谷干城遺稿より。土佐藩佐幕守旧派が、倒幕派を批難して藩主へ訴え出た建白書。
薩、長、芸の三藩於二京都一討幕の軍を動し候風聞有レ之、其節御建白被レ遊候旨奉二拝承一候。追而右御建白書拝見仕罷在候処、先達て望月清平帰国仕、宇内形勢一変し既に公方様御辞職、 御勅許御沙汰之趣。就ては万石以上の諸侯方、不レ残京師へ被レ為レ召鎌倉以来武家之制度を一変し、王政復古之大御基本相立候御沙汰に付、御隠居様にも早々御上京被レ為レ遊候様、 勅命被レ為二仰蒙一候御旨、根元御建白は、天朝幕府之御為、皇国安静之基を被レ為レ立、全く公方様御辞職被レ遊候との思召には不レ被レ為レ在候。右等御変革実以恐懼之至に奉レ存候。右様相成候而は皇国安静之思召、殊に寄却而、乱階を生じ候儀も難レ計、乍レ恐明神様(初代山内一豊)御以来今日に至幕府御尊崇之御趣意にも相拗候哉と奉レ存候。折柄、後藤象二郎帰国仕候処、公方様御辞職には相成候得共、未 勅許に相成不レ申候旨奉二拝承一候。孰 勅命旁御上京被レ遊、 皇国治平之御基本御立、東照宮御以来之大恩を被レ報、就而は御建白御趣意相拗居候処之疑をも御散じ被レ遊候儀と奉二仰望一候。然に近年来御国政宜敷に不レ叶儀不レ少、必竟軽薄奔競之徒御登用に相成候より、御先代様御以来之御規矩を変更仕り、義を捨利に走り抜擢之名を借りて階級を乱、両府之其人を不レ得、賞罰当を失ひ人心一定不レ仕、富国の名に仍而興利之局を開き、人民之疾苦をも不レ顧、用度無レ節諸局不締に相成候より、遂に御勝手向御窮迫に至、市中郷中共度々御借入金且半知御借上に相成候得共、所謂薪を以火を防之勢、此上如何様金銀御募に相成候共、御上京御入費相支候共不レ奉レ存、且度々御借上之金銀御返済遅滞に及、是迄信義を御失ひ被レ遊候より人心離心仕、頃日民間之誹謗聞に不レ堪事柄も有レ之、右様人心離心仕候上又々苛酷に被二仰付一候而は緩急之間如何様之大患を引起候儀難レ計不安次第に奉レ存候。元来時勢之変遷は暴水之増来る如くに而は無レ之、戊午以来今日之形勢に立至り候儀、愚昧之者といへ共大様見通し相立可二罷在一、況重き御国政を御委任被二仰付一置候重職之者に相成候而は兼而配慮も可レ有レ之筈之処、右様之次第に為二立至一候義、何共奉二恐入一候。将京師形勢不穏御三家並御家門御譜代之譜侯御異論有レ之趣に付、万一騒乱に立至候程難レ計、仍而御趣意奉二引受一正義之人物御撰擢に相成不レ申而は、御兵備は勿論御財用迚も十分御整に不二相成一候而は、御上京被レ遊候共御尽力も被レ為在候御忠精之程も空敷相成、 却而天下之疑念を御受被レ遊候様可二相成一も難レ計、已に先達而以来乍レ恐御政府内討幕に紛敷議論相唱候者も有レ之趣、不二而已一歴々御臣下(歴々の御臣下と云は乾を指す○編者曰雑記二の三の頭書には歴々とは小笠原唯八、乾退助を指す。或は以下は毛利恭助及余等を指すとあり)之内、東武に於而諸浪人と討幕之盟約仕候者有レ之、或は薩、長之討幕論に同意致候者も有レ之趣、右等全く無根之風説とは難二打捨一、御手足と相成候御臣下之内右様之反覆之人物有レ之候而は、御趣意貫通不レ仕、就而は右者共早々御詮儀之上、屹度御所置不レ被二仰付一而は、人心之疑惑不レ少自然御政府内にも右様之儀同意致居候者無レ之哉之疑念相立、人心一定不レ仕義必然と奉レ存候。其余疑惑之筋別紙に相認申候。右廉々御一覧被レ遊当器之人物御撰擢相成、御国政御一新之上、急々御上京不レ被レ遊而は、乍レ恐御志不レ被レ為レ伸、空敷天下之嘲を御受可レ被レ遊様奉レ存候。 且先年已往之小過は深御咎不レ被レ遊段、御布告に相成候得共、武市半平太等之如き主罪之者は夫々当罰被二仰付一候。況猥に討幕相唱、且御勝手向如レ此為二立至一候儀は、決而既往とは難レ申、万々一御責不レ被レ遊而は御国律不二相立一義と奉レ存候。
右達々方今御大事と奉レ存候間、僣越を不レ憚伏而奉二言上一候。誠恐誠惶。
