古写本日本書紀に就きて
其一は訓読の精確なることなり。余は固より本書を通読して、尽く其例証を挙ぐるに暇あらざれば、嘗て少しく研究せし聖徳太子の憲法十七条に就て、其一二を摘出するに止むべし。憲法十七条の第一条
或不㆑順㆓君父㆒。乍違㆓于隣里㆒。
此の二句中の『乍』字に岩崎本、河村秀根集解本は『又』『マタ』『アルヰハ』の三訓を施せり。図書寮本、寛文刻本、飯田武郷通釈本、並びに『マタ』と訓ぜるは、いづれも古訓中の一を残したるなり。しかるに谷川士清の通証に傍訓として『マタ』『アルヒハ』の二訓を採りたるは可なるも、『増韻
絶㆑餐棄㆑欲
を訓じて『アチハヒノムサボリヲタチ、タカラノホシミヲステ』とよみしこと、極めて意を用ひたり。餐は左伝の文公十八年の伝、饕餮の杜注に貪㆑財為㆑饗、貪㆑食為㆑餐とあれば、『アチハヒノムサホリ』と訓ずること、極めて其義にかなへり。欲は孟子趙注に尽心章の寡欲の欲を利欲とし、周易集解損卦に虞翻注を引て坤陰吝嗇為㆑欲とあれば、『タカラノホシミ』と訓ずるも、いはれなきに非ず。但だ谷川士清が曲礼の疏に心所貪愛為欲といへるを引けるは、切当なりといふべからざるが如し。
同じ条に
聴讞
の識を岩崎本に『コトワリマウス』と訓じたるは、礼記文王世子鄭注の讞之言白也といひ、漢書景帝紀〈中五年〉顔師古注に識平議也といひ、説文に議㆑皇也といひ、切韻又は唐韻に、議㆑獄、正㆑獄といへるなどに拠りたるべく、同本の一条兼良が訓に識を聴くとしたるさへ当らざるに、寛文本に『
其外第三条に
【NDLJP:151 】 地欲覆天
を岩崎本に『ツチ、アメヲオホハントホツスルトキハ』と訓めるが正しきを、後の諸本、皆『天ヲ覆サント欲スルトキハ』と訓めり、〈図書寮本は覆字に訓なし。久米氏も明らかならず。〉此等は見易き誤りなるが、第八条の
公事靡監
を『
絶㆑忿棄㆑瞋
を『
国家永久
の古訓に永久を『トコメツラ』とあるを非とせしなども、軽々しくは従ひ難し。
又此の憲法に『善』を訓じて『ホマレ』とし『忠』を訓じて『イサヲシキ』とせるなども、我邦の古代思想を窺ひ知る便りとなるべく、等閑には看過すべからざるなり。
其二は措辞の典拠あることなり。此事に就きては、谷川氏の通証、河村氏の集解、殊に力を用ゐて挙示し、十の七八は之を得たれば、更に言ふべき要なき程なれど、第七条に
賢哲任官。頌音則起。姦者有㆑官。禍乱則繁
とあるを、久米博士は『任官は在官か、有官も在官に作るべし、当時の文は有在を同用す、原本は在有を互用したるならん』と速断したるが任官は上の『人各有㆑任。掌宜㆑不㆑濫。』〈久米氏は寛文本の誤読を襲て、『人各有㆓任掌㆒』にて句したり。〉を承けて、通証にもいふ如く、尚書の咸有一徳の『任㆑官惟賢材』の出典に本つきたれば、任を在に改むべからず。『有㆑官』の二字も尚書の周官に二処までも出でたれば有を在と同用とするは軽断に過ぎたり。やはり古訓に『
【NDLJP:152 】又第十五条に
五百之乃今遇㆑賢。千載以難㆑待㆓一聖㆒。
岩崎本の訓によれば『イホトキニテイマシイマサカシキヒトニアフ、チトセニテモヒトリノヒシリヲマツコトカタシ』とよむべく、五百を千載に対したれば、このまゝにて文を成せるなり。然るに岩崎本の一条兼良校字に已に五百之の下に後字を加へ、今を令に作れる異本あることを示したるが、法隆寺に伝ふる木板は、弘安八年の刻にて、岩崎本の原文に同じく、図書寮本、寛文本も今を令に作れども五百之は尚を古本の如くなるに、通証、集解並びに聖徳太子伝暦及び拾芥抄に拠て五百歳之後と改め、飯田氏も之に従ひ、久米氏に至りては、更に乃字を删り、今を令に作れり。かくては原文の対偶を破りて、太子の麗藻を無視せるも心なきわざならずや。又其の出典に就きても、通証に取㆓孟子之意㆒といへるにて已に足れるに、久米氏は孟子に、五百歳而有㆓王者興㆒とあれど五百歳にて賢に遇ひ千載にして聖を待つの出所を知らずといへり。孟子の公孫丑章句下に五百年必有㆓王者興㆒といひ尽心の末章趙注に五百歳聖人一出。天道之常也などあるを荘子の斉物論に万世之後。而遇㆘知㆓其解㆒者㆖。是旦暮遇㆑之也といへるなどに思ひ合せて新たに美辞を鎔鋳せられしなるべし。必ずしも出典の成語をそのまゝに用ひられざりしは、太子の文才いみじかりし証とも看るべからずや。
憲法十七条のみに就きても古本の佳処はかくの如く多ければ其の全書を通じて学問上に資益あることあげて数ふべからざることを知るべし。聊か其一端を挙げて読者の参攷に供するのみ。
(昭和二年四月大阪毎日新聞社発行影印古写日本書紀跋文)
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