半七捕物帳 第五巻/正雪の絵馬

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正雪の絵馬[編集]

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これも明治三十年の秋と記憶している。十月はじめの日曜日の朝、わたしが例によって半七老人を訪問すると、老人は六畳の座敷の縁側に近いところに坐(すわ)って、東京日日新聞を読んでいた。老人は歴史小説が好きで、先月から連載中の塚原渋柿園(つかわらじゅうしえん)氏作『由井正雪(ゆいしょうせつ)』を愛読していると云うのである。半七老人のような人物が歴史小説の愛読者であると云うのは、なんだか不似合いのようにも思われるが、その説明はこうであった。
「わたくしは妙な人間で、江戸時代の若いときから寄席や落語や人情話よりも講釈の修羅場の方がおもしろいという質(たち)で、商売柄にも似合わないとみんなに笑われたもんですよ。それですから、明治のこのごろ流行の恋愛小説なんて云うものは、何分わたくしどものお歯に合わないので、なるべく歴史小説をさがして読むことにしています。渋柿園先生の書き方はなかなかむずかしいんですが、読みつづけているとどうにか判ります。殊に今度の小説は『由井正雪』で、わたくしどもにもお馴染(なじみ)の深いものですから、毎朝の楽しみにして読んでいます」
それが口切りで、けさは由井正雪のうわさが出た。老人は商売柄だけに、丸橋忠弥(まるばしちゅうや)の捕物の話などもよく知っていた。それから縁を引いて、老人はさらにこんなことを云い出した。
「あの正雪の絵馬はどうなりましたかね」
「正雪の絵馬……。どこにあるんですか」
「堀(ほり)ノ内(うち)のそばです」と、老人は説明した。「堀ノ内のお祖師(そし)様から西南に当りますかね。半里(はんみち)あまりも行ったところに和田(わだ)村、そこに大宮八幡(おおみやはちまん)というのがあります。今はどうなっているか知りませんが、総門から中門までのあいだ一町あまりは大きい松並木が続いていて、すこぶる神(かん)さびたお社でした。社内にも松杉が生い茂っていて、夏なんぞは蟬(せみ)の声がそうぞうしい位です。場所が少し偏寄(かたよ)っているので、ふだんはあまり参詣(さんけい)もないようですが、九月十七日の大祭のときには近郷近在から参詣人が群衆(ぐんじゅ)して、なかなか繁昌したそうです。その社殿に一つの古い絵馬が懸けてありまして、絵馬は横幅が二尺四五寸、丈が一尺三四寸で、一羽の白い鷹(たか)をかき、そのそばに慶安(けいあん)二二と書いてあります。慶安二二はすなわち慶安四年で、由井正雪、丸橋忠弥らが謀叛(むほん)の年です。あからさまに四年と書かずに、わざと二二と書いたのは、二二が四という洒落(しゃれ)に過ぎないのか、それとも何かの意味があるのか、それはよく分りません。
第一この絵馬には奉納主の名が書いてないので、誰が納めたものか昔から判らなかったんですが、その慶安四年から六、七十年の後、享保(きょうほう)年間に八代将軍が当社へ参詣なされたことがあるそうで、その時にこの絵馬を仰いで、これは正雪の自筆であるぞと云われた。将軍はどうして正雪の絵馬を知っていられたか知りませんが、その以来、この絵馬は由井正雪の奉納であると云うことになったんだそうです。そう判ったらば、正雪は徳川家の謀叛人ですから、その奉納の絵馬なぞを早速捨ててしまいそうなはずですが、その後もやはりそのままに懸けられてあったのを見ると、将軍が果してそんなことを云ったのかどうだか、ちっと怪しいようにも思われますが、ともかくも江戸時代には正雪の絵馬として名高いものでした。わたくしが見たのは江戸の末で、慶安当時から二百年も経(た)っていましたから、自然に板の木目が高く出て、すこぶる古雅に見えました。さてその絵馬について、こんなお話があるんですよ。
こんにちでも諸方の神社に絵馬が懸けてありますがあ、、むかしは絵馬というものがたいへんに流行したもので、江戸じゅうに絵馬専門の絵馬屋という商売が幾軒もありまして、浅草茅町(あさくさかやちょう)の日高屋(ひだかや)なぞは最も旧家として知られていました。これからお話をいたすのは、四谷塩町(よつやしおちょう)の大津屋(おおつや)という絵馬屋の一件で、これも相当に古い店だと云うことでした」


安政(あんせい)元年の春はとかくに不順の陽気で、正月が例外に暖かであったと思うと、三月には雷鳴がしばしば続いた。取分けて三月二十六日の夜は大雷(だいらい)、その翌日の昼もまた大雷雨で、江戸市中の所々に落雷した。
「これじゃあどこへも出られねえ」
きょう一日を降りこめられて、半七もただぼんやりと夕飯を食ってしまうと、暮れ六ツ半(午後七時)頃には雷雨も晴れて、月のない空に無数の星の光りがきらめき出した。これからどこへ出るというあてもないので、今夜は早寝かなどと云っていると、表の格子をあける音がきこえて、子分の亀吉(かめきち)が茶の間へ顔を出した。
「今晩は……」
「ひどく鳴ったな……」
「時候はずれでちっと嚇(おど)かされました」
「表からはいつて来て、誰か連れでもあるのか」と、半七は訊(き)いた。
「実はよんどころない人に頼まれて案内して来たんですが、親分、逢(あ)ってくれますかえ」
「ここまで連れ込んでしまった以上は、逢うも逢わねえも云っちゃあいられねえ。まあ、通してみろ」
亀吉に案内されて遠慮がちにはいって来たのは、四谷の大木戸ぎわの油屋で、これも旧家として知られてる丸多(まるた)という店の番頭である。番頭といっても、まだ二十五六の痩(や)せぎすの男で、わたしは幸八(こうはち)と申します。何分お見識(みし)り置きくださいと丁寧に名乗った。丸多の名は半七もかねて知っているので、これも丁寧に挨拶(あいさつ)した。
「掛け違ってお初にお目にかかりますが、おまえさんが丸多の番頭さんですかえ」
「番頭と申すのは名ばかりで、まだ昨日(きのう)きょうの不束者(ふつつかもの)でございます。この後も何分よろしく願います」と、幸八は繰返して云った。
その暗い顔色をみて、半七は何を頼みに来たのかと考えながら挨拶していると、亀吉が横合いから引取って喙(くち)を出した。
「番頭さんは口が重くって話しにくいと云いますから、わっしから取次いでも好(よ)うがすかえ」
「誰からでもいい。用談の筋道を早く聞かして貰(もら)おうじゃあねえか」と、半七は云った。
「実はね、親分。こういうわけですよ」と、亀吉はひと膝(ひざ)ゆすり出て説明した。「丸多の主人がちっと道楽をやり過ぎましてね」
「主人は幾つだ」
「主人は多左衛門(たざえもん)といって、ことし四十六だそうです」
「四十六……」と、半七は笑った。「それじゃあ真逆(まさか)に近所の新宿(しんじゅく)へ熱くなったと云うわけでもあるめえ。一体どんな道楽が過ぎたのだ」
亀吉の説明によると、その道楽は絵馬の蒐集(しゅうしゅう)であった。前にも云う通り、江戸時代には絵馬が流行(はや)った。したがって、古い絵馬や珍らしい絵馬をあつめることを一種の趣味とする人びとも少なくなかった。時には同好者が会合して、めいめいの所蔵品を見せ合うこともあった。そうなると、そのあいだに競争も生ずるのが自然の道理で、なにか珍奇の品を持出して他人(ひと)を驚かせゆと企てるようにもなる。結局は普通の絵馬屋で売っているような絵馬のたぐいでは満足できない事になって、近郷近在の神社などを巡拝しながら珍らしい絵馬をあさって歩くようにもなる。元来この絵馬はそれぞれの願主(がんぬし)が奉納したものだから、他人がみだりに持去ることを許されないのであるが、なんとか頼んで内証(ないしょ)で貰って来る者もある。貰って来るのはまだしもであるが、甚しきは無断で引っぱずして来るのもある。いわゆる蒐集狂で、それがために理非の分別を失うようになるのであった。
丸多の主人多左衛門もやはりその一人で、今では普通の趣味や道楽を通り越して、絵馬蒐集に熱狂する人間となってしまった。彼は山の手の同好者をあつめて「絵馬の会」というのを組織し、自分がその肝煎(きもいり)となって毎年の春秋二季に大会を催すことにした。大会は山の手の貸席か又は料理茶屋を会場として、会員一同が半季のあいだに蒐集した新奇の絵馬を持寄るのである。
