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南国太平記



呪殺変

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 高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた。

 樵夫きこり、猟師でさえ、時々にしか通らない細いみちは、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた。

 その細径の、灌木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。陣笠は、裏金だから士分であろう。前へ行くその人は、六十近い、白髯しらひげの人で、後方うしろのは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折はしょって、紺脚絆きゃはんだ。

 老人は、長い杖で左右の草を、掻き分けたり、たたいたり、撫でたり、供の人も、同じように、草の中を注意しながら、登って行った。

 老人は、島津家の兵道家、加治木玄白斎かじきげんぱくさいで、供は、その高弟の和田仁十郎だ。博士王仁わにがもたらした「軍勝図」が大江家から、源家へ伝えられたが、それを秘伝しているのが、源家の末の島津家で、玄白斎は、その秘法を会得している人であった。

 口伝くでん玄秘げんぴの術として、明らかになっていないが、医術と、祈祷きとうとを基礎とした呪詛じゅそ調伏ちょうぶく術の一種であった。だから、その修道すどう者として、薬学の心得のあった玄白斎は、島津重豪しげひでが、薬草園を開き、蘭法医戸塚静海を、藩医員として迎え、ヨーンストンの「阿蘭陀本草和解」、「薬海鏡原」などが訳されるようになると、薬草に興味をもっていて、隠居をしてから五六年、初夏から秋へかけて、いつも山野へ分け入っていた。

 行手の草が揺らいで、足音がした。玄白斎は、杖を止めて立止まった。仁十郎も、警戒した。現れたのは猟師で、鉄砲を引きずるように持ち、小脇に、重そうな獲物を抱えていた。猟師が二人を見て、ちらっと上げた眼は、赤くて、悲しそうだった。そして、小脇の獣には首が無かった。疵口には、血が赤黒く凝固し、毛も血で固まっていた。猟師は、一寸立止まって、二人に道を譲って、御叩頭おじぎをした。玄白斎は、その首のない獣と、猟師の眼とに、不審を感じて

「それは?」

 と、聞いた。猟師は、伏目で、悲しそうに獣を眺めてから

「わしの犬でがすよ」

「犬が――何んとして、首が無いのか?」

 猟師は、草叢くさむらへ鉄砲を下ろして、そのかたわらへ首の切取られた犬を置いた。犬は、脚を縮めて、ミイラの如くかたくなってころがった。疵は頸にだけでなく、胸まで切裂かれてあった。

「どこの奴だか、ひどいことをするでねえか、御侍様、昨夜方ゆうべがた、そこの岩んとこで、焚火する奴があっての、こいつが見つけて吠えて行ったまま戻って来ねえで――」

 猟師は、うつむいて涙声になった。

「長い間、忠義にしてくれた犬だもんだから、庭へでも埋めてやりてえと、こうして持って戻りますところだよ」

 玄白斎は、じっと、犬を眺めていたが

「よく、葬ってやるがよい」

 玄白斎は、仁十郎に目配せして、また、草叢をたたきながら歩き出した。

「気をつけて行かっし――天狗様かも知れねえ」

 猟師は、草の中に手をついて、二人に、御叩頭をした。


 細径は、急ではないが、登りになった。玄白斎は、うつむいて、杖を力に――だが、目だけは、左右の草叢に、そそがれていた。小一町登ると、左手に蒼空が、果てし無く拡がって、杉の老幹が矗々すくすくと聳えていた。そこは狭いが、平地があって、谷間へ突出した岩が、うずくまっていた。

 大きく呼吸いきをして、玄白斎は、腰を延すと、杉の間から、藍碧に開展している鹿児島湾へ、微笑して

「よい景色だ」

 と、岩へ近づいた。そして、海を見てから、岩へ眼を落すと、すぐ、微笑を消して、岩と、岩の周囲を眺め廻した。

「焚火を、しよりましたのう」

 仁十郎が、こういったのに答えないで、岩の下に落ちている焚木のきれを拾う。

「和田――乳木であろう」

 と、差出した。和田は手にとって、すぐ

「桑でございますな」

 乳木とは、折って乳液の出る、桑とか、柏とかを兵道家の方で称するのであった。

 玄白斎は、岩へ、顔を押当てるようにして、岩から、何かの匂を嗅いでいたが

「和田、嗅いでみい」

 仁十郎は、身体を岩の上へ曲げて、暫く、鼻を押しつけていたが

「蘇合香?」

 と、玄白斎へ、振向いた。玄白斎は、ちがった方向の岩上を、指でこすって、指を鼻へ当てて

「竜脳のにおいもする」

 和田は、すぐ、その方へ廻って鼻をつけて

「そう、竜脳」

 と、答えた。

「これは、塩だ」

 玄白斎は、白い粉を、岩の上へ、指先でこすりつけていた。仁十郎は、谷間へのぞんだ方の岩の下をのぞいていたが、急に、身体を曲げて、手を延した。そして、何かをつまみ上げて、玄白斎へ示しながら

「先生、蛇の皮が――」

 と、大きい声をした。玄白斎は、険しい眼をして

「人髪は?」

 仁十郎は、あたりを探して

「髪の毛はないか」

 二人は、向き合って、暫くだまっていた。玄白斎は、焚火をしたため、黒く焼けている岩肌を眺めていたが

「和田、この岩の形は?」

「岩の形?」

鈞召きんしょう金剛炉に似ているであろうがな」

 和田は、ちらっと岩を見て、すぐ、その眼を玄白斎へ向けて

「似ております」

 と、答えた。

「牧は、江戸へのぼったのう」

「はい」

 玄白斎は、眼を閉じて、暫く考えていたが

阿毘遮魯迦あびしゃろか法によって、忿怒燄曼徳迦ふんぬえんまんとくか明王を祭った、人命調伏じゃ。この法を知る者は、牧の外にない」

 呟くようにいったが、その眼は、和田を、鋭く睨んでいた。和田は、自分がとがめられているように感じて、面を伏せると

「この品々を、拾って――」

 玄白斎は、岩の上の木片、蛇皮をあごで差した。和田が拾っていると

「他言無用だぞ」

 と、やさしくいった。その途端――下の方で、それは、人の声とも思えぬような凄い悲鳴が起ってすぐ止んだ。


 二人も、ちらっと、眼を合せて、すぐ、全身を耳にして、もう一度聞こうとした。何んのための叫びか、もう一度聞えたなら、判断しようとした。暫く、黙って突立っていた二人は、もう一度眼を合せると、和田が

「斬られた声でしょうな」

 玄白斎は、答えないで、下の方へ歩き出した。

四辺あたりに気を配って――油断してはならん」

 玄白斎は、脚下あしもとの岩角を、たどたど踏みつつ、和田に注意した。

「今のは猟師でしょうか」

「そうかも知れぬ」

 二人の脚音と、衣ずれの外、何んの物音もない深山であった。あんな大きい、凄い悲鳴が起ろうとは、神も思えないくらいに、静かであった。

 二人は、声がしたらしいと考えた場所へ近づくと、歩みを止めて、四方を眺めた。そして、小声で玄白斎が

「この辺と思うが――」

 と、振返ると

「探しましょう」

 和田は、肩から掛けていた薬草の採取箱をおろそうとした。

「下手人が、未だ、うろついておろうもしれぬ。用心して――」

 和田の置いた箱のところへ杖を立てて、玄白斎は、草のそよぎ、梢の風にも、注意した。和田は、杖で草を、枝を分けながら、薄暗いの下蔭へ入って行った。玄白斎は

「径から、余り遠いところではあるまい」

 と、背後うしろから、声をかけた。和田は、小径を中心に、左右の草叢へ、森の中へ、出たり、入ったりしていたが、暫く、身体からだが見えなくなると

「先生、先刻の猟師です」

 落ちついた大声が、小半町先の草の中から起った。そして草を揺がして、陣笠が、肩が――和田が、小走りに戻って来た。

 二人が、小径から覗くと、背の着物だけが少し見えていた。近づくと、虫が、飛び立った。死体は草の間にうつ伏せになって、からの陽光ひかりが斑に当っていた。

 着物が肩から背へかけて切裂かれて、疵口が、むごたらしく、赤黒い口を開けていた。肉が、左右へ縮んでしまって、肩の骨が白く見えていた。着物も、頸も、下の草も、赤黒く染まって、疵口にはあぶが止まって動かなかった。

「犬に、鉄砲は?」

 玄白斎は、もとどりと、頤とを掴んで、猟師の顔をあらためてから、立上って、和田にいった。

「径から、ここへ逃げ込んだのだから――」

 和田は、径の方を見て、二三歩行くと

「この辺に――」

 と、呟いて、左右の草叢を、杖で、掻き分けた。

 玄白斎は、杖の先で、着物を押し拡げ、疵口を眺めて、血糊を杖の先につけていた。和田が

「見つかりました」

 と、径に近い草の中から、こっちを見た。

「血が、十分に凝固かたまっていぬところを見ると、斬って間も無いが――一刀で、往生しとる。余程の手利きらしい」

 玄白斎は、独り言のように、和田を見ながら呟いて、和田が

「下手人は、未だ遠くへ走っておりますまい、探しましょうかの」

 と、いうと

「見つけたとて、捕えられる対手ではあるまい」

 そういった玄白斎の眼は、くちびるは、決心と、判断とに、鋭く輝き、結ばれていた。


 島津家に伝えられている呪詛じゅその術は、治国平天下への一秘法であって、大悲、大慈の仏心によるものであった。私怨をもって、一人、二人の人を殺す調伏は、呪道の邪道であり、効験の無いものである。たとえば、一人の敵将を呪い殺すということは、正義の味方を勝たしめることで――それは、一国一藩が救われ、ひいては天下のためになることで――つまり、小の虫を殺して、大の虫を助ける、というのが、調伏の根本精神であった。

 だから、術者は、外に憤怒の形を作り、残虐な生犠いけにえを神仏に供し、自分の命をさえ、仏に捧げて祈りはしたが、それは、その調伏を成就して、多数の人々が幸福になれば、生犠は仏に化すという決心と信念とからであった。

 そして、その信念は、完全に、精神を昂揚し、普通の精神活動以上の不思議さを、常に示した。それは、小さい怨みとか、怒りでは到達のできない信念で、正義に立たなければ現れないものであった。

 そうして、加治木玄白斎にしても、代々の兵道家にしても、長い、大きい、深い、苦痛と、修練をして、その秘術を会得するのであったから、その智慧、知識、人格から見ても、一人の人に私怨をもって、調伏を行うような愚かな人間ではなかった。そんな人間では、修行のしきれる呪術ではなかった。

「薬草取りは?」

 玄白斎が、戻り道の方へ歩きかけたので、和田が、こう声をかけると

「止めた――戻ろう」

 と、玄白斎は答えて、もう、左右の草叢へは、何んの注意もしないで、うつむき勝ちに、足早に歩き出した。和田は玄白斎の心がわからないらしく、忠実に、草の中の薬草の有無を、杖の先で探しながら、黙ってついて行った。

 だんだん木がまばらになって、木床きどこ峠へ出る往来が近くなった。右手の前方に、桜島が、朗らかな初夏の空に、ゆるやかに煙をあげていた。

「仁十」

「はい」

 玄白斎は、こういったまま、また、暫く黙っていた。

「先生――何か?」

「ふむ――事によると、のう」

 何を考えているのか、玄白斎は、なかなか語り出さなかった。

「何か、大事でも――」

「うむ、容易ならぬ企てがあると、わしは思うが」

 と、いって、突然、振向いて

「近々に、牧に逢ったかの」

「一向に――」

「噂をきかぬか」

「ただ、江戸へ参られました、と、それだけより存じません」

 牧仲太郎とは、玄白斎の後継者で、牧に職を譲って、玄白斎は、隠居をしているのであった。

「もしか、牧が――」

 玄白斎が、呟いた。

「牧どんが?」

「いいや――」

 玄白斎は、首を振って

「今日のことは、和田、極秘じゃ」

 街道へ出てからも、玄白斎は、考えながら歩いているらしく、いつものように、左を見、右を見しなかった。和田は、大抵の雨にも、雪にも、薬草採りをやめない老師が、急に帰るのを考えると、何か、大変なことが起っているように感じられた。


(牧より外に、あの秘法を行う人間はない筈だ――牧の仕業としたなら――何んのために――たれを――)

 玄白斎は、険路も、汗も感じないで、考えつづけた。

(もし、自分の考えが、当っていたとしたなら――島津家の興廃にかかわる――)

 玄白斎の考えは、次のようなことであった。

 当主斉興なりおきの祖父、島津重豪は、英傑にちがいなかった。彼は、シーボルトが来ると、第一に訪問した。それから、大崎村に薬園を作ったし、演武館、造士館、医学院、臨時館の設立、それによって、南国片僻へんぺきの鹿児島が、どんなに進歩したか?

 彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、新彩を放たしめたが、然し、それはことごとく、多大に金のかかることであった。

 また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二朱金一つしかないことさえできるようにもなってしまった。

 さむらいは、つばを売り、女は、かんざしを売って献金し、十三ヶ月に渡って、食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。

 次代の斉宣なりのぶも、士分も、人民も、この重豪の舶来好みによって、苦難したことを忘れることができなかった。だから、斉宣は、秩父太郎季保すえやすを登用して、極端な緊縮政策を行った。然し隠居をしても、濶達な重豪は、自分に面当つらあてのようなこの政策に、激怒した。そして直ちに、秩父を切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。

 斉興は、茶坊主笑悦を、調所ずしよ笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易みつがいを行って、極度の藩財の疲弊を、あざやかに回復させた。

 然し積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、従って極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が

「西の丸、御炎上致しました」

 と、いった時

「馬鹿っ、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ、焼けたと申せ」

 と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら

「就きまして、何かお見舞献上を――」

「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。未だ判らぬか、此奴。何んでもよい、見舞をくれてやれ」

 ペルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時、三田の薩摩邸は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬こうやくが貼ってあるので、剥がすと、黒々と「天下の大出来物」と書いてあった。

 斉彬なりあきらは、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみがうすかった。その上に、幕府は、斉彬を登用して、対外問題に当らせようとして、斉興の隠居を望んでいた。斉興が斉彬をよく思わないのは、当然である。

 そして、斉興も、家中の人々も、斉彬が当主になっては、また、重豪の轍を踏むであろうと、憂慮した。木曾川治水の怨みを幕府へもっている人々は、幕府が、斉彬を利用して、折角の金をまた使わせるのだとも考えた。

 そうして、斉彬の生母は死し、斉興の愛するお由羅ゆらが、そのちようを一身に集めていた。そして、お由羅の生んだ久光は、聡明な子の上に、斉興の手元で育てられた。

(斉彬を廃して、久光を立つべし)

 それは、斉彬の近侍の外、薩藩大半の人々の輿論よろんであった。玄白斎は考えた。

(斉彬を調伏して、藩を救う――然し――)

 老人は、山路を、黙々として、麓へ急いだ。


 黙々として歩いていた玄白斎が、突然

「和田」

 と、呼んで立止まった。和田が、しかねる玄白斎の態度を、いろいろに考えていた時であったから、ぎょっとして

「はい」

 と、周章あわてて、返事して、玄白斎の眼を見ると

「その辺に、馬があるか、探してのう」

 こういいながら、腰の袋から、銭を出して

ひとぱしり、急いで戻ってくれぬか」

 和田は、何か玄白斎が、非常の事を考えているにちがいない、と思うと、ほんの少しでもいいから、それが、んなことだか、知りたかった。それさえ判れば、自分にも多少の智慧もあり、判断もつくと思った。それで

「御用向は?」

「千田、中村、斎木、貴島、この四人の在否を聞いてもらいたい――居ったら、それでよい。もし居らなんだ節は――」

 玄白斎は、髯をしごきながら

「何時頃から居らぬか?――何処へ行ったか? 誰と行ったか?――それから、便りの有無――よいか、何時、誰と、何処へ行ったか? 便りがあったと申したなら、何時、何処から、と、これだけのことを聞いて――」

 玄白斎は、小首を傾けて、まだ何か考えていたが

「一人も、もし、居らなんだなら、高木へ廻って、高木を邸へ呼んでおけ。それから」

 玄白斎は、和田の眼をじっと見ながら

「何気なく、遊びに行ったという風で、聞きに行かんといかん」

 玄白斎は、こういって、静かに左右を見た。そして、低い声で

「牧は斉彬公を調伏しておろうも知れぬ」

 和田は、口の中で、はっといったまま、うなずいた。

「わしの推察が当って、もし、貴島、斎木らが四人ともおらなかったなら、一刻も猶予ならん。すぐに延命の修法ずほうだ」

「はい」

「斉彬公の御所業の善悪はとにかく、臣として君を呪殺することは、兵道家として、不逞、不忠の極じゃ。君の悪業を諫めるには、別に道がある。もし、牧が、軍勝の秘呪をもって、君を調伏しておるとすれば、許してはおけぬし、はなくとも、秘法を行っている上は、何んのために行っておるか、聞きたださぬと、わしの手落になる」

 和田は、玄白斎の考えていたことが、すっかり判った。そして、判った以上、すぐに、命ぜられた役を、出来るだけ早く果したいと、気が、いてきた。それで、大きく、幾度もうなずいて

「それでは、一走りして。谷山には、馬がござりましょうから――」

「わしも急ぐ――」

 和田は、木箱を押えて

「お先きに」

 と、いうと

「箱を――」

 と、玄白斎は、手を出した。

「はっ――恐れ入ります」

 和田は、急いで採取箱を肩から卸して、手渡すと、一礼して走り出した。土煙が、和田と一緒に走り出した。


 芝野の百姓小屋が、点々として見えてきた。和田仁十郎は、肌着をべっとりと背へくっつけ、汗を拭き拭き、小走りに

(馬――馬)

 と、思いながら、馬の動きを、馬の影を求めていた。一刻も早く急ぎたかったし、暑かったし、心臓も、呼吸も、足も

(早く、馬を)

 と、求めていた。土埃つちぼこりが、額へまで、こびりついた。

「この辺に馬がないか」

 雑貨を売る店へ怒鳴って立止まった。

「馬?」

 と、店先にいた汚い女が、首を振って

「谷山まで、ござらっしゃらぬと、この辺には、無いですよ」

「済まぬが、水を一杯」

 仁十郎は、肩で呼吸をしながら、ようようこれだけいった。

「水なら――たんと――」

 女は、薄暗い勝手から、桶をさげて来た。和田の前へ置いて、容器を取りに入った。和田は、身体を曲げると手で掬って、つづけざまに飲んだ。女が、茶碗を持って、小走りに来ると

かたじけない」

 と、投げつけるようにいって、もう、あつい陽の下へ出ていた。

 暑い、この頃の陽の下を旅する人は少いから、戻り馬も通らなかった。和田は、俯向いて、口を開きながら、眉を歪めて、苦しそうに、小走りに走りつづけた。谷山の村へ入って、茶店へ来たが、いつも、茶店の脇の、大きいけやきの木の下に、一二疋ずついる馬が、一疋も見えないので、欅の下蔭は、淋しかった。

(出払いかしら)

 と、思うと、失望と、怒りを感じて

ばあさん」

 と、茶店の奥へ怒鳴った。

「馬は?」

「馬かえ」

 ばばは、いつも、馬のいるところに、影が無いから、聞かずともわかっていそうなものだ、というような態度で

「居りましねえが」

「馬子は?」

「馬子も、居りましねえ」

 和田は、この婆が、意地悪く、馬を皆、隠したように感じた。

「急用だに――」

「そのうちに、戻りましょう」

 和田は、渇と、疲れに耐えられなくなって、腰をかけた。

「水を一杯」

「水は悪うござるよ。熱い茶の方が――」

「水でよい」

 かまどのところから、じじが、顔を出して

「つい、今し方まで、四五疋遊んでおりましたがのう。御武家が四人、急ぐからと――つい今し方、乗って行かっしゃりましたよ。ほんの一足ちがいで、旦那様」

「何処かに、じい――野良馬でも、工面つくまいか」

「さあ――婆さん、松のところの馬は、走るかのう」

 和田は

(走らぬ馬があるか、気の長い)

 と、じりじりしてきた。


 人通りの無い、灼熱した街道に、鉄蹄をかつかつ反響させて、小走りに馬が、近づいて来た。誰か、乗っているにちがいなかったが、和田は、町人か、百姓なら、話をして、借りて行こうと、疲れた腰を上げて、葭簾よしずの外へ、一歩出た。

「先生」

 玄白斎が、木箱をがたがたさせながら、半分裸の馬子を、馬側に走らせて、近づいて来た。

「馬がないか」

「一疋も、ござりませぬ」

「馬子」

 馬子は、呼吸を切らして、玄白斎を、見上げただけであった〈[#「あった」は底本では「あつた」]〉

「もう一疋、都合つかぬか」

 馬も、馬子も、茶店の前で止まった。馬子は、胸を、顔を、忙がしく拭いて

「爺さん。四疋とも、行ったかえ」

「四疋とも、行ったよ」

「旦那、ここには、四疋しか居りませんのでのう」

 和田は、馬側へ近づいて

「一足ちがいで、家中の者が、四人で――」

 と、まで云うと、

「今か――」

 玄白斎が、大きい声をして、和田を、鋭く見た。和田は、玄白斎のそうした眼を見ると同時に

(そうだ。猟師を殺して、一足ちがいに)

 そう感じると、すぐ

「爺――その内の一人に、背の高い、禿げ上った額の、年齢三十七八の侍は居らなんだかの」

 玄白斎は、手綱を控えたまま、茶店を覗き込んでいた。

「額の禿げ上った、背の高い?――婆さん、あの長い刀の御武家の背が、高かったのう」

「一番えらいらしい――」

 婆は、首を振って、仁十郎を、じっと見て

「けれど、四十を越していなさったが――」

 玄白斎が

「その外のは、三十前後ではなかったか?」

「はい、お一人だけは、二十八九――」

「それは、少し、太った――」

「はいはい、小肥りの、愛嬌のある――」

 玄白斎は

「馬子っ」

 と、叫んだ。馬子は

「へっ」

 と、返事をして、茶店の中から、周章てて飛び出した。

「それが取計う」

 玄白斎は、和田を、あごでさした。そして、和田へ

「馬子に手当してやれ。わしは、彼奴を追うから、都合して、すぐ、続け」

 半分は、馬が、歩み出してからであった。馬子が

「旦那っ」

 と、叫んで、馬の口を取ろうとするのを、和田が、引戻した。玄白斎は、手綱を捌いて、馬を走らしかけた。

「いけねえ、旦那っ」

「手当は、取らすと申すに」

 和田は、力任せに、馬子の腕を引いた。


 人々の立去った足音、最後の衣ずれが、聞えなくなった瞬間――邸が、部屋が、急に、しいーんとした。

 それは、いつも感じたことのない凄さと、無気味さとを含んだ、丁度、真暗な、墓穴の中にいるような、凄い静かさであった。七瀬ななせは、肌をぞっとさせ、頭の中へ不吉なことや、恐ろしい空想を、ちらっとさせた。

(何を、おじけて――)

 と、自分を叱って、すぐ膝の前に、よく眠入ねいっている、斉彬の二男、寛之助の眼を、じっと眺めた。

 新しい蒲団を三重にして、舶来の緋毛布に包まれて、熱の下らない、艶々と、紅く光る頬をした四歳になる寛之助は、睫毛も動かさないで、眠入っていた。七瀬が耳を寄せると、少し開いた口から、柔かな、穏かな呼吸が聞えた。

(この分なら――)

 と、微笑して、身体からだを引くと、また、余りの静かさが、気にかかった。その静かさに、それから、自分の臆病さに、反抗するように、わざと灯の影の暗い天井を仰いだ。暗い、高い天井を、じっと凝視みつめていると、じりっと、下って来るように感じたが、睨むと、何んでもなかったし、屏風の蔭から、誰かが顔を出しそうなので、じっと眺めていたが、何も、出て来なかった。

(なぜ、今夜に限って、こんなことが、気にかかるのか? 大事な役を勤めておりながら、何んという臆病な――)

 と、自分を励ましたが――そう思う次の瞬間に、後方うしろの襖の中から、鬼のような、化物のような奴が、こっちを見ているような気がした。

 左右の次の間には、典医と、侍女と、宿直とのいの人々とがいたが、物音も、話声もしなかった。

 寛之助の母の英姫は、寛之助が安眠したのと、斉彬が未だ起きているので、その部屋の方へ行った。英姫が、去ると、蘭法医の寺島宗英も、漢法医の延樹方庵も、控えの間に退ってしまった。そして、徹夜をして詰めていた侍女が、更代に出て、近侍も、七瀬に頼んで休憩に下るし――それらの人々は、次の間か、遠くないところにいるにちがいないのだが、物音一つしない静かさで、七瀬一人が灯影のゆらぐ下に坐っていた。

 長男の菊三郎は、生れて一ヶ月日に死んだので、誰も気がつかなかったが、澄姫と、邦姫の二人は、三歳と、四歳になって、原因不明の病で死んだから、人々の記憶には、十分残っていた。

 この二人の死ぬ前の症状と、寛之助の近ごろとが、よく似ているのであった。時々、熱を出して、よく怯えて――この十日程前から眠入っていても、出し抜けに泣いたり、眼の中いっぱいに、恐怖の色を見せて、小さい掌に汗を出していたり

「怖いっ」

 と、泣いて、飛び起きたり――それは、前の二人の時にも医者が

「御弱い上に、熱が高いと、恐い夢をよく見ます」

 と、いったが、斉彬の近侍の二三は

「然し――」

 と、いって、うつむいて、何か考えていた。七瀬は、その人々の言葉を思い出して

「調伏?――」

 と、ちらっと、考えた時、ぴーんと、木の裂ける音が、七瀬の心臓を、どきんとさせた。


 七瀬は、裁許掛見習、仙波八郎太の妻であった。そして斉彬の正室、英姫の侍女でもあった。誠実で、聡明で、沈着であったから、寛之助の病が、悪化してくると共に、その看護を仰せつけられたのであった。

「何うも、可怪おかしい、何か、悪い企みがあるのではないか」

 と、いう疑いが、まず、お目付兼物頭、名越左源太から起された。澄姫が、亡くなった時にも、熱がつづいて、医者は、首を振るだけで

「さあ――」

 と、臆病そうな目を上げるだけであったが、今度も、病状が判らなかった。澄姫は、死ぬ少し前から、小さい、痩せた手を、出し抜けに、蒲団の中から出して、誰かに、縋りを求めながら

「怖いっ、怖いっ」

 と、絶叫した。身体が、がたがた顫えて、瞳孔が大きく据ってしまって、いじらしい程、恐怖の怯えを眼にたたえながら、侍女へ抱きついて、顔を、その懐へ差込んだ。

「夢でございますよ――何も、おりませぬ」

 と、侍女は、怯えている澄姫を、正気にしようとしたが、澄姫は、がくがく顫えて、しがみついたままであった。

 英姫は、余り、いじらしいので、自分が夜を徹して、澄姫の枕許にいたが、澄姫は、だんだん、夜になるだけにでも、怖れだしてきた。昼間の、陽の明るい折

「寝てから、何を、見るの?」

 と、聞くと、それだけでさえ、もう、顔色を変えて

「鬼――」

 と、答えると、それ以上のことは、怖ろしくて、説明もできないようであった。そして、だんだん衰弱して行った。

 左源太は、その澄姫の死を想い出すと、可愛盛りの寛之助を捨てておけなかった。もう一度、あの恐怖に怯えさせるかと思うと、斉彬の冷淡さに、腹が立ってきた。

「寛之助様、ばかばかしゅうござりませぬが」

 と、いうと、斉彬は、ホンフランドの「三兵話法」を、読みながら、

「あれは、生来弱い」

「しかし、御病状が、異様でござります」

「病気のことは、医者に任せておけ」

「医者の手ではおよばぬ――」

「なら、天命だ」

 左源太は、それ以上、斉彬に云えなかったから、英姫に

「よもやとは思いまするが、ためしのあること。油断せぬに、しくはござりませぬ。典医、侍女の方は、それがしが、見張りますから、夜詰の人に、政岡如き女を――」

 と、すすめて、そして、七瀬が、選まれることになったのであった。病間夜詰と、きまった時、仙波八郎太は

「寛之助様は御世継ぎじゃで、もしものことが、おありなされたら、ここの敷居を跨げると思うな」

 と、云い渡した。小身者の仙波として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世のいとぐちをつかんだことになるし、他人に代ったしるしが無かったなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかった。

「心して、勤めまする」

 と、答えて来たが、夜の詰をして、三日目の今夜は、いつになく、気が滅入って、何うしたのか、怯け心が出て来た。

 灯が、暗いようなので、しんを切ろうと、じっと、灯を見つめながら、手を延そうとすると、部屋中が、急に薄暗くなって、天井が、壁が、畳が、襖が、四方上下から、自分を包みに来るように感じた。


 七瀬は、脚下から寒さに襲われた。はっとして、手を引くと、心を落ちつけようと、努力しながら、四方を見廻した。

 床の間には重豪の編輯へんしゅうした「成形図説」の入った大きい木の函があったし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には呼遠筒が、薄く光っていた。

 誰かを呼びたい、ような気もしたが、自分の気の迷いで、人を呼ぶのも恥かしかったから、心切しんきりを持ち直して、燭台を見ると、前よりも薄暗いようであった。蝋燭の灯が、妙に黄ばんでいて、蔀屋の中が、乳白色の、霧のようなもので、満たされているようであった。

和子わこは――)

 と、寛之助を見ると、よく眠入っているし、その愛らしい睫毛さえ、はっきりと判ったから、安心して、部屋の異状を、見定めようとすると、その乳白色の空気が、薄暗い屏風の背後へ、流れ込むように動いていた。

 七瀬は、蒼白になって、息をつめて、膝を握りながら、自分の恐怖心にまけまいと、それを、じっと眺めていると、霧の固まりが屏風の背後で、ぐるぐる廻り出したように見えた。そして、屏風が、はっきりと眼に見えていながら、屏風の後方が、屏風を透して見えているように思えた。

(夢かしら?――夢ではない)

 と、思った瞬間――部屋の中が、急に、四方から狭められたように感じられてきて、畳が、四方の隅から、じりじりと、押上がってくるように思えた。

 七瀬の手は、いつの間にか、守り刀の袋へかかっていた。眼は、恐怖に輝きながら、廻転している霧を、睨みつけていると、霧が気味悪い、青紫色にぎらぎらと光るようにも見えたし、光ったのは眼の迷いであるような――そして、自分の眼が、何うかしていると、じっと、眺めると、その霧の中に凄い眼が、それは、人間の眼であったが、悪魔の光を放っている眼であった。

「あっ」

 と、叫んだが、声が出なかった。

(これが、寛之助様に――)

 と、思ったが、手も、足も、身体も、動かなかった。急に、青紫色の光が、急速度で、廻転すると共に、その光る眼の周囲に、人の顔らしいものが現れたように感じた。痩せた、鋭い顔であった。

 七瀬は、動かぬ手を、全身の力で動かそうとしながら、一念をめて

(こいつを、退散させたら――)

 と、全精神力を込めて、睨みつけた瞬間、寛之助が

「ああっ」

 と、叫んで、両手を、蒲団から突き出すと、顫えたまま、左右へ振って

「こわいっ――」

 七瀬が、その声に、寛之助を眺めて、はっと胸を押されると、部屋は、前のように明るく、その灯の下で、寛之助が、汗をにじませて、恐怖に眼をいっぱいに開いているだけであった。

「和子様っ」

 と、上から、抱くと、寛之助は、身体を、がたがた顫わせて、しっかりと抱きついた。七瀬の頬に触れた寛之助の額は、ただの熱でなく、熱かった。

 長いようでもあったし、短いようでもあった。ほんの瞬間、疲れから、夢を見たような気もしたし、本当に、奇怪な事が起ったようにも思えたし――七瀬には、判断がつかなかった。ただ、鋭い眼だけは、頭の隅に、閃いていた。


 侍女が、つつましく、襖を開けるのさえ、もどかしかった。顔が見えると、すぐ

「方庵を――」

 侍女は、立って入ろうとした。

「方庵を、早く――」

 侍女は、七瀬の声と、顔が、ただでないのを見て、襖を閉め残したまま、小走りに行った。

 寛之助は、熱い額を、頬を、七瀬の肌へ押しつけて、獅噛しがみついていた。寝かせようと、下へ置こうとすると、咽喉のどの奥から叫んで、置かれまいとした。

「七瀬がおります。七瀬がおります」

 背を軽く叩いて、顫える寛之助を、安心させようとしながら、七瀬は、眼の底、頭の隅に残っている今の幻像が、誰かに似ていると考えた。だが、似ているその誰かが思い出せなかった。

 抱き上げていて、風邪をひかしてはならぬと思ったので、寛之助が獅噛みついているまま、寝床の中へうつ伏せになって、毛布でくるんだ。

(あのものに、おそわれなさるのかしら)

 と、考えたが、そんなことが、有るべきはずでなかったし、自分の心の迷いから、幻に見たことを、迂濶うかつに、人には話すこともできなかった。然し、心の迷いにしては、余りに明瞭はっきりと、幻の顔が残りすぎていた。

 微かに、足音がつづいて襖が開いた。方庵と、左源太と、奥小姓野村伝之丞とが、入って来た。三人とも、七瀬が、寛之助の熱を出させたように、睨みつけて、枕辺に坐ると

「何かに、おびえなされまして、急に、お目ざめになると、このお熱で――」

 方庵が、額へ手を当てた。

 七瀬が、身を引こうとすると

「こわいっ、いやっ――」

 寛之助が、烈しく、身体をもだえて、小さい拳をふるわせつつ、七瀬の襟をつかんだ。

「左源太が、ったってやりましょう。左源太は、鬼でも、化物でも、打った斬りますぞ、若」

 寛之助は、顔を埋めたまま、いやいやをした。

「余程、おびえていなさる」

 と、伝之丞が呟いた。

「方庵、澄姫様の時と、同じであろうが」

「うむ、気から出る熱らしいが――」

 方庵は、寛之助の脈を取って

「宗英も、判らんといいおったが――」

「七瀬――何んぞ、異状無かったか?」

 七瀬は、黙って左源太を見た。異状すぎた異変を見たが、それを見たといっていいか――本当に見たのか、夢を見たのか? それさえ明瞭はっきりしないことを、いいもできなかった。

「異状は、ござりませぬが――」

 と、いった時、さっき見た幻の顔が、島津家兵道の秘法をつかさどっている牧仲太郎に似ているように思えた。ただ、牧は、もっと若かった。

(調伏――もしかしたなら)

 七瀬は、こう感じると、冷たい手で、身体を逆撫でされたように、肌を寒くした。

「若、何を御覧なされますな。左源太が、追っ払ってくれましょう。どっちから?――あっちから?」

 と、寛之助の顔をのぞき込むと、左源太の指している方を、ちらっと見て、うなずいた。左源太の指は、屏風の方を指していた。七瀬は、もう一度、頭の心から冷たくなってしまった。


「頼むえ」

 お由羅が、こういって、一間ひとまへ入ってしまうと、手をついていた侍女達が、頭を上げて、二人が、襖のところへ、三人が、廊下の入口へ、ぴたりと坐った。そして、懐剣の紐を解いた。

 お由羅が入ると、青い衣をつけた、三十余りの侍が、部屋の隅から、御辞儀をして

「用意、ととのうております」

 部屋の真中に、六七尺幅の、三角形の護摩壇が設けられてあった。壇上三門と称されている、その隅々に香炉が置かれ、茅草を布いた坐るところの右に、百八本の護摩木――油浸しにした乳木と、段木とが置かれてあった。

 お由羅が、壇の前へひざまずいて、暫く合掌してから、立上ると、その男が、黒い衣を、背後から着せた。お由羅は、壇上へ上って、蹲踞そんきょ座と呼ばれている坐り方――左の大指おやゆびを、右足の大指の上へ重ねる坐り方をして、炉の中へ、乳木と、段木とを、積み重ねた。そして、左手に金剛杵こんごうしょを持ち、首へ珠数じゅずをかけてから、炉の中の灰を、右手の指で、額へ塗りつけた。

 侍は、付木から、護摩木へ、火を移すと、お由羅は、白芥子と塩とを混じたものを、その上へふりかけた。小さく、はぜる音がした。火花がとんで、すぐ燃え上った。

 侍は、一礼して退くと、索縄さくじょうと、刀とをもって、お由羅の坐っている壇の下、後方へ、同じように指を重ねて坐った。そして、低い声で

「東方阿閦あしゅく如来、金剛忿怒尊、赤身大力明王、穢迹えじゃく忿怒明王、月輪中に、結跏趺坐けっかふざして、円光魏々、悪神を摧滅す。願わくば、閻吒えんた羅火、謨賀ぼか那火、邪悪心、邪悪人を燃尽して、円明の智火を、虚空界に充満せしめ給え」

 と、祈り出した。

 寛之助の病平癒の祈祷をするといって、この護摩壇を設けたのであったが、三角の鈞召火炉は、調伏の護摩壇であった。今、祈った仏は、呪詛の仏であった。

 壇上の品々――人髪、人骨、人血、蛇皮、肝、鼠の毛、猪の糞、牛の頭、牛の血、丁香、白檀、蘇合香、毒薬などというものは、人を呪い殺すために、火に投じる生犠の形であった。

 黒煙が、薄く立昇ると、お由羅は、次々に護摩木を投げ入れ、塩を振りかけ、水をそそいだ。煙は、濛々もうもうとして、生物のように、天井へ突撃し、柱、襖を這い上って、渦巻きおろして来ると、炉の中の火が、燃え上って、部屋の中が、明るくなった。

 お由羅は、暫く眼を閉じて、何か念じていたが

「南無、金剛忿怒尊、御尊体より、青光を発して、寛之助の命をちぢめ給え」

 と、早口に、低く――だが、力強くいって

そうは?」

 と、叫んだ。と同時に、侍が

「蛇頭形」

 と、叫んだ。火炉の中の火焔は、蛇の頭の形をしていた。槍形、牙形というように、焔の形によって判断をするのが、調伏法の一つであった。

 お由羅は、また、眼を閉じて、護摩木を投げ入れ、毒薬と、丁香とをそそぎかけて

「色は?」

 と、叫んだ。

「黒赤色」

 黒赤い、凄さを含んだ火焔が、ぱっと立っていた。

「声は?」

悪声あくじょう

 それは、焔の音を判じるのであった。


 煙と、異臭とが、部屋の中で、渦巻いた。お由羅は右手で、蛇の皮を、犬の胆を、人の骨を、炉の中へ投げ入れて、その度に

「相は?」

 とか

「声は?」

 とか――火焔の頂の破散で判じ、音で判じ、色で判じ、匂で判じて、調伏が成就するか、しないか――額は、脂汗が滲み出していたし、眼は異常に閃いていた。手も、体も、ふるえて、いつもの、甘い、女の声が、狂人のように、甲高かんだかくなっていた。

 焔を、見つめていた侍が、お由羅の、顔を眺めて、立上った。索縄を、壇上へ置いて、刀を持ち直して、お由羅の右手へ廻った。そして、何か、口の中で呟いて、お由羅の手をとると、お由羅は、半分失神し、半分狂喜しているような、凄い眼を閉じて、右手を侍の方へ突き出した。

 浅黒い、だが、張切った、艶々した腕が二の腕までまくり上げられると、侍の手に引かれて、火焔の上の方へ、近づいた。

「南無赤身大力明王、穢迹忿怒明王、この大願を成就し給え」

 侍は、こう叫ぶと、刀のさきを、手首のところへ当てて、青白く浮いている静脈を、すっと切った。血が、湧き上って来て、見る見る火の中へ、点々と落ちた。

 二人は、そのままの形で、俯向いて、何か念じると、だんだん、お由羅が、首を下げてきて、左手に金剛杵をもったまま、壇上へ、片手をついてしまった。その瞬間、侍は、疵口を押えて、火の中へ倒れかかろうとするお由羅を、後方へ押し戻した。

「大願成就、大願成就」

 と、いいながら、お由羅の両手を、胸のところへ集めて、抱きかかえながら

「お方」

 背を押して、叫んだ。お由羅は、眼を開けて、自分で手首を押えて、軽く、お辞儀をした。侍は、布を出して、膏薬を貼った上から、縛った。お由羅は、しびれた、痛む胸を、這うようにして、壇から降りて

「火が、みんな、左へ廻りましたの」

 と、微笑した。

「吉相にござります。焔頂、左に破散して、悪声を発す。今夜の内に、成就致しましょうか」

「牧は、今夜あたり、お国のの辺で、祈っておりましょうか」

 侍は、壇の下から、護摩木を取り出して、積みながら

「烏帽子岳か――黒園山あたりで、ござりましょう」

 侍は、兵道家牧仲太郎の高弟、与田兵助という人であった。

 お由羅が、汗を拭いて、壇の下へ坐ると、兵助が、燃え尽そうとしている護摩木の中へ、新しい木を、一本一本、押頂いて、載せて行った。煙と、焔とが、又、勢いよく立ちかけた。

 兵助は、気味の悪い、鈍い眼をした牛の頭を、両手で、静かに、火炉の中へ置いた。すぐ、毛の焼ける、たまらない臭が、部屋中へ充ちた。兵助は、口の中で、何か唱えながら、白檀と、蘇合香とを、牛頭の上から、撒きちらした。

 右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにじんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら

「南無金剛忿怒尊」

 と、叫んで、眼を突いた。白い液が、少し流れ出て来た。兵助は、左の眼も突き刺した。


「お待ちに、ござりまするが」

 三度目の使が、襖外で、恐る恐る、声をかけた。斉彬は

「今――」

 と、いったまま、紫檀したんの大机にもたれて、書物かきものをしていた。そして、筆を走らせながら、

「今行く」

 と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも、膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。

 寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、無論、行かねばならなかったが、今書いている「大船禁造解」と、「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早く出来上れば、一日だけ、日本に利益と、幸福とをもたらして来るものであった。

 斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁じるというような愚令を、早く、撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同じ船を作るより外に、最初の手がかりは無いはずであった。

 幕府も、それを知っておりながら、反対論に怯えたり、繁雑な手続きを長々と調べたり――斉彬は、そういう役人、大名、輿論に対して、ただ一人、この部屋で、こうして闘っていた。ふっと、寛之助のことを思い出しても、自分の子の病、死などは、窓外をかすめる風音ぐらいにしか感じなかった。

(医者が十分に手当をしてくれている。自分がいたとて、癒らぬものは癒らぬ)

 と、呼びに来られると、考えた。

(自分が行かないために、よし、寛之助が死んだとしても、この草案には代えられぬ。この草案のために、あの子が犠牲になったとしたら、こんな光栄な死はない)

 と、いうような理窟まで考えた。だが、立上った。襖を開けると、近侍が、廊下に手をついて待っていた。

「もう、死んだか」

「いいえ、御重態のよしでござります」

 斉彬は、愛児の見舞に急ぐよりも、早く見舞って早くここへ戻らんがために、大股に、早足に、廊下を急いだ。

「お渡り――」

 と、いっている声が聞えた。侍女だの、医者だのが、出迎えに来た。

 病室へ入ると、誰の顔にも、不安さと、涙とがあった。英姫の眼は、泣きはれて、蕾のようになっていたし、七瀬の髪は乱れて、眼が血走っていた。斉彬は、寛之助の枕頭へ坐って、じっと、病児の顔を眺めた。

 寛之助は、眼に見えぬ敵と、んなに戦ったのだろう? 三日見ない間に、頬の艶がなくなって、痩せてしまっていた。罪の無い、無邪気な幼児が、たった一人で、乳母の力も、医者の力も、およばないところで、泣きながら、苦しめられながら、怯えながら、死と悪闘している姿を想像すると、斉彬は

「若」

 と、叫んで、涙ぐんだ。血管が青く透いて見える手、せわしく呼吸に喘いでいる落ちくぼんだ胸、愛と、聡明とで黒曜石の如く輝いていた眼は、死に濁されて、どんよりと、細く白眼を見開いているだけであった。

「回復の望みは――」

「はっ」

 と、いって、三人の医者は、頭を下げたままで、何んとも答えなかった。見ない前の心強さが、寛之助のいじらしい姿に、打ちくだかれて、斉彬は、幾度自分の名を呼び、自分を見たく思ったかと思うと、熱い悲しみの球のようなものが、胸から、頭の中までこみ上げて来た。


「痩せたのう」

 と、いって、斉彬は、意識のない寛之助の、手を握った。掌へ感じたのは、熱と骨とだけであった。英姫は、それを見ると、袖を口へ当てて泣き入った。

(せめて――せめて正気のある間に、そうしてやって下さったなら)

 二日前英姫の懐の中で、熱っぽい、だるそうな目をしながら

「おととは?」

 と、聞いた時、幼児は、それが父に逢う最後だと感じていたにちがいなかった。

「見たいか」

 と、聞くと、はっきり、強く

「お父は?」

 と、いって、頷いた。英姫は、すぐ、侍女に斉彬を迎えにやったが、今行く、今行くと、とうとう斉彬の来ぬうちに、また熱の中へ倒れてしまったのであった。

(何んなに、顔を見たかっただろうか)

 寛之助が、灰色の、広々とした中を、ただ一人で、とぼとぼと、果もなく、父を恋い、母を求めて歩いて行く姿が考え出されて来た。英姫は、袖を噛んで泣き入った。

「寛之助――ててじゃ」

 と、斉彬が叫んだ。だが、幼児の眼は、もう動きもしなかった。

「方庵」

「はっ」

「澄も、邦も、同じ容体で、死んだのう」

「はい」

「未ださじが届かぬか」

 やさしいが、鋭い言葉であった。斉彬のいうのは、当然であったが、方庵には、どうしてもせぬ病であった。

「七瀬、疲れたであろう」

「いいえ」

「病は、薬よりも、看護じゃ。こういう幼児には、余計にそうじゃで――」

 七瀬は、斉彬のめてくれる言葉を、責められているように聞いた。寛之助の死は、斉彬にとって、後嗣あとつぎを失う大事であると共に、七瀬にとっても、仙波の家を去らなければならぬ大事であった。夫の肩身を狭くし、自分を不幸にさせ――と、思った時

「ひーっ」

 と、寛之助が叫ぶと、斉彬に握られている手も、身体も、力の無い脚も、一度に、病児とは思えぬ程の力で突上げ、顫わせた。脣は、痙攣けいれんして、眼は大きく剥き出し、瞳孔を釣上げてしまって、恐怖と、その苦痛とで、半分気を失っているような表情であった。

「寛之助っ」

 斉彬は、不意に、力いっぱいに振切ろうとした寛之助の痩せ細った手を握りしめて、がたがた顫えている子供の身体を、片手で軽く押えながら

「父じゃ――見てみい、父じゃ」

 と、顔を、幼児の眼の上へ、押しつけた。

「見えんか――寛之助っ、父じゃ」

 斉彬の声は、沈黙している部屋中へ響いた。涙声であった。

「七瀬――おそわれると――いつもこうか?」

「はい」

 寛之助の脣は、わくわくと開いたり、閉じたり、身体は烈しくふるえているし、眼は白眼が多くなって、次第に細く閉じられてきた。

「まだ脈はあるが――」

 斉彬は、医者の方を見て

「何か手当の法が無いものか」

 と、口早に聞いた。

「助かるものなら――」

 と、低く、呟いて、七瀬の眼を見た斉彬の睫毛には、涙が溢れるように湧き上って来ていた。



手首に怨む

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「噂をすれば、影とやら――」

 一人が、こういって、隣りの男の耳を引っ張った。

「何をしやがる」

「通るぜ、師匠が」

 お由羅の生家、江戸の三田、四国町、大工藤左衛門の家の表の仕事場であった。広い板畳の上で、五六人の若い男が、無駄話をしていた。

「師匠」

 常磐津富士春は、湯道具を抱えて、通りながら、声と一緒に、笑顔を向けて

「おやっ――」

 立止まって

「お帰んなさいまし」

 と、小藤次に挨拶をした。小藤次とはお由羅の兄で、妹が、斉興の妾となって、久光を生んでから、さらに取立てられて、岡田小藤次利武と、名乗っているのであった。

 小藤次は、袴も、脇差も、奥へ捨てたまま、昔のように、大あぐらで

へえったら――」

「おめかしをして」

 富士春は、媚をなげて、素足の匂を残して行った。

「いい女だのう。第一に、鼻筋が蛙みたいに背中から通ってらあ」

「兄貴を、じっと見た眼はどうだ、おめかしをして――」

「おうおう、誰の仮声こわいろだ」

「師匠のよう」

「笑わせやがらあ、そんなのは、糞色ばばいろといってな――」

「鳴く声、ぬえに似たりけりって奴だ」

おいら、あの口元が好きだ。きりりと締まってよ」

「その代り、裾の方が開けっ放しだ。しかもよ、御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗ってさ」

「御倹約令といやあ、今に、清元常磐津習うべからずってことになるてえぜ」

「そうなりゃ、しめたものだぜ。師匠上ったりで、いよいよ裾をひろげらあ」

 と、いった時、泥溝どぶ板に音がして、一人の若い衆が、下駄を飛ばした、片足をあげて、ちんちんもがもがしながら、大きい声で

「とっ、とっと――猫、転んで、にゃんと鳴く。師匠が転べば、金になる――」

 板の間で、それを見た一人が

「庄公、来やあがった」

 と、呟いた。庄吉は、入ろうとして、小藤次に気がつくと

「お帰んなさいまし」

 と、丁寧に、上り口へ手をついた。

「上れ」

「今、酒買うところだ」

「丁度、師匠の帰りに、酌ってことになるかの」

 小藤次が

「庄、どうだ、景気は?」

「へへっ、頭は木櫛きぐしばかり、懐中は、びた銭、御倹約令で、掏摸すりは、上ったりでさあ」

「押込なんぞしたら?」

「押込?――押込は、若旦那、泥棒でさあ。品の悪い。掏摸は職人だけど――」

「はははは、そうか――庄吉、いい腕だそうなが、武士のものを掏ったことがあるか」

「御武家衆にゃあ、金目のものが少くってねえ」

「何うだ、一両、はずむが、鮮やかなところを見せてくれんか?」

 小藤次が、こういって、往来を見た時、一人の若侍が、本を読みながら、通りすぎようとしていた。

「あいつの印籠は?」

「朝飯前、一両ただ貰いですかな」

 庄吉は、微笑して腰を上げた。

 出て行こうとする庄吉へ、一人が

「へまやると、これだぞ」

 と、首頸うなじを叩いた。庄吉が、振向いて、自分の腕を叩いた。


 若い侍は、仙波八郎太の倅、小太郎で、読んでいる書物は、斉彬から借りた、小関三英訳の「那波烈翁ナポレオン伝」であった。

 父の八郎太が、裁許掛見習として、斉彬の近くへ出るのと、斉彬の若者好きとからで、小太郎は無役の、御目見得以下ではあったが、時々、斉彬に、拝謁することができた。

 斉彬は、時々、そうした若者を集めては、天下の形勢、万国の事情を説いて、新知識の本を貸し与えた。「那波烈翁伝」は、こうした一冊であった。

 近頃、流行はやりかけてきた長い目の刀を差して、木綿の紺袴に、絣を着た小太郎を見て、庄吉は

(掏り栄えのしない)

 と、思った。庄吉の狙った印籠は、小太郎の腰に、軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵まきえ一つさえない安物であった。

(仲間の奴が見たなら、笑うだろう)

 と、そうした安物を掏る自分へ、嘲ってみた。

(然し、一両になりゃあ――)

 庄吉の冴えた腕は、掏ろうとする品物を生物にした。庄吉が、腕を延すと、その品物の方から、庄吉の掌の中へ、飛び込んで来るのが、常であった。そして、今の仕事は鋭利なはさみを、右手の掌の中へ隠して、紐を指先で切ると同時に、掌へ、印籠を落す、という、掏摸の第一課の仕事であった。

 庄吉は、ぐんぐん近づいて行って、鋏を指の間へ入れた。三尺、二尺――近づいて、鋏を動かすと――ほんの紙一重の差であろう、鋏は、空を挟んで――庄吉は

(侮っちゃあいけねえ)

 と、感じた。そして、次の瞬間、も一度、鋏を突き出して、指を動かすと、紐は、指先へ微かに感じるくらいの、もろさで、切れて、印籠は、嬉しそうに、庄吉の掌の中へ落ち込んだ。庄吉は、満足した。

 だが、それは、ほんの瞬間だけのことであった。庄吉の身体が侍から、一尺と離れぬ内に、侍が振向いた、険しい眼が、庄吉の眼と正面から衝突した。侍が、立止まった。

 庄吉は、それでも、腕に自信があった。掏ったとわかって、振返ったのではなく、自分が余り、近づきすぎたのを怪しんで、振返ったのだと思った。

 だが、それも、ほんの瞬間だけにすぎなかった。庄吉の、引こうとした手が、侍の手で、しっかり握りしめられてしまった。

(ちえっ)

 と、心の中で、舌打ちをして、なま若い侍から侮辱されたように感じて、憤りが湧いてきた。

(小僧のくせに、味な真似を――)

 と、思った。そして、手を握られたまま、小太郎の眼と、じっと、睨み合っていた。振切って、横っ面を、一つなぐって、逃げてやろう、と思った。だが、右手を、十分に取られていて、勝手が悪かったので

「済みません」

 と、油断させておいて――とも、思ったが、こんな小僧に、あやまるのも癪であった。

「何うするんでえ」

 庄吉は、睨みつけた。小太郎は、微笑した。そして、左手の書物を、静かに、懐へ入れて

「さあ、何う致そうかの」

 と、答えた。


 庄吉も、微笑した。

「江戸は物騒だから、気をつけな」

不埓ふらち者っ」

 小太郎の顔に、さっと、血が動いた。

「何っ?」

 力任せに引く手首を、ぐっと、内へ折り曲げると共に、庄吉の手首から、頭の中まで、血の管、筋骨を、一時に引きちぎるような痛みが、走った。

(手首が折れる)

 と、感じ

(商売が、できなくなる)

 と、頭へ閃いた刹那、庄吉は、若僧の小太郎に、恐ろしさを覚え、じけ心を感じたが、その瞬間――ぽんと、鈍い、低い音がして、庄吉の顔が、灰土色に変じた。眉が、脣が、歪んだ。

 往来の人が、立止まって、二人を眺めていた。庄吉は、自分の住居に近いだけに、自分の仕事を人に見られたくなかったし、弱味を示したくもなかった。

 しびれるように痛む手に、左手を添えて、懐へ、素早く入れた。そして、一足退って

「折ったなっ」

「江戸は物騒だ。気をつけい」

 小太郎が、嘲笑して

「印籠は、くれてやる」

 庄吉は、口惜しさに逆上した。左手を、小太郎の頬へ叩きつけようとした時、何かが、胸へ当ってよろめいた。踏み止まろうと、手を振って、足へ力を入れた刹那、足へ、大きい、強い力が、ぶっつかって――青空が、広々と見えると、背中を、大地へぶちつけていた。手首の痛みが、全身へ響いて、庄吉は、歯をくいしばって、暫く、動こうにも、動けなかった。

(取乱しちゃ、笑われる)

 ちらちらと、富士春の顔が、閃いた。

「野郎っ――殺せっ」

 そうとでも、怒鳴るより外に、仕方がなかった。足で、思いきり蹴った。起き上ろうとすると、手首が刺すように痛んだ。

「殺せっ」

 庄吉は、首を振った。小太郎の後姿が、三四間先に見えた。

「待てっ」

 左手をついて、起き上ろうとして、尻餅をついたが、すぐ、飛び起きて

「やいっ」

 走り出した。背中も、もとどりも、土埃にまみれて、顔色が蒼白に変り、脣が紫色で、眼が凄く、血走っていた。小太郎が、振向いて

「用か」

 庄吉は、小太郎の三四尺前で、睨みつけたまま、立止まった。

「元の通りにしろっ。手前なんぞに、なめられて、このまま引込めるけえ。元通りにするか、殺すか、このままじゃあ、動かさねえんだ――おいっ、折るなら、首根っ子の骨を折ってくれ」

 庄吉は、じりじり近づいた。手首がやけつくように、痛んだ。

(早く手当すりゃ、癒らぬこともあるまい)

 と、思ったりしたが、意地として、後へ引けなかった。印籠一つと、かけ代えに、商売道具を台なしにされたと思うと、怨みと、怒りとで、いっぱいになってきた。

「返事をしろ、返事をっ」

 小太郎は、黙って、歩き出した。かっとなった庄吉は

「うぬっ」

 小太郎の髻を、左手で、引っ掴もうと、躍りかかった刹那、小太郎の体が沈んだ。延びた左手を引かれて腰を蹴られると、たたっとのめり出ると、膝をついてしまった。


「大変だ――若旦那」

 表に立って、庄吉の仕事振りを見ようとしていた若い者が、叫んだ。

「何うした?」

「やり損って――あっ、突き倒されたっ」

 二三人が、跣足はだしのまま、土間へ飛び降りて、往来へ出た。往来の人が、皆、庄吉の方を眺めていた。

「喧嘩だっ」

「やられやがった」

 口々に叫ぶと、走り出した。残っていた若者と一緒に、小藤次が、往来へ出ると、庄吉が、起き上ろうとしているところであった。侍は、早足に、歩いて行っていた。

なまなっ」

 小藤次が、呟いて、走りかけた。一人が後方から

「刀っ」

 小藤次が、振向いて

「早く、持って来いっ」

 と、手を出した。二人が、泥足のまま、奥へ走り込んだ。若い者は、のこぎりのみ、棒を持って、走り出した。近所の若い者が、それについて、同じように走った。

 小藤次は、受取った刀を差しながら、その後方から走り出した。

「喧嘩だ」

「喧嘩だっ」

 叫び声が、往来で、軒下で、家の中でした。犬が吠えて走った。子供が走った。

 庄吉は、手首の痛みに、言葉も、脚も出なかった。立上って、小太郎の後姿を、ぼんやり眺めていると

「庄吉っ」

 若い者が、前後からのぞき込んで

「何うした?」

「掏った」

 低い声で、答えて、懐中から、印籠を出した。小藤次らが、追いついて来て

「庄吉、何うした」

「えれえ事をやりゃあがった。痛えっ」

 庄吉は、左手の印籠を、一人に渡して、左手を添えて、袖口から折れた右手を、そろそろと出した。手首の色が変って、だらりと、手が下っていた。

「折りゃあがったんだ」

「折った?」

 一人が叫んで

「畜生っ」

 その男は、鋸を持って走り出した。

「掏摸が、右手を折られりゃ、河童の皿をられたんと、おんなじことさ」

 小藤次は、自分の言葉から、一人の名人を台なしにしたことに、責任を感じた。

「待ってろ、庄吉」

 小藤次が、行きかけると、若い者が、走り出した。

はやまっちゃならねえ」

 小藤次は、その後方へ、注意して、自分も走り出した。

 小太郎は、小半町余り、行っていたが、走り寄る足音に、振向くと、一人の男が、鋸を構えて

「待てっ、おいっ」

 その後方からも、得物をもった若い者が、走って来ていた。小太郎は、眼を険しくすると、一軒の家の軒下へ、たたっと、走り込んで、身構えした。

「あいつ――何んとか――」

 走りながら、小藤次が呟いて

「俺んとこの、家中の奴だ。何とかいった――軽輩だ」

 と、自分の横に走っている若者へいった。

「御存じの奴ですかい」

 そう答えながら若い者は、小太郎の前で、走りとまった。


「小藤次氏」

 岡田小藤次は、仙波小太郎の顔に見覚えのあるほか、姓も、身分も知らなかったが、小太郎は、お由羅の兄として、家中の、お笑い草として、大工上りの小藤次利武を、十分に知っていた。

 小藤次は、そういって微笑している小太郎の顔を睨みつけながら、走って来た息切れと、怒りとで、言葉が出なかった。ただ、心の中では

(何を、かしゃあがる)

 と、叫んでいた。小藤次にとって、士分になったのは、勿論、得意ではあったが、岡田利武という鹿爪しかつめらしさは、自分でも可笑おかしかった。そして、自分では、可笑しかったが、人から

「利武殿」

 とか

「小藤次氏」

 とか、呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞えて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から

「小藤次殿」

 などと、呼ばれると

「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」

 と、わざと、職人言葉になった。

 若い者が、じりじり得物を持って、威嚇おどしにかかるのを、手で止めて

手前てめえ、誰だ」

 と、小藤次は、十分の落ちつきを見せていった。

「仙波小太郎」

「役は?」

「無役」

「無役?」

 往来の人々が、職人の後方へ、群がってきた。小藤次は、近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、何んとか、うまく懲さなくてはならぬように思った。

 齢は、小藤次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三四寸も、高かった。蒼ざめた顔に、笑を浮べて、鯉口を切ったまま、小藤次の眼を、じっと、凝視めていたが

「御用か」

「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」

「如何にも――」

「如何にもって、一体、何うするんだ。人間にゃ、出来心って奴があるんだ。出来心って――つい、ふらふらっと、出来心だ。なあ。それに、手を折って済むけえ。納得の行くように、始末をつけてくれ、始末を――始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間の出来心ってのは、こんな日和ひよりには、ふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんて――」

「ふらふらっと、出来心じゃ」

 小藤次の顔が、さっと赤くなると

「何っ」

 と、叫んだ。職人が、じりっと、一足進み出た。

「出来心だ?――出来心で、人様の手を折って――じゃあ、手前、出来心で、殺されても文句は無えな。馬鹿にするねえ、この野郎、人の手を折っときゃあがって、出来心だ? 出来心が聞いて呆れらあ」

「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りゃ、元々だ」

 職人が、喚いて、得物を動かした。

「猫、鳶に、河童の屁」

 と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から覗き込んだ。

きな」

 と、人々の肩を押分けて、前へ出て来た。人々が、振向いて、男を見て、笑った。


「よう、先生っ」

 と、見物の一人が叫んだ。

南玉なんぎょく、しっかり」

「頼むぜっ」

 南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って

「今日は、若旦那」

 と、小藤次に、挨拶をした。小藤次は、振向いて、南玉の顔を見ると、一寸うなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。

「今日は」

 小太郎は

「やあ」

 と、答えた。桃牛舎南玉という講釈師で、町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満休之助のところへよく出入しているので、知っていた。

「喧嘩ですかい、ええ?」

 南玉が、こう聞いたのに返事もしないで、小藤次が

「おいっ、何うする気だ」

 群集が、どよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄吉が、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振向いて、庄吉の顔から、左手に光っている短刀へ、ちらっと、目をひらめかして

「若旦那っ、庄吉が――」

 庄吉は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて

「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」

 南玉が、両手を突き出して

「いけねえ」

 と、叫んだ。

「庄っ、待てっ」

 小藤次が、周章あわてて、庄吉の肩を押えた。

「待て、庄公」

 同じように、職人が、肩をもった。

「手前なんぞの、青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ面出しができねえや――若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だから――」

 庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。

「無理もない。大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなもんだからのう――小旦那、どうして又、手なんぞ、折りなすったのですい」

 南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。

「放せったら、こいつ」

 と、庄吉が叫んで、一人の職人へ、泣顔になりながら、怒鳴った。

「だって、お前、お役人でも来たら」

「来たっていいよ。放せったら――」

 庄吉は、口惜しさと、小太郎の冷静さに対する怒りから、涙を滲ませるまでに、興奮して来た。二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。

「放せっ――放してくれ、後生だっ」

 庄吉は、泣声で叫んだ。

「話は、俺がつける。庄吉」

 小藤次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。

「庄公、落ちついて――取乱しちゃ――」

「取乱す?――べらぼうめ――放せったら、こいつ、放さねえか」

 庄吉は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。

「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」

 小藤次が、こういった時、群集の後方から、大きい声で

「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」

 と、口早に叫んだものがあった。


 小太郎も、小藤次も、その声の方へ、眼をやった。群集の肩を、押けているのは、益満であった。

 小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉を無理矢理に押して行く職人の、後方を、益満へ足早に近づいて

「何時?」

 と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母は、離別しなければならないのであった。

「今し方」

「誰から聞いたか?」

 二人は、群集の、二人を見る顔の真中で、じっと、お互に、胸の中の判る眼を、見合せた。

「名越殿から――すぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」

 益満は、小藤次の顔を睨みつけた。小藤次は、乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助が死んだ、という言葉が、小藤次の心を喜ばした。

(妹が、喜ぶだろう)

 と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうの音も出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が

「下らぬ人足」

 と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。だが、二人が、群集の中を分けて行こうとするのへ

「何うするんだ」

 と、浴せかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄吉の方を顎で指して、何か云った。

「利武っ」

 と、益満が怒鳴った。

「大工のかみ利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分があれば、月番まで申して出い。掏摸の後押しをしたり、お妾の尻押しをしたり――それとも果し合うならな、束になってかかって参れ、材木を削るよりも、手答えがあるぞ」

 益満の毒舌は、小藤次の啖呵たんかよりも、上手であった。小藤次は士言葉で、巧妙な啖呵を切る益満に、驚嘆した。

(おれなんぞ、職人言葉なら、相当、べらべら喋るが、御座り奉る言葉じゃあ、用件も、満足に足せねえのに、掏摸の後押し、妾の尻押し、なんぞ――うまいことをいやあがる)

 と、思った。途端に

「ようよう」

 と、南玉が、叫んで、手をたたいた。

「何っ――もう一度、吠えてみろ」

 小藤次が、睨んだので、南玉は

「いえ――」

 周章てて、益満の方へ、走り寄った。益満は、もう群集の外へ出て、群集に、見送られながら、小太郎と、足早に歩きかけていた。

「あら、何奴なにやつで」

 と、職人が、小藤次に聞いた。

「あれが――益満って野郎だ。芋侍の中でも、名代のあばれ者で、二十人力って――」

「若い方も、強そうじゃ、ござんせんか」

「あいつか」

 二人が、湯屋の前を通り過ぎようとすると、暖簾のれんの中から、鮮かな女が、出て来て

「おや、休さん」

「富士春か」

「寄らんせんか」

 富士春は、びんを上げて、襟白粉だけであった。小太郎は、ちらっと見たまま、先へ歩いて行った。益満は、小太郎を追いながら

「急用があって」

 と、答えた。

「晩方に、是非――」

 と、富士春が、低く叫んで、流し目に益満を見た。


 小太郎は、自分の歩いていることも、益満のいることも、南玉が、ついて来ることも、忘れていた。

(父は、きっと、家中への手前として、自分の面目として、寛之助様が亡くなったとしたなら、母を離別するだろう。医者の手落であっても、御寿命であっても、又、噂の如く調伏であったにしても――そして、離別されて、母は、一体、どうするだろう?――母に何んの罪もないのに、ただ、家中へ自分の申し訳を立てるだけで、妻と別れ、子と引放し、一家中を悲嘆の中へ突き落して――それが、武士の道だろうか)

 南玉は、二人の背後から、流行唄の

君は、高根の白雲か

浮気心の、ちりぢりに

流れ行く手は、北南

昨日は東、今日は西

 と、唄っていた。益満が

「小太」

 小太郎が、振向くと、益満は、微笑して

「又とない機が来た」

 小太郎は、父母のことで、いっぱいだった。

「関ヶ原以来八十石が、未だ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥――薄のろであろうと、頓馬とんまであろうと、家柄がよく、門閥でさえあれば、吾々微禄者はその前で、土下座、頓首せにゃあならぬ。郷士の、紙漉かみすき武士の、土百姓のと、さげすまれておるが、器量の点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ。わしは、必ずしも、栄達を望まんが、そういう輩に十分の器量を見せてやりたい。器量を振ってみたい。それにはいいおりだ。又とない機だ。この調伏――陰謀が、何の程度か判らぬが、小さければ、わしは、わしの手で大きくしてもよいと思うし、真実でなければ、わしが、真実にしてもよいとさえ思うている。小太」

 益満は、小太郎の顔を見た。

「うむ」

「何を考えている」

「わしは――」

 小太郎は、益満の眼を見ながら

「父は、例の気質じゃで、今度の、お守りのことで、母を離別するにきまっている」

「或いは――然らん」

 益満が、うなずいた。

「大分、こみ入ってますな」

 南玉が、後方から、声をかけて

「智慧がお入りなれば、上は天文二十八宿より、下は色事四十八手にいたるまで、いとも、丁寧親切に御指南を――」

「うるさいっ。貴様、先へ行って待っていろ」

 益満が、振返って叱った。

「承知」

 南玉が、手を上げて、小太郎へ挨拶して、足早に、行ってしまった。

「わしに、一策がある。母上が、戻られたなら、知らせてくれ」

「一策とは?」

 益満は、声を低くして、小太郎に、何か囁いた。小太郎は、幾度もうなずいた。

「これが外れても、未だ他の手段てだてがある。所詮は、八郎太が一手柄立てさえすればよいのではないか――こういう機――一手柄や、二手柄――」

 益満は、怒っているような口調であった。三田屋敷の門が見えた。


 八郎太は、自分の丹精した庭の牡丹を眺めながら、腕組をしていた。

「只今」

 と、小太郎がいっても、振向きもしなかった。それは、もう、寛之助の死を知り、心ならずも、妻を離別しなくてはならぬ人の悲しい態度であった。

 母としての七瀬は、三人の子にとって、父八郎太よりも、親しみが多かった。そして、英姫の侍女としての七瀬は、その儕輩さいはいよりも群を抜いていた。八郎太の妻としては、或いは過ぎたくらいの賢夫人であった。それだけに、今度のことの責任は重かった。それだけに、八郎太としては、容赦の無い処分を妻に加えて、自分の正しさを家中へ、示さなくてはならなかった。

「寛之助様のことは――」

「聞いた」

 八郎太は、なお、牡丹を見たままであった。

「母上のことにつきまして――」

「お前は、文武にいそしんでおればよい」

 父は振向いた。

「髪が乱れて――何かしたの?」

「掏摸を懲らしてやりました」

「下らぬ真似をするのでない」

 八郎太は、これだけいうと、又庭の方へじっと眼をやった。小太郎には、父の苦しさ、悲しさが、十分にわかっていた。そして、母の苦しさ、悲しさもわかっていた。

(益満のいった手段を――)

 と、思った時、玄関で

「お母様」

 と、姉娘綱手の声――すぐ、つづいて妹深雪の、笑い声がした。八郎太は、眉一つ動かさなかった。小太郎は、すぐ起るにちがいのない、夫婦、母子の生別いきわかれの場面を想像して、心臓を、しめつけられるように痛ませた。

小手を、かざして

御陣原見れば

武蔵あぶみに、白手綱

鳥毛の御槍に、黒まとい

指物、素槍で、春霞

 益満の家から、益満の声で、益満の三味線で、朗らかな唄が聞えて来た。

お馬揃えに、花吹雪

桜にとめたか、繋ぎ馬

別れまいとの、印かや

ええ、それ

流れがいには、押太鼓

陣鐘たたいて、ときの声

さっても、殿御の武者振は

黄金の鍬形、白銀小実しろこざね――

 八郎太も、小太郎も、黙って、その唄を聞いていた。何をいっていいか、何を考えていいか、わからなかった。罪もなく、尽すべきことを尽して、そして、離別されに戻って来た妻の顔、母の顔が、今すぐに見えるのかと思うと、いらいらした怒りに似たものと、取りとめのない悲しいものとが、胸いっぱいになってきた。

 つつましい足音が聞えてきた。襖が開いた。小太郎は、母だと思ったが、顔を見るのさえ辛かった。振向いて、眼をらしながら

「お帰りなされませ」

 と、いった。

「只今――」

 そういった七瀬の声は、小太郎が考えていたよりも、晴々としていた。小太郎は、うれしかった。


(医者が、侍臣が十分に、手を尽しても、助からぬのだから、何も、妻の手落ちばかりというのではないが――重役の方々のお眼鏡にかなって、御乳母役に取立てられたのに、その若君がおなくなり遊ばされた以上は、のめのめ夫婦揃って、勤めに上ることもできん。妻の不行届を御重役に詫び、わしの心事を明らかにするためには、とにかく当分の離縁の外に方法がない。そのうちに、誰かが、仲へ入ってくれるであろうが――)

 八郎太は、その面目上から、立場から、妻の責任を、こうして負うより外になかった。振返って七瀬を見ると、七瀬は眼を赤くして、げっそりとやつれていた。眼の色も、かわいて、悪くなっていた。

 八郎太は、慰めてやりたかった。可哀そうだ、とも思った。こいつの性質として、十分に努力はしただろうと思った。だが、もし、寛之助様の病がよくなったのだとしたら、自分は、どんなに肩身が広く、出世ができるか? と思うと、何んだか、七瀬の背負っている運が、曲っているようで、不快でもあった。

 七瀬は、部屋の中へ入って、後ろ手に襖を閉めた。そして

「お詫びの申し上げようもござりません」

 両手をついて、頭を下げた。

「仕方がない」

 八郎太は、低く、短く、こういったきりであった。

「ただ一つ、不思議な事がござりまして、それを申し上げたく、取急いで、戻って参りました」

 小太郎は、ほっとした。何か、母が、証拠でも握ってくれたのであろう。それならば、それを手柄にして、円満に行けば――と、母の顔を見た。

「どういう?」

「一昨日の夜のことでございます。夢でもなく、うつつでもなく、凄い幻を見ましたが、これが、若君を脅かすらしく、幻が出ますと、急に――」

 八郎太の眼が、険しく、七瀬へ光った。

「たわけっ」

 八郎太は、睨みつけた。

「何を申す、世迷言よまいごとを――」

 その声の下から

御尤ごもっともでござります。お叱りは承知致しております。人様にも、誰にもいえぬ、奇怪な事がござりますゆえ、未だ、一言も申しませぬが、貴下あなたへ、せめて――」

「たわけたことを申すなっ」

 八郎太は、七瀬が夢のような事をいい出したので、怒りにふるえてきた。常は、こんなではないのに、余り大事の役目で、少しどうかしたのではないか、と思った。

「然し、父上――母様、もう少し詳しく、腑に落ちるようにお話しなされては」

 と、小太郎が取りなした。

「黙れ、そちの知ったことではない」

「然し」

「黙らぬか」

「はい」

 小太郎は立上った。益満を呼ぶより外にないと思った。そして、玄関の次の間に行って、妹の深雪に

「すぐ益満を呼んで――母が戻って来たからと」

 深雪の背を突くようにして、せき立てた。


「――形を、見極めもしませずに、話のできることではござりませぬが、確かに、この眼で見たにちがいござりませぬ。急に、御部屋の中が暗くなりまして――齢の頃なら四十余り、その面影が、牧仲太郎様に、似ておりましたが――」

「牧殿は三十七八じゃ」

 綱手が、小太郎の後方から入って来た。そして、いっぱいに涙をためた眼で、八郎太を見ながら、両手をついた。

「お父様」

 八郎太は、綱手に、見向きもしないで

「七瀬、かねて、申しつけておいた通り、勤め方の後始末を取急いで片付け、すぐ、国へ戻れ。許しのあるまで、二度と、この敷居を跨ぐな」

「はい」

「お父様」

 綱手は、泣声になった

「お母様に――お母様に――」

「お前の知ったことでない、あちらへ行っておいで」

「いいえ、わたしは――」

「それから、手廻りの品々は、船便で届けてやる。早々に退散して、人目にかからぬように致せ」

 罪のない妻を、こうして冷酷に扱うということが、武士の意地だと、八郎太には思えた。この恩愛の別離の悲嘆を、こらえることが、武士らしい態度だと、信じていた。

 又、妻をこう処分して、武士らしい節義を見せるほか、この泰平の折に、忠義らしい士の態度を示すことは、外になかった。こうすることだけが、唯一の忠義らしいことであった。

ざんば岬を

後にみて

袖をつらねて諸人の

泣いて別るる旅衣

 益満が、大きい声で、唄いながら、庭の生垣のところから、覗き込んだ。

「お帰りなさい」

 七瀬に、挨拶して、生垣を、押し分けて入って来た。そして、綱手の顔を見ると

「何を叱られた?」

 綱手は、袖の中へ、顔を入れた。

「若君、お亡くなりになったと申しますが、小父上――前々よりの御三人の御病症と申し、ただ事ではござりますまい」

「或いは――」

「七瀬殿を幸い、そのまま、奥の機密を、探っては?」

「七瀬は――離別じゃ」

 益満は、腕組をして、脣を尖らせた。

「離別」

「止むを得まい。仙波の家の面目として」

「面目が立てば?」

「立てば?」

それがしに、今夜一晩、この話を、おあずけ下さらんか。小太郎と談合の上にて、いささか考えていることがござる」

「何ういう?」

「それは――のう、小太。云わぬが、花で。小父上、若い者にお任せ下されませぬか」

 八郎太は、益満の才と、腕とを知っていた。

 齢を超越して、尊敬している益満であった。


「益満様」

 七瀬が、一膝すすんで

「只今も、叱られましたところで――怪力乱神を語らずと申しますが、不思議な事が、御病室でござりました」

 小太郎も、益満も、七瀬の顔を、じっと眺めた。

「五臓の疲れじゃ。らちもない」

 八郎太は呟いた。

「何うした事が?」

「幻のような人影が、和子様へ飛びかかろうとして、それが現れると、和子様はお泣き立てになりましたが、それが、どうも、牧様に――ただ齢が、五つ、六つもふけて見えましたが――」

 益満は、うなずいた。小太郎は、益満の眼を凝視していた。その小太郎の眼へ、益満は

(そうだろうがな)

 と、語った。

「聞き及びますと――」

 益満は、膝の上に両手を張って、肩を怒らせながら、八郎太から七瀬を見廻して

「当家秘伝の調伏法にて、人命を縮める節は、その行者、修法者は一人につき、二年ずつ己の命をちぢめると、聞いております。その幻が、牧仲太郎殿に似て、四十ぐらいとあれば――牧殿は――」

 益満が指を繰った。八郎太が

「牧殿は、七八であろう」

 益満は、腕を組んで俯向いていたが

「牧殿は、お由羅風情の女に、動かされる仁ではござるまい――小父上」

「うむ」

「さすれば――」

 そういって、益満は、黙ってしまった。一座の人も俯向いたり、膝を見たりして、黙っていた。

「斉興公が」

 小太郎が、当主の名を口へ出すと共に、八郎太が

「小太っ」

 と、睨みつけて、叱った。益満は、うなずいた。

みだりに、口にすべき御名ではない。慎め」

「はい」

「次に、調所笑左衛門――これが、右の腕でござろう。そして、牧は、調笑に惚れ込んで、己の倅を大阪の邸にあずけておるが、国許は知らず、江戸の重役、その他、重な人々は、恐らく、斉彬公を喜んではおりますまい――のう、小父上」

「そう」

「悉く、斉彬公のなさる事へ反対らしい。第一に、軽輩を御引立てになるのが、気に入らぬ。この間も、御目通りをして、『三兵答古知幾さんぺいとうこちき』を拝借して退って来ると、御座敷番の貴島太郎兵衛が、何を持っているか――突きつけてやると、又、重豪公の二の舞を、何故、貴公達諫めんかと、こうじゃ」

「斉彬公を外国方にしようとする幕府の方針を、彼奴らは、木曾川治水で、金を費わされたのと同じに見ている、調所さえ、そうじゃものなあ」

 小太郎は、顔を、心もち赤くして、静かにいった。


「とうとうとうと、御陣原へ出まして、小手をかざして眺めますと、いやあ――押しも寄せたり、寄せも、押したり、よせと云っても、押してくる武蔵鐙に、白手綱、その勢、凡そ二百万騎、百万騎なら一繰りだが、槍繰りしても、八十石、益満休之助の貧棒だ。こう太くなっては、振り廻せぬ――」

 一人ぼっちになった南玉は、薄暗くなってくる部屋の中で、大声で、怒鳴り立てていた。綱手が

「南玉さん?」

 と、益満を見て、微笑むと、深雪は、袖を口へ当てて、笑いこけた。

「はははは、この盆が越せるやら、越せぬやら」

 益満は、笑って

「時に、七瀬殿、某と、小太とのほかりごとが、うまく行く、行かぬにせよ、大阪表へ行って、調所を探る気はござりませぬか」

「さあ、話に――よっては――」

 七瀬は、八郎太の顔を見た。八郎太は、黙って、庭の方を眺めていた。廊下へ、灯影がさして、女中が、燭台を持って来た。深雪が振袖をひるがえして、取りに立った。

「のう、綱手殿」

「ええ?」

 綱手は、周章てて、少し、耳朶みみたぶを赤くしながら、ちらっと、益満を見て、すぐに眼を伏せた。

「母上と同行して、大役を一つ買われぬかのう」

「大役? どういう?」

「操を捨てる――」

 益満は、強い口調で云った。綱手は、真赤になった。七瀬が

「それは?」

「場合によって、調所の妾ともなる。又、時によって、牧の倅とも通じる」

「益満――」

 と、八郎太が、眉を歪めた。益満は、平気であった。

「夫の為に、捨てるものなら、家の為に捨てても宜しい。操などと、たわいもない、七十になって、未通女おぼこだと申したなら、よく守って来たと称められるより、小野の小町だと、わらわれよう。棄つべき時に棄つ、操を破って、操を保つ――」

「然し、益満さま、あんまりな――」

 七瀬が、やさしく云った。

「いいや、女が、男を対手に戦って勝つに、その外の何がござる。某なら、そういう女子こそ、好んで嫁に欲しい」

「はははは、益満らしいことを申す。それも一理」

 八郎太が、微笑して頷いた。綱手も、深雪も、俯向いていた。

「そろそろ暗うなってきた。小太、小者にならぬと、咎められると思うが、その用意をして、例の――師匠のところへ来ぬか」

「心得た」

 益満が、立上った。

「猫、鳶に、河童の屁とは行かない蚊だ――益満さん、油はござんせんか。あっしゃ、夜になると、眼が見えない病でねえ」

 南玉が、廊下へ立って叫んでいるらしかった。

「今、戻る」

 益満は、庭へ出た。

「闇だの、小太」

 と、振向いて、すぐ、歩いて行った。



泥人形

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 常磐津富士春は、常磐津のほか、流行唄も教えていた。

 襖を開けた次の間で、若い衆が、三人、膝を正して

錦の金襴、唐草模様

お馬は栗毛で、金の鞍

さっても、見事な若衆振り

「そう――それ、紫手綱で」

 富士春は、少し崩れて、紅いものの見える膝へ三味線を乗せて、合の手になると、称めたり、戯談じょうだんをいったりして、調子のいい稽古をしていた。

 表の間の格子のところで、四人の若い衆が、時々富士春を眺めたり、格子の外に立っている人を、すかして見たりしながら、四方山よもやま話をしていた。

「その毛唐人がさ、腰をかけるってのは、膝が曲らねえからだよ。膝さえ曲りゃあ、ちゃんと、畳の上へ坐らあね」

 南玉が、表の格子をあけて、提灯の下から

「今晩は――益満さんは?」

「まだ見えていないよ」

「そうかい、もう見えるだろうが、見えたら、これを渡して」

 と、風呂敷包を置いて、出かけようとする後姿へ

「先生、一寸一寸」

「何か用かの」

「毛唐の眼玉の蒼いのは、夜眼が見えるからだって、本当かい?」

話説わせつす。目の当り、奇々怪々な事がありやした」

「又、諸葛孔明が、とんぼ切りの槍を持ってあばれたかの」

怎生そもさん、これを何んぞといえば、呼遠筒と称して、百里の風景を掌にさすことができる、遠眼鏡の短いようなものでの。つまり、毛唐人の眼は夜見える代りに、遠見が利かん。一町先も見えんというので発明したのが、覗眼鏡に、呼遠筒、詳しくは、寄席へ来て、きかっし」

 南玉が出て行くと

「八文も払って、誰が、手前の講釈なんぞ聞くか」

 富士春の稽古部屋では、時々、小さい女が出入して、蝋燭の心を切った。

「この流行唄は、滅法気に入ったのう。俺の宗旨は、代々山王様宗だが、死んだら一つ、今の合の手で

お馬は栗毛で

金の鞍

ってんだ」

 富士春が、媚びた眼と、笑いとを向けて

「お静かに」

 と、いった。

「東西東西。お静かお静か。それで、その馬へ、綺麗な姐御を乗せての、馬の廻りは、万燈を立てらあ。棺桶の前では、この吉公が、ひょっとこ踊りをしながら、練り歩くんだ。手前の面が、一生に一度、晴れ立つんだ。たのむぜ」

「よし、心得た。友達のよしみに、今殺してやる。手前殺すに刃物はいらぬ、にっこり笑って眼で殺す」

「ぶるぶるっ、今の眼は、笑ったのか、泣いたのか」

 稽古場から

うるさい」

 と、一人が怒鳴った時、誰か表から入って来た。


「よう」

 と、一人が、のびやかに迎えて、会釈をした。

「今日は、少いのう」

 益満は、刀をとって、部屋の隅へ置いた。富士春が、軽く、挨拶をした。

「病人の見舞で」

「誰か、病気か」

「寅んとこの隣りの大工が、人にからかって手首を折りましてな」

「庄吉という男か」

「御存じですかい」

「わしの朋輩が折ったのだ。あいつは、掏摸でないか」

「ええ、時々やります。しかし根が、真直ぐな男で、悪い事って、微塵もしませんや」

「悪い事をせぬて。掏摸でないか」

「だって、掏摸と、泥棒たあちげえますぜ。庄吉なんざ、あっさりした、気のいい男ですぜ。あいつの手を折るなんざ、可哀そうだ」

「全く」

 稽古部屋の人々が出て来た。富士春は、小女の出す湯呑を一口飲んで

「休さん、南玉先生から、さっき、御土産が――」

「そうそう」

 と、一人が風呂敷包を渡した。益満が、開けると

「何んだ。薄汚い」

 一人が、こういって、益満の顔を見た。

「山猫を買いに行くのには、これに限る」

 富士春が

「悪い病だねえ」

「師匠の病気と、いずれ劣らぬ」

 と、いいながら、益満は、袴をぬいで

「小道具を、一つあずかって置いてもらいたい。猫は買いたし、御門はきびし」

 益満は、そういいながら、部屋の隅で、汚い小者姿になって、脇差だけを差した。そして、両手をひろげて

「三両十人扶持、似合うであろうがな」

 と、笑った。

 富士春は、次の稽古の人々へ、三味線を合して

「主の姿は、初鮎か、青葉がくれに透いた肌、小意気な味の握り鮨と。さあ、ぬしいの」

 と、唄いかけた時

「頼もう」

 と、低いが、強い声がした。そんな四角張った案内は久しく聞いたことがなかった。御倹約令以来、侍は土蔵の中へ入って三味線を弾くくらいで、益満一人のほか、ぴたりと、稽古をしに来なくなったし――富士春は、唄をやめて、不安そうな眼をした。

(役人が、又何か、うるさいことを)

 と、思った。

「入れ」

 益満が、答えた。格子が開いたので、富士春も人々も、大提灯のほの暗い蔭の下に立った人を眺めた。

(あいつだ)

 と、人々の中の二人――昼間の喧嘩を見ていた人は思い出した。富士春は

(まあ、いい男――休さんの朋輩には、めずらしい――)

 と、じっと、小太郎の顔を眺めていた。


 益満と小太郎とは、小者風であった。脇差を一本、提灯を一つ――芝中門前町を出て、増上寺の塀の闇の中を、御成門の方へ、歩いて行った。

「多少、聞いてはいるが、忍術の忍は、忍ぶでなく、忍耐の忍だ。『正忍記しょうにんき』など、ただ、この忍耐だけを説いている」

「奴さん、遊んで行かっし」

 闇の中から、女の声がした。

「急ぎの御用だ。戻りに、ゆっくり寄らあ」

 小太郎が

「何者だ」

「これが、夜鷹じゃ」

 ほの白く、顔が浮いて

「いい男だよ。ちょいと――」

 小太郎は、袖を握られて、振払いざま

「無礼なっ」

 女は、高い声で

「あっ、痛っ」

 と、叫んで、すぐ

「いい男振るない。泥棒、かったい、唐変木」

 と、浴せた。寺の塀の尽きるところまで、女達が、近くから、遠くから声をかけた。小太郎は、気まり悪さと、怒りとで、黙って急いだ。益満は、時々受け答えしながら

「諸事節約になってから、だんだんふえてきた」

 と、独り言をいっていた。御成門から、植村出羽の邸に沿って曲り、土橋へ出ないで、あたらばしの方へ進んだ。

 斉彬は、多忙だったので、三田の藩邸にいずに、幸橋御門内の邸――元の華族会館――に起臥していたので、寛之助も、そこにおったのであった。

 大きい門の闇の中に立って、高い窓へ

「夜中、はばかり様、将曹様へ急用」

 と、益満が叫んだ。

門鑑もんかん

 益満が、門鑑を突き出して、提灯を、その上へもって行った。窓のところへも、提灯が出て、門鑑を調べた。門番は、門鑑を改めただけで、二人の顔は改めなかった。改めようにも、灯がとどかなかった。二人が、小門にたたずんでいると、足音と、錠の音とがして、くぐりが開いた。

「御苦労に存じます」

「有難う、ござります」

 二人は、御辞儀をしつづけて、急ぎ足に、曲ってしまった。

 益満は、提灯を吹き消した。そして、木の枝へ引っかけた。二人は、手さぐりに――様子のわかっている邸の内を心に描きながら

(ここを曲って)

(この辺から、植込み)

 と、中居間の方へ近づいて行った。益満は草を踏むと

「這って」

 と、囁いた。庭へ入ってからは、歩くよりも、這った方が、危険が少かった。二人は立木を避け、植込みを廻り、飛び石を撫で、一尺ごとに、手をのばして、手に触れるものを調べながら、御居間の方へ近づいた。灯の影もなく、人声もなく、ただ、真暗闇の世界であった。


「山一のことが――思い出される」

 益満が囁いた。小太郎は、床下へ入った時に、そのことを思い出していた。

 山一とは、山田一郎右衛門のことであった。高野山に納めてあった島津家久の木像を、高野山の僧侶が床下へ隠して、紛失したと称した事件があった。島津家が、窮乏の極の時、祠堂しどう金を与えなかったから僧侶が意地の悪い事をしたのである。それを、肥料こえ汲みにまでなって、床下から探し出したのが山田一郎右衛門であった。そして、それだけの功でも、相当であったのに、その褒美を与えようとしたのに際し、山田は

「褒美の代りにを禁じてもらいたい」

 と、いった。減し児とは、子供が殖えると困るから、生れるとすぐ殺す習慣をいった言葉である。山田のこの建議によって、幾人、幾十人の英傑が、救われたか知れなかった。益満の如き小身者は、当然、減らされた一人かも知れなかったし、小太郎の後進の下級の若い人々は、大抵減され残しが多かった。だから床下へ入って、しめっぽい土の香を嗅ぐと、すぐ、山田の功績を思い出して

(首尾よく行ったら、自分の手柄も、山田に劣らない)

 と、考えた。

 床下の土は、じめじめしていて、異臭が鼻を突いた。七八間も、這って来た時、益満は静かに、燧石ひうちいしを打って、紙燭に火を点じた。紙撚りに油をしましたもので、一本だと五寸四方ぐらいが、おぼろげに見えた。それで足りないと二本つけ、三本に増す忍び道具の一つであった。

 二人は、微かな光の下の土を、克明に調べかけた。もし、調伏の人形を、埋めたとすれば、土に掘った跡がなくてはならなかった。二人は、一本の柱を中心にして、残すところのないように這い廻った。

 微かに足音がしても、這うのを止めた。紙燭の灯の洩れぬよう二人の袖で、火を囲んだ。一寸、二寸ずつ少しの物音も立てぬように這った。

 小太郎が、益満の袖を引いて、その眼と合うと、前の方を指さした。益満が、うなずいて、大きく足を延して、一気に近づいた。土が盛上って、乱れていた。二人は、向き合って、片手で、灯をかばいながら、片手で土を掘った。十分に叩かれていないらしい土は、指で楽々と掘り返せた。

 二人の眼は、嬉しさに、微笑していた。小太郎が

「それに、ちがいあるまい」

 と、低くいうと

「箱らしい」

 益満は、両手で土を掻いた。白い箱が、土まみれになって、だんだん形を現してきた。二人が、両手をかけてゆすぶると、箱は、すぐ軽くなった。一尺に五寸ぐらいの白木で、厳重に釘づけにされていた。

「開けて」

 と、小太郎が、益満を見ると

「開けんでも、わかっとる」

 益満は、土を払って、箱の上の文字を見た。梵字ぼんじが書いてあって、二人にはわからなかったが、梵字だけで十分であった。


(余り、うまく行きすぎた)

 と、二人とも思っていた。門の外へ出るまで

(何か、不意に事が起りはしないだろうか)

 と、忍び込む前とちがった不安が、二人の襟を、何かが今にも引捕えはしないだろうかと、追っかけられているような気がした。門を出て、植村出羽の邸角まで来ると

「やれやれ」

 益満が、笑い声でいった。幸橋御門を出ると、もう、往来にうろついているのは、野犬と、夜泣きうどんと、火の用心とだけであった。それから、灯が街へさしているのは、安女買いに行った戻り客を待っている燗酒屋だけであった。

 小太郎は、袖に包んだ箱の中を想像しながら

(これで両親も、別れなくて済むし、自分の手柄は、父のためにも、自分のためにも――それよりも、斉彬公が、どんなに喜ばれるであろう)

 と、頭の中も、胸の中も、身体中が、明るくなって来た。

「小太、先へ戻って、早く喜ばすがよい。わしは、さっきのところへ寄って、刀を取って行くから――」

 小太郎が、答えない前に、益満は、駈け出していた。

「なるべく早く――」

 その後姿へ、小太郎が叫んだ。

「猫、鳶に、河童の屁、というやつだ」

 益満は、大きな声で、独り言をいいながら、富士春の表へ立つと、もう提灯は消えていた。だが、まだ眠っている時刻ではなかった。

「師匠」

 益満が、戸を叩いた途端、増上寺の鐘が鳴り出した。

誰方どなた?」

「ま、だ」

「ま?」

「まの字に、ぬの字に、けの字だ」

 益満は、大きい声を出すと

「やな、益さん」

 小女が、戸を開けて

「お楽しみ」

 と、からかった。

「師匠の方は?」

 襖の内に、二三人、未だ宵の男が残っていた。

「首尾は如何?」

 一人が、声をかけた。半分開いた襖の中に、酒が、さかなが並んでいた。

「お帰んなさい。丁度よいところ」

 富士春が、顔を少し赤くして、裾を崩していた。益満は、暗い次の間に立っていた。

「へへへ、だんだんよくなるところで、ええ、お出でなさいまし」

 一人は酔っ払って、両手をついた。

「刀は?」

「刀?――刀なんぞ野暮でげしょう。野暮な邸の大小捨ててさ――中でも、薩摩の芋侍は野暮のかたまりで、こいつにかかっちゃ、流石の師匠も? 歯が立たねえって――へへへ、御免なせえ」

 益満が、富士春の持って来た刀を取ろうとすると、女は、手の上へ手をかけて

「ゆっくりしたら」

 と、媚びた眼で見上げた。

「そうは勤まらぬ」

 富士春は、益満の手を、力任せにつねった。


 小太郎は、嬉しさで、いっぱいだった。何処を歩いているかさえ判らなかった。

(陰謀が、自分の手で暴露されたなら、斉彬公は、何んなに喜ばれるだろうか? あの柔和な眼で、あの静かな口調で、何を仰しゃるだろう?――そして、父は、恐らく、自分が手柄を立てたよりも、喜ぶであろうし、母は、父よりも嬉しがって、きっと、涙をためるにちがいない。二人の妹は――)

 小太郎は、次々に、いろいろのことを空想しながら、木箱を、小脇に抱えて、小走りに、夜の街を急いだ。ふっと

(然し、箱の中に、何も証拠品が入ってなかったら?)

