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土井たか子君の故議員三木武夫君に対する追悼演説

提供:Wikisource


故議員三木武夫君に対する追悼演説

○議長(原健三郎君) 去る十一月十四日逝去されました議員三木武夫君に対し弔意を表するため、土井たか子君から発言を求められております。これを許します。土井たか子君。

〔土井たか子君登壇〕

○土井たか子君 「議会の子」として本院に五十一年有半の長きにわたって在職された三木武夫先生は、去る十一月十四日、御闘病むなしく逝去されました。
 私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に謹んで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 ただいま私は、この壇上に立ちまして、一つの議席が空席になり、そこに真っ白いカーネーションの花があるのを、万感胸に迫る思いで見詰めるのであります。日本の政治にとりまして、何と大きな、余りにも大きな空席でありましょうか。この席のあるじは、生涯を通じて、世界の平和への貢献を目指され、政界の浄化に挺身されました。今も、耳を澄ませば、あのつやと張りのある声で現在の政治を憂え、しかる数々の言葉があの議席から聞こえてくるような思いがいたします。
 その声は、党派を超えて、私たち後輩議員の政治浄化に対する努力が足りないことを悲しんでもおられます。私は、ここで、今の政治の中に三木先生の魂を生かすべく真剣に取り組むことを皆様とともに厳粛にお誓いしたいと存じます。(拍手)それこそが、今は亡き三木武夫先生のみたまにささげる本当の花束であると信じるからであります。
 三木先生は、明治四十年三月に徳島県板野郡御所村、現在の土成町に生まれ、徳島県立徳島商業から、今は兵庫県立尼崎北高等学校となりました中外商業に転じ、明治大学法科に学ばれました。在学中に一年三カ月にわたって欧米を旅行され、一たん帰国後、昭和七年から四年間米国に留学され、アメリカン大学を卒業、マスター・オブ・アーツの資格を得られ、後、改めて明治大学を優秀な成績で御卒業になりました。
 既に徳島商業在学中に全校ストライキを指導、放校処分を受けておられますが、それは野球部の資金集めに絡んだ学校当局の不正を糾弾したものでありました。まさに栴檀は双葉より芳しと申すべく、ここには、三木少年の後年に至るまで変わらぬ不正を憎む心と政治指導者としての資質がありありとあらわれていたのであります。
 また、これからの青年は国際的視野を身につけることこそが必要と痛感された先生は、昭和四年、激動期にあったヨーロッパ各国を見聞して、そこで自由のとうとさをつくづく感じられ、さらにジュネーブで開かれていた国際連盟軍縮会議を傍聴して、フランス外相ブリアン氏の軍縮演説に深い感動を覚えられたことなどが、後年、戦時下の選挙に際して大政翼賛会の非推薦を貫く初心となったのであります。
 こうした若き日の志は真っすぐに政治家となることに向けられ、昭和十二年三月に学窓を巣立たれると直ちに四月の総選挙に立候補、地盤、看板、かばんの世に言う「三ばん」のうち一つさえなかったにもかかわらず、見事に当選の栄を得られたのでありました。(拍手)当選の日によわい満三十歳と一カ月、当時の被選挙権ぎりぎりでありました。
 三木先生が初当選された昭和十二年は、日中戦争が盧溝橋で火を噴いた年であります。前年には二・二六事件が起きておりました。
 三木先生は、この時代を政党政治が腐敗堕落して国民の信を失っていたときであったととらえ、青年将校の決起には国民の共感を呼ぶ部分もあったとしておられました。もちろん、三木先生は青年将校の行動を是認されたのではありません。政党が腐敗して利権ばかりをあさり、内部から崩れていくとき、政治はだれに握られるか、戦前の軍部の専横は政党がみずから招き寄せたものであるという考えでありました。それは結局、泥沼の戦争に至る道へつながっていきました。政治腐敗を正すことと戦争を防ぐこととは、こうして三木先生の政治の初心の中で見事に結び合っていたのであります。
 三木先生の座右の銘が「信なくば立たず」であったことはよく知られております。政治にとって最も大切なことば、軍備を整えることではなく、食糧を満足させることでもない、何よりも人々が政治に信をおくようでなければならないという論語の教えであります。それは同時に、三木先生のこれも口癖であった「私は国民大衆を恐れる。そして私は国民大衆を信頼する」という言葉とつながっております。国民を信頼しない者がどうして国民から信頼されるでありましょうか。ここに民主主義者としての三木先生の真骨頂があったと申せるでありましょう。