ことしの大会は今月の五日、四谷見附(みつけ)そとのある茶屋で催されたが、そのときに丸多の主人は大きい絵馬を持出して、同好の人をおどろかした。それがかの正雪の絵馬であった。この会に集まるほどの者は、いずれも多左衛門に劣らぬ数寄者(すきしゃ)であるから、勿論(もちろん)その絵馬を知っていた。そうして、丸多の主人がどうしてそれを手に入れたかを驚き怪しんで、みんな口ぐちにその事情を訊きただしたが、得意満面の多左衛門はただにやにやと笑っているばかりで、詳しい説明をあたえなかった。
そうなると一種の好奇心も手伝って、会員の幾人(いくたり)はその後大宮八幡へ見とどけに行くと、かの絵馬は依然として懸かっているので、人びとはまた不思議に思った。丸多は自分の物のように云っているが、実は神官になんとか頼んで、大会の当日だけひそかに借出して来たのであろうと想像して、ある者は丸多の宅へ押掛けて詰問すると、多左衛門は笑いながらかの絵馬を出して見せたので、その人は又おどろかされた。同じ絵馬が世に二つと無い以上、その一つは偽物でなければならない。どう考えても、由井正雪の絵馬、殊にその画面も寸分違わないような同一の絵馬がほかにあろうとは思われないので、更にその出所を根堀り葉掘り詮議(せんぎ)すると、多左衛門は声をひそめて話した。
「これはお前さんだけに極内(ごくない)でお話し申すが、実は八幡様から盗み出して来たのです。しかし由緒ある絵馬が紛失したとあっては、その詮議がやかましいから、偽物をこしらえて掏換(すりか)えて置いたのです。高いところに懸けてある絵馬だから、下からうっかり見上げただけでは誰も偽物とは気が付かない。このくらいの苦労をしなければ、良い物や珍らしい物は容易に手に入らない世のなかですよ」
彼は得意の鼻をうごめかしていた。それを聞かされた人も相当の蒐集狂で、神社の絵馬を無断で引っぱずして来るくらいのことは随分やりかねない男であったので、普通の人ほどには驚きもしなかったが、それでも偽物をこしらえて掏換えて来るほどの知恵はなかったらしく、今さらのように多左衛門の熱心を感嘆して帰った。


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いつの世にも秘密は漏れ易い。お前さんだけにと云った丸多の話は、それからそれへと同好者のあいだに広がって、正雪の絵馬は盗み物であるという噂󠄀(うわさ)が立った。
それを早くも聞き込んだのは、四谷坂町(さかまち)に住む御城坊主牧野逸斎(まきのいっさい)の次男万次郎であった。万次郎も「絵馬の会」に加入している一人で、丸多の主人とはかねて懇意の仲であったが、十日(とおか)ほど前の夜に尋ねて来て奥の間で多左衛門と何かの密談に時を移して帰った。主人は口を噤(つぐ)んで何事をも語らないのであるが、それが普通の用件や雑談でないことは、多左衛門の暗い顔色を見ても大抵想像されるので、女房や番頭らも心配した。女房のお才(さい)は大番頭の与兵衛(よへえ)と相談して、ある夜かの万次郎が帰るあとを尾(つ)けさせた。
与兵衛は途中の小料理屋へ万次郎を誘い込んで、この頃の密談の内容を訊きただすと、万次郎は眉をひそめて囁(ささや)いた。
「おめえの主人は飛んでもねえ事をしてしまった。わたしも絵馬をあつめるのが道楽で、ずいぶん無駄な銭を使ったり、無駄な暇を潰(つぶ)したりしているが、お前の主人は道楽が強過ぎるぜ。いかに熱心だからといって、和田の八幡から正雪の絵馬を持出すとは呆れたものだ。わざわざ偽物を拵(こさ)えて、本物と掏換えて来るなんぞは、あんまり罪が深過ぎるじゃあねえか。いや、それも普通の絵馬ならば、なんとか内済にする法があるかも知れねえが、正雪の絵馬じゃあ何分にも事が面倒になる。由井正雪が天下の謀叛人だと云うことは、三つ児でも知っているはずだ。あんな物をそのままにして置くお上(かみ)の思召(おぼしめ)しは知らねえが、それに眼をかけて、内証で盗み出して、自分の家(うち)に仕舞い込んで置くというのは、上を恐れぬ致し方だと云われても一言もあるめえ。おまえを嚇かすようだが、由井正雪は徳川の御家(おいえ)を亡ぼそうとした謀叛人だ。その謀叛人に心を寄せて、その奉納の絵馬を大事に仕舞って置くなぞとは飛んでもねえ話だ。万一それが露顕したら、公儀に対して不届きな奴(やつ)だと云うので、重ければ死罪か遠島、軽くとも追放で家財は没収、何代か続いた丸多の家もお取潰しになるのは知れたことだ」
それを聞かされて、与兵衛も蒼くなった。まったく万次郎の云う通り、謀叛人の絵馬などを盗み出して、大事に仕舞って置くことが露顕したあかつきには、どんなお咎(とが)めを受けるかも知れない。盗むということがすでに悪いのに、それを盗んだ品が更に悪いのであるから、どうでも無事に済む筈がないと、彼は顫(ふる)え上がるほどに驚いたのである。それについて、万次郎はまた云った。
「悪いことは知れ易いもので、この絵馬の一件がもう人の口の端(は)にのぼっている。このまま打っちゃって置いたら、どんなことが出来(しゅったい)するか判らねえ。わたしもおまえの主人とは懇意にしているのだから、なんとか無事に納めてやりてえと、このあいだから心配しているのだ。おまえの主人も今じゃあ後悔して、万事よろしく頼むと云うのだが、なにしろ莫大の金のいる仕事だ。こういうことは一人や二人に金轡(かなぐつわ)を嵌(は)めても、ほかの口から発(あば)き立てられちゃあ仕方がねえ。お奉行は別としても、南北の両奉行所に付いている与力同心は三百人もある。一人に十両と廉(やす)く積もっても、三千両はすぐに消えてしまう。岡っ引だって顔のいい奴には何とか挨拶をして置かなけりゃあならねえ。そんなこんなを併(あわ)せると、まず、四、五千両は要るだろう。勿論、大金には相違ねえが、主人の命も助かり、丸多の店も無事に助かると云うことを考えれば、高いようで廉いものだ」
この事件を揉み消すには、まず岡っ引の口を塞(ふさ)がなければならないと云うので、伴次郎は多左衛門から百両ずつの金を二度うけ取った。しかしそんな事で済むわけは無いので、あとの金を早く工面するように迫っているが、多左衛門はなぜか渋っているので、とかくに埒(らち)が明かないと、彼はやや不満らしく話した。自分も好んでこんな事に係り合いたくは無いのであるから、お前の主人がいつまでも渋っているようならば、自分はもう手を引くのほかは無いと、彼は云った。
それが一種の嚇しのように聞かれないでも無かったが、今この場合、万次郎にすがって何とか無事を図ってもらうのが近道であると考えたので、与兵衛は自分が責任を帯びて、その金を調達すると請合(うけあ)った。但し旧家といい、老舗(しにせ)といっても、丸多の店の有金(ありがね)を全部かき集めても二、三千両に過ぎない。そのほかの財産はみな他所や家作であるから、右から左に金には換えられない。それを抵当にして他(よそ)から借出すか、あるいは親類に相談して一時の立換えを頼むか、二つに一つの都合を付けるまで猶予してくれと、彼は万次郎に嘆願した。
「それならまず有金を吐き出して置いて、他所や家作の抵当はあとの事にすればいいじゃあねえか。こっちは急ぎだ。ぐずぐずしていると、六日(むいか)の菖蒲(あやめ)になるぜ」と、万次郎は催促するように云った。
「しかし、有金を残らず差出してしまいましては、店の商売が出来ません」と、与兵衛はいろいろに云い訳した。
かれこれ押問答の末に、ともかくもあしたの晩までに二千両の金を渡すことに約束して、二人は別れた。与兵衛は急いで大木戸の店へ帰って、まず女房のお才にその一条を訴えると、お才も死人のような顔になった。すぐに主人の多左衛門を奥へ呼んで、女房と番頭が右左から詰問すると、多左衛門はいっさいを正直に告白した。自分の道楽からみんなに心配をかけて申訳がない。諸事は万次郎の云う通りであるから、何分よろしく取計らってくれと、彼は面目なげに云った。万次郎に二百両を渡しただけで、なぜあと金を出し渋っていたかという問いに対しては、余りに大金であるからだと答えた。