 と、不安になったりしたが、ことこと中で音がしているし、病室の床下にあったのだし、疑う余地はなかった。

 将監しょうげん橋を渡ると、右が、戸田采女うねめ、左が遠山美濃守の邸で、その右に、藩邸が、黒々と静まり返っていた。八時に、大門を閉して、通行禁止になるのが、一般武家邸の風であったから、悪所通いをする若者などは、塀を乗越えて出入した。益満など、その大将株であった。

 小太郎は、その塀越しの出入口と決まっている切石の立ったところから、攀じ登って、邸の中へ入った。長屋の入口で、ことこと戸を叩くと、すぐ、足音がした。

(未だ、寝ないで、自分の帰りを待っているのだ)

 と、思うと、頭の中で

(証拠品を持って帰りました。今すぐに御覧に入れます)

 と、叫んだ。

「兄様?」

 次の娘、深雪の声が聞えた。小太郎は、戸を一つ叩いた。

「只今――」

 二人の足音がした。かんぬきが外れた。戸が引かれた。上の姉の綱手が上り口に立って、手燭をかざしていた。深雪が

「首尾は?」

 低い、早口であった。

「上々」

 深雪は、小兎のように上り口へ、走り上って

「姉様、上々」

 綱手が、微笑んで、廊下を先へ立った。

「お父様は、おやすみだけれども、お母さんは、未だ」

 深雪が、小太郎の後方から、口早に囁いた。薄く灯のさしている障子のところで、綱手は手燭を吹き消して

「お母様、お兄様が、上々の首尾で、ござりますって」

 いい終らぬうちに、小太郎が、部屋の中へ入った。七瀬は、小太郎の膝を見て

「ひどい泥が――」

 と、眉をひそめた。二人の妹が

「ああ、あっ、袖も――ここも――」

 深雪が立って、何か取りに行った。

「その箱は?」

 七瀬が、眼を向けた。

「若君の御病間の床下にござりました。調伏の証拠品」

 両手で、母の前へ置いた。

「お父様に、申し上げて来や」

 綱手は、裾を踏んでよろめきながら、次の部屋の襖を開けた。


 八郎太は、むずかしい顔をしながら、じっと、箱を眺めていた。

「小柄」

 七瀬が、刀懸から刀を取って、小柄を抜いた。八郎太は、箱の隙目へ小柄を挿し込んで、静かに力を入れた。四人は呼吸をつめて、じっと眺めた。ぎいっと、箱がきしると、胸がどきんとした。

(調伏の人形でなかったら?――)

 小太郎は、わきの下に、汗が出てきた。顔が、逆上のぼせて来るようであった。釘づけの蓋が、少し開くと、八郎太は、小柄を逆にして、力を込めた。ぐぎっ、と音立てて、半分余り口が開いた。

 白布に包まれた物が出て来た。八郎太は、静かに布をとった。五寸余りの素焼の泥人形――鼻の形、脣の形、それから、白い、大きい眼が、薄気味悪く剥き出していて、頭髪さえ描いてない、素地そじそのままの、泥人形であった。

 人形の額に、梵字が書いてあって、胸と、腹と、脚と、手とに、朱で点を打ってあった。背の方を返すと、八郎太が

「ふむ――成る程」

 と、うなずいて

「相違ない」

 四人が、のぞき込むと、一行に、島津寛之助、行年四歳と書かれてあって、その周囲に、細かい梵字がすっかり寛之助を取巻いていた。

 人形は、白い――というよりも、灰色がかった肌をして、眼を大きく、白く剥いて、丁度、寛之助の死体のように、かたく、大の字形をしていた。七瀬は、それを見ると、胸いっぱいになってきた。小太郎は、八郎太が、一言も、自分の手柄を称めぬので、物足りなかった。

「父上、如何で、ござりましょう」

 八郎太は、小太郎の眼を、じっと見つめて

「他言する事ならぬぞ」

 七瀬が

「まあ、よかった。よく、見つかったねえ、床下といっても、広いのに――」

「お兄様――蜘蛛の巣が――」

 深雪が、小太郎の頭から糸をつまみ上げた。八郎太は、人形をもとのように包んで、膝の上へ置いて、何か考えていた。

「これで、母も安心できました。ほんとに、大手柄――」

 そういう七瀬の顔を、睨みつけて

「支度」

「お出まし? この夜中に」

 七瀬が、恐る恐る聞くと

「名越殿へ参る」

 七瀬が立上った。綱手も、深雪も、折角の小太郎の手柄を、一言も称めもしない父へ不満であったが、小太郎は、父の厳格な気質から見て、口へ出しては称めないが、肚の中では、よく判っているのだと思った。だが、何んだか物足りなかった。

 七瀬は、次の間の箪笥たんすを、ことこと音させていたが

「お支度が出来まして、ござります」

 八郎太は、箱を置いて

「元のように入れておけ」

 と、小太郎へやさしくいって立上った。



第一の蹉跌

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 丸木のままの柱、蜘蛛の巣のかかった、煤まみれの低い天井、あかっ茶けた襖――そういう一部屋が、崖に臨んだところに、奥座敷として、建てられてあった。その大きい切窓から、向うの峰、下の谷が眺められて、いい景色であったが、仁十郎が、疲労によろめいて、どかりと腰を降ろすと、座敷中がゆらめいたくらいにあやうくもあった。

 茶店の爺が、早朝からの客を、奥へ通して、軒下に立てかけてある腰掛を並べて、店ごしらえをしていた。婆は、土間の、真暗な中で、竈の下を吹きながら、皺だらけの顔だけを、焔のあかりに浮き上らせていた。

「霧島、韓国からくに、栗野――」

 玄白斎は、眼を閉じて、髯をしごきながら、呟いた。仁十郎が

「間根ヶ平で、七ヶ所――牧殿のお力なら、調伏は、成就じょうじゅ致しましょうな」

 玄白斎は、暫くしてから

「是非も無い」

 それも、元気の無い、低い声であった。

「婆あ――かゆは未だ出来んか」

 市助が、土間へ、声をかけた。

「はい、只今、すぐ、煮えますから――」

 三人が、牧を追って、牧の修法している山々を調べてから、もう二十日近くなっていた。日数の経った修法の跡から、だんだん、追いつめて、昨日、修法をした跡だと、判断できたのが、栗野山の頂上であった。玄白斎は、それを見て

「間根ヶ平が、最後の修法場であろうが、今から、この疲れた脚で、行けようとも思えぬ。この上は、牧が、国外に出てまで、修法するか、それとも、御城下へ戻るか――間根での修法が、明日の四つ刻にすむとすれば、久七峠へ出て、牧が通るか、通らぬかを待とう。もし、通らぬ時は、城下へ戻ったもの、通るとしたなら、話によっては、そのままには差し置かぬ」

 と、いった。和田仁十郎、高木市助の二人は、老師の、たどたどしい脚を、左右から支えながら、夜を徹して、栗野から、大口へ、大口から、淋しい街道を久七峠へ登って来たのであった。

 久七峠には、島津の小さい番所が置いてあった。その番所から、少し降ったところに、この茶店があった。

「牧殿の返答によっては――」

 仁十郎は、こういって

(斬っても、よろしいか)

 と、つづけたいのを止めた。玄白斎は、牧を追跡し、口でも、よくはいっていないが、秘蔵弟子として、師よりも優れた兵道家として、子の無い老人にとっては、子よりも可愛い仲太郎であった。仁十郎には、よくそれが判っていた。

「そう――返答によっては――捨て置けんかも知れぬ」

 玄白斎は、仮令たとい、斉興の命なりとも、臣として、幼君を呪う罪は、兵道家として許しておけぬと、頑強に考えてはいたが、そのために自分の手で、牧を殺す、という気にはなれなかった。牧がうまく自分を説き伏せ、家中の人々を感心させてくれたら――玄白斎は、自分の老いたことを感じたり、心弱さを感じたり、兵道家の立場の辛さを感じたりしながら

「疲れた――疲れたのう」

 と、眼を閉じたまま、額を、握り拳で叩いた。


「爺っ」

 一人の侍が、軒下から、大声に呼んだ。

「今、十二三人、見えるから、支度せえ」

「はいっ」

 爺が、周章てて、走り出ると、侍はすぐ、番所の方へ登って行った。

「先生――牧の一行でござりましょうか」

 玄白斎は、俯向いて、眼を閉じていた。

「うむ」

「十二三人とは、人数が少し、多すぎまするが――」

「多くない」

「はい」

 市助が立って、暗い台所で、何か水にひたしていた。そして、持って来た。

「和田」

 と、云った。水に漬けた真綿であった。仁十郎は、手拭に包んで、いつでも鉢巻にできるよう、折り畳んだ。二人は、乱闘の準備をした。

「さあ、出来ました。お待ちどおさまで」

 婆が、こういって、大儀そうに、上り口から、土鍋を運んで来た時、しとしと土を踏んで近づく音と、話声とが聞えて来た。

 和田と、高木とが、眼を見合せてから、玄白斎を見ると、前のまま、俯向いて、眼を閉じたきりであった。爺が、表へ出て、下を眺めて、すぐ入って来た。そして

「婆、ござらしたぞ」

 と、云った。

「先生、芋粥が――」

 玄白斎は、頷いた。そして、眼を開いて、身体を起して

「わしには判らん――」

 と、呟いた。

「何が?」

「いや、食べるがよい」

 三人が、茶碗へ手をかけると、表が、騒がしくなった。

 馬上の士が一人、駕が一梃いっちょう、人々は、悉く脚絆掛けで、長い刀を差していた。茶店の前で立止まって、すぐ腰かけて、脚を叩いた。

「疲れた」

 と、一人は、股を拡げて、俯向いた。

「爺、食べる物があるか」

「芋粥なら丁度出来ておりますが、あのお髯の御武家衆は貴下方のお連れではござりませぬか」

「お髯の――幾人?」

「御三人」

 侍は、首を延して、奥を覗いたが、襖で何も見えなかった。士は、土間から出て、軒下の腰掛にかけている一人に

「斎木」

「うむ」

「玄白斎が、参っておるらしい」

 低い声であったが、こう云うと同時に、人々は、動揺した。

「玄白斎が――」

 と、一人が怒鳴った。馬上の士が、馬から降り立って、土間へ入って来て、三人の草鞋わらじを見ると

「これは?」

 と、爺の顔を、咎めるように、鋭く見た。

「はいはい、これは、奥にいられます、三人の、お侍衆の――」

「三人の?」

「御一人は、御立派な、こんな――」

 爺は、髯を引張る真似をした。


 家老、島津豊後の抱え、小野派一刀流の使手、山内重作が

「斬るか」

 と、大きい声をした。斎木と、貴島が

っ」

 眼で押えて、頭を振った。重作は、二人を、じろっと見て、土間へ入って、突っ立った。

 馬から降りた侍は、豊後の用人、飽津あくつ平八で、七日、七ヶ所の調伏を終り、大阪蔵屋敷へ、調所笑左衛門を訪いに行く、牧仲太郎を、国境まで、保護して来たのであった。

 玄白斎が、自分一人で、牧を追うのとちがって、牧を保護するためには、家老も、目付もついていた。烏帽子岳から、牧の足跡を追って城下へ入り、高木市助をつれて、大箆柄おおえがら山へ向ったとき、もう目付の手から、牧へ、玄白斎の行動は、報告されていた。豊後は、手紙で

「玄白斎が、修法の妨げになるなら、何うでも、処分するが――」

 と、さえいった。だが、牧は

「老師を罰するが如き邪念を挟んでは、兵道の秘呪は、成就致しませぬ」

 と、答えた。然し、玄白斎が、牧を追いかけていると知っている人々は、牧の、厳粛な、自分を棄てて、主家のために祈っている、凄惨な様を見ると、それを邪魔する玄白斎が憎くなってきた。

 奥の間に、人影が動いたので、人々が一斉に見た。だが、それは、婆が立つ姿であった。が、すぐ婆の後方に――白い髯が、玄白斎が、独りで、ずかずかと出て来た。土間に立っている山内が、睨みつけているのを、平然と、横にして、狭い表の間――駄菓子だの、果物だの、草鞋、付木、燧石、そんなものを、埃と一緒に積み上げてあるところへ来て、立ったまま

「貴島、斎木」

 と、呼んだ。

「老先生、御壮健に拝します」

 二人は、御叩頭をした。

「牧は?」

「はい」

 飽津が、玄白斎の前へ行った。

「加治木老先生、拙者は、島津豊後、用人、飽津平八と申します。牧殿は、大任を仰せつけられて、連日の修法を遊ばされ、只今御疲労にて、よく、御眠おやすみ中でござります。御用の趣き、某代って、承わりましょうが、御用向きは?」

「いや、御丁寧な御挨拶にて、痛み入る。余人には語れぬ用向きでのう」

「ははあ」

 飽津が、何かつづけようとした瞬間、玄白斎が

「牧っ、出いっ」

 と、大声で、呼んだ。

「玄白じゃっ」

 土間の、山内が、刀へ手をかけて、つかつかと、近づいた。斎木が、眼と、手とで押えて

「老先生っ」

 と、叫んだ時、駕の中から

「先生」

 低い、元気の無い、皺枯しわがれた声がして、駕の垂れが、微かに動いた。


 貴島が駕へ口をつけて

「垂れを、上げますか」

 と、聞いた。

「出してもらいたい」

「然し――」

 垂れが、ふくらんで、細い手が、その横から出た。人々が周章てて手を出して、集まった。飽津が

「牧氏、その御身体で――」

 と、いった時、牧は、痩せた脚を、地につけて、垂れの下から、頭を出していた。駕につかまり、人々の手にささえられながら、斎木と、貴島に、左右から抱えられて、牧は駕から立上った。

 玄白斎は、牧の顔を、じっと、睨んでいた。三月余り前に、一寸見たきりで逢わない彼であったが――何んという顔であろう。それは、身体の病に、痩せた牧でなく、心の苦しみに、悩みに、肉を削った人の面影であった。力と、光の無くなるべき眼は、却って、凄い、怪しい力と、光に輝いていた。灰土色に変るべき肌は、澄んだ蒼白色になって、病的な、智力を示しているようであったし、眉と眉との間に刻んだ深い立皺は、思慮と、判断と――頬骨は、決心と、果断とを――その乱れた髪は、諸天への祈願に、幾度か、逆立ったもののように薄気味悪くさえ、感じられるものだった。

 骨立った手で、駕を掴みながら、よろめき出たのを見ると、玄白斎は、憎さよりも、不憫ふびんさが、胸を圧した。

(よく、こんなになるまでやった。お前ならこそ、ここまで、一心籠めてやれるのだ)

 唯一人の、優れた愛弟子に対して、玄白斎は、暫くの間

(死んではいけないぞ。お前が、死んでは、この秘法を継ぐものがない)

 と、思って、痛ましい姿を、ただ、じっと眺めていた。

 牧は、俯向いて、よろよろとしながら、腰掛のところまで行くと、左右へ

「よろしい」

 と、低く、やさしくいった。

「大丈夫でござりますか」

 牧は頷いた。そして、腰掛へ、両手をついて、玄白斎に叩頭をした。

「御心痛の程――」

 これだけいうと、苦しそうに、肩で、大きい呼吸をした。

「某――今度のこと――先ず以て、先生に、談合申し上げん所存にはござりましたが――さる方より――火急に、火急に、との仰せ、心ならずも、そのまま打立ちましたる儀、深く御詫び申しまする」

 牧は、丁寧に、頭を下げた。

「ちと、聞いたことがあってのう」

 玄白斎は、やさしくいって、髯を撫でた。

「はい、何んなりとも」

「奥へ参らぬか」

 飽津が

「牧殿、ちと、御急ぎゆえ――」

「手間はとらせぬ」

「いや、然し――」

 牧が、頭を上げて

「斎木、奥まで、頼む」

 腰掛に手をついて、立上ると、よろめいた。貴島が

「危い」

 と、呟いて、支えた。


「おお、和田も、高木も――」

 牧は、奥の部屋の中の二人を、ちらっと見ると、すぐ微笑して声をかけた。二人は、一寸、狼狽して、軽く、頭を下げた。

「御苦労をかけた」

 斎木と、貴島が、牧を案じて、部屋に近い上り口に待っているのへ、こういって、手を振って、あっちへ行けと、命じた。そして、膝へ手を当てて、大儀そうに坐った。暫く、四人は、そのままで黙っていたが

「烏帽子で、護摩壇の跡を見た」

 と、玄白斎が、口を切った。牧は頷いた。

「お前の外に、あれを、心得ておる者はない」

 牧は、又頷いた。

「そうか?」

「はい」

「猟師を斬ったな」

 牧は、静かに、低く

「斬りませぬ」

「犬は?」

「犬は、斬りました」

「猟師は、誰が殺した?」

「余人でござりますが――然しながら――お叱りは、某が受けまする」

 玄白斎は、又、暫く黙っていた。牧の、素直さに、鋭く突っ込みたくなくなってきた。

「聞くが、牧、鈞召金剛炉の型のある以上、人命の呪咀だのう」

「はっ」

「誰を、呪咀した?」

 牧は、はじめて眼を上げた。澄んだ、聡明な、決心と、正しさと、力と、光との溢れた眼であった。

「御幼君、寛之助様で、ござります」

 牧のそういった言葉には、少しの暗さも、少しのやましさも無いのみか、自信と、力とさえ入っていた。玄白斎は、自分の想像していたように、斉彬を呪っているのではなかったので、軽く、失望したが

「御幼君をな」

 と、いって、すぐ

「前の、おひい、お二人は?」

「存じませぬ」

「しかと」

「天地に誓文せいもんして」

「御幼君のこと――誰が、申しつけたぞ」

「そのことは、兵道家として――よし、師弟の間柄とはいえども、明かすことは――」

「よし、わかった。その言はよい。然らば、聞くが、御幼君と雖も、主は主でないか。そもそも、兵道の極秘は、義の大小によって行うものではない。斉彬公が、又、御幼君が、よし、御当家のため邪魔であるにしても、これを除けよと命ぜられたる時には、兵道家はただ一つ――採るべき道はただ一つ、一死を以て、これを諫め、容れられずんば、腹を裂く。義の大小ではない。仮令、いかなることたりとも、不義にくみせぬを以て、吾等の道と心得ておる。このことは、よく、説いた筈じゃ。牧」

 高木と、和田とは、刀を引寄せながら、黙って、俯向いていた。牧は、眼を閉じたまま、身動きもしなかった。玄白斎は、すぐ、言葉をつづけた。


 高木と、和田とは、何う、牧が答えるか、じっと――身体中を引締めていた。表の人々は、一人残らず、こっちを眺めていた。山内は、上り口で、いつでも、駈け上れる用意をしていた。

「斉彬公を――いや、斉彬公を調伏せんにしても、所詮は、久光殿を、お世継にしようとする大方の肚であろう。藩論より考えると、これが大勢じゃ。然し、よし、これが大勢にしても、寛之助様を、お失い申すことは、不義に相違ない。余人は知らず、兵道家としては、久光殿と、寛之助様とを、秤にかけて、一方がやや軽いからとて、不義は、不義じゃ、従うべきではない。牧、わしなら、皺腹を掻っ裁いて、上命に逆った罪をお詫びして死ぬぞ。これがよし、斉興公よりの御上意にしても、主君をしてその孫を失うの不義をなさしめて、黙視するとは、その罪、悪逆の極じゃ。諫めて容れられずんば死す。兵道にとうとぶところ、これ一つ、兵道家の心得としても、これ一つ。わしは、常々申したのう。心正しきものの行う兵道の修法は、百万の勇士にも優り、心よこしまなる者の修法は、百万の悪鬼にも等しいと――牧、憶えておろうな。何うじゃ」

 玄白斎は、静かに、だが、整然として、鋭く、牧に迫った。

 牧は、俯向いたままで、微かに、肩で呼吸をしていた。何ういう苦行をしたのか? 玄白斎が、想像していた牧とは、まるで違った疲労した牧であった。一人の命を縮めると、己の命を三年縮めるというが、この疲労、このやつれは、三年や、五年でなく、既に、死病にかかっている人の姿であった。玄白斎は、高木と、和田の前で、自分の気の弱さを見せたくなかったが、もし二人がいなかったなら、この愛弟子の肩を抱き、手を執って

「牧、何うした?」

 と、慰めてやりたかった。自分の立場として、兵道守護の務として、牧を、こうして咎めたが、心の中では

(牧が、うまく返辞をしてくれたなら)

 と、祈っていた。和田が

「牧殿――御返答は?」

 牧は、眼を閉じて、手を膝へついて俯向いたまま、未だ答えなかった。山内が、咳をして

「手間取るのう」

 と、土間で、無遠慮なことをいった。

「お答え申し上げます」

 牧は、静かに顔をもたげて、澄んだ眼で、玄白斎を見た。

「ふむ――」

 玄白斎が頷くと、牧は、身体を真直ぐに立てた。牧のいつもの、鋭さが、眼にも、身体にも溢れて来た。

「君を諫めて自殺する道、御教訓として忘却してはおりませぬ。然しながら、某自ら命を断つに於ては――この兵道の秘法は、今日限り絶えまする。又兵道は、只今、危地に陥っております。人間業に非ざる修行を重ねること二十年。それで、秘法を会得しても、一代に一度、修法をするか、せぬかでござりましょう。二百五十年前、豊公攻め入りの節、火焔の破頂にて和と判じて大功を立てて以来このかた、代々の兵道方、先師達、一人として、その偉効を顕現したことはござりませぬ。いたずらに、秘呪と称せられるのみにて、ここに十六代、代々よよ、扶持せられて安穏に送るほか、何一つとして、功を立てたことはござりませぬ」

 牧は、澄んだ、然し、強い口調で、熱をこめて語り出した。


 番所の役人らしいのが、大股に降りて来た。用人に、何かいった。用人が、上り口へ来て

「牧氏、まだか」

 牧は、振向きもしなかった。

「又、御先代よりの洋物流行ようぶつばやり、新学、実学が奨励されて以来、呪法の如きは、あるまじき妖術、御山行者の真似事、口寄巫女くちよせみこに毛の生えたものと――就中なかんずく、斉彬公、並にその下々の人々の如きは――」

「じゃによって、呪法の力を人々に、示そうと申すのか」

「よい時期と、心得まする。御家長久のために、兵道のために、又、老師の御所信に反きまするが、当兵道は、島津家独特の秘法として、門外不出なればこそ重んぜられまするゆえ、御当家二分して相争う折は、正について不正を懲らし、その機に呪法の偉力を示して、人々の悪口雑言を醒すのも、兵道のために――」

「黙れ」

 和田と、高木とが、一膝すすめた。飽津がまた

「こみ入った話ならば、後日になされとうござるが」

 牧は答えなかった。玄白斎も対手にならなかった。

「当兵道への悪口雑言などと、それ程の、他人の批判で、心の動くような――牧、浅はかではないか? かみより軽んぜられ、しもよりさげすまれても、黙々として内に秘め、ただ一期の大事に当って、はじめて、これを発するこそ、大丈夫の覚悟と申すものじゃ。三年名を現さずんば忘れ去るのが人の常じゃ。二百五十年、修法の機がなければ、雑言、悪口、当り前じゃ。先師達は、それを、黙々として、石の如く、愚の如く、堪えて来られた。わしも、秘呪を会得してこの齢になるが、一度の修法を行う機も無い。然し己を信じ、法を信じて来た――」

「先生――先師十六代の二百五十年間よりも、この十年間の方が、世の中も、人心も、激変致しました」

「万象変化しても、秘法は不変じゃ」

「人の無いところ、法はござりませぬ。秘呪の極は、人と法と、融合して無礙むげの境に入る時に、その神力を発しますが、その人心が――」

「ちがってしまったか?」

「自ら独り高うする態度と、兵道を新しくし、拡張し、盛大にせんとする心と――」

「わしは、それを愚かしいと思うが――」

 牧は、御家のため、師のため、己のため、兵道のために、命を削って、調伏の偉効を示そうとしていたが、玄白斎にとって、それは、不正な、便法でしかなかった。兵道家は、もっと、純一無垢な態度でなくてはならぬと信じていた。

「兵道のために尽そうとするお前の心は、よくわかる。ただ――その雑念、邪念が入っていて、果して秘呪が成就するか――牧。当兵道興廃のわかれるところ。その心のお前が成就するか、わしの修法に力があるか――わしも、一世一代の修法、お前と、秘呪をくらべてみようか」

「はっ」

「諸天を通じて、夢幻の裡に逢おう」

「はい」

「返答によっては、斬るつもりであったが、牧、わしは、お前を、斬れんわい、兵道の興廃よりもお前が可愛い」

 牧は、だんだん、うつむいて行った。膝の上へ涙が落ちた。玄白斎も、涙をためていた。


 牧の一行が立去ってからも、玄白斎は動かなかった。連日の疲れが一度に出て来たせいもあったが、玄白斎にとっては、それよりも、牧の処分に対して、強い態度を取れなかったという苦しさからであった。

 玄白斎の日頃からいって、もっと、烈しく叱るであろうと、和田も、高木も考えていたが、玄白斎は、牧に逢い、牧の辛苦を見ると、唯一人の自分の後継者を、自分の手で失いたくはなかった。和田の、高木の前もあったが、何うしても

「自裁しろ」

 とは、云えなかった。和田も、高木も、黙っていた。二人が黙っているだけに、玄白斎は、自分の矛盾した心に、悩まなければならなかった。

「脚でも、お揉み致しましょうか」

 仁十郎が、こう云った時

「爺っ――牧の一行が、通らなんだか」

 と、表で、大声がした。そして、大勢の足音が土に響いて来た。

「はい、今しがた、お越しになりました」

 爺が、台所から、表へ小走りに出て行きながら

「どうぞおかけ下さいませ」

 和田が、襖のところから、眼を出すと、鉢巻をしめ、裾を端折った若者が、八人ばかり、軒下に立って、何か囁き合っていた。

「行けっ。一走りだ」

「遠くはない」

 和田が

「先生っ、若い者が、牧氏のあとを追いよりますが」

 玄白斎は、眼を開いて

「そうらしい」

 と、静かにいった。立とうともしなかった。

「わしには、牧が斬れぬ。然し、あの若い者なら、斬れよう。余人が斬るなら、斬ってもよい。わしには、仁十郎――斬れぬ」

 俯向きがちに、髯もしごかないで、玄白斎は袴の下へ、両手を入れてやさしくいった。表の若者達は、爺の出した茶も飲まないで、すぐ登って行った。話声だけ、暫くの間聞えていたが、玄白斎が顔をあげて

「いいや――和田」

 と、大きい声をした。

「あの無分別な、若い者では、覚束ない。牧は斬れぬ。止めるがよい」

「止めに参りましょう」

 仁十郎が立上った。

「待て――何んとしたものか、高木、わしには判断がつかなくなって来たが――ここで、朋党の争いを起しては、斉興公のお耳に入った時、斉彬公方の人々は、極刑に逢おう――矢張り止めなくてはならぬ。高木、仁十と二人で追っかけて、引止めて参れ。呪法での調伏は、呪法にて破りうる。玄白斎の命のある限り、そう、牧の自由にはさせぬ」

 仁十郎と、市助とは、頷くと同時に立上った。

「爺、草鞋の新しいのを――」

 二人は、刀を提げて上り口へ出た。そして、草鞋の紐を通している時、二三人の馬上の人々が、二人の眼をかすめて、鉄蹄の響きを残して、山の上へ影の如く過ぎ去った。


 右手は、雑草と、熊笹の茂りが、下の谷川までつづいていた。左手は、杉の若木が、幾重にも山をなして、聳えていた。

 斉彬に目をかけられている家中の軽輩、下級武士の中の過激な青年達が、牧を襲撃するという噂が、いつの間にか相当に拡がっていた。後方を振向いた一人が

「あれは?」

 振向くと、山角の曲りに、白い鉢巻をした人々が、走り出て来ていた。

「山内、斎木、安堂寺、貴島」

 と、馬上から、飽津が叫んだ。

 四人が、振向いて

「何?」

 と、いうよりも先に、彼等の眼は、その近づいて来る人々を見た。山内は、大きい舌を出して、脣をなめながら

「来よった」

 と、笑いながら、袖の中から、襷を出した。

「駕、急げっ、先へ行け」

 と、二三人が、同じことをいった。駕は小走りに遠ざかった。斎木は、道幅を計って

「山内と、二人でよろしい」

 追手は、木の間へ一寸隠れて、すぐ又現れた。もう間は小半町しかなかった。山内と、斎木が第一列に、少し下って貴島と、北郷が、第三段に安堂寺と、飽津とが、並んだ。

 追手の先頭に立っているのは、二十二三の若者で、白地の稽古着に、紺木綿の袴をつけていた。山内が

「牧殿が入用か」

 と、怒鳴った。追手は、それに答えないで、四五間まで近寄った。そして

「吾等有志より、牧殿に申し入れたい儀がござる。御面謁できましょうか、それとも、御伝達下さりましょうか」

「無礼な、その鉢巻は、何んじゃ」

「お互でござろう」

「何?」

「好んで、争いを求めませぬ。牧殿に、何故、御世子を調伏したか? その返答を、お聞き下されい」

「戻れ、戻れっ」

 若者の背後の人々が

「問答無益むやく

 と、叫んだ。

「奸賊」

「斬れっ」

「斬れっ」

 若い人々は、お互に、興奮しながら、他人を押し除けて前へ出ようとした。

「山内を存じておるか」

 山内が、崖の端へ立って、若者へ笑いかけた。

「お手前など対手でない。引込め」

「牧に尻っぽを振って、ついて参れ」

 山内は、さっと赤くなった。刳形くりがたへ手をかけて、つかつかと、前へ出ると、若者達は、二三歩退いた。

「恐ろしいか」

 山内は、真赤な顔をして、睨みつけた。その瞬間、背の低い一人の若者が、水に閃く影の如く、人々の袖の間を摺り抜けて出て

「ええいっ」

 懸声と同時に、ちゃりんと、刃の合った音がした。人々は、胃をかたくして、柄を握りしめた。


 人々が、額を蒼白くして、腋の下に汗を出して、刃の音のした方を見た。

 小柄な青年は、狂人のように眼を剥き出して、山内を睨んでいた。山内は、脣に微笑を浮べて、正眼に刀をつけていた。青年は、だんだん肩で呼吸をするようになった。青年の背後から、一人が、何かいいながら、青年の横へ出ようとした。その瞬間だ――

「ええいっ」

 それは、声でなく、凄じい音だった。谷へも、山へも木魂こだまして響き渡った。青年は、その声と一緒に、身体も、刀も、叩きつけるように――それは、手負の猛獣が、対手を牙にかけようと、熱塊の如く、ぶっつかって行くのと同じであった。

 人々の見ている前で、自分から斬込んでおいて、よし、山内が、何んな豪の者にもせよ、一太刀も斬らずに、引きさがることは、面目として出来なかった。自分の命を捨てる代り、いくらかでもいいから、対手を斬ろうとする絶望的な、そして、全力的な攻撃であった。

「おおっ」

 山内は、強く、短く、唸った。二つの刀が、白く、きらっと人々の眼に閃いた瞬間、血が、三四尺も、ポンプから噴出する水のような勢いで、真直ぐに奔騰した。そして、雨のように砕けて降りかかった。

 山内は、血を避けると同時に、次の敵のために刀を構えて、一間余りの後方に立っていた。真赤な顔であった。青年は、血を噴出させて、黒い影を、人々にちらっと示したまま――谷へ落ちたのであろう、何処にも姿が無くなった。

 敵も、味方も、暫く黙っていた。山内が、右手に刀を持って、左手を柄から放した。そして、後方へ小声で

「布は無いか」

「傷したか」

「指を二本、落された」

「おお、どの指を――」

 山内が、右手片手で、刀を構えて、指を後方へ示した時

「山内、見事だ。おれが、対手になる」

「見た面だのう」

 若者は、答えないで、刃尖きっさきを地の方へつけて、十分の距離を開けた。薩摩独自の剣法、瀬戸口備前守が発明したと伝えられる示現流(一名、自顕流、自源流。自源という僧、天狗より伝わったものという)特異の構えである。

 馬蹄の音が、向う山に響いて、青年の背後へ近づいて来た。二三人が、振向くと、三人の士が、馬を走らせて来ていた。

「邪魔の入らぬうち――」

 と、一人が叫んだ。

「斎木殿、御対手申す」

 最先にいた若者が、刀を抜いた。それと同時に、若者も、牧の人々も、一斉に、鞘を払った。

「兵頭はおらんか、兵頭っ」

 遠くから、馬上の人が叫んだ。その刹那

「何がっ、兵頭っ」

 山内が、受けると見せて避け、対手の身体の崩れるのを、片手薙ぎと〈[#「片手薙ぎと」は底本では「片手雉ぎと」]〉構えていたのへ、兵頭は、こう叫ぶと、雷の如く、打込んで行った。避ける暇は無かった。がちっと受けた。しっかと柄を握ってはいたが、指を二本無くした掌であった。びーんと、掌から腕へ響いて、左手が柄から離れた。刀が下った。兵頭の刃尖が、山内の頭へ、浅いが割りつけた。


 腕で斬るのでなく、身体ぐるみで斬りかかった刀だった。山内の頭から、額へ、眉の上へ、赤黒く血が滴って来た。

「池上っ――池上はおらぬか」

 と、馬上の人の叫ぶ声が、近づいた。

新納にいろ殿だ」

 二三人が、呟いた。

「ええいっ、ええいっ」

 兵頭は、刀を真直ぐに右手の頭上へ構えて、山内の眼を睨みつけた。お互に、それは、物を見る眼でなく、人間の全精力を放射する穴のようなものだった。凄惨な、殺気とでも名づけるような異常な光が、放たれていた。

「来いっ――さ、来いっ」

 こう答えて、又暫く、二人は、黙って睨み合った。

 斎木も、同じように、黙って、正眼に構えたままであった。刀と刀との間が、未だ二三尺も離れてゐた。それが、かちっと、触れて、音立てた時には、どっちかが、傷つくか、殺されるかの時だった。敵も、味方も、狭い道の背後から、隙があれば、一太刀でも助けようとしていたが、何うすることもできなかった。

「引けっ、刀を引けっ――山内っ、斎木っ」

 新納は、若者の中へ、馬を乗り入れて来た。若者は、家老の位置に対し、無抵抗でいなければならなかった。

「兵頭っ、刀を引け――引かぬかっ」

「はっ」

 兵頭が、こう答えた刹那、新納が

「山内っ」

 と、叫ぶのが早いか、山内の打込んだのが早いか――兵頭は

「おおっ」

 さっと、引くと、新納の馬へ、どんと、ぶっつかった。よろめきながら、閃いた刀を、反射的に受けて

「何をっ」

「山内っ、おのれっ、たわけ者がっ」

 新納が、山内の前へ、馬をすすめた。馬は怖じて、頸を上げながら、二三尺、山内の方へ胸を突き出して、脚踏みした。

「卑怯者っ、それでも、剣客かっ」

 一人が、兵頭の後方から、山内へ怒鳴った。

「引け、引揚げいっ」

 人々の後方にいた二人の馬上の士が、近くの若者へ、頭を振って、引揚げろといった。

「斎木、早く行け、牧は行ったか」

「御無事に」

 新納は頷いて

「池上、兵頭、戻れ」

「由利が殺されました」

 兵頭が、馬の横から、蒼白な顔で、見上げた。

「何処に」

「谷へ、斬落されました」

「誰に?」

「山内に――」

「総て、戻ってから聞こう。戻れ、皆戻れっ――何を、愚図愚図する。戻らぬと、おのれら、厳重に処分するぞ」

「池上――おお、無事か、新納様――」

「お前は?」

「加治木玄白の門人、和田仁十郎と申しまする」

「加勢か」

「いいや、師の仰せにて、押えに参りましたが、無事のていにて――」

「そうか、わかった。玄白に、新納が静めたと申しておけ、御苦労。池上、兵頭、拙者と同道せい」

「はい」

 新納は馬を廻した。


「同志の名は、明かすまいぞ」

「うん」

 と、いった時、板戸が、埃と一緒にきしって開いた。

「池上――出ろ」

 池上は、声に応じて立上って、ずかずかと、その侍の方へ歩み寄った。薄暗い廊下に、もう二人の侍が立っていた。

「ついて参れ」

 廊下の突当り、中戸を突きあげると、履脱くつぬぎに、庭下駄と、草履ぞうりとが並んでいた。人々が、庭下駄を履いたので、池上がその上へ足を下ろすと

「草履だ」

 と、背を突いた。

「何?」

 池上は、振返って、睨みつけた。

「草履を履くのだ」

「いえばわかる。何故、背中を突いた」

「黙って、早く行け」

「行かん。俺は、罪人でないぞ。軽輩だと、おのし達は侮る気か」

 先に、庭へ降りていた一人が、

「ここで争っては困る。殿が、待っておられるで。池上」

「よろしい」

 池上は、赤い顔をして、眼を光らせて、植込みの中を、曲って行った。広縁のところへ来ると、一人が、縁側へ手をついて

「召連れました」

 と、いった。二人は、池上と共に、庭へうずくまっていた。暫くして、障子があいた。新納六郎左衛門が、小姓と、近侍とを従えて坐っていた。

「それへ上げろ」

 新納は、縁側を、扇で指した。

「御意だ。すすむがよい」

 池上の後方の士が、囁いた。池上は、一礼して立上って、履脱から、縁側へ平然として上って行った。新納は、その一挙、一動をじっと、見ていたが、池上が坐って、礼をしてしまうと

「七八人、人数がおったのう」

「はい」

「誰と、誰と――」

「忘れました」

 新納の眼に、怒りが光った。池上は、その眼を、少しも恐れないで、正面から、じっと凝視めていた。

「なぜ――思い出さぬか?」

「出しません」

 池上は、言下に、明瞭はっきりと、答えた。

「よし、それでは、思い出させてやろう。釘をもて――粉河こがわ、その方共、そいつの手足を押えい」

 四人の近侍が立上った。池上は、微笑した。だが、顔色は少し蒼白あおざめてきた。一人が、池上の右手をとって、上へ引いて、膝頭を片脚で蹴りながら

「打つ伏せになれ」

 と、いった。池上は、その男を下から睨み上げて

「打つ伏せ? 薩摩隼人は、背を見せんものじゃ。馬鹿め」

 怒鳴ると、右手を振り切って、仰向けに、大の字に、手足を延した。四人が、一人ずつ手と足を押えつけた。


「釘を、持参仕りました」

「親指を責めてみい――池上、ちいっと、痛むぞ」

 一人が、押えている池上の掌を、板の上へ伏せて、親指の爪の生え際へ、釘のさきを当てた。そして、少しずつ力を加えながら、爪におしつけた。

 爪は、暫く、赤色になっていたが、すぐ、紫色に変った。池上の顔は、真赤に染まって、米噛こめかみの脈が破裂しそうにふくれ上って来た。額に、あぶら汗が滲み出て来て、苦しい、大きい息が、喘ぐように、呻くように、鼻から洩れかけた。脚が微かにふるえて、一人の力では押え切れぬくらいの力で動こうとした。足の指は、皆内部うちらへ曲って、苦痛をこらえていた。眉も、眼も、脣も、頬も、苦しそうに歪んで来た。

「池上、何うじゃ、同志の名を聞こうか」

 新納は、煙管をはたきながら、静かに、声をかけた。池上の腹が、波打つように動き、頭髪が、目に立ってふるえてきた。

「池上」

 うむーっ、と、苦痛そのものが、洩らしたような、凄い呻きが、池上の口から洩れて出た。手足を押えている四人の侍は、手だけでなく、身体と、脚とで、池上の一本の手、一本の脚を押えていた。

 池上は、脣を噛んで、眉も、眼も、鼻も、くちゃくちゃに集めて、苦痛をこらえていた。指から、腕中、腕から、頭の真中へまで、痛みが、命を、骨を削るように、しんしんとして響いていた。顔色が、灰土のように、蒼ぐろく変って、呼吸が、短くなってきた。仰向いている腹が、人間とは思えぬように、高く、低く、波打って呼吸をしかけた。

「池上」

 池上は、黙っていた。新納は、吐月峯はいふきを叩いて

「よかろう」

 と、いった刹那、池上が

「うっ」

 それは、呼吸のつまったような、咽喉からでなく、もっと奥の方から出た音のようなものであった。そして、池上の腹が、胸が五寸余りも浮き上った。人々が、池上の上へ、のしかかった。池上の爪へ、釘を押し当てていた侍が

「突き抜けました」

 と、額に、冷たい汗をかいて、蒼白い顔をしながら、小さい、かすれた声でいった。

「手当をしてやれ――気絶したか」

 新納が、人々の蔭になっている池上の顔を見ようとした。

「はは、はははは」

 人々は、冷たいもので、背中を撫でられた。池上のその笑い声は、幽鬼のような空虚うつろで、物凄い笑いだった。

「あははは、生きていたか――池上、流石に薩摩隼人だ。よく耐えた」

 新納が、池上の、灰色の顔を見て、睨みつけるように、鋭い眼をして、こういうと、次の瞬間、やさしい声になって

「池上、お前達の世の中じゃ。その心を忘れずに、しっかり、やってくれ。ただ――ただ、無謀な振舞だけはするな。世の中は広大じゃで、一家一国の争いなどに、巻き込まれるな――感心したぞ――えらいぞ」

 新納の眼に、微かに、涙が白く浮いていた。池上は仰向いて、眼を閉じたまま、大の字になって、身動きもしなかった。


 医者が来て、釘の突き抜けた疵口を洗って、繃帯をした。池上は、何をされても、黙って、眼を閉じて、身動きもしなかった。又、出来なかった。苦しさに、痛みに、気を失う間際までになっていた。それが急に放たれて、称められて、肉体も、精神も、ぼんやりとして、疲れきっていた。医者が立去ろうとすると、新納が

「兵頭を呼べ」

 池上が

「兵頭」

 と、呟いた。そして、首を動かして、起き上ろうとした。四人の者が、片膝を立てて、もし、主人に乱暴でもしようものなら、と池上の眼を、手を、脚を、油断なく見つめていた。

「新納殿」

 池上は、灰色の顔色の中から、新納を睨みつけた。

「裁許掛でもないお身が、何故、濫りに、人を拷問なされた」

 新納は、口に微笑を浮べて

「書生の理窟りくつじゃ。ま、理窟はよい、わしが負けておこう。今、兵頭が参ったなら、改めて話すことがある」

 と、いった時、庭石に音がして、兵頭が案内されてきた。薄汚い着物が、庭の中でも、部屋の中でも、目に立った。侍が、兵頭に、囁くと

「御免」

 と、いって、ずかずかと、池上の側へ坐った。そして、新納へ、挨拶した。

「兵頭」

「はっ」

 兵頭は、両手をついた。

「今、池上を爪責めにした――」

 兵頭は、頭と、手を、さっと上げると、正面から、新納を睨んだ。そして

「ここの親爺とも覚えぬ」

 と、大きい声を出した。新納は、微笑を納めて、兵頭を眺めていた。近侍が、悉く、兵頭を睨みつけた。

「爪責めは愚か、八つ裂き、牛裂きに逢おうとも、一旦口外すまいと誓ったことを、破るような――あははは、ここらの方々には、爪責めで、ぺらぺら喋る人もござるのじゃろ。だから、拷問も御入用じゃ。吾等、軽輩、秋水党の中に、拷問などと申すものはござらぬ。爪責め? 何う責める?」

 兵頭は、一座の人々を、じろりと、見廻して、いきなり、右脚を、新納の方へ投げ出した。そして、右手で、足の親指を握って

「爪を責めるだけか?――見ろっ」

 ぐっと、逆にとった自分の親指

「えいっ」

 ぽきっ、と、音がした。

「新納、見そこなうなっ。吾等薩摩隼人に、拷問をかけて問うなどと、恥を知らぬかっ。おのれが拷問にかけられると、ふるえあがるから、吾等も白状するかと、ははははは。老いぼれたかっ。脚でも――」

 兵頭は、腕をまくって突き出した。

「腕でも――斬るなり、突くなり、折るなり――池上っ。生死命あり論ずるに足らず、一死只報いんとす、君主の恩」

 兵頭は、足を投げ出したまま、大声に、詩を吟じた。誰も、だまっていた。身動きもしなかった。


「武助、御暇おいとま致そう」

 少し、顔色を回復した池上が、静かにいった。

「新納殿、御無礼致しました」

 兵頭は、脚を引いて、御辞儀もしないで

「もう、夜に近い。急ごうよ」

 一座の人々は、一座を、新納を、余りに無視した二人の振舞に、何う判断していいか、ぼんやりしていた。兵頭が、立ちかけると、新納が

「兵頭、引出物を取らそう」

 と、叫んだ。

「引出物?」

 兵頭が、新納を睨んで、身構えた。新納は、自分の脇差を抜き取って

主水正もんどのしょうじゃ。差料にせい」

 と、兵頭の脚下へ投げ出した。兵頭は、暫く黙って、新納の顔を見ていたが、静かに坐った。そして、手をついて

「お許し下されますか」

 じっと、新納の眼を見た。

「池上、そちにも取らそう。大刀を持て」

 と、小姓へいった。そして、兵頭へ

「斉彬公が、軽輩、若年の士を愛する心が、よく判った。機があったら、新納が、感服していたと、申して伝えてくれい。ただ、池上、兵頭。噂に上っている牧、或いは調伏のことなどで、あったら命を捨てるなよ。近いうちに天下の大難がくる。それを支え、切抜け、天下を安きに置くは、もう、わし等如き老境の者の仕事ではない。悉くかかってお前達の双肩にある。よく、斉彬公を輔佐ほさし、久光公を援けて、この天下の難儀に赴かんといかん。一家の内に党を立て、一人の修行者風情を、お前ら多数で追っかけるような匹夫ひっぷの業は慎まんといかん」

 二人は、だんだん頭を下げた。

「同志の者によく申せ――これ、馬の支度をして、送ってやるがよい。お前達が、次の天下を取るのじゃ。大切にせい。髪の毛一本でも粗末にするな。指は、一本だけ折ればよいぞ。兵頭」

「はっ」

 兵頭は、泣いていて、顔を上げなかった。

「斉彬公よりも、天下に動乱のあること、よく承わっております。御教訓、しかと一同に申し伝えまする」

 と、池上が、挨拶した。

 二人が、引出物の刀と、脇差とを持って廊下へ出ると、もう、黄昏になっていた。廊下つづきの、左右の部屋部屋から、いろいろの顔が、ちらちら二人を覗いたし、玄関にも、多勢の人々が、二人を眺めていた。

 提灯を片手に、馬丁が、馬の右に立った。人々の挨拶を受けて、門を出ると、もう、夜であった。門の軒下を、曲ると――二つの影が

「武助」

「五郎太」

 と、叫んだ。馬丁が、その方へ提灯を突き出した。二人の青年が、見上げていた。

「おお、西郷」

「大久保。今頃まで、何していた」

「待っていた。無事だったな」

 大久保の声は、微かに、明るく、顫えていた。

「引出物まで頂戴した」

 と、武助は、脇差を、かざしてみせた。


 黒塗りの床柱へ凭れかかって、家老の、碇山将曹いかりやましょうそう

「何んと――京で辻君、大阪で惣嫁そうか、江戸で夜鷹と、夕化粧――かの。それから?」

 金砂子の襖の前で、腕組をして、微笑しているのは、斉興の側役伊集院伊織である。その前に、膝を正して、小声で、流行唄を唄っているのは、岡田小藤次であった。

意気は本所、仇は両国

うかりうかりと、ひやかせば

ここは名高き、御蔵前

一足、渡しに、のりおくれ

夜鷹の舟と、気がつかず

危さ、恐さ、気味悪さ

 小藤次は、眼を閉じ、脣を曲げて、一くさり唄い終ると

「ざっと、こんなもので」

 扇を抜いて、忙がしく、風を入れた。

「世間の諸式が悪いというに、唄だけはよく流行るのう」

 将曹が、柱から、身体を起して

「ツンテレ、ツンテレ――か、のう。ツンテレ、ツンテレ、京でえ、辻君――」

「トン、シャン」

 小藤次が、扇で、膝を叩いた。

「申し上げます」

 廊下から、声がした。

「大阪で、惣嫁」

「テレ、ツテツテ、ツテテンシャン」

「申し上げます」

 将曹が、扇で、ぽんと膝を叩いて

「えへん――江戸で、夜!」

「申し上げます」

 伊集院が、立って行って

「何んじゃ」

「名越左源太、仙波八郎太殿御両人、内密の用にて――」

「待て」

「テレトン、テレトン」

「御家老」

 将曹は、細目を開いて

「夕化粧、ツンシャン――何んじゃな」

「名越と、仙波とが、何か話があって、お目にかかりたいと――」

 将曹は、うなずいて、また、眼を、閉じた。小藤次が

「意気は、本所」

「意気は、本所」

「テレ、トチトチ、ツンシャン」

 障子が、静かに開くと、敷居から一尺程の中へ、二人が坐った。取次が、障子をしめると、二人は、御辞儀をした。

「仇は、両国――もっと、近う」

「はっ」

「ただ今、唄の稽古じゃ」

 小藤次が、口三味線のまま一寸振向いて、二人を見て、すぐ

「うかりうかりと――」

「うかり――」

 仙波が

「ちと、内談を――」

「ひやかせば――内談か、聞こう」

「申しかねまするが、御人払いを――」

「人払い?」

 将曹の顔が、一寸険しくなった。

「余人はおらぬ、申してよい」

 床柱から、身を放すと、二人をきっと眺めた。小藤次も、二人の方へ、膝を向けた。


「では――」

 名越左源太は、右手を、後方へ廻して、包み物をとって、膝の上へ置いた。そして、中から、箱を取り出して

「これを御覧下されたい」

 右手で、押出すと、伊集院が、将曹の前へ置いた。将曹は、蓋の梵字を暫く眺めてから、蓋をとって、人形の包を、手早く開けた。そして

「これが?」

 二人を見た。

「御長男様を、調伏した形代かたしろと心得ますが――」

 三人の眼が光って、一時に、人形へ集まった。左源太が

「裏側を――」

 声に応じて、将曹が、人形を裏返した。小藤次が、首を延して、覗き込んだ。

「或いは、調伏の人形かもしれぬ――どこで、手に入れたな」

「御病間の床下から――仙波の倅が、手に入れました」

 将曹は、うつむいている仙波へ、じろっと、眼をくれて

「これが、調伏の形代として、誰が、一体寛之助様を呪うたのじゃ」

 二人は、将曹を、じっと見たまま、暫く黙っていた。左源太が

「その儀は、この人形を埋めました者を詮議すればわかると存じます」

「心当りでもあるか」

「ございます」

「申してみい」

 小藤次と、伊集院とは、二人を、見つめたままであった。

「恐れながら――」

 仙波が、懐から、紙を取出して、伊集院の方へ押しやった。

「この二つの筆蹟から判じまするに、牧仲太郎殿の仕業と、心得まする」

 将曹は、人形を持った手を、膝の上へ、落すように置いて

「牧だと――」

「その、書状の筆蹟を――」

 と、までいうと、少し、赤い顔になった将曹が

「仙波――名越。この人形を、その方共が作り、牧の筆蹟を似せて書いたとされても、弁解の法が立つか」

 名越が、さっと、顔を赤くした。

奇怪きっかいな――仰せられる御言葉とも思えぬ。某が――」

「物の道理じゃ。貴公がせんでも、牧に怨みのある奴が、牧を陥れんがために、計ったこととも考えられるではないか。余のことではない。軽々しく、調伏の、牧の仕業のと、平常の、貴公に似ぬ振舞だ」

「お姫様ひいさまから、御長男様まで、御三人とも、奇怪な死方をなされた上は、一応、軍勝図を秘伝致す牧へ御取調べがあっても、不念ぶねんとは申せますまい。もし、その人形が、余人の手になったものなら、不肖ながら、某等両人切腹の所存でござる。島津壱岐殿も、牧の筆と御鑑定になりましたが、一応、調伏の有無を、御取調べ願いたいと――内密の用とはこのことでございます」

 名越は、声を少しふるわせていた。将曹が

「左源太」

 と、叫んだ。


 左源太は、少し怒りを含んだ眼で、将曹に膝を向けた。将曹も、左源太を睨みつけながら

「この形代は、一体どこから、持って参ったな」

「申し上げました〈[#「申し上げました」は底本では「男し上げました」]〉通り――御病間の床下から――」

「如何して、取出した?」

「如何してとは?」

「床下へ、忍びこんだので、あろうな」

 仙波も、名越も、暫く黙っていた。忍び込んだ、といえ一ば、何故忍ぶべからざるところへ、忍びこんだと、逆にとがめられても、弁解はできなかった。然し、名越は、強い、明瞭とした調子で

「いかにも――御床下へ、忍び込んで、手に入れました」

 小藤次も、伊集院も、名越の大胆な答えに、じっと、顔を見つめた。

「誰が、許した――誰が、忍び込めと、許した」

 名越は、眼の中に冷笑を浮べて

「許しを受ける場合もあれば、受けんと忍ぶ時も、ござろう。御家の大事に、一々――」

 将曹が

「黙れっ、許しが無くば、重い咎めがあるぞっ」

「あはははは、命を捨てての働きに――あはははは。仙波も、某も、とっくに、命は無いものと覚悟しておる。御家に、かかる大不祥事あって、悪逆の徒輩が、横行致しておる節、かような証拠品を手に入れるに、一々、御重役まで、届け出られようか、ははは。いや、御貴殿が、この品を軽々しくお取扱いなさるなら、最早それまで。某等は、某等として、相当の手段をとって、飽くまで、牧殿を追及する所存でござる。貴殿御月番ゆえに、一応の御取調べ方を御願いに参りましたが、思いもよらぬ御言葉。この大事を取調べようとせず、逆に、当方を御咎めになるらしい口振り、裁許掛ならいざ知らず、月番の御役にしては、ちっと役表に相違がござろう。その品が偽り物ならば、偽り物、真実ならば真実と、一通り、掛役人にて取調べされるよう御指図なさるのが、月番の貴殿の役では」

 名越は、大きい声で、一息に、ここまで喋ると、将曹が、真赤になったかと思うと

「黙れっ、黙れっ」

 と、叫んだ。

「無礼なっ。何を、つべこべ、講釈をひろげるか? かようの、あやふやな人形を、証拠品などと、大切そうに――」

「奇怪なっ、この人形が、あやふやとは?――何が故に、あやふやか? 高の知れた泥人形ゆえに、あやふやと申されるのか? 牧仲太郎でも召捕えて、白状させれば、あやふやでないと、仰せられるのか? 取調べもなされずと、あやふやと断じて、裁許掛の手へも、御廻しにならぬとすれば、御貴殿も、同じ穴の、むじなと見てよろしゅうござるか?」

「何?」

「仙波、直々、裁許掛へ願い出ることに致そう」

 名越が、赤い顔をして、仙波へ、振向いた時、七八人の、静かな足音が、広書院の方に近づいて、障子の開く音がした。

「持って戻れっ」

 将曹は、脣と、頬とを痙攣ひきつらせながら、人形と、箱とを、名越の前へ投げ出した。がちゃんと音がして――人形の片手がもげた。仙波が

「何をなさるっ」

 と、叫んだ。


「何?」

 将曹は、こういって、仙波を睨みつけながら、立上った。八郎太は、頬をぴくぴくさせ、拳を顫わせていた。そして

「お待ちなされ」

 将曹の行手へ、膝をすすめた。

「軽率なる御振舞、何故、証拠の品を、毀し召された」

 将曹は、少し、額を、蒼白ませながら、小藤次と、伊集院に

「御渡りになったらしい」

 と、いって、襖へ手をかけようとした。

「待たれいっ」

 八郎太は、手を延した。

「将曹殿」

 八郎太が、片膝を立てて手を延し、将曹の袴の裾を掴むと同時に

「無礼者がっ」

 へや中に轟く、大きい声であった。そして、真赤になった将曹は、掴まれている方の足を揚げて、八郎太の腕を、蹴った。八郎太は、将曹の、意外な怒りに、態度に、掴んでいた裾を放すと共に、無念さが、胸の中へ、熱い球のように、押し上って来た。

「何んと心得ているっ。け、軽輩の分際を以て、無礼なっ」

 八郎太の、下から睨み上げている眼へ、憤怒と、憎悪を浴せながら、将曹は、襖を少し開けた。

「仙波、無益の事じゃ。対手による。戻ろう。戻って――」

 将曹は、襖を少しずつ開けつつ

「両人とも、退れっ」

 と、立ったままで叫んだ。

「伊集院っ、此奴を退げろ」

 将曹の声は、顫えていた。二三寸、隙間の開いた襖から、中の模様が見えていた。六十に近い、当主の、島津斉興が、笑いながら、脇息に手をついて、坐りかけながら、将曹の声に、こっちを眺めていた。その横に、ほの暗い部屋の中に、浮き立ってみえる、厚化粧のお由羅が、侍女を従えて、立っていた。

「お退り召され」

 伊集院が、膝を立てて、仙波にいった。丁度、その時、老公の顔と、名越の顔とが合ったので、名越が、平伏する。仙波も、すぐ平伏した。

「お退り召され」

 二人は、平伏したまま、暫く、じっとしていた。

「将、何んとした」

 斉興が、声をかけた。将曹は、襖を開けて、入りながら

「只今、言上」

 と、坐って、後ろ手に、襖を閉めた。

「早く――」

 と、伊集院が、三度目に促すと共に

「煩いっ」

 左源太が、低いが、鋭く叫んで、伊集院を睨んだ。仙波は、木箱の中へ、毀れた人形を包んで入れた。

「退ろう」

 と、名越を振向いた時

「両人共、待てっ」

 足音と共に、斉興の部屋から、呼び止めた人があった。


 襖を開けたのは、横目付、四ツ本喜十郎であった。後ろ手に閉めて、二人の前へ坐ると

「何か、証拠の品が、あると申されるか」

「ござります――これなる――」

 仙波が、膝の上で、包みかけていた箱を、差出した。

「暫時――」

 四ツ本は、そのまま向き直って、膝行して、書院へ入った。

 二人は、膝へ手を置いて、黙っていた。伊集院は、天井を眺めて、腕組をしていた。小藤次は、扇を、ぱちぱち音させていたが、立上って、廊下へ出て行った。

 斉興の部屋からは、低い話声が、誰のともわからずに洩れてきた。仙波と、名越とは、斉興が、あの証拠品を見て、何う処置するか? 自分の孫を、呪い殺した下手人に対して、何う憎み――自分達の真心を、何う考えるか?――煙管を叩く音が、静かな書院中へ、響いていた。暫く、そうした沈黙がつづいてから、足音がしたので、二人が、俯向いていると、四ツ本が

「拙者の詰所まで」

 と、いって、襖のところへ、立っていた。

「詰所へ?」

「御上意によって、承わりたいことがござる」

「心得た」

 名越が、膝を立てた。仙波が

「只今の品を――」

「只今の? 御前にあるが――」

「御持参御願い申したい」

 四ツ本が、襖を開けて、膝をついて、敷居越しに

「申し上げまする」

 将曹が

「何じゃ」

「その証拠の品を戻してくれいと、申しておりますが――」

 斉興が、鋭く、四ツ本の後方に、頭の端だけを見せて、俯向いている二人を、睨んだ。そして、脇息越しに、手を延して、人形を掴んで

「これか」

 大きい声と一緒に、四ツ本の前へ、投げつけた。片手を折った人形は、又首を折った。白灰色の眼が剥き出した首だけが、ころころと、四ツ本の前へ転がってきた。

 名越と、仙波とは、ただの調子でない斉興の声に、心臓を突かれると同時に、人形を投げつけたらしい気配に、ちらっと眼を挙げたが、近侍の人々しか見えなかった。

(何うして、御立腹になったのかしら?)

 と、二人の心が、心もち、蒼白めて、冷たくなった時

「不届者がっ」

 と、斉興の、少し、顫えて、しゃがれた大きい声がした。二人は

「はっ」

 と、いって、見えぬところであったが、平伏した。

 斉興は、首を延して、二人を見ようとしながら、両手で、脇息を押えて、ぶるぶる両手を顫わしながら

「これっ、不届者――聞け」

 と、叫んだ。


 斉興の、思いがけぬ烈しい罵声に、二人は、手をついてしまった。

「不届者っ――こ、これへ参れっ」

 甲高い、怒り声であった。

「おのれら、不所存な。何んと思いおる。たわけがっ」

 二人は、平伏しているより外に、仕方がなかった。四ツ本も、二人と同じように手をついていた。

 お由羅は、薄明りに金具の光る煙草盆を、膝のところへ引寄せて、銀色の長煙管で、煙草を喫っていた。そして、白々とした部屋の空気を、少しも感じないように、侍女に、何かいっては、侍女と一緒に、朗らかに笑った。

「実学党崩れ、又、秩父崩れ――家中に党を立てて、相争うことは、それ以来、きつい法度にしてある筈じゃ。それを、存じておりながら――こともあろうに、由羅がどうの、調伏がどうのと――おのれら、身を、何んと見ておるのじゃ。当家は身のものじゃぞ。これっ――身が当主じゃぞ。身を調伏したり、身に陰謀を企てたりする奴等がおったなら――そりゃ、床下へなりと、天井へなりと、奥へなりと忍び込め――それは、忠義な所業じゃ。又倅の側役として、斉彬に事があれば、それも許してやろうが、高が、斉彬の倅一人の死に、陰謀が何うの、こうの――申すにことを欠いて、由羅が張本人などと――由羅は、身の部屋同然の女でないか。それを、謀反むほん人扱いにして、それで、おのれら、功名顔をする気か――公儀に聞えて、当家の恥辱にならんと思うのか――たわけっ、思慮なし。石ころ同然の手遊人形一つを証拠証拠と、左様のものを楯にとって、家中に紛擾ふんじょうを起して、それが、心得ある家来の所作か――」

 斉興は、一気に、ここまで喋って、疲れたらしく、水飲みを指さした。そして、呟き入った。

「恐れながら――」

 沈黙している一座の中へ、八郎太が、低いが、強い声を、響かせた。斉興は、湯を一口飲んで、首を延して、名越の背後をのぞき込みながら

「おのれは、何んじゃ」

 小藤次が

「裁許掛見習、仙波八郎太と申します」

「これっ――裁許掛を勤める程のものなれば、濫りに、奥へ忍び込んだ罪ぐらいは、存じておろう――」

「恐れながら――」

「黙れっ――直々の差出口、誰が、許したっ。不届者。軽輩の分際として、老職へ、強談するのか、身に――身に――」

 斉興が、興奮した手から、湯をこぼそうとするのを、由羅が、手を添えて

「将曹――二人を退げてたもれ」

「退れっ」

 斉興が、八郎太の方を睨んだ。

「御身体に障ります」

 お由羅が、人々を叱るように叫んだ。仙波が

「八郎太」

 と、口早にいって、目を配せた。八郎太が、平伏した。そして、一膝退ると、斉興が

「閉門しておれ、閉門」

 と、叫んだ。小藤次が俯向いて、にゃっと笑った。



父子双禍

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 目付、洞川右膳と、添役、宝沢茂衛門とは、沈んだ顔付をして、八郎太の手もとを見ていた。八郎太は、赤い顔をして、墨を磨りながら、御仕舞に連署している三人の名――島津将曹、伊集院たいら、仲吉利へ、押えきれない憎しみと、怒りとを感じていた。手先の顫うのを二人に見せまいと、気を静めながら、左の隅へ、自分の名を書いた。その奉書の右の方には

其方不埓儀有之これあり、食禄を召上げ、暇被下いとまくださる者也、月日、承之これをうけたまわる

 それから、その三人の名が、書いてあるのであった。八郎太が、受書をして、二人の前へ差出すと、一見してから、洞川が

「それで――」

 と、一寸、いい淀んで

「三日の内に、退転されるよう」

「三日?」

「左様」

 八郎太の顔は、怒りで、だんだん赤くなってきた。

「承知仕りました。御苦労に存じます」

 洞川は、宝沢に合図して、立上った。次の間で、小太郎が、玄関の供へ

「お立ち」

 と、叫んだ。八郎太は、坐ったまま、見送りに立とうともしなかった。

 小太郎の手柄も、八郎太の訴えたことも、総て逆転して来た。多少の咎めは覚悟していたが、追放とまでは考えなかったし、三日限りで、出て行けというのも、情け容赦のないきびしさであった。

 重豪公の放漫から、七八年前まで、藩財窮乏のために、知行の渡らないことさえあった。それに裁許掛見習などの役は、余分の実入みいりとて無かったから、御暇が出れば、すぐにも困る家であった。

「七瀬――皆も参れ」

 次の間で、行末の不安に、おののいていた七瀬らが入って来た。

「聞いたであろう」

「はい」

「何れにせよ、別れる運命になった――国許へ戻ってもらいたい。それに就いて、一つ頼みがあるが、益満の申す如く、元兇調所ずしょを、一つ、さぐって欲しい」

「はい」

「わしは、名越殿と談合の上、お国許の方々と策応して、小太郎と共に手段をめぐらそうが、或いは、これが一生の別れになるかもしれぬ」

 二人の娘は、俯向いた。深雪は、もう、袖を眼へ当てていた。

「すぐ召使の者に手当して取らせい。目ぼしいものは売却して――小太郎、益満を呼んで参れ。ひっそりしているから、留守かも知れぬが、何処にいるか、心当りを存じているか?」

「存じております」

「深雪、何を泣く。女は女として、又一分の勤めがある。泣くようでは、父の子でないぞっ。泣くなっ」

 廊下へ集まっているらしい三人の召使の一人が、すすり泣いた。七瀬は、ふらふらしそうな頭で――だが、元気よく

「綱手、門前の道具屋へ、深雪は、古着屋を呼んで来てたも」

「私がついでに」

 と、小太郎が立上った。八郎太は、もう手箱から、不用の文書を破り棄てにかかっていた。


「お父様、妾にも、何か御用を仰せつけ下さいませ」

 涙曇りの声だ。八郎太は、手箱から出てくる文書の始末をつづけながら、黙っていた。

「何んなことでも致します。何んな、辛い辛抱でも致します」

 八郎太は、手をついている深雪の眼の涙を、いじらしそうに見た。深雪は、湧いてくる涙を、睫毛で押えつつ

「お父様、決して、御手纏いにはなりませぬから――」

「お前は、江戸へ残って――」

「ええ? 江戸へ残って――お父様、残って? 一人で残るのでございましょうか」

「話をよく聞かずに、何んじゃ。そんなことで手助けができるか」

「いいえ、お父様、妾一人残りましても、御申し付けのことは仕遂げます」

 八郎太は、うつむいている綱手に

「綱手、お前は、母について国許へ参るがよい」

「はい」

「生れて三歳までしか居らなんだから、国と申しても、何んの憶えもあるまいが――よいところじゃ。お前の生れた家も、母の家も、親類達も、皆そこにある」

「幾日ぐらいかかりましょうか」

道程みちのりは、ざっと三百八十里、女の足で二月はかかろうか」

「まあ、三百八十里?」

 綱手も、深雪も、安達ヶ原の鬼の話や、胡麻の蠅のことや、悪い雲助のことや、果のない野原、知らぬ道の夜、険しい山などを、いろいろと、心細く、悲しく、想像した。

「母と二人で行けるか?」

「ええ、参ります。そして、妹は?」

「深雪には、深雪の役がある」

「何んな役? お父様」

 七瀬が、襖を開けた。召使が、膝を揃えて平伏した。

「お暇乞に」

 七瀬が、そういって、中へ入ると、小者の又蔵が

「いいえ、お暇乞でござりませぬ。ただ今、この御手当を頂きましたが、これは、御返し申します」

 又蔵は、金包の紙を、敷居の中へ押しやった。

「六年と申せば、短いようで長い――お嬢様が、十二三から、こんなに御成長遊ばしますまで、ええ、その長い間、何うか、よいところへ御縁のきまるを見てと、それを楽しみに――何も、今更になって、手当だの、暇だのと、それは一期、半期の奉公人のことで、手前は、憚りながら、坊ちゃんに、剣術を教えて頂きますのも、こんな時に、又蔵、こうこうこういう訳だが、どう思う、と、旦那様、一言ぐらい仰しゃって下さっても――」

 又蔵の涙声が、だんだん顫えて来た。

「い、いきなり、手当をやるから、出て行けって――」

「又蔵、よくわかった。忝ない。然し、明日から雇人を置く身分ではなくなるのじゃ」

「さあ、旦那、そこで――手前は、や、雇人じゃござんせん。何故、主従は三世の、家来にして下さいません。死ねと仰しゃれば死にます。出て行けと仰しゃれば――そいつだけは、御勘弁を――」


「うめえことを、云やがったのう。古人って奴は」

 富士春の坐っている長火鉢の、前と、横にいる若衆の中の一人が、小藤次の家にいる源公の顔を見て、大声を出した。

「何が?――途方もねえ吠え方をして、何を感ずりゃあがった」

「そら、千字文の初めに、天地玄黄、とあらあな。源公」

「何を云やあがる、そりゃ、論語の初めだあな」

「糞くらえ、論語の初まりは山高きが故に尊からずだあ」

「無学文盲は困るて。それは、大学、喜句きくの章だ」

「喜句の章じゃあねえ、団子の性だ。団子の性なら転げて来い、師匠の性なら、金持って来い」

「おやっ、もう一度唄って御覧な」

 富士春は、口で笑って、眼で睨んだ。一人が

「東西東西、それで、天地玄黄が、何うしたえ」

「天地玄黄の、玄の字は、黒いって字さあね。それ、千年前に、源公は、色が黒いって、古人って奴が、ちゃあんと、物の本に書き残してあるんだ。豪気なもんじゃあねえか」

「成る程、それで感ずりましましたか」

「へへへ、雀ら、そねめ嫉め、師匠の側にくっついてるから羨ましいのだろうよ。もそっと、くっつくか」

 源公は、富士春の方へ、身体を寄せた。白粉と、舞台油の匂が、微かに、源公の血の中へ流れ込んだ。

「色が黒いって、福の神は、大黒天って、こら、三助。色の白い福の神があるか? 師匠のような別嬪ぺっぴんは、玄人って云わあ。未だあるぞ、九郎判官義経って、源頼光さんの弟だ」

「大伴の黒主ってねえ、源さん」

「師匠っ、上出来っ。天下を睨む、大伴の」

「九郎助」

「稲荷大明神」

「こんこんちきな、こんちきな」

「置きあがれ、馬鹿野郎――おやおや、喋ってる間に、定公め、一人で、煎餅を食っちまゃあがった」

「手前の洒落しゃれより、煎餅の方がうめえ」

 格子の開く音がして

「頼もう」

 若い侍の声であった。それに応じて、富士春が

「はい」

 と、店の間をすかして見た。若い衆が

「暫く、士連中の弟子入りが無かったが――」

 と、呟きつつ、御神燈の下を眺めた。

「おやっ」

 富士春は、裾を押えて立上った。二三人が、押えている裾のところをちらっと見た。倹約令が出て、いくらか衰えたが、前幅を狭く仕立てて、歩くと、居くずれると、膝から内らまで見えるのが、こうした女の風俗であった。そして、富士春は、今でも、内股まで、化粧をしている女であった。

「暫く」

 と、小太郎の前に立った富士春は、紅縮緬べにちりめんの裏をなまめかしく返した胸のところへ、わざと手を差入れて、胸の白さを、剥き出しにしていた。


「益満は?」

「休さん?」

 富士春は、こう云っておいて、すぐ

「もう見える筈――お上んなさいましな」

 小太郎は、土間へ眼を落したままで

「間もなくで、ござろうか」

「今しがた、南玉先生も、お尋ねに見えて、いつも、もう見える時分、町内の御若衆ばかりゆえ、御遠慮はござんせん」

 源公は、小太郎をじっと眺めていたが

「不憫や、この子も」

 と、大声に云って

「素浪人」

 と、小太郎に、聞えないように、小さく呟いた。そして

「お上んなせえまし」

「おもしろい方ばかりで――」

暫時ざんじ、では、ここにて、待ちましょう」

 小太郎は、上り口へ、腰をかけた。

「そこは――」

 富士春は、両膝をついていたが、こう云うと、片膝を立てた。乱れた裾から、白い肌、紅縮緬が、小太郎の顔を、赤くさせた。富士春は、小太郎の耳朶の赤くなったのに、微笑して

「では、こちらへ」

 小太郎の、腰かけている後方から、小太郎の後方の格子の前に重ねてある座蒲団を取るために、手を、身体を延すはずみ、左手を、軽く、小太郎の腰へ当てて

「少し手が――憚りさま」

 ぐっと、小太郎の背中へ、身体を押しつけて、届かぬ手を、延していた。小太郎は、周章てて、身体を引きながら、素早く、横にある蒲団をとった。

「えへん、えへん、えへん」

 一人の若いのが

「きゅっ――きゅっ」

 と、大きい声を出した。源公が、出し抜けに

「浪人って、いいものだのう」

「芝居で見ても、小意気なもんだ」

「然し、扶持離れになると――」

 小太郎が、じっと、その方を見た。自分へ当てつけているような感じがして、腹が立ってきた。

「源さん、憚りさま、お湯を一つ」

「へいへい、一つと仰しゃらず、二つお揃いで、持参致します。憚りさまやら、茶ばかりさん」

 源公が、湯呑を二つ両手にもって、店の間へ出た。そして

「へへへへ、うぞ」

 小太郎は、何っかで見た顔だと思った。そして、考えると、すぐ、いつか、掏摸の手首を折った時、正面に、鋸を持って、喚いていた男だと思った。

(浪人、扶拝離れ)

 と、いう言葉は、十分に意味がある、小藤次から聞いたのであろう――と思うと、怒りで、頭が濁って来た。張りつめて来た。途端、荒い足音が、近づいて、手荒く格子が開いた。

「おやっ」

 益満が、土間へ入ると、小太郎を見て、すぐ、源公へ、じろっと眼をやった。そして

「富士春、罪なことをするなよ」

 と、笑った。


「仙波、今聞いた、御暇だとのう」

「それについて、父が、何か智慧を借りたいことがあるらしいが、同道してくれんか」

 益満は、土間に立ったままで、腕を組んだが

「断ろう」

 小太郎が、眼を険しくして、立上った。

「何故」

「何故か?――わしらの見込みがちがうらしい。名越にも今逢うたが――陰謀などと跡方も無いことじゃ」

 富士春が

「休さん、話なら、ゆっくりと上って」

 源公は、じっと聞いていたが、立上って、奥へ入った。だが、敷居際で、じっと、耳を立てていた。

「それに、斉興公が、このことについて、大の御立腹だから、手出ししては損じゃ。小太のところは、然し、気の毒ゆえ、餞別を集めるつもりで、実は今まで、駈けずり廻っていたのだが、小太――斉彬公のお袖にすがって、御助力を願ってみぬか、それなら、わしも――」

「断る」

 小太郎は、赤くなっていた。富士春が

「何んの話か、妾には、判じられんが、休さん、折角の――」

「婆あ、黙っちょれ」

「まあ」

 と、いった途端、小太郎が

「御免っ」

 立上ると、益満の肩に、ぶつからんばかりにして、開けたままの格子から、出て行ってしまった。

「もし」

 富士春が、素早く、格子のところへ立って、往来へ叫んだが、姿も答えも無かった。

「親爺相伝の、野暮天野郎だ。富士春――あいつを射落してみろ。男はよいし、身体はよいし、抱き甲斐があるぞ」

情夫まぶに持とうか」

 益満は、上って奥へ入りながら

「よい男じゃが、下らぬことをしでかして、御払箱に、なりよった」

「浪人?」

「引取って、養ってやってくれ」

「随分――」

「では、町内会議を、開くか。お集まり、御歴々の若い衆方々、富士春が、人形を食べたいと申します」

 益満が、こういって、人々の挨拶を受けながら、坐ると、源公が

「あの方には、御器量よしの妹さんがお二人あるという話じゃござんせんか」

「うむ、それで、わしらの住居を、小町長屋と申すのう」

貴下あなたとの御関係は?」

「わしか、わしは、御国振りで、あの小太郎が、よか雅児、二世さんじゃ」

「それに、又、何うして、ああ手強く」

「いくら可愛くとも、あいつの浪人と一緒に、食わず交際は、真平だ。この師匠なら、食わんとも可愛がるか知れんが」

「ええ、そうとも、浪人の、一人や、二人、達引たてひく分にゃあ――」

「町内から、追い出してしまう」

「そんなことをいうと、ここから、追い出す」

「そいつあいけねえ」

 益満は、じっと、天井を眺めていたが

「もう二三軒、餞別を集めてやろう。後刻に又――」

 立上って、すぐ、表へ出てしまった。


 益満の気紛れ、奔放は、十分に知っていた。然し、いざとなった時に、利欲につくのは――益満だけに、許しておけなかった。

 小太郎は怒りに顫えながら、不信の態度に歯噛みしながら、富士春のところを飛び出して来たが、ふと、佇むと

(引返して斬り捨ててやろうか)

