幸あり。當代には始めたる度なればよろづ淸らをつくさる。文治建久の例をまねばる。關白殿御馬にて仕うまつり給ふ。瀧口十二人馬ぞへに具し給ふ。色々の綾錦目も耀くばかり立ち重ねたり。左右大將〈たゞいへ、さねもと、〉の番長、又心も詞も及ばずいとみつくしたり。左大將のは馬にて前行、右大將のは張綱にてうつしの馬をひかせけるとぞ。左大將は紅梅の二重織物の半び下襲、萠黃の織物の上の袴、右大將はうら山吹の半び下襲、左衞門の督〈さねふぢ〉は梅がさねの浮織物の半び下がさね、浮紋のうへの袴、殿上人は花山院の中將道雅の君ばかりぞ萠黃のうへの袴、うら山吹の半び下がさね着給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は例の上達部もたゝれけり。笛二位中納言〈よしのり〉、拍子左衞門の督など勤められけり。數々めでたくて、又の日午の時ばかりにぞ歸らせ給ひける。おなじ五日やがて賀茂の社に行幸し給ふ。關白殿今日も御馬なり。上達部殿上人さきにいたく變らず。別當通成いみじうきらめかれたり。けさうし給へるをぞ「若き人なれども、檢非違使の別當白きものつくる事やある」など、ふるき人うちさゞめきけるとかや。春宮大夫〈きんすけ〉馬ぞへ八人具し給ひけり。權大納言實雄、土御門大納言顯定、權中納言公親、同顯親、左衞門督實藤などいづれも淸らにめでたし。殿上人中將には實久の朝臣、爲氏、實春、經定、顯義、基雅、通雅、通定、定平、實直、諸嗣、雅嗣、輔通、雅家、雅忠、少將にはたかかぬ、きん直、すゑ實、爲敎、忠繼、資時、顯方、維嗣、公爲、資平朝臣、信通など我劣らじと、華族も下﨟も心ばかりはいどみつくしたり。申の時にまづ下の宮に行幸、暮れはてゝ上の社にまうでさせ給ふ。賞行はれなどして還御は明方にぞなりにける。霜いと白きにたてあかしけざやかにて、舞人の袖かへる程もいとおもしろくぞ侍りける。この行幸過ぎぬれば天の下のさわぎ少しのどまりぬべきにやと見えつるに、明くる日〈十二月六日〉又仁和寺御室准后、觀音寺にて灌頂し給ふとて世の中のゝしるさまいとけしからぬまで響きあひたり。この御室をば代々親王こそ傳へ給ふめれど、峯殿世を御心に任せたりし頃より渡り給ひて、母うへの西園寺入道殿の御むすめに准后をさへ讓り給ふとか聞えて、いとゆゝしき御人がらなれば、受法の儀式までぞ世に珍らかなりける。入道殿下まづ渡り給ひて、佛母院におはす。關白殿〈よしざね〉は御このかみなればましておはします。右大臣殿〈つねざね〉左大將〈たゞいへ〉心ことにて參り給ふ。時なりて大阿闍梨二品法親王〈道深〉輿にてわたり給ふ。喜多院の南の門より上達部殿上人步み續きてそこら參りつどふ。吉田中納言〈爲經〉二條の中納言〈たゞたか〉、侍從宰相〈すけすゑ〉、藤宰相〈のぶもり〉、左宰相中將〈さねたふ〉、左大辨〈つねみつ〉、新宰相定嗣、皆列をひき、受者もみぎりにおりたち給へる、いとわかううつくしうて地藏菩薩に似たまへるを、入道殿いと悲しと見たてまつりたまふ。紫の袈裟に香爐もちてわたり給へば、もとよりならび立てる上達部皆禮をいたすけしきやんごとなく見ゆ。關白左大將殿などの御隨身どもえもいはずきらめきてはしのもとにたてあかししろくしてなみ居たるけしきめでたくおもしろし。傳法〈供イ〉のさまは人見ぬ事なればしらず。敎授は良惠僧正つとめられけり。かくて事はてぬれば後朝の儀式なほいみじ。法親王の御布施被物五かさね〈このうち二重織物〉御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、錦一包、關白殿とりて奉りたまふ。次々の衆僧には大中納言ほどほどに隨ふべし。導師の布施、久安仁安など又建曆寬喜などの度は別當とりたりけれど、今日はその人まゐらねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は廿餘人まゐる。萬の事人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて今年もくれぬ。又の年寬元二年あづまの大納言賴經の君、一とせ二歲にて下り給ひし峯殿の御子ぞかし。惱み給ふよし聞えしが、御子の六つになり給ふに讓りて都へ御かへりときこゆ。若君はその日やがて將軍の宣旨下され、少將になり給ふ。賴つぐと名のり給ふ。泰時朝臣もおとゞし入道して、うまごの時賴の朝臣に世をば讓りにしかば、この頃は天の下の御後見はこの相摸守時賴の朝臣つかうまつれり。いみじうかしこきものなれば、めでたき聞えのみありてつはものも靡き從ひ、大かた世もしづかにをさまりすましたり。かくて寬元も四年になりぬ。正月廿八日春宮に御位をゆづり申させたまふ。この御門も又四つにぞならせ給ふ。めでたき御ためしどもなれば行く末も推し量られ給ふ。光明峯寺殿御三郞君、左大臣〈さねつね〉のおとゞ御年二十四にて攝政したまふいとめでたし。御兄の福光園院殿もと關白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人までぜふ錄し給へるためし、古くは謙德公伊尹、忠義公兼通、東三條大入道殿兼家、その又御子ども中關白殿、粟田殿、法成寺入道殿、これふた度なり。近くは法性寺殿の御子ども、六條殿〈ともざね〉、松殿〈もとふさ〉、月輪殿〈かねざね〉これぞやがて今の峰殿の御おほぢよ。かやうの事いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨かうぶり給へりしばかりにて七日にてうせ給ひにしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子もろいへのおとゞ夢のやうにて、しかも一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所の御後のみ今に絕えず、御流久しき藤なみにて立ちさかえ給へるこそたぐひなきやんごとなさなめれ。末の世にもありがたくや侍らむ。今の攝政殿をば後には圓明寺殿とぞ聞ゆめりし。一條殿の御家のはじめなり。攝政にて二とせばかりおはしき。女院の御父も太政大臣になり給ひて牛車ゆりたまふ。さるべき事といひながらいとめでたし。その頃北山の花のさかりに院に奏したまふ、その花につけて、

  「くちはつる老木にさける花ざくら身によそへても今日はかざゝむ」。

御かへしを忘れたるこそくちをしけれ。かくて御即位御禊も過ぎぬ。大甞會の頃信實朝臣といひし歌よみのむすめの少將內侍、大內の女工所にさぶらふに、雪いみじう日ごろ降りていかめしう積りたるあかつき、おほきおとゞ〈實氏〉のたまひつかはしける、

  「こゝのへのおほうち山のいかならむかぎりもしらずつもる雪かな」。

御かへし、少將の內侍、

  「こゝのへのうちのゝ雪に跡つけてはるかに千代のみちを見るかな」。

後嵯峨の院のうへはいつしか所々に御幸しげう御あそびなどめでたく今めかしきさまに好ませ給ふ。西園寺に始めて御幸なりしさまこそいとめづらかなるけんぶつにて侍りしか。おほきおとゞ御あるじ申されしさまいかめしかりき。いはずとも思ひやるべし。御贈物に代々の御手本奉らるとて、おとゞ

  「傳へきくひじりの代々のあとをみてふるきをうつす道ならはなむ」。

御返事、御製、

  「しらざりしむかしに今や復りなむかしこき代々のあとならひなば」。

中宮も位去り給ひて大宮女院とぞきこゆる。安らかに常はひとつ御車などにて、たゞ人のやうに華やかなる事どものみひまなく、よろづあらまほしき御ありさまなり。院のうへ石淸水の社にまうでさせ給ひて日ごろおはしませば、世の人殘りなく仕うまつれり。さるべき事とはいひながら猶いみじう御心にも一とせの事思しいでられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。御歌あまたあそばして寶殿にこめさせ給ひし中に、

  「いはし水木がくれた〈なイ〉りしいにしへを思ひいづればすむこゝろかな」。

寶治の頃神無月二十日あまりなりしにや紅葉御覽じに宇治にみゆきしたまふ。上達部殿上人思ひ思ひいろいろの狩衣、菊紅葉の濃きうすき縫物、織物、綾錦、すべて世になき淸らをつくしさわぐ。いみじきけんぶつなり。殿上人の船に樂器を設けたり。橘の小島に御船さしとめて物のねども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべくそゞろ寒きほどなるに、折知りがほに空さへうちしぐれて、まきの山風あらましきに、木の葉どものいろいろ散りまがふけしきいひしらずおもしろし。女房の船にいろいろの袖口わざとなくこぼれいでたる、夕日にがゞやきあひて錦をあらふ九の江かと見えたり。平等院に中一日わたらせ給ひて、さまざまいおもしろき事ども數しらず。網代にひをのよるもさながらのゝしりあかしてかへらせ給ふ。鳥羽殿も近頃はいたう荒れて、池も水草がちにうもれたりつるを、いみじうしゆりし磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、池邊松といふ事講ぜられしに、おほきおとゞ序書き給へりき。夫鳥羽仙洞二五累聖、離宮一百餘載とかや。また御身のいみじき事には、「蓬の髮霜寒くて七代に傳へたり」と侍りしこそめでたけれ。

  「いはひおくはじめとけふを松が枝の千とせのかげにすめる池水」。

院の御製、

  「かげうつす松にも千世の色見えてけふすみそむるやどのいけ水」。

大納言典侍と聞えしは、爲家の民部卿のむすめなりしにや、

  「色かへぬときはの松のかげそへて千代に八千代にすめる池みづ」。

ずんながるめりしかど、例のうるさければなむ。御前の御遊はじまるほど、そりはしのもとに龍頭鷁首よせていとおもしろく吹き合せたり。かやうの事常の御遊いとしげかりき。またおほきおとゞの津の國吹田の山庄にもいとしばしばおはしまさせて樣々の御遊かずをつくし、いかにせむともてはやし申さる。川に臨める家なれば、秋深き月のさかりなどは殊に艷ありて、門田の稻の風に靡くけしき、妻とふ鹿の聲、衣うつきぬたの音、峯の秋風、野邊の松蟲、とりあつめあはれそひたる所のさまに、鵜飼などおろさせて、篝火どもともしたる川のおもて、いとめづらしうをかしと御覽ず。日比おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、

  「川舟のさしていづくかわがならぬたびとはいはじやどゝさだめむ」

とかうじ上げたるほど、あるじのおとゞいみじう興じ給ふ。「この家のめいぼく今日に侍る」どぞのたまはする。げにさる事と聞く人皆ほこらしくなむ。おりゐ給へる太上天皇など聞ゆるは、思ひやりこそおとなびさたすぎ給へる心ちすれど、いまだみそぢにだに滿たせ給はねば、よろづ若うあいぎやうづきめでたくおはするに、時のおとなにて重々しかるべきおほきおとゞさへ、何わざをせむと御心にかなふべき御事をのみ思ひまはしつゝ、いかで珍しからむともてさわぎきこえ給へば、いみじうはえばえしきころなり。御門まして幼くおはしませば、はかなき御遊わざより外のいとなみなし。攝政殿さへ若くものし給へば、夜晝さぶらひ給ひて女房の中にまじりつゝ、らんご、貝おほひ、手まり、へんつきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつゝ日をくらし給へば、さぶらふ人々もうちとけにくゝ心づかひすめり。節會臨時の祭何くれの公事どもを、女房にまねばせて御覽ずれば、おほきおとゞ興じ申し給ひて、殊更ちひさき、笏など造らせて、あまた奉り給へば、うへも喜びおぼす。入道おほきおとゞの御女、大納言三位殿といふを關白になさる。按察の典侍、たかひらの女大納言典侍、中納言典侍、勾當內侍、辨內侍、少將內侍、かやうの人々皆男のつかさにあてゝ、その役をつとむ。いとからい事とて、わびあへるもをかし。中納言のすけを權大納言實雄の君になさるゝに、したうづはく事いかにも叶ふまじとて、曹司におるゝに、うへもいみじう笑はせ給ふ。辨內侍葦の葉にかきて、かの局にさしおかせける。

  「津の國のあしの下ねのいかなればなみにしをれてみだれがち〈ほイ〉なる」。

かへし、

  「津の國のあしのしたねのみだれわびこゝろも浪にうきてふるかな」。

五月五日所々より御かぶとの花、くす玉などいろいろに多くまゐれり。朝餉にて人々これかれひきまさぐりなどするに、三條大納言公親の奉れる根に、露おきたる蓬の中に、ふかきといふ文字を結びたる、絲のさまもなよびかに、いと艷ありて見ゆるを、うへも御目とゞめて「何とまれいへかし」とのたまふを、人々もおよすげて見奉るを、辨內侍、

  「あやめ草そこゑらぬまのながき根を深きこゝろにいかゞくらべむ」。

又その頃天王寺に院のまうでさせ給ふついでに、住吉へも御幸あり。「神はうれし」と後三條院仰せられけむためし、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御まゐりなれば、出車どもいろいろの袖口ども、春秋の花紅葉を一度にならべて見る心ちして、いとうつくしく目も耀くばかりいどみつくされたり。上達部若き殿上人などは、例のかりあを、すそごの袴など、めづらしき姿どもを心々にうちまぜたりつる、殿の〈 うちまぜたり。つり殿のイ〉簀子に人々さぶらひてあまた聞えしかど、さのみはいかでか。太政大臣〈さねうぢ〉

  「今日や又さらに千とせをちぎるらむむかしにかへるすみよしの松」。

さても院の第一の御子は、右中辨平のむねのりのぬしのむすめ、四條の院に兵衞內侍とて侍ひしが、劔璽につきて渡り參れりしを、忍び忍び御覽じけるほどに、その御腹にいでものし給へりしかど、當代生れさせ給ひにし後は、おしけたれておはしますに、又建長元年后腹に二宮さへさし續きひかりいで給へれば、いよいよ今は思ひ絕えぬる御契のほどを、私物にいとあはれと思ひ聞えさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなどおぼすに、猶飽かねば、唯御子にてあづまのあるじになし聞えてむとおぼして、建長四年正月八日、院の御まへにて御冠し給ふ。御門の元服にもほとほと劣らず、くらつかさ何くれきよらを盡し給ふ。やがて三品のくらゐたまはり給ふ。御年十一なるべし。中務卿宗尊親王と申すめり。おなじ二月十九日都をいで給ふ。その日將軍の宣旨かうぶり給ふ。かゝるためしはいまだ侍らぬにや、上下めづらしくおもしろき事にいひさわぐべし。御迎にあづまの武士どもあまたのぼり、六波羅よりも名あるもの十人御送にくだる。上達部殿上人女房などあまたまゐるも、院中のほうこうにひとしかるべし。かしこに侍ふともかぎりあらむつかさかうぶりなどは、さはりあるまじとぞ仰せられける。何事も唯人がらによると見えたり。きはことによそほしげなり。誠におほやけとなり給はずばこれよりまさること何事かあむと〈とイ無〉にぎはゝしく華やかさはならぶ方なし。院のうへもしのびて粟田口のほとりに御車たてゝ御覽じおくりけるこそあはれにかたじけなく侍れ。きびはに美くしげにてはるばるとおはしますを、御母の內侍はあはれにかたじけなしと思ひ聞ゆべし。かゝればもとの將軍賴嗣三位中將は、その四月に都へのぼり給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて今下り給へるをもて崇め奉るさまいはむかたなし。宮の中のしつらひ、御まうけの事などかぎりあれば善見天の珠妙のしやうごんもかくやとぞ覺えける。かやうにて今年はくれぬ。明くる年は建長五年なり。正月十三日御門御かうぶりし給ふ。御年十一。御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、あまりさゝやかにて又御こしなどのあやしく渡らせ給ふぞ口をしかりける。いはけなかりし御ほどはなほいとあさましうおはしましけるを、閑院內裏燒けゝるまぎれよりうるはしくたゝせ給ひたりければ、內の燒けたるあさましさは何ならず。この御こしのなほりたるよろこびをのみぞ上下おぼしける。院のうへ鳥羽殿におはします頃神無月の十日頃朝觀の行幸し給ふ。世にあるかぎりの上達部殿上人仕うまつる。いろいろの菊紅葉をこきまぜて、いみじうおもしろし。女院もおはしませば拜し奉り給ふを、大きおとゞ見奉り給ふに、喜びの淚ぞ人わろきほどなる。

  「ためしなき我が身よいかに年たけてかゝるみゆきに今日つかへつる」。

げに大かたの世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、我が御末と見給ふおとゞの心ちいかばかりなりけむ。來し方もためしなきまで高麗唐土の錦綾をたちかさねたり。大きおとゞばかりぞねび給へれば、裏表白き綾の下がさねを着給へるしもいとめでたくなまめかし。池にはうるはしくからのよそひしたる御船二艘漕ぎよせて、御遊さまざまの事どもめでたくのゝしりて歸らせ給ふひゞきのゆゝしさを、女院も御心ゆきてきこしめす。その頃ほひ熊野の御幸侍りしにもよき上達部あまた仕うまつらる〈一字せ給ふ〉。都いでさせ給ふ日、例のぎしき〈さじきイ〉花など心ことにいどみかはすべし。車は立てぬ事なりしかど、大宮院ばかりそれも出車はなくて、唯一輛にて見奉り給ひしこそ、やんごとなさもおもしろく侍りけれ。辨の內侍、

  「おりかざすなぎの葉風のかしこさにひかりみちぬる小車のあと」。

御幸熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川船に奉りてさしわたすほど、川のおもて所せきまで續きたるも御覽じなれぬさまなれば、院のうへ、

  「熊野川せきりにわたすすぎぶねのへなみに袖のぬれにけるかな」。

その後も又ほどなく御幸ありしかば女院もまゐり給ひけり。皆人しろしめしたらむ。なかなかにこそ。

     第六 おりゐる雲

春すぎ夏たけ〈てイ有〉年さりとしきたれば、康元元年にもなりにけり。おほきおとゞの第二の御むすめ〈東二條院〉女御にまゐりたまふ。女院の御はらからなれば、すぐし給へる程なれど、かゝるためしはあまた侍るべし。十二〈一イ〉月十七日豐のあかりのころなれば內わたり華やかなるにいとゞうちそへて今めかしうめでたく、その日御せうそこを聞えたまふ。

  「夕ぐれに〈をイ〉まつぞ久しき千とせまでかはらぬ色のけふのためしを」。

關白かゝせ給ひけり。紅の匂の薄〈一字はなイ〉もなき八重にかさねたるを結びて包まれたり。時ならぬとて人々まうのぼりあつまる。女御の君裏濃きすはう七、濃き一重すはうのうはぎ赤色のからぎぬ、濃きはかま奉れり。じゆごうそひてまゐり給ふ。皆くれなゐのは萠黃のうはぎ、赤色のからぎぬきたまふ。いだし車十輛皆二人づゝのるべし。一の左車に一條殿〈大殿のすむめ〉、右に二條殿〈きんとしの大納言のむすめ〉、二の左あぜちの君〈隆衡のむすめ〉〈たかひらのいもうとイ〉、右に中納言の君〈さねたふのむすめ〉、三の左に民部卿殿、右別當殿、その次々くだくだしければとゞめつ。御童下仕、御はした、御ざうし、御ひすましなどいふ物まで、形ちよきをえりとゝのへられたるいみじう見所あるべし。御せうとの殿ばら右大臣〈きんすけ〉、內大臣〈きんもと〉參り給ふ。かぎりなくよそほしげなり。院の御子にさへしたてまつらせ給へれば、いよいよいつかれ給ふさまいはむ方なし。待賢門院の白河院の御子とて、鳥羽殿に參り給へりしためしにやとぞ心あてには覺え侍りし。御門の一つ御腹の姬宮、この頃皇后宮とて、その御方の內侍ぞ御使に參る。まうのぼり給ふほども、女御はいとはづかしく似げなき事におぼしたれば、とみにえうごかれ給はぬを人々そゝのかし申し給ふ。御太刀一條殿、御凡帳按察使殿、御火取中納言もたれたり。上は十四になり給ふに、女御は二十五にぞおはしける。御門きびはなる御程を、なかなかあなづらはしき方に思ひなし聞え給ひぬべかりつるに、いとざれてつゝましげならず聞えかゝり給ふを准后はうつくしと見奉らせ給ふ。御ふすまは紅のうち八四方なるに、かみにはうはざしのくみあり。絲の色などきよらにめでたし。例の事なれば准后たてまつりたまふ。おほきおとゞも三日がほどはさぶらひ給ふ。上達部にけんばいあり。二十三日また御せうそこまゐる。御使頭中將通世、こたみも殿かゝせ給ふめり。この頃殿と聞ゆるはおほいまうちぎみ〈かねひら〉のおと、ゞをかのや殿の御せうと〈御おとうとイ〉ぞかし。後には稱念院〈殿イ有〉と申しけり。御手すぐれてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家のはじめなるべし。

  「朝日かげけふよりしるき雲のうへのそらにぞ千世のいろも見えける」。

御返し、おほきおとゞきこえたまふ。

  「朝日かげあらはれそむる雲のうへにゆくすゑとほきちぎりをぞしる」。

女のさうぞく細長そへてかづけ給ふ。今日はじめて內のうへ女御の御方にわたらせ給ふ。御供に關白殿、右大臣〈きんすけ〉、內大臣〈きんとも〉、四條大納言〈たかちか〉、權大納言〈さねを〉、家敎通成左大將〈もとひら〉などおしなべたらぬ人々參り給ふ。もちひの使頭中將隆顯つかうまつる。おほきおとゞ夜のおとゞよりとり入れ給ふ。御心の中のいはひいかばかりかとおしはかる。人々のろく紅梅のにほひ、萠黃のうはぎ、葡萄染のからぎぬ、うちき、ほそなが、うら〈こしイ〉ざしなどしなじなに隨ひてけぢめあるべし。かくて今年はくれぬ。正月いつしか后にたち給ふ。たゞ人の御むすめのかく后國母にて立ちつゞきさぶらひ給へるためしまれにやあらむ。おとゞの御さかえなめり。御子二人大臣にておはす。きんすけきんもとゝて大將にも左右に並びておはせしぞかし。これもためしいとあまたは聞えぬ事なるべし。我が御身太政大臣にて、二人の大將を引き具して最勝講なりしかとよ。參り給へりし御いきほひのめでたさは珍らかなる程にぞ侍りし。后國母の御おや御門の御おほぢにて、まことにそのうつはものに足りぬと見え給へり。昔後鳥羽院にさぶらひししもづけの君は、さる世のふるき人にて、おとゞに聞えける。

  「藤なみのかげさしならぶみかさ山人にこえたる木ずゑとぞみる」。

かへし、おとゞ、

  「思ひやれみかさの山のふぢの花さきならべつゝ見つるこゝろを」。

かゝる御家のさかえを自らもやんごとなしとおぼし續けてよみ給ひける、

  「春雨は四方の草木をわかねどもしげきめぐみはわが身なりけり」。

正嘉元年春の頃より承明門院御惱み重らせ給へば、院もいみじう驚かせ給ひて、御修法なにかと聞えつれど、遂に七月五日御年八十七にてかくれさせ給ひぬ。ことわりの御年のほどなれど、昔の御なごりと哀にいとほしういたづき奉らせ給へるに、あへなくて御法事などねんごろにおきてのたまはするいとめでたき御身なりかし。あくる年八月七日二の御子〈龜山の院〉坊に居給ひぬ。御年十なり。よろづ定りぬる世の中めでたく心のどかにおぼさるべし。その又の年正嘉三年三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又こし方行く末もためしあらじと見ゆるまで世のいとなみ天の下のさわぎには侍りしか。關白殿、左〈前イ〉右大臣、內大臣、左右の大將、檢非違使の別當をはじめて殘るはすくなし。馬鞍、隨身、舍人、雜色、わらはの髮かたちたけすがたまで、かたほなるなくえりとゝのへ心を盡したるよそひども、かずかずは筆にも及びがたし。かゝる色もありけりと珍しく驚かるゝほどになむ。しろがねこがねをのべ、二重三重の織物ぬひ物、からやまとの綾錦、紅梅のなほし、櫻のからの木のもんこすそご、ふせんりよう、いろいろさまざまなりし。うへのきぬ、狩衣、思ひ思ひのきぬをいだせり。いかなる龍田姬の錦も、かゝるたぐひはありがたくこそ見え侍りけれ。かたみに語らふ人はあらざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞふしぎなる。あまりに染め盡して、なにがしの中將とかや、紺むらごの指貫をさへぞきたりける。それしもめづらかにて、賤しくも見え侍らざりけるとかや。院の御さまかたち事がらは、いとゞ光をそへてめでたく見え給ふ。後土御門の內大臣定通の御子あきさだの大納言、大將望み給ひしを、院もさりぬべくおほせられければ、除目の夜殿の內の者どもゝ心づかひして侍るを、心もとなく思ひあへるに引きたがへて、先に聞えつるきんもとのおとゞにておはせしやらむなり給へりしかば、うらみに堪へず頭おろして、この高野にこもり居給へるを、いとほしくあへなしとおぼされければ、今日の御幸のついでにかの室を尋ねさせ給ひて、御對面あるべく仰せられつかはしたるに、昨日までおはしけるが、夜の間にかの庵をかきはらひ跡もなくしなして、いと淸げに白きすなごばかりをこと更にちらしたりと見えて人もなし。我が身はかつらのはむろの山莊へ逃げのぼり給ひにけり。そのよし奏すれば「今さらに見えじとなり。いとからい心かな」とぞのたまはせける。かくのみところどころに御幸しげう御心ゆく事ひまなくて、いさゝかもおぼしむすぼるゝ事もなくめでたき御ありさまなれば、仕うまつる人々までも思ふ事なき世なり。吉田の院にても常は御歌合などしたまふ。鳥羽殿にはいと久しくおはしますをりのみあり。春の頃行幸ありしには御門も御まりにたゝせ給へり。二條の關白〈よしざね〉あげまりし給ひき。內の女房などめして池の御船にのせて物の音ども吹きあはせ、さまざまのふ流のわりご引出物などこちたき事どもゝしげかりき。又嵯峨の龜山のふもと、大井川の北の岸にあたりてゆゝしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の木ずゑ戶灘瀨の瀧もさながら御墻のうちに見えて、わざとつくろはぬせん栽もおのづからなさけを加へたる所がら、いみじき繪師といふとも筆及びがたし。寢殿のならびにいぬゐにあたりて西に藥草院、東に如來壽量院などいふもあり。橘の大后のむかし建てられたりし壇林寺といひし、今ははゑして礎ばかりになりたれば、其跡に淨金剛院といふ御堂を建てさせ給へるに、道觀〈覺イ〉上人を長老になされて、淨土宗をおかる。天王寺の金堂うつさせ給ひて多寳院とかや建てられたる。川に望みてさじき殿造らる。大多勝院と聞ゆるは、寢殿のつゞき御持佛すゑ奉らせ給へり。かやうの引き離れたる道は、廊渡殿そり橋などをはるかにして、すべていかめしう三葉四葉に磨きたてられたるいとめでたし。正元元年三月五日西園寺の花ざかりに大宮院一切經供養せさせ給ふ。年比おぼしおきてけるをもいたくしろしめさぬに、女の御願にていとかしこくありがたき御事なれば、院も同じ御心にい〈ゐイ〉だちのたまふ。がくやのものども地下も殿上もなべてならぬをえりとゝのへらる。その日になりて行幸あり。春宮もおなじく行啓なる。大臣上達部皆うへのきぬにて、左右に別ちて御はしの間の高欄につき給ふ。法會の儀式、いみじさ〈くイ〉めでたき事どもまねびがたし。又の日御前の御遊び始まる。御門〈後深草院〉御琵琶〈なりイ有〉春宮御笛、まだいとちひさき御程にびんづらゆひて、御かたちまほに美くしげにて、吹きたて給へる音の雲ゐをひゞかしてあまりおそろしき程なれば天つをとめもかくやとおぼえて、おほきおとゞ〈實氏〉こといみもえし給はず、目おしのごひつゝためらひかね給へるを、ことわりにおいしらへる大臣上達部など皆御袖どもうるほひわたりぬ。女院の御心のうち、ましておき所なくおぼさるらむかし。さきの世にいかばかり功德の御身にて、かくおぼすさまにめでたき御さかえを見給ふらむと、おもひやり聞ゆるもゆゝしきまでぞ侍りし。御遊はてゝのち文臺めさる。院の御製、

  「いろいろに袖〈枝イ〉をつらねてさきにけり花もわが世も今さかりかも」。

あたりをはらひてきはなくめでたく聞ゆるに、あるじのおとゞ歌さへぞかけあひて侍るにや、

  「いろいろに榮えて匂へさくら花わがきみぎみの千世のかざしに」。

末まで多かりしかど、例のさのみはにてとゞめつ。いかめしうひゞきて歸らせ給ひぬる。またのあした無量光院の花のもとにて、おとゞ昨日の名殘おぼしいづるもいみじうて、

  「この春ぞこゝろのいろはひらけぬる六十あまりの花はみしかど」。

その年の八月二十八日、春宮十一にて御元服したまふ。御いみな恆仁ときこゆ。世の中にやうやうほのめき聞ゆる事あれば、御門はあかず心ぼそうおぼされて、夜居の間のしづかなる御物語のついでに、內侍所の御はいの數をかぞへられければ、五千七十四日なりけるをうけたまはりて、辨內侍、

  「千代といへば五つかさねて七十にあまる日かずを神はわすれじ」。

かくて十一月廿六日おりゐさせ給ふ夜、空のけしきさへあはれに雨うちそゝぎて物悲しく見えければ、伊勢の御が「あひも思はぬもゝしきを」といひけむふる事さへ今の心ちして心ぼそくおぼゆ。うへもおぼしまうけ給へれど、劔璽の出でさせ給ふほど常の御幸に御身を離れざりつるならひ、十三年の御名殘ひきわかるゝ〈はイ有〉猶いと哀に忍びがたき御けしきをかなしと見奉りて、辨內侍、

  「いまはとておりゐる雲のしぐるれば心のうちぞかきくらしける」。

     第七 煙の末々

寳治二年十一〈一イ無〉月二十日ごろ紅葉御覽じがてら宇治に御幸したまふ。〈をかのや殿の攝政の御程なり。〉上達部殿上人、思ひ思ひいろいろの狩衣、菊紅葉のこき薄き、縫物織物あやにしき、かねてより世のいとなみなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御ゑぼう子なほし、薄色の浮織物の御指貫、網代びさしの御車にたてまつる。まづ殿上人下﨟より前行す。中將爲氏ふせんりようの狩衣、右馬頭房名、もとゝも、菊のから織物、內藏頭たかゆき、あきかた、白菊のかり衣、皇后宮權のすけみちよ、右中辨時繼、薄靑のかた織物、紫のきぬ、前の兵衞のすけ邦經、赤色の狩衣、衞門のすけ親嗣、ふた藍の狩衣、なりとしひはだ、伴氏、左兵衞のすけ親朝はむすびかり衣に菊をおきものにして紫すそごの指貫菊をぬひたり。上達部は堀川の大納言ともざねなほし、皇后宮大夫たかちかなほし、花山院の大納言〈さだまさ〉權大納言〈さねを〉花田の織物のかりぎぬ、かれ野のきぬ、土御門の大納言〈あきさだ〉、左衞門のかみ〈さねふぢ〉うすあを、衞門のかみ〈みちなり〉かれ野の織物のかりぎぬ、別當〈定嗣〉なほし、雜色に野劍をもたせたり。皇后宮の權大夫〈もろつぐ〉萠黃のふせんりようのかりきぬ、浮織物のさしぬき、紅のきぬ、土御門の宰相の中將〈まさいへ〉、かうの織物の狩ぎぬ、御隨身居飼御廐舍人までいかにせむといろいろをつくす。院の御車のうしろに權大納言〈きんすけ〉緋紺のかりぎぬ、紅のきぬ、白きひとへにて、えもいはぬさまして仕うまつり給ふ。檢非違使北面などまで思ひ思ひにいかでめづらしきさまにと好みたるはゆゝしき見物にぞ侍りし。衞府の上達部ばかり、きぬの隨身に弓やなぐひをもたせたり。人だまひ二輛、一の車にいろいろの紅葉を濃くうすく、いかなる龍田姬がかゝる色を染めいでけむとめづらかなり。二の車は菊をいだされたるも、なべての色ならむやは。その外院の御めのと大納言二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫さぶらひ淸げなる召し具してまゐり給ふ。宰相三位殿ときこゆるは、かの若宮の御母兵衞の內侍殿といひし、この頃は三位したまへり。今一きはめでたくゆゝしげにて北面の下﨟三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたるさまなり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院その頃二條の君とて參り給へりし例をまねばるゝとぞ聞えける。又大納言のすけとは藤大納言爲家のむすめ、それもべちにひきさがりていたく用意ことにてまゐらる。宇治川の東の岸に御舟まうけられたれば御車より奉りうつるほど夕つかたになりぬ。御舟さしいろいろのかりあをにて八人づゝさまざまなり。もとゝもの中將、院の御はかせもたる。あきとも御しぢまゐらす。平等院のつりどのに御ふねよせておりさせたまふ。本だうにて御誦きやうあり。御導師まかでゝのち、阿彌陀堂御經藏せんぼふ堂までことごとく御らんじわたす。かはの左右のきしにかゞりしろくたかせて鵜かひどもめす。ゐんの御まへよりはじめて御だいどもまゐる。しろかねの〈恐有脫文〉    にしきのうちしきなどいときよらにまうけられたり。ばいぜんのごんたいなごんきんすけ、やくそうはてんじやうひとなり。上達部には御臺四本、殿上人には二なり。女房の中にもいろいろさまざまの風流のくだものついかさねなど、よしあるさまになまめかしうしなしてもて續きたる、こまかにうつくし。院のうへ梅壺のはなちいでに入らせたまふ。攝政殿左のおとゞ皆御供にさぶらひ給ふ。又の日の暮つかた又御舟にてまきの島、梅の島、橘の小島など御覽ぜらる。御あそびはじまる。舟のうちに樂器ども設けられたれば吹きたてたるものゝ音世にしらず、所がらはましておもしろう聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやとそゞろ寒きほどなり。かのうばそくの宮の「へだてゝ見ゆる」とのたまひけむをちのしら浪もえんなるおとをそへたるは萬づをりからにや。廿三日還御の日ぞ御贈物ども奉り給ふ。御手本、和琴、御馬二疋まゐらせらる。院よりもあるじのおとゞに御馬奉り給ふ。院の御隨身どもけはひ殊にてほうだうの前の庭にひきいでたれば、衞門のすけ親朝親嗣二人うけとる。殿おり給ひて拜し給ふ。〈をかのや殿かねつねのおとゞの御事なり。〉その後賞おこなはる。左のおとゞ一品し給ふべきよし院のうへ自らのたまはすれば、又立ちいでゝなほしを奉りながら拜舞し給ふ。よろづ御心ゆくかぎり遊びのゝしらせ給ひて、かへらせ給ふまゝに、左大臣殿〈かねひら〉從一位したまふ。殿のけいし末より四品ゆるさせ給ふいとこよなし。寬治にはよしつね正四位下、保元に月の輪殿從下の四品をぞし給ひける。今の御有樣はかのふるきたしめしにも越えたり。いとめでたくおもしろし。還御の當日に女房のさうぞくかいぐいろいろにいと淸らなる十具、おのおのひらつゝみに長櫃にて大納言二位の曹司におくらる。又宰相三位のもとへも別に遣されけり。建久には夏なりしかばひとへがさね廿具ありけるをおぼし出でけるにや、さまざまゆゝしき事どもにて過ぎぬ。この御るすの程に二條油の小路に火いできて、閑院殿のついがきの內なれば內膳屋燒けて、神代より傳れる御釜も燒けそこなはれけるをぞいとあさましき事には申し侍りし。かの釜昔は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、圓融院の御代永觀の頃二つはうせにけり。今一つ殘りたるに、かゝる事の出できぬるはいと宜しからぬわざなりとて神祇官に尋ねられ、古き事ども考へらる。平野といひけるを陰陽寮にすゑてみづのとの祭といふ事に用ゐけれど、中頃よりかの祭は絕えぬ。忌火といふにては六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて常の御膳をばつかうまつるにかゝればいとたいたいしき事にて、始めていもじに仰せらるべきかと申す。古きを損はれたる所ばかりをなほさるべきかとも、いろいろに定めかねられたり。入道おほきおとゞなどもふるきをなほさるべしと申さるとぞ聞えける。その頃宰相の三位の若宮〈宗尊親王の御事なり。〉御ふみはじめとて人々まゐりつどひ給ふ。七つにならせ給ふべし。關白殿をはじめ大臣上達部のこりなし。しはすの廿五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後文臺めして詩の披講ありき。けんばいの儀式何事も保延のためしとぞ承りし。かくて年明けぬれば寶治も三年になりぬ。春たちかへるあしたのそらの光は思ひなしさへいみじきを、院うちのけしき誠にめでたし。攝政殿にも拜禮おこなはる。院の御まへは更にもいはず、大宮院にもあり。まづ冷泉萬里小路殿といふは鷲のをの大納言たかちかの家ぞかし。この頃院のおはしませば拜禮に人々まゐり給ふ。攝政殿〈兼經〉左大臣〈かねひら〉右大臣〈たゞいへ〉內大臣〈さねもと〉大納言には公相、實雄、顯定、道良、中納言に爲常、良敎、資季、冬忠、實藤、公光、道成、定嗣、宰相に道行、師繼、顯朝、殿上人は兩貫首をはじめかずしらず、常の年々に越えてこの春はまゐりこみ給へり。人々たちなみ給へる時、左のおとゞは攝政の御子なれば引き退きてたち給へり。右もまたその同じつらに立たれたるに內のおとゞすゝみ出で給へり。それにつぎて大中納言も同じつらなり。よしのり、きんみつ、師繼、顯朝また退きて立ちたれば出入して屛風に似たり。この事見にくしと後までさまざま院の御まへに仰せられて攝政殿に尋ね申され、さたがましく侍りけるを、貞應元年の例などいできて、故野の宮左大臣、今の內のおとゞ、御親の右大臣にて退きたるつらに立たれたりける、その時の記錄など見給はざりけるにやとて、內のおとゞの御ふるまひ心えずとぞ沙汰ありける。院の拜禮はてゝ、內の小朝拜節會などに皆人々こうじ給へるに、又大宮院の拜禮めでたくぞ侍りける。四日は承明門院へ御幸はじめ、院の御さまのつきせずめでたく見えさせ給ふを、あく世なういみじと見奉らせ給ふ。浮織物の薄色の御指貫紅の御ぞたてまつれり。上達部殿上人、直衣うへのきぬ思ひ思ひなり。攝政殿もまゐり給ふ。夜に入りて歸らせ給ひぬれば、やがてやがて又大宮院內へ御幸始め、これも上達部殿上人ありつるかぎりのこりなし、網代びさしにたてまつる。皇后宮の御方の東むきへ御車よせて、宮御對面いとめでたし。うへはまだいといはけなき御程にて、かくいつくしき萬乘のあるじに備り給へる御有さまを女院もいとやんごとなくかたじけなしと見奉り給ふ。皇后宮と聞ゆるはこれも院の御このかみにて、位におはしましゝ時も、御母じろなど聞えさせ給ひしを、この御門いとけなくわたらせ給へば、今はいとゞまして內にのみおはしまして、こぞの八月より皇后宮ときこゆる、後には仙花門院と聞えし御事なるべし。院の若宮十三にならせ給ふは公宗の中將といひし人のむすめの御腹なり。圓滿院の法親王の御弟子にならせ給ふべしとて正月廿八日にその御用意あり。承明門院よりわたり給ふ。院の網代びさしの御車にて、上達部は車、ともざねの大納言を上しゆにて六人、殿上人十六人、馬にていろいろにいとよそほしうめでたくておはしましぬ。その夜やがて御ぐしおろして御法名圓助ときこゆ。いとうつくしげさ佛などの心ちして哀れに見え給ふ。院の宮だちの御中には御このかみにてものし給へど、御げさくのよわきは今も昔もかゝるこそいといとほしきわざなりけれ。御匣殿の御腹の若宮も三つにならせ給へる、承明門院にて御魚味きこしめしなどすべし。これも法親王がねにてこそはものし給はめ。あまたの御中にこの御子は御かたちすぐれ給へれば、院もいとらうたく思ひ聞えさせ給ひけり。かくいふ程に二月一日の夜、常よりも九重の宮の內人ずくなにて大かた夜もしづかなるに、子の時ばかりに閑院殿の二條おもての對より火いできて、棟もえおつる程にぞ始めて見つけたる、あさましともなのめなる。何のたどりもなく唯あわてさわぎ我も人もうつし心なければ、きんなほの中將の御とのゐにさぶらひけるが、車の陣なるを召して皇后宮の御方へよす。內のうへをば御くしげ殿抱き奉らせ給ひて宮もたてまつる。劔璽ばかりとり具して門を急ぎいでさせ給ふ。とばかりありて權大納言さねをの參り給へりける車にめしうつりて、春日富小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。そのほどにぞ攝政殿をはじめおほきおとゞ、左大臣、內大臣よりしも殘りなく人々まゐり集ひ給ふ。院も御車引き出でゝ見奉らせ給ふ。かゝるほどに閑院殿より春日はかたはゞかりありとて院のおはします萬里小路殿へひきかへして行幸あり。夜明けはてゝのち又前のおほきおとゞ〈さねうじ〉の冷泉富小路へ行幸なりてしばし內裏になりぬ。內の燒くることはこれをはじめにもあらず、世あがりての事はさしおきぬ。天德四年村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた既に廿餘度になりぬるにや、ひじりの御代にしもかゝる事は侍りしかど、承元に燒けにし後は久しくこの四十四年はなかりつるに、去年の冬御釜燒け損じて又かくうち續きぬるをいとあさましう思す。何よりも御門の御車に奉りて出でさせ給へるをいたくれいなき事とかやとて人々かたぶき申す。院もおどろきおぼされて、古き事ども廣く尋ねられなどすべし。院も內もはひわたるほどのちかさなれば、御とのゐの人々など日頃よりも參りつどひて御旅の雲ゐなれどなかなかいとけせうなり。北の對のつまなる紅梅のいとおもしろく咲きたるが、院の御前より御覽じやらるゝほどなれば、雅家の宰相の中將していと艷になよびたる薄葉にかゝせ給ひて、院の上、

