叙利亞沙漠

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叙利亞沙漠[編集]

工學博士 伊東忠太

 私は先年支那より印度、土耳古地方を旅󠄁行いたしました、旅󠄁行中に私の最も趣味を感じた地方の一つは即ち叙利亞でございます、それ故に此回は叙利亞の事を少しばかり御話したいと云ふ考ですが、旅󠄁行の御話を致します前󠄁に一應叙利亞の大體の御話を申したいと思ひます。

 叙利亞は地中海の東の端に沿󠄀た南北に長く東西に狹い一帶の土地で、その南の部分󠄁は即ち御承知のパレスタインであります、今日は共に土耳古政府の領土に歸して居ります、其の地形は北の方は小亞細亞に境を接して居りまして、西南の方は埃及と境を接して居ります、又󠄂東の方はチグリスエウフレートの水界に屬するメソポタミアに接して居りますが、其境界は漠然として明瞭になつて居りませぬ、內地一帶は叙利亞沙漠でありましてメソポタミアとの境界は甚だ不明瞭であります、又󠄂此の東南の一帶は亞刺比亞沙漠と直ちに連つて居て此の境界も亦甚だ不明瞭であります、從つて精確に此の土地の面積の勘定は出來ないのであります、地勢は地中海の海岸に沿󠄀ひ此所󠄁に一條の山脈が走つて居ります、即ちリバノン山を中心として北はアレキサンドレツト灣の奧から南はシナイ半󠄁鳥[1]まで連綿として亘つて居ります、それからリバノン山と竝行して其の後にもう一條の山脈が走つて居ります、それはアンチリバノンと稱へられて居る此の山脈であります、アンチリバノン山脈の南の續きは此のヘルモン山になつて居りまして、それが更󠄁に南の方に走つて一の高原になつて仕舞ふのであります、それからアンチリバノンの北の方はホムスの邊で盡きて仕舞て、それから先きは大平󠄁野になります、即ち北叙利亞の方は山脈が一重で海岸に沿󠄀ふて走て居るノセリエ、アクラード、ムサ、アルマ(即ちアマヌス)等の山脈を越えれば直にハレブを中心として居る渺茫たる大沙漠になつて仕舞ひます、次に叙利亞に於ける河流はどうなつて居るかと云ふと、土地が狹隘なる爲に大なる河はございませぬ、又󠄂主なる川はみな南北に流れて居ります、即ち北叙利亞のオロンテス河は北に向つて流れる所󠄁の大河で、リバノンの後から發源し、ホムス、ハマを經て、アンタキエを過󠄁ぎて地中海に這入ッて居る、それから南の方では有名なるジヨルダン河が此の二つの山脈の谿間を南に向て流れまして死海に注󠄁いで居る、其の外にはシドンの南のカシミエ河がやゝ大いので外に別に著しい河はありませぬ、內地の河はみな砂漠の中に竄入するか或は鹹湖に注󠄁ぐので、ダマスカス及ハレブ附近󠄁にやゝ水の多い河がありますが、多くは平󠄁時は全󠄁く無水です、

 それから政治上の區分󠄁はどうなつて居るかと云ふと御承知の如く土耳古の地方制度の組織は土耳古全󠄁體を三十九のウイラエツトと云ふものに區別する、此のウイラエツトは州と譯すのが適󠄃當だと思ひます、其の州の長たるものをワリーと稱へて是れは即ち總督に當ります、それから此の州をサンジヤツクと云ふものに分󠄁ける、さうしてそれの長たるものをムテサリフと稱へて居ります、是は了度支那の府と知府とに當る、それから此のサンジヤツクを又󠄂カーサーと云ふものに分󠄁けて其長をカイマカムと云ふ、即ち丁度支那の縣と知縣とに當ります、その下にまた段々小區分󠄁があるのです、此の叙利亞に於きましては州が五つあるのであります、第一の州はハレブ州と申しまして其の首府がハレブにございます、さうして北叙利亞一圓を領して居ります、それから第二の州はダマスカス州で其首府は即ちダマスカスであります、丁度此のハレブ州の南から內地一體がダマスカス州であります、それから第三はジエルサレム州であります、是は本來は州でありませぬ、所󠄁謂サンジヤツクの方で其長官もムテサリフでありますが特にワリーの取扱を受けて居ります、第四はベールート州でベールートが首府です、第五はリバノン州でこれは特別の制度が立て居る、夫から內地の方に行きますると全く政令が行き屈きません、こゝにはベドインと云ふ野蠻人が住󠄁んで居る、是は所󠄁謂水草を追󠄁ふて轉居する蠻民で一所󠄁不住󠄁でありますから固より政府に稅を納めると云ふこともありませぬ、名は土耳古皇帝スルタン)の臣民でありますが實に於きましては無所󠄁屬の無賴の徒でありまして部落の間で絕へず孚鬪して居ります、外國の旅󠄁客が通󠄁り合せると時々そば杖を食󠄁て財貨󠄁生命を失ひます、土耳古政府も之を如何ともすることが出來ないそうです、彼等の人口は全󠄁く測ることが出來ませぬ、さう云ふベドインが此の內地に澤山居ります。

 それから叙利亞に住󠄁つて居る人間はどう云ふ人間であるかと云ふと、大多數は亞刺比亞人で、即ちセミチツク種に屬するのでありまして、性質やゝ精悍です、それは亞刺比亞語を話して亞刺比亞文󠄁字を有て居ります、彼のベドインも仝樣セミチツク種ではありますが、性質は著しく獰猛で容貌も非常に醜惡です、次に土耳古人も叙利亞の各地方に住󠄁つて居ります、これは蒙古種に屬し、性質やゝ温良で土耳古語を話し土耳古文󠄁字を有て居ります、それからレバントと名を附けられて居る人間は重もに此の海岸の地方に住󠄁つて居りまして、それは歐羅巴人との雜種でございまして、性質は狡猾の方です、この連中は多く佛語、伊太利語を操ります、それから此のジエルサレム附近󠄁には猶󠄂太人が住󠄁んで居ります、猶󠄂太人の性質は天下に定評󠄁があります、彼等は古のヘブリユーから出た一種の文󠄁字と言語とを用て居ります、其の外にクールド人是は伊蘭人種に屬しメソポタミアの北の方アルメニアの南の方即ちクールヂスタンに居りますが、ハレブの方にも少しは來て居るそうです、夫から希臘人も所󠄁々に散在して居りますが、彼等は本國の文󠄁字と言語とを用ゐて居ります、それから其の外に露領の高加索から移住󠄁して來た人間がありましてそれが各地方に散在して部落を造󠄄つて居ります、それをチエルケスと稱へて居ります、彼等は一種特別の言葉と一種特別の宗敎を持つて居りまして性質はやゝ奸惡であると云ふので一般に嫌はれて居る樣です、人種の分󠄁布の有樣は槪略先づさう云ふ風になつて居るのであります。