 と、思った。

 重い空から、小雨が降りかけてきた。往来の人々は、小太郎に、気もかけず、急ぎ足に、小走りに――すぐ、ちらちら、傘をさす人さえ見えてきた。

 小太郎は、歩いているのか、走っているのか、わからなかった。頭の底に、重い怒りが、沈んで燃えていた。血管の中の血までが、怒っていた。その時

可愛や、あの子は、浪人かあ

 大きい声であった。浪人と、いう言葉が、その怒っている頭を、針のように突き刺した。小太郎が振向いて、声のした家を、睨むと

不憫や、明日から、野伏のぶせりかあ

 二人の職人が、家の中の板の間へ坐って、雨の降ってくる往来を見ながら、小太郎の振向いた顔へ、にやっと笑った。

 独り言だろう、と、思っていたのが、自分への当てつけらしいので

「何?」

 と、小声で、叫んで、立止まった。職人が、それに応じて

「何んでえ」

 職人のからかいとしては、余りに乱暴な態度であった。小太郎は、一足踏み出したが、すぐ

(たわけた――)

 と、思い直して、歩もうとすると

「馬鹿野郎っ、素浪人の、痩浪人、口惜しかったら出て来いっ」

 二人の職人は、腕捲りをして入口まで出て来た。小太郎は、怒りの中から、二人の不審な態度に、疑いを抱いて

(此奴ら、何処の、誰か――)

 店をじっと見ると、顔の色が変った。

(小藤次の家だ)

 手が、脚が、顫えてきた。

(この職人づれまでに、もう、浪人になったことが判っている以上、小藤次の指金――それは、お由羅の指金――)

 そう思うと、小藤次が何っかの蔭から、冷笑しているように感じた。こういう侮辱を受けて、そのまま、通りすぎることは、出来なかった。小太郎は、脇差を押えて、小走りに、その家の軒下に走りよった。職人が

「やあい」

 と、叫んで、一二間、板の間を逃げ込んだ。小太郎が、入口に立って

「出ろっ」

 と、叫ぶと、別の声で

「出てやろう。へへ、お主ゃあ、俺を見忘れたか。手首を、折られの与三郎だあ」

 口で、おどけながら、凄い目をして、両手を懐に、木屑、材木の積んであるところから立上ったのは、掏摸の庄吉であった。

「うぬは、おれの仕事を叩っき折りゃがったが、うぬも、明日から日干しの蛙だ。はいつくばって、ぎゃあと鳴け。頭から、小便ぐれえ引っかけてやらあ」


「何っ」

「何は、難波の船饅頭」

 庄吉は、ぺろりと舌を出して、眼を剥いた。小太郎は、憤怒に逆上した。

「たわけっ」

 下駄のまま、板敷へ、どんと、片脚踏み込んで、側の木片を握った時

「小太郎っ」

 障子が開いて、小藤次が、次の間から板の間へ飛び降りた。小太郎は、木片をもったまま

「不埓なっ、通るを見かけての罵詈雑言ぼりぞうごん、勘弁ならぬ――」

「馬鹿っ」

 一人の職人が、木片を、かちんと叩いて

「東西東西、この場の模様は、いかがに相成りまするか」

「えへん」

 一人が、空咳をした時、小太郎は後方に人の動きを感じた。振向くか、向かぬかに、跳りかかる一人の男と、その手に閃く棒とを見た。その瞬間、小太郎は、反射的に、身体を伏せたし、小太郎の手は、平素の修練で、咄嗟とっさに、延びていた。男が

(しまった)

 と、よろめき、小太郎が、腕に、重みを感じた時

「ええいっ」

 小太郎自身が叫ぶよりも、腕が、咽喉に叫ばしたのだった。男がよろめいて、前へのめる力を、そのまま引いて、さっと、太腿を払った引倒しの一手。どどっ、板の間に、壁に、天井に響いて、男はうつ伏せに、倒れてしまった。棒が、からんからんと、板敷へ音立てて転がった。小太郎は蒼白まっさおな顔をして、突立った。

「やいっ、仙波っ、小倅」

 小藤次は、刀へ手をかけて怒鳴った。

「うぬは、もう、素浪人だぞっ。土足のまま人の家へへえりゃあがって、この泥棒め。勝手に、人の宅へ入りゃあ、引っ捕えて、自身番へ渡されるのを知らねえか。この野郎」

 小太郎は、前から企んでいたはかりごとだと感じた。

(いけない、長居しては――)

 一人を叩きつけたので、いくらか、胸が納まった。

 板の間へ叩きつけられた男は、起き上らなかった。小太郎が、出ようとすると

「殺しゃあがったなっ――人殺し」

 と、一人が叫んだ。

「えらい血だ」

「医者っ」

「役人を呼んで来いっ」

「逃すな」

 奥からも、向い側からも、人が走り出して来た。

 抱き上げられた男は、口から血を流していたし、鼻血で、頬も、額も染まっていた。眼を閉じて、唸っていた。何を叫んでも、返事しなかった。

「人殺しだっ」

 往来の人々が叫んだ。雨の中を近所の人々が、傘もささずに駈けつけた。そして、小太郎を恐ろしそうに避けて、板の間へ集まった。庄吉は懐手のままで、微笑して立っていた。小太郎は、動くことができなかった。


「除けっ、除けっ」

 その声と共に一

「御役人だ」

 と、人々が、呟いた。

 小太郎は〈[#「小太郎は」は底本では「小太部は」]〉、立っている大地が、崩れて、暗い穴の中へ陥って行くように、絶望を感じた。だが

(取乱してはいけない)

 と――父のこと、母のことよりも先に、武士として立派な態度をとりたいと感じた。

「何うした」

 自身番に居合せた小役人は、小藤次と顔馴染であった。小太郎を、じろっと見たまま、職人にこう聞いた。

「そいつが、常を殺しゃあがったので」

 役人は、小太郎に

「何れの御家中で――」

「薩藩――」

 と、口に出して、黙ってしまった。その途端

「薩藩? 巫山戯ふざけるねえ。得体の知れねえ馬の骨のくせに、薩藩? 一昨日おととい来やがれ、この乞食侍」

 庄吉が怒鳴った。小藤次が

「昨日までは、俺んとこの下っ端だったが、不都合をしゃあがって、お払箱になった代物だ。一つ、しょっ引いて行ってくれ。人の骨を折ったり、殺したり、近所へ置いとくと、危くっていけねえ」

 役人は、小太郎の手を握って

「とにかく、番所まで――」

 抵抗したとて、素性の知れた身として無駄であった。だんだん多くなってくる群集に、見られたくもなかった。

 小太郎は、無言で、役人と肩を並べて歩き出した。群集が、左右へ分れた。

 雨は少し烈しくなって来て、道が泥濘ぬかるんできた。小太郎は、いつの間にか、跣足はだしになっていた。髪が乱れていた。頭から、びたびたかかる雨の中を、人々の眼を、四方から受けて、自身番の方へ、引かれて行った。

「常っ」

「うむ」

「死んじゃいねえや」

「ぺっ」

 常公は、唾を吐いた

「こいつ、物を云ゃあがる。死んだんじゃあねえや、やいっ、しっかりしろ」

「しっかりしてらあ。ああびっくりした。眼から火が出るって、本当に出るもんだのう」

 常公が起き上った。

おいらあ、殺されると、思ったよ。死んだ振りを、していたが」

「こん畜生っ、びっくりさせやあがって」

「あれっ、前歯が折れてやがらあ」

 常は、指を口の中へ突込んだ。小藤次が

「よかった。仙波の小倅め、しおしおと引かれて行きあがって、いい気味だ。庄っ、溜飲が下っただろう」

「溜飲は下ったが、常公、睾丸きんたまがちぢみ上っちまったぞ。血だらけの面をして、眼を剥きあがって」

 人々が、笑いかけた時、表口に集まっている人々の背へ、眼をくれながら、益満休之助が、傘を傾けて、急ぎ脚に、通って行った。


 玄関脇の部屋で、又蔵が、古着屋を相手に、いくらかでも高く売ろうと、押問答をしていた。

 綱手と、深雪とが、七瀬が、旅着と、その着更のほか、白無垢まで持ち出してしまったので、新調の振袖も、総刺繍ぬいの打掛も、京染の帯も、惜しんでおれなかった。

「これは、二度着たっきり――」

 綱手は、甚三紅じんざべにの絞りになった着物を、肩へ当てて、妹に見せた。深雪は、涙ぐみながら、大久保小紋の正月着、浮織の帯、小太夫鹿子の長襦袢、朧染の振袖と、つづらから出して、積み上げた。

 七瀬は、夫の着物を出して、えり分けた。八郎太は「道中細見」の折本を披げて、大阪までの日数、入費などを、書き込んでいた。

「十五両? 馬鹿申せっ、人の足許へ付け込んで。この素ちょろこ町人め。又蔵、日影町へ一っ走りして、もそっと人間らしいのを五六人呼んで来い。わしが売ってやる」

 益満が、大きい声を出していた。そして、荒い足音がすると

「小太っ、怒ったか」

 と、怒鳴って、襖が開いた。

「おお、益満」

「これは」

 益満が、御辞儀をした。

「小太郎は?」

足下そっかを探しに参ったが――」

「はて――」

 益満は、坐って

「そこの遊芸師匠の家で――丁度小藤次の若い奴がおりましたので、小父貴だの、小太郎を毒づいて、お由羅の耳まで入るよう、一寸、小刀細工をしたが、小太め、本気にとりましての、かんかんになって駈け出して行ったが、戻らないとは」

「たのみがあるが――」

「何を――」

「暫く、深雪はあずかってもらいたい」

「そして、小父上は?」

「妻に、調所のもとを調べさせ、わしは、牧の在所ありかを突き止め――」

「御尤もながら、今度のことは、一人二人の手で、何んとも仕様のないことで、証拠も握れましょうし、陰謀の形跡も、調べてわからぬこともないが、さて、何うそれを処分するか? もしこれに、斉興公が御同意なら、取りも直さず、斉彬公のために、その父君を、罪に処すことになる。同志の苦慮するところはここで――」

 益満は、声をひそめた。

「万一の時には、久光殿を――」

 指を立てて、斬る真似をした。

「禍根は、ここにござりましょう」

 八郎太は、返事をしないで、益満の顔を眺めていた。

「極秘、未だ同志にも語りませぬが、久光様の御側小姓を一人、引入れて――」

 二人は、じっと眼を合せた。八郎太にとって、益満の底知れぬ、そして、大胆な計が、少し薄気味悪かったし、益満は、一本気なこの老人に、ここまで話していいか、悪いか――八郎太の様子をうかがった。

「まあ、雨がひどくなったのに、小太郎は」

 七瀬が、独り言のようにいった。


 雛人形を、膝の上で、髪を撫でたり、襟をいじったりしていた深雪が、七瀬の声に、周章てて

「お迎えに行って参じましょうか」

 人形を、箱の中へ入れて、じっと、眺めていた。益満が

「四国町の、湯屋横町に、常磐津の師匠がいる。そこからこの町、心当りを聞けば、判るであろう」

「はい」

 深雪は、人形に、小さい声で

「これで、お別れ致します。他所よその可愛いお嬢さんに、たんと可愛がってもらいなされ。さよなら」

 両手を、人形箱の前へついて、御叩頭した。薄い涙が眼瞼に浮いていた。

「行って参じます。お母様、妾の戻らぬうちに道具屋を呼んでおいて下さいませ」

 襖越しに、こう云って

「ああ」

 と、七瀬の気のない返事を聞くと、もう一度、人形を取り出して、頼ずりをした。一尺余りの古代雛は、澄んだ眼を、うるましているようであった。深雪は、雛の頭を撫でながら、もう一度自分の頬を頬へくっつけていたが、

「手柄を立てて、元の身分になるまで、辛抱して下されや」

 と、雛の耳に囁いた。そして、撫でて乱れた髪を、自分の櫛で解いて、そっと、箱へ納めた。

「もう、売らねえ」

「そういわずに、三十両で」

「手前、根性が、腐ってるから厭だ。おれが、一分や二分もらって、主家の品を安く売る男と思ってるのか」

 又蔵が、古着屋に怒っていた。深雪は、傘をさして、門口を出た。表門から、往来へ出ると、雨合羽、饅頭笠の人々が、急ぎ足に行き通っていた。

 四国町の自身番の、粗末な、黒い小屋の前に、人が集まって、何か覗き込んでいたが、深雪は、人から、顔を見られるのが厭なので、傘を傾けて通った。

 大きい達磨を書いた油障子の立ててある髪結床の前に、薬湯と、横板の看板のかかった湯屋があった。その横町の泥溝沿いに入って行くと、軒下に、小さい紅提灯がつるしてあって、中を覗くと、一坪程の土間に、大提灯が、幅をしめていた。

「あの――」

 男が、大勢坐っていたので、どきっとしながら

「仙波と申します者が、お宅に――」

 男達が、ざわめいて、二人、同時に立上った。一人は、一人を、手で押して

「ええ? お出でなさいまし。至って、おとなしいのが揃っていやすから、ずっと」

「あの、仙波と申す若い侍が」

「師匠っ。さっきの方は?」

 富士春が立上って、小走りに出て来て

「貴女様は」

「仙波の妹でございます。先程、益満様を尋ねて、こちらへ参りましたが、もしか、まだ――」

 富士春は、黙って、深雪に見とれていた。


「まあ」

 暫く顔を見てから、富士春が

「お妹様で――まあ」

「お宅へ伺いましてから、何処へ参りましたか、御心当りでも、ございましょうなら――」

 泥溝板が、ことこと鳴って

「猫、鳶に、河童の屁か」

 大声で、怒鳴りながら、庄吉が

「今日は」

 と、格子口から叫んだ。そして、深雪を見ると、身体を避けて

「御免なすって」

 おとなしい口をきいて、御辞儀をした。

「珍しい。手は直ったかえ」

「人形の首を、飯粒でくっつけるようにゃあ行かねえや」

 庄吉が、深雪を盗み見して、その横を、そっと上って行った。

「さあ、手前共から、お出ましになって、何処へいらっしゃいましたか」

 と、富士春が云った時

「へえ、そうかい、お嬢さんが――」

 庄吉は、源公へこう云って、深雪の方を見た。深雪は、男達が、自分を、じろじろ眺め、噂をしているので、少しでも早く、出て行きたかった。

「では、御邪魔致しました」

 深雪が、お叩頭をした時

「お嬢さん、一寸、仙波の小太さんを、お探しですかい」

「はい」

 庄吉は、こう云ったまま、入口からさす薄曇りの光を、背に受けて、白々と浮き出している深雪の顔を、じっと、凝視めていたが

「あっしゃあ、お行方を存じていますんで」

「兄は、何ちらへ?」

「それがね――」

「おい、庄っ、おかしな考えを出すな」

「それが――一寸」

 庄吉は、こういって立上った。そして、富士春のいるところへ来て

「訳ありで――話をせんと判りませんが――ええと、外は雨だし――然し、御案内旁々かたがた、お話し申しやしょう」

 源公が

「庄公っ、よせったら」

「うるせえ、手前、そんなら、行方を知ってるか」

「そんなことあ――」

「知らなけりゃ引込んでろ」

 庄吉は、土間へ降りた。

「お嬢さん、すみませんが、傘を一つ、差しかけて下さいませんか。手が、いけねえんで。済みませんが――つい、近所で――」

 庄吉は、武家育ちの深雪の態度と、その美しさとに気押されて、軽い口をききながらも、眼は伏せていた。富士春が

「庄さん、本当に知っているのかい」

「知っているとも――おいら、こんなお嬢さんに、嘘を吐くような悪じゃあねえ」

「そら、そうだけど」

 深雪は、庄吉の、いうこと、することに、腑に落ちぬところはあったが、白昼、町の真中であったから、二人の相合傘を人に見られるほか、安心していてもいいと、考えていた。


「そのねっ」

 庄吉は、格子戸を出ると

「ひょんなことがありましてね――」

 庄吉は、泥溝板を、ことことさせながら、こう云ったまま、黙ってしまった。深雪は、自分から、口を利きたくなかったが

「ひょんなこととは?」

「それが、その――実、全くの、ひょんなことでね」

 庄吉は、こう云ったまま、又、黙ってしまった。往来へ出ると、人々が、二人を振向いて眺めた。

「急ぎますから――」

「ええ、お嬢さんは、今、お邸からいらっしゃいましたか」

「はい」

「四国町の自身番に、人だかりがござんしたでしょう」

「はい」

「それなんで――お兄上様は、其処にいらっしゃいますが――」

 深雪は、庄吉の顔を見た。胸が、ぎくりとした。

「自身番?」

「ええ、それがね」

「やってやがらあ」

「やいっ、庄公っ」

 二人が通りかかった小藤次の家の中から、一人の職人が、怒鳴った。

「お話し申さんと、判りにくうござんすが」

 薄暗い家の中から、小藤次が、じっと、深雪を眺めていた。そして

「庄公、一寸」

 庄吉は、ちらと振向いて

「ええ、すぐ、後から――」

 そして、深雪に

「今の、御存じですかい」

 深雪は、家の中へ振返った。小藤次と、眼が合った。

「いいえ――彼処あすこは、お由羅様の、御生家でござりましよう」

「ええ、今のが、兄貴の、岡田小藤次利武でさあ」

 深雪は、もう一度、しっかりと顔を見ようかとも思ったが、汚らしいものを見るような気がした。

「話さんと判りませんが、あっしゃあ、実は掏摸でござんしてね」

「掏摸?」

「巾着切り、人様の――」

 深雪は、傘と、身体を、庄吉から放した。庄吉は、周章てて、手を振りながら

「ここから、話さんと、よく判りゃせん。お嬢さん、掏摸は、悪者じゃあござんせんよ。小藤次なんかと一緒になすっちゃ――お兄さんとは、一方ひとかたならん関係のある、あっしで、こと細かに、今、申し述べやすがね、この手を」

 といって、片手を、懐から出した。大きく布で手首を包んであった。

「こいつを、お嬢さんの、兄さんが、折ったのでござんすが、こいつあ、確かに、あっしが悪かったんでげす」

 自身番の前は、まだ、人だかりであった。深雪は、本当とも、嘘とも判らぬ話を、妙な男から聞いているよりも、早く、兄のことを確めたかった。

「お嬢さん、お供いたしまして、お兄さんの前で、申しましょう」

 庄吉は、こういいながら、じっと、深雪の頬、襟足を眺めて、ついて行った。


 辻番所の前には、まだ人が集まっていた。傘と、傘とが重なり合って、入口も、屋根も見えなかった。

「ちょいと御免なさい――お前さん、ちょいと、肩を片づけてくんな」

 庄吉は、右手を懐に、頭から雨に濡れながら、群集を、左手で、肩で、言葉で押し分けて入って行った。

「やいっ、肩を押しゃがって、何んだ」

「お嬢さんのお供だ、おっかない顔をしなさんな」

 庄吉の後方に、傘をすぼめて、顔を隠した深雪がついていた。人垣を抜けると、番所の入口に、仲間ちゅうげんが一人、番人が一人、腰かけていた。薄暗い中の方に、四五人の士姿が見えた。庄吉が

「今日は」

 番人は庄吉への挨拶をしないで、その後方に佇んだ深雪を、怪訝けげんそうにじっと眺めた。

「まだ、お調べ中かい」

「うん」

「何んだか、大勢、見えてるじゃないか」

「三田の御屋敷から、今見えたのだ」

 深雪は、一心に、中の方を見て、兄の姿、兄の声を知ろうとしていたが、今の番人の言葉を聞くと、胸をどきんとさせて、その顔をちらっと見た。番人は、庄吉の蔭になっている深雪の顔へ、顎をしゃくって

「何んだえ」

 と、庄吉に囁いた。

「あの士の妹さんさ。ちょっと、逢いてえが、いいかい」

「願ってみな」

 庄吉は、土間を、中戸の方へ行って、小腰をかがめて

「御免なさいまし」

 一人が、振り向いたが、じろっと庄吉を見たまま、黙って、元の方へ顔をやった。庄吉は

(こん畜生っ、何を、威張ってやがる)

 と、憤りながら

「一寸、お願い申しやす」

「何んだ、貴様は――」

 又、その侍が振向いて、睨んだ。そして、深雪が、群集の前に、浮絵のような鮮かさで立っているのに気がつくと、じっと、その顔へ、見入ってしまった。庄吉は、心の中で

(この甘酒野郎。女の顔を見て、とろとろにとけてやあがる)

 と、冷笑しながら

「ただ今のお侍衆へ、あの、お妹さんが、一寸お目にかかりたいと――」

「あれが、妹か」

 そういった時、中の三人の侍も、深雪に気がついて、入口へ眼をやった。深雪は、それに気がついて、俯向いてしまった。

不埓ふらちなっ」

 その時、出し抜けに大声がして

「邸へ戻って、御差図を待て」

 早口の、怒り声が聞えると、横目付四ツ本が、二三人の侍の中から姿を現した。そして、深雪を見た。そして、主人の出て来たのに周章てて立上った仲間と、二人の侍をつれて、深雪の叩頭に、軽く御辞儀と一瞥いちべつを返しながら、群集の二つに開く中を出て行った。深雪は、暗い内部に動く人影があったので

(兄?)

 と、思った時、小太郎が、蒼白めた頭に、怒った眼をして、暗い中から出て来た。深雪の顔と合った。二人はすぐお互に眼を外らした。


「探しにか」

「はい」

 群集は、二人を見て、何か囁き合った。

「何うなされました」

「傘を貸せ、話は戻ってからだ」

 小太郎がどんどん番所を出て行くので、深雪は、土間の隅に俯向いている庄吉に

「いろいろと、お世話でございました」

「何ね」

 庄吉が、そう云って顔を上げた途端、妹の今の言葉に

(誰に、礼を云っているのかしら)

 と、思って振返った小太郎の眼と、庄吉の眼とが、ぴったり合った。小太郎が鋭く

「深雪っ」

「只今」

 深雪は、もう一度、庄吉に頭を下げて、群集の眼の中を出て行った。

「何んだ、庄公か」

 小太郎の出て来たうしろから、証人に呼ばれて来ていた職人が出て来た。

「別嬪だなあ――庄、上々に行ったよ。お邸からすぐ、横目付が来てね。邸から、明日とも云わず、叩き出すって――おいらあ、胸がすっとしたよ」

「そうかい」

「こいつ、何をぼんやりと――庄公っ、あの女に惚れやがったな」

 職人が、太い声をした。辻番人が

「いい女だなあ。屋敷者には、一寸、稀らしい玉だぜ」

「女郎に売ったら儲かるだろうな」

 庄吉は、黙って、往来へ出た。群集は、どんどん散り始めて、番所近くの人々が、四五人しかいなかった。

(あの兄貴の野郎にゃあ、怨みがあるが、妹にゃあ、何んの怨みもねえのに、あの小太と一緒に、浪人になって――邸を追い出されて――待て待て、俺は一人だから、片手折られても、何うにでもなるが、あいつのところは大勢――大勢でなくったって、あの妹一人だったって、怨みもねえのに、これから、浮世の苦労をさすってことは――俺一人の仕業でないにしても、男として、寝醒めがよくねえや。兄貴の奴あ、何うなってもいいが――うんにゃ、兄貴の野郎が何うにかなると、妹も何うにかなる――こいつあ、いけねえ。あん畜生、一人きりが、ひでえ目に逢わなくちゃ、物の理前りめえが合わねえ。罪も、咎も無い、あの別嬪が、巻きぞえ食うなんて――おらあ、あの女に手を折られたのじゃねえ、だから怨みもねえのに、畜生っ――何うしてあんな別嬪の、可愛らしいのがいやがったんだろう。早く知ってたら、小藤次の告げ口だって、止められたのに――掏摸だって、庄吉あ、真直な男だ。物の理前に合わねえことはしたくねえ――)

 庄吉は、雨の中を、軒下伝いに、ぼつりぼつり歩き出した。

(少しゃあ、惚れたかな。あのくらいの女になら、惚れたって無理はねえ――然し、惚れていなくったって――こいつは、何んとか、考えんと、俺の男にかかわる。家業は巾着切でも、小藤次なんかたあ、憚りながら、人間の出来がちがうんだ)

 庄吉は、三田の薩摩屋敷の方へ、歩くともなく歩いて行った。兄妹の姿は、何処にもなかったし、人通りも少かった。庄吉は、俯向いて、片手を懐に、肩から、尻まで雨に濡れて、しおしおとした姿だった。


 火灯ひともし時に近くなってきた。

「仙波八郎太は、在宅か。横目付四ツ本だ」

 玄関で、大きな声がした。七瀬と、綱手とが、八郎太に不安そうな眼を交えて、立とうとした。八郎太が、眼で押えて

「わしが行く」

 すぐ立って行った。八郎太が玄関へ出ると、四ツ本の後方に、小者が四人ついていた。八郎太には、すぐ、何んのための使か判った。憤った血が、米噛でふくれ上った。八郎太は立ったままで

「何用か?」

 四ツ本は、一言の挨拶もなしに、いきなり、そういう物のいい方をした八郎太に、暫く、物もいえぬくらいに怒っていたが

「小太郎に、上を憚らざる、不届の所業があったゆえ、ただ今から、屋敷払を命ずる。すぐ立退け」

 下から、八郎太を見上げて睨んだ。八郎太は、覚悟していた。然し、こんなに早いとは思わなかった。

「それは――お上からのお沙汰か? 重役からか、それとも、貴公一人の所存からか」

「何?――」

「扶持のお召上げは、お上の心、お指図によらねばならぬし、屋敷払いに、三日の猶予を置くことも、慣わしになっておるが、今の口上は、お上から出た沙汰か――それとも、外からかと申すのだ」

「何れにてもよろしい。すぐに、退去せい」

 八郎太は、鯉口を握った。小者達が、驚愕の眼を動かした。

「聞かぬうちは――ならぬ、ってとあらば、対手するぞ」

「対手に?」

 四ツ本は、八郎太の鋭い気配に押されまいと、身構えた。

「食禄を離れた以上、貴公等一存の指図を、受ける訳がない――」

「食禄を離れた上は、指図を受けるも、受けんもあるか? ここは、島津家の御長屋だ。それに、一時たりとも、縁も、ゆかりも無い浪人者を、住まわしては置けぬ」

「こ、この、たわけっ」

 八郎太が、大声を出した。四ツ本は、すぐ、鯉口へ左手をかけた。

「横目付ともあろうものが、よくもたわけた横車を押したな。役目の表として、恥でないか、役目を汚したと判らぬか」

 八郎太は、口早に、たたみかけた。

「食禄召上げ程度の者には、三日五日の立退き期間を与えるのは、独り、御当家のみならず、天下の憤わしだ。慣わしは、これ、掟より重い。その掟を、目付風情如きが破るは、上を軽んじ――いいや、上を傷つける不忠の振舞。もし、お上の命ならば、これを止めるが道でないか? しかも、拙者は、斉彬公の直臣、一言でも、斉彬公にこの事を計って御許しでも受けたか? まさか、かかる不法の振舞を、お許しなさる公でもあるまい。又、浪人者と――いかにも、扶持離れした以上浪人だ。その浪人の拙者に、島津家が、天下の掟を破ってまでも、二度の処分をしようと申すのか。天下の慣わしを破り、浪人までも支配しようと申すのか。四ツ本、汝の支配を受ける八郎太でなくなっておるぞ。町奉行同道にて参れ」

 八郎太は、怒りに顫えて、いい終ると、自分を押えて冷笑した。


 八郎太の冷笑へ、四ツ本も、蒼白な顔の脣に、微笑をのせた。

「成る程――」

 暫く、こういったまま、黙っていてから

「この処分は、その方へではない。小太郎の不届に対して――」

「小太郎が、どこで、不届をした」

「岡田小藤次の家へ土足のまま乱入し、弟子を傷つけたのは、不届でないか? それとも、知らんとでも申すか?」

「倅から聞いた。不届千万じゃ」

「よって――」

「だ、黙れっ。いよいよもって奇怪至極。浪人者の倅の働いた狼藉を、何故、島津家からわざわざ取調べに参った? それとも、南北町奉行所から、貴公に立会えとの御通知でもあって参ったのか? 当邸内なら、いざ知らず、既に浪人した小太郎が、町家での所業を、わざわざ以て、何が故に、島津家の横目付が出かけた。三田四国町の岡田小藤次ならば、お由羅の方の兄であろう。主君の愛妾の兄の家ゆえに、町奉行の職権を犯してまでも、処置をしに参ったか? 目付とは、何んじゃ。人の不正を見て、これを正すのが役でないか? その目付が、自ら、法をげて、軽々しくも、辻番所へ出張するなど、近頃以て、奇怪千万。島津の目付が、町奉行の下働きになったなど、いつ頃からか、後学のために聞こう。四ツ本、いつから、町奉行の下役になった?」

 仙波の表に、二三人の人が立って、二人の高声を聞いていた。小太郎も、七瀬も、姉妹も、不安な胸の中にも、四ツ本をやり込める父の言葉を微笑しながら、聞いていた。小太郎は、四ツ本から見えるところへ、身体を出して、左手に太刀を立てて、じっとその顔を睨みつけていた。

 四ツ本は、八郎太が、こんな強硬な態度で、こんな理窟をいおうなどと、考えてもいなかった。蒼白になって、拳を顫わせていた。云い込められた口惜しさに、脣が、びくぴく痙攣していた。

「よしっ――」

 四ツ本は、鋭く叫んで、身体を斜にした。そして

「道具を運び出せっ」

 と、小者の方へ、手を振って指図した。小者が一足踏み出すと、八郎太が、式台へ片足を音高く踏み下ろして、脇差へ手をかけた。小太郎が、兎のように飛び出て来て、三尺に近い刀を、どんと、式台へ轟かした。小者達は、そのまま止まってしまった。

「何うなされた」

 表に見物していた家中の一人が、入って来て、声をかけた。四ツ本は、激怒で、口が利けなかった。八郎太が

「人間、切腹の覚悟さえあれば、何も、恐ろしいものはない――叩っ斬って腹を切るまでだ」

 と、独り言のように、大きく呟いた。

「四ツ本氏」

 四ツ本は、黙っていた。

「仙波氏も、穏かになされたら――」

 と、いった時

「よしっ、人数をかりても、処置はする」

 八郎太と同じように、独りごちて、四ツ本が出て行ってしまった。小者も、すぐ、四ツ本にいて出てしまった。

「馬鹿がっ」

 八郎太は、身構えを解いて、吐き出すように呟いた。


「小太郎、表を閉めて、あらましの品を、庭から、益満のところへ運んでおけ」

 八郎太は、こういって、小走りに部屋へはいると、小者に、鎧櫃よろいびつの一つを背負わせ、自分もその一つを背にして、垣根から、益満の廊下へ運んだ。益満は留守らしく、勝手口から、爺が出て来て

「旦那様」

「物を運ぶから頼むぞ」

「手前も御手伝い致します」

 三人が、垣根のところへ引返すと、七瀬と、綱手とが、大きい包物を持って来た。小太郎が、仏壇を抱いて、よろめきつつ、廊下から降りて来た。深雪は、人形の箱と、位牌を持って

「危い」

 小太郎の後方で、重さによろめく小太郎の脚へ眉をひそめていた。庭の土は、雨で泥になっていた。垣根は、茂った葉で、一度跨ぐと、裾がぐしょぐしょになった。父子が、雨に打たれながら、二三度往復した時

「開けろっ」

 表が、けたたましく叩かれた。八郎太が、縁側から

「深雪、早くっ」

 と、叫んだ。深雪は、周章てて垣根に袖を引っかけながら、入って来た。

「たわけ者が又うせおった」

 と、自分も、着物の濡れたのを拭きながら、裾を、肩を気にしている娘に、小太郎に

「わしらのすることは、これからじゃで、今、何をされても、手出しをしてはならぬ」

 そう云って、小太郎を見た。小太郎は

「よくわかっております」

 戸が、苦しそうに、軋り音を立てた。御家の邸内で、厳しい用心がしてないから、すぐ、閂が外れたらしく、土間へ棒の転がる音がした。

「仙波っ――仙波」

 誰も、答えなかった。どかどかと、踏み込んで来る足音がした。玄関の襖が開いた。廊下が轟いた。次の間へ来た。襖が開かれた。

 もう、暮れかかっていて、部屋の中は、夜色が沈んでいた。庭の植込みは、すっかり暗くて、牡丹の花だけが、白く、だが、雨にうなだれていた。

 襖の後方いっぱいに、足軽が、小者が――そして、水の溢れるように、襖から入って来て、その両側へ、溢れ出て来た。四ツ本の上席にいる佐田が

「仙波、即刻に立退くか、立退かぬか、何れか、この返答だけを聞きたい」

 足軽が、棒を取り直した。

「是非もない」

 八郎太は、立上った。

「小太郎、長持を運べ――いや、待て――佐田氏、人間には足があって、すぐにも、御門前へ出られるが、この長持、諸道具と申すやからには、不憫ふびんながら、足が無うて」

「道具類は、小者が持ち出そう」

 佐田は、仙波が、すぐ承知したのに、軽い失望と、大きい安心とをしながら

「諸道具類を残らず、門前へ運び出せ」

 仙波父子は、暗い廊下を、人々の中を、玄関へ出た。

「深雪、益満のところへ行っておれ、邪魔になる」

「いいえ」

 深雪は、泣声を出した。五人の足軽と、士分が一人、式台に立って、五人を看視していた。


(おや――)

 庄吉は、薄暗い、大門の軒下へ、不審そうに、眼をやった。

 仲間対手の小さい、おでんと、燗酒かんざけの出店が、邸の正面へ、夕方時から出て店を張っていた。車を中心に柱を立てて、土塀から、板廂いたびさしを広く突き出し、雨だけはしのげた。

(お嬢さんだ――次は小太郎。ははあ、もう一人、これもいい娘だ。しめて五人、小者とで六人――この雨の中を――)

 と、思った時、辻番所で、四ツ本が

「今日のうちにも、追放する」

 と、いった言葉を思い出した。

「親爺、いくらだ」

 庄吉は、急いで、財布を出した。そして、それを口にくわえて、紐を解いていたが、じれったくなってきたので

「この中から取ってくれ」

 がちゃんと、財布を板の上へ投げ出して、門の方ばかり眺めていた。

「ええ、確かに、二十三文頂きました。お改め――旦那、お改めなすって――」

 庄吉は、返事もしないで、財布を懐へ押込んだ。六人の後方から、長持が、小箪笥が、屏風が、箱が――次々に、軒下の片隅へ、一人一人の手で、運ばれて来た。六人は、その側に立っていた。庄吉は

「有難う」

 と、いった亭主の言葉を、耳では聞いたが、何をいわれたのか判らないくらいに、軒下の人と、品物とを、凝視しながら、雨の中へ出た。小走りに、泥溝のところへ行って、夜色の中にまぎれながら、表門の出窓の下へ入った。そして、雨を避けている人のように、しゃがみ込んでしまった。

 六人は、黙って立っていた。品物が、かなり、積み重なって、小者達が、もう出入しなくなると、一人の士が、六人に

「明朝まで、ここへ、差許す。早々に処分するよう」

 庄吉の、しゃがんでいる出窓の上で、低い話声がした。

「ああまでせんでええになあ」

別嬪ぺっぴんだのう。もう、明日から拝めんぞな」

「じゃあ、御供して――」

 庄吉が下から

「つかんことを、お尋ねしますが」

 窓の内部の門番は、さっと、顔を引いた。

「あの――あれは一体――御引越しかなんかで――」

 門番は、答えなかった。

(薩摩っぽうって、恐ろしい、つき合いの悪い奴ばかり揃ってやがる――手前てめえに聞かねえでも、追ん出したたあちゃんとわかってるんだ。唐変木の糞門番)

 道具を運んでいた人々は、門内へ入ってしまった。暗い大門の軒下で、人通りの少い雨の往来であったが、時々通る人は、立止まってまで、六人と、道具とを眺めて通った。

(何んと挨拶しゃあがるか――とにかく、ぶっつかってみろ。だまっちゃ、何んしろ、居れないことに、なって来やがるんだからなあ)

 庄吉は、勢いよく立上った。そして、真直ぐに六人の方へ歩いて行った。


「いつぞやの者でござんす」

 庄吉は、小太郎に、お辞儀をした。小太郎は、じっと睨みつけたまま、口を利かなかった。深雪が

「ああ――先刻の?」

「ええ先刻の野郎でございます」

 と、深雪に、お辞儀してから

「手前、お初にお目にかかりやす。ええ、仙波の御旦那様、手前――」

 庄吉は、膝まで、手を下ろして

「巾着切の、庄吉と申しやす。至って、正直な――」

「あっちへ参れ。用は無い。行けっ」

 八郎太が、静かにいった。庄吉は、その声と共に、さっと、身体を立てて、八郎太と正面から、顔を合せた。

「御尤も様でございます。すぐ、あちらへ参ゆますが、一言だけ、聞いて頂きたいもんで。御存じの通り、若旦那に、この手首を――ねえ、小太郎さん――手首を折られまして」

 八郎太は、じっと、庄吉の顔を見た。

「実は――本当のことを申しますと、怨みがございます。何んしろ、巾着切が、手首を折られちゃ、上ったりでげすから――人間誰だって、手首を折られて怨まん奴はござんせん。ねえ旦那、随分怨んでましたよ。今だって、こん畜生、ひでえ目に逢いやがるがいいや、と――これは、本当の話で、正直な、気持を申し上げているんでげすが――然し、でござんす、旦那、このお嬢さんにゃあ、怨みはござんせん。その怨みも、縁も無い方が、こんなにおなりなさり奉ったのを、あっしが、黙って見ておれるか、おれんか? 何うでげす、旦那、江戸っ子なら、判りまさあ、見ておれるものじゃござんせん。そうでげしょう、ねえ、旦那。見ちゃいられませんや」

 八郎太は、七瀬に

「支度をせんか」

 七瀬は、風呂敷包の中から、旅支度の品々を、取り出した。綱手が手伝った。

「旦那、待っておくんなさい。あっしゃあ、これで一生懸命なんだ。お侍対手に、うまくいえねえが――おかみさん、一寸、聞いてやって下っせえよ。そう急がずに――その手首を折られて、無念、残念、びんしけん、何んとか、この青ちょこ野郎め、御免なせえ――大体、この方の印籠を掏れといった奴は、岡田小藤次って、野郎でさあ」

 八郎太も、小太郎も、ぺらぺら妙なことを喋っている庄吉に、五月蠅うるささを感じていたが、岡田と聞いて、次を聞く気になった。七瀬も、娘も、庄吉の顔を見た。

「ねえ、ところが、若旦那に、御覧の如く、手首を折られっちまいました。小藤次野郎も、自分のいい出したことだから、あっしに済まねえと思ったのでしょう、庄吉、この仇はきっと取ってやるって――どうか、皆さん、怒らずに聞いておくんなさい。するてえと、昨日、仇は取ってやったよ、あいつら明日から浪人だと――あっしゃあ、実のところ胸がすーっとしやしたよ。全くね。ところが、さっきお嬢さんにお目にかかりやした。あっしの怨みのあるのは、この若旦那一人にだ。こんな、別嬪のお嬢さんを怨もうにも、怨めやしませんや。ねえ旦那、そうでしょう。若旦那に怨みはある、然し、はばかんながらお嬢さんにゃあ、怨みも、罪も何んにもねえ。そのお嬢さんが、もう一人ふえて、お二人だ、それに又ふえて、旦那様、奥様まで――それが、何か大それた泥棒でもなすったのならとにかく、小藤次野郎の舌の先で、ぺろりとこの泥の中へ転がされちゃあ、江戸っ子として、旦那、自慢じゃあねえが、巾着切仲間じゃあ、黙って見ていませんや。それで、さっきから、何か、いい工夫がなかろうかと、おでんを食べ食べ考えていたんでげすがね――いい智慧が、ござんせんや、随分、お力になりますが――」

 庄吉は、一生懸命であった。


「そうか」

 八郎太は、笑った。

「よくわかった」

 庄吉の顔を見てうなずいてから、七瀬に、

「何時までも、ここにはおれぬ。僅かの道具に未練をもって、夜明ししおったと噂されては口惜しい。そちとも、何れは別れる宿命でもあるし、ここからすぐに上方へ立て――」

「旦那」

 庄吉が、口を出した。八郎太が、庄吉へ手を振った。

「あっちへ行っとれ――旅は急ぐなよ、八里のところは、六里にしても、足を痛めて馬、籠などに乗るな、駕人足一人前の賃で、十五文の宿銭が出る。夜は必ず、御岳講か、浪花講へ泊れ」

「それが、ようがす、宿のことなら、あっしが――」

「煩いっ」

「旦那、御尤もでござんす」

 庄吉が大きな声を出した。そして、早口に

「あっしが、若旦那をお怨み申したように、あっしが憎うがしょう。だがねえ、あっしら仲間にゃあ、意地って奴と、粋興って奴とがござんしてねえ――」

 小太郎が

「わかったから、あっちへ参れ」

 と、いって、庄吉の肩を、静かに押した。

「ようがす。この御道具類は?」

「捨てて置く」

「じゃあ、あっしに頂かせて下さいまし」

 八郎太が

「売って、手首の疵の手当にでも致せ」

「ところがね、へっへっへ、そんな、けちな巾着切じゃござんせん――じゃあ、皆様、あっしゃ、ここで失礼いたしやす」

 庄吉は、丁寧に、御叩頭をして門番の窓下へ行って

「御門番」

 と、怒鳴った。そして、何か、紙包を渡して、物を頼んで、雨の中を、闇に融けてしまった。

 親子、主従六人は、もう顔も見えぬくらいになった闇の中に立っていた。八郎太は、話し出そうとして、妻の顔が、ほのかな、輪郭だけしか見えぬのに物足りなくて

「灯を――」

 と、いった。又蔵が

「はい」

 燧石ひうちが鳴った。その火花の明りで、ちらっと見た夫の顔、小太郎の顔。七瀬は、それを深く、強く、自分の眼の底に、胸の奥に、懐の中に取っておきたいように、感じた。

 提灯は、すぐついた。こんなところを、余り人に見せたくないと思っていたが、闇の中で、このまま別れることも、八郎太には、流石さすがに出来なかった。

 綱手は、深雪に助けられて、旅支度をしていた。二人とも、灯がつくと涙の顔を外向そむけた。八郎太は、二人の娘の顔をちらっと見たが、平素のように、何を泣く、と叱らなかった。

 七瀬は、手甲、脚絆までつけて、いくらか蒼白めた顔を引き締めて、夫の眼をじっと見た。いつもの七瀬よりは、美しく見えた。小太郎は、親子の生別よりも、反対党に対する憤りでいっぱいだった。彼は、腕を組んで、胸を押えていたが、悲しいものが、胸の底に淀んでいて、時々、押え切れないで湧き上って来かけた。


 七瀬は、何をいっていいか、判らなかった。何かに、せき立てられるようで、いいたい事がいっぱい胸の中にあるような気がしたが、その何れを、何ういっていいのか――苛立いらだたしさと悲しさとが、いいたいと思うことを、突きのけて、胸いっぱいにこみ上げてきた。

「いろいろ――」

 それだけいうと、咽喉がつまってしまった。人目が無かったなら、せめて胸へでも縋ったなら、このいろいろの胸の中の思いが、夫の身体へ滲み込むだろうと思えた。四ツ本の無法な、冷酷な仕打ちさえ無かったなら、今夜は、ゆっくり名残を惜めたのにとも思った。そして、もう一言

「長々――」

 と、いうと、涙声になった。八郎太も

「うむ」

 と、いっただけであった。深雪は、門の柱へ袖を当てて、顔を埋めていた。綱手は、その片手を、しっかりと握って、片手で、母親の手を掴みながら、手を顫わして泣いていた。小太郎は、涙の浮んで来るのを、そのままに、雨空を見上げていた。暫くして、七瀬は

「御看護に不調法を仕りまして申訳もござりませぬ。この失策は、必ず、上方にて取戻して御覧に入れます」

「抜かるな」

「み、深雪を、何うか――」

「うむ――綱手、予々かねがね申付けある通り、命も、操も、御家のためには捨てるのじゃぞ。又、こと露見して、いかようの責苦に逢おうとも、かまえて白状するな。敵わぬ時は舌を噛め、隙があれば咽喉を突け」

「はい」

 綱手の頬は涙に濡れていた。七瀬が

「深雪」

 深雪は、振向かなかった。

「何を、お泣きやる」

 それは、深雪の泣くのを叱るよりも、自分の弱さと、涙とを叱る声であった。綱手は、自分の握っていた深雪の手を放した。深雪は、顔に袖を当てたまま母の方へ振向いた。

「お前も、何れ、綱手と同じように、働かねばなりません。それに――そんな――よ、弱いことで――」

「七瀬、道中、水当り、悪人足に気をつけよ。深雪は、益満の許にあずけるから、心配すな。小太郎、申すことは無いか」

「別に――御身体、気をおつけ遊ばして」

「お前も――」

「では行け。又蔵、たのむぞ」

 小者は、地に両手をついて

「いろいろと、御世話になりました。命にかけて御供仕ります」

「たのむ」

「では、御、御機嫌、よろしゅう」

「道中無事に――」

 深雪と、綱手とはもう一度抱き合った。そして、泣いた。それから、深雪は

「お母様」

 と、叫んで、胸へすがった。七瀬は、その瞬間、深雪の背をぐっと抱き締めたが、すぐ

「未練な」

 やさしく、深雪の指を解いて、押し放した。そして、雨具、雨笠を手に、門から一足出た。深雪は、佇んだまま袖の中で声を立てて泣いていた。七瀬と、綱手は、手早く、雨支度をすると

「参ります」

「うむ」

「母上をたのむぞ」

 深雪は、雨の中を駈け出した。小太郎が、追っかけて素早く引留めた。そして、泣き崩れる深雪を自分の胸の中へ抱え込んだ。三人の者は静かだったが、すぐ見えなくなった。だが、すぐ、闇の中から

「お父様」

 と、綱手の声がした。八郎太が

「未練者がっ」

 と、怒鳴った。しめった声であった。



両党策動

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 目黒の料亭「あかね」の二階――四間つづきを借切って、無尽講だとの触込みで、雨の中の黄昏時から集まって来た一群の人々があった。

 もう白髪の交っている人もいたし、前髪を落したばかりの人も混っていた。平島羽二重の熨斗目のしめに、精巧織の袴をつけている人もあったし、木綿の絣を着流しに、跣足の尻端折で、ぴたぴた歩いて来た人もあった。

 人々の前には、茶、菓子、火鉢、硯、料紙と、それだけが並んでいた。階段から遠い、奥の端の部屋の床の前に、名越左源太、その左右に御目見得以上の人々。そして、その次の間の敷居際には、軽輩の人々が、一列に坐っていた。

「仙波が来ぬが、始めよう」

 名越左源太は、細手の髻、一寸、当世旗本風と云ったようなところがあったが、口を開くと、底力を含んだ、太い声であった。

「今日の談合は――」

 と、云って、低い声になって

「御部屋様の御懐妊――近々に、目出度いことがあろうが、もし、御出生が、世子ならば、その御世子を飽くまで守護して、御成長を待つか。又、それとも――女か――或いは、男女の如何に係らず、お由羅派を討つか、それとも、牧仲太郎一人を討つか――この点を、計って見たい」

 居並ぶ人々は、黙っていた。

「つまり、成るべくならば、家中に、党を樹てたくはない。たださえ、党を作ることの好きな慣わしの家中へ、御当主斉興派、世子斉彬派などと分れては、又、実学崩れ、秋父崩れなどより以上の惨禍が起るに決まっておる。これは御家のため、又漸く多事ならんとする天下のために、よろしくはない――然しながら――」

「声が、高い」

 と、一人が注意した。左源太は、又、低声こごえになって

「斉彬公の御子息御息女四人までを呪殺したる、大逆の罪、しかも、その歴々たる証拠までを見ながら、これを不問に付するということは、家来として、牧の仕業に等しい悪逆の罪じゃ。ただ――もし――然しながら、この企てが、お由羅の計画であり、斉興公も、御承知とすれば――吾等同志は、何んと処置してよいか? 福岡へ御すがりするか? 幕府へ訴えて出るか、斉彬公へ仔細に言上するか?――もし、このまま捨ておいて、御出生が男子なら、牧は又、呪殺するにちがいない。然らば、牧を討つか? 然しながら、果して、牧一人討って、禍根を絶滅させうるか? 牧の如きは一匹夫にして、その根元はお由羅にあるか? 調所にあるか? 或いは又、久光公がおわさばこそ、かかる無惨の陰謀も企てられるが故に、久光公こそその大根おおねか」

 黙々と俯向いている人もあるし、一々頷く人もあった。左源太は、ここまでいって、腕組をした。そして

「来る途上、嘉右衛門とも、話をしたが、とにかく、穏健の手段をとるならば、今度の御出生の模様によって、もし、御幼君ならば飽くまで、守護する――」

「今迄でも、飽くまで、守護したではござらんか」

 軽輩の中から、益満が、鋭く、突込んだ。

「つくした」

「然し、無駄でござった」

「そう」

「論はいらぬ。まず、牧を斬ることが、第一」

 益満は、腕組して、天井を見ながら、冷然といい放った。


「わしも、そう思う。然し――益満、牧が、何処におるか? 又、牧の居所が判ったにせよ、毎日の勤めを持っておる身として――牧を斬りに行くことは――」

「素より、浪人の覚悟――」

「そちの如き、軽輩は、それでよいが、わしらは、そう手軽、身軽に行きかねる。その上、牧には、相当、警固の人数もおると聞き及んでいるから、迂濶うかつっては、一切の破滅になる。行った者のみでなく、この同志の悉くが罪になる。それで、考えあぐんでおるが」

「それが、何よりも困るところ――斉彬公にも明かさず、吾等の手で、上手に料理してしまいたいが、少くも、牧を討つには、十人の人数が要る。今、この同志より、十人が去ったなら、斉彬公から、誰々は、何うしたか、と、すぐ聞かれるは必定、一日、二日なら病気でも胡麻化されようが、十日、二十日となっては、免れぬ。お由羅方は、上が御承知ゆえ、何をしても、気の儘じゃが、こっちは、斉彬公が、こういうことに反対じゃから――」

「牧を斬ることに御異議ござらぬか」

 益満が、嘉右衛門の顔を見た。

「それはない」

「名越殿には?」

「無いのう」

「方々には」

 軽輩の、益満の一人舞台となって、上席の人々は、少し、反感を持っていたが、こういうことにかけては、益満の才智より外に、いつも、方法が無かった。

「大体、異存は無いが――」

「益満――名案が、あるか?」

「名案――と、申すほどでは、ござりませぬが、失敗しくじっても、御当家の迷惑にならず、行くのは目付役として、拙者一人でよろしく、ただ、金子きんすが、少々かかります」

「その案と申すのは」

 益満は、前の硯函をとって、料紙へ

不逞浪人を募って

 と、書いた。そして、人々の方へ廻した。益満の隣りにいた軽輩達が、微笑した。

「成る程」

 と、いって、人々は、紙を、つぎつぎに廻した。

「よし、まず、第一に――」

 名越は、こういって、同じように、紙に

牧を斬る

 と、書いた。

「第二に、国許の同志と、相策応すること」

「御尤も」

「誰も、異論あるまいの」

国へ、使を出す事

「それには、仙波父子が、よろしゅうござりましょう」

「わしも、その肚でいるが――彼奴、何うしたか?」

 雨は、小さくなったり、強くなったりして、風が交ってきた。庭の、竹藪が、ざわめいていた。

「それから――お由羅方の毒手を監視のため、典医、近侍、勝手方、雇女を見張る役が要るし、同志があれば此上とも加えること、斉彬公へ、一応、陰謀の話を進言すること、要路、上司へ、場合によっては、訴え出る用意をすべきこと――」

 と、名越が、書きながら、話していた時、下の往来の泥濘ぬかるみ路に、踏み乱れた足音がして

「名越殿」

 と、叫ぶ者があった。


「仙波だ」

 と、一人がいった。

「どうした、おそいでないか」

 一人が、立上って、廊下へ出た。

「只今、参るが――油断できぬ」

 と、八郎太が、下から叫んで、すぐ、表の入口へ廻ったらしく、下の女達の

「お越しなされませ」

 と、叫んでいる声が、聞えた。

「油断できぬ、と――嗅ぎつけよったかな」

 名越が、呟いた。小さい女が、階段のところへ、首だけ出して

「お二人、お見えになりました」

 と、いった時、八郎太と、小太郎とが、広い、黒く光る階段を、登って来た。そして

「手が、廻っておるらしい」

 と、低く、鋭く、叫んで、ずかずかと、人々の方へ来た。

「手が?」

 八郎太も、小太郎も、興奮して、光った眼をし、袖も、肩も、裾も、濡れていた。八郎太が、座へつくと、小太郎は、益満の後方へ坐って

「遅参致しまして、相済みませぬ」

 と、平伏した。

「それで、手が、廻ったとは?」

「丁度、不動堂の横――安養院の木立のところで、仙波と、呼び止めた奴があった」

 人々は、仙波を、目で取巻いた。

「顔は、この暗さで判らぬ。声も覚えはないが、わしと知って呼び止めた以上、けて来たのであろうか? 前から、忍んでおったのでは、判る理前が無い」

 人々が、頷いた。

「それで、誰だ、と、こっちから咎めた」

 人々が

「うむ」

 と、又、頷いた。

「すると、今日、あかねの会合は、何を談合するのか? と、こうじゃ。それが、いやに、落ちついての、談合?――談合ではない、無尽講じゃが、何んの用があって聞くか。誰とも、名乗らず、無礼でないか、と、申したら――行け、と。それで、判ったが、その、行け、と、申した声が、どうも、伊集院平に似ておるし、行けと、横柄に申す以上、勿論、家中の上席の者で、わしを、よく存じておる奴にちがいない。そして、今日の会合を、怪しんでおる者にちがいない。わしは、嗅ぎつけられたと、思うが、方々の判断は?――」

「早いのう。成る程、油断できぬわい」

「それで、手間取ったのか」

「いいや、遅参致したのは――つい先刻、出し抜けに、四ツ本が参って、手籠めにして、道具諸共、御門外追放じゃ」

「三日の間と、申すでないか」

「それが、急に、今日中に、出て行けと、足軽の十人も引連れて来たが――」

「無体なことをするのう」

「だから、軽挙ができぬ。仙波は、形代を探し出したので、第一番に、睨まれておるのじゃ。今日の談合が、嗅ぎつけられたとしたなら、わしらにも咎めが来ると、覚悟せにゃいかんぞ」

「無論のこと――そうなれば、なるで、又、おもしろいではないか」

 そういいながら、人々は、暗い、雨の申に、お由羅方の目が光っているようで、不安と、興奮とを感じてきた。


「相談ごとは、相済みましたか」

「済まぬが、もし、嗅ぎつけられたとすると、長居してはいかん」

「左様、何ういう手段を取ろうも計られん。すぐ、退散して、もう一度、回状によって集まるか」

 益満が

「余のことは、お任せ申しましょうが、牧を斬ることは、決まったこととして――」

「それは、よろしい。入用の金子は、明日にでも、すぐ取りに参れ。したが、浪人は、集まるかの」

 益満が、笑って

「町道場へ参れば、一束ぐらい――百人ぐらいは、立ちどころに集まりまする」

「立つか」

 と、左源太が、指を立てて、斬る真似をした。

「相当に――」

 人々は、外の雨脚の劇しいのを見て、尻端折しりはしょりになった。そして、雨合羽を着て

「まごまごしておったなら、った斬るか。この雨の夜なら、斬ってもわかるまい」

 などと、囁き合った。

「それでは、一両日中に、改めて、会合するとして、今日はこれまで――途中、気をつけて」

 と、名越が立上ると共に、人々が、一斉に立って、身支度をした。軽輩は、すぐ下へ降りて、蓑笠をつけた。そして、上席の人々は、自分の供を呼んで、提灯をつけさせた。人々が降りると、料亭の主人が、草鞋を持って出て

「この路になりましたからには、高下駄では歩けませぬ。どうか、これを、お召しなすって下さいませ」

 と、いった。

「御一同、草鞋にかえて――途中のこともある」

 人々は、袴を脱いで、懐中し、供に持たせ、身軽になって、草鞋を履いた。

「何れ、物見に一足先へ」

 と、いって、踏み出した一人が――何を見たのか

「待てっ」

 と、叫んで、雨の中へ、笠をかなぐり捨てて、走り出した。四五人が、その声に、軒下に出ると――遠くに、足音が小さくなるだけで、何も見えなかった。

「亭主、怪しい奴がうろうろしておらなんだか」

「一向に、見かけませんが――」

「油断がならぬ。一同、御一緒に」

 人々は、刀を改めて、帯を締め直した。

「益満に、仙波は、何うした」

 と、一人がいって

「益満」

 と、二階の二人を呼んだ。益満の落ちついた声で

「少し、仙波殿と相談事があるで、かまわずお先に」

 と、いった時、ぴたぴた泥を踏んで

「逃した」

 と、呟きつつ、一人が、戻って来た。

「見張らしい。わしの顔を見ると、すぐ、走り出したので、追っかけたが、暗いのでのう」

 人々は、心の底から、動揺しかけた。

(何うして、ここを嗅ぎつけたか)

 十二三人の同志だけでは、大勢の、上席の人々を対手に、何う争えるか?

(もう、ここまで、手を廻して)

 心細さを感じると共に、憎しみを感じたが、その代り、張合が強くなっても来た。


 人々の去った静かな――だが、乱雑な、広間で、三人が、火鉢をかこんでいた。女中は、つつましく他の部屋を取片付けながら、小太郎を、ちらっと、眺めては、笑ったり、背をぶち合ったり、していた。

「女中、そっちの女中」

 と、益満が呼んだ。

「はい」

 と、答えて、微かに、赤らみながら

「お召しで、ござりますか」

 女中のついた手を、いきなり、小太郎の手にくっつけて

「どうじゃ、いくらくれる?」

 女中も、小太郎も赤くなった。女中が、走り去ると

「とにかく、江戸は、斉興公贔屓びいきが多い。これでは仕事が出来ん。然し、国許には、御家老の島津壱岐殿、二階堂、赤山、山一、高崎、近藤と、傑物が揃いも、揃って、斉彬公方じゃ。この人々と、連絡すれば、平や、将曹如き、へろへろ家老を倒すに、訳は無い」

「調所は?」

「調所は――このへろへろを除いてからでよい。よし、此奴が元兇としても、大阪におっては、大したことも仕出かしえまい。それで、小父上、拙者は、浪人を集めて、牧を討ちに参るから――」

「牧は、わしが討取るつもりじゃ」

「小太郎と二人で?」

「うむ」

「牧には、少くも、十人の護衛がおりまするぞ」

「成否は問わぬ、意地、武門武士の面目として」

「では、力を添えて下されますか」

「わしも、お前がおると、力強いで」

「それから、綱手は、調所のところへ、あの又蔵を、国許の同志への使に立てたなら?」

「あれは、忠義者じゃし、心も利いておる」

「では、小父上は、今からでも、立ちますかの」

「ここへ泊って、明日、早々にでも――」

「七瀬殿は?」

「もう、立ったであろう」

「この雨の中を――」

「可哀想じゃが――」

「初旅に――」

「お前は、いつ立つ」

「左様――浪士を集めて、敵党の手配りを調べて、三日が程はかかりましょうか」

「深雪は、その間」

「南玉と申す講釈師に、あずけましょう」

「講釈師、あの、ひょうげた?」

「あれで、なかなかの奴で、肚ができておりまする。安心してよろしゅうござりましょう」

 と、いって、話が終ると

「そこな女中、この美少年が、おのしに惚れて、今夜、泊るとよう」

「ああれ、また、うそばっかり――」

 八郎太が、苦笑して

「益満」

「あははは、では、拙者は、これにて――小太、上方で、逢おう」

「うむ」

「どうれ、雨の夜、でも踊るか」

 と、いって、益満は、裾を端折った。

「途中、気をつけて」

「闇試合は、女中と、小太に任せよう」

「あれ又、あんなことを――」

 と、女中は、益満を睨んで、すぐ、その眼で、小太郎に媚を送った。


 七瀬等三人は、秋雨の夜道を、徹宵で歩いて行った。品川の旅宿の人々は、この雨の中を、この時刻から、西へ行く女連れの三人に、不審さを感じながら――それでも

「お泊りじゃござんせんか」

 と、声だけはかけた。軒下づたいに妓楼を素見ひやかして歩いている人々は、綱手をのぞいて

「よう、別嬪」

 と、叫んだ。三人は、この闇の雨の道を歩きたくはなかったが、江戸近くで泊るということは、夫に対して出来なかった。夫に対し、父に対し、主人に対し、自分達も、その人と同じように苦労をしなくてはならぬように感じていた。そして、身体を冷やしつつ、歩いた。

 それでも、鈴ヶ森へかかって、海の鳴る音、波の打上げて来る響き、松にむせびなく風と、雨の音を聞き、仕置場の番小屋の灯が、微かに洩れているのを見た時には、流石に気味悪くなって

(品川で泊った方がよかった)

 と、思った。街道には一人の通行人も無かったし、これから川崎までは、ほとんど人家の無い道であった。川崎は、未だ深い眠りの中にいるうちに通った。そして、鶴見へ入る手前で、ようよう雲に鈍い薄あかりがさしめて、雨が上るらしく、降りも少くなって来たし、雲の脚が早く走り出した。

 合羽を着ていたが、それを透したと見えて、着物の所々が、冷たく肌へ感じるくらいに濡れていた。そして、暁の冷たい空気が顫えるくらいに寒かった。

 鶴見を越えると、道傍の、茶店などは起き出ていて、煙が低く這っていたし、いろいろの朝らしい物音が聞えかけてきた。神奈川へ入る手前では、早立ちの旅人が、空を仰ぎながら、二三人急いで来た。そして

「お早う、道中を、気をつけさっし」

 と、気軽に三人へ挨拶して、擦れちがって行った。綱手は

(こんな人ばかりの道中ならよいのに)

 と、思った。そのうちにれの雲間から、薄日がさし出した。三人は、神奈川の茶店で、朝食を食べて、着物を乾すことにした。鰊、蒟蒻こんにゃく、味噌汁、焼豆腐で、一人前十八文ずつであった。

 この辺から、左右に、小山が連なって、戸塚の焼餅坂を登りきると、右手に富士山が、ちらちら見えるまでに、晴れ上ってしまった。左手には、草のはえた丘陵が起伏して、雨に鮮かな肌をしていた。戸塚の松並木は、いつまでもいつまでもつづいた。七瀬は、その松並木が余りに長いので腹が立った。そして、すっかり疲れきった。

 松並木の下の、茶店で休むと、こむらに何か重い物を縛りつけているようで、腰も、足も立たなくなってしまった。茶店の亭主が、江戸からと聞いて

「そりゃ、無茶だ。奥様、無茶というものでがすよ。女の脚で、おまけに、初旅というのに――そんな無茶な――こちらへござって、足をよく揉んで、暫く、ちゃんと坐ってござれ」

 座敷を開けてくれた。三人は、其処へ入った。そして、又蔵が、七瀬の足を揉み、綱手が自分の腓を揉んでいる時、往来から、道中合羽を着た男が、覗き込んだ。

「やっと、見つかった」

 と、七瀬へ、笑いかけて、御叩頭した。


 又蔵が、警戒するように、二人の前へ立って、男を睨んだ。七瀬も、綱手も、坐り直した。

「無茶なことをなさるじゃあござんせんか――昨夜は、夜っぴてでござんしょう。あの雨の中、もし、風邪でもひいたら、一体、どうなさるんで。旅ってものは、腹と一緒で、八分目でござんすよ。昨夜よっぴて歩いたって、今朝、早立したあっしが、馬で急ぎゃあ、ここで追っつけるんだ。旅の初日に出た肉刺まめは、二日や、三日で癒らねえし、その脚じゃあ、今日、当り前なら六里歩けるところが、無理なすったため、半分歩きゃあ、又へたばっちまいますぜ――又蔵さん、いい齢をして、何んのためのお供だい」

「そうともそうとも」

 茶店の亭主が、茶を汲んで来て、庄吉の喋っているのへ相槌あいづちを打った。

「それくらいのことあ心得てらあ。ところが、そうは行かねえんだ」

 又蔵が、不平そうに云った。七瀬は、又蔵へ気の毒な気がしたし、気ばかりあせって、旅慣れない自分に、軽い後悔も、起って来た。庄吉は、合羽の間から、懐へ手を入れて

「悪気で云うんじゃあねえ。怒んなさんな。所で――」

 鬱金うこん木綿の財布を、七瀬の前へ置いて、部屋の隅へ小さく腰をかけた。

「ええ――これは、御道具を売った金でござんす」

 三人は、一時に、財布と、庄吉の顔とを見較べた。七瀬が

「何んという名であったか――そちの志は、よう判っていますが――」

「うんにゃ、一寸もお判らねえ――何んとか、ござり奉って、御返答申し上げ遊ばすおつもりでげしょうが、あっしゃあ、もう少し――やくざ野郎だが、この胸んところを買ってもれえてんだ。お嬢さん、あっしのここを、買っておくんなせえ。庄吉、死ねっと、仰しゃったら、死なんとも限らねえ野郎ですぜ。失礼ながら、ぎりぎりの路銀しかお持ちじゃねえ。万一、水当りで五日、七日、無駄飯でも食ったら、一体何うなさる。この財布を、お持ちになるよりは、もっと、辛い思いをしますぜ」

「然し、あの道具は一旦、お前に、差上げた道具ゆえ」

「何んのいわれ、因縁があって、差上げてもらったんで――いや、お互に、唐変木は、よしやしょう。とにかく、こいつあ御納め願います。ほんのあっしの志で――」

 左手で、財布を、七瀬の膝の方へ、押しやって、立上った。

「お前――」

「さよなら」

「これっ――又蔵」

 七瀬は、又蔵へ財布を渡して、庄吉を追わそうとした。表口から、庄吉が振返って

「深雪さんにゃ、手前がついていやす。御心配にゃ及びません。さよなら」

 口早に叫んで、微笑した。そして、軒下から足早に走り去ろうとした時、二人の馬上の武士が通りかかった。又蔵が、駈け出して来た。七瀬が、上り口のところまで出て来た。

「下郎」

 馬を停めて、馬上から侍が呼んだ。又蔵が振向くと、一人の武士が、七瀬を、顎でさして

「仙波の家内ではないか」

 又蔵は、不安そうな顔をして、馬上の人を見上げた。


 一人が、馬から降りて、左手で編笠の紐を解きつつ

「仙波殿の御内室では、ござりませぬか。久し振りにて、お眼にかかりまする」

「おお、池上」

 国許で、小太郎の友達として、出入していた池上であった。

「どちらへ?」

「貴下は?」

「江戸へ」

「妾は、国許へ」

「亭主、ちょっと、奥を借りるぞ」

 池上は、こういって、未だ馬上にいる兵頭へ

「降りて来いよ」

 と、声をかけた。そして、奥へ入ろうとすると、赭っ茶けた襖の前に、花が咲いたような綱手が坐っていた。

「これは――御無礼致した。亭主、客人がいるでないか」

 七瀬が

「いいえ、お見忘れでござりますか、あの綱手」

 綱手が、御辞儀した。

「ああっ、綱さんか、わしは――」

 池上は、少し赤くなった。そして、小声で七瀬に

「寛之助様の、御死去の折、たしか、お守役と聞きましたが――それに就いて、ちと、聞いたことがあって」

 池上は、打裂羽織ぶっさきばおりの裾を拡げて、腰かけた。兵頭が、土間の奥の腰掛へ、大股にかけて

「初めまして、兵頭武助と申します」

 と、挨拶した。七瀬は、二人の丁度間へ坐って

「如何ようの?」

「国許では、御変死、と噂しておりますが――」

 池上は、こういって、七瀬の顔を、じっと見た。

「はい、御変死で、ございます」

 七瀬は、言下に、はっきり答えた。

「と、申すと、証拠でもあって」

「調伏の人形が床下にござりました。小太郎が、それを掘り出しましたが、そのために、八郎太は浪人――妾は、国許へ、戻るところでござります」

 池上は、しばらく黙っていたが

「それは又、奇妙な――調伏の証拠を掘り出して、咎めを蒙るとは」

「地頭には勝てませぬ。して、貴下様は、何用で、御江戸へ」

 池上は、腕組して暫く黙っていたが

「御内室を見込んで、お明かし申そうが――加治木玄白斎殿が、牧仲太郎の調伏に相違無しと、見究められ、只今、御懐妊中の方に、もしものことがあっては、と、江戸の同志の方々と、打合せのために参る途中――」

「そして、その牧は、只今、何処に――」

「上方へ参っておりましょう。場合によっては、某等の手にて討取る所存でござる」

「国許の同志の方々は?」

「赤山靱負ゆきえ殿、山田一郎右衛門殿、高崎五郎左衛門殿、など――今度の異変にて、夜の目も寝ずに御心痛でござる」

 七瀬は、又蔵に

「聞いたか」

「はい」

「御国元ではお待ちじゃによって、妾にかまわず、先に行ってたもらぬか」

「でも――」

 七瀬は、黙って又蔵を睨みつけた。


 兵頭が

「判ったなら、急ごうでないか」

「いや、江戸の気配も、ほぼ、判り申した。忝のう存じます。道中御健固に」

 と、いって、池上が立上った。

「もし、名越様にお逢いの節は、よろしくお伝え下されませ」

「して、仙波殿は」

「江戸におりましょうか、それとも、その辺まで、参っておりましょうか」

「その辺まで?」

 と、池上がいった時、もう、兵頭は、馬の頸を叩いていた。

「では、御免、もし、仙波殿に、途中で逢ったなら――」

 池上は、歩き歩き振向いていった。

「無事とお伝え下さりませ」

 三人は、池上の馬に乗るのを見送った。

「御免」

 二人は、編笠をきて、すぐ、馬をすすめた。三人は、御辞儀して、座に戻ると、暫く黙っていたが

「又蔵、御苦労ながら、一足先へ立ってたもれ。大事の手紙じゃで、一刻も急ぐから」

「はい――然し、お二人では――」

「今、聞いたであろう。牧が、上方へ、参っておると――このことを、夫に知らせて、一手柄させて上げたいが、今から江戸へ戻れるものでなし、ここで、こうしていて、夫と、小太郎に逢うて、牧の行方を告げましょう。それまで、そちが、ここにおっては、大事の書状が無駄になる。わかりましたかえ、お前の心配に、無理は無いが、妾とても、十八九の娘ではない――さ、心配せずに、急いで立っておくれ」

「はい」

 七瀬は、腹巻を引出そうと、手を入れた。俯向いていた又蔵が

「路銀は――ここに」

 と、庄吉の置いて行った財布を出した。

「それは、人様の金子でないか」

「いいえ――あいつの申します通り、もしも、水当りででも、五日、七日寝ましたなら、先立つものは金、又、手前が、これを使います分にゃあ、申訳も立ちますし――あいつも、なかなか、おもしろい奴でございます。手前、これで参ります」

「何程入っていますかえ」

 又蔵は、中を覗いてから

「おやっ」

 と、いって、掌へ開けた。小判と、銀子とが混っていた。

「ございますよ、八両余り」

「八両?――少し、多いではないか」

「ねえ」

「あれは巾着切であろうがな」

「そう申しますが」

「もしか、不浄の金ではないかの」

 又蔵は、立上った。

「もしもの時にゃあ、奥様、又蔵が、背負しょいます」

「いいえ。これをもって――」

 と、七瀬が金子を差出した時

「では、御無事に――すぐ又、大阪へお迎えに参ります。お嬢さん、気をおつけなすって下さいまし、水当りに――」

 又蔵の声が湿った。走るように軒下へ出て、振向いて

「祈っておりまする。奥さん、お嬢さん、行って参りますよ」

 綱手は泣いていた。七瀬の眼も、湿っていた。茶店の旅人も、亭主も、両方を見較べていた。


 碇山将曹は、四ツ本の差出した書面を見ていた。それには「あかね」で、会合した人々の名が、書いてあった。

大目付兼物頭    名越左源太

裁許掛       中村嘉右衛門

 おなじく見習    近藤七郎右衛門

 同        新納弥太右衛門

蔵方目付      吉井七之丞

奥小姓       村野伝之丞

遠方目付      村田平内左衛門

宗門方書役     肱岡五郎太

小納戸役      伊集院中二

兵具方目付     相良市郎兵衛

同人 弟      宗右衛門

無役        益満休之助

 同        加治木与曾二

「この外に、仙波親子か」

 大きい、丸い眼鏡越しに、四ツ本を見て

「はっ」

 と、頷くと、眼鏡をはずして、机の上へ置いた。そして、金網のかかった手焙てあぶり――桐の胴丸に、天の橋立の高蒔絵したのを、抱えこむように、身体を曲げて

「これだけの人数なら、恐ろしくはないが、国許の奴等と、通謀させてはうるさい。それを取締って――時と、場合で、斬り捨ててもよい。と申しても、貴公は弱いのう」

「恐れ入ります」

 四ツ本は、平伏した。

「それから、これも、貴公では、手に余る獣じゃが、益休――此奴を、油断無く見張ってもらいたい――と、申しても、お前で、見張られるかな」

「死物狂いで――」

「死物狂いでは、見張れん。添役に、一人、付けてやろう。それから、万々、内々のことじゃで、世間へ知れては面白うない。これも、よく含んでおいてくれ、ええと――」

 将曹が、冷えた茶を、口へつけた時、次の間に、荒い足音がして、取次が

「伊集院様――」

 と、云い終るか、終らぬかに、襖を開けて、伊集院平が入って来た。小姓が、その後方から、周章てて、座蒲団を持って来た。四ツ本が、一座滑って、平伏した。

「やあ――寒くなって」

 伊集院が、座につくと

「四ツ本ならよかろうが、碇氏、国許から暴れ者が二人、名越へ着いたのを、御存じかな。昨夜」

「いいや」

 碇山は、身体を起して、伊集院の方へ、少し火鉢を押しやった。

「例の、秋水党の、何んとか、池上に、兵頭か、そういう名の奴が参ったが、案ずるところ、国許の意見を江戸へ知らせ、江戸の話を、国許へ持ち戻る所存らしい」

「打った斬ろう」

「やるか」

「四ツ本、藩の名では後日が煩い。浪人を、十人余り集めて、網を張り、引っかかったら、引縛ひっくくるか、斬るか――のう平」

「四ツ本、斬れるか」

「只今も、それで、面目を失いました」

「はははは、碇殿も、流行唄は上手だが、この方は、一向でのう」

 と、平は、四ツ本の頭を打つ真似をした。


 四ツ本は、将曹の指令を受けて、退出してしまった。将曹は、欠伸あくびをして

「商魂士才で、如才が無い、薩摩の殿様お金が無い、か」

 と、呟いて

「これは?」

 と、指で丸を作って、平へ、微笑した。

「何うも――」

 平は、口重にいって、腕を組んで、首を傾けて

「調所の心底がわからぬ。下らぬ大砲鋳造とか、軍制改革とか――表面は、久光公の御命令だが、裏に、斉彬公が糸を引いていることは、よくわかっておるのに、すぐ、それには、金を出す。そして、この御家の基礎を置こうとするには、きまって出し渋る」

 将曹が、微笑して、金網の間から、火を掻き立てつつ

「数理に達者だからのう。あの爺――わしらが、その中から小遣にしておるのを、ちゃんと知っておるかも知れぬ」

真逆まさか――」

「いいや、金のことになると、お由羅とて容赦せぬからのう。そうそう、彼奴の江戸下りも近づいたから、帳尻を合せておかぬと、何をえ出すかわからん」

「この夏の二千両の内、八百両、貴殿にお渡しした。あの明細が、未だ、届いていん」

「届かぬ筈で、ありゃ、内二百両が、芸妓げいこに化けた」

「又、出来たか」

「出来たと思うたら、逃げられた」

 将曹は、脣を尖らした。そして

「その代り、端唄を一つ覚えた。二百両の端唄じゃ。一、二百両也、端唄、と書け。調所のかんかん爺には、判るまい」

 あはははは、と、高笑いして、鈴の紐を引いた。遠くで、微かに、鈴が鳴ると、すぐ、女の声で

「召しましたか」

「酒じゃ」

「はい」

「お高の三味線で、その二百両の唄を一つ聞かしてやろう」

 平は、丁寧に、頭を下げて

「有難い仕合せ」

 と、膝の上で、両肱を張った。衣擦れの音がして、襖が開くと

「お久し振り」

 将曹の愛妾、お高が、真紅の襟裏を、濃化粧の胸の上に裏返して、支那渡りの黒繻子くろじゅす、甚三紅の総絞りの着物の、裾を引いて入って来た。

「高、二百両の端唄を、今夜は、披露しようと思うが――」

 お高は、ねり沈香の匂を立てて、坐りつつ

「三文の、乞食唄?」

「又――」

「でも、深川あたりの流し乞食の――」

「平、文句がよい――たつみに見えたあの白雲は、雪か、煙か、オロシャ船、紅毛人のいうことにゃ、日本娘に乗りかけて――」

 お高が、口三味線で、近頃流行の猥歌を唄い出した。平は、神妙に聞いていたが

(敵党には人物が多い。こんなことでは)

 と、俯向いて、暗い心を、じっと、両腕で抱いていた。



匕首に描く

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 南玉のところは上り口の間と、その次の六畳と、それったけの住居であった。ただ幾鉢かの盆栽と、神棚と――それから、深雪が、明るく、光っていた。益満が

「退屈なら深雪、富士春のところへでも行くか」

戯談じょうだんを――ろくなことを教えませんよ。富士春は――」

「その代り、お前のように、孔明あざなは玄徳が、かわず切りの名槍を持って、清正と一騎討ちをしたりはせん――」

「だって、あん師匠あ、辻便所じゃあ、ごわせんか。そんなところへお嬢さんが――」

「小父さん、辻便所って、何?」

「そうれ御覧なさい――だから、云わないこっちゃねえ。齢頃が、齢頃なんだから、こういうことは、すぐ感づきまさあ――辻便所ってのは、お嬢さん――」

 南玉は、両手の人差指で、鼻を押上げ、小指で、口を大きく開いて

「ももんがあ」

「あら。ももんがあが、おしもから出ますの」

「そうそう、三縁山の丑三つの鐘が、陰にこもって、ぐぉーんーと、鳴ると――」

「成る程、まずい講釈師だの」

「便所の蔭から――」

「ちょいと、ちょいと」

 南玉は、手で額を叩いて

「出来ましたっ、夜鷹の仮声こわいろは天下一品」

 と、いった時、

物申ものもう、講釈師、桃牛舎南玉の住居はここかの」

 南玉が

「へい」

 と、いった途端、益満が

「真木か」

「益満」

 格子を開けて、着流しの浪人が入って来た。そして、土間に立っていると

「南玉、酒を買って来い」

 銀子を渡して、益満が

「こちらへ」

 と、いった。南玉は、勝手口から出て行った。浪人が、深雪に挨拶してしまうと、益満が、金包を出して

「支度金」

「いや、忝ない」

 浪人は、膝の上へ手をついて御叩頭した。

「一手五人として、三手――成るべくならば、姿をかえて、悟られぬようにお願いしたい。一手から一人ずつ、物見兼連絡掛として、某と、各々との間におって、事があれば知らせ合うこと――誰も同じことで、某も覚えがあるが、苦しい時には、刀の中身まで替えたもの。もし、そういう仁があれば、是非、味のよい物を求めてもらいたい。仲間の喧嘩、口論は勿論のこと、道中、みだりに人と、いさかってはならぬ。旅宿やどでの、大酒、高声、放談も慎んで頂きたい」

 浪人は、一々、うなずいていた。

「出立は、明後日?」

「左様、明後日ときめて、万事、某の指図をお待ち願いたい」

「では、支度に忙がしいゆえ、これにて」

 浪人は、手をついて

「一同の人は、何処に。貴公のところ?」

「揃うておりまする」

 浪人は、そう云って、腰を上げた。

「では、明後日早朝として、某は神奈川でお待ち申そう」

 益満も、見送りに立上った。


 益満は、座につくと

「深雪」

 と、正面から、顔をじっと見た。

「わしは、予ての話の如く、明後日の早朝、牧仲太郎を討取るため、今の浪人共を連れて上方へ立つ」

 深雪は、膝を凝視めて、鼓動してくる心臓を押えていた。

「人を討つに、己のみが助かろうとは思わぬから、或いは、これが今生こんじょうの別れかも知れぬ。父に別れ、母に別れ、小太に別れ――今又、わしと別れて心細いであろうが、かかる運命になった上は是非もない――ただ――如何なる苦しみ、悲しみが押寄せようとも、必ず、勇気を失うなよ。じっと、耐えて、その苦しさ、悲しさを凝視めてみるのじゃ。それに、巻き込まれず、打挫うちくじかれずに、正面から引組んで味わってみるのじゃ。そうすると、何故、自分は、こんなに、苦しめられるのか? 悲しまされるのか、だんだんわかってくる。誰が苦しめるのか? 何んのために、悲しまされるのか? それを、よく考えて、その苦しませる奴と戦う――ここから、その悪い運が、明るく開けてくる。よいか」

 深雪は、頷いた。

「それで、小父上から、あずかっておいたが――」

 益満は、袋に入った短刀を取出した。

「小藤次が惚れておるのを幸として、お由羅の許へ、奉公に出るということ――もし、この話が成就したなら、これを、父と思って肌身離すな。奥女中は、片輪者の集まりゆえ、いじめることもあろうし、叱ることもあろうが、お家のため、父のために、十分に耐えて――隙があらば、由羅を刺し殺せ。己を突くか、由羅を突くか、二つに一つの短刀じゃ。その外に使うことはならぬ。又――朱に交れば赤くなる、と申すが、泥水に咲いても、清い蓮の花は清く咲く。決して、奥の悪風に染むなよ」

 深雪は、身体をかたくして聞いていた。一家中の者が、それぞれ身を捨ててかかっているのに、自分一人だけは、南玉のおどけた生活の中にいたので、日夜、そのために苦しんでいたが、益満の言葉で、頭が軽くなった。

 だが、同時に、齢端としはの行かぬ、世間知らずの娘が、そんな――由羅を刺すというような大任ができるだろうかと、心配になった。

「人間というものは、何んなことがあっても、いつも、明るい心さえもっておったなら、道は、自然に開けてくる。明るい心とは、勇気のあること、苦しさに負けぬこと――よいか」

 と、云った時、南玉が、ことこと戻って来た。深雪は、短刀を押頂いて、懐中した。

「わしは、これから、富士春の許へ、一寸、行って来る」

 益満は、刀を持って、立上りながら、勝手で、七輪への、焚木を、ぷつぷつ折っている南玉へ

「客は、戻ったぞ」

「しめたっ」

「へべれけになって、又、席を抜くなよ」

「腰を抜く」

 南玉は、こういって、障子の破れ穴から、中をのぞいて、益満が出て行きそうなので

「一杯やってから」

 と、徳利を提げて出て来た。

「急ぐ」

「便所なら、こっちにも――」

「馬鹿っ」

 益満は、笑いながら出て行った。深雪には何の事だかわからなかった。


 富士春は一人きりだった。益満が入って行くと、惣菜をお裾分けに来たらしい女房が、周章てて勝手から出て行った。富士春は、お惣菜の小鉢を、鼠入らずへ入れて、益満へ

「お見限りだねえ」

「何を――こっちのいう科白せりふだ。近頃は、巾着切を、くわえ込んでいるくせに――」

 富士春は、下から、媚びた目で、益満を見上げて

「ま、お当て遊ばせな」

 と、座蒲団を押しつけた。

「貴様でも、遊ばせ言葉を存じておるか」

「妾は、元、京育ち、父は公卿にて一条の」

「大宮辺に住居して、夜な夜な、人の袖を引く」

「へんっ、てんだ。何うせ、そうでございましょうよ。柄にもない、お嬢さんなんかと、くっついて」

 富士春は、益満の眼へ、笑いかけつつ、茶をついだ。

「そのお嬢さんに、小藤次が執心らしいが、師匠、一つ骨を折って、奥勤めへでものう。父は浪人になるし、南玉の許に食客いそうろうをしていては――」

「本当にね、お可哀そうに――」

「などと、悲しそうな面あするな。内心、とって食おう、と、思っているくせに――」

「やだよ、益公。与太な科白も、ちょいちょい抜かせ。意地と、色とをごっちゃにして、売っている、泥溝板長屋の富士春を知らねえか」

「その啖呵あ、三度聞いた」

「じゃあ、新口だよ。いいかい、剣術あお下手で、お三味線はお上手てんだ、益公。お馬もお下手で、胡麻摺りゃお上手。ぴーんと、痛いだろう」

「常磐津よりは、その方が上手じゃ。流石、巾着切のお仕込みだけはある」

「外聞の悪い、巾着切、巾着切って」

 と、云って、女は、声を低くして

「お前さんにゃあ敵わないが、知れんようにしておくんな、人気にかかわるからね」

「心得た――その代り、二階へ一寸――」

 富士春は、ちらっと、益満を見て

「本心かえ」

 と、険しい眼をした。

「一緒に、というんじやあねえ、わし一人で――その代り、暫く、誰も、来んように」

 富士春は、微笑して

「屋根伝いに、お嬢さんが――」

「まあず、その辺」

 富士春は、手を延して、益満を捻った。

「たたたった――まさか、二階に、庄公が鎮座してはおるまいの」

「はいはい、亭主やどは、人様が、お寝静まりになりましてから、こっそり、忍んで参りまする」

 益満は、立上って、押入を開けた。狭い、急な階段があった。

「今夜は、狼共、来るかの」

「さあ、一人、二人は――お由羅さんが、お帰りなので、町内中が、見張に出ているらしいから」

「ほほう、お由羅様が、お帰り?」

「あのお嬢さんを、奥勤めさせるなど――何うして、あちきのところへ、あずけないかしら?」

 益満は、階段はしごだんの二段目から、首を延して

「庄吉は、色男だからのう、危い」

 と、云って、すぐ、階段を、軋らせて登ってしまった。


「お由羅さん、か」

 富士春は呟いた。同じ、師匠のところへ、通って居たこともあったが、物憶えの悪い、お由羅であった。そして、富士春は、その反対であったが、反対であったがために、富士春は師匠となり、お由羅は、いつの間にか、お部屋様になった。富士春は、勝手の小女に

