半七捕物帳 第五巻/唐人飴

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唐人飴[編集]

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今日でも全く跡を絶ったと云うのではないが、東京市中に飴売(あめう)りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦(かね)をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻(つじ)に屋台の荷をおろして、子供を相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と糝粉(しんこ)細工とが江戸時代の形見といったような大道商人(だいどうあきんど)であったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子供たちからだんだんに見捨てられ、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおり見かける飴売りにも若い人はほとんど無い。おおかたは水洟(みずっぱな)をすすっているような老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思われて、一種の哀愁を誘い出さぬでもない。
その飴売りのまだ相当に繁昌している明治時代の三月の末、麹町(こうじまち)の山王山(さんのうさん)の桜がやがて咲き出しそうな、うららかに晴れた日の朝である。わたしは例のごとく半七老人をたずねようとして、赤坂(あかさか)の通りをぶらぶら歩いてゆくと、路ばたには飴屋の屋台を取りまいて二、三人の子供が立っている。
それはその頃(ころ)の往来にしばしば見る風景の一つで、別に珍らしいことでも無かったが、近づくにしたがって私に少しく不思議に感じさせたのは、ひとりの老人がその店の前に突っ立って、飴売りの男と頻(しき)りに話し込んでいることであった。彼は半七老人で、朝湯帰りらしい濡れ手拭(てぬぐい)をぶら下げながら、暖い朝日のひかりに半面を照らさせていた。
半七老人と飴細工、それが不調和の対照とも見えなかったが、平生(ふだん)から相当に他人のアラを云うこの老人としては、朝っぱらから飴屋の店を覗(のぞ)いているなどは、いささか年甲斐(としがい)のないようにも思われた。この老人を嚇(おど)すというほどの悪意もなかったが、わたしは幾らか跫音(あしおと)を忍ばせるように近寄って、老人のうしろから不意に声をかけた。
「お早うございます」
「やあ、これは……」と、老人は急に振返って笑った。
「またお邪魔に出ようと思いまして……」
「さあ、いらっしゃい」
老人は飴売りに別れて、わたしと一緒にあるき出した。
「あの飴屋は芝居茶屋の若い衆(しゅ)でね」と、老人は話した。
「飴細工が器用に出来るので、芝居の休みのあいだは飴屋になって稼いでいるんです」
成程その飴売りは三十前後の小粋(こいき)な男で、役者の紋を染めた手拭を肩にかけていた。その頃の各劇場は毎月開場すること無く、一年に五、六回か四、五回の開場であるから、劇場の出方や茶屋の若い者などは、休場中に思い思いの内職を稼ぐのが習いで、焼鳥屋、おでん屋、飴屋、糝粉屋のたぐいに化けるのもあった。したがって、それらの商人(あきんど)の中にはなかなか粋な男が忍んでいる。芝居の話、花柳界の話、なんでも来いと云うような者もあって、大道商人といえども迂闊(うかつ)に侮りがたい時代であった。かの飴屋もその一人で、半七老人とは芝居でのお馴染(なじみ)であることが判(わか)った。
家へゆき着いて、例の横六畳の座敷へ通されたが、飴の話はまだ終らなかった。
「今の人たちは飴細工とばかり云うようですが、むかしは飴の鳥とも云いました」と、老人は説明した。「後にはいろいろの細工をするようになりましたが、最初は鳥の形をこしらえたものだそうです。そこで、飴細工を飴の鳥と云います。ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」