 夫から宗敎は、亞刺比亞人土耳古人は回敎を奉じ、猶󠄂太人は猶󠄂太敎、希臘人は希臘敎、クールド人チエルケス人は各特殊なる耶蘇敎の一種、レバント人は思ひに色々な宗敎を奉じて居る樣です、それから此の叙利亞の旅󠄁行の方法を少し御話して置いた方が便󠄁利であらうと思ひますから旅󠄁行談に移りまする前󠄁に其の事を少し御話いたします。

 土耳古內地の旅󠄁行は大變面倒なものでありまして、豫ねて聞いて居りますのに世界中で露西亞と土耳古ほど旅󠄁行者に不便󠄁を與へる國は無いと云ふこと[2]でありましたが、果してさうであらうと感じて居ります、其の原因の第一は旅󠄁行券󠄁であります、それを得ること[2]が中〻手數であります、又󠄂それを得ましたにしても到る所󠄁にそれを嚴しく吟味いたします、のみならず一の地方から他の地方に旅󠄁行する場合には其の間の各地方官廳で旅󠄁行券󠄁に裏書をして、それに印紙を貼つて調印して貰はなければならぬ、其の度每に手數料を徵收されます、例へば此のジエルサレムから內地を通󠄁つてハレブに行くとすれば、ジエルサレム、ハレブ間の旅󠄁行券󠄁は吳れない、ダマスカスまでの旅󠄁行免狀を吳れる、ダマスカスの役所󠄁へ出頭して更󠄁にハレブまで旅󠄁行の許可を得なければならない。それでありますから直行することは到底出來ない、中間の役所󠄁で是非ついで行く其の度每に旅󠄁行券󠄁に調印して稅を收ることが土耳古の一つの收入になつて居ります、(旅󠄁行旅󠄁券󠄁を示す)是が到る所󠄁で印紙を貼つて調印しで貰つたものであります、それが旅󠄁行の煩ひでございますが、其の外にもう一つ旅󠄁行の煩ひとなるものは金のことであります、土耳古の金は銀本位でありまして、其の單位はメヂテヤと稱へまして日本の金に換算すると一圓七十錢ほどになります、それをピヤストルと云ふものに分󠄁けますが、コンスタンチノープルでは一メヂテヤを二十ピヤストルに分󠄁けて使つて居ります、所󠄁がジヤファに行くと一メヂテヤを二十六ピヤストルに分󠄁けて使つて居ります、それからジエルサレムに行くとそれを二十三ピヤストルに分󠄁けて使つで居る、と云ふやうな譯で內地の各都邑に於きまして各〻違󠄄つた標凖を以て使つて居ります、甚しきは一メヂテヤを三十ピヤストルに分󠄁けて使ふ所󠄁もあります、それ故に旅󠄁行者は或る都會に着くと、直ちに金の相場を聞かなければなりませぬ、若しそれを聞かぬと非常な損をする、夫から更󠄁に不都合なことは、地方的通󠄁貨󠄁です、これは或る一區域と限つて通󠄁用する特種な錢があるので、他の地方へ持て行きますと全󠄁く通󠄁用しないので大に損をすることがあります、例之ば名古屋では二錢五厘の銅貨󠄁があるこれが靜岡で三錢に通󠄁用する、しかし東京では全󠄁く通󠄁用しないと云ふ樣な譯であります、凡そ私の旅󠄁行しました地方で叙利亞位錢の不都合な土地はありませんでした、

 それから旅󠄁行の方法でございまずが近󠄁頃大分󠄁鐵道󠄁が出來まして大に便󠄁利になりましたが鐵道󠄁の無い所󠄁では馬車を用ひます、又󠄂馬車の利かない所󠄁では騎馬或は駱駝を用ゐるのであります。鐵道󠄁は最近󠄁の地圖にも出て居りますが、此のジヤファからジエルサレム間が既に出來て居ります、それからベールートからレバノンを登りましてハマと云ふ所󠄁まで出來て居る、其の枝線はベールートからダマスカスまで出來て居ります、それからダマスカスから南の方は唯今アマンと云ふ所󠄁まで出來て居りまずが是が延󠄁長されてアラビアのメツカに行くと云ふことであります、それからもう一ツはダマスカスから分󠄁れてハイフアに出ます、是は半󠄁分󠄁出來ました、又󠄂ハマからハレブの間も遠󠄁からずして出來ると云ふことになつて居ります、それで比較的に鐵道󠄁は先づ出來て居る方であります、其の鐵道󠄁の無い所󠄁は馬車でありますが此は比較的良い馬車でありまして彈機の附いて居るものを得ること[2]が出來ます、其の馬車を得られない所󠄁は騎馬或は駱駝でありますが、此の頃では多く騎馬の方を採󠄁るやうでございます、尤も此の騎馬にしても馬車にしても途󠄁中の宿舍の設備と云ふものは非常に不完全󠄁なもので殆と野宿同樣なことをしなければならぬ、從つてテントを用意するとか飮料水や食󠄁物を携帶するとか云ふことで、少なからざる經費がかゝるのであります、歐羅巴人の經驗談に依ると、此の沙漠旅󠄁行に要する經費は少なくとも一日日本の金にして二十圓以上と積るのが適󠄃當だと言つて居ります、不毛な沙漠地方を旅󠄁行するには比較的高い旅󠄁費を要するのであります、

 次に旅󠄁行用の言語は第一に亞刺比亞語が尤必要です、土耳其語は官衙の役人共は話します、が一般の叙利亞人は知りません、外國語では佛語が一番優勢で、多少地位のある者は殆んどみな佛語を巧に話します、次は伊太利語、希臘語で、獨英は案外に通󠄁用しません、叙利亞の海岸及都會丈󠄁けの旅󠄁行なら佛語で充分󠄁に通󠄁つて行くことが出來ます、叙利亞の高官紳士は通󠄁例少くとも亞刺比亞、土耳其佛蘭西の三ヶ國の言話に通󠄁じて居るのです、