 日中戦争から、さらに米英とも一戦を交えるにしかず、「アメリカをたたくべし」という世論が沸騰する中で、貴重な米国での体験を通じて欧米の実力を目の当たりにされてきた先生は、日米関係の悪化はやがて我が国を破滅に導くものと判断されたのであります。昭和十三年二月、日比谷公会堂において、あらゆる妨害にもめげず、賀川豊彦氏、菊池寛氏らとともに「日米戦うべからず」と銘打った国民大会を開催し、会場を埋め尽くした聴衆を前に堂々と非戦の論陣を展開されました。その後、金子堅太郎氏を会長とする日米同志会を結成し、両国関係を憂慮する同志とともに日米開戦反対運動の先頭に立って奮闘されたのであります。先生のこのような勇気ある御努力も実らず、ついに我が国は不幸にして戦争への道へ突入したのであります。
 敗戦の日、戦争を回避できなかった責任をとって議員を辞職すると言われた先生に、「これからの日本はあなたの御活躍を一番必要としています。そのことは、米国で学んだあなたが一番御存じのはずではないですか」と言って励まされ、辞職を思いとどまらせたのは睦子夫人であったというお話をお聞きしています。(拍手)まことに胸の熱くなる思いでございます。
 三木先生は、戦後政治の中で、四十歳の若さで片山内閣の逓信大臣になられたりはしましたが、概して少数党や党内少数派を率いて活躍されております。心ない人々はこれを「バルカン政治家」と呼び、また傍流の政治家と呼びましたが、三木先生自身は、バルカン国家とは「軍事大国でなく、困難な国際関係の中で自己の立場を切り開く国」との意味であるならば、自分は「理想を持つバルカン政治家」であると誇らかに言われました。また、明治時代に本来の政党をつくったのはいわゆる党人であり、後に与党の「本流」を自称する官僚政治家の流れをくむ者こそ政党政治の中では亜流にすぎないと切り返しておられます。そうした烈々たる気迫が三木先生の御生涯を貫いていたのであります。
 三木先生は、逓信大臣の後、鳩山内閣運輸大臣、岸内閣経企・科学技術庁長官、池田内閣科学技術庁長官、佐藤内閣通商産業大臣、外務大臣、田中内閣副総理・環境庁長官などを歴任されました。また、自由民主党幹事長、政務調査会長など、党の要職にもしばしばついておられます。この間、特筆しなければならないのは、佐藤内閣外務大臣として非核三原則と武器禁輸三原則の策定に重要な役割を果たされ、沖縄返還に当たっては、佐藤首相に先んじて「核抜き、本土並み」の方針を明瞭に掲げられたことであります。
 三木先生は、傍流と言われましたにもかかわらず、金権政治を指摘されて退陣された田中内閣の後を受け、党内唯一のクリーンな政治を行う人として、党内外の衆望を担って、昭和四十九年、第六十六代の内閣総理大臣となられました。(拍手)
 三木内閣の業績は、私たち野党から見ましてもまことに目覚ましいものがありました。
 その中では、何よりもまず、あのロッキード事件の解明を不退転の決意で貫き通したことを挙げなければなりません。事件摘発当時の与党の状況から見まして、解明は三木内閣であったからこそなし遂げられたと人は語り伝えております。三木先生によって、日本の政治は腐敗にふたをしてしまうという最悪の事態を免れたのであります。
 また、三木内閣は、防衛費のGNP一%枠を閣議決定し、核拡散防止条約の批准を果たすなど、平和政策を前進させることに力を尽くされました。とりわけGNP一%枠の設定は、長く世界の歴史に記憶されるに違いないと確信するものであります。(拍手)
 三木内閣の足跡の中で、私といたしましては、「私人として」ではありましたものの、三木先生が昭和五十年八月十五日に靖国神社に歴代首相としては初めて参拝されたことを、ただ一つつらい気持ちで思い出すのであります。しかし、三木先生は、翌年夏、現職首相としてこれも初めて広島と長崎の原爆祈念式典に出席されました。このことにも触れなければ、木を見て森を見ないと申すものでありましょう。
 三木先生は、「アジアを大事にせにゃならん」がまた一つの口癖でありました。今は各国首脳の唱える「アジア太平洋時代」という言葉も、六〇年代の半ばに三木先生が最初に言い出されたものだと伺っております。一九七五年、三木先生の首相時代に始まった先進国首脳会議、サミットのランブイエで開かれた第一回のとき、三木先生は、渋る大蔵省を説き伏せ、各国首脳に強く働きかけ、共同声明の中に南北問題を盛り込むことに成功されたと言われております。