「じゃあ、和国橋(わくにばし)の髪結藤次(かみゆいとうじ)の芝居に出る唐人市兵衛(いちべえ)、あのたぐいでしょう」
「そうです、そうです。更紗(さらさ)でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠(とうじんがさ)をかぶって、沓(くつ)をはいて、鉦をたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、ご愛嬌(あいきょう)に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊ってみせる。まったく子供だましには相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴(やつ)がありまして……」
そら来たと、わたしは思わず居住まいを直すと、老人はにやにや笑い出した。
「うっかりと口をすべらせた以上、どうであなたの地獄耳が聞き逃す筈(はず)はありません。話しますよ。まあ、ゆっくりとお聴きください」


有名和蘭(オランダ)医師高野長英(たかのちょうえい)が姓名を変じて青山百人町(あおやまひゃくにんまち)(現今の南町(みなみまち)六丁目)に潜(ひそ)み、捕吏(とりかた)に囲まれて自殺したのは、嘉永(かえい)三年十月の晦日(みそか)である。その翌年の四月、この「半七捕物帳」で云えば、かの『大森の鶏』の一件から三月の後、青山百人町を中心として、あさらに新しい事件が出来(しゅったい)した。
江戸の地図を見れば判るが、青山には久保町(くぼちょう)という町があった。明治以後は青山北町(きたまち)四丁目に編入されてしまったが、江戸時代には緑町(みどりまち)、山尻町(やましりまち)などに接続して、武家屋敷のあいだに町家の一郭をなしていたのである。久保町には高徳寺(こうとくじ)という浄土宗(じょうどしゅう)の寺があって、そこには芝居や講談ではおなじみの小内山宗春(こうちやまそうしゅん)の墓がある。その高徳寺にならんで熊野権現(くまのごんげん)の社があるので、それに通ずる横町を俗に御熊野横町(おくまのよこちょう)と呼んでいた。
御熊野横町の名は昔から呼び習わしていたのであるが、近年は更に羅生門横町(らしょうもんよこちょう)という綽名(あだな)が出来た。吉原(よしわら)に羅生門河岸の名はあるが、青山にも羅生門が出来たのである。その由来を説明すると長くなるが、要するに嘉永二年と三年との二年間に、毎年一度ずつここに刃傷沙汰(にんじょうざた)があって、二度ながらその被害者は片腕を斬(き)り落されたのである。江戸時代でも腕を斬り落されるのは珍らしい。それが不思議にも二年つづいたので、渡辺綱(わたなべのつな)が鬼の腕を斬ったのから思い寄せて、誰が云い出したとも無しに羅生門横町の名が生れたのである。
この久保町、緑町、百人町のあたりへ、去年の夏の末頃からかの唐人飴を売る男が来た。ここらには珍らしいので相当の商売になっているらしかったが、これを誰が云い出したか知らず、あの飴屋はただの飴屋でなく、実は公儀の隠密(おんみつ)であるという噂󠄀(うわさ)が立った。そのうちに高野長英の捕物の一件が出来して、長英は短刀を以て捕手(とりて)の一人を刺し殺し、更に一人に傷を負わせ、自分も咽喉(のど)を突いて自殺するという大活劇を演じたので、近所の者は胆(きも)を冷やした。そうして、かの唐人飴は公儀の隠密か、町方の手先が変装して、長英の探索に立ち廻っていたに相違ないと云うことになった。
ところが、その唐人飴は長英の一件の後も相変らず商売に廻って来た。飴売りは年ごろ二十二三の、色の小白い、人柄の悪くない男で、誰に対しても愛嬌を振りまいているので、内心はなんだか薄気味悪いと思いながらも、特に彼を忌(い)み嫌う者もなかった。彼も平気で長英の噂󠄀などをしていた。そのうちに、その年の冬から翌年の春にかけて、ここらで盗難がしばしば続いた。
「あの唐人飴は泥坊かも知れない」