「早く、おしよ」

 と、夕食を促した。

 益満は、暮れてしまった大屋根へ、出た。周囲の長屋の人々は、悉く、里戻りのお由羅を見るため、家を空にして出ているらしく、何んの物音もしなかった。

 屋根から往来を見下ろすと、町を警固の若い衆が、群集を、軒下へ押しつけ、通行人を、せき立てて、手を振ったり、叫んだり、走ったりしていた。

 提灯を片手に、腰に手鉤てかぎを、或る人は棒をもって、後から出る手当の祝儀を、何う使おうかと、微笑したり、長屋の小娘に

「お前も、あやかるんだぞ」

 と、云ったり、その間々に

「出ちゃあいけねえ」

 とか

「早く通れっ」

 とか、怒鳴ったり――小藤次の家は、幕を引き廻して、板の間に、金屏風を、軒下の左右には、家の者、町内の顔利きが、提灯を股にして、ずらりと、居流れていた。

 益満は、ぴったりと、屋根の上へ、腹を当て、這い延びて、短銃たんづっを、棟瓦の上から、小藤次の家の方へ、ねらいをつけていた。片眼を閉じて、筒先を上げ下げしつつ、軒下の中央へ、駕が止まって、お由羅の立出るのを、一発にと、的を定めていた。

 駕が近づいて来たらしく、人々のどよめきが、渡って来ると共に、軒下の人々が、一斉に首を延し、若い衆の背を押して、雪崩れかかった。そして、若い衆に制されて、爪立ちになって覗くと――真先に、士分一人、挟箱はさみばこ一人、続いて侍女二人、すぐ駕になって、駕脇に、四人の女、後ろに胡床こしょう、草履取り、小者、広敷番、侍女数人――と、つづいて来た。

 軒下に居並んでいた人々が、手をついた。陸尺ろく しゃくが、訓練された手振り、足付で、小藤次の家の正面へ来た。

 益満は、左手を短銃へ当て、狙いの狂わぬようにして、右手を引金へかけた。そして、籠から出て、立上った女の胸板へと、照準を定めていた。

 駕は、然し、横づけにならず、陸尺の肩にかかったまま、入口と、直角になった。そして、益満が

(妙な置き方をする)

 と、思った時、そのまま陸尺は、土足で、板の間へ、き入れかけた。

(しまった)

 照準を直した時、駕は、侍女の蔭を通って、もう、半分以上も、家の中へ入ってしまっていた。

(こっちに備えがあれば、敵も用心するものだ――流石に、お由羅だ)

 益満は、微笑して立上った。そして、瓦をことこと鳴らしつつ、二階の窓から、入って来て

「ちんとち、ちんちん、とちちんちん、ちんちん鴨とは、どでごんす――」

 と、唄いながら、段を下りた。富士春が

「騒々しいね」

「ちんちんもがもがどでごんす」

 益満は、片足で、三段目から、飛び降りて、そのまま、ぴょんぴょん、富士春の側へ行こうとすると、火鉢の前に一人の男が坐っていた。


 そして、その男も、富士春も、二人ながら気拙そうに、沈黙してしまった。益満は

(庄吉だな)

 と、思った。そして、二人を気拙くさせたのは、自分だと感じた。その途端、富士春が

「ねえ、益満さん、あの、貴下あんたとこのお嬢という人は、この人の手を折った人の、妹さんで、ござんしょう」

 益満は、庄吉に

「初めて――でもないが、手前は、益休と申して、ぐうたら侍」

 庄吉は、周章てて、座蒲団から滑って

「恐れ入ります、お名前は、それから、以前此奴こいつが、お世話になりましたそうで、いろいろと――」

 富士春が、庄吉を睨んで、鋭く

「余計なことを喋らなくってもいいよ」

「ははは、逢えば、そのまま、口説くぜつして、と唄の通りだの。それで、富士春、妹なら?」

「現在手首を折られた男の妹に惚れて――」

「手前は又、折った小太郎さんに思召しがあるんじゃあねえか」

「馬鹿に――」

「仲よく二人で惚れたって、何んでえ。何んかといや、不具者を引取ってやったと――手前なんざ、不具者の外の亭主がもてるけえ」

 富士春は、ぽんと、煙管を投げ出して、益満に

「その深雪さんが、小藤次の手で奥勤めすると聞いて、へへ、邪魔を入れてますのさ、この人が――奥へ入ると、逢えないもんだから――」

「て、手前、おれの気立を、うぬあ、まだ御存じ遊ばさねえんだ。おいら、成る程、よく聞いてみりゃあ、深雪さんは好きだと、この胸が仰しゃるけどな、あのお嬢さんを追っかけるのは、南玉爺一人に任せちゃあおけねえからだ。一手柄、おいらの手で立てさせ上げ奉っちまって、ねえ、益満さん、あの親爺さんなり、小太郎さんに逢わして上げたら、何んなに肩身が広かろうと、これが、世に云う、そら、義侠心って奴だ」

「体のいいこと云いなさんな」

「手前、何んでえ、小太郎の男っ振りに惚れやがって――」

「小娘じゃあないよ」

「何を。昨夜も、手前、あの人は、まだ女を知らないだろう、何んな顔をするだろうねって――譃と思やあ、腕まくりしてみろ、俺がつねった跡がついてるだろう。さあ、そっちの腕をまくって、益満の旦那に見せてみろ、それ、見せられめえ」

「ははあ、のろけか」

 庄吉は、笑った。益満が

「まま、こういう喧嘩なら、大したことはあるまい。なまじ、仲裁をしては、あとで、悪口を云われるものじゃて――その内に、ゆっくり――」

 と、立上った。

「旅をなさいますって?」

 と、富士春が、見上げた。

「上方へ暫く」

「そして、深雪さんは?」

「奥勤めができんなら、暫くは、南玉の食客いそうろうかの」

「庄吉が、くっつきましては?」

「それも、よかろう。庄吉、頼むぞ」

「男ってものは――」

 と、富士春は、口惜しそうに、羨ましそうに呟いた。

「男同士でなくっちゃあ、判らねえ」

 庄吉は、そう、云いすてて、益満を送りに立った。


「お部屋様付になれたら、俺のいうことも聞くか?――成る程」

 小藤次は、常公と、二人で、南玉のところへ、深雪を尋ねて来て、自分の妾に、又は、妻にと話し出した。

「尤もだが、ま、俺からいうと、俺のいうことを聞いてくれたら、由羅付なりと、大殿付なりと、好きなところへ奉公してもいい、と、こういいたいの」

 常公が、頷いた。深雪は、頭から、髪の中まで、口惜しさでいっぱいだった。父に別れるとすぐ、浅ましい妾奉公などを、大工上りの小藤次から、申し込んで来たのに対して、口惜しかった。

(でも、これを忍ばないと――いい機なのだから――)

 と、思った。然し、小藤次に肌を与えてまでも、由羅付女中になりたくはなかった。そうまでしないでも、外に方法があるように思った。然し、益満は

「操ぐらい――」

 と、軽く――それも、深雪には、口惜しかった。汗ばんだ手に、懐の短刀を握って

(由羅付になって、由羅を刺すか、自分を刺すか)

 と、思うと、人々の見ている中で、芝居をしているように、いろいろの場面が、空想になって拡がって行った。

(女の決心は、男の決心よりも強い。その今、流している涙を十倍にして、敵党へ叩きつける決心をするのだ。父の分、母の分、兄の分、姉の分を、自分一人で背負って、復讎ふくしゅうする決心をしておれ)

 と、云われたが、それを思い出すと、小藤次に、肌を許して、一日も早く、お由羅を刺そうかとも思った。だが、小藤次の下品な鼻、脂切った頬、胸の毛を見ると、身ぶるいがした。

「武家育ちだから知ってるだろうが、一旦、上ってしまうと、町方たあちがって、なかなか、男など近づけるところでないし、宿下りは年に二度さ、だから――」

 南玉が

「そこを一つ、若旦那、お由羅さんの兄さんという勢力で、気儘に逢引のできるよう、骨を折って下さるんでげすな」

不束者ふつつかものでございますが、お世話になります以上は、一生をかけたいと存じます。それにつきましては、一通りの御殿勤めも致しとうござりますゆえ、一二年、御部屋様付にて、見習をさせて頂きましたなら」

 深雪は、一生懸命であった。頭も、顔も熱くなって、舌が、ざらざらして、動かなくなるのではないかと思えた。

「利口なことをいうぜ」

 小藤次は、腕組をして、深雪の滑らかな肩、新鮮な果実くだもののような頬、典雅な腰の線を眺めていた。

「成る程、御尤もさまで――」

 と、常公が、思案に余ったような顔をしていた。

「講釈流で行くと、ここで、岡田小藤次は、侠気おとこぎを見せますな。何んにも云わねえ、行って来な」

 南玉は、首を振って、仮声を使った。

「てえことになると、娘の方から――ほんに、頼もしい小藤次さま」

 南玉は、娘の仮声をつかった。そして、常公に、しなだれかかった。

「うわっ、おいてけ堀の化物だ」

 と、常公は、身体を反した。


「今晩あ――やあ、これはこれは」

 庄吉が、暗い土間から、奥を覗き込んだ。そして

「若旦那、今晩は」

 と、云って上って来た。小藤次は、煙管を仕舞って

「とにかく、奥役に聞いて、奉公に上れるか、上れんか、なあ、それから先にして、おいらあ、もう一度来るから、深雪さんも、よく考えておいてくんな。そりゃあ、無理をすりゃあ、邸の中でも――出来ねえこたあねえが、窮屈だからのう、邸勤めってのは」

「話あ、きまりましたかえ」

 と、庄吉が、小藤次の顔を見た。

「庄公も、一つ骨を折っといてくれ。なかなか、利口なお嬢さんだ。じゃあ、師匠、又来らあ。お邪魔したのう」

「手前も、今夜、ゆっくり、口説いてみましょう」

「師匠の口説くなあ、講釈同然、拙いだろうの」

 と、いいつつ、深雪に挨拶して立上った。常公も、庄吉も、南玉も、上り口まで見送って来た。深雪は、まだ短刀を握りしめて俯向いていた。

「お嬢さん――邸奉公なさるって――そりゃあ、一体、貴女あんたの望みか、それとも、この南玉爺の」

「これこれ、爺とは、何んじゃ。齢はとっても、若い気だ。物を盗っても、庄吉と、いうが如し、とは、これいかに。うめえ問答だ。明晩、席で、一つ喋ってやろう」

 庄吉は、南玉が喋るのを、うるさそうに聞きながら

「勤めなんぞより、お嫁に行きなせえ。早く身を固めた方が、利口ですぜ」

 庄吉は、じっと、深雪を凝視めつつ

「だが、びっくりなさんな。こうすすめるのは庄吉の本心じゃあねえんで――その懐の中、手のかかっているものは――」

 深雪は、庄吉を見た。

「短刀でげしょう」

 深雪の眼も、懐の手も、微かに動いた。

「商売柄判りまさあ。お由羅のところへ奉公に上って、その短刀が――」

 と、いった時、南玉が

「わしの、講釈よりも、筋立が上手だよ、のう庄吉」

「誰も、俺を、巾着切だとおもって対手にしねえが、流石に、益満さんは、目が高えや、南玉。深雪さん、益満さんは、貴女のお父さんが、牧を討ちに行ったと、あっしを見込んで打明けて下さいましたぜ。床下の人形のこたあ、世間でも知ってまさあ。二つ合せて考えて、その短刀と三つ合せて考えて、小藤次の色好みを幸に、御奥へ忍んで――ねえ、あっしゃあ嬉しゅうがすよ。十七や、八で、その心意気が――あっしの手が、満足なら、忍び込んで御手伝いしやすがね」

 庄吉の言葉は、二人を動かすに十分であった。だが、二人とも黙っていた。

「あっしに、何か、一仕事――庄吉、これをせいと、お嬢さん、何かいいつけて下さんせんか――死ねとか、盗めとか」

 二人は、黙ったままであった。

「じゃあ――深雪さん、大阪のお母さんと、姉さんを、手助け致しやしょうか。そして、貴女に何か、一手柄――」

「立てさせて上げてくれるなら、そりゃあ、庄吉、この爺も――ねえ、お嬢さん」

 深雪は

「はい」

 と、答えた。

「ようしっ」

 庄吉は、眼を輝かして、膝を叩いた。



第二の蹉跌

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 戸塚より藤沢へ二里、本駄賃、百五十文。藤沢より平塚へ三里、二百八十文、平塚より大磯へ二十町、六十文。箱根路へかかると、流石に高くなって、小田原から、箱根町へが四里という計数で、七百文であった。

「駕屋、急ぎだぞ」

 五人の侍風の者と、商人風の者とが、藤沢の立場たてばの前で、乗継ぎの催促をしていた。

「へい」

 と、いって、小屋の中で、くじを引いていた駕人足が、きまったと見えて、黒く、走って出た。そして、自分の駕を、肩へかけると、侍の方へ

「お待ちどおで」

 七瀬は、小屋の横から、駕へ入る人を、一人一人眺めていたが

(あれは――家中の夫と近しい方――)

 と、思うと、一足出て見た。駕は、すぐ上った。七瀬は

(夫のことを聞こうか、聞くまいか)

 と、思案した時、その人も、七瀬を見つけた。それをきっかけに、七瀬は、御叩頭をして、小走りに駕へよって

「奈良崎様では?」

 奈良崎は、七瀬を見て

「仙波氏は?」

「さあ――ここで、待っておりますが」

 奈良崎は

「待つ? 待っておる? 何を愚図愚図と――危険が迫っておるに」

 と、いって、すぐ

「駕やれ」

 駕は、五梃つづいて、威勢よく行きかけた。奈良崎の急ぐ態度、言葉からは、何かしら、大事が起るような、予感がした。

 一筋道ではあったが、八郎太と、小太郎とが、昼間しか通らぬと決まってはいなかった。自分達が、品川から夜道したように、二人は、綱手の眠っている間に、行きすぎたかも知れぬし――

(もしかしたなら、あの人々が、夫を追うのでは?)

 と、思うと、そうも、思えた。七瀬は、多勢の者に取巻かれて戦っている、夫と、子とを想像すると、もう、立場たてばで見張っては居れなくなってきた。

(奈良崎の、あの、危険が迫っているという言葉――夫に迫っているのか、自分に迫っているのか? 何故、危険が迫るのか?)

 七瀬には、十分理由が判らなかったが、今まで引続いて起った不運のことを考えると、何かしら大事が起るように思えた。

「七梃だっ、急ぎ」

 と、いう声がしたので、振向くと、侍が七人、怒鳴っていた。その中に、七瀬の顔見知りの人がいた。立場の横には、掘抜井戸があって、馬の、雲助の、飲み水になっていた。駄賃をもらうと、駕を、軒下へ片付けて、雲助はその井戸へ集まった。

「今し方、五梃、侍が乗って行かなんだかのう」

「行かっしゃりました」

「何の辺まで参っておろう」

「さあ、この宿を――外れたか、外れんかぐらいでござんしょう」

 筆を、耳へ挟んで、立場の取締りらしいのが答えた。七人の侍は、軒下に陽を避けながら、何か囁いては、頷き合った。

酒手さかてをはずむから、急いでくれんかの」

「心得ました」

「てへっ、てへっ、今日は、女っ子が抱けるぞ。いい御天道様だっ」

 雲助達は、元気よく、駕を担いで走り去った。七瀬は、何んとなく、だんだん胸騒がしくなってきた。そして、宿の方へ歩き出した。その時

「ほいっ、ほいっ」

 と、四人立の駕が、すぐ後方へ来た。七瀬が振向くと、駕の中の人の眼が光って

「七瀬殿、何を愚図愚図」

 と、叫んだ。益満であった。

「夫は?」

「とっくに――今、敵の討手が、七人、吾々同志を追って参ったであろうが――」

 と、いう内に、駕は眼の前を行きすぎていた。七瀬は、裾をかかげて走り出した。


「追っつきましたぜ、旦那」

 駕の中の侍は、駕をつかまえて、身体を延した。そして

「垂れを下ろして――」

 自分で、そういいながら、垂れを下ろしてしまった。七梃の中二梃には、槍が立ててあった。

 同じ、宿場の駕として、四人仕立のが、二人立の駕を抜くのは当然であったが、二人仕立同士の抜きっこは、止められていた。だが、酒手の出しようで、駕屋は、対手に挨拶をして、抜いてもよかった。七人の侍の駕は、五梃の駕へ追いつくと

「兄弟、頼むっ」

 と、棒鼻が叫んだ。

「おおっ――手を握ったか」

 後棒が、振向いた。

「その辺――」

 お互に、仲間の符牒ふちょうで、話し合って、追い抜いてしまった。大磯と、小田原の間、松並木つづきで、左手に、遠く、海が白く光っている所であった。

 小田原から、箱根越の雲助は、海道一の駕屋として、威張っていた。七百文の定賃に、三百文の酒手ではいい顔をしないくらいであった。美酒、美食で、冬の最中にも裸で担ぐのを自慢にしていた。その裸の腕へ、雪が降っても、すぐ、消えて行くのが、彼等の自慢の第一であった。

「箱根泊りですかい、今から――」

 不平そうな顔をして、雲助がこういうのに対して

「頼む――」

 と、云って、多分の酒手を出す外になかった。雲助は支度をしながら、七人の姿を、ちらちら眺めていた。

 七人は、軽装で、二人まで袴をつけていなかった。木綿の袷一枚に、兵児帯をしめて、二尺七八寸の刀を差していた。

「おかしな野郎だの」

 駕屋は、仲間へ囁いた。

 七梃の駕が、小田原を離れると共に、駕の中の人々が

「山へ入ってから、それとも――この辺でもよいでないか」

 とか

「その曲りっ角は――」

 とか、話し合つた。だが、最初の駕にいる一人が

「山の中で、十分の足場のところでないと――」

 と、対手にしなかった。湯本から、登りになった。石段道へかかった。駕屋は、沈黙して、息杖を、こつこつ音立てながら、駕を横にして、ゆるゆる登りかけた。

 一町か、一町半で、休茶屋があった。駕屋は、きっと、そこで暫く休んだ。少しも、疲れていないようであったが、十分に休んでからでないと、行かなかった。

 右も、左も杉林で、その下は雑草の深々としたところへかかった。最初の駕の侍が

「駕屋、とめろ」

 と、叫んだ。

「ええ?」

「此処まででよい――降りる」

 駕屋は、お互に

(怪しい奴だよ。この野郎ら――)

 と、眼配せをした。

「吾々は、公儀御用にて咎人を討取る者じゃ。見物せい」

 と、一人が、駕屋へ微笑して

「小田原の方へ降ることはならぬ。そっちへ――遠くへ離れておれ」

 と、命じた。そして、酒手を多分に出した。


「待て。駕屋、待てっ」

 行手の叢から、侍が立現れて叫んだ。

 最初の駕にいた男も、次の駕の男も、立てかけてあった刀をとった。そして、素早く、左脚を、駕の外へ出した。

「奈良崎――」

 草叢の中から出て来た侍は、こういって近づくと

「聞きたいことがある」

 奈良崎は、黙って、刀を提げて、その侍の反対側へ出た。雲助が、急いで草履を持って来た。四梃の駕からも、刀を持って、商人に化けた四人が出た。そして、四辺を見廻してから、奈良崎の背後に立って、その侍を、じっと睨みつけた。

「一木」

 奈良崎が、少し、顔を赤くして叫んだ。

「連れ戻るか、斬るかであろう」

 一木は、冷たい微笑をして

「君公の命じゃ。何故、お主は無断で、旅へ出た」

「そういうことを聞きとうない」

「そうか――覚悟しておるのか」

「お身達、虎の威を借る狐とはちがう」

 一木の顔色が動いた。

「奈良崎、君公の御裁許も仰がず、濫りに私党を組んで、無届出奔に及ぶ段、不届千万、上意によって討取る」

「そうか」

 奈良崎が、足に敷いていた草履を蹴飛ばして、身構えすると同時に、草が動き、物音がして、人が、槍が、草叢の中から現れた。

「奈良崎、その外の浪人者も、手向い致すか」

 七人は、槍と、刀とで、五人を取巻いた。

「たわけ――来い」

「芋侍なら不足はない」

 五人は、刀を抜いて、背を合せた。

「そうか――是非も無い」

 一木が、こういうと同時に、六人の侍は、じりじりと迫って来た。五人の駕屋は、立木の中へ入って、樹を掴みながら、ぼんやりと、だが、腋の下に、掌に、汗をかいて、眺めていた。もう、走ることも、動くことも、出来なくなっていた。

 十二人は、無言で、お互の刀尖と、穂先とを近づけて行った。誰も皆、蒼白な顔をして、眼が、異常に光っていた。

 一木は、右手に刀を提げて奈良崎の横へ廻って来た。奈良崎は、もう、額に微かに汗を滲ませていた。追手の内の二人は、肩で呼吸をしていた。

 槍は中段に、刀は平正眼に、誰も皆同じ構えであった。お互に、最初の真剣勝負に対して、固くなっていた。懸声もなかった。刀尖が二尺程のところまで近づくと、お互に動きもしなかった。

 一木は、両手で、刀を持つと、刀尖を地につけた。示現流の使手として、斬るか、斬られるか、一挙に、勝負を決しようとする手であった――果して

「やっ、やっ、やっ」

 一木は、つづけざまに叫ぶと、刀尖で、地をたたきつけるように、斬り刻むように、両手で、烈しく振って

「ええいっ」

 山の空気を引裂いて、忽ち大上段に、振りかざすと、身体ぐるみ、奈良崎へ、躍りかかった。


 一木の攻撃は、獰猛の極であった。それは、躍りかかって来る手負獅子であった。後方へか、横へか――避けて、その勢いを挫く外に方法がなかった。

 もし、受けたなら?――それは、刀を折られるか、受けきれずに、どっかを斬られるか、それだけであった。

 だが、たった一つ、相打になる手はあった。一木の、決死の斬込みに対して、斬らしておいて、突くという手である。諸手突もろてづきに、一木の胸へ、こっちからも、必死の突撃を加えることである。

 然し、それも、冒険だった。もし、一分、一秒、奈良崎の刀が、遅れたなら、自分だけが真向から二つに斬られなくてはならなかった。

 こういう時になると、それは技量の問題でなく、肚の問題であった。生死の覚悟如何の問題であった。二人の間に格段の相違があればとにかく、互角か、互角に近かったなら、それは、場馴れているとか、いないとかの問題でなく、自分の命を捨ててかかった方が勝であった。

(ここを逃れて――牧を討たなくてはならぬ――)

 と、考えている奈良崎に、この覚悟がなかった。一木の、眼の凄さと、脚構えを見て

(さては――)

 と、感じた瞬間、一寸、怯け心がついた。それは、剣道で、最も、忌むべきものとされているものだった。疑う、惑う、怯ける――どの心が起っても、勝てぬものとされているものだった。

 奈良崎は、一木の光る眼、輝く眼、決死の眼が、つぶてのように、正面から飛びかかって来たのを見た。一木の両手の中に、紫暗色をして、縮んでいた刀が、きえーっ、と、風を切って、生物の如く叫びながら、さっと延び、白く光って、落ちかかるのを見た。

 奈良崎は、避けた。それは、自分の命令で、避けたのでなく、本能的に、反射的に、身体が勝手に、自然に避けたのだった。それから、奈良崎の両手も、無意識に刀を斜にして、一木の打ち込んで来る刀を支えようとした。

 だが――奈良崎が、避けたはずみに、隣りの味方――浪人者の一人へ、身体がどんと、ぶっつかった。お互に、よろめいた。奈良崎は膝をついた。そして、眼を剥き出し、絶望的な光を放って、一木を睨んだ。その瞬間、一木の打ち込んだ刀が、びーんと腕へ響いた。奈良崎は、膝を立て直そうと、片足を動かした時、太腿に、灼けつくような痛みと、突かれたという感じとを受けて、腰を草の上へ落してしまった。

「卑怯、卑怯」

 奈良崎は、血走る眼、歪んだ脣、曲った眉をして、叫んだ。誰に叫んだのか、自分でも判らなかったが、こうでも叫ぶほか仕方がなかった。だが、一木は

「えい、えいっ、えいっ」

 それは殺人の魔に憑かれた人間のように、倒れかかっている奈良崎へ、力任せに、つづけざまに、大太刀を打ち込んで来た。奈良崎は、その隙間なく打降ろす刀を受けるだけで一生懸命であった。二人とも逆上したように、かれたように、同じことを繰返していた。

「わーっ」

 それは、杉木立の中へ、反響して、空まで響くような叫び声であった。そして、すぐ奈良崎の頭へ誰かが斬られたらしい生あたたかいものが、小雨のように降ってきた。

「これでも――これでも」

 一木は、歯を食いしばって、頭上のところで受けている奈良崎の刀を、つづけざまになぐった。

 人の絶叫と、懸声とが、人間の叫びとは思えぬくらいに物凄く、杉木立の中へ木魂していた。


 誰の米噛もふくれ上っていたし、額からは汗が流れていた。眼は、ヒステリカルに光って、それは、物を見る穴でなく、殺人的気魄を放射する穴に変っていた。

 浪人達は、三重の不利があった。一つは、ここを切抜けて牧を討つのが目的であったし、もう一つ、地の利を対手に占められていたし、第三は、得物に槍の無いことと、人数の少いことであった。

 だが、それよりも、もっと大きいのは、金で動いている請負仕事で、一木以下の六人が隼人はやとの面目をかけて、対手を討とうとするのと、その態度においてちがっていた。

 一木が、奈良崎に打込んだのを合図にして、双方の離れていた刀尖が、少し触れ、二三人は、懸声をしたが、対手が、じりじりつめて来るのに対して、四人は、退るばかりであった。だが、その中の一人は、奈良崎が槍で股を突かれたのを見ると、

「何をっ」

 と、絶叫して、その槍の浪人に斬りかかった。進む浪人も、退いた浪人も、草に滑った刹那

「ええいっ」

 右頭上八相に構えていた一人が、閃電せんでんの如く――ぱあっ、と鈍い音と共に、つつと上った血煙――

「うわっ」

 と、遠巻にしていた旅人、駕屋が、自分が斬られたように叫んで、顔色を変えて、二三間も逃げた。

 斬られた浪人は、首を下げて、手を下げて、二三歩、よろめいて歩み出て、すぐ、奈良崎の横へ倒れてしまった。斬口から血の噴出するのが遠くからでも見えた。

 斬った男は、真赤な顔をして、刀を振り上げて、悪鬼のように、眼を剥き出して

「こらっ、うぬらっ」

 と、叫んで、三人に、走りかかった。それは、殺人鬼のように、狂的な獰猛さであった。三人は、同じように刀を引いた。そして、                                                                                               逃げ出した。

「逃げるか、逃げるか。卑怯者、卑怯者」

 六人は、お互に絶叫して、猟犬の如く追った。追う者も、追われる者も、草に滑り、石につまずき、凹みによろめいて走った。旅人は、周章てて、木立の中に飛び込んだ。

「待て、卑怯なっ、待てっ」

 一人は、刀を押えて、槍を持って走っていたが、思うように走れないので、こう叫ぶと、槍を差上げ

「うぬっ」

 と、叫んで、投げつげた。槍は、獲物に飛びかかって行く蛇のように、穂先を光らせて、飛んで行った。そして、一人の腰に当ったが、石の上へ落ちて転がってしまった。

「馬鹿っ」

 追手の一人が、振向いて、槍を投げた男に

「股を目掛けて、何故投げん」

 と、睨みつけた。その途端、一人の追手が、浪人の一人に追いついて、片手突きに、その背中を突いたが、間髪の差――素早く、振向いたその男が、片手なぎに、身体も、刀も、廻転するくらいに払ったのが、見事、胴に入った。討手は、背後から突かれたように、手を延したまま、どどっと、前へ倒れてしまった。

「やったな」

 と、一人が叫んだ。


 七瀬は、綱手をせき立てて、すぐ、益満の後を追った。小田原の立場で

「箱根まで――」

 と、いうと、人足達は

「秋の陽は、短いでのう」

 と、渋っていたが、それでも、七瀬の渡した包紙を握ると

「やっつけるか」

 と、いって、駕を出した。荒涼とした、水のない、粗岩の河原を、左に湯本へ行くと、駕屋は、草鞋を新しくして、鉢巻をしめ直した。

 湯本から急な登りになる石敷の道は険しかったし、赤土の道は、木蔭の湿りと、木の露とで滑り易かった。

「おう」

 と、駕屋が、振向いて、後棒へ

「妙ちきりんなものが、現れましたぜ」

 その声に、綱手が、駕から覗くと、遠くの曲り角へ、槍を持って白布で頭を包んだらしい侍が、急ぎ足に降って来た。

 駕屋は斜にしていた駕を真直ぐにして、その侍を避けるように、道傍を、ゆっくり登って行った。七瀬も、綱手も、その侍は、八郎太と小太郎とを討取った戻り道のような気がして、胸が高く鳴り出した。

「綱手、あの方は、御邸の一木様ではないか」

「はい、お母様――」

 と、いった時、もう、一木は、駕のすぐ間近まで来ていた。七瀬が

「一寸、駕屋」

 と、声をかけて、駕が止まるか、止まらぬかに、駕の外へ足を出して、降りかけながら

「一木様」

 と、叫んだ。

 一木は、答えないで、七瀬へ、冷たい一瞥を送って、行きすぎようとした。その途端、綱手が

「一木様っ――それは」

 と、叫んだ。一木の左の腰に――それは、確かに、首を包んだ包と覚しいものが、縛りつけてあった。七瀬は、駕を出て

「卒爾ながら――」

 一木は、七瀬を、睨んで立止まった。

「仙波八郎太に、お逢いではござりませんでしたか」

「仙波?」

 一木は、右手の槍を、突き立て

「仙波とは――ちがう。仙波へは、別人が参って――」

「別人とは?」

「別の討手――気の毒であるが、御家のためには詮もない」

「そ、その討手は、貴下様より、先か、後か?」

 綱手は蒼白になって、七瀬の横に立っていた。駕屋は、眼を据えて、一木の顔を見ていた。

「前後?」

 一木は、脣で笑って

「敵の女房に、左様のことがいえようか。聞くまでもない。無益なことを――」

 口早に、いうと、ずんずん降って行った。二人は、暫く眼を見合せていたが

「急いで――急いで」

 と、憑かれたようにいいながら、駕の中へ入りかけた。

「合点だっ」

 駕屋は、肩を入れると

「馬鹿っ侍、威張りやあがって」

 と、呟いて、足を早めた。


「びっくりしたのう、おいら」

「何をっ。吃驚びっくりって、あんなものじゃねえや」

「何?」

「手前のは、ひっくり、てんだ。下へ、けえるがつかあ」

「おうおうおう、涎をらして木へしがみついて居たのは誰だい」

「それも、手前だろう」

 旅人達は、一団になって、高声に話しながら降りて来た。そして、七瀬と、綱手の駕を見ると、一斉に黙って、二人を、じっと見た。七瀬が

「お尋ね申します」

 と、一人へ声をかけて

「只今のお話、もしか、斬られた人の名を御存じでは――ござりませぬか」

 旅人は、立止まって、二人を眺めていると、駕屋が

「斬られた人の名前を、知ってなさる人は居ねえかの」

「のう、名は判らんのう」

「名は判んねえが、齢頃は、三十七八だったかの、あの首を取られた人は」

「三十七八? 何をこきゃあがる。二十七八だい」

「こいつ、嘘を吐け。昔っから、生顔と、死顔とは、変るものと云ってあらあ。二十七八と見えても――」

「物を知らねえ野郎だの、こん畜生あ。二十七八だが、死ぬと、人間の首ってものは、十ぐらい齢をとるんだ。女が死ぬと美人に化け、男が溺死すると、土左衛門と、相場がきまってらあ」

「手前、首だけしか見ねえんだろう。俺、最初から見ていたんだ」

 七瀬が

「その中に老人が――」

「老人も、若いのも、いろいろいたがね。奥様。まず、こう、その駕、あて、と」

「おうおう、芝居がかりかい」

「待てと、おとどめなされしは?」

「音羽屋っ」

「東西東西、静かにしてくれ、ここが正念場だ」

 旅人は、七瀬が、綱手が、何う考えているかも察しないで、綱手を、じろじろ見ながら、巫山戯ていた。

「その、果合はたしあいの場所は?」

 と、七瀬が聞くと

「この二三町上でさあ。のう、待てと、お止めなされしは――」

「おや、眼を剥いたよ。豆腐屋あ」

「有難う存じました。駕屋さん、急いで」

 駕が上った。

「いい御器量だのう」

「吉原にもいまい」

「ぶるぶるとするのう」

「首を見ては、ぶるぶる、女を見てはぶうるぶる」

 人々は、遠ざかった。行きちがう人々は、ことごとく、血腥ちなまぐさい話を、声高にして、行った。駕が、山角を曲ると、草叢のところに、旅人が集まっていて、菅笠や、手拭頭が動いていた。

「あれだっ」

 と、駕屋が、叫んだ。二人は、駕の縁を握りしめながら、夫と、父とが、子と、兄とが、その中にいないように祈っていた。いないとわかっていても、何んだか、どっかで、斬られているような気がした。


 四梃の駕が、急いでいた。そのすぐ後方から、一梃の駕が

「頼ん」

 と、声をかけて、崖っぷちを、擦れ擦れに追い抜こうとした。一梃抜き、二梃抜き、三梃目のを抜いた時、その駕の中の侍が

「待てっ、待てっ、待てっ。とめろ、止めろっ」

 と、怒鳴った。駕屋が、周章てて、駕を止めると

「益満っ、待てっ」

 三梃目の侍が、刀を提げて、駕から、跣足のまま跳び降りて、抜いて行った駕を、追うと同時に、他の人々も、駕を出て、走りすがった。

「その駕。待てっ、益満」

 六七間のところで叫ぶと、抜いて行った駕がとまって、益満が、口から煙草の煙を吐きながら、駕の中から振向いた。そして

「おおっ」

 と、微笑して

「これは、御無礼」

 追って来た侍は、真赤な顔をして、袴を左手で掴み上げながら

「出い、駕を出い」

 益満は、頷いて、刀を左手に、駕を出た。見知らぬ浪人者が、腕まくりして、三人、益満を睨んで、三方から取巻いた。駕屋が、恐る恐る、駕を人々のところから引出して、道傍で、不安そうに、囁き合っていた。

「何れへ参る?」

「さあ、何れへ――」

 益満は、ゆっくり、腰へ刀を差してから、喫い残りの煙管を、口へ当てて

当途あてども無く」

「何っ、当途も無く?――御重役へ届け出でてお許しが出たか」

「いや、その辺、とんと、失念仕って――」

「こやつ、引っ捕えい」

 侍は、一足引いて、浪人達に、顎で指図した。益満は、煙を吹き出しながら

「引捕える? 暫く暫く、一寸、一服して――こうなれば、尋常に――」

 と、いいつつ、大刀の柄へ、煙管を当てた。とんとん二三度叩いて、灰殻を落した。そして、舌の先へ当てて、ぶつぶつと音させて、それから、懐の煙草をつまみ出して

「暫時。今一服」

 と、いって、雁首へつめ込んだ。四人の侍は、黙って見ているの外になかった。益満は、燧石ひうちを腰の袋から取出して

「ゆっくり眺めると、いい景色でござるが」

 火をつけて、一口吸って、一人の浪人の顔へ、ぷーっと、煙を吹っかけた。

「何を致す」

「斬る」

 三人の浪人が、この益満の言葉に、一足退いて、刀へ手をかけた瞬間、益満の煙管は、一人の鼻へ当っていたし、一人はよろめいて、顔を押えて、よろめきつつ、走り出した。押えている手から、血が土の上へ洩れていた。

 一人が、つまずきつつ、後方へ退って、抜いた刀を両手で持ち直す隙もなく、片手で益満の返した刀を止めようとしたが、もう、遅かった。膝頭を十分に斬られて、刀を、草の上へ投げ出して、前へ転がってしまった。

「手向い致すか」

 侍が、絶叫した。

「小手をかざして、御陣原見れば、か。行くぞ、行くぞ」

 益満は、同屋敷の侍を振向きもせず、残りの浪人者に、刀を向けた。浪人者は、煙管に打たれて、鼻血を出しながら、じりじり退りかけた。


 益満は、じりじり浪人を追いつめた。浪人は、蒼白になっていた。益満は、片手で、刀を真一文字に突き出して、道の真中まで出ると、自分の投げつけた煙管を左手に拾い上げた。侍も、浪人も、二人を一瞬に斬った益満の腕と、その態度とに、すっかり圧倒されてしまっていた。頭も、身体も、しびれたように堅くなってしまって、恐怖心だけが、あふれていた。

 益満は、左手の煙管を口へ当てて、舌の先で、ぽっぽっと音させつつ、右手の刀を、浪人の咽喉の見当へ三尺程のところから、ぴたりと当てて

「たって斬ろうと申さん。逃げるなら、逃げるがよい――後方が危い、もっと、左へ、そうそう」

 益満の刀の尖と、浪人の咽喉とが、何かで結ばれているように、ぴたりと膠着していた。益満は、煙管を口にくわえて、刀を左手に持ち直した。そして、懐へ右手を入れて、短銃を取出した。そして、刀と短銃とを左右に持って、二人へ突きつけながら、微笑して

「こういうものもある――り取り、見取りに取りゃしゃんせ。お七ゃ、八百屋の店飾り、蜜柑に、鉄砲、柿、刀。心のままに取りゃしゃんせ――何うじゃ。買手が無ければ、陽が暮れるからのう」

 二人は、駕屋さえ居なかったなら、逃げ出すか、謝罪するか?――頭も、身体も、ただ、苛立たしさと、恐怖とが、燃えるように、感じられるだけで、何うする方法もなかった。

「駕屋っ」

 益満は振向いた。

「勝負有ったのう」

 駕屋は、両手を膝までおろさんばかりにして、頷いた。

「駕人足の云うことにゃ、か。陽は、暮れかかる。腹は、すく。勝負も、すでに見えました。私ゃ、本郷へ行くわいな――駕っ」

 益満は、両手に刀と、短銃とを提げて、くるりと、背を向けた。そして、自分の駕の方へ、歩きながら、短銃を、懐に、刀を鞘に――そして、倒れている浪人へ、眼をやって、二人を顧みて

「これは、往生しておる。そちらのは膝だけじゃ。二人で、抱えて行ってやるがよい。今後、濫りにかかるなよ。仙波小太郎などは、某よりも、業が早い」

 侍と、浪人とは、益満を、じっと睨んだまま、刀を下へ下げて、同じところに佇んでいた。益満は、駕へ入って

吃驚びっくり、致したか」

 と、駕屋へ笑いかけた。駕屋は、ぶるぶる脚を震わせていたが

「へえ」

 と、答えたまま、容易に駕が上らないようであった。手も、膝も、がくがくふるえていた。

「何うした」

「へつ」

 二人の侍は、倒れている浪人を、肩にすがらせて立上らせた。片膝を斬られて歩けない浪人は、左右から扶けられて、ようよう一足歩き出した。その時、益満が、丁度振返った。そして

「おーい」

 と、呼んだ。三人が益満を見ると、益満は微笑して

「片脚ゃ、本郷へ行くわいな、と申すのは、そのことじゃて、あはははは」

 駕は、小走りに走り出した。

娘のお七のいうことにゃ、

妾ゃ吉三きちざに惚れました、

月に一度の寺詣り――

 益満は、腕組して、駕に凭れかかって、小声に、唄をうたっていた。


 草は踏みにじられていた。所々に、醤油のような色をして、血が淀んでいた。その中に一つの、首の無い、醜くて、滑稽な感じのする死体と、首のあるのとが転がっていた。

 その周囲は、人がいっぱいで、口々に、話しながら、人の肩から覗き込んだり、血の淀んでいるところを探しては

「ここにもある」

 と、叫んでみたり――女達は、そうしたことに騒いでいる連れの男を、腹立たしそうに呼んで、眉をひそめたりしていた。

 一つの死体の胸には、小柄が突刺してあった。その小柄の下には、紙切が縫いつけられていて、それに

依御上意討取者也ごじょういによりうちとるものなり。薩藩士、一木又七郎

 と、書かれてあった。七瀬と綱手とが、駕かち降りて、人々へ

「心当りの者でござります。少し、拝見させて下さりませ」

 と、挨拶して、人垣を分けた。

「除けよ、この野郎。心当りのあるお嬢さんが御通行だ」

 と、一人は、綱手の顔を見て、連衆の耳を引張って、道をあけた。

「お嬢さん、首がござんせんぜ、判りますかい」

「黙って、へその上に、ほくろがあるんだ」

「おやっ、手前知ってるのか」

「毎朝、銭湯で逢わあ。臍ぼくろって、臍の上のほくろは、首を切られるか、切腹するかにきまったもんだ。ちゃんと、三世相さんぜそうに出てらあ」

 一人は、小声で

「どっちかの、御亭主だぜ。気の毒に」

「この間抜け、一人は生娘だ」

「生娘だって、亭主持があらあ――ほうら、娘の方が紙を引っ張った」

「読めるかしら」

「手前たあ、学文がくもんがちがわあ」

「何を、こきあがる。俺だって、ちゃんと読んでらあ。斬られた奴は、一木ぬ七って人だ」

 綱手と、七瀬とは、紙切を読んで、頷き合った。その時、人垣の外の人々が

「来た来た、又来た」

 と、どよめいた。二人は、立上って、人々の眺めている方を爪立ちして見てみた。五人の侍が、一人の手負らしい、のを、駕の中へ入れて、灰色の顔をしながら、急ぎ足に近づいて来た。

「あれは?」

「ええ、あの方は――」

 二人とも、名は知らないが、同藩中で、顔見知りの人が一人いた。七瀬がすぐ近づこうとした。綱手が

「お母様、もしものことが――」

「でも、気にかかるゆえ――真逆まさか、女を斬りもしまい」

 七瀬は、こういいすてて、小走りに駕の方へ行った。綱手は、懐剣の紐を解いて、すぐつづいた。群集が、ざわめいた。駕脇の一人が、一人の旅人に

「この辺に、二十七八の侍がおらなんだか」

 と、聞いた。七瀬が、歩きながら

「一木様は、先刻、お下りになりました」

 と、いった。侍は、二人の顔を見て、じっと睨んで

「仙波の家内か」

「そこの死体に、一木様が、何かお書付けおきなされました。あの、お疵は、いかがしてお受けになりましたか、誰から――」

「左様のこと、聞かんでよい」

 侍は、ずかずかと、死体の方へ歩いて行った。

「仙波に、お逢いなされましたか」

「煩いっ、ぶった斬るぞ」

 振返って睨みつけた。


 七瀬と綱手は駕を急がせた。

「ああれ、又だ」

 と、先棒が叫んだ。と、同時に、後から

「おっかねえ。睨んでるぜ」

 七瀬も、綱手も、道の傍に二人の侍が立っていて、その真中に、一人がうずくまっているのを見た。二人とも、凄い眼をして、駕の近づくのを、じっと見ていた。駕が、二三間のところまで行くと

「御無体ながら――」

 と、一人が叫んで、駕の中を見た。七瀬は、はっとした。矢張り、同じ家中で、見た顔の一人であった。と、同時に、その侍が

「待て、駕、待てっ」

 と、道の真中へ出て、両手を拡げた。

「待ちやすっ」

 四人の駕屋は、顔色を変えた。

「降りろ」

 七瀬も、綱手も、懐剣へ手をかけた。駕屋が

「旦那、手荒いことは――」

 駕屋は、駕が血で汚れるのを恐れて、二人が駕を出るが早いか、木立のところへ運んでしまった。

「駕屋、動くことならんぞ」

 と、一人が、刀を抜いた。草の上にしゃがんでいる侍が、二人を見た。

「御用は?」

 七瀬は、蒼白になって――だが、静かに聞いた。

「御用? 仙波の家内などに用はない」

「御用もないのに、何故、降りよと、仰せられました」

「何?」

 侍は、七瀬を睨みつけておいて

「駕屋っ、この手負を、湯本まで運んで参れ」

「これは、御無体な、この駕は、妾が――」

 侍は、七瀬にはかまわないで

「愚図愚図致すと、斬り捨てるぞ」

 と、駕屋へ怒鳴った。

「へい」

 駕屋は、顔を見合せて

「済みませんが」

 と、七瀬へ、腰を曲げた。侍が、棒鼻へ手をかけて

「早くせい」

「へいっ」

 駕屋が、駕を上げた。

「お侍ちなされませ、女と侮って、薩摩隼人ともあろうものが、人の物を強奪して――」

「強奪? 無礼者」

 一人は、駕から手を放すと、七瀬の胸を突いた。七瀬はよろめいた。

「何をされます」

 甲高く叫んだ。綱手が

「お母様」

 と、叫んで、七瀬の前へ立った。ぶるぶる顫える脣をしめて、侍を睨んだ。

「旦那、手荒いことは」

 駕屋が、侍を止めた。

「素浪人分際の女として、無礼呼ばわり――」

「これが無礼でなくて――」

 と、七瀬が、ふるえ声でいった時、一梃の駕が、手負のところへ行き、一人が、手負を抱いて駕の中へ入れた。綱手は、母を片手で押えながら

「駕は、二梃共、御入用?」

 侍は、落ちついた綱手の態度と、その美しさと、物柔かさとに、挫けながら

「一梃でよい――無礼な」

 と、呟いて、駕の方へ去った。七瀬は、身体を顫わせていた。

「お母様、お駕へ。妾は、歩いて参ります」

 七瀬は、涙をためて、侍の方を睨んでいた。

「あれっ、彼処あそこに一人死んでいる」

 と、駕屋は指さして、低く云った。


 遥かに、芦の湖が展開して来た。沈鬱な色をして、低い灰色の雲を写していた。

「益満氏、益満氏ではないか」

 後方から、絶叫した者があった。益満が振向くと、右手に刀を提げた三人の浪人が、走って来た。益満が、駕の中から、右手を挙げた。浪人が、近づいて

「奈良崎氏と、羽鳥とが、やられた」

「刀を拭いて――関所が、近い」

 三人は、刀を拭いて納めた。

「ここへ来る道で、一人は膝を切られ、二人は無疵で――」

「逢うた。お互に、顔を知らぬし、怪しいとは存じたが、睨み合ったままで、擦れちがった」

「女二人に、一人は四十近い、一人は十八九の」

「それとは、死体の転がっていた辺で――」

 益満は、頷いて

「何うじゃ、真剣の味は?」

「駕屋、咽喉が乾いたが、その水を」

 一人が、駕の後方に、下げてある竹筒の水を指した。

「さあ、お飲みなすって。大層、血が――」

「少しかすられた」

 三人は、そういわれて、自分達の疵の痛みを感じてきた。交る交る竹筒の水を飲んで、着物を直しながら

「凄かったのう、あの示現流の、奈良崎を斬った男の腕は」

「一木か、あれは出来る」

 と、益満は答えて

「駕屋、もう六つ近いであろう」

「へえ、空の色から申しますと、もうすぐでござります」

 駕屋は顔色を変えていた。

「関所の時刻に間に合うか」

 駕は、急坂の石敷道へかかっていた。駕屋は、駕を、真横担いにして、一足ずつ降りかけた。

「さあ、但州、何うだの」

「さあ、急いだら、然し、何うかのう」

 益満は、手早く、金を取出して

「降りる。駄賃は、町までのを、これは、別に口止料」

 と、いって、金を差出して、片手で駕をたたいた。

「降りて走ろう。走れば、間に合うであろう」

 益満は、駕を出て、金を渡しながら聞いた。

「ええ、それなら、十分に。旦那、こう多分に頂かなくても、喋りゃ致しませんよ――」

「貴公達は、賽ノ河原辺で宿をとるがよい。某は関所を、今日のうちに通らねばならぬ。それから、もし、仙波の妻子が参ったなら、某は仙波へ、急を告げに参ったが、明朝すぐに引返すからと、申し伝えておいてもらいたい」

 口早に、こういうと、益満は、駕屋の礼を後に、急坂を走り降りて行った。

 雲が少しずつ暗くなりかけて、水色の沈鬱な湖面は、すっかり夜の色らしくなりかけてきた。

 箱根の関所は、冬も、夏も、暮六つに、門を閉じる慣わしであった。益満は、一足早く旅へ出た仙波父子へ、討手のかかっていることを告げてやりたいと、湖を右に、杉木立の深い、夕靄の薄くかかった中を、小走りに急いだ。

 石垣、その上に、その横に連なっている柵、高札場が見えた。門は、まだ開かれていた。

 面番所前の飾り武器、周章てて門を出て来る旅人。

(間に合った)

 と、益満が思った瞬間、二人の足軽が、急ぎ足に門へ近づくと、扉へ手をかけた。

「待てっ」

 と、益満が叫んだ。だが、門は、左右から、二人の足軽の手で閉りかけた。

「急用だっ」

 益満が門へ着いた瞬間、門が閉まった。


「急用じゃ。済まぬが、開けてもらいたい」

 益満は、柵の間から、足軽へ頼んだ。足軽は、門を押えたままで

「公用か」

「公用ではないが――」

 足軽は、黙って、閂を入れた。

「命にかかわる事じゃから」

 足軽は、返事もしないで、錠をかけ、鍵を持って去ってしまった。益満は、すぐきびすを返した。

 関所手前の旅宿は二軒しか無かった。二軒とも、小さくて汚かった。軒下の常夜燈の灯も、薄暗くて、番頭も、女中も、無愛想で、足早に近づく益満へ

「お泊りかえ」

 と、むそうにいっただけであった。

「今しがた、女が二人、着かなんだか」

 女中は、首を横に振った。

「三人連れで、一人は侍、二人は商人風の者は?」

 女中は、番頭を振返った。

「その方なら、ただ今、お着きになりました」

 番頭は、帳場の中で、火鉢を抱いたままで答えた。

「そうか」

「お連衆でございますか」

「いいや」

 益満は、それだけ聞いて、表へ出た。

「ちょっ、狼が出るぞ」

 と、番頭が、呟いた。益満は、その隣りの表から

「女連れ二人が泊っておらんか」

「いいえ」

「十八九の美しいのと、四十がらみの」

「いいえ、お泊りじゃござりません」

 女中は、じろじろと、益満を眺め廻していた。

(時刻から申せば、二人は、もうこの辺へ着かなくてはならんのに――途中で、悪雲助共に逢うたか、討手の奴等に手でも負わされたか――今夜小太に逢えぬとすれば、せめて、二人に逢いたいが――)

「旦那、お泊りじゃござんせんか」

「少し、尋ね人があって――」

 益満は、そう答えて、街道へ出た。そして、すっかり暗くなった湖畔を、提灯も無く、歩き出した。角の茶店の仕舞いかけているところを折れて、急坂にかかろうとすると、提灯の灯が見えた。

(あれかも知れん)

 と、足を早めて、提灯を見ると、それは駕屋のものでなく、定紋入りの提灯であった。益満は、素早く杉木立の中へ入った。人声が近づいた。提灯のほのかな灯でみると、それは、大久保家中の人々らしく

「ようよう着いた。慣れた道じゃが、疲れるのう」

「薩摩っ坊め、下らぬごたごた騒ぎをしやがって、彼女あれとの約束が、ふいになってしもうた」

「それは、御愁傷様、拙者には又、箱根町に馴染があっての――」

「又、色話か」

「話は、これに限る。貴公の、斬口の、鑑定は、女と手を切った時にたのむ」

「然し、見事に斬ってあったのう。薩州の示現流――」

 人々は、話しながら、通ってしまった。

(もう、小田原から役人が来た。宿にいる三人は、一日、二日取調べられるであろう――いいや、この身も危い。山越に、今夜のうち、三島まで、のすか)

 と、思った時、小さい提灯が一つ、ゆっくり、坂途さかみちを降りて来た。


 提灯の、微かな灯影の中にでも、綱手の顔は、白く浮き出していた。益満は、ずかずかと、近づいて

「お嬢様、お出迎えに――」

 と、いって、びっくりして、益満の顔を見た綱手の眼へ、合図をしながら

「心配致しました。余り、お遅いので。途中で斬り合がございましたそうで、たゞ今、役人が、その侍を取調べておりますが、うっかりしたことは出来ませぬ」

 と、口早に、小腰をかがめて、七瀬と、二人にいった。

「ほんに――」

 二人は、益満の肚がわかった。

「駕屋、済まんのう」

「いいえ」

「さあ、お嬢様、手前、そこまで背負って参りましょう」

「いいえ」

 益満は、背を出した。綱手は、赤くなった。益満の、着物から、頸筋から臭う、汗と、体臭とが好もしく、綱手に感じられた。だが、綱手は

「歩きます」

 と、いった。然し、益満が、綱手の腰へ、後ろ手に手をかけて、引寄せると、よろめいて、もたれかかった。そして、一寸、身体を反らしたが、そのまま、背へのせられると、思わず、手を、益満の肩へかけて、胸を、脚を、益満の身体へ押しつけた。そして、真赤になった。

「いいえ、歩きます」

 綱手は、足を開くのが恥かしかった。だが、離れるのも厭であった。このまま、じっと抱きしめて欲しかった。綱手は、自分の暖かみと、益満の暖かみとが一つに融け合うのを感じると、すぐ、次の瞬間、二人の肌も融け合い、二人の血が一つになって、流れているような気がした。

(誰も居なければ、よいのに――)

 と、思った。だが、すぐ、右手で益満の肩を押して

「歩けます」

 と、強くいった。

「では――」

 益満は、曲げていた身体を延し、綱手の腰から手を放した。綱手は

(放さないで、もっと、強く、長く、抱き締めていてくれたら――)

 と、思った。

「もう、すぐでございますから――駕屋、そろそろと、やってくれ」

 益満は、先に立った。綱手は

(益満様に、恋をしたのであろうか――隣同士の家にいる内は、ただ好きな人であったが)

 と、思うと、母に顔を見られるのが、気まり悪くなってきた。益満が、いつか

「娘時分と申すものは、手当り次第に、間近い男に惚れるからのう」

 と、小太郎と、話していたのを思い出して、胸を打たせた。

(益満様なら、不足のない)

 と、思うと、同じ家中で、許嫁などとなっている人々のことを思い出して、八郎太が

「益満はよいが、品行が悪いし、家柄がちがうし――」

 と、いった言葉が、恨めしくなってきた。と、同時に、益満が

「御家のためには操をすてて」

 と、いったのも、恨めしくなってきた。

「小太郎にお逢いなされて?」

 七瀬が聞いた。

「関所の刻限がきれて――然し、明日、もう一追い仕りましょう」

 さっきの茶店は、店を閉じてしまっていた。角を曲ると、宿の前に人だかりしているのが見えた。


 宿の表は、三つ、四つの提灯の、ほのかな灯の中に、大勢の人影がうごめいていた。それから、家の中には甲高い叫びと、荒い足音と――表の人々は、口々に、騒ぎ合っていた。益満が、その隣りの旅舎に駕をつけると、隣りの騒ぎを見物するため、軒下に立ったり、往来へ出て見たりしていた宿の女中が、番頭が、周章てて、駈け寄ってきた。

「お疲れ様で」

 とか

「先刻のお方様で」

 とか、という御世辞を聞き流して、奥まった部屋へ入った。

 表の人声と、ざわめきとは、未だ止まなかった。綱手と、七瀬とは、不安そうに、宿の人々が、部屋から出てしまうと、七瀬が

「まあ、嬉しいやら、びっくりやら――何んと思うて、あの、下僕しもべの真似など?」

「隣りの騒ぎを御存じか」

「御存じか、とは?――騒いでいるのは、判っておりますが――」

「わしの手下の者が捕縛されたのじゃ、小母御。関所の刻限に一寸遅れたばかりに、小太郎にも逢えず――然し、これが、世の中の常で、一つの仕事を成就させるには、こうした蹉跌さてつが、いろいろと起る。綱手、そいつにめげてはならぬ」

 益満は、脚絆を畳んでいる綱手を見ながら、茶を飲んで

「国乱れて、忠臣現れ、家貧しゅうして孝子出づ。苦難多くして現れ出づ、男子の真骨頂。いよいよ益満が、軽輩を背負って立つ時が参った」

 益満が、三尺余りの長刀を撫して、柱に凭れて腕組しながら、こう云って笑っているのを見ると、七瀬も、綱手も、何んとなく、心丈夫であり、頼もしく思えた。綱手は

(益満様なら、夫にでも――)

 と、心の中で囁きながら、さっき山の中で、生れて初めて、ぴったり、肉に、肌に、血に触れ合った男の暖かさを思い出した。そして、益満を、そっと盗み見した。

「討手は、小太郎に、もう追いつく時分でござりましょうか」

「追いつくかもしれぬ。追いつけぬかもしれぬ。然し、何れにもせよ、小太も、相当に、心得はある。やみやみ、五人、七人を対手にして、斬られる奴でもない。それに、こつこつ石の如き親爺がついておる。これが、一見頑固無双に見えていて、なかなか変通なところがある。本街道を避けて、裏を行けば、大井川までは、首尾よく参ろう。ここを無事に通れば、京までは、先ず無事――」

 こういっている時、旅舎の番頭が

「明日、早朝お立ちでございましょうか。御弁当の御用意、それから、関所切手――なかなか、きびしゅうござりますゆえ、もし、御都合で、お持ちがなければ、手前共で、何んとか御便宜を――」

 といって来た。

「切手は、持っております。御弁当と、それから、達者な駕人足とを、御頼み申します。時刻は、六つ前――」

「かしこまりましてござります」

 番頭が立去ると、早立の客達は、風呂へ入って寝るらしく、隣りも、下も、もう、蒲団を布く音を響かせてきた。

 七瀬は、小太郎のことを、八郎太のことを、綱手は、益満のことを、それから、二人で暮している空想を――益満は、敵党に根本的打撃を与える方法を――お互に、それぞれ考えながら、廊下を、轟かせて蒲団を運んで来る女中達の足音を、黙然と聞いていた。



刺客行

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 大井川の川会所かわかいしよの軒下には、薄汚れのした木の札がかかっていて

帯上通水おびうえとおしみず、九十五文

 と、書いてあった。今日の川水は、渡し人足の帯まで浸すからであった。汚い畳敷の上へ台を置いて、三人の会所役人が、横柄に、旅人の出す金と、川札とを引換にした。その横、暗い奥の方、会所前の茶店の辺には、川人足が群れていて、旅人の川札を眺めては

「荷物は、何れでえ」

 とか

「甲州。われの番だに、何を、ぞめぞめこいてやがる」

 とか、怒鳴っていた。

 大井川を渡る賃金は、水かさによってちがっていて、乳下水、帯上通水、帯通水、帯下水、股通水、股下通水、膝上通水、膝通水と分れていた。そして、一番水の無い、膝通水の時の賃金は、人足一人が四十文で、乳下水に少し水嵩が増すと、川止めになるのであった。

 水嵩が増しそうな気配だと云うので、旅人達は急いでいた。川会所の前には、そういう人々でいっぱいだった。役人が

輦台れんだい二梃」

 と、叫んで、木札で、台を叩いた。五六人の人足が

「おーい」

 と、元気よく答えて、だらだらの砂道、草叢の中に置いてある平輦台の方へ走って行った。一人の人足が、群集の前に、編笠を冠って立っている二人の侍に

「あちらへ」

 と、御辞儀した。

「急ぐぞ、人足」

 そういって、侍は、すぐ、その人足の後につづいて、河原の方へ降りて行った。その会所の前の茶店から、一人の若侍が立上って、二人の侍の後姿を見ながら

「父上、あれは、池上氏と、兵頭氏では」

 と、振向いた。

「似ている、そうらしい」

「見届けましょうか。何んなら、同行しても――」

「さ――」

 小太郎が、一足出ようとした時、勢いのいい五梃の駕が、川会所前の群集の中へ、割込んで来て、駕の中から

「輦台、五梃、急ぐぞっ」

 と、怒鳴る声がした。そして、垂れが上ると、一人の侍が、素早く、駕の外へ出た。八郎太は、歩きかけた小太郎に

「待て」

 と、声をかけた時、小太郎は、その侍の顔を見、次々の駕から出て来る侍を見て、急いで茶店の中へ入って、腰かけた。そして、二人は、街道を背にして、低い声で

「四ツ本の下の奴でないか」

「はい」

 二人は、五人の侍に見つからぬように、顔を隠して

「急ぐ模様だが――」

 と、云った時、一人の侍が、川の方を見て

「居る、あの二人が――相違ない」

 と、四人の者に、川を指さして振向いた。

「人足、急ぐぞっ」

 一人は、刀を押えて、かわらの方へ小走りに歩み出した。

「今わたるところだ」

「川の中で追っつけよう」

 人々は、群集の中で、声高に、こう叫んだ。旅人達は、五人が、前の二人の連衆だと思っていたが、仙波父子は

「討手だ」

 と、信じた。

「小太、油断がならぬ」

 八郎太は、手早く編笠をきた。


 池上と、兵頭との輦台は、川の中央まで出ていた。二人とも、刀を輦台へ凭せかけて、腕組をしていた。

 川人足は、行きちがう朋輩に声をかけながら、臍の辺に、冷たい秋の川水の小波を、白く立てつつ、静かに、平に、歩いていた。

 人足の肩に跨がり、頭に縋りついている旅人達は、着物の水へ届きそうになるのを気づかいつつ、子供の時、父の肩車に乗って以来、何十年目かの肩車に、不安を感じていた。

 その穏かな川を渉る人々の中を、五台の輦台が、声をかけつつ、川水を乱し立てて、突進した。

「ほいっ、ほいっ」

 と、いう懸声の間々に

「頼むっ、頼むっ」

 と、肩車で渉って行く、渉って来る人足に、注意しながら、輦台は突進して行った。その上に乗っている人々は、刀を押えて、誰も皆、前方を睨みつけるように見て

「急げっ、急げっ」

 と――中の一人は、刀のこじりで、そういいつつ、こつこつ、川人足の肩をたたいていた。

 仙波父子は、茶屋の横へ廻って、松の影の下の小高い草叢の中から、この七台の輦台を眺めている。

「五人では討てまい」

 八郎太が、呟いた。

「助けに参りましょうか」

「求めて対手にすべきではない。よし、二人がられようと、大事の前の小事じゃ。わしが指図するまで、手出しはならぬ」

「益満は、何うしておりましょう」

「あれも、一代の才物じゃが、世上の物事は、そうそうあれの考え通りに行くものでもない。日取りからいえば、もう、追っつく時分じゃが、お上からも、こうして討手の出ている以上、妻も子も、助かるとは思えぬ。恩愛、人情、義理をすてて、ここは、京まで、万難を忍んで、牧を討つべき時じゃ」

「はい」

「それに討手は、主持ち、わしらは浪人者じゃ。一人殺しても、身の破滅になる」

「心得ました」

 と、いった時

「あれっ、あれっ」

「喧嘩だ」

 と、いう声と同時に、人々の走り降りて行く姿と、ときの声に近い、どよめきとが起った。

「やるっ」

 八郎太が、低く叫んだ。向う河岸へもう四分というところへまで近づいた二人の輦台は、五人の輦台に追いつかれたらしく、きらきらと光る刀が、五人の手に、躍っていた。

「斬合だっ、斬合だっ」

 河岸の人々も、川中の人々も、一斉に、どよめいた。二組の輦台の四辺に、川を渉ろうとしていた人々は、周章てて、川水を乱して逃げ出しかけた。少し離れて、危くない人々は、誰も、彼も、川を渉るのを忘れて、眺めていた。

「斬った、斬った」

「未だだっ、未だだっ」

「あっ、やった、やった、やった」

 群集は、興奮して、怒鳴った。五台の輦台の上では、刀を振りあげていた。池上と兵頭とは、後向きになって、輦台の上で、居合腰であった。川人足は、輦台の上で、足を踏み轟かされるので、川水の中に、よろめきながら、岸へ、早く近づこうとあせっているらしかった。

「父上」

 小太郎は、声をかけたが、八郎太は、無言であった。


「もっと踊れ、御神楽おかぐら武士め」

 池上は、片膝を立てて、微笑しながら、自分の前へ迫って来る追手へ、独り言のように呟いた。兵頭との間は、三間余りも離れていたから、五人の輦台は、二人を、左右へ放して、別々に討取るように、楔形くさびがたになって、追って来た。その、真先にいる武士は、輦台の上へ立上って、刀を振りながら

「早く、早く」

 と、叫んで、手を、脚を動かしていた。そのたびに、人足は、顔を歪めて、舌打をしながら

「危い」

 とか

「畜生っ」

 とか、怒鳴った。それにつづく四人は、輦台の手すりにつかまったり、立ったりして、刀が届く距離になったら、一討ちにしてくれようと、身構えていた。

 兵頭は、手すりへ、片脚をかけて、鞘ぐるみ刀を抜き取って、左手に提げながら、少しずつ近づいて来る討手へ

「周章てるな。周章てるな。日は長いし、川原は広い。輦台の上で、余り四股を踏むと、人足が迷惑するぞ」

「黙れっ」

 二つの距離は、三間近くまで縮まって来た。討手の人々は、たすきへ一寸手をかけてみたり、目釘へしめりを、もう一度くれたりして、両手で、刀を構えかけた。

「池上っ」

「おい」

「やるか」

 池上が頷いた。そして、袴の股立ももだちをとり、襷をかけて、刀へ手をかけて、立上った。

 荒い事を自慢にし、喧嘩好きの人足達であったが、頭の上で、刀を振り廻されて、もしもの事があったら、大変だと思った。前の人足は

「おーい」

 と、叫んで、後方の人足へ、余り早く近づくなと、合図した。後方の人足達は、いよいよ始まったなら、輦台を、川の中へ投げ出して、逃げようかと、眼で合図した。だが、二三人の人足は、眼でそれをとめて

「大井川の人足の面にかかわらあ」

 と、元気よく叫んだ。それに、故意に、輦台を顛覆させては、二度と、川筋では、働くことができない掟であった。

 追手の人足は、額の汗を拭いながら、時々、声をかけたり、後方を振向いたりして、なかなか近寄らなくなった。

「うぬらっ、早くやらぬと、これだぞ」

 最先の一人が、一人の人足の肩へ白刃を当てた。

「無、無理だよ、旦那」

 一人が、振向いて

「今日は、帯上だから、そう早く、歩けるもんじゃあねえでがすよ」

 池上と、兵頭との輦台が、急に深処ふかみへ入ったらしく、人足達は乳の下まで水に浸して、速度がぐっと落ちた。その時に最先の侍の輦台が、池上の輦台の間近まで勢いよく突進して来た。

「止めろ、止めろ」

 池上は、足で輦台の板を踏み鳴らした。人足が、その力によろめいて、歩みをゆるめた時、最先の追手は一間余りのところまで迫って

「上意」

 と、叫んだ。


 その瞬間だった、池上の脚が、手摺にかかり、左手で刀を押え、右手を引く、と――見る刹那

「ええいっ」

 追手は、斬るよりも、突くよりも、周章てて、身体を避けた。それは、余りに思いがけない池上の奇襲だったからだ。池上は、猛犬の飛びかかるように、自分の輦台を蹴って、追手の輦台へ、飛び込んだ。

 人足が、顔を歪めた瞬間、輦台が、傾いた。と、同時に、池上の体当りを食った追手の一人は、脚を天へ上げて、白い飛沫を、つづく味方へ浴びせかけて、川の中に陥った。

「たたっ」

 人足は、顔を歪めて、肩へ手を当てた。そして、輦台を持ち直した。池上は、輦台が傾いたので、倒れかかったが、手摺へつかまって、立上りかけると

「うぬっ」

 白く閃くものが、顔から、二三尺のところにあった。池上は立上った。

「弱ったな、土州」

「やっつけるか」

 と、人足が、叫んでいるのを、聞きながら、池上は、左右の追手へ

「輦台の上での勝負は珍しい。今度は、貴殿のところへ、源義経、八艘飛はっそうとび」

 と、微笑して、手摺へ、足をかけた。兵頭の輦台は、もう、七八間も行きすぎていた。

「池上っ」

 と、いう声と

「あとへ、あとへ」

 と、兵頭の叫んでいるのが聞えた。池上は、右手を振って

「一人でよい、一人でよい」

 と、叫んだ。

「小癪なっ」

 輦台の上から、一人が叫ぶと、川の中へ飛び込んだ。人足は、臍のところまでしか水に浸っていなかったから、浅いところであったが、水流は烈しかった。その侍は、二三間、よろめいて、ようよう、押流されて、立上った。丁度その時、池上に川へ落された侍も、立上った。二人は、刀を抜いて、川下から、迫って来た。

「いけねえ」

 人足が叫んだ。そして、二三尺進むと、乳の上まで水のある深いところへ入った。

「待てっ」

 一人が、水中から、池上を目がけて、刀を斬り下ろした刹那、一人の人足はびっくりして、肩から輦台を外した。と、同時に、池上は、輦台の上から、川上の方へ飛び込んでいた。

 兵頭は、じっと、川面を眺めていた。二人の追手は、胸まで来る水の中を、よちよちと、兵頭の方へ進んだ。三台の追手は、無言で、川中にいる二人の後方を、横を、兵頭の方へ迫りながら、川下へ浮んで出るべき池上の姿にも、気を配っていた。

 兵頭が、輦台の近くへ浮いて来た黒い影へ、身構えた時、池上が顔を出して、頭を振った。髪をつかんで水を切りながら

「わしは、歩いて行く」

 と、兵頭を見上げて

「歩けるのう」

 と、人足へ笑った。

「ええ」

「旦那っ、強うがすな」

 池上の輦台人足は、走るように近づいて来て

「お乗んなすって」

 と、いった。

「大勢かかりやがって、何んてざまだ。やーい、どら公、しっかりしろいっ」

 人足共は、小人数の方へ味方したかった。


 島田の側も、金谷の側も、磧は、人でいっぱいであった。

「強いな」

「兄弟、もう一度、行こうぜ、輦台二文って、このことだ」

「江戸へ戻って話の種だあ、九十六文、糞くらえだ」

「何うでえ、五人組は、手も、足も出ねえや。町内の五人組と同じで、お葬いか、お祝いの外にゃ、用の無え、よいよい野郎だ」

「二人の野郎あ、水の中で、刀をさし上げて、おかか、これ見や、さんまがとれた、って形だ。やあーい、さんま侍」

 八郎太と、小太郎とは、微笑しながら、川を眺めていると

「おおっ、加勢だっ」

「八人立で、こいつあ、早えや」

「棒を持っているぜ」

「馬鹿野郎、ありゃあ槍だ」

「こん畜生め、穂先の無え槍があるかい。第一、太すぎらあ」

「川ん中で、芋を洗うのじゃああるめえし、棒を持ってどうするんだ」

 小太郎が

「父上、あれは、休之助ではござりませぬか」

「ちがいない」

「一人で――」

 と、いった時、八人仕立の輦台は、川水を突っ切って、白い飛沫を、乳の上まで立てながら、ぐんぐん走っていた。

「小手をかざして見てあれば、ああら、怪しやな、敵か、味方か、別嬪か、じゃじゃん、ぼーん」

「人様が、お笑いになるぜ」

「味方の如く、火方ひかたの如く、これぞ、真田の計、どどん、どーん」

「丸で、南玉の講釈だの」

「あの爺よりうめえやっ、やや、棒槍をとり直したぜ」

「やった」

 益満の輦台が、追手へ近づくと、長い棒が一閃した。一人が、足を払われて、見えなくなった。何か、叫んでいるらしく、一人を水へ陥れたまま、益満の輦台は、追手の中を、中断して、池上の方へ近づいた。もう、金谷の磧へ、僅かしかなかった。水の中で閃く刀、それを払った棒。追手を、抜いて、二人と一つになると、すぐ、益満の輦台だけが川中に止まって、二人は、どんどん磧の方へ、上って行った。追手の五人は、益満一人に、拒まれて、何か争っているらしく、動かなかった。

 二人の人足が、益満のために、川へ陥った一人を探すため、川下へ急いでいた。時々、頭が、水から出ようとしては没し、没しては出て、川下へ流されていた。

 池上と、兵頭とは、磧へ上ってしまった。磧の群集が二つに分れた。役人らしいのが、二人に何か聞いて、二人を囲んで、だらだら道を登って行った。

 益満は、一つの輦台が、右手へ抜けようとするのを、棒を延して押えているらしく、その輦台が止まった。

「益満め、舌の先と、早業とで、上手に押えたと見えるな」

 と、八郎太が微笑した。そして

「この騒ぎにまぎれて渡ろう。何ういう不慮の事が起きんでもなし、水嵩も増すようであるし――」

 小太郎は、川会所へ行った。川札は

乳下水、百十二文

 と、代っていた。どんより曇った空であった。山の方には、雲が、薄黒く重なり合っていた。雨が降っているのだろう。


 島田の宿は、混合っていた。風呂の湯は、真白で、ぬるぬるしていたし、女中は、無愛想な返事をして、廊下を足荒く走った。

「へん、ってんだ」

雨は降る降る

大井川はとまる

飯盛りゃ、抱きたし

銭は無し

隣りの――

 と、唄って、七瀬と、綱手の部屋の隣りの旅人は、急に声を落して

娘で間に合わそ、か

てな、事なら、何うであろ

雨の十日も、降ればよい

 それから、大声になって

「とこ、鳶に、河童の屁」

 と、怒鳴った。

 七瀬と、綱手とは、お守袋を、床の間へ置いて、掌を合せて、夫と子供の無事と、自分ら二人の道中の無事を、祈っていた。

「やーあい、早くう、飯を持って来う」

腹がへっても、空腹ひもじゅう無い

大井の川衆にゃ、着物が無い

可哀や、朝顔お眼めが無い

俺の懐、金が無い

それは、うそだよ、案じるな

娘に惚れたで、お眼めが無い

「お待ちどお様」

 女中が、膳を運んで来た。

手前の面には、鼻が無い

 女中は、膳を置いたまま、物もいわないで行ってしまった。七瀬と、綱手とが、声を立てんばかりに笑った。

 廊下も、上も、下も、喚声と、足音とで、いっぱいであった。

「ええ――」

 番頭が、手をついて

「まことに申しかねますが、御覧の通りの混雑でござりまして――それに、ただ今、急に、お侍衆が七人、是非にと――何分の川止めで、野宿もなりませず――済みませんが、女子衆を一つ、相宿あいやどということに、お願い致しとう存じますが――」

 番頭は、手を揉んで、御辞儀した。

「相宿とは?」

「この御座敷へ、もう一人、御女中衆をお泊め願いたいので、へい」

 母娘おやこは、顔を見合せた。

「品のいい御老人で、つまり、お婆さんでござります。是非、何うか、へっ。お隣りの唄のお上手な方へも、御三人、お願い致すことになっておりますので、へい」

 隣りの旅人が

「やいやい番頭、六畳へ、四人も寝られるけえ」

「へへへ、子守唄を、一つ唄って頂きますと、よく眠ります」

「おうおう、洒落た文句をぬかすぜ」

 旅人は、立上って廊下へ出て来て、二人の部屋をのぞき込んだ。

「今晩は」

 二人は、返事をしないで、番頭に

「では、そのお方お一人だけ――」

「へいへい、決して、もう一人などとは申し上げません。有難う存じました。それで、お唄の旦那」

「いやな事いうな」

「済みませんが、お侍衆を、お二人、割込ませて頂きます」

「侍?」

「薩摩の方で、今日の喧嘩のつづきでさあ。後から後詰の方が、追々参られるそうで」

 七瀬と、綱手とは、身体中を固くして、不安に、胸を喘がせかけた。


 隣座敷へ入った侍が、湯へ行くらしく、廊下へ出ると同時に、七瀬が、障子を開けて、その前へ進んだ。侍は、立止まって、七瀬を見ると

「おお」

「ま――御無礼を致しました」

 七瀬は、一足、部屋の中へ引っ込んだ。

「お一人かな」

「いいえ、娘と、同行でございます」

「八郎太殿は」

「夫は、何か、名越様と、至急の打合せ致すことが起ったと、途中から江戸へ引返しまして、もう、追いつく時分でござりますが、何う致しましたやら」

「ははあ」

「丁度、幸の川止めで、明日一日降り続きましょうなら、この宿で落合えるかと存じております。貴下様は、御国許へでも?」

「うむ、国許へ参るが――小太郎殿も、父上と御同行か」

「はい」

「今日の昼間、ここで、果合があったとのこと、お聞きかの」

「何か、大勢で――」

「いや、一風呂浴びて――何れ、後刻、ゆっくり――妙なところで、逢いましたのう」

 侍は、振返って、そういいながら、微笑して、階段を降りて行った。

 七瀬と、綱手とは、人々から聞く、二人連の侍とは、確かに、池上と兵頭にちがいなかったし、その二人を援けたのは、きっと、益満であると考えた。そして、池上らと、益満とが、この辺にいるとすれば、八郎太父子も、この辺にちがいないと、考えられた。そして、そう考えてくると、夕方近くから降り出した雨が、自分等二人の涙のように思えた。雨さえ降らなかったなら、明日か、明後日は、八郎太に追っつけるのに――箱根で遅れ、ここで遅れ、天も、神も、仏も、何処までも、仙波の家だけは、助けてくれないもののように思えた。

 追手だの、伏勢だの、役人だの、いろいろの者が、自分達の周囲に潜んでいるようにも感じた。七瀬は、二人の侍を、敵党の者と知って、仙波父子二人が遅れて来ると、欺いたが、うまく欺きおおせるか、もし自分等二人と落合うものと信じて、もし、ここを離れなかったなら? それが偽りとわかった時、自分達は、何うなるか?

 八郎太と、小太郎とが、馬に乗って走っているのを描いた。夜道の雨の中を、強行して行く姿を想像した。そして

(無事で、牧を探してくれますよう)

 と、誰に、祈っていいかわからない祈りを捧げた。

(もう一度、逢えますよう。無事な顔が見られますよう)

 もう一度、夫の顔、子の顔が見られたなら、もう二度と、こんな未練な心は起さないと誓った。四ツ本が、玄関へ来てからの、急な追放、ろぐろく口も利かぬうちに、闇の中で別れてしまったことが、幾度、思い直してみても、悲しかった。

(こんな雨の夜、川止めの日、ゆっくりと、別れの言葉を交したなら――)

 と、思うと、しとしと降っている雨の音までが、自分等を、悲しませたり、羨ませたりしたさに、降って来たもののように感じられた。

「綱手、考えても無駄じゃ。やすみましょうか」

 七瀬は、こういって、うつむいている綱手に、言葉をかけた時、薄汚い婆さんが、濡れた袖を拭きつつ

「御免なされ」

 と、入って来た。そして

「おお、美しい女中衆じゃ、年寄一人だから頼んます」

 と、図々しく、坐った。二人は、この婆が、自分達の家を呪う悪魔の化身のように思えた。



大阪蔵屋敷

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 施米に群れている群集のどよめきが、調所の居間まで、伝わって来ていた。

 米が一両で、六斗だ。その高い米でさえ、品が少く、城代跡部山城は、大阪からの、米の移出を禁止してしまった。それでも、一両で六斗だ。

 天保三年に不作で、四年の米高に暴徒が起った。五年の秋には、暴騰して、囲米厳禁の布令が出て、米施行せぎょうがあった。江戸では、窮民のお救い小屋さえ出来た。

 調所は、金網のかかった火鉢へ手を当てて、猫背になりながら、祐筆に、手紙の口述をしていた。

諸国和製砂糖殖え立、旧冬より直段ねだんはたと下落致し、当分に至り、猶以て、直下ねさげの方に罷成り、

 遠雷に似た響きがした。群集のどよめきが、一寸、高くなった。調所が考え込んだので、祐筆が

「何んの音で、ござりましょうか」

 と、云った時、又、物のこわれるような音が秋空に立ちこめて響いた。廊下に、忙がしい足音がして、障子越しに

「見届けて参りますか」

 と、一人が聞いた。

「何んじゃな」

「暴民のように心得まする」

 言葉の終らないうちに、門前の施民の群が、鬨の声を揚げて走り出した。

 調所は、金網から、身体を起して

「見て参れ――加納に、すぐ邸を固められるように、手配申しつけておけ」

 二人の去る足音に混って、大勢が往来を走る――騒ぐ音が聞えて来た。

「起る、起ると、前々から噂立っておりましたが――」

「窮民も、無理はないし――と、いって、金持にも、理前がある」

 調所は、こういって微笑した。財政整理の命を受けて、大阪へ来た時、大阪町民は一人も相手にしなかった。一人で、六十万両を貸付けていた浜村孫兵衛が、催促しがてら、話対手になっただけであった。

 調所は、自分の企画が成立しなかったら、切腹するつもりだった。孫兵衛を前にして、年々十二万斤の産高、金にして二十三四万両の黒砂糖を、一手販売にさせることから、米、生蝋きろう鬱金うこん、朱粉、薬種、牛馬、雑紙等も、一手に委任するから、力を貸してくれと、頼み込んだ。

 そして、孫兵衛が承諾するのを見て、密貿易みつがいの利を説いた。孫兵衛は、余り事が大きいから、重豪に一度、拝謁してからというので、江戸へ同道して、渋谷の別邸で引合すと、重豪は

「孫兵衛、路頭に立つと申すことがあるが、今の予は、路頭に臥てしまっておるのじゃ、あはははは。万事、調所と取計ってくれ」

 と、いった。将軍家斉の岳父である、重豪の言葉であったから、孫兵衛は決心した。

 調所は、こうして利を与えておいてから、大阪町人に借金している五百万両の金を、二百五十ヶ年賦で返す、という驚くべき方法をとった。孫兵衛は、人々に、どうせ取れぬ金だ、仕方がない、と、説得した。

 町人が、余りの仕儀に怒っているところへ、幕府からの献金が来た。つづいて、町人の奢侈しゃし禁止が発布された。だが、窮民共は、このへとへとになっている町人へ、米高の罵声を浴せかけた。


 窮民といっても、本当に、その日の朝から一粒の米も無いというのは、少かった。

「貰わんと、損やし」

 と、一人が、ざるを抱えて出ると

「こんな着物でも、くれるやろか。もっと汚れたのと、着更えて行ったろ」

 と、頑強な男が施米所へ走り出した。

 そういう人々は、鬨の声、火の手、煙――それから、本当の窮民は僅かで、乞食と、無頼漢とが、勝手に暴れているんだ、と聞くと、自分の財産を守るのに、周章てていた。

「お梅、早う、天井へ、隠れんかいな」

 と、母親は、大風呂敷の中へ、入りきらない大蒲団を包みながら、怒鳴った。

「あて、天井へ入れて、焼けて来たら、死ぬがな」

 娘は、顔を歪めて、自分の晴着を、抱きしめながら、顔色を変えていた。

「愚図愚図云わんと、早う、隠れさらせ」

 父親は、店の間から怒鳴った。

「おいど、押して上げるさかい――この子、はよんかいな」

 娘は、裾を合せて、天井へ這い込んだ。母親は、娘の白い、張りきった足を見て

(早う養子を貰わんと、こんな時に、かなん)

 と、思った。女中は、台所の上げ板の中に、早くから、もぐっていた。

 べきん、めりっ、と、戸を、木を折り、挫く音が聞え出した。わーっと、鬨の声が上った。非人と、窮民中の無頼の徒とは、煙の下から、勝手に四方へ走って、町家を襲った。そして、近所の人々と、ついて走って来た弥次馬とは、戸が破れ、品物が引きずり出されると

「やったれやったれ」

 と、懸声しながら、乞食の脚下の品物を懐へ入れたり、担いで逃げたりした。乞食は、英雄のように、突っ立って、棒を振りながら

「御仁政じゃ、御仁政じゃ。皆んな寄って、持ってけ」

 と、叫んでいた。気の利いた人は、ありったけの米を、檐下へ積んで、家内中が

「施しじゃ、施しじゃ」

 と、蒼くなって叫び立てていた。暴徒は、こういう家の前へ来ると

「ここのかかあ、別嬪やなあ」

 とか

「米の代りに、嬶くれえ」

 とか、怒鳴った。そして、家の人々が逃げ込むと、戸がめちゃめちゃになったが、耐えていると、米だけ持って行くか、乞食が女の手を握るくらいで済んでしまった。

 奉行の手から、鉄砲を打ち出す頃になると、暴民は、退却しかけて、浮浪の徒は、侍屋敷の人々と、町方の人足のために、食い止められてしまった。

 憑かれたように、手を振り、棒を振って、喚きながら歩いて来た無頼の一隊が、角を曲ると、薩摩の侍が、四角い白地の旗に丸に十の印をつけて、整然として、二尺ずつの間を開けて、槍を立てていた。

「侍がいよる」

 と、立止まると、流れるように、くっついて来た弥次馬が

「やれやれ」

 と、遠く、後方から声援した。だが、士が槍を引いて、鞘を外して、穂先が光ると、乞食も、人々も、雪崩れ出した。


(五百万両を、帳消し同様にしたのは、今から思えば、ひどかった。窮民の暴徒が起ったのも、少しはわしの罪もあるかな――然し、そうしなければ、あの時は、仕方が無かった――)

 調所は、思い出して、声を立てて笑った。

「良介、西の宮へ泊ったことを憶えているか」

「いや、あの時には――」

 二人は、声を合せて笑った。往来を走る人がだんだん多くなってきた。けたたましい叫びと、車の音がした。

 斉興は、借金取のために、大阪に泊れなかったので、西の宮へ宿をとると、大阪町人が一度に押しかけて来て借金の催促をした時の、可笑しさを思い出したのであった。

 その当時は、駕人足さえ雇えなかったので、使は、誰でも歩いた。道中人夫は、薩摩と聞くと対手にしないで、士分の人が、荷物を担いだ。邸の修繕は玄関までで、庭には草が延びていて、士が刈って馬にやっていた。

 そういう十年余り前のことを思うと――今は、何うだろう。芝、高輪、桜田、西向、南向、田町、堀端の諸邸の壁の白さ、こうして坐っている大阪上、中、下邸の新築、日光宿坊、上野宿坊を初め、京の錦小路の邸の修復、三都には、斉興御来邸厳封の金蔵に、百万両ずつの軍用金の積立さえできた。

 調所は、こう考えてきた時、はっとした。斉彬の世になったなら?

