半七捕物帳 第四巻/少年少女の死

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少年少女の死[編集]

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「きのうは家(うち)のまえで大騒ぎがありましたよ」と、半七老人は云った。
「どうしたんです。何があったんです」
「何ね、五つばかりの子供が自転車に轢(ひ)かれたんですよ。この横町の煙草屋の娘で、可愛らしい子でしたっけが、どこかの会社の若い人の乗っている自転車に突きあたって……。いえ、死にゃあしませんでしたけれど、顔へ疵(きず)をこしらえて……。女の子ですから、あれがひどい引っ吊りにならなければようござんすがね。一体(いったい)この頃のように下手な素人(しろうと)がむやみに自転車を乗りまわすのは、まったく不用心ですよ」
その頃は自転車の流行(はや)り出した始めで、半七老人の云う通り、下手な素人が其処でも此処でも人を轢いたり、塀を突き破ったりした。今かんがえると少し可笑(おかし)いようですが、その頃の東京市中は自転車を甚だ危険なものと認めないわけには行かなかった。わたしも口をあわせて、下手なサイクリストを罵倒すると、老人はやがてまた云い出した。
「それでも大人(おとな)ならこっちの不注意ということもありますが、まったく子供は可哀そうですよ」
「子供は勿論ですが、大人だって困りますよ。こっちが避(よ)ければ、その避ける方へ向うが廻って来るんですもの。下手な奴に逢っちゃ敵(かな)いませんよ」
「災難はいくら避けても追っかけて来るんでしょうね」と、老人は嘆息するように云った。
「自転車が怖(こわ)いの何のと云ったところで、一番怖いのはやっぱり人間です。いくら自転車を取締っても、それで災難が根絶やしになると云うわけに行きますまいよ。むかしは自転車なんてものはありませんでしたけれど、それでも飛んでもない災難に逢った子供が幾らもありましたからね」
これが口切りで、老人は語り出した。
「今の片はご存じありますまいが、外神田(そとかんだ)に田原屋(たわらや)という貸席がありました。やはり今日(こんにち)の貸席とおなじように、そこでいろいろの寄合いをしたり、無尽をしたり、遊芸のお浚(さら)いをしたり、まあそんなことで相当に繁昌している家でした」


元治(げんじ)元年三月の末であった。その田原屋の二階で藤間光奴(ふじまみつやっこ)という踊りの師匠の大浚(おおざら)いが催された。光奴はもう四十くらいの師匠盛りで、ここらではなかなか顔が売れているので、いい弟子もたくさんに持っていた。ふだんの交際も広いので、義理で顔を出す人も多かった。おかめに師匠の運のいいことは、前日まで三日も四日も降りつづいたのに、当日は朝から拭(ぬぐ)ったような快晴になって、田原屋の庭に咲き残っている八重桜はうららかな暮春の日かげに白く光っていた。
浚いは朝の四ツ時(午前十時)から始まったが、自分にも弟子が多く、したがって番組が多いので、とても昼のうちには踊り尽くせまいと思われた。師匠も無論その覚悟でたくさんの蠟燭(ろうそく)を用意させて置いた。踊り子の親兄弟や見物の人たちで広い二階は押合うように埋められて、余った人間は縁側までこぼれ出していたが、楽屋の混雑は更におびただしいものであった。楽屋は下座敷の八畳と六畳をぶちぬいて、踊り子全体をともかくもそこへ割り込ませることにしたのであるが、何を云うにも子供が多いのに、又その世話をする女や子供が大勢詰めかけているので、ここは二階以上の混雑でほとんど足の踏み場もないくらいであった。そこへ衣裳や鬘(かずら)や小道具のたぐいを持込んで来るので、それを踏む、つまずく。泣く者がある。そのなかを駈け廻っていろいろの世話を焼く師匠は、気の毒なくらいに忙がしかった。午(ひる)過ぎには師匠の声はもう嗄(か)れてしまった。