それはおとといの夜のことで、この上は何をおいても金の工面を急がなければならないと、お才はふたたび番頭と打合せの上で、明くる日の早朝から下町の親類へ相談に行った。与兵衛は淀橋(よどばし)辺になる丸多の地所と家作を抵当にして金を借出す掛合いに出かけた。親類の方は相談が纏(まと)まらないで、午(ひる)過ぎにお才は悄々(すごすご)と帰って来ると、店にも奥にも多左衛門の姿は見えなかった。裏口からこっそり出て行ったらしく、店の者も今まで気が付かなかったと云うのである。時が時だけに、お才は一種の不安を感じて、居間のそこらを取調べると、果して一通の書置が発見された。それはお才に宛てたもので、自分の不心得を詫(わ)びた上に、与兵衛と相談して後の事はよろしく頼むと簡単に書いてあった。
やがて与兵衛も帰って来て、この書置を見せられて驚いた。取りあえず店の者を諸方へ走らせて心あたりを探させたが、多左衛門の消息は判らなかった。多左衛門は一体(いったい)なんのために家出したのか。一家の主人たるものが女房や番頭に申訳なさの家出は、あまりに気が狭過ぎるようにも思われるので、更に家内を取調べると、かねて貯えてあるたくさんの絵馬のうちで、かの正雪の絵馬が一枚紛失していた。彼がその絵馬をかかえて家出したらしいのは、裏口の井戸ばたに洗濯物をしていた女中の証言によって推定された。長さ二、三尺の額のような物を風呂敷につつんで、小脇にかかえて出てゆく旦那様のうしろ姿を見ました、と女中は云った。
女房や番頭らに対して面目ないと云う意味も多少はまじっていたかも知れないが、多左衛門が家出の真意は、かの絵馬に対する根強い愛惜(あいじゃく)であることが想像された。万次郎の運動によって、たといこの事件が無事に納まるとしても、絵馬を掏換えたままにして置くことは出来ない。こうなった以上は、どうしても本物を元へ戻さなければならない。それが彼に取っては忍び難い苦痛であるので、結局かれは家を捨て、妻を捨て、さらに我が身をほろぼすをも顧(かえり)みないで、かの絵馬を抱いて姿を隠したのであろう。つまり一種の偏執狂(へんしゅうきょう)である。この時代でも、余り物に凝(こ)り過ぎると馬鹿か気違いになると云ったのであるが、多左衛門も絵馬の道楽に凝り過ぎて、ほとんど気違いのようになってしまったらしい。あまりのあさましさに云うべき言葉もなく、お才も与兵衛も顔を見あわせて溜息のほかに無かった。
その日が暮れると、約束の通りに万次郎が来た。与兵衛は主人の家出の事情を打明けて、その居所(ありか)の知れるまでは運動費の二千両を渡しかねるから、しばらく猶予してくれと懇願すると、万次郎はそれを信じなかった。家内の者が共謀して、主人をどこかへ隠したのであろうと彼は邪推した。
「ゆうべも番頭に云った通り、おれは親切ずくで働いているのだ。それを無にして、変な小細工をするなら、おれはもう手を引くからそう思ってくれ。後日(ごにち)に何事が起っても、主人の首に縄が付いても、ここの店が引っくり返っても、決しておれを恨みなさんなよ。こんなとに係り合うのは真(ま)っ平(ぴら)御免(ごめん)だ」
さんざんに機嫌を損じたらしい彼は、あらあらしく畳を蹴(け)って立去った。多左衛門はもちろん帰って来なかった。丸多の一家は不安のうちに雷雨の一夜を明かした。
「さて、これからどうしたらいいか」
途方に暮れたお才と与兵衛は更に額をあつめて相談の末、若い番頭の幸八を奥へ呼んだ。番頭といっても赤の他人ではなく、幸八はお才の遠縁にあたる者で、丸多の夫婦には実子が無いために、行くゆくは彼を養子にすることを内定していたのであった。そういう関係から、幸八も今度の事件については一生懸命働かなければならない立場に置かれていた。
この場合、何をどうするにしても、まず主人多左衛門の居所を探し出さなければならないので、知合いの手先に頼んで内々(ないない)で探索することになった。去年の暮、丸多の手代が懸先(かけさき)の持ち逃げをした時に、手先の亀吉が調べに来て、与兵衛や幸八らとも顔馴染になっているので、幸八がその使を云い付かったのである。彼はその日の午後の雷雨を冒(おか)して、駕籠(かご)を飛ばせて亀吉の家へ頼みに行くと、亀吉も降りこめられて家(うち)にいた。しかも幸八からの委細の話を聞いて、彼は首をかしげた。
「こりゃあなかなか面倒な仕事で、わっし一人の手に負えそうもねえ。主人の居所を探し出したところで、あとの始末がむずかしい。やっぱり親分の知恵を借りなけりゃあなるめえ」
彼が幸八を連れて来たのは、こういうわけであった。亀吉の話の足らないところを、幸八が重い口ながら付加えて、なにぶんお願い申しますと折入って頼んだ。
二人の説明を聞いてしまって、半七もおなじく首をかしげた。
「成程こりゃあ亀吉の云う通り、なかなか面倒な仕事らしい。御城坊主の忰(せがれ)という悪い者が引っからんでいるので、いよいよ面倒だ。しかしまあ折角のお頼みだから、なんとか考えてみましょう。おかみさんにもあんまり心配しねえように云って置くがようござんすよ」
「なにぶんお願い申します」
幸八は繰返して頼んで帰った。
「親分。忙がしいところを済みません。飛んだ厄介物を担(かつ)ぎ込んで……」と、亀吉は云った。
彼は勿論、幸八から相当の働き賃を貰っているに相違なかった。
「そこで、その偽物の絵馬を拵(こしら)えたという家(うち)はどこだ」
と、半七は訊いた。
「塩町の大津屋だそうです」
「一体その絵馬を掏換えて来たのは誰だ。丸多の主人が自分でやったのか」
「それがよく判らねえのですが……。おそらく自分が手を下(くだ)したのじゃありますめえ。ほかに頼まれた奴があるのだろうと思われますがね」
「むむ。いくら道楽が強くっても、大家(たいけ)の主人が自分で手を出しゃあしめえ。絵馬屋の奴らが頼まれたのか、それともほかに手伝いがあるのか、それもよく詮議しなけりゃあならねえ。神社の絵馬をどうしたのこうしたのと云うのは、寺社の支配内のことで、おれたちの係り合いじゃあねえ。ことに堀ノ内の先だと云うのだから、江戸の町方(まちかた)の出る幕じゃあねえ。おれたちは頼まれただけの仕事をして、丸多の主人の居所さえ突き当てりゃあいいようなものだが、ただそれだけじゃあ納まるめえ。仏(ほとけ)作って魂入れずになるのも残念だから、引受けた以上はひと通りの事をしてやりてえと思うのだが……。なにしろその現場を見なけりゃあどうにもならねえ。この分じゃあ明日(あした)は天気だろう。ともかくも一緒に和田へ踏み出してみようじゃあねえか。朝の五ツ半(午前九時)までに大木戸へ行って待合せていてくれ」
「承知しました」
亀吉は表へ出て、空を仰ぎながら云った。
「親分。あしたは確かに上天気……。星が降るように出ましたよ」


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亀吉の予報は狂わないで、明くる二十八日の朝の空は拭(ぬぐ)うように晴れていた。三月末の俄(にわか)天気で、やがて衣更(ころもが)えという綿入れが重いようにも感じられたが、昔の人は行儀がいい、きょうから袷(あわせ)を着るわけにも行くまいと云うので、半七は暖か過ぎるのを我慢して出ると、神田(かんだ)から山の手へのぼる途中でもう汗ばんで来た。羽織をぬいで肩にかけて大木戸まで行き着くと、亀吉は約束の通りに待っていた。
「すこし天気がよすぎるな。だが、まあ、降られるより優(ま)しだろう」
「そうですよ。きのうのようじゃあどうすることも出来ません」と、亀吉も羽織を袖畳(そでだた)みにしながら云った。
内藤新宿(ないとうしんじゅく)の追分(おいわけ)から角筈(つのはず)、淀橋を経て、堀ノ内の妙法寺(みょうほうじ)を横に見ながら、二人は和田へ差しかかると、路ばたの遅い桜もきのうの雷雨に残りなく散っていた。もう青葉だなどと話しながら、畑道のあいだを縫って大宮八幡の門前へ辿(たど)り着くまでに、二人は途中の百姓家で幾たびか道を訊いた。
「初めて来たせいか、ずいぶん遠いな」と、半七は立停(たちど)まって云った。
「ちっとくたびれましたね。まあ、一服しましょう」
二人は路ばたの石に腰をかけて、煙草入(たばこい)れを取出した。空はいよいよ麗(うらら)かに晴れて、そこらの麦畑で雲雀(ひばり)の声もきこえた。風の無い日で、煙草のけむりの真っ直ぐにあがるのを眺めながら、半七は徐(しず)かに云い出した。
「なあ、亀。おれは途中で考えながら来たのだが、ここの絵馬は無事だろうと思うぜ」
「そうでしょうか」
「おそらく無事だろうと思う。偽物をこしらえて掏換えたと云うが、それは丸多の亭主が騙(だま)されているので、実は自分が偽物を摑(つか)まされているのだろう」
