坂本龍馬全集/坂本龍馬先祖美談/其二

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其二 坂本家祖先財産


坂本家は初代太良五良が、江州より当地に移りて、荒地を開き農作を営み家具を経営して、自づと有福に赴きしが、子孫能く其業を守り家門益々繁栄となり、二代彦三郎、三代太郎左衛門、四代八兵衛の四世間は長岡郡才谷の里に住まひしも、四代八兵衛の時寛文中遂に家を挙りて高知城下に出で、本丁筋三丁目に巨大の邸宅を構へ、酒造を業とし才谷屋の屋号を名乗りて初めて商業を営みしものゝ如し。
当時高知城下の分限者は中央にて仁尾久太夫と櫃屋ひつや道清是第一たり。下町にては酒屋の根来屋ねごろや又三郎(桂井素庵の事)、上町にては此坂本の才谷屋八兵衛等皆屈指のものなりき。(因にいふ浅井川崎両家は、文化文政以後の出世にて当時は其名なし)
此の四代八兵衛の子五代八郎兵衛孫六代八郎兵衛の代に至り、上町の年寄役を命ぜられ家名益々揚がり、其本丁の店は間口八九間奥行数十間の大土造構にて、数棟の酒倉は甍を争ひ使用する童僕婢女の数さへ十余人に上り、店務繁昌の有様は余所の見る目も羨む程なりきとぞ。
此六代の八郎兵衛諱直益といひ順水と号し少しは学問の嗜もあり、当時の名流谷垣守、谷真潮、安並雅景、中山高陽、岩井玉洲等と往来し、詩酒徴逐ちようちくし風流富貴二つながら其清福を極めたり。
今坂本氏の遺家に蔵する六代直益の日記なる順水日記を読むに、或は伊勢参宮をなし或は東寺参り(室戸岬最御崎ほつみさぎ寺参詣の事)をなし、年々歳々行楽やまず、所謂多銭たせん善買長袖善舞よくかひちやうしうよくまふ家道有福の有様推量するに余りあり。今参考の為め同家の所蔵する名流の遺墨消息若干を左に録す。
○齢笑王喬老 富軽陶洙多 只須常尽酔 風月任高歌
 右侍坂本氏寿筵酔中吟 安並雅景
○むまろの元服しけるに砌の松によせて祝の心を読める(文政三年坂本氏息常三郎元服を祝す)
 根ぬママめし砌の松の若緑さかえを行かん春や幾春

七十七歳
下 元 真 清

 ○才谷屋八郎兵衛様

谷   丹 内

御手紙かたじけなく拝見候。誠に新陽之慶賀事、旧冬共無尽期目出度申納候。貴様益御無異に御加年珍重と被存候。然は御聞及被下通に今度知行拝領仕難有本望之至御察被下度候。右御悦被下生鯔五喉被遣御深志辱不残御事幾久いくひさしく受納候。御歓被下度御出カケなさる由重々てん忝仕合、併旧要之所詮と別而大慶候得共以参御礼旁可申述早々如此に御座候、已上。

正月十七日

此六代八郎兵衛直益に男子二人あり、長は兼助といひ次は八次といふ。兼助家業を好まず。依つて財産を分ちて郷士職をあがなひ、別に新宅の一家を立てしむ、是ぞ即ち坂本龍馬の家筋にして龍馬は実に其三代のすゑなり。
又、八次は依然として家業を嗜み、本家を相続し才谷屋の屋号を名乗て酒屋を営み、是又子孫三代にして当主源三郎に至りしが、維新の瓦解に際し家道大に衰へて又昔日の状態を保たざるは遺憾の至りといふべし。
然るに右の本家たる坂本源三郎の家に保存する明和七年寅三月五日八郎兵衛直益より兼助、八次の二人に財産分配譲渡状を見るに、当時坂本家の財産は莫大のものにて大凡そ百貫目に達し、即ち現今の十万円に近かりし如し。十万円とは今日余りの大金とは申し難きも、当時の物価に照しては確に今日の百万円の価値ありしならん。其譲渡状の文左の如し。

 銀米竝に質物貸諸売物
 一合凡そ百貫目に付

三歩二三厘
郷士相続 兼   助
六歩四五厘
本家相続 八   次

 一加治かぢ子米しまい百石也

四十石
兼   助
三十石
八   次
三十石
隠 居 料
(中略)

 一御免営御貢物

本   家

 一壱丁目屋敷(これは坂本龍馬誕生の屋敷の如し)

 一酒林道具

七  蔵 兼   助

 一本家屋敷
 一前ノ酒林
 一堺町出店之事両人申合可作配云々。

右は祖父両君より我等相続此度両人へ右之通譲り渡し候間、目出度可相続永久に尚々繁昌可致、以上。

明和七年寅三月五日
八郎兵衛直益 花押
兼 助 殿
八 次 殿

先づ相当に立派なる財産なりしと申すべし。今猶両家分系の略譜を叙すれば左の如し。

〈図1〉
余右の本家源三郎主より同家の旧記を借覧し、坂本氏の祖先につきては尤も明確なるママ料を得たり。猶上文に記載せる事柄を更に便宜の為め再括すれば左の如し。

一坂本氏の祖先は江州坂本より来りたる明智光秀の裔といふことは、猶不明なる如し。
一坂本の先祖の妻は、大和吉野須藤加賀守娘おかはといへる女丈夫の妹なりといへば、兎に角名家なり。
一坂本家六代の頃は家道尤豊富にて、此頃財産を三分けにし郷士と酒屋との二軒に分れ、龍馬は郷士の家筋に生れたるものなり。
一土佐国に於ける長岡土佐両郡の相接近する所、瓶岩村一宮村等に蕃衍せる坂本家は無論同姓同系の家筋ならん。然して龍馬等の家筋は其総本家ならん。
一江州滋賀郡坂本村に猶坂本氏ありや、明智氏関系の家筋と伝へらるゝものありや、之を穿鑿せんさくする時は尤も右につき明白なる断案を得ん。