(未だ仕事が残っている。琉球方用船の新造、火薬の貯蓄、台場の築造、道路、河川の修繕――)

 斉彬は、年が若い。幕府の狸の手に、うまうま乗って、この金を使うようになったなら、それこそ、御家滅亡の時だ――。

 邸の表に人声が、騒がしくすると、廊下へ荒い足音がして

「申し上げます。窮民共が、米屋、両替を、ぶちこわしに歩いておりますが、御城内よりは、支配方が繰出しましてござりまする」

「邸の手配はよいか」

「十分でござります」

「水の手の支配は、佐川に申し付けえ。竜吐水を、邸の周囲へ置いて」

 六十を越したが、未だ年に二度ずつ、大阪を出て、江戸から、鹿児島へ巡廻して来る元気のある調所は

「馬の支度」

「御前が――」

「見に参る。何ういう様子か」

「危うござります。お止めなされませ」

 近侍が、眉をひそめて、こういった時

「御国許より、牧仲太郎殿、御目通を願いに出られましたが――」

 と、襖越しに、物静かな声で、取次侍が、知らせてきた。

「牧が――」

 調所は、半分立ちかけていた腰をおろして

「すぐ案内せい、鄭重に――」

 物をこわす音が、少し低くなった。時々、鉄砲の音が、気短く、はぜては、すぐ止んだ。

「もう、退治たか。早いの」

 と、調所が、笑って、左右の人々へ云った時、襖が開いて、牧が、眼を向けると、すぐ平伏した。

 調所が

「一同遠慮致せ――牧、近う参れ」

 と、機嫌よく云った。


「何か――容易ならぬ騒ぎが起っておりまする」

「そうらしい――秘呪は、見事であったな」

「はっ――米が、両六斗では暮せますまい」

「一人口は食えぬが、二人口は食える、ということがある。然し、この暴民等は、五人口、八人口で、無闇矢鱈に、子を生んでおる。夫婦二人でなら、どうしてでも食えるが、子を生んでは食えん。国で、御手許不如意になった時、わしは、子供をまびく外に方法はないと思うた。減し児、減し児と、触れて廻った。すると、山一(山田一郎右衛門)が、例の木像の手柄で、「減し児をしてはならん」といいよった。まあ、財政が立直ったからよいが、よい子を残して、悪い奴は摘みとった方がええ。大阪も、それを布令ふれろ、と、跡部に申したが、彼奴には判らん――ところで、又、盛之進様が、御出生になったのう」

「はい」

「頼むぞ」

 牧は、伏目になっていたが、眼を上げて、調所の、深い皺の、だが、皺一つにも、威厳と、聡明さの含まれている顔を、じっと見て

「国許、江戸表共、党派が目立って参りました。某、国越えの時、秋水党と申す、軽輩の若者共が、斬込みに参りましたし、江戸よりは、三組の刺客が出ました由、長田兵助より知らせて参っております」

「わしも聞いた」

「その上に、某の老師、加治木玄白斎が、延命の呪法を行っておりましょう。老師が、これを行う以上、某が倒れるか、老師を倒すか、何れにしても、呪法の上における術競べは、生命がけにござりまする。当兵道のためには、究竟くっきょうの機でござりますが、これが、或いは、一生の御別れになるかも知れませぬ」

 牧は、痩せた頬に軽く笑った。久七峠で、玄白斎に逢った時とちがって、旅に、陽を浴び、温泉に身体を休めて、回復はしていたが、生命を削っての呪術修法に、髪は薄くなり、皺は深くなっていた。

「斉彬公は――」

 調所は、目で、その後の言葉の意味を伝えた。

「前に申し上げました如く、かの君の、御盛んなる意力、張りつめた精力へは、某などの心の業は役立ちませぬ」

「そういうものかの。いや、斉彬公は、えらい。ただ、お若い。斉興公と、わしとが、何んなに苦しんで、金をこしらえたか? この金を、何時、何に、使うか、この辺が、よくお判りなく、舶来品をこちらで作ろうとなさっている。至極よいことだが、物には順序があってのう。それに、久光を、おだてては、いろいろのことをなさるのも、よろしくない。何うも、重豪公の血をお受けなされて、放縦じゃで、何んとかせにゃならん――それで、牧、今申したのう、これが、別れと――術を競べて――」

「いいや、秘術競べのみでなく、或いは反対党の刺客の手にかかるやも計られませぬ」

「人数を添えてつかわそう」

「有難う存じます」

「倅に逢うたか」

「未だ、只今、着きましたばかり――」

「よい若者になったぞ」

 調所は、鈴の紐を引いた。遠いところで、からからと、鈴が鳴った。

「船で参れ。おかは人目に立つ」

「はい」


 牧の倅の伴作は、調所の許へあずけられ、百城ももき月丸と改めていた。主を、主の筋に当る人を呪っている牧の倅として、万一の時に、調所の手で適当な処置を取って貰おうとする、仲太郎の親心からであった。

「ひどく、おやつれになりましたが――」

 月丸は、不安そうな口吻くちぶりで聞いた。

「痩せた」

 牧は、壮健に――暫く、見ないうちに、大人らしい影の加わって来た倅を見て、調所へ

「御世話を焼かせましょうな」

 と、微笑した。

「何、捨てておいても、大きくなる。犬ころじゃ、この時分は。あはははは――嫁を、貰うてやろうかと、考えておるがのう。存じておろう、浜村孫兵衛」

「当家のためには、恩人でござりますな。只今、何うなりました?」

「泉州、堺におって、内々、わしが見ておるが、この浜村に、よい娘がある。町人だが、これからは、牧、月丸――町人とて侮れんぞ。こう金が物をいうては、追っつけ、町人の世の中になろうも知れん」

「そうなろうと、なるまいと、刀を棄てることは、至極よろしいと存じます。この縁組、よろしく御取計らい下さいますよう」

 月丸は、黙って、俯向いていた。

「そうか。すぐ承諾してくれて何より――」

「月丸――国許を立つ時に申した、軍勝秘呪は、わし一代かぎりじゃと――」

「はい」

「呪法の功徳を示して、わしは、玄白斎殿も、明日か、一月後か、一年後か、とにかく、遠からぬうちに、死ぬであろう。一人の命を呪うて、己の命を三年縮めるが、もし、玄白斎殿と呪法競べになれば、十年、二十年の命をちぢめるかも知れぬ。もし、わしが、三十年、五十年、平穏無事に暮せるなら、お前にも、秘法を譲ろうと思うたが、時がうなった。学んで得られる道でもなく、言って伝えられるものでもない。以心伝心と、刻苦修練と、十年、二十年、深山に寒籠りをし、厳寒の瀑布に修行し、炎天に咀し、熱火の中に坐して、ようよう会得しても、平常には何んの用も為さぬ。家に火事が無ければ、百年でも、二百年でもそのまま心に秘めて、ただ、人知れず伝えるばかりじゃ。今度、調所殿の命を受けて、思い立ったのも、この秘呪を、秘呪の効顕を、広く天下に示さんがため――天下は広大で、効顕さえ現せば、後継者も現れようし、門人等も懸命になろう。調所殿の前ながら、世の中は、実学と理学ばかりで、理外の理が、侮蔑されている。わしは、最後の兵道家として、命にかけて、この理外の理を示したい。天下のためでもなく、御家のためでもない。己の職のために、悪鬼となっても、秘呪の偉効を示したい。もしも、呪法のためか、刺客のためか、死ぬか、殺されるか、何れにしても、長くはあるまいが、お前は、調所殿の仰せの通り、町人になる覚悟で、御奉公をせい。決して、父の後を継ぐとか、わしのように、流行物に反対するとか、愚かな真似をするな。万事、調所殿の御指図に従って、世の中に順応せい。わしの子で、兵道の家に生れたが、決して、わしを見習うな。これが、お前に与える、わしの遺言じゃ。忘れるな」

 静かに、だが、力のある言葉で、牧は教訓した。


「さあ、もう、八軒家やで」

 船べりに凭れて、ぼんやりと、綱手の横顔に見惚れている朋輩の肩を揺さぶった。

「知ってるが、御城が見えたら八軒家や。きまってるがな」

「判ってたら支度をしんかいな。何んぼ、見たかてあけへんて」

「見るは法楽や。俺は、お前みたいに、盗見なんぞしえへん。咋夜ゆうべから、じっと、こう見たままや。何遍欠伸をしやはったか、欠伸する時に、お前、こう袖を口へ当てて、ちらっと、俺の顔を見て、はあ、ああああ」

「人が、笑うてはるがな。ええ、こいつは、少し色狂人で」

 乗合の爺さんが

「いやいや、あんな綺麗な人を見たら、わしかて、色狂人になる。こう、袖を口へ当てはって、ふあ、ふあ、ふあ」

 四辺の人が吹出した。七瀬と、綱手とは、伏見から、三十石の夜船に乗って、一睡もしなかった。乗合衆は、船べりの荷物に凭れて仮眠をしたり、身体を半分に折って、隣りの人とくっつき合って寝たりしていたが、初めての乗合船で、人々の中で――それから、明日の役目を思うと、眠れなかった。乗合衆は、いろいろの夜風を防ぐものを持っていたが、二人には、それさえなかった。船頭が、薄い蒲団を貸してくれたので、それを膝へかけて、二人は、一晩中坐りつづけていた。

 人々が起き出して、川の水で顔を洗う頃になると、八軒家、高麗橋こうらいばしから出た上り船が、そろそろ漕ぎ上って来た。その中に、士ばかりの一艘が、杯をやり取りしていた。

「朝っぱらから、結構なことや。何んやの、かやのいうて、人の金を絞り取りよって――」

「今度の御用金は、鴻池こうのいけだけで、十万両やいうやないか。昔やと、十万両献金したら、倍にも、三倍にもなる仕事がもらえたけど、当節は、ただ召上げや。薩摩なんて国は、借りた金を、何んと、二百五十年賦――踏み倒すようなもんやないか。今に、徳政ってなことになって、町人から借りた金は返さんでもええ、ということになりよるで。こう無茶したら、大きい声でいわれんが、長いことないで。京、大阪で、お前、大名への貸金が、千六百万両、これを、二百五十年賦にされたら町人総倒れや。町人が倒れたら、武家だけで、天下がもつかえ」

 七瀬も、綱手も俯向いていた。

「あの船は、お前、薩摩やで――」

 上り過ぎた船を、一人が眺めていった。

「そや、薩摩や、あいつが、大体いかんね」

 七瀬は、そっと、顔を上げて、その船を見た。そして

「綱手」

 と、口早に囁いた。

「あれは――」

 七瀬は、顔を左、右に動かして、遠ざかり行く船の中から、何かを求めていた。

「母さま」

「牧では――牧ではないかしら」

 綱手は、延び上ったが、牧の顔を知らないし、もう、船は、かなり遠ざかっていた。

「よく似た顔じゃが――」

 七瀬は、人影で見えぬ牧の顔を、もう一度確めようと、いつまでも、眼を放さなかった。船頭が

「着くぞよーう。荷物、手廻り、支度してくれやあ」

 と、叫んだ。


 江戸へ出る時に見た荒廃した蔵屋敷の記憶は、新しい蔵屋敷の美しさに、びっくりした。

 十年近い前に見た邸は、朽ちた板塀、剥げ取られた土塀、七戸前の土蔵の白壁は雨風に落ち、屋根には草が茂っていた。邸の中へ入ると、若侍達が薄汚い着物の裾を捲りあげて、庭の草を刈っていた。草取りの小者さえ、倹約しなければならぬ貧しさであった。

 それが蔵屋敷であったから、三田の本邸、大手内の装束邸のように立派な門ではなかったが、広々と取廻した土塀、秋日に冴えている土蔵の白壁、玄関までつづいている小石敷――七瀬は、これを悉く、調所笑左衛門が一人の腕で造り上げ――そして、自分が、その調所を敵にするのだ、と思うと、一つの柱、小石の一つからでも、気押されそうな気がした。七瀬は、裾を下ろし、髪へ手を当てて押えてから、綱手へ

「よいか」

 と、振向いた。短い言葉であったが、すべての最後のもの――決心、覚悟、生別などが、この中には、含まれていた。綱手は、俯向いた。胸が騒いだ。

「御用人様へ、御目にかかりに通ります」

 と、門番に挨拶して、広々とした玄関の見えるところの左手にある内玄関にかかった。取次に、名越左源太からの書状を渡して

「御用人様へ」

 と、いうと、暫くの後に、女中が出て来て、薄暗い廊下をいくつも曲り、中庭をいくつか横にしてから、陰気な、小さな部屋へ通された。二人は、入ったところの隅にくっついて坐った。

 女中の足音が、廊下の遠くへ消え去ると、物音一つ聞えない部屋であった。二方は、北宋の山水襖、床の方にも同じ袋戸棚と、掛物。障子から来る明りは、二坪程の中庭の上から来る鈍い光だけであった。

「よう、覚悟しているであろうな」

「はい」

 七瀬は、そういって、暫くしてから

「こう云うのは、何んであるが――母の口から云うべきことでないが――もう、或いは、一生の間、逢えぬかと思うから、申しますが、お前――益満さんを」

 綱手は俯向いて、真赤になった。七瀬は、ちらっと、それを見たが、見ぬような振りをして

「――ではないかと、母は思いますが」

 綱手は、俯向いているだけであった。

「益満さんは、ああいう方じゃが――もし、そうなら――機を見て――綱手」

 七瀬は、綱手を覗き込んだ。

「厭なのではあるまい」

 綱手は、頷いた。

「わかりました――」

「然し、お母様、妾は――」

 綱手の声は、湿っていた。

「いいえ、心配なさんな――妾には、益満さんのお心は、よう判っております」

「でも、一旦、操を――」

 と、云った時、廊下に、忙しい足音がして

「よいよい」

 と、いう声がすると、障子が開いて、老人が入って来た。二人は、平伏した。

「よう来た。わしは、調所じゃ」

 二人は、平伏したまま、身体を固くした。調所が出し抜けに出て来るとは、二人の考えないことであった。


「御家老様とも存じませず、無調法を致しまして――」

「何々、この娘子は、お前のか」

「はい、至って不つつかな――」

「美しい女子じゃが、嫁入前かの」

「はい」

「よい聟があるが何うじゃ。侍でないといかんかな。これからはお前達、町人の世の中だぞ。金の物云う世の中じゃぞ。肩肱、張って騒ぐより、算盤を弾く方が大事じゃ。手紙でみると、お前の夫は何か騒ぎ立てているらしいが、そんな夫に同意せずと、離別されて、こうして国へ戻る方が、人間は利口じゃ」

「何う諫めましても聞き入れませず、妾は離別、又、これの下に、もう一人妹がござりますが、姉妹同士でも、意見のちがいがござりましょうか、二人だけがこうして離れて参りましたような訳、国許へまでの路銀が足りませぬゆえ、申し難うござりまするが、これを暫く、女中代りになりと、此処へお留めおきを願い、その間に、妾一人国許へ戻りまして、すぐ迎えに参じましょうと、御無理な、虫のよい御願いでござりますが、元家中の者のよしみをもちまして、このこと御願い致しとう存じまする」

「徒党を組んでおるのは、幾人程かの」

「さ、少しも、夫は、妾に洩らしませぬゆえ」

「成る程――そして、此後、何んとするな、お前達」

「国へ戻りまして」

「居候か」

「親族もおりますことなり」

「裁許掛見習では、親族も、大したことはあるまい。何うじゃ、嫁入しては――一片づきに片付くではないか。ここへ置くのは、易いことじゃが、仙波の娘とあっては、万一の時に――と、申すのは色仕掛の間者など、よく芝居にもある手でのう。若侍だのは――」

 七瀬と、綱手とは、色仕掛の間者という言葉に内心の騒ぎを、顔へ出すまいと、俯向いて、必死に押えていた。そして、到底、女二人の智慧ぐらいで対手のできる人でないかもしれぬと考えた。

「――気が早いから、万一の時に困るで――何うじゃ、対手は、歴とした町人じゃ。この調所が太鼓判を押す。名を明かしてもよい。存じておろう、浜村孫兵衛。わしが、大阪町人からの借財を二百五十年年賦ということにしたのは、この浜村の智慧を借りたのじゃが、それが訴訟になってのう。浜村め、気の毒に敗訴して、大阪所払い、只今、泉州堺におるが、その倅の嫁を、わしに頼んでおる。二百石、三百石の侍より、町人の方がよいぞ。ここへ世話をしてやろう。一口にお前ら町人とさげすむが、国の軽輩、紙漉武士等に、却って天晴れな人物がおるように、町人の方が、近頃は武士よりもえらい。わしも、何れ程、町人から学文したか判らん。浜村へ世話をしてやろう。このくらいの別嬪なら喜ぶであろう。なかなかあでやかじゃ。裁許掛見習などを勤めて、四角張って、調伏の、陰謀のと、猫の額みたいなことに騒いでいる奴の娘にしては、出来すぎじゃ。ゆっくり、長屋で休憩して、よく考えてみるがよい。これからは、町人の世の中――」

 と、云って、立上って

「町人の世の中じゃぞ――今、長屋へ案内させる」

 と、廊下へ出て、独り言のように云って、何っかへ行ってしまった。二人が

(調所様は、こっちの企みをお察しなさっておられるのではあるまいか)

 と、胸をしめつけられてきた時、二三人の侍をつれて、調所が戻って来た。そして

「案内してやれ」

 と、その後方からついて来ている女中に命じた。そして、自分は侍達と、何っかへ行ってしまった。


 大きい眼鏡をかけて朱筆をもって、時々、机の上の算盤を弾きながら、分厚の帳面に何か記入していた調所が、筆を置いて

袋持たいもち、別嬪じゃろうがな」

 と、振向いた。袋持三五郎は、紺飛白こんがすりの上に、黒袴をつけたままで

「何者でござりますか」

 調所は、それに答えないで、机の向う側に坐っていた二人に

「〆て」

 二人が、算盤をとって、指を当てた。

「一つ、鬱金二万三千二百八十五両也。一つ、砂糖、十一万飛んで九百三十六両――百城、異国方槍組へ、廃止に就いて御手当を渡せと、定便で、差紙を出したか、何うか、納戸方で聞いて参れ」

 百城が立って行った。

「いろいろに、小細工をしよっていかん。薩摩隼人の極く悪いところじゃ。金にきたのうて、小刀細工が上手で、すぐ徒党を作って――」

「何か、江戸で騒いでいる模様でござりますが――」

「今の別嬪も、その片割れじゃが――何うも、斉興公が、斉彬公に、早く家督を譲って、それで己が出世しようという――斉彬公を取巻く軽輩には、多分にそれがある」

「然し、島津の家憲では、御世子が二十歳になられたなら、家督をお譲り申すのが常法でござりませぬか」

 袋持は、調所に、遠慮のない口調で、いい放った。

「幕府も、いろいろ手を延して、早く、斉彬公の世にしてと、阿部閣老あたり、それとなく匂わしておるが――一得一失でのう」

「一得一失とは」

「お前には判らん」

 百城が廊下へ膝をついて

「まだ差立てませぬと、申しておりました」

「いかんのう――兵制を改めて洋式にしたので、異国方め、ぶうぶう申しておる最中に、廃止手当を遅らせては――」

 調所は、国許の反由羅党、反調所党の顔触れを見た時、すぐそれが斉彬擁護の純忠のみでなく、兵制改正、役方任廃に就いての不平者、斉彬が当主になれば出世のできる青年の多いことが目についた。

(そうだろう。そうそう忠義ばかりで、命を捨てられるものではない。万事は金、原因は何うあろうと、今度の動機は利害のこと――結果も、利害で納まるだろう)

「別仕立で早く、渡してやれと、申しつけい」

 調所が、百城に命じた。

「立身出世は、あせってはいかん。わしが、この藩財を立直す時には、三十ヶ年かかると思うた。朝五時に起きて、夜十時まで――町人に軽蔑され、教えられ、幾度も死を決して、やっと見込みのつくまでに三年かかった。それから、江戸、大阪、鹿児島と三ヶ所を、年中廻って、三十年が、二十年でこれだけになった。三ヶ所に積んだ軍用金が三百万両、日本中を敵として戦っても、三年、五年の程は支えられよう。これを顧みると、ただ辛抱と、精力と、この二つの外に出ない。同じ人間に、そう奇想天外の策のある訳はない。周章ててはいかん。斉彬公の世にならんでも、役に立つ奴は、判っている。袋持、そうでないか」

 袋持は、調所が、軽輩から登用した若者であったが、調所の一面には、ひどく敬服していたが、一面に又、深い物足りなさがあった。

「お前の嫁にも丁度よいの」

 と、調所は云いすてて、すぐ又、帳面をのぞき込んだ。


 女中達の溜りからは、薬草を植えた庭が、見えていた。鶏が、そのあたりに小忙こぜわしく餌をあさっていた。それから、馬屋が近いらしく、ことこと踏み鳴らしている蹄の音が聞えていた。

 一人が親子を案内して来ると、女中達は、手をとめ、足をとめて、二人を眺めた。二人は丁寧に御辞儀しながら、片隅へ坐って、俯向いていた。女中達は、すぐ、お互に、二人のことを囁き合った。そして、出て行ったり、道具の手入をはじめたりした。

(御家老は、二人の――いいや、夫の心の底まで、見抜いていらっしゃるかも知れない。島津の家を助けた方だから、そのくらいは、御発明かもしれぬ)

 七瀬も、綱手もそういったことを考えて、自分の身の破滅を空想するくらいに、怖れていた。そして

(いいや、まさか――)

 と、打ち消してもみたが、到底、自分達女の手には及ばぬ人のように思えた。だが

「町人へ嫁入りせんか」

 と、いう言葉は、調所が、本当に、親切からいったものだとは、思えた。そして、その時の調所の眼、言葉つきを考え出すと、二人は安心してもいいようにも感じた。

「母様――妾――お嫁入り致しましょうか」

 綱手が、低くいった。

「ええ」

 七瀬が、眼を上げると、綱手は、俯向いたままであった。

「御家老様の仰せに従わぬと――」

「それもあるが――嫁入りして仕舞うては」

「でも――あの御様子では、油断も、隙も」

 それだけいって、二人は黙ってしまった。

「妾は――」

 綱手は、やっとしてから

「何事も、諦めております」

 七瀬は、道中での、いろいろの危険、斬られた人、斬った人のことを、想い出すと、調所のいう通り、町人へ嫁入させ、一生安楽に、せめて、綱手だけでも送らせてやったら、と思った。

(そして、このことは、自分が探るとして――国許へ戻ったとて、御家のために、さして働ける身でもなし――)

 と、思った時、一人の女中が

「百城様が、それ」

 と、朋輩にいって、声を立てて笑った。七瀬が、女中の見ている方を見ると、さっき、ちらっとだけ見た、若い、美しい侍が、廊下を足早に通りすぎていた。女中達が、甲高い笑い声を立てて、肩を突っついたり、膝を打ったりしていた。

(妾等二人に較べて、この人達は、楽しそうに――)

 と、七瀬が、娘を見ると、綱手は、身動きもせずに坐っているらしかった。

(深雪は、何うしたことやら? 夫も、小太郎もどうなることか? 広い世界に、たのむのは、綱手ばかり――)

 と、思いかけると、かたい決心が、だんだん悲しく、崩れて来るようであった。

(益満と、もっと早く、許婚にでもしておいたら――)

「お湯を、お召し下されませ」

 女中が、後方で、手をついていった。七瀬は、振返って

「はい、はい」

 と、周章てて御辞儀した。綱手は、顔もあげなかった。



死闘

[編集]

 根本中堂こんぽんちゅうどうの上、杉木立の深い、熊笹の繁茂している、細い径――そこは、比叡山の山巡りをする修験者か、時々に、僧侶が通るほか、殆んど人通りの無い、険路であった。その小径を、爪先登りに半里以上も行くと、比叡の頂上、四明ヶ岳へ出ることができた。

 牧仲太郎は、その頂上で、斉彬の第四子盛之進を呪殺しようと――大阪からの警固の人数の上に、京都留守居役の手から十人、国許から守護して来た斎木、山内、貴島、合して二十四人が、夜の明けきらぬ白川口から、登って行った。

 根本中堂で、島津家長久の大護摩を焚き、そして、自分等も、いささか心得ているから、四明ヶ岳で、兵法の修法をしたいから、余人を禁じてもらいたいといって、金を包むと、すぐ快諾して、僧侶が二人、見張役として、案内役として、ついて来てくれることになった。

 熊笹の茂った、木の下道を行く時分から、袷では肌寒になって来た。頂上へ出ると、人々は、一望の下に指呼することのできる大津から比良へかけての波打際と、太湖の風景、西は、瀬田から、伏見、顧みると展開している京都の町々に、驚嘆したが、すぐ袖をかすめる烈風に、顔をしかめて、寒がった。

 牧は、其処、此処を歩き廻ってから、斎木と貴島とを呼んで

「縄を張ってくれ」

 と、草の中へ線を引いて指図した。二人が用意の杭と、縄とを包から取出すと、他の人々が杭を四方へ打ち込み、縄を引いて、七間四方の区画を作った。牧は、その真中へ、自分で、杭を打ち、縄を三重に張って、三角の護摩壇を形造った。そして、中の草を焼き、塩を撒き、香を注いで、土を浄めてから、跪いて、諸天に祈った。斎木も、貴島も同じように祈ったが、他の人々は、何うしていいか判らないので、その祈りを眺めたり、景色を見廻したりして、寒さに震えていた。牧が、祈りを終って立上った。

「余人を、一人たりとも上げないように――人数を三段に配置して、二人は根本中堂の上に、四人は中堂と此処の途中に、その他の人は、此処にいて、万一のために、四方を戒めていてもらいたい。寒かろうが、酒は禁断」

 牧の、いつも、人を圧倒するような気魄、それは、剣客が、剣をもって立つと、すぐ対手の感じる、人を圧迫するような気魄であるが――牧は、対座している間にでも、その眼から、その身体から、何か人を圧迫するものが放射されていた。

「誰々が下へ、誰々が上へ」

 と、天童がいうと、

「よろしいように」

 と、答えて、かたわらの僧侶に

「水のあるところは――」

 僧侶は、遥かの下の白い路を指さした。

「あの、こんもりと茂った木立の――」

「聞けば、判ろう」

 こういい放った牧は、もう一直線に、枯草の上を、急斜面を、鹿のように、降りていた。

「危いっ」

 一人が叫んだ。牧は、見る見る、転落して行く石のように、一直線に、小さく、小さくなっていた。一人が

「天狗業じゃ」

 と、呟いた。天童が

「呪法も、武術も、窮極したところは、同じじゃ。見事な」

 と、腕組して、牧の後姿を、眺め入っていた。


 澄み上った秋空だったが、仙波父子は、宿屋の一間に閉じ籠ったままであった。

(池上と、兵頭とは、危く脱したにちがいないが、あれまでに、お由羅方の手が廻っているとすれば――或いは、京、大阪から、二人を途中に討取るため、又人数を繰出しているかも知れぬ)

 二人の身の上を案じる外に

(牧を討つために出た二隊までが恐らくは、全滅したであろうが、益満は、何うしたか? あの男の豪胆と、機智と、腕前とは、一人になっても、生き残るであろうが――名越等、江戸の同志は、この刺客隊の全滅を知っているだろうか――いるとすれば、第三隊が出たか、出ぬか――)

 二人は、京の藩邸、大阪の藩邸にいる同志に、牧の消息を聞き、その返事を待っていたが

(もし、第三番手の刺客が派遣されたとして、自分等より早く、牧の在所ありかを突き留めて討ったとしたなら、自分らの面目は――目的は――立場は――一切が崩壊だ)

 益満の生死より、七瀬らの消息より、このことが重大事であった。浪人させられた武士の意地として、斉彬に報いる、唯一つの、そうして最後の御奉公として、牧仲太郎は、人手を借りずに、自分等二人の手で討取りたかった。二人は、京都の宿へ足を停めて、大阪の消息を、袋持三五郎から、京の動静を、友喜礼之丞から、知らせてもらうことにした。

 黒ずんだ、磨きのかかった柱、茶室造りに似た天井――総て侘しく、床しい、古い香の高い部屋であった。

 二十年余り、何一つ、世間のことを知らずに、侍長屋で成長してきた小太郎は、この一月足らずに起った激変に、呆然としてしまった。総ては、見残した悪夢であって、未だ頭の中で醒めきっていなかった。

「小太」

 小太郎が、眼を開けて、腕組を解いた。

「牧が国を出る時に、二十人からの警固があったとすれば、今度の旅にも、五人、七人はついている、と考えねばならぬ――その、五人、七人の人数も、一粒選りの腕利きであろう――ところで、わしは、久しく竹刀さえ持たぬし、気は、若い者に負けんつもりでも、足、手が申すことを聞くまいと思われる。ただ武士の一念として、二人、三人を対手に――これでもけを取ろうとは思わぬが、又、勝てるという自信も無い。勝てる、とは、卑怯ないい草じゃ。わしは、生きて戻る所存は無い。牧さえ刺殺さしころせば、全身なますになろうとも、わしは本望じゃ」

 八郎太は、床柱に凭れて、首垂うなだれて、腕を組んだまま、静かにつづけた。

「然し――きっと、牧を刺せぬともいえぬ。刺せんかも知れぬ。その時に、小太」

 八郎太が、小太と、大きくいったので

「はい」

 八郎太は、小太郎の顔を、睨むように見て

「お前は、逃げんといかんぞ。わしを捨てて、再挙を計るのだ」

「然し――」

「心得ちがいをしてはならぬ。父を捨てて逃げても、所詮は、牧を討てばよい。二人が犬死をしては、それこそ、世の中の物嗤ものわらいだぞよ」

 厳格な眼、言葉、態度であった。小太郎は、それを聞くと、なぜだか、父の死が迫っているように感じた。


 女中が、廊下を走って来て

「赤紙どすえ」

 と、障子を開けた。小太郎が躍り出るように立上って、受取った。八郎太が、赤紙へ印判を押して、女中に戻した。八郎太は、手紙の裏を返して見て

「袋持から――」

 そして、いつものように、小柄で、丁寧に封を切った。

火急一筆のこと、牧仲儀、今暁錦地へ罷越まかりこし候が、不逞浪人輩三五、警固の体に被見受みうけられ候に就者ついては、油断被為なされ間敷、船行、伏見に上陸と被存ぞんぜられ候間、以飛脚ひきゃくをもって此旨申進候。七瀬殿並綱手、当座当屋敷に滞留のことと被存候――

「母上は、首尾よく――」

 と、云った時、廊下に足音がして

「又、御手紙どすえ」

「御苦労」

「御使の奴さん――」

「わしが参る」

 と、云って、小太郎が降りて行った。八郎太は、友喜礼之丞からの手紙を、黙読してしまうと、大きく、肩で呼吸をした。小太郎が入って来て

「友喜の小者で、怪しい者でござりませぬ」

「友喜の手紙によると、七八人から、十人近い人数が取巻いておるらしい」

「して、修法する土地は?」

「比叡山」

「矢張り――叡山」

「十人と聞いても――二十人おっても、今更、他人の助力を受けたり、後日に延したりすることはできぬ。わしが、牧の修法を妨げて斬死したと聞いたなら、正義の人々は一斉に立つであろう。わしは、それを信じて、死ぬ。然し、お前も共々に死んでは、仙波の家が断絶する。大義、しんを滅す、とは、この事じゃ。小太――無駄死むだじに、犬死をしてはならんぞ。幸、七瀬が入り込んだとあれば、また、いかなる手段にて、敵をくじく策略が生れて参るかも知れぬ。わしの死はお前が生きておってこそ光がある。お前が生きておれば、犬死にはならぬ。一旦の怨み、怒りで、必ず犬死してはならんぞ。眼前、父が殺されても、牧を刺す見込みが無いなら、斬破って逃げい。お前は若い。お前の脚ならば逃げられよう。そして、再挙して、わしの志を継ぐのだ。よいか。この教訓を忘れては、父の子でないぞ」

「はい」

「すぐに立とう、勘定を申しつけい」

「母上に、一度お逢いなされましては」

「たわけたことを申すな」

 八郎太は、床の間に立ててあった太刀を取って、目釘を調べ、中身を見て

「生れて初めて人を斬るか、斬られるか――こうして、じっと見ていると、この刃の表に、地獄の図が現れて来るように思える」

 刀を膝の上に立てて、刃の平をいつまでも眺めていた。

「お召しどすか」

「勘定をして、麻草鞋二足、弁当を二食分、水を竹筒に、少し沢山詰めておいてくれぬか」

「今時分から、何ちらへお出でどす」

「叡山へ参詣する。勘定を早く」

 小太郎は、室の隅で、鎖鉢巻、鎖帷子かたびら、真綿入の下着を、二人分積み重ねて、風呂敷に包んでいた。

「思い残すこともない」

 八郎太は、刀を鞘に納めて

「小太、生れてはじめて、人を斬るが、老いてもわしの腕は見事じゃぞ。そうは思わぬか」

 と、笑った。


 根本中堂の、巨大な、荘厳な堂前に二人はぬかずいた。内陣には、ただ一つの宝燈が、またたいているだけで、漆黒な闇が、堂内に崇高に籠めていた。

 八郎太が、やがて、この宝燈の中へ消え去るべき自分だとも思ったり――或いは、もう一度この土の上で、同じように合掌して、歓喜に祈る自分の姿を想像したり――十死一生の勝負だとは信じていたが、自分の死ぬということが、少しも恐ろしくなく、胸を打つ程の想像も湧いて来なかった。自分の、包囲されて斬られるところを想像したが、人の斬られたのを見る程の感じもなかった。

 小太郎は、父の勤めを、暮しを、幼い時から見ていたので、下級武士が、手柄を立てて出世するというようなことは、考えられなかった。二十年でも、三十年でも、毎日同じことをしていなくてはならぬ運命だと、感じていた。父が、意地のため、自分のために、牧を斬って、それで仙波の名が名高くなったとて、何うなるのか?――益満程の才人が、腕前で、家中の人々から恐れられ、称められても、少しの出世も出来ないのに、牧を斬ったとて、何う出世が出来るか?――それよりも、牧を斬って、その手柄の代りに、母と父とを救い、妹と、自分とを、もう一度、二人の膝下へ集めたかった。苦労ばかりをして来た母に、皆の団欒を見せて喜ばしたかった。牧を討つのも、そのためになら――と、思った。

 名越左源太の子は九歳であっても、小太郎は、益満は、道を譲らなくてはならなかった。伊集院平の倅が、少し馬鹿であっても、二千石を継ぐのに十分であった。益満は、それに不平をもっていたが、小太郎は諦めていた。だが、斉彬公の愛には望みをもっていた。斉彬公の代になったら――自分の才も、腕も、きっと、人に認められるであろう。知行は昇らなくてもいいから、自分の器量を――と、思うと、斉彬を呪っている牧が、憎くなってきた。

 だが、父が、牧を討たずに死ぬ?――それも犬死ではないか。益満は、きっと遅れても来着するだろう。それを待って、牧を襲っても遅くはないのに――十人も警固の人数がいては、敵さないことは判り切っているのに――。

 小太郎の闘志は、少しも起って来なかった。父は独りで興奮しているが、あの手紙も、何も皆譃で、この深い山の中は、この堂と同じように、沈黙と、荘厳とだけしかないのだ。牧なんか居るものか――というように思えた。

 八郎太が立上った。杉木立の下を、熊笹の中を、裾を捲り上げて登った。羽織の下に襷をかけて、鎖鉢巻を袖の中へ隠して

「油断するなよ」

 二人が耳を澄まし、呼吸を調えて、静かな足取で、小半町行くと、人影が木立の間に見えた。八郎太が佇んで、見届けようとした時、木立の間から、細径へ二人の侍が出て来て立止まった。

「見張」

 と、小太郎が囁いた。囁くと共に、拳も、胴も、膝頭も、ふるえ出した。押えても、ふるえが止まらなかった。腋の下に、冷たい汗が流れて来た。

(逆上してはいけない。怯けてはいけない)

 と、押えたが、何うしても止まらぬうちに、二人の前近くへ来た。一人が、径の真中で

「御貴殿達へ申し入れる。吾々の姓名は御容赦願いたい。当山の許可を受けて、都合によりここより一切登山を止めておりまする。お戻り願いたい。甚だ勝手ながら、何卒」

 一人は、横を向いて、草鞋で土をこすっていた。


「ははあ――」

 八郎太は、さも感心したようにいったが

「当山の許しを得たと仰しゃれば、是非もござらぬが――念のために、許可状を拝見致しとうござる」

 後方にいた侍が、険しい眼をして、八郎太の方へ向き直った。

「頂上には、尊貴の方が修行してござるで――お戻り願いたい」

「尊貴の方とは?」

 二人は、答えなかった。

「尊貴の方の、御名前を承りたい」

 小太郎は、静かに足を引いて身構えにかかった。いつの間にか、顫えが無くなっていた。

「しつこい。断って通られるなら――」

 八郎太が、大声で

「尊貴の方とは、牧仲太郎か」

「何っ」

 二人が、一足退って、柄へ手をかけた。八郎太は畳みかけて

「牧の修法か」

 二人は

「如何にも――それを知って通るとあらば、血を見るぞ」

 と、叫んだ瞬間、杉木立に、谷間に、山肌に木魂して

「ええいっ」

 小太郎の腰が、少し低くなって、左脚が、後方へ――きらっと、閃いた白刃は、対手を打つか、打たぬかに、小太郎の頭上で、八相に構えられていた。対手の肩口の着物が、胸の下まで、切り裂けて、赤黒い血が、どくんどくんと、浪打ちつつ噴き出していた。対手は眼を閉じて、暫くの間、前へ、後方へ揺れていたが、声も立てずに、脚も動かさずに、転がってしまった。それは、ほんの、瞬間だった。

「よし」

 と、八郎太が、声をかけた。残った一人は、蒼白な顔をして、正眼につけたまま、動きもしなかった。小太郎の早業に、腕の冴えに、すっかり圧倒されてしまって

(逃げたら後方から斬られる――だが、逃げないでも――)

 と――それは、丁度、猛獣に睨まれている兎であった。自分の斬られるのを知りながら、もう、脚も、頭も、しびれてしまって、自由にならないのだった。

 小太郎が、八郎太に

(斬りましょうか)

 と、目配せをした。八郎太は、顔を横に振った。そして、静かに、刀を抜いて

「覚悟」

 対手は、八郎太へ眼を向けた。そして、じりっと、脚を引いた刹那

「やっ――」

 真向からの打ち込を、ぱちんと受けて、摺り上げようとした瞬間

「やっ、やぁーっ」

 老人とも思えぬ、鋭い気合が、つづけざまにかかって、引いたと思った刹那に、すぐ、切返して来る早業――たたっと、退ると

「ええいっ」

 刀を立てて、頭を引いたが、一髪の差だった。相手の横鬢から、血が飛んで、熊笹へ、かかると

「突なりいっ」

 八郎太は、若者の稽古のように絶叫して、相手の胸へ一突きくれると、血の飛ぶのを避けて、右手へ飛び退った。


「死骸は、その辺へ隠しておけ――」

 八郎太が、杉木立の中の鬱々と茂った草と、笹の中を指さした。そして、小太郎が、死体へ手をかけて持上げたのを見て

「一人でよいか」

 小太郎は、生暖かい足を掴んで

「これしきの――」

 と、見上げて、微笑した。そして、両脚を持って、逆に立てた。血が、土にしむ間も無く、細い流れになって、ゆるやかに下り出した。小太郎は、はずみをつけて、一振り――二振り――ざっと、笹が音立てて、どんと、地へ響いた。八郎太は一人の襟を掴んで、少し引きずったが、手に余ったらしく

「力業は――いかん」

 と、腰を延した。そして、鞘へ納めた刀を、もう一度抜いて、刃こぼれを調べた。

(十人とすれば、残り八人――)

 小太郎は、血に塗れた手を紙で拭いて

「ここまで見張が出ておりましては、用意なかなか粗末でござりませぬな」

「うむ――」

 と、頷いてから

「腕が上ったのう」

「父上も、見事でござりました」

「わしは、せっかちでいかん。じわじわ来られると、苦手じゃ」

 話を終ると、冷たい風と、淋しすぎる静けさとが、薄気味悪く、二人に感じさせた。今、人を二人まで、この静かな山の中で斬ったとは思えなかった。

「頂上は、余程あると見えるの」

 左手は、熊笹ばかりの山で、径は、左へ左へ行くが、四明の絶頂は、少しも、現れて来なかった。だが、少し登ると、微かに、人声が聞えた。それは、二人でなかった。

「父上、話声が――」

 二人は、立止まった。八郎太は、黙って、鎖鉢巻を当てた。そして、その上から、手拭をかぶった。小太郎も、それに見倣みならった。右に、左に折れ曲る急坂を、二人は、静かに、ゆっくりと

「急ぐでないぞ、呼吸が乱れては闘えぬぞよ」

 と、いいつつ――それでも、時々、肩で息をしながら登って行った。小太郎が、目を上げると、遥かの、熊笹の中に、半身を見せて、一人の侍が立っていた。小太郎が、じっと凝視めると、向うも、こっちを眺めていたが、何か合図をしたと見えて、すぐ二人になった。そして、二人になったかと思うと、右手の山蔭へ消えてしまった。

「居るのう」

「半町――」

 と、いった途端

「待てっ――待てっ」

 遠くで、人影も見せずに、こう叫びながら――然し、すぐ足音が、寂寞を破って、乱れ近づいた。小太郎も、八郎太も、羽織を笹の上へ棄てた。足場を計った。二人で対手をはさみ討てるように、左右に分れて、径に向い合った。すぐ曲り角から、四人の姿が、現れて、一人が、こっちを見ると

「何故、登った、降りろ」

 と、叫んだ。四人とも、襷がけで、支度をしていた。小太郎は刳形へ、手をかけて、親指で、鯉口を切った。

「これは、なかなか、手配りがついておる。前だけでなく、左右、後方へも、気を配らんといかんぞ」

 と、八郎太が、注意した。


「斬れっ」

 一人が、すぐ刀を抜いた。

「待て待て」

 四十余りの、つむぎの袷に、茶の袴をはいたのが、人々を止めて、前へ出た。そして、二人を左右に見て

「この下に、見張の者が、二人、居ったであろうがな。それを、何んとした?」

 八郎太が

「さあ――何んとしたかのう」

 三人が

「斬れっ」

「面倒じゃっ」

 と、叫んで、八郎太と、小太郎とに迫って来た。

「そうか――目といい、支度といい、二人を斬捨てて来たに相違ない。人を殺した以上、己も殺されるということは承知であろう。御山を汚した以上、御山の罰を受けるということも承知であろう――」

「天童、貴公の説法は、了えんでいかん――さあ、参れ」

 一人が、八郎太へ、正眼につけた。一人が、それを援けて、右側から、下段で迫って来た。

「小冠者っ」

 天童は、刳形へ手をかけて、ずっと、鞘ぐるみ刀を――丁度、柄頭が、自分の眼の高さに行くまでに延した。古流居合の手で、所謂鞘の中に勝つ、抜かせて勝つ、という技巧であった。こっちは飽くまで抜かずに居て、対手の抜いて来るのを待っていて勝つという方法であった。

 天童を助けて、一人が、上段に攻めて来た。二人とも小太郎を侮って、一挙に討とうとする型であった。小太郎は、腰を落したまま、動きも無く、音も無く、声も無く、影の如く構えていた。それは真剣の場数を踏んできた賜物で、その冷静さは、天童のおごった心を脅かすに十分であった。

(侮れない)

 と、天童が感じた瞬間、天童は、固くなった。怯け心が少し、疑いの心が少し――最も、剣客の忌む、そうした心が起って来た。

「やあ」

「おおっ」

 八郎太の方に、誘いの懸声が起った。それに引込まれたように

「やあ」

 と、上段に構えて、じりっと、進んだ時、小太郎は圧されたように一足引いた。上段の刀尖が、手が、ぴくぴく動くと、次の瞬間

「ええいっ」

 見事、小太郎の誘いに乗って、大きく一足踏み出すと、きらっと、白く円弧を描いて、打ち込む――その光った弧線が、半分閃くか、閃かぬかに

「とうっ」

 肚の中まで、突き刺すような、鋭い気合、閃く水の影の如く、一条の白光、下から宙へ閃くと――刀と、片手が、血潮の飛沫と共に、宙に躍った。

「ええっ」

 その刹那、天童の手から、ほとばしり出た刃光一閃、小太郎の脇へ、入るか、入らぬか、八郎太が

「危いっ」

 と、絶叫した時、天童は、たたっ、とよろめくと、刀を杖にして踏み止まったし、小太郎は、熊笹の中へ転がって、天童の胸へ刀をつけていた。


 小太郎は、鹿が跳躍するように、跳ね起きた。そして、刀を構えて

「如何っ」

 と、叫んだ。天童は、右手に突いた刀へかけている手を、刀ぐるみぶるぶる震わせていたが

「無念」

 呟くように言葉をげつけて、小太郎を睨むと――膝をついてしまった。そして、左手を、土の上へついて、大きい息を、肩でしながら

「今――今、一合せ」

 そういって、刀を地へ置いて、用意していた血止め、繃帯を、懐から取出した。そして、静かに、顫える手で、膝を探って行くと、べとべととした血潮、開いた創口きずぐち――眼を閉じて、指を――全身へ響く痛みを耐えて、創口へ入れて行くと、骨へ触れた。尖った骨であった。

(骨を断たれた)

 天童は、その瞬間、蒼白になって俯向いてしまった。暖かい血が、指の周囲から、外へ流れ出るのを感じた。眼暈めまいがして来た。小太郎への無念さが、身体中いっぱいになって来た。天童は、手早く、太腿を縛った。そして、小太郎の立っているところを見ると、小太郎は、もう其処にはいなかった。

「ああ」

 断末魔の叫びが聞えた。天童が、その方へ眼をやると、小半町も逃げのびた浪人の一人が、崖のところへ、小太郎に追いつめられて、右手で刀を突き出したまま、左手で、顔を覆って、斬られるがままに斬られていた。

「卑怯者」

 と、いう小太郎の微かな叫び声が、聞えてきた。

「ああっ――あーっ」

 首をちぢめて、手を顔へ当てて、崖に凭れたまま無抵抗になっている前で、小太郎は大上段に、振りかぶっていた。

「小太っ」

 と、八郎太が叫んだ。その瞬間、血煙が立って、突き出ていた刀が、地上へ落ちた。浪人は、岩角から崩れるように、背を擦りながら潰えてしまった。小太郎は、血刀を下げてこっちへ戻りかけた。

「ううっ――うむーん」

 味方の一人のうめき声が天童の後方に聞えていた。熊笹の中で――すぐ、後方で聞えていた。天童が、その方へ振向くと、八郎太の脚が、すぐ眼の前のところにあった。天童は、右に置いてあった刀を取上げて、少し、身体を斜めにした。そして、構えると、その瞬間

「父上っ」

 小太郎が、絶叫して、走り出して来た。八郎太が、小太郎の叫び声と、その指さすところを、ちらっと、見た途端

「おのれっ」

 飛び退きざまに、天童へ斬り下ろしたが、一髪の差があった。天童の刀が、八郎太の足へ届いていた。八郎太は、よろめくと、すぐ、笹の中へ、仰向きに転がった。

「おいぼれっ。覚えたか」

 天童が、灰色の顔で、八郎太の転がっている身体を睨んだ時、小太郎の足音がした。天童が、振向いて、周章てて構えるも、構えぬもなかった。

「うぬっ」

 小太郎の絶叫と共に、天童の頭に、ぽんと鈍い音がして、赤黒い味噌のようなものが、溢れ出した。天童は、刀を構えたままで、頭をがっくり下げた。小太郎は

「馬鹿め、馬鹿め」

 と、つづけざまに叫んで、天童の肩を、斬った。右腕が、だらりと下って、切口が、木の幹の裂けたように、真赤な裂け口になった。小太郎は、それを足で蹴倒した。血が、どくどく湧いて、土の上へ流れた。


 八郎太は、起き上って、笹の上へ脚を投げ出して

「心配するな、傷は浅い」

 と、云った。だが、すっかり疲労しているらしく、刀を側へ置いて、両手を草の中へついて、肩で溜息をしていた。

「御手当を――」

「うむ。大丈夫か、上の方は」

「逃れた奴はござりませぬ」

 八郎太は、懐へ手を入れた。小太郎は、父の横へ片膝を立てて、父の取出した布をもって

疵所きずしょは?」

「膝の上下――その辺一面に、ずきずきしているが」

 小太郎は、袴の脇から手を入れて疵所を探った。そして、小柄こづかで、袴を切り裂いて、手早く、手拭で太腿をきつく縛った。いつの間にか、腓から、向う脛も、探ると、べっとりと、指が粘って、脚絆の上へも、微かに血が滲み出していた。印籠の口を開けて、丸薬を出して

「気付」

 と、父の掌へあけて置いて、足の疵所へ、脂薬を布と共に当てて繃帯した。八郎太は、腰の竹筒から、水を飲んで、小太郎が、手当を終って脚から手を放すと

「水盃」

 と、云って、蒼白めた顔に、微笑して、竹筒を差出した。小太郎は、父の顔を見た。

「いろいろと、苦労させた――わしの子にしては出来すぎ者じゃ。斉彬公が、いつも仰せられた、身の代になったなら取立ててやるぞ、と――今まで、わしは、何一つ、お前に、やさしい言葉もかけなんだが、心の内では――心の内では――」

 八郎太の声が湿ってきた。小太郎は父を見つめている内に、不意に、胸の奥から押上げてくる熱い涙を感じた。

「――喜んでいたぞ。この疵を受けた上は、牧を斬ること思いもよらぬ」

「父上、六人斬りました。残りは二人か、三人」

「さ、それは判っておるが、脚の自由が利かんでは覚束ない。お前が、二人前働いてくれ。わしは、それを見届けて、腹をしよう」

「父上、手前一人で参りましょう。ここに、暫くお待ち下されますよう」

「小太、わしを武士らしく死なさぬと申すのか。昨日も、今日も、犬死するな、と、あれまでに申したのが、判らぬか、わしを犬死させるのか」

きもに銘じておりますが、父上が、此処で、切腹なされても、矢張り犬死では――」

「思慮の無いことを申すな。これだけの人数を斬って、誰が、その下手人になる? お前と、わしと二人が、下手人になって、斬罪に処せられて何んになる。わしが、ここで、腹を切って、下手人となれば、お前は助かる――母もある。妹も多い。又、お前は、わしの志を継いで、御家を安泰にし、又、仙波の家も継いで行かねばならぬ」

 八郎太は、こう云って、刀を杖に、立上りかけてよろめいた。小太郎が、支えて、同じように立った。

「それ程のことわりわきまえぬ齢でもあるまい」

 小太郎は、父の慈愛と、父の武士気質と、父の意気とに、顫えていた。

「水盃が厭なら、血をすするか」

 八郎太は、左腕を捲った。其処にも、疵が、口を開けていた。

「救からぬ命じゃ。牧の前にて、正義の徒の死様を見せてくれよう。小太、肩を貸せ。これでも未だ、へろへろ浪人の一人、二人を対手にしておくれはとらぬ」

 八郎太は、血に曇った刀を右手に提げて、小太郎の肩へよりかかった。

「歩け。何を泣く」

「はい」

「山の上へ気をつけい。ここいらでは死にとうない。牧の顔を見てからじゃ。叶わぬ節にはくらいついてくれる」

 八郎太は、元気のいい声であった。


 伝教大師の廟の石に凭れていた一人が、身体を立てて

「あれは?」

 と、いって、下の方を指さした。その指さす遥か下の登り口に、一人が、一人の手負に肩を貸して、静かに登って来ていた。

「周西では?――ないか?」

「ちがう――一人は手負だ」

 呟いて、すぐ人々へ

「見張が、斬られたらしい」

 と、叫んで、下の方を指さした。

「誰が――」

 二三人が、同音に叫んで駈け出そうとした。山内が

「周章てるなっ」

 と、止めて

「誰が斬られたか?」

 二人の見張は、それに答えないで、じっと、登って来る二人を見ていたが

「見張ではない、あやしい奴じゃ――山内殿、此処へ参って――」

 手招きした。山内が、大股に、ゆっくりと、草原を二人の方へ歩いて行った。

 牧は、貴島と、斎木と三人で、夜の祈祷の準備のために、四辺を火で清浄にしてから、その跡へ、犬の血、月経の血、馬糞の類を撒いていた。

「味方でないとすれば、不敵な代物じゃ」

「此処へ来る迄には、見張を斬らなくてはならんが――」

 と、残りの人々が話し合った時、山内が右手を挙げた。

「それっ」

 人々は、刀を押えて走り出した。牧は、じろっと、それを見たままで、指を繰って、何か考えていた。

「先生」

 斎木が、人々の走って行くのを見て

「先生」

「判っている」

 冷やかに答えて、牧は、眼を閉じた。斎木と、貴島は、人々が、一列に立並んで、刀へ手をかけているのを見ながら、不安そうな眼をしていた。

 山内が、微笑しながら、ただ一人、牧へ近づいて来て

「よい生犠いけにえが、来よりました。老人、若いの、御好み次第、生のよい生胆いきぎもがとれる――牧殿」

 牧は、眼を閉じて、突立ったまま、裾を、袖を、髪を、風に吹かれていた。

「牧殿」

「判っております。御貴殿、よろしく」

 山内は、じいっと、牧を睨んで、黙って踵を返した。丁度、その時、真一列に並んでいた浪人達が、じりじり左右へ分れかけた。そして、その中央に、草原の上に、二人の頭だけが現れていた。誰も、まだ刀を抜かなかったが、身体のちぢまるような、心臓のとまるような、凄い、気味悪い、殺気が、山の上いっぱいに拡がった。

 左右へ分れかけた浪人は、又一つの環になって、じりじり二人を包囲しかけた。そして、口々に何か叫んでいた。二人の侍が、顔を、胸を現してきた。一人は、刀を杖にして、跛を引いていた。一人は、その右手に、その老人を庇うように、少しの隙もなく、何か、時々、浪人共にいいながら、少しずつ登って来た。山内が

「問答無益っ、斬れっ」

 と、叫んだ。浪人の大半が、刀を抜いた。一人が、槍を構えた。二人は、歩みを止めて、ぴたりと背中合せになった。


 仙波八郎太の顔は、死の幽鬼だった。灰色の中に、狂人のような眼だけが、光っていた。顫える手で、刀を構えて、怨みと、呪いとの微笑を脣に浮べて

「奴等、邪魔立てするか」

 その声にも、顫えが含まれていた。

「牧っ」

 しゃがれた声で、絶叫した。そして、咳をして、唾を吐いた。

「卑怯者めっ。一騎討じゃ――牧っ、仙波八郎太が、一期いちごの働きを見せてくれる。参れ、牧。参れ。参らぬかっ」

 遥かのところに立っている牧へ叫んだ。牧は、眼を閉じたままであった。

「吼えるな、爺」

 山内が、叫んで

「一人に三人ずつ、六人してかかれ。大勢かかっては、同志討になる。働きに、自由が利かぬ」

 浪人が、お互に、左右を振向いた。そして

「退け」

「尊公が――」

 と、一人が云って、油断を見せた一刹那――小太郎は、影の閃く如く、一間余り、身体を、閃かすと、ぱっと、音立てた血煙――ばさっと、鈍く、だが、無気味な音がした。その浪人がよろめいて、倒れた。

「やられた、やられた、やられた」

 と、いう人々の叫びと

「うっ」

 と、咽喉のつまったような呻きとが、同時に起って、浪人の列が、二三間も、だ、だっと、つまずくように、突きのけられたように崩れた。退いた。そして、二人の浪人が、草原の中に取残された。一人は、脚を引摺って、這いながら、一人は、刀を持ったまま、両腕で頭を抱えて――然し、すぐ坐ったように倒れて、丸く、膝の上へ頭を乗せてしまった。

「不覚者」

 山内の顔が、さっと、真赤になった。小太郎は、父の背に己の背をつけて、正眼に構えていた。

「あ、味な真似を――」

 一人が、三尺余りの強刀を、八相に構えて、八郎太の正面から、迫った。それと、同時に、七八人の口から、懸声が一斉に起って、又二人に近づいて来た。八郎太が

「小太郎、犬死せまいぞ。この人数では敵わぬ。わしは死ぬ。お前は、早く逃げい」

 と、耳のところで囁いた。

「老いぼれっ。参るぞ」

 じりっと、一人が一足つめて来た。瞬間

「や、やあっ」

 右手から、繰出した槍――八郎太は、自分を牽制するための槍とは知ってはいたが、反射的に避けたはずみ――たたっと、よろめくと

「ええいっ」

 八相の烈剣、きえーっと、風切る音を立てて打込んだ。よろめきつつ、がんと受けたが、その獰猛な力に圧倒されて、刀の下った隙――頭から、額へかけて、頭蓋骨を切り裂かんばかりの一刀――八郎太は、その瞬間、眼を閉じてしまった。よろめいた。地が引っ繰り返って、天になりそうに、脚が、細く、力無くなって、身体が宙返りするように感じた。頭の中で、があーんと、頭いっぱいに鳴り響くものと、全身にこたえた痛みとがあった。眼を開いているつもりであったが、暗黒だった。夢中で、刀を、頭上に構えた。そして

「小太郎、犬死すな」

 と、自分では、力いっぱいに叫んだつもりだが、自分の耳にも聞えなかった。腕が、肩が、何かで撲られているように、微かに感じた。そして、暗黒な、地の底を、急に墜落して行くようにも感じるし、宙ぶらりんに、止まっているようにも感じた。何か、耳元で叫んだようであったが、どんな意味か、もう判らなかった。ただ、小太郎に

(犬死すな)

 と、思った。


 小太郎は、闘志と、怨恨とに狂った猛獣であった。何を、自分で叫んでいるのか、何う、手を――脚を動かしているのか、わからなかった。

(皆殺しだ)

 と、いう憤りが、頭いっぱいに、熱風のように吹きまくっていた。父の倒れるのを、ちらっと見ただけであったが――食いしばった紫色の脣と、血を噴く歯、怨みに剥き出した真赤な眼球、肉が縮んで巻上った傷口、そこから覗いている灰白色の骨、血糊に固まった着物、頭も、顔も、見分けのつかぬくらいに流れている血――そんなものが、頭の中で、ちらちらした。

 対手の浪人の恐怖した眼、当もなく突き出してくる刀、ひるがえる袖、跳ねる脚、右から、左から閃く刀、絶叫――倒れている浪人――そんなものが、眼の前を、陰の如く、光の如く、ちらちらした。

 血で、指が、柄からすべりかけた。膝頭が曲らないように疲れて来た。呼吸が、肩で喘がなくてはならなくなってきた。舌はかわき上って、砥石のように、ざらざらしてきた。脚も、頭も、腕も、灼けるように熱かった。

(いつの間にか、かなり斬られたらしい)

 と、ふと思ったが、斬られたという記憶はなかった。撲られたという微かな覚えだけがあった。汗が、血が、眼の中へ入るらしく、眼が、痛んだが、もう、眼で対手を見る力もなかった。

小童こわっぱ――小童がっ」

 と、叫びながら、人々を相手に跳躍している小太郎を、追って、山内は、歯噛みをしていた。浪人の二人まで即死して、四人が深手を負った。山内が、激昂しても、小太郎の腕を恐れ、金で雇われているだけの浪人は、小太郎の隙へさえ斬込まなかった。小太郎が、刀を振ると避けた。ただ遠巻きにして、小太郎の疲労を待っていた。

 牧は、縄張りのところへ出て、小太郎をじっと眺めていた。そして、斎木に

「何んと申す若者かの、あれは?」

 と、聞いた。

「仙波某とか――」

「おおっ、仙波八郎太か――硬直の武士じゃ。あれは、それの倅か――見事な」

 牧は、静かに、小太郎の方へ、歩きかけた。貴島が

「何ちらへ」

 と、いったが、黙って、草を踏んで行った。斎木と、眼を合して、貴島らの二人は、その後方へつづいた。

 小太郎は、伝教大師の石室を、背にして、血塗れになっていた。半顔は、人の血と、己の血で染まっていたし、着物は、切り裂かれて、芭蕉の葉のようであった。瞳は、もう力なく、動かなくなって、すぐにも気を失いそうだった。だが、一人でも、近づくと、凄い光を放って睨みつけた。

 突き出している刀尖が、時々下った。腕が、もう、刀を支えておれぬらしかった。山内が

「さ、引導、渡してくれる――南無阿弥陀仏、御大師様の廟で殺されるからは、極楽往生疑いなし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一同の者、よく見い、人を斬るのは、こう斬るのじゃ」

 上段に振りかぶった。小太郎は、石に、背をつけたまま、だるそうに、正眼に構えた。牧が

「不憫な奴じゃ」

 と、近づいて呟いた。山内は、ちらっと、その方を見ると、もう一足、小太郎に近づいた。そして、左右の浪人へ

「よく見い。真向から二つになるぞ」


 と、いった。小太郎は、半眼で、じっと、構えたまま、身動きもできなくなっていた。


「逃げえ、小太郎――犬死してくれるな」

 それは、墓穴の中から、死人が呼びかけたような声であった。斬倒された仙波八郎太が、左手に刀をついて、立上っていた。

「小太郎」

 斬割られた頭から、どす黒く、血と混った脳漿のうしょうが、眼から、鼻の脇へ流れて、こびりついていた。右手の袖が、斬落されて無くなり、手も利かぬらしく、刀は持ってはいるが、だらりと下ったままであった。

 振向いた人々は、背筋から冷たくなった。八郎太の血を滲ませた眼、瞳孔は空虚になって、ただ、小太郎を凝視しているだけであった。脣からは、血にんだ歯が、がくがくふるえて現れていた。ぼろぼろに切られた袴の中で、脚が、少しずつ、動いて、少しずつ近づいて来ていた。血で、肌へこびりついた袴は、風ぐらいに動かなかった。それは、明らかに、幽霊であった。子を思う最後の一心が、死んだ身体へ乗りうつったとしか思えなかった。やさしい言葉一つさえ懸けないで育ててきた小太郎に対する、死よりも強い愛の力であった。その愛の力が、死んだ肉体を、よみがえらせたのだった。

 小太郎は、石に凭せていた身体を立てた。頬に、眼に、さっと光が動いた。

「父上っ」

 心の中で、絶叫するか、せぬかに、山内の刀――踏み込んで来た脚、上った拳、山内の引いていた呼吸が

「それっ」

 と、いう懸声にかわって、毒気を吐き出す如く、力と共に噴き出した途端、小太郎は、刀を右手に提げたまま、さっと、左手へ避けた。閃いた刀は、空を斬った。かちっと、刀尖が石に当った音がした。

「小太、逃げい」

 八郎太が、よろよろ近づくのに、浪人達は、気圧けおされたように、恐怖の眼をして、眺めていた。牧が、じっと八郎太を眺めていた。

 山内は、一討ちと思って打ち込んだのを、外されて、石に当って、刀尖が折れると共に、赤くなって激怒しながら、二度目の猛撃をと、さっと振上げた瞬間――小太郎は、鹿の如く、浪人の中へ飛び込んでいた。八郎太の凄惨さに、恐怖を感じて、呆然としていた一人の浪人に、一撃をくれて、人々の囲みを脱出していた。

「たわけっ」

 と、山内が、浪人に怒った。そして、振上げた刀を下ろして、小太郎の後方から走り出した。多勢の浪人共が、その後を追った。

 二人の浪人は、刀を構えて、八郎太の方へ静かに近づいた。八郎太は、もう、眼が見えなくなって来たらしく、眉をひそめて、口を開きながら、眼をしばたたいて、小太郎の行方を捜すように、人々の走って行く方へ、うつろな眼を動かしていた。足は、もう動かなかった。

「父上っ――御免」

 小太郎は、走りながら絶叫した。だが、八郎太には聞えぬらしく、微笑もしなかった。二人の浪人が、八郎太の前へ立った時、牧が

「その老人を斬るなっ」

 と、叫んだ。そして、足早に、ずかずかと近寄ると、八郎太の右脇下へ、自分の肩を入れて

「仙波っ、気を確かに」

 と、叫んだ。八郎太は、眼をしばたたいたきりで、自分をたすけてくれているのは誰だか、判らなかった。だが、微かに

「小太郎は?」

 と、聞いた。

「無事じゃ。無事に逃げたぞ。眼が見えるか」

 八郎太が、頷いた。そして、右手で、前方を探るようにした。牧は、自分の後方の斎木に

「肩を貸せ、左の方を、持ち上げて、その小高いところまで運ぶのじゃ」

 と、牧は、斎木と共に八郎太の左右から、身体を持ち上げて、急ぎ足に、小太郎の逃げて行く方へ歩んで行った。


「先生っ」

「如何、なされます」

 貴島が、牧の態度に不審を抱いて聞いた。

「武士の情じゃ」

 牧は、ただ、僅かに残った、精神力だけで、微かな命を、つなぎ止めている八郎太を肩にかけて、草原のなだらかなところを、少し登った。そこには、将門岩が、その外の岩が、うずくまっていた。

 見下ろすと、小太郎が、防ぎつつ、逆襲しつつ、走りつつ――もう、刀の法も、業も、何もなかった。お互に、ただ刀を振り廻して、何事かを叫んでいるだけであった。草原の急な傾斜は、人々の足を、時々奪ったので、小太郎も膝をついたり、浪人も転がったりしつつ、闘っていた。

「仙波っ――あれが、見えるか。小太郎が見えるか」

 牧が、下の方を指さした。八郎太は、最後の息のような、大きいのを、肩でして、両手で、何かを探すように、前の方へ延して、空を掴んだ。そして

「小太郎」

 と、微かに呟いた。

「見えるか」

 八郎太は、瞳の力を集めて、牧の指さす下の方を、じっと、暫く見ていたが――いきなり、右手を右の方へ振って

「右へ」

 と、叫んだ。そして一脚踏み出そうとしてよろめいた。そして、それでもう残りの力も尽きたらしく眼を閉じた。牧が、八郎太の顔を見てから、小太郎の方を見た。小太郎は、左へ、左へ避けていたが、そこの行手は谷で行詰まりであった。右手は、草原が、杉木立の中へつづいていた。

「右手へ、逃げい。小太郎っ、右手へ逃げい。左手は、谷じゃっ。谷があるぞっ」

 と、牧が叫んだ。山内が、下の方で、上を振向いた。八郎太は、耳許で、その叫びを聞くと、頷いた。そして

「御身は?」

 と、微かに、いった。もう、ぐったりと、牧へ凭れかかって、最後の生命がつきようとしていた。

「牧」

 八郎太が、よろめいた。そして

「御身が、牧――仲太郎か」

 と、呟いた。もう、牧が何者であるか、判断がつかないようであった。眼を開いて牧を見ようとしたが、瞳がだんだん開いて、力が無くなってきていた。だが

「牧」

 と、呟くと、眼が、光を帯びて

「おのれ」

 顫える手で、刀を探すらしく手を延した。牧が、仙波の耳へ口をつけて

「仙波、小太郎は、無事に逃れたぞ。見てみい。見事に働いた。仙波っ――小太郎は、無事だぞ。逃れたぞ。小太郎は無事に逃げたぞ」

 八郎太は、もう、耳が聞えぬらしかった。微かに

「小太郎――な、七瀬――娘、娘は?」

 と、いった。牧は、ぐったりとしてしまった八郎太を、草の上へ静かに置いて

「小太郎は、逃げのびたぞっ」

 と、耳許で、絶叫した。八郎太の、血まみれの脣に、微笑が上った。牧は、涙を浮べていた。八郎太の脚が、手が、だらりとなって、眼を閉じると共に、牧は、端坐して合掌した。

 秋の日が、傾きかけた。風が、いくらか、弱くなって来た。

 山の下の方には、時々、浪人達の叫び声がしていたが、それも稀になった。

「埓も無い――一体、何事じゃ」

 いつの間にか、登って来た山内が、牧の、坐って、仙波の死体へ黙祷している後姿を見て、呟いた。斎木が、じろっと、山内を睨んだ。



南玉奮戦

[編集]

 内玄関から、狭い、薄暗い廊下を、いくつか曲ると、遥かに、明るい、広々とした廊下と、庭とが見えてきた。深雪は、こんなに、御屋敷が広いとは思わなかった。先に立っている案内の老女が、狭い廊下のつきるところ――三段の階段があって、それを登ると、広書院の縁側になるところまで来た。そして

「暫く」

 と、小藤次に挨拶して、そのお鈴口につめているお由羅付の侍女へ、何か話をすると、侍女が一人、奥へ立って行った。

「只今、御案内致します。暫く、これにてお控え下されませ」

 老女は、こう云って、小藤次に、深雪に、南玉に、そこへ坐って、待っておれ、というように、自分から廊下へ坐った。深雪は、老女へ、お辞儀をして、すぐ、つつましく坐った。

「絶景かな、絶景かな」

 南玉は、口の中で呟いてから、小藤次に

「ね、芋を植えると――」

っ」

「小父さま、お坐りなされませぬか」

「板の上は、腰が冷えるで――」

 南玉が、庭へ見惚れている時

「岡田様、御案内仕ります」

 と、若い侍女が出て来て、声をかけた。小藤次が、頷いた。侍女が、広書院の廊下の方へ行くので、深雪は

(晴れがましい)

 と、気怯きおくれしたが、侍女は、その手前の、右手の小さい部屋へ入って、襖を開けて

「こちらにて、お控え下さいませ」

 と、お叩頭した。襖を閉めると、真暗になりそうな、六畳程の部屋であった。

「お控え下さいやし、ってのは、遊人の仁義だが、御屋敷でも用いるかな。恐ろしく、陰気な部屋で、お由羅屋敷開かずの部屋って、昔、ここで、首吊が――」

「南玉っ」

「てな、話がありそうな」

「喋ってはいけねえ。困った爺だな。すぐ、次が、お部屋だよ」

 小藤次が顔をしかめた時、衣擦れの音が近づいて、ちがった方の襖が開いた。一部屋隔てて、女の七八人坐っているのが見えた。

「にょご、にょご、にょごの、女護ヶ島」

 襖を開けた侍女は、開けると一緒に、南玉が、妙なことを云ったので、俯向いて、肩で笑った。そして、赤い顔をして、小さく

「こちらまで――」

 小藤次が、立って、お由羅の居間の次の間へ入って、襖際へ坐った。深雪は、小腰をかがめて、敷居際へ、平伏した。南玉も、その横へ、同じように平伏した。侍女が、小藤次に

「お近くへ」

 と、云うと、小藤次が

「では、御免を蒙って――」

 兄妹であったが、主と、家来とでもあった。小藤次は、お由羅の下座一間程のところへ坐って

「この間の――」

「よい娘じゃのう、あれは?」

 と、お由羅は、南玉を見た。

「身許引受の、医者でね」

「お医師?」

 お由羅と、侍女とが、南玉の方を見ると同時に、南玉は、頭を上げた。そして

「ええ、お有難い仕合せで――」

 と、平伏した。二三人の侍女が、くっくっと笑った。

「南玉」

 と、小藤次が、睨んだ。

「結構な御住居で、又、今日は、大層もない、よいお日和でござりまする」

 南玉は、こう云って、又、頭を下げた。女達は、口へ袖を当てた。お由羅も、笑っていた。


「南玉――退ってよい。誰方か、玄関まで案内してやってくれぬか」

 小藤次が、こういった時、南玉は、頭を上げて一膝すすめた。そして、扇を斜に膝の上へ立てて

「さて――つらつらと、思い考えて見まするに――」

 侍女達が、袖を、口へ当てて、苦しそうに、俯向いてしまった。

「春枝、案内を」

 小藤次が、怒った眼をして、近くの侍女へ、こういうと、お由羅は、煙管を延して、小藤次の言葉を止めた。南玉は、平然として

「これに控えおりますせつの姪儀、いやはや奇妙不可思議の御縁により、計らずも、今般、岡田小藤次利武殿の御見出しにあずかり奉り――」

「南玉――いや、良庵さん、もう、よく娘のことは話してあるから――」

「ところでげす」

「判ってるったら――」

 深雪が、南玉の袖を引いた。南玉は、小藤次も、深雪も、気にかけずに

「この岡田様が、この姪の、お綺麗なところに、ぞっこん惚れ奉って、えへへ――まずこういう工合でござります、下世話に申します、首ったけ」

 扇を、顎の下へ当てて、頸を延した。小藤次が

「南玉っ」

 と、叫んだ。侍女の二三人が、笑声を立てた。

「それで」

 と、お由羅が笑いながらいった。

「ええ、御有難い仕合せで」

 南玉は、一つ御叩頭をして、扇で膝を、ぽんと叩いた。

あんずるに諺に曰く、遠くて近きは男女の仲、近くて遠いは、嫁舅よめしゅうとの仲、遠くて遠いが唐、天竺、近うて近いが、目、鼻、口」

 南玉が真面目な顔をして、大声に、妙なことをいい出したので、部屋の中は、忍び笑いでいっぱいになった。二三人の侍女は、脇腹を押えて苦しがった。

「南玉っ、ここを何処だと思ってやがるんだ。いい気になって――」

 と、小藤次が、赤くなると、お由羅が

「藤次っ」

 と、叱った。

「だって――」

「いいではないか。綺麗なら、惚れるのが当前でないか」

「いよう、出来ました。東西東西、ここもと大出来」

 南玉が、扇を拡げて、右手で差上げた。

「然しでげす。そこに、道有り、作法有り、不義は御家の法度はっととやら、万一そういうことがしったい致しました時には、憚りながら、ぽんぽんながら、この良庵が捨ておきませぬ。のんのんずいずい乗込んで、日頃鍛えし匙加減、一服盛るに手間、暇取らぬ。和漢蘭法、三徳具備、高徳無双のせつがついていやすから、そういう過ちの無いように、隅から、隅まで、ずいとおたのみ申し上げ奉ります」

 南玉は、真面目な顔をして平伏した。

「ようわかった。御苦労であったのう」

 お由羅が、こういうと、侍女の一人が、立上って、南玉の側へ来て

「御案内仕ります」

「いや、大きに――それでは、深雪」

 二人は、二人だけがわかる眼配せをした。南玉は、立上った。そして

「へっ、へっへ。猫、鳶に、河童の屁でげすかな。岡田さん、いろいろと、いや、何うも、御世話に。御礼は、何れ後程。では、皆様、さようなら――」

 南玉は、左右へ、御叩頭をして出て行った。小藤次は苦り切っていた。


 南玉が、お由羅邸からの引出物の風呂敷包を持って、黄昏時の露路を入ると、自分の家の門口に、一人の男が、しゃがんでいた。

誰方どなた様でげす?」

「師匠」

 男が、立上った。

「庄吉か。何うしたい」

「まあ、入ってから話そう」

 南玉は、狭い、長屋の横から、勝手口へ廻って、両隣りへ挨拶した。そして、戸を開けて、庄吉を入れて、庭の雨戸を繰り開けていると

「のう、師匠。深雪さん、御奉公に上ったって云うじゃあねえか」

「うん」

「お前、あの娘を、小藤次の餌にするつもりかい?」

 南玉は、答えないで、戸を開けてしまった。

「未だ、灯を入れるにゃ早いし、こうして開けておくと、油が二文がたちがうて」

 懐中から油紙の煙草入を出して、庄吉の前へ坐った。

「近頃、富士春との噂が、ちらちら、ちらついてるぜ。気をつけねえと、弟子がへっちゃあ――こういうと何んだが、お前の手も、癒ったというものの、未だ、すっかり元にゃあ、なりきるめえし――困りゃしないか?」

「心得ちゃいるよ」

「気にさわったら、御免よ。おいら、悪気でいうんじゃあねえから」

「師匠の気持は、よく判るよ。だが、師匠に俺の気持ゃ判らねえらしいの」

「いや、深雪さんから、それも、薄々聞いてはいる。いろいろと、骨を折ってくれたそうだが――そりゃあ、お前の気性でねえと、他人にゃあ出来ねえことだ」

「と、其処までは、判っているが――それから先きだ」

「ふむ――一番、考えてみよう。それから先き、先き、先き、先きと」

 南玉は、尤もらしく、腕組をした。

「いろはにほへとの五つ目か」

「ええ? いろはの五つ目?」

 庄吉は、指を繰って

「ほ」

「れ」

「及ばねえ色事だよ。師匠、そいつあ十分承知だ。だから、女房にもとうの、妾にしようの――いや、手を握ることさえ、おいらあ、諦めているよ。立派に、ちゃんと、駈引無しに、諦めちゃあいるよ。だがのう、俺の、この気持を判って欲しいと思うんだ。それも、俺あ、憐んでもらいたかあねえ。惚れた男を憐むって裏にゃあ、師匠、軽蔑がいゃあがるからのう。俺、男としてさ、軽蔑されたかあねえや。ただ、判って欲しいのは、男が惚れた時、その女に、何んなに男らしいか? 俺あ、命を捨ててもいいよ――この間から、富士春と、これで度々の喧嘩だ。あいつあ、深雪さんを、小藤次に取持って、礼をもらった上に、俺の気持をめちゃめちゃにしようとしているが、あいつとしては、無理はねえ。貧乏ぐらしだからのう」

「尤もな、のろけだ」

「本気で聞いてくれ、師匠」

「本気だとも」

「それで、今日、実は深雪さんに逢って、何か一役、命がけのことをいいつけて貰おうと、こう思って来ると、近所の噂じゃ、小藤次の野郎が来てさ、てっきり、この間からの奉公話だろう。折角の命がけが、ぺしゃんこだあ」

「命懸け? 戯談じょうだんいうねえ。食えんからの屋敷奉公をする女に命がけの、何んのって」

 と、南玉が笑った顔を、庄吉は睨みつけるように眺めた。


「師匠」

「おいおい、睨むなよ。俺あ、臆病だからのう」

「師匠は、俺の商売を知っていなさるのう」

「うむ、着切ちゃっきりだ」

「三下か、ちょっとした顔かも、知っていなさるのう」

「うむ、橋場の留より上だって、聞いているよ」

「じゃあ、師匠、もう一問答だ」

「さあ来い。いざ来い。問答なら、桃牛舎南玉、十八番の芸だ」

 南玉は、両手の指をひろげて、膝の上へ、掌を立てた。

「上方での出来事が、俺の仲間で、幾日かかると耳に入るか、知ってるかい」

「そこまでは調べておらんな。和、漢、蘭の書物にも、巾着切の早耳話ってのは、書いてないよ。これが本当に、わかんらん」

「びっくりしなさんな、五日で来るんだよ」

「はあ――五日でね」

「早い脚の奴は、日に三十五里、何んでもねえ。京を早立ちして、その夜の内に、鈴鹿を越えら。すると、亀山にゃあ、ちゃんと、仲間がいる。急用だっ、それっと、こいつが桑名まで一日。桑名へ来ると、仲間がまたいる」

「成る程」

「こうしなけりゃ、金目のものの処分がつかねえ。すられて、あっという間に、品物は、十里先で取引してらあ」

「ふふん、俺の講釈みたいに、少し与太が入ってるんじゃねえか」

「仙波の大旦那は斬死なすったよ」

「ええ?」

「上方の伸間へたのんでおいたら、さっき知らせて来たんだ。比叡山って山の上へ、牧って悪い奴を追っつめて、伏兵にかかったんだ」

「ふむ、伏兵にゃあ、東照宮だって敵わねえからのう」

「小太郎って、俺の手を折った若いのは、谷間へころがって、生死不明だ」

 南玉は、返事をしなかった。

「まだあるんだ。大阪の蔵屋敷へ行った奥方と、そら、深雪さんの姉さん、何んとかいった――そら、何手、そら、何んとかの手」

「手は赤丹のつかみと来たが――」

 と、南玉は、顔をあげて

「本当だの、その話は」

「俺の譃をつかんことは――」

「わかった」

「それから、益満さんが、調所って野郎の後を追って、江戸へ下って来なさるそうだ――」

「今の、七瀬と、綱手は、そして、何うしたんだい」

「それは、蔵屋敷にいるんだ」

「調所は、江戸下りか」

「うむ。それで、益満さんは、この調所を途中で討つつもりらしいんだ」

「そうだろう」

 庄吉は、強く、低く

「隠さずに、師匠、打明けてくれねえか。俺の気性は、町内でお前が一番よく知っていてくれる筈だ。ええ――仙波さんも、益満さんも、お由羅の一味を討ちてえんだろう。どうだ――師匠」

 南玉は、じっと、庄吉の顔を見て、黙っていた。

「俺、いわねえったら、首がちぎれても喋らねえよ。お前さん、深雪さんを、一物あって、奉公させたんだろう。仙波の娘を、お由羅邸へ。あの、小藤次の手に任して――え、師匠、だから、俺あ、その深雪さんに、そんなあぶないことをしずに、一手柄立てさせて上げてえんだ――わかるかい、師匠」


「俺あ、ちいっとばかし、水臭いと思うよ。巾着切の仲間にゃあ、こんな、かくし立てはねえ。返事がなけりゃ、無いでも、いいんだ。俺あ、こうと思ったことを、やってみるまでだ。お前が、よく、寄席でいうのう、虎と見て、石に矢の立つためしあり――人間の一心って通じるもんだよ――又、来らあ、あばよ」

 庄吉が、立上った。

「そうかい」

 南玉は、そう口先きで、いっただけであった。

(斬死した? 庄吉のいうのは、本当らしい。だが、庄吉に打明けて、いいか、悪いか。益満から固く口止めされているのに――)

 と、南玉が、乱れかかる心を、じっと、両腕で押えた時

「こんちは」

 富士春の声であった。

「いらっしゃる?」

 庄吉は、真暗な上り口で

「お春か」

 と、いった。

「そうだろうと思ったよ」

 怒りと、恨みとを含んだ、静かな――だが、気味悪い声であった。

「お師匠さんかい。今、灯をつけるよ。庄さんと、話に夢中になって――」

 と、いいながら、南玉は燧石を叩いて、附木を燃した。一家中が、ほのかに明るくなった。庄吉は、上り口で突立っていた――富士春は、狭い土間から、庄吉を睨みつけていた。そして、行燈あんどんの光が家の中へ充ちると共に、素早く、家の中を見廻した。深雪はいなかった。

「さあ――庄さん、もう一度、お坐り。師匠、ささ、ずっと、これへ」

「はい」

 富士春は、上ろうともしないで

「一体、何うするんだい」

 低い声で、鋭く庄吉に云った。

「うめえ魚が、手つかずであるんだ。御馳走しよう」

 南玉は、戸棚から、大きい皿を出して、畳の上へ置いた。

「返事をしないのかい」

 富士春が、下から、又、庄吉を咎めた。庄吉は

「帰って話そう」

 と、土間へ降りかけた。

「ここでいいよ。帰ると、うるさいよ。お上り。南玉さんにも、妾ゃ、聞いてもらうよ」

「聞くぞ、聞くぞ。わさびがくぞ」

 南玉は、刺身のわさびを、なめてみた。

「大丈夫に利く。さあ、こっちい来て、食べながら、一喧嘩。へへん、出来立ては、喧嘩のあとで環が鳴りって、とかく、痴話喧嘩と申すものは、仲がよいと、始まりやす。仲人を、あの茶瓶がと、寝て話し、桃牛舎南玉が一つ、この茶瓶になりやしょう。どうぞ、こちらへ」

「御邪魔させて頂きます」

 富士春は、上りながら、突立っている庄吉の袖を捉まえて、引張った。

「何しやがるんでえ」

 庄吉が振り切るはずみ、袖口が裂けた。

「おやっ、大層、手荒いのね。そうだろうよ、新情人しんいろの前じゃあ、威勢のいいところを見せたくなるもんだからね」

 富士春は、これだけ、静かに云うと

「口惜しいっ」

 と、叫んで、庄吉の左手へ、かじりついた。

「手荒いことをしちゃいけねえ」

 と、南玉が、立上った。


「痛えっ、畜生っ」

 庄吉は、手を振り切って、女の肩を蹴った。

「蹴ったな、おのれ――ようも、人を、足にかけたな」

 南玉は、行燈の灯を吹き消した。そして、大声に

「ぽんと蹴りゃ、にゃんと泣く」

 と、部屋いっぱいの声で叫んで、二人に、近づいて

「人気に障る、師匠、長屋の餓鬼共に見つかったら、うるさい」

 と、小声でいった。そして、庄吉の袖を引張って、耳許で

「あっちへ」

 庄吉も、富士春も、真暗な中での喧嘩は張合が無かった。

「とんだ迷惑で」

 庄吉は、こう南玉に云って、奥の方へ足さぐりに行った。

 南玉は戸口へ出て

「ええ、おやかましゅう、只今のは、南玉、講釈の稽古」

 近所へそんな声をかけておいて、戸を閉めてしまった。富士春は、上り口の間へ立ったまま、剥げた壁へ顔を当てて、泣いていた。

「深雪は、師匠、とっくに、御奉公に上っちまったんだよ。見当ちがいの焼餅だわな。庄公は、少し人並とちがってるんだから――堪忍かんにんしておやりよ。さ、泣かずに、こっちいお出でよ――よう、師匠」

 南玉は、立って来て、白粉と、髪油の匂を嗅ぎながら、富士春の肩へ手をかけた。そして

「庄公、その辺に、石があるが――」

「俺、燧石はまだ打てねえよ」

「これは御無礼、これはしくじり――」

 富士春が、帯の間から、燧石を出して

「ここに――」

 と、手探りに南玉へ渡した。南玉が、石を打つと、庄吉は、座敷の真中に突っ立っていた。富士春の顔の白粉は汚れていた。南玉は、石を打って、火を出しながら

「一つとや、か、人の知らない苦労して」

 と、節をつけて、一足一足、石を打ちながら、行燈のところへ行って

「なあ、それぞれ、人にゃあ苦労ってものがあるものだ。俺も、今日は、お由羅邸で、一苦労して来たところだ。自分だけ苦労していると思っちゃあいけねえ」

 と、云いつつ、行燈に灯を入れて、小声で庄吉に

「こっちい呼んでおやりよ」

「うむ」

「やさしく一言かけてやりゃ、女なんて化物は――」

「何うせ、化物でござんすよ」

「ほい、聞えたか?――庄公、そんな堪忍ぐらい出来んで、大仕事の手伝いが出来るかい」

「そうか。判った」

 庄吉は、元気よく

「お春、こっちへ入らしてもらえ」

 南玉が、又立って行って

「ここで、もう一拗ひとすね、拗ねるって手もあるが、そいつあ、差しの場合での。他人がいちゃ、素直にここへ来て、仲よく食べて、戻って、寝て、それから、ちくりちくりと、妬くのが奥の手だて。さあ、こっちい来たり」

 富士春は、南玉に、手を取られて、奥の間へ入って来た。

「やれ――化物を二疋退治した。さあ、生のいい刺身だ。庄公は不自由だろうから、春さん、食べさしてやんな。さあ、庄公、あーんと、口を開きな。何も、恥かしがることはねえ。こういう風に――」

 南玉は、大きな口を開けて、刺身を、自分の口へ投げ込んだ。

「おお、うめえうめえ、頬ぺたが、落ちらあ」



忍泣き

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 取締りの老女中が、奥向きの部屋部屋――内玄関、勝手、納戸、茶の間、寝室、御居間、書院、湯殿、かわやというようなところを、案内してくれた。上の厠だけでも三ヶ所、下の厠だけでも五ヶ所あった。

 それから、屋敷の中の心得を、口早に喋って聞かせた。古参の者には言葉を返してはならぬし、命令に反くこともならぬとか、夜中の厠行は、幾時までとか、湯は新参者が一番に入って、古参の肩を流して、自分は御仕舞いに出るのだとか、化粧部屋は一番御仕舞いに入って、皆の掃除をして出て来るとか――細かいことが、無数にあった。

 それから、作法を見ると云って、四、五人の老女が坐って、茶を運ばせた。そして、茶碗の捧げようが、高いとか、低いとか、摺り足で歩いても、そんなに畳の音をさせてはいけないとか、眼のつけどころが――脣の結びようが――深雪は、自分さえ正しければ、自分の学んだ礼法は、武家作法だし――少しも、間違っていないと、思っていたが、老女達は、そういうことを問題にしていなかった。

 彼女達は、古参ということを誇り、自分の下らぬ知識を見せびらかし、それから、自分達の独り身で老い朽ちて行く憤りを、美しく、若い女に向けて、それをいじめることを楽しみとしていた。

 素直な、世間知らずの深雪に、そんな気持は判る筈が無かった。眼七分目に捧げたら、低すぎると叱られ、八分目にすると、高すぎると罵られ、その夜の湯殿で、肩を流しようが悪いと、湯を、肩からぶっかけられた時、明日にも、暇をとって戻ろうかとさえ思った。そして、冷たい、固い、臭のある蒲団をきて、じめじめした部屋で、泣きあかした。

 鶏が鳴いて、夜が明け切らぬ頃から、耳を立て、拍子木の廻るのを聞いていた。そして、侍女を起す木が響くと共に起き出た。老女は、雑用婦のする務である廊下の雑巾がけを深雪に命じ、それが済むと、厠の掃除までさせた。

 だが、そうして、いじめられている深雪の痛々しさ、雑用女の仕事までさせる老女中の横暴を見ると、若い女の中には、深雪へ同情する者が出来てきた。深雪が、部屋の隅で、小さくなっていると、側へ来て、小声で

「暫く、辛抱なさいませ」

 と、慰めてくれた。それは、当の無い、漠然とした、頼りない言葉であったが、深雪にとっては、この上ない力になった。

 食事時には、一番あとから食べかけて、一番早く終らなければならなかったし、午後の暇な時には、古参が、笑い話をしていても、その人々の着物をつくろったり、鏡を拭いたりしなければならなかった。深雪は

(いつになったら、お由羅へ近づいたり、秘密のところへ近寄ったり出来るかしら)

 と、思った。だが、そう思いながら、鏡台を掃除していると

「今夜から又、奥の御祈祷が始まります」

 と、いっている声が聞えた。

(祈祷――調伏)

 深雪の身体中が熱く燃えた。

(今夜から)

 深雪は、案内された時に見たお由羅の居間を考えた。

(あの中で――)

 拭く手を止めて、祈祷の場へ、忍び込んで行く自分を想像した。

「何を、ぼんやりと、この新参っ子は――」

 と、背後で、老女中の声がした。

「はいっ、御用は――」

 と、深雪は、膝を向けて、手をついた。


 夕餐を終って、お膳を勝手元へ出していると、一人の雑用婦が

「一寸、こちらへ」

 と、納戸の方へ導いた。深雪が、おずおずとついて行くと

「お越しなされました」

 と、襖を開けて、深雪を押込むようにした。深雪が、一足入ると、すぐ小藤次の顔が、近々と笑っていて、手を握られた。深雪は、左手で、襖をもって、力任せに後方へ引こうとしたが、小藤次の力に負けた。

「閉めて――早く」

 小藤次は、立ったままで笑っている雑用婦を、叱りつけた。

「約束でないか、深雪」

「いいえ、いいえ――」

 深雪は、右手を握られて、左肩を抱きすくめられて、小藤次の胸のところで、髪を乱すまい、顔を、肌を触れまいと、身体を反らしていた。

 小藤次は、今朝結立ての御守殿髷の舞台香の匂、京白粉のなまめいて匂う襟頸、薄紅に染まった耳朶に、血を熱くしながら、深雪を抱きしめようとした。

「なりません」

 深雪は、脣を曲げて、眉をひそめて、小藤次の胸を左手で押した。

「声を立てると、見つかるぜ。見つかったら最後、不義は御家の法度ってやつだ。俺は、救かるが、お前は、軽くて遠島、重いと、切腹って――こいつは、痛いぜ、腹を切るんだからなあ」

 耳許で、笑いながら、こう云いつつ、脚を押しつけて来た。深雪は、腰を引いて

「御無体なっ」

 小太郎から教えられた護身術、柔道の一手で、草隠れの当身――軽く、拳でどんと脇腹を突くと同時に、右手を力任せに上へ引いて、小藤次の手を振り切った。

「て、てっ――おっ痛、た」

 顔中をゆがめて、両手で腹を押えた小藤次の前を飛び退いて、深雪は壁を背に、簪を抜いて身構えた。

「ひ、ひでえ事を、しやがったな。ああ、痛え」

 小藤次は、真赤な顔をして、怒り眼で、深雪を睨んだ。そして、痛そうに、脇腹を押えて、身体をかがめていたが、だんだん俯向いて、苦しそうに丸くしゃがんでしまった。深雪は

(少し、手強てごわすぎたかしら――本気に、腹を立てたなら、今夜の祈祷場を覗くことも、水の泡になるかもしれぬ。何うしたなら?)