「成程ね」
「そうなりゃあ論はねえ。丸多の亭主は誰にか騙されて、偽物を高く買い込んだと云うだけのことだ。おれはどうもそうらしく思う。念のためによく調べてみよう」
二人は松並木のあいだを縫って本社の前に出ると、境内は思ったよりも広かった。東にむかった社殿に幾種の絵馬が懸けつらねてあって、そのうちにかの白鷹の絵馬も見えたので、二人は近寄ってしばらく無言で見あげていたが、やがて半七は自分の予覚が適中したようにほほえんだ。
「おれは素人(しろうと)で、こんな物の眼利(めき)きは出来ねえが、彩色(いろどり)といい、木目といい、どう見ても拵え物じゃあねえらしい。こりゃあ確かに真物(ほんもの)だ」
神仏混淆(こんこう)の時代であるから、この八幡の別当所は大宮寺(おおみやじ)という寺であった。半七は別当所へ行って、自分たちの身分を明かして、かの絵馬について聞きあわせると、寺僧らもおどろいて出て来た。かれらは半七の眼の前で、かの絵馬を取りおろして裏表を丁寧にあらためたが、絵馬にはなんの異変もなく、当社伝来の物に相違ないと云った。
「いや、よく判りました。わたしも大方そうだろうと思って居りました」と、半七は云った。
「就いてはもう一つ伺いたいことがありますが、近頃ここへ来てこの絵馬の図取りでもしていた者をお見掛けになりませんでしたろうか」
「成程そう云えば、去年の十月か十一月頃のことでした」と、若い僧の一人が答えた。「四十前後の町人風の男が二十三四の女と二人連れで参詣に来て、この絵馬の下にしばらく立って眺めていましたが、女は矢立(やたて)と紙を取出して何か模写しているようでした。その後にまた来ましたが、今度は女ひとりで、やはり一心に写しているように見受けました」
その女の人相や風俗を訊きただして、半七と亀吉は寺僧らに別れた。
「その女というのは絵かきでしょうね」と、亀吉は云った。
「むむ。どうで偽物をこしらえるのだから、絵かきも味方に入れなけりゃあならねえ。男というのは絵馬屋の亭主で、女は出入りの絵かきだろう。これから帰ったら、その女を探ってみろ」
「ようがす。女の絵かきで、年ごろも人相も判っているのだから、すぐに知れましょう。そこで、大津屋はどうします。もう少し打っちゃって置きますか」
「どうで一度は挙げる奴らしいが、まあ、もう少し助けて置け。いよいよおれの鑑定通り、ここの絵馬が無事であるとすれば、大津屋の亭主は丸多をだまして、偽物を押付けたに相違ねえ。それを知らずに偽物を後生(ごしょう)大事にかかえて、丸多の亭主はどこをうろ付いているのだろう。考えてみると可哀そうでもある。なんとかして早くその居所を探し出してやりてえものだ」
「帰りに堀ノ内へ廻りますかえ」
「ついでと云っちゃあ済まねえが、ここらまでは滅多(めった)に来られねえ。午飯(ひるめし)を食ってお詣(まい)りをして行こう」
二人は堀ノ内へまわって、遅い午飯を『信楽(しがらき)』で食って、妙法寺の祖師に参詣(さんけい)した。その帰り路で、半七はまた云い出した。
「おれはまた、途中で考え付いたが、その御城坊主の次男……万次郎とかいう奴は、大津屋の亭主と共謀(ぐる)になているのじゃあるめえかな。丸多が絵馬で半気違いになっているのに付け込んで、大津屋がまず偽物でいい加減に儲(もう)けた上に、今度は万次郎が入れ代って、謀叛人の絵馬を云いがかりに、丸多を嚇しつけて何千両という大仕事を企(たくら)んだのじゃあねえかと思うが……。もしそうならば、重々太(ふて)え奴らだ。しかし御城坊主の忰なんぞには随分悪い奴がある。下手(へた)をやると逆捻(さかね)じを喰うから、気をつけて取りかからなけりゃあならねえ」
元来た道を四谷へ引返して、大木戸ぎわの丸多の店へ立寄ると、主人多左衛門のゆくえはまだ知れないと番頭らは嘆いていた。
幸八を表へ呼び出して、半七はきょうの結果を囁いた。
「まあ、そういうわけだから、絵馬の一件は心配するほどの事はありません。騙された人間もよくねえが、騙した奴はなお悪いということになる。そこで、御城坊主の忰というのは、その後に尋ねて来ませんかえ」
「おとといの晩、怒って帰ったきりで、きのうも今日も見えません」
「また来て嚇し文句をならべても、肝腎(かんじん)の絵馬は無事なのだから、別に恐れることはありません。まあいい加減にあしらって置くがようござんすよ」
「ありがとうございます」と、幸八はやや安心したように云った。
大木戸から更に塩町へ引返して、大津屋の店先へ来かかった頃には、三月末の長い日ももう暮れかかっていた。うす暗い店には商売物の絵馬が大小取りまぜてたくさんに懸けてあって、若い職人ひとりと小僧二人が何かの仕事をしているらしかった。半七はその店へはいって、要(い)りもしない小さな絵馬を一枚買った。
「親方は内かえ」
「きょうは昼間から出ました」と、職人は答えた。
「いつごろ帰るか、判らないかね」
「この頃はちょいちょい出るので、いつ帰るか判りませんが……。なにか御用ですか」
「むむ、奉納の大きい物を頼みてえのだが、親方が留守じゃ仕方がねえ。また出直して来(こ)よう。おかみさんもいねえかね」
「おかみさんは……。四、五年前に亡くなりました」
「じゃあ、親方は一人かえ。子供は……」
「娘があります」
「娘は幾つだ」
「十八です」
「いい女かえ。おめえも様子がいいから、もう出来ているのじゃあねえか」
「冗談でしょう」と、職人は大きい声で笑い出した。
半七も笑ってそこを出たが、五、六間ほど行き過ぎて大津屋をみかえった。
「おい、亀。少し忙がしくなって来たが、大津屋の亭主と娘について出来るだけの事を洗ってくれ。万次郎の方は松(まつ)に云いつけて調べさせる。丸多の亭主は半気違げえだから、どこにどうしているか、差しあたりは手の着けようがねえ。それから如才もあるめえが、大津屋を調べるついでに、女の絵かきの探索も頼むぜ」と、云いかけて半七は急にまた笑い出した。「やあ、いけねえ、いけねえ。おれもよっぽど焼きがまわったな。今あの店で、ここの絵馬をかく人は誰だと訊いてみりゃあよかったに……。こいつは大失敗(おおしくじり)だ」
「なに、そんなことはすぐ判りますよ」
店屋(てんや)の灯がちらほら紅くなった往来で、親分と子分は別れた。


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あくる日はまた陰(くも)って、夕方から細かい雨がしとしとと降り出した。どうも続かない天気だと云っていると、その夜の五ツ(午後八時)過ぎに、亀吉と松吉が顔をそろえて来た。
「丁度そこで逢いました」
「そりゃあ都合がよかった。そこで、早速だが、めいめいの受持ちはどうだった」と、半七は訊いた。
「じゃあ、わっしから口を切りましょう」と、亀吉は云い出した。
「大津屋の亭主は重兵衛(じゅうべえ)といって、ことし四十一になるそうです。五年前に女房に死なれて、お絹(きぬ)という娘と二人っきりですが、どっかに内証の女があると見えて、この頃は家を明けることがたびたびある。それから、親分。その娘のお絹というのは、御城坊主の次男とどうも可怪(おかし)いという噂󠄀で……。してみると、親分の鑑定通り、万次郎と大津屋は共謀(ぐる)だと思いますね。それから大津屋へ出入りの女絵かきは、孤芳(こほう)という号を付けている女で、年は二十三四、容貌(きりょう)もまんざらで無く、まだ独身(ひとりみ)で、新宿の閻魔(えんま)さまのそばに世帯(しょたい)を持っているそうです。そこで、まだはっきりとは判りませんが、この女は大津屋の亭主か万次郎か、どっちかの男に係り合いがあると、わっしは睨(にら)んでいるのですが……」
「そうかも知れねえ」と、半七はうなずいた。「そこで、松。おめえの調べはどうだ」
「わっしの方はすらすら判りました」と、松吉は事もなげに答えた。「親分も知っていなさる通り、四谷坂町に住んでいる御城坊主の牧野逸斎、その長男が由太郎(よしたろう)、次男が万次郎で……。万次郎はことし二十一ですが、まだ養子先も見付からねえで、自分の家(うち)の厄介になっている。こいつも絵馬道楽のお仲間で、大津屋へ出入りをしているうちに、今も亀が云う通り、大津屋の娘と出来合ったらしいという噂󠄀です。だが、近所の評判を聞くと、万次郎という奴はもちろん褒められてもいねえが、取立てて悪くも云われねえ、世間に有りふれた次三男の紋切型で、道楽肌の若い者と云うことだけのことらしいのです」
