坂本龍馬の手紙/慶応2年8月16日付三吉慎蔵宛

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其後ハ益御勇壮ニ奉恐慶候。然ニ
去ル七月廿七日及八月朔日、小倉合戦終ニ
落城と承り候。扨御内談承り候事の如く、
御妙策被行候事と奉存候。はたして
其時恐レ候幕海軍が道を
取切候事ハ無之、是もトテモ道ハ取切ハスマイガ;先用心可成ナド承リ候ヿナリ。
其事を承り候てハ、早〻下の関へ出
かけ候も、何とか力ラなく奉もふ敵がなけれバ、存候。
将軍も弥死去仕、後ハ一橋又
紀州が後ト目ニ望ミ候得ども、一向
一条の論なく候よし。何レニしても幕
中大破ニ相成候よし。又兼而高名
なる幕府人物勝安房本ト麟太郎ヿ守も
又京ニ出、是非長州征ハ止メニすべき
論致し、会津あたりと大論、日〻
候よしなれども、何共片付不申。
幕ハ此頃英国のたすけを受候
事ハ、毛頭出来不申事相成候 これハ小松帯刀が見ツモリ
よし。兼而仏蘭西の「ミニストル」ハ
幕府の周旋斗致セしなれども、此頃薩
より日本の情実を仏蘭西の方へ申遣し、
彼仏国ニて薩生両人周旋仕候ニ付て、
江戸ニ来レル仏の「ミニストル」ハ近日国に
帰り候よし。 是ハ西郷の咄し也。 此頃薩ハ兵ハ動しながら、
戦を未だせざるハ大ニ故あり。先ヅ難ズベカラ
ず。幕のたをれ候ハ近ニあるべく奉存候。
近時新聞ハ先ハ右計也。
追白、此便ニ森玄道ニ申遣セし
事ハ実ニ小事件ながら実に
むごそふなるヿなれバ、森及井
藤助太夫共より申上候得バ、宜し
く御聞取奉願候。 但シ下の関へ参;りたる長崎の;売人の事ナリ。
先早々。
      万稽首〻。
 八月十六日          龍
   三吉大兄