 それからもう一つ御話して置きたいことは叙利亞に於ける藝術󠄁の種類であります、御承知の通󠄁り叙利亞は世界で最も古い國の一つでございまして丁度地理上東洋と西洋との間にある如く、藝術󠄁史󠄁特に建󠄁築史󠄁の上から見ましても、東洋と西洋との中間にあるのでございまして、其の點に於て特に此方に於て趣味を感じた譯でございますが、此の叙利亞には太古以來殆と各時代の藝術󠄁が存在して居るのであります、最も古い所󠄁の埃及の建󠄁築は今日では有形の物体としては残つて居りませぬが、事蹟はジエルサレムに遺󠄁つて居ります、それはソロモンの王宮建󠄁築であります、是は埃及式の建󠄁築であつたものと推定されて居る、それからアツシリア式の藝術󠄁も矢張りパレスタインに其の痕跡がございます、又󠄂其の次にはヒチツト式の藝術󠄁であります、それはアツシリアと埃及との中間のやうなものでございまして一種の象形文󠄁字を持つて居ります、これが其一例で君士坦丁堡の博物舘にありますが、上に彫刻󠄂してあるのが象形文󠄁字で、下には虎狩の彫刻󠄂があります、此の種類の遺󠄁物は叙利亞の北部に散在して居ります、それから下つて希臘羅馬系統の藝術󠄁であります、此の最も面白い遺󠄁跡はアンチオキヤ附近󠄁でありまして即ちセレウコス朝󠄁の王國の遺󠄁跡であります、是は希臘固有のスタイルと叙利亞固有のスタイルと混つて出來た樣式でありまして非常に面白い、それから羅馬の樣式も各地に散在して居ります、其著しい例は此のリバノン山の後にありまするバールベツクの古趾、ダマスカスの東南沙漠中のハウランの古趾、それからダマスカスの東北沙漠中のパルミラの古趾、それから南の方では死海の南方沙漠中のベトラと云ふ所󠄁にも羅馬系統に屬する古趾があります、それからサツサン朝󠄁のペルシアの遺󠄁跡は死海の東の沙漠中のマシタと云ふ所󠄁とアンモンと云ふ所󠄁に遺󠄁つて居ります、それから其の後叙利亞は回敎徒の領土になりましたが此の回敎の遺󠄁跡も夥しいものでありまして自ら叙利亞の地方に特殊の樣式を爲して居りますが、此の回敎建󠄁築の一番古いのは埃及のカイロにありまするアムールと云ふ寺と、それから此のジヱルサレムにありまするアクサ寺と云ふので大層珍しいものであります、それから其の後十字軍の役には歐羅巴の文󠄁物が叙利亞に這入つて來て其の結果で出來た建󠄁築即ち我〻がローマスク派[3]と稱して居る樣式の建󠄁築も矢張り此のジエルサレムにあります、それから近󠄁來の土耳古式の建󠄁築と云ふものは是は無論到る所󠄁に散在して居ります、さう云ふ譯でありまして太古埃及からして今日に至るまでの各種の樣式が雜居して居る、凡そ一の地方に於て斯う云ふ風に種々なる藝術󠄁の樣式を見ることが出來ると云ふのは誠に面自いことゝ考へます、殊にこの地方は漢の所󠄁謂條支國太秦國に當るので東洋歷史󠄁の上から見て尤も趣味が深いのてす、現にこの地方から已に支那の製作品が發見されて居る、夫は追󠄁ひ御話致しますが、これ等は實に面自い現象だと思ひます、

 それで唯今までは叙利亞の一般の有樣を御紹介しましたが是から私の旅󠄁行の御話に移ります、今日の御話の題には、「叙利亞沙漠」と云ふ字を用ゐました、是は主として內地の沙漠の方面の御話をする考でありましたが、それよりも叙利亞一般の旅󠄁行の御話を申した方が宜からうと思ひますから今日は沙漠地方のみならず叙利亞全󠄁體の旅󠄁行談を致します、ドーゾ其の御積りで御聽きを願ひます、(未完)

叙利亞沙漠 (承前󠄁)[編集]

工學博士 伊東忠太

 それで私は叙利亞へは埃及の方から參りました、ポルトサイドから露國の客船󠄂に乘てベールートに寄港󠄁して、さうしてジヤファに上陸しました、夫は明治三十七年の十月十八日でありました、ジヤファは人口四萬と稱し可なり繁華な港󠄁ですが至て人氣の惡い所󠄁です、遺󠄁跡古建󠄁築の見るべきもの一つもありません、それからジヤファから鐵道󠄁に依つてジエルサレムに參りましたが、先の圖に示してありまする通󠄁り此の道󠄁の初の半󠄁分󠄁は殆ど平󠄁地でございまして、後の半󠄁分󠄁は山の上に登るのであります、其の山の絕頂がジエルサレムのある所󠄁であります。此の距離が八十七キロメートル、それから此の土地の高さは二千五百六十五尺、其の絕頂にジエルサレムがあります、それで私は初め此のジエルサレムに參ります前󠄁はジエルサレムと云ふ都は樹木森々と繁茂して居て如何にも神聖󠄁らしい土地であらうと思つて居りましたが、實際は反對で殆ど禿山でありまして、樹木と云つては橄欖の外には何も無いのであります、併し此の土地は山の上でありますから緯度の割には凉しいのでありまして、一年の平󠄁均温度は六十三度と云ふことであります、ジエルサレム市は四方城壁を以て圍まれ、その大さは東西も南北も各約十町許、城門は南北二面に各二門、東西二面に各一門を開き、其人口は約六萬です、この市街は太古から幾度の變遷󠄂を經て來たので、これは即ら古代のジエルサレムの市街の模型であります、寫眞󠄀を示す、ジエルサレムの大體のことは既に御承知でありませう、又󠄂詳細なことは只今御話致します丈󠄁けの時間がありません。由てジエルサレムの中で尤も重要な古建󠄁築二三丈󠄁けを御紹介致して置きます、