  「色も香もかさねてにほへ梅の花こゝのへになるやどのしるしに」

とてかの梅に結びつけさせらる。御返し辨の內侍うけたまはりて申すべしときゝ侍りしをな〈のイ有〉めなりといふ事にて、おとゞ今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口をしけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。世の中とかくさわがしとて年號かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶火災しづまらで、廿三日またまた姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて百餘町やけたり。おびたゞしともいふかたなし。寬元四年の六月にもおそろしき火侍りしかど、この度は猶それよりもこえたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆燒けたるに殘れるいといとふしぎなりとぞ見る人ごとにあざみける。曉より出できたる火夜に入るまできえず。未の時ばかりに蓮華王院の御堂にもえつきければ俄に院も御幸なる。御道すがらもさながら烟をわけさせ給ふ。いと珍らかにあさまし。攝政殿も御車に參り給へり。三十三間の御堂の千體の千手一時に〈のイ〉ほのほにたぐひ給へば、不動堂ほくと堂も殘らず、寳藏鎭守ばかりぞ辛うじてうちけちにける。後白河院のさばかり御志深うおもほしたちて長寬二年供養ありし後はやんごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又今熊野の鐘樓僧坊などおほくやけぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり炎の飛ぶ事鳥のごとし。又の朝までもえけり。その晝つ方さきの火もえつきて後、又雙林寺といふわたりに火いできて、なにがしの姬君の御もと、ふるき昔の跡皆けぶりになりぬ。その火消えて後又夕つかた岡崎わたりに火いできて、攝政殿御もとせうせう燒けゝり。又承明門院の近き程にも火いできて人々まゐりつどふ。中の御門より二條まで又火出できて十八町やけぬ。すべて廿三日よりつごもりに及ぶまで日をへ時をへて、あるは一日に二三度二むら三むらにわけてもえあがる。かゝる程に都は既に三分の二やけぬ。いといとめづらかなりし事なり。たゞ事にあらずとて院の御前に陰陽師七人召して御占行はる。重き御つゝしみと申せば御修法どもはじめ、山々にも御いのり仕うまつるべきよしことさらに仰せらる。院のうへの御ありさまのよろづにめでたくおはしますを思ふには、何の御つゝしみもなでう事かあらむとぞ覺え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を經て春の中に必ずまづ石淸水に七日御こもり、その中に五部の大乘經供養せさせ給ふ。御下向の後はやがて賀茂に御幸、平野北野などもさだまれる御事なり。寺には嵯峨の淸凉寺ほうりんうづまさなどに御幸ありて、寺司に賞おこなはれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ佛を尊びさせ給ふ事、「きしかたも行く末もためしあらじ」とぞ世の人申しあひける。

     第八 北野の雪〈四字イ無〉

文永も三年になりぬ。う月に蓮華王院の供養に御幸あり。一院は赤色のうへの御ぞ、新院は大靑色の御袍たてまつれり。女院〈大宮〉の御車に平准后も參り給ふ。人だまひ三輛は綿入れる五つぎぬなり。御車の尻に仕うまつられたる上﨟だつ人のにや、あはせの五つぎぬ藤のうはぎ袖口いださる。御幸には上達部は皇后宮大夫師繼を上首にて十人、殿上人十二人、御隨身ども藤山吹をつけたり。ゐかひみまやの舍人まで世になくきらめきたり。常のけんぶつにすぎたるべし。行幸は當日の午の時ばかりなるに諸司百官殘るなし。左右の大臣薄色蘇芳などなり。右大將通雅花橘の下がさぬ、權中納言公藤おなじ色、左大將家經蘇芳の下がさね萠黃の上のはかま、侍從中納言爲氏、權中納言通基、左衞門督通賴、衣笠宰相中將經平これらは皆蘇芳の下がさね萠黃の上のはかまなり。別當高定、宰相中將通持、三位中將實兼、右衞門督師親、殿上人には頭中將具氏、忠秀この人々は松重の下がさね藤のうへのはかま、おなじ色なる念なしとぞさたありける。「具氏は花橘の下かさねを着給へりし」と申す人も侍りしはいづれかまことなりけむ。近衞將曹廿四人、とりどりいろいろに織り盡したるめでたかりけり。關白殿御車にて參りたまふ。まづ女院の御車東の廂の北の妻戶へ左右大臣よせらる。院司の大納言通成事のよしを奏せられて樂屋の亂聲など常のごとし。御寺の儀式ありし法勝寺にかはらず。御導師は聖基僧正、御方々の引出物どもいとゆゝしう法師ばらのたけとひとしき程に積みかさねたり。萬歲樂地久など賞仰せらる。人々の祿、關白殿には織物の袿一重藏人頭とりてたてまつる。大臣には綾の袿、納言は平絹なり。御門、新院御對面の儀式など定めて男の記錄に侍らむかし。御願文の淸書は經朝の三位、料紙は紫の色紙、額はかの建て始められし長寬に、敎長書きたりけるが燒けざりければ、この度もそれをぞ用ゐられける。かくて少し人々の心のどかにうち靜まりて思さるゝに、あづまに何事にか煩しき事いできにたりとて將軍〈宗尊親王〉七月八日俄なるやうにて御のぼり、かねては始めて御のぼりあらむ時の儀式などになくめでたかるべきよしをのみ聞きしに、思ひかけぬほどにいと怪しき御ありさまにて御のぼりあり。御くだりの、六波羅の北方に建てられたりし檜皮屋に落ちつかせおはしましぬ。この頃あづまに世の中おきてはからふぬしは相模守時宗と左京權大夫政村朝臣なり。政村とはありし義時の四郞なり。京の南〈如元〉六波羅は陸奧守時茂、式部太輔時輔とぞ聞ゆる。中務の御子の御のぼりの代に、かの御子の三つになり給ふ若君近衞殿の姬君の御腹ぞかし。七月廿七日に將軍の宣旨かうぶらせ給ひて頓て四品し給ふ。經任の中納言を御使にてあづまへ下されなどして苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに故承明門院の御跡、土御門萬里小路殿へ御移ろひありて後ぞ院のうへ御母准后なども參りはじめて御對面あり。さるべき人々も參りつかうまつりなどして世のつねの御有樣にはなりにけれど、建長四年に十一にて御下ありし後今まで十五年がほど、にぎはゝしくいみじうもて崇められさせ給ひて、ゆゝしかりつる御住ひにひきかへ、物淋しく心細うなどおぼさるゝ折々もありけるにや、

  「虎とのみもてなされしはむかしにていまは鼠のあなう世の中」。

又雪のいみじうふりたるあした右近の馬塲の方御覽じにおはしましてよませ給ひける、

  「なほたのむ北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるゝ身は」

などきこえき。大方この御子の歌のひじりにておはします事皆人の口に侍るべし。「枯野の眞葛霜とけて」なども人ごとにめでのゝしる御歌なるべし。又の年二月には龜山殿の淨金剛院にて十五日涅槃の儀式うつし行はせ給ふ。それより五日の御八講に人々才賢き限りを擇びめす。大殿二條殿にも西八條にて故東山殿の御ために八講行はせ給ふ。關白殿も光明峰寺にて結緣灌頂とり行はる。鷹司殿には昔の御北の方の十三年の法事とて大宮殿にていかめしき事どもいとなませ給ふ。中に繪像の阿彌陀、餘吾將軍の臨終佛なりけるを、惠心の僧都傳へられたりけるをもたせ給ひて供養し給ふ。常の佛の御さまには變り給ひて化佛の御光などめでたくおはしましけり。こゝもかしこも尊き事のみ耳にみちて功濁とはいひがたし。安嘉門院も御法事おこなはる。男も法師もいとまなくあかれあかれまゐり仕うまつらる。佛法のさかりとぞ見えたる。その頃殿の大將〈いへつね〉、內大臣になり給ひぬ。節會はつるまゝに大饗行はる。尊者には新大納言爲氏參られけり。御遊など例の事どもおもしろくなむ。今出川中納言實兼も琵琶彈き給ふ。春のあけぼのゝえんなるに物の音もてはやさるべし。その頃又東二條院熊野へ御まゐり、めでたかりし事どもゝあまりになればさのみはにて漏しつ。かくて四月廿三日より院のうへは又龜山殿にて御如法經あそばす。女院もかゝせおはしましけり。五月廿三日十種供養の御經二部、淨土の三部經もかゝせ給へり。齋會の御ありさまはいつよりも猶いみじ。時なりて寢殿の御しつらひ、淨土のしやうごんもかばかりにこそと見えて、玉の幡、瑠璃の天葢、天に光をかゞやかし、金銀のかざり地を照せるさま筆にも及び難し。上達部左右につき給ふ。左大臣基平、內大臣家經、大納言は良敎、資季、通成、師繼、通雅、中納言は公藤、長雅、通敎、經俊、宰相は時繼、資平、宗雅、雅言、具氏などさぶらはる。盤涉調の調子を吹きて天童二人玉の幡をさゝげて、傳供ども次第に奉るほど鳥向樂を吹き出したり。中島に樂屋はかざられたれば橋の上を樂人つらねてまゐる程、院の上もいでさせ給ひて傳供に立ち加らせおはします御さまいとかたじけなくめでたし。關白殿、おほきおとゞ、左大臣、內大臣皆傳供にしたがはせ給ふ。宗明樂秋風樂を奏して繰り返したる程おもしろき事身の毛だつばかりなり。御前の御遊には笙は公藤、通賴、房名、宗雅、笛は長雅、師親、相保、篳篥は實成朝臣、光顯、御琵琶は新院、今出川中納言實兼、富小路三位公成、箏は大納言の二位殿、院の上この頃またなき御めしうど故入道相國の御むすめとぞ聞えし。又刑部卿〈中宮の御母〉少納言、新兵衞、男には良敎の大納言などぞひかれける。すぐれたる上手どもの手を盡し給ひけむは彌勒菩薩もいかばかりゑみを含み給ひけむ。御經一部は北野の御社ヘ御奉納、今一部と三部經は八幡へ御幸ありて籠め奉らせ給ふ。女院の書かせ坐しましたるは橫川にぞ籠められける。かくおなじ御心に佛法の御いとなみもやんごとなくのみおはしますこそ聖武天皇光明皇后の御ためしにやとありがたく承りしか。今年五月雨常よりもはれまなくて、伊勢の宮河も岸をひたして齋宮の御まゐりも御船なり。祭主も別の船にて御供仕うまつる。道すがら歌うたひ絲竹のしらべなどしておもしろく遊びくらす。御下りの後四年になりぬ。ふるきためしにまかせて准后の宣旨まゐる。御使に中院の少將爲定朝臣下りて事のよし申す。殿上に召して裳唐衣祿たまふ。舞踏してのち都の物がたりなどさるべきおとなだつ人々に少し聞えかはす。艷なる心ちして、たゞの宮腹ならばはかなし事なども聞えぬべけれど、かうがうしくけどほき御有樣なればすくよかにてまかでぬ。その年なが月の頃左のおとゞ〈近衞殿〉の日野山庄へ一院新院、大宮院御幸あり。世になききよらを盡さる。銀金の御皿ども、螺鈿の御臺、うち敷、めなれぬほどの事どもなり。院の御ぶん御小直衣、皆具、夜の御衾、白御太刀、御馬二疋、からあやぎよりようなどにて、二階つくられて、御草子箱、御硯は世々を經て重き寶の石なり。管絃の御厨子樂器いろいろの綾錦などにて造りておかる。女院の御かた新院の御ぶんなどもおなじやうなり。大納言二位殿にも裝束まもりの筥までいとなまめかしう淸らなるものどもぞありける。上達部殿上人にも馬牛ひかる。銀のかたみを五つくませて松茸入れらる。山へ皆入らせおはしまして御らんの後、御かはらけ幾返となく聞しめせば、人々もゑひ亂れさまざまにて過ぎぬ。そのおなじ頃安嘉門院丹後の天の橋立御らんじにとておはします。それより但馬のきの崎のいでゆめしに下らせ給ふ。爲家の大納言光成の三位など御供つかうまつらる。この女院の御ありさまぞ又いといみじうきしかた行くすゑのためしにもなりぬべく、萬の事御心のまゝにこのましくものし給ひける。童舞、白拍子、田樂などいふ事このませ給ひて、いにしへの都芳門院にもやゝまさりてぞおはします。侍らふ人々も常にうちとけず、きぬの色あざやかにはなばなと今めかしき院の內なり。又安養壽院といひて山の峰なる御堂には常にたてこもらせ給ひて御觀法などあるには人の參る事もたやすくなし。鳴子をかけてひかせ給ひてぞおのづから人をも召しける。又その頃にや、秋の雨日頃ふりていと所せかりしに、たまたま雲間見えて空の氣色物すごき程に、一院、新院、大宮院、東二條院など皆ひとつ御方におはします。御前におほきおとゞ公相、常磐井入道殿實氏もさぶらひ給ふ。前の左のおとゞ實雄、久我大納言雅忠などうとからぬ人々ばかりにて大御酒參る。あまた下りながれて上下すこしうち亂れ給へるに、おほきおとゞ本院の御盃をたまはり給ひて、もちながらとばかりやすらひて「公相官位共に極め侍りぬ。中宮〈今出川院〉さておはしませば、もし皇子降誕もあらば家門の榮花衰ふべからず。實兼もけしうは侍らぬをのこなり。後めたくも思ひ侍らぬに一つのうれへ心の底になむ侍る」と申し給へば、人々何事にかとおぼつかなくなむ思ひあはる。左のおとゞ實雄公は中宮の御事かくのたまふをいでやと耳にとまりてうちおぼさるらむかし。一院「何事にか」とのたまふに、しばしありて「入道相國にいかにも先だちぬべき心ちなむし侍る。恨の至りてうらめしきはさかりにて親に先だつ恨み、悲びのいたりて悲しきは老いて子に後るゝには過ぎずとこそ澄明が願文にもかきて侍りしか」など申し給ひてうちしほたれ給へば、皆いとあはれに聞きおぼす。入道殿はまして墨染の御袖ぬらし給ひけることわりなりかし。又その頃大風ふきて人々の家々損はれうする事數知らぬ中に、明堂殿〈もイ有〉まろびぬ。この內には木にて人形をつくりて宮殿を金にて入れたる寶あり。眼をあてゝは見ぬものなり。おのづからもあやまりて見つる人は目のつぶれけるぞおそろしき。陰陽寮の守護神の社もまろびぬ。山の文殊樓、稻荷の中の宮なども吹き損ひてすべてきしかた行くすゑもためしありがたき風なり。西國のかたには人の家をさながら吹きあぐれば、內なる人はちりのやうにおちて死にうせなどしけるぞめづらかなる。あまりにかくおびたゞしき風なれば御占行はれけるにも、重き人の御つゝしみ輕からぬなど奏しけり。果してその頃西園寺のおほきおとゞ公相なやましくし給ふとて山々寺々、修法讀經祭祓などかしがましくひゞきのゝしりつれど、それもかひなくて十月十二日失せ給ひぬ。入道殿をはじめおぼしなげく人々かずしらず。中宮も御服にて出で給ひぬ。北の方は德大寺のおほきおとゞ實基の御女なれどこの御腹には更に御子もなし。中宮をも少納言とて、召しつかふ女房のうみ聞えたれど北の方の御子になして男公達も腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。このおとゞ入道殿よりは少しなさけおくれ、いちはやくなど坐しければ、心の底にはさのみ歎く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺に入れ給へる御頭を人のぬすみとりけるぞめづらかなる。御顏のしもみじかにてなかばほどに御目の坐しましければ、外法とかやまつるにかゝるなまかうべの入る事にて、なにがしのひじりとかや東山のほとりなりける人とりてけるとて後に沙汰がましく聞えき。中宮の御事などを深くおぼさるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ世の人も思ひ申しける。ありし一事をおぼしいでつゝ、誰もあはれに悲しくて女院の御方々もそれをのみのたまはせけり。十二月一日頃皇后宮又御產とて、天下さわぐに、えもいはぬ玉のをのこみ子〈後宇多院〉うまれ給ひぬ。おとゞ北の方の御心の中思ひやるべし。今ぞ夜の明けぬる心ちしたまふ。院もいそぎ御幸ありてもてはやし奉らせ給ふ。內より御はかせまゐる。例の夜をへての事どもさながらとゞめつ。近衞の左大臣殿へその頃攝錄わたりぬ。廿二にぞなりたまふ。いとめでたきさまなり。岡のやどのゝ御太郞君ぞかし。御悅申に兩院より御馬ひかる。大宮院御琴、東二條院は御笛など賜物どもいつものことなるべし。西谷殿とり申し、深心院の關白とも申しき。

     第九 山のもみぢ葉〈六字一本北野の雪〉

正元元年十一月廿六日、讓位の儀式常の如し。十二日廿八日御即位、よろづめでたくあるべきかぎりにて年もかへりぬ。おりゐの御門はしはすの二日太上天皇の尊號ありて、新院ときこゆ。本院と常はひとつに渡らせ給ひて御あそびしげう心やりてなかなかいとのどやかにめやすき御有樣におぼし慰むやうなり。中宮も院號の後は東二條院ときこゆ。二條富小路にぞわたらせ給ふ。おほきおとゞも入道し給ひぬ。常磐井とて大炊御門京極なる所にぞ折々すみ給ふ。この入道殿の御おとゝにその頃右大臣實雄と聞ゆる姬君あまた持ち給へる中に優れたるをらうたきものにおぼしかしづく。今上の女御代にいで給ふべきを、やがてそのついで文應元年入內あるべくおぼしおきてたり。院にも御氣色たまはり給ふ。入道殿の御孫の姬君も參り給ふべき聞えはあれど、さしもやはとおしたち給ふ。いと猛き御心なるべし。この姬君の御せうとのあまたものし給ふ中に〈のイ〉このかみにて中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけむ、したゝく烟にくゆりわび給ふぞいとほしかりける。さるはいとあるまじき事と思ひはなつにしも、隨はぬ心のくるしさを、おきふし葦の根なきがちにて御いそぎの近づくにつけても、我かのけしきにてのみほれすぐし給ふを、おとゞは又いかさまにかと苦しうおぼす。初秋風けしきだちて艷なる夕ぐれにおとゞわたり給ひて見たまへば、姬君薄色に女郞花などひきかさねて几帳に少しはづれて居給へるさまかたち常よりもいふよしなくあてににほひ充ちてらうたく見え給ふ。御ぐしいとこちたく、五重の扇とかやを廣げたらむさまして少し色なるかたにぞ見え給へど、すぢこまやかに額より裾までまがふすぢなくうつくし。たゞ人にはげにをしかりぬべき人がらにぞおはする。几帳おしやりてわざとなく拍子うちならして、御箏彈かせ奉り給ふ。折しも中納言參り給へり。「こち」とのたまへば、うちかしこまりて、御簾の內にさぶらひ給ふさまかたち、この君しもぞ又いとめでたく飽くまでしめやかに心の底ゆかしうそゞろに心づかひせらるゝやうにて、こまやかになまめかしうすみたるさましてあてにうつくし。いとゞもてしづめてさわぐ御胸を念じつゝ用意をくはへ給へり。笛すこし吹きなどし給へば雲ゐにすみのぼりていとおもしろし。御箏の音のほのかにらうたげなる搔き合せの程なかなか聞きもとめられず淚うきぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御ぐしはこぼれかゝりて少し傾ぶきかゝり給へる、傍めまめやかに光を放つとはかゝるをやと見え給ふ。よろしきをだに人の親はいかゞはみなす。ましてかく類ひなき御有樣どもなめれば世に知らぬ心の闇に惑ひ給ふもことわりなるべし。十月廿二日參り給ふ儀式これもいとめでたし。出車十輛、一の車の左は大宮殿、二位の中將もとすけのむすめとぞ聞えし。二の左は春日三位の中將さねひらのむすめ、右は新大納言、この新大納言は爲家の大納言のむすめとかや聞えしにや。それよりも下はましてくだくだしければむつかし。御ざうし靑柳、梅枝、高砂、ぬき川と言し。この貫川を御門忍びて御らんじて姬宮一所いでものし給ひき。その姬宮は末に近衞關白家基の北の政所になり給ひにき。萬の事よりも女御の御さまかたちのめでたくおはしませば上もおぼしつきにたり。女御は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれば、いとおとなしくおよすげ給へればめやすきほどなりけり。かの下くゆる心ちにもいとうれしきものから心は心として胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心ちし給はぬぞ、遂にいかになり給はむといとほしき程もなく后だちありしかば、おとゞ心ゆきておぼさるゝ事かぎりなし。西園寺の女御もさし續きて參り給ふをいかさまならむと御胸つぶれておぼせどさしもあらず。これも九つにぞなり給ひける。冷泉のおとゞ公相の御むすめなり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞えし。いづれも離れぬ御中にいどみきしろひ給ふ程、聞きにくき事もあるべし。宮づかへのならひかゝるこそ昔人はおもしろくはえある事にし給ひけれど、今の世の人の御心どもはあまりすくよかにてみやびをかはす事のおはせぬなるべし。これも后に立ち給へば、もとの中宮はあがりて皇后宮とぞ聞え給ふ。今后は遊にのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御おぼえ劣りざまに聞ゆるを思はずなる事に世の人もいひさたしけり。父おとゞも心やましくおぼせど、さりともねびゆき給はゞと唯今はうらみ所なくおぼしのどめ給ふ。かくて弘長三年きさらぎの頃、大かたの世の景色もうらゝかにかすみわたるに、春風ぬるく吹きて龜山殿の御まへの櫻ほころびそむるけしきつねよりも殊なれば、行幸あるべくおぼしおきつ。關白〈二條殿良實〉この三とせばかり又かへりなり給へば、御隨身ども花を折りて行幸よりもさきに參りまうけ給ふ。その外の上達部も例のきらきらしきかぎり殘るはすくなし。新院も兩女院も渡らせたまふ。御まへの汀に船どもうかべて、をかしきさまなる童四位の若きなどのせて、花の木かげより漕ぎいでたるほどになくおもしろし。舞樂さまざま曲など手をつくされけり。御あそびの後人々歌たてまつる。花契遐年といふ題なりしにや。內の上の御製、

  「たづねきてあかぬ心にまかせなば千とせや花のかげにすごさむ」。

「かやうの方までもいとめでたくおはします」とぞふるき人々申すめりし。かへらせ給へる御贈物どもいとさまざまなる中に、えんぎの御手本を鶯のゐたる梅の造枝につけて奉らせ給ふとて、院のうへ〈後嵯峨〉

  「梅が枝に代々のむかしの春かけてかはらずきゐる鶯のこゑ」。

御返しをわすれたるこそ老のつもりうたて口をしけれ。その年にや五月の頃、本院龜山殿にて如法經書かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならむかし。後白河院こそかゝる御事はせさせ給ひけれ。それも御ぐしおろして後の事なり。いとかくおぼし立たせ給へるいみじき御願なるべし。さるは數多度侍りしぞかし。男は花山院の中納言〈もとつぐ〉一人さぶらひ給ひける、やごとなき顯密の學士どもを召しけり。昔上東門院も行はせ給ひたりしためしにや、大宮の院同じく書かせおはしますとぞ承りし。十種供養はてゝ後は淨金剛院へ御自ら納めさせ給へば、關白、大臣、上達部步みつゞきて御供つかうまつられけるも、さまざまめづらしくおもしろくなむ。その年九月十三夜、龜山殿の棧敷殿にて御歌合せさせたまふ。かやうの事は白河殿にても鳥羽殿にてもいとしげかりしかど、いかでかさのみはにて皆漏しぬ。この度は心ことにみがゝせ給ふ。右は關白殿にて歌どもえりとゝのへらる。左は院の御前にて御覽ぜられける。このほど殿と申すは圓明寺殿〈又一條殿と申す。〉の御事なり。新院の御位の始つ方攝政にていませしが又この二〈一イ〉年ばかり歸らせ給へり。前の關白殿は院の御方に侍らはせ給ふ。その外すぐれたるかぎり、右は關白殿今出川の大きおとゞ、皇后宮御父の左大臣殿より下みなこの道の上手どもなり。左は大殿よりかずたてつくりて風流の洲濱沈にて造れるうへに、銀の舟二つにいろいろの色紙を書き重ねてつまれたり。數も沈にて造りて舟にいれらる。左右の讀師一度に御前に參りてよみあぐ。左具氏中將、右行家なり。山紅葉、本院の御製、

  「外よりは時雨もいかゞそめざらむ我がうゑて見る山のもみぢ葉」。

終に左御勝の數まさりぬ。披講はてゝ夜更けゆくほどに御遊びはじまる。笛は花山院中納言長雅、茂通の中將、笙は公明の中將にて坐せしにや。篳篥はたゞすけの中將、琵琶はおほきおとゞ公相、具氏の中將も彈き給ひけるとぞ。御簾の內にも御箏どもかきあはせらる。東の御方と聞えしは新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君もひかれけり。樂のひまひまにおほきおとゞ土御門大納言通茂など朗詠したまふ。たゞすけ、きんあき聲くはへたるほどおもしろし。川浪もふけゆくまゝにすごう月は氷をしける心ちするに「嵐の山のもみぢ夜のにしき」とは誰がいひけむ。吹きおろす松風にたぐひて御前の簀子にて御みきまゐる。かはらけの中などに散りかゝる、わざと艷なる事のつまにもしつべし。若き人々は身にしむばかり思へり。うら亂れたるさまに各御かはらけどもあまた度くだる。明けゆく空も名殘多かるべし。まことやこの年頃前內大臣基家、爲家の大納言、入道侍從二位行家、光俊の辨入道などうけたまはりて撰歌のさたありつる、唯今日あすひろまるべしと聞ゆるおもしろうめでたし。かの元久のためしとて一院みづからみがゝせ給へば心ことに光そひたる玉どもにぞ侍るべき。年月にそへてはいよいよ外ざまにわくる方なく、榮えのみまさらせ給ふ御ありさまのいみじきに、この集の序にも「やまとしまねはこれ我が世なり、春風に德をあふがむとねがひ、和歌の浦もまた我が國なり、秋の月にみちをあきらめむ」とかや書せ給へりける。げにぞめでたきや。金葉集ならでは御子の御名のあらはれぬも侍らねど、この度はかのあづまの中務の宮の御なのりぞ書かれ給はざりける。いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふ事行はせ給ふ、面白かりき。この集をば續古今と申すなり。又の年〈文永三〉あづまに心よからぬ事出で來て中務の御子都へのぼらせ給ふ。何となくあわたゞしきやうなり。御後見はなほ時賴朝臣なれば例のおそろしき事などはなけれど、宮は御子の惟康の親王に將軍をゆづりて文永三年七月八日のぼらせ給ひぬ。御くだりのぼり、六波羅に建てたりし檜皮屋ひとつあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに引きかへたる御ありさまを年月のならひにさうざうしう物心ぼそうおぼされけるにや、

  「虎とのみもちゐられしはむかしにていまはねずみのあなう世の中」。

院にもあづまの聞えをつゝませ給ひて、やがては御對面もなくいと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。經任の大納言いまだ下﨟なりしほど御使に下されて「何事にか」と仰せられなどして後ぞ苦しからぬ事になりて、宮も土御門殿承明門院の御跡へ入らせ給ひけり。院へも常に御まゐりなどありて人々もつかうまつる。御遊などもしたまふ。雪のいみじう降りたる朝ぼらけに、右近の馬塲の方御覽じにおはして御心のうちに、

  「なほたのむ北野の雪のあさぼらけあとなきことにうづもるゝ身は」。

世を亂らむなど思ひよりけるものゝふのこの御子の御歌すぐれてよませ給ふによりよるひるいとむつましく仕うまつりけるほどに、おのづからおなじ心なるものなど多くなりて、宮の御けしきあるやうにいひなしけるとにや。さやうの事どものひゞきによりかくおはしますを、おぼし歎き給ふなるにこそ。日頃ながあめ降りて少し晴間見ゆるほど空のけしきしめやかなるに、二條富小路殿に本院新院ひとつに渡らせ給ふ頃、ことごとしからぬほどの御遊ありけり。大宮院東二條院も御几帳ばかり隔てゝおはします。御前におほきおとゞ公相、常磐井入道實氏、前の左のおとゞ實雄、久我大納言雅忠などうとからぬ人々ばかりにて御みき參る。あまたくだりながれて上下すこしうち亂れ給へるに、おほきおとゞ本院の御盃たまはりて、持ちながらとばかりやすらひて「公相官位共にきはめ侍りぬ。中宮おはしませば若し皇子降誕もあらば家門の榮花いよいよ衰ふべからず。實兼もけしうは侍らぬをのこなり。後めたくも思ひ侍らぬを、一つのうれへ心の底になむ侍る」と申し給へば、人々何事にかとおぼつかなくおもふ。左のおとゞは中宮の御事かくのたまふをいでやと耳とまりて心の中やすげなし。一院は「いかなるうれへにか」とのたまふに「いかにも入道相國に先だちぬべき心ちなむし侍る。恨のいたりてうらめしきはさかりにて親に先だつうらみ、悲びの切に悲しきは老いて子に後るゝかなしびには過ぎずなどこそすみあきらにおくれたる願文にも書きて侍りしか」など聞えてうちしほたれ給へば、皆いとあはれとおぼさる。入道殿はまいて墨染の御袖しぼるばかりに見え給ふ。さてその後幾程なく惱み給ふよし聞ゆれば、さしもやはと覺えしにいとあやなく失せ給ひぬ。冷泉太政大臣と申し侍りし事なり。入道殿の御心の中さこそおはしけめ。中宮も御服にてまかで給ひぬ。皇后宮は日にそへて御おぼえめでたくなりたまひぬ。姬宮若宮などいでものし給ひしかど、やがてうせ給へるを御門をはじめ奉りて誰も誰もおぼし歎きつるに、今年又その御けしきあればいかゞとおぼし騷ぎ、山々寺々に御いのりこちたくのゝしる。こたみだにげに又うちはづしてはいかさまにせむと、おとゞ母北の方もやすきいも寢給はず、おぼし惑ふ事かぎりなし。程近くなり給ひぬとて土御門殿の承明門院の御あとへうつらせ給ふ。世の中ひゞきて天下の人たかきもくだれるも司ある程のは參りこみてひしめきたつに、殿の內の人々はまして心もこゝろならずあわたゞし。おとゞかぎりなき願どもをたて、賀茂の社にもかの御調度どもの中にすぐれて御寳とおばさるゝ御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて神殿にこめられけり。それにはたとひ御末まではなくとも皇子一人とかや侍りけるとぞ承りし。まことにや侍りけむ。かくいふは文永四年十二月一日なり。例の物のけども顯れて叫びとよむさまいとおそろし。されども御いのりのしるしにやえもいはずめでたき玉のをのこ御子〈後宇多〉生れ給ひぬ。その程の儀式いはずとも推し量る多べし。うへもかぎりなき御志にそへていよいよおぼすさまに嬉しと聞し召す。おとゞも今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮〈伏見院〉もこの殿の御孫ながら、それは東二條院の御心の中おしはかられ大かたも又うけばりやんごとなき方にはあらねば、萬聞しめしけつさまなりつれど、この今宮をば本院も大宮院もきはことにもてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ためかとはしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらむと西園寺ざまにぞ〈はイ〉一方ならずむすぼゝれ、すさまじう聞き給ひける。