俄か天気の三月末の暖気は急にのぼって、若い踊り子たちの顔を美しく塗った白粉(おしろい)は、滲(にじ)み出る汗のしずくで斑(まだら)になった。その後見(こうけん)を勤める師匠のひたいにも玉の汗がころげていた。その混雑のうちに番数もだんだんに進んで、夕(ゆう)七ツ時(午後四時)を少し過ぎた頃に常磐津(ときわず)の「靭猿(うつぼざる)」の幕が明くことになった。踊り子はむろん猿曳(さるびき)と女大名と奴(やっこ)と猿との四人である。内弟子のおこよと手伝いに来た女師匠とが手分けして、早くから四人の顔を拵(こしら)えてやった。衣裳も着せてしまった。もう鬘さえかぶればよいと云うことにして置いて、二人はほっと息をつく間(ひま)もなく、いよいよこの幕が明くことになった。忙がしい師匠は舞台を一応見まわって、それから楽屋へ降りて来た。
「もし、みんな支度は出来ましたか。舞台の方はいつでもようござんすよ」
「はい。こっちも宜(よろ)しゅうございます」
おこよは四人を呼んで鬘をかぶせようとすると、そのなかで奴を勤めるおていという子が見えなかった。
「あら、おていちゃんはどうしたんでしょう」
みんなもばらばらと起(た)っておていの姿を見付けに行った。おていは今年九つで、佐久間町(さくまちょう)の大和屋(やまとや)という質屋の秘蔵娘であった。踊りの筋も悪くないのと、その親許が金持なのとで、師匠はこんな小さい子供の番組を最初に置かずに、わざわざ深いところへ廻したのであった。おていは下膨(しもぶく)れの、眼の大きい、まるで人形のような可愛らしい顔の娘で、繻子奴(しゅすやっこ)に扮装(いでた)った彼女(かれ)の姿は、ふだん見馴れているおこよすらも思わずしげしげ見惚(みと)れるぐらいであった。そのおていちゃんが行くえ不明になったのである。
勿論、楽屋にはおてい一人でない。姉のおけいという今年十六の娘と、女中のお千代(ちよ)とおきぬと、この三人が附添って何かの世話をしていたのである。母のおくまは正月からの煩(わずら)いでどっと床に就いているので、きょうの大浚いを見物することの出来ないのをひどく残念がていた。父の徳兵衛(とくべえ)は親類の者四、五人を誘って来て二階の正面に陣取っていた。姉も女中たちも、さっきからおていの傍(そば)に付いていたのであるが、前の幕があいた時にそれを見物するために楽屋を出て、階子(はしご)のあがり口から首を伸ばしてしばらく覗(のぞ)いていた。その留守の間におていは姿を隠したのであった。しかしこの三人の女のほかに、楽屋には他の踊り子たちもいた。手つだいや世話焼きの者どもも大勢押合っていた。そのなかでおていは何処(どこ)へ隠されたのであろう。三人もあわてて二階の見物席を探した。便所をさがした。庭をさがした。徳兵衛もおどろいて楽屋へ駈け降りて来た。
繻子奴の姿が見えなくては幕をあけることが出来ない。そればかりでなく、楽屋で踊り子の姿が突然消えてしまっては大変である。師匠の光奴も顔の色をかえて立ち騒いだ。内弟子もほかの人たちも一緒に起(た)って家(うち)じゅうを探しはじめたが、繻子奴の可愛らしい姿はどこにも見付からなかった。なにを云うにも狭いところに大勢ごたごたしているのと、他の人たちはみな自分が係り合いの踊り子ばかりに気を配っていたのとで、おていがいつの間にどうしたのか誰も知っている者はなかった。姉と二人の女中とが当然その責任者であるので、彼女らは徳兵衛から嚙み付くように叱られた。叱られた三人は泣き顔になって其処らをあさり歩いたが、おていは何処からも出て来なかった。
「どうしたんだろう」と、徳兵衛も思案に能(あた)わないように溜息をついた。
「ほんとにどしたんでしょうねえ」と、光奴も泣きそうになた。
もうこうなっては、叱るよりも怒るよりもただぞの不思議におどろかされて、徳兵衛もぼんやりしてしまった。いかに九つの子供でも、すでに顔をこしらえて、衣裳を着けてしまってから、表へふらふらと出てゆく筈もあるまい。帳場にいる人たちも繻子奴が表へ出るのを見れば、無論に遮(さえぎ)り止める筈である。外へも出ず、内にもいないとすれば、おていは消えてなくなったのである。
「神隠しかな」と、徳兵衛は溜息まじりにつぶやいた。
