右門捕物帖/南蛮幽霊

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切支丹(きりしたん)騒動として有名なあの島原(しまばら)の乱(らん)――肥前(ひぜん)の天草(あまくさ)で天草四郎達天主教徒の一味が起した騒動ですから一名天草の乱とも言いますが、その島原の乱は騒動の性質が普通のとは違っていたので、起きるから終るまで当時幕府の要路にあった者は大いに頭を悩ました騒動でした。殊に懸念(けねん)したのは豊臣(とよとみ)の残党で、それを口火に徳川へ怨みを持っている豊家(ほうけ)縁故(ゆかり)の大名達が、いち時(どき)に謀叛(むほん)を起しはしないだろうかと言う不安から奥州は仙台の伊達(だて)一家(け)、中国は長州の毛利一族、九州は薩摩の島津一家、と言うような太閤恩顧の大々名のところへはこっそり江戸から隠密を放って、それとなく城内の動静を探らした位でしたが、しかし幸いなことにその島原の騒動も、智慧伊豆(ちえいず)の出馬によってようやく納まり、乱が起きてからまる四月目、寛永十五年の二月には曲りなりにも鎮定したので、お膝元の江戸の街にも久方ぶりに平和がよみがえって、勇み肌の江戸ッ児たちは書入れ時のうららかな春が訪れて参りました。
愈々平和になったとなると、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春――まことに豪儀なものです。三月の声を聞く早々からもうお花見気分で、八百八町の街々は待ちこがれたお花見にそれぞれの趣向を凝(こ)らし乍ら、もう十日も前からどこへいってもその噂でもちきりでした。
南町奉行お配下の与力同心達がかたまっている八丁堀のお組(くみ)屋敷でも、お多聞に洩れずそのお花見があるというので、尤もお花見とは言っても元々が警察事務に携わっている連中ですから、町方の者達がするように遠出をすることは出来なかったのですが、でも屋敷うちの催し乍らともかくもその日一日は無礼講で骨休みが出来るので、上は与力から下(しも)岡っ引に至るまで寄ると触ると同じようにその相談でもちきりの有様でした。毎年三月の十日と言うのがその定例日――無礼講ですから余興は元より付きもので、毎年判で押したように行われるものが先ず第一に能狂言、それから次はかくし芸、それらの余興物が悉く、平生市民達から、いわゆる怖いおじさんとして恐れられている八丁堀の旦那方によって催されるのですから、まことに見物(みもの)中の見物と言わなければなりませんが、殊にことしは干支(えと)の戊寅(つちのえとら)に因んで清正の虎退治を出すというので、組屋敷中の者は勿論のこと、噂を耳に入れた市中の者までが大変な評判でした。
六日からその準備にかかって、九日がその総浚(そうざら)い、一夜あくれば愈々御定例(ごじょうれい)のその十日です。上戸は酒と肴の買い出しに、下戸はのり巻みたらし萩の餅と、それぞれあすのお弁当をととのえて夜のあけるのを待ちました。
と――定例の十日の朝は間違いなく参りましたが、生憎とその日は朝から雨もよいです。名のとおり春雨で、降ったりやんだりの気違い天気――けれどもほかの職業にある人達とは違って、許された公休日と言うのは天にも地にもその日一日しかないのですから、雨に構わず催し物を進行させてゆきました。呼び物の虎退治を演(や)り出したのがお午(ひる)近い九つ前で、清正に扮する筈の者は与力次席の重職にあった坂上与一郎と言う人物。縫ぐるみの虎になったのは岡っ引の長助と言う相撲上りの太った男でした。
お約束のようにヒュウドロロと下座(げざ)が這入ると、上手(かみて)の笹薮がはげしくゆれて、のそりのそりと出て来たものは、岡っ引長助の扮している朝鮮虎です。それが一旦引っ込むと代って出て来たのが清正公で、しかしその清正公が少しばかり趣きの変った清正でありました。とんがり兜(かぶと)も頤髭(あごひげ)も得物の槍の三ツ叉も扮装は絵にある清正と同じでしたが、滑稽なことにはその清正は朝鮮たばこの長い煙管(きせる)を口に銜(くわ)えて、しかもうしろにはひとりの連れがありました。連れと言うのはなにをかくそう朝鮮の妓生(キーサン)で、実はその出し物が当日の呼物になったと言うのも、その妓生が現われるのとそれから妓生に扮する者が、当時組屋敷小町と評判された坂上与一郎の愛娘(まなむすめ)鈴江であったからによりますが、だから見るからに惚れ惚れとする鈴江の妓生が出て来ると見物席からは待っていましたとばかりにわっと拍手が起りました。
「よおう御両人!」
「しっぽりと頼みますぜ!」
なぞと大変な騒ぎで、場内はもう湧きかえるばかり――。
その中を長いきせるでぽかりぽかりと悠長な煙を吐き乍ら、変り種の清正が美人の妓生と濡れ場をひとしきり演ずると言うのですから、ずい分と人を喰った清正と言うべきですが、それよりももっと見物をあっと言わした珍趣向は、その濡れ事の科白(せりふ)が全部朝鮮語であるということでした。無論出たら目の朝鮮語ではありますが、ともかくも日本語でない言葉で色事をしようと言うのですから、かりにも江戸一円の警察権を預かっている八丁堀のお旦那方が工夫した趣向にしてはまことに変った思いつきと言うべきでした。