人の噂󠄀は不思議なもので、最初は捕方かと疑われていた彼が、今度は反対に盗賊かと疑われるようになった。昼間は飴を売りあるいて家々の様子をうかがい、夜は盗賊に変じて仕事をするのであろうと云う。実際そんなことが無いとも云えないので、その噂󠄀を信ずる者も相当にあったが、さりとて確かな証拠も無いのでどうすることも出来なかった。
「あの飴屋が来ても買うのじゃあないよ」
土地の人たちは子供らを戒めて、飴を買わせないようにした。商売がなければ、自然に来なくなるであろうと思ったのである。こうして土地の人たちから遠ざけられているにも拘(かかわ)らず、彼はやはり商売に廻って来た。子供が買っても買わなくても、彼は鉦をたたいて、おかしな唄を歌って、唐人のカンカン踊りを見せていた。この頃は碌々(ろくろく)に商売もないのに、根よく廻って来るのは怪しいと、人びとはいよいよ白い眼を以て彼を見るようになったが、彼は一向に平気であるらしかった。或る人がその名を訊(き)いたらば、虎吉(とらきち)と答えた、家は四谷(よつや)の法善寺門前(ほうぜんじもんぜん)であると云った。
四月十一日の朝である。久保町の豆腐屋定助(さだすけ)が商売柄だけに早起きをして、豆腐の碓(うす)を挽(ひ)いていると、まだ薄暗い店先から一人の女が転げるように駈(か)け込んで来た。
「ちょいと、大変……。あたし、本当にびっくりしてしまった」
女は、この町内の実相寺門前(じっそうじもんぜん)に住む常磐津(ときわず)の師匠文字吉(もじきち)で、なんの願(がん)があるか知らないが、早朝に熊野さまへ参詣(さんけい)に出てゆくと、御熊野横町すなわちかの羅生門横町で人間の片腕を見付けたと云うのである。
「あの羅生門横町で……。また、人間の腕が……」
定助も顔の色を変えた。しかも彼は自分ひとりで見届けに行くのを恐れて、文字吉同道でまず町(ちょう)役人の門を叩(たた)いた。それから近所へも触れて歩いた。
人間の腕が往来に落ちていたと云うのは、勿論(もちろん)ひとつの椿事(ちんじ)出来(しゅったい)に相違ないが、それがかの羅生門横町であるだけに、一層ここらの人びとを騒がせた。これで腕斬りが三年つづく事になるのであるから、御幣(ごへい)かつぎの者でなくても、又かと顔をしかめるのが人情である。近所近辺の人びとは寝ぼけ眼をこすりながら、われ先にと羅生門横町へ駈けつけると、かれらをおどろかす種がまた殖えた。
「あの腕は……。唐人飴屋だ」
往来に落ちていたのは男の左の腕で、着物の上から斬られたと見えて、その腕には筒袖(つつそで)が残っていた。筒袖は誰も見識みし)っている唐人飴の衣裳(いしょう)である。疑問の唐人飴屋がここで何者にか腕を斬られたに相違ない。それに就いて又いろいろの噂󠄀が立った。
「あいつはいよいよ泥坊で、お武家の物でも剝(は)ぎ取ろうとして斬られたのだ」
「いや、泥坊には相違ないが、仲間同士の喧嘩(けんか)で腕を斬られたのだ」
いずれにしても、尋常の唐人飴屋が夜更けにここらを徘徊(はいかい)している筈がない。斬られた事情はどうであろうとも、彼が盗賊であることは疑うこともない。たとい腕一本でも、それが人間のものである以上、犬や猫の死骸(しがい)と同一には取扱われないので、町でも訴え出での手続きをしているところへ、ひとりの男がふらりとはいって来た。
男は半七の子分の庄太(しょうた)であった。庄太は浅草(あさくさ)の馬道(うまみち)に住んでいながら、その菩提寺(ぼだいじ)は遠い百人町の海光寺(かいこうじ)であるので、きょうは親父の命日で朝から墓参に来ると、ここらには唐人飴の噂󠄀がいっぱいに拡がっていた。彼も商売柄、それを聞き流しには出来ないので、町役人の玄関へ顔を出したのである。
彼はまずその腕を見せて貰(もら)った。その腕に残っていた筒袖をあらためた。その飴屋の年頃や人相や、ふだんの商いぶりなどに就いても聞きあわせた。それから熊野権現の近所へまわって、羅生門横町の現場も取調べた。ここは山尻町との境で、片側には小さい御家人(ごけにん)と小商人(こあきんど)の店とが繫(つな)がっているが、昼でも往来の少ない薄暗い横町で、権現のやしろの大榎(おおえのき)が狭い路をいよいよ暗くするように掩(おお)っていた。