この時代の人たちは神隠しと云うことを信じていた。実際そんなことでも考えなければ、この不思議を解釈する術(すべ)がなかった。神か天狗の仕業(しわざ)でなければ、こんな不思議を見せられる道理がない。師匠もしまいには泣き出した。ほかの子供も一緒に泣き出した。この騒ぎが二階にも拡がって、見物席の人たちもめいめいの子供を案じて、どやどやと降りて来た。華やかな踊りの楽屋は恐怖と混乱の巷(ちまた)となった。
「きょうのお浚いはあんまり景気がよすぎたから、こんな悪戯(いたずら)をされたのかも知れない」と、天狗を恐れるようにささやく者もあった。
そこへ来合せたのは半七であった。彼も師匠から手拭(てぬぐい)を貰った義理があるので、幾らかの目録(もくろく)づつみを持って帳場へ顔を出すと、丁度その騒動のまん中へ飛び込んだのであった。半七はその話を聞かされ眉を寄せた。
「うむう。そりゃおかしいな。まあ、なにしろ師匠に逢ってよく訊(き)いてみよう」
奥へ通ると、彼は光奴と徳兵衛とに左右から取りまかれた。
「親分さん。どうかして下さいませんか。あたしはほんとうに大和屋の旦那に申訳がないんですから」と、光奴は泣きながら訴えた。
「さあ、どうも飛んだことになったねえ」
半七も腕をくんで考えていた。彼はおていの可愛らしい娘であることを知っているので、おそらくこの混雑にまぎれて彼女を引(ひ)っ攫(さら)って行った者があるに相違ないと鑑定した。神隠しばかりでなく、人攫いと云うことも此の時代には多かった。半七はまずこの人攫いに眼をつけたが、そうなると手がかりが余ほどむずかしい。初めからおていを狙っていたものならば格別、万一この混雑にまぎれて衣裳でも何でも手あたり次第に盗み出すつもりで、庭口からひそかに忍び込んだ人間が、偶然そこにいる美しい少女を見つけて、ふとした出来心で彼女を拐引(かどわか)して行ったものとすると、その探索は面倒である。しかし子供とは云いながら、おていはもう九つである以上、なんとか声でも立てそうなものである。声を立てれば其処らには大勢の人がいる。声も立てさせずに不意に引っ攫ってゆくと云うのは、余ほど仕事に馴れた者でなければ出来ない。半七は心あたりの兇状持ちをそれからそれへ数えてみた。
彼はそれから念のために庭へ降りた。庭といってもニ十坪ばかりの細長い地面で、そこには桜や梅などが植えてあった。垣根の際(きわ)には一本の高い松がひょろひょろと立っていた。彼は飛石伝いに庭の隅ずみを調べてあるいたが、外からはいって来たらしい足跡は見えなかった。横手の木戸は錠(じょう)がおろしてあった。おていを攫った人間は表からはいって来た気配はない。どうしても横手の木戸口から庭づたいに忍び込んだらしく思われるのに、木戸は内から閉めてある。庭にも怪しい足跡の無いのを見ると、彼の鑑定は外(はず)れたらしい。半七は石燈籠のそばに突っ立ってふたたび考えたが、やがて何ごころなく身をかがめて縁の下を覗いて見ると、そこに奴すがたの少女が横たわっていた。
「おい、師匠、大和屋の旦那。ちょいと来てください」と、彼は庭から呼んだ。
呼ばれて縁先へ出て来た二人は、半七が指さす方をのぞいて、思わずあっと声をあげた。これに驚かされ大勢もあわてて縁先へ出て来た。おていの冷たい亡骸(なきがら)は縁の下から引出された。
女や子供たちは一度に泣き出した。
何者がむごたらしくおていを殺して縁の下に投げ込んだのか。おていの細い喉首(のどくび)には白い手拭がまき付けてあって、何者にか絞め殺されたことは疑いもなかった。その手拭は今度のお浚いについて師匠の光奴が方々へくばったもので、白地に藤の花を大きく染め出した藍(あい)の匂いがまだ新しかった。
神隠しや人攫いはもう問題ではなくなった。これから舞台へ出ようとする少女を絞め殺したのは、普通の物取りなどでないことも判り切っていた。大和屋一家に怨みをふくんでいる者の復讐か、さもなければこの少女に対する一種の妬(ねた)みか。おそらく二つに一つであろうと半七は解釈した。大和屋は質屋という商売であるだけに、ひとから怨みを受けそうな心あたりは沢山あるかも知れない。親たちが金にあかして立派な衣裳をきせて、娘をお浚いに出したについてほかの子供の親兄弟から妬みをうけて、罪もない少女が禍(わざわ)いをうけたのかも知れない。どっちにも相当の理窟が付くので、半七も少し迷った。