「大津屋の重兵衛はどうだ。こいつにも悪い評判はねえか」と、半七はまた訊いた。
「そうですね」と、亀吉はすこし考えていた。「これも近所町内の評判は別に悪くもねえようです。万次郎と同じことで、まあ善くも無し、悪くも無しでしょうね。だが、旧(ふる)い店だけに身上(しんしょう)は悪くも無いらしく、淀橋の方に二、三軒の家作(かさく)も持っているそうです」
「娘はどんな女だ」
「きおう親分がいい女かと云ったら、職人が笑っていたでしょう。まったく笑うはずで、わっしもきょう初めて覗(のぞ)いてみたが、いやもう、ふた目と見られねえくらいで、近所のお岩(いわ)さまの株を取りそうな女ですよ。可哀そうに、よっぽど重い疱瘡(ほうそう)に祟(たた)られたらしい。それでもまあ年頃だから、万次郎と出来合った……。と云っても、おそらく万次郎の方じゃあ次男坊の厄介者だから、大津屋の婿にでもはいり込むつもりで、まあ我慢して係り合っているのでしょうよ」
「それでまずひと通りは判った」と、半七は薄く瞑(と)じていた眼をあいた。「娘と万次郎と出来ていることは父親の重兵衛も知っていて、行くゆくは婿にでもするつもりだろう。それはまあどうでも構わねえが、丸多の亭主の絵馬きちがいに付け込んで、偽物の絵馬を拵えて、孤芳という女に絵をかかせて、その偽物を丸多に押しつけて……。それから入れ代って万次郎が押掛ける。やっぱりおれの鑑定通りだ……。今の話じゃあ、万次郎という奴はあんまり度胸のある人間でも無さそうだから、おそらく重兵衛の入れ知恵だろう。自分が陰で糸を引いて、万次郎をうまく操るって、大きい仕事をしようとする……。こいつもなかなかの謀叛人だ。由井正雪が褒めているかも知れねえ。だが、こいつらがおとなしく手を引いて、これっきり丸多へ因縁を付けねえということになれば、まあ大目(おおめ)に見て置くほかはあるめえ。何事もこの後の成行き次第だ」
「まあ、そうですね」と、亀吉も答えた。
「それにしても、丸多の亭主にも困ったものだ。店の者にゃあ気の毒だが、どこをどう探すという的(あて)がねえ」と、半七は溜息をついていた。
それから世間話に移って、やがて四ツ(午後十時)に近い頃に、亀吉らはいったん挨拶して表へ出たかと思うと、又あわただしく引っ返して来た。
「親分、飛んだ事になってしまった。丸多が死んだそうですよ」
つづいて番頭の幸八が駈け込んだ。
「いろいろご心配をかけましたが、主人の死骸が見付かりました」
「どこで見付かりました」と、半七も忙(せ)わしく訊いた。
「追分の高札場(こうさつば)のそばの土手下で……」
「それじゃあ近所ですね」
「はい。店から遠くない所でございます」
「どうして死んでいたのです」
「松の木に首をくくって」
「例の絵馬は……」
「死骸のそばには見あたりませんでした。ご承知の通り、あすこには玉川(たまがわ)の上水(じょうすい)が流れて居りまして、土手のむこうは天龍寺(てんりゅうじ)でございます。その土手下に一本の古い松の木がありますが、主人は自分の帯を大きい枝にかけて……。死骸のそばに紙入れ、煙草入れ、鼻紙なぞは一つに纏めてありましたが、絵馬は見あたらなかったと申します。あの辺は往来の少ない所でございますので、通りがかりの人がそれを見付けましたのは、けさの六ツ半(午前七時)頃だそうでございますが、近所とは申しながら丸多の店とは少し距(はな)れて居りますので、すぐにそれとは判りかねたと見えまして、ご検視なども済みまして、その身許(みもと)もようようはっきりして、わたくしどもへお呼出しの参りましたのは、やがて七ツ頃(午後四時)でございます。それに驚いて駈け付けまして、だんだんにお調べを受けまして、ひとまず死骸を引取ってまいりましたのは、日が暮れてからのことで……。早速お報(しら)せに出る筈でございましたが、何しろごたごた致して居りましたので……」
「そりゃあ定めてお取込みでしょう。どうも飛んだことになりましたね」と、半七は気の毒そうに云った。「そこで、ご検視はどういうことで済みました」
「乱心と申すことで……。人に殺されたと云うわけでも無し、自分で首を縊(くく)ったのでございますから、検視のお役人方も別にむずかしいご詮議もなさいませんでした」
「ご検視が無事に済めば結構、わたしたちが差出るにゃあ及びませんが、ともかくもお悔みながらお店まで参りましょう。おい、亀も松も一緒に行ってくれ」
幸八は駕籠を待たせてあるので、お先へ御免蒙(こうむ)りますとことわって帰った。半七は途中で箱入りの線香を買って、三人連れで大木戸へむかった。雨は幸いに歇(や)んだが、暗い夜であった。
「ひょっとすると、丸多の亭主は首くくりじゃあねえ。誰かに縊(くび)られたのかも知れねえな」と、半七はあるきながら云った。
「やっぱり大津屋の奴らでしょうか」と、亀吉は小声で訊いた。
「絞め殺して置いて、木の枝へぶら下げて置くというのは、よくある手だ」と、松吉も云った。
「まあ、行ってみたらなんとか見当が付くだろう」と、半七は云った。「もしそうならば、大目に見て置くどころか、あいつらを数珠(じゅず)つなぎにしなけりゃあならねえ。またひと騒ぎだ」
三人が大木戸の近所まで行き着くと、幸八は店の者に提灯(ちょうちん)を持たせて迎えに出ていた。丸多の店にはいって、半七は持参の線香をそなえて、家内の人たちに悔みの挨拶をした。今夜は親類に報(しら)せただけで、夜が明けてから世間へ披露するとの事であったが、それでも旧い店だけに、出入りの者などが早くも詰めかけて、広い家内は混雑していた。
「ご検視の済んだものを、わたくしどもが弄(いじ)くるのもいかがですが……」と、半七は親類や番頭に断わって、座敷に横たえてある多左衛門の死顔の覆いを取りのけた。片手に蠟燭(ろうそく)をかざしながら、まずその死顔を覗いて、次にその咽喉(のど)のあたりを検(あらた)めた。更にその手の指をいちいち検めた。
それが済んで、半七は縁側の手水鉢(ちょうずばち)で手を洗っていると、幸八が付いて来て囁くように訊いた。
「別にご不審はございませんか」
「少しご相談がありますから、大番頭さんを呼んでください」
与兵衛と幸八を別間に呼込んで、半七は自分の意見を述べた。
自分はこれまで縊死者(いししゃ)の検視にもしばしば立会っているが、わが手で縊(くび)れて死んだ者があんなに苦悶の表情を留(とど)めている例がない。咽喉のあたりに微かに掻き傷の痕(あと)がある。左の中指と右の人さし指の爪が少し欠けている。それらを綜合して考えると、主人は他人(ひと)に絞められて、その絞め縄を取りのけようとして藻掻(もが)きながら死んだのである。自分の帯で縊れていたと云うが、頸(くび)のまわりに残っている痕をみると、細い縄のような物で強く絞めたらしい。就いては乱心の自殺として、このまま無事に済ませてしまうか、あるいは他殺としてその下手人を探索するか。皆さんの思召しをうかがいたいと、半七は云った。
それを聞いて、与兵衛らはひどく驚いたらしく、今は後家となった女房のお才をはじめ、親類一同を奥の間へ呼びあつめて、俄に評議を開いた。
今さら他殺などと騒ぎ立てるのは外聞にもかかわる事であるから、このままおだやかに済ませたがよかろうと云う軟派と、他殺ならばその下手人を探し出して、相当の仕置を受けさせるが順道であると云う硬派と、議論は二派に分れたが、お才はどうしても主人のかたきを取って貰いたいと強硬に主張するので、軟派の人びとも争いかねて、結局その下手人の探索を半七に頼むことになった。
それから二日目に、丸多の店では主人の葬式を出した。表向きは乱心の縊死と云うことになっているので、世間の手前、あまり華やかな葬式を営むことを遠慮したのであるが、それでも会葬者はなかなかに多かった。大津屋の重兵衛も会葬者の一人に加わっていた。
葬式が果てた後、亀吉は重兵衛のあとを尾(つ)けてゆくと、彼は太宗寺(たいそうじ)の方角へ足を向けた。それは新宿の閻魔として有名の寺である。その寺に近いところに、小さい二階家があって、重兵衛はその入口の木戸をあけてはいった。庭には白い辛夷(こぶし)の花が咲いていた。