     第十 あすか川

ひまゆく駒のあしにまかせて文永も五年になりぬ。正月二十日本院のおはします富小路殿にて今上の若宮御いかきこしめす。いみじうきよらを盡さるべし。今年正月に閏あり。後の二十日あまりの程に冷泉院にて舞御覽あり。明けむ年一院いそぢにみたせ給ふべければ御賀あるべしとて、今より世のいそぎにきこゆ。樂所はじめの儀式は內裏にてぞありける。試樂廿三日と聞えしを雨降りて明くる日つとめて人々參りつどふ。新院はかねてより渡らせ給へり。寢殿の御階の間に一院のおましまうけたり。その西によりて新院の御座をまうく。東は大宮院、東二條院、皆白御袴に二つ御ぞ奉れり。聖護院の法親王、圓滿院僧正など參り給ふ。土御門の中務の宮もまゐり給ふ。上達部殿上人あまた御供したまへり。仁和寺御室、梶井の法親王などもすべて殘りなくつどひ給ふ。月花門院、花山院准后などは大宮院のおはします御座に御几帳おしのけて渡らせ給ふ。寢殿の第四の間に袖口ども心ことにておしいださる。大納言の二位殿南の御方などやんごとなき上﨟は院のおはします御簾の中にひきさがりてさぶらひ給ふ。何れも白き袴に二つぎぬなり。東のすみの一間は、大宮院、月花門院の女房ども參りつどふ。西の二間に新准后さぶらひたまふ。御前の簀子に關白殿をはじめて右大臣、內大臣、兵部卿隆親、二條大納言良敎、源大納言通成、花山院大納言師繼、右大將道雅、權大納言基具、一條中納言公藤、花山院中納言長雅、左衞門督通賴、中宮權大夫隆顯、大炊御門中納言信嗣、前源宰相有資、衣笠宰相中將經平、左大辨宰相經俊、新宰相中將具氏、別當公孝、堀川三位中將具守、富小路三位中將公雄、皆御階の東に着きたまふ。西の第二の間より又前左大臣實雄、二條大納言經輔、前源大納言雅家、中宮大夫雅忠、藤大納言爲氏、皇后宮大夫定實、四條大納言隆行、帥中納言經任、このほかの上達部にしひがしの中門のらう、それより下ざますいわたどのうちはしなどまで着きあまれり。みななほしにいろいろのきぬ重ね給へり。時なりて舞人どもまゐる。實冬の中將からおり物のさくらの狩衣、むらさきのこきうすき、きにて櫻を織れり。あかぢのにしきのうはぎ、紅のにほひの三つぎぬ、同じひとへ、しゞらの薄色のさしぬき、人よりはすこしねびたりしもあなきよげと見えたり〈二字てイ〉。大炊御門中將冬すけといひしにや。さうぞくさきのにかはらず、かりぎぬはひら織ものなり〈きイ有〉。花山院中將家長〈右大將の御子〉魚綾の山吹のかりぎぬ柳さくらをぬひものにしたり。紅のうちぎぬをかゞやくばかりだみかへして萠黃のにほひの三つぎぬ、紅の三重のひとへ、うき織物のむらさきのさしぬきに、さくらをぬひものにしたるめづらしくうつくしく見ゆ。花山院の少將たゞすゑは〈諸繼の御子なり。〉さくらのむすびかりぎぬ、白きいとにて水をひまなくむすびたるうへに櫻柳をそれもむすびてつけたるなまめかしくえんなり。赤地のにしきのうはぎ、かねの文をおく。紅の二つぎぬ同じひとへ紫のさしぬき、これも柳櫻をぬひものにいろいろの絲にてしたり。中宮權亮少將公重藤〈實藤の大納言の子〉の秋、唐織物の櫻萠黃のかりぎぬ、紅のうちぎぬ、紫の匂ひの三つぎぬ、紅のひとへ、さしぬき例の紫に櫻をしろくぬひたり。堀川の少將基俊、から織物、うら山吹、三重の狩衣、柳だすきを靑く織れる中に櫻をいろいろにおれり。萠黃のうちぎぬ櫻をだみつけにして、わちがへをほそく金の文にしていろいろの玉をつく。にほひつゝじの三つぎぬ、紅の三重のひとへこれもはくちらす。二條中將經俊〈良イ〉〈良敎の大納言の御子なり。〉、これもから織物の櫻萠黃、紅の衣おなじひとへなり。皇后宮權亮中將實守、これも同じ色のかば櫻の三つぎぬ、紅梅の三重のひとへ、馬頭たかよし〈隆親の子にや〉ろくたいの赤色の狩衣、玉のくゝりを入れ、靑き魚綾のうはぎ、紅梅の三つぎぬ、同じ二重のひとへ、薄色のさしぬき、少將實繼松がさねの狩ぎぬ、紅のうちぎぬ、紫の二つぎぬ、これもいろいろのぬひものおきものなどいとこまかになまめかしくしなしたり。陵王の童に四條大納言の子、裝束常のまゝなれど紫のろくたいのはんじり、かねのもん、赤地のにしきの狩衣、靑き魚綾のはかま、しやく木のみなえりほね紅の紙にはりてもちたる、用意けしきいみじくもてつけてめでたく見え侍りけり。笛もちみち、たかやす、笙きんあき、宗實、篳篥兼行、大皷敎藤、鞨皷あきなり。三のつゞみのりより、左萬歲樂、右地久、陵王、輪臺、靑海波、太平樂、入綾、實多いみじく舞ひすまされたり。右落蹲、左春鶯囀、右ことり蘇、後參、賀殿の入あやも實冬舞ひ給ひしにや、暮れかゝる程に何のあやめも見えずなりにき。御方々宮だちあかれ給ひぬ。おなじ二月十七日に、又新院富小路殿にて舞御らん。その朝大宮院まづ忍びて渡らせ給ふ。一院の御幸は日たけてなる。冷泉殿より唯はひわたる程なれば、樂人舞人今日の裝束にて上達部など皆步みつゞく。庇の御車にて御隨身十二人、花ををり錦をたちかさねて聲々御前華やかに、おひのゝしりて近く侍ひつるになくおも白し。新院は御ゑばう子、直衣、御袴きはにて中門にて待ち聞えさせ給ひつる程いとえんにめでたし。御車中門によせて、關白殿御はかせとりて御くしげ殿に傳へ給ふ。二重織物の萠黃の御几帳のかたびらを出されていろいろの平紋のきぬども、物の具はなくておしいださる。今日は正親町院も御堂の角の間より御覽ぜらる。大臣上達部ありしにかはらず。猶參り加はる人はおほけれどもれたるはなし。實冬、今日は花田うら山吹のかりぎぬ、二重うちもえぎなど思ひ思ひこゝろごゝろに先にはみなひきかへてさまざまつくしたり。基俊の少將、この度は櫻萠黃の五重のかりぎぬ、紅の匂ひの五つぎぬ、うちぎぬはやりつき〈如元〉山吹のにほひ、うき織物の三重ひとへ、紫の綾の指貫中にすぐれてけうらに見え給へり。この度は多くろくたいのきぬをきたり。萬歲樂を吹きて樂人舞人まゐる。池の汀に桙をたつ。春鶯囀、古鳥蘇、後參、輪臺、靑海波、落蹲などあり。日ぐらしおもしろくのゝしりて歸らせ給ふ程に。赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君御簾のうちよりいだす。右大將とりて院の御前にけしきばみ給ふ。胡飮酒の舞は實俊の中將とかねては聞えしを、父おとゞの事にとゞまりにしかば近衞前關白殿の御子三位中將ときこゆるいまだ童にて舞ひたまふ。別してこの試樂よりさきなりしにや、內々白川殿にてこゝろみありしに、父の殿も御簾の內にて見給ふ。若君いとうつくしう舞ひ給へば院めでさせ給ひて、舞の師たゞもち祿たまはりなどしけり。かやうに聞ゆる程にむくりの軍といふ事起りて御賀とゞまりぬ。人々口をしくほん意なしとおぼす事かぎりなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法やなにやと公家武家たゞこのさわぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。かくて今上の若宮、六月廿六日親王宣旨ありて同じき八月廿五日坊に居給ひぬ。かく華やかなるにつけても入道殿はあさましくおぼさる。故おとゞの先立ち給ひしなげきにしづみてのみ物し給へど、かゝる世のけしきをかしこく見給はぬよとおぼしなぐさむ。中宮は御服の後も參り給はず、萬ひきかへ物うらめしげなる世の中なり。一院は御本意遂げむ事をやうやうおぼす。その年の九月十三夜白川殿にて月御らんずるに、上達部殿上人例の多く參りつどふ。御歌合ありしかば、內の女房ども召されて、いろいろのひき物源氏五十四帖のこゝろ、さまざまの風流にして上達部殿上人までも別ちたまはす。院の御製、

  「我のみや影もかはらむあすか川おなじ淵瀨に月はすむとも。

   かねてより袖もしぐれて墨染のゆうべ色ます峯のもみぢ葉」。

「この御歌にてぞ御ほいの事おぼしさだめけり」とみな人袖をしぼりて聲もかはりけり、あはれにこそ。民部卿入道爲家判せさせられけるにも身をせめ心をくだきて「かきやる方も侍らず」とかや奏しけり。かくて神無月の五日龜山殿へ御幸なる。今日をかぎりの御たびなれば心ことにとゝのへさせ給ふ。新院も例のおはします。大宮、東二條、ひとつ御車にておなじく渡らせ給ふ。大宮女院は白菊の御ぞ、東二條院は靑紅葉の八つ菊の御小袿奉る。まづ北野、平野の社へ御まゐりあれば御隨身ども花ををりつくし、今日をかぎりとさまあしきまでさうぞきあへり。兩社にて馬あげさせられけり。神もいかに名殘多く見たまひけむ、空さへうちしぐれて木の葉さそふ嵐もをりしりがほに物悲しう淚あらそふ心ちし給ふ人々多かるべし。中務の御子「今日のたもとさぞしぐるらむ」とのたまひし御返し、中將、

  「袖ぬらす今日をいつかとおもふにもしぐれてつらき神無月かな」。

やがてその夜御ぐしおろし給ひぬ。御戒の師には靑蓮院の法親王參りたまふ。その頃やがて御逆修はじめさせ給へば、そのほど女院いろいろの御捧物ども奉り給ふ。今はいよいよ法の道をのみもてなさせ給ひつゝ、或時は止觀の談義、或時は眞言のふかきさた、淨土の宗旨などをも尋ねさせ給ひつゝ、よろづに御心通ひくらからず物し給へば、何事もさきの世よりかしこくおはしましける程顯れて、今行く末もげに賴もしくめでたき御ありさまなり。かくて今年もくれぬ。又の年やよひのついたち月花門院俄にかくれさせ給ひぬ。法皇も女院もかぎりなく思ひ聞えさせ給ひつるにいとあさまし。さるは誠にやあらむ、又人たがへにや、とかく聞ゆる御事どもぞいと口をしき。「四辻の彥仁の中將忍びて參り給ひけるを、もとあきの中將かの御まねをして又參り加はりけるほどに、あさましき御事さへありて、それ故かくれさせ給へる」などさゝめく人も侍りけり。猶さまではあらじとぞ思ひ給へれどいかゞありけむ。法皇は又文永七年神無月の頃、御手づからかゝせ給へる法花經一部供養せさせたまふ。御八講名高く才すぐれてかしこき僧共を召しけり。世の中の人殘りなくつかうまつる。新院かねてより渡り給へり。さるべき御事とは申しながら、何につけても御心ばへのうるはしくなつかしうおはしまして、院のおぼいたるすぢの事は必ず同じ御心に仕うまつり、いさゝかもいでやとうちおぼさるゝ一ふしもなく物し給ふを、法皇もいとうつくしうかたじけなしとおぼされけり。第二日の夜に入りて行幸もなる。五のまきの日の御捧物ども參りつどふ。さまざままねびつくしがたし。內の御捧物はかみや紙にかねを包みて、やないばこにすゑて頭辨ぞ持ちたる。次に新院女院だち宮々御かたがた皆そなたざまの宮司殿上人などもてつゞきたり。關白大臣などは座に着き給ふ。大中納言參議四位五位などはみづからの捧物をもちてわたる。おのおの心々にいどみつくしてさまざまをかしき中に、兵部卿隆親はしがいをはきて鳩の杖をつきていでたり。この杖をやがて捧物にもなしけり。しろがねにてひたうちにしてさきは金なり。結願の日は舞樂などいみじくおもしろくて過ぎぬ。又の年正月に忍びて新院と御方わかちの事したまふ。初は法皇御負なれば御勝むかひに上達部皆五節のまねをして、いろいろのきぬあつ妻にて「思の川〈つイ〉に船のよれかし」とはやしてまゐる。新院ひきつくろひて渡り給ふ。御みきいくかへりとなくきこしめさる。一つがひづゝの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞えし。かねの地盤にしろがねのふせごにたきものくゆらかして、「山は不盡のねいつとなく」と、又銀の船にざかうのへそにて簑着たる男つくりて、「いざこととはむ都鳥」などさまざまいとなまめかしくをかしくせられけり。わざと事々しきさまにあらざりけり。こたみには新院比比勢〈三字よりこそイ〉人のまねをして「ぼんなうはくびにのる、杯は花にのる」とかやはやして法皇の御迎にまゐる。上達部のおとなび給へるなどは少しきやうきやうにや見えけむとおしはからる。この度は源氏の物語のこゝろにやありけむ、唐めいたる箱に金剛樹の數珠入れて五葉の枝につけたり。又齋院よりのくろぼう、梅の散りすぎたる枝につけなどこれもいとさゝやかなる事どもになむありける。男女房亂りがはしくしひかはして、御箏どもめし拍子うちならしなどしてあけぬ。かやうの事にのみ心やりて明し暮させ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。東二條院日頃たゞにもおはしまさゞりつる、その御氣色ありて世の中さわぐ。院の內にてせさせ給へばいよいよ人參りつどふ。大法祕法のこるなく行はる。七佛藥師五檀の御修法、普賢延命、金剛童子、如法愛染などすべて數しらず。御驗者には常住院僧正參りたまふ。八月二十日よひの事なり。既にかと見えさせ給ひつゝ、二日三日になりぬればあるかぎり物覺ゆる人もなし。いと苦しげにし給へば、仁和寺の御室の如法愛染の大阿闍梨にてさぶらひ給ふを、御枕上に近く入れ奉らせ給ひて「いとよわう見え侍るはいかなるべきにか」と院もそひおはしまして、あつかひ聞え給ふさまおろかならねば、哀と見奉り給ひて「さりともけしうはおはしまさじ。空定業の亦能轉は菩薩のちかひなり。今さら妄語あらじ」とて御心を致して念じたまふに、驗者の僧正も一ちひみつとて念珠おしもみたるほどげにたのもしくきこゆ。御誦行〈如元〉のものどもはこびいで、女房のきぬなどこちたきまでおしいだせば、奉行とりて殿上人北面の上下あかれあかれに別ちつかはす。そこらの上達部は階の間の左右に着きて皇子誕生を待つけしきなり。陰陽師かんなぎ立ちこみて千度の御はらひつとむ。御隨身北面の下﨟などは神馬をぞ引くめる。院拜したまひて廿一社に奉らせ給ふ。すべて上下內外のゝしりみちたるに、御氣色たゞよわりに弱らせ給へば今一しほ心まどひして、さとしぐれわたる袖の上もいとゆゝし。院もかきくらし悲しくおぼされて、御心のうちには石淸水のかたを念じ給ひつゝ御手をとらへて泣き給ふに、さぶらふかぎりの人みなえ心つよからず、いみじき願どもを立てさせ給ふしるしにや、七佛の阿闍梨參りて、「けんじやくはんぎ」とうちあげたる程に辛うじて生れ給ひぬ。何といふ事も聞えぬは姬宮なりけりといと口をしけれど、無下になき人と見え給へるにたひらかにおはするをよろこびて、いかゞはせむとおぼし慰む。人々の祿などつねのごとし。法皇もなかなかいたはしくやんごとなき事におぼしていみじくもてはやし奉らせ給ふ。いでやと口をしく思へる人々おほかり。かゝるにしも實雄のおとゞの御宿世あらはれて、片つ方には心おちゐ給ふも世のならひなれば、ことわりなるべし。五夜七夜など殊に華やかなる事どもにて過ぎもてゆく。その頃ほひより法皇時々御なやみあり。世の大事なれば御修法どもいかめしくはじまる。何くれと騷ぎあひたれど、をこたらせ給はで年もかへりぬ。むつきのはじめも院の內かいしめりていみじく物思ひなげきあへり。十七日龜山殿へ御幸なる。これやかぎりと上下心ぼそし。法皇は御輿なり。兩女院は例のひとつ御車にたてまつる。尻に御匣殿さぶらひ給ふ。道にて參るべき御せんじものを胤成師成といふ藥師ども御前にてしたゝめて、しろがねの水甁に入れてたかよしの中納言うけたまはりて、北面の信友といふにもたせたりけるを、內野のほどにて參らせむとて召したるにこの甁に露ほどもなし。いとめづらかなるわざなり。さほどの大事のものをあしくもちてうちこぼすやうはいかでかあらむ。法皇もいとゞ御臆病そひて心ぼそくおぼされけり。新院は大井川の方におはしましてひまなく男女房上下となく、今の程いかにいかにと聞えさせ給ふ。御使の行きかへる程を猶いぶ〈せイ有〉がらせ給ふにむ月もたちぬ。いかさまにおはしますべきにかと誰も誰もおぼし惑ふ事かぎりなし。かねてよりかやうのためとおぼしおきける壽量院へ二月七日わたり給ふ。こゝへはおぼろげの人はまゐらず。南松院の僧正、淨金剛院の長老覺道上人などのみ御前にて法の道ならではのたまふ事もなし。六波羅北南御とぶらひに參れり。西園寺の大納言實兼例の奏したまふ。一日行幸あり。中一日わたらせ給へば、泣く泣く萬の事を聞えおかせ給ふ。新院も御對面あり。御門は御本性いと華やかにかしこく御才などもむかしにはぢず、何事もとゝのほりてめでたくおはします。世ををさめさせ給はむ事も後めたからずおぼせば、聞え給ふすぢことなるべし。十七日の朝より御氣色かはるとて善智識めさる。經海僧正、往生院の聖など參りてゆゝしき事ども聞え知らすべし。遂にその日の酉の時に御年五十三にてかくれさせ給ひぬ。後嵯峨院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて闇にまよふ心ちすべし。十八日に藥草院におくり奉り給ふ。仁和寺の御室、圓滿院、聖護院、菩提院、靑蓮院、皆御供つかまつらせ給ふ。內より頭中將御使にまゐる。三十年がほど世をしたゝめさせ給ひつるに、少しのあやまりなくおぼすまゝにて新院御門春宮うごきなく、又外ざまに別るべき事もなければ、おぼしおくべき一ふしもなし。なき御跡まで人の靡きつかうまつれるさまきし方もためしなき程なり。廿三日御初七日に大宮院御ぐしおろす〈一字さるイ〉。その程いみじく悲しき事おほかり。天の下おしなべてくろみ渡りぬ。萬しめやかに哀なる世のけしきに心あるも心なきも淚催さぬはなし。院、內の御歎きはさる事にて、朝夕むつましく仕うまつりし人々の思ひしづみあへるさま、ことわりにもすぎたり。その中に經任の中納言は人よりことに御おぼえありき。年も若からねば定めて頭おろしなむと皆人思へるに、なよらかなる狩衣にて御骨の御つぼもちまゐらせて參れるを、思ひの外にもと見る人思へり。權中納言公雄ときこゆるは皇后宮の御せうとなり。早うより故院いみじくらうたがらせ給ひて、夜晝御傍去らずさぶらひて明暮つかうまつらせ給ひしかば、かぎりある道にもおくらかし給へることを、若きほどにやる方なく悲しと思ひ入りたまへり。西の對のまへなる紅梅のいとうつくしきを折りて具氏の宰相中將、かの中納言に消息きこゆ。

  「梅のはな春ははるにもあらぬ世をいつとしりてか咲き匂ふらむ」。

かへし、

  「心あらばころもうき世の梅の花をりわすれずばにほはざらまし。

夜さり對面に何事も聞えむ」といへるを、この中將も故院の御いとほしみの人にておなじ心なる友におぼえければいとあはれにて、悲しき事も語りあはせむと日ぐらし待ちゐたるに遂に見えず。あやしとおもふにはやその夜頭おろしてけり。齡もさかりに、今も皇后宮の御せうと春宮の御伯父なれば世おぼえ劣るべくもあらず。思ひなしも賴もしくほこりかなるべき身にて、かく捨てはつるほどいみじくあはれなれば、皆人いとほしう悲しき事にいひあつかふめり。經任の中納言にはこよなき心ばへにや。父おとゞも院の御事をつきせずなげき給ふにうちそへていみじとおぼす。公宗の中納言もかひなき物思ひのつもりにやはかなくなり給ひぬ。又この中納言さへかくものし給ひぬるをさまざまにつけて心ぼそくおぼすに、いく程なく皇后宮さへまたうせ給ひぬ。いよいよ臥し沈みておはするほどにいとよわうなりまさり給ふ。春宮の御代をもえ待ちいづまじきなめりと哀に心ぼそうおぼしつゞけて、

  「はかなくもをふのうらなし君が代にならばと身をもたのみけるかな」。

歎に堪へず遂にうせ給ひにけり。物思ひにはげに命も盡くるわざなりけり。哀に悲しといひつゝも、とまらぬ月日なれば故院の御日數もほどなう過ぎ給ひぬ。世の中は新院かくておはしませば、法皇の御かはりに引きうつしてさぞあらむと世の人も思ひ聞えけるに、當代の御ひとつすぢにてあるべきさまの御おきてなりけり。長講堂領、又播磨の國尾張の熱田の社などをぞ御そぶんありける。いづれの年なりしにか新院六條殿にわたらせ給ひし頃、祇園の神輿たがひの行幸ありし時、御對面のやうを故院へ尋ね申されたりしにも「我とひとしかるべき御事なれば朝覲になぞらへらるべし」と申されけり。ひとつ腹の御このかみにてもおはします。かたがたことわりなるべき世を、思ひの外にもと思ふ人々もおほかるべし。いでや位におはしますにつきてさしあたりの御政事などはことわりなり。新院にも若宮おはしませば行く末の一ふしはなどかはなどいひしろふ。かゝればいつしか院方、內方と人のこゝろごゝろも引き別るゝやうにうちつけ事どもいできけり。人ひとりおはしまさぬ跡はいみじきものにぞありける。朝の御まもりとて田村の將軍より傳はりまゐりける御はかしなどをも、かの御氣色のしかおはしましけるにや御かくれの後やがて內裏へ奉らせ給ひにしかば、それなどをぞ女院のうらめしき御事には院も思ひ聞えさせ給ひける。さてしもやはなれば、このよしをも關の東へぞのたまひつかはしける。內には花山院のおほきおとゞ、後院の別當にをされて世の中自らしたゝめさせ給ふ。もとよりいと華やかに今めかしき所おはする君にてよろづかどかどしうなむ。皇后宮かくれさせ給ひにし後はつきせぬ御なげきさめがたうて、所せき御ありさまもよたけういかで本意をも遂げてばやなどおぼされけり。故院の御はても過ぎさせ給へば、世の中色あらたまりて、華やかに人々の御歎の色も薄らぎゆくしもあはれなるならひなりかし。その夏春宮例にもおはしまさで日頃ふれば、內のうへ御胸つぶれて御修法や何やとさわがせ給ふ。和氣丹波のくすしども〈氏成春成〉、夜晝さぶらひて御藥の事いろいろにつかうまつれど、たゞおなじさまにのみおはす。いかなるべき御事にかとあさましうて、上もつとこの御方に渡らせ給ひて見奉らせ給ふに、御目の中大かた御身の色なども殊の外に黃に見えければいとあやしうて御壺〈一字脫子イ〉を召しよせて御覽ぜらる。紙をひたして見せらるゝにいみじう濃く出でたるきはたの色なり。いとあさましく「などかばかりの事を知り聞えざらむ」とて御氣色あしければ、藥師どもいたう畏り色をうしなふ。かばかりになりては御やいとなくてはまがまがしき御事出でくべしとおのおのおどろきさわぐ。いまだ例なき事はいかゞあるべきと定めかねらる。位にては唯一たびためしありけり。春宮にてはいまださる例なかりけれど、いかゞはせむとておぼし定む。七つにならせ給へばさらでだに心若しき御程なるにまめやかにいみじとおぼす。藥師と大夫定實の君一人召し入れて又人も參らず、御門の御前にて五所ぞせさせ奉らせ給ひける。御乳母どもいと悲しと思ひて、いぶかしうすれどをさをさゆるさせ給はず。宮いとあつくむつかしうおぼせど、大夫につといだかれ給ひて上の御手をとらへ、よろづに慰め聞えさせ給ふ。御氣色のあはれにかたじけなさををさなき御心におぼししるにやいとおとなしく念じ給ふ。かくて後程なくをこたらせ給ひぬればめでたく御心おちゐ給ひぬ。大方今年はなゐしげくふり、世の中さわがしきやうなれば、つゝしみおぼされて十月十五日より圓滿院の二品親王內にさぶらひ給ひて尊星〈勝イ〉王の御修法つとめ給ふに、二十日の宵二の對より火いできたりあさましともいはむかたなし。上下立ちさわぎのゝしるさま思ひやるべし。大宮の院も內におはしましける比にて、急ぎ出でさせ給ふ。御車の棟木にも既に火もえつきけるを又さしよせて春宮奉らせけり。その夜しも勾當の內侍里へいでたりければ、塗籠のかぎをさへもとめ失ひていみじき大事なりけるを、うへきこし召して荒らかにふませ給ひたりければ、さばかり强き戶のまろびてあきたりけるぞおそろしき。さなくばいとゆゝしき事どもぞあるべかりける。故院の御そぶんの入りたる御小唐櫃、何くれの御寶ことゆゑなくとり出だされぬ。それだにもあまり騷ぎて御かもん御うぶぎぬなどの入りたるものは燒けにけり。上はたごしにて押小路殿へ行幸なりぬ。法親王は「修法のつよきゆゑにかゝる事はあるなり」とぞのたまはせける。この四月に御わたましありつるに幾程なうかゝるはげにいみじきわざなれど、昔も三條院位の御時かとよ、大內つくりたてられて御わたましの夜こそやがて火出できて燒けにし事もあれば、これより重き大事もあるべかりけるに、よかはりたらむはいかゞはせむ。かくて今年もくれぬ。上はいよいよ世の中心あわたゞしうおぼされて、おりゐなむの御心づかひすめり。位におはしましては十五年ばかりにやなりぬらむ。いまだ三十にも遙に足らぬほどの御齡なれば今ぞさかりに若うきよらなる御ほどなめる。

     第十一 草まくら

文永十一年正月廿六日、春宮に位讓り申させ給ふ。廿五日の夜まづ內侍所劔璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二條內裏へ渡されけり。九條の攝政殿〈たゞいへ〉まゐり給ひて藏人めして禁色おほせらる。うへは八つにならせ給へばいとちひさくうつくしげにて、びんづらゆひて御引なほし、うち御ぞ、はりばかま奉れる御けしきおとなおとなしうめでたくおはするを花山院內大臣扶持し申さるゝを、故皇后宮の御せうと公守の君などはあはれに見給ひつゝ、故おとゞ宮などのおはせましかばとおぼしいづ。殿上に人々多く參り集まり給ひておものまゐる。その後上達部の拜あり。女房は朝餉よりすゑまで內大臣公親のむすめをはじめにて三十餘人なみゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ內侍所の御拜はじめられける。かくて新院、二月七日御幸はじめさせ給ふ。大宮院のおはします中御門京極實俊の中將の家へなる。御なほしから庇の御車、上達部殿上人のこりなくうへのきぬにて仕うまつらる。同じ十日、やがて菊の網代庇の御車奉り始む。この度は御烏ばう子直衣おなじ院へまゐり給ふ。同じ廿日ほういの御幸はじめ北白川殿へ入らせ給ふ。八葉の御車、萠木の御狩衣、山吹の二御ぞ、紅の御ひとへ、薄色の織物の御指貫たてまつる。本院は故院の御第三年の事おぼし入りて、む月のすゑつかたより六條殿の長講堂にて哀にたふとく行はせ給ふ。御指の血をいだして御手づから法華經など書かせ給ふ。衆僧も十餘人がほど召しおきて懺法などよませらる。御おきての思はずなりしつらさをもおぼし知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめと、いよいよ御心をいたしねんごろにけうじまうさせ給ふさまいとあはれなり。新院もいかめしう御佛事嵯峨殿にて行はる。三月廿六日は御即位めでたくて過ぎもてゆく。十月廿一日御禊なり。十九日官廳ヘ行幸あり。女御代花山院よりいださる。絲毛の車、寢殿の階の間に左大臣殿、大納言〈長雅〉よせらる。みな紅の五の衣、同じきひとへ車の尻よりいださる。十一月十九日又官廳へ行幸。二十日より五節はじまるべく聞えしをむくりおこるとてとまりぬ。廿二日大甞會。廻立殿の行幸節會ばかり行はれて淸暑堂の御神樂もなし。新院は世をしろしめす事かはらねば、よろづ御心のまゝに日頃ゆかしくおぼしめされし所々いつしか御幸しげう華やかにてすぐさせ給ふ。いとあらまほしげなり。本院は猶いとあやしかりける御身の宿世を人の思ふらむ事もすさまじうおぼしむすぼゝれて、世を背かむのまうけにて尊號をもかへし奉らせ給へば、兵仗をもとゞめむとて御隨身どもめして祿かづけいとま賜はするほど、いと心ぼそしと思ひあへり。大方のありさまうち思ひめぐらすもいと忍びがたき事多くて、內外人々袖どもうるひわたる。院もいと哀なる御けしきにて心づよからず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御ぐしおろし給ひしをだにさこそは誰も誰も惜み聞えしか。東の御方もおくれ聞えじと御心づかひしたまふ。さならぬ女房上達部の中にもとりわきむつまじうつかまつる人三四人ばかり御供つかまつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて私も物心ぼそう思ひ歎く家々あるべし。かゝる事どもあづまにも驚き聞えて、例の陣のさだめなどやうに、これかれあまた武士どもよりあひよりあひ評定しけり。この頃はありし時賴朝臣の子時宗相摸守といふぞ世の中はからふぬしなりける。故時賴朝臣は康元元年に頭おろしてのち忍びて諸國を修行しありきけり。それも國々のありさま人の愁など委しくあなぐり見聞かむの謀にてありける。あやしのやどりに立ちよりてはその家ぬしがありさまを問ひ聞き、ことわりある愁などのうづもれたるを聞きひらきては「我はあやしき身なれど、むかしよろしき主をもち奉りし。いまだ世にやおはすると消息奉らむ。もてまうでゝ聞え給へ」などいへば、なでふ事なき修行者の何ばかりかはとは思ひながら、いひあはせてその文をもちてあづまへ行きて、しかじかと敎へしまゝにいひて見れば入道殿の御消息なりけり。「あなかまあなかま」とて永く愁なきやうにはからひつ。佛神のあらはれ給へるかとて皆ぬかをつきて悅びけり。かやうの事すべて數しらずありしほどに國々も心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける、それが子なればにや今の時宗朝臣もいとめでたきものにて、本院のかく世をおぼし捨てむずるいとかたじけなく哀なる御事なり。「故院の御おきてはやうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさゞらむ。いかでかは忽ちに名殘なくはものし給ふべき。いとたいだいしきわざなり」とて新院へも奏し、かなたこなたなだめ申して東の御方の若宮を坊に立て奉りぬ。十一月五日節會行はれていとめでたし。かゝれば少し御心なぐさめてこのきはゝしひて背かせ給ふべき御道心にもあらねばおぼし留まりぬ。これぞあるべき事とあいなう世人も思ひいふべし。御門よりは今二つばかりの御このかみなり。まうけの君御年まされるためし遠きむかしはさておきぬ、近頃は三條院、小一條院、高倉院などや坐しましけむ。高倉院の御末ぞ今もかく榮えさせおはしませばかしこきためしなめり。いにしへの天智天皇と天武天皇とはおなじ御腹の御はらからなり。その御末しばしはうちかはりうちかはり世をしろしめしゝためしなどをも思ひや出でけむ、御二流れにて位にも坐しまさなむと思ひ申しけり。新院は御心ゆくとしもなくやありけめど、大方の人めには御中いとよくなりて御消息も常にかよひ、上達部などもかなたこなた參り仕うまつれば大宮院もめやすくおぼさるべし。まことや文永のはじめつ方下り給ひし齋宮は後嵯峨院の更衣ばらの宮ぞかし。院かくれさせ給ひて後御ぶくにており給へれど、猶御暇ゆりざりければ三とせまで伊勢におはしましゝが、この秋の末つかた御のぼりにて仁和寺に衣笠といふ所にすみ給ふ。月花門院の御次にはいとらうたく思ひ聞え給へりし昔の御心おきてをあはれにおぼしいでゝ、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。龜山殿におはします。十月ばかり齋宮をもわたし奉り給はむとて本院にも入らせ給ふべきよし御せうそこあれば、めづらしくて御幸あり。その夜は女院の御前にてむかし今の御物語などのどやかに聞え給ふ。又の日夕つけて衣笠殿へ御むかひに忍びたるさまにて、殿上人一二人御車ふたつばかり奉らせ給ふ。寢殿の南おもてに御しとねども引きつくろひて御對面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へればやがてわたり給ふ。女房に御はかしもたせて御簾の中に入りたまふ。女院はかうのうすにほひの御ぞ香染などたてまつれば、齋宮紅梅のにほひにえび染の御小袿なり。御ぐしいとめでたくさかりにて二十にひとつふたつやあまり給ふらむとみゆ。花といはゞ霞の間のかば櫻尙にほひ劣りぬべくいひしらずあてに美しうあたりも薰る御さましてめづらかに見えさせ給ふ。院はわれもかう亂れおりたる枯野の御狩衣、薄色の御ぞ、紫苑色の御指貫なつかしきほどなるをいたくたきしめて、えならずかほりみちてわたりたまへり。上﨟だつ女房、紫のにほひ五つに、もばかり引きかけて色の御車にまゐり給へり。神代の御物語などよき程にて故院のいまはの頃の御事などあはれになつかしく聞え給へば、御いらへもつゝましげなるものから、いぶせからぬほどに、ほのかに物うちのたまへる御さまなどもいとらうたげなり。をかしき樣なる御みき御くだ物、こはいひなどにて今宵ははてぬ。院も我が御方にかへりてうちやすませ給れへど、まどろまれたまはず。ありつる御面影心にかゝりておぼえ給ふぞいとわりなき。さしはへて聞えむも人ぎゝよろしかるまじ、いかゞはせむとおぼしみだる。御はらからといへど年月よそにておひたち給へれば、うとうとしくならひ給へるまゝに、つゝましき御思もうすくやありけむ、なほひたぶるにいぶせくて止みなむはあかず口をしとおぼす。けしからぬ御本性なりや。なにがしの大納言のむすめ御身近くめしつかふ人、かの齋宮にもさるべきゆかりありてむつましく參り馴るゝを召しよせて「なれなれしきまでは思ひよらず、唯少しけぢかきほどにて思ふ心のかたはしを聞えむ。かくをりよき事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかゞたばかりけむ、夢現ともなく近づき聞えさせ給へれば、いと心うしとおぼせど、あえかに消えまどひなどはし給はず、らうたくなよなよとしてあはれなる御けはひなり。鳥もしばしばおどろかすに心あわだゝしう、さすがに人の御名のいとほしければ夜深くまぎれいで給ひぬ。日たくるほどに大殿籠りおきて御文たてまつり給ふ。うはべは唯大かたなるやうにて、習はぬ御旅寢もいかになどやうにすくよかに見せて、中にちひさく、

  「夢とだにさだかにもなきかりふしの草のまくらに露ぞこぼるゝ」。

いとつれなき御氣色の聞えむ方なさにこそあめる〈如元〉。惱ましとて御覽じもいれず、しひて聞えむもうたてあれば、なだらかにもかくしてをこたらせたまへなど聞えしらすべし。さて御方々御臺など參りて、晝つかた又御對面どもあり。宮はいと耻かしうわりなくおぼされて、いかで見え奉らむずらむとおぼしやすらへど、女院などの御氣色のいとなつかしきに聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、たゞ大どかにておはす。今日は院の御けいめいにて善勝寺大納言隆顯ひわりごやうのもの色々にいと淸らに調じてまゐらせたり。三めぐりばかりはおのおのべちにまゐる。「その後あまりあいなう侍ればかたじけなけれど昔ざまにおぼしなずらへゆるさせ給ひてむや」と御けしきとり給へば、女院の御かはらけを齋宮まゐる。その後院きこしめす。御几帳ばかりをへだてゝ長押のしもへ西園寺大納言〈實兼〉、善勝寺大納言〈隆顯〉召さる。簀子にながすけ、爲方、兼行、すけゆきなどさぶらふ。あまた度ながれくだりて人々そぼれがちなり。「故院の御事の後はかやうの事もかき絕えて侍りつるに今宵はめづらしくなむ、心とけてあそばせ給へ」などうちみだれ聞え給へば、女房召して御箏ども搔き合せらる。院の御まへに御琵琶西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神樂うたひなどしてことごとしからぬしもおもしろし。こたみはまづ齋宮の御まへに院みづから御銚子をとりて聞え給ふに、宮いと苦しうおぼされてとみにもえうごき給はねば、女院「この御かはらけのいと心もとなく見え侍るめるに、こゆるぎのいそならぬ御さかなやあるべからむ」とのたまへば、「ばいたんの翁はあはれなり、おのが衣は薄けれど」といふ今樣をうたはせ給ふ御聲いとおもしろし。宮きこしめしてのち女院御盃をとり給ふとて「天子には父母なしと申すなれど十善の床をふみ給ふも賤しき身の宮づかへなりき。一こと報い給ふべうや」とのたまへば、さうなる御事なりやと人々めをくはせつゝ忍びてつきしろふ。「御まへの池なる龜岡に鶴こそむれゐてあそぶなれ」とうたひ給ふ。その後院きこしめす。善勝寺せれうの里をいだす。人々こゑ加へなどしてらうがはしき程になりぬ。かくていたう更けぬれば女院も我か御方に入らせ給ひぬ。かくてそのまゝのおましながら、かりそめなるやうにてよりふし給へば、人々もすこし退きて苦しかりつるなごりにほどなくねいりぬ。あすは宮も御かへりと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕なほむすばまほしき御心のしづめがたくて、いとさゝやかにおはする人の御ぞなどさる心して、なよらかなるをまぎらはしすぐしつゝ忍びやかにふるまひ給へばおどろく人もなし。何やかやとなつかしうかたらひ聞え給ふに、なびくとはなけれども、たゞいみじう大どかにやはらかなる御さましておぼしほれたる御けしきをよそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。ながき夜なれど更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名殘はいとあかぬ心ちしながら、きぬぎぬになり給ふほど女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。その後も折々は聞えうごかし給へど、さしはへてあるべき御事ならねばいとまどほにのみなむ、まくるならひまではあらずやおはしましけむ。あさましとのみつきせずおぼし渡るに、西園寺大納言忍びて參り給ひけるを、人がらもまめまめしくいとねんごろに思ひ聞え給へれば、御母代の人などもいかゞはせむにてやうやうたのみかはし給へば、ある夕つ方「內よりまかでむついでに又必ず參りこむ」とたのめ聞え給へりければ、その心して誰もまち給ふ程に、二條の師忠のおとゞ、いとしのびてありき給ふ道にかの大納言こせうなどあまたしていときらきらしげにて行き逢ひ給ひけるに、女宮の御許なればことごとしかるべき事もなしとおぼして、しばしかの大納言の車やりすぐしてむにいでむよと思して門の下にやりよせて、おとゞゑばう子直衣のなよらかなるにており給ひぬ。內には大納言の參り給へるとおぼして、例は忍びたる事なれば門の內へ車を引き入れて對のつまよりおりて參り給ふに、門よりおり給ふにあやしうと思ひながら、たそがれ時のたどたどしきほど何のあやめも見えわかで、妻戶をはづして人のけしき見ゆれば何となくいぶかしき心ちし給ひて中門の廊にのぼり給へれば、例のなれたる事にて、をかしきほどの童女房あゆみいでゝけしきばかりを聞ゆるを、おとゞはおぼえなきものからをかしとおぼしてしりにつきて入り給ふほどに、宮も何心なくうちむかひ聞え給へるに、おとゞもこはいかにとはおぼせど何くれとつきづきしう日頃の志ありつるよし聞えなし給ひて、いと淺ましう一かたならぬ御思ひ加はり給ひにける。大納言はこの宮をさしてかくまゐり給ひけるに、例ならず男の車よりおるゝ氣色見えければ、あるやうあらむとおぼして御隨身一人「そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて歸り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寢なれど、人の御氣色を見たまふもありつる大納言の車などおぼしあはせて、いかにもこの宮にやうあるなめりと心え給ふに、いとすきずきしきわざなり、よしなしとおぼせばふかさで出で給ひにける。殘し置き給へりし隨身このやうよく見てければ「しかじか」と聞えけるに、いと心うしとおぼえて、日頃もかゝるにこそはありけめ、いとをこがましう、かのおとゞの心の中もいかにぞやとかたがたにおぼし亂れて、かきたえ久しく音づれ給はぬをもこの宮にはかう殘りなく見顯されけむともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、たゞならぬ御氣色にさへ惱み給ふをも大納言殿は一すぢにしもおぼされねば、いと心やましう思ひきこえ給ひけるぞわりなき。されどもさすがおぼしわく事やありけむ、その御程の事どもゝいとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。異御腹の姬宮をさへ御子になどし給ふ。御そぶんもありけるとていくほどなくて弘安七年二月十五日に宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎きたまひけるとかや。まことや新院には一とせ近衞の大殿〈基平〉の姬君、女御にまゐり給ひにしぞかし。女御ときこえつるをこのほど院號あり、新陽明門院とぞきこゆめる。建治二年の冬の頃、近衞殿にて若宮生れさせ給ひにしかばめでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜などいまめかしくきこえて、御子もやがて親王の宣下などありき。

