坂本龍馬の手紙/文久3年8月19日付川原塚茂太郎宛
家兄よりより大坂まで
おこし候文ニ付て、さし
出申候存意、
○彼養子のつがふハ積年
の志願ニて、先年も度々
申出候得兄が
配ニ相掛候事なれば
終に立服致候ほどの
事にて候ハ、雅兄ニも
よく御存の所ニて候。又
兼而雅兄が御論ニも
土佐一国にて学問致し
候得バ、一国だけの論
いで横行
すれバ、又夫だけの目
を開き、自ら天より
うけ得たる知を開か
ずバならぬとハ、今に
耳ニ残居申候。一昨年
頃に今日
有事ハ相分り申候故ニ、
存意書を認候て
家兄ニも出し、親類
共ニも相談致しくれ
候。其文ニも勢ニより
てハ海外ニも渡り候事
も、これ可有故猶さら
生命も定兼候。且又
龍馬年四十ニ相成候
まで修行仕度、其時ニハ
兄上ハ御年六十ニも及候もの
なれバ、家政も御らん
被成候には今の内より
可然人、御見立被下
度との文も有之候。其文猶
御らん被下度候。今時
の武稽修行と申ハ、
元亀天正ころの武
稽人の如く時々、戦争
の場に出合実の稽古
致し申候よふ相成申候。
当時於江戸も弥攘夷
と申に相成、勝麟太郎
殿其事に與、元より幕
よりも重く被命候
事ニて候。猶龍馬
らも要ニ有之候て江戸
よりの書状八月廿
八日ニ参り同九日ニ
大坂を発足致
事ニ相成候。右の
件ニ候得バ元より
天下の事ニ引くらべ
候得バ、一家の事ハ
かへり見るにいとまなし。
又すこしも家兄
の家の後致し
候事ハ、念を出す
べき事ハ無之候。
龍馬が内に帰らね
バ養子もできず、
家兄にまで大きに
心配相かけ候とならバ、
又々出奔か死か可
仕より外なし。
何卒以前の御心ニ
変り無之候時ハ、
養子のつがふ御つけ
被成下度候。早々
恐惶謹言
八月十九日 龍馬
茂太郎様
足下
此状のをもむき
にてうしおへ
よしもとなど
にも御申被下度、
川田金平などには
猶々御儀論
被下度候。
かしこ