舞台はとんとんと進んで、再び長助の虎が現われる、鈴江の妓生がきゃっと朝鮮語で悲鳴をあげる、それからあとは話に伝わる清正の通りで、やおら三つ叉の長槍(ながやり)を手にかいぐり出したとみるまに、岡っ引長助の虎はたった一突きで清正に突き伏せられて了いました。それがまたまことに真に迫った仕ぐさばかりで、どう言う仕掛があったものか清正の長槍からべっとりと生血(なまち)が滴(したた)り、縫いぐるみの朝鮮虎が本当にビクビクと手足を痙攣(けいれん)させ出したのですから、見物席は思わずわっとばかりに拍手を浴(あ)びせかけました。
ところが――実はその拍手の雨が注がれていた中で、世にも奇怪な出来事がおぞましくもそこに突発していたのです。いつ迄たっても虎が起き上らないので、いぶかしく思い乍ら近よってみると、清正の長槍に生血の滴ったのもまことに道理、虎の死に方が真に迫ったもまことに道理、岡っ引の長助は本当にそこで突き伏せられていたのでした。
「わっ!大変だ!死んでるぞ!死んでるぞ!」
なにか大変だと言って、世の中にお芝居の殺され役が本当に殺されていたら、これほど大事件はまたとありますまいが、慌てて縫いぐるみをほどいてみると、長助はぐさりと一突き脾腹(ひばら)をやられてすぐに全く事切れていたので、一斉に人達の口からは驚きの声が上りました。同時に気がついて見廻すと、まことに奇怪とも奇怪!血を吸った長槍はそこに投げ出されてありましたが、いつ消えてなくなったものか、いるべき筈の清正と妓生の姿が見えないのです。
事件は当然のごとく騒ぎを増して行きました。無論もうこうなればお花見の無礼講どころではないので、遺恨あっての刃傷(にんじょう)が、孰(いず)れにしても問題となるのは槍を使った清正にありましたから、そこに居合わした六七人の同役達が血相変えて、舞台裏に飛んで這入りました。事と次第によったら与力次席の重職にある坂上与一郎と雖もその分にはすておかぬと言うような力味(りきみ)かたで――。
しかし、事実は一層奇怪から奇怪へ続いていたのです。坂上与一郎もその娘の鈴江も舞台裏にいるにはいましたがまことに奇怪、今清正と妓生に扮した筈の父娘(おやこ)が、それぞれ襦袢(じゅばん)一つのみじめな姿で、厳重な猿ぐつわをはめられ乍ら、高手小手に括(くく)しあげられていたのでしたから、血相を変えて駈け込んで行っつた一同は等しく眼を睜(みは)りました。しかも父娘の口を揃えて言った陳述は愈愈奇怪で、何でも彼等の言うところによると、扮装をこらして舞台へ出ようとしたとき、突然引き入れられるように眠りにおそわれてそのまま気を失い、気がついたときはもう襦袢一つにされたあとで、そのまま今までそこにくくしあげられていたと言うのでありました。事実としたら何者か犯人はふたりでこれを計画的に行い、先ず坂上父娘を眠らしておいて、然るのち巧みに清正と妓生に化けて舞台に立っていた事になるのですから、場所柄が場所柄だけに奇怪の雲は一層濃厚になりました。孰(いず)れにしても先ず場内の出入口を固めろと言うので、そこはお手のものの商売でしたから、厳重な出入禁止が直ちに施されることになりました。
と、丁度その途端です。
「お願いでござります!お願いの者でござります……」
必死の声をふり絞り乍らその騒ぎの中へ、鉄砲玉のように表から駈け込んで来た一人の町人がありました。
四十がらみの年配で渡り職人とでも言った風態(ふうてい)――声はふるえ目は血走っていましたから、察するに本人としては何か重大事件にでも出会っているらしく思われましたが、何を言うにも騒ぎの真最中です。誰一人耳を籍(か)そうとした者がありませんでしたので、町人は泣き出しそうにしてまたわめき立てました。
「お係りの旦那はどなたでござりまするか!お願いでござります!お願いの者でござります!」
その声をふと耳に入れたのが本篇の主人公――即ち『むっつり右門』です。本年とって漸く二十六歳と言う水の出鼻で、まだ駈け出しの同心でこそあったが、親代々の同心でしたから微禄乍らもその点から言うとちゃきちゃきのお家柄でありました。本当の名は近藤右門、親の跡目を継いで同心の職についたのが去年の八月、序ですからここで一寸言い足しておきますが、同心の上役が則ち与力、その下役はご存じの岡っ引ですから、江戸も初めの八丁堀同心と言えば無論士分以上の立派な職責で、腕なら技(わざ)ならなまじっかな旗本なぞにも決してひけをとらない切れ者がざらにあったものでした。言うまでもなくむっつり右門もその切れ者の中の一人でありました。だのになぜ彼が近藤右門という立派な姓名があり乍ら、あまり人聞きのよろしくないむっつり右門なぞと言うそんな渾名(あだな)をつけられたかと言うに、実に彼が世にも稀(めずら)しい黙り屋であったからでした。全く珍しい程の黙り屋で、去年の八月に同心となってこの方いまだに只の一口も利かないと言うのですから、寧ろ啞(おし)の右門とでも言った方が至当な位でした。だから彼は今日の催しがあっても無論最初から見物席の隅に小さくなってて、その渾名の通り始終黙り屋の本性を発揮していたのでした。
けれども、口を利かないからと言って彼に耳がなかったわけではないのですから、町人の必死なわめき声が人々の頭を越えて計らずも彼のところへ届きました。その届いたことが右門の幸運に恵まれていた瑞祥(ずいしょう)で、また世の中で幸運と言うようなものは、兎角右門のような変り者の手の中へひとりでに転がり込んで来たがるものですが、何か尋常でない出来事が起きたな――と言う考えがふと心をかすめ去ったものでしたから、むっつり屋の右門が珍しく近づいていって、破天荒(はてんこう)にも自分から声をかけました。