なんと云ってもたった一つの手がかりは、おていの頸(くび)にまき付いている白い手拭である。半七はその手拭をほどいて丁寧に打ちかえして調べてみた。
「師匠。これはお前の配り手拭だが、きょうのお客さまは大抵持っているだろうね」
「めいめいと云うわけにも行きますまいが、ひと組に二、三本は行き渡っているだろうかと思います」と、光奴は答えた。
「ここの家(うち)の人たちにもみんな配ったかえ」
「はあ。女中さんたちにもみんな配りました」
「そうか。じゃあ、師匠、すこし頼みてえことがある。まさかにおれが行っていちいち調べるわけにも行かねえから、お前これから二階へ行って、おまえが手拭を配った覚えのあるおかみさんたちを一巡訊いてくれ」
「なにを訊いて来るんです」
「手拭をお持ちですかと云って……。娘や子供には用はねえ。鉄漿(かね)をつけている人だけでいいんだ。もし手拭を持っていねえと云う人があったら、すぐにおれに報(しら)せてくれ」
光奴はすぐに二階へ行った。


「お話が長くなりますから、ここらで一足飛びに種明かしをしてしまいましょう」と、半七老人は云った。「師匠はそれから二階へ行って、見物をいちいち調べたが、どうも判らないんです。もっとも、師匠だって遠慮しながら調べているんだから埒(らち)が明きません。二階をしらべ、楽屋を調べても、どうも当りが付かないもんですから、今度はわたくしが自分で田原屋の女中を調べることになったんです。田原屋には四人の女中がありまして、その女中頭(がしら)を勤めているのはおはまという女で、三十一二で、丸髷に結って鉄漿を付けていました。これは此処の家(うち)の親類で、手伝いながら去年から来ていたんです。これを厳しく調べると、とうとう白状しました」
「その女が殺したんですか」と、わたくしは訊いた。
「もっとも、幽霊のように真蒼(まっさお)な顔をして、初めから様子が変だったのですが、調べられて意外にもすらすら白状しました。この女は以前両国(りょうごく)辺のある町人の大家(たいけ)に奉公しているうちに、そこの主人の手が付いて、身重(みおも)になって宿へ下がって、そこで女の子を生んだのです。すると、主人の家には子供がないので、本妻も承知のうえで其の子を引取るということになったが、おまはま親子の情でどうしても其の子を先方へ渡したくない、どんなに苦労しても自分の手で育てたいと強情を張るのを、仲に立った人たちがいろいろに宥(なだ)めて、子供は主人の方へ引渡し、自分は相当の手当てを貰って一生の縁切りと云うことに決められてしまったんです。けれども、おはまはどうしても我が子のことが思い切れないで、それから気病にのようになって二、三年ぶらぶらしているうちに、主人から貰った金も大抵遣ってしまって、まことに詰まらないことになりました。それでも身体は少し丈夫になったので、それから三、四カ所に奉公しましたが、子供のある家へいくとむやみに其の子をいどい目に逢わせるので一つ所に長くは勤まらず、自分も子供のある家は忌(いや)だと云うので、遠縁の親類にあたるこの田原屋へ手伝いに来ていたんです。これだけ申上げたら大抵お判りでしょう。その日も美しい繻子奴になったんを見て、ああ可愛らしい子だとつくづく見惚(みと)れているうちに、ちょうど自分の子も同じ年頃だと云うことを思い出すと、なんだか急にむらむらとなって、おていをそっと庭先へ呼出して、不意に絞め殺してしまったんです。昼間のことではあり、楽屋では大勢の人間がごたごたしていたんですが、どうして気がつかなかったもんですか。いや、誰かひとりでも気がつけばこんな騒ぎにはならなかったんですが、間違いの出来る時というものは不思議なものですよ」
「で、その手拭の問題はどうしたんです。手拭に何か証拠でもあったんですか」
