高知県の漢学者、川田瑞穂による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(明治32年)
(三回)
◎中井正五郎さんは天誅組の落武者で海援隊へ這入つて居たのです。頬髯の生えた威厳しい男でした。平生隊中の者に謂つて居たさうです……僕は阪本氏の為めなら何時でも一命を捨てるつてネ……果して龍馬が斬られて同志が新撰組へ復讎に行つた時、此の中井さんが真先に斬り込んで花々しく戦つて討死したのです。墓は東山の龍馬の墓の五六間向ふに出来て居ます、海援隊が建てたので……。
◎お乙女姉さんはお仁王と綽名された丈け中々元気で、雷が鳴る時などは向鉢巻をして大鼓を叩いてワイ〳〵と騒ぐ様な人でした。兄(権平氏)さんと喧嘩でもする時はチヤンと端坐つて、肱を張つて、兄さんの顔を見詰め、それはイキませぬ、と云ふ様な調子でした。西郷さんが城山で死んだと聞ひた時、姉さんは大声を揚げてオイ〳〵と泣き倒れたさうです。コレは後ちに聞きました。
◎龍馬の書いたものも日記やら短冊やらボツ〳〵ありましたが、日記は寺田屋のお登勢が持つて行くし、短冊は菅野が取て行きましたので、私の手元には此の写真(襄の譚に云へる民友社の挿絵に似たるもの是也)一枚だけしか有りませむ。それから一ツ懸軸がありました。コレは龍馬が死ぬる少し前に越前へ行つて三岡八郎(由利公正)さんに面会した時呉れたのださうで、私は大事にして持て居りましたが何時か妹が取て行つたなり返してくれませぬ。私は此の写真を仏と思つて毎日拝んで居るのです。
と語り来つて感慨に堪えざるものゝ如く凝乎と手中の写真を見詰るので、傍の見る目も気の毒となつて、ソツと顔をそむけると床の間には香の煙りのゆら〳〵と心細くも立昇るので僕は覚えずも、人間勿レ為二読書子一、到処不レ堪二感涙多一、の嘆を発するを禁じ得なかつた。
附記
後日譚に、陸奥が近藤長次の長崎で切腹した知らせの手紙を伏見の寺田屋へ持て来たと書きましたが、コレは伏見薩摩屋敷の誤り、又「大仏の和尚の媒介で云々」は僕の聞き間違ひで実は粟田青蓮院の寺内、金蔵寺の住職智足院が仲人したので、大仏騒動の折りは唯だ内縁だけであつたそうです。最初から阪崎先生や民友社の誤謬を叱り飛すと大袈裟に出掛けた僕だから今更ら智者も千慮の一失と胡魔化したとて、どうせ諸君が御承知なさるまいから茲に謹んで正誤致します。御無礼の段は何分真平……。