「目色を変えて何事じゃ」
傍に居てそれを聞いたのが右門の手下の岡っ引伝六です。変り者には変り者の手下がついているもので、伝六はまた右門とは反対のおしゃべり屋でしたから、右門が口を利いたのに目を丸くし乍ら、すぐとしゃべりかけました。
「おや旦那物が言えますね」
啞でもない者に物が言えますねもないものですが、むっつり屋であると同時に年に似合わず胆(たん)が据(すわ)っていましたから、普通ならば腹の立つべき筈な伝六の暴言を気にもかけずに、右門は静かに件(くだん)の町人へ訊問を初めました。
「係り係りと申しておったようじゃが、願い筋はどんなことじゃ」
苦味走った男振りの見るからに頼母しげな近藤右門が、誰も耳をかしてくれない中から、親しげに声を掛けたので、町人はすがりつくようにしてすぐと事件を訴えました。
「実は今ちょっと前に三百両という大金をすられたんでござんす……」
「なに三百両!……うち見たところ職人渡世でもしていそうな身分柄じゃが、そちがまたどこでそのような大金を手中に致して参った」
「それが実は富くじに当ったんでがしてな。お目がね通りあっしゃ畳屋の渡り職人ですが、稼ぎ残りの小遣が二分ばかりあったんで、丁度今日湯島の天神様に富くじのお開帳があったを幸い、一つ金星を打(ぶ)ち当てるべえと思って、起きぬけにやって行ったんでがす。ことしの正月浅草の観音様で金運来たるって言うおみくじが出たんで、福が来るかなと思っているとそれが旦那、神信心はしておくものですが、本当にあっしへ金運が参りましてな、見事に三百両と言う金星を打ち当てたんでがすよ。だからあっしが有頂(うちょう)天になってすぐ小料理屋へ駈けつけたってなにも不思議はねえじゃごわせんか」
「誰も不思議だと申しちゃいない。それからいかが致した」
「いかが致すもなにもねえんでがす。何しろ三百両と言やあっしらにゃ二度と拝めねえ大金ですからね。いい心持でふところにし乍らとんとんと梯子(はしご)を上って、おい婢(ねえ)さん中串(ちゅうぐし)で一本たのむよって言いますと……」
「中串と言うとうなぎ屋だな」
「へえい、家は汚ねえが天神下ではちょっと乙な小料理屋で、玉岸って言う看板なんです」
「すられたと言うのはそこの帰り道か」
「いいえそれがどううもけったいじゃごわせんか、婢さんが帳場へお誂えを通しにおりていきましたんでね、このすきにもう一度山吹色を拝もうと思って、そっとふところから汗ばんで暖かくなっている三百両の切餅包(きりもちづつみ)を取り出そうとすると、ねえ旦那、そんな馬鹿なことが今時一体ありますものかね」
「いかが致した」
「あっしの頭の上に何か雲のようなものが突然ふうわりと舞い下(さが)りましてね、それっきりあっしゃ眠らされて了ったんですよ」
「なに眠らされた?」
その一語をきくと同時に、むっつり右門の苦味走った面にはさっと血の色が湧き上りました。これがまたどうして色めき立たずにいられましょうぞ!現在同僚達が色を失って右往左往と立騒いでいる長助殺しの事件の裏にも、坂上父娘の陳述によれば同じその眠りの術が施されていましたので、右門の面は啻(ただ)に血の色が湧き上ったばかりではなく、その両眼はにわかに異様な輝きを帯びて参りました。心をはずませて膝をのり出すと畳みかけて尋ねました。
「事実ならばいかにも奇怪じゃが、その眠りと言うのはどんな模様じゃった」
「まるで穴の中へでも引きずり込まれるような眠気(ねむけ)でござんした」
「で、金はその間に紛失致しておったと言うんじゃな」
「へえい左様で……ですから目のくり玉をでんぐらかえして、すぐと数寄屋橋のお奉行所へ駈込訴訟をしたんですが、何でございますかお役人はあちらにもご当番の方が五六人ばかりいらっしゃいましたのに、今日は骨休みじゃとか申されて一向にお取上げがなかったんで、こちら迄飛んで参(めえ)りましたんでござんす」
「よし相分った。普通ならばそんな事件、手下の者にでも委すのが御法だが、少しく思い当る節(ふし)があるから、手前が直々に取扱ってつかわす。念のためその方の所番地を申し置いて参れ」
おどり上って町人が所番地を言い置き乍ら引下ったので、むっつり右門はここに初めて敢然と奮い立ちました。まことにそれは敢然として奮い立つと言う言葉が一番適切な形容でありました。なぜかならば多くの場合その種の変り者が兎角世間から馬鹿にされ勝ちであるように、右門もこれ迄あまりにも珍し過ぎる黙り屋であったために、同僚達から生来の愚者(おろかもの)と解釈されて事毎に小馬鹿にされ乍ら、ついぞ今迄一度たりともろくな事件を当てがわれたことはなかったからです。けれども今こそ千載(ざい)一隅(ぐう)の時節が到来したのです。右門は血ぶるいし乍ら立上りました。勿論その間にも同僚達はわいわいとわけもなく騒ぎ立って、われこそ一番がけに長助殺しの犯人を引くくろうとお組屋敷は上を下への混雑でありましたが、しかし右門は目を呉れようともしませんでした。二つの事件に必ず連絡があると睨みましたので、あるとすれば、犯罪の遣(や)り口から言って一筋縄では行かない犯人に相違あるまいと目星をつけたので、将を射んとする者は先ず馬を射よのたとえに従って、三百両事件を先にほじって見ようと思い立ちました。立てば言う迄もなくもう渾名(あだな)のむっつり右門です。