     第十二 老のなみ

建治三年正月三日、內のうへ御かうぶりしたまふ。十一にぞならせ給ふらむかし。御諱世仁ときこゆ。ひきいれは關白太政大臣殿兼平、理髮頭中將もとあき、御あげまき大炊御門大納言信嗣の君仕うまつられけり。御遊始まる。琵琶玄象今出川大納言實兼、和琴鈴鹿信嗣大納言、しやうのこと殿の大納言兼忠の君にて坐せしなめり。とんじき祿などの事常の如し。廿二日朝觀の行幸龜山殿へなりしかば、上達部殿上人例の色々のえり下襲、織物打物めでたくゆゝしかりき。御前の大井川に龍頭鷁首浮べらる。夜に入りて鵜飼どもめして篝火ともしてのせらる。御まへの御あそび地下の舞などさまざまのおもしろき事ども例の事なればうるさくて、さのみもえ書かず。同じ三月廿六日石淸水社へ行幸、四月十九日賀茂社へ行幸、孰れもめでたかりき。人々定めて記しおき給へらむとゆづりてとめ侍りぬ。春宮の御元服八月と聞えしを、奈良の興福寺の火の事により延びて十二月十九日にぞせさせ給ひける。十六日にまづ內裏へ行啓はなる。淸凉殿の東の廂に倚子をたてらる。御門も倚子につかせ給ふ。ひきいれは左大臣師忠、理髮春宮權大夫具守つとめらる。御諱煕仁と申しき。持明院殿より女房二なくきよらにしたてゝ十二人まゐる。東の御方も院の御車にて殿上人北面召次などいと美々しうて參り給へり。御門春宮いづれもいと美しき御ありさまなめり。新院は盡せず皇后宮のおはしまさましかばとのみしほたれがちに、思し忘るゝ世なき御心やなぐさむとこれかれまゐらすれど、をさをさなずらへなるもなし。新陽明門院も始は御おぼえあるやうなりしかど、次第にかれがれなる御事にて御ひとりねがちなり。故皇后宮の御はらからの中の君も御面かげや通ひたらむとなつかしさに忍びてねんごろにのたまひしかば參らせ奉り給へれど、いとしもなくて姬宮一所ばかりとり出で給へりしまゝにてやみにき。姬宮をば大宮院の御傍にぞかしづき聞え給ふ。かくて弘安元年になりぬ。十月ばかり又二條內裏に火出で來ていみじうあさまし。萬里小路殿はありし火の後又つくられて、今年の八月に御わたましにて新院すませ給へれど、內裏燒けぬればこの院又內裏になりぬ。うちつゞき火のしげさいと怖し。その頃大宮院いと久しくなやませ給へば、本院も新院も常にわたり給ひて夜などもおはしませば、異御腹の法親王姬宮たちなども絕えず御とぶらひにまうでさせ給ふ。中に故院の位の御時、勾當の內侍といひしが腹に出でものし給へりし姬宮、後には五條院と聞えしいまだ宮の御程なりしにや、いと盛にうつくしげにてせちにかくれ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけてうかゞひ聞え給ふ程に、此の御惱の頃いかゞありけむ、いみじう思の外にあさましとおぼしなげく。かの草枕よりはまことしうにがにがしき御事には姬宮までいでき〈如元〉せ給ひにき。限なく人目をつゝむ事なればあやしう誰が御腹といふ事もなくて、院の御乳母の按察の二位の里にわたし奉り給へり。幼なき御心にもいかゞ心え給ひけむ、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひきこゆれば「いはぬ事」とのみぞいらへさせ給ひける。御心のあくがるゝまゝに御覽じすぐす人なく亂りがはしきまでたはれさせ給ふ程に、腹々の宮たち數しらず出で來給ふ。大かた十三の御年より宮はいできそめさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へばいとらうがはしきまでぞあるべき。故皇后宮の御ざうしにて貫川といひし、御りやうとかや聞ゆる社の神子にてぞありける。先にも聞えしやうに位の御程に度々召されて姬宮生れ給へりしを、それも御乳母の按察の二位殿の里にかの五條院の御腹のと二所おなじ御かしづきぐさにておはせしほどに、近衞殿〈へまイ有〉いらせ給ひぬれば、殿はもとおはせし北政所をもすさめ給ひてこの宮を類ひなく思ひ聞えさせ給ふ程に、かひがひしく若君〈左大臣つねひら〉いで來給へるをもいみじうかしづきいたはり給ひて、前の北政所の御腹の太郞君中將ばかりにて物し給ふをもよくせずばおしのけぬべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、「いといとほしき事なり。これはいまだ兒なり。も〈ちイ〉とおとなしうなり給へるをばいかでか引き違へるやうはあらむ」とのたまはせて、そのおとゞは遂に御家もたもたせ給へりしなり。また北白川殿の女院に大納言の君とてさぶらひし人の曹司に下野といひしものは、田樂とかやいふ事するあやしの法師の名をば玄駒といふがむすめなりき。かの女院は新院の御母代にて、常に御幸もなりしかばおのづから御覽じそめけるにや、ことの外に時めきいでゝこの院に召し渡されて、花山院のおほきおとゞの御子になされ、廊の御方とぞつけさせ給ふ。その御腹にも宮生れ給ひぬ。大宮女院に讃岐とて侍らひしは西園寺の御家のもの景房といひしが女なりしを、いみじうおぼいてこれも召しとりて、西園寺おとゞの御子になして二品の加階たまはる。若宮うまれ給ひにき。帥の中納言爲經のむすめの帥典侍どのといひしが御腹にもあまた生れ給ふ。九條殿の北政所、又梨本、靑蓮院法親王など大納言典侍の御腹照慶門院は中納言典侍、十樂院慈道法親王は帥典侍殿の腹、かやうにすべて多くものし給ふ。昔の嵯峨天皇こそ八十餘人まで御子も給へりけると承り傳へたるにもほとほと劣り給ふまじかめり。內にはなかなか女御更衣もさぶらひ給はず、いとさうざうしき雲のうへなり。「西園寺女御參り給ふべしと聞えながらいかなるにかすがすがともおぼしたゝぬは思ふ心おはするなめり」とぞ世の人もさゞめきける。新院の御位の時參り給へりし西園寺の中宮は院號ありて今出川ときこゆなり。「かの御おぼえなどのいと口をしかりしより、この院の御方ざまをつらく思ひ聞え給ふなめり」などぞいひなす人も侍りけるとぞ。やよひの末つかた、持明院殿の花ざかりに新院渡り給ふ。鞠のかゝり御覽ぜむとなりければ、御まへの花は梢も庭もさかりなるによその櫻をさへ召してちらしそへられたり。いとふかう積りたる花の白雪跡つけがたう見ゆ。上達部殿上人いと多く參りあつまり、御隨身北面の下﨟などいみじうきらめきて侍ひあへり。わざとならぬ袖口どもおし出だされて心ことに引きつくろはる。寢殿の母屋におまし對座に設けられたるを新院入らせ給ひて「故院の御時定めおかれしうへは今さらにやは」とて長押の下へひきさげさせ給ふ程に、本院いでたまひて「朱雀院の行幸にはあるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日の御幸には御座をおろさるゝいとことやうに侍り」など聞え給ふほどいとおもしろし。うべうべしき御物語はすこしにて花の興にうつりぬ。御かはらけなどよきほどの後、春宮〈伏見殿〉おはしまして、かゞりの下に皆立ちいで給ふ。兩院春宮たゝせ給ふ。中半過ぐる程に、まらう人の院のぼり給ひて御したうづなどなほさるゝほどに、女房別當の君、また上﨟だつ久我のおほきおとゞのうまごとかや、かば櫻の七紅のうちきぬ、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すゞしの袴にて、しろがねのさかづきやないばこにすゑて同じひさげにて柿ひたしまゐらすればはかなき御たはぶれなどのたまふ。暮れかゝる程風少しうち吹きて花もみだりがはしく散りまがふに、御鞠數多くあがる、人々の心ちいとえんなり。ゆゑある木陰に立ち休らひ給へる院の御かたちいと淸らにめでたし。春宮もいと若ううつくしげにて、濃き紫の浮織物の御指貫、なよびかにけしきばかり引きあげ給へれば、花の絲白く散りかゝりてもんのやうに見えたるもをかし。御覽じあげて一枝おしをり給へるほど繪に書かまほしき夕ばえどもなり。その後も御みきなどらうがはしきまできこしめしさうどきつゝ、夜ふけて歸らせたまふ。六條殿の長講堂も燒けにしを造られて、その頃御わたましし給ふ。う月のはじめつかたより院のうへひさしの御車にて上達部殿上人御隨身えもいはずきよらなり。女院の御車に姬宮もたてまつる。出車あまた皆白きあはせの五つぎぬ、濃き袴おなじひとへにて、三日過ぎてぞいろいろの衣ども藤躑躅撫子など着かへられける。しばしこの院にわたらせ給へば人々たえず參り集ふ。西園寺の殿ばらなども日ごとに參りたまふ。御壺わかたせ給ひて前栽合ありしにもをかしうめづらしき事ども多かりき。なにがしの朝臣の槇の島のけしきを造りて侍りけるを、平大納言經親いまだ下﨟にて兵衞佐などいひける程にや、その宇治川の橋をぬすみてわがつくろひたるかたに渡して侍りける、いとおそろしく心がしこくぞ侍りける。例の五月のくうげ、やがてうち續きければ女院たち宮々など夜の御時に閼伽奉らせ給へば、御堂のかをりみやうがうの香も外には多くまさりていとしみふかうなまめかしう面白し。大かたいづれも年に二たびはむかしよりの事にて、いみじうけいめいし給へば、世の人のなびき仕うまつるさまかぎりなし。日に二たび院いいで居させ給ふに、關白大臣以下やんごとなき人々絕えずさぶらひ給ふ。大中納言、二位三位、非參議、四位五位などはましてかずしらず。すべて前の司の人の道などもまゐる事なれば、時ならぬ院の御前ともなくいみじう華やかにおもしろうたふとし。昔の後二條關白師道と聞えしは、おりゐの御門の門に車の立つべき事なしとそしり給ひけるに、今の世を見給はゞと思ひ出でらる。九月の供花には新院さへわたりものし給へば、いよいよ女房の袖口心ことに用意くはへ給ふ。御花はつれば兩院ひとつ御車にて伏見殿へ御幸なる。秋山の景色御らんぜさせむとなりけり。上達部殿上人かなたこなたおしあはせていろいろの狩衣すがた菊紅葉こきまぜてうちむれたる、見所おほかるべし。野山のけしき色づきわたるに伏見山田面につゞく宇治の川浪、はるばると見わたされたるほどいとえんなるを、若き人々などは身にしむばかり思へり。故鷹司殿の大殿も參り給ふべしと聞えけるを、御物忌とてとまり給へれば五葉の枝ににつけて奏せられける、

  「伏見山いくよろづ代も枝そへてさかえむ松のすゑぞ久しき」。

御かへし、

  「さかふべきほどぞ久しき伏見山おひそふ松の枝をつらねて」。

又の日は伏見の津にいでさせ給ひて鵜舟御らんじ、白拍子御船にめし入れて歌うたはせなどせさせ給ふ。二三日おはしませば、兩院の家司共我おとらじといかめしき事ども調じてまゐらせあへる中に、やまもゝの二位兼行、ひわりごどもの心ばせありて仕うまつれるに雲雀といふ小鳥を萩の枝につけたり。源氏の松風の卷を思へるにやありけむ、爲兼朝臣を召して本院「かれはいかゞ見る」と仰せらるれば「いと心え侍らず」とぞ申しける。まことに定家の中納言入道が書きて侍る源氏の本には萩とは見え侍らぬとぞうけたまはりし。かやうに御申いとよくて、はかなき御遊わざなどもいどましきさまに聞えかはし給ふを、めやすき事になべて世の人も思ひ申しけり。ある時は御小弓射させ給ひて「御負わざには院の內にさぶらふかぎりの女房を見せさせ給へ」と新院のたまひければ、童の鞠蹴たるよしをつゞりなして、女房どもに水干着せて出だされたる事も侍りけり。新院の御のり物には龜山殿にて五節のまねに舞姬童下仕までになされけり。上達部直衣にきぬ出して露臺の亂舞、御前のめし、北の陣推參まで盡され侍りとぞ承りし。この御代にもまた勅撰のさたをとゝしばかりよりはべりし。爲氏大納言撰ばれつる。このしはすにぞ奏せられける。續拾遺集と聞ゆ。「たましひあるさまにはいたく侍らざめれど、艷には見ゆる」と時の人々申し侍りけり。續古今のひきうつしおぼろげの事は立ちならび難くぞ侍るべき。かくて年もかはりぬ。その頃新陽明門院又唯ならずおはしますと聞えし。五月ばかり御けしきあれば珍らしうおぼす。ないない殿にてせさせ給へば天下の人々まゐりつどふ。前の度生れさせ給へる若宮はかくれさせ給ひにしを新院本意なしとおぼされけるに、又かくものし給へば、めでたう思ふさまなる御事もあらばと今よりおぼしかしづくに、いとかひがひしう若宮生れさせ給へればかぎりなくおぼさる。八月御子の御ありきぞめとて萬里小路殿に渡らせ給ふ。唐廂の御車に後嵯峨院の更衣腹の姬宮、聖護院の法親王のひとつの御腹とかや、御母代にてそひ奉り給ふ。又三條の內大臣公親の御むすめ內の上の御乳母なりしもめでたき御あえものとて御車にふたり乘りたまふ。女院は院のうへひとつ御車に菊のあじろのひさしに奉る。宮の御車にやりつゞけてよそほしくめでたき御事なり。その頃儉約行はるとかや聞えし程にて下簾垂みじかくなされ小金物拔かれける。物見車どものも召次よりて切りなどしけるをぞ「時しもやかゝるめでたき御事のをりふし」などつぶやく人もありけるとかや。この宮も親王の宣旨ありていとめでたく聞えしほどに、明くる年九月又かくれさせ給ひにしいと口をしかりし御事なり。弘安も四年になりぬ。夏頃後嵯峨院の姬宮かくれさせ給ひぬ。後の堀川院の御むすめにて神仙門院と聞えし女院の御腹なれば故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなく美くしうおはしまして「人の國より女の本を尋ねむにはこの宮の似せ繪をやらむ」などぞ父の御門もおほせられける。御めのと隆行の家におはしましける程に、御めのと子隆やすしのびて參りける故にあさましき御事さへいできて、これも御うみながしにて俄にうせさせ給ひにけりとぞ聞えし。その頃蒙古おこるとかやいひて世の中騷ぎたちぬ。色々さまざまに恐しう聞ゆれば、「本院新院はあづまへ御下りあるべし。內春宮は京に渡らせ給ひて東の武士ども上りさふらふべし」など沙汰ありて山々寺々御いのりかずしらず。伊勢の勅使に經任大納言まゐる。新院も八幡へ御幸なりて西大寺の長老召されて眞讀の大般若供養せらる。大神宮へ御願に我が御代にしもかゝる亂出できて、まことにこの日本のそこなはるべくは御命をめすべきよし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院いとあさましき事なりと猶諫め聞えさせ給ふぞことわりにあはれなる。あづまにもいひしらぬ祈どもこちたくのゝしる。故院の御代にも御賀の試樂の頃かゝる事ありしかど程なくこそしづまりにしを、この度はいとにがにがしう牒狀とかやもちて參れる人などありて、わづらはしう聞ゆれば、上下思ひ惑ふ事限りなし。されども七月一日おびたゞしき大風吹きて、異國の船六萬艘兵乘りて筑紫へよりたる皆吹き破られぬれば、あるは水に沈み、おのづから殘れるもなくなく本國へ歸りにけり。石淸水の社にて大般若供養說法いみじかりける刻限に、晴れたる空に黑雲一むら俄に見えてたなびく。かの雲の中より白き羽にてはぎたるかぶら矢の大なる西をさして飛び出でゝ鳴る音おびたゞしかりければ、かしこには大風の吹きくると兵の耳には聞えて、浪荒くたち海の上あさましくなりて皆沈みにけるとぞ。猶吾が國に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ。さて爲氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申しおくりける。

  「勅をしていのるしるしの神風によせくる浪はかつくだけつゝ」。

かくてしづまりぬれば、京にも東にも御心どもおちゐてめでたさかぎりなし。かの異國の御門心うしとおぼして湯水をもめさず「我いかにもしてこの度日本の帝王にうまれて、かの國を亡す身とならむ」とぞちかひて死に給ひけるとぞ聞き侍りし。まことにやありけむ。おなじ六年正月六日、日吉社の訴詔勅裁なしとて御輿は都へ入らせ給ふ。六波羅の武士どもけしきばかり防ぎ奉りけれど、まめやかには神にむかひ奉りて弓いるものもなければ、紫宸殿淸凉殿などにふりすてまゐらせて山法師はのぼりぬ。御門は急ぎ對屋にいでさせ給ひて腰輿にて近衞殿へ行幸なる。殿上人ども柏ばさみして仕うまつりけり。七日の節會もまほには行はれず。それより三條坊門富〈萬里イ〉小路の通成のおとゞの家へ行幸なりてしばし內裏になりし時、富〈萬里イ〉小路おもての四足はたてられ〈侍りイ有〉き。かゝりし程に、この家に石淸水の若宮を祝ひまゐらせたる社おはしますに狐多く侍りけるを、瀧口のなにがしとかや過ちたりける御とがめにてよろづわづらはしくかうかうしき事どもありければ萬里小路殿へ歸らせ給ひにき。この御門はねび給ふまゝに、いとかしこく御才など勝れさせ給へれば、なべて世の人もめでたき事に思ひきこゆ。はかばかしき女御后などもさぶらひ給はでいとつれづれなるに、新陽明門院の御かたに堀川の大納言の御むすめ、東の御方とてさぶらひ給ふを忍び忍び御覽じける程に、弘安八年二月ばかり若宮いでものし給へり。いとやんごとなき御宿世なるべし。今年北山の准后九十にみち給へば御賀の事大宮院おぼしいそぐ。世の大事にて天下かしがましくひゞきあひたり。かくのゝしるは安元の御賀に靑海波舞ひたりし隆房大納言の孫なめり。鷲尾の大納言隆衡のむすめぞかし。大宮院東二條院の御母なれば兩院の御祖母おほきおとゞの北の方にて天の下皆このにほひならぬ人はなし。いとやんごとなかりける御さいはひなり。むかし御堂殿の北の方鷹司殿と聞えしにも劣り給はず、大方この大宮院の御宿世いとありがたくおはします。すべていにしへより今まで后國母おほく過ぎ給ひぬれど、かくばかりとり集めいみじきためしはいまだ聞き及び侍らず。御位のはじめより選ばれまゐり給ひて、爭ひきじろふ人もなく、三千の寵愛一人にをさめ給ふ。兩院うちつゞきいでものし給へり。いづれもたひらかに思ひのごとく二代の國母にて今は既に御うまごの位をさへ見給ふまで、聊も御心にあはずおぼしむすぼるゝ一ふしもなく、めでたくおはしますさまきし方もたぐひなく行く末にも稀にやあらむ。いにしへの基經のおとゞの御むすめ、延喜の御代の大后宮、ことにかなしうし給ひし前坊におくれ聞え給ひて、御命の中はたへぬ御歎つきせざりき。九條のおとゞ〈師輔〉の御むすめ、天曆の后にておはせし、冷泉、圓融兩代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉り給はず御門にも先だち給ひてうせ給ひにき。御堂の御むすめ上東門院、後一條、後朱雀の御母にて御孫後冷泉、後三條まで見奉り給ひしかども皆先立たせ給ひしかばさかさまの御歎絕ゆる世なく、御命あまりながくて中々人目をはづる思ひ深くおはしましき。これも皆一の人にて世の親となり給へりしだに、やうをかへてさまざまの御身のうれへはありき。たゞ人には大納言公實の御むすめこそ待賢門院とて崇德院後白河の御母にておはせしかど、それも後白河の御世をば御覽ぜず讃岐の院の御末もおはしまさず。されば今のやうにたゞ人の御身にて三代國のおもしといつかれ、兩院とこしなへに仰ぎ捧げ奉らせ給へば、さきの世もいかばかりの功德おはしまし、この世にも春日大明神をはじめよろづの神明佛陀の擁護厚くものし給ふにこそ。ありがたくぞ推し量られ給ふ。かくて御賀は二月三十日ごろなり。本院、新院、東二條院、遊義門院〈いまだ宮と申す。〉皆かねてより北山に渡らせ給ふ。新陽明門院も新院の一つ御車にておはします。廿九日の夜まづ行幸あり。雅樂司、樂を奏す。院司左衞門督公衡事のよし申してのち中門によせらる。その後春宮行啓、門よりおりさせ給ふ。傅のおとゞ二條御車に參り給へり。その日になりぬれば寢殿の東おもての母屋廂までとりはらひて釋迦如來の繪像かけたてまつる。道塲のかざり、まことの淨土の莊嚴もかくこそとめでたく淸らをつくされたり。御經の筥二合、金泥の壽命經九十卷法華經入れらる。名香柳の織物に藤をぬひたるにてつゝみて御經の机によせかく。御簾のうちに西の一間に繧繝二帖唐錦のしとねしきて內の上の御座とす。おなじ御座の北に大文のかうらい一帖敷きて春宮渡らせ給ふ。西の庇にこれも屛風をそへて、繧繝二帖唐錦のしとねに准后居給へり。同じ庇に東二條院わたらせ給ふ。はるばるとかうけつの几帳のかたびらをいだして、色々の袖口ども御方々けぢめわかれておし出でたるほど、立田姬もかゝる錦の色はいかでかはといみじう好ましげなり。事なりぬるにや、兩院、御門、春宮、大宮院、二條院、今出川院、春宮大夫などうちつゞき誦經の鐘のひゞきも耳驚くばかり所せうきこゆ。衆僧集會の鐘うちて後上達部御前の座に着く。階より東に關白左大臣、內大臣、花山院大納言〈長雅〉、源大納言〈通賴〉大炊御門大納言〈信嗣〉、右大將〈通基〉、春宮大夫〈實兼〉、左大將〈公守〉三條中納言〈實重〉、花山院中納言家敎、左衞門督公衡など侍ひたまふ。階より西に四條前〈四辻殿イ〉大納言〈隆親〉、春宮權大夫〈具守〉、權中納言〈宗冬〉四條宰相隆保、右衞門督爲世など祇候せられたり。內の上御引直衣、すゞしの御袴、本院御烏ばう子直衣、靑にびの御指貫、新院御なほし、あやの御指貫、春宮さくらの御直衣、あられにくわんのもん紫の御指貫いひしらずなまめかしう見えたまふ。今日はみな御簾の內におはします。大宮女院白き綾の三つ御衣、東二條院から織物の柳櫻の八つ紅梅のひねりあはせの御ひとへ、かばさくらの御小袿奉れり。姬宮紅のにほひ十紅梅の御小袿、萠黃の御ひとへ、赤色の御からぎぬ、すゞしの御袴たてまつれる常よりもことに美くしうぞ見えたまふ。おはしますらむとおもほすまのとほりに內のうへ常に御まじりたゞならず御心づかひして、御目とゞめたまふ。樂人舞人鳥向樂を奏す。けいろうを先だてゝ亂聲左右桙をふる。その後一越調の調子を吹きて樂人舞人、衆僧集會の所〈時イ〉にむかひて安樂鹽をふく。衆僧左右にわかれてまゐる。階の間よりのぼりて座につく。講師法印憲實、讀師僧正守助、導師高座にのぼりぬれば堂童子花籠をわかつ。杖とりの使公敦朝臣、杖を退けて舞を奏するほど、けしきばかりうちそゝぎたる春のあめ靑柳の絲に玉ぬくかと見えたり。一の舞久助といふものすこしねびて、いとよしよししうおもゝちあしぶみかうさびておもしろし。萬歲樂、賀殿、陵王、右地久、延喜樂、納會利、久忠二の物にて勅錄〈祿歟〉の手といふ事仕うまつる時、右のおとゞ座を立ちて、賞おほせらるればうけたまはりて拜し奉る程いと艷なり。久助正秋などいふものどもゝ賞うけたまはりて笛をもちながらおきふし拜するさまもつきづきしうゆゑありて見ゆ。講讃のことばめでたういみじ。今の世には富樓那尊者の如くいはるゝものなれば、心とゞめて人々聞き給ふに淚とゞめがたき事どもをいひつゞく。高座はてゝのち、樂人酒胡子を奏す。その程に僧の祿をたまふ。頭中將公敦よりはじめて思ひ思ひのすがたにて祿をとる。あるはわきあけにひらやなぐひもとほしの袍に革總の劔などこゝろごゝろなり。俊定經繼などは巡方の帶をさしたり。衆僧まかりつる程に、廻忽長慶子奏して樂人舞人も退きぬる後、大宮院准后の御臺まゐる。陪膳權中納言、役送實時、實冬、實躬、信輔、俊光など仕うまつる。かくて又の日はやよひの一日なりぬ〈如元〉。寢殿のよそひ昨日のまゝなり。舞臺樂屋ばかりをとりのけて母屋の四方に壁代をかく。兩院內の上の御簾の役關白さぶらひ給ふ。春宮のは傅遲く參り給へば大夫實兼つとめ給ふ。內のうへ今日は例の御直衣、紅の打ちたる錦厚き御ぞ、織物の御指貫いとめでたき御にほひなり。本院かた織物の薄色の御指貫、少し薄らかなる御直衣、新院雲に鶴の浮織物の御直衣、おなじ御指貫、紅の今すこし色かはれるを奉れるあらまほしき程にねびとゝのほりしうとくにものものしき御さまかたちあなきよげ、今ぞ盛に見え給ふ。春宮は色濃き御直衣、浮線綾の御指貫、紅の打ちたるあはせ奉れり。とりどりにめでたくきよらにおはします。御かたちどものいづれとなく、あな美くしとうち見奉る人の心ちさへそゞろにゑまし。大宮院などはまして何事をかはおぼさるらむとおしはかられ給ふ。かなたこなたの御隨身ども近くさぶらひつるを、院いでさせ給ひぬれば退きて御階の西になみゐたる、裝束ども色々の花をつけ高麗唐土のあやにしき、こがねしろがねをのべたるさまいとあまりうたてある程にぞ見ゆる。今日は內、春宮、兩院おもの參る。陪膳花山院大納言、役送四條宰相、三條宰相中將、本院の陪膳大炊御門大納言信嗣、新院のは春宮大夫などつとめらる。その後御あそび始まる。內のうへ御笛柯亭といふものとかや、御筥に入れたるを忠世もちてまゐれるを關白とりて御前に奉らる。春宮御琵琶牧馬、宮權亮親定もちてまゐりたるを大夫御前におかる。上達部の笛の箱別にあり。笛兵部卿〈良敎〉、花山院大納言〈長雅〉、笙源大納言〈通賴〉左衞門督、篳篥兼行朝臣、琵琶春宮大夫、琴洞院左大將、三位中將〈實泰〉、和琴大炊御門大納言、拍子德大寺中納言〈公基〉末拍子實冬、みな人々直衣にいろいろの衣をいだす。例の安名尊、席田、鳥破急、律靑柳、萬歲樂、三臺急、御遊はてぬれば殿上の五位ども參りて管絃の具をわかつ。御方々かうぶりたまはり給ふ。道々の師ども加階たまはる。その後和歌の披講はじまる。爲道朝臣もとほしの袍に壺おひて弓に懷紙をとりぐして、上達部の座のま〈うイ〉へをとほりて階の間より入りて文臺の上におく。その外の殿上人どもの歌はひとつにとり集めて信輔一度に文臺におく。文臺の東に圓座をしきて春宮披講のほど渡らせ給ふ。內宴などいふ事にぞかくはありけると、ふるきためしもおめしろくこそ。上達部みないろいろの衣をいだす。右大將〈通基〉魚綾の山吹の衣着たまへり。笏に歌をもち具したまふ。內のうへの御歌は殿ぞかき給ひける。

  「行く末をなほながき世と契るかなやよひにうつるけふの春日に」

新院の御製は內大臣かきたまふ。

  「百色といまや鳴くらむうぐひすもこゝのかへりの君がはるへて」。

春宮のは左大將にかゝせらる。

  「かぎりなきよはひはいまだ九十なほ千世とほき春にもあるかな」。

製に應ずと上文字載せられたるも內宴のためしとかや。次々例のおほけれどむづかしくてもらしつ。春宮大夫こそいとうけばりてめでたく侍りしか。

  「代々の跡になほ立ちのぼる老の波よりけむ年はけふのためかも」。

その後東向のまりのかゝりある方へ渡らせ給ふ。御方々の女房いろいろのきぬ、昨日には引きかへてめづらしき袖口を思ひ思ひにおしいでたり。紫のにほひの山吹、あをにほひの薄紅梅、櫻萠黃などは女院の御あかれ、內の御方は內侍典侍よりしも皆松襲しろかうし、うら山吹、院の御方えびぞめにしろすぢ、かばざくらの靑すぢ、春宮の女房うへ紫かうし柳などさまざまにめもあやなる淸らを盡されたり。おなじ文も色もまじらず、こゝろごゝろにかはりていみじうぞ侍りける。後嵯峨院、蓮華王院御幸ありし時、兩貫首おなじやうに藤の下重山吹のうへの袴なりしをばいと念なき事に世の人もいひ侍りしにや、御方々の女房ども、八十餘人おしこみてさぶらはるゝ、いづれともなく目うつりしていみじうかたちもけしきもめやすくもてつけたり。後鳥羽院建仁のためしとて新院御上、鞠三足ばかりたゝせ給ひて落されぬ。內のうへ御直衣、紺地の御袴、始めは御草鞋を奉りけれど、後には御沓かたあしかはりの御したうづ、あゐしら地、竹紫、白地桐の紋、紫革の御ゆひをなり。春宮御直衣紫の御指貫、おなじ色革の御したうづ、新院織物の御直衣、御指貫、紋なき紫の御したうづ、關白殿紋なきふすべ革、內のおとゞ紫革に菊をぬひたり。藤大納言爲氏無紋のふすべ革、その外色々錦皮、藍皮、藍白地おのおのけぢめわかるべし。爲兼紫革、爲道は藍しらぢなりけり。爲兼とは爲氏の大納言のをとゝ兵衞督爲敎といひしが子なり。爲道は大納言の孫爲世の太郞なり。はなれぬ中にていといたくいどみかはしたり。內のうへは白骨の御扇左の御手にもたせ給ひて、花のいみじくおもしろき木陰に立ちやすらひ給へる御かたちいとゆゝしきまで淸らに見え給ふ。飽かず名殘おほくおぼさるれど、春の司召御燈などいふ事どもあれば行幸はこよひ歸らせ給ふ。御贈物に御本まゐる。明くる日午の時ばかり寢殿より西園寺まで筵道しきて兩院御ゑぼうし直衣春宮御くゝりあげて堂々拜ませ給ふ。左衞門督新院の御はかせもたまへり。權亮親定春宮の御はかせもたれたり。妙音堂に御まゐりあるに、遲き櫻一本ほころびそめて今日の御幸を待ちがほなり。佛の御まへにかりそめの御ましながら皆渡らせたまふ。庇に上達部つきて御遊の具めす。笛花山院大納言、笙左衞門督、篳篥兼行、春宮御琵琶、大夫箏、大鼓具顯、鞨鼓範藤、盤涉調にしらべとゝのへて採桑老、蘇合、白柱、千秋樂などいみじうおもしろし。うるはしき事よりもなかなかえんなり。兼行、「花上苑明なり」と打ちいだしたるに、いとゞ物の音もてはやされてえもいはずきこゆ。具顯範藤など「羅綺重衣」と二返ばかりいへるに「情なき事を機婦にねたみ」と本院くはへ給へば新院御聲たすけ給ふほどそゞろ寒きまで艷なり。歸らせ給ひても又昨日の花のかげにて鞠御覽ぜられつゝ、それよりやがて御船に奉りておしいでたれば遙なる海づらに漕ぎ離れたらむ心ちしていとをかし。小き船に上達部乘りてはしにつけられたり。ありつる妙音堂の調子をうつされてありつるおなじ人々つかうまつる。春宮また御琵琶箏のことは右衞門督といふ女房御船にまゐれるに彈かせらる。船の中のしらべはいとえんなり。蘇合の五帖、輪臺、靑梅波、竹林樂、越殿樂など幾返ともなくおもしろし。兼行「山又山」などうちずんじたるに「變態繽紛たり」と兩院あそばしたるに、水の底もあやしきまで身の毛だちぬべくきこゆ。中島に御船さしとめて見れば、舊苔年ふりたる松が枝さしかはせる岩のたゝずまひいとくらかりたるに、池の水なみ心のどかに見えて名もしらぬ小鳥どもみだれ飛ぶけしき何となくをかし。遠きさかひに望める心ちするに、めぐれる山の瀧つ岩根遙にかすみて見渡さるゝほど、やまびとの洞もかくやとぞおぼゆる。「二〈三イ〉千里の外の心ちこそすれ」などのたまひて、新院、

  「雲のなみ煙の浪をわけてけり」。

たれにかあらむ女房の中より、

  「ゆくすゑとほき君がみ代とて」。

春宮大夫、

  「昔にもなほたちこゆるみつぎ物」。

具顯の中將、

  「くもらぬかげもかみのまにまに」。

春宮、

  「九十になほもかさぬる老のなみ」。

本院、

  「たちゐくるしき世のならひかな」。

暮れはつるほどに釣殿へ御船寄せておりさせ給ひぬ。春宮こよひ歸らせ給へば御贈物に和琴一つ奉らせ給ふ。まことや准后にもけいくわ和尙の三衣、紺地の錦につゝみてしろがねの箱に入れてまゐる。いづれも大宮院の御沙汰なり。掃部寮火しげうともしてうち群れつゝ居たるさまもなまめかしうみやびかなり。こゝかしこにもこの御賀のことども書きつけしるす人のみぞ多かめれば片はしだにいとかたくならむとあさまし。何となく過ぎ行くほどに弘安も十年になりぬ。この御門位に即かせ給ひて十三年ばかりになりぬらむ。本院待遠におぼさるらむといとほしく推し量り奉るにや、例の東より奏する事あるべし。新院の御方ざまには心ぼそうきこしめしなやむべし。去年の春御乳母の按摩の二位殿うせにしかば、一めぐりの佛事に龜山殿へおはしましていかめしう八講行はせたまふ日、雪いたう降りければ、九條三位隆博檜扇のつまを折りて、

  「跡とめてとはるゝ御代のひかりをや雪の中にもおもひいづらむ」。

女房の中にきこえたるを院御らんじてかへしにのたまふ。

  「なき人のかさねし罪もきえねとて雪のうちにもあとをとふかな」。

よろづ飽かずおぼさるゝほどなれど、その年の十月におりゐさせ給ふ。もとのうへは廿一にぞならせ給ひける。御本性もいとうるはしくのどめたるさまにおぼして、すくよかに御才もかしこうめでたうおはしませば、御政事などもやうやうゆづりや聞えましなどおぼされつるに、いとあへなくうつろひぬる世をすげなく新院はおぼさるべし。春宮位に即き給ひぬれば天下本院におしうつりぬ。世の中おしわかれて人の心どもゝかゝるきはにぞあらはれける。今の御門にも故山階のおとゞの御うまごにてわたらせ給へば、かの殿ばらのみぞいづ方にもすさめぬ人にておはしける。

     第十三 けふの日影〈五字イ無〉

正應元年三月十五日官廳にて御即位あり。このほどは香園院の左のおとゞ師忠關白にておはしき。その後近衞殿〈家基〉、又九條左大臣殿〈忠敎〉、その後又近衞殿かへりなり給ひき。猶後に歡喜園院などいとしげうかはり給ふ。おりゐの御門を今は新院ときこゆれば、太上天皇三たり世におはします頃なり。いとめづらしく侍るにや。御門の御母三位したまふ。その御はらからの姬君御傍にさぶらひ給ふを、うへいと忍びたる御むつびあるべし。「東二條院の御ためしにや」などさゞめく人もあれど、さばかりうけばりてはえしもやおはせざらむ。三位殿の御せうとの公守の大納言の姬君もをさなくよりかしづきて侍ひ給ふ。それもよそならぬ御契なるべし。この君をぞ父の殿もいとうるはしきさまにても參らせまほしうおぼしつれど、西園寺の大納言實兼の姬君いつしか參り給へばきしろふべきにもあらず。その年六月二日入內あり。その夜まづ御もぎしたまふ。「さきの御代にもあらましは聞えしかど、いかなるにかさもおはせざりしに、いつしかかうもありけるは猶おぼす心ありけるなめり」とうちつけにひがひがしういひなす人も侍りける。この姬君の母北の方は三條坊門通成の內のおとゞのむすめなり。さぶらふ人々もおしなべたらぬかぎりえりとゝのへ、いみじう淸らにとおぼしいそぐ。よろづ人の心も昨日に今日はまさりのみゆくめれば、いやめづらにこのましうめでたし。大かた大宮院の御まゐりの例をおぼしなずらふべし。院の御子にこれも又なり給ふとて東二條院御こしいはせ給ひて時なりぬれば唐廂の御車にたてまつりて上達部十人、殿上人十餘人、本所の前驅二十人、つい松ともして御車の左右にさぶらふ。出車十輛、一の左に母北の方の御妹一條殿、右に二條殿、實顯の宰相中將のむすめを大納言子にし給ふとぞ聞えし。二車、左に久我大納言雅忠のむすめ三條とつき給ふをいとからい事に歎き給へど、皆人先だちてつき給へれば、あきたるまゝとぞ慰められ給ひける。右に近衞殿、源大納言雅家の女なり。三の左には大納言の君、室町の宰相中將公重のむすめ、右に新大納言、おなじ三位兼行とかやの女なり、四の左には宰相の君、坊門の三位基輔のむすめ、右は治部卿かねともの三位のむすめなり。それより下は例のむつかしくてなむ。多くは本所のけいし何くれがむすめどもなるべし。わらはしもづかへ御ざうしはしたものに至るまで髮かたちめやすく、おやうち具し、少しもかたほなるなくとゝのへられたり。その暮つかた。頭中將爲兼朝臣御消息もてまゐれり。內のうへみづからあそばしけり。