庄太が帰ったあとで、又もやここらの人びとをおどろかしたのは、かの唐人飴の虎吉が、相変らず鉦を叩いて来たことである。腕斬りの一件を聴いて彼は眼を丸くして云った。
「それは驚きましたね。だが、わたしはこの通りだからご安心ください」
彼は両手をひろげて、いつものカンカン踊りをやって見せた。その両腕はたしかに満足に揃っていた。こうなると、ここらの人びとはただぽかんと口を明いているのほかは無かった。


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神田三河町(かんだみかわちょ)の半七の家(うち)では、親分と庄太が向い合っていた。
「だが、土地の奴(やつ)らも愚昧(ぼんくら)ですよ」と、庄太は笑った。
「土地の奴らはまあ仕方がないとしても、町役人でも勤める奴らはもう少し眼が明いていそうなものだが……。その腕は現場で斬られたものじゃあねえ。どこからか捨てに来たのか、犬がくわえて来たのか、二つに一つですよ。人間の腕一本斬ったら、生血(なまち)がずいぶん出る筈だが、そこらに血の痕(あと)なんか碌々残っていやあしません」
「初めにそれを見付けたという常磐津の師匠はどんな女だ」と、半七は訊いた。
「実相寺門前にいる文字吉という女で、わっしがたずねて行ったときには、湯に行ったとかいうので留守でしたが、近所の者の話じゃあ何でも年は三十四五で、色のあさ黒い、力んだ顔の、容貌(きりょう)は悪くない女だそうで……。浄瑠璃(じょうるり)は別にうまいという程でもねえが、なかなか良い弟子があって、ずいぶん遠い所から通って来るのがあるので、場末の師匠にしては内福らしいと云う噂󠄀です」
「文字吉には旦那も亭主もねえのか」と、半七はまた訊いた。
「旦那はあります」と、庄太は答えた。「原宿町(はらじゅくまち)の倉田屋(くらたや)という酒屋の亭主だそうですが、文字吉は感心にその旦那ひとりを守っていて、ちっとも浮気らしい事をしねえばかりか、その旦那に遠慮して男の弟子をいっさい取らねえと云うのです。今どきの師匠にゃあ珍らしいじゃあありませんか」
「めずらしい方だな。奉行所へ呼出して、鳥目(ちょうもく)五貫文の御褒美でもやるか」と、半七は笑った。
「師匠はまあそれとして、さてその片腕の一件だが……。その唐人飴屋というのはどんな奴かな。家(うち)はどこだ」
「四谷の法善寺門前の虎吉という奴だと聞きましたから、実は帰り路に四谷へあわって、北町の法善寺門前を軒並に洗ってみましたが、虎も熊も居やあしません。野郎、きっと出たらめですよ」
「そうかも知れねえ。だが、この広い江戸にも唐人飴が五十人も百人もいる筈はねえ。それからそれへと仲間を洗って行ったら、大抵わかるだろう」
「じゃあ、すぐに取りかかりますか」
「ともかくもそうしなけりゃあなるめえ」と、半七は云った。「丁度いいことには、下(した)っ引(ぴき)の源次(げんじ)の友達に飴屋がある筈だ。あいつと相談してやってくれ。おれも青山へ一度行ってみよう」
云いかけて、半七は又かんがえた。
「なあ、庄太。土地の者はその飴屋を隠密だとか捕方だとか云っているそうだが、よもやそんなことはあるめえな」
隠密や捕方が何かの恨みを受けた為に、あるいは何かの犯罪露顕をふせぐ為に、闇討(やみう)ちに逢(あ)うようなことが無いとは云えない。もしそうならば、その片腕を人目に触れるような場所へ捨てる筈はあるまい。殊に証拠となるべき唐人服の片袖をそのままに添えて置くなどは余りに用心が足らないように思われる。しかしまた、世間には大胆な奴があって、わざと面当てらしくそんな事をしないとも限らない。もしそうならば、あの辺に住む悪旗本か悪御家人などの仕業である。相手が屋敷者であると、その詮議(せんぎ)がむずかしいと半七は思った。
そのうちに庄太は俄(にわか)に叫んだ。
「あ、いけねえ。飛んだことを忘れていた。親分、堪忍しておくんなせえ。実はその腕はね、切れ味のいい物ですっぱりとやったのじゃあありません。短刀か庖丁(ほうちょう)でごりごりやったらしい。その傷口がどうもそうらしく見えましたよ」
