坂本龍馬の手紙/慶応2年7月28日付三吉慎蔵宛

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何も別ニ申上事
なし。然ニ私共長崎
へ帰りたれバ又のりかへ
候船ハ出来ず水夫
らに泣/\いとま出し
たれバ、皆泣/\に立チ
出るも在り、いつ迄も死
共に致さんと申者も在
候。内チ外に出候もの両
三人計ナリ。おゝかたの人数ハ死まで
何の地迄も同行と
申出で候て、又こまり
いりながら国につれ帰り申候。
幕の方よりハ大ニ目
おつけ、又長崎でも
我々共ハ一戦争と存候
うち、又幕史ら金
出しなどして、私水夫
おつり出し候勢も
あり候得共、中〻た
のもしきもの計ニて
出行ものなし」今
御藩海軍を開キ
候得バ、此人数をうつ
したれバと存候」
今朝伊予の大洲
より屋鋪にかけ合
がきて、水夫両三人、
蒸気方三人計も
当時の所、拝借とて
私し人数を屋鋪より五大才助
が頼にてさし出し候」
○木圭氏に手紙○
○わ長崎の近時のよふを承り記したり。
を送りけるが、是ハ
極内〻を以て御ラン被成候得バ、
極テたしかなるたより
にて山口に迄御送被成
度。
   慎蔵大人       龍
  右七月廿八日