「手拭には薄い歯のあとが残っていたんです。うすい鉄漿(おはぐろ)の痕が……。で、たぶん鉄漿(かね)をつけている女が袂(たもと)から手拭を出したときに、ちょいと口に啣(くわ)えたものと鑑定して、おはぐろの女ばかり詮議したわけです。おはまは其の日に鉄漿をつけたばかりで、まだよく乾いてなかったと見えます」
「それから其の女はどうなりました」
「無論に死罪の筈ですが、上(かみ)でも幾分の憐れみがあったとみえて、吟味(ぎんみ)相済まずと云うので、二年も三年も牢内に繋がれていましたが、そのうちにとうとう牢死しました。大和屋も気の毒でしたが、おはまもまったく可哀そうでしたよ」


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「全くですね」と、わたしも溜息をついた。「こうなると、自転車や荷馬車ばかり取締っても無駄ですね」
「そうですよ。なんと云っても、うわべに見えるものは避けられますが、もう一つ奥にはいっているものはどうにもしようがありますまい。今お話をしたほかに、まだこんなこともありましたよ」
半七老人は更にこんな話をはじめた。
慶応(けいおう)三年の出来事である。
芝(しば)、田町(たまち)の大工(だいく)の子が急病で死んだ。大工は町内の裏長屋に住む由五郎(よしごろう)という男で、その忰(せがれ)の由松(よしまつ)は数え年の六つであった。由松は七月三日のゆうがたから俄かに顔色が変って苦しみ出したので、母のお花(はな)はおどろいて町内の医者をよんで来たが、医者にもその容体が確かには判らなかった。なにかの物中(ものあた)りであろうと云うので、まず型のごとき手当てを施したが、由松は手足が痙攣(けいれん)して、それから半時ばかりの後に息を引取った。父の由五郎が仕事場から戻って来たときには、可愛いひとり息子はもう冷たい亡骸(なきがら)になっていた。
あまりの驚愕に涙も出ない由五郎は、いきなり女房の横っ面を殴(なぐ)り飛ばした。
「この引摺(ひきず)り阿魔(あま)め。亭主の留守に近所隣りへ鉄棒(かなぼう)を曳いてあるいていて、大事の息子を玉(たま)無しにしてしまやあがった。さあ、生かして返せ」
由五郎はふだんから人並はずれた子煩悩(こぼんのう)で、ひと粒種の由松を眼の中に入れたいほどに可愛がっていた。その可愛い子が留守の間に頓死同様に死んだのであるから、気の早い職人の彼は一途(いちず)にそれを女房の不注意と決めてしまって、半気違いのようなありさまで彼女(かれ)に喰ってかかったのも無理はなかった。
「さあ、亭主の留守に子供を殺して、どうして云い訳するんだ。はっきりと返事をしろ」
彼はそこに居あわせた人たちが止めるのも肯(き)かずに、又もや女房をつづけ打ちにした。さなきだに可愛い子の命を奪(と)られて、これも半狂乱のようになっている女房は、亭主に激しく責められて、いよいよ赫(かっ)と逆上したらしい。彼女は蒼ざめた顔にふりかかる散らし髪をかきあげながら、亭主の前へ手をついた。
「真(まこと)に申訳ありません。きっとお詫びをいたします」
切り口上にこう云ったかと思うと、彼女(かれ)は跣足(はだし)で表へとび出した。その血相(けっそう)がただならないと見て、居あわせた人たちもあとから追って出たが、もう遅かった。大通りの向うは高輪(たかなわ)の海である。あれあれと云ううちに、女房のうしろ姿は岸から消えてしまった。
由五郎は今さら自分の気早を悔んだが、これも遅かった。やがて引揚げられた女房の死体は、わが子の死体と枕をならべて、狭い六畳に横たえられた。妻と子を一度にうしなった由五郎は、自分も魂のない人のようにただ黙って坐っていた。相長屋(あいながや)の八、九人があつまって来て、残暑のまだ強い七月の夜に二つの新しい仏を守っていた。
その通夜(つや)の席で、一件置いた隣りの紙屑屋(かみくずや)の女房はこんなことを云い出した。この女房は四、五日まえに七つになる男の児を亡(うしな)ったのであった。