「そうか」と、半七は更に考えた。そうすると、その下手人は屋敷者では無いらしい。なんにしても、ここで考えていても果(はて)しが無い。現場を一応調べた上で、臨機応変の処置を取るのほかは無いので、やはり最初の予定通りに、まず飴屋の仲間を洗わせることにした。下っ引の源次は下谷(しもや)で桶屋(おけや)をしている。それと相談して万事いいようにしろと、庄太に重ねて云い含めた。
「ようがす。親分はあした青山へ出かけますかえ」
「日暮れさしかかって場末へ踏み出しても埒(らち)が明くめえ。あしたゆっくり出かけることにしよう」
「ぞれじゃあ、その積りでやります」
庄太は約束して帰った。帰る時に、彼はきょうの掘出し物を自慢して、これも青山へ墓まいりに行ったお蔭であるから、死んだ親父の引合せかも知れないなどと云って、半七を笑わせた。まったく親は有難い、お前のような不孝者にも掘出し物をさせてくれると戯(からか)われて、庄太はあたまを掻(か)いて帰った。
あくる朝は晴れていた。半七は八丁堀(はっちょうぼり)の屋敷へ行って、唐人飴の探索に取りかかることを一応報告した上で、山の手へぶらぶら登ってゆくと、時候は旧暦の四月であるから、青山あたりはその名のように青葉に包まれていた。
ここらの土地の姿は明治以後いちじるしく変ってしまって、ほとんど昔の跡をたずぬべきようも無いが、こんにち繁昌する青山の大通りは、すべて武家屋敷であったと思えばよい。町家(まちや)は善光寺門前と、この物語にあらわれている久保町の一部に過ぎない。青山五丁目六丁目は百人町の武家屋敷で、かの瞽女節(ごぜぶし)でおなじみの「ところ青山百人町(まち)に、鈴木主水(すずきもんど)という侍」はここに住んでいたらしい。
その寂しい場末の屋敷町にさしかかって、半七は思わず足を停めた。芝居の鳴物が耳に入ったからである。江戸辺から行けば、右側が久保町で、その筋むかいの左側に梅窓院(ばいそういん)の観音がある。観音のとなりにも鳳閣寺(ほうかくじ)という真言宗(しんごんしゅう)の寺があって、芝居の鳴物はその寺の境内からきこえて来るのであった。
「むむ、小三(こさん)の芝居か」
江戸の劇場は由緒ある三座に限られていたが、神社仏閣の境内には宮芝居または宮地芝居と称して、小屋掛けの芝居興行を許されていた。もちろん、丸太に筵張(むしろば)りの観世物小屋(みせものごや)同様のものであるが、その土地相応に繁昌していたのである。鳳閣寺の宮芝居は坂東(ばんどう)小三という女役者の一座で、ここらではなかなかの人気者であることを半七は知っていた。
小三の名は知っていたが、半七は曾(かつ)てその芝居をのぞいたことはないので、一体どんな様子かと、鳴物に誘われて境内へはいると、型ばかりの小屋の前には、古い幟(のぼり)や新しい幟が七、八本も立ちならんで、女や子供が表看板をながめているのが、葉桜のあいだに見いだされた。小屋のなかでは鉦や太鼓をさわがしく叩き立てていた。和藤内(わとうない)の虎狩が今や始まっているのである。看板にも国姓爺合戦(こくせんやかっせん)と筆太にしるしてあった。
「国姓爺か。大物をやるな」
半七はふと何事をか考え付いたので、十六文の木戸銭を払ってはいった。虎狩の場に出るのは、和藤内の母と和藤内と、唐人と虎だけである。座頭(ざがしら)の小三が和藤内に扮(ふん)して、お粗末な縫いぐるみの虎を相手に大立廻りを演じていた。それだけ見物して、半七はもう帰ろうとしたが、また思い直して次の一幕を見物した。次は楼門の場である。
此の場には和藤内の父母と、和藤内と錦祥女(きんしょうじょ)と唐女が出る。錦祥女は小三の弟子の小三津(こみつ)というのが勤めていた。舞台顔で本当の年を測るのはむずかしいが、小三津はせいぜい二十四五であるらしく、眼鼻立ちの整った細面で、ここらの芝居の錦祥女には好すぎるくらいの容貌(きりょう)であった。木戸銭十六文の宮芝居であるから、鬘(かつら)も衣裳も惨めなほどに粗末であるのを、半七は可哀そうに思った。