「急に狐つきのような形相(ぎょうそう)をなさって、どこへ行くんですか旦那!」
おしゃべり屋の伝六があたふたとあとを追っかけ乍ら、しつこく話しかけたのに言葉も呉れず、右門は先刻の町人が言った湯島の玉岸という小料理屋目がけてさっさと歩(あゆみ)を運びました。

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行って見ると成る程家の構えは小汚いが、この界隈(かいわい)の名物と見えて店先は一杯のお客でありました。右門はべちゃくちゃと囀(さえず)っている岡っ引の伝六をあとに随えて、ずいと中へ這入って行きました。
古い物(もの)は付(づけ)にも目の高いものは、やり手婆に料理屋のあるじとうまいこと穿(うが)ってありますが、玉岸のおやじも小料理屋乍ら一ぱしの亭主でありました。
「これはこれは八丁堀の旦那方でいらっしゃいますか」
一瞬にして目が利いたものか揉み手をしいしい板場から顔を出して、すぐと奧まった一室へ茶煙草盆と共に案内したので、右門はただちに町人の三百両事件を切り出しました。無論事の当然な結果として小料理屋それ自体に三分の疑いがかかっていたので、伝六にはその間に屋作りをぬけ目なく調べさせ、右門自らは亭主の挙動に充分の注意を放ちました。けれども亭主は事件は知ってはいたがその下手人については更に心当りがないと言うのです。町人が上った頃にどんなお客が二階に上っていたかも記憶がないと言うので、伝六の探索を延ばした方も同様に手掛りは皆無でした。僅かに残された探索として希望をつなぎうるものは、事件の前後に受持として出ていった小婢(こおんな)があるばかり――。
で、早速にその婢(おんな)を呼んで、むっつり屋の右門が極めて色気のない言葉つきで、当時の模様をきき正しました。と――手掛りらしいものが僅かに一つ挙(あが)ったのです。それは一個の駒でありました。馬の駒ではない将棋の駒でそれも王将、婢(おんな)の言うにはあの町人の三百両紛失事件が降ってわいたそのあとに、右の将棋の駒がおっこちていたと言うのでありました。巨細(こさい)によく調べてみると、先ず第一に目についたものは相当使い古したものらしいに拘わらず、少しの手垢も見えないでぴかぴかと手入れのいい磨きがかけられてあったことでした。それから材料は上等の桑の木で、彫は無論漆彫、尻をかえしてみると『凌英(りょうえい)』と言う二字が見えるのです。
「凌英とな……聞いたような名前だな。」
思い乍ら暫く考えている内に右門ははたと膝を打ちました。その頃駒彫(こまほり)の名人として将棋さしの間に江戸随一と評判されていた、書家の凌英であることに思い当ったからでした。して見ると無論一組一両以上の品物で、木口(きぐち)なぞの上等な点といい手入れのいい工合と言い、この駒の持主はひとかどの将棋さし――少くもずぶの素人(しろうと)ではないことが当然の結果として首肯(しゅこう)されました。
「よしッ。存外こいつあ早くねたが挙がるかも知れんぞ!」
こうなれば全くもう疾風迅雷(しっぷうじんらい)です。右門は探索の方針についてなによりの手蔓を拾いえたので、前途に輝かしい光明を認め乍ら、御苦労とも気の毒だったとも何とも言わずに、例のごとく黙然とし乍らぷいと表へ出て行くと、即座に伝六に命じました。
「貴様これから凌英と言う駒彫師の家をつきとめろ!つきとめたらこの駒をみせてな、いつ頃彫ったものか誰に売ったやつだが、心当りをきいて買い主が分ったらしょっ引いて来い。分らなきゃ江戸中の玄人(くろうと)将棋さしを片っ端(ぱし)洗って、どいつの持主だか調べるんだ!」
「え?旦那にゃ全く呆れちまいますね。藪から棒に変なこと仰有(おっしゃ)って、何が一体どうなったって言うんです?」
分らない場合には、江戸中の将棋さしを片っ端洗えと言ったんですから、伝六が面喰ったのも無理もないでしょう。しかし、右門の言葉には確信がありました。
「文句はあとでいいから早くしろい!」
「だって旦那江戸中の将棋さしを調べる段になるとちっとやそっとの人数じゃごわせんぜ。有段者だけでも五十人や百人じゃききますまいからね」
「だから先に凌英って言う彫師(ほりし)に当ってみろと言ってるんじゃねえか」
「じゃ三月かかっても半年かかってもいいんですね」
「馬鹿!今日から三日以内に挙げちまえ!」
「だって江戸を廻るだけでも三里四方はありますぜ」
「うるせえ奴だな。廻り切れねえと思ったら駕籠で飛ばしゃいいんじゃねえか」
「ちえっ有難え!おい駕籠屋!」
官費と聞いて喜び乍ら丁度そこへ来合わした辻駕籠を呼びとめてひらり伝六が飛び乗ったので、右門は直ちに数寄屋橋の奉行所へやって行きました。勿論奉行所ももうその時は色めき立って、非番の面々迄がどやどやと詰めかけ乍ら、孰(いず)れもが長助殺しの犯人捜査に夢中でありました。しかし同役達の等しく撰んだ捜査方針は、申し合わせたようにみんな常識捜査でありました。即ち第一に先ず彼等は当日見物席に来合わしていた一般観客に当りました。坂上父娘に似通った父娘連れのものが見物の中に居合わさなかったか、誰か疑わしい人物の楽屋裏に出入りしたものを見かけなかったか――と言うような常識的の事実から捜索の歩を勧めていたのでした。それから最後の最も重大な探索方針として、彼等は等しく与力次席の坂上父娘に疑いをかけていたのです。