近所で訊くと、それがかの女絵師の孤芳の住家(すみか)であった。これで重兵衛と孤芳との関係が、自分の鑑定通りであるらしいことを亀吉は確かめたが、さらに近所の者の話を聞くと、孤芳の家には重兵衛のほかに、二十歳(はたち)前後の色白の男が時どきに出入りをする。またそのほか十七八の不器量な娘も忍んで来ると云うのであった。男はおそらく牧野万次郎で、娘は大津屋のお絹であろう。孤芳が重兵衛の囲い者のようになっている関係上、万次郎とお絹はここの二階を逢いびきの場所に借りている。それもありそうなことだと、亀吉は思った。
その報告を聴いて、半七は云った。
「それだけの事が判ったら、それを手がかりに、もうひと足踏ん込まなけりゃあいけねえ。丸多の亭主の下手人は大津屋の重兵衛と睨んでいるものの、確かな証拠も無しに手を着けるわけにゃあ行かねえから、まあ気を長く見張っていろ」
亀吉は承知して帰ったが、それから十日ほどの日に、かの孤芳は太宗寺のそばを立退いてしまったと報告した。女絵師は突然に世帯をたたんで、夜逃げ同様に姿をかくしたので、近所でもその引っ越し先を知らないと云うのであった。
それから更に十日ほどの後に、亀吉は新しい報告を持って来た。大津屋の娘お絹が家出してゆくえ不明になったが、万次郎と一緒に駈落(かけおち)などをした様子はない。万次郎は相変らず四谷坂町の実家に住んでいる。大津屋では娘の家出を秘密にして、病気保養のために房州(ぼうしゅう)の親類に預けたとか云っているが、それが突然の家出であることは近所でもみな知っていると云うのである。女絵師の夜逃げ、娘の家出、そのあいだに何かの糸が繫(つな)がっているらしいのは、何人(なんびと)にも容易に想像されることで、半七もそれに就いていろいろの判断を試みたが、確かにこうという断定をくだし得ないうちに、四月もいつか過ぎてしまった。

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「あの時は実におどろきましたよ。胆(きも)を冷やしたと云うのは、まったくこの事です」
半七老人はその当時の光景を思い泛(う)かべたように、大きい溜息をついた。それに釣り込まれて、わたしも思わず身を固くした。
「何事が起ったんです」
「まあ、お聴きください。毎度お話をする通り、嘉永(かえい)六年の黒船渡来から、世の中はだんだんに騒がしくなって、幕府でも海防ということに注意する。なんどき外国と戦争を始めるかも知れないと云うので、江戸近在の目黒(めぐろ)、淀橋、板橋(いたばし)、そのほか数ヵ所に火薬製造所を拵えて、盛んに大筒小筒の鉄砲玉を製造したんです。それには水車が要るということで、大抵は大きい水車のある所を択(えら)んだようですが、今から考えれば火薬の取り扱い方に馴(な)れていなかったんでしょう、それが時どきに爆発して大騒ぎする事がありました」
「あなたもその爆発に出逢ったんですか」
「そうですよ。わたくしの出逢ったのは淀橋でした。ご承知の通り、ここは青梅(おうめ)街道の入口で、新宿の追分から、角筈、柏木、成子、淀橋という道順になるんですが、昔もなかなか賑やかな土地で、近在の江戸と云われた位でした。淀橋は長さ十間ほどの橋で、橋のそばに大きい穀物問屋がありまして、主人は代々久兵衛(きゅうべえ)と名乗っていたそうですが、その久兵衛の店に精米用の大きい水車が仕掛けてありました。この水車を山城(やましろ)の淀川(よどがわ)の水車にたとえて、淀橋という名が出来たのだという説もありますが、嘘か本当か存じません。ともかくも大きい水車があるために、ここの家も火薬製造所に宛(あ)てられていましたところが、このお話の安政元年、六月十一日の明け六ツ過ぎに突然爆発しました。炎天つづきで焔硝(えんしょう)が乾き過ぎたせいだとも云い、何かの粗相で火薬に火が移ったのだとも云い、その原因ははっきり判りませんでしたが、なにしろ凄(すさ)まじい音をさせて、三度もつづけて爆発したんです。さながら天地震動という勢いで、久兵衛の家は勿論、その近所二町四方は家屋も土蔵も物置も、みんな吹き飛ばされて滅茶苦茶になってしまいましたが、全体では四町四方の損害でした。いくら賑やかだと云っても、それは表通りだけのことで、裏へまわれば田や畑が多いんですから、その割合いに人家の被害は少なかったんですが、死人や怪我人(けがにん)は随分ありました。それが為に虫をおこして死んだ子供や、流産した女もあったそうです。いや、実に大変な騒ぎで……。誰だって不意を喰(くら)ったんですが、わたくしどもは捕物の最中というのだから猶更(なおさら)おどろきましたよ」
「なんの捕物に出ていたんですか」
「それが今お話をしている絵馬の一件で、大津屋の重兵衛を追い廻している時なんです」と、老人は説明した。
「いや、まあ、捕物の前にこの一件の種明かしをしてしまいましょう。それで無いと、お話がどうも捗取(はかど)りませんから……。大抵はもうお判りでしょうが、丸多の主人多左衛門が絵馬道楽で、半気違いになっているのを付け込んで、大津屋の重兵衛は正雪の絵馬の偽物をこしらえました。そうして、真物(ほんもの)と掏換える役目まで引受けたんですが、掏換えたと云うのは嘘で、実は偽物をそのまま丸多へ渡したんです。鷹の絵は女絵かきの孤芳に描かせましたが、その絵といい、絵馬の木地といい、よっぽど上手に出来ていたと見えて、丸多も見ごとに一杯喰わされてしまったんです。早くいえば、骨董(こっとう)好きの金持が書画屋や道具屋に偽物を売り付けられたようなわけで、それで済んでいればまあ無事なんですが、重兵衛はその骨折り賃に三十両という金を取っていながら、まだその上に大きい慾をかいて、謀叛人の絵馬をぬすみ出したとか、謀叛人の絵馬を大事にしているとか云うのを種に、丸多を嚇して何千両をゆすり取ろうという大望(たいもう)をおこして、その手先に万次郎を使うことになりました」
「万次郎は大津屋の娘と本当に関係があったんですか」
「確かに関係がありました。いわゆる悪女の深情けで、女の方はもう夢中になっていたんです。親父の重兵衛も勿論承知で、行くゆくは夫婦(めおと)にすると云っていたくらいですから、万次郎も今度の役を引受けなければなりませんでした。万次郎は年も若いし、肚(はら)のしっかりした悪党と云うのでもありませんが、つまりは慾に引っかかって、重兵衛の差尺(さしがね)通りに働くことになったんです。そこで、丸多の主人をうまく嚇し付けて、最初に百両ずつ二度も引出したんですが、重兵衛はそのくらいの事で満足するのじゃあない。どうしても何千両の夢が醒(さ)めないので、いろいろに万次郎を嗾(けしか)けて、ますます丸太を窘(いじ)めにかかっていると、相手の多左衛門は絵馬をかかえて家出をしてしまったので、この計画は腰折れの形になりました。それでも丸多の女房や番頭を嚇かせば、まだ幾らかになると思っているうちに、重兵衛は心にもない人殺しをする事になったんです」
「重兵衛が丸多の主人を殺したんですね」
「多左衛門が家出をしてから三日目、すなわち三月二十八日の晩に、重兵衛は淀橋にある自分の家作を見廻りに行って、それから千駄ケ谷(せんだがや)の又助(またすけ)という建具屋へ寄って、雨戸一枚と障子二枚をあつらえて、夜もやがて四ツ(午後十時9という頃に、提灯をぶら下げて、例の高札場に近い土手下へさしかかると、大きい松の木の下にぼんやり突っ立っている人影が見える。もしや首でも縊るのかと、提灯を袖で隠しながら抜足をして近寄ると、それが丸多の主人であったので、おどろいて声をかけました。
なにしろ相手の多左衛門が姿を隠してしまっては、万事の掛合いが巧(うま)く行かないと思っている矢先へ、丁度にここでその姿を見付けたので、重兵衛はこれ幸いと喜んで、いろいろに宥(なだ)め賺(すか)して丸多の店へ連れて帰ろうとしたが、多左衛門はどうしても承知しない。家へ帰ると、これを取返されるから否(いや)だと云って後生大事に例の絵馬を抱えている始末、まったく、本人は半気違いになっていたらしく、いかに説得しても肯(き)かないので、重兵衛もしまいには焦(じ)れ込んで腕ずくで引摺(ひきず)って行こうとする、相手は行くまいとする。そのうちに、多左衛門の気色(きしょく)がだんだんに暴(あら)くなって来て、重兵衛をなぐり付けて立去ろうとする。それを又ひき留めて、二人はとうとう組討ちになって……。土手下を転がって争ううちに、そこに細い藁縄(わらなわ)が落ちていたので、重兵衛は半分夢中でその縄を拾って、相手の頸にまき付けて……。と、本人はこう白状しているんですが、おそらく噓じゃあなかろうと思います。多左衛門を殺しては金の蔓(つる)が切れてしまう道理ですから、重兵衛も好んで相手を殺すはずはなく、ほんの一時の出来心に相違ありますまい。