 それで此のジエルサレムに於きまして特に注󠄁意すべき物と思ひますのは城の東南角にソロモンの王宮の遺󠄁跡があります、最前󠄁申しました埃及式の王宮であります、それが段々改築されて今日は回敎伽藍になつて居ります。即ちオーマールの寺と稱せられて居ます、寫眞󠄀を示す、是は其內部で、是は外部です、八角の堂で中央に半󠄁球狀の屋蓋が聳えて居る、堂の中心に世に喧傳されて居る所󠄁の神聖󠄁なる巖があるのです、是は最も神聖󠄁な堂として亞刺比亞人は非常に尊󠄂敬して居ります、此の年代は西洋紀󠄂元六百三十四年の創立で、建󠄁築の樣式はビザンチウム式に近󠄁い初期の回敎式と云ふべきもので、今日でも大体の規模は古式のまゝであります、併し修繕は時々施されたものです、それから同じ境內にもう一つ古寺があります、即ち是でありましてエル、アクサー寺と云ふのであります、是は今日現存して居りまする回敎伽藍の最も古い物といつて宜い、此の寫眞󠄀で御覽の通󠄁り形が普通󠄁のモスクとは大に違󠄄ふ、ドーしても回敎伽藍らしくない、却て羅馬にある古い耶蘇敎建󠄁築の形であります、其の年代は六百九十一年で、內部にはビザンチウム式の手法が澤山見えます、又󠄂薩珊の紋󠄁樣も見へます、或る學者は斯の種の形式をビザンチンサラセニツクと名けて居る。即ち回敎建󠄁築とビザンチウム建󠄁築との中間に位するものと考へるのであります、この柱󠄁の上の彫刻󠄂などは尤も適󠄃切な例です〔圖を示す〕それから其の外に面白いものは即ち耶蘇の磔刑に處せられた跡に建󠄁てた寺でありまして、此の寺の中に丁度磔殺された塲所󠄁があります、又󠄂磔刑に使用された所󠄁の十字架も保存されてあります、固より眞󠄀僞は分󠄁りませぬ、さう云ふ傳說でありまして、詰り歐羅巴諸國の信徒が巡󠄁禮に來るものは皆な此の所󠄁に來て拜む、此の建󠄁築物は即ち十字軍の遺󠄁物でありまして十字軍時代の建󠄁築物が今日まで遺󠄁つて居ります、その主要なる入口の下層には所󠄁謂ローマネスク式の手法が用ゐられ上層にはゴシックの栱が用られて居る、誠に珍らしい面白い建󠄁築であります、それから此のジエルサレムの市外には東方ステファン門の外にキドロン谷と云ふ谷があります、其の谷の附近󠄁に珍しい猶󠄂太建󠄁築があります、是はアブサロームの墓と稱へて居ります、是はサカリヤの墓であります、何れも希臘と埃及との中間のやうな樣式を持つた不思議な建󠄁築で、即ち猶󠄂太式と名けられて居ります、それから此の附近󠄁に細かい古墳が澤山あります就中マリアの墓と稱するものは尤も面自いもので石窟の外面に建󠄁築的裝飾を施したもので、矢張りローマネスク趣昧のものです。この外ジエルサレムの古跡は實に夥しくて今日は一々御話も出來ませんが、茲に非常に面白く感じました一事件を御紹介して置きます、それはジエルサレムから發見された支那の器󠄁物であります、是は唐󠄁代の支那の鏡の破片で、是はその寫眞󠄀であります、それを搨本にしたのが是でありまして、此の年代は能く分󠄁りませぬが此の模樣から考へると唐󠄁の樣式を備へて居りますから、多分󠄁唐󠄁であらうと思ひます、或は宋ぐらゐの物かも知れませぬ、要するに唐󠄁宋の間のものと云ふことは疑ひませぬ、それから今一つの完全󠄁な小い方の鏡には明に年號が刻󠄂してありますが、それは金の承安三年であります、それが此のジエルサレムから發見されました、其の現物は土耳古のコンスタンチノープルの博物舘にありますが、不幸にしてどう云ふ塲所󠄁からどう云ふ形で發見されたと云ふことが分󠄁りませぬから、之に付て硏究する手がゝりがないのであります、兎に角唐󠄁宋或は遼金と此のジエルサレムとの間に交󠄁通󠄁のあつたと云ふことの證據になると思ひます。

 それから此のジエルサレムより二里ほど南に參りまするとベトレへムでありまして、其所󠄁には耶蘇の生れた跡がございます、そこが今寺になつて居りますが是が內部であります〔寫眞󠄀を示す〕、是も同じものでありまして耶蘇の生れた跡と云ふのが、是が今日寺の床下に保存されてあります、この建󠄁築の樣式は古代耶蘇敎建󠄁築と云ふ名が附けてありますが、是は古代羅馬のバジリカの建󠄁築の手法を持つて居ります、それから此のジエルサレムで案外に感じましたのは露西亞で非常に大いなる地面を有つて居ることであります、それはジエルサレムの東の郊外橄欖ヶ岡の上に大いなる地面を持つて居りまして、そこに寺を建󠄁てゝ居ります、それから佛蘭西も多少の地面を持つて居りまして寺を建󠄁つて居ります、獨逸も同じく一つの寺とその敷地とを持つて居ります、各國自分󠄁の所󠄁有地を持つて居りまして全󠄁く土耳古政府の干渉を受けずに、殖民地の樣な風に獨立して經營して居ります、

 夫からジエルサレムを出發いたしまして、東の方內地に向つて旅󠄁行いたしましたが、其の道󠄁筋はジヨルダン河を越えて、ダマスカスから亞刺比亞の方に通󠄁じまする鐵道󠄁線路に出るのが目的でありまして、其の途󠄁中で成るべく面白い所󠄁を歷訪しやうと考へたのであります、即ちジエルサレムから三頭の馬を傭ひ、一頭には自ら騎り、一頭には從僕を騎せ、一頭には荷物をつけました、別に驢馬一頭を馬丁の爲に傭ひ、護衛兵一名を從へました、即ち四馬一驢の一行で、ジエルサレムを發したのが仝じ年の十月二十六日でありました、一行はジエルサレムの東門を出で、先づジェリコに向て進󠄁みました、此の間は全󠄁く不毛の砂山を下るのでございまして途󠄁上一本も樹木が無い、ジエリコは御承知の如く歷史󠄁上有名な舊都ですが、今日は荒廢した一寒󠄁村で人口僅に三百、土人は貪慾でしかも猛獰です、舊跡の見るべきものはありません、こゝから荒漠たる平󠄁地、即ちジヨルダンの谷になります。此の谷は定めて田畑の澤山ある豐饒な谷だらうと思ひましたが事實は之と相違󠄄して總て不毛であります、唯ジエリコ丈󠄁けがオーシスの形で多少耕作されて居ります、さうして平󠄁地には、盛に鹽が噴出して地面の上に白く結晶してをります、ジエルサレムから東行二里ほどの處にジヨルダン河が北から南に向て靜かに流れて居ります、河幅は凡そ十間斗りで案外に狹いのに驚きました、兩岸には灌木が茂つて居ります、此の邊よりして南の方に死海を見ることが出來ますが、御承知の通󠄁り此の死海は海面より低いこと千三百尺で其の水は百分󠄁の三十の鹽分󠄁を含んで居る爲に一も動物が棲まない、その大さは南北十九里、最廣の幅四里、面積は我が琵琶湖より少し大い位です、此の水は凄いやうな綠の色を呈して兩岸の赭色の砂岩山と反映して居ります、それからジヨルダンを越えてなほ東行二里半󠄁斗で平󠄁野が盡き、山路になります、此の山も不毛でありまして一も樹木が生へて居りませぬ、唯所󠄁々にベドインが天幕を張つて生活して居るのを見ましたが、それは何れも此の山の傾斜の都合の好い所󠄁を見立つて、柱󠄁を立てゝ天幕を張つて其の中に住󠄁つて居ります、彼等の家畜は重もに馬、牛、羊のやうなもので、さう云ふものを放し飼にして其の邊の草を食󠄁はして置きます、誠に僅な草でありますけれども家畜を養ふだけのことは出來ます、そこで十分󠄁の休息が出來ると又󠄂たテントを疊んで馬の背につけて他に行つて仕舞ふのであります、やがて四五里斗り行て此の山を登り切つて絕頂に達󠄁するとこゝは一の高原になつて居ます、東の方は一望󠄊數百里平󠄁坦でありまして少しも山が見えませぬ、即ち直ちにメソポタミアの方まで續いて居る大沙漠であります、勿論沙漠は內地丈󠄁けで、この邊は案外沙漠でありませぬ、立派に耕作に適󠄃する土地であります、唯水に乏しい爲に耕作することが出來ぬで棄てゝあるので、若し水利の便󠄁があつたら此の邊は確に耕作をすることが出來ます、この高原の上には數多の古趾がありますが、私は先つマダバと云ふ所󠄁を訪ひました、マダバは沙漠中の寒󠄁村で百斗りの民家はみな泥と石とで作られ、遠󠄁くから見ると一塊の灰󠄁色の廢趾の樣で、只一ツの草も木もありません、實に凄絕な光景です、此のマダバと云ふ所󠄁には、澤山の遺󠄁跡がありますが、其の中で一番珍しく感じましたのは或る希臘敎の敎會堂の中であります、堂の床にモザイクでパレスタインの地圖が畵てある、羅馬時代のもので實に珍品です、その外民家の內の床に古へのモザイクの殘つて居る所󠄁が二三ヶ所󠄁ありました、それから此のマダバを出立して北行八里、アマンと云ふ村へ行きました、こゝはフィラデルフィア、今日はラバート、アマンと稱へて居ります、この村の住󠄁民は不思議にもみなチエルケス人であります、此所󠄁にも澤山の古跡が遺󠄁つて居ります、羅馬時代の劇塲の跡、法廷󠄁の跡と云ふやうな物が澤山にありますが取分󠄁けて面白いのは薩珊朝󠄁の波斯時代の建󠄁築物であります、近󠄁頃まではそれが何物であるか分󠄁りませぬ、古い書物にはこの塲所󠄁を記して此所󠄁に一つの不思議な建󠄁築物がある、亞刺比亞建󠄁築には相違󠄄ないが回敎伽藍でも無い、と書いてある、それを段々調べて見ると波斯の薩珊朝󠄁の宮殿でありまして其の年代は西曆六百十二年と記臆して居ります、此の事實から我々は大層面白いことを發見することが出來ました、それは亞刺比亞の藝術󠄁と云ふものは亞刺比亞の獨創のものでなく却つて薩珊あたりから出たものである、と云ふことが大層能く分󠄁るのであります、此所󠄁に榻本を持て來ました、是れは初に御話したジエルサレムのアクサーと云ふ寺で六百九十一年に出來た回敎の寺であります、此の寺の內部の紋󠄁樣を見ると確に希臘の系統を持つて居る、この紋󠄁樣とラバートアマンの內部の紋󠄁樣とを比較して見ると、殆んと兩者仝一の形式であります、即ち是は亞刺比亞人が薩珊の紋󠄁樣を取て多少之を變形したのです、此の形がもう少し變化󠄁されると斯う云ふやうな形になります、それから斯う云ふ形にもなります、是から段々變化󠄁して終󠄁ひには我々が純粹の亞刺比亞物と稱へる摸樣が出て來る。併し其の本とは薩珊である、勿論亞刺比亞藝術󠄁の起󠄁源の問題は中々大問題であつて、普通󠄁ビザンチウム式から出たものと解釋されて居る樣ですが、私はビザンチウム說を承認󠄁すると同時に、薩珊說もつけ加へたのであります、それからマダバの東方凡そ七八里の沙漠の中に有名なマシタの古趾があります、それは不幸にして時間が許しませぬで見ることが出來ませぬでした、マシタの遺󠄁趾も仝じく薩珊末期の宮殿建󠄁築で、その壁面に一種の葡萄から草があるのです、から草の中に獅子と鳥とがある、その手法は殆んど全󠄁く支那の海獸葡萄鏡の紋󠄁樣と同しことであります、ヒルト氏がこの事實を發見して大論文󠄁を著したことは世に知れ渡つたことです、それからなほこの附近󠄁に多くの古趾がありますが一々申上げる時間がありませんから凡て省略します。