けれども右門の捜査方針は全然それとは正反対でありました。飽くまでも見込捜査で疾風迅雷的に殺された本人――岡っ引長助の閲歴(えつれき)を洗い立てました。いずれ遺恨あっての刃傷に相違なく、遺恨としたらどう言う方面の人物から恨みを買っているか、その間(かん)のいきさつを調べました。
しかし、残念なことにその結果は一行平凡なものばかりだったのです。判明した材料と言うのは次の三つで、第一は長助が十八貫目もあった大兵肥満の男だったと言うこと、第二は前にも言ったように葛飾在の草相撲上りであったと言うこと、それから第三は非業の死をとげた三日程前にその職務に従い、牛込の藁店(わらだな)で旦那ばくちを検挙したと言うことでありました。強(し)いて材料にするとするなら最後のその旦那ばくちの検挙があるっきりです。
で、彼は念のためにと思って御奉行所の調書について、その時の吟味始末(ぎんみしまつ)を調査にかかりました。と――まことに奇怪、検挙事実は歴然として人々の口に伝わっているのに、公儀お調書にはその顚末が記録されてなかったのです。
「臭いな」
と思うには思いましたが、しかし何を言うにも検挙に当った長助本人がすでにこの世の人でなかったから、疑惑の雲がかかり乍らそれ以上その事件を探求する事は不可能でありました。とすればも早や残る希望は伝六の報告を待つ以外になかったので、右門はお組屋敷へ引き下ると、じっくり腰をすえ乍らその帰来(きらい)を待ちわびました。
やがてその三日目――首を長くして待っていると、ふうふう言い乍ら伝六が帰って参りましたので右門はすぐに尋ねました。
どうだ、なにかねたが挙ったろう」
「ところが大違い――」
「ええ大違い?」
目算が狂いましたから右門もぎくりとなって問いかえしました。
「じゃまるっきり目星がつかないんだな」
「左様で――仰有った通りまず第一に凌英って言う彫師を当ったんですがね、ところがその凌英先生が生憎(あいにく)なことに去年の八月水に溺れておっ死(ち)んで了ったって言うんだから最初の星が第一発に目算はずれでさ。でもここが奉公のしどころと思いましたからね。あの駒の片割れをもって凡(およ)そ将棋さしと言う将棋さしは看板の揚がっている者いない者もしらみつぶしに当ってみたんですよ。ところがそいつがまた目算はずれでしょ。だから今度は方面を換えて駒を売っている店と言う店は残らず廻ったんですが、最後にその望みの綱も見事に斬れちまったんでね、この通り一貫目ばかり肉をへらしてすごすごと帰って来たところなんです」
流石の右門もその報告にはすっかり力をおとして了いました。折角こんないい手掛りを持っているのにと思いましたが、人力をもって如何ともしがたいとあっては止むを得ない事でありました。この上は時日を焦(あせ)らずゆっくりと構え二つの材料即ち駒の所有者と、疑惑のまま残されている長助の検挙したと言う旦那ばくちの一味が、どんな人物達であるかをつき突める以外には方法がなかったので、先ず英気でも養っておこうと思い立ち乍ら、ぶらり近所の町湯へ出かけました。


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と――右門がまだお湯屋のざくろ口を完全に這入り切らない時でした。
「旦那!旦那!また変なことが一つ持上りましたぜ」
息せき切り乍ら伝六があとから追っかけて来たので、右門はちょっと色めき立ち乍ら耳をかしました。
「ね、柳原の土手先に四五日前からおかしな人浚(ひとさら)いが出るそうですぜ」
「人浚い?誰からきいた」
「組屋敷の旦那方がたった今奉行所から帰って来ての噂話をちらり耳に入れたんですがね。今しがた訴えた者があったんだそうで、なんでもそれが夜の九つ時分に決って出るんだそうだがね。おかしい事は申し合わせたようにお侍ばかりを浚うって言うんですよ」
「じゃ徒党を組んだ連中なんだな」
「ところがその人浚いは対手はたったひとりだと言うから腑(ふ)におちないじゃごわせんか。その上に正真正銘足がなくてちっとも姿を見せないって言うんだから、場所柄が場所柄だけに幽霊だろうなんて言ってますぜ。でなきゃ菰(こも)を抱えたお嬢さん――」
「なんだその菰を抱えたお嬢さんて奴は……」
「知れた事じゃありませんか。辻君ですよ、夜鷹(よたか)ですよ」
「なる程な」
はだかのままで暫く考えていましたが、突如!真に突如右門の眼は再び炯々(けいけい)と輝きを帯びて参りました。また輝き出すのも道理です。言うがごとくにたったひとりの力で侍ばかりを浚って行くとするなら、少くともその下手人は人力以上の、まことに幽霊ではあるまいかと思える程のなにものか異常な力を持ち備えている者でなければならない筈だからです。とするなら――右門の心にふと湧き上ったものは、あの同じ眠りの秘術、長助の場合にも三百両紛失の場合にも等しく符節(ふせつ)を合しているあの奇怪な眠りの術でありました。
「よし!いいことを知らしてくれた。ご苦労だが貴様ひとっ走り柳原までいってもっと詳しいことを挙げて来てくれ!」
途切(とぎ)れた手掛りにほのぼのとしてまた一道の光明がさして来たので、右門は口早に伝六へ命じました。
お湯も匇々(そうそう)に上って心をはずませ乍ら待っていると、伝六は宙を飛んで駈けかえって参りました。けれども宙を飛んで帰りはしたが、その言葉つきには不平の色が充(み)ちていたのです。