  「雲のうへに千代をめぐらむはじめとてけふの日かげもかくや久しき」。

紅の薄樣、おなじ薄樣にぞつゝまれためる。關白殿つゝむやう知らずとかやのたまひけるとて、花山に「心えたる」と聞かせ給ひければ「つかはして包ませられける」とぞ承りし」」とかたるに、又此具したる女「「いつぞやは御使實敎の中將とこそは語り給ひしか」」といふ「「女御のよそひは蘇芳のはり一重がさね、濃き裏のひへぎ、濃き蘇芳の御うはぎ、赤色の御唐衣、濃き御はかま地摺の御裳奉る。女房のよそひおしなべて皆蘇芳のはり一重がさね紅のひへぎ、濃き袴、蘇芳のうはぎ、靑朽葉の唐衣、薄色の裳、三重だすき、上下同じさまなり。まゐり給ひぬれば、藏人左衞門權佐俊光うけたまはりて手ぐるまのせんじあり。殿上人參りて御車にひき入る。御せうとの中納言公衡別當かね給へり。うへの御甥の左衞門督通重御せうとになずらふるよし聞ゆれば御屛風御几帳たてらる。日の御座へ御車よせらる。御襖二位殿參らせ給ふ。御だいまゐりて夜のおとゞへまうのぼり給ふ。この御襖は、京極院のめでたかりし例とかや聞えて、公守の大納言沙汰し申されけるとかや承りしはまことにや侍りけむ。三ケ夜のもちひもやがてかの大納言沙汰し申さる。內の上の夜のおとゞへ召して、入らせ給ひたる御さうがいをば二位殿とりて出でさせ給ひて、大納言殿と二人の御中に抱きて寢給ふと聞えし。さきざきもさる事にてこそ侍りけめ。八日御所あらはしとてうへ渡らせ給へば、袖口ども心ことにてわざとなくおしいださる。今日はおのおの紅のひとへがさね、靑朽葉のうはぎ、二藍のから衣なり。大納言殿もさぶらはせ給ふ。うへも御だいまゐる。二位殿御陪膳、女御のは一條殿つかまつり給ふ。女御の君は蘇芳のはり、一重がさね、紅のひへぎ、靑朽葉のうはぎ、赤色のから衣、二重おりもの、からのうすものゝ御裳、濃き綾の御袴、御ぐしいとうるはしくて盛にねびとゝのほり給へるいと見所おほくめでたし。御供に參り給へる人々、右大臣、內大臣、大納言左大將、花山院中納言、權大夫、殿上人どもあまたこゝかしこのうちはしわたどのなどにけしきばみつゝ群れ居たるも艷なる心ちすべし。上達部のけん盃はてゝ後、內の御方のめのとをはじめて內侍女官どもかない〈如元〉殿まで祿賜はる。十日の夕つ方下大所の御らんあり。臺盤所の北の御壺へまゐる同じそばのまにて內の御方御らんぜらる。やがて東面より女御も御らんず。二位殿一條殿二條殿をはじめて上﨟だつ人々あまたさぶらひ給ふ。御簾のとにも上達部あまたさぶらはる。いとはればれし。十四日又うちのうへ入らせ給ひて、こなたにて始めて御みききこしめせば南おもてへ出でさせ給ふ。女御蘇芳の御ひとへがさね、はぎのたてあをの御うはぎ、朽葉の御小袿、みな二重織物、綾の織物、すゞしの御袴、御紋竹たてわきをおる。うへは御ひきなほし、すゞしの御袴、櫑子まゐる。御陪膳は一條殿、今日よりはうちとけたる心ちにて女房どもいろいろの一重がさね、唐衣、さまざまめづらしき色どもをつくして、すゞしの袴に着かへたる今すこし見所そひなつかしきさまなり。とくせん櫑子をもてまゐる、次第にとりつぎてまゐらす。かねの御ごき、しろがねの片口の御銚子、一條殿御陪膳、その後女御殿も御銚子にてかけさせ給ふ事侍りけり。今宵二位殿今出河へまかで給うて車の宣旨ゆりたまふ。御おくりには御子の公衡の中納言、御甥の通重の左衞門督など殿上人どもあまたなり。縫殿の陣より出で給ふけしきいとよそほし。まことや御入內の夜の御使勾當の內侍まゐれりし祿に、うはぎ唐衣をたまはる。御せうそこの御使にまゐれりしうへ人も女の裝束かづきながら歸り參りて殿上の口におとしすつ。とのもりつかさぞとるならひなりける。後朝の御使には公貫中將なりし、公衡の中納言對面してけん盃の後これも女の裝束かづけらる。かくて八月二十日后に立ち給ふ。かねてより今出川の御家へまかで給ひて、節會の儀式ひきうつし待ちとり給ふさまいとめでたく今さらならぬ事なれど、父の殿もつひの御位はさこそなれど、只今さしあたりてはいまだ淺くおはするに、すがやかに后妃の位に定り給ふ事かぎりなき御世のおぼえとめでたく見ゆ。大宮院、本院、東二條院皆わたりおはしまして見奉り給ふさへぞやんごとなき。今日は紅のはり、ひとへがさね、ひへぎ、をみなへしのうはぎ、二藍の唐衣、薄色の裳、すべて二十人おなじ色のよそひなり。この外いぎの女房八人、白きはり一重がさね、濃きひへぎ、おなじはかま、女郞花の衣にてさぶらふ。いづれとなくかたちども淸げにめやすし。その年の十一月八日ぞ后の宮の御父右大將になり給ひぬる。おなじき廿五日正二位したまふ。この程は大甞會五節などのゝしる。さきの御世にはひきかへて中宮、皇后宮、院たちあかれあかれに多くおはしませば殿上人ども推參の所おほく、頭痛きまでめぐりありく。その年の十二月に御門の御母三位殿院號ありき。朝に准后の宣旨ありて同じき日の夕に玄輝門院と申す。めでたくいみじかりき。年かへりて正應も二年になりぬ。よろづめでたき事ども多くて三月廿三日鳥羽殿へ朝覲の行幸なる。本院はかねてより鳥羽殿におはしまして池の水草かきはらひ、いみじうみがゝれて例のことごとしきからの御船浮められて、廿四日に舞樂ありき。廿六日にぞ歸らせ給ひける。さても去年の三月三日かとよ、常氏の宰相のむすめの御腹に若宮いできさせ給へりしを太子に立て奉らせ給ふいとかしこき御宿世なり。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。おなじうはまことにておはせましかばとぞ大將殿など思しけむかし。おりゐの御門も御子あまたおはしませば、坊になどおぼしけるをひきよぎぬるいとほいなし。十月二十五日、一院の御所にてまなきこしめす。いとめでたき事どものゝしり過ぎもてゆく。おなじき三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子狛犬中よりわれたり。驚きおぼして御占あるに「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにかと誰も誰もおぼしさわぐに、その九日の夜右衞門の陣より、おそろしげなるものゝふ三四人馬に乘りながら九重の中へはせ入りて、上にのぼりて女孺が局の口に立ちて「やゝ」といふに、ものを見あげたれば、丈高くおそろしげなる男の赤地のにしきの鎧直垂に、ひをどしの鎧着て、唯赤鬼などのやうなるつらつきにて、「御門はいづくに御よるぞ」と問ふ。「夜のおとゞに」といらふれば、「いづくぞ」とまた問ふ。南殿よりひんがし北のすみとをしふれば南ざまへ步みゆく間に女孺內より參りて權大納言典侍殿新內侍殿などにかたる。うへは中宮の御方に渡らせ給ひければ對の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ女房のやうにていと怪しきさまを造りて入らせ給ふ。內侍劔璽を取りていづ。女孺は玄象鈴鹿とりて逃げゝり。春宮をば中宮の御方の按察殿抱きまゐらせて常磐井殿へかちにて逃ぐ。その程の心の中どもいはむ方なし。この男をば淺原のなにがしといひけり。辛くして夜のおとゞへ尋ね參りたれども大かた人もなし。中宮の御方の侍のをさ景政といふもの名のり參りて、いみじく戰ひ防ぎければ、疵かうぶりなどしてひしめく。かゝる程に二條京極のかゞりやびんごの守とかや五十餘騎にて馳せ參りて鬨をつくるに、合する聲僅に聞えければ心やすくて內に參る。御殿どもの格子ひきかなぐりて亂れ入るに、かなはじと思ひて夜のおとゞの御しとねのうへにて淺原自害しぬ。太郞なりけるをのこは南殿の御帳の中にて自害しぬ。おとゝの八郞といひて十九になりけるは大ゆかの椽の下にふして寄るものゝ足をきりきりしけれども、さすがあまたして搦めむとすればかなはで自害するとても膓をば皆繰りいだして手にぞもたりける。そのまゝながらいづれをも六波羅へかき續けて出だしけり。ほのぼのと明くる程に、內、春宮御車にて忍びて歸らせ給ひて、晝つかたぞ又更に春日殿へなる。大方雲の上けがれぬればいかゞにて中宮のひの御座へ腰輿よせて兵衞の陣よりいでさせ給ふ。春宮は絲毛の御車にて又常磐井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすり騷ぐさまことの葉もなし。この事次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に三條の宰相中將實盛も召しとられぬ。三條の家に傳はりて鯰尾とかやいふ刀のありけるを、この中將日頃もたれたりけるにてかの淺原自害したるなどいふ事ども出できて、中院もしろしめしたるなどいふ聞えありて心うくいみじきやうにいひあつかふ、いとあさまし。中宮の御せうと權大納言公衡一院の御まへにて「この事は猶禪林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御そぶんを引きたがへ、あづまよりかく當代をもすゑ奉り世をしろしめさする事を心よからずおぼすによりて世をかたぶけ給はむの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさばまさる事や出でまうでこむ。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」などかの承久のためしも引きいでつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して「いかでかさまではあらむ。實ならぬ事をも人はよくいひなすものなりかし。故院のなき御影にもおぼさむ事こそいみじけれ」と淚ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて猶內よりの仰などきびしき事ども聞ゆれば、中の院も新院もおぼし驚かせ給ふ。いとあわだゞしきやうになりぬれば、いかゞはせむとてしろしめさぬよし誓ひたる御せうそこなどあづまへ遣されてのちぞ事しづまりにける。さてなが月の初つかた中の院は御ぐしおろさせ給ふ。いと哀なる事ども多かるべし。禪林寺殿にてやがて御如法經など書かせ給ふ。一院の世の中恨みおぼされし時既にと聞えしはさもおはしまさでかくすがやかにせさせ給ひぬるいとさだめなし。しばしは禪僧にならせ給ふとてろうさうの御衣にくわらといふ袈裟かけさせ給へり。四十一にぞものし給ひける。御法名金剛覺と申すなり。新陽明門院はじめ奉りていろいろの御召人ども、らうの御方、讃岐の二位殿などさびしき院に殘りてあるはさまかへあるは里へまかでなどさまざまちりぢりになる程いと心細し。中務の宮の御むすめはもとよりいとあざやかならぬ御おぼえなりしかば、世を捨てさせ給ふきはとてもとりわきたる御名殘もなかるべし。禪林寺のうへの院の人はなれたる方にすゑ聞えさせ給へれば、事にふれていとさびしく心ぼそき御ありさまなるをおのづからこととひ聞ゆる人もなし。源氏の末の君に中將ばかりなる人、院に親しくつかうまつりなれて家もやがてそのわたりにあれば程近きまゝに、をりをりこの宮の御とのゐなど心にかけてつかまつるを、さぶらふ人々もいとありがたくもと思ふ。宮の御方はこの頃いみじき御盛のほどにてまほにうつくしうおはしますをあたらしう見奉りはやす人のなき事と思ひあへり。七月ばかり風あらゝかに吹き、いなづまけしからず閃きて神なりさわぎ、常よりもおそろしき夜、はかばかしき人もなければ上下いとあわたゞしく心ぼそうおぼし惑ふ。法皇は龜山殿に過ぎにし頃よりおはしませば、近きあたりにだに人のけはひも聞えず。哀なる程の御ありさまにて墨をすりたらむやうなる空の氣色のうとましげなるをながめさせ給ひなどするに、例の中將そぼちまゐりてさぶらひめくもの一二人弓などもたせて「御とのゐつかうまつらせ侍るべし。なにがしも侍のかたに侍らむ」など申すにぞいさゝかたのもしくて人々慰め給ふ。おはします母屋にあたれる廂の高欄におしかゝりて、香染のなよらかなる狩衣に薄色の指貫、うちふくだめたるけしきにてしめじめと物語しつゝいたう更けゆくまでつくづくとさぶらひ給へば、御簾の中にも心づかひしてはかなきいらへなどきこゆ。曉がたになりぬれば、御几帳ひきよせて御殿ごもりゐるかたはらにいとなれがほに添ひ臥すをとこあり。夢かやとおぼして御覽じあげたれば「年月思ひ聞えつるさまおほけなくあるまじき事と思ひかへさひ、こゝら忍ぶるにあまりぬるほど、唯少しかくて胸をだにやすめ侍らむばかり」などいみじげに聞ゆるは、はやうありつる中將なりけり。いとうたて心うのわざやとおぼすに御淚もこぼれぬ。ちかきてあたり御もてなしのなよびかさなどまして思ひしづむべうもなければ、いといとほしうゆくりなき事とは思ひながら、のこりなうなりぬる身のうさのかぎりなうもあるかなとさきの世もうらめしういふかひなき事をおぼしつゞけて「よゝ」と泣きたまふさまいよいよらうたし。見るとしもなき夢のたゞちをうちおどろかす鐘の聲、鳥の音も、人やりならぬ心づくしにえいでやらず、

  「おきわかれ行く空もなきみち芝の露よりさきに我やけなまし」。

出でがてにやすらひたるおも影も、何の御めとまるふしもなし。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契の程やとおぼし知らるゝもつらければいらへもし給はず。あさましうも心うくもさまざまおぼしみだるゝに御心ちもまめやかに損はれぬべし。按察の君といふ人かたらひとられけるなめり。忍びて御消息しげう聞ゆるをもいとうたて心づきなうおぼされながら、さてしもはてぬならひにやいと又哀なる事さへものし給ひけり。かゝるにつけてもこの世ひとつにはあらざりける御契の程淺からずおしはからる。中將も夜と共にあくがれまさりて夢の通路あしもやすめずなりゆく。この御氣色もやうやうしるきほどになり給へば、空おそろしとて忍びて御めのとだつ人の家などいひなして白川わたりかごやかにをかしき所用意してゐてわたし奉りつゝ、猶自らはさすがに世のつゝましければ忍びつゝぞ御とのゐしける。そこにてこそ御子もうみ給ひけれ。この中將ざえかしこくて末の世にはことの外にもてなされて、まづ一品してしばしおはせし頃、御百首の歌に、

  「位山のぼりはてゝも峰におふる松にこゝろをなほのこすかな」。

さてつひに內大臣までのぼられき。さて元應のころかとよ、百首歌奉りし中に、

  「あつめこし窓の螢のひかりもて思ひしよりも身をてらすかな」

とよまれ侍りき。有房と聞えしが、若くての世の事なるべし。新陽明門院も禪林寺殿のしもの放出につれづれとしておはします程に、松殿の宰相中將かねつぐ、いかゞしたりけむ常に參り給ひしほどに、はてにはその宰相中將の御子に世をのがれたる人ありき。その御房におぼしうつりてかぎりなくおぼしたりしほどに、御子をさへうみ給ひき。その姬君は初は富小路の中納言秀雄の北の方にておはせしが、後には歡喜園の攝政ときこえ給ひし末の御子に、基敎の三位の中將と聞えしうへになりてうせ給ふまでおはしき。故女院いとほしくし給ひしかば御そうぶんなどいといとまうにありき。さのみかゝる御事どもをさへ聞ゆるこそ、物いひさがなき罪さり所なけれど、よしや昔もさる事ありけりと、この頃の人の御ありさまもおのづから輕き事あらば、思ひゆるさるゝためしにもなりてむものぞと思へば、遠き人の御事は今は何の苦しからむぞとて少しづゝ申すなり」」とうち笑ふもはしたなし。「「いづらこの頃は誰かあしくおはする」」と問へば、「「いないなそれはそらおそろし」」とて頭をふるもさすがをかし。「「さても岩淸水のながれをわけて關の東にも若宮ときこゆる社おはしますに、八月十五日都の放生會をまねびて行ふ。そのありさままことにめでたし。將軍もまうで給ふ、位あるつはもの諸國の受領どもなどいろいろの狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出でたちたり。あかはしといふ所に將軍とゞめておりたまふ。上達部はうへのきぬなるもあり。殿上人などいと多くつかまつる〈つかうまつれりイ〉。この將軍は中務の宮の御子なり。この頃權中納言にて右大將かね給へれば、御隨身ども花を折らせてさうぞきあへるさま都めきておもしろし。法會のありさまも本社にかはらず。舞樂、田樂、師子がしら、やぶさめなどさきざま所にしつけたる事どもおもしろし。十六日にも猶かやうの事なり。棧敷どもいかめしく造り並べていろいろの幔幕などひき續けて將軍の御棧敷の前には相摸守をはじめそこらの武士どもなみゐたるけしき、さまかはりてこのましううけはりたる心ちよげに、所につけては又なく見えたり。その後いくほどなく鎌倉よりうちさわがしき事出できて、皆人きもをつぶしさゝめくといふ程こそあれ、將軍都へ流され給ふとぞ聞ゆる。めづらしき言の葉なりかし。近く仕うまつるをとこ女いと心ぼそく思ひなげく。たとへば御位などのかはる氣色に異ならず。さてのぼらせ給ふありさまいとあやしげなる網代の御輿をさかさまに寄せてのせ奉るもげにいとまがまがしき事のさまなり。うちまかせては都へ御のぼりこそいとおもしろくもめでたかるべきわざなれど、かく怪しきは珍らかなり。御母御息所は近衞大殿と聞えし御女なり。父みこの將軍にておはしましゝ時の御息所なり。先に聞えつる禪林寺殿の宮の御方も同じ御腹なるべし。文永三年より今年まで廿四年將軍にて天下のかためといつかれ給へれば、日の本の兵をしたがへてぞおはしましつるに、今日はかれらにくつがへされてかくいとあさましき御有樣にてのぼり給ふ。いといとほしうあはれなり。道すがらも思し亂るゝにや御たゝう紙の音しげう漏れ聞ゆるに、武きものゝふも淚おとしけり。さてこのかはりには一院の御子御母は三條內大臣公親の御むすめ、御匣殿とて侍ひ給ひし御腹なり。當代の御はらからにて今少しよせ重くやんごとなき御有樣なれば、唯受禪の心ちぞする。もとの將軍おはせし宮をば造り改めていみじうみがきなす。つはものゝすぐれたる七人御むかへにのぼる中に、いひぬまの判官といふもの前の將軍のぼり給ひし道もまがまがしければあとをも越えじとて足柄山をよぎてのぼるなどぞ、あまりなる事にや。みこは十月三日御元服したまひて、久明の親王ときこゆ。おなじき十日の日、院よりやがて六波羅の北の方さきさきも宮のわたり給ひし所へおはして、それよりぞあづまに赴かせ給ふ。同廿五日鎌倉へつかせ給ふにも御關むかへとてゆゝしき武士どもうちつれてまゐる。宮はきくのとれんじの御輿に御簾あげて、御覽じ習はぬゑびすどものうち圍み奉れるたのもしく見給ふ。しのぶをみだれ織りたる萠黃の御狩衣、紅の御ぞ、濃き紫の指貫奉りていとほそやかになまめかし。いひぬまの判官とくさの狩衣、靑毛の馬に金のかな物の鞍おきて隨兵いかめしく召し具して御輿のきはにうちたり。都にてたとへば行幸にしかるべき大臣などの仕うまつり給へるによそへぬべし。三日が程はわうばんといふ事、又馬御覽、何くれといかめしき事ども鎌倉うちのけいめいなり。宮の中のかざり御調度などは更にもいはず、帝釋の宮殿もかくやと、七寶を集めて磨きたるさま目も耀く心ちす。いとあらまはしき御有樣なるべし。關の東を都の外とておとしむべくもあらざりけり。都におはしますなま宮だちのより所なくたゞよはしげなるにはこよなくまさりて、めでたくにぎはゝしく見えたり。時宗朝臣といひしも又頭おろして法〈寬イ〉光寺の入道とていとたふとく行ひて世にもいろはず、太郞貞時相模の守といふにぞ萬いひつけゝる。さてものぼり給ひにし前大將殿は嵯峨のほとりに御ぐしおろし、いとかすかに寂しくてぞおはしける。かくて年かはりぬれば、その年きさらぎの頃一院御ぐしおろし給ふ。年月の御本意なれどたゆたひ過し給ひけるに、禪林寺殿去年の秋思し立ちにしに、いとゞ驚かされ給ひぬるにやありけむ。二月十一日龜山殿にて御いむ事うけさせ給ふ。四十八にぞならせ給ふ。御法名素實と申すなり。む月の朔日節會などはてゝ夕つ方、內のうへ皇后宮の御方へ渡らせ給へれば、中宮は濃き紅梅の十二の御ぞにおなじ色の御ひとへ、紅のうちたる萠黃の御上着、ゑび染の御小袿、花山吹の御唐衣、からの薄物の御裳けしきばかりひきかけて御ぐしぞ少しうすらぎ給へれどいとなよびかに美くしげにて、常より殊に匂加はりて見え給ふ。御まへに御匣殿、花山院內大臣師繼のむすめ、二藍の七つに紅のひとへ、紅梅のうはぎ、赤色の唐衣、地摺の裳、髮うるはしく上げて侍ひ給ふ。かんざしやうだい、これもけしうはあらず見ゆ。新しき年の御悅など少し聞え給ひて例のたゞならぬ御事どもうちさゞめきがちにて、これより公守の大納言のむすめの曹子さしのぞかせ給へば、いとさゝやかにて衣がちにて花櫻のあはひにほはしきに山吹の上着の裳ひきかけて寄り臥し給へるあてにらうたし。こまやかにうちかたらひ聞え給ふ。玄輝門院の御そばにかしづき聞え給ひしならひにや、おしなべてのうひ宮仕のさまよりは思ひあがれる氣色なり。今一所の御曹子も近き程なれば、そなたざまに步みおはしていと心しづかならねど、この君をばおしなべてのきはならずおぼすめり。この御腹にみ子達あまたおはしましき。かくめぐらせ給ふ程にいたく更けてぞ中宮のぼらせ給ふ。この御代にもいみじき行幸どもゆゝしき事多かりしかど、年のつもりに何事もさだかならず。月日などおぼろに侍ればなかなか聞えず。程なく明けくれて永仁も六年になりぬ。七月廿二日春宮に御位ゆづりており給ひぬ。霜月になりて五節の頃去年をおぼしいでゝ、そのをりに關白にておはせし兼忠のおとゞに櫛つかはすとて、新院、

  「をとめこがさすやをぐしのそのかみにともになれこし時ぞわすれぬ」。

御かへし、歡喜園前攝政殿、

  「いとゞ又こぞのこよひぞしのばるゝつげのをぐしを見るにつけても」。

堀川の具守のおとゞのむすめの御腹に前の新院の若宮生れ給へりし。六月廿七日御元服し給ひて八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治ときこゆ。これも內よりは御年三つまさり給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁ときこゆ。あてになまめかしうおはします。中宮の御腹には大かた宮もものし給はねばこの御門をぞ御子にし奉らせ給ひける。讓位の後は中宮もおりさせ給ひて永福門院と聞ゆめり。皇后宮も此頃は遊義門院と申すなり。法皇の御傍におはしましつるを中の院いかなるたよりにかほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難くおぼされければ、とかくたばかりて盜み奉らせ給ひて冷泉萬里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へる事かぎりなし。正安二年正月三日御門御元服し給ふ。今年十三にならせ給へば御行く末はるかなる程なり。又の年む月の頃、內侍所の御しめのをり給へるはいかなるべき事にかなど忍びてさゝめく程こそあれ、東よりの御使のぼるとてまことの中さわぎて禪林寺殿みたてまつり給ふ世にとや、正月廿一日春宮御位に即かせたまひぬ。おりゐの御門御年十四にて太上天皇の尊號あり。いときびはにいたはしき御事なるべし。僅に三とせにておりさせ給へれば何事のはえもなし。この春は春日社に御幸などあるべしとて世の中まだきよりおもしろき事にいひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さてこの君を新院と申せば父の院をば中院ときこゆ。御門の御父は一の院と申す。法皇もこの頃一所におはしますなめり。一院世の政事聞しめせば天下の人又おしかへし一かたになびきたる程もさもめの前に移ろひかはる世の中かなとあぢきなし。土御門の前の內のおとゞ定實、六月に太政大臣になり給ふいとめでたし。故大納言入道顯定の本意なかりし御おもておこしたまへるいとゆゝし。院の御おぼえの人なるうへ、ざえもかしこくおはすれば世に用ゐられ給ヘり。御子の大納言雅房中納言親定とていづれも才ある人にておはしき。持明院殿には世の中すさまじくおぼされて伏見殿に籠りおはしますべくのたまへれど、二の御子坊にさだまり給へば又めでたくてなだらかにておはしますべし。先に聞えつる御母女院の御はらからの姬君顯親門院と聞えし御腹なり。八月十五日まづ親王になし奉らせ給ひて同廿四日に春宮に立ち給ひぬ。かくて新帝は十七になり給へば、いとさかりにうつくしう、御心ばへもあてにけだかうすみたるさましてしめやかにおはします。三月廿四日御即位、この行幸の時花山院三位中將家定、御劔の役をつとめ給ふとてさかさまに內侍に渡されけるを、今出川のおとゞ御らんじ咎めて出仕とゞめらるべきよし申されしかど、鷹司の大殿、「なかなかさたがましくてあしかりなむ。たゞおとなくてこそ」と申しとゞめ給へりしこそなさけ深く侍りしか。後に思へばげにあさましきことのしるしにや侍りけむ。十月廿八日御禊、この度の女御代にも堀川のおとゞの姬君いで給へり。今のうへも源氏の御腹にてものし給ふ。いとめづらしくやんごとなし。されどうけばりたるさまにはおはせぬぞ心もとなかめる。又の年は乾元元年六月十六日龜山殿へ行幸あり。法皇いと珍らしくうつくしと見奉らせ給ふ。曉歸らせ給ひぬるのち、法皇より內に聞えさせたまふ。

  「したはるゝなごりにたへず月を見れば雲のうへにぞかげはなりぬる」。

御かへし、內のうへ、

  「君はよし千とせのよはひたもてればあひみむことのかずもしられず」。

一院は忠繼の宰相のむすめの中納言典侍殿といふ腹にも、男女み子だちあまたものし給ふ中にすぐれ給へる內親王をいとかなしきものにかしづき聞えさせ給ふ。この御代にもまた爲世の大納言うけたまはりて撰集あり。新後撰集ときこゆ。嘉元元年ひろうせらる。かくて又の年春の頃より東二條院御惱み日々におもり給ひて今はと見えさせ給へば伏見殿へいでさせ給ひて遂にうせさせ給ひぬ。七十にあまらせ給へばことわりの御事なり。法皇もその御なげきの後、をさをさ物聞しめさずなどありしをはじめにて、うち續き心よからず御わらはやみなど聞ゆる程に七月十六日二條富小路殿にてかくれさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いとあはれに悲しき事どもいへばさらなり。御孫の春宮もひとつにおはしましつれば急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇どもこぼこぼと毀ちて、くづれいづる法師ばらの氣色まで今をかぎりととぢめはつる世のありさまいとかなし。宵過ぐるほどに六波羅の貞顯憲時二人御とぶらひに參れり。京極おもての門の前に床子にしりかけてさぶらふ。隨ふものども左右になみゐたるさまいとよそほしげなり。又の日夜に入りて深草殿へいでわたし奉る。御車さしよせて御くわん乘せ奉るほど、うちどよみあひたるいとことわりに心をさむる人もなし。院の御まへ宮たちなどわらぐつとかやいふもの奉りて門まで御送つかまつらせ給ひて、とみにもえのぼらせ給はず、御直衣の袖をおしあてゝ遙に程經てぞ御車にたてまつりて伏見殿への御おくりもせさせ給ひける。院のうちゆゝしきまでなきあへり。後深草院とぞきこゆる。御日數のほどは伏見殿に宮だち遊義門院などおはします。秋さへふかくなり行くまゝによとともの御淚ひる間なくおぼしまどふ。遊義門院、

  「物をのみ思ひねざめにつくづくとみるもかなしきともし火の色。

   春きてしかすみのころもほさぬまにこゝろもくるゝ秋ぎりの空」。

年かへりぬれば嘉元も三年になりぬ。萬里小路殿の法皇またなやみとて龜山殿へうつらせ給ふ。いろいろに御修法やなにくれ御祈どもこちたくせさせ給へるもしるしなくて、九月十五日のあけぼのに終にかくれさせ給ひぬ。去年今年の世のさがなさ、うち續きたる人々の御歎どもいはむかたなし。世を背かせ給ひにし始つかたは、いときはたけうひじりだちて女房など御まへにだに參らぬ事なりしかど、後にはありしより猶たはれさせ給ひし程に、永福門院の御さしつぎの姬君はや御さかりも過ぐる程なりしを、この法皇にまゐらせ給へりしが、かひがひしく水の白浪にわかやがせ給ひて、やがて院號ありしかば昭訓門院ときこえつる。その御腹におとゝしばかり若宮生れ給へるをかぎりなくかなしきものにおぼされつるに、今すこしだに見奉らせ給はずなりぬるをいみじうおぼされけり。さてしもあらぬならひなれば、おなじ十七日に御わざの事せさせ給ふ。ことわりといひながらいといかめしう人々仕うまつり給ふ。網代びさしの御車、前右大臣殿よせさせ給ふ。ゑばうし直衣、袴ぎはにて參りたまふ。院のうへも庭におりさせ給ふ。法親王たち三人、山の座主、聖護院、十樂院、法親王などはわらうづをぞ奉る。上の山まで御供せさせ給ふ。上達部には前右大臣公衡、西園寺大納言公顯、萬里小路大納言師重、源中納言有房、三條前中納言、宗氏の二位、重經の二位、爲雄の宰相、經守、爲行、親氏などなり。殿上人には賴俊朝臣、忠氏、爲藤、國房、經世、泰忠、光忠、皆狩衣の袖をしぼりしぼりまゐる氣色さへあはれをそへたり。院も御供にひきさがりて參り給ふ。花山院權大納言、西園寺中納言、土御門大納言、御子親實の少將、御太刀持ちて御供せられたり。よそほしかりつる御ありさまもいとほどなく唯時の間の煙にてのぼり給ひぬれば、誰も誰も夢の心ちしてほのぼのと明けゆく程におのおのまかで給ふ。三條大納言入道公貫、萬里小路大納言師重などはとりわき御志ふかくて御だびのはつるまで墨染の袖を顏におしあてつゝさぶらひたまふ。かねてより山道つくられて、木草きりはらひなどせられつれど露けさぞわけむ方なき。淚の雨のそふなるべし。內よりの御使に始め長親朝臣、雅行、有忠朝臣など三度まゐる。ふるき例なるべし。おなじき廿八日、院の上御素服たてまつる。おはします殿には黑き絲にてあみたる簾をかけらる。淺黃べりの御座にうへの御ぞ黑く、うへの御袴裏はかんじ色、御下がさねもくろし。おなじひへぎ、淺黃の御ひあふぎ、御だいまゐるも皆黑き御調度どもなり。この御序に御方々も御素服たてまつる、人數昭訓門院、昭慶門院は御むすめ、近衞殿の北政所、關白殿の北政所、良助法親王、覺雲、順助、慈道、性惠、行仁、性融法親王だち上達部もお山の御供したまふ。人々みなもれず。院の二の御子の御母も近頃は法皇召しとりて、いと時めかせて准后など聞えつるも思ひ歎き給ふべし。昭訓門院やがて御ぐしおろし給ふ。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨もこの院に法花堂をたてゝをさめさせ給へば、龜山院とぞ申すべかめる。禪林寺殿をば坐しましゝ時より禪院になされき。南禪院といふはこれなめり。院の二のみこ、忠繼の宰相の女、今は准后と聞ゆる御腹におはします。このころ帥宮と聞ゆるを、法皇とりわき御傍さらずならはし奉りたまひて、いみじうらうたがり聞えさせ給ひしかば、人より殊におぼし歎くべし。頃さへしぐれがちなる雲のけしきに山の木の葉も淚あらそふ心ちしていとかなし。所がらしもいとゞあはれをそへたり。川浪のひゞき、となせの瀧の音までもとり集めたる御心の中どもなり。御日數のほどは帥の宮ひとつ御腹の內親王などもこの院におはしますほどつれづれなるまゝに、はかなし事など聞えかはして花紅葉につけてもむつましくなれ聞え給ふべし。帥の御子は大多勝院に西の廂にわたらせ給ふ。御まへの松の木にはひかゝれる蔦の紅葉のいたう染めこがしたるをとりて、九月三十日の夕つかた昭訓門院の御方へ奉らせたまふ。

  「あすよりのしぐれも待たで染めてけり袖の淚や蔦のもみぢ葉」。

木の葉よりももろき御淚はましていとゞせきかね給へりし。御かへし、

  「よもはみな淚のいろにそめてけり空にはぬれぬ秋のもみぢ葉」。

あはれに見奉らせ給ひつゝ名殘もいみじくながめられて高欄におしかゝり給へる、夕ばへの御かたちいとめでたし。ありつる紅葉を西園寺大納言公顯のとのゐ所へつかはす。

  「雨とふるなみだの色や此ならむ袖よりほかにそむるもみぢば」。

女院の御せうとなれば、しめやかなる御山すみの心ぐるしさにさぶらひ給ふなりけり。御返事、

  「いくしほか淚の色のそめつらむ今日をかぎりの秋のもみぢ葉」。

時雨はしたなく風荒らかに吹きて暮れぬれば、宮は內に入り給ひて御殿油近くめして、晝御覽じさしたる御經など讀み給ふほどに若殿上人どもうちつれてこなたの御とのゐにまゐれり。晝のつたの葉の散りそひたるを人々見るに、宮「それにおのおの歌書きて」とのまたへば中將爲藤朝臣、

  「もみぢ葉になくねはたえずうつせみのからくれなゐも淚とや見む」。

淸忠朝臣、

  「やま姬のなみだの色もこのごろはわきてやそむるつたのもみぢ葉」。

光忠朝臣、

  「世の中のなげきの色をしらねばやこぞにかはらぬつたのもみぢ葉」。

これらをとりあつめて北殿の內親王の御方へ奉らせ給へれば、

  「さすがなほ色は木の葉にのこりけりかたみもかなし秋のわかれ路」。

雨うちそゝぎてけはひあはれなる夜、いたう更けて帥宮例の北殿へ參り給へれば、姬宮も御殿ごもりぬ。さぶらふ人々もみなしづまりぬるにや格子などたゝかせ給へど、あくる人もなければ空しく歸らせ給ふとて、書きてさしはさませ給ふ。

  「おのづらながめやすらむとばかりにあくがれきつるありあけの月」。

御かへし、またの日、

  「いたづらに待つよひすぎしむらさめは思ひぞたえしありあけの月」。

月日程なくうつりぬれば、院も宮々もおのおのちりぢりにあかれ給ふほど、今すこしものかなしさまさる御心のうちどもはつきせねど、世のならひなればさのみしもはいかゞ。昭慶門院はあまたの宮だちの御中にすぐれてかなしきものに思ひ聞えさせ給ひしかば、御そうぶんなどもいとこちたし。大井河にむかひて離れたる院のあるをぞ奉らせ給へれば、そこにおはしましゝほどに川ばたどのゝ女院など人は申し侍りし。かの所は臨川寺とぞいふめる。都にも土御門室町にありし院、いづれもこの頃は寺になりて侍るめりとぞ、めでたくこそあはれなれ。

     第十四 うら千鳥

院のうへは御位におはせしほどはなかなかさるべき女御更衣もさぶらひ給はざりしかど、おりさせ給ひてのちは御心のまゝにいとよく紛れさせ給ふほどに、この程はいどみがほなる御方々かずそひ給ひぬれど、猶遊義門院の御志にたちならび給ふ人はをさをさなし。中務の宮の御むすめもおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮の故院にわたらせ給ひしよりはいと重々しうおぼしめしかしづきて後には院號ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。又一條攝政殿の姬君も當代堀川のおとゞの家にわたらせ給ひし頃、上らうに十六にて參り給ひて初つかたはもとゝしの大納言疎からぬ御中にておはせしかば、かの大納言のあづまくだりの後院に參り給ひし程に、ことの外にめでたくて內侍のかみになり給へるむかしおぼえておもしろし。加階したまへりし朝、院より、

  「そのかみにたのめしことのたがはねばなべてむかしの世にやかへらむ」。

御返し、內侍のかんの君頊子とぞきこゆめりし。

  「契りこし心のすゑはしらねどもこのひとことやかはらざるらむ」。

露霜かさなりて程なく德治二年にもなりぬ。遊義門院そこはかとなく御惱みと聞えしかば、院のおぼしさわぐ事かぎりなし。萬に御祈祭祓とのゝしりしかどかひなき御事にていとあさましくあへなし。院もそれゆゑ御ぐしおろしてひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。そのほどさまざまのあはれ思ひやるべし。悲しき事どもおほかりしかどみなもらしつ。明くる年の春八幡の御幸の御歸りざまに、東寺に三七日おはしまして御灌頂の御けぎやうとぞ聞ゆる。仁和寺の禪助僧正を御師範にてかの寬平の昔をやおぼすらむ、密宗をぞ學せさせ給ひける。六月には龜山殿にて御如法經かゝせ給ふ。御ぐしおろし給ひて後は大方女房は仕うまつらず。男ぞおりて御臺などもまゐらせ萬に仕うまつる。いつも御持齋にておはします。いとあり難き善智識にてぞ故女院はおはしましける。嵯峨の今林殿にて御佛事なども日々に怠らずせさせ給ふ。この今林は北山の准后の坐せし跡なり。遊義門院の御ぐしにて梵字ぬはせ給へり。かの御手のうらに法華經一字三體に書かせ給ひて攝取院にて供養せらる。大覺寺の覺守僧正御導師なり。故女院の御骨も今林に法華堂建てられておき奉らせ給へれば、月ごとの廿四日には必ず御幸あり。おぼし入りたる程いみじかりき。かくて八月の初つかたより內のうへ例ならずおはしますとて樣々の御修法、五壇、藥師、愛染いろいろの祕法ども諸社の奉幣神馬、何かとのゝしり騷ぎつれど、むげにふかくにならせ給ひて廿三日御氣色かはるとて世のひゞきいはむ方なく、馬車はしりちがひ所もなきまで人々は參りこみたれど、いとかひなく廿五日子の時ばかりにはてさせ給ひぬ。火の消えぬるさまにて、かきくれたる雲のうへのけしきいはずともおしはかられなむ。まことや中宮は德大寺の公孝のおほきおとゞの御むすめぞかし。めづらしくかの御家にかゝる事のいたくなかりつるに、御おぼえもめでたくてさぶらひ給へるに、あさましともいはむ方なし。廿八日にまかで給ふ。先帝の御わざのさたあり。院號ありて後二條院とぞ聞ゆる。堀川右大將具守御車よせらる。心のうちいかばかりかおはしけむ。大將になり給へるもこの御門の西花門院むつましうも仕うまつり給へるにいとほしき御事なり。御素服を着給はざりしをぞ思はずなる事に世の人もいひさたしける。內侍のかんの君もさまかはり給ふ。中宮も院號ありて長樂門院ときこゆ。よろづ哀なることのみ書きつくしがたし。春宮は正親町殿へ行啓なりて劍璽わたさる。八月廿六日踐祚なり。十二にぞならせ給ふ。夢のうちの心ちしつゝもほどなくすぎうつる。御日數さへはてぬれば盡きせぬあはれさむるよなけれど、人々もおのがちりぢりになる程今一しほたへ難げなり。持明院殿にはいつしかめでたき事どものみぞ聞ゆる。大覺寺殿には遊義門院の御事にうちそへて御淚のひる世なく思さるべし。帥のみこの御事をあづまへのたまひ遣したる、相違なしとて九月十九日立太子の節會ありて坊に居給ひぬ。今はと世をとぢむる心ちしつる人々少しなぐさみぬべし。その年十月大なりつるを、保元の例とかやとて十一月朔日に宣下せられたり。あたらしき御代にあたりて月日さへ改まりにけり。十一月十一日御即位あり。攝政は後昭念院殿冬平、今日御悅申ありてやがて行幸に參り給ふ。あるべきかぎりの事どもふるきにかはらでめでたく過ぎゆく。延慶二年十月廿一日御禊、おなじ廿四日大嘗會、應長元年正月三日御年十五にて御かうぶりしたまふ。御諱富仁ときこゆ。ひきいれには殿、理髮家平つかうまつり給ふ。南殿の儀式はてゝ御よそひ改めて更にいでさせ給ふ。淸凉殿にて御あそびはじまる。攝政殿箏〈ふしみといふ名物〉右大將公顯琵琶玄上、土御門大納言通重笙〈きさぎえ〉和琴大炊御門中納言冬氏、笛西園寺中納言兼季、別當季衡笙の笛吹き給ひけり。篳篥公守朝臣、拍子有時、めでたくさまざまおもしろくて明けぬ。五日には後宴とて今すこしなつかしうおもしろき事どもありき。この御門をば新院の御子になし奉らせ給ひてしかば、朝覲の行幸の御拜などもこの御前にてぞありける。廣義門院もおなじく國母の御心ちにてよろづめでたかりき。院のうへさばかり和歌の爲に御名たかくいみじくおはしませば、いかばかりかとおぼされしかども、正應に撰者どもの事ゆゑにわづらひどもありて撰集もなかりしかば、いとゞ口をしうおぼされて、