 それで私はジエルサレムから三日を費してラバートアマンに達󠄁したので、其の間は騎馬旅󠄁行をして行きました、それで餘談に亘るやうでありますが、旅󠄁行の方法について一寸申上げましやう、土耳古內地を旅󠄁行するには必ず護衛兵が必要であります、それは內地の地方官衙で供給して吳れまして、彼の旅󠄁費一切は官から支給されます、併し旅󠄁行者は彼に慰勞錢として一定の錢を給與する事になつて居る、この金高は地方によつて違󠄄ひますが、パレスタインの沙漠地方では一日一人に付一メヂテヤ(我が一圓七十錢)を相塲として居ります、併しこの外いろな雜費を支給してやる必要があるので結局一日一人に一メヂテヤ半󠄁はかゝります、この護衛兵を附けるのは保險の性質を持つて居ります。若し護衛兵なくして單獨に旅󠄁行して、不幸にして物を奪はれても殺されても土耳古政府は辨償しない、護衛兵を附けて行つた塲合には土耳古政府はそれを辨償すると言つて居ります。つい近󠄁い頃一入の墺國の若者が全󠄁く單獨で自轉車でメソポタミアを旅󠄁行中、土人に魔󠄁法使ひだと思はれて殺されたそうですが、彼は護衛兵を連れなかつた爲に、土耳其政府はその責を負はなかつたと云ふことを聞きました、〔寫眞󠄀を示す〕、是が私の護衛兵でありまして所󠄁謂ベドインでございます、名はハリール、ラシードと云ふので回敎信者で多少英語を知て居りました、御覽の如く色〻の武器󠄁を携へて、勿論騎馬で隨行しましたが之が爲に大に便󠄁利を得ました。

 それから此のアマンから鐵道󠄁に依りましてダマスカスに參りました、是は土耳古政府の鐵道󠄁でありますが其の鐵道󠄁の扱方が面白い、第一に通󠄁行稅を取る、是はどうして取るかと云ふと此の切符の上に印紙を貼りましてそれに消󠄁印を捺して渡して吳れるのであります、それから此の途󠄁中は荒漠たる無人の境を通󠄁過󠄁するので何も飮食󠄁物を得ることが出來ませぬから、旅󠄁客は一切の飮食󠄁物を携へて乘らなければなりませぬ、別して水は素燒の瓶に入れて充分󠄁に貯へなければなりません、寢具󠄁も携へて乘らなければならぬ、それは實に混雜であります、アマンを出發して鐵道󠄁は東北に向て下り、ハウラン地方の大沙漠を縱斷します、沙漠と申まして眞󠄀の沙ではなく、磽确な瘦せた土地で雜草が生て居る有樣です、或る塲所󠄁は一望󠄊敎十里赤土で一つも草の無い所󠄁もありました、又󠄂ジヤルマク河の流域へ出れば水も少しはあるので草木も少しは見へます、アマンからダマスカスの中間東に當て一帶の山が見へます即ちハウランと云ふ山であります、是は噴火山でありまして、此の山の附近󠄁に小さな火山が澤山に散布されてありますが、何れも皆な死火山であります、其のハウラン山の西麓に羅馬時代のボスカラ、ナワートなど云ふ遺󠄁跡が澤山あります、それらは一々訪問する時間がありませぬでした、このハウランの遺󠄁趾は藝術󠄁史󠄁上格別面白いもので羅馬の系統ではありますが、自ら一種の流派をなして居る、現今の家屋にもこの遺󠄁風がやゝ殘つて居ります、その家は殘らず石を以て造󠄄るので門の扉󠄁までも石造󠄄であります、木材はこの附近󠄁では一つも得られないのです。ハウラン山が後に見へる頃からヘルモン山が前󠄁に現はれて來ます、なほ大平󠄁野の上を進󠄁行すること數時間にして、アンチレバノン山の南麓に一帶の大森林が現はれ、近󠄁づくに從てこの森林の間に大厦高樓を認󠄁めます。即ちダマスカス市で、市の附近󠄁數里の間は土地豐饒で各種の蔬菜󠄁が出來ます、即ち一つの大なる沙漠中のオーシスであります、アマンからダマスカスまで三百六十三キロメートル、凡そ十時間を費します。(未完)

