基督者の自由について/第二十四節
反對に、信仰なき人には、どんな善きわざも義及び救に益がない。また他 方においては、どんな惡いわざも、彼を邪悪な、罪に定められた人間にするものでない、反対に、人と樹とを邪惡にする不信仰が、惡い、罪に定められたわざを爲すのである。ゆゑに人が義となりもしくは邪惡となるときには、それはわざに於いて始まらないで、信仰に於いて始めるのである。賢き人が、『凡ての罪の開始は神より離れ、神に信頼せざることなり』(シラク書十・十四以下)と言ったとほりだ。同様に、基督もわざにおいて始めてならぬことを教へて言ってをられる、『或いは樹を善しとし、果をも善しとせよ。或いは樹をも惡しとし果をも惡しとせよ』(マタイ十二・三十三)それは、次のやうに言はうとされるかのやうだ、『善き果を持たうとする者は、先ず、樹において始め、樹そのものを善くしなければならぬ』。同様に、善きわざを爲さうと欲する者は、わざにおいて始めてはならない、わざを爲す人格において始めなければならぬ、併し、人を善くするものは、信仰以外の何物でもない、また人を惡しくするものは、不信仰以外の何物でもない。わざが、或人を、人々の前に義とし若くは邪惡とすること、言ひ換へると、誰が義であり邪惡であることを示すことは、眞だ。基督がマタイ傳第七章(二十節)に言ってをられるとほりだ、『その果によりて彼らを知るべし』。併しかくの如きものは見掛け的のものであり、外的のものだ。かくの如き見掛け倒しのものに迷はされ てをる多くの人々がある、彼らは、如何に人は善きわざを爲すべきであり、義となるべきであるかといふことを教えへたりかいたりはするが、信仰のことは一言半句も口にしないのである。彼らは、彼らの途をゆく、また何時も一人の盲者は他の盲者を導くものだ、多くのわざを以て自分達を苦しめるものだ、それでも決して眞の義に達しないものだ、彼らについて、聖パウロは、テモテ後書第三章(五節以下)に言ってをる、『彼らは義の認識に達することなし』。これらの盲者と共に迷ひたくない者は、わざや掟やわざの教理を見るよりももっと遠くに眼を放たなければならぬ。その人は、何物を措いても「人」を見るべきだ、その「人」がどうして義とされるかを見るべきだ。しかし「人」は掟やわざによってゞはなく、神の言により(即ち、恩寵の彼の約束により)また信仰によって、義とされ、救われるのだ、かくして神の榮光が次のことによって維持されるためだ、神はわれらのわざによらないで、彼のめぐみ深い言によって、値ひなしに、また全くの憐憫から、われらを救い給ふのである。