  「我が世にはあつめぬ和歌のうら千鳥むなしき名をやあとにのこさむ」

などよませおはしましたりしを、いまだにと急ぎたゝせ給ひて爲兼の大納言うけ給はりて萬葉よりこなたの歌ども集められき。正和元年三月廿八日奏せらる。玉葉集とぞいふなる。この爲兼の大納言は爲氏の大納言のをとゝに爲敎右兵衞督といひしが子なり。限なき院の御おぼえの人にてかく撰者にもさだまりにけり。そねむ人々おほかりしかどさはらむやは。この院の上好みよませ給ふ御歌のすがたは前藤大納言爲世の心ちにはかはりてなむありける。御手もいとめでたく、「むかしの行成大納言にもまさり給へる」など時の人申しけり。やさしうも强うも書かせおはしましけるとかや。正和も二とせになりぬ。今年御本意遂げなむとおぼさる。なが月の暮つかた賀茂に忍びて御籠のほど、をかしきさまの事ども侍りけり。近くさぶらふ女房どもゝうちしほたれつゝ、つごもりがたの空のけしきいとものあはれなるに、御製、

  「なが月や木のはもいまだつれなきにしぐれぬ袖の色やかはらむ」。

また、

  「我が身こそあらずなるとも秋のくれをしむ心はいつもかはらじ」。

人々もさとしぐれわたり、袖のうへ今日かぎりの秋のなごりよりもしのびがたし。大納言爲子、〈撰者のはらからなり。〉

  「一すぢに暮れゆく秋ををしまばやあらぬなごりを思ひそへずて」。

又たれにか〈四字院イ〉

  「いかにしたひいかにをしまむ年々の秋にはまさる秋のなごりを」。

十月十五日、伏見殿へ御幸あり。かぎりのたびとおぼせばえもいはず引きつくろはる。ひさしの御車なり。上達部殿上人數しらず仕うまつり給ふ。世の政事なども新院にゆづり奉らせ給ひにしかば、御心しづかにのみ思されて、伏見殿がちにのみぞおはしましゝ程に、そこはかとなく御惱み月日へて文保元年九月三日かくれさせ給ひにき。伏見の院と申しき。御母玄輝門院、永福門院などの御歎思ひやるべし。御門は御輕服の儀なれば天下も色かはらず。この院姬君あまたおはしゝかど院號は章義門院、延明門院ばかりにておはします。二條富小路のむかし院のあとにあづまより造りて奉る內裏、この頃御わたましありしなどいといとおもしろかりき。近き事は人皆々御らんぜしかばなかなかにてとゞめつ。

     第十五 秋のみ山

文保二年二月廿六日、御門おりゐさせたまふ。春宮は既にみそぢにみたせ給へば、待遠なりつるにめでたくおぼさるべし。法皇都に出でさせ給ひて、世の中しろしめさる。龜山殿はさる事にて、近頃は大覺寺のほとりに御堂たてゝ籠りおはしましつゝ、いよいよ密敎の深き心ばへをのみ勤めまなばせ給へば、おのづからも京にいでさせ給ふ事なく、又參りかよふ人もまれなるやうにてかうさびたりつるを、引きかへ、事しけき世に行も懈怠し給へばむつかしくおぼさる。三月廿九日御即位なり。行幸の當日に左大將內經、花山院右大將家定行列を爭ひて、隨身どもわゝしくのゝしれば、御輿をおさへて、職事さうしくだしなどすめり。左大將の御父君は、內實のおとゞと聞えし。嘉元の頃俄にかくれ給ひしにかば、ぜふろくもしあへ給はざりしにより、今はたゞ人にてこそいますべければとて、かく爭ふとぞ聞えし。十月廿七日大甞會、淸暑堂の御神樂の拍子のために、綾小路の宰相有時といふ人、大內へまゐり侍るとて、車よりおりられざるほどに、いとすくよかなる田舍侍めくもの、太刀を拔きてはしりよるまゝに、あへなくうちてけり。さばかり立ちこみたる人の中にて、いとめづらかにあさまし。さて拍子俄にこと人うけたまはる。大事どもはてゝ後尋ねさたある程に、かい川の三位顯香といふひと、この拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、かゝる事をせさせけり。道にすけるほどはやさしけれども、いとむくつけし。さてかの三位はながされぬ。かくて今年はくれぬ。まことやこたみの春宮には、後二條院の一の御子定り給ひぬれば、御門坊にておはしましゝ時のまゝに、冷泉萬里小路殿寢殿にうつりすませ給へるに、きさらぎの頃軒ばの櫻〈梅イ〉さかりにをかしき夕ばえを御覽じて、內に奉らせ給ふ。かの花につけて、

  「なれにける花は心やうつすらむおなじのきばの春にあへども」。

御返しは南殿の櫻にさしかへたまふ。

  「花はげに思ひいづらむ春をへてあかぬ色香にそめしこゝろを」。

おりゐの御門は、御このかみの本院とひとつ持明院殿にすませ給ふ。もとより御子のよしにておはしませば、まいてひとつ院の內にて、いさゝかもへだてなく聞えさせ給ふ。いと思ふやうなる御ありさまなり。さるべき御中といへども、昔も今も御腹などかはりぬるはいかにぞや。そはそはしき事もうちまじり、くせあるならひにこそあるを、この院の御あはひまめやかにおもほしかはしたるいとありがたうめでたし。本院は廣義門院の御腹の一の御子を、この度の坊にやとおぼされしかど、ひき過ぎぬれば、いとはるけかるべき世にこそと、さうざうしくおぼさるべし。御歌合のついでなりしにや、

  「いろいろに都は春のときにあへどわがすむ山は花もひらけず」。

大覺寺殿には、ひきかへ馬車の立ちこみたるを御覽じて、法皇よませたまひける。

  「我すめばさびしくもなし山里もあさまつりごとをこたらずして」。

今のうへは、はやうより西園寺の入道おとゞ實兼の末の御むすめ兼孝の大納言のひとつ御腹にものし給ふを、忍びてぬすみ御覽じて、わく方なき御おもひ、年にそへてやんごとなうおはしつれば、いつしか女御の宣旨などきこゆ。ほどもなくやがて八月に后だちあれば、入道殿もよはひのすゑに、いとかしこくめでたしとおぼす。北山にまかで給へる頃行幸ありき。八月十五日の夜、名をえたる月も殊に光をそへたる、所がらをりからおもしろく、めでたき事ども華やかなるに、御姉の永福門院より、今の后の御方へ御消息聞えたまふ。

  「こよひしも雲ゐの月もひかりそふ秋のみやまをおもひこそやれ」。

「御返しはまろ聞えむ」とのたまはせて、內のうへ、

  「むかし見し秋のみやまの月かげをおもひいでゝや思ひやるらむ」。

みかどのおなじ御腹の前齋宮も皇后宮にたゝせたまふ。御母准后も院號ありて、談てん門院とぞきこゆめる。よろづ華やかにめでたき事どもしげう聞ゆ。內には萬里小路大納言入道師重といひしが女、大納言の典侍とていみじう時めく人あるを、堀川春宮の權大夫ともちかの君、いと忍びて見そめられけるにや、かの女かきけちうせぬとて、もとめたづねさせ給ふ。二三日こそあれ。ほどなくその人とあらはれぬれば、うへいとあさましくにくしとおぼす。やんごとなききはにはあらねど、御おぼえの時なれば、きびしく咎めさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣さまほしきまでおぼされけれども、さすがにてつかさ皆とゞめて、いみじうかうぜさせ給へば、かしこまりて、岩倉の山庄にこもりゐぬ。花の盛におもしろきをながめて、

  「うき事も花にはしばしわすられて春のこゝろぞむかしなりける」。

すけの君は歸りまゐれるを、つらしとおぼすものから、うきにまぎれぬ戀しさとや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしもあらず、さうじみはなほすき心ぞ絕えずありけむかし。

  「たえはつるちぎりをひとり忘れぬもうきもわが身の心なりけり」

とてひとりごたれける。すゑざまには公泰の大納言いまだ若うおはせし頃、御心とゆるして給はせければ、思ひかはしてすまれしほどに、かしこにてうせにき。御門の御母女院十一月うせ給ひにしかば、內のうへ御服たてまつる。天下ひとつにそめわたして、葦簾垂とかいとまがまがしきものども懸け渡したるも、あはれにいみじくぞ見ゆる。五節もとまりぬ。若き人々などさうざうしく思へり。當代もまたしきしまの道もてなさせ給へば、いつしかと勅撰のことおほせらる。前藤大納言爲世うけたまはる。玉葉のねたかりしふしも、今ぞ胸あきぬらむかし。この大納言のむすめ權大納言の君とて、坊の御時かぎりなくおぼされたりし御腹に、一の御子、女三のみこ、法親王などあまたものし給ふ。かの大納言の君はやうかくれにしかば、この頃三位おくらせ給ふ。贈從三位爲子とて、集にもやさしき歌おほく侍るべし。さて大納言は人々に歌すゝめて、玉津島の社にまうでられけり。大臣上達部よりはじめて、歌よむと思へるかぎり、この大納言の風を傳へたるは漏るゝものなし。子ども孫どもなど、いきほひことにひゞきてくだる。まづ住吉へまうづ。道遙しつゝのゝしりて、九月にぞ玉津島へまうでける。歌どもの中に、大納言爲世、

  「今ぞしるむかしにかへるわが道のまことを神もまもりけるとは」。

かくて元應二年四月十九日勅撰は奏せられけり。續千載といふなり。新後撰集とおなじ撰者の事なれば、多くはかの集にかはらざるべし。爲藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたるぬしにて、今すこしこの度は心にくきさまなりなどぞ、時の人々沙汰しける。院にも內にもあさまつりごとのひまひまには、御歌合のみしげう聞えし中に、元亨元年八月十五日夜かとよ、つねよりことに月おもしろかりしに、うへ萩の戶にいでさせ給ひて、殊なる御遊などもあらまほしげなる夜なれど、春日の御榊うつし殿におはします頃にて、絲竹のしらべはをりあしければ、例の唯うちうち御歌合あるべしとて、侍從の中納言爲藤召されて、俄に題たてまつる。殿上にさぶらふかぎり、左右おなじほどの歌よみをえらせたまふ。左內のうへ、春宮大夫公賢、左衞門督公敏、侍從中納言爲藤、中宮權大夫師賢、宰相雅繼、昭訓門院の春日〈爲世の女〉、右に藤大納言爲世、富小路大納言實敎、洞院中納言季雄、公修、宰相實任、少將內侍〈爲佐の女〉、忠定朝臣、爲冬、忠守などいふくすしも、この道のすきものなりとて召しくはへらる。衞士のたく火も月の名たてにやとて、安福殿へ渡らせたまふ。忠定中將、晝の御座の御はかしをとりてまゐる。殿上のかみの戶をいでさせ給ひて、無名門より右近の陣の前をすぎさせたまへば、遣水に月の映れるいと面白し。安福殿の釣殿に障子たてゝ、ひんがし面におはします。上達部は簀子の高欄にせなかおしあてゝ、殿上人は庭にさぶらひあへるもいとえんなり。池の御舟さしよせて、左右の講師たかすけ爲冬のせらる。御みきなどまゐるさまも、うるはしきことよりは艷になまめかし。人々の歌いたくけしきばみて、とみにも奉らず。いと心もとなし。照る月なみもくもりなき池のかゞみに、いはねどしるき秋のもなかは、げにいと殊なる空のけしきに、月もかたぶきぬ。明方ちかうなりにけり。うへの御製、

  「鐘のおともかたぶく月にかこたれてをしと思ふ夜はこよひなりけり」

と講じあげたるほど、景陽の鐘もひゞきをそへたるをりからいみじうなむ。いづれもけしうはあらぬ歌ども多く聞えしかど、御製の鐘の音にまされるはなかりしにや。かくて今年もまたくれぬ。明くる春〈元享二〉正月三日朝覲の行幸あり。法皇は御弟の式部卿のみこの御家、大炊御門京極〈常磐井殿〉といふにぞおはします。內裏は二條萬里小路なれば、陣の中にて大臣以下かちより仕うまつらる。關白內經、太政大臣道雄、左大臣實泰、右大將兼季、左大將冬敎、中宮大夫實衡、中納言には具親、公敏、爲藤、顯實、經定、宰相には實任、冬定、公明、光忠、中將は公泰、資朝、殿上人は頭中將爲定、修理大夫冬方をはじめて、のこるはすくなし。この院も池のすまひ山の木だちもとよりよしあるさまなるに、時ならぬ花の木ずゑをさへ造りそへられたれば、春の盛にかはらず咲きこぼれたるに、雪さへいみじく降りてのこる常磐木もなし。洲崎にたてる鶴のけしきも、千代をこめたる霞の洞は、誠にやまびとの宮もかくやと見えたり。京極おもての棟門に御輿おさへて、院司事のよしをそうす。亂聲ののち中門に御輿をよす。中門の下よりいづる遣水に、ちひさく渡されたるそりはしの左右に、兩大將ひざまづく。劔璽は權亮宰相中將公泰つとめられしにや、關白公卿の座の妻戶の御簾をもたげて、入れ奉らせたまふ。とばかりありて寢殿の母屋の御簾皆あげわたして、法皇いでさせたまへり。香染の御衣、おなじ色の御袈裟なり。御袈裟の箱御そばにおかる。內のうへ公卿の座より高欄をへたまふ。御供に關白さぶらひたまふ。階の間より出で給ひて、廂におまし奉りたれば、御拜したまふほど、西東の中門の廊に上達部おほくたちかさなりて、見やり奉る中に、內の御めのとの吉田の前大納言定房、まみいたうしぐれたるぞあはれに見ゆる。そのかみの事など思ひいづるに、めでたきよろこびの淚ならむかし。御拜をはりぬれば、又もとの道を經給ひて、公卿座に入らせ給ひぬ。法皇も內に入りたまひて、しばしありて左右の樂屋の調子とゝのほりてのち、又御門入らせ給ふ。法皇も同じ間の內に御しとねばかりにておはします。末のひさしに、內より參れる女房ども侍ふ。一の車に小大納言君〈師重の女〉、「うきも我が身」のとよみし人の妹の女なり。帥典侍〈資茂王女〉さぬき、こいまとかや、二の左〈如元〉に新兵衞、中宮內侍、後に准后と聞えにき。しりには夏引、いはねを、三の車に少將內侍、尾張內侍、しりに靑柳、今參りなど聞ゆ。上達部御前の座に着きてのち御だいまゐる。やくそう公泰宰相中將、陪膳右大將兼季、そのほど舞人ひざまづく。地下の舞はめなれたる事なれど、をりからにや、今日は殊におもゝちあしぶみもめでたく見ゆ。院の御おぼえにて、壽王といふ人、松殿のなにがしとかやが子なり、落蹲など舞ふと聞きしかど、夜もふけ雪もことにかきくらして、何のあやめも見えざりき。その後御まへの御あそびはじまる。頭大夫冬方御箱の蓋に御笛入れてもちて參る。關白とりて御前にまゐらせたまふ。右大將も笛、中宮大夫琵琶、大宮大納言笙、春宮大夫琴、右宰相中將和琴、光忠宰相篳篥。兼尊も吹きしにや。拍子左大臣、すゑ冬忠の宰相。更けゆくまゝにうへの御笛の音すみのぼりて、いみじくさえたり。左のおとゞの安名尊、伊勢のうみ限なくめでたく聞ゆ。事どもはてぬれば御贈物まゐる。錦の袋に入れたる御笛、箱の蓋にすゑらる。左大臣とりつぎて關白にたてまつる。御前に御らんぜさせて、冬方を召してたまはす。次に唐の赤地の錦の袋に、御琵琶入れてまゐる。その後御馬殿上人口をとりて、御まへにひきいでたり。ほのぼのと明くるほどにぞ歸らせ給ひぬる。法皇はやゝもすれば、大覺寺殿にのみ籠らせおはします。人々世の事ども奏しにまゐりつどふ。今は一すぢに御行にのみ御心入れ給へるに、いとうるさくおぼせば、その夏頃定房の大納言あづまへ遣さる。御門に天の下の事ゆづり申さむの御消息なるべし。大方はいとあさましうなりはてたる世にこそあめれ。かばかりの事は父御門の御心に、いとやすく任せぬべきものをとめざましけれど、きのふ今日にはじまりたるにもあらず。承久よりこなたはかくのみなりもてきにければなめり。內に近く侍ふ上達部などのなまはらぎたなき、わが思ふ事のとゞこほりなどするを、法皇をうれはしげに思ひ奉りて、此の事いかであづまより許し申すわざもがなと祈などをさへぞしける。かくて大納言ほどなく歸りのぼりぬ。御心のまゝなるべく奏したりとて、院のふどの議定所にうつされ、評定衆などせうせうかはるもあり。さて世をしたゝめさせ給ふ事、いとかしこうあきらかにおはしませば、昔に耻ぢずいとめでたし。御才もいとはしたなうものし給へば、萬の事くもりなかめり。三史五經の御論議などもひまなし。みな月の頃中殿の作文せさせ給ふ。題は式部大輔藤範奉る。久しかるべきは賢人の德とかや聞えしにや、女のまねぶべき事ならねば漏しつ。上達部殿上人三十餘人まゐれり。關白殿〈房實〉ばかり直衣にて、御几帳の後にさぶらはせたまふ。うへは御ひきなほし御琵琶〈玄上〉はひかせ給ふ。右大將〈實衡〉琵琶、春宮大夫〈公賢〉箏、權大納言〈親房〉笙、權中納言〈氏忠〉和琴、左宰相中將〈兼泰〉笙、右衞門督〈嗣家〉笛、右宰相中將〈光忠〉篳篥、拍子は例の左のおとゞ〈泰實〉、すゑは冬定なりしにや。うへの御琵琶の音いひしらずめでたし。右大將何にかあらむ、心とけてもかきたてられざりき。御遊はてゝのち文臺めさる。藏人內記俊基人々のふみをとりあつめて、一度に文臺のうへにおく。披講の終るほどに、みじか夜もほのぼのと明けはてぬ。御製を左のおとゞかへすがへす誦じて、うるはしく朗詠にしたまふ。こゑいとうつくし。をりふし郭公の一聲なのりすてゝ過ぎたるは、いみじくえんなり。かやうのまことしきことは、かねて人も心づかひすればあやまちなかるべし。ときにのぞみて俄にかたき題をたまはせて、うちうち詩をつくらせ歌をよませて、かしこくおろかなると御らんじわくに、いとからいことおほく心ゆるびなき世なり。その七月七日乞巧奠、いつの年よりも御心とゞめて、かねてより人々に歌どもめされ、ものゝ音どもゝ試みさせたまふ。その夜はれいの玄象ひかせたまふ。人々の所作ありし作文にかはらず。笛篳篥などは殿上人どもなる板のほどにさぶらひてつかうまつる。中宮もうへの御局にまうのぼらせ給ふ。御簾の內にも琴琵琶あまたありき。播磨の守なかきよのむすめ、今は左大臣の北の方にて、三位殿といふも箏ひかれけり。宮の御方のはりまの內侍も、同じく琴ひきけるとかや。琵琶は權大納言の三位殿〈師藤大納言女〉いみじき上手におはすれば、めでたうおもしろし。蘇香、萬秋樂、のこる手なく幾返となくつくされたる。明け方は身にしむばかり若き人々めであへり。さらでだに秋の初風はげにそゞろ寒きならひをことわりにや。御遊はてゝ文臺めさる。この度は和歌の披講なれば、その道の人々藤大納言爲世、子どもうまごども引きつれてさぶらへば、うへの御製、

  「ふえ竹のこゑも雲ゐにきこゆらしこよひたむくる秋のしらべは」。

ずんながるめりしかど、いづれも唯天の川かさゝぎのはしより外は、めづらしきふしは聞えず。まこと實敎の大納言なりしにや、

  「おなじくは空までおくれたきものゝにほひをさそふ庭の秋かぜ」。

げにえならぬ名香の香どもぞ、めでたくかうばしかりし。花も紅葉もちりはてゝ、雪つもる日數のほどなさに、又年かはりて正中元年といふ。やよひの二十日あまり、石淸水の社に行幸したまふ。上達部殿上人いみじき淸らをつくせり。關白殿は御車なり。右大臣實衡松がさねの下がさね、鶴のまるをおる。蘇芳のかたもんのきぬ、左大將經忠櫻萠黃の二重織物の御下がさね〈櫻に蝶をいろいろにおる。〉、花山吹のうへのはかま、紅のうちたる御ぞ、人よりことにめでたく見えたまふ。御かたちもにほひやかにけだかきさまして、誠に一の人とはかゝるをこそは聞えめと飽かぬ事なく見えたまふ。土御門の中納言顯實、花ざくらの下がさねなりき。花山院の中納言經定などぞ、上﨟の若き上達部にて、いかにもめづらしからむと世人も思へりしかど、家のやうとかや何とかやとて、たゞいつものまゝなり。公泰宰相中將劔璽の役つとめらる。櫻萠黃のうへのはかま、かばざくらの下がさね、山吹の浮織物のきぬ、紅のうちたるひとへを重ねられたり。白くまろく肥えたる人の眉いとふとくて、おいかけのはづれあなきよげと、たのもしくぞ見えられし。頭亮藤房樺櫻の下がさね、蘇芳の浮織物のきぬ、弟の職事季房も山吹の下がさね、くれなゐのきぬ、衞府のすけどもは、うちこみたれば見もわかず。別當左兵衞督資明、はしり下部とかやいふもの八人、太刀はみなしろがね延べたるにやと見ゆるに、鶴の丸をきにみがきたる、賴もしうきよげなり。舞人にもよき家の子どもをえらびとゝのへられたり。一の左に中院の前の大納言通顯の子通冬少將、まだいとちひさきに、童などもおなじ程なるを好みとゝのへて、いと淸らにいみじうしたてゝ、秦の久俊といふ御隨身をぞ具せられたる。右に久我の少將通宣いたくすぐしたるほどにて、ひげがちにねび給へるかたちして、小きに立ちならばれたる、いとたとしへなくぞ見えし。それよりつぎつぎは、むつかしさに忘れぬ。大將の隨身どもこそむかしの事はげには見ねばしらず。いとゆゝしくまことに花をおるとはこれにやとめでたうおもしろかりし。左大將殿の隨身は、赤地の錦の色も紋も目なれぬさまにこのましきを、情なきまでさながらだみて、ませに山吹を白がねにてうちものにして、ひしとつけたり。花の色かさなりなどまで、こまかにうつくし。露を水晶の玉にておきたる、朝日にかゞやきて、すべていみじうぞ見ゆる。西園寺の隨身もおなじ錦なれど、松をむすびて鶴のまろを白と黃とにうちてつけたる、山吹よりはにほひなく見ゆ。さまざまの神寶神馬みてぐらなど、夜もすがらのゝしりあかして、又の日の暮つかたかへらせ給ひぬ。おなじ卯月十七日、賀茂の社に行幸なる。上達部など多くはさきにおなじ。衣がへの下がさねども、けぢめなくすゞしげなり。別當の下部このたびは十二人、かちんに雉の尾をしろううちちがへてつけたり。これもけちえんにこのましげなり。明くる日は祭なれば、かんだちのかたうち續き華やかにおもしろし。今日の使は德大寺中將公淸なり。春宮大夫公賢の聟にておはすればにや、左大臣の大炊御門富小路の御家よりぞいでたゝれける。人がらといひよろづめでたく見ゆ。萠黃の下がさね御家の紋のもかうをいろいろに織りたりしにや、近比のつかひには似ずいといみじくきらめき給へり。中宮の使は亮藤房なり。この頃時にあひたるものなれば、いと淸げに劣らぬさまなり。その廿七日に任大臣の節會おこなはる。左大將經忠右大臣にならせ給ふ。內大臣冬敎左にうつりたまへば、右大將實衡內大臣になさる。又の日やがて右大臣殿大饗行ひ給へば、尊者には內大臣參り給ふ。近衞殿近頃は御惱みがちにてのみ臥し給へれど、今日の御悅にめづらしくいでゐさせ給へり。法皇は今は大覺寺殿にのみおはしませば、大炊御門式部卿のみこの御家を內大臣殿申しうけて、おなじ日大饗したまふ。尊者には右のおとゞ、やがて我が御家の大饗はつるまゝに、ひきつれてわたり給へり。あるじもまれ人も大將かねたまへば、隨身どもえならずけいめいして、かたみにけしきとりかはしたるいと面白し。あるじのおとゞ琵琶、右衞門督兼高篳篥、隆資朝臣笙、室町三位中將公春琴、敎宗朝臣笛、有賴宰相拍子とりて遊びくらし給ふ。御前の物どもなど、常の作法にことをそへてこまかにきよらなり。その後いくほどなく右大臣殿の御父君前關白殿家平、御惱重くなり給ひて御ぐしおろす。にはかなれば殿の內の人々いみじう思ひさわぐ。大かた若くてぞすこし女にもむつまじくおはしまして、この右大臣殿などもいでき給ひける。中頃よりは男をのみ御傍にふせ給ひて、法師の兒のやうにかたらひ給ひつゝ、ひとわたりづゝいと華やかに時めかし給ふ事けしからざりき。左兵衞督忠朝といふ人もかぎりなく御おぼえにて、七八年がほどいとめでたかりし。時すぎてその後は、成定といふ諸大夫いみじかりき。この頃は又隱岐守賴基といふもの、童なりし程よりいたくまどはし給ひて、昨日今日までの御召人なれば、御ぐしおろすにもやがて御供仕うまつりけり。病おもらせ給ふほども、夜晝御傍はなたずつかはせ給ふ。既にかぎりになり給へる時、この入道も御うしろにさぶらふに、よりかゝりながらきと御覽じ返して、「あはれ諸共にいでゆく道ならば、うれしかりなむ」とのたまひもはてぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ。かくいみじき御氣色にてはて給ひぬるを、心うしとおぼされけり。さてその後かの賴基入道も病みつきて、あと枕も知らずまどひながら、常は人にかしこまるけしきにて、衣ひきかけなどしつゝ、「やがて參り侍る參り侍る」とひとりごちつゝほどなくうせぬ。粟田の關白のかくれ給ひにし後、「夢見ず」となげきしものゝ心ちぞする。故殿のさばかりおぼされたりしかば、とりたるなめりとぞいみじがりあへりし。

     第十六 春のわかれ

卯月のすゑつかたより法皇御惱み重くならせ給へば天下のさわぎ思ひやるべし。御門もいみじくおぼしなげき、御修法どもいとこちたく、またまたはじめ加へさせ給へど、しるしもなくて日々におもらせ給へば、夜晝となく、「いかにいかに」ととぶらひ奉らせ給ふ。若き上達部などは、直衣にかしはばさみして、夜中曉となく、遙けき嵯峨野を料の御馬にて馳せありき給ふめり。今はむげにたのみなきよし聞ゆれば、大覺寺殿へ行幸ありし事おぼしいづ。萬の事ども聞えさせ給ふ。うへの一つ御腹の二品法親王性圓と聞ゆるを、いとかなしきものに思ひ聞えさせ給ひて、この大覺寺に、そこらのみさうみまきなどをよせおかる。法のあるじとしておはしますべくおぼしおきてけり。さやうの事など見給へざらむあと、後めたからぬさまなどぞ聞えさせ給ひける。その後御うまごの春宮行啓あり。世をしろしめさむ時の御心づかひなど、今すこしこまやかに聞えしらせ給ふ。宮は先帝の御かはりにもいかで心の限仕うまつらむと、あらましおぼされつるに、飽かず口をしうて、いたうしほたれさせ給ふ。御門の御なからひ、うはべはいとよけれども、まめやかならぬをいと心苦しとおぼさるれど、ことにいで給ふべきならねば、唯大かたにつけて、世にあるべき事ども、又この頃少し世にうらみあるやうなる人々の、我が御心にはあはれとおぼさるゝなどあまたあるをぞ、「御心のまゝなる世にもなりなむ時は、必ず御用意あるべく」など聞え給ひける。中御門の大納言經繼、六條の中納言有忠、右衞門督敎定、右衞門佐俊顯など聞えし人々の事にやありけむ、きてその夜とまり給へるもしろしめさで、夜うち更けて少し驚かせ給ひて、「春宮はいつかへり給ひぬるぞ」との給ふに、うちこわづくりて近く參り給へれば、「未だおはしましけるな」とて、いとらうたしとおぼされたる御氣色あはれなり。大方のけしき院の內のかいしめりたるありさまなど、よろづおぼしめぐらすに、いと悲しき事多かれば、宮うちなき給ひぬ。御心ぼそういみじとのみおぼさるゝに、正中元年六月廿五日終にかくれさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。御門又御服たてまつる。あけくれねんごろにけうじ奉り給ふさまいとかたじけなし。御母の皇后宮ときこえし今は達智門院と申すも、まいて一所をのみ賴み聞えさせ給へるに、心ぼそういみじとおぼし歎く事かぎりなし。むかしの內侍のかんの殿院號ありて、萬秋門院ときこゆるも、故院の御かげにてのみ過ぐし給へれば、より所なくあはれげなり。御四十九日は八月十日あまりの程なれば、世の氣色何となくあはれおほかるに、女院宮だちの御心のうちども、朝霧よりもはれまなし。十五夜の月さヘかきくもれるに、故院の御位の御時に、宰相典侍とてさぶらひしは、雅有の宰相のむすめなり。その世のふるき友なれば、おなじ心ならむとおぼしやるも、むつまじくて、萬秋門院のたまひつかはす。

  「あふぎみし月もかくるゝ秋なればことわりしれどくもるそらかな」。

いとあはれに悲しと見奉りて、御かへし、宰相典侍、

  「ひかりなき世はことわりの秋の月なみだそへてやなほくもるらむ」。

永嘉門院、西花門院などいづれもおぼし歎く人々おほかり。春宮もいと戀しく哀とのみ思ひ聞え給ふまゝには御法事をぞまめやかに勤めさせ給ひける。大覺寺にては、性圓法親王とりもちて行はせたまふ。御門春宮の御法事は龜山殿の大多勝院にてつとめらる。あはれあはれといひつゝも過ぎやすき月日のみうつりかはりて年もかへりぬ。をとゝしばかりより又重ねて撰集の事仰せられしを、爲世の大納言二たびになりぬればにや、爲藤の中納言にゆづりしを、いくほどなくかの中納言惱みてうせぬ。いといとほしうあはれなり。故爲道朝臣のうせにし、唯年月ふれど絕えぬうらみなるに又かくとり重ねたるなげき、大納言の心のうちいはむかたなし。春宮よりしばしばとぶらはせ給ふ御消息のついでに、

  「おくれゐる鶴のこゝろもいかばかりさきだつ和歌のうらみなるらむ」。

御かへし、大納言爲世、

  「おもへたゞ和歌の浦にはおくれゐて老いたるたづのなげくこゝろを」。

世に歌よむとおぼしき人のあはれがり歎かぬはなし。せめて勅撰の事撰びはつるまでなどかはとぞひとびとのなげきいとほしげなり。故爲道の中將の二郞爲定といふを、故中納言とりわき子にして何事もいひつけしかば、せんかのこともうけつぎて沙汰すべしなどぞ聞ゆる。大納言は、末の子爲冬の少將といふをいたくらうたがりてこのまぎれに引きや越さましと思へるけしきありとて爲定もうらみ歎きて、山伏すがたに出でたちて修行に出でうせぬるなどいひさたすれば、人々いとほしうあはれになどもてあつかへど、さすが求めいだして元のやうにおだしく定まりぬとなむ。その頃なが月ばかりまだしのゝめの程に世の中いみじくさわぎのゝしる。何事にかと聞けば美濃國の兵にて土岐の十郞とかや、また但見の藏人などいふものども忍びのぼりて四條わたりに立ちやどりたる事ありて人にかくれてをりけるを、早う又吿げしらするものありければ、俄にその所へ六波羅よりおしよせてからめとるなりけり。あらはれぬとや思ひけむ、かのものどもはやがて腹切りつ。又別當資朝、藏人內記俊基、おなじやうに武家へとられて、きびしくたづねとひまもりさわぐ。事のおこりは御門世をみだり給はむとてかの武士どもを召したるなりとぞいひあつかふめる。さてその宣旨なしたる人々とて、この二人をもあづまへ下して戒むべしとぞ聞ゆる。いかさまなる事の出でくべきにかといとおそろしくむづかし。故院おはしましゝ程は世ものどかにめでたかりしを、いつしかかやうの事ども出できぬるよし人の口安からざるべし。正應にも淺原といひしさわぎは後嵯峨院の御そうぶんを、あづまよりひきたがへし御恨とこそは聞えしかば、今も其の御憤の名殘なるべし。過ぎにし頃資朝も山伏のまねびして柹の衣にあやい笠といふ物きて、あづまの方へ忍びて下れりしは少しはあやしかりし事なり。早うかゝる事どもにつけて、あなたざまにも宣旨を受くるものゝありけるなめり。俊基も紀伊國へゆあみに下るなどいひなして田舍ありきしげかりしも今ぞ皆人思ひあはせける。さるまゝにはいひしらず聞ゆる事どもあればまだきにいと口をしうおぼされて、この事をまづおだしくやめむとおぼせば、かの正應にありしやうなるちかひの御せうそこをつかはす。宣房の中納言御使にてあづまに下る。大かたふるき御世よりつかへきて年もたけたるうへ、この頃は天下にいさぎよくうべうべしき人に思はれたる頃なれば、この事更に御門のしろしめさぬよしなどけざやかにいひなすに、荒きえびすどもの心にもいと忝き事となごみて、ぶいなるべく奏しけり。此の御使の賞にや宣房、大納言になされぬ。いといみじきさいはひなり。親は三位ばかりにて入道してき。子どもなどさへいと淸げにてあまたあめり。さればおほやけはしろしめされぬにても、かの人々は遁るべき方なしとて別當は佐渡國へながされぬ。俊基はいかにして遁れぬるにか都へかへりぬれど、ありしやうには出でつかへず籠り居たるよしなり。かやうにて事なくしづまりぬればいとめでたけれど、うへの御心のうちは猶安からず、いかならむ時とのみおもほしわたるべし。月日程なくうつりゆきて嘉曆元年にはなりぬ。やよひのはじめつ方より春宮例ならず坐しまして日々におもらせ給ふ。さまざまの御修法どもはじめ御祈なにやかやと伊勢にも御使たてまつらせ給へど、かひなくて三月二十日遂にいとあさましくならせ給ひぬ。宮の內火をけちたる心ちしてまどひあへり。御めのとの對の君といふ人夜晝御傍さらずさぶらひなれたるに、いみじき心まどひ誠にをさめがたげなり。かぎりと見え給ふ御顏にさしよりて、「かくのこりなき身を御覽じすてゝは、えおはしましやらじ。今一度御聲なりとも聞かさせ給ひて、いづ方へも御供にゐておはしましてよ」と聲も惜まずなき入り給へるさまいとあはれなり。すべて宮の內とよみかなしぶさまいはむかたなし。永嘉門院は御子もおはしまさねば年月このみやを故院聞えつけさせ給ひしかば、今もひとつ院におはします、御息所にもやがて故院の姬宮を女院の御傍にかしづき聞え給ひしをあはせ奉り給へれば、又なきさまにおぼしかはして過ぐさせ給へるなどいみじうしづみ入り給へり。さてあるべきならねば、常の行啓のさまにて先帝のおはしましゝ北白川殿へぞ入り奉らせ給ひぬる。土用のほどにてしばしかしこにおはしますさへいとかなし。院號などの沙汰もあるべくこそ。されどおはしましゝ時にその事はよしなかるべく仰せられおきしかば、內よりも聞しめしすぐしけり。晝の御座のよそひとりこぼち、火たきやなどかき拂ふ程猶うつゝともおぼえず。堀川の女御の「見えしおもひの」などのたまひけむは、この世ながら御心との御あかれなればうらやましくさへおぼゆ。さしあたりてのあはれはさしおきて、先帝の位ながらうせ給へりしだにあるを、又かくなかばなるやうにてあさましければ、世の人の思はむ事も心うく、一方ならぬ歎にそへたる憂へいはむ方なし。大方我が身をかぎりはてぬると思ふ人のみ多かり。有忠の中納言先坊の御使にてあづまに下りにし、いつしかと思ふさまならむ事をのみ待ち聞えつる。踐祚の御使の都に參らむと同じやうにのぼらむとていまだかしこにものせられつるに、かくあやなき事の出できぬればいみじともさらなり。三月三十日やがてかしこにて頭おろす。心のうちさこそはとかなし。