叙利亞沙漠 (承前󠄁)[編集]

工學博士 伊東忠太

 ダマスカスは叙利亞第一の都會で海拔二千二百七十七尺の高地に位し、人口は大凡二十五萬あります。此の市街は毫も西洋的の感化󠄁を受けないで純粹の東洋的生活をして居るのは誠に面白い。主要な商店の幷んで居る街路の上は穹窿狀の屋根を架けて雨天でも差支へない樣に設備が出來て居ります、この街路の上には絕へず土人が麕衆して雜沓を極めて居る所󠄁へ、駱駝隊󠄁が頻繁に通󠄁るので喧囂甚しく、丁度支那か印度の內地の貿易市塲と仝し樣です。此の地方の住󠄁屋は通󠄁例斯う云ふ四角な。プランでありまして中央に中庭󠄁を取ります、中庭󠄁は大抵は大理石を以て敷詰めてありまして其の中央に噴水を設けてある、中庭󠄁の周󠄀圍には部屋が建󠄁て廻されてあり、前󠄁面中央の部分󠄁丈󠄁けか通󠄁路になつて居る、此の周󠄀圍の部屋は皆な總二階で、二階には家の中から昇るのではなくて外から直ぐ昇る、斯う云ふやうな石階を作りまして內庭󠄁から直く二階庭󠄁へ昇る圖を畵く御客は外から中庭󠄁へ這入つて直くに二階の客間に上がると云ふ仕組で、少しも家の中を客に見すかされると云ふことが無い、これが一つの特色であります、尤これは中流以上の家で、中庭󠄁は必ず大理石が敷いてあります家の外部は大抵石造󠄄で內部の間仕切は多くは木造󠄄でやつて居ります。當地の紳士の邸宅で尤も有名なものはアサードパツシヤの家で實に精巧を悉したるものです、何れ建󠄁築專門の御話しは別に改めて御淸聽を煩すことに致しましょう

 それから寺の建󠄁築では此所󠄁にも大層古い回敎寺があります、それはオミアドの寺と云ふのでありますが西洋紀󠄂元後七百〇五年の創建󠄁であります、是も世界で最も古い回敎寺の一つであります、それで斯う云ふ古い回敎寺になると近󠄁來の回敎寺とはスッカリ性質が違󠄄つて居りまして、能く近󠄁世土耳古あたりで見るやうな中央にドーム(半󠄁球狀の屋葢)のやうなものは附いて居りませぬ、丁度亞剌比亞のメツカにある回敎寺やカイロ及ジエルサレムの古寺と同じであります、我々は斯う云ふ古いやつを古式の回敎伽藍と稱へて居りまして、之を以て今日土耳古に澤山ある新式の伽藍と區別を立てて居ります。

 それから此のダマスカスから東北の方に參りますると此所󠄁に沙漠の眞󠄀中にパルミラの古跡があります、その距離は六十里近󠄁くありまして五日間に行けますが、是も時間と經費との都合で到頭參りませぬでした、是はバクダットに通󠄁ふ本街道󠄁になつて居りまして、此處に行くにはダマスカスから特別な凖備をしなければなりませぬ、此のパルミラは古の一强國であつて、その女王ゼノビアは尤有名な女傑でありましたが終󠄁に羅馬の爲に亡ぼされました今その古都に尤も美しい羅馬式の大伽藍の廢趾が殘つて居るのです、それは大凡西曆二百七十三年頃に出來たものです、今日では此の附近󠄁は全󠄁く沙漠でありますが古は土地も豐饒であり多數の人口も有し多數の兵士も、養つて優に一大强國であつた、どう云ふ譯でいつの間に沙漠に變じたものでありましやうか、不審なことゝ思ひます。此のパルミラ摺物及び寫眞󠄀は君士但丁堡の博物舘で取たものです紋󠄁樣には健駄羅式によく似たものもありますなほ後でよく御覽を願ひ升

 ダマスカスで一つ注󠄁目すべきことは木工と金工とです木工では寄木細工に螺鈿を施したものを作りますが、その熟練驚くべきものです、木の上に下繪無しでヅンアラビア模樣を刻󠄂て行きます、螺は大さ二三寸の横に長い貝で日本の眞󠄀珠貝でもなく一種特別なものです、金工も木工と同じ手續で各種の器󠄁物に特殊の模樣を刻󠄂るのです

 それから私はダマスカスから西方ベールートに向つて逆󠄁行しました、この間は鐵道󠄁で百四十七キロ、凡そ六時間を費します、ダマスカスを出發して郊外へ出ると直ちにアンチレバノンの山脈です、溪流に沿󠄀ふて西北に向て登りつめた所󠄁がセルガヤと云ふ所󠄁で海拔四千五百二十一尺です、峠を下つてカシミエ河の平󠄁野を横斷し、更󠄁にレバノンの本山を越えると下は直に地中海で、ベールートはその港󠄁灣に沿󠄀ふて北面して造󠄄られた大市街です、即ち叙利亞第一の港󠄁で人口は大凡十二萬以上ございまして中々繁華であります、ベールートそれ自身は我々の專門の方からは何も見るものはありませぬが、此所󠄁から數哩東の海岸にヒチツトの遺󠄁跡が少しばかりあります、それは天然の岩石に刻󠄂したもので、その樣式は埃及とアッシリアとの混合の樣なものです、ヒチツトの分󠄁布の南方は此のベールート邊を限界として居るらしく考へます