「ちえッ、旦那の気早にゃ少し呆れましたね。くたびれもうけでしたよ」
「嘘か」
「いいえ、人浚いは出るでしょうがね、あの近所の者ではひとりも現場を見たものがないって言いますぜ」
「じゃあそんな噂も上っちゃいないんだな」
「左様で――また上らないのが当然(あたりまえ)でしょうよ。浚われたとするとその人間は屹度(きっと)かえって来ないんでしょうからね。だから四日も五日もお上(かみ)のお耳へ上らずにもいたんでしょうからね。しかし、ちょっと乙な話はございますよ。こいつあ人浚いの幽霊とは別ですがね、この頃中からあの土手の先へ別嬪(べっぴん)父娘(おやこ)のおでん屋が屋台を張るそうでしてね、なんでもその娘と言うのが素晴らしい美人のうえに、人の評判では琉球の芋焼酎だと言いますがね、兎に角味の変った馬鹿に辛(から)くてうまい変てこりんな酒を呑ませるって言うんで、大繁昌だそうですよ。どうでごわす拝みに参りましょうか」
ツベコベと口早に喋舌(しゃべ)るのを聞き乍らじっと眼を閉じて、何ものかをまさぐるように考えていましたが、と、突然右門がすっくと立ち上り乍ら外出(そとで)の支度にとりかかったので、伝六は早合点し乍ら言いました。
「ありがてえ!じゃ本気に別嬪を拝みに出かけるんですかい」
しかし右門は押し黙ったままで万端の支度をととのえて了うと、風のようにすうと音もなく表へ出て行きました。刻限は丁度晩景(ばんけい)の六つの下り刻(どき)で、ぬんめりと軟らかく小鬢(こびん)をかすめる春の風あ、まことに人の子事をとろかすような肌ざわりです。その浮れ立つ巷の街を右門は黒羽二重(くろはぶたえ)の素袷(すあわせ)に、蠟色鞘(ろいろざや)の細いやつを長めに腰へ落して、ひと苦労してみたくなるような江戸前の男振はすっぽり頭巾に包み乍ら、素足に粋な雪駄を鳴らし紛(まが)うかたなく道を柳原の方角へとったので、伝六はてっきりそれとますますはしゃいで言いました。
「旦那もこれで隅(すみ)にはおけませんね、別嬪ときくと急におめかしを初めたんだからね、ちッちッありがてえ!全く果報は寝て待てと言う奴だ。久しぶりで伝六さんの呑みッぷりのいいところを別嬪にみせてやりますかね。そのかえり道に菰を抱えたお嬢さんをからかってみるなんてどうみても乙な寸法でがすね」
しかし、それが次第に乙な寸法でなくなり出したのです。柳原ならそれ程道を急ぐ必要はない筈なのに、右門は最寄(もよ)りの辻待駕籠(かご)屋っへやってゆくと、黙って顎(あご)でしゃくりました。のみならず供先は息杖(いきづえ)をあげると同時に、心得たもののごとくひたひたと先を急ぎ出しました。柳原なら大川べりを左へ曲るのが順序ですが真直ぐにそれを通り越して、どうやら行く先は浅草眼がけているらしく思われましたものでしたから、少し寸法の違うどころか伝六はとうとう面喰って、うしろの駕籠から悲鳴をあげました。
「まさかに柳原と観音(かんのん)様とお間違いなすっていらっしゃるんじゃありますまいね」
けれども右門は落ちつき払ったものでした。駕籠をおりるや否やさっさと御堂裏の方へ歩き出したのです。言う迄もなくその御堂裏は浅草の中心で、軒を並べているものは悉く見世物小屋ばかり――福助小僧の見世物があるかと思うと、玉ころがしにそら吹けやれ吹けの吹矢があって、秩父(ちちぶ)の大蛇に八幡(やわた)手品師、軽業(かるわざ)乗りの看板があるかと思えば、その隣りには猿芝居の小屋が軒をつらねていると言った工合でした。
それらの中をむっつり右門は依然むっつりと押し黙って、掻分(かきわ)けるようにやって行きましたが、と、立ち止った見世物小屋は何ともかとも意外の意外、南蛮渡来の女玉乗り――とかかれた絵看板の前だったのです。のみならず彼はその前へ佇(たたず)むと、しきりに客引の口上に耳を傾けました。
――客引はわめくように口上を述べました。
「さあさ出ました出ました。珍しい玉乗り。只の玉乗りとは、わけが違う。七段返しに宙乗り踊り、太夫は美人で年が若うて、孰(いず)れも南蛮渡来の珍しい玉乗り。さあさ、いらっしゃい、いらっしゃい。お代は只の二文――」
言い終ったとき右門はつかつかと口上屋の傍に近づいて無遠慮に訊ねました。
「座頭(ざがしら)太夫は元船頭で、唐(から)の国へ漂流致し、その節この玉乗りを習い覚えて帰ったとか言う噂じゃが、まさかに噓ではあるまいな」
「そこですそこです。そう言う旦那方がいらっしゃらないとあっし達も折角(せっかく)の口上に張合がないと言うものですよ。評判に噓偽りのないのがこの座の身上、それが証拠に太夫が唐人語(とうじんご)を使って踊りを踊りますから、だまされたと思って二文すててごらんなさいよ」
得意になって口上言いが能書を並べ出したものでしたから、それにつられてあたりの者がどやどやと六七人木戸をくぐりました。しかし、右門はまさかにその仲間ではあるまいと思っていたのにこれは意外、つかつかと二文を払って同じく中へ這入りましたので、伝六は愈々鼻をつままれて了いました。
けれども右門は伝六のおどろいていることなぞには一向無頓着で、丁度幕が上っていたものでしたから、引き入れられるように舞台へ目をすえ出しました。見るとまことや口上言いの能書通りなのです。黒い玉に乗って柳の影から、宛然(まるで)足のない幽霊のごとく、ふうわり舞台へ現われると、太夫はいかにも怪しい唐人語を使って、不思議な踊りを玉の上で巧みに踊りました。と、同時でした。右門は突然叱るように伝六へ言いました。