しかし相手を殺した以上、なんとか後始末をしなければなりませんから、重兵衛は死人の帯を解いて松の木にかけて、自分で縊(くび)れたようにこしらえて、早々にそこを立去ったんです。偽物の絵馬を残して置いて、なにかの詮議の種になると面倒だと思ったので、風呂敷包みのまま引っ抱えて帰って、叩(たた)き毀(こわ)して焼き捨てたそうです。その風呂敷も一緒に焼いてしまえばよかったんですが、そこが人情の吝(けち)なところで、風呂敷まで焼くにも及ぶまいと、そのまま残して置いたのが運の尽きでした」
「そうすると、その風呂敷から露顕したんですか」
「まあ、お聴きなさい。だんだんにお話し申します」
老人はひと息ついて、また話し出した。
「それから孤芳という女絵かきのお話ですが、これは親兄弟もない独身者(ひとりもの)で、絵筆を持てば相当の腕もあるんですが、どこの師匠に就いて修行したと云うでもなく、まあ独学のような訳であるので、自然世間に認められる機会がなく、絵馬の絵などを書いて世渡りをしているうちに、いつか重兵衛の世話になるようになって、新宿の太宗寺のそばに世帯を持って、まあ、囲(かこ)い者といったような形になっていたんです。その縁故で、大津屋の娘のお絹と万次郎も、孤芳の家の二階を逢いびきの場所に借りていた……。と、そこまではよかったんですが、そのうちに孤芳と万次郎が妙な関係になってしまいました。孤芳は二十四、万次郎は二十一、男の方が年下であるだけに、女の熱度はだんだんに高くなる。それがお絹の眼についたから堪(たま)りません。すぐに親父に訴えると、重兵衛もおどろいて眼を光らせる。重兵衛と万次郎、孤芳とお絹と、この四人が引っからんで、ひどく面倒なことになりました。
万次郎が丸多を嚇かして取った二百両は、あとで総勘定をするという約束で、ひとまず重兵衛が預かっていたんですが、丸多の主人が死んだ後にも、四の五の云って一銭も出しません。万次郎も業(ごう)を煮やして、たびたびうるさく催促しても、重兵衛は鼻であしらっていて相手にしません。そればかりでなく、万次郎を婿にするなどという話も立消えになってしまいました。重兵衛として見れば、自分の妾(めかけ)を盗むような奴に、娘をやったり金をやったりする気にはなれなかったんでしょう。まだその上に、万次郎を遠ざける為に、だしぬけに孤芳をせき立てて、夜逃げ同様に新宿を立退かせて、淀橋の町はずれに引っ越させました。そこには大津屋の家作が二軒あって、一軒は空家になっていたんです。重兵衛が千駄ケ谷の建具屋に雨戸や障子を頼んだのも、孤芳をここへ引っ越させる下拵えであったと見えます。
勿論、孤芳の引っ越し先は、万次郎にもお絹にも秘していたんですが、いつまで知れずに済むはずがありません。それから十日も経たないうちに、二人とももう探り出してしまいました。それがまた、一つの事件を惹(ひ)き起すもとで……」


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半七老人の話は終らない。わたしも最後まで聴きはずすまいと耳を澄ましていると、老人は床の間の置時計をふと見かえって、女中部屋の老婢(ばあや)を呼んだ。老婢が顔を出すと、老人はなにか眼で知らせた。すぐに呑み込んでゆく老婢のうしろ姿を見おくって、これは悪かったとわたしは俄に気がついた。老人は午飯(ひるめし)の用意を命じたに相違ない。早朝から長座(ちょうざ)して、午飯までご馳走になっては相済まないと、わたしは慌(あわ)てて巻煙草の袋を袂(たもと)へ押込んで、帰り支度に取りかかろうとするのを、老人は手をあげて制した。
「まあ、お待ちなさい。お話はもう少しですよ」
云ううちに、老婢はもう裏口から足ばやに出て行ったらしい。追えども及ばずと観念して、わたしはずうずうしく坐り直すと、老人はまた話しつづけた。
「四月二十一日の宵に、お絹は近所の湯屋へ行く振りをして、塩町の大津屋をぬけ出して、淀橋の孤芳の家を尋ねて行きました。孤芳が万次郎を引っ張り込んでいるだろうと疑って、その様子を窺(うかが)いに行ったんです。自分の家作ですから勝手はよく知っているので、裏口から廻って窺うと、案の通り、男と女は縁側に近いところへ出て、早い蚊いぶしを焚きながら、睦まじそうに話している。それを見ると、お絹は嚇(かっ)とのぼせて、悪女が更に鬼女のようになって、そこの台所に有合せた出刃包丁(でばぼうちょう)をとって、孤芳を殺そうとして暴れ込んだので、孤芳はおどろいて庭へ飛び降りる。それを追おうとするお絹を万次郎が抱きとめる。お絹は死物狂いになって暴れ廻る。その刃物をもぎ取ろうとするうちに、思わず手がまわって……。と、云うことになっているんですが、これは重兵衛の場合と違ってどうだか判りません。金は貰えず、婿にはなれず、こんな悪女に付きまとわれては遣り切れないと思って、万次郎が思い切ってずぶりとやったのかも知れません。いずれにしても、お絹は乳の下を突かれて即死。惚れた男の手にかかって果敢(はか)なくなりました。その死骸は万次郎と孤芳が始末して、縁の下に埋めているところへ、又そのあとから重兵衛がたずねて来たんです。
もう隱ことは出来ないので、万次郎も度胸を据えて、正直にその事情を打明けた上で、おれを下手人として突き出してくれと云うと、重兵衛も考えたらしいんです。わが子を殺されて驚いたには相違ないが、自分にも絵馬の秘密があるので、それを万次郎に喋(しゃべ)られても困る。もう一つには、丸多の主人を殺した一件を万次郎も孤芳も薄うす覚(さと)っているかも知れないという弱味があるので、お絹殺しを表沙汰にするのは危い。そこで、三人が相談の末に、お絹は房州の親類に預けたとか、あるいは家出したとか云い触らして、この一件は闇に葬ってしまうことにする。その代り、万次郎は二百両の割りまえを一文も貰わず、孤芳とも今夜かぎりに手を切ると云うことになりました。万次郎に取っては割の悪い約束ですが、仮にも女ひとりを殺して、それを内分にして貰うと云うのですから、そのくらいの事は仕方がありません。そんなわけで、お絹の死骸を寺へ送ることは出来ないので、親父の重兵衛も手伝って、やはり床下に埋めることになりましたが、幸いに近所の者には覚られずに済んだのです」
「お絹は可哀そうでしたね」
「刃物などを振廻したのは悪いに相違ないが、こうなると可哀そうなもので、それでまあ一旦は納まったんですが、五月の末頃になると、重兵衛が下谷の方から古着屋を呼んで来て、娘の夏冬の着物を相当に取りまとめて売ったと云うことを、亀吉がふと聞き出して、その日暮らしに困ると云うでも無いのに、年ごろの娘の着物をむやみに売り放すのは可怪(おかし)い。してみると、房州の親類に預けたなどと云うのは嘘で、娘は死んだか、家出して帰らないか、二つに一つに相違ないと鑑定したんです。
そのほかに又こういうことがありました。丸多の菩提寺(ぼだいじ)は中野(なかの)にあるので、五月二十八日の命日に、女房のお才が番頭の幸八と小僧を連れて、多左衛門の墓まいりに行った帰り道に、淀橋の町はずれを通ると、その頃のここらには茅葺(かやぶき)の家がたくさんありました。その茅葺の一軒の家で、庭の梅の実を落している。垣根は低い四目垣(よつめがき)でしたから、通りがかりながら見るとも無しに覗いてみると、梅の実を取っているのは二十三四の女で、それに不思議はないのですが、その時お才と幸八の眼についたのは、梅の木から木へ竹竿をわたして洗濯物が干してある。その洗濯物のなかに一枚の大きい風呂敷が懸かっていて、それが見おぼえのある丸多の店の風呂敷で、主人が家出のときに例の絵馬を包んで持出したものらしい。丸多の暖簾(のれん)は丸の中に多の字が出してあるんですが、これは丸多の店のしるしが無く、家の定紋の下り藤が小さく染め出してある。その風呂敷がどうしてここの家に干してあるのかと、三人は不思議に思いながら帰って来て、幸八はすぐに亀吉のところへ報せに行きました。その家は大津屋の家作で、この頃は女絵かきの孤芳が引っ越して来ていることを、亀吉ももう承知していましたから、さてこそ案の通りと云うので、これもすぐにわたくしの所へ注進に来ました」