 夫から私はベールートから再び內地に引き返󠄁し、ハレブに向つて旅󠄁行しました、この道󠄁はハマと云ふ所󠄁までは鐵道󠄁がありますから大に便󠄁利でもあり、且つ途󠄁中觀るべきものも少なくありません先づベールートからダマスカス街道󠄁を逆󠄁行しレバノンを越えて彼のカシミエ河の平󠄁野に出てレーヤツクと云ふ驛から分󠄁れて東北に向ひます。行くこと一時間斗りで有名なるバアルベツクの村に着きます、この處海拔三千八百六十一尺ベールートを距ること鐵路九十三キロメートルであります。此のバアルベツクにもパルミラと同樣の建󠄁築があります、矢張り純粹の羅馬建󠄁築で第三世紀󠄂の半󠄁頃に屬する大小二つの寺院の遺󠄁跡があります、此の大寺院の建󠄁築は實に驚くべき大規模でありまして恐らくはクラシツク即ち希臘羅馬の系統に屬する一番大きな物の一つだらうと思ひます。どの位ゐ大きいかと云ふ見當を附ける爲に柱󠄁の大きさを御紹介して置きますが、此のコリントス式の圓柱󠄁の直徑が七尺二寸五分󠄁、高さが六十二尺、尤も一本石ではありませんが、斯う云ふ柱󠄁が林の如くに整立して居つた時分󠄁には實に壯觀であつたのでありましよう、今は六本丈󠄁け殘て夢の樣に屹立して居ます、それよりも更󠄁に驚くべき事實は此の伽藍の周󠄀圍に築かれて居る壁でありまして、其の壁に使つてある石に非常に大きな石が三箇あります、其の長さが七十二尺で十四尺に十三尺と云ふ殆と四角な斯う云ふ石であります、埃及のオベリスクの最大なるものと雖も是だけの容積はありませぬ、是より高いオベリスクはありますが是程󠄁の容積を持つて居るオベリスクは無いので即ち世界中これ程󠄁の大きな石材は無いのであります、此の三つの外に今一つ山から斫出したばかりで運󠄁搬されずに石山の下に轉がつて居るのを見ました、それも殆と之と同じやうな大きさであります、我が大坂城の石などはこれに比べると殆んと三分󠄁の一に過󠄁ぎません、この寺院は形式の上から云ひましても羅馬時代の極く粹を極めた美しい建󠄁築であります。此のバアルベツクの向ひに西北に當てレバノンの最高峰が聳えて居りますが、其の高さは一萬一百〇八尺でありまして、丁度私の參りました頃は眞󠄀つ白に雪󠄁がありました、即ち叙刑亞第一の高山であります、それから序に申上げて置きますが有名なレバノンの松󠄁と云ふのが此の所󠄁に生へて居るのでありまして、此のバアルベツクからトリポリーと云ふ所󠄁へ越える途󠄁中、レバノンの頂に生へて居る、尤も今日は澤山ありませぬが、マダ數百本殘つて居るそうです、あすこに寫眞󠄀が、ありますが、あれがレバノンの松󠄁林であります、それからバアルベツクを出發して東北に向ひ、レバノンとアンチレバノンとの間の狹い平󠄁野、即ちオロンテス河の流れに沿󠄀ふて下るとホムスと云ふ所󠄁に出ます、丁度ホムス湖の東北にあつて人口四萬はどある都會であります。此所󠄁にも羅馬時代の遺󠄁跡があります、此處から彼のパルミラは東方僅かに百七十キロ斗りで若し日の長い時に四頭立の馬車を疾驅すれば二日で達󠄁することが出來るそうです、併しこれは間道󠄁であつて隨分󠄁危險であるそうです、私はパルミラ行を試みようと思つて官衙に依賴して調べて貰ひました處が、三頭立の馬車一輛に騎馬の護衛兵三名を附け往復一週󠄁間の飮食󠄁を用意し、諸般の雜費一切合算して凡そ我が百五十圓を要すと云ふことでありました、餘り經費が高い樣でもあり又󠄂時間の都合もあり、終󠄁にバルミラ行は見合せましたが實は少しく殘り惜い心地が致します、

 夫からホムスを出發して北行我が十五里程󠄁の所󠄁にハマーと云ふ所󠄁があります、是はオロンテス河の北岸に沿󠄀ふた大都會で海拔一千二百五十四尺人口は六七萬はどあります、此所󠄁に來ると最早東の方には山が見えなくなつて一望󠄊數百里の大平󠄁野否寧ろ沙漠であります、ベールートからハマーまで鐵道󠄁はその長さは二百五十五キロメートル、十二時間斗りを要する勘定になります、當地で見るべきものは三四の古寺、オロンテス河の大水車などで、沙漠中の都會としては中々立派なものです

 ハマー以北は地形が餘程󠄁變つて來ます、數十里の大平󠄁原は盡く石から出來て居るのでありますハマーからハレブ間は日本里數で三十六里ほどありますが其の間に一つも河を見ることが出來ませぬ、又󠄂畑と云ふものを一つも見ることが出來ませぬ、滿地總て石でありまして其の石の間に小さな草が生えて居ります、全󠄁く不毛の地であります、然るにこの不毛の原野の上には無數の古跡が散在して居ります、夫は殆と一哩每にあると云ても宜い位です。此の古跡は近󠄁頃餘程󠄁硏硏究されて來ましたが私は是は大秦國の遺󠄁跡であらうと思ひます、大秦の事に付ては白鳥博士が十分󠄁に御調がありました、我々門外漢は大秦のことな十分󠄁に硏究して居りませぬが唯大秦の首府はアンチオキアであると云ふ說を姑く信じて、假にこの地方の建󠄁築の形式を大秦式と名けて置くのであります、この邊の古趾を調べて見ると夫は皆アンチオキア時代のもので所󠄁謂希臘羅馬系統に屬するものです、なほ委しく云へば詰りクラシツクの樣式に叙利亞の地方的樣式を加味したもので餘程󠄁面白いものであります。其の年代は西曆紀󠄂元前󠄁の物より、最後は七世紀󠄂の頃までの物があります、即ち回敎徒の所󠄁有に歸するまでの間のものであります、この事は又󠄂もう少し御話したいと思ひます。

 それで私は此のハマーから(鐵道󠄁がありませぬから)馬車を傭つてハレブに參りました、馬車は四頭立で彈機のある立派な箱馬車でありました、護衛兵はニ人附けられましたのを强て謝絕して一人にして貰ひました。十一月の十日の未明にハマーを出發して十六里走つてマレーと云ふ寒󠄁村に一泊しました、こゝには商隊󠄁の爲に造󠄄つた大きなハン即ち旅󠄁舍があります、翌󠄁日は午前󠄁四時に宿を出發し石原の上を疾驅すること二十里、午後七時に及んでハレブ市に着しました、この道󠄁中でいろ面白い見聞を得ましたが殊に面白いのはこの邊の村落です、元より木材の有るべき筈がありませんから家は皆石と泥とで作ります、その形は圓錐形で大さは最大なるもので直徑三間位高さも同じく三間位です、小なるものは直徑八九尺に過󠄁ぎない、大きな家になると、この圓錐形の家を二つ三つと段々に連結してその間に通󠄁路を取る、入口は一方で高い所󠄁に小窓を取ります、これは尤も簡單な建󠄁築と云て宜しいので、建󠄁具󠄁や間仕切と云ふものが無い、一家一室の制で、殆んど動物の巢と優劣はありません、夫から斯の如き村落では一村に一つの井戶を有て居ります、井は深さ六十間位のものがあります、石で枠を作り、普通󠄁の方法で水を汲み上げるのですが、桶の代りに羊の皮を用ゐて居ます。綱は馬に引かせて居りますが、一村の需用を充たすべく忠實な老馬が朝󠄁から夕まで仝じ塲所󠄁を行つては戾り戾つては行て水を汲み上げます、老馬が斃死すれば夫を野に捨󠄁ると餓󠄁た犬が群來てその屍を喰ひ盡すのです、夫から女で口の周󠄀圍に黥をしたものを見ましたが實に異樣に感じました。氣候に就ては十一月の十一日と云ふに、日中太陽直射の下で華氏の百二十三度と云ふ方外な熱暑を經驗しました。

