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基督者の自由について/第十九節

提供:Wikisource

 以上述べたことは、内なる人について、内なる人の自由について、また主要な義について、充分であるといはれやう、その義は律法をも善きわざをも必要としないものだ、否な、もしも或る人が、善きわざによって義とされようと試みるなら、それは、主要な義の妨げになるのである。さて、われゝゝは第二部に入る、内なる人を問題とす る。此處に、われわれは、次のやうな人々に答へて置きたい。即ち彼らは、これまで述べてきたことに躓いて、次の如く云うふ人々である。『もしも信仰が凡てゞあり、信仰のみが人を義とするに充分な力であるとするなら、善きわざが命令されるわけがないではないか。われゝゝは善きものであることを欲しながら、何物をも爲さうとは思はない』。否な、愛する者よ、決してさうではない。汝が内なる人のみであり、全く靈的になり内的になってをるなら、―――そのことは、最後の審判の日までは生じない―――汝の言は恐らく正しいかもしれない。地上においては、完全な靈化の開始と増加だけが存しまた續くので、それは來世において完成されるのである。ゆゑに、使徒は、此開始を、primitial spiritus、言ひ換えると、御靈の最初の果(ロマ八・二十三)と呼んでをる。ゆゑに、冒頭に言はれた言、即ち、『基督者は、奉仕するところの、萬物の僕であって、あらゆる人の下にある者だ』は、まさしく此第二部について言はれるのである。基督者は、自由であるかぎり、何をも爲す必要がない、僕であるかぎり、凡ての種類のことを爲さねばならぬのである。かくの如き矛盾するやうに見えることが、どうして可能であるかをこれから研究しよう。