 と、思った。それで、やさしく

「こんなところで、欺し討のように――そんな卑怯なことなさらずとも、もっと機がござりましょう。約束約束と――妾よりも、小藤次様が、約束をお守りなされずに――」

 と、眼で睨みながら、言葉は柔かにいった。

「俺は、俺は、たたたた、物を云っても痛いや、何も、たたたた」

「今夜、遅くに、お居間の廊下へ忍んでござりませ」

 小藤次は、くちゃくちゃの顔に、微笑んで

「本当かい」

「ええ」

 深雪は、こう云うと共に、眩暈めまいしたような気持になった。自分の言葉で、自分を泥の中へ、蹂躙ふみにじったように感じた。涙が出てきた。自分の身体も、心も無くなって、ただ、悲しさだけのような気がした。

(操を捨てなくてはならぬかもしれぬ。その代り、調伏の証拠を握って――)

「こ、今夜、こく前に――」

 小藤次は、よろめいて立上りながら

「広縁で」

 深雪は、頷いた。

「たたた、痛えよ、深雪、えらいことを知ってるのう。ああ痛え」

 小藤次は、少し笑った顔を見せたが、未だ脇腹を押えていた。


「忍ぶ、恋路の、か――さて、果敢はかなさよ、とくらあ」

 小藤次は、口の中で、唄いながら、植込みの中から、広縁の方へ、足音を忍ばせて、入り込んで来た。

真暗、くらくら

くろ装束で

忍び込んだる恋の闇

 と、手を延して、広縁の板へ触れたとき、背後から

「何用でござる」

 小藤次は、冷たいもので、身体中を逆撫でされたように感じた。柄へ、手をかけたが、膝も、拳もふるえていた。

「誰だ」

 振向いて、身構えると

「御祈祷場、警固の者でござる」

 誰ともわからぬ、黒い影は、そう、役目にいったまま、小藤次の前に突立っていた。小藤次は、安心すると同時に

(初めっから、俺を見張ってやがったな)

 と、思うと、柴折戸しおりどのところから、四辺をうかがって、おどおどとした姿で、忍び込んだ自分の滑稽さを想い浮べて、腹が立ってきた。

「そうかい。えらい、厳しいんだね」

 冷笑したように、こういうと

「何?」

「えらい、厳しいってんだよ」

「出ろっ。ここを、何んと心得ておる。お部屋様、近親の者と思えばこそ、咎め立ても致ざずにおれば、えらい、厳しいとは、何事でござる。それが、御部屋様の兄上の言葉か?」

 低いが、鋭く、叱りつけた。

誰奴どいつだろう? えらそうに――)

 と思ったが

(上女中の、うるさいのにでも云いつけられたら――)

 と――だが、そう叱られて、黙って引込むのも、器量の悪い話であった――。

(もう、すぐに、深雪が、出て来るのに)

 と、思うと、それも心配になって来た。

「そりゃ、存じてはいるが――」

「存じて居て、何故、禁を犯された」

「禁?」

「禁を御存じないか」

「禁って、何事でござる」

「奥へ、男子入るべからずの禁じゃ」

「ああ、その禁か」

「出られい」

 と、いうと同時に、肩を掴んで、柴折戸の方へ捻じ向けられた。

(何んて力だろう)

 小藤次は、その力に、気圧されて、一足歩いた。

「二度と、踏み入ると、許しませぬぞ」

 小藤次は、ゆっくり、歩きながら

(深雪は、何うしたかしら――何うするだろう。うっかり、こんな時に、出て来て見咎められたら――深雪の、見咎められるのはいいが、もし、俺と、逢引するために、などと白状でもしやがったなら、お由羅め、何んといって怒るかもしれぬし――身の破滅って、奴だな)

 小藤次は

「忍ぶ恋路の、さて果敢なさよ、か。果敢なさすぎらあ、畜生っ」

 寂寞な闇の中に、微かに祈祷場からの鈴の音が、洩れて来た。風が梢を渡って、葉ずれの音がした。

「は、はっくしょっ」

 小藤次が、くしゃみをすると同時に

「静かにせんか」

 と、さっきの侍の声が、後方でした。

「へいへい、出物、はれ物ってことがあらあ。済みません、ってんだ。あっ、はっくしょいっ」

 と、いった時、遥かに、広縁で、とんとん板を叩く、微かな音がした。


 小藤次は、佇んで振向いた。深雪の合図であった。

まずいところへ、出て来ゃあがって――)

 と、一寸腹が立ったが、すぐ

(見つかったら、大変だ)

 と、思った。そして、自分の後方をけて来ている侍が、何うするか?

(もし、誰かが深雪を見つけて、馳せつけるようなら、もう一度、忍んで行って、何んとか、助けてやらずばなるまいが――)

 小藤次は、闇で見えぬ広縁の方へ、深雪の姿を、何うかして、探し出そうとするように、眉をひそめて、首を延して見た。そして

忍ぶ恋路の――

 と、小声で唄うと

「何故、行かぬ」

 すぐ、側に、黒い影が立っていた。

執拗しつこい野郎だな、こん畜生あ)

 小藤次は、腹が立った。

「御苦労様」

 云い終らぬうちに、肩を、どんと突かれてよろめいた。

「何、何するんでえ」

 とんとんと、深雪が、廊下の板を叩いた音が、又聞えた。

「奥の風儀を乱して――貴公は、誰の兄に当る? 取締るべき上の者が、何んの体じゃ」

媾曳あいびきじゃあねえや」

「では、何用じゃ」

「聞いてみな」

「何? 誰に?」

聞いてみたかや、あの声を

のぞいてみたかや、編笠を――

 と、云った刹那、くるりと、小藤次の身体が廻転すると、後方から帯を掴まれた。そして、一押し、押されると、前へのめるように、足が、もつれて、動き出した。

「ちょっ、一人で歩くよ。放してくれ、危いったら――」

 と、云った時、

「深雪」

 と、いう声がした。老女、梅野の声であった。

(いけねえ、とんでもねえ奴に、見つかっちまった)

 小藤次は、深雪の処置を心配するよりも、一度の睦言むつごとも交えずに、別れなくてはならなくなった自分の恋に、悲しい失望と、怒りとが起って来た。

「一寸、放してくれ」

 侍は、黙って、ぐんぐん小藤次を押し立てた。小藤次は、つるし亀のように、手を振って、小走りに走らされながら

「一寸――頼む――後生だから――」

 小藤次は、突き当りそうに近づく立木に、首をすくめたり、顔へ当りそうになる木の枝を、手で押しのけたり、庭の下草を踏んづけたり、石と石との間へ、躓いたりしながら、強い力に押されて、人形のように、もがきながら、半分、走らされていた。

「危いったら」

 小藤次は、木の枝へ髷を引っかけて、怒り声を出した。侍は、片手で、枝を折った。小枝が、小藤次の髷へぶら下った。小藤次は、それを取ろうと、両手を頭へやりながら

「ねえ、後生だから――」

 と、いった時、柴折戸の辺へ来たらしく、ほのかに、明りが射してきた。

(誰奴だろう)

 と、振向くと、それは、牧仲太郎警固のために、国許からついて来た侍の中の一人、山内という剣道の名手であった。

(強い筈だ)

 と、思った。そして

(木の枝を、頭へぶら下げちゃあ歩けねえや。こん畜生め)

 力を入れて引くと、髪の根が痛かった。山内は、木戸から、小藤次を突き出して

「二度と入ると、棄ておかんぞ」

 と、睨みつけた。


「深雪かえ」

 深雪は、闇の中で、絶壁から、墜落して行くように感じた。

「何をしておじゃるえ」

 蛇が、身体中を、締めつけて来るような声に感じた。

「はい」

 深雪は、廊下へ、手をついてしまった。

「ついて来や」

「はい」

 梅野は、板戸の中へ入ってしまった。深雪は

(何う云って、云い抜けたらいいのか?――云いぬけられるか?――もし、云い抜けられなかったら、何うなるのか?――お由羅の調伏を見届けもせずに、小藤次風情と、不義の汚名をきて、罪にされたら――)

 と、思うと

(小藤次のような人間でも、人を欺した罰かしら)

 と、思えた。

 六畳の部屋は、行燈に、ほのかに照し出されていた。

(今時分まで、何うして、この老女だけが起きているのか? 祈祷の係ともちがうのに)

 梅野は、上座へ坐って、静かに

「何しに、今時、庭へおじゃった?」

 深雪が、顔を上げると、拝領物を飾る棚、重豪公の手らしい、横文字を書いた色紙、金紋の手箪笥、琴などが、綺麗にならんでいた。そして、その前で、梅野は、紙張りの手焙てあぶりへ、手をかざしていた。

「はい、不調法仕りました。以後心得まするから、お見のがし下さりませ」

 深雪は、手をついた。

「さあ、訳を話せば、その訳によって、見逃さんでもない――訳は?」

 深雪は、何ういっていいか、わからなかった。

「返事は?」

「はい」

「涼みに出る時節でもないし、はばかりを取りちがえるそなたでもないし、まさか、男と忍び合うような大外だいそれた小娘でもあるまいし、のう――深雪」

 深雪は、真赤になって、俯向いた。

(赤くなっては、悟られる)

 と、思ったが、少しも、心に咎めない、小藤次との間のことであるのに、顔が赤くなってしまった。

「とんとんと、叩いていたのは?」

 深雪は、身動きも出来なかった。

「合図かえ」

 深雪は首を振った。

「合図でなければ、何んじゃ」

「はい」

「慣れぬことゆえ、初めのうちは、誰しもいろいろと失策はある。万事、それは、妾の胸一存に納めておくから――正直なところを申してみや。偽りを申して、後に露見するよりも――申せぬか?――飽くまで、白状せぬとあれば、せめ折檻せっかんしても、口を割らすぞえ」

「はい」

 深雪は、いつの間にか蒼白になって、涙ぐんでいた。

「申し難かろうの――それでは、妾から、何うして縁側へ出たか、申して見ようか――これ、面を挙げて――」

 梅野は、恐怖におののいている深雪の眼を、気味悪い微笑で眺めて

「小藤次と、忍び合ったのであろう」

 深雪は、首垂れた。

「何うじゃ。ちがいあるまいがな」

「いいえ」

 細い声であった。


「そうあろうな――そうあろうとも」

 梅野は、こう云って煙管をとった。

「ここへおじゃ」

「はい」

「ここへ、おじゃと、申しますに」

 深雪は、悄然しょうぜんと立上って、梅野の近くへ坐った。

「一寸、手を貸してみや」

「はい」

 深雪が、右手を延した。

「ふっくらと、可愛らしい指じゃのう」

 梅野は、左手で、手首を握って、右手で、指を拡げて、人差指と、中指との間へ、煙管を挟んだ。

「この手で、男の首を抱いたのかえ」

 梅野は、右手で、深雪の指の先を、じりっと、握りしめた。

「あいつつ」

 深雪が、その痛さに思わず引こうとする手を、左で引きとめて

「この指で、男の――」

 梅野は、みだらなことをいって、力任せに、指をしめつけた。深雪は、左手を、梅野の手へかけながら

「御免下さりませ」

 と、痛さに、身体をまげた。

「よいことをした後は――」

 深雪は、脣をかんで、身体をねじ曲げて、苦痛をこらえていた。

「いつから、一緒になったえ」

 こういうと、梅野は、少し、力をゆるめた。

「いいえ、そんな――」

 深雪が、微かにいうと

「強い娘じゃのう」

 梅野が、もう一度、掌へ力を入れたとき、廊下に、衣ずれの音がしてきた。梅野は、煙管をとって

「動いてはならぬぞえ」

 と、いって、立上った時

「未だ、臥せらぬのかえ」

 足音と、衣ずれとが、部屋の前で、止まった。

「はい、お勤めの終りますまで」

 と、梅野は、口早に答えて、周章てて、障子へ手をかけた。と同時に、外からも、一人の侍女が、開けようとした。そして、障子が、さっと、開くと、お由羅が、白綸子の着物を着て、立っていた。梅野は、廊下へ出て、手早く障子を閉めようとすると

「誰じゃ」

 お由羅は、深雪へ眼をやって、梅野に聞いた。

「新参者の深雪でござります」

「深雪」

「はい」

 深雪は、お由羅に、泣顔を見せまいと、俯向いたままで、お由羅の方へ、向き直って手をついた。

「早う、部屋へ引取って、休みや」

 深雪は、やさしい、お由羅の言葉を聞くと共に、胸の中の厚いものが砕けて、その下から涙が湧き上ってきた。黙って、首垂れてしまった。

「許してやんなされ」

 お由羅は、梅野にこういった。

「それが――」

「新参者に、不調法は、ままあることじゃ」

 お由羅は、こう云いすてて歩み出しながら

「深雪、よく、上の人の申しつけを聞いて、叱られぬようにな」

 深雪は、袖へ顔を当てて、お由羅を刺そうとして入込んだ気持などを、少しも感ぜずに、そのやさしさに、泣いていた。梅野が

「今夜は赦しますが、余のことではないから、よく憶えていや」

 と、云った。


 深雪が、部屋へ戻って来ると、灯は消していたが、未だ、眠らない、大勢の朋輩達は、低い声で、いつものように、小姓の噂をしたり、役者買いの話をしたりして、忍び笑いをしていた。

「本当に、よく似ていますぞえ」

「誰に?」

「成駒屋に――」

「おお、嬉しい――あっ、痛い――同じ、つねるなら、裏梅の形に、抓って下さんせいな、あれっ――」

 深雪は、手さぐりに、自分の床へ入ろうとした。

「誰?――今夜は、このまま、眠れぬぞえ。どうでも、梅園さん」

 一人の肥った侍女は、すぐ隣りのおとなしい梅園の手を引っ張った。一人が

「それよりも、あの新参者は?」

「そうそう、あの器量好しを、いじめましょうわいな」

 深雪は、そういう会話に、耳を背向そむけて、明日の自分、あの老女梅野の言葉、お由羅のやさしさ、それを刺せという命令、父、兄、母――そうしたことを、毀れた鏡に写してみているように、途切れ途切れに、ちらちら考えていた。そのうちに自分の名が出たので、それに、注意すると

「深雪さん」

 と、間近くで、暗い中で、誰かが呼んでいた。そして、他の人々は、深雪が、真赤になって、憤りたくなるような、自分に関した猥らな話をして、きゃっきゃっ笑っていた。

 昼間の、つつましく、美しい女姿が、こうした闇に見えなくなると、その女達を包んでいた、押えていた醜悪なものだけが、露骨すぎて現れてきた。深雪は、寝間着の裾を結んで、蒲団を押えて、もし、手でも出したなら、容赦すまいと、呼吸をこらしていた。

 想像していた、礼儀の正しい、奥生活の昼は、想像以上に――苛酷なくらいに、厳粛であったが、侍女部屋の夜は、又、深雪の想像以上に乱れていた――と、いうよりも、深雪には考えられない愛欲の世界であった。

「深雪さん」

 と、近々と、声がした時、廊下の外で

「未だやすまぬか」

 老女の声であった。女達は、一斉に、ちぢんで、押し黙った。

「夜中に大声を立てて。お上は、お眠りじゃぞえ。騒々しい」

 うち、一人の女が、深雪の近くで

「悪魔退散、婆退散」

 と、囁いて、近くの二三人を笑わせた。暫くすると、ことこと、草履の音が去って、夜番が、庭を廻って来た。

「明日の勤めが辛い。皆さん、お先きに」

 と、誰かがいった。そして、そのまま静かになった。暫くすると、歯ぎしりが聞えたり、小さい鼾が聞えたりしかけた。

 深雪は、眠れなかった。何んだか、胸苦しく、頭の心が、少し痛むようで、額を押えると熱があった。そして、隣りの女の寝返りや、夜鳴き鶏の声が、はっきりと聞えているかと思うと、何かに、はっとして眼を開けた。

(今、少し眠ったのかしら)

 と、思った。そして、又、歯ぎしりを暫く聞いていたが、又、うとうととした。指の痛みだけが、いつまでも、眠りの中に残っていた。


 深雪は、灰色の中に、ただ一人で立っていた。

 ふっと、気がつくと、その前の方に、一人の老武士が歩いていた。

(お父さまだ)

 と、思った。そして、呼ぼうとしたが、どうしても、声が出なかった。八郎太は、幻のように、影のように、それから、すぐ、遠ざかってしまいそうに歩いているので、深雪は悲しくなって、駈け出そうとした。だが、どうしてか、駈けても、駈けても、父との距離が同じで――そうしている内にも、父が、灰色の中へ消えてしまいそうな気がするので

(飛びかかったら)

 と、決心すると――出し抜けに、父の顔が、前に大きく、苦い顔をしていた。

「まあ、お父さま」

 と、いうと、それは、江戸の邸の中であった。深雪は

(お母様も、きっといらっしゃる。嬉しい)

 と、思って襖の方を見ると――急に、胸が苦しくなったので、父の顔へ救いを求めるように振向くと、八郎太の眉の上に、血が滴っていて、深雪の心臓も、身体も、頭も、凍えさした。

「誰か、来て下さい。お父様が、御疵おけがなさいました」

 と、叫んだが、誰も出て来なかった。深雪は、腹を立てて、だが、自分の袖をちぎって、疵へ手当しようとしたが、いつの間にか、袖がなくなってしまって、寝間着一枚であった。

(そうだ。ここは御殿の侍女こしもと部屋だ――だって、そんなところに、お父様がいなさることはない)

 と、思うと、一面の草原になって、父は、頭から、肩から、血塗ちまみれになっていた。深雪は、父に縋りついて、斬られるものなら一緒に、殺されるなら一緒に、と、手を突き出して、父へ縋ろうとしたが、足が、何うしても動かなかった。

 全身が、縛られているように、締めつけられているように――悲しみに、心が裂けそうになったので、兄を呼ぼうとしたが、すぐ、近くに小太郎が、いそうな気がするのに、声も出ないし、小太郎も現れなかった。

(お父様が、斬られていなさる)

 と、狂う頭の中で絶叫した。八郎太は、ふらふらと、血塗れのまま、灰色の中に、漂っていた。深雪は、その父の手にでも、着物にでも、縋りたいような気が、全身に充ちて来ると同時に

「お父様っ」

 と、叫んだ。

 はっとして、気がつくと、かたい蒲団の手ざわり、用心のために結んだ裾、隣りの朋輩の寝息――。

(夢だった)

 と、思ったが、何かしら、不慮のことが、父に起っているようで、すっかり、眼が冴えてしまった。真暗な部屋の中で、時刻も、何も判らなかった。ただ、夢にみた、父の眼の怨めしい表情だけが、眼の底に灼きついていて

(もしかしたら――)

 と、深雪の胸を、冷たいもので、締めつけた。

(夢は、逆夢さかゆめというから――)

 と、思ったが、本当に、父が、斬られて死んでいるようにも、感じられた。

(そんな事のありませんように)

 深雪は、蒲団の中で、一心に念じた。合掌している右手の指が痛かった。

(お由羅様は、やさしい人だのに――あのやさしい人を刺す――妾には、出来ない――でも、しなければ、お父さんに申訳が無いし、――一体、何うしたなら――)

 深雪は、もう一度合掌した。



二人の主

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 斉彬の坐っている膝の前にも、その横にも、いろいろの型の、洋式銃が、転がっていた。斉彬は、分厚な反古紙綴りの、美濃版型の帳へ、何か書いていたが、暫く、それを書き続けてから

「お揃いだの」

 と、いって、三人へ、振向いて、微笑した。名越は、村野、成瀬と共に、声が懸らぬので、平伏していたが、その声に、頭を上げた。

「お手を止めまして、申訳ござりませぬ。止むなき儀につきまして、言上致したく、幸い、国許より、この両名、有志一同に代って見えましたにより、参上致しましたるところ、拝謁仰せつけられ、忝なく存じ奉ります」

 と、名越が、型の挨拶をした。斉彬は、そう、名越が挨拶をしている間、朱筆で、何かを、帳へ書き入れていたが、名越が、いい終ると

「上方の模様は、何うだの」

 と、三人の方へ、膝を向けて、筆を置いて笑った。

「はっ、調所殿を、初めまして――」

「いいや、そのことではない。京師では、勤王、倒幕の説が、盛んだと、申すではないか」

「よりより聞いておりますが――」

「何んと思うな?」

「浪人共の、不逞ふていの業と、心得まする」

「そうかのう」

 名越が

「寛之助様、御逝去のみぎり――」

 と、いい出すと同時に、斉彬は膝の前の銃を取上げて

「これが、村野、エンピールじゃ」

「はっ、エンピール銃」

「うん――今までのエンピールは、先籠めであったが、今度のは、改良して、元籠めになった。弾も、前には、円弾だったが、尖り弾になった。こうして、覗いてみい」

 斉彬は、自分に近い銃をとって、銃口を眼に当てた。

「筒の中に、きりきり巻いた溝があろうがな。それも、改良されてからついたが、わしは腔線と訳した。つまり、弾丸が、滑り出よいように、且又、狙いの狂わんようと、そういうすじをつけたものじゃ。よく考えてあるな。これが、スナイドル――」

 斉彬は、成瀬の方へ、スナイドル銃を、げるように、押し転がした。

「これが、スペンセス――この紙に、書いてある」

 筒先に、紙切が結びつけてあって、ローマ字で、ツンナールとか、シャスポーとか、ゲーベルとか、いろいろな銃の名が、書いてあった。

「のう、左源太、寛之助まで、四人もつづいて死ぬと、どうも、何んとなく、重苦しい気がして、余り嬉しくないものだのう」

 斉彬は、一梃の銃の台尻を肩へ当てて、窓外の樹をねらいながら、独り言のようにいった。

「その儀につきまして――」

 名越が、銃を置いて、斉彬を見ると、斉彬は

「関ヶ原で、島津の後殿しっぱらいは、見事であったと申すが、あの時にも銃砲が足りなかった。この間、それを調べたが、当家の異国方軍制――武田流の軍法――によると、文禄までは、千人として士分の騎馬五十人、徒歩かち五十人、弓足軽三十人、槍足軽三百人、鉄砲足軽七十人、残りが小者、輸卒だが、主力は槍であった」

 名越は、困った。又博学な講釈が始まった、と、思った。だが

「左様でござりましょうか」

 と、答える外になかった。成瀬と、村野の二人は、銃を、膝の上へのせて、斉彬をじっと凝視めていた。


 斉彬は、机の上の帳を、時々見ながら

「それが、朝鮮で、戦って戻ると、銃の効能が判ったのだのう。旗十八本、五十四人。槍、弓、鉄砲、各々百五十人。合せて前奇隊五百四人に組えておる。関ヶ原の時、伊達家は三千人の同勢中、千二百人まで鉄砲を持たしていたし、それが、大阪の陣になると、仙台名代の騎銃隊が現れてきた。これが、イギリスのホブソンの、騎兵要妙という本じゃが、これからの戦には、銃の精鋭なものと、馬のいいのとが無くてはならぬ。壱岐いきが来よったから、軽輩に、馬の稽古させて、騎銃隊を作るのだと申したら、軽輩が大勢馬上で、拙者らが徒歩で、もし出逢った時には、一々下馬して通りますか、それとも乗打ちしますか、たださえ、上を軽んじる風が現れた折、考えものだ、と、申しおったが、何うじゃ。あはははは」

「然し、その大勢が、一時に、馬上で銃を放ちましたなら、馬が驚きましょう。敵を崩す前に、却って味方が――」

「よしよし、判った」

 斉彬は、笑って、手で押えた。

「何か、子供につける、よい名はないか。又、ほらんだらしいぞ。死ぬと、すぐ代りが出来るで、案じることはない。あはははは」

「然しながら――」

「今度は、双生児ふたごに致そうかの」

 三人とも、斉彬の前では、手も足も出なかった。何をいっても、斉彬の方が、遥かに上であった。それは、主君としてでなく、人間として段がちがっていた。そして、斉彬は、なかなか、何用か、と自分からいい出さないで、ちゃんと、その用を自分が先廻りに云って、それからいろいろの知識、故事を語って、ようよう伺候者しこうしゃが、彼等の語ろうとして来た用件をいうと、斉彬は一言で、その諾否を決した。そして、それで、用が終ると、きっと斉彬は、机に向った。人々は、退出の外になかった。それを心得ていたから、名越は、固唾かたずを飲みながら

「寛之助様、御死去につきまして、いろいろ、取沙汰もあり、家中の所置方にも、偏頗へんぱの傾あり、国許より、この人々――」

 名越は、大奉書に書き並べてある人々の署名を、つつましく、斉彬の方へ、押し出した。斉彬は、手にとらないで、じっと眺めて、頷いた。

「江戸におきまして、吾々同志」

 名越は、斉彬の眼に従って、連名を見ながら

「合せて、五十余人――この外、御目見得以下の軽輩に、頼もしきもの幾十人もおりまする」

「志はよう判る――村野、成瀬――もっと、前へ出るがよい。然し、今の時世が、家中に党を立てて、私事、私怨を争う――」

「恐れながら、私事では――」

「斉彬も、寛之助も、当家にとっては私事にすぎぬ。島津は愚か、徳川も、或いは日本の国も、危急存亡のときに立っているのが、只今の時世だ。久光に命じて、吉野ヶ原に於て、青銅製口装くちごめ五十斤の滑腔砲を発射させたのは、未だ二三年前で、当時、天下はこの新武器に驚愕したものじゃ。ところが、舶来船の砲を見ると、鋼鉄製百二十斤、元装の連発砲さえ出来ておる。よいか、こと軍事のみでさえ、この隔りがある。暦数、医薬、財政、哲理、一として学ばざるを得ない外国が、ひしひしと、日本を取巻いて、戦ってか、外交でか、交易をしようとしている。香港の阿片戦争の結末を聞いて居ろう。戦えば、あれじゃ。戦わねば――二三要路者と、わしとの外、悉く攘夷――父も、攘夷、家老等も攘夷。日本のために、島津家のために、わしは、この声だけと戦っておる。その外に争うものは、何もない筈じゃ。もし、お前達も攘夷党なら、早速退るがよい。わしは今、日本を、双肩に負うたつもりである。私情を顧みる暇がない」

 斉彬の、和かな眼に引きかえ、舌端には灼けつくような熱があった。


「久光にも、お前達、何か不満があるらしいが、それもいかん。あれには、立派に、一国の主たるべき器量がある。わしの亡くなった後、誰が継ぐかと申せば、久光の外にない――」

「いえ、若君が――」

「それはよいとして、その若の後見は誰がする?」

「はっ」

「まさか、ただ今申した家老の愚かしいのにも任せておけまい。したなら、久光の外にあるまい。今、私の考えていることを実行さして、天下を安きにおくのには、名越、わしと、久光と二代がかりの仕事じゃ。そして、わしと、久光とより外、余人にできぬことじゃ。そして、わしと、久光とだけが、それを知っている」

 斉彬は、ここまでいって、急に、言葉の調子を変えた。

「ところがの――打明け話をすると、わしは、未だ部屋住同様の上に、父上の受けも、調所の受けも、家老共の受けも、よろしゅうない。受けの悪いくらいは、まあよいとしても、金が出ん。これは困る。ところが、久光が、一々わしの意を継いでくれて、わしがこうしたいというと、よろしいと引受けては、金を引出してくれる。わしは、このくらいいい兄弟は無いと思うている。磯ヶ浜の鋳製所も、久光が調所にねだってくれたので、出来たのだしのう――」

 斉彬は、笑いながら

「船を作ろうとして、シリンドルと、シャフトを鋳造したいと申したら、久光が、由羅の臍繰へそくりから、捲上げて来てくれた。大名の子供は、何処でも仲のよくないものじゃが、わしら二人は、軽輩の家でも見られぬ睦まじさじゃと、いつも、二人で話しとるが――名越、よう考えてみい、わしと、久光が仲がよいから、まだわしの命も、仕事も、大丈夫なのだぞ。お前達、妙なことをして、二人の間を疎外したなら、それこそ、何うなろうかもしれぬ。この連判の者は、硬直、精忠の人ばかりだが、一徹者揃いだから、十分、気をつけてのう――村野、戻って、一同に、わしの、今まで申したことを、よく伝えてくれ」

「はっ」

「皆の用事は、それまでであろう」

「一つ、お願いがござります」

「うむ」

「加治木玄白斎殿より、殿の御肌着を頂戴して参れと――」

「祈祷でも致すか」

「さあ――」

「それもよろしかろう。次にて待て、持たせてやろう」

 斉彬は、机の方へ向き直った。

「御暇頂戴仕ります」

 三人は、頭を下げて、膝で歩きながら、襖際まで退った。そして、一礼して、次の間へ出て、待っていた。斉彬は、何か書きながら、鈴の紐を引いた。出て来た近習に

「奥へ参って、わしの肌襦袢をもらって参れ」

 と、命じた。そして、小姓が持って来ると、自分で着更えて、今まで肌についていたのを携えながら、襖を開けて

「村野――少々汗臭いぞ」

 と、三人の前へ抛げ出した。村野は、押頂いた。斉彬は、戻って、すぐ机の前で、何か書き始めた。三人は、同志の前で、斉彬のえらさを、何う説明したらいいかを考えながら、薄暗い廊下を退って来た。

「わしらとは、眼のつけどころが、ちがうのう」

「ただ、頭が下るだけでござりまするな。天下の主たるべき方は、この君を置いて外にあるまい」

「そう。志ある者は、悉くそう考えている。京師でちらちら聞いた。この君を擁立して、幕府を倒そうという考えも――成る程――世間からも、そう見えるかのう」

 三人は、家中の陰謀の企てなど、すっかり忘れて、明るい気持で、退って来た。


 斉興は、土へ紙を貼って蒔絵した、小さい手焙に手をかざし、脚は、友禅羽二重の蒲団を被せた炬燵こたつへ入れて、寝そべっていた。

 お由羅は、紫綸子の被布を着たまま、その向い側へ膝を入れて、斉興の腓を揉んでいた。斉興の前には、用人と、将曹とが、帳面と、算盤とを置いて坐っていた。

「その五十両は、こいつが、芝居へ行った勘定じゃ」

 斉興は、首を延して

「のう」

 と、由羅を見た。

芝翫しかんの時に、妾が頂いて参りました」

 用人が、二人の顔を、交る交る見てから、小さい声で

「その通り、書きましても、よろしゅうございましょうか」

「いかん、いかん。そんなことを書いたら、調所め、何う申すか、判らん」

 将曹が、首を振った。そして

「五十両は、ちと、多すぎまするな」

 と、由羅へ、微笑した。斉興が

「こいつは、芝翫に惚れとおる。娘時分からの肩入れで、わしの眼元が、芝翫に似とおるからと申して、それで、やっと、屋敷奉公を承知したくらいじゃ」

「初めて、承わります。なかなか、芝翫は、よい役者だそうでござりまするな」

 用人が、真面目な顔で、世辞を云った。

「然し、もう、皺くちゃで――あ痛っ、毛をむしる奴があるか――何も、芝翫を、皺くちゃと申したのではない。わしが、くちゃくちゃだと、申すのじゃ。やれ、痛い、おお、痛い」

 斉興は、片脚を、蒲団の下から投げ出して、唾を塗った。将曹が

「お睦まじき体を拝し、臣等、恐悦至極に存じ奉ります」

「将曹も、ちょくちょく、毛をむしられるてのう」

「上を見倣みならわざる臣はござりませぬ」

「何を申す、この馬鹿。家中一同毛が無くなっては、蛸の足みたいでないか」

 お由羅が、ぷっと吹出して、炬燵の上へ打つ伏した。

「戯談は、さて置き――帳尻を合せましたなら、ちと、密談を――」

 斉興が、頷いて、用人に

「その五十両、小藤次へ貸付としておけ。よいであろうが、由羅」

「はい」

「では、退れ」

 用人は、算盤と、帳面とを持って、退って行った。

「齢をとると、寝ても痛む、起きても痛む」

 と、呟きつつ、大儀そうに斉興は坐り直した。

「うるさい奴等が、騒ぎよるか」

「はい、江戸よりも、国許の手合が、立騒いでおります。第一に、加治木玄白斎が、牧の修法を妨げております。それに、力を添えて居ります者に、島津壱岐、赤山靱負、山田一郎右衛門、高崎五郎右衛門――以下は、軽輩でござりますが――」

「よし、近々、わしは、国へ参るが――考えておこう。それだけか」

「未だ、大変なことが――」

 将曹は、眼を光らせた。お由羅が、ちらっと、将曹を見た。そして

「赤山様まで?」

「よって、油断がなりませぬ」

 赤山靱負は、一門の中でも、名代の人であった。


「いつか、調伏の人形を、床下より掘り出して持参致しました、仙波なる者――」

「うむ」

「父子にて、牧の調伏所へ斬込みました由、いよいよ不敵なる振舞――」

「成る程のう、そんな事まで、致すようになったか?」

「尋常の手段では――いつ何時、御部屋様などへも、危害を加えるか計られませぬ」

 斉興は頷いた。

「それに、国許より度々の密使が、斉彬公の許へ参っております」

「そうあろう」

「国許では、久光公がござるゆえ、かようのことも起る。根元は、久光公ゆえ、この君を討取れなどと、悪逆無双の説をなす徒輩やからも、ござります」

「久光を?」

 と、お由羅が、いった。

「罪も、とがも無い久光を――」

 お由羅は、憎悪のこもった声と、眼とであった。

「申しようの無い不敵の奴等で、余程、厳しく致しませぬと、懲りぬと、心得まする」

「そうじゃ。わしの、帰国も、迫っておるし、調べて、厳重に罰してみよう」

 斉興は、蒲団の上へ顎を乗せて、背を丸くしながら

「久光は、そうした話を存じておるのか」

「手前は、話し申しませぬが――」

「いわん方がええ。あれに知れると、いろいろと、うるさいので――」

「本当に、何うして、あの子は、あんなに、斉彬びいきなのか――」

 と、お由羅がいった時

「久光様、御渡りでござりまする」

 襖の外で、声がした。

「金子をもって行っては、斉彬に渡すらしいが――」

「斉彬様が、上手に、久光様を――」

 と、将曹がいった時

「御免」

 と、久光の声がした。そして、襖が、開くと、いつものように、ずかずかと入って来た。

 斉彬の好みと同じ姿で、紬の着流しに、木綿の足袋、粗末な鉄鍔の脇差だけであった。将曹が、座を滑って、頭を下げたが、ちらっと見たまま、挨拶もしないで、斉興の側へ坐った。そして、すぐ

「又、密談か、将曹。貴公、密談が、すきだのう」

 と、浴せた。将曹は

「いえ、今日は――」

「隠すな。近侍も、侍女もおらんでないか。正直に申せ」

 と、口早にいって、すぐ、斉興に

「調所が、近々参りましょうが、二千両下されますよう」

 斉興は、蒲団の上へ丸くなったまま、黙っていた。

「紡績機械を作ります」

「紡績と――申しますと」

「将曹には、判らん――母上、御祈祷について、いろいろ噂がござります。おやめになった方が、よろしゅうござりましょう、愚にもつかん迷い事を――」

 三人は、黙っていた。

「いろいろ噂はあるが、私は、何も聞かぬ事にしております。将曹も、聞かさぬようにして貰いたい。時々は、兄上へ伺候して講義を聞くがよい。為になるぞ。兄は、方今ほうこん、天下第一の人物じゃで、少し見倣うがよい。わしは一々、兄の真似をしておる」

 三人は、未だ、黙っていた。

「世間も、乱れて参りましたが、当家も乱れて参りましたな、母上」

「そうかえ」

「父上が、近頃、少し、愚に返っておられる。のう、父上」

「何を申す」

 斉興は、苦笑して

「何か、急用でもあるのか」

「ござります」

「又、お金かえ」

「母上、支那の楊貴妃を御存じでしょうが――たとえますと、父上は、玄宗皇帝――」

 将曹が、おどけ調子で

「天にあって比翼の鳥、地にあっては連理の枝」

「暫く、黙っておれ」

 久光は、将曹を睨みつけた。

「初めの政治は、よろしゅうござったが、楊貴妃を得て、だんだん悪政になりましたな。な、父上」

「わしが、それで玄宗か」

「左様、十年前の父上は、寝るにも、木綿蒲団でござりましたな」

「それは、久光、手許不如意であったからじゃ。今の身分で、これなんぞ、決して奢りではないぞ」

「いや、物よりも、お心持が――島津家は、代々世子が二十歳になれば、家督を譲る筈でござりますが、兄上は、四十を越しましてござりましょう。而も、将軍家から、父上は御茶入を拝領して、隠居せよと、謎をかけられていなさるのに、未だ、頑張って――近頃、いろいろの噂の大半は、ここにも原因がござります」

「それはのう、久光、斉彬は、蓄財よりも、蓄財を使う奴じゃ。そして、天下は、今、蓄財の使い時じゃで、わしと、調所が、せっせとめて、お前等兄弟に、使わせてやりたいのじゃ。隠居をしても、祖父様のように、する事はせい、と、お前なら、申すであろうが、それは、よく判っとる。然し、斉彬の近側の徒輩には、血気の、軽輩が多い。奴等は、よく、その熱と、誠とで、天下の仕事をするではあろうが――斉彬も、させるであろうが――地味な、蓄財の才能は無い。だから、今、わしが隠居すると、わしの育てた理財家と、斉彬の愛しておる急進派とが、きっと又、いがみ合うにきまっておる。わしも、調所も、これを憂えている。何も、わしが、頑張って――斉彬が憎うて、家督を譲らんのではない。もう少し、斉彬が、理財を、わしに見倣ってくれたらと、申すのじゃ」

 久光は

(父は、まだ、老いない)

 と、思った。だが

「御言葉は、よう判りますが――又、例えば、仙波を、即日、邸払いにしたり――」

「仙波を――いつかの、人形の奴か」

 と、将曹に聞いた。

「はい」

「存じておるか、即日の邸払いなど」

「さあ、一向に――」

 と、いう将曹へ、久光は、鋭い眼を与えて

「存じておる、存じておらぬに拘らず、貴殿の落度ではないか――父上よりも、側役共が老いぼれているのかな。少し、兄上近側の、若手と取更えられては? 父上」

 久光は、いつになく、鋭かった。三人とも、その気魄と、自分達の、後ろめたさとで、黙っていた。お由羅は、久光に、こういわれながら

(だんだん利口になってくる)

 と、じっと、微笑して、久光の顔を、眺めていた。



片手斬り

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「チャン、スチャチャン、チャン、スチャチャン。おひゃりこ、ひゃりこで、チャン、スチャチャン」

 庄吉は、大声で、怒鳴って、部屋から、廊下へ出た。泊り客は、宵の内であったし、庄吉の、枯れた芸に、微笑をもって、同じように、廊下へ出て、庄吉の踊を迎えた。

 庄吉は、眼の周囲を、墨で黒く塗って、脣を、紅で大きくし、頬と、額へも、白粉で、筆太に彩っていた。

 酌婦と、宿の女中とが、半分、酔いながら、興の乗ったままに、三味線と、太鼓と、鼓とで、けたたましく声立てて、囃し立てて、庄吉について出た。

「お盛んで――」

 番頭が、金離れのいい庄吉へ、揉手もみでをして御叩頭した。

「番頭も入った。テレツクテン。御鼻が、御獅子で、テレツクテン」

「どうも、恐れ入ります」

 番頭は、自分の鼻を押えた。客が、くつくつ笑った。庄吉は、懐から、紙入を出して

「帳場へ、あずかっといとくれ」

「確かに――只今、お印をもって参ります」

 番頭は、こう云って、一人の女中へ

「奥に、薩摩っ坊がいるで、余り、近寄らんように――煩いから」

 と、囁いた。庄吉は、手を振り、足を上げて

チャカ、スチャラカ、ステテンテン

お馬は、栗毛で、金の鞍

さっても、見事な

若衆振り

紫手綱に、伊達奴

鳥毛のお槍で

ほーいの、ほい

チャカ、スチャラカ、スッチャンチャン

栗毛の、お馬に、米つんで

さっても、見事な

与作どん

縄の手綱に、半襦袢

小万の手を引き

はーいの、はい

 庄吉は、女達を従えて、二階から、下へ降りて来た。勝手元の女中も、店の間の女も、向う側の人々も、その騒がしさと、踊と、唄とに集まって来た。

「余り、奥へいらっしゃらんようにの」

「判ってらあ――へん。奥にゃ、天神、寝てござる。中にも、天神寝てござる。奥の天神のいうことにゃあ――」

 庄吉は、畳廊下を、よろよろしながら、女達と少し離れて、一人奥の方へ、進んで行った。女共は、番頭に止められて、階段の下で一塊になって

「もう、お帰りな」

 と、叫んだ。

「煩いっ、どこまで参る」

 襖が開くと、一人の士が、庄吉を、睨みつけて、怒鳴った。番頭が、すぐ、走って来た。庄吉は、廊下へ手をついて

「命ばかりは――おたおた」

 と、御叩頭してしまった。部屋の中には、まだ数人の侍がいた。番頭が

「さ、あちらで、旦那、もう、一踊、ここは、貸切りでござりますゆえ」

「おた、おた、おた、逢うたその夜は、しっぽりと、のう、番公」

 庄吉は、いきなり、番頭の首をかかえて、頬をなめた。


 調所笑左衛門は、年一度の江戸下りのために、五人の供人を連れて、駿府まで来た。二十何年のあいだ、幾十度いくじゅうたびか往来した街道で、すっかり、慣れてはいたが、もう齢が齢とて、或いは、今度の、江戸行が、この街道筋の見納めになるかも知れぬ、と思うていた。

(もし、自分が、急死でもしたなら?」

 調所は、島津家の財源を豊かにした密貿易みつがいの責任を、自分一個で負うため、その総ての関係書類を、何時も、手早く、処分はしていた。が、それでも、処分できぬ、最近の分だけは、自分の懐に秘めていた。

(江戸へ着いて、早く、この書類を始末して――)

 と、床の間の、手函の中に仕舞った書類入の方へ眼をやって、湯上りの身体を、横にしていると、酔漢を、たしなめている供人の声がした。

(面白そうに騒いでおるが――わしには、一日も、ああいう日は無かった。斉興公も、近頃は、政務を疎んぜられてきたが、御無理もない。わしも、しんから、疲れたと思う。然し、斉興公が御怠慢なら、わしは、その分も、自分でしなければならぬ――ただ、時世が、違って来たのか? 人間が変ったのか? ここ十年の内に、ひどく仕事がし難うなった。斉彬公のなさることは、半分はわかる。いい仕事にはちがいない。然し、その仕事にかかる金子の作り方を御存じない。いつだか、いい仕事は、金子を産む、と仰しゃったが――それは一理だが――すでに、重豪公がいい仕事をなすって、金子を産まなかったためしがある)

 調所は、斉彬の、明敏に敬服していたが、一藩の主としては、久光の大過なき点の方がいいと、信じていた。そして、久光擁立に賛成した。

「只今は、何うも、大変、お騒がせ致しまして申訳もござりませぬ」

 宿の番頭が、襖から、謝りに来た。

「よいよい、気に致すな」

「有難う存じまする」

 調所は、番頭が立去ると、いつも思い出すように、二十年前、同じ宿で、呼んでも、女中さえ来なかった貧しい旅を思い出した。

(江戸と、京と、大阪の御金蔵には、百万両ずつの金がある。日本中と戦っても、二三年は支えられる。斉彬公は、近い内、異国とか、或いは、国内でか、一戦あろうと云われたが、三百万両の軍用金を積んであるのは、当家だけだ。その金子は、わしが儲けて、積んだものだ。よいところに使われても、悪いところに使われても、わしの功績は、永久に、島津家に残るであろう。それを積立てる間に、悪口も云われた、斬られようともした。然し――)

 調所は、行燈を消して、仰向きになった。

(こういうことを考えるのは、気の弱ったせいじゃ。早く眠って、早く起きて)

 調所は、肩の辺の夜具を叩いて静かに呼吸を調えた。隣室の供人も、寝入ったらしく、静かであったし、二階も、下も、勝手元も、しんとしてしまった。

(することをした。安心して死ねる。南無阿弥陀仏)

 調所は、心の底から、安心し、喜悦して、眠りについた。それでも、蒲団の中には、たしなみとして、波の平の脇差が、忍ばせてあった。


 寝ずの番が、ぽとぽと、廊下へ草履の音を立てて、廻ってしまった。

 庄吉は、静かに、頭を上げた。床から起き出した。そして、真暗な中で、手を延して、床の間の小さい旅行李を取って、脚絆を当てた。それから、草鞋を履いた。寝間着を脱いで、黒い袷に更えて、十分に帯を締めた。

 それから、行李と、枕とに浴衣を着せて、蒲団の中へ押し込んだ。人が一人寝ているくらいのかさになった。

 襖の、敷居へ、枕許の水差の水を流して、一分ずつ、二分ずつ――それは、大事をとる庄吉の用心からであった。一度に、一寸も、二寸も開けて、もし、音がしたなら、それは、自分の身の破滅でもあり、又深雪への恋心、深雪へ一手柄を立てさせ、自分の男の意地を貫こうとすることに対して、何んな破綻を来すかも知れない、と思う用意からであった。だが、心の中では

(泥棒様は、初開業だ。うまく行きゃあ、お慰み――じれってえが、ここが辛抱のしどころだ――ならぬ辛抱、するが辛抱――)

 指で計ると、五寸余り開いていた。

(南玉が、いつか、高座で云ったっけ――何んとかの、頭陀ずだ袋、破れたら縫え、破れたら縫え――ってんだ)

 一尺余り開いた隙から、身体を横にして、廊下へ出ると、開けるのと同じような忍耐で、襖を閉めた。そして、階段はしごだんの上へ出ると

(ここが、千番に一番の兼ね合い、首尾よく、音も無く降りましょうものなら、お手拍子、御喝采、テテンテンってんだ)

 庄吉は、階段の板を踏んで、音の立つのを恐れた。

(太夫、高座まで、控えさせまあーす)

 と、口の中で、云いながら、頑丈な、手摺てすりまたがって、やもりの如く吸いついた。そして、一寸ずつ、二寸ずつ、その都度、四辺の人の気配を窺いつつ、静かに、音も無く、滑り降りて行った。

 庄吉は、暫く、階段の下へしゃがんでいたが、黒い布で頬冠りして、尻端折になった。柱行燈の灯が、遠くに、ほのぼのとしているだけで、ここから、調所の部屋までは、廊下だけであった。真暗な、闇だけであった。

 壁へ、身体をつけて、横に伝って、供部屋の様子を窺った。小さい、いびきの外に、何んの音もなかった。庄吉は、耳を澄ましつつ、静かに、供部屋の前を、這って通った。そして、板の臭、壁の臭を嗅いで、さっき、酔った振りをして、見定めておいた、調所の部屋の前まで来て、詰めていた呼吸を少しずつ吐き出した。

(やり損えば、首は提灯屋へ売って、胴は蒟蒻屋へ御奉公だ。南無天王様、観音様)

 濡れ手拭の水を、敷居へ流し込んで、じっと、内部の気配を窺っていた。咳も無く、音も無く、鼾も無かった。顔が、ほてって、心臓が、どきどきしてきた。

(庄吉、周章あわてちゃいけねえぞ)

 と、首を振って、一分ずつ、二分ずつ――呼吸が苦しくなって、大きく吐きたいのを我慢しながら、顫える手を、膝を、顫わすまいと制しつつ――五寸、六寸、それは、短い時間であったが、庄吉には、耐えきれぬくらいに、長く感じた。だが、障子は開いた。庄吉は、障子を開けたまま、廊下の外に、なお、暫く、蹲んでいた。


 調所笑左衛門は、十年の間に、島津の家の基礎を作った人であった。常人以上の才分と共に、常人以上の精力と、胆力とを持っていた。

 二十年前、重豪公から、斉興公から、藩財整理を命ぜられたその日から、朝は五時に起き、夜は十二時に寝る人であった。そして、武芸者が、微かな音にも眼を醒すように、敏感な調所の神経は、夜中にも働いていた。

 だが、庄吉は、そういう、自分達と、類のちがった人を考えてはいなかった。調所は、眠っていると信じていた。夜中には、誰も、熟睡しているものと、考えていた。そして、調所も、熟睡はしていた。然し、障子が、一尺余り開いて、肌寒い、冬の夜風が、襟元へ当ると共に、眼を醒した。そして、そのまま、気配を窺っていた。

(手函を――)

 と、思ったが、迂濶に音立てたり、騒いだりしたくはなかった。茶坊主上りの調所ではあったが、人並の腕をもっていた。供部屋を起すには、まだ早い、と思った。

 庄吉は、部屋の中に音がしないのを知ると、静かに手の先を畳へつけ、それから掌を下ろし、掌の上へ腕の重さを、その上へ、身体をと――音もなく、這い出した。きまりきった宿の部屋であったから、闇の中でも、床の間の在所ありか、そこを枕としている調所の臥床ふしどは、想像できた。

 庄吉は、手さぐりに、押入の襖をさわり、襖伝いに、上手の方から、床の間の方へ這って行った。

 調所は、蒲団の中へ持ち込んでいる、波の平の脇差を、音もなく、鯉口を切った。そして、庄吉が、一寸ずつ、二寸ずつ、這って行くのと同じように、調所も、一寸ずつ、二寸ずつ、夜具を持ち上げた。

 庄吉は、床柱へ手を触れた。そして、触れると共に、じっと、蹲んだ。そして、調所が、何んの音も立てないのを見定めて、床の間を、盲目さぐりに――左から右へ、右から左へ――指が当っても、掌に触れても、音立てないように、ゆっくりと、手を動かしかけた。

 調所は、夜具を除けて、音もなく、坐った。そして、刀を抜いて、鞘を夜具の上へ置いた。そして、耳を澄ましていたが――すぐ片膝を立てて、右手に、脇差を構えた。風が、時々、薄ら寒く入って来た。

 庄吉の手に、冷たい、すべすべしたものが、触れた。指で探ると、蒔絵をしてあるらしく、撫でて行くと、一尺四方程の――それは、確かに、手函にちがいなかった。

(しめたっ)

 庄吉は、両手を蓋へかけて、引上げたが、細工のいい函の蓋は、すぐには、持ち上らなかった。

(函ぐるみ)

 と、思ったが、目的は、書類であった。この函の中に無かったら、又、別のところを探さなくてはならぬから、左手で、下の方を押えて、右手で、蓋を開けようとした。だが、小太郎に折られて、十分に癒りきっていない手であった。蓋は、一旦浮いたが、手がすべった。ことり、と音がした。

「誰じゃ」

 調所は、静かに、咎めた。そして、波の平の脇差をとって、蒲団の上で、居所を、少し変えた。声を手頼たよりに斬りかかられても、空を斬らす、心得からであった。そして、脇差を抜いて、じっと、闇の中で、床の間の方の気配をうかがっていた。


 低い、静かな声であったが、庄吉は、見えぬ手で、一掴みにされたように感じた。じっと、呼吸を殺しているより外に、仕方が無かった。

(侍を呼びやがるかしら――)

 と、感じると、見えぬ闇に、槍が、手が、刀が、迫って来るように思えた。このまま、鼠の如く縮み上っているか、鹿の如く逃げ出すか?――だが、庄吉には、折角、手をかけた手函を捨てておくことは、男の意地として、出来なかった。

(まさか、調所の爺め、闇の中で眼が見える訳じゃあるめえし!)

 手函を持ったまま、じりじり後へ下りかけた。だが、いつ、調所が声を立てて、侍を呼ばんにも限らないと考えると、もう、じっとしておれなかった。

(この中のものさえ掴んで逃げりゃあいいんだ。中のものを――)

 調所は、そのまま、音のしないのを知ると、脇差を突き出して、じりじり床の間の方へ寄って来た。

(刺客ではないらしい、金をほしさの枕探しか――それとも、密貿易みつがいの書類を盗みに来た奴か――)

 調所には、この判断がつかなかった。ただ、曲者は一人で、まだ床の間にいるらしい、とだけしか判らなかった。

(こそ泥なら?――侍を呼び立てて、宿中を起すのは、武士として恥だ。書類を目掛けている奴なら?――然し、そんな奴は、いない筈だ――こそ泥であろう。懲らしめてやればよい、もし、大それた曲者なら、その時、声を立てても遅くはない、この宿の中を、そう早くは逃げられるものではない)

 そう考えたが、調所は、もう一度自分から声を立てて、曲者に、自分の居所を知らすのは、危いと思った。何う、反撃されるか、判らないからであった。

 庄吉は、呼吸をこらしながら、手函の蓋を、静かに引きあけた。そして、音のせぬよう蓋を懐に入れた。函の中へ手を入れると、その中には、予期していたように、ふくさ包の、書類らしいものが、入っていた。

 庄吉は、それを右手で掴み出すと共に――闇の中から、刀が首筋へ、今にも、斬り下ろされるように感じた。誰も入って来なかったが、四方から取り巻かれているように、身体が、恐怖で、縮んできた。

(糞っ、食え)

 と、はらの中で叫ぶと――今まで、自分の部屋を出た時から、音を立てぬように、出来ぬ辛抱を、気長にしてきたのが、もう、耐えられなくなってきた。

(勝手にしゃあがれ、べらぼうめ、書類さえ握りゃあ、こっちのものだ)

 と、思うと、同時に、音の立たぬよう左手で持ち上げていた手函を、床の間へ置いた。ことり、と音を立てた。

「えいっ」

 その声は、低い――だが、力のあるものだった。庄吉が、首をすくめた刹那

(しまった)

 と、肚の中で、絶叫した。右腕に、灼熱した線が当ったと感じると、腕を貫いて身体中に激痛が走った。ぼっと、音がした。血の噴出する音だった。庄吉は、ぐらっと右手へよろめいた。そして

(腕を斬り落された)

 と、感じた。自分では、指も、手首も、未だくっついているように思えたが、激痛に縮み上るような右手へ、左手を当てると、ひじから切り落されてしまっていて、生温かい血が、すぐ指の股から、流れ落ちた。

(しまった)

 と、思うと同時に

(畜生っ)

 庄吉は、眩暈のしそうな、頭を、身体を、じっと耐えて、左手で、素早く、書類を握りしめたまま斬り落されている腕を掴んだ。


 調所は、十分の手答えを感じた。腕を斬り落したのが、明瞭はっきり判っていた。安心して、然し、十分に注意しながら脇差を構えたままで、暫く、じっとしていたが――ふっと、障子の方に、人の気配がしたので、耳を立て、目をやると、微かな足音が遠のいて行った。調所は

(しまった)

 と、心の中で叫んだ。そして、その瞬間、大声で

「南郷っ」

 と、呼んだ。答えが、無かった。

「南郷」

「はっ」

「曲者が入った」

 その大声の口早の、平常の調所の声でない声と同時に、襖が開いた。

「御前」

「曲者だっ。逃げたらしいが、早く捕えい」

 供部屋の人々が、一時に、起き上った。一人が燧石を打った。閃滅する、微かな光の中に、人々が、刀を持って立っているのが判った。だが、調所の部屋までは、光が届かなかった。

 二人が、廊下へ走って出た。調所の部屋へ入ると、一人が、襖の右の方へ立った。一人が、左の方へ立って、両方から包囲しようとした。付木がついたので、行燈へ灯が入ると共に、調所が、

「床の間を見てみい。片腕が、落ちてる筈じゃ」

 と、いつもの調子で云った。南郷が、行燈を持って床の間へ近づいた。灯のとどくようになってきた床の間を、すかして見ていた調所が、首を延して

「無いか」

 と、叫んで、寝床の上へ立上った。そして、床の間へ足早によって、手函の中を覗いた。眼が光った。

「しまった」

 と、呟いた。床の間の上には、血が、おびただしく淀んでいた。そして、確かに、落ちている筈の腕が無かった。南郷は、行燈を置いて、四方を見廻していた。

「追えっ。遠くへは、行くまい。血の跡があろう。宿の者を起して、街道、抜道へ、すぐ手配りするよう」

 供の人々は、一時に、廊下へ出た。調所は、寝床の上に立ったまま、血の真黒に淀んでいる床の間を、睨みつけていた。

(あの中の書類には、密貿易の証拠となるべき物がある。もし、人の手に渡ったとして、その人に依っては、自分の破滅だけではない、島津の破滅の因になるかもしれぬ。鼠賊だと、侮ったのが不覚であった。相当心得のある忍び者であろうか?――それにしても、確かに、斬り落した片腕の無いのは?)

 宿の中が、急に騒がしくなって、番頭が、足音忙がしく入って来た。

「まことに、相済みませぬことで――入ったような形跡はござりませぬが――」

「宵に、酔って踊って来た奴があったのう、あの部屋を調べてみい」

「かしこまりました。裏道、抜道へは、よく知った者を出しましたし、御役所へも走らせましたから――」

 調所は、黙って、床の間へ歩いて行った。手函の空なのが、血の上にあった。覗き込むと、その中にも、血がたまっていた。

(破滅か)

 調所は、静かに蹲んで、眼を閉じた。

(俺は、もう、いい齢だ。いつ死んでもいい。功も成し遂げた。名も残るであろう。総てを、己一身に負いさえすれば――主家には、難題のかからぬ法もある――だが、捕まるものなら、捕まえたい――もし、宵の男なら?――あいつなら、金と、書類とを間違えたのであろう――それにしても、腕の無いのは――)

 調所は、寝床の上へ坐って、腕組しながら、自分のしてきたことを、昔から、細かく想い出してみた。


 庄吉は、自分の斬り落された右の小腕を、しっかと、左の手で掴んでいた。そして、掴まれている小腕は、又手函の書類を、しっかり、握りしめていた。

 庄吉は、右手の切口を、箱の蓋の中に入れて、血の落ちるのを防ぎながら、作っておいた裏手の逃路から出ようとした。その途端、調所の部屋の方で、大勢の足音がした。庄吉は、自分の傷を知って、長く逃げられぬと思ったから、すぐ右手の納屋の中へ入って、隅の方の薪、炭俵の積み上げた中へ、もぐり込んだ。

 傷口を縛ろうとして、左手で握っている自分の、斬り落された腕を、下へ置こうとしたが、何故か自分の手から放すのが厭なような気がした。斬り落された小腕は、愛人のような、愛児のような、自分の命のような――何にも更え難い、可愛い、そして、不憫なもののように、思えた。自分の手から放すと、自分を怨んで泣くように感じた。

(しっかり、そいつを握って、暫く、待っていろ。おいらあ、血を止めねえと、命にかかわっちまうからの)

 と、頭の中で、腕にいい聞かせて、自分の股のところへ立てかけた。そして、手拭、頬冠りの黒い布、襦袢の袖、腹巻の布と、ありったけの布で、二の腕の上を縛り、傷口を巻いた。

 頭が少しふらつくようで、額が冷たく、呼吸が、いくらか早くなっていた。

(いけねえ、このまゝ死ぬんじゃあねえかしら?)

 腕から、肩へかけて、灼け、燃えるようで、身体の底まで、疼痛とうつうが突き刺した。人々の叫び声と、走る音と、提灯とが、すぐ前で、飛びちがった。

(何うにでもなれ)

 炭俵に、身体を凭せかけて、足許へ置いておいた腕を懐へ入れた。腕はもう冷たくなって、切口からは骨が尖り出ていた。

 庄吉は、自分の命が、この腕の中に籠っているように感じた。この腕に、書類を握らせておいたら、自分が持っているよりも安心だし――

(ひょっとしたら、この腕に、足が生えて、深雪のところへ、この書類を届けてくれるかもしれんぞ)

 と、いう気さえした。斬り落されて、もう、生命の無い小腕だとは、十分に分っていたが、庄吉には、何うしても、生きていて、奇蹟を現すもののように思えた。

(こういう廻り合せだったのかなあ――最初あ小太郎に折られるし――とうとう斬られちまやあがるし――お前は、己のために、随分働いてくれたが――こうなるのも、前世の報いだろう――いや、もう巾着切をよせって、神様のお告かも知れねえ。妙な侠気おとこぎが出たり、深雪が好きになったり――)

 と、思った時、頭が、急に堅くなって、後方へ引倒されるように感じた。

(いけねえ。ここで、気を失っちゃあ、何んにもならねえ)

 庄吉は、頭を下げて、じっと耐えた。

(腕の一本や、二本――こん畜生め、何んでえ。こんなくらいで――ざまあみろ、ざまを)

 庄吉は腕を斬った調所へ、ざまあみろ、と罵ってみたが、何んだか、それは、自分へも罵っているように思えた。

(女なんかに惚れゃあがって、大事な腕を斬られて、ざまあみろ。ここで死んじめえ)

 と、頭の隅で、呟くものがあった。

(馬鹿吐かせっ。ちゃんと、小腕大明神が、書類を握ってらあ。せめてもの申訳に、この腕にこの書類で一仕事させてやらなけりゃ、この腕だって冥途へ行って、俺に合す顔がねえや)

 庄吉は、斬られた腕に、脚が生えて、よちよち歩いて行くのを空想してみた。


(こゝで死んじゃあならねえ)

 何んだか、身体が冷たくなって行くようであった。疵口だけが、万力で、締めつけられているように痛んだ。

(お天道様の出ないうちに、ここから、逃げ出さなくちゃあ――)

 男達の怒鳴る声、荒い足音は、すっかり無くなって、女中が、寝間着のままで、時々、うろついて出て来るだけになった。

(今の間だ)

 庄吉は、炭俵へ指を突っ込んで、炭の粉を、鼻の下へ、おとがいへ、なすりつけた。そして、立上ると、少し、頭がふらつくようで、一寸よろめいた。そして、暫く炭俵を掴んで突っ立っていた。斬り落された腕が、懐の中で、突っ張っているので

(寺子屋じゃあねえが、松王丸の倅は、お役に立ったぞよだ)

 と、書類を、死んだ腕から取上げて、腕を捨てて行こうと――小腕の指を披げようとしたが、書類を固く握りしめたまま、左手の指だけの力では、開かなかった。

(一心凝めて握ってやがらあ)

 と、思うと、死んだ、自分の子が、大事な宝を握りしめているようで、我子のようなその腕から、書類だけを取って、その腕を捨てて行く気にはなれなかった。

 庄吉は、少しずつ出てみた。誰も居なかった。だが、いつ、何処から、誰が、出て来るか判らなかった。見つかったら、常の庄吉で無くなっている庄吉は、それまでであった。

(手の無いのを胡麻化さなくちゃあいけねえが――)

 庄吉が、土間へ、じいっと、出た時、一人の女が、店の間から、小走りに、奥の方へ

「未だ見つからないんだってさあ。何処へ逃げやあがったのだろうねえ」

 と、云いながら、走って来た。

(ここへ逃げやがってらあ)

 庄吉は、そっと炭俵へ凭れて、だんだんとぼんやりしてくる頭の中で、呟いた。そして、女が、奥へ行ってしまうと、目を閉じた。

「庄吉」

 遠いところで、自分の名を呼ばれたので、眼を開くと

「判るか?」

(益満さんらしいが――)

 と、その声から感じた。そして、そう感じた瞬間

(助かった)

 と、思うと、声いっぱいに、泣きたいような、嬉しいのか、悲しいのか判らない気持が、起ってきた。そして

「ええ」

 と、頷きながら、自分の横に立っている黒い影に

「あっしゃあ、駄目だ」

 と、呟いた。

「今、手当をしてやる」

 益満が囁いた。

「ええ」

 益満へ、凭れかかりたかった。子供が、母親へ甘えるようにしたかった。

(こんなに、深雪を思っているんですよ。益満さん)

 と、いって、益満から背を撫でてほしかった。益満は、庄吉の二の腕の上を縛り直してから、疵口を解いて

「何を盗った?」

「何んだか――親爺の大切にしているもんでさあ」

 膏薬を貼ったらしく、斬口がひやりとした。強い臭が鼻を突いた。益満が貼ってくれたので、何んだか、効く膏薬のように感じた。

「書類か? 何うした、何処にある?」

「握ってまさあ」

「握って?」

「斬られた腕が――」

 庄吉の左手に握っている腕を、益満が、さぐり当てると共に

「えらいぞ、庄吉」

 と、低く、だが、力強い声で囁いた。

「ええ」

 と、いって、庄吉は、涙を流した。

出来でかした――見上げたぞ」

 庄吉は、微かに、すすり上げていた。



秘呪相争

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 息災、延命の護摩壇は、円形であった。中央に八葉の蓮華を模した黄白の泥で塗った火炉があり、正面を北方として、行者は、南方の礼盤上に坐るのである。

 右手には、塗香と、加持物、房花、扇、箸、三種の護摩木を置き、左手には、芥子けし、丸香、散香、薬種、名香、切花を置いてある。行者の前の壇上には、蘇油、鈴、独鈷どっこ、三鈷、五鈷、その右に、二本の杓、飯食、五穀を供え、左手には嗽口そうこう灑水しゃすいを置いてあった。

 部屋の壁には、青地に四印曼荼羅まんだらを描いた旗と、蓮華広大曼荼羅を描いたものとを掛けて、飯食を供し、はたの上方には、加治木玄白斎が、自分の血で、三股金剛杵を描き、その杵の中に、一宇頂輪の真言を書いた。玄白、自らの生命を賭した呪術である。

 和田仁十郎以下の門人達は白衣びゃくえを着て、その旛の下、壇の周囲に坐して「大威怒鳥芻渋麽儀軌だいぬちょうすうじゅうまぎき経」、「仏頂尊勝陀羅尼」、「瑜伽ゆか大教王経」、「妙吉祥平等観門大教主経」等の書巻を膝の上にもって、黙読していた。

 加治木玄白斎は、白衣をつけて、暫く、座所で瞑目してから、塗香を、三度ずつ頂いて、額と胸とへ塗りつけた。それから、右手の護摩木長さ一尺二寸、幅三指の――紫剛木、旃壇せんだん木、楓香木、菩提樹を取って、炉の中へ積上げ、その上に、小さい杓で、薫陸くんろく香、沈香、竜脳、安息香の液をそそいだ。そして、和田が、大威徳天の前にゆらめいている浄火からうつして来た火を差出したのをとって、護摩木の下へ入れた。そして、口で

毗廬遮那びるしゃな如来、北方不空成就如来、西方無量寿仏、金剛薩埵さった、十方世界諸仏、世界一切の菩薩、智火に不祥を焼き、浄瑠璃の光を放ち、諸悪鬼神を摧滅して、一切の三悪趣苦悩を除き、六道四生、皆富貴延命を獲させ給え、得させ給え」

 と、誦した。そして、少しずつ燃え上ってくる火を見て

「火相、右旋――火焔直上」

 と、叫んで、合掌した。

「火焔の相を象耳に、火焔の色を大青宝色に、火の香気を優鉢羅うばら華香に、火の音を、天鼓になさしめ給え。南無大日如来、お力をもって、金翅難羅竜を召し、火天焔魔王、七母、八執曜、各々力を合せて御幼君のために、息災、延命の象を顕現なさしめ給え」

 こういってから、もう一度、塗香を塗り、香油をそそぐと、炉の中の火は、焔々として燃え上り、紫色の煙が、天井を這い出した。

 門人達は、低く、経文を誦して、師の呪法を援け、玄白斎は、右手に、杓を、左手に、金剛しょを執って、瞑目しつつ、無我無心――自ら、日輪中に、結跏趺坐して、円光を放ち、十方の諸仏、悉く白色となって、身中に入る、という境地で入りかけた。

 焔は、青色を放って燃え上りつつ、少し左に、右に揺れながら、時として、真直ぐに立ち、香を放ちつつ、いろいろに聞える音を立てた。

 暫く、瞑目していた玄白斎は、眼を開くと共に、大音に

「焔の相は?」

 と、叫んだ。火焔は、大きく象の耳のように、ひらひらと燃え上り、消えては、同じ形に燃え上った。門人達は、誦経の声を少し大きくした。そして、一斉に、焔を見た。


 玄白斎が、秘呪を行っている次の間には、家老島津壱岐等の人々が、言葉静かに、お由羅への対策を話していた。それら、斉彬擁護派の人々は

家老     二階堂主計かずえ

町奉行、物頭 近藤隆左衛門

物頭     赤山靱負

町奉行兼物頭 山田一郎右衛門

船奉行    高崎五郎右衛門(高崎正風の父)

屋久島奉行  吉井七郎右衛門

裁許掛見習  山口及右衛門

 同     島津清太夫

兵具方目付  土持岱助たいすけ

広敷横目付  野村喜八郎

郡見廻    山内作二郎

地方検見   松元一左衛門

琉球館掛   大久保次右衛門(大久保利通の父)

広敷書役   八田喜左衛門(後の八田知紀)

郡奉行    大山角右衛門

諏訪神社宮司 井上出雲守

達で、無役、軽輩の人々は、別に玄関脇の部屋に集まっていた。

 次の間からは、玄白斎の振っている金鈴の音が、時々微かに洩れて来た。

「わしは――追つけ、斉興公が御帰国になろうから、その砌に、吉利、平、将曹、豊後などを、邸ぐるみ、大砲にてぶっ壊すのがよいとおもう――」

 近藤隆左衛門は、こう云って、懐から一通の書面を取出した。

「これは、斉彬公からのお便りじゃ。読み上げる――

将(将曹)之調(調所)より勘弁のよし、尤もに候、将は随分と心得も有之ものにて御座候にくみ候程のものにて之無様に被存候、御前(斉興公)之御都合之言に言れぬ事も有之、将之評判無拠よんどころなく請け候儀も有之候、近(近藤隆左衛門)等の如く悪み候而は、不宜よろしからず、此処はよく心得可申候――

 御大腹の君として、たとい、将曹如き奸物にもせよ、こう仰せられるのは、われら家来として、ただ、感佩かんぱいの外に無いが、事による。斉彬公が、公御自身の命を縮め、子孫を絶さんと計るこれら奸悪のものに対して、こう御存念なさっておる以上、斉彬公のお力を借りることに望みは無い。その望みが無い以上、君側の奸は、われらの手で討つ外にない。しかして、われらの手で討取る以上、われらも腹を掻っ切る代りに、彼奴等も残らず殺さねばならぬ。それには夜陰に乗じて邸ぐるみ、大砲にて砕き倒すがよい――」

 と、いった時、鈴の音が、人々の耳に、明瞭に聞え、つづいて

「火相は、これ、煽がずして自然に燃え、無烟にして、熾盛、諸障蔽うことなし」

 と、叫んだ玄白斎の声が響いた。人々は、沈黙して、次を待った。

「右旋して、日輪の魏々として照映する如く、色相金色にして、紅霓こうげい、雷閃の如し。南無、延命、息災の呪法を成就せしめ給え――香気如何」

 それは、壮烈な玄白斎の声であった。

「祈祷も成就しそうだのう」

 壱岐が、こういった時、赤山靱負が

「大砲打ち込もよいが、来春の、吉野牧場の馬追を好機として、久光公を鉄砲にて射取ったなら?――禍根は、この君が在す故だからのう」

 誰も、黙って、答えなかった。


 赤山靱負久普ひさひろは、一所持と称される家格の人であった。一所持、一所持格といえば、御一門四家につづく家柄であった。

 御一門とは、重富、加持木、垂水、今和泉の領主で、悉く、宗家の二男の人々の家であった。それに次ぐのが、この一所持で、三男以下の人々の家柄を指すのであった。靱負は、即ち、城代家老、島津和泉久風の二男で、日置郡日置郷六千五百六十四石の領主である。そして、この靱負の日置家が、筆頭で、花岡、宮の城、都の城よりは、上席の身分――この一座の中では、抜群の家柄の人であった。その靱負が

「久光を、討取ろう」

 と、云い出したのであるから、暫くは、誰も答えなかった。明らかに、禍根は、久光がいるからではあったが、この陰謀は、久光の手から起っているものではなかったし、久光は、人々の主君であった。何うあろうとも、主君へ鉄砲を向けることは、出来難いことであった。然し、靱負から見た久光は、人々の見た久光よりもっと軽かった。靱負自身としては、大してちがいのない地位の人であった。だから、英明なる斉彬のために、久光を討つことぐらいは、靱負としては、大したことでないと考えられた。

 人々の沈黙しているうちに、行事はだんだん進んで行ったらしく、読経の声が、次第に高くなり、鈴の音が烈しく響き、人々のいる部屋の中まで、薄い煙が、のろのろと、忍び込んで来た。

「鉄砲役には――わしは、高木市助がよいと思うが――」

 と、いった時、山田が

「然し――主君に当る方を、鉄砲にて――は、ちと、恐れがあると、心得ますが――」

 近藤も

「某も、左様に存じますが――」

 靱負は、二人を見て頷いた。そして

「わしもそれを考えんではないが――」

 と、いって、一座を見廻して、微笑しながら

「何うじゃ、久光を討つのは、少し、過激すぎるかの?」

 と、聞いた。人々は、黙って頷いたり

「左様に存じます」

 と、答えたりした。

「では、将曹、平、仲の徒を鏖殺おうさつするか」

「吉井、村野等の帰国を待ちまして、すぐ様、その手段てだてに取りかかりましょう」

 人々が、頷いて、賛意を表した時、玄白斎は、大声に

「是の如く、観ずる時、まさに、縛字を一切の身分に遍して、その毛孔中より甘露を放流し、十方に周遍し、以て一切衆生の身にそそがん。乞い願くば、この老体を生犠とし、その因を以て、能く、当に、種子をして漸次に滋長せしむべし。毗廬遮那如来、北方不空成就如来、西方無量寿仏、十万世界一切の諸仏、各々本尊をうつして、光焔を発し、一切罪を焚焼して、幼君の息災を垂れ給え」

 それは、人間の声でなく、人間のもっている精神力の音であった。敵にとっては物凄き極の声と聞えるし、味方が聞くと、共に、祈りたくなる声であった。人々は、俯向いて、玄白斎と同じように、合掌する気持になった。そして、膝の上で手を合したり、心の中で合したりして、黙祷した。


 火炉の中から、だんだん燃え立って行く、赤黒い焔を、じっと、眺めていた牧仲太郎は、手を膝へ置いたままであった。

 正面に、懸けてある、お由羅が、大円寺から借りてきた、金剛忿怒尊の画像へ、煙がかかるようになっても、じっとしていた。

 仲太郎の、背後に、一段低く――だが、緞子の大きい座蒲団の、華やかなのを敷いて、珠数と、金剛杵とをもって坐っているお由羅は、眼を閉じて、低く、何か口の中で誦していた。

 仲太郎は、静かに手を延して、蛇皮を取って、火の中へ投じた。ばちばちと音立てて、赤褐色の火焔が昇ったが、低く這ってすぐ無くなってしまった。仲太郎は、沈香を取って、焔の上から振りかけた。そして、じっと凝視めていたが、小さい火が、ぼっと、立っただけで、何んの匂もしなかった。仲太郎は、眼を閉じて、俯向いた。そして、指を組んだまま、暫く、身動きもしなかった。

 護摩木が、だんだん燃えつくしてきて、焔も、煙も、小さく、薄くなってきたが、仲太郎は、まだ、瞑目したままであった。

 部屋の隅に坐っていた、黒衣をつけた二人の家来が、互に眼を見合せてから、ちらっと、仲太郎を見た。それと同時に、お由羅も、珠数を、左右へ劇しく振って、眼を開いた。そして、首を一寸、曲げて、火炉の中の火の消えかかっているのと、仲太郎の姿とを眺めて、家来の方を見た。家来も、お由羅を見て、眼が合った。暫く、三人は、仲太郎を、じっと凝視めていたが

「先生」

 と、お由羅が、声をかけた。だが、仲太郎は、俯向いたままであった。お由羅も、黙っていた。

 炉の中の火は、すっかり消えて、残り火が、ほのかに明るいだけであった。部屋の中の、薄い煙は、戸惑いしたように、天井を、襖の上をうろついているだけで、画像の姿も、朧げにしか見えなくなった。

「先生――如何なされました」

 お由羅が、こういうと、仲太郎は、静かに首を上げた。そして、黙って、壇を滑り降りて、沈鬱な顔をしながら

「暫く、行を廃すと致しましょう」

「ま――何んと、なされました」

 牧は、青衣を、静かに脱いで、家来に渡しながら

「恩師の、逆修ぎゃくずがござります」

「加治木玄白の?」

「左様」

 牧は、そう答えて

「行け」

 と、二人の家来に、顎で指図した。二人の家来は、襖を開けて、次の間へ去った。煙が、二人を追うように、出て行った。牧は、壇のところへ立ったまま

「祈って、祈れぬことはござりませぬ。さりながら――」

 首を傾けて、暫く、無言であった。

「さりながら?」

 と、お由羅は、催促した。

「さりながら、ここで、某、精魂を傾けますと、恩師の命を縮めまする」

「玄白の?」

「左様」

「それで?」

 牧は、お由羅を、正面から、睨みつけるように、鋭く見下ろした。お由羅も、同じように、見上げた。

 そのお由羅の眼の中には、いつものお由羅のやさしさが消えて、女性のもっている悪魔の性質が、獣の精神と、一緒になって、光っているような感じのする凄さが、現れていた。


「憚りなく、申せば――それがし修法を行う前に、申し上げたる如く、仮令、御幼少の方とは申せ、某にとっては、天地に代え難き、御主君にござりまする。その御主君の命を縮め奉りますからは、元より一命は無き所存――さりながら、某が、お断り申せば、毒薬、刺客、何れの手でかによって、お仕遂げに相成りましょう以上、呪殺申すよりは、証拠も残り、仕損じることもあり――もし、それが、発覚する上に於ては、御家の大事、その騒乱は、恐らく御家始まって以来このかたの騒動となり、それこそ、島津の荒廃となり申しましょう」

 牧は、静かにこう云って、いくらか、険しくなくなった眼を、未だ、お由羅の正面へ向けて

「依って、某、命に代えてお引受仕りましてござります。然し――某は、兵道を以て立つ者、兵道を惜む念において、人に譲らぬのみか――好機――好機来、兵道の真価を示す時節来、何れは、お命の縮む御幼君――この大任を果せば、兵道無用の悪評の消ゆるは愚か、島津重宝の秘法として、この軍勝図は、再び世に現れましょう――某の面目は、とにかくとして、兵道家として、千載一遇の機――よって、命をかけ申しましたが――もし、ここで、恩師と、呪法を争えば、必ず、一方は、倒れまする。老いたりと雖も、玄白斎先生の気魄、霊気は、凝って、天地を圧するの概――これを破れば、老師を倒し、某とても、三年の間は持ちますまい。もし、某死し申して、余の――これから御出生の御幼君達が、余人の手にて、殺害されますならば、前申しましたる如く、御家の大事、又、兵道の絶滅、はやれば、即ち、二害あって、一利も無し――よって某、今宵より、修法を廃し、老師の霊気の散消するをまって、と――」

「よく判りました。して、その期限は?」

「霊気は、有にして無、無にして有、その消滅は、対手の精気により、場所により、齢により、微妙、精妙。ただ、ただ、老師の、肉体の力が、某の力に打ち克つか――如何。勝負はただこの一点、霊魄の強弱も、ここにかかっておりますが――散消の期は――」

 牧は、瞑目した。部屋の中は、小さい燈明の明りだけになった。牧の影が、大きく、襖に、ぼやけて揺いでいた。

「半ヶ年――」

「半ヶ年?」

「御幼君、肌つきの布に、悪血をそそいで祈りますれば、三ヶ月――」

「肌つきの?」

「左様」

「では、肌着を取りましょう」

 牧は、眼を開いて、じろっと、鋭く、お由羅を見た。お由羅は、壇上の道具を、じっと見ながら、微笑して

「丁度、その役によい者がおりまする、両三日の内に――」

 牧は、無言で、頷いて、歩み出した。襖へ手をかけて、振向くと

「御部屋、御自身の濫りの修法は、なりませぬぞ」

 と、いった。

「心得ております」

 牧は、そのまま礼もしないで、真暗な次の間へ消えた。お由羅は、気味悪い、少し悪臭のある部屋の中で、じっと坐ったまま、微笑していた。



崩るる淵

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 蛇にしめつけられているような悪夢が、小太郎の頭の中いっぱいになり、身体の四方を包んでいた。

 狂人のような眼を剥き出して、刀は、何処へ捨てたのであろう? 脇差を、尻の方に差して、口を開いて、血染めの片手で、脇腹を押え、片手で頭を押えて――切り裂かれた袴を引きずり、顔にも、着物にも、血をこびりつかせて、身体で、脚をひきずって行くように――よろめきつつ、立止まりつつ――

(水だ――水だ)

 じっと、一所を見ていた眼が、顔が、水音の方へ向いた。脚だけが、残りの力を集めて動いているだけで、手は、何処を押えているのか? 眼は、何を見ているのか、判らなかった。身体は、痛みに、燃えていたが、もう、自分の痛みなのか、人の痛みを、自分で感じているのかさえ、判らなかった。

 頭の毛が、手の血にくっついて離れなかった。その手を、人の手のように感じながら、静かに頭から放して、自分の前に、水が流れているように、震わしつつ、突き出した。そして、眉をゆがめ、肩で呼吸をしながら、小さい流れの方へ、身体を引きずった。

 蹲もうとすると、膝頭が、痛んで、曲らなかった。太腿へ、両手を当てて、少しずつ、蹲みながら、前へ転びそうになるのを支えて、暫く、そのまま眼を閉じていた。

(もう、追手に見つかって殺されてもいい。殺された方がいい。何れは、死ぬ――水を飲むと死ぬというが、死んだ方がいい)

 というようなことが、頭の中で、ちらちらした小太郎は、疵所の痛みと、深さとに、すっかり疲労してしまって、それ以外のことは、考えられなくなっていた。

(水だ、水だ)

 眼を開いて、手と、身体とを、前へ延すと、よろめいた。そして、片膝つくと、倒れてしまった。

(もう、動けない)

 暫く、そのままでいた。水の音と、風が葉末を渡るほか何も聞えないし、水の白く光っているほか、何も見えなかった。左手で、草をさぐり、水辺の近いのが判ると、草を掴んで、身体を、水の方へずらした。そして、右手で、水をすくって、掌の凹みから飲んだ。一口飲むと、つづけさまに、飲んだ。

 水は、水の味でなく、慰めと、薬と、この上ない甘い味とをもったもののように感じられた。小太郎は、水を飲み終ると、そのまま、草の中へ、顔を伏せて、身動きもしなかった。父の声のようなものが、耳の中でなく、外からでもなく、頭の中にでもなく、聞えているような、聞えないような――

(小太郎、右へ――)

 この耳で聞いたのだろうか?――父が、生きているような、殺されたような――殺されたにちがいないが、起き上って来たあの血染の姿――死んでいないのではないだろうか?――そう思うと、その辺に、父がいそうな気がして、顔を上げた。そして、見廻した。

 空には、冬の星が、冷たく、高くまたたいていた。

(動けない)

 小太郎は、自分の脚が、二本の重い、鉄棒のように感じた。自分の手は、こわれ易い土製のように思えた。

(明日の朝になれば、見つかって、殺されるであろう――それでもいい)

 小太郎は、又、水を飲んだ。水が、水の味をしていたし、冷たかった。手が、血で固くなっているのも判った。


 小太郎は、人の頭を、子供がいじるように、自分の頭の疵を掌でたたいて、指でいじってみた。疵口は、血でかたまっていた。

(そう深くはない)

 と、感じた。それから、手を這わせて、灼けつくように感じる身体の疵所へ、指を当てた。腕の疵は、口を開いていて、指が切口へくっついた。脇腹の疵は、疵よりも、そこから流れ出た血で、着物の肌へこびりついている方が大きかった。

(深手はないらしい)

 と、思った。と同時に

(死んではならない)

 然し、そう感じて、動こうとすると、身体は、鉛のように重かった。

(牧に捕えられては?)