  「おほかたの春のわかれの外にまた我が世つきぬる今日のくれかな」。

都にも前の大納言經繼、四條三位隆久、山の井の少將あつすゑ、五辻の少將ながとし、公風の少將、左衞門佐としあきなど皆頭おろしぬ。女房には御息所の御方對の君、帥の君、兵衞督、內侍の君などすべて男をんな三十餘人さまかはりてけり。やんごとなき君の御時もかくばかりの事はいとありがたきを、佛などのあらはれ給ひて殊更にまよひふかき衆生を導き給ふかとまで見えたり。御本性のいとなごやかにおはしましゝかば、近う仕うまつるかぎりの人は年ごろの御名殘を思ふもいと忍びがたきうへ、大かたの世にもさしはなたれて身をようなきものに思ひすつるたぐひなど、さまざまにつけていとひそむくなるべし。若宮三所、姬宮などもおはしましけり。御息所の御腹にはあらねど、いづれをも今は昔の御かたみとあはれに見奉らせたまふ。卯月のすゑつかた夏木立心よげにしげりわたれるもうらやましくながめさせ給ふ。曉がた郭公のなきわたるもいかにしりてかと御淚のもよほしなり。

  「もろともにきかましものを郭公まくらならべしむかしなりせば」。

まことや例のさきに聞ゆべき事を時たがへ侍りにけり。兵衞督爲定、故中納言のあとをかけて撰びつる撰集の事正中二年十二月の頃、まづ四季を奏するよし聞えし。のこりこの程世にひろまれるいとおもしろし。御門ことの外にめでさせ給ひて續後拾遺とぞいふなる。中宮大夫師賢うけたまはりて、この度の集のいみじきよしさまざま仰せつかはせたるに御返しに、爲定、

  「いまぞしるひろひし玉のかずかずに身をてらすべき光ありとも〈は集〉」。

御返し、內の御製、

  「かずかずにあつむる玉のくもらねばこれもわが世の光とぞなる」。

この大夫はもとより中よきどちにて常に消息などつかはすに、かく世にほめらるゝをいとよしと思ひて兵衞督のもとへいひやる、

  「和歌の浦のなみもむかしにかへりぬと人よりさきにきくぞうれしき」。

かへし、

  「和歌の浦やむかしにかへる浪ぞともかよふこゝろにまづぞきくらむ」。

この爲定のはらから、中宮に宣旨にてさぶらふも、うへ例の時めかし給ひて若宮いでものし給へり。その宮の御めのとは師賢の大納言うけたまはりていみじうかしづき奉らる。又宮の內侍の御腹にも次々いとあまたおはします。一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせたまふ。二の御子もいときらきらしとて源大納言親房の御あづかりなり。かくさまざまにおはしますをこの度いかで坊にとおぼしつれど、かねてだにもよほし仰せられし事なればあづまより人まゐりて本院の一の宮を定め申しつ。いとけやけくきこしめせど、いかゞはせむにて七月廿四日に皇太子の節會行はる。陣の座より引きわたして持明院殿に人どもまゐる。院の殿上にて祿などたまはる。常の事なれど俄にいとめでたし。八月になりて陽德門院の土御門東の洞院殿へ行啓はじめあり。先坊の宮は鷹司なれば、ま近きほどに世のおとなひきこしめす。入道の宮女院などの御心のうち今さらにいとかなし。本院新院ひとつ御車にたてまつりて先立ちて入らせ給ふ。行啓は東の洞院おもての棟門に御車とゞめて中門まで筵道をしきて步み入らせたまふ。御びんづらゆひていときびはにうつくしげなり。十四ばかりにやおはしますらむ、宮づかさども院の殿上人など多くつかうまつり、花ひらけたる心ちどもすべし。あはれなる世のならひなりかし。かくて今年も暮れぬれば嘉曆も二年になりぬ。一の宮御かうぶりして中務卿尊良親王ときこゆ。去年より內に御とのゐ所してわたらせ給ふ。む月の十六日の節會にめづらしく出で給ふ。御門も德治の頃帥にて七日の節にいでさせ給へりしためしおぼしいづるにや、大方ふるくは皆さこそありけれど、近頃はいたくかやうにはなかりつるを、御子たち御かうぶりの後は孰も昔おぼえて、さるべきをりをりいでつかへさせ給ふめり。今日の節會は常よりことにひきつくろはるゝなるべし。みこはすはうの上のきぬ奉れり。左大臣冬敎右大臣經忠、內大臣基嗣、右大將公賢、權大納言顯實、藤中納言實任、別當光經、三條中納言實忠、左衞門督公泰、權中納言藤房、宰相惟繼、親賢、爲定、冬信、國資などまゐれり。二の宮は西園寺宰相中將實俊のむすめの御腹なり。帥の御子世良の親王ときこゆ。昭慶門院とりわき養ひ奉らせたまふ。この宮は御めのと源大納言親房なり。それもうちうちうへの御ぞにて御門南殿へ出でさせ給へば御供にさぶらはせ給ふ。又常磐井の式部卿宮は龜山院の御子なれど、當代といとねんごろなる御中にてこの御子だちと同じやうに常はうちつれ御殿居などせさせ給ふ。今日もまゐりて御子だち步み續かせ給へるいとおもしろし。若き女房など心づかひことなる頃ならむかし。きさらぎになればやうやう故宮の御一めぐりの事ども永嘉門院にはいとなませ給ふもあはれつきせず。鷹司の大殿もうせ給ひぬ。この頃の世にはいと重くやんごとなくものし給へるにいとあたらし。北政所は中院の內のおとゞ通重の御はらからなり。それもさまかはり給ひぬ。近頃よき人々おほくうせたまふさまこそいと口をしけれ。

     第十五〈如元〉 むら時雨

竹のそのふはしげゝれど、秋の宮の御腹には唯一品內親王ばかりものし給ふをいとあかずおもほしわたるに、この頃めづらしき御惱のよし聞ゆれば、いとめでたくあらまほしき御事なるべきにやとうへもいみじくおぼされて、かねてより御修法どもこちたく始めらる。ましてその程近くならせ給ひぬれば、式部卿の宮の常磐井殿へ出でさせ給ひて、うへも二三日へだてず通ひおはします。陣の內なれば上達部殿上人夜晝となく袴のそばとりて參りちがふ。御せうとの兼季のおとゞも絕えずさぶらひ給ふ。いみじき世のさわぎなり。故入道殿今しばしおはせましかばとおぼしいづる人々おほかり。山、三井寺、山科寺、仁和寺すべて大法祕法まつり祓かずを盡してのゝしるさまいと賴もし。七佛藥帥の法、靑蓮院二品法親王〈慈道〉つとめさせ給ふ。金剛童子常住院の道昭僧正、如意輪法道意僧正、五壇の御修法の中壇は座主の法親王行はせ給ふ。如法佛眼は昭訓門院の御志にて慈勝僧正うけたまはりたまふ。一字金輪は淨羅僧正、如法尊勝は桓守僧正、愛染王賢助僧正、六字法聖尋僧正、准胝法は達智門院の御沙汰にて信耀僧正つとむ。その外なほ本坊にて樣々の法ども行はせらる。六月ばかりいみじう暑き程に、壇ども軒をきしりて護摩の煙みちみちたるさまいとおどろおどろしきまでけぶたし。社々の神馬はさらにもいはず、藥師陰陽師かんなぎども立ち騷ぎ世のひゞくさまめでたくゆゝしきにも、もし皇子にておはしまさゞらむをりいかにと思ふだに胸つぶるゝに、いかなる御事にかあやしうさるべき程もうち過ぎゆけば、なほしばしはさこそあれと待ち聞ゆれど、さらにつれなくて十七八廿卅月にも餘らせ給ふまでともかくも坐しまさねば今はそらごとのやうにぞなりぬる。大かた上下の人の心ちあさましともいふべききはならず、御うぶやの儀式、あるべき事どもなどこちたきまでもよほしおかれ、よろしき家の子ども二親うち具したるえらばれしかど、こゝらの月頃にはあるはぶくになり、そのぬしも病して頭おろしなどすべてよろづあいなくめづらかなればいはむ方なし。前坊のはじめつかた、中院の內のおとゞ通重の御むすめ參り給ひて十八月にて若宮うまれ給へりしかど、やがて御子も母御息所もうせ給ひにしかば、いみじうあさましき事にいひさわぎし程に、又その後このとまり給へる入道の宮參り給へりしも、十七月ばかりにやたゞならずおはしまして、既に御氣色ありとて、宮の中たちさわぐ程に、たゞゆくゆくと水のみいでさせ給ひて、むかしの弘徽殿の女御の太秦にてありけむやうにてやみき。をりふし賀茂の祭の頃にて、春宮の使もとゞまりなどしてさやうのをりをり人の口さがなさ、せめても先坊の御かたざまの事をおとしめざまにいひなやまし、人々もこの頃ぞ又かくまさるためしもありけりと、はしたなく思ひあはせける。さのみやは、さてしもおはしますべきならねば、內へ歸り入らせ給ふにもいとあさましう珍らかなる事をおぼしなげくべし。御修法どもゝありしばかりこそなけれど猶少しづゝは絕えず、いつをかぎりにかと見えたり。その頃左のおとゞ實泰もうせ給ひぬ。世の中いみじくなげきあへり。かくて元德元年にもなりぬ。今年いかなるにかしばぶきやみはやりて人多くうせたまふ中に、伏見院の御母玄輝門院、前坊の御母代の永嘉門院、近衞大北政所などやんごとなきかぎりうち續きかくれ給ひぬれば、こゝかしこの御法事しげくていとあはれなり。かやうの事どもにて今年もまた暮れぬ。明くる春の頃、內には中殿にて和歌の披講あり。序は源大納言親房かゝれけり。かねてよりいみじう書かせ給へば人々心づかひすべし。題は花契萬春とぞきこえし。御製、

  「時しらぬ花もときはの色にさけわがこゝのへはよろづ代の春」。

中務卿尊良親王、

  「のどかなる雲ゐの花の色にこそよろづ代ふべき春は見えけれ」。

帥御子世良、

  「百敷の御がきの櫻さきにけりよろづ代ふべき千世のかざしに」。

つぎつぎおほかれどもむつかし。やよひの頃春日の社に行幸したまふ。例のいみじき見ものなれば棧敷どもえもいはずいどみつくしたり。其の後日吉の社にも參らせ給ひき。今年も人おほくにはかやみして死ぬる中に、帥の御子重くなやませ給ひていとあへなくうせ給ひぬ。內のうへおぼし歎く事おろかならず。一の御子よりも御ざえなどもいとかしこくよろづきやうざくに物し給へれば、今より記錄所へも御供に出でさせ給ふ。儀定などいふ事にも參り給ふべしと聞えつるにいとあさまし。御めのとの源大納親房、我が世盡きぬる心ちしてとりあへず頭おろしぬ。この人のかく世を捨てぬるを、親王の御事にうちそへてかたがたいみじく御門も口をしくおぼしなげく。世にもいとあたらしく惜みあへり。おなじ年の冬の頃、平野北野兩社に一たびに行幸なり、勸修寺の殿ばら、むかしより近衞司などにはならぬ事にてありつれど、內の御めのと吉田大納言定房過ぎにし頃從一位していとめづらしくめでたければ今は上﨟とひとしきにや、をさなき子の宗房といふも少將になさる。色ゆりなどしてこの平野行幸の舞人にまゐる。土御門大納言顯實の子に通房の中將、堀川の大納言子具雅の中將など皆よき君だち舞人にさゝれて、いづれも淸らに美くしう出でたちて仕うまつられたり。その外はくだくだしければ例のとゞめつ。かやうのめでたきまぎれにて過ぎもてゆく、又の年の春やよひのはじめつかた花御覽じに北山に行幸なる。常よりも殊におもしろかるべいたびなればかの殿にも心づかひし給ふ。まづ中宮行啓、又の日行幸、前の右のおとゞ兼季まゐり給ひて樂所の事などおきてのたまふ。康保の花の宴のためしなど聞えしにや、北殿のさじきにてうちうち試樂めきて家房朝臣舞はせらる。御廉の內に大納言二位殿、播磨內侍など琴かき合せていとおもしろし。六日の辰の時にことはじまる。寢殿の階の間に御しとねまゐりて內のうへおはします。第二の間に后の宮、その次永福門院。昭訓門院も渡らせたまひけるにや。階の東に二條前殿道平、堀河大納言具親、春宮大夫公宗、侍從中納言公明、御子左中辨爲定、中宮權大夫公秦など侍らはる。右のおとゞ兼季琵琶、春宮權大夫冬信笛、源中納言具行笙治部卿篳篥、琴は室町宰相公春、琵琶園宰相基氏など聞えしにや。その日の事見給はねばさだかにはなし。をさなきわらはべなどのしどけなくかたりしまゝなり。この中に御覽じたる人もおはすらむ。うけたまはらまほしくこそ侍れ」」といふ。「「御廉のうちにも、大納言二位殿琵琶、播磨の內侍箏、女藏人高砂といふも琴彈くとぞきこえし。まことにやありけむ。中務の宮もまゐり給へり。兵仗たまはり給ひて御直衣に太刀はき給へり。御隨身どもいと淸らにさうぞきて所えたるさまなり。萬歲樂より納蘇利まで十五帖手をつくしたるいとみどころおほし。靑海波を氣色ばかりにてやみぬるぞ飽かぬ心ちしける。暮れかゝるほど、花の木の間に夕日華やかにうつろひて山の鳥も聲をしまぬほどに、陵王のかゞやき出でたるはえもいはずおもしろし。その程うへも御引直衣にて倚子につかせ給ひて御笛吹かせたまふ。常より殊に雲ゐをひゞかすさまなり。宰相中將顯家、陵王の入あやをいみじうつくしてまかづるを召しかへして前關白殿御ぞとりてかづけ給ふ。紅梅のうはぎ二色のきぬなり。左の肩にかけていさゝか一曲舞ひてまかでぬ。右のおとゞ太鼓うち給ふ。その後源中納言具行採桑老を舞ふ。これも紅の打ちたるかづけ給ふ。又の日は無量光院の前の花の木蔭に上達部たちつゞき給ふ。廂に倚子立てゝうへはおはします。御遊はじまる。拍子に治部卿まゐる。うへも櫻人うたはせ給ふ。御聲いとわかく華やかにめでたし。去年の秋ごろかとよ、すけちかの中納言にこの曲はうけさせ給ひて、賞に正二位ゆるさせ給ひしも、今日のためとにやありけむといとえんなり。物の音どもとゝのほりていみじうめでたし。その後歌どもめさる。花を結びて文臺にせられたるは保安のためしとぞいふめりし。春宮大夫公宗序かゝれけり。

「海內艾安之世城北花開之春、我君保宸臨於此處調樂懸於厥中。重課六義之言葉、屢賞數柯之濃花、奉梢疑出雲之昔雲再懸、滿庭省廻雪之昨雪猶殘。雖風情憖瀝露詠。其詞曰

   時をえてみゆきかひある庭の面にはなもさかりのいろやひさしき」。

御製、

  「代々の御幸のあとゝ思へば」

このかみわすれ侍る。後にも見いだしてぞ。中務のみこ、

  「代々をへてたえじとぞ思ふこの宿の花にみゆきのあとをかさねて」。

誰も誰もこのすぢにのみ惑はれて花のみゆきの外はめづらしきふしもなければ、さのみしるしがたし。よろづ飽かず名殘多かれどさのみはにて九日に歸らせ給ひぬ。其の夏の頃御門例ならずおはしまして御藥の事などきこゆ。いと重くのみならせ給ふとて世の中あわてたるさまなり。時しもあれや、かの一年とられたりし俊基を又いかに聞ゆる事の出できたるにか、からめとらむとしければ內へ逃げてまゐるを、おひさわぎて陣のほとりまでものゝふどもうち圍みのゝしれば、こは何事と聞きわくまでもなし。いとものさわがしくきもつぶれてあるかぎり惑ひあへり。うへも物覺え給はぬ御ありさまにて大殿ごもれるに、かゝるよし奏すればいみじうおぼさる。遂に又の日六波羅へつかはしたればあづまへゐてくだりぬ。うへは御惱をこたらせ給ひて、いとゞ安からずおぼす事まされり。日頃も御心にかけさせ給へる事なれば速にこのあらまし遂げてむとひたぶるにおぼしたちて、忍びてこゝかしこにその用意すべし。后の宮の御腹の一品內親王御うらにあはせ給ひて去年の冬頃より御きよまはりありつる、今日明日齋宮に居給ふ。八月二十日まづ河原へいでさせたまひてやがて野の宮に入らせ給ふ。その程の事どもいみじうきよらなり。この御いそぎ過ぎぬればまづ六波羅を御かうじ〈たいじイ〉あるべしとてかねてより宣旨に從へりしつは者どもをしのびてめす。源中納言具行とりもちて事行ひけり。むかし龜山院に御子など產み奉りてさぶらひし女房、この頃は后の宮の御方にて民部卿三位と聞ゆる御腹に當代の御子もいでものし給へり。山の前の座主にて今は大塔の二品法親王尊雲と聞ゆる、いかでならはせ給ひけるにか弓ひく道にもたけく、大かた御本性はやりかにおはしてこの事をもおなじ御心におきてのたまふ。又中務のみこひとつ御腹に妙法院の法親王尊澄と聞ゆるは今の座主にてものし給へば、かたがた比叡の山の衆徒も御門の御軍に加はるべきよし奏しけり。つゝむとすれど事廣くなりにければ武家にもはやう漏れ聞きてさにこそあなれと用意す。まづ九重をきびしくかため申すべしなどさだめけり。かくいふは元弘元年八月廿四日なり。雜務の日なれば記錄所におはしまして、人の爭ひうれふる事どもを行ひくらさせ給ひて人々もまかで、君も本殿にしばしうち休ませ給へるに「今夜既に武士どもきほひ參るべし」と忍びて奏する人ありければとりあへず雲の上をいでさせたまふ。中宮の御方へわたらせ給ひてもしめやかにもあらずいとあわたゞし。かねておぼし設けぬにはあらねども、事のさかさまなるやうになりぬれば、よろづうきうきと我も人もあきれゐたり。內侍所神璽寳劔ばかりをぞしのびてゐてわたらせ給ふ。うへはなよらかなる御直衣たてまつり、北の對よりやつれたる女車のさまにてしのび出でさせ給ふ。かの二條院のむかしもかくやと思ひ出でらる。日頃の御用意にはまづ六波羅を攻められむまぎれに山へ行幸ありて、かしこへつはものどもを召して山の衆徒をも相具し、君の御かためとせらるべしと定められければ、かの法親王たちもその御心して坂本に待ち聞え給ひけれど、今はかやうに事たがひぬればあいなしとて俄に道をかへて奈良の京へぞ赴かせ給ふ。中務の宮も御馬にて追ひて參りたまふ。九條わたりまで御車にてそれより御門もかりの御ぞにやつれさせ給ひて御馬にたてまつるほど、こはいかにしつる事ぞと夢の心ちしておぼさる。御供に按察大納言公敏、萬里小路中納言藤房、源中納言具行、四條中納言隆資などまゐれり。いづれもあやしき姿にまぎらはして暗き道をたどりおはするほど、げに闇のうつゝの心ちして我にもあらぬさまなり。丑三つばかりに木幡山過ぎさせ給ふ。いとむくつけし。木津といふわたりに御馬とめて東南院の僧正のもとへ御消息つかはす。それより御輿を參らせたるに奉りて奈良へおはしましつきぬ。こゝに中一日ありて廿七日わづかの鷲峯山へ行幸ありけれども、そこもさるべくやなかりけむ、笠置寺といふ山寺へ入らせ給ひぬ。所のさまたやすく人の通ひぬべきやうもなく、よろしかるべしとて、木の丸殿のかまへを始めらる。これよりぞ人々少し心ちとりしづめて近き國々の兵などめしにつかはす。さて都には廿四日の夜、六波羅より常陸介時知馳せ參りて百敷の中をあさりさわぐ。其の程人の曹子などにおのづから落ち殘りたる女房の心ちいはむかたなし。おはしますおとゞを見れば、近き御づし御調度どもなにくれ硯などもさながらうち散りて、唯今までおはしましけるあとゝ見えながら宮人などだに一人もなし。女房の曹子曹子よりひすましめくめの童など我先にと走りいで、調度ども運び騷ぎくづれいづる氣色どもいとあさましくめもあやなり。錦の几帳の內にいつかれましましつる后の宮も、何の儀式もなく忍びてあわて出でさて給ひぬれば、あたりあたりかきはらひ、時の間にいとあさましく御簾几帳などふみしたきおとして火の影もせずこゝもかしこもくらがりてうちあれたる心ちす。今朝まで九重のまがき宮の中に出で入り仕へつる男女ひとりとまらず。えもいはぬものゝふどもうち散り、あらあらしげなるけはひについ松高くさゝげて、細殿、渡殿何くれまかげさしてあさりたるけしきけうとくあさまし。世はうきものにこそ。時の間にげに心あらむ人はやがて修行の門出にもなりぬべくぞ覺えぬる。中宮はしのびて野の宮殿の傍にぞおはしましつきにける。宣房の大納言の二郞季房の宰相ばかり御とのゐにさぶらふ。廿五日の曙に武士どもみちみちて、御門の親しく召しつかひし人々の家々へ押しいり押し入りとりもてゆくさま、ごくそつとかやの顯れたるかといとおそろし。萬里小路の大納言宣房、侍從中納言公明、別當實世、平宰相成輔一度に皆六波羅へゐて行きぬ。かやうの事を見るにいとゞ膽心もうせて、おのづからとりのこされたる人も心と皆かきけち行きかくるゝほどに、ぬしなき宿のみぞおほかる。坂本には行幸をまち聞え給ひけるに引きたがへ南ざまへおはしましぬれば、そのよし衆徒に聞かれなばあしかりぬべし、又とまれかくまれ、まことのおはしまし所を、あぶなく武家へ知らせじのたばかりにやありけむ、花山院の大納言師賢を山へつかはして忍びて御門のおはしますよしにもてないて、かの兩法親王事行ひ給ひつゝ、六波羅のつはものどものかこみをも防がせ給ふ。その日は大納言も大塔の前座主の宮もうるはしきものゝふ姿にいでたゝせ給ふ。卯花をどしの鎧に鍬形の兜たてまつりて大矢おひてぞ坐する。妙法院の宮はすゞしの御衣の下に萠黃の御腹卷とかや着給へり。大納言はからの香染の薄物の狩衣にけちえんに赤き腹卷をすかして、さすがに卷繪の細太刀をぞはき給ひける。六波羅より御門こゝにおはしますと心えて武士どもおほくまゐりかこむ。山法師もたゝかひなどして海東とかやいふつはもの討たれにけり。事のはじめにひんがしうせぬるめでたしなどぞいふめる。かゝれども御門笠置におはしますよし程なくきこえぬれば、謀られ奉りにけるとて山の衆徒もせうせう心がはりしぬ。宮々も逃げいでたまひて笠置へぞまうで給ひける。大納言は都へまぎれおはすとて、夜ふかく志賀の浦を過ぎ給ふに、有明の月くまなくすみわたりて寄せかへる浪の音もさびしきに、松ふく風の身にしみたるさへとりあつめ心ぼそし。

  「思ふ事なくてぞみましほのぼのとありあけの月の志賀のうら波」。

その後辛うじてぞ笠置へはたどり參られける。かやうの事どもゝ例のはや馬にてあづまへ吿げやりぬ。唯今の將軍はむかし式部卿久明親王とて下り給へりし將軍の御子なり。守邦の親王とぞ聞ゆる。相摸の守高時といふは病によりて、いまだわかけれど一とせ入道して今は世の大事どもいろはねど鎌倉のぬしにてはあめり。心ばへなどもいかにぞや。うつゝなくて朝夕このむ事とては犬くひ田樂などをぞあひしける。これは最勝園寺入道貞時といひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれる。この頃私のうしろみには長崎入道圓基とかやいふものあり。世の中の大小事唯皆この圓基が心のまゝなれば、都の大事かばかりになりぬるをもかの入道のみぞとりもちておきて計らひける。重き武士ども多くのぼすべしと聞ゆ。大かた京も鎌倉もさわぎのゝしるさまけしからず。承久のむかしもかくやと今さらに思ひやらる。持明院殿には春宮おはしませば、思の外にめでたかるべき事なれど、今日あすはいまだ軍のまぎれにて何のさたもなし。御とのゐのものゝうべうべしきもなくて離れおはしますもあぶなき心ちすればにや、せめても六波羅近くとて六條殿へ本院、新院、春宮引き續きてうつらせ給ひぬれど、日にそへて天の下さわぎおそろしき事のみ聞ゆれば、猶これも危しとて六波羅の北に代々の將軍の御料とてつくりおける檜皮屋ひとつあるに兩院、春宮まゐらせ給ふ。大かたはいとものしきやうなれどよろしき時こそあれ、かばかりのきはには何の儀式もなかるべし。笠置殿には大和河內伊賀伊勢などより兵ども參りつどふ。中に事のはじめより賴みおぼされたりし楠木兵衞正成といふものあり。心猛くすくよかなるものにて河內國におのがたちのあたりをいかめしくしたゝめて、このおはします所若し危からむをりは行幸をもなしきこえむなど用意しけり。あづまのえびすどもゝやうやう攻め上るよしきこゆ。もとより京にある武士どもゝ我先にときほひまゐる。木の丸殿には、さこそいへ、むねむねしきものなし。いかになりゆくべきにかといと物心ぼそくおぼしみだる。我が御心もての事なればかこつかたなけれど、故鄕の空もあはれにおぼしいでらる。秋も深くなりゆくまゝに山の木の葉のうちしぐれ、谷の嵐のおとづるゝもあたのきほふかと膽をけす。御すまひいつしか御身をかへたる心ちし給ふもあぢきなし。

  「うかりける身を秋風にさそはれて思はぬ山のもみぢをぞみる」。

既にあづまぶしども雲霞のいきほひをたなびき上るよし聞ゆれば、笠置にもいみじう思しさわぐ。もとよりいとけはしき山の深きつゞらをりをえもいはず木戶、逆木、石弓などいふ事どもしたゝめらる。さりともたやすくは破れじと賴ませ給へるに、後の山より御かたきくづれ參りて、木戶ども燒きはらひ、おはしますあたり近く既に煙もかゝりければ、今はいかゞせむにてあやしき御姿にやつれてたどり出でさせ給ふ。座主の法親王尊澄御手をひき奉り給へるもいとはかなげなる御ありさまなり。中務の御子大塔の宮などはかねてよりこゝを出でさせ給ひて楠がたちにおはしましけり。行幸もそなたざまにやとおぼし心ざして、藤房具行兩中納言、師賢の大納言入道手をとりかはしてほのぼの中をまぬがれいづる程の心ちども夢とだに思ひもわかずいとあさまし。少しのびさせ給ひてぞ御馬たづね出でゝ、君ばかりたてまつりぬれどならはぬ山路に御心ちも損はれて、誠にあやふく見えさせ給へば、たかまの山といふわたりにしばし御心ちをためらふ所に、山城國の民にて、ふかすの五郞入道とかいふもの參りかゝりて案內聞えたるしもいとめざましう口をし。上達部思ひやるかたなくて唯目を見かはしていかさまにせむとあきれたるに、あづまより上れる大將軍にてみちの國の守貞直といふもの大勢にて參れり。今はたゞともかくものたまはすべきやうなければ、遂にかひなくてかたきのために御身をまかせぬるさまなり。やがて宇治にみゆきあるべきよし奏すれば、御心にもあらでひかされおはします程に、心うしといふもなのめなり。具行、藤房、忠顯少將などやがておのが手のものどもに從へさせつ。大納言入道御馬のしりに走りおくれてこゝかしこの岩かげ木のもとに休みつゝ、とかくためらふ程に、それも見つけられてとられぬ。君をば宇治へ入れ奉りて、まづ事のよし六波羅へ聞ゆる程に、一二日御逗留あり。かくいふは九月三十日なれば空のけしきさへ時雨がちに淚もよほしがほなり。平等院の紅葉御覽じやらるゝもかゝらぬ行幸ならばとあいなし。後冷泉院かとよ、こゝに行幸し給ひて三四日おはしましける。その世の人の心ち上下何事かはと、うらやましくあはれにおぼさる。十月三日都へ入らせ給ふも思ひしにかはりて、いとすさまじげなるものゝふども衞府のすけの心ちして御輿近くうちかこみたり。鳳輦にはあらぬ網代輿のあやしきにぞたてまつれる。六波羅の北なる檜皮屋にはもとより兩院、春宮おはしませば、南の板屋のいとあやしきに御しつらひなどしておはしまさするもいとほしうかたじけなし。間近きほどによろづきこしめし、御覽じふるゝことごとにつけてもいかでか御心動かぬやうはあらむ、口をしうおぼしみだる。ならはぬ御やどりに時雨の音さへはしたなくて、

  「まだなれぬいたやの軒のむら時雨音をきくにもぬるゝ袖かな」。

中務の宮は正成がもとにおはしましつれど、御門のかくならせ給ひぬれば今はかひなしとてそれも都へ入らせ給ひて、佐々木判官時信といふものゝ家にわたり給ひぬ。つれづれと物おぼしみだるゝより外の事なし。

  「世のうさを空にもしるや神無月ことわりすぎてふるしぐれかな」。

この御子は藤大納言爲世のうまごにてものし給へばかの家に常はすみ給ひしほどに大納言の末のむすめ大納言の典侍と聞ゆるに御覽じつきてその御腹に姬宮などいできたまへり。又中宮の御匣殿は、宮の御せうとの右のおとゞ公顯と聞えし御むすめなり。その御腹にも男みこなど坐します。思ふまゝなる世をも待ちいで給はゞと誰も行く末たのもしく思ひ聞えつるに、かくおもひの外にあさましき事の出できぬるを深う思ひなげく人々かずしらず。御匣殿はうせ給ひしかばこの頃はたゞこの典侍の君をのみまたなきものにおぼしかはしつるに、吹きかふ風もま近きほどにはおはすれど御對面はおもひもよらず。おぼつかなさの慰むばかりなる御消息などに通ふこともかなはぬ御ありさまを哀にいぶせくおぼしむすぼゝれたり。ひとつ御腹の座主の法親王も長井のたかひろとかやいふものあづかりたてまつりぬ。「御門遠くうつらせ給はむほど、この御子達もおのがちりぢりになり給ふべし」など聞えけり。春宮は世をつゝしみて六波羅に渡らせ給ふ。先帝はあたのために同じ御やどり葦垣ばかりをへだてにておはしませば、ぬしなき院のうちいとさびしくて衞士のたく火もかげだに見えず。內にはいつしかけしかるものなどすみつきて或時は紅の袴長やかにふみたれて火ともしたる女、見るまゝに丈は軒とひとしくなりて後にはかきけち失するもあり。又いみじう光を放ちて髮前にみだしかけたる童なども見えけり。鬼殿などはかくやありけむとおそろし。人すまで年へあれぬる所などにこそかゝる事もおのづからありけれ、僅に一月二月の中にかゝるべきにはあらぬを、これかれと怪しきわざなるべし。さて例のあづまより御使のぼれり。代々のためしとかやとて、あい田の城のすけ高景、二階堂出羽の入道道雲とかやいふものぞ參れる。西園寺大納言公宗に事のよし申して春宮御位につき給ふ。さるべき御中といひながら今日あすとは見えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅よりこの度は世のつねの行啓の儀式にて持明院殿へ入らせ給ふ。兩院もひきつくろひたる御幸のよしなり。ひしめきたちぬる世の音なひを聞しめす先帝の御心ちたとしへなくねたく人わろし。もとの內裏へ新帝うつらせ給ふ。上達部のこりなく仕うまつらる。院も常磐井殿へおはしまいて世の政事聞しめせば、後宇多院のむかし思ひ出でられてあはれなり。いつしか十月十二日令旨下されて前の御代の人々大中納言宰相すべて十人、宣房、公明、藤房、具行、隆資、實世、實治、季房、隆重、忠顯司やめらるゝよしきこゆるも、昨日までの時の花と見えし人々つかのまの夢かとあはれなり。かゝるにつけては一御ぞうのみ今はわく方なく定り給ふべきかと、世の人も思ひきこゆる程に、龜山院の御流の絕ゆべきにはあらずとにや、先坊の一宮を太子にたてまつる。御乳母の雅藤の宰相の法性寺の家に渡らせ給へるを、土御門高倉の先坊の御跡へ入れ奉りて十一月八日坊に定まり給ふ。今は思ひたえぬる心ちしつるにいとめでたし。松が浦島に年經給ひぬる入道の宮も御親の心ちにて坐しますべければ、太上天皇になずらへて崇明門院ときこゆ。よろづ斧の柄朽ちにしむかしを改めたる宮のうちなり。ありし後おのがさまざままかで散りける女房、上達部殿上人など世の中くんじいたくて、こゝかしこに籠り居たりしもいつしかと參りつどふさま、谷の鶯の春待ちつけたる心ちしていとたのもしげなり。傅に久我の右のおとゞ長通、大夫に中院の大納言通顯なり給ふ。なべて世に年頃うづもれたりし人々いつしかと司位さまざまに思ふまゝなる氣色ども目の前にうつりかはる世のありさま、今さらならねど、いとしるくけちえんなるもあぢきなし。かくて年もくれぬ。

     第十六〈如元〉 久米のさら山

元弘二年の春にもなりぬ。新しき御代の年のはじめには思ひなしさへ華やかなり。うへも若うきよらにおはしませばよろづめでたく百敷の內何事もかはらず。さるべき公事のをりをり、さらでも院、內おなじ陣の中なれば一つに立ちこみたる馬車ひまなくにぎゝはしけれど見し世の人はひとりもまじろはず、參りまかづる顏のみぞかはれる。先帝はいまだ六波羅におはします。きさらぎの頃空の氣色のどやかにかすみわたりて、ゆるらかに吹く春風に軒の梅なつかしくかをりきて鶯の聲うらゝかなるも、うれはしき御心ちにはものうかるねにのみ聞しめしなさる。ことやうなれどかの上陽人の宮の內思ひよそへらる。長き日かげもいとゞくらし難き御なぐさめにとや聞え給ひけむ、中院より御琵琶奉らせ給ふついでに、いさゝかなる物のはしに、

  「思ひやれちりのみつもる四つの緖にはらひもあへずかゝるなみだを」。

げにとおぼしやるにいとかなしくて玉水のながるゝやうになむ。御かへし、

  「かきたえしねをたちいでゝ君こふるなみだの玉の緖とぞなりける」。

かの承久のためしにとや、あづまよりの御使には長井の右馬助高冬といふものなるべし。これは賴朝の大將の時より鎌倉に重きものゝふにて、いまだ若けれどもかゝる大事にものぼせけるとぞ申しける。遂に隱岐國へうつし奉るべしとて、やよひのはじめの七日都を出でさせ給ふ。今はと聞しめす御心まどひどもいへばさらなり。所々のなげき近うつかまつりし人々の心ちどもおき所なくかなし。御門もかぎりなく御心惱むべし。いとかうしも人に見えじとかつはおぼししづむれど、あやにくにすゝみ出づる御淚をもてかくしつゝおはします。ふりにし事をおぼしいづるにも、立ちかへりまた世をやすくおぼさむ事のいとかたければ、よろづ今をとぢめにこそとおぼしめぐらすに人やりならず口をしき契加はり侍る。前の世のみぞつきせずうらめしき。

  「つひにかく沈みはつべき報あらばうへなき身とはなにうまれけむ」。

卯の時ばかりにいでさせ給ふ。網代の御車に御せんどもなどは故院の御世より仕うまつりなれにし者どもあるかぎりまゐれり。御車寄に西園寺中納言公重さぶらひたまふ。うへは御かうぶりに世の常の御直衣、指貫、白綾の御ぞ一かさね奉れり。こぞの今日は北山にて花の宴せさせ給ひしもあはれにおぼしいでられて、その日の事書きつらねこひしくおぼさる。人々の祿人にこそはたまはせしを、今日は御旅衣にたちかふるもあはれに定なき世のならひ、今さらこゝろうし。御車にたてまつるとて日頃おはしましつる傍の障子に書きつけさせたまふ。

  「いさしらずなほうき方のまたもあらばこのやどゝてもしのばれやせむ」。

御供には內侍の三位殿、大納言、小宰相など、男には行房の中將忠顯少將ばかりつかまつる。おのがじゝ都の名殘どもいひつくしがたし。六波羅よりの御おくりの武士、さならでも名あるつはものども千葉介貞胤をはじめとしておぼえことなるかぎり十人選びて奉る。いろいろのあやにしきの水干直垂などいふものさまざまに織りつくし染めつくしていみじき淸らを好みとゝのへたれば、かくてしも世にめづらしき見ものなり。六波羅より七條を西へ大宮を南へをれて東寺の門前に御車おさへらる。とばかり御念誦あるべし。物見車所せきほどなり。よろしき女房もつぼさうぞくなどしてかちの物どもゝうちまじれり。さらでも老いたるも尼法師あやしき山がつまで立ちこみたるさま竹の林に異ならず。おのおの目押しのごひ鼻すゝりあへるけしきどもげにうき世のきはめは今につくしつる心ちぞする。崇德院の讃岐におはしましけむ程のありさま、後鳥羽院の隱岐にうつらせ給ひけむ時なども、さこそはありけめなれど音にのみ聞きて見ねばしらず。これを始めたる心ちぞする。日頃は何の御にほひにもふれず。數ならぬ人及ばぬ身までも今日の御別のあはれさ、なべておき所なげにぞ惑ひあへるかし。君も御簾少しかきやりてこのもかのも御覽じわたしつゝ御目とまらぬ草木もあるまじかめり。岩木ならねばものゝふの鎧の袖どもゝしほどけにぞ見ゆる。都のこずゑをかくるゝまで御覽じおくるも猶夢かとおぼゆ。鳥羽殿におはしましつきて御よそひあらため、わりごなどまゐらせけれど氣色ばかりにてまかづ。これより御輿にたてまつれば留るべき御ぜんどもの、空しき御車をなくなくやりかへるとてくれまどひたるけしき、いと堪へがたげなり。かくて君は遙に赴かせたまふ。淀のわたりにて、むかし八幡の行幸ありし時橋わたしの使なりし佐々木の佐渡の判官といふもの今は入道して今日の御おくりつかうまつれるに、その世の事おぼしいでられていと忍びがたさに給はせける。

  「しるべする道こそあらずなりぬとも淀のわたりはわすれしもせじ」。

又の日は中務のみこ土佐の國へおはします。御供に爲明中將まゐる。日頃かくあやしき御やどりにものし給ふを忝く思ひきこえつるに、遙なる世界にさへゐておはしませば、ましていかさまなるわざをして御覽ぜられむとあるじ時信けいめいしさわぐ。宮既にたゝせ給ふとて、甁にさしたる花を折りて、