(以下別紙なり)
一、於二京都長崎等一託二公事一遊蕩之事。
近年旅勤被二仰付一候面々、惰弱之風儀有レ之外交被二仰付一者といへ共、遊冶に相流候に付、右御取締旁両役場京師へ御差立相成、且昨冬諸士遊蕩に相流候而は、御国辱に相成候云々御趣意御布告に相成候処、重役之輩遊蕩甚敷、已に旅宿へ娼妓等出入仕趣、将外交費用不レ少訳を以多分之月金被二下置一、於二長崎一も同様之趣、一国之標的とも可二相成一重役之身右等之所為御坐候而は、前条御趣意と相背可レ申様奉レ存候。
一、疑獄之者御解放、且拷問をも被二仰付一候者、前躰に被二差免一候一事。(編者曰、雑記二の三の頭書には小畑孫次郎、河野満寿弥、森田金三郎等の類を指すとあり)
一昨丑年、武市半平太等御所置被二仰付一候節右事件に関係之者見通しに於而難レ遁罪状不令自然に付、御詮議振りを以、長く牢舎仰付置候上は、追々御所置之品も可レ有二御座一と奉レ存候処、御見切も相付候哉、先達而意外に御宥恕被二仰付一、就中森田金三郎義は御詮議振りを以栲問被二仰付一候身分を、前躰に被二差免一候。彼者義は前白札世伜之訳を以、自然新御留守居組伜に相成候趣、根元格好有レ之者、栲問被二仰付一候は罰之上名字帯刀被二召放一候、見通相立候上ならでは、決而難二相成一越方御国律に御座候処、如何之御詮議振りに御坐候哉。当今御所置御至当に御座候はゞ、無罪之者右様取扱仕置候御役人、当罰不レ被二仰付一而は是非曲直不分明に而、御国律相立可レ申様奉レ存候。
一、火罰之者私之復讐御差免に相成候事。
一昨丑年、御山廻何某於二比島川一溺死之姿に而相果候処、病死之取扱を以家督相続被二仰付、其後御手廻何某盗業且焼家之御疑念を以入牢之上、右事幷に御山廻何某を縊殺し溺死之取計候段申出、追々火罰に被二仰付一候期に至、御山廻親戚共より復讐仕度願出、剰其他足軽輩役手へ相迫り候より御届に相成候趣、是迄之御国律に相違仕、一同疑惑仕候事。(大勢連署し役場所に迫る弊増長せり。佐幕派も人を責むると共に自己も亦咎に習へり)
一、浪人者と盟約之事。
江戸御邸内之浪人輩御差置有レ之、御国御士之内右輩へ討幕之義相約し、書翰往復仕候由之処、訴人有レ之書翰等も御達に相成候趣、右等謀反同様之者其儘御差置に相成候而は、不安次第に奉レ存候。(編者曰、雑記二の三の頭書には訴人とは豊永行秀と云ふ刀鍛冶なり。謀反同様の者とは乾退助を指すとあり)
一、今四月御上京被二仰付一候節、東西郷中へ下横目を以献金を促し候事蹟に関係仕候哉、御役人御免に相成不日復職被二仰付一候事。
一、亡命者御召返、白川邸へ浮浪之徒御閣之事。
本郷士阪本龍馬、去戊年於二京師一思召を以御召返に相成居候処、不日又々亡命仕、薩州邸内相潜罷居候中、於二伏見一幕府の捕人数人に手を為レ負、其後薩州長州の間を奔走致居候処、如何の御詮議に候哉、御召返に相成、且晋太郎(中岡慎太郎の事、即石川清之助の事なり)義は、長州暴発之節相組し於二京師一戦争仕、其後長州に罷在候処、此頃御召返に相成候趣、且白川御邸へ浮浪之輩数人御差置に相成候廉々、疑念仕候事。(編者曰、雑記二の三の頭書には阪本御呼返へしは勝安芳が容堂公へ献言に依るとあり。
又中岡慎太郎事、当時中岡は無名の庄屋なり、故に此所姓名を書せずとあり)
一、開成館御造営以来御趣向多端被二相行一、夫々損失に相成候由風聞に候事。
(編者曰、右建白書の提出者は雑記二の三に依れば左の三十三名なり)
津田斧太郎 横山匠作 小坂喜佐治 谷村 頼
鷲見丘衛 板坂楠馬 野本丘作 祖父江右馬次
滝口笑三 苅谷説郎太 野崎礼 福富良三郎
中山捨作 大谷謙作 町市郎左衛門 高畠羆
野中太内 山田東作 森復吉郎 筧竹次
山田吉次 岡本小太郡 阪井藤蔵 阪井勝四郎
川上友八 井上市兵衛 森川純輔 馬淵源二郎
森小丘太 津田弥吉 臼井弥五助 藤井守馬
若尾譲助