「貴様今の唐人語に聞き覚えないか」
「え?何です。何です。唐人語たあ何ですか?」
「どこかであれに似た節(ふし)の言葉を聞いたことはねえかと言ってるんだよ」
伝六が懸命に考えていましたが、はたと膝を打つように言いました。
「あっ!そう言えばこないだお花見の無礼講に、清正と妓生(キーサン)が確かあんな風な節を出しましたね」
「それが分りや貴様も大出来だ。この上は土手のおでん屋を詮議(せんぎ)すりゃもう占めたものだぞ。来い!」
恐ろしいずばしっこさでそのまま右門が表へ駈け出したものでしたから、まだはっきりと分らないが大体目星のついた伝六も尻をからげてあとを追いました。まことにもうひとッ飛びで、評判のおでん屋を土手先で見つけたのはそれからまもなくでした。
暖簾(のれん)をくぐって這入って見ると、なる程評判通りの美人です。年の頃は先ず二九あたり、眉の匂やか笑(え)くぼの愛嬌(あいきょう)、見ただけでぞくぞくと寒気立つ程の美人でした。しかし、ちらりと目を胸元へさげたとき――あっ!思わず右門は声をたてんばかりでした。乳が、その割合にしてはいかにも乳のふくらみが小さいではありませんか!はてなと思ってさらに目を附添いのおやじに移して行くと、もう一つ不審があった。その指先には立派な竹刀(しない)だこが、少くとも剣道の一手二手は使いうることを物語る証左(しょうさ)の竹刀だこが歴然としてあったのです。右門は躍り立つ心を押え乍ら素知らぬ顔で命じました。
「琉球の芋焼酎とかを貰うかな」
と――偶然がそこにもう一つの幸運を右門に齎(もた)らしました。娘が壜をとりあげてみると生憎それが空(から)だったので、なにげなく屋台車の蹴込みを押しひらいて、中から貯えな別の壜を取り出そうとしたその途端、ちらりと鋭く右門の目を射たものは、たしかに今浅草の小屋で見て帰ったと同じ南蛮玉乗りの大きな黒い玉でした。
「さては星が当ったらしいな」
愈々見込み通りな結果に近づいて参りましたものでしたから、もう長居は無用。伝六におでん屋の父娘の張番を命じておいて、直ちに四谷大番町(おおばんちょう)へ向いました。なに故四谷くんだりまでも出向いて行ったかと言うに、そこには当時南蛮研究の第一人者たる鮫島老雲斎(さめじまろううんさい)先生がかくれ住んでいたからでした。かれこれもう夜は二更をすぎていましたので、起きていられるかどうかそれが心配でしたが、幸いに、先生はまだお目ざめでした。元より一面識もない間ではありましたが、そこへ行くと職名は調法なものです。右門が八丁堀の同心であることを告げると、老雲斎は気軽に書物のうず高く積みあげられたその居間へ通しましたので、唐突(だしぬけ)に尋ねました。
「甚だ卒爾(そつじ)なお尋ねにござりまするが、切支丹(きりしたん)伴天連(ばてれん)の魔法を防ぐにはどうしたらよろしいのでござりましょうか」
「ほほう偉い事をまた尋ねに参ったものじゃな。伴天連の魔法にも色々あるがどんな魔法じゃ」
「眠りの術にござります」
「ははああれか、あれは催眠の術と申してな、伊賀甲賀の忍びの術にもあるごく初歩の技(わざ)じゃ。知っての通り何ごとによらず、人に術を施すと言うことは術者自身が心気(しんき)を一つにしなけんきゃならぬのでな。それを破る手段も結局はその術者自身の心気統一を邪魔すればいいんじゃ。昼間ならば突然大きな音を立てるとかな、乃至はまた夜の場合ならば急にちかりと明るい光を見せるとかすればたいてい破れるものじゃ」
立板に水を流すがごとく、すらすらと催眠破りの秘術を伝授してくれましたので、も早や右門は千人力でした。最寄りの自身番へ立寄って特別明りの強い龕燈(がんどう)を一つかりうけると、直ちに駕籠を飛ばして、再び柳原の土手わき迄引返して行きました。日にしたら丁度十三日、普通ならば十三夜の月が今頃は眩(まぶし)い程に中天高く上っているべき筈ですが、折からの曇り空は却って人浚いの下手人をおびき出すにはお誂え向のおぼろ闇です。
「伝六、どうやら俺の芽が吹いて出そうだぞ」
息をころして遠くからおでん屋台の張番をしていた伝六の傍へ蹲(うずく)まると、右門は小声で囁き乍ら今か今かと刻限のふけるのを待ちました。
と、案の定もう辻君達の群も姿を消して了った九つ近い真夜中どき――おでん屋は店をしまって車を引き乍ら河岸を土手に沿ってみくら橋の方へやって参りました。前後して顔の包みをとった右門がわざと、千鳥足を見せ乍ら、そのあとをつけました。途端、侍姿の右門に気がついたとみえてふっとおでん屋台の燈(あか)りが消されました。同時にことりとなにか取出したらしい物音は、たしかにあの蹴込みの中に秘めかくしておいた玉乗りの黒い玉です――右門はかくし持っている御用龕燈(ごようがんどう)をしっかりと握りしめました。間をおかないでふわふわとさながら幽霊でもあるように、玉に乗り乍らおぼろ闇の中から近よって来たものは紛れもなく先刻の美人です。そら眠りの術が初まるぞ!と思って龕燈を用意していると、それともも知らずに予想通り、いとも奇怪な一道の妖気が突如右門の身辺にそくそくとおそいかかりました。
「馬鹿者!」