ところが、あいにくわたくしも幸次郎も、ほかの事件に係り合っていて、ちょいと手放すことが出来ない。殊にこの一件は重兵衛と万次郎と孤芳が絡んでいますから、迂闊(うかつ)に一人を引挙げると、ほかの関係者が散ってしまう虞(おそ)れがあるので、亀吉ひとりに任せるわけにも行かず、ただ油断なく見張らせて置いて、十日ほども空(くう)に過してしまいましたが、そのあいだに亀吉は又こんなことを聞き出しました。千駄ケ谷の建具屋の又助が重兵衛の註文をうけて、淀橋の家作に雨戸を入れたところ、その建付けが悪いと云うので、五月のはじめに直しに行ったが、なんだか畳や縁側に血の痕のようなものが薄く残っていたと云う。そこで亀吉は、ひょっとするとお絹がここで殺されたのでは無いかと鑑定しました。わたくしもそう思いました。
そのうちに、一方の事件も片付きましたので、いよいよこっちへ手を着けることになりました。六月十日の夜、重兵衛は淀橋に泊りに行ったのを突きとめて、わたくしと亀吉が出かけました。幸次郎も行こうと云うので、それほどの大捕物でもないが、まあ一緒に連れて行くと、前にもお話し申したように大騒動に出っ喰わして……。いや、もう、ひどい目に逢ったんです」
「火薬の爆発は朝でしょう」
「それが十一日の朝まで引っかかったので……。わたくしどもが淀橋へ行き着いたのは十日の夜の四ツ半(午後十一時)頃、寝込みへ踏み込んで一度に押さえ付けようと思ったんです。ところが、いざ踏み込んでみると、蚊帳(かや)の一方の釣り手をはずして、孤芳ひとりが寝床の上にしょんぼりと坐っているんです。重兵衛はどうしたと詮議すると、最初は来ていないとシラを切っていましたが、しょせんは女ですからとうとう正直に云いました。そこで、だんだんに取調べると、孤芳は万次郎と手を切ると約束して置きながら、その後もやはり内証(ないしょ)で男を引入れていると、重兵衛もそれに感付いたのでしょう、今夜はわたくしどもよりひと足さきへ踏ん込んで来て、一つ蚊帳のなかに寝ていた孤芳と万次郎を取押さえました。重兵衛は定めて烈火のごとくに怒るかと思いのほか、うわべは静かに落着いていて、ここでは話が出来ないからともかくもそこまで一緒に来てくれと云って、万次郎を表へ連れ出した。それはたった今のことだと云うので、孤芳の番人を亀吉に云いつけて、わたくしと幸次郎は近所へ見廻りに出ましたが、今夜は雨催(あめもよ)いの暗い晩で、そこらに二人のすがたは見付からない。よんどころ無しにまた引っ返して来て、ふたたび孤芳を調べると、下り藤の紋の風呂敷は引っ越しのときに重兵衛が持って来たもので、そのまま自分の家で使っていたと云って、現物を出して見せましたが、縁側や畳に血のあとが残っていることは、なんにも知らない、自分は血の痕とは気が付かず、なにかの汚れだと思っていたと、強情に云い張っているんです。
まさかに引っぱたくわけにも行かないので、孤芳の詮議はそのままにして、亀吉と幸次郎を裏と表へ張込ませて、重兵衛や万次郎の帰るのを気長に待っていました。夏の夜は短いから早く明ける。夜が明ければ、二人はどこからか帰って来るだろう。万次郎を表へ連れ出したのは、孤芳の前では話しにくい事があるからで、まさか殺すほどの事もあるまいと多寡(たか)をくくって、まあ頑張っていたわけです。そう云うことには馴れているので、さのみ待ちくたびれるという程でもありませんでしたが、藪蚊(やぶか)の多いには恐れ入りました。今と違って、むかしは蚊が多いので、こういう時はいつでも難儀します。
そのうちに、そこらの家(いえ)の鶏が啼(な)いて、夜もだんだんに白んで来ました。暁け方から空模様がよくなったので、七ツ半(午前五時)には、すっかり明るくなりましたが、二人はまだ帰って来ません。亀吉は焦(じ)れて、もう一度探しに出ようかと云っているところへ、重兵衛がぼんやり帰って来たので、亀吉と幸次郎が取囲んですぐに家内へ引っ張り込みました。万次郎はどうしたかと訊くと、途中で喧嘩をして別れたと云う。おまえは今までどこにどうしていたかと訊くと、狐(きつね)に化かされて夜通し迷い歩いていたと云う。さてはこいつ、万次郎を殺して空呆(そらとぼ)けているのだろうと思いましたから、わたくしも厳重に詮議を始めましたが、やはり同じようなことを繰返していて埒(らち)が明かない。そこで、万次郎のことは二の次にして、丸多の絵馬の一件の詮議にとりかかると、丸多の主人に頼まれて偽物をこしらえたに相違ないが、本物と掏換える約束をした覚えはないと云うんです。それから証拠の風呂敷を突きつけて、だしぬけにおまえは丸多の主人を殺したなと云うと、重兵衛は俄に顔の色を変えました。さあ、その途端に凄まじい響きと共に、大地がぐらぐらと激しく揺れて、この茅葺屋根の家がたちまち傾いたには驚きました。
逃げるという考えもありません。ただ跳ね飛ばされたように庭先へ転げ落ちると、なんだか知らないが砂けむりのような物が一面に舞って来て、近所の家は大抵倒れたり、傾いたりしている。一体どうしたのだろう、大地震か旋風(つむじ)かと、みんなが顔を見合せていると、その隙をみて重兵衛は表へ飛び出しました。表の垣根は倒れてしまったんですから、自由に往来へ出られます。こいつを逃してはならないと思って、わたくしも続いて追って出る。亀吉も幸次郎も追って出る。その途端に、激しい揺れが再びどんと来て、わたくしどもは投げ出されたように倒れました。つづいてがらがらという音がする。火の粉が飛ぶ……。さては火薬が破裂したのだろうと気がついて、半分這(は)い起きながら窺うと、ここらは火元から距(はな)れているので、まだ小難らしく、水車に近いところの人家はみんなどこへか吹き飛ばされてしまったにはぞっとしました。
重兵衛はどうしたかと見ると、これも一旦は倒れながら、また這い起きて逃げようとする。この野郎と云って追いかけたんですが、二度の爆発でどこから飛んで来たのか、往来のまん中に屋根が落ちているやら、大木が倒れているやら、いろいろの邪魔物が道を塞(ふさ)いでいるので、なかなか思うように駈け出せません。重兵衛は裏手の田圃(たんぼ)の方へ逃げるので、わたくしも根かぎりに追って行くと、そのあいだに重兵衛はいろいろの物につまずいて転びました。わたくしも幾たびか転びました。いや、もう、お話になりません。それでもどうにか追い着いて、うしろから重兵衛の左の腕をつかむと、その途端に三度目の爆発……。その時はいっさい夢中でしたが、あとで聞くと三度目が一番ひどかったのだと云います。こうなると敵も味方もありません。二人は抱き合ったままで田のなかに転げ込んでしまいました。これでまあ重兵衛を取押さえたわけですが、こんな危険な捕物は初めてで、時間から云えば僅かの間ですが、馬鹿に疲れたような気がしましたよ」
「そうでしょうね」と、わたしもうなずいた。「そこで、亀吉や幸次郎という人たちはどうしました」
「わたくしは運よく無事でしたが、二人は怪我をしましたよ。何か飛んで来て撃たれたんですね。亀吉は軽い疵(きず)でしたが、幸次郎は右の肩を強く撃たれて、それからひと月のあまり寝込みました。ほかにも死人や怪我人がたくさんあったんですから、まあ命拾いをしたと云ってもいいでしょう。孤芳の家(うち)も三度目の爆発で吹き倒されました」
「孤芳は無事でしたか」
「さあ、それが不思議で……。孤芳は無事に逃げたのか、どこへか吹き飛ばされたか、ゆくえが知れなくなりました。万次郎の死骸は川のなかで発見されました。それも重兵衛に突き落されたのか、夜が明けてぼんやり帰って来たところを吹き飛ばされたのか、確かなことは判りません。ほかにも死骸が浮いていましたから、あるいは爆発のために吹き落されたのかも知れません。お絹の死骸は床下に埋めてありました。まあ、お話は大抵ここらで切り上げましょう。いや、どうもお退屈で……」
その話を終るのを待っていたように、老婢は膳を運び出して来て、わたしの前に鰻飯(うなぎめし)が置かれた。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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