虎狩の場に出る虎もなかなかよく動いた。虎にしては胴体が小さく、なんだか犬のようにも見えたが、身軽に飛びまわって、二、三度も宙返りを打ったりして、大いに観客を喜ばせていた。女役者にこんな芸の出来る筈はない。虎は男が縫いぐるみを被(かぶ)っているに相違ないと、半七は鑑定した。


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鳳閣寺の境内を出て、半七は更に久保町へむかった。ここらにも町名主(ちょうなぬし)の玄関はある。半七はその玄関をおとずれて町(ちょう)役人に逢い、かの片腕の一件についてひと通りのことを訊きただしたが、庄太の報告以外に新しい発見もなかった。ただ、ここで少しく意外に感じたのは、疑問の唐人飴屋がきのうも平気でここへ姿をあらわしたと云うことであった。しかもその両手は満足に揃っていると云うのである。
「あの飴屋は毎日いつごろ廻って来ます」と、半七は訊いた。
「大抵八ツ(午後二時)頃です」
八ツまでにはまだ半時(はんとき)ほどの間(ひま)がある。そのあいだに遅い午飯(ひるめし)を食うことにしたが、ここらの勝手をよく知らない半七は、迂闊なところへ飛び込むのは気味が悪いと思って、当座の腹ふさぎに近所の蕎麦屋(そばや)へはいると、ほかに一人の客もなかった。註文(ちゅうもん)の蕎麦の出来るのを待つあいだ、煙草を吸いながら見まわすと、くずぶった壁にはあの坂東小三の芝居のビラが掛けてあった。
店は狭いので、釜前に立ち働いている亭主はすぐ眼の前にいる。半七はビラを見返りながら亭主の声をかけた。
「小三の芝居はなかなか景気がいいね」
「ご見物になりましたか」と、亭主は云った。
「実は今、二幕ばかり覗いて来たのだが、宮芝居でも馬鹿にゃあ出来ねえ。みんな相当に腕達者だ」
土地の芝居を褒められて、亭主も悪い心持はしないらしく、にこにこしながら答えた。
「どうでお江戸の方がたのご覧になるような物じゃあござんすまいが、相当によくすると皆さんが云っておいでですよ。あえでもここらじゃあなかなかの評判です」
「そうだろうな。錦祥女をしている小三津というのは綺麗(きれい)だね」
「ええ、小三津は年も若いし、容貌もいいので、人気者ですよ」
蕎麦を食いながら亭主の話を聞くと、座頭の小三はもう三十七八である。小三津はその弟子で、まだ二十二三である。小三津は今度の錦祥女も評判がいいが、この前の『鎌倉三代記(かまくらさんだいき)』の時姫(ときひめ)もよかった。そんなわけで、小三津はこの一座の花形であるが、なぜかこの頃は師匠の機嫌を悪くして、このあいだも楽屋でひどく叱られた。小三津は泣いて退座するとか云い出したが、花形役者に退(の)かれては興行にさわるので、ほかの人びとが仲裁して無事に納めた。
「なんと云っても女同士の寄合いですから、いろいろうるさいと見えますよ」と、亭主は云った。
「小三津はなんで師匠に叱られた。舞台の出来が悪かったのか、それとも色男でもこしらえたか」と、半七は笑いながら訊いた。
「小三津は堅い女で、これまで浮いた噂󠄀も無し、今でもそんなことは無いらしいと云うのですが……」と、亭主は首をかしげながら云った。「それですから幾らか給金も溜めているし、着物なぞも相当に拵(こしら)えていたのだそうですが、それをどうしてかみんな無くなしてしまったのを、師匠に見付けられて叱られたのだとか云う噂󠄀です。どうしたのですかね」
「博奕(ばくち)でも打つかな」
「まあ、そんなことかも知れません。その連中には女でも手慰みをする者がありますからね。地道なことで無くなしたのなら、師匠もそんなに叱る筈はありません。なにか悪いことをしたのでしょうね」
「むむ」と、半七は蕎麦の代りをあつらえながらまた訊いた。
「今見たら、木戸前に小三津の新しい幟が立っている。くれた人は常磐津文字吉とある。小三津は文字吉に何か係り合いがあるのかね」
「文字吉は実相寺門前の師匠ですが、小三津をたいへん贔屓(ひいき)にして、楽屋へ遣い物をしたり幟をやったり、近くの料理屋へ呼んだりしたので、小三津の方でも喜んで、このごろでは師匠の家(うち)えもちょいちょい出這入(ではい)りをしているようです」
「それで叱られたわけでもあるめえ」
「勿論それは別の話で……」と、亭主は笑っていた。