途端に右門が破鐘(われがね)のような大声で大喝したのと、ちかり龕燈の明りをその鼻先へ不意につきつけたのと同時でした。術は老雲斎先生の言葉通り嬉しくも破れました。
「あっ!」
と言って今一度術を施し直そうとしたときは、一瞬早くむっつり右門の草香流(くさかりゅう)柔術(やわら)の逆腕が対手(あいて)の右手をさかしらにうしろへねじあげていたときでした。同時に片手で右門は対手の胸をさぐりました。――然るにやはり乳がないのです。右門とても年が若いのですから、寧(むし)とあってくれた方がその点から言ったっていい位のものだが、やはり乳はないのです。
「馬鹿者め!女に化けたって別嬪に見える程の器量よしなら若衆になっていたって別嬪の筈じゃねえか。さ、大股(おおまた)にとっとと歩け!」
女でなかったことが別に腹が立ったと言うわけではなかったのですが、なにかしら少し惜しいように思いましたので、右門はそんな風に叱りつけました。
――言うまでもなくそのおでん屋の見込(みこみ)捕物(とりもの)によって一切の犯人が挙げられ、一切の犯行が判明致しました。長助殺し事件も三百両紛失事件も人浚い事件は申すに及ばず、悉(ことごと)くそれら一団の連絡ある犯行だったのです。それら一団と言うのは天草(あまくさ)の残党、則ち智慧伊豆の出馬によって曲りなりにも鎮(しずま)った島原の乱のあの残党達でした。南蛮渡来の玉乗りも無論その切支丹(きりしたん)伴天連(ばてれん)が世を忍んだ仮りの姿で、岡っ引長助を殺した直接の下手人は催眠の術にたけていたおでん屋父娘とみせかけているその両名でした。何故に長助をあんな非業の死に就かしめたかと言うに、その原因は右門が奉行所の調書によって疑問と睨んだあの旦那ばくち検挙事件に関係があったのでした。蓋をあけてみると流石(さすが)は切支丹伴天連の一味だけあって、実にその犯行は巧みな計画にもとづき、あくまでも宗門一揆の才気を計るために先ず彼等は軍資金の調達に勤めました。その一方法として案出されたものが金持の御隠居や若旦那達を対手にいんちきばくちで、いんちきの裏には同じ切支丹伴天連の催眠の術が潜んでいた事は勿論でした。その一つの賭場である牛込(うしごめ)藁店(わらだな)へ偶然に行き当った者が相撲上りの長助で、不幸なことに彼は少しばかり小慾に深い男でありましたから、検挙し乍ら僅かの袖の下でとうとう御法を枉(ま)げて了ったのです。けれども彼等伴天連一味の者から言えば、賄賂(わいろ)によって一度は事の暴露を未然に防ぎ、僅かに急場を免れたと言うものの、矢張り長助は目の上の瘤(こぶ)でした。従って坂上与一郎父娘に化けてあんな残忍な長助殺しの事件も起きたわけでそれにはまた恰好(かっこう)なことに女にしても身ぶるいの出る程なあのおでん屋の美少年がいたものでしたから、まことに芝居にはお誂向(あつらえむき)と言うべきですが、切支丹おでん屋の両名が行った人浚い事件は、これも異教徒達の驚嘆すべき計画の一つで、あの通り美人に化けてその美貌(ぼう)に釣られて通う侍の客を物色し乍ら、例の手でこれを眠らし、誘拐(ゆうかい)した上にこれを切支丹へ改宗させておもむろに再挙を計ろうとしたためでした。侍ののみを目がけたのはいざと言う時その腕を役立たせようと言うので、玉乗りの玉を使った理由は、さも幽霊の仕業(しわざ)ででもあるかのように見せかけて、少しでもその犯行の見込を誤らしめようと言う計画からでした。三百両紛失事件は、これも勿論軍資金調達の一方法で、一味が挙げられたと同時に例の駒の持主はまもなく判明致しましたが、右門の睨んだごとく三段の免許持で、天草から江戸へ潜入以来、賭け将棋専門で五十両百両と言ったような大金を軍資金として稼ぎためていた伴天連の催眠術者でした。それがあの日たまたま湯島の富くじ開帳へ行き合わせて、金星を打ち当てた町人をちょっと眠らしたと言うようなわけでしたが、とにかく右門の素晴らしい巧妙に同僚達はすっかり鼻毛を抜かれた形でした。けれども、お馴染のおしゃべり伝六だけには、一つ腑におちない点がありました。ほかでもなく、それは柳原からの報告をもたらしたとき、すぐに右門が玉乗りへやって行ったあの事実です。
で、伝六は口をとんがらかし乍らききました。
「それにしてもいきなり玉乗りへいったのはまさか旦那も伴天連の魔法を知ってるわけじゃありますまいね」
すると右門は即座に自分の耳を指さしたものでしたから、伝六が眼をパチクリしたのは当然。
「見たところへしゃげた耳で、別に他人のと変っているように思えませんが、なにか仕掛けでもありますかい」
「うとい奴だな。あの時小舎(こや)の中でもそう言った筈だが、お花見の時にきいた妓生(キーサン)の南蛮語よ。初めは無論出たら目なべらべらだなと思っていたが、貴様がおでん屋の芋焼酎を売りにしていると言ったあの話から、てっきり南蛮酒だなと睨んだので、南蛮酒から南蛮渡来の玉乗りのことを思いついて、妓生のべらべらをもう一度聞き試しにいったまでのことさ。あの玉乗りの太夫達が唐人言葉で踊りを踊ると言うことは前から聞いていたのでな。ねた割りゃそれだけの手掛りさ」
言うと右門は俺の耳はお前達のきくらげ耳とは種が違うぞ、と言うように啞然(あぜん)と目を睜(みは)っている同僚達の面前で、ぴんぴんと両耳を引張りました。

この著作物は、1934年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。