「ほんとうに判らないもんだわねえ。うちの子供が歿(なくな)りました時には、ここのおかみさんが来て、いろいろお世話をして下すったのに、そのおかみさんが幾日も経たないうちにこんなことになってしまって……。おまけに由ちゃんまで……。まあ、なんと云うことでしょう。家(うち)の子供も由ちゃんと丁度おなじように、だしぬけに顔の色が変って、それから一時(いっとき)の間も無しに死んでしまったんですが、お医者もやっぱりその病気が確かにわからないと云うことでした。
この頃は子供にこんな悪い病気が流行(はや)るんでしょうか。まったく忌(いや)ですね。いや、それに就いて、わたしは何だか忌な心持のすることがあるんですよ。実はね、家の子供が玩具(おもちゃ)にしていた水出しをね。今考えると、ほんとうに止(よ)せばよかったんですけれど、ここの家の由ちゃんに上げたんですよ。死んだ子供の物なんかを上げるのは悪いと思ったんですけれど、ここの由ちゃんがけさ遊びに来て、おばさん、あの水出しをどうしたと云うから、家にありますよと云って出して見せると、わたしにくれないかと云って持って帰ったんです。そうすると、その由ちゃんが又こんなことになって……。死んだ子供の物なんか決して人にやるものじゃありませんね。わたしが何だか悪いことをしたような心持がして、気が咎(とが)めてならないんですよ」
紙屑屋の女房はしきりに自分の不注意を悔んでいるらしかった。不運な母と子の死体はあくる日の夕方、品川の或る寺へ送られて無事に葬式(とむらい)をすませた。由五郎は自棄酒(やけざけ)を飲んでその後は仕事にも出なかった。


「この話がふとわたくしの耳にはいったもんですからね。いわゆる地獄耳で聞き逃すわけには行きません」と、半七老人は云った。「その大工の子供や、紙屑屋の子供が、はやり病いで死んだのならば仕方がありません。門並(かどなみ)に葬礼が出ても不思議がないんですが、そこは少し気になることがあったもんですから、八丁堀(はっちょうぼり)の旦那方に申上げて、手をつけてみることになりました」
「じゃあ、二人の子供はやっぱり何かの災難だったんですね」と、わたしは訊いた。
「そうですよ。まったく可哀そうなことでした」
それから四、五日の後に、由五郎は勿論、紙屑屋の亭主五兵衛(ごへえ)とその女房のお作(さく)とが家主附添いで、月番(つきばん)の南町奉行所へ呼出された。死んだ由松が紙屑屋の女房から貰って来たという玩具の水出しが、証拠品としてかれらのまえに置かれた。今日(こんにち)ではめったに見られないが、その頃には子供が夏場の玩具として、水鉄砲や水出しが最も喜ばれたものであった。水出しは煙管(きせる)の羅宇(らお)のような竹を管(くだ)として、それを屈折させるために、二カ所または三カ所に四角の木を取付けてある。そうして一方の端を手桶とか手水鉢(ちょうずばち)とかいうものに挿し込んで置くと、水は管を伝って一方の末端から噴き出すのである。しかし、ただ噴き出すのでは面白くないので、そこには陶器(せと)の蛙が取付けてあって、その蛙の口から水を噴くようになっている。巧みに出来ているのは、蛙の口から高く噴きあげるので、子供はみな喜んでこの水出しをもてあそんだのである。その水出しが奉行所の白洲(しらす)へ持出されて厳重な吟味の種になろうとは何人(なんびと)も思い設けぬことであった。
紙屑屋の夫婦はまずその水出しの出所を糺(ただ)された。その玩具はどこで買ったのかという訊問に対して、亭主の五兵衛は恐るおそる申立てた。
「実はこの水出しは買いましたのではございません。よそから貰いましたのでございます」
「どこで貰った。正直に云え」と、吟味方の与力はかさねて訊いた。
「芝露月町(ろうげつちょう)の山城屋(やましろや)から貰いました」
山城屋というのは其処(そこ)でも有名の刀屋である。先月の末に、五兵衛がいつもの通り商売に出て山城屋の裏口へゆくと、かねて顔を識っている女中が紙屑を売ってくれた末に、おまえの家(うち)の子供にこれを持って行ってやらないかと云って、かの蛙の水出しをくれた。五兵衛はよろこんで貰って帰って、それを自分の子供の玩具にさせると、二日ばかりで其の子は急病で死んだ。それが更に大工の子供の手に渡って、その子はその日におなじく急病で死んだのであった。