 そう思うと、ここで、死んだ方が、立派な最期のように思えた。小太郎は、左手で、腰をさぐった。刀の鞘も無くなっていた。手を廻すと、脇差があった。

(腹は切れる)

 小太郎は、一尺二寸しかない脇差が、世の中で、一番頼もしい友達のように思えた。そして、脇差を力に、起き上ろうとした。一時に、身体も、手も、脚も痛んだ。

(これしきに――)

 半分、身体を起して、片手に脇差を、片手を地に、支えながら、起き上って、足を投げ出した。

(ここは、京だ。十三里西へ行くと、母も、妹もいる。逢いたいが――)

 涙も出ないし、悲しくもなかった。

(然し、逢えぬ。言伝ことづてを――)

 と、思った時、小さい灯が、ちらちらした。

(家がある)

 小太郎が、そう思った時、灯が、左右に揺れた。

(提灯だ)

 小太郎は、呆然としていた眼を光らせた。

(追手の奴等?)

 そう感じた時、人声がした。小太郎は、立とうとした。腰も、脚も動かないし、立っても、逃げも、働けもしなかった。

(何うせ、死ぬのだ。捕えられては、隼人の名折れになる)

 小太郎は、顫える手で、脇差を握った。指も、掌も、固く凝っていた。提灯と、人声とが、だんだん近くなって来た。それは、足早く来るらしく、ぐんぐん近づいて来た。

(見事に斬らぬと――)

 と、思うと、何も考えることが無くなって、ただ腹を、見事に切ることだけが、望みのように感じた。

 小太郎は、脇差を抜いて、袴を切り取った。そして、刃へ巻きつけて、左手で、着物を押しあけた。しっかりと、帯を、袴を締めて来たので、弱っている力では、十分にひらかなかった。

(早くしないと――)

 小太郎は、両手で、着物を拡げてから、坐り直そうとしたが、うまく坐れなかった。

(何うにでも切ればよい)

 小太郎は、片足を曲げて坐ったように――片足を、横へ投げ出して、左手を草の中へつきながら、脇差を腹へ当てた。そして、間近に高い声が聞えると同時に、突き込んだ。

「何か――」

 と、いう声が聞えた。力が足りなかった。小太郎は、脇差の柄頭を地へ押しつけて、自分の身体を、のしかからせようとした。刀が滑った。

(不覚な)

 と、思った時、襟を掴まれた。


「聞かれたか」

 と、襖を開けて、脇差を腰から取りながら、袋持が、七瀬と、綱手とを見た。

「ええ?」

 綱手が、母の旅立の脚絆を縫いながら

「何を?」

 袋持は、床の間の刀掛へ、脇差を置いてあぐらになって

「牧氏の修法場へ、斬り込んだ者がおる」

 二人は、身体を固くして、胸を打たせた。

「二三人の小人数で――」

「誰方?」

 と、七瀬は云ったが、自分の声のようでなかった。

「さ、それが、殺されての」

「殺されて――」

 綱手の顔色が、変った。手が、微かに顫えてきた。

「牧氏の一行は、そのまま、江戸へ立ったし、顔見知りはおらぬし――牧氏の方々も、七八人はやられたらしい。京の邸から知らせて来たが、余程の手利らしく、見事に斬ってあったそうじゃ。もう、御帰国かな」

 袋持が、七瀬を見た。

「そろそろと――」

 固い微笑をして

「そして、牧様は?」

「牧は、無事に、今申した如く、江戸へ参ったが――」

「御無事で――」

「ここの、御家老も、近日、江戸下りをなされるが――」

「調所様も?」

「大殿の御帰国までに、行かねばならぬ用があるのでのう」

 二人は、調所のことを探りに来て、調所の人物に感心した上、今、江戸へ行かれては、誰にも、顔向けが出来ないように思えた。叡山で、斬られたというのは、八郎太であるか、ないか――そうした苦しいことが、小さい女の胸の中へ、いっぱいの毒瓦斯ガスとなって、いぶり立った。

「袋持」

「入れ」

 隣りの百城が、襖を開けて

「今、聞いたが――」

 と、云って、二人に挨拶をした。

「今、御二人に話したところじゃが、誰であろうな、牧氏を覘ったのは?」

「ふむ」

 百城は、坐って、腕組して

「詳しく聞いたか」

 と、袋持の顔を見た。

「いや、牧氏の無事と、七八人も斬られたのと、斬口の見事さと、残らず殺されたのと、これだけじゃ」

「同じじゃ。明日、わしは、京へ行くから、詳しゅう聞いて参ろう。一人、逃げたと申すでないか。若いのが――」

「それは知らぬ」

 七瀬が

「その狼藉ろうぜき者の名は?」

「それが判らぬ。乱暴者の手利なら、益満休之助と聞いておるが、或いは、そうかも知れぬし、手利は多いからのう」

「御家老は、何んと仰せられているか、知らぬか」

「頷いてばかりおられたそうじゃ――京への用は、御家老からか」

「ふむ、ついでに、詳しく調べて参れと、仰せられたが、牧氏が、御無事なら、余のことは、調べる程でもない」

 月丸は、微笑していた。


 七瀬と、綱手とは、隼人達の着て寝る、木綿の固い蒲団を着て、ぴったり、くっついて寝ていた。十九になる娘であったが、こうして、母親と、一つの床に添伏していると、子供の心になっていた。

「何んだか、妾には、お父様のように思えて――お父さんの斬られなすった姿が――」

 綱手は、小さい声で囁いた。

「不吉なことを云うものではありません」

「妾――明日、百城様と、京へ、様子を見に参りましょうか」

「さ、妾も、そう思うが、なまじのことをして、ここの人達に悟られてはならぬゆえ、百城様のお帰りを待って、万事はそれからのことにしようではないか」

「ええ――百城様は、お母様、敵でしょうか、味方でしょうか」

「さあ――口数の少い人ゆえ、聞いたこともないし、話したこともないが、袋持様の御朋輩なら、味方であろうかの」

 七瀬は、こういって

(百城様のような、無口な人は却って頼もしい。益満様とは、丸で打ってちごうた性質なり、振舞なり――)

 と、思った。そして、そう思うと、早く、綱手に、よい聟をとって、孫を見たい、と思っていたことが、まるで、ちがった方角のことへ来たのに、淋しさと、頼りなさとを感じた。それから、傍に寝ている綱手を見ると、不憫さが、胸を圧した。

(自分は、この子の齢より、一つ若い時に、八郎太へ嫁いだのだ)

 と、思い出すと、じっと、抱きしめて、愛撫してやりたかった。綱手は、江戸の邸にいて、月に一度、外へ出るか出ずに、男は、八郎太と、小太郎と、それから、益満とだけにしか、口を利く機が無かった。だから、手近い益満に、軽い、乙女心の恋を感じていたが、旅をし、男の数を知り――百城に逢うと、その顔立、物腰、寡黙の中のやさしさ――それは、益満の粗暴とはちがって、男の値打に経験の無い綱手には、ずっと、益満より、立ち優って見えた。

「世が世なら――もう、聟取りの頃じゃに、お父様の頑固と、今度のことで――来年は、二十歳になりますの。二十歳を越えると、世間では、不具者じゃとか、疵物じゃとかと申すのが慣わし故、なかなか嫁入口が、あるまいが――」

「御家老様が、何んとか――町人のところへと、いつか仰しゃりましたが」

「そうそう、あの話は、そのままになっているが――のう、綱手――百城様のような方が、味方なら、そちゃ、何んとしやるぞ」

 綱手は、少し赤らみながら

「百城様?――さあ」

「嫌いではないであろうの」

「ええ」

「益満様とは?」

「そりゃ」

「百城様」

「やさしゅうて、真実のありそうな――然し、明日立って、何時お帰りになるか、安否を知りたいし――綱手、大事の前ゆえ、よう心してたもれの」

「はい、もう、更けましたゆえ、おやすみなされませぬか」

「眼が冴えて、何んとなく胸苦しゅうて」

「妾も――」

「御無事であればよいが――」

「さっきから祈っていました」

「もしものことがあっても、取乱したり、悟られたりすまいぞ」

 二人は、夜具の中で囁き合った。そして、二人とも叡山で斬込んだ武士は、夫と、兄とだと思っていた。だが、それを口へ出すことは恐ろしかった。そして、そう信じながら一方では、その二人でないようにと、祈っていた。


「百城が京から戻りよった。追っつけ参るであろう」

 と、袋持が、いってから、一刻の余になった。二人は、百城が、何をいうか、聞きたいようでもあったし、聞くのが、恐ろしいようでもあった。

「遅い奴だの、何をしとるのか」

 袋持が、膝を抱いて、床柱へ凭れた時、草履の音がした。袋持は、すぐ、膝から手を、床柱から背を放して

「百城か」

 と、怒鳴った。

「おお、ようよう済んだ、一つ一つ、算盤玉に当られるので、手間取ってな」

 庭から上って来た。袋持が、身体を延して、障子を開けた。

 百城は、旅姿を改めたらしく、新しい着物に、袴をつけて

「待たれたか」

 と、二人に、声をかけた。二人は、百城の眼から、脣から、身体中から、夫の、父の、子の、兄の安否を、探そうとした。

「わかりましてござりますか」

「うむ」

 二人は、その短い声から、返事から、判断しようとした。そして、不安な胸を打たせていると

「現場へも、参った」

 百城は、女二人の問いに答えないで、袋持に話しかけた。

「比叡山の、何の辺?」

「頂上――物の見事に、斬ってあったそうじゃ。袈裟けさがけに、一尺七寸、深さ四寸というのが、返す太刀で斬ったらしく、下から上へ斬上げてあったのは、人間業でないと、申すことじゃ」

「下から上へ、左様なことができるかのう」

陶山すやまが、見た話ゆえ、確かであろう」

 七瀬と、綱手とは、待ちきれなかった。

「して、その狼藉者は?」

 百城は、黙って、じっと、袋持の胸の辺を見ていたが、急に、二人の方を振向いて

「狼藉者は――いいや、そういう名で呼んでは勿体ない。斉彬派の忠臣として、多勢を目掛けて、命を捨てに参ったのは――」

 それだけいって、二人から、眼を離し、袋持の方へ

「仙波八郎太父子」

 七瀬と、綱手との顔色が、少し変った。だが、七瀬は、すぐ、落ちついた声で

「二人きりでございましたか」

「御覚悟は、ござろうが、何う挨拶申し上げてよいか――」

 百瀬は、俯向いた。袋持は、腕組して、天井を眺めて、吐息した。

「八郎太殿は、斬死、小太郎殿は、生死不明――」

「生死不明とは?」

「斬り抜けるには、斬り抜けられたらしいが、それから、何うなされたか? 牧氏の人数が、二十余人、その中へ、二人での斬込では――」

「二十余人?」

 綱手の声は、顫えていた。

「八郎太は、斬死」

 七瀬は、ここまでいうと、声がつまってしまった。四人は、暫く黙っていた。

「八郎太は、斬死致しましてござりますか。本望でござんしょう」

 七瀬は、こう云うと、微笑した。

「頑固一徹のたちで――何う諫めましても、聞き入れませず――」

 百城が

「小太郎殿は、京の近くに、知辺しるべでもござろうか」

 と、母子の顔を見較べた。


「いいえ、知辺など――」

「うむ――知辺もないと――」

 百城は、腕組をして俯向いた。袋持が

「深手で、山の中へでも、倒れておられるのではあるまいか」

「さあ――坊主共が捜したらしいが、かいくれ、行方が判らぬ。深い山だからのう――御二人の前ながら、八郎太殿の性は存ぜんが、武士としては、かくありたいもの、のう袋持」

「善悪はさておき」

「いや、善悪から申しても、わしは、八郎太殿へ味方する。詳しゅうは存ぜぬが、一家の内の争として、申し分は双方にあろう。それは、互角じゃ。申し分を互角とすれば、御幼君を失うなど、悪逆無類の業ではないか? それに対して、斉彬方の人々が、お由羅様でも殺したとあれば、それは双方が悪いが、陰謀は一方のみじゃ。さすれば、八郎太殿ならずとも、わしでも立ちたくなろう。のう、七瀬殿」

「有難う存じまする」

 七瀬は、百城の同情に、暫く頭を下げていた。それは流れ出して来る涙を押えているのを見せないためでもあった。

「叡山と申す山は、高うござりましょうか」

 綱手が、少し蒼白あおざめた顔で聞いた。

「高い山でもないが――」

「お母様――お兄様を捜しに参りましては?」

「なりませぬ」

 綱手は俯向いた。

「小太郎殿を、捜しに?――その儀ならば、某が手助けしてもよろしい。御家老へお願い致さば、五日、七日の暇は下さるであろう」

 百城は、こういって、七瀬に

「何故、捜してはなりませぬか」

「浪人者の上に、無分別な父へつきました不孝者――」

「いいや、それとは、事がちがう。正義とか不正義とか、そうしたことを離れて、ただの子として、親として、妹として、兄としての情義、真逆――例えば、八郎太の死骸を葬るとしても、一遍の念仏も唱えずに、無分別な夫と、足蹴にしては、人の道に外れましょう。それと同じように、小太郎殿の生死が不明なら、これを求めて、もし、逢えたなら、諫めて、正道に――正道ではなくとも、七瀬殿としては、小太郎殿の意見をひるがえさせるのが、これ、人の道、母の情ではござらぬか」

 百城は、いつにも似ず、雄弁であった。

「はい」

「袋持、そうではあるまいか」

「うむ」

「御家老に、申し上げて見よう。お許しが出ずば、是非もない。もし、出たなら、七瀬殿、綱手殿と共々、捜しに参ろうではござりませんか」

「有難う存じまする」

「生であれ、死であれ、わが子の運命を見届けるのが、人倫に外れることは、よもござりますまい」

「はい」

 百城は、立上った。

「お許しの程、ただ今聞いて参ろう」

 二人の女が、頭を下げるのを後に、百城は足早に出て行ってしまった。

「お前一人で行けますか」

「お母様――」

 綱手は、決心の眼で、母を見た。

「妾は、お国許へ早く戻らねばなりませんから、お前一人で、お供をして――」

 と、七瀬がいった時、袋持が

「百城は――」

 と、いったまま、じっと、前の壁を見て、暫く考えていたが、綱手へ顔を向けて

「十分覚悟して、行きなさるがよい」

 二人は、袋持の言葉に、一寸、不安を感じたが、それよりも、百城を信じていた。


 茶店にいた人々は、似合いの夫婦らしい、百城と綱手とを、羨ましそうに、感心したように、じろじろ眺めた。

 二人は、冬の山風に吹かれながら、薄く額に汗を出して、頬を赤くしながら、人々の、周章てて引込める脚の前を、奥の腰掛へ通った。婆が、茶をもって来ると、百城が

「この間の斬合のう」

「はいはい」

「あの時、一人、逃げた者があったであろう。存じておるか」

「聞いとります。今も、それで、話をしてましたが、貴下あんた、親子の縁と申すのは、怖いようどすえ」

「怖いとは?」

「あの大勢の方のかたの死骸は、すぐ、下から、お侍衆が来て引取られましたが、貴下、お年寄のだけが、明くる日の夕方まで、誰も引取手が無かったのを、貴下はん、お山に、義観さん云うて、えらい、お坊さんが、おしてなあ。何んと、不思議や、おへんか、この義観さんが、もう、かれこれ、七十にもならしたかのう、爺さん」

 婆は、土間にしゃがんで、煙草を喫ってる爺を振向いた。

「うん、わしと、六つちがいや」

「そんなら、六十八か。大分、お前よりも、達者やなあ」

「いびりよる婆がいんからのう」

「とぼけんとき。いびるのは、お前やあらへんか」

 百城が

「その義観が?」

「その義観さんが、貴下はん、その前の日に、今、お話の、一人逃げよった奴を、救うてお出でなさったやおへんか。なあ、爺さん、血だらけで、虫の息で、誰も、かまいて無いのを――」

「婆さん、ちがうがの。道側に倒れていたんを、お坊さんが見つけて、京の屋敷へ引渡そうというたのを、義観さんが、まあまあいうて、御自分の庵室へ、連れ戻りなされたんやがな。それで、お侍様」

 爺が、立上った。

「その若いお侍を連れて戻ると、何んと、義観さんは、山に捨ててあるのは、この人の父親にちがいないと、一人で、頂上へ、お越しなされて、何うどす、血みどろの死骸を、担いで降りて来なさったやおへんか。そして、庵室の前へ埋めて、その倅の方を、貴下、義観さん一人で手ずから介抱してなさるそうやが、これは義観さんでないと出来んことやと、大評判どすがな」

「いや、かたじけない。そして、その義観の庵室は」

「根本中堂の下どす。あんた行きなはるか」

「うむ」

「けったいなお坊どすえ」

「ははあ、何う、けったいな」

「一風、二風、三風、も変ってますね。物をいわなんだら、一日でも、黙ってる――」

 綱手が、立上った。百城も、鳥目ちょうもくを置いて立上った。

「有難うございます。御綺麗な、京にも、こんな御綺麗な、夫婦衆は、一寸、見られまへんどすえ。有難う存じます。何うえ、このお美しさは」

 婆さんは、そう云って、綱手に見惚れていた。


 杉木立の、鬱々とした、山気と、湿気との籠めている中に、大きい堂が、古色を帯びて建っていた。傾斜した山地を、平にしたところに建っていて、その堂へ行く細い苔道には、いくつも、杉丸太が二三段ずつ横にした、段があった。綱手は、膝頭を押えるようにして、その一つ一つを登って行った。

「お頼み申す」

 何んの答えも無かった。綱手は、どこに、父の亡骸が埋めてあろうかと、見廻したが、そうしたらしい、新しい土の盛上ったところは、どこにも無かった。皆、草と、苔とが、物静かに、清らかに、黙っていた。

「お頼み申す」

 百城が、前より大きく叫んだ。遠くに鳴く、小鳥の声と、高い梢を渡る風の音しかしなかった。

「物申す、義観と仰せられる方のお住居は」

 微かに、部屋の中で、音がした。深い、屋根の下、高い杉の下に陽を遮られて、障子の色は沈鬱であったし、縁側の、朽ちかけた板は、湿っていた。物音はしたが、又、そのまま、静まり返ってしまった。

「誰方か、おられませぬか」

 百城は、こういいながら、縁側と、急傾斜な土手との間の、狭いところを、堂の後方へ廻りかけた。微かな人の呼吸らしいものが聞えた。

「お頼み申す」

 百城が、立止まった。綱手は、きっと、兄の呻きだと、思った。その時、ばさっと、葉にすれる音が、堂の真上の木立の中でした。二人が、見上げると、老僧が、枝から、枝へ手をかけながら、猿のように、急傾斜な山の茂みの中を降りて来た。

(これが、義観だ)

 と、二人は思った。

 老僧は、道の無い山に、道が有るらしく、少しも、躊躇ちゅうちょしないで、杉の幹に手を当て、灌木の枝を掴み、大きく飛び降り、滑り降りして、忽ちの内に、堂の後方へ消えてしまった。百城が、歩きかけると、僧は、部屋へ入って来たらしく、足音がした。

「お頼み申しまする」

 障子の中から

「誰方じゃ? 御用は?」

「当所において、御介抱にあずかっておりまする者の妹、並びに、付添に参った百城月丸と申す者――お眼にかかれましょうなら」

「ああ、さようか、お上りなされ」

「勝手元は? 足が汚れておりまするが」

「そのまま」

「はい」

 二人は、脚絆をはずして、埃を叩いた。そして、襟を、裾を合せ、障子を開けた。七輪に、土鍋をかけて、草を、膝の左右へ並べて、薄汚れた白衣の老僧が、坐っていた。二人が手をつくと

「ほほう、似ておる」

 と、綱手に、微笑して、すぐ、百城を見たが

「御夫婦か」

 綱手が、首を振って

「いいえ」

「身寄りか」

「いえ、身寄りでも――」

 義観は、じっと月丸を眺めていたが

「利発な方じゃが、瞳中少し、険難だの」

「剣難」

「剣ではない、陰険の険」

「はっ」

「ま、気をつけるがよい。病人は、全身に十二三ヶ所疵している。命に別条はない。ただ、熱が高い。これから、薬を煎じるのじゃが――その間に、顔だけ見るがよい。未だ囈言うわごとをいって、正気づいておらん」

 義観は、草を持った手で、次の間を指さした。


 小太郎は、汚れた、白い、薄い、蒲団を被て、つつましく臥っていた。頭から、耳、頤へかけて陰気な部屋の中に、くっきり白く浮き立つ繃帯をして、片方の眼だけ、微かに、白眼を見せて、眠っていた。

 顔色は、灰とも、土とも、白いとも、つかぬような色をして、江戸の時と、一月にもならぬのに、げっそり痩せてしまっていた。そして、時々呻いた。

 綱手は、そっと手を額へ当てた。熱かった。汚い、白い蒲団、汚い、白い着物。陰気な部屋。それは、自分達一家の宿命の色のように、しみじみと、悲しく、淋しく、綱手の胸をしめつけた。そうした色彩の中に、医者でもない僧侶に、看護されて、こうしている小太郎は、もう生き返らぬ人のように思えた。

「明日になれば、熱も下って、人心地がつこう」

 義観が、土鍋のところから、声をかけた。

「山は寒いで、熱には毒じゃが、疵にはよい」

「いろいろと、お世話下されまして、忝のう存じまする」

 綱手は、小太郎の側から、礼を云った。

「今夜は、この下の寺で泊って、明日、病人と、口を利いて戻るがよい」

「はい」

父御ててごの墓参りもするかの」

「はい、その、お墓は――」

「一寸、降ったところにある、案内しよう」

 義観は立上った。綱手は、自分の家の出来事でなく、他人の世界の出来事を見ているような気がした。一月程の内に、江戸の長屋から追い出され、道中、父の死、兄の病――自分の生きているこの世の中の出来事として、その一つ一つを、はっきりと、感じる暇もなく――感じるにしては余りに大きく、深く、悲しいことが、引っきりなしに起って来たので、頭がぼんやりしてしまっていた。

「父の墓」

 と、云われても、何っかに未だ父が生きているようで、死んだとも、斬られたとも思えなかった。

 汚れた草履を履いて、義観の背後からついて行くと、竹樋たけどいから水の落ちている崖の下を降って、少し行ったところに、二尺四方に近い石を置いて、土の高くなったところがあった。義観が、その前に佇むと、綱手は、その土を見た。同時に、涙が湧いて来た。

「極楽往生はしておられる」

 義観は、朗かに、自信ありそうに云った。

 綱手は、石の前に、ひざまずいて合掌した。合掌すると、ただ、無闇に悲しくなって、涙が、いくらでも出て来た。

(兄もああだし――母がここにいたなら、三人で、ここで死んでもよい、死んだ方がよい。このお坊様に、回向えこうしてもらって、この浄らかな山の中で、静かな――ほんとに、静かな――何んという騒々しい、いやな、世の中であろう。こんなところに住んで、何も見ず、何も聞かずにおったなら、何んなに楽しいであろう?)

 自分の一家の運命と較べて、綱手は、いろいろのことを思った。

「それだけ泣けばよい。泣くと、胸が納まる。父御は、極楽で、今頃、いい御身分になっておられる。安心するがよい」

 義観は、こう云って、堂の方へ歩み出した。百城は、最後の合掌をして

「綱手殿」

 と、云った。綱手は、泣いた醜い顔を、百城に見せたくはなかった。袖でおおうて、立上った。


 床は、ちがっていたが、初めて他人の男と――それも、お互に好意をもっている男と、同じ部屋に寝なければならなかった。

 綱手は、正気の無い兄、小太郎の身体を案じ、斬り刻まれた亡骸なきがらを埋めている父を悲しむと共に、こうした場合の自分の身躾みだしなみについても、細かい用意をしなくてはならなかった。

 武家育ちとして、人に素の肌は見せぬものと、教えられていたし、嫌いでない百城の前であったから、風呂で、白粉をつけはしたが、鏡が無かった。

 滅入るような、薄暗さと、静けさとの中で、綱手は、鏡無しでつけた白粉の、のり、紅の濃淡、髪の形を気にしながら、百城の前で、じっと、俯向いて黙っていた。

 何か、月丸と、話をしたいし――話でもしなくては、耐らなく淋しいし――話しかけても欲しかったが、それでいて、月丸から、話されることを、想像すると、胸が、どきんとした。

(恋であろうか)

 と、思うと、いつか、箱根路の闇の中で、益満の身体に触れたことが思い出された。

(大事の時に、何んという淫らな心――)

 と、自分を叱ったが、いくら、叱りつけても、滑らかな、暖かい乙女の肌が、その時の感じを喜んでいて、益満の臭が、鮮かに、頭の中へ、蘇ってくるように感じた。

 そう思って、俯向いていると、月丸が、じっと、自分の顔を凝視めているような気がした。そして

(白粉が、まだらなのかしら)

 と、思うと、何んだか、それ一つで、月丸が、自分に愛想をつかすようにも思えた。

「静かだ」

 月丸が、呟いた。綱手は

「本当に、静かでございますこと」

 と、云いたかったが、いおうとしている内に、いいそびれてしまった。

(もう一度、何か、云ってくれたなら――)

 綱手が、こう思った時

「綱手殿」

 綱手が、顔を上げると、月丸が、正面から眺めていた。綱手は、俯向いた。

「はい」

「再び、お身を悲しませるようなものじゃが、八郎太殿はお亡くなりになったし、小太郎殿は――よし、命を取り止むるに致せ、あの深手では、不具――悪く参れば、不具とならんも計り難いし、又、腕の筋一つちがっても、二度とは、刀のとれんこともあるし――七瀬殿のお心、お身の気持を察しると――何んとも申しようも無い。世の中の不仕合せの一切を、一身、一家に受けておるとしか思えぬ――申しようも無い次第だ」

 綱手は、身躾みのことも忘れ、月丸のことも忘れて、その同情の言葉を、嬉しく、悲しく聞いていた。

「七瀬殿と八郎太殿とに、何う、意見の相違があろうとも、又――そなたと七瀬殿とが、同意であろうと、無かろうと、某は、八郎太殿に、又、小太郎殿に、味方したい。これは、お身に計るのではない。某、一存の決心――只今より小太郎殿に代って、牧の一味を討とうと存ずる」

「貴下様が――」

 綱手は、眼を見張った。

「お身は、七瀬殿と、同意ゆえ、某のこの決心には不同意であろうが、八郎太殿の志を思い、その働きを思うとき――武士として、見すごし出来ぬものがある。小太郎殿、御回復を待って、談合の上、斉彬派同士の一人へ入りたい――只今、決心致した――御不服か」

 月丸は、低く鋭く云った。


 綱手は

(不服どころか――嬉しゅう思いますし、兄も、聞いたなら、さぞ喜びましよう)

 と、思いはしたが、七瀬が、固く、月丸に対して、夫とは反対ゆえ、と、いいきっていたから

(お頼み申します)

 とは、云えなかった。だから、月丸のそうした言葉に黙っていたが

「綱手殿は、御不服であろうが――」

 と、月丸が、もう一度云ったのに対して

(不服でございます)

 と、明瞭はっきりと、返事もできなかった。月丸は、綱手が、黙っているので

「一体、お身は、不服か、それとも――」

 と、問いつめてきた。綱手は、何っちとも返事ができなかったし、したくもなかった。

「七瀬殿のことを、悪し様に申してはよくないが、嫁しては夫に従う、これが、おんなの道でござろう。まして、何れが正義、何れが不義と、判断のつかぬ騒動、斉興公に従うが、利益ゆえと――ただ、利益ゆえで、夫の意見に逆うなど、ちと、腑に落ちんこともある。では、ござらぬか――綱手殿」

 月丸は、微笑した。

「しかし――女としては、よく決心し、よく計られた。貞女、節婦とも、称められんこともない――と――某は――見ておるが――」

 月丸は、綱手の上げた眼へ、美しく、澄んだ眼で、笑いかけた。綱手は、ようよう返事のできそうなことを、月丸が云ったので

「と、申しますと――」

 と、月丸の言葉の意味が、十分に判らなかったから、同じように、微笑して聞いた。

「某は、それが、七瀬殿なり、お身の本心じゃ、と思うが――何うかの」

「それがとは?」

「父兄に不同意と、見せかけて――」

 月丸は、腕組をして、綱手を見ながら、だんだん脣に、眼に、笑いを、大きくして行った。

「見せかけて」

 綱手は、冷静に、こういったが、月丸の、明察に、感心をし、月丸を半分信じ、半分怪しみながらも、何かしら、安心したような気のするところもあった。

「父兄と、いさかって家出したとは、真赤な譃、ちゃんと、しめし合せて、御家老の秘事でも、探ろうという所存――」

 綱手は、胸を衝かれて、少し、赤くなったが

「いいえ」

 と、烈しく、首を振った。

「それなら、江戸に止まっておりまする。国へ戻りすがらの――お恥かしゅうござりますが、路銀も乏しく、御家老様にお縋りしてと――」

「いや――気にえられては困る――もし、左様な女丈夫であったなら、某――命にかけても――」

 こういって、月丸は、急に黙った。綱手は、その後につづく言葉が、何んであるかを察した。そして、耳朶を赤くし、全身の血を熱くしながら、月丸が、はっきりと、次をつづけるのを待っていた。月丸は、じっと、腕組をして、俯向いていたが

「左様のことは、芝居話――今の世にあろうとは思えぬ。然し、八郎太殿の血を受けていながら、兄妹きょうだいとして、そうまでもちがうものか――のう、綱手殿。武士としては、単身、敵地へ間者に入る程の女を女房にしたいものじゃ。当節は、士も、旗本の如く、悉く遊芸に凝れば、婦女子も、芸妓を見習って、上下、赴くところは、惰弱の道のみ、それと、これと、雲泥の差ではござらぬか。お身も、小太郎の妹なら、何故、及ばぬまでも、牧の行方を求めて、小太刀の一本も恨まれぬぞ――いや、こういうことを、近頃は、野暮と申す。夜も、更けた。臥みなされ」

 月丸は、こういって、立上った。そして、廊下へ出て

「快い夜じゃ」

 呟いて、厠の方へ行った。


 綱手は、口惜しかった。好きな月丸であっただけに、罵られるのが、辛かった。だが、同時に

(女丈夫――命にかけて――妻にしたい)

 と、いう言葉が嬉しかった。

(もし、百城様が、妾の本心を知ったなら)

 と、思うと、もう、百城は、自分のもののように思えた。

(いつか、判る時があろう)

 と、心の中で、微笑したが

(判る時までに――もし、外に、好きな女子が出来たなら)

 と、思うと、心臓が早くなった。

(打明けたら?――あれだけの決心をしていなさるからには――然し、母も、父も、余人には知られるな、知らすな、と固く仰せられたのだから――でも、対手によって――百城様なら、お母様もめていなさるし――)

 綱手は、半分の口惜しさ、悲しさと、半分の嬉しさとを抱いて、百城の戻って来る足音を聞いていた。百城は、障子を開けて

「早く、お臥みなされ」

 と、冷やかに云った。

「はい、貴下様から――」

「何刻であろうか、山中暦日無く、鐘声なし」

 半分、節をつけて呟きつつ、手早く、着物を脱いで

「御免」

 兎のように、蒲団の穴へ入ってしまった。綱手は、その子供らしい快活さに、微笑みつつ、脱ぎ棄てた月丸の着物を畳んだ。男の体臭が、微かに匂った。益満のことを、又思い出して、二人を比較しながら

(益満様を、世にも頼もしい方と思っていたが、ここには、それにも増して、頼もしい方がいなさる)

 そう思って、月丸の、後寝姿を見た時

「これは、恐縮」

 月丸が、寝返って、畳んでいる自分の着物の方へ一寸手を延した。

「いいえ」

 綱手は、眼がぶっつかったので、周章てて、俯向いて、畳んだ着物を素早く、蒲団の裾へ置いた。そして、月丸に背を向けて、自分も、帯を解きながら

「灯は?」

「消す」

 綱手は、長襦袢姿を、見られたくはなかったので、帯を、半解きにしたまま、二つの床の真中を、静かに通って、行燈の灯を、手で消そうとした。だが、なかなか、消えなかった。

「某が――」

 月丸が、半身を出して、手を延した。二つの手が、火影のところで、ぶっつかろうとした。綱手は、周章てて、手を引込めた。月丸は、肩を、胸を、少し現しながら

「なかなか、消えぬ」

 と、呟いて、烈しく、手を振った。火が消えた。

「有難うござりました」

 軽く、油煙の臭気のする中で、そういって、綱手が、帯の解けたのを、引上げると、月丸が押えているらしく、動かなかった。だが、すぐ

「これは、御無礼」

 と、手を放したらしく、帯が自由になった。腰紐を解き、着物を脱いで、床の上に坐った時

「綱手殿――何うも、本心が」

「本心が?」

「判りかねる」

「その内に、お判りになりましょう」

「その内に?――その内に?」

 月丸は、綱手の床の方へ向いているらしかった。


 暫く、二人は、黙っていた。冷やかな闇と、深い山の沈黙とが、凄いまでに感じられた。綱手は、固い蒲団を、肩まで被て、襦袢の裾で両足をくるんだ。

「綱手殿」

 月丸の声が、月丸の臥床の端――綱手の蒲団の近くでした。綱手は、両脚を固くして、胸を躍らせながら

「はい」

「本心が、判るとは――何ういう本心、又、それがいつ判るか――」

「さあ」

 綱手は、月丸が、愛欲のことでなく、さっきの言葉のつづきを話すのだと思って、安心した。だが、答えられないので、そのまま黙っていた。

「母上は、生きておられる。父上は、然し、斬死なされた。何故、それに、お身は、母上にのみ、孝行をなさる」

 綱手は、答えなかった。

「綱手殿」

 綱手は、まだ答えなかった。こうして、親切に、熱心に、味方してくれる月丸に、打明けたくて、鉄瓶にたぎる湯の如く、口まで出かかっていたが、それがいえなかったし、だからといって、外のことでいいまぎらすことも、できなかった。

「何故、返事なされぬ」

 月丸の声が、近々として、蒲団の端が、動いた。綱手は、月丸の無礼を咎めるよりも、月丸に、何んとかうまく答えたいと、考えていたし、月丸の同情に対し、自分の答えのできないのに困っていた。

「無理かも知れぬ」

 こういった月丸の声は、坐っているらしく、上の方でした。

「いつか、判る、と――その意味は?――綱手殿。某の申した、女ながら、天晴れの決心が、わかると、申す意味か――そうとしか、某にはとれぬが――綱手殿、そうとってよいか、よくないか――」

 低いが、熱情的な言葉であった。綱手は、済まぬと思うと、薄く、涙が出てきた。それは、他人の熱情的な同情に対して、何んとも答えられぬ苦しさからであると共に、自分の愛する男へ、本心を打明けることのできぬ悲しさからの涙であった。

「綱手殿」

 異常に、昂奮した声が、低く響くと共に、月丸の手が、綱手の肩を、ぐっと掴んだ。

「そう取って――取ってよろしゅうござるか」

 綱手は、月丸の手を払おうとして、町分の手を動かしたが、それが、月丸の手に触れるのが恐ろしかった。だが、自分の肩から月丸の手を放すのも、厭なような気がした。然し、そのままに掴ませておいて

(だらしのない女)

 と、思われたくなかったので、静かに、身体を引きつつ、寝返ろうとした。その瞬間に、月丸の手が、綱手の腕を握った。そして、耳許へ口が近づいて

「打明けて――某、命にかけてのこと」

 月丸は、喘ぐように囁いた。綱手は、頭の中が、唸り渡っているように、しびれているように――脚を固くしめて、月丸に握られている腕を、引放そうとしながら、全身を恥かしさで火のようにして、顫えていた。月丸は、綱手の腕を握ったまま、耳許で

「命にかえて他言せぬ。きっと――そうじゃ。本心は父と同腹であろう。恋する者には、対手の肚の中まで読める。命にかけての――綱手殿、命をかけて――」

 月丸は、女の耳朶へ、時々、脣を触れさせつつ、微かに、だが、情熱的に囁いた。そして、両手で、腕と、肩とを抱きしめていた。綱手は、顫えながら、そして、軽く抵抗しながら、肩が、腕が、肉体が、血が、男の締める力を快く感じているのを、何うすることもできないで、羞恥と、興奮とで、物もいえなかった。


「百城様――」

「うむ」

 月丸は、眠りかけているらしく、鈍い返事しかしなかった。綱手は

(こうなりました上は、一生、見棄てないで――)

 と、云いたかったのだが、口へは出せなかった。

(眠っていらっしゃるなら、丁度いい。そんな恥かしいことが、口へ出せるものか)

 とも、思ったが、月丸が、ただ、うむと一言だけしかいわなかったのが、ひどく物足りないようにも感じた。そして、だんだん眼の冴えて来る自分と、もう、眠りかけている月丸を較べて

(男というものは、こんな人間の大切な時に――一生に一度の大事な時に、こんな気楽なものかしら?)

 とも思った。

 身体中が、熱っぽいようでもあるし、しびれているようでもあるし、何かが抜け出したような感じもするし――不安でもあるし、幸福にも思えるし――生娘で無くなったという後悔は、少しも起らないで、明るい未来の空想だけが、いろいろ金色の鳥のように羽を拡げて翔け廻った。だが

(兄上は?)

 と、思うと、一寸、暗い気もするし、八郎太を埋葬したところが、すぐ、頭近くの外にあると思うと、済まぬような気もしたが、それはすぐ

(でも、この方が、親身になって力を添えて下さって、きっと、お志は貫きますから――)

 と、いう弁解をして、大して、心が咎めなかった。それよりも、兄と、八郎太とに対して、月丸を獲たことを誇りとするように

(よい男で、お強くって、お利口で――本当に、妾を可愛がっていて下すって――どうぞお喜び下さいませ。お母様は、きっと、嬉しくお思いでしょうが、お兄様も、お父様も、百城様を御覧になったら、決して、お叱りにはなりますまい。淫らな綱手ではござりませぬ。ちゃんと考えて、お父様のお志を継ぎ、兄様の手助けにもなり――それから、妾のよい夫として、申し分の無い方だと思って、許したのでございます。それも――それも百城様から――あちらからせがまれて――何も、妾から、手を、口を出したのではござりませぬ――)

 綱手は、父に、兄に、母に、こう説明をしていたが

(益満――)

 と、思うと、はっとした。

(妾は、益満様を好いていたのに――二人を好くということは、操の正しい女ではないのかしら?――いいや――いいや――益満様は、ただ、一寸、好きな人。百城様は、夫――一生添うて行く、妾の夫――)

 綱手は、微かに聞える月丸の呼吸を、全身で聞きながら、何か、もっと話して欲しい、といったり、手でも、足でもいいから、一寸触れたい、と思ったり――だが、つつましく、固くなって、闇の中で、ただ一人、心を、眼を冴えさせていた。

 時々、梢を渡る風の音と、何んとも知れぬ鳥の叫びと、自分の寝間着のすれる音の外、何一つ聞えない静寂さであった。

(もう、何刻かしら――)

 と、思った。そして

(眠くなった。疲れているから――百城様も、本当に、今日はお疲れでいらっしゃるだろうから、お眠いのも無理はない)

 と、思ったりしているうちに、眠入ねいった。月丸が、静かに身体を動かして

「えへん」

 と、小さく咳をした。綱手は、動きも、答えもしなかった。

(眠ったな)

 と、月丸は、思った。そして、静かに、蒲団の中から抜け出した。


 月丸は、帯を締め直した。そして、自分の蒲団の中に入れてあった脇差を差した。

(この女を利用して、敵党の秘密をさぐり出す――忠義の前には、こういう手段も仕方はあるまい)

 月丸は、暫く、綱手の寝息をうかがってから、立上った。そして、足音を盗んで、障子を忍びやかに開けた。冷たい廊下、冷たい風の中へ出た。

(だが――わしは、この女に惚れてもいる。それは、本当だ。だが、味方をするといって欺きもした――欺いたが、好きは好きだ――好きな女を――欺くということ――それも、武士としては致し方が無い。いいや、それが、武士の辛い道だ――然し、この女に、それが判るだろうか?)

 月丸は、そう思いながら、跣足のまま、苔のついた土の上へ降りて、草の中を、庵室の方へ歩み出した。

(わしの、この――こうした本心を知ったなら? 怒るか、嘆くか?――怒りもするし、嘆きもしようが――妻は、嫁しては、夫に従うべき筈だ――)

 月丸は、綱手を、妻とし、自分をその夫だと考えてみて、苦笑した。

(あれで――妻であり、夫であるのか)

 と、思ったが、綱手の誓ったそうした言葉も、自分のいった同じ言葉も、そういった時は、お互に本気だったと思うと、人間は、愛欲の世界にいる時は思慮の無い情熱で、憑かれたようになるものだと思った。

(妻でも、夫でも、何んでもよいが、本心を語るのは、少し早い――いいや、早いというよりも、あの女は、わしを、自分らの味方と信じて、肌を許したのだ。わしが、こうして、わしの父をねらっている小太郎を討ちに行く、と知ったなら、勿論許しはしなかったであろう)

 月丸は、夜露に濡れながら、高山の冷たい夜気の中を、冷たいとも感じずに、歩いて行った。

(それでは、一生、この本心を打明けずにいるか? そんなことはできることでない。いつかは判ることだ。いつか判る、その時まで、自然に任せて待つか? それとも、いい機に打明けるか? それとも、小太郎を斬りすてて、父の身体を安らかにし、敵党の模様をさぐった上で、別れるか?――いいや、別れたくはない――では、何うしたならよいか)

 足で、手で、さぐりつつ、木立の間を、庵室へ近づいた。そして、星あかりに、庵室が黒く見えると共に、静かに、裾を端折って、帯に挟み

(女のことなど、何うでもよい。父を覘う奴を――)

 と、思った。そして、戸締りもしていない廊下へ、手をつき、膝をあげて、じっと、耳を澄ますと同時に、心も、身体も、小太郎と、義観とに対する注意と、用意とで、いっぱいになってしまった。

 部屋の中の物音は少しもしなかった。月丸は、脇差を静かに抜いて、右手に持ちながら、入口から、小太郎の寝ている奥の方へ、這うように、廊下を伝った。

(あの老僧は、小太郎の部屋にいるか、次の間にいるか?)

 夜ざとい老人が、起きては邪魔であった。月丸は、次の間のところまで来ると、義観の寝息を窺うため、暫く、じっと、耳を立てていた。だが、少しの音もしなかった。小太郎の室からも、物音は聞えなかった。

(二人とも眠っている)

 月丸は、それでも、足に、手に、心を配りつつ、自分の耳にでさえ、少しの音も聞えないくらいにして、次の間と、奥の間の境まで来た。そこに立っている柱が、その境であった。月丸は、右手に脇差を立て、左手を障子へかけた。その途端、次の間から――月丸の半立ちになった耳のところで、障子一重の近さで

「何んの御用かの」

 その声は低かったが、やさしかったが、月丸は、頭から、一掴みに、身体ぐるみ、冷たい手で掴まれたように感じた。


 義観の声は、月丸の、すぐ耳許でした。余りに近すぎた。その声は、月丸の心の中も、刀も、何も、見ているらしく感じられる声だった。

(この真暗な中で――見えるものか)

 と、月丸は、周章てながら、もがきながら、頭の中で叫んでみたが、余りに近く、余りにやさしい、その不気味な声は、見えている、としか思えないくらいのものだった。

 月丸は、答えもできないし、動きもできないし、刀を握りしめたまま、全身を固くして、居すくんでしまった。障子が開いても、義観が出て来ても、手も、足も、舌も、動かないと感じるくらいに、薄気味悪い、凄い声だった。

 昼間見た、山を降りて来る足取り、あの石を運んだという怪力、その鋭い眼――それは、人間でなく、何かの化身のように、もう一度、月丸へ蘇って来た。

 刀を取っての対手なら、誰にも負けぬ自信はあったが、闇の中に物が見え、刀を抜いて近々と近づいている者へ、やさしく

「何の用かな」

 と、空々しくいいかける老人は、何う対手にしていいかわからなかった。

(しまった)

 と、感じた。そして、義観が現れたなら、身体ぐるみ、ぶっつかってやろうと、しびれるような気持の中で決心をして、次の言葉と、義観の出現とを、待っていたが、それっきり、次の言葉が無かった。

 月丸は、自分の耳を疑ってみた。だが、明らかに聞えたのは聞えたのに違いなかったのだから、たったその一言だけで、後はいくら待っていても、次の言葉が聞えないとなると、一層、不気味になってきた。だが、月丸は、何もいえなかったし、身体を動かしたなら、何かしら、大変なことが、自分に起るようにも思えた。今の、やさしい言葉が、次には鋭い言葉になって、自分の刀は折れて、小太郎が出て来る――そういうようにも感じられた。

 月丸は、呼吸をこらし、身体を固くして、じっとしていたが、少しずつ、そんなものが、ほぐれかけると

(義観ぐらい――この刀の下に――)

 と、いうような勇気が肚の底から、少しずつ湧いて来た。だが、もう、何うしても、障子を開けて、小太郎の居間へ入る勇気は出て来なかった。退くか、義観と戦うか? その二つが混乱して、月丸の頭の中を走り廻った。

(もう一度、あんな、薄気味悪い声を聞きたくはない――戻ろう)

 と、思ったが、戻りかけたなら、何かしら、あははははと、笑われそうな気がした。月丸は、四方から、義観の眼を浴びていると感じた。

 少しずつ、恐怖が薄らいで来ると共に、月丸は、声のした障子のところから、一寸、二寸と、身体を離しかけた。

(黙っていろ――声をかけるな)

 と、いうような、臆病な心が起って来たが、何んなに、それが、卑怯だと叱ってみても、止まなかった。廊下の端へ近づくと、月丸は、片脚を延して、土へ触れさせた。そして、ほっと、安心し、呼吸をついだ時

「馬鹿がっ」

 それは、大きく、鋭く、月丸の肚の中を、拳で突き上げるように、響いた。頭の中へは、ぐゎん、という音と共に、いっぱいに拡がった。それは、声でなくて、人間の内臓を、頭の中を、その内部から撲ったようなものだった。

 月丸は、よろめいた。そして、一気に、崖を飛び降りた。そして、立木にぶっつかりつつ、凹地につまずきつつ、走り出した。


 魔物の住家に、いるように感じられた。寺へ戻って来たが、義観は、すぐ、その障子の外で、未だ自分を見ているように思えた。

 荒い足音、障子を開けたので入って来た冷たい風に、綱手は、眼をさました。

「百城様」

 月丸は、綱手の声で、心強くなった。周章てている呼吸、狼狽している心臓を押えながら、鞘へ刀を納めて、手早く、蒲団へ差込んで

「未だ、眠らぬか」

「貴方様は――何ちらへ」

「わしか――」

 月丸は、綱手も、自分が、小太郎を斬りに行ったのを、知っているのではないか、というように感じた。

「わしは、厠へ」

「冷とうございますから、早う、お臥みなされませ」

 綱手は、媚と、品位とを含んだ、滑らかな口振でいった。

「寒いのう――程なく、夜が明けよう」

「ほんに、寒い――」

 月丸は、それが、自分を添寝に呼んでいるのだ、と思ったが

「明日は、又、歩かねばならぬから、早く眠るがよい」

「歩くとは?」

「大阪へ戻らねばならぬ」

 綱手は、暫く答えなかったが

「妾も――」

「いいや、そなたは意のままに――」

 綱手は、又、暫く黙っていた。

「小太郎は、あの――老僧の手当で十分であろう。然し、介抱して上げるがよい。わしは、いろいろと用があるゆえ、早く戻らねばならぬ」

「でも――来る時は、四五日――」

「思い出したことがあっての」

「では――帰りは――妾、一人?」

「迎えに――迎えに、京まで参ってもよい。綱手、ここで一日、二日別れたとて、一生別れる訳でもあるまいに――」

「それは、そうでございますが――」

 綱手は、起き上ったらしく、蒲団の上の方で声がした。そして、衣ずれの音がしたので

「何処へ」

「一寸」

「厠へか」

「はい」

 綱手は、月丸の枕頭のところを、静かな足取りで歩んで行ったが

「ま、砂が――ああ、ここら――一面に」

 立止まったらしく

「誰か――入ってまいったのでござりましょうか。ひどい土が――」

「土?」

 月丸は、自分の周章てていたことに、怒りが生じてきた。そして、それを執拗に、大仰らしく調べている綱手へも腹が立ってきた。

「まあ、お枕の方へ――」

「狸でも入ったのであろう。よいではないか」

「狸が」

「山のことじゃ」

「まあ、気味の悪い、妾――」

 綱手は、月丸の枕近くへ寄って来た。

「武士の娘が、狸ぐらいを――」

 月丸は、綱手を叱ったが、綱手の廊下へ出るのを見に自分が立ったなら、障子の外に義観がいるような気がした。

「でも――」

 綱手は、媚びるように、甘い口調であった。

「そこまで見てやろう――子供でもあるまいに――」

 月丸が立上ると、すぐ綱手に触れた。二人の手は、互に探しあった。

「まあ、冷たいお手々」

 綱手は、自分の両手の中へ、月丸の右手を挟んで押えた。


連衆つれしゅは、何うした」

 と、義観が聞いた。

「用事がござりまして、大阪へ戻りましてござります」

 綱手は、誰に逢うのも恥かしかった。誰でも、百城と自分との仲を知っているように思えた。顔か、身体か、眼か――何っかに、変ったところができているように思えた。

「昨夜は、何んともなかったかな」

 義観のこういった言葉は、やさしく、低かったが、綱手には、月丸と二人のことを知っている言葉のように思えて、真赤になった。そして、義観の、柔らかであるが、底光のする眼は、すっかり二人の仲の何もかも知っているように思えた。綱手は、返事ができないで、俯向いてしまった。

「あの若者は、利発じゃが、気をつけんといかん」

 綱手は、一々自分のことを指されているのだと感じた。初めて見た時から、ただでない僧だ、と思っていたが――仏の前に、ひれ伏す罪人のように、義観の前では、小さくなって行くのが感じられた。

 だが、何かしら百城に、悪いところがあるような、義観の言葉には、小さく反抗したかった。悪いのは、皆、自分が悪いので――百城様に、悪いことがあれば、それは、妾が、悪くさせたので、百城様の罪ではない、といいたかった。そして

(気をつけぬといけない、と、仰しゃいましても、もう、取返しのつかぬことになりました)

 と、心の中で呟いていた。

「熱が退いて、もう、口が利ける。逢うがよい」

 綱手は、少しでも早く、義観の前を去りたかった。

「有難う存じます」

 と、両手をついて、すぐ、次の間の襖を開けた。小太郎が、仰向いたまま、細目を、襖の方へ向けた。二人の眼が合った。綱手は、小太郎の鈍い、表情の無い眼を見て

(まだ悪いのかしら――見えたにちがいないのに、眼の色一つ変えないで――)

 と、思った。そして、小太郎に、笑いかけて

「よく、お癒りになりました」

 と、枕の横へ行って、上から、なつかしそうに覗き込んだ。だが、小太郎の眼は、冷静であった。

「何しに参った」

「ええ?」

 綱手は、小太郎の口調が、意外なので、はっとした。

「お前には、お前の仕事があろう。わしに、付添うていて、それが、何になる? 死ぬものは死ぬ。癒るものなら、癒る。そんな覚悟で大事がなせるか――帰れ。母上にも、そう申せ。一旦、袂を分った上は、事成就の暁まで、濫りに、小さい恩愛のためには、動きますまいと――」

 綱手の方を向いて、低く、こういうと、くるりと、仰向けになって、眼を閉じてしまった。

「でも――お母様は、お兄様の生死を案じなされて――」

「たわけっ。お別れする時から、生も、死も覚悟をしておるのではないか。これが、京と、大阪の間じゃから、とにかく、もし、わしが、国許で、生死不明にでもなったなら、それでも己の仕事をすてて、国許まで、探しに戻るか。た、たわけたっ」

「はい」

「帰れっ」

 義観が、襖を開けて

「そう叱ってはいかん」

 と、首を出してから、ゆるゆる立上って入って来た。

「老師」

 小太郎は、義観へ、微笑した。

「暁頃に、誰か、忍んで参りましたが――」

「猿じゃろう」

 義観は、こともなげに答えた。小太郎は、義観が、猿だと信じているのへ、押返して聞くのは、悪いような気もしたが

「いいえ――老師は、馬鹿と、一喝なされましたが」

 小太郎は、義観の眼を、下から、じっと凝視めながら

「猿ではござりませぬ」

「猿みたいなものじゃ、猿ではないが――」

「忍びよる気配には殺気がござりました」

「感じたか」

「害心無きものの近づく音とはちがっておりました」

「のう、妹御」

 と、義観は、綱手の正面から

「昨夜、遅くに、小太郎を殺そうと、忍んで来た者がいた。わしが、一喝したら、転げて逃げた。心当りがあるか」

 綱手は、自分が、百城と、愛欲の世界に歓喜している間にも、兄にはそんなことが、起っているのか、と思うと、心の底から済まぬように感じたが――そう感じた刹那

(あの畳の上の土、砂――)

 綱手は、全身を蒼白めさせた。

(もしかしたなら、百城様が――いいや、いいや、決して、そんなことは、そんなことを百城様が)

「心当り?――さあ」

 と、口だけで答えて、じっと、俯向いていたが

(急に、大阪へ戻ると云って、暁に立って行ったのも、怪しい、と思えば、怪しいが――百城様が、そんな――あの、やさしい、頼もしい百城様が、そんな、兄を殺すなどという)

 打消したが、綱手には、立っている崖が崩れかけたように感じた。遥かの下に渦巻いている深淵へ陥込んで行くような、絶望さを感じてきた。

「よく、剣禅一致と申すことを聞きまするが、不立文字ふりゅうもんじにて、生死を超越する境地は、剣も、禅も同じと致しまして、昨夜の、馬鹿と申された一喝、その気合の鋭さは、剣客の気合とても遠く及ばぬ気魄が、迸っておりまして、某の腹の中へも、ぐゎーんと響いて、暫く、呆然としておりました。最初に、何んの用か、と、やさしく聞いて、敵の意表にで、後に虚を衝いての一喝、その虚実の妙――」

「よしよし、もう判った。ところで、女、気をつけるがよいぞ」

「はい」

「よく考えてみい」

 綱手は、自分の身体が真暗な中の空間に引っかかって、手足を、もがいているような気がした。

「綱手、牧は、何処へ参ったであろうか、存ぜぬか」

「江戸へ参られました」

「調所は?」

「矢張り、御勝手方御調べのため、近々に、御江戸へ」

「そうか――わしは、二三日、こうしておって、すぐ江戸へ立とう。益満から、便りでもあったか」

「いいえ」

「あれも、この辺へ参っている筈だが――」

「益満様が?」

 綱手は、こういう時に、益満に逢えたなら、と思った。

「疵は、皆浅手じゃで、心配することは無い」

「腹の疵も、少し痛むくらい――」

 と、小太郎は笑った。

「自分で斬ったのが、一番、深手じゃとは、おかしい、あははは」

 綱手は、二人の話によって、小太郎が、自分で腹を切ったと判ったが、それに対して、口を利くことさえできなくなっていた。月丸のことで、頭の中に熱い風が吹きまくっていた。



調所の死

[編集]

 斉興は、調所が、襖のところへ平伏したのを見ると

「何うじゃったな」

 と、声をかけた。調所は、それに答えないで、静かな足取りで、斉興の前へ来て

「御人払いを――」

 その眼の中にも、言葉の中にも、いつもの調所に無かったものが感じられた。

「人払いか」

 と、斉興は、軽い不安を感じながら

「皆、退れっ、遠慮致せ」

 と、手を振った。近侍達は、一人一人、礼をして、作法正しく、次の間へ立って行ってしまった。

「何事じゃ。又、わしに隠居をせいと――かな」

 調所は、黙って、首を振った。それから、じっと、斉興の顔を見て

「手前、覚悟致しておりました時節ときが参りました」

「覚悟しておった?――何ういう覚悟」

 調所は微笑した。

「十余年前に申し上げました覚悟――万一、密貿易みつがい露見の暁には、手前、一身に負いまして、御家の疵には――」

 と、まで云うと、斉興の眼は、鋭くなって、叱りつけるような口調で

「そりゃ、真実か。真実、露見致したのか」

「致しました」

「そいつは伊勢(老中、阿部伊勢守)の手に握られているのか」

「はい」

「何んとして?――誰が、そのような――」

「心当りもござりまするが」

「誰じゃ、其奴は――」

「匹夫の業、格別咎め立てしても」

 斉興は、烈しく、首を振って

「いいや、八裂きにしても飽き足らぬ奴。他国よそ者か、家中の者か」

「その詮議は後として、御前、伊勢の手に、証拠が入りました以上は――」

「何ういう証拠が入ったか?」

「しかとは存じませぬが、それにも、心当りがござります。然し、緊急の御相談は――密貿易みつがいの罪は、手前負うと致しまして、手前亡き後の財政処理のこと、又、密貿易を、今のままに続けるか、続けぬか? 琉球の処置方、同意町人共の処置方、又、もし、公儀より、この件について、御手入のあった場合の時のこと、又、手前以外の貿易方御取調べのあった節、何う口を合せるか。それから、手前の務と致しまして、亡き後の物品の処置方、帳面の整理、引合せ等、いろいろの、短い時日の内に、山の如くござりますゆえ、御大儀ながら、その辺、御意見をお洩らし下されますよう――」

 斉興は、俯向いて、じっと、調所の言葉を聞いていたが

かたじけないぞ」

 と、低く呟いた声は、湿っていた。調所は

「はい」

 と、答えて、同じように俯向いた。

「二十年近くの間、今日死ぬか、明日死ぬかと、覚悟をして来てくれた心底、わしにはよく判っておる。忝ない。笑左、改めて礼を申すぞ」

 調所は、答えなかった。

「島津を救い、島津の礎を築いてくれた功績は――」

 斉興は、脇息から手を放して、両手を膝の上へ置いた。

「家中の者に代り、御先祖代々の御霊みたまに代って、礼を申すぞ」

 調所は、畳へ両手をついたままであった。


「笑左――然し――」

 斉興は、手早く、眼を拭いて、いつまでも黙って俯向いている調所へ

「何か、よい分別はないか」

「手前――」

 と、いって、調所も、指で眼頭を押えた。そして、少し紅味がかった眼を上げて、微かに笑いながら

「勇士は馬前の討死を本望と致しますからには、手前は、密貿易にて死ぬのを、本願と致します。この齢をして、三年、五年生き延びんがために、なまじ、悪あがきは致したくござりませぬ」

「うむ」

 と、斉興は、大きくうめいた。

「御茶坊主から取立てられまして三千石近い大身となり、家老格にも列しました上は、仕事は、まず、十中八九までは成就、最早思い残すこともござりませぬ。それに、竹刀持つすべだにも存ぜぬ手前、腹の切りようは、勿論、存じませぬが、従容死に赴いて、死に対する心得のあったことだけは、老後の思い出、若い者に、示しておきたいと存じまする。ともすれば、坊主上りと、世上の口にかかりますが、その坊主上りの死ざまを見せて、冥途の土産にと、平常から――」

 と、いって、調所は、手を懐へ入れた。そして、紙入を出して、その中から、小さい錫の容物いれものを取出した。

「毒薬でござりまする」

 斉興は、黙っていた。

「伊勢の手にて取調べるにしても、まだ、十日、二十日は命がござりましょう。その間に、御奉公の納め仕舞、もう一儲けしておいて、さようならを致す所存、先刻申し上げました処置方のいろいろに就きまして、かかりの者共を、御呼び集め下されますよう。夜長ゆえ、あらましは、二三日にても取片付けられましょう」

「心得た。わしも、手助け致そうが、その毒薬を、そちは飲むのか」

「蘭法にて、何んとか加里と申すようにござりますが、口へ入れると、すぐ、ころり――」

「試みたか」

「犬に試みました。まことに、鮮かに、往生仕ります。老体のことゆえ、長い苦しみは致しとうござりませぬ。なめると、すぐに、ころり。一名、なめころ、と申します。あはははは。いや、こうして居る内にも、時刻は経ちまするから、それとなく、暇乞をするところだけは、今日の内に廻って、明日早々より後始末ということに致しとう存じまする」

「由羅には、申さぬがよいぞ。死ぬなどと」

「はい、御部屋様には、例の方の始末の話もあり、ただ今より御伺い申しましょう」

 調所は、こういって立ちかけた。

「笑左、伊勢へ、密告した奴は、斉彬に加担の奴ではないか」

「で、ござりましょうが、手前にとっては、よい死際、憎い奴でもござりませぬ」

「存じているなら、名を申せ」

「さ――いや、ただ心当りと申すだけ――申しますまい」

 調所は、立上った。

「笑左、本当か、真実露見致したのか」

「これは、異なことを」

「譃のように思えてならぬ。お前が、毒を飲んで死ぬなどと、そうして、笑っているお前が――」

 斉興は、独り言のように呟いた。

「拝顔仕りましてより六十年、夢と思えば夢、長いと思えば、飽き飽きする程、長うござりました」

 調所は、立ったままで、平然として、人事ひとごとのように、朗らかであった。


 斉彬は、七八人の若侍を前にして、自分の写真を、見せていた。若侍達は、次々に、斎彬の写真を回覧しながら

「筆では、こうは描けん」

 とか

「よく、似ておりますな」

 とか――斉彬と、写真とを、見較べてみたり、陽のさして来る方へ、透かしてみたりしていた。

「異国には、もっと、不思議なものがある。十里も、二十里も離れていても、便りができる。一刻の間に――」

 人々は、斉彬の笑顔を凝視めたまま黙っていた。

「電信機、というもので、今、わしは、それを造らしておる。わしは、異国の事物を、悉くも感心はせんが、よいものを、益々、よくして行くという点には、及ばんと、思うておる。日本人には、それがない。支那人にもない。例えば、釈迦の後に、釈迦は出ない。孔子祖述者は、皆孔子以下じゃ。然るに、洋学は、その創始者より、次の代の者、その者よりも、近頃の者と、だんだん、その学文が研究され、究理されて、日進月歩しておる。旧習を墨守せず、よいものは、躊躇することなく取入れておる。だから、日本が、三百年間鎖国していた間に、異国は、遥かに、進歩を遂げてしもうた。それは、お前達にも、よく判っているであろう」

 若侍は、一斉に頷いた。

「じゃによって、これからの若者は、一生懸命に勉強して、それを取返さねばならん」

「そうでござります」

 一人が、感激した声で云った。

「それを取戻すためには、異国へ行かなくてはならん。行くには、言葉を学ぶ要もある。わしが、行けるものなら、明日にも行きたいが――」

 斉彬は、こういって、そのまま黙っていた。

「お供が出来ましたらと、心得ます」

「その中に行ってもらうこともあろう――お前達は、よく判ってくれるが、わからん人達が多い。つまらんことに、青筋を立ててのう」

 と、いった時

「名越左源太、御目通りに」

 と、襖の外で、取次がいった。

「許す」

 若侍は、膝を寄せて、名越の坐るところをこしらえた。襖際で一礼した名越は、人々を、微笑で見廻して

「又、ねだっているの」

 斉彬が笑いながら

「例の講釈じゃ」

「少し、お耳に入れたい儀がござりまして、参候仕りました」

「よい話か、珍しい話か」

「よい話と心得まするが――ほんの暫時、御人払いを――」

「ふむ――」

 斉彬が、何んともいわぬ先に、若い人々は、写真を置いて

「遠慮仕ります」

 と、立上りかけた。

「待て」

 斉彬は止めて、名越に

「一言でいえることか」

「申せます」

「では、その隅へ参れ。一同、そのままでおれ」

 斉彬は、こういって、立上った。名越も立上った。人々は、じっと俯向いていた。二人が、部屋の隅へ行くと、名越が

「密貿易の件にて、調所を、御老中へ訴えましたが――」

 斉彬の柔和な眼の中に、鋭い光が閃いた。


「と、申すと、その方が――」

「いいえ、益満が――」

 斉彬は、静かに元のところへ引返してきた。名越は

(益満のいった通り、お喜びにならぬわい。敵党の巨魁きょかいにしても、調所は、偉物は偉物なのだから――)

 と、思って、後方からついて来て、斉彬の横へ座った。斉彬は、暫く黙っていたが

「益満の在所ありかは?」

 と、名越へ振返った。

「手前のところに引止めてござりまする」

「召出してくれんか」

「かしこまりましてござりまする」

 人々は、何か、相当大きい事件が起っているにちがいない、と思った。名越と同志の二三人の若者は

「何事でござります」

 と、咽喉まで声の出ているのを我慢していた。名越は一礼して出てしまった。

「そこで――この写真だの、電信機などの出来たのは、何んの力かと申すと、理化学によってじゃ。理化学と申す学文は、たとえば、水は何から出来ているか、ということを研究する」

「水は、水からではござりませぬか」

「誰しもそうとしか思えぬ。然し、紅毛人達は、水の無いところに、水のたまるのへ眼をつけた。たとえば、煙管の中に、水がたまる。煙と、火ばかりで、水の縁が無いのに水ができる。これは、何故であろう?」

唾気つばきがたまるのでは――」

「唾ではない」

 と、斉彬がいうと、二三人が

「それが、何故に水がたまります」

 と、口をそろえた。

「それで、いろいろと実験した結果、水は、水素と、酸素と申すものから、成立っているということが判った」

「はあ」

 一人の若者は、熱心に斉彬の顔を凝視して、呻くように答えた。

「酸素と申すものは、どういう形で」

「形は無い」

「色は」

「色も無い」

「臭は」

「臭も無い」

「はて、屁玉より掴みどころのない――」

 人々は、笑った。だが、その若者は、真面目な顔で

「どうしてそれが判りましょうか」

「詳しいことは、皆方喜作に聞くがよい。あれの家には、実験所もできている」

 斉彬は、人に命じて作らせている大蒸汽船、紡織機械、ピストンの鋳造機、電信機などの設計図のことなど思い出して

(調所は、可哀そうに――)

 と、軽く胸をしめつけられた。

(当家は代々、内訌ないこうによって、いい家来を失うが、いつまで、この風が止まぬのか)

 と、思うと、自分が、自分の命を脅かされ、子供を殺されても、無抵抗でいるのに、何うして、自分の近侍に、その気が判らないのかしらと、腹立たしいような、悲しいような気持になってきた。

「益満休之助、御目通りを」

 と、襖外で声がした。


「益満、調笑の事を、御老中へ訴えたと申すのは、真実か」

 斉彬は、もう、平素のように柔かな眼をしていた。

「はい」

「何んと、考えて、訴えたぞ」

「はい」

 益満は、頭を上げて、正面から斉彬を見た。決心と、才気との溢れた眼であった。

「これより申し述べますること、御賢察願わしゅう存じまする。素より数ならぬ軽輩の身、もし誤っておりましょうなら、刀にかけて、申訳は仕りまする」

 益満は、畳から、手を揚げて、膝の上へ置いた。

「最早、かの老人は、有害無益、為すべきことを為し終った上は、ただ一日も、早く死ぬべきものにござりまする。常々、お上の仰せられますが如く、異国との交易は、そのうち、天下公然として営むことに相成りましょう。調所殿の功績は、ただこの一点。承りますると、最早三百万両の非常準備金も、できましたよし。一介の茶坊主より立身して、この功業を為し遂げました上、御家老の列に入り、功成り、名を遂げたる次第。而して、その時こそ、調所殿の死すべき好機にござりましょう。この上の長命も、人の情として、又、某と致しましても、願いまするのは当然のこと。この島津の功臣を、罪無くして殺すことは、致しませぬが、この功績と共に、一方、お由羅方に通謀して、赦すまじき悪逆を企てたる罪、その張本人の一人として、天より、罰を下されるか、人の手にかかるか、当然、調所殿の負わねばならぬ罪にござりまする。もし、お為方の誰かの手にかかり、斬殺でもされましょうなら、調所殿のために惜しみても、余りありますること。今日、某、訴人したる罪を負うて、自裁なされますなら、その最期の潔さ、それこそ、調所殿の一生をまっとうするものに、ござりましょう。さて――」

 益満は、赤い頬をして、米噛に筋を立てていた。斉彬は、眼を閉じて、一言も云わなかった。その外の人々は、俯向いたり、腕を組んだり、益満の顔を見たりしていた。益満は、言葉をつづけた。

「ただ一つ、訴状の筋、禁を犯しましたることが、無事、調所一人の自裁にて、納まりますや、否や、老中が、差赦しますか、何うか、軽輩、某の如き身分として、御老中の心中、幕府の政策を窺うのは、僭上せんじょう至極の沙汰に存ぜられまするが、某、思いまするに、幕府は最早、諸大名に対し、その勢力を失墜しておりまする。又、御老中阿部殿は、穏和至極の人にござりまする。第三に、お上とはただならぬ交りの仲にござりまする。第四に、禁を犯して、密貿易を行っておりまする家は、外にもござりまする。第五に、それを、従来より黙認致しておりまする。第六に、密貿易は、国益になることにござりまする。第七に、禁を破ることとはいえ、幕府を危くすることとは異っておりまする。第八に、密貿易の証拠として御老中へ拙者より呈出しおる物は、悉く調所殿が咎めを負うべき性質のもので、当家へお咎めがござりましょうなら、某にても立派に申し開きの立つものにござりまする。第九に、当家と、幕府とは縁者にござりまする。第十に、もし、御当家へ咎めのかかることがあれば、証拠書類は、某の謀書として、この腹一つ切れば、よろしきようにも企んで置きましてござりまする。常々、お上より、天下大難の時、家中の争を禁じるようとの仰せを、蒙ってござりますが、家中に、両党あり、二君あっては、一致して、外敵に当り得ましょうか? 先ず、身を修め、家を修めて、困難に当るのが順序、某これだけの思慮を致しまして、調所殿を訴え出でました次第、もし、過っておりましょうなら、覚悟は、とくより致しておりまする。お耳に逆いましたる段、お詫び申上げ奉りまする」

 益満は、いい終ると、平伏した。人々は、ほっとして、身体を、首を動かした。


「よく思慮した。お前として、天晴れな思案じゃ」

 斉彬は、片手で、火鉢の縁を撫でながら

「然し、人の上に立つ者として、そうも行かぬ。お前は、わしのために、調笑ずしょうの、人を憎み、罪を憎んでいる。或いは、罪をのみ憎んで、人を憎んではおらぬかも知れぬが――わしは、お前が頼もしいと同じように、調笑も頼もしい。それはな、調笑が、当家の財政破綻を救ったから、頼もしいのではない、救わずとも、わしの性――とでも申すか、家来は、皆頼もしいものじゃ、と思うている。いろいろの噂がある。わしの子は、四人とも死んだ。お前達にいわせると、殺された、というかもしれぬ。そして、調笑も、その張本人の一人だというかもしれぬ」

 斉彬は、俯向いて、黙然としている人々へ、穏かにこういいつつ、自分も、じっと、眼を膝の上へ落した。

「いうかも知れぬでなく、それが、真実かもしれぬ。そして、わしも、凡夫である以上、子を殺されては、嘆かわしいし、殺した者を憎む情も、持っておらぬことは無い。それは、益満、人間、自然の情じゃ。然し――ここをよく聞いてくれ。父、斉興がおわす。今、お前の申した如く、政道筋が、或いは二途に出ているように、世間は感じておるかもしれぬ。確かに、幕府などは、父を差置いて、万事、わしと談合をしに来る。そして、わしは、それにいろいろと申し述べることもある。これは、子として、確かに、父に反く者じゃ。或いは、調笑等の企てよりも、罪としては、深いものかもしれぬ。だが――」

 斉彬は、暫く、言葉を切った。

「だが――天下の形勢――つまり、幕府の事情、異国の事情、人心の帰趨、動揺を見る時、わしは、父も、子も、家来も、無論、わしをも、生犠いけにえとして、この日本を救わねばならぬような気がする。そして、ただ、それだけが、わしの天から与えられた職責で――少し、いうのは、おかしいが、今、日本において、そういうことを考えているものは、わしら二三人の外にない――と、いう自信も、持っている。益満は、只今、家の中さえ修められずに、外敵に当りうるかと申した。如何にも、家は修まっていぬ。然し、わしは、家を修めて、わしの手で外敵に当ろうとは思わぬし、それは、出来ないことじゃ。それを行うには、わしの考えていることを、日本中が、一致して行ってくれることで、わしは、わしの意見が、天下の輿論よろんとなれば、それでいいと思うている。実行とは別じゃ。つまり、わしが時代の生犠となって、それが、人民の、当路の、目を醒ましてくれればよい。日夜、わしは、それを念じて、わしの思うたことを、微かながら、実現しようとしている。子は可愛いぞ、益満、然し、天下のために、子を斬る時も、人間にはあるぞ。まして、お前達、軽輩の身軽さとはちがう。いろいろの、つまらぬ、小さい、煩わしいことが、わしを縛っている。それと闘いつつ、己の、感情と闘いつつ、わしは、日夜ただ、そのことのみに突進しておる。そして、それを知っていてくれる者は、僅かに二三人じゃ。時々は、淋しゅうもなる。わしとて、子と共に遊び、父のよい機嫌を見、奥と楽しく語らう味を、知らぬものではない。然し、日本の前途を思うと、そうはしておれぬ。こうしている一刻たりとも、時間が惜しい。身が軽かったなら、わしは、異国へでも行っておろう。益満、判るか、わしの心が――」

 斉彬は、微笑していたが、座の一人は、涙を流して、膝の上へ落ちたのを、拭こうとはしなかった。益満は、俯向いたまま、黙っていた。


「お察し申しております」

 益満の声も、少し顫えていた。

「よって――よって、奸物共が、憎うて」

「お前としては――然し、わしには、憎む暇がない。又、わしに万一のことがあれば、久光が立つであろう。久光は、わしの心をよく知っていてくれるし、わしの志をも継いでくれるであろう」

「久光殿と、殿と、較べ物になりませぬ」

 益満は、鋭くいった。

「では、わしに万一の事があれば、誰が志を継ぐ? お前が、島津の当主になれるか?」

「万一のことなどと――よって、奸物共を――」

「万一とは、兇刃に倒れることだけではない。薬品の爆発もある。意見の相違による刺客もあろう。幕府の方針の変更による処分もあろう。わしも、わしの身辺も、多事なのじゃ。だから、いつも、申すが、お身達には、判っておるようで、判っておらぬらしい。つまり、わしの仕事を助けてくれること、天下のために、生犠となる所存の下に、この国の危機を救い、福利を計ること。僅か、百万石足らずの家督を争ったり、子供の二人、三人の死ぬことに、腹を立てたりしておる時では、ないではないか。わしは、幾度、幕府にすすめられても、相続せぬのは、それゆえじゃ。しても、せんでも、わしの仕事に変りはない。幕府は、父君が、保守家ゆえ、わしを立てて、幕府の進歩的方針の一助にしようと、考えているらしいが、問題は、開国するか、せぬかの一つではない。それも重要なことにはちがいないが、もっと、国民の根本を富ます、産業の発達法も、わしの外には考えている人がない。わしは、紡織機械に工夫を凝らしているし、シリンドルの製造にも、着手している。又、電信と申す、人智では考えられぬものにも、手を着けておるが、こういう理化学品を、どんどん作るほかに、天産物に乏しいこの国の福利を計る方法は無い。然し、世の中は、大船を造ることさえ禁じられている。いつになったら、わしの意見が、輿論となり、実行となるか? それを考えると、眠る暇も惜しい。のう、益満、お前と、わしとは、考えていることが、根本的にちがっているのではないか。お前の、只今、申したことは、わしには、よく判る。有難い志じゃ。然し、わしには、何んの役にも立たぬことではあるまいか? わしの仕事には、何んの助けにもならぬことではあるまいか」

 益満は、俯向いたまま、答えなかった。一人が

「如何致しますれば、お助けできましょうか」

「それは、いろいろとある。異国へ渡って、異国の文物を見て来るのもよいであろう。わしは、わし自身でも行きたいと、思うているくらいじゃ。又、語学を学んで、よい書物を訳してくれるのもよいであろう。又、機械の取扱いに熟練するのもよいし、何か、有益なものを発明してくれるのも嬉しいことじゃ」

 一座の人々は、未だ、黙っていた。斉彬の言葉は、よくわかりはするが、遠いところに灯っている大きい燭光のようであった。自分達の近づけない、えらい主君であると思うと同時に、余りに、その距りがありすぎて、斉彬のこうした意見には、誰も、何も、いうことができなかった。

「某の処置は?」

 と、益満がいった。

「お前は、お前のしたい通りにするがよい。とめはせぬ。然し、うれしいことでもない。お前は、国許におる西郷吉之助と二人で、仕事をしたなら、やりすぎが無うてよいがの」

 斉彬は、然し、頼もしそうに、益満を眺めていた。


「遠路、お疲れなされたで、ありましょう」

 お由羅は、古代紫の綸子の被布を被て、齢に似ぬ大奥風の厚化粧をしていた。調所は

「手前は、御覧の如く、齢をとって皺くちゃになり、従って、疲れを覚えるようにもなりましたが、お方様は、だんだん若くおなりになりますな」

「お前様のお蔭で、近頃、ずんと、くったくが無くなりましたからのう」

「結構な至りにござります。手前は、旅にも疲れを感じるようになりましたし、又、生きているのも、物憂くなって参りました」

 調所は、こういって、お由羅の側にいる深雪に、じっと、眼を注いでいたが

「その御女中は、近頃、召抱えになりましたかな」

 お由羅が

「あれかえ」

 と、深雪の方へ顔を向けた。深雪は、お由羅と、調所との眼を、ちらっと見て、すぐ、俯向いた。胸が波立った。調所が

「お前は、仙波の娘ではないか」

 深雪は、調所の言葉にはっとして、耳朶を赤くしたが

「いいえ」

 お由羅が、鋭く、深雪を見た。

「ちがうか――益満休之助と、同じ長屋の隣同士に住んでいた仙波と申す者の娘が、大阪へ、わしを手頼たよって参ったが――瓜二つじゃで」

 お由羅が、口早に

「仙波の娘が、お前様を、手頼って?」

「母子二人で――」

「そして、何う致しましたえ」

「手前、その娘を、浜村孫兵衛の倅へ、縁づけるよう申し残しておきましたが、如何致しましたか」

「仙波は、牧様を討とうとして、殺された、八郎太とか申す者ではござりませぬか」

「ま、その話は後にして、少々、内密のことを――」

 お由羅は、女達に

「次へ退りゃ」

 と、命じた。女中達が、立って行った。深雪は、立ったのも、歩いたのも覚えなかった。見破られたのではないか、という不安よりも、南玉が、半分疑いながら知らして来てくれた父が殺されたということが、確実になったので、覚悟をしていながらも、深雪は、胸をくだかれた。

(この間見た夢のように――)

 と、思うと、父の外、兄にも、母にも、姉にも、何んな不慮のことが起っているか、知れぬ気がしてきた。深雪は

(お由羅を刺せ)

 と、父からいいつけられたが、何も知らずに、自分を、意地の悪い老女からかばってくれ、助けてくれ、古参よりも可愛がってくれるお由羅を、何うしても刺す気にはなれなかった。

(でも、父が、殺された上は)

 そう思って、萎えてくる心を励ましてみても、父が、兄が、何故あんなに、敵党の人々を憎むのか?――お由羅でも、斉興でも、調所でも、いい人だのに――と、深雪は、男のように、心の底から、憤りを、これらの人々に感じることが出来なかった。いくら

(憎め、殺せ、刺せ、悪人だから)

 と、いわれ、悪人だと思ってみても、毎日やさしくしてくれ、可愛がってくれる人を、殺す気にはなれなかった。然し、父が殺され、お家が危い以上、自分のそうした感じを捨てて、命じられた通りに刺し殺すより外に、小娘の深雪としては、考えようも、しようもなかった。

 女中達は、次の間で、二人のところへ持って行くべき、茶と、菓子とを備えていた。深雪は

(自分さえ死ぬつもりなら――)

 と、思った。

(死んだ方がいい)

 とも、思った。そして

「妾が持って参りましょう」

 と、菓子台へ手をかけた。


 梅野が、茶をもって先に立った。深雪は、心を、手を顫わしながら、少し、顔色を、蒼白めさせて、菓子台をもって、その後方からつづいた。梅野の前へ行く女中が、襖をつつましく開けると、お由羅と調所とが、ちらっと、こっちを見た。二人とも、引締った顔をしていた。梅野が、茶を調所へ差出し、深雪が、菓子を置くと

「深雪、話がある。梅野は、下りゃ」

 と、お由羅がいった。深雪は、俯向いて手をついて、懐の懐剣の紐の解いてあるのを、見られまいとした。

「お前、隠しているのではあるまいのう」

「はい」

「小藤次も、あのお医者も、信用のできぬ者じゃが、お前の、いとしそうな顔を信用して召上げたが、まさか、仙波の娘ではあるまいのう」

 深雪は、心臓をしめつけられるように、苦しくなってきた。情の深い、お由羅を欺くこともできなかったが、仙波の娘だという事も出来なかった。じっと、俯向いていた。調所が

「いや、軽輩には、却って見上げた人物がいる。その輩が、悉く斉彬公を、お慕い申しておるが、お方、これは、悲しんでよいか、喜んでよいか――つくづく思案致しますと、判りませぬぞ。将曹殿、平殿、豊後殿――こう指を折ってくると、碌々人によって事を為すの徒ばかり、手前も、又、お部屋様も、これ軽輩上り――。この女の如きも、又、もし、仙波の娘としたなら見上げたもの――それに、久光公が、又斉彬公に見倣って、若者好き――所詮は、暫くすれば軽輩、紙漉武士の天下に成りましょうか。今度の訴状の如き、その用意の周到さ。御家を傷つけずと、老生のみを槍玉に挙げようとする策略。家老、家老格が十人よっても、出る智慧ではござりませぬ。今、少々、生き延びて、御小遣いを差上げようと存じましたが、いろいろと、案じまするに、手前が、よし亡くなっても、この軽輩の手より、経世上手が出て参りましょう。その上に、密貿易みつがいは、斉彬公の仰せられる如く、そのうち、天下公然としての交易になりましょうが――安心して、明日にも手前、死んでよい時節となりました」

 調所は、一息に、ここまで喋って、茶をのんだ。お由羅は、頷いたが、調所には、返事をしないで、深雪に、鋭く

「何故、返答せぬ」

「はい」

「仙波の娘か、娘でないか――」

 深雪は、頭の中が、くらくらとしてきた。腋の下にも、額にも、汗が滲んできた。そして

「娘でござります」

 と、答えると、身体も、心も、冷たくなったような気がした。手も、膝も顫えた。

「そうかい、それで、何んのために、名を偽ってまで、御奉公に上ったえ?」

 深雪は

(三人きりで、調所は老人だし、この間に突いてかかろうか)

 とも、思ったが、そう思っている心の底には

(済みません、許して下さい)

 と、お由羅の前へ身体を投げ出して、泣きたいような気持もあった。

「深雪、何をするために、お上りだったい」

 お由羅の言葉が、鋭くなってきた。

「返事が、できませぬか」

 いつもの、やさしいお由羅でなく、深雪の身体も、心も、針のついた手で、締めつけてくるように感じる、声であった。

(お父上も、殺されなされた――妾も、こうなった上は死ぬほかはない)

 絶望的な、つきつめた心が湧いて来た。

「責めても、云わせますぞ」

 と、云った時、深雪は、懐へ手を入れた。そして、立上った。

「御免っ」

 と、叫んだ。


 深雪の手には、細身の、五寸程の、懐剣が、握られていた。お由羅が

「あっ」

 と、叫んで、よろめきながら、立上った。そして、両手を、前に突き出して、深雪の刃を、防ぐようにしながら、恐怖と、憐みを乞う心との、混じたような眼で、深雪を見た。

「お許し下されませ」

 深雪は、甲高く叫んだ。そして、短刀を突き出して、一足進むと共に、お由羅は、後方の床の間へ逃げ上った。深雪は、お由羅の眼の中の、恐ろしがっている表情と、自分に憐みを乞うている色とを、感じると共に、声を上げて、泣きたいような気持になってきた。

(許して下さいまし。妾も、お後からお供致します。済みません。勿体無い――妾風情に、あんなに恐れて、あんなに、いじらしい眼で、憐みを乞うて――妾は、決して、決して、お殺し申すような、大それた心はありませぬが、これも仕方の無い――許して下さいまし、妾も、何うしていいのか?――何うしたら――)

 そんなことが、きらきらと、頭の中に閃いた。短刀を突き出して一足進んだきり、お由羅を見つめて、立ったままであった。何故かしら、勿体ないようでもあり、気の毒のようでもあり、可哀そうなようでもあり――突いてかかれなかった。

「たわけがっ」

 調所は、叫んで、立上った。

「誰か――誰かっ、早く」

 と、お由羅が、叫んだ。お由羅が、こう叫ぶと、同時に、深雪は

(見苦しいっ――何んという、周章てた振舞、いつものお部屋様に似ず――)

 と、感じた。そして、そう、感じると、何故かしら、腹が立って来た。

(町人上りの――)

 と、微かに、憎らしくもなってきた。そして、短刀を振上げて一足迫った。その刹那、調所が立上って来て、深雪の、右手を掴んだ。そして

「放せっ」

 と、叫んで、短刀を持った手を、力任せに、締めつけた時、二三人の女中が、襖から、中をのぞくと

「あっ」

 と、叫んで、駈け込んで来た。深雪は、ちらっと、それを見ると、その瞬間、懐剣を、自分の胸へ突き刺した。そして、よろめいた。眼がすっかり、上ずってしまった。顔色は、灰色であった。

 二三人の女中が、蒼白になりながらも、深雪を、後方から抱きすくめるのと、調所が、深雪の手から、懐剣をもぎとるのと、同時であった。

 次の間には、高い声と、それから、幾人も幾人も入って来て、深雪を取巻いたり、お由羅へ

「御無事で」

 とか

「如何なされました」

 とか、口早に、騒がしく喋った。調所が

「医者を呼んで、手当をしてやれ。一同、出い。これしきに、何を騒ぐ」

 と、怒鳴って、未だ、何か、声高に云いつつ、深雪を、運んで行く女中達へ

「静かにせんか」

 と、叱りつけた。

 お由羅は、蒼白な顔に、固い微笑をして、着物をつくろいながら、脇息を引寄せて、元の座へ坐った。

大外だいそれた――」

 と、いう呼吸が、はずんでいた。

「お方を斬れと、命じられたのでござりましょう。然し――」

「目をかけてやっておるに――」

「だから、斬るに、斬られず。察しておやりなされ。あの女と、地をかえて、あの女になったとして――きつい処分をせずに、狂人にして、宿へ下げてしまいなされ。小女の一人、二人、罪にしたところで、手柄にはなりませぬ。平生慈悲をかけられて、親からは、何か申しつけられて、十七や、八で――お方など、あの娘盛りには、四国町の小町娘で、付文を読むのに忙がしかったばかりでござろうがな。あはははは」

 お由羅も、笑った。

「許してやりなされ。よい、功徳になりまする」

「許しましょう」

「有難うござりました。齢寄りの手前として、それが何より、有難うござりました」

 お由羅は、調所も、老いてしまったものだ、と思った。


 仏壇の中の黄金仏は、つつましく、燈明の光に、微笑んでいた。白い菊の供え花、餅、梨、米――それから、新しい金箔の光る先々代、島津重豪の「大信院殿栄翁如証大居士」と書いた位牌が、中央にあった。

 金梨地の六曲屏風で、死の床を囲って、枕元には、朱塗の経机が置いてあった。そして、その上には、紺紙金泥に、金襴の表装をした経巻一巻と、遺書を包んだ袱紗ふくさとが、置かれ、その机と、枕との間には、豊後国行平作の、大脇差が、堆朱ついしゅの刀掛けに、掛かっていた。


 調所は、白麻の袷を重ね、白縮緬の帯をしめて、暫く、仏壇の前で、黙祷していたが、手を延して、経机の下から、金の高蒔絵をした印籠を取出した。そして

「お流れ頂戴仕ります」

 と、小声でいって、仏壇に供えてあった水を取下した。印籠を開けると、黒い、小さい丸薬が、底の方に、七八粒あった。調所は、それを、掌の上へ明けて、暫く眺めていた。部屋の中を、静かに、見廻したり、俯向いたり、又、丸薬を眺めたり――そして、微笑して、口のあたりへ、掌をもってきた。それから、指の先で、摘み上げて、暫く、いじっていたが、そのいじっている一粒を、静かに、口の中へ入れた。

 皺の多い、筋肉のたるんだ、歯の少し抜けた脣を、暫く動かしてから、ちょっと、眉を寄せて、水を、一口飲んだ。そして、両手を、膝の上に置いて、じっとしていた。

 人々は、寝静まっているらしく、何んの物音もしなかった。次の間には、茶釜が、微かに鳴っていた。

 調所は、自分のして来た努力の完成したことに、十分満足であったし、もう、これから後に、自分が出ようとする仕事の無いのにも、十分、安心ができた。

 腹の中が、少し熱くなったようであった。調所は、脣をめてから、もう一度、仏壇へ御辞儀した。そして

「ただ今、おあとを、お慕い申しまする」

 と、いった。それから、膝を斉興の居間の方へ向けて、同じように、頭を下げて

「つつがなく、御帰国、遊ばしませ。これにて、御家は、安泰にござりまする。御寿命の後は、冥途にて、又、御奉公を勤めまする」

 そういってから、暫く、言葉を切っていたが

「斉彬公にも、つつがなく、在しますよう。御幼君には、あの世にて、お詫び申し上げまする。老人の亡き後は、意のままに、御消費下されますよう。三年越しにて参りましたる江戸の形勢は、仰せの如く、開けて参っておりまする。御賢明の段、当家のために、祝着至極しゅうちゃくしごく、老人、思い残すところ、一つも、ござりませぬ」

 調所は、脣に微笑を浮べて、眼に、涙をためていた。それを、暫く、拭きもしないで、じっと、襖を凝視めたまま、微笑していた。遠くで、時計が、三つ鳴った。

 調所は、膝の上に置いている毒薬の入った掌を、口へ当てて、仰向いた。掌が空になると、水を取上げて、一息に飲んだ。そして、仏壇と、斉興の方とへ、御辞儀をして、床の上へ坐った。白い木綿の下蒲団の上に、甲斐絹かいきの表をつけた木綿の上蒲団であった。その上へ、仰向きになって、眼を閉じた。幾度か枕を直してから、身動きもしなくなった。


 だんだん、胃が熱くなって、呼吸が、せわしくなり出した。

(楽に死ねると、いっていたが――)

 調所は、熱さを増して来る胃の腑を、じっと、眺めていた。そして、脈へ手を当てると、脈搏みゃくはくは、急であった。自分でも、感じるくらいに、呼吸が烈しく、肩が、自然に動き出した。然し、胃は、それ以上に、熱くなって来なかった。

 その内に、身体中が、少しずつ、だるくなってきた。関節が、倦くて、堪らないから、揉みたい、と思ったが、もう、手を動かすのも、厭であった。

(いよいよ毒が、廻ってきた。この位で死ねたら――)

 と、思った。倦さが、少しずつ薄らぐと、手の先、足の先の感じがなくなって、いつの間にか、胃は、熱くなくなっていたし、呼吸が早いが、低くなっていた。そして、だんだん眠さが、拡がってきた。

(深雪を、赦してやれと、いったが、赦したかしら?)