 ハレブは北叙利亞の首府で海拔千六百五十尺人口十三万五千を有して居ります、詰り沙漠中のオーシスです、此の土地はクールヂスタンの方から叙利亞を經て地中海に出る唯一の路でありまして此の土耳古內地のアルメニア、クールヂスタン、及メソポタミアの方、即ち總て土耳古の半󠄁分󠄁の貨󠄁物は皆な一たび此ハレブに集ツて、一つはアレキサンドレツトに出で一つはベールートに出るのでありますからこの土地は非常に繁昌であります、それで此のハブレの市街に於て見るべきものは又󠄂少くない、あすこにハレブの寫眞󠄀が澤山に集めてありますから御覽を願ひます、市の中央に人工の丘が殆んど圓形に築かれてあるのが城砦で、その周󠄀圍に廣ひ濠がある回敎伽藍の面白いものも大分󠄁澤山あります、其の外に特に面白く感じましたのはハレブに一人の貴族がありますチユツクララ、ウェキールと云ふ人で其の人の家にある壁畵は六百年を經過󠄁した者と稱しますが、それは疑ひも無くペルシアの樣式であります、其の畵の中に純粹の麒麟と鳳凰を見出した、其の形が面白い特に麒麟は純然たる支那の麒 [4]の形であります、家の主人は麒麟を知らないで「この動物は何であるか、我々の國では畵にも見ない者である」と申して居りました、それからもう一つハレブで大層面白かつたのは希臘敎の管長をして居る男に會ひましたが、其の男は餘程󠄁古學者でありました、私は御承知の通󠄁り支那の西安府の西の關門外にありまする大秦景敎の碑󠄀文󠄁の摺つたのを持合せましたから之に書いてある古代叙利亞文󠄁字を見せて讀んで貰ひました、(榻本を示す)こゝにある此の下に書いてあるのが叙利亞文󠄁字であります、所󠄁が管長は「このこと[2]は既に以前󠄁から承知して居る、」と申しまして其叙利亞文󠄁字を譯して吳れました、是に年號が這入つて居ります、其の年號は希臘の曆で千〇九十二年それから耶蘇の紀󠄂元に直して七百八十一年と讀んて吳れました之を支那の年號に當嵌めると唐󠄁の建󠄁中二年で丁度支那の碑󠄀文󠄁に建󠄁中二年とあるそれとピツタリと合ひます。希臘の曆の千〇九十二年に當ると云ふことはどう云ふことであるか、是は定めてセレウコス王朝󠄁の紀󠄂元であると思つて居ります。兎に角此の事實は大秦なるものが矢張り叙里亞地方であつたらうと想像を起󠄁さしめた理由の一つでめります。

 それから此のハレブから私はクールヂスタン及アルメニァの地方へ入り込む考でありました、然るに私の知人で君士但丁堡の博物舘員をして居る男が丁度公󠄁用でハレブへ來合せまして私の計畵を聞て切に諫めました。彼の說に由ると今から內地へ行くと嚴寒󠄁に苦められて硏究も何も出來ない、第一にデアルベキルへ行く途󠄁中のカラジヤ岳は既に雪󠄁が深くて車馬を通󠄁じない、アルメニアの內地は一層雪󠄁が深くて殆んど旅󠄁行が出來ないと云ふのです、私も土地不案內ではあり、己を得ず彼の言に從て內地行を見合せ、アンタキエからアレキサンドレットへ出て小亞細亞を横斷して君士但丁堡へ歸ることに决定しました、ハレブからアンタキエまで馬車道󠄁は大迂回して凡そ四十二里人道󠄁は殆んど正西に向て一直線に行て凡そ二十七里許です通󠄁例は騎行で二日路ですが私は途󠄁中硏究しつゝ行くのですから三日路の豫程󠄁としました、さていよハレブを出發して、西に向て石原を通󠄁過󠄁して第一日にはトルマニンの古趾を調査しました、第二日はダナ、セルマダ、カスルベット[3]等を歷訪しアンタキエ湖の南に亘れる平󠄁野へ出ました、第三日はなほ進󠄁んでオロンテス河を渡りアンタキエの町に着しましたがこの間の古趾は實に面白いものでその尤も古いものは條支建󠄁築と名くべきものであろうと思ひました即ち大秦以前󠄁の叙利亞建󠄁築です。

 アンタキエは即ち古のアンチオキアでオロンテス河口を溯ること凡五里の所󠄁で前󠄁にオロンテス河を繞らし後にシルピユース山を負ふて居る。この山は非常に嶮峻で自然の城廓を作して居ります。この峰を傳ふて築かれた城壁の殘影が今も所󠄁々遺󠄁つて居ります、併しアンチオキアの遺󠄁物は甚だ少くつて纒まつた發見物はない樣です、唯此の附近󠄁から發見された大理石の石棺二つが官衙の中に置てあります、一つは二世紀󠄂頃の物で、一つは四世紀󠄂乃至五世紀󠄂頃の物でありました。それからもう一つヒチツト式の彫刻󠄂でハマーから出たと云ふものを當地で見ました、それからオロンテス河を下ると海岸にスウエジエと云ふ所󠄁がある、その附近󠄁にセレウシアと云ふ古跡がございますがそれは時間の都合で行つて見ませぬでした。夫れからアンタキエを出發して、アレキサンドレツトへ出ましたがこの間我が十三里です、道󠄁はオロンテスの西岸に沿󠄀ひアンタキエ湖の西を繞り終󠄁るとアマヌス山脈にかゝります、この邊の山水の風景は殆と全󠄁く日本的です、第一日は十里行て山中のベランと云ふ村に宿りましたが、丁度箱根山中に泊た樣な心地でありました。翌󠄁日ベランを發し山を下てアレキサンドレツトに着きました此のアレキサンドレツト附近󠄁には希臘羅馬の系統に屬する發掘物が多少存在して居ります。是だけが即ち私の叙利亞旅󠄁行の道󠄁筋の槪略の御話でありまして、明治三十七年の十一月二十六日に此地を出發して、此の地中海を船󠄂で向側に渡つてメツシナと云ふ港󠄁に上陸し、夫からタウルス山を越えて小亞細亞の內地に入り、カラマン、コニア等を歷訪してコンスタンチノープルに參りましたが、今日は此所󠄁までの御話と致しまして是で御免を蒙ります、誠に雜駁な御話を致しまして御淸聽を瀆しました。(完)

  1. 「鳥」は原文ママ。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 底本では「こと」の合略仮名
  3. 3.0 3.1 「子」は「ネ」の片仮名異体
  4. 脱字は原文ママ。