  「花はなほとまるあるじにかたらへよわれこそ旅にたちわかるとも」。

おなじ日やがて妙法院の座主尊澄法親王も讃岐國へおはします。先帝は今日津の國こやの宿といふ所に着かせ給ひて、夕づく夜ほのかにをかしきをながめおはします。

  「いのちあればこやの軒端の月も見つまたいかならむゆくすゑのそら」。

こやより出でさせ給ひて武庫川、神崎、難波、住吉など過ぎさせ給ふとて御心のうちにおぼすすぢあるべし、廣田の宮のわたりにても御輿とゞめて拜み奉らせ給ふ。あしやの松原、すゞめの森、布引の瀧など御覽じやらるゝもふるき御幸どもおぼしいでらる。生田の里をばとはで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿につかせ給へるに、中務の宮はこやのしゆくにおはしますほど、ま近く聞き奉らせ給ふもいみじうあはれにかなし。宮、

  「いとせめてうき人やりの道ながらおなじとまりと聞くぞうれしき」。

福原の島より宮は御船にたてまつる。御門は和田のみさき苅藻川をわたして須磨の關にかゝらせ給ふ。かの行平の中納言「關ふきこゆる」といひけむはうらよりをちなるべし。あはれに御覽じわたさる。源氏の大將の「なくねにまがふ」とのたまひけむうらなみ、今もげに御袖にかゝる心ちするもさまざま御淚のもよほしなり。播磨の國へつかせ給ひて、しほやたるみといふ所をかしきを問はせ給へば、「さなむ」と奏するに「名を聞くよりからき道にこそ」とのたまはせて、さしのぞかせ給へる御さまかたちふりがたくなまめかし。けぢかきかぎりはあはれにめでたうもと思ひ聞ゆべし。大くら谷といふ所少し過ぐるほどにぞ人麿のつかはありける。明石の浦をすぎさせ給ふに、島がくれゆく船どもほのかに見えてあはれなり。

  「水のあわのきえてうき世をわたる身のうらやましきはあまの釣舟」。

野中のしみづ、ふたみの浦、高砂の松など名ある所々御らんじわたさるゝもかゝらぬ御幸ならばをかしうもありぬべけれど、よろづかきくらす御みだり心ちに御目とまらぬも我ながらいたうくんじにけるかなとおぼさる。いと高き山の峯に花おもしろく咲きつゞきて白雲をわけゆく心ちするも艷なるに、都の事かずかずおぼしいでらる。

  「花はなほうき世もわかずさきてけりみやこも今やさかりなるらむ。

   あと見ゆるみちのしをりのさくら花この山びとのなさけをぞしる」。

十二日にかこ川の宿といふ所におはします程に、妙法院宮讃岐へわたらせ給ふとて、同じ道少しちがひたれど、この川のひんがし野ぐちといふ所まで參り給へるよし奏せさせ給へば、いと哀にあひ見まほしうおぼさるれど、御送のつはものども許し聞えねば、宮空しく歸らせ給ふ御心のうち堪へがたく亂れまさるべし。さらなる事なれど、かばかりの事だに御心にまかせずなりぬる世の中、いへばえにつらくうらめしからぬ人なし。十七日美作の國におはしましつきぬ。御心ちなやましくてこの國に二三日やすらはせ給ふほど、かりそめの御やどりなれば物深からでさぶらふかぎりのものゝふども、おのづからけぢかく見奉るをあはれにめでたしと思ひ聞ゆ。君もおぼし續くる事ありて、

  「あはれとはなれも見るらむ我が民を思ふこゝろはいまもかはらず」。

おはしますに續きたる軒のつまより煙の立ちくれば、「いほりにたける」とうち誦ぜさせ給へるもえんなり。

  「よそにのみ思ひぞやりしおもひきや民のかまどをかくや見むとは」。

廿一日雲淸寺といふ所にて、いとおもしろき花を折りて忠顯少將そうしける。

  「色も香もかはらぬしもぞうかりけるみやこのほかの花のこずゑは」。

又小山の五郞とかやいふ武士におなじ花をやるとて、少將、

  「うきたびと思ひははてじ一えだの花のなさけのかゝるをりには」。

かくてなほおはしませば、こし方はそこはかとなくかすみわたりてあはれに遠くもきにけるかなと、日數にそへて都のいとゞ隔たりはつるも心ぼそうおぼさる。ほのかに咲きそむと見えし花の梢さへ、日數も山もかさなるにそへてうつろひまさりつゝ、上り下るつゞらをりにいと白く散りつもりてむらぎえたる雪の心ちす。

  「花の春また見むことのかたきかなおなじ道をばゆきかへるとも」。

いとかたしとおぼすものから、猶さりともたひらかにだにあらばおのづから御本意遂ぐるやうもありなむなど御心もて慰めおぼすもはかなし。久米のさら山といふ所越えさせ給ふとて、

  「きゝおきしくめのさら山越えゆかむ道とはかねて思ひやはせし」。

逢坂といふは東路ならでもありけりときこしめして、

  「立ちかへりこえゆく關とおもはゞやみやこにきゝしあふ坂の山」。

みか月の中山にて、昔後鳥羽院の仰せられけむ事おぼしいづるさへげにうかりけるためしなり。

  「傳へきくむかしがたりぞうかりけるその名ふりぬるみか月の森」。

御道なかばになりぬれば御送のものども上下、都いでしよりも猶華やかに今めかしうさうぞきかへたり。大方はあやしうさまことなる御幸なれど、道すがらの御まうけ國々に心づかひしたる氣色などはかうざまの御ありきとは見えず、いとやんごとなくなむ。さはいへど今まで國のあるじにて世をもいみじう治めさせ給へりける名殘にやあらむ、いとねんごろにのみつかうまつれり。「いにしへの御幸どもにはかうはあらざりけり」とぞふるき事知れる人々いひ侍りける。四月一日の頃、百敷の宮の內おぼしいでられて

  「さもこそは月日もしらぬ我ならめ衣がへせし今日にやはあらぬ」。

出雲の國やすぎの津といふ所より御船にたてまつる。大船二十四艘、小舟どもはしに數知らずつけたり。遙におしいだすほど今一かすみ心ぼそうあはれにて、まことに二千里の外の心ちするも今さらめきたり。かの島におはしましつきぬ。昔の御跡はそれとばかりのしるしだになく、人のすみかもまれに、おのづから蜑の鹽やく里ばかりはるかにていとあはれなるを御覽ずるにも、御身のうへはさしおかれて、まづかの古への事おぼしいづ。かゝる所に世をつくし給ひけむ御心のうちいかばかりなりけむと、哀に忝くおぼさるゝにも、今はたさらにかくさすらへぬるも何により思ひたちし事ぞ、かの御心のすゑやはたし遂ぐると思ひしゆゑなり、苔の下にもあはれとおぼさるらむかしとよろづにかき集めづきせずなむ。海つらよりは少し入りたる國分寺といふ寺をよろしきさまにとり拂ひておはしまし所にさだむ。今はさはかくてあるべき御身ぞかしとおぼししづまるほど、猶夢の心ちしていはむ方なし。そこら參りしつはものどもゝまかづれば、かいしめりのどやかになりぬるいとゞ心ぼそし。昔こそ受領どもゝ任のほどその國をしたゝめ行ひしか、この頃は唯名ばかりにて、いづくにも守護といふものゝ目代よりはおそましきをすゑたれば、武家のなびきにてのみおほやけざまの事はよろづおろそかにぞしける。葛城の大君をみちの國へ遣したりけむもかくやとあはれなり。中務の御子も土佐におはしましつきて御おくりの武士にたまはせける。

  「思ひきやうらめしかりし武士のなごりを今日はしたふべしとは」。

かやうのたぐひあまた聞えしかど、何かはさのみ皆人もゆかしからずおぼさるらむとてなむ。都には三月廿二日御即位の行幸なれば世の中めでたくのゝしる。本院新院ひとつにたてまつりて待賢門院のほとりに御車立てゝ見奉らせ給ふ。よろづあるべきさまにとゝのほりてめでたし。まことや中宮はそのまゝに御ぐしもたぐる時もなく沈み給へる御ありさまいとことわりに、遠き御別のかなしさにうちそへて御胸のやすきまもなくおぼしこがる。后の位もとゞめられたまひて院號のさだめなど人のうへのやうにほのかに聞しめすもうれしからぬ世なり。禮成門院とかや申すなり。年月は御身の人わらへなるさまにて天下のさわがれなりしをこそおぼし歎き、御門も苦しき事におぼしのたまはせけるに、今はなかなかそのすぢの事はかけてもおぼさず、さまざまなりし御修法の壇どもゝあとかたなく毀ちはてゝかきさましぬ。ひたすらに唯かゝる世のうさをのみおぼし惑ふに、日頃ふれど御ゆなども絕えて御覽じいれねば、そこはかとなくいとゞ損はれまさりてながらふべくも見え給はず。隱岐よりはたまさかの御消息などの通ふばかりにて、おぼつかなくいぶせき事多く積りゆくも、いつをあふせの限りともなく定なき世にやがてかくてやとぢめむとすらむとかたみにいみじうおぼさる。かしこに參り給へる內侍三位の御腹にも御子たちあまたおはします。いづれもいまだいはけなき御程にはあれど、物おぼし知りていみじう戀ひ聞え給ひつゝ、をりをりは忍びてうち泣きなどし給ふ。をさなうものし給へば遠き國まではうつし奉らねど、もとの御後見をばあらためて西園寺大納言公宗の家にぞ渡し奉る。八つになり給ふぞ御このかみならむかし。北山におはするほど、夕暮のそらいと心すごう山風あらゝかに吹きて、常よりも物悲しくおぼされければ、

  「庭松綠老秋風冷

   薗竹葉繁白雪〈雲イ〉埋。

   つくづくとながめくらして入あひのかねのおとにも君ぞこひしき」。

をさなき御心にはかなくうちひそみ給へるいとあはれなり。こゝもかしこも盡きせずおぼし歎くさまいはずとも皆推し量るべし。宮の宣旨もいたう時めきて三位してき。その御腹の若宮は花山院大納言師賢の御めのとにて、ことの外にかしづかれ給ひしも、この頃はひき忍びておはします。母君も世のうさに堪へずさまかへて、心深くうち行ひつゝ淚ばかりを友にてあかしくらすに、をば北の方さへうせたりときゝて時々いひかはしけるなま女房のもとより、程經てのちなりければ、

  「うきにまた重ぬる夢を聞きながらおどろかさでもなげきこしかな」。

かへし、宣旨三位殿、

  「うきにまたかさなる夢を聞きながらおどろかさではなど歎きけむ」。

このせうとの爲定の中納言も前の御代にはおぼえ華やかにていと時なりしにひきかへ、しめやかにつれづれと籠り居たれば、おほぢの大納言爲世、度々院の御氣色たまはられけれどいとふようなれば心もとなう思ひわびて、春宮大夫通顯の君して重ねて奏しける。

  「和歌のうらに八十ぢあまりの夜の鶴の子を思ふ聲のなどかきこえぬ」。

大夫はうけばりたる傳奏などにてはいませざりけれど、この大納言歌の弟子にてさり難きうへ、事のさまもゆゑあるわざなれば直衣のふところに引き入れて參り給へりけるに、後伏見〈三字イ無〉院の上のどやかにいで居させ給ひて、世の御物語など仰せらる。折よくて思ひ歎くさまなどねんごろに語り申して、ありつる文ひきいでつゝ御氣色とり給ふ。大方いとなごやかにおはします君の、まいて何ばかり罪ある人ならねばかうしおぼすまではなけれど、いさゝかも武家よりとり申さぬことを御心にまかせ給はぬに、かくとゞこほるなるべし。「いとふびんにこそ」とのたまはせて、やがて御かへし、

  「雲の上にきこえざらめや和歌の浦に老いぬるつるの子をおもふこゑ」。

今年は祭の御幸あるべければ、めづらしさに人々常よりも物見車心づかひして、かねてより棧敷などもいみじう造れり。使どもゝいかで人にまさらむとかたみにいどみかはすべし。本院、新院、廣義門院、一品宮も忍びて入らせ給ふなどぞ聞えし。御車寄にて菊亭の右のおとゞの御子實尹の中納言參りたまへり。殿上人もよき家の君達ども色ゆりたるかぎり、いと淸らにこのましう出でたちつかまつれり。御隨身なども花を折れるさまなり。出車にいろいろの藤つゝじ、卯花、撫子、燕子花などさまざまの袖口こぼれ出でたるいと艷になまめかし。祭など過ぎて世の中のどやかになりぬるほどに、先帝の御供なりし上達部ども、罪重きかぎりとほき國々へつかはしけり。按察大納言公敏、頭おろして忍びすぐされつるもなほゆりがたきにや、小山の判官秀朝とかやいふもの具して下野の國へときこゆ。花山院大納言師賢は千葉介貞胤うしろみて下總へくだる。五月十日あまりに都出でられけり。思ひかけざりしありさまどもさらなり。

  「別ともなにかなげかむ君すまでうきふる里となれるみやこを」。

北の方は花山院入道右のおとゞ家定の御むすめなり。その御腹にも又こと腹にも君だちあまたあれど、それまでは流されず。うへのいみじう思ひ歎きたまへるさまあはれにかなしけれど、今はかぎりの對面だに許されねば、はるくる方なく口をしく、よろづに思ひめぐらされていと人わろし。

  「今はとていのちをかぎる別路に後の世ならでいつをたのまむ」。

源中納言具行もおなじ頃あづまへゐてゆく。あまたの中にとりわきて重かるべく聞ゆるは、さまことなる罪に當るべきにやあらむ。內にさぶらひし勾當の內侍は經朝の三位のむすめなりき。はやうは御門むつましくおはしまして姬宮などとうで奉りしを、其後この中納言いまだ下﨟なりし時よりゆるし給はせて、此の年頃二つなきものに思ひかはして過ぐしつるにかくさまざまにつけてあさましき世をなべてにやは。日にそへて歎きしづみながらも、おなじ都にありと聞く程は吹きかふ風のたよりにも、さすがこととふなぐさめのありつるを、遂にさるべき事とは人のうへを見聞くにつけても思ひまうけながら、猶今はと聞く心ちたとへむかたなし。この春きみの都別れたまひしに、そこらつきぬと思ひし淚もげにのこりありけりと今一しほ身も流れいでぬべくおぼゆ。中納言はものにもがなやとくやしうはしたなき事のみぞそこにはちゞにくだくめれど、めゝしう人に見えじと思ひかへしつゝ、つれなくつくりて思ひ入らぬさまなり。去年の冬頃あまたきこえし歌の中に、

  「ながらへて身はいたづらに初霜のおくかたしらぬ世にもふるかな。

   今ははやいかになりぬるうき身ぞとおなじ世にだにとふ人もなし」。

佐々木の佐渡判官入道伴ひてぞ下りける。逢阪の關にて、

  「かへるべき時しなければこれやこのゆくをかぎりのあふさかの關」。

かしは原といふ所にしばしやすらひて、あづかりの入道まづあづまへ人を遣したる返事待つなるべし。その程物語などなさけなさけしううちいひかはして「何事もしかるべき前の世のむくいに侍るべし。御身一つにしもあらぬ身なれば、ましてかひなきわざにこそ、かくたけき家に生れて弓箭とるわざにかゝづらひ侍るのみうきものに侍りけれ」などまほならねどほのめかすに心えはてられぬ。隱岐の御送をもつかうまつりしものなれば、御道すがらの事など語り出でゝ、「かたじけなういみじうも侍りしかな。まして朝夕近う仕うまつりなれ給ひけむ御心どもさながらなむ推し量り聞えさせ侍りし〈きイ〉。何事も昔に及びめでたうおはしましゝ御事にて、世下り時衰へぬるすゑにはあまりたる御ありさまにや、かくもおはしますらむとさへせめては思ひ給へよらるゝ」など大かたの世につけてもげにとおぼゆるふしぶし加へて、のどやかにてみきなど所につけてことそぎあらあらしけれど、さる方にしなしてよきほどにて、下しつるあづまよりの使歸りきたるけしきしるけれど、ことさらにいひいづる事もなし。いかならむと胸うちつぶれて覺ゆるもかつはいと心よわしかし。いづくの島もりとなれらむもあぢきなく、たれも千とせの松ならぬ世になかなか心づくしこそまさらめ。遂に遁るまじき道はとてもかくてもおなじ事、そのきはの心亂れなくだにあらば、すゞしき方にも赴きなむと思ふ。心はこゝろとして、都の方もこひしうあはれにさすがなる事ぞ多かりける。よろづにつけて事の氣色を見るに行く末遠くはあるまじかめりとさとりぬ。あづかり顏のめかしくも情ありて思ひしらすれば、おなじうはと思ひて又の日「頭おろさむとなむ思ふ」といへば、「いとあはれなる事にこそ。あづまの聞えやいかゞと思ひ給ふれど、なんでふことかは」とてゆるしつ。かくいふはみな月の十九日なり。かの事は今日なめりと氣色見しりぬ。思ひまうけながらも猶ためしなかりけるむくいのほどいかゞ淺くはおぼえむ。

  「消えかゝる露のいのちのはてはみつさてもあづまのすゑぞゆかしき」。

猶も思ふ心のあるなめりとにくき口つきなりかし。その日の暮つかた、終にそこにて失はれにけり。今はのきはもさこそ心の中はありけめど、いたく人わろうもなくあるべき事ども思へるさまになむ見えける。內侍の待ちきく心ちいかばかりかはありけむ。やがてさまかへて近江國高島といふわたりに、むかしのゆかりの人々尊く行ひてすむ寺にぞたち入りぬる。萬里小路中納言藤房は常陸國につかはさる。父の大納言母おもとなど、老のすゑに引き別るゝ心ちどもいへばさらなり。身にかへて求めまほしう思へどかひなし。弟の季房の宰相も頭おろしたりしかど猶下野の國へながさる。平宰相成輔はあづまへと聞えしかど、それも駿河の國とかやにてぞ失はれける。又元亨の亂れのはじめに流されし資朝の中納言をも、いまだ佐渡の島にしづみつるを、このほどのついでにかしこにて失ふべきよしあづかりの武士におほせければ、このよしを知らせけるに思ひまうけたるよしいひて、都にとゞめける子のもとにあはれなる文かきてあづけゝり。既にきられけるときの頌とぞ聞きはべりし。

  「四大本無主

   五溫本來

   將頭傾白刄

   但如夏風

いとあはれにぞ侍りける。俊基もおなじやうにぞ聞えし。かくのみ皆さまざまに罪にあたり遠き世界にはなちすてらるゝ、おのおの思ひ歎けども筆にもおよびがたし。大塔の尊雲法親王ばかりは虎の口を遁れたる御さまにて、こゝかしこさすらへおはしますもやすき空なく、いかですぐしはつべき御身ならむと心苦しくみえたり。隱岐の小島には月日ふるまゝに、いと忍びがたうおぼさるゝ事のみぞ數そひける。いかばかりのをこたりにてかゝるうきめを見るらむと前の世のみつらくおぼし知らるゝにも、いかでその罪をも報いてむとおぼして、打ちたへて御精進にて朝夕つとめ行はせ給ふ。法のしるしをも心みがてらとかつはおぼすなるべし。自ら護摩などもたかせ給ふにいとたのもしき事夢にも現にも多くなむありける。徒然に思さるゝ折々は、らうめく所に立ち出でさせ給ひて遙に浦の方を御覽じやるに、蜑の釣舟ほのかに見えて秋の木の葉の浮べる心ちするも哀にいづくをさしてかと思さる。

  「心ざすかたをとはゞや浪のうへにうきてたゞよふあまの釣舟。

浦ごく船のかぢをたえ」とうち誦して御淚のこぼるゝを何となくまぎらはし給へる、いふよしなく心ふかげなり。ねびたまひにたれどなまめかしうをかしき御さまなれば、所につけではましてやんごとなきあたらしさを自らいとかたじけなしとおぼさる。京には十月になりて御禊大甞會などの急ぎに天の下物さわがしう、くらづかさ、たくみづかさ、うち殿、そめ殿、何くれの道々につけてかしがましう響きあひたるも片つ方は淚のもよほしなり。悠紀主基の御屛風の歌人々にめさる。書くべきものゝなければ、かしこへ參れる行房中將をや召しかへされましなど定めかね給ふを、まだきに傳へ聞しめしければ宵の間のしづかなるに御まへにことに人もなく、この朝臣ばかり侍ひて昔今の御物語のたまふ序に「都にいふなる事はいかゞあらむとすらむ。さもあらばいとこそうらやましからめ」とうちおほせられて、火をつらつらとながめさせ給へる御まみの、忍ぶとすれどいたうしぐれさせ給へるを見奉るに、中將も心づよからずいとかなし。いかばかりの道ならばかゝる御ありさまを見おき聞えながら、うきふる里にはいでかへらむと思ふもえきこえやらず。後夜の御行にさながらおはしませば、鹽風いとたかう吹きくるに霰の音さへたへがたく聞えて、いみじう寒き夜の氷をうち叩きて閼伽たてまつるも、山寺の小法師ばらなどの心ちぞするや。少將この中將などしきみをりて參れるもいつならひてかと哀に御らんぜらる。今一たびいかで世を御心にまかするわざもがなと、人の心のけぢめわかるゝにつけても深う思しまさる事のみ數しらず。都には十月廿五日御禊の行幸なり。女御代には大炊御門大納言信嗣のむすめいださるときこゆ。十月十二日より五節はじまる。前の御代には談天門院の御忌月にてとまりにしかばさうざうしかりしに、めづらしくて若きうへ人どもなど心ことに思へり。隱岐の御門の御めのとなりし吉田の一品宣房も、當代につかへて五節など奉る。こゝろの中ぞあはれにおしはからるゝ。定房の大納言もさるべき雜務の事などにはいでつかへけり。春宮大夫は內大臣になりて、大甞會の時もたかみくらの行幸に前行とかやいふ事などつとめ給ふ。右のおとゞ兼季も太政大臣になりて、淸暑堂の神樂に琵琶つかうまつりなどきこえて、よろづめでたくあらまほしくて年もくれぬ。まことやこの卯月の頃より年の名かはりにしぞかし。正慶とぞいふなる。大塔の法親王楠の正成などは猶同じ心にて世を傾ぶけむ謀をのみめぐらすべし。正成は金剛山千はやといふ所にいかめしき城をこしらへてえもいはず武きものども多く籠りゐたり。さて大塔の宮の令旨とて國々の兵をかたらひければ、世にうらみあるものなどこゝかしこにかくろへばみてをるかぎりは集りつどひけり。宮は熊野にもおはしましけるが、大峯をつたひて吉野にも高野にもおはしまし通ひつゝ、さりぬべきくまぐまにはよく紛れものし給ひて、武き御ありさまをのみ顯し給へば、いとかしこき大將軍にていますべしとて、附き隨ひ聞ゆるものいと多くなり行きければ、六波羅にもあづまにもいと安からぬ事ともてさわぎて、猶かの千はやをせめくづすべしといへば、つは者などのぼり重なると聞ゆ。正成は聖德太子の御墓の前を軍のそのにしていであひかけひき寄せつ返しつ鹽のみちひく如くにて年はたゞくれ暮れはてぬれば、春になりて事どもあるべしなどいひしろふもいとむづかしう心ゆるびなき世のありさまなり。さても日野大納言俊光といひしは、文保の頃始めて大納言になりにしをいみじき事に時の人いひさわぐめりしに、その子この頃院の執權にて資名といふ、又大納言になりぬ。めでたくたびをさへ重ねぬるいといみじかめり。前の御代にも定房一品して藤房大納言になされなどせしをば、かうざまにぞ人思ひいふめりし。內には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故內大臣殿の姬君、廣義門院の御傍に今御方とかや聞えてかしづかれ給ふをまゐらせ奉り給へれば、これや后がねと世人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか御おぼえいとあざやかならぬぞ口をしき。三條前大納言公秀のむすめ三條とてさぶらはるゝ御腹にぞ宮々あまたいでものし給ひぬる。つひのまうけの君にてこそおはしますめれ。

     第十七 月草の花

かの島には春きても猶浦風さえて浪あらく、渚の氷もとけがたき世のけしきにいとゞおぼしむすぼるゝ事つきせずかすかに心細き御すまひに年さへ隔たりぬるよとあさましくおぼさる。さぶらふ人々もしばしこそあれいみじくくんじにたり。今年は正慶二年といふ。閏二月あり。後のきさらぎのはじめつかたよりとりわきて密敎の祕法を試みさせ給へば、夜も大殿ごもらぬ日數へてさすがいたうこうじ給ひにけり。心ならずまどろませ給へる曉方、夢うつゝともわかね程に後宇多院ありしながらの御面かげさやかに見え給ひて聞えしらせ給ふことおほかりけり。うちおどろきて夢なりけりとおぼすほどいはむ方なく名殘かなし。御淚もせきあへず、さめざらましをとおぼすもかひなし。源氏の大將須磨の浦にて父御門見奉りけむ夢の心ちし給ふもいとあはれにたのもしう、いよいよ御心づよさまさりて、かのしほぢが御むかへのやうなる釣舟もたよりいできなむやと待たるゝ心ちし給ふに、大塔の宮よりもあま人のたよりにつけて聞え給ふ事絕えず。都にも猶世の中しづまりかねたるさまに聞ゆれば、よろづにおぼしなぐさめて關守のうち寢るひまをのみうかゞひ給ふに、しかるべき時のいたれるにや、御垣守に侍ふつはものどもゝ御氣色をほの心えて靡き仕うまつらむと思ふ心つきにければ、さるべきかぎりかたらひ合せておなじ月の廿四日のあけぼのにいみじくたばかりてかくろへゐて奉る。いとあやしげなるあまの釣舟の樣に見せて、夜ふかき空の暗きまぎれにおしいだす。折しも霧いみじうふりてゆくさきも見えず、いかさまならむとあやふけれど御心をしづめて念じ給ふに、思ふかたの風さへ吹きすゝみて、その日の申の時に出雲の國につかせ給ひぬ。こゝにてぞ人々心ちしづめける。同じ廿五日伯耆國稻津浦といふ所へうつらせ給へり。この國に名和の又太郞ながとしといひて、あやしき民なれどいとまうに富めるが類ひろく心もさかさかしくむねむねしきものあり。かれがもとへ宣旨を遣したるに、いとかたじけなしと思ひてとりあへず五百餘騎の勢にて御迎にまゐれり。又の日賀茂の社といふ所にたち入らせ給ふ。都の御社おぼしいでられていとたのもし。それより舟上寺といふ所へおはしまさせて九重の宮になずらふ。これよりぞ國々のつはものどもに御かたきを亡すべきよしの宣旨つかはしける。比叡の山へものぼされけり。かくて隱岐にはいでさせ給ひにし晝つ方よりさわぎあひて、隱岐の前の守追ひて參るよし聞ゆれば、いとむくつけく思されつれど、こゝにも其の心していみじう戰ひければ引き返しにけり。京にもあづまにも驚き騷ぐさま思ひやるべし。正成が城のかこみにそこらの武士どもかしこにつどひをるに、かゝる事さへそひにたれば、いよいよあづまよりも上りつどふめり。三月にもなりぬ。十日あまりのほど俄に世の中いみじうのゝしる。何ぞと聞けば播磨の國より赤松なにがし入道圓心とかやいふもの先帝の勅に從ひて攻めくるなりとて都の中あわて惑ふ。例の六波羅へ行幸なり。兩院も御幸とて上下たちさわぐ。馬車走りちがひ、武士どものうちこみのゝしりたるさまいとおそろし。されど六波羅の軍つよくてその夜はかのものども引き返しぬとて少ししまづれるやうなれど、かやうにいひ立ちぬれば猶心ゆるびなきにや、そのまゝ院も御門もおはしませば春宮もはなれ給へる、よろしからぬ事とて、廿六日六波羅へ行啓なる。內のおとゞ御車にまゐり給ふ。傅は久我右のおとゞにいますれど、大かたの儀式ばかりにてよろづこの內大臣殿御後見つかまつり給へば、いまだきびはなる御程を後めたがりてとのゐにもやがてさぶらひ給ふ。御修法のために法親王たちもさぶらはせ給へり。こゝもかしこも軍とのみ聞えて日數ふるに、院よりのたまふとて上達部殿上人までも、ほどほどに隨ひてつはものを召せば、弓ひく道もおぼおぼしき若侍などをさへぞ奉りける。げにひぢもをりぬべき世の中なり。かやうにいひしろふ程に彌生もくれぬ。卯月の十日餘り又あづまよりものゝふ多くのぼる中に、をとゝし笠置へも向ひたりし治部大輔源高氏のぼれり。院にも賴もしくきこしめしてかの伯耆の船上へ向ふべきよし院宣たまはせけり。あづまを立ちし時もうしろめたく二心あるまじきよし、おろかならずちかごとぶみを書きてけれども、そこの心やいかゞあらむ、かく聞ゆるすぢもありけり。この高氏はいにしへの賴義朝臣の名殘なりければ、もとのねざしはやんごとなき武士なれど、承久よりこのかた頭さしいだす源氏もなくてうづもれすぐしながら、類ひろく勢四方にみちて、國々に心よせのもの多かればかやうに國の危きをりをえて思ひたつ道もやあらむなどしたにさゝめくもしるく、伯耆國へむかふべしといひなして先づ西山大原わたりに一とまりして、五月七日ほのぼのと明くるほどより大宮の木戶どもをおしひらきて、二條よりしも七條の大路を東ざまに七手に別れて旗をさしつゞけて六波羅をさして雲霞の如くたなびき入るに、更におもてをむかふるものなし。この治部の大輔はやうより先帝の勅を承りければ、さかさまに都を亡さむとするなりけり。鬨つくるとかやいふ聲は雷の落ちかゝるやうに、地の底もひゞき、梵天の宮の中も聞き驚き給ふらむと思ふばかりとよみあひたるさま、來しかたゆくさきくれて物覺ゆる人もなし。御門、春宮、院のうへ、宮たちなどましてひとりさかしきもおはしまさず。絲竹のしらべをのみ聞しめしならひたる御心どもに、珍らかにうとましければたゞあきれ給へり。武士どもなかばをわけて金剛山へむかひたれば、さならぬのこり都にあるかぎりは戰をなす。今をかぎりの軍なれば手を盡してのゝしる程まねびやらむ方なし。雨のあしよりもしげく走りちがふ矢にあたりて目のまへに死をうくるもの數をしらず。一日一夜いりもみとよみあかすに兩六波羅殘るてなく防ぎつれど、遂に陣の內やぶられて今はかくと見えたり。日頃さぶらひ籠り給へる上達部殿上人なども今日と思ひまうけたらむだに、君のおはしまさむかぎりはいかでかまかでもちらむ。ましてかねてよりかくかまへけるをもしろしめさで、昨日かとよ當代の宣旨をたまはりしものゝ、かくうらがへりぬれば誰かおもひよらむ。すべて上下となくひとつに立ち込みてあわて惑ひたり。日ぐらし八幡、山崎、竹田、宇治、勢多、深草、法性寺など、もえあがる煙ども四方の空にみちみちて日のひかりも見えず、墨をすりたるやうにて暮れぬ。こゝにも火かゝりていとあさましければ、いみじう固めたりつる後の陣を辛うじて破りてそれより免れて出でさせ給ふ。御心ちども夢路をたどるやうなり。內のうへもいと怪しき御姿にことさらやつしたてまつる、いとまがまがし。兩院御手をとりかはすといふばかりにて人に助けられつゝ出でさせ給ふ。上達部大臣たち、袴のそばとりてかうぶりなどの落ちゆくもしらず空を步む心ちして、あるは河原を西へ東へ樣々ちりぢりになり給ふ。兩六波羅〈仲時時益〉ひんがしをさしてあづまへと心がけておちければみゆきも同じさまになる。西園寺の大納言公宗は北山へ坐しにけり。右衞門督經顯、左兵衞督隆蔭、資明宰相などはみゆきの供にまゐらる。按察の大納言資名は足を傷ひて東山わたりにとまりぬなどいひしはいかゞありけむ。內大臣殿は御子の別當道冬伴ひ給ひて八日のあけぼのゝいまだ暗きほどに、我が御家の三條坊門萬里小路に坐しましつきたるに、步み入り給ふほども心もとなくて北の方門へはしり出でゝ、平らかにかへりおはしたると思ふうれしさに急ぎて見れば、おとゞは御直衣に指貫ひきあげ給へればしるく見え給ふ。別當は道の程のわりなきに折烏ぼう子に布直垂といふ物うち着て、ほそやかに若き人の御ぜんどもに紛れたればとみにも見えず。火などもわざとなければくらきほどのあやめわかれぬに、はやういかにもなり給へるにやと心ちまどひて御方は、いかにいかにと聲もわなゝきて聞えける。いとことわりにいみじうあはれなり。さてはみゆきは近江國に坐します程に、いぶきといふほとりにてなにがしの宮とかや法師にていましけるが、先帝の御心よせにてかやうのかたもほの心え侍りけるにや、待ちうけて矢を放ちたまふ。又京よりも追手かゝるなど聞えければ六波羅の北といひし仲時、內春宮兩院具し奉り、番馬といふ所の山のうへに入れ奉りぬ。手のものどもゝ猶殘りて從ひつきけれども戰もかなはずやありけむ、遂にこの山にて腹切りにけり。おなじきみなみ時益といひしはこれまでもまゐらず、守山のへんにてうせにけりとぞ聞えし。あやなくいみじき事のさまなり。御所々の御供には俊實の大納言、經顯の中納言、賴定の中納言、資名の大納言、資明の宰相、隆蔭などぞ殘りさぶらひける。俊實、資名、賴定などはやがてそこにて髻切りてけり。一院よりも歸り入らせ給ふ。御門に御文を奉り給ひて面々に御出家あるべしなどまで申されけれども、思ひもよらぬよしをかたく申されけるとかやとぞ聞えし。伯耆の御所へは人々參り集ふ。上達部殿上人數しらず。さる程にあづまにもかねて心しけるにや、尊氏のすゑの一族なる、新田小四郞義貞といふもの、今の尊氏の子四つになりけるを大將軍にして武藏國より軍を起してけり。この頃のあづまの將軍は守邦親王にて坐します。御後見つかうまつる高時入道、貞顯入道、城介入道圓明、長崎入道圓基などいふものども驚き騷ぎて、高時入道おとゝに四郞左近大夫泰家といひし、今は入道したるをぞ大將に下しける。五月十四日鎌倉をたちてむかふ。其の勢十萬餘騎。高時入道の一ぞう附き從ふものそこら皆ひろごりて鎌倉はじまりし賴朝の世、時政より今に到るまで多くの年月をつめり。僅なる新田などいふ國人にたやすくいかでかは亡さるべきと覺えしに、程なく十五日にかたき既に鎌倉に近づくよし聞えて家々を毀ちさわぎのゝしる。世の既に滅するにやと覺えしとぞ人は語り侍りし。四郞左近大夫入道軍にうち負けゝるにや、從ふ武士ども殘りなく新田が方へつきぬれば、えさらぬものどもばかり五六百騎にて十六日の夜に人りて鎌倉へ引き歸る。僅に中一日にてかくなりぬる事夢かとぞおぼえし。かくて日々の軍にうち負けゝれば、おなじき廿二日、高時以下腹切りてうせにけり。さて都には伯耆よりの還御とて世の中ひしめく。まづ東寺へ入らせ給ひて事どもさだめらる。二條の前のおとゞ道平めしありて參り給へり。こたみ內裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽の箱を御身にそへられたれば、唯遠き行幸の還御の儀式にてあるべきよし定めらる。關白をおかるまじければ二條のおとゞ氏長者を宣下せられて都の事管領あるべきよしうけたまはる。天の下唯この御はからひなるべしとてこのひとつわたり喜びあへり。六月六日東寺より常の行幸のさまにて內裏へぞ入らせたまひける。めでたしとも言の葉なし。去年の春いみじかりしはやと思ひいづるもたとしへなく、今も御供の武士どもありしよりは猶なし〈二字恐衍〉。いくへともなくうち圍み奉れるはいとむくつけきさまなれど、こたみはうとましくも見えず、たのもしくてめでたき御まもりかなと覺ゆるも、うちつけめなるべし。世のならひ時につけてうつる心なればさぞあるらし。先陣は二條富小路の內裏につかせ給ひぬれど、後陣の兵は猶東寺の門まで續きひかへたるとぞ聞えしはまことにやありけむ。正成もつかうまつれり。かの名和の又太郞は伯耆守になりてそれも衞府のものどもにうちまぜたる、めづらしくさまかはりて、ゆすりみちたる世の氣色かくもありけるをなどあさましくは歎かせ奉りけるにかと、めでたきにつけても猶前の世のみゆかし。車などたち續きたるさま、ありし御くだりにはこよなくまされり。物見ける人の中に、

  「むかしだにしづむうらみをおきの海に波たちかへるいまぞかしこき」。

むかしのことなど思ひあはするにやありけむ。金剛山なりしあづまの武士どもゝさながら頭を垂れて參りきほふさま漢のはじめもかくやと見えたり。禮成門院も又中宮ときこえます。六日の夜やがて內裏へ入らせ給ふ。いにし年御ぐしおろしにき。御惱なほをこたらねばいつしか五壇の御修法はじめらる。八日より議定行はせたまふ。昔の人々のこりなく參りつどふ。十三日大塔の法親王都に入りたまふ。この月頃に御ぐしおほしてえもいはずきよらなる男になり給へり。からの赤地の錦の御鎧直垂といふもの奉りて御馬にてわたり給へば、御供にゆゝしげなるものゝふどもうち圍みて、御門の御供なりしにもほとほと劣るまじかめり。速に將軍の宣旨をかうぶり給ひぬ。流されし人々ほどなくきほひのぼるさま、枯れにし木草の春にあへる心ちす。その中に季房の宰相入道のみぞ、預りなりけるものゝ情なき心ばへやありけむ、あづまのひしめきのまぎれに失ひてければ、兄の中納言藤房は歸り上れるにつけて、父の大納言母の尼うへなどなげきつきせず胸あかぬ心ちしてけり。四條中納言隆資といふも、頭おろしたりしまた髮おほしぬ。「もとよりちりをいづるにはあらず。かたきのた めに身を隱さむとてかりそめにそりしばかりなれば、今はた更に眉をひらく時になりて男になれらむ何のはゞかりかあらむ」とぞおなじ心なるどちいひあはせける。天臺座主にていませし法親王だにかくおはしませばまいてとぞ。誰にかありけむそのころきゝし。

  「すみぞめの色をもかへつつき草のうつればかはる花のころもに」」」。


增鏡

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