 調所は、少し、口を開けて、静かに、呼吸をしていた。

(鬱金、十二貫目)

 調所は、袋に入れた、鬱金の包が、近くにあったり、遠くにあったりするのを見た。

(将曹は、奸物じゃ。然し、斉興公の御引立を蒙ったわしが、斉彬公の御味方になれるか? 奸物と申しても、綱手と申す女は――益満か――御金蔵に、火がついた?)

 調所は、脣に、微笑をのせて、少し、口を動かした。

(わしは、何を、考えていたか? 夢をみたのか?――いいや、死んで行くのじゃ。ちがう、今死んでは、島津の家を、何うする?――島津――島津というのは――)

 調所の、眼の下に、脣に、薄い隈取くまどりが出てきた。細く、白眼を開けて、薄く、脣を開いたまま、だんだん冷たくなって行った。二三度、微かに、蒲団が、動いた。

 四つの時計が鳴って暫くすると、邸の中が騒がしくなった。人声は低く、物音は高く。それは、邸内のみでなく、門の外にも、馬のいななき、馬蹄の音、話声がしていた。

 長い廊下の端から、調所の部屋へ、近づく足音がして

「御家老様」

 と、いう声がした。

「御用意を、お願い仕りまする」

 暫く、そういったまま、黙っていたが、返事が無いので、立去った。

 物音も、人声も、だんだん高くなってきた。そして、小走りに、走って来る足音がして

「調所殿」

 と、叫んだ。返事が無かった。

「御免下され」

 襖が開いた。仏壇の明りは、微かになって、またたいていた。

「御出立でござりまするが――」

 侍は、臥っている調所に、こう声をかけて、じっと、顔を眺めていたが

「調所殿」

 と、叫んだ。そして、さっと、顔色を変えて、膝を立てて、滑るように、近づいて、額へ手を当てた。素早く、経机の上を見た。胸へ手を差込んだ。そして、立上ると、廊下を、けたたましく走って行った。

 暫くすると、忙がしく、大勢の足音がして来た。参覲交代のために、帰国する旅支度の斉興が、躓くように、廊下を急いで来た。眼を光らせて、脣を顫わせて、危い足取りを、急いで、小走りに走って来た。手燭を持った若侍が、足許を照らしていたが、斉興の足とすぐ、ぶっつかりそうになって、その度に、燭が揺いだ。



地獄相

[編集]

「綱手」

 百城は、床柱に凭れて、膝を組みながら

「大阪へ戻っては――存じておろうが、取締りが、厳しゅうて、思うままには、逢えぬ。それで、ここで、ゆっくり、話をしたいが――御国許で、同志の人々は?」

 外には、高瀬川が、音もなく、流れていた。綱手は、宿の女に、云いつけて買わした、京白粉、京紅で、濃い化粧をして

「母から、聞いておりますには――」

 ちらっと、百城の顔を見た。そして

(男らしい――やさしい――)

 と、思って、眼の底に残っている、百城の顔を楽しみつつ、俯向いた。

「それを聞かしてくれぬか? 同志の人々も、存ぜずには、手段も、めぐらせぬ」

「でも、母は、女のことゆえ――」

 眼に、十分の愛を――媚を現して、下から見上げて

「しかと、しましたことは――」

「いいや、母上は、男優りであるし、御存じであろう――ほぼ、重だった人の名さえ聞いておけばよい」

「では、心憶えのままに――」

 綱手は、首をかしげた。

「少し待て、硯を――」

 百城は、床の間の硯をとった。

「水が、ござりましょうか」

 硯の中は、乾いていた。百城が、手を叩こうとするのを

「これを――」

 と、化粧した使い残りの水を、鉢から、指の先で、硯へ落して

「いいえ、妾が――」

 百城が、墨をとったのを見て、硯を、自分の方へ引いた。百城は、微笑して

「手が、汚れるに」

 綱手は、百城の差出した墨の端を、指ではさんでいたが

「まあ」

 と、低く叫んで、やさしく睨みつつ、墨を引張った。そして

「お手々が、汚れます」

 二人は、墨をもったまま、一寸、顔を見合せたが、百城が

「お互に、汚れた」

 綱手は、真赤になって俯向いた。

「綱手」

 百城は、左手を延して、綱手の手首を、握った。

「今夜は?」

 綱手は、首を斜めにして、襟元の美しさを、見せながら、黙っていた。

「戻るか――それとも――」

「どちらなりと――」

「泊るか」

 綱手は、小さい声で

「御意のままに」

 百城は、手と墨と両方を放して

「さて、同志の面々は?」

 綱手は、黙って、墨を摺り出した。百城は、懐中から紙を取出して、筆を、硯へ入れた。

「未だ、薄う、ござります」

「そなたの、情のように――」

「まあ――」

 綱手は、筆を置いて、眼を見張りつつ

「では――貴下様の手で――濃くなりますように」

 と、云って、硯を静かに、百城の前へ押しやった。

「摺ってはくれぬのか――怒ったか?」

「はい」

 綱手は、俯向いて、少し、膝を百城から反向そむけた。

「では、濃くしようか、濃くなるかの」

 百城は、片膝を立てて、綱手の肩を、引き寄せた。


「町奉行兼物頭、近藤隆左衛門か」

 百城は、紙へ、したためた。

「御同役の、山田一郎右衛門様」

「それから?」

「御船奉行の高崎五郎右衛門様(高崎正風の父)

家老      島津壱岐

 同      二階堂主計

物頭      赤山靱負

屋久島奉行   吉井七郎右衛門

弟御の     村野伝之丞

        吉井七之丞

裁許掛見習   山口及右衛門

 同      島津清太夫

兵具方目付   土持岱助

宗門方書役   肱岡五郎太

広敷横目付   野村喜八郎

郡見廻     山内作二郎(山内八二祖父)

地方検見    松元一左衛門

製薬掛兼庭方  高木市助

琉球館掛    大久保次右衛門(大久保利通の父)

広敷書役    八田喜左衛門(八田知紀)

        関勇助(関広国)

諏訪神社宮司  井上出雲守

 それから――軽輩の方々では――」

「軽輩は、よい」

 百城は、書き終って、じっと、眼を通していたが

「成る程、いや、忝ない」

 そういって、頷いた眼の色には、決心が、十分に現れていた。

「兄と、一緒に、お力添えを願いまする」

「おお、聞き遅れたが、小太郎殿は? よい方かの」

 百城は、紙を懐へ仕舞った。

「はい、明日にも、下山して、と申しておりました」

「刀が、使えるかな」

「脚の疵が、癒りきらず、少し、危うござりますが、腕は、十分と申しておりました」

「流儀は?」

「鏡心明智流でござります」

「桃井春蔵の?」

「一刀流も、習いましたそうで――」

「目録か、免許か、その上か。なかなか、よく使えると見えるが」

「いいえ、免許は取っておりますが――」

 百城は、じっと、考え込んだ。

「脚は? 跛を引くくらいに?」

「はい、少しばかり」

「右か、左か」

「さあ」

 綱手は、右を見たり、左を見たり、百城の脚を見たりして

「右でござりましたかしら」

「右と、左によって、懸り方がちがってくるが――」

 百城は、小太郎の太刀筋と、右の跛を引きながら、斬りかかって来るのに対して、何う外して、どこを攻めるかを考えていた。

「何を、お考え? 後悔なさいましたのでは、ござりませぬか」

「何が、後悔?」

「妾とのことを――」

「後悔か――」

 百城は、じっと、綱手を見た。そして

「綱手、如何なることがあろうと、後悔するな。人間の致す程のことに後悔するような悪はない。なしたいことをなす。それでよい。なしたいことに、悪はない。悪と感じても、押切れば救われる」

 綱手は、黙っていた。


「綱手と申す女は、その方か?」

 調所に代った新任の大阪の留守居役、中島兵太夫が、眼鏡越しに、綱手を見て、老人らしい、人のいい笑顔をした。そして、火鉢へ、片肱をついて、片手に、火箸をいじりながら

「昨日、堺町人の、浜村と申すのが、参っての――」

 綱手は、心臓を、握りつぶされたように感じた。いつか、調所のいった、浜村孫兵衛との縁談が、その場かぎりの話でなく、あんなに軽い戯談のような口振で、話しておきながら、もう、先方へ、通じてあったか、と思うと、自分の行末を案じてくれた調所の親切が、憎く、悲しくなって来た。

「調所殿より、お話のあった、お前との、縁談、如何でございましょうかと、浜村め、申して参った。わしは、来て早々、何も存ぜぬから、奥役に聞くと、確かに、使したと、申しておるが――存じてもおろう、調所殿の急死――大は、御当家を起したことから、小は、お前達の身の上までも、案じておられたえらい方じゃで、この志を無にしてはならぬし――それに、お前の母も、国へ戻って、お前一人では、淋しくもあろうし、と、申して、このわしが、慰めても、聞くまいし、あはははは、怒るな、美しい女を見ると、戯談の一つも、申したくなるものじゃ」

 綱手は、蒼くなって、俯向いていた。返事が、できなかった。兵太夫は、人の上に立つ者として、女中の身の上の始末などは、意のままになると

「それで、来月早々が、よかろう、と返事しておいたが、そのつもりをして、支度をするがよい。母も、聞いたら、喜ぶであろう。支度、その外、万端のことは、浜村と、わしとで取計らってとらせる。浜村の倅は、なかなか、おっとりとして、よい男じゃ。この辺の、隼人と、柄がちがう。心得たか」

 綱手は、頷いておくより外に、方法がなかった。

「嬉しいであろう、はははは、娘時分と申すものは、見ておって悪うない。国の女子にしては、珍しく美しいが、当屋敷の若い者の中では――のう、袋持」

 兵太夫は、こういって、片隅の机で、何か書物かきものをしている、袋持へ、話しかけた。

「はい」

「牧の倅と、よい夫婦めおとだがのう」

「百城氏とで、ござりまするか」

 綱手の、身体中の、血管が、凍えて、止まってしまった。

(牧の倅――百城)

「女共が時々、噂しておるげじゃが、調所殿の、二世さんでもあったかな」

「いえ、決して左様な」

 袋持は、気の無さそうに答えて、机へ向った。

「牧の倅を存じておろう。百城月丸」

 綱手の、眼は異様に光って、脣が、顫えていた。

「百城様は――牧様とは、あの、牧――仲太郎様の――」

 兵太夫は、眉をしかめて、じっと綱手を見ていたが、

「何んとした」

 只事でない綱手の顔を、じっと見て

「如何したのじゃ。大層、顫えておるではないか」

 綱手は、蒼白になって、膝も、手も、口も顫わせていた。

「何処ぞ、悪いのかの」

 綱手は、黙って、首を振った。袋持が、振向いた。そして、じっと、綱手を睨みつけるような眼で眺めていた。


 綱手の頭には、熱い火が、狂い廻っていた。しかし、額は冷たくて、眼は、空虚うつろであった。何を見ているのか判らなかったし、何処にいるのかも、判断できなかった。

(月丸様は、牧様の御息子――)

 そんなことが、世の中にあろうとは思えなかった。

(あのやさしい月丸様が、父を殺した敵の倅?――)

 月丸の言葉を、眼を、振舞を、いろいろに想い出してみたが、そんな月丸とは、思えなかった。

(譃――何かの、間違いであろう)

 綱手は、真暗な、地獄の中に喘ぎながら

(ちがいます、ちがいます)

 と、絶叫した。その途端、その闇の、底の中に、毒紅のような火が、ちらとした。綱手は、恐怖と、脅えとに、眼を閉じたが、火の、炎々としているのは、よく見えていた。それは

(月丸様が、同志の名を聞いた――疑えば――妾を、欺して――)

 と、語っていた。綱手は、両手で、眼を閉じて

(そんなことはない)

 と、悲鳴を上げたが、毒の火は、冷笑するように、燃え上っていた。いつの間にか、赤裸にされて、地の底の闇の中に、悶えている自分の姿が、見えてきた。

「綱手殿、何とした」

 耳許で、袋持の声がした。

「はい」

 いつの間にか、自分でも、判らないうちに、綱手は、袖を、顔へ当てて、泣き伏していた。

「困った女だのう」

 と、いっている兵太夫の声が、聞えた。

「袋持、何か、訳があろうが、聞いてやるがよい」

「はっ――綱手殿、次へござれ」

 袋持が、肩へ、手をかけた。

「参ります――ふと、いろいろの事を、思い出しまして、御眼を汚し、申訳、ござりませぬ」

 綱手は、手をついた。

「何々、正気づけばよい。少し、血の道の気かの。はははは。嫁入すると癒る。心配致すな」

 綱手は、立上った。

(死ぬ外はない)

 と、思った。だが、すぐ

(一目、月丸様に、逢って――真偽を、ただして)

 綱手は、袋持の後方から、廊下へ出ると共に

(月丸様を殺して、死ぬ――いいや、あの方は殺せぬ、自分一人で――いいや、それよりも、あの方が、よし、牧様の、お息子であっても、そうでないと、仰しゃって下さったなら――いやいや、牧様のお息子であっても、あの方の恋は、偽りの恋ではない)

 綱手は、もがいた。真暗な中に、宙ぶらりになって、悶えていた。底には、醜悪な臭の火が燃えていた。

(あっ――)

 綱手は、全身で、悲鳴を上げた。

(後悔するな――後悔するな、と、仰しゃった言葉――このことであろう――このことでないかしら、いつかは知れる身の上だと、思うて――そうにちがいない。後悔するな。後悔するな――)

 綱手は、月丸の、その時の顔、言葉つきを思い出した。

「坐るがよい」

 綱手は、袋持の声に、はっとして、頭を下げて、つつましく、坐った。


「綱手――お身は」

 と、云って、袋持は、暫く、言葉を切った。綱手は、袋持など、何を云っても、何をしてもいいと思っていた。

(でも、月丸様は、自分の素性をかくして、妾の素性を知っていなさるのに――)

 と、思うと、叡山の夜が、月丸の深い巧計たくらみから出たようにも思えた。然し、綱手は、自分で、それを、打消した。そして

仮令たとい、そうであるにしても――妾には、月丸様が、憎めない。仇敵かたきとは、仇敵のお息子とは思えない)

 と、思った。

「飾るところなく、申せば――これは、某一存の推察でござるが、百城と、お身と、何か、お係り合いがござらぬか?」

 綱手は、考え込んでいたが、百城という名に、はっとして、心を澄ますと、係り合いがないか、と聞かれて

「係り合いとは?」

「さ、それは、いろいろとあって、申せることも申せないこともござるが――」

「さあ――」

「某の無礼を、お咎めなければ申そうが」

「いいえ、咎めるの、何んのと――」

「では――」

 と、いって、袋持は、じっと、綱手の眼の色を見ながら

「約束事でも、あるか、無いか――したか、せぬか」

 綱手は、一寸、胸を、とどろかしたが、もう、袋持も、邸も、女中頭も、兵太夫も――それから、世の中さえ、怖ろしくはなかった。

(死ねばよい)

 と、決心していた。冷たい、微笑を見せて

「約束とは――」

たとえば、夫婦めおととか――」

 綱手は、明瞭とした声で

「致しました」

 袋持は、綱手の顔を、じっと凝視みつめたまま、暫く黙っていた。

「真実?」

「はい」

「お身は、仙波の娘御。仙波殿は、牧を討つため斬死なされた方ではないか」

「はい」

「その娘御が、濫りに、男と契るでさえ、不孝、不義であるに、人もあろうに、父の仇敵の倅と、契って、それを、恥とは、心得ぬか」

 綱手は、それで、地獄のような呵責かしゃくを感じているのであった。十分に、それくらいのことは、承知していた。自分一人の呵責だけでさえ、その弱い心を引裂かんばかりであるのに、その判りきったことを、又、他の人から聞きたくなかった。頼もしい同志の一人である、と信じていた袋持が、憎くなってきたし

(この男も、月丸のように譃をつくのかも知れない)

 と、思うと、世の中の、悉くの男が、呪わしくなってきた。綱手は、絶望的な反抗心に、燃え上った。

「心得ております」

「それで、何故に――」

「これも、運命さだめで、ござりましょう」

「運命? 奇怪な――奇怪なことを申す。素性も、碌に判らぬうち、肌を許して、その不行跡を、恥じさえせず、運命?――不埓なっ、何を申す」

 袋持は、顔を赤くした。

「暫く待て、百城を、連れて参る。百城は、恥を心得ぬ奴ではあるまい」

 袋持は、口早に、鋭く、こういって、立上った。綱手は、眼を閉じた。

(お父様、冥途で、お詫び、申しまする)

 涙が、又、湧き上ってきた。


「百城――女は、契ったと申す。それが、真実か――聞きたい」

 袋持は、たかぶって来る心を押えて、静かにいった。綱手は俯向いていた。月丸は、腕組して、眼を閉じていた。

「何うじゃ、百城」

 百城は、思いがけぬ詰問に、綱手が、何う答えたのか? 何故、こんなに早く、暴露したのか判らないので、黙っていた。

「貴公は、この娘の素性を、存じておろうな――又、己の素性も、存じておろうな。それでいて、契るなど――それでも、武士か」

 月丸は、眼を開いた。そして、袋持へ、冷やかなひらめきを与えて

「存じている」

「存じていて、何故、契った?」

「惚れた」

 綱手は、月丸の、情熱的な、何をも恐れないような強い言葉に、うれしさが、いっぱいになった。

「惚れた?――そうか――よく申した」

 袋持は、怒りに、拳を顫わせていた。

「この由、御留守居役に、申し上げる」

「うむ、処置は、いかようなりとも、受ける。覚悟は致しておる」

「よしっ」

 袋持は、立上って、足音荒く、出て行った。月丸は、すぐ

「惚れてもいる、綱手。然しながら、欺いてもおる。と、申す訳は――」

「お察し、申しておりまする」

 綱手は、月丸のいおうとすることが、何んであるか、判っていた。それを、月丸にいわせて、月丸を苦しめたくなかった。月丸が

「惚れていたから」

 と、いった言葉で、総て十分であった。仇敵の倅に、肌を許した自分の罪は、死にさえすればよかった。そして、自分が死ぬ以上、月丸を、苦しめたくはなかった。

「察しているとは?」

「父上の同志のことなど、お聞きなされましたこと――」

 綱手は、紅いつぼみのように、ふくらんでいる眼瞼から、愛と、情熱とを込めて、月丸を見た。

「判っておったのか」

「いいえ、あの時は、少しも――只今、判りましてござりまする」

「恨むであろう」

「いいえ」

「憎くはないか」

「少しも――」

「欺くつもりでもあった。欺いても、武士の道には、外れぬ。一つの便法――とも思ったが、既に、その時、心底から、そなたの素直さに惚れておった。この素直な娘を、かく欺いてまで、武士の意地を立てねばならぬかと、わしも、苦しんだ。あの山の夜――大殿のために一手柄を立て、かねて、契りもしようと、二股をかけたが――いつかは、知れること、と思うと、打明けようか、明けまいか。もし、打明けて、別れることになったなら、と、それが、案じられて、打明けもせなんだが、綱手、わしは、お身と契ったからとて――わしは、わしには、お身の父の同志にはなれぬ。不義の味方はできぬ。わしは、八郎太殿が不忠者だと信じている。いいや、もっと、驚くことを決心しておる。それは――小太郎を討つ」

「ええ」

「あの山の夜、小太郎を討ちに参った。契った上は、わしの妻、妻は、夫に従うものと、説き伏せるつもりであったが、あの老僧のために失敗しくじった。お身は女ゆえ家中のことは判るまいが、斉彬公の御振舞は、よろしくないのだ。それで、それに味方する人は不忠者じゃ。小太郎ものう――わしは、何もかも申そう――欺いた。いいや、こう申した上は、欺いてはいぬが、お身とは仇敵同士として、父の子として――いいや、島津家の家臣として、飽くまで、わしは、父につく。正しい父につく。然し、お身は、恋しい。お身も、苦しかろうが、わしも、苦しい。何うしたならよいか。父とお身との板挟みじゃ。いや、武士の道と、恋との板挟みか――綱手、後悔すなと申したのは、ここのことじゃ。わしは、欲が深いと申すなよ。お身を、わしの味方として、恋も、功名も、得たいのじゃ。然し、こうなっては――」

 と、いった時

「月丸、出い」

 と、袋持が、呼んだ。

「女も――」

 二人は、すぐに立上った。


「困ったことが起きたのう、百城、困ったことが――袋持、暫く、遠慮せい。両人、もっと、前へ参れ」

 袋持は出た。二人は、敷居際から、少し前へ進んだ。

「別れぬか、何うじゃな。男も、女も、いろいろとおる。この邸だけでなく、広い世の中に、いっぱいおる。少し、居りすぎるくらいにおる。齢が若いと、すぐ、手近いところに、惚れるでのう。後前あとさきの見境もなく、一緒になってしまって、後で、後悔をする、もっとよい女が嫁に貰えたの、もっと、よい聟が――と。しかし、二人は、よう揃うておる。申分は無い。が、無いが、牧、お前は、牧仲太郎の子として、又、調所殿のあずかり子として、なかなか重任がある。女にべたべたしている身でもなければ、時でもない。尤も、袋持に聞くと、なかなか、苦肉の計であるらしいが、ミイラ取りが、ミイラに、いささか成った形では、少し、武士としても、意気地がなさすぎる。邸の表から申せば、お前は、国許へ戻すか、女は、親許へ下げて、まず、処置するところであるが、ただの家来ではないから、そういう処置もできぬ。処置はできぬが、噂が拡まる。一番、困るのは、拙者じゃ。中島兵太夫、以後、不義へは、睨みが利かなくなる。よいかな、このわしのことを、考えてくれ。又、父仲太郎殿の誠忠無比、一命を賭しての呪術を思い、又、己の行末のことを、思うたなら、ここは、一番、女と別れるのが、何よりの孝行、忠義じゃ」

 一気に、こういって兵太夫は、冷たい茶を飲んだ。

「女も同じことじゃ。孫兵衛の倅は、よい男じゃ。気前も、武士らしい。調所殿が、見込まれた聟じゃし、その親爺も、調所殿の相談対手にもなった大町人じゃ。申し分は無い。百城も可愛かろうが、浜村へ行くと、又、浜村が可愛うなる。去る者、日々た疎しと申して、若い娘は、すぐ血の道を上げるが、暫く我慢して、外の男と添うておりゃ、又、その男の肌がよくなるものじゃで――な、ここは、わしの顔を立て、月丸の武士を立てさせ、その方の身の上も固めると、三方、四方よいように、さらりと、別れるのじゃ。よいかな、もし、ここで、わしの申すことを聞かぬと、わしも、留守居として、殿へ申訳がないから、その方は、母親へ送り届けて、母親諸共、暫く、窮命じゃ。又、百城とて、片手落の捌きはできぬから、仲太郎の許へ戻して、処置をつけてもらわにゃならぬ。何うじゃな、牧」

「はっ」

「女は?」

「よく、判りましてござりまする」

「それでは、別れると、此後一切係り合い無しと、これで、誓紙を作るがよい。早く、承諾してくれて、落ちついた」

 兵太夫は、違い棚から、手文庫を下ろして来て、中から、紙を取出した。

「恐れながら――」

「何かの」

「暫時、両人にて、話しとうござりまするが、次の間を――」

「ははあ――それは、よいが、別れる決心は、したのであろうの」

「はっ」

「なら、少しは――よかろう。許す」

 二人は、平伏してから立上った。兵太夫は、紙を延して、膝脇へ置いた。そして、自分で、茶をついで、飲もうとしながら、じっと、二人の入った次の間を見た。そして、厳格な、留守居役の顔になって、暫く、耳を立てていた。



憤死事件

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 牧仲太郎は、寝不足の眼を血走らせて、誰も入れない一間で、魔天の像を描いていた。

 白い絹の上に描かれて行く魔天の線は、所々薄ぐろく、所々は紅であった。

 眉を立て、眼を怒らせ、口を張った魔天の形は、巧みではなかったが、人に迫る凄惨さを現していた。

 仲太郎の膝の右には、青磁色の鉢があった。その鉢の中に、淀んでいる赤黒い液体は、犬の血と、牛の血と、仲太郎の腕の血との混ったものであったし、魔天を描いている筆は、十三人の人間の生き毛と、八種の獣の毛とを合せて造った筆であった。牧は、その筆に、その血をつけて、一筆を下すたびに

「南無、大忿怒明王、法満天破法、十万の眷属けんぞく、八万の悪童子、今度の呪法に加護候え」

 と、呟いたり、口の中でいったりしていた。

(調所殿が、敵党の奸策にかかって、毒死なされた上は、是非もない)

 と、仲太郎は、決心したのであった。ただ一人、仲太郎の苦衷を知っている調所の死んだということは、仲太郎を落胆させると同時に、狂憤せしめた。

(是非もない――かかる上においては、恩師と雖も容赦すまい。調所殿を殺す人間に、本当の、人間の値打は判るまい。まして、謂わんや、怪奇にして神業の如き、この呪法の判ろう道理がない)

 牧は、ただ一人の、心からの信仰者にして、且、庇護者である調所を失ったことが、淋しくもあったし、情なくもあった。

(大殿、斉興公から、多少の加増があるくらいで、己の命をちぢめてまで、この呪法を拡めようとはしたくない。仮にも斉彬公の公子達きんだちを呪殺してまで、秘呪の威力を示そうとするのは、一つは、調所殿への知己に報いるためであり、二つには、御家のためであり、三つには、天下にこの法を拡めて、破邪に用いんがためであった。自分は、邪法の呪咀を行っているが、邪法は人を呪殺すると、己の命を三年ちぢめる。しかし、正法の呪法は、人を生かし、己をも生かす。それを知りつつ、恩師をも敵として、邪法を行っているのは、広く天下に、この秘呪の正統者を求めんがためであった。調所殿は、この心を知って、十分の言葉を下された。ただ一人の、その庇護者を失って――)

 と、思うと、牧は、絶望し、自棄した。

(何うにでもなれ。この上は、威力の程を見せて、調所殿の後を追ってくれる)

 牧は、黒い毛氈もうせんの上に坐ったまま、一筆一筆に、祈願と、命とをこめて、小さい大忿怒明王の像を描き終った。そして、暫く、それを眺めていたが、それを持って立上って、次の間の襖を開けた。

 次の間には、四人の弟子が、祭壇の周囲に坐って、牧が行にかかるのを待っていた。牧は、灰色の顔をして、弟子の叩頭に、答えもしないで、壇上へ手を延して、戒刀を取り上げた。

 今日の行の、ただならぬことを察している弟子達は、牧のすることに不安を感じながら、見守っていると

「今日の修法は一人でよい」

 と、静かにいった。そして、弟子達が立上るのに眼もくれず、戒刀を抜いて、左手に持った。そして、膝の前に、微かに、瞬いている燈へ、段木をつきつけて、火が燃え上ると、火炉の中に積み重ねてある木の下へ、差し込んだ。


 煙は、部屋の天井を這い廻っていた。異臭は、襖の外まで洩れていた。部屋の中は、薄暗くて、むせっぽかった。

 牧仲太郎の眼は、狂人の眼であった。何かを、宙に凝視めていたが、その一点を、じっと、睨んだまま、またたきもしなかった。その眼は、人間の眼でなく、悪魔のように、光った凄さを帯びていた。

 火炉の灰を塗りつけた額には、冷たい汗が、滲んでいたし、はだけた胸には、滴って流れていた。脣も、手も、膝も、がくがく顫えていて、時々、身体を浮かしては、立上りそうになった。

 右手の戒刀を、引っつかんで、時々、振上げかけては、脣を噛んで、膝の上へ当てたり、左手の画像を、抛げつけかけては、顫える手で引込めた。

 牧は、その凝視めているところに現出している、見えぬ敵と争っているのであった。飛びかかるように身体を突き出すかと思うと、打挫うちくじかれたように、胸を、臂を引いて、その度に歯を剥き出した。

「否、否っ」

 大声で、次の間まで響く声で、叱咤すると、いきなり立った。そして、戒刀を振上げると、すぐ、崩れるように坐った。肩で呼吸をして、全身を顫わして

「邪中の正気、見られいっ」

 と、叫ぶと、火炉の中へ、堕ちかからんばかりに身体を延して、戒刀を突き出した。そして、顔を横に振りながら

「否、否、垂迹すいじゃく和光の月明らかに――」

 と、絶叫して、戒刀で上を指した。

「終末に及んで、分段同居の闇を照らす、これ、邪中の正」

 こう叫ぶと、身体を引いて

「十方充満の諸天、赦させ給え」

 そう叫んだ刹那、牧は

「南無、明王」

 人間の声とも思えぬ絶叫であった。部屋の中へ、爆弾の如く炸裂したかと思うと、左手に握っていた忿怒明王の画像を、火炉の中へ抛げつけた。

 画像は、炎々と燃え上っている段木の焔の上へ、落ちかかると、一煽り煽られた。そして、焔の上へ何者かの手で立たせられたように、さっと、突っ立った。火焔の明りに、照らし出された明王は、牧を睨んでいるようでもあるし、牧の祈願を聞き入れたようでもあった。その一刹那

「ええいっ」

 牧の手の戒刀が、画像へ閃くと、明王の頭から、真二つに切れて、倒れ落ちると共に、その裾から、燃え上ってしまった。

「成就」

 牧は、人間らしい眼に戻って、画像の焼けるのを眺めていたが、片手で礼拝した。そして、燃えつくしたのを見終ると、戒刀の尖で、親指の甲を切った。血が、噴き出してきた。牧は、それを、画像の灰の上へ、そそぎかけた。

 戒刀を下へ置いて、火炉の灰を疵口へつけて、三度、黙祷した。そして、立上ろうと、壇へ手をついたが、腰を浮かすと、よろめいた。首を垂れて、暫く、右手をついたまま、じっとしていたが、静かに、上げて来た眼に、微かに涙が光っていた。


 加治木玄白斎は、疲労と、風邪と、その熱とで、白い中に埋まって、臥っていた。静かな寝息、暗い行燈、何んの物音もしない部屋、部屋。その中で、急に、手を蒲団の外へ突き出すと、鋭い眼付をして

「市助」

 そう叫んだ瞬間、よろめきつつ、起き上っていた。

「はっ」

「用意っ」

 市助は、次の間から襖を開けて、膝をついて、蒲団の上で、危い足つきをしながら、帯をしめ直している玄白斎を見上げて

「修法の?」

「者共を、起せっ」

「はいっ」

 市助が、走って出た。玄白斎は、咳き入りながら、市助の開けておいた部屋へ入って、行燈の微かな明りだけの中を、手さぐりに、火炉の上へ登った。

 廊下に、けたたましい足音がして、三人の門人が入って来た。

「修法を――今から」

「牧を、折伏しゃくぶく致す。早く致せ」

 火炉の中の、焚木は、いつも用意されてあった。和田仁十郎が、祭壇へ黙祷して、その前に供えてある木切をとって、燧石から火をつけると、すぐ、火炉の乳木へ移した。

 玄白斎は、片手を、炉べりへついたまま、首垂うなだれて、肩で呼吸をしていたが

「戒刀を――」

 と、微かに云った。市助が、片隅の暗いところから、金具の光るのを持って来て、差出した。

「和田、高木、よく見ておけ」

 玄白斎は、静かに、こう云うと、燃え上って来た火焔に、脂肪あぶら気の無い顔をさらしたが、すぐ眼を伏せて

「和田、高木」

「はっ」

「わしは、死ぬかもしれぬ」

 二人は、返事をしなかった。

「牧が、修法を致しておる」

「又、致されておりますか」

「わしを――呪殺しようと」

「先生を?――」

さかんな気力じゃ。わしは、この身体で――闘えぬであろう」

 三人は、玄白斎の力無げに、俯向いて云っている言葉を聞いて、返事が出来なかった。

(そうなるかもしれぬ)

 と、三人とも感じた。だが、自分達の力では、何うすることもできなかった。ただ、玄白斎が、どうしてそれを感じたのか? こうして、物を云っている老師が、何うなって死ぬのか――三人は、それが、真実とも思ったし、あり得ぬこととも思った。

「牧――その力を――」

 玄白斎が、呟いた。人々は、玄白斎が、夢でも見ていたのではないかと、感じた一刹那、さっと、玄白斎の顔に、赤みがさすと

「南無諸天、十方世界、円光の内に坐して、光明魏々たり、願くは、分段同居正邪の闇を照らさせ給え」

 何処からか、不思議の力の入って来る玄白斎の声であった。同時に、病に伏していた老人と思えぬ早さで、戒刀が閃いた。

「南無、赤身大力明王、邪修を摧破して、剣刃下に伏滅せしめ給え。いかに、牧っ」

 空間を睨んだ玄白斎の顔は、精気と、凄気とに充ちていた。三人の弟子は、膝を掴み、唾を飲んで、じっと、凝視めた。


 三人には、聞き取れる言葉もあったが、聞き取れぬ言葉もあった。

 玄白斎は、口早に、何かを叫んだり、口の中で呟いたりしながら、苦痛に耐えぬように、眉を歪め、手を顫わしていた。そして、半分立上って、火炉の中へ、倒れかからんばかりに、憤った眼で、何かを凝視めながら、刀を突き出すかと思うと、肩で、荒い呼吸をしては、俯向いてしまった。

 三人は、眼を見合せた。和田が、壇のところへ立って

「先生」

 と、云った。そして、顔を覗き込むと、脣を噛み切ったらしく、血が流れていた。和田は、振向いて

「いかん」

 と、二人の顔を見た。二人も立って来て、左右から、手をかけた。その刹那

「不心得者っ。知己は、千載に待って、猶むなしっ」

 二人のかけていた手から、恐ろしい力で立上った。高木が、壇へ片脚をかけて

「先生」

 玄白斎は、右手の刀を、振るように、顫えるように、上下させながら

「死ねっ、死ねっ、死ねっ」

 つづけざまに絶叫した。そして、左手にかけた珠数を空間へ抛りつけたはずみに、火炉の中へ、片足を突込んだ。高木が、素早く、飛び上って、よろめく玄白斎の背後から抱えた。と同時に、和田が、袖を掴んだ。

 玄白斎は、二人を引きずるように、身体を延して、血の滴っている脣を顫わせて

「知己を失って、悪逆を重ねて、それが、兵道の統棟とうとうかっ」

 部屋の中のどっかに現出している牧の生霊しょうりょうを、叱責しているのであった。二人は、袖を持っているくらいでは、引きちぎれそうなので、玄白斎の帯と、左手とへ、手をかけた。

「先生――先生っ」

 二人は、力を出して、火炉の中から、引戻そうとした。だが、玄白斎の痩せた身体の力は、二人の手に余った。二人は、不思議な力に、脅えるような、気持になってきた。

「乳木が消える」

 市助が、一人に、こう注意した刹那、二人の手の内へ、倒れかかる枯木のように、玄白斎が、凭れかかった。二人が、手に力を入れて、支えると、今まで、あの力の籠った声を出し、あの力で二人を引きずっていた玄白斎が、眼を濁らせ、口を半分開いて、荒い呼吸をしているだけになっていた。

「先生、如何なされました」

 玄白斎は、力のない眼を開くと、すぐ、元のように、空間を見つめた。そして、何か口の中でいっていたが、

「未だっ」

 と、叫んだ。二人が、押えようとした瞬間、玄白斎は、戒刀を振りかざすと、凝視めていた一点へ、斬りつけた――二人が

「危いっ」

 と、絶叫した。同時に、玄白斎は、段木の燃えた中へ、踏み入って、よろめきながら、刀を取落していた。二人が、倒れかかるのを、抱きとめて

「先生」

 と、叫んで、抱き上げると、二人が、よろめくくらいに、急に身体が軽くなっていた。

「いけないっ。皆を呼べっ」

「医者を」

 と、二人が怒鳴った。一人が、走って出た。玄白斎は、灰白色の頬をして、二人の腕の中に、眼を閉じていた。


 床へ横たえられた玄白斎は、そのまま眼を閉じてしまっていた。ただ、呼吸だけは微かに通っていたので、家人、弟子達は、枕頭、次の間に詰め切っていた。

「危いか」

 と、医者に聞くと

「何処と云って――これと云って悪いところもないが、衰弱が烈しい」

 医者は、首を傾けた。市助が

「あまりに、御気力を、お使いすぎになったのだろう。実は――」

 と、呪法のことを話すと

「そうかな、成る程」

 医者は、玄白斎の顔を、じっと眺めていたが

「御城内なり、御親族なりへは、知らせた方がよいの。ただの衰弱ではない。おとしが、お齢ゆえ」

 玄白斎の白い髯は、いつの間にか、光沢を失っていたし、眼の縁に、薄黒い影が滲み出し、頬の艶が無くなり、咽喉仏の骨が、とげとげしく突き出していた。

つまいか」

「さあ――」

 仁十郎と、医者とが、こう云った途端

「うーむ」

 玄白斎の頬に、血の色が差して、眼を開いた。然し、その眼には、もう生気が無くなっていた。玄白斎は、じっと、その疲れた眼で、天井を眺めていたが、仁十郎の方へ一寸、眼を動かして

「刀を――」

 と、云った。

「はい」

 仁十郎は、何故、刀を持てと云ったのか判らなかったので、返事をしたまま、立たなかった。玄白斎も、そう云ったまま、暫く、黙って、眼を閉じていた。

(平生から、御壮健な方だから、このまま、よくなればよいが――)

 と、人々は思った。

「刀」

「はい」

「何故、持って参らぬ。このままわしを、不忠者として、殺す所存か」

 玄白斎は、一寸、頭を仁十郎の方に向けて睨みつけた。

「只今」

 仁十郎が立上ろうとすると

 一人が床の間から、刀を持って来た。仁十郎は、それを枕辺に置いた。

「起してくれんか」

 医者が

「老師、それは、なりませぬ。このまま、このまま」

 手を出して、蒲団の上から押えた。玄白斎は、力無さそうに、蒲団から、両手を出して、その手を除けて

「わしを、生かそうと――それは、忝ないが、無駄じゃ」

「左様なことを――」

「仁十、後方から、抱き起してくれ。もう、体力も、気力も無うなった。ただ未だ、腹は――切れる」

 人々は、はっとした。刀を持って来いという意味が、初めて判った。

「先生、腹を召すなどと――」

 玄白斎は、それに答えないで、身体を横にして、自分で起き上ろうとしかけた。仁十郎と、市助とが、左右から

「先生」

 と、云いつつ、抱きかかえた。

「長年わしの下におって、わしの心が、判らんか」

 玄白斎は、そう呟きつつ、じりじり身体を立ててきた。


 玄白斎は、床の上へ坐って、人々の顔を見廻した。それから

「皆、よく聞け」

 と、云ったまま、咳き入った。二人が、背を撫でた。

「わしは、見る通り、最早、己一人で、起き直る力も無うなった。又――」

 肩で、大きい呼吸をして、暫く、黙っていたが、女中の運んで来た薬湯を、仁十郎の手から一口飲んで

「人に優った気力も、使い果してしもうた。兵道家として、最早、命数が尽きた。抜け殻の身じゃ」

 静かな、というよりも、墓穴の中から、話しかけている人の声のように、微かであった。

「最早――御奉公は勤まらぬ」

 玄白斎は、俯向いて、ゆるやかに、首を振った。

「勤まらぬのみではない、不忠者にも、なった。牧の性根を、見損じた。あれを――」

 玄白斎は、仁十郎を見た。

「久七峠で、斬らなんだ――わしの、生涯の失策であった。わしは、あれを赦してやったが、あいつは、わしを赦さない。わしの、老いた気力を見込んで、呪殺しようとしおった。わしは、呪法争いに負けた」

 人々の顔に、微かな殺気が立って来たが、誰も、口を利かなかった。

「わしが、精力を尽し果して倒れるからには、斉彬公の御命数も危い。これ、皆、この玄白の至らぬ業じゃ。わしの罪じゃ。彼奴きゃつを赦したわしの落度じゃ」

 玄白斎は、俯向いた。

「一つは、その、落度を、君公に詫びる上から――二つには、わしが兵道家としての、最期を、飾りたいがため――腹をする」

 人々は、玄白斎が、こう云ったのを、悲しく聞いていたが、誰も、この枯木のような玄白斎に、腹を切る力があろうとは思わなかった。それで、とにかく、一生懸命になだめて、身体を元通りにしたなら、と、考えていた。

「刀を――」

 と、玄白斎が、手を延した。一人が

「いいえ、先生、御身体を、もう一度――」

 と、まで、云うと、玄白斎は、鋭く睨みつけて

「たわけ者めがっ」

 と、怒鳴った。そして

「仁十郎、貸せ」

 仁十郎は、玄白斎の背に、軽く、手をかけて、身体を支えていたが

「先生、それは――」

「か、貸さぬかっ」

 玄白斎は、立上りかけた。一人が、刀を、自分の膝の上へ持ち上げた。医者が

「とにかく、御本復なされて――」

 玄白斎は、黙って、痩せた手で、仁十郎の手と、市助の手とを、狂人のように打ち払った。そして、よろよろと、立上ると

「牧っ」

 と、叫んだ。手を顫わして

「現世のみならず、永劫の争いじゃぞ。共に、無間むげん地獄に墜ちて、悪鬼と化しても、争うぞ。一旦の勝を、勝と思うな。三界、三世にわたって争うぞ」

 いつもの玄白斎の気魄の充ちた声であった。だが、そういい終ると、よろめいた。二人が抱えると

「刀を――げ、玄白斎の最期の血を、魔天に捧げて、あの世の呪いとなしくれる。か、刀を――」

 人々は、悪霊にかれたような玄白斎を、じっと見つめたまま、息を殺していた。

「か、かさぬかっ。己ら、この玄白を見殺しにするかっ。放せっ、仁十っ、市助っ」

 二人を振切るはずみ、玄白斎は、朽木の如く、倒れかかった。人々が

「あっ」

 と、叫んだ。三四人が、手を出して支えようとした。

「この毛を、悪神に供え――」

 玄白斎は、微かに、こういって、自分の頭の毛を掴もうとしたが、もう、手に力がなかった。

「この舌を――」

 人々が、抱き上げると、玄白斎は、舌を噛んでいた。舌が半分、口の外に現れていたが、もう噛み切る力もなかった。白眼を見せて、灰色の顔に、死の蔭が、濃く彩っていた。



三人旅

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「のう、深雪、賞めるぜ、おいらあ――惚れた弱味ってこのことだ。お由羅あ、俺の実の妹で、俺を、この身分にしてくれた、何んだなあ、旦那様みてえなもんさ。そいつを、刺殺さしころそうなんて、八つ裂きにして、串焼きにしてえってのが、人情だが、惚れた人情って奴あ、又、人情の中でも別だわな。その女を、お前、助けようってんだ。何うだい、俺の、真実が判っただろうがな」

 小藤次は、深雪の押込められている、薄暗い、じめじめした、鼠の騒ぎ立てる物置部屋の中で、うずくまっていた。深雪は、その前に、膝を揃えて、俯向いていた。薄暗い中に、厚化粧の顔が、冴々として、浮んでいた。

「俺が、必死の命乞いをしたから、そこは実の妹のことだ、いいようにしろって、まあ、命に別条は無え。然し、なあ、深雪、水心あれば、魚心ってんだ。魚心あれば、水心――まあ、何っちでもええやな。憎さが――そうじゃねえ、可愛さ余って、憎さが百倍。こうまでした俺の気を察しねえで、かぶりを、横に振る分にゃあ、俺も男だ、なぶり殺しに殺すか、仲間部屋へ連れ込んで、念仏講にした上で、夜鷹宿へたたき売るか。人間、出ようによって、仏にもなりゃあ、鬼にもならあ――俺あ、お前の生命乞いをして、寿命を、三年縮めたぜ。妹の怒るのも無理はねえや。初めっから、企んで、入り込んだことなんだからのう。それに、俺が、仙波の娘と知ってのことだろう。ぐるになって、妹を殺すつもりかって、叱られたのにゃあ弱ったよ。しかし、流石、薩摩七十七万石を、手玉にとる妹だけに、捌けてらあ、小藤次、お前、あの女に、惚れているんだろうって、図星だね。注意おしよ、一筋縄で行く女じゃあねえから、いうことを聞かして、寝ている間に、咽喉でもやられたら、何うする気かえ、ときたよ。こいつも尤もだ。仕方ねえから、何あに、あっしも男だ、男の力できっと口説き落しまあす、と、大言をはいて来たが、妹の手前だって、お前に、振られた、振られたが、命は助けてやったとは、真逆いえねえじゃねえか」

 深雪は、小藤次の言葉を、半分聞きながら、あとの半分では、この場の処置と、父の死のこととを考えていた。そして

(後は、とにかく、この場は、承知しておいて、とにかくも、ここを逃げられるものなら、一旦は逃げ出さなくては)

 と、考えた。

「いろいろ、と、込入った事情もあろうが、とにかくだ、人間って奴は何が大切だって、出世が大切だ。大工上りでも、出世すりゃ、先祖代々、馬廻りで候のが、ぺこぺこお叩頭すら。お前が、俺の女房になってみな、化粧料だけで、五十石は、俺、妹からむしり取ってでも、差上げちまうよ。御供女中が、少うても三人つかあ。外へ出るにゃあ、女乗物だ。お前は、武士の娘で、朝から晩まで、御座り奉るで育ってきたから、職人気質は、下品に見えるだろうが、これで、付合うと、なかなかいいもんだぜ」

 襖の外には、二人の侍女が、深雪の見張として、坐っていた。小藤次の、時々の大声が漏れて来ると、盗み笑いをしていた。

「俺あ、男の意地で、うんと云わせるんなら、ふん縛っといても、思いを遂げるぜ。俺が、このままじゃあ逃げるかも知れねえから縛って、猿ぐつわをはめてと、一言云や、それでいいんだ。俺あ、そんなことはしたくねえ。俺が、首ったけなら、お前が、臍ったけ、好いてくれりゃあ、只今死んじまってもええと、こういう御心底だ。うん、と承知してくれりゃあ、後とも云わずに、四国町の家へ連れて戻って、内祝言、高砂やって奴は、ちゃんと、美々しくしてからのことにして、今夜の内に、女房だ。ええ、深雪、その方が、当節あ利口だろうぜ」

「ええ」

 深雪は、微かに、答えた。小藤次が

「本当かい?」

「ええ」

「判ったかい」

「はい」

「ええが、はいになった。しめたっ」

 小藤次が、笑って、おどけた手付てつきをすると同時に、深雪も、笑った。自分で、突いたが、厚着のため、一寸、肌へ傷ついただけの疵が、それでも、安心すると痛んでいるのが、感じられてきた。


「一人かい」

 と、次の間の女中に聞いて、小藤次は、足早に、お由羅の居間へ入って行った。お由羅は、腰元を対手に、双六をしていた。

「何か、用かえ」

「あの女のことで――」

 小藤次が、坐ると、腰元が、さいを振る手を止めた。

「次は、梅ヶ枝かえ。お振り」

 お由羅は、小藤次へ、振向きもしないで

「そうれ、大井川――ゆっくり、お休み」

「あの女のことで」

「寝首を掻かれんようにの」

 お由羅は、濃い青磁色に、紅梅模様を染めて、しべに金銀糸の縫いのした被布を被ていた。堆朱の台に、古金襴をつけた脇息に、片肱をつかせて

「調所の供養じゃと思うて、あれの、命を助ける程に、礼をいうなら、仏に申し上げや」

「ふむ」

 小藤次は、腕組をして、賽のころがるのを見ていたが

「拙いな。一寸、貸してみな」

 振る番に当った女が、賽を渡すと

「四の目と出りゃ、府中か。それ、こう持って、こう振るんだ――ほら」

 註文の四が出た。

「まあ、お上手に、遊ばしますこと」

 三人の侍女が、小藤次を見てめた。

「そんなことだけが取柄」

「それで、今から、うちへ、連れ戻りたいが、ええかい」

 お由羅は、脇息から肱を放して

「煙草」

 と、いった。一人が、銀の延煙管を取上げて、煙草をつめた。そして、お由羅に渡すと、一人は、高蒔絵した煙草盆を、手頃のところまで、差出した。

「一枚、役者が上ゆえ、気をつけぬと――」

「それくらいのことは、心得ており申す」

 腰元が、俯向いて、笑った。

「自分では、心得ており申しても、先方は、もっと心得ており申して――」

 と、お由羅が、いうと、腰元は、声を立てて、俯向いて、笑った。

「それくらいのことあ、いくら、何んでも――」

「心得ており申しますかの」

 腰元の一人は、胸を押えて、横になって笑いこけた。

「台無しだ。とにかく、心配してもらわんでも、うまく料理するよ。高が小娘一疋いっぴきぐらい、いざとなれば、指の先で、ぴしっ――」

「また、下卑た――」

 お由羅が、軽く睨んだ。

「一言お前に届済みにさえしておきゃあいいんだ。後で叱られると、うるせえから――」

「叱られるようなことさえさらなんだら、誰が、好んで叱ります?」

「はいはい、何うも、皆様、御邪魔様で――では、深雪を頂戴して参じます」

 小藤次は、立上って、一足踏み出しながら

「何れ、支度金を、その内に――」

 と、小声で、口早にいって

「次は、誰が振る役」

 と、いっている、妹の声を聞きながら、出て行った。そして、廊下づたいに、物置部屋へ来ると、左右に、坐つている侍女へ

「女を、連れて参る」

 厳格な顔であった。

「お上へ、伺って参りますから」

「早く致せ」

 侍女の一人が、お由羅のところへ、許しを得に行った。小藤次は、襖の中へ入ると同時に、にたにた笑って

「さあ、大手を振って戻ろうぜ」

 と、深雪にいった。深雪は、俯向いたままであった。


 小藤次は、一人の供と、深雪とを連れて、門を出ると、心の底に、嬉しさと、誇りとをいっぱいに湧き立たせながら、むずかしい顔をして、往来の真中を歩いた。人々は、深雪を眺め、振返って行った。

(別嬪だろう。これが、明日から俺の女房になるんだぜ。丸髷に結ってな)

 人通りが無くなると、小藤次は、にやっと、ほくそ笑んでみた。そして、町人の態度で、やさしく

「町籠は、すぐ近いから」

 振向くと、深雪は俯向いて歩きながら

「いいえ、それには及びませぬ。歩き慣れて、おりますから――」

「歩き慣れているからって、せいぜい邸の中ぐらいのものだろう。そろりそろりと参られましょうで、四国町へ行く内にゃあ、日が暮れらあ」

 小藤次は、人が来ると、すぐ、澄まし返って、武士らしくなった。深雪は

(とにかく、邸は出たが、このまま小藤次の家へ行けば、邸の内で押込めに逢っていたよりも、危い)

 と、思った。だが、何もすることもできなかった。曇った心の中に、四国町の街景色、小藤次の家、薩摩屋敷、自分の住家などが、幻になって、浮き、沈みした。

(行けば、又、何んとか、その場逃れのことをいって――それに、南玉の家にも、庄吉のところにも近いし――)

 そう思うと、この近くのっかから、庄吉が、自分が、こうしているのを、見ているように思えた。

(親切な庄吉――)

 深雪は、四国町の近くから、四国町を、なるだけ、ゆっくりと歩いていたなら、きっと、南玉か、庄吉かに見つかるであろう、二人が見ないでも、誰かが見て、二人に話をしてくれるであろう、二人が聞いたなら、何んとかしてくれるにちがいない、それが、その夜の出来事になるか、二日目になるか? 何うしてくれるか、判らないが――それまで、小藤次を防いでいたら――と、思った。だが、万一の時、何うして、小藤次の手を、振切るかを考えると、身体中が、寒くなってきた。

(あの下賤な職人が、大勢いて――)

 と、思うと、こうして、小藤次と歩いているのでさえ、身体が汚れてくるように感じた。

(だが、この人は、悪い人ではないし、本当に、妾を想っているらしい。でも、妾は、心から嫌いなのだから――堪らない、男臭い臭、下品な物のいい方、卑しい眼付――)

 と、思った時

「喜平、駕がある。あつらえて参れ」

 と、小藤次が、供に命じた。

「へい」

 駕が、一梃、火の番小屋の横に置いてあった。柳の木と、火事見やぐらとが、その上に、聳えていた。

「いいえ、歩きます」

「戯談じゃねえ。四国町まで、三日もかからあ、そんな、あんよじゃあ――」

 と、声高に、云った時、火の番小屋の中から、駕屋が、手拭を提げて、御辞儀しながら出て来ていた。

(駕に乗っては、四国町の辺の人に、自分が、小藤次の家へ入るのを見つけさせる訳には行かない。それを見つけさせておかなかったら、誰も、庄吉へ、南玉へ、知らしてはくれないから)

 深雪は

「要りませぬ。妾、歩いて参ります。妾一人で乗るのは勿体のうござりますから」

「何をいう。手前は、高が大工でござります。貴女はお姫様。えへっへっへってんだ。いや、もそっと参ると、又見つかるから、その時にゃ、わしも乗る。遠慮せんでよい、先ずお乗り」

「いいえ、では、小藤次様が、お先きに」

 駕屋が、小走りに、走って来た。そして、駕の垂れを上げて

うぞ、旦那様」

「いや、乗るのは、女じゃ」

 駕屋は、御殿風のしいたけたぼの深雪と、小藤次とを見較べて

「じゃあ、お腰元様」

 と、御辞儀をした時

「小藤次、御苦労」

 と、小藤次の後方で、声がした。


 駕へ手をかけていた深雪が

「ああっ」

 と、低く叫んで、振向いた。と、同時に、小藤次が、一足退って、刀の柄へ手をかけた。供の小者は、小藤次の後方で、脇差を握った。街の人々が、一時に、四人を眺めた。

「御苦労」

 益満が、笑っていた。小藤次は、黙って、柄から手を放した。そして、益満を睨んで

「御苦労?」

 益満は、それに答えないで、深雪に

「参ろう」

 深雪は、身体を顫わせながら、運命に感謝した。

「はい」

 二人が、立去ろうとすると

「待てっ」

「ははあ、何か用かの」

 益満は、深雪を、自分の背後へやって

「大工守利武殿には、何か某に御用ばしござるかの」

「人の女を、何うしやがるんでえ」

「貰うて参る」

「貰うて参る?」

 小藤次は、藩中一の暴れ者に対して、心の中では脅えていたが、のめのめ引きさがるのは口惜しいし、深雪を手渡すのは、それよりも惜しいし、見ている人々の手前も、このままでは済ませなかった。頭が、じんじん熱くなって来て

(この野郎、何うしてくれよう)

 と、叫んでいたが、手は出せなかった。出したくて耐えきれぬまでに、憤りと、口惜しさとが、こみ上げていたが

(うっかり手出しはできぬ)

 と、思ってもいた。

「人の女を、畜生っ――喜平っ、一っ走りして、手を借りて来い」

「ようがす」

 小者は、益満を睨んで、脇差を押えて、邸の方へ、走って行った。

「旦那、駕は、何うなりますんで――」

 駕屋が、小藤次に、無頼漢らしい物のいい方をした。

「黙れっ」

「黙れって、呼んでおいて、旦那」

 駕屋は、小藤次の口の利き方で、怪しい侍と考えたらしかった。

「小藤次、乗って参ればよいではないか、遠慮せずに――大身の身じゃ。拙者共は、歩いて参る」

やかましいやい――深雪、おのれ、益満と行く気か」

 深雪は、益満の背後から、顔も出さなかった。

「約束を破るのか」

「旦那、駕は、一体――」

「この、獣っ、黙って引込んでろ。話ゃ、後だって、出来らあ」

「獣?――獣たあ、何んでえ。駕をもって、遊んでるんじゃあねえや」

「そうとも、駕屋、しっかりやれ。小藤次、貴公にゃ手頃の対手じゃ。一番、大工上りの手強いところを見せてやれ」

「何っ」

 小藤次は、刀へ手をかけないで、腕捲りをした。

「殺されたって、男の意地だ。女は、やらねえ。やいっ、深雪、このまま逃げりゃあ、お尋ね者の益満と一緒に、ただじゃ置かねえぞ。おとなしく一緒に、俺と――」

 と、小藤次が、云った時、駕屋が、向う鉢巻をして

「乗らなきゃあ、いくらか、酒手を貰おうかい。えっ、旦那、二本差していて、人を呼んでおいて、駕屋、いらねえじゃあ、旦那の方が、獣でげすぜ」

 益満が

「駕屋、この娘を乗せて参れ」

「へい」

「三田四国町、大工小藤次のところまで――」

 そう云って、懐から、銀を渡した。

「何を――」

「利武殿の許へ、送り申そう。ついて参られるがよい」

 小藤次は、益満を睨みつけていた。深雪が、ためらっているので、眼で合図して、乗せると

「駕屋、急いでくれ」

「合点だっ」

 駕は、小走りに走り出した。益満も、つづいた。小藤次は、何う考えていいか、判らないで、ぼんやりしながら――然し、駕が走り出すと、自分も、その背後から、走るより外に、方法が無かった。


 往来の人々は、走って行く駕と、人とを見較べて

(何か急用か、大事であろう)

 と、見送っていた。益満は、駕脇を走りながら

「何んと、小藤次殿」

 と、振向いた。

「ええ?」

「琴平、舟々って唄を、御存じかな」

琴平こんぴら、舟々、追手に帆かけて

ひゅら、ひゅっ、ひゅっ

廻れば、讃州、阿呆のごとく

琴平、小藤次は、大工上り

「如何でござるな」

真平、御免御免

お尻に帆かけて

ひゅら

ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ

 益満は、その唄に合せて、尻を、左右へ、ひょこひょこと振った。深雪は、駕の中から、それを見て、袖を噛みしめて、俯向いた。駕屋が、声を立てて笑った。

 小藤次は、益満の人間と、手並とを、人の噂に聞いてはいたが、その突飛な振舞を、何んと考えていいか、判断がつかぬし、その人を馬鹿にした、益満の後方から、従いて行く、自分のことを考えると、一体何う処置していいのか、判らなくなってきた。口惜しさと、憤りとの上を、くすぐったく撫でられているようで、何処までついて行くのか? 何処で離れていいのか? 一体離れたものか、このまま益満の行くところまで、ついて行くのか、ついて行ったなら何うなるのか、離れてしまったなら、深雪は何うなるか?――

(畜生め、一番、後方から斬ってやろうか)

 とも、考えたが、それは考えただけであった。

「何うじゃな。上手であろうがな。ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ」

 益満が、又、尻を振った。小藤次は、汗を滲ませて、刀を片手で押えながら、呼吸を荒くして走っていた。

「そこを左へ」

 益満が、駕屋へ指図した。左へ折れると、片側は、寺で、片側は、草原であった。

「原を突切って」

 駕屋が、

「井戸へ気をつけろ」

 と、叫んだ。益満が

「この辺は、夜、追剥おいはぎが出るでのう」

「へい」

「昼間、人を斬っても、その古井戸へ投げ込んでおいたなら、判るまい」

「そりゃ、知れっこありませんや」

 益満は、小藤次へ、一寸振向いて、じろっと睨んだ。そして

「よし、ここで、ぶった斬ってくれる」

 と、呟いた。小藤次は、周章てて立止まった。そして、汗を拭いた。駕も、益満も、どんどん走っていた。

(計られた)

 と、思うと、恐怖心と、口惜しさとが、混乱した。小藤次は、離れて行く駕の後方を睨んでいたが、

(ここで見失っても手を分けて探せば、居所ぐらいは――)

 と、思った。駕も、益満も、もう小半町近く離れてしまった。そして、ゆるゆる歩んでいた。

「覚えていろ、益満」

 益満が、振向いて

「ひゅっ、ひゅっ、ひゅじゃ」

 と、笑いながら、尻を振った。そして

命冥加いのちみょうがな大工め。戻れ。又、機があれば、深雪にも逢えよう。深雪は、お前に、惚れたと申しておるぞ。その内、女から押しかけて参る程に、楽しみにして待っておれ」

 そう云い終ると、すぐ、駕のあとから、走って行った。

「深雪っ、覚えていろ」

 小藤次が、怒鳴った。そして、真赤な顔をして、脣を噛みながら、じっと、駕の小さくなって行くのを睨みつけていた。

 駕は、原を出て、街へ入った。と同時に、軒下から、庄吉が出て来て

「うめえ工合に行きましたな」

 深雪は、駕の中から、庄吉を、すかして見た。


「危うがすよ、師匠んとこは」

 南玉の住居の長屋へ入って行く益満の後方から、庄吉が囁いた。

「この長屋は、義理が堅い。それに、燈台下暗しのたとえで、一晩や、二晩は、却ってよい」

 益満は、そういいながら、南玉の表を通りすぎて、長屋の突当りの右側まで、駕を入れさせた。

「ここが、隠れ家でのう」

 駕から出た深雪が、益満が開けた戸口から入ると、薄暗い、空家のような何一つ調度とても無い家であった。

「寒い寒い。猿から、ちゃんちゃん借りて来い。質から綿入出して来い」

 南玉が、そう唄いながら、両手に、薄汚い、模様のちがった座蒲団を提げて、ちょこちょこ自分の家から走って出て来た。そして、上り口に立っている深雪に

「御無事で、何より」

 と、いって、庄吉に

「すぐ、火を持って来らあ。寒くなると、死んだ妻のことを思い出してなあ。おっかあ、冥途から呼んで来い。綿入質屋から歩いて来い」

 南玉は、唄いながら、火種を取りに戻った。

「師匠は、呑気だなあ」

 と、いって、庄吉は、二人のあとから上って行った。

「さて」

 益満は、坐らない内に

「深雪の始末」

 そういって、刀を置いて、坐った。深雪は、その前へ、両手をついて、

「申訳ござりませぬ」

 と、低い声でいった。

「いいや、由羅の仲間ちゅうげん共の話によると、由羅を刺そうとしたそうだの?」

「はい、そして、仕損じましてござります」

「それで囚われたのじゃな。この庄吉が、心配してのう。わしも、忍び込もうかとまで考えたが、仲間に鼻薬を与えて、聞き込むと、小藤次が、上手に立廻ったらしいから、何れ、と、待ち受けておると、案の定――」

「先生、あの尻振りは――」

「あはははは、見ておったか?」

 南玉が、火種を持って上って来た。

「戸締りをしておいてくれぬか」

 南玉は、火鉢へ火を入れていた。深雪は、益満が、戸締りといったのに、庄吉が立上りもしないので、ちらっと庄吉を見た。

「南玉、戸締り」

「ははっ――と、立上り」

 南玉は、節をつけて、戸締りに立上った。

「深雪、庄吉は、腕を斬られた」

「は」

 深雪は、益満が、何故そんな古いことを、改まっていうのか判らなかった。

「小太郎に折られた手首のことではない。ここから斬られたのじゃ」

「ええっ――それは? 何うなされまして?」

「いわば――」

 と、益満がいうと、南玉が、戻って来ながら

「主への心中立かの」

 庄吉は、俯向いて、淋しい、右肩を眺めていた。

「毒死致した調所、あれから、密貿易みつがいの証拠品を盗み出した。その時に、斬り落されたのじゃ」

「まあ」

「庄吉は――その証拠の品を、そちに与えて、公儀へ訴え出させる所存であった。浪人にされて、島津を恨んでおろう。それには、島津を倒すのがよい――と、調所の風評を聞いて、密貿易の証拠を盗ったのは、庄吉としては尤もな考えじゃが、そうもならんで、わしが、二三考えて、訴え出ることは出た。御家へ疵のつかんようにしてのう。調所は、そのために毒死したのじゃ。元兇の一人を討取った手柄は、庄吉が第一、然し、その庄吉は、――のう、庄吉、深雪に申そうか」

「じょ、戯談じょうだんを――」

 庄吉は、右肩を動かし、左手で益満を止めた。


「思い切ろうか、切るまいかって、唄があらあ」

 南玉が

「いっそ、死のうか、何んとしょう、身分ちがいの仲じゃもの、所詮、添われぬ縁じゃもの、チ、チン、過ぎしあの日の思い出を、胸に収めて遠旅にって、深雪さん、庄吉って野郎は、貴女に手柄立てさせたさに、腕を斬られっちめえやがったのでね、唐、天竺、三界さんがいかけての、素間抜け野郎でさあ」

 深雪は、庄吉の真心を、前から、感じていないのではなかった。だから、腕を斬られてまでと聞くと、ひしひしと身にしみるようであった――だが、余りの情熱さに、薄気味悪くも感じられた。気の毒とも思ったし、可哀そうとも思ったが、それが、自分への恋からである、と考えると、斬られたことには御礼をいいたいが、庄吉を慰めるのは、厭な気がした。

「それで、深雪、そちも存じておろうが、大殿は、参覲交代にて、御国許へ参られる。調所の件で、延び延びになったが、一両日中には立たれよう。さすれば、万事は、国許でということになる。丁度幸い、南玉も、旅慣れておるし、庄吉も――この男は、返す返すも不運での」

「先生、そいつまでは、仰しゃらずに――お嬢さん、ちょいと、申し上げておきたいんは、あっしゃあ、色恋からじゃござんせんよ」

「譃を吐け」

 と、南玉が、鼻先で、指を庄吉へ向けた。

「色恋と、一口に、いってもれえたくねえんだ。そりゃ好きさ。好きでなけりゃ、出来る仕事けえ。だが、巾着切って、ひょうきん者さ――理窟はよそう。お嬢さん、あの富士春って、あっしの女、御存じでしょう」

「はい、いつか、一度、お目にかかりました」

「あいつめ、あっしの手は無くなるし、二人の仲あ、町内へ知れて、弟子は来なくなるし、近頃は、流しでさあ」

「流し?」

「そう、表口へ、べんべん弾いてくる奴がござんしょう」

「まあ、あんな稼業に――」

「で――」

 と、いった庄吉の言葉は、微かに、湿っていた。

「いつまでも、彼女あれの世話になっていたくはねえし、あっしも、御供をして、南玉と二人でお嬢さんを、お国許へ届けようと、もう、この間っから、相談しておりましてね」

「小父様、それは、本当でござりますか」

「小太郎も探したし、それに、深雪――八郎太殿は、亡くなられたが、存じておろうのう」

とと様が? はい」

「不覚の涙を流すでないぞ。赤の他人の庄吉が、腕を斬られてまでも尽しておるのじゃ。忠義のために殺された父御ててごへ、涙を流すなど、草葉の蔭で嘆かれるぞ。喜べ。一家、一族、悉く殺されても、意地と、忠義を貫くのが、武士の慣わしじゃ」

 深雪は、俯向いて、そっと、目へ袖を当てた。

「供養にならぬ涙を流そうより、大阪表へ参って、又国許へ参って、手頃の仕事で、父の志をつげ。よいか。わしは、暫く、江戸の同志と謀ることもあり、又天下のために策謀すべきことも起っておる。齢端行かずとも、もう一人立ちはできよう。もし、進退きわまらば、死ね。いつまでも、小娘ではない。仙波八郎太の子として、これまでの教訓、よく噛みしめて、物に当れ。よいか。南玉と、庄吉は、付人じゃ。然し、頼りにはするな」

「頼りにするなは、ひどうげすな」

 益満は、口を結んで、俯向いている深雪を、じっと、見下ろしていた。


(いつか見た――今まで、まざまざと残っている、あの父の血塗ちまみれの夢は、正夢であった)

 と、思うと、悲しさと、憤りとが、いっぱいになってきた。

不束ふつつかでござりまするが、御教訓、忘れは致しませぬ」

「うむ」

「して、父上は、如何いかがして、亡くなりましたか。いつかの夢に、斬られている姿を、見ましたが。それから、御師匠様からも、それとなく非業の死を遂げたらしいと、聞きましたが、矢張り――」

「その通り――」

 益満は、腕組をしたまま頷いた。南玉と、庄吉とは、顔を見合せた。

「争えんのう、父娘おやにだ。どろどろっと出たんだ」

「対手は、牧仲太郎。噂に聞くと、三十人余りの中へ、小太郎と二人で、斬込んだらしいが――」

「兄上は? そして?」

「小太郎は助かったらしいが、消息が判らぬ。わしが、叡山へ馳せつけたのは、丁度その翌日。牧もおらぬし、小太郎を探したが、見つからぬし、牧のあとを追って、江戸へ戻って来る途中、この庄吉に逢ったのじゃが――」

「あすこで、お目にかからなかったら、あっしゃ死んでおりましたよ」

「御教訓に従いまして、上方へ参ります」

「路銀、支度のことなど、調えておいた」

「足りないところは、張扇はりおうぎから叩き出す」

 と、南玉が云った時、南玉の表口あたりで

「師匠――おおいっ――留守かい」

 と、叫びがした。三人が、表口の方を見て、不安な眼付きをした。益満が

「小藤次の奴輩やつばらだの」

 と、笑った。

「留守だよ」

 南玉の向い側の人が云った。

「何処へ行ったい」

「あいつのことだから、判んねえや。寄席で、下足でもいじってやすめえか」

「深雪って、娘が、来なんだかい」

「ここの長屋は、皆、下地っ子に売っちまって、娘は只今、お生憎様だ。そのうち、こしらえておかあ」

 戻って行く足音がした。

「向いの平吉、科白せりふがうめえや。そのうち、こしらえておかあ、と来やがった」

「だって、商売が、新粉しんこ細工じゃねえか」

「あっ、そうか」

「旅に立つのは、明朝、明けきらぬうちに、南玉、いつでもよいのう」

「この張扇一本、打出うちで小槌こづちみてえなものでげす」

「庄吉の用意は?」

「先生、ちっと、申しにくいんだが――」

「何?――金のことかの」

「いいえ――あいつ」

「富士春か」

「可哀そうな気が――」

「心得た」

「先生、元のように、可愛がってやって下せえ。あっしの頼みだ」

「恭なく、頂戴仕る」

「いや本当に、戯談で無しに――あいつあ真実、手の無いあっしに、よく尽してくれましたよ。だが、今、別れてやるのは、あいつのために、先生、いい別れ時だと、あっしゃあ、思っていますがね」

「庄吉、お前、何故巾着切になった?」

「あっしですかい――さあ、何う云ったら――えらそうな奴の、肝を潰すのが、面白いからでげすかな」

「一寸踏み外した形だのう――惜しいものじゃ。富士春のことは、心配致すな」

「有難うございます。これで、安心した」

「然し、庄吉、世を救うためには殺すかもしれぬ」

「世を救うために――ええ、ようがすとも。深雪さんだって死ぬんだ。ようがすとも」

 黄昏が近づいて来たらしく、部屋の中が、暗くなってきた。三人は、時々軽い口を利きながらも、何処となく沈んでいた。



宿命の渦

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 表には、知らぬ人の名が書いてあった。披くと、小太郎からの手紙で、傷が癒ったから、大阪へ来た、宿にいるから、来るか、行こうか、としてあった。

 綱手の胸は、握り締められるように、苦しかった。いつか、この苦しみが来ると、覚悟はしていたが、兄に会えば、兄は月丸との地獄に堕ちた恋を、きっと知っている、というような気がした。

(怒って、斬るであろう。いや、死ね、というだろう。その時は、自害してもいい。然し、その前に、月丸へ、このことを話したい。そして自害したい――いいや、話をしたなら、月丸は、きっと、小太郎を討ちに行くにきまっている。では、このまま、黙って――そんなことは出来ない)

 綱手は、同じことを、幾度も繰返して考えていたが

(いやいや、これは、自分の気の咎めで、兄は何も知らない、知ろう道理がない)

 綱手は、手紙の文字から、紙から、小太郎が、何か知っているだろうかと、それを探し出すように、暫く、眺めていたが

(小太郎は、知りはすまい、知れよう道理がない)

 と、思った。そして、その手紙を持って、女中頭へ頼み、鼻薬を使って、一刻だけの暇をもらった。

(兄は、これから何うするのかしら)

 そう思うと、汚い着物を着て、手足の不自由な小太郎が、頭の中で描かれた。綱手は、頭の物、着物の類を、下女中に命じて、金に替えさせた。

 その中には、綱手の宝物にしている櫛があった。それは、百城月丸からの、恋の贈り物で、今もさしていたのだが、それも、その売物の中へ加えた。それは、小太郎へ、月丸との不義の恋を詫びようとする綱手の、せめてもの心からであった。

 綱手は、幾度か、その櫛の油を拭いては、眺めながら、月丸が、その櫛を、京の宿の二階で、自分の頭髪かみへさしてくれた時のことを想い出した。そして、小太郎に

(これを、売ります。そして、兄様の、何かの足しに致します。これが、綱手として、今、兄様にお報いできる、たった一つのことでござります)

 と、曇った胸で、云ってみた。そして、月丸へは

(妾の心は変りませぬ。櫛の有無で、決して変りは致しませぬ。貴下も、妾の、兄へ尽すこの心が判って下さったなら、叱りはなされますまい。綱手の、今の辛い心を、察して、赦して下さりませ)

 と、詫びた。

 下女中の、持って戻って来た金に、己の金のありったけを加えて、綱手は、蔵屋敷の門を出た。

 小太郎の宿は、横堀の舟着場所の一つになっている高麗橋の川沿いの家であった。

 橋の上へ来ると、早船は、目印の旗を立て、伏見通いのは、大きい体を横づけにして、川岸いっぱいに、幾十艘も並んでいた。

 柳の植わった岸には、木の下に、大きい荷がいくつも捨ててあるし、岸から歩み板が、幾十枚もかかっていて、船頭が、旅客が、口々にざわめいていた。

 いろいろの講中の札のかかった、軒の低い、だが、横に広い、宿の暗い土間へ入ると、忙がしそうに、家中を往来していた女中が、番頭が、一時に、綱手を見た。

「お着きやす」

 と、云って、一人の番頭が出て来た。綱手が、何も云わぬ先に

「御一人様で――御一人様で」

 と、つづけざまに聞いた。


「さあ――何んと致すべきか」

 小太郎は、腕組して、川沿いの障子近くに、片膝を立てて凭れていた。明るい障子に、水の影が、揺れていた。

「存じておろうが、大殿は、近々、ここを御通行になる。その節、同志の者に逢うて、談合して、国へ戻ってもよし、また――」

 と、いって、小太郎は、綱手を、じっと見つめて

「父上を討った牧仲太郎は、江戸におろうがの」

 と、聞いた。綱手は、眼を伏せて

「はい」

 と、答えた。

「牧が、江戸におろうなら、まず、こやつを討つのが、順序であろう」

 綱手は

「さあ」

 と、答えた。牧を小太郎に討たせたくもあったし、討たせたくなくもあった。小太郎が、牧を討たぬと判れば、月丸も、小太郎を討とうとはしないであろうし、自分の苦しさは、半分消えると、思った。

「それが、物の順じゃ」

「でも、江戸にいなさるか――」

「調所が参った上は、居ろう。調所が死んでも、未だ江戸は離れまい。わしの推察では、益満が、江戸へ戻っておるにちがいない。彼奴の手で、仲太郎を討たれては、わしの弓矢がすたる」

 小太郎は、独り言のように云った。

「兄様――それから、路銀は?」

「路銀? 持っておるぞ、腹巻に入ったままであるし、義観和尚から、五両もろうた」

「妾も――」

 綱手は、小さい包を出して

「都合して参りました。旅には、何程あっても入用なものゆえ――」

 と、小太郎の前へ、差出すと共に、胸がつまった。

「いいや――有難いが、お前が持っている方がよい。わしは、何んとかする。お前は、女で一人じゃ。まして、敵の中にいて――収めておくがよい」

 小太郎の、綱手を、信じていて、可愛がってくれているのが、綱手には、悲しかった。

(兄は、何も知らない。自分のしたことを、考えていることを、何も知らない。自分は兄を欺いているのに、兄は、自分を昔のように可愛がっていてくれる)

 と、思うと、涙が滲み出てきた。

「何を泣く、泣いて戻る父か――」

「ええ?――泣く?」

 綱手は、固いえみを、脣へ上げて

「ふっとして――」

 と、一言いったが、胸の中は、涙でいっぱいであった。

「邸は、時刻が、厳しかろう。戻ってよいぞ。調所が死んだのでは、最早、邸におることもないが、母上と相談して、すぐに、又蔵にでも迎えに来てもらうよう、飛脚を立てよう。無事なのが、何より――」

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