それらの事情が判明して、引合いの者一同はひとまず自宅へ戻された。しかし水出しのことは決して口外してはならぬと堅く申渡された。その後十日ばかりは何事もなかったが、盂蘭盆(うらぼん)が過ぎると、山城屋の女房お菊(きく)と、女中のお咲(さき)が奉行所へ呼出された。この二人はふたたび帰宅を許されないので、世間ではいろいろの噂󠄀をしていると、九月の中頃にその裁判が落着(らくぢゃく)して、女房のお咲は遠島、女房のお菊は死罪という怖(おそ)ろしい申渡しを受けたので、当の山城屋は勿論、世間ではびっくりした。
したがって、それに就いていろいろの風説が伝えられたが、その真相はこうであった。お菊は後妻(ごさい)で、ことし八つになる総領息子をふだんから邪魔物にしていた。世間によくある習いで、彼女は怖ろしい継母根性(ままははこんじょう)からその総領息子を亡きものにしようと企(たくら)んで、子供の玩具として蛙の水出しを買って来た。水出しの一端を水の中へ挿込んで置いても、なかなか自然に水を噴き出すものではない。俗に吸出しをかけると云って、最初に一方の蛙の口へ人間の口をあてて水を吸出してやらなければならない。一度そうすると、それからは自然と水を噴き出すようになる。それであるから、この水出しをもてあそぶものは必ず一度は自分の口で蛙の口を吸わなければならない。水の出ようの悪いときには、二度も三度も蛙の口を吸うことがある。これまで説明すれば、もう委(くわ)しく云う必要はあるまい。お菊は陶器の蛙に一種の毒薬を塗りつけて置いたのであった。
しかし彼女(かれ)はそれを継子(まあこ)の与えようとしてさすがに躊躇(ちゅうちょ)した。彼女はその陰謀の怖ろしいのに脅(おびや)かされて、結局それを中止することにしたが、さてその水出しの処分に困って、女中のお咲に命じて芝浦の海へそっと捨てて来いと云った。勿論、お咲がそのまま海へ投げ込んでしまえば何事もなかったのであるが、その秘密を知らない彼女はわざわざ捨てにゆくのも面倒だと思って、それをあたかも来あわせた紙屑屋の五兵衛にやったので、その蛙の口を吸った五兵衛の子供がまず死んだ。つづいて由五郎の子供が死んだ。一つの水出しが二人の子供を殺すような惨事が出来(しゅったい)した。
たとい半途(はんと)で中止したとしても、継子を毒殺しようと企てただけでもお菊はなんらかの罪を受けなければならなかった。殊にそれがために、紙屑屋の子を殺し、大工の子を殺し、あわせてその母を殺すような事件を仕出来したのであるから、その時代の法として普通の死罪はむしろ軽いくらいであった。お咲はなんにも知らないとはいえ、主命にそむいてその水出しを他人にやった為に、こういう結果を生み出したのであるから、これも重い刑罰を免かれることは出来なかった。
奉行所の記録に残っているのは、ただこれだけの事実であって、お菊はどこからこんな怖ろしい毒薬を手に入れたかを記していない。お菊がそれを白状したらば、その毒薬をあたえた者は当然処刑を受くべき筈であるが、申渡書には単にお菊とお咲を記してあるばかりで、ほかの関係者のことはなんにも見えない。したがって、単に毒薬というばかりで、その薬の種類などは今から想像することは出来ない。
「いや、実はその毒薬をやった医者も判っているんですがね」と、半七老人はここで註をいれた。「そいつは素捷(すばや)い奴で、山城屋の女房と女中が奉行所へ呼ばれたと聞くと、すぐに夜逃げをして、どこへ行ったか判らなくなったんです。そのうち例の瓦解(がかい)で、江戸も東京となってしまいましたから、詮議もそれぎりで消えました。運のいい奴ですね」
「そうすると、その水出しのことはあなたの種出しなんですね」
「お通夜の晩に、紙屑屋の女房がふと水出しのことを喋(しゃ)べったのが手がかりで、こんな大事件をほじくり出してしまいました。いつかあなたに『筆屋の娘』のお話をしたことがありましょう。あれはこの翌月のことで、世間に似たようなことは幾らでもあるもんです」

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