 本日、三木先生の夫人睦子さんが議場においでになっていらっしゃいますが、夫人は現在「アジア婦人会」の会長をなさっておいでになります。この会は、アジア諸国に勤務した外交官を初めアジアに縁のある女性たちの集まりで、アジア諸国からの留学生や研修生を観桜会に招いたり、細々とした面倒を見ることをされておられるのであり ます。先生が亡くなられたニュースに接するや、嘆き悲しむアジア各国の留学生からの思い出やお悔やみの手紙が後を絶たないということを承り、外交の真髄とは何かを教えられる気がいたします。(拍手)
 ここで私は、三木先生につきまして私の個人的な思い出を申し述べることを皆様にお許しいただきたいと存じます。
 私は三木先生と、委員会の合間や本院の食堂などで、与野党の立場を離れ、親しくもろもろの話をさせていただくことがしばしばございました。そのような会話の中で、あるとき三木先生が軍縮についての話題の中で言われましたことが耳に残っております。
 先生は、しみじみとした口調でこうおっしゃったのであります。「土井さん、男はだめなんだよ。男は戦う歴史をつくってしまったんだからねえ。そこへいくと女の人は、武器をとって戦った歴史を持たない。戦うことは間違っているという知恵を初めから持っている。これからは、そうした女の人の理性が政治を切り開いていく時代なんだと思いますよ」。もちろん、これには三木先生一流の女性に対するお世辞が含まれているとは思うのであります。しかし、そこに半世紀にわたって平和のために尽くすことを大事にしてこられた先生の誠実さがあふれていたことを、私は確信をもって思い出すことができるのであります。
 三木先生は、御家庭では決して怒らない方であったそうであります。睦子夫人によりますと、夫人はよく先生に、「あんたはいつも腹が寝ている。たまには腹を立てなくちゃだめじゃない」と激励なさったものだそうであります。しかし、家庭では物静かな三木先生の腹は、日本の政治が汚れ、世界の平和が核の脅威にさらされ続けていることにいつも立ち上がり、激しい怒りを燃やしておられたに違いありません。そして今また、私たち日本政治の周囲には、三木先生が怒り、悲しまれる状態を示す事件が、連日のマスコミをにぎわせております。
 まことに三木先生の清潔政治と平和追求の足跡は偉大でありました。病床にありながらも、筆を休めることなく、政治倫理法案と選挙浄化特別措置法案の草稿を練られていたことを聞き、私は、そこに政党政治家三木武夫先生の真髄を見る思いがいたすのであります。(拍手)
 先生が常に胸中に去来し続けていたのは、国家、国民であり、我が国議会の将来であったのではないでしょうか。今三木先生を失ったことは、ただ自民党にとってのみならず、三木先生が信をおかれた国民すべてにとりまして極めて大きな不幸であります。惜しみても余りあるものと申さねばなりません。
 先生がその生涯をかけられた議会活動五十年の表彰は、憲政史上、尾崎咢堂先生に次ぐお二人目でありました。
 人は皆必ず別れのときがあるとは申しましても、三木先生とのお別れは何と悲しいことでありましょう。去る十二月五日、日本武道館において、故三木武夫先生の衆議院・内閣合同葬が、しめやかにも盛大にとり行われました。議会史上初めての合同葬であります。その合同葬に内外の実に数多くの人々が悲しみのうちに別れを惜しんで参列されている姿に接して、私は心打たれたのであります。
 三木先生の愛読された論語には、「学んで思わざれば則ちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし」という言葉がございます。三木先生から学ばなければならないことは、ただいま申し上げたことの何倍も何十倍もあるでありましょう。学ぶべきことは多い上、そのことを考えなければ、私たちの前進はあり得ないのであります。
 三木武夫先生今やなし、まさに「巨星落つ」の実感がひしひしと胸に追ってまいるのであります。
 先生、願わくは、この国の政治の行方に、国民の信頼を回復すべく努力する私どもに息吹を与え、見守ってください。「議会の子」三木武夫先生のありし日は、私どもの忘れ得ぬ勇気であり、情熱であり、誇りであります。
 私は、政治的立場と主義主張を超えて、長く永く、これからの歴史に生きる三木先生御生前の幾多の功績をたたえ、その高く清らかな御人格をしのび、先生に学び、考え、政治の浄化と平和の追求に一層の力を尽くすことを、ここに皆様とともにお誓いし、もって追悼の言葉にかえたいと存じます。
 三木武夫先生、安らかにお眠りください。(拍手)

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