「芸人同士、女同士で、贔屓にしてくれる所へ顔出しするのを、師匠がやかましく云う筈はありません」
「まったくだ。そんな野暮を云っちゃあ、役者稼業は出来ねえ」
それから糸を引いて、今度は文字吉の噂󠄀に移ったが、亭主は彼女(かれ)を悪く云わなかった。やはり庄太の報告通り、酒屋の旦那に遠慮して男の弟子を取らない。弟子は近所の娘たちか、遠方から通って来る女たちである。旦那からの月々の手当てを貰う上に、いい弟子が相当にあるので、師匠はなかなか内福であるらしいと云った。
「遠くからどんな弟子が来るのだね」と、半七は訊いた。
「遠方から来るのですから、若い人はありません、大抵は二十代か三十代の年増(としま)です。日本橋(にほんばし)や神田の下町からお来ますし、四谷牛込(うしごめ)の山の手辺からも来るそうです。まあ、囲い者のような女か、後家さんらしい人たちですね」
この上に深い詮議をするのもよくないと思って、半七は勘定を払って蕎麦屋を出た。文字吉という師匠はそれほど上手でもないと云うのに、なぜ遠方から年増の女弟子がわざわざ通って来るのか、それには何か仔細(しさい)がありそうに思われた。半七はそれを考えながら、熊野権現の社のあたりをひと廻りして、実相寺門前の文字吉の家をたずねると、五十六七の雇い婆(ばばあ)らしい女が出て来て、三角な眼をひからせながら無愛想(ぶあいそ)に答えた。
「お師匠(ししょ)さんは風邪(かぜ)を引いて寝ていますよ。お前さんはどなたで……」
「お弟子入りの子供をたのまれて、赤坂(あかさか)の方から参りましたが……」と、半七はおだやかに云った。
「そうですか」と、彼女(かれ)は相手の顔をながめながらまた答えた。「それにしてもお師匠さんはゆうべから寝ていますからね、また出直して来てください」
「世間の噂󠄀じゃあ、お師匠さんはきのうの朝、熊野さまの近所で、往来に落ちている片腕を見付けたそうで……。それから熱でも出たのですかえ」
「そんなことは知りませんよ」
彼女の眼はいよいよ光った。ここで自分の正体をあらわすのも面白くないので、半七はいい加減に挨拶(あいさつ)して早々にここを出た。
出て見ると、いつの間に来たか知らず、塩煎餅屋(しおせんべいや)の前に子供をあつめて、唐人飴の男が往来でカンカンノウを踊っていた。彼は型のごとく唐人笠をかぶって、怪しげな更紗の唐人服を着て、飴の箱を地面におろして、両手をあげて踊っていたが、色の小白い、眼つきのやさしい、いかにも憎気(にくげ)のない男であった。半七はしばらく立停まって眺めていた。
子供たちは笑って踊りを見ているばかりで、一人を飴を買う者はなかった。親たちから飴を買う銭を与えられない為であろう。それでも飴売りはちっとも忌(いや)な顔をしないで、何か子供たちに冗談などを云っていた。
なにぶんにも天気はいい。日はまだ高い。その真っ昼間の往来で、いつまでも飴売りのあとを付け廻しているわけにも行かないので、半七はその人相を篤(とく)と見定めただけで、ひとまずそこを立去るのほかは無かった。行きかけて見ると、文字吉の家の雇い婆は裏口から表へ出て、半七の挙動をそつと窺(うかが)っているらしかった。
この婆もただ者でないと、半七は肚(はら)のなかで睨(にら)んだ。さてそれからどうしようかと考えながら、ともかくも久保町の通りを行き過ぎると、荒物屋の前に道具をおろして手桶(ておけ)の箍(たが)をかけ換えている職人の姿が眼についた。それは往来を流してあるく桶屋である。もしやと思って覗いてみると、職人は下っ引きの源次であるので、半七は行き過ぎながら合図の咳払(せきばら)いをすると、源次は仕事の手をやすめて顔をあげた。ふたりは眼を見合せたまま無言で別れた。
源次が来ている以上、庄太も来ているかも知れないと、半七は気をつけて見まわしたが、そこらにそれらしい人影も見えなかった。大通りへ出ると、百人町の武家屋敷は青葉の下に沈んで、初夏の昼は眠ったように静かである。渋谷(しぶや)から青山の空へかけて時鳥(ほととぎす)が啼(な)いて通った。
半七は時どきうしろを見かえりながら善光寺門前へさしかかると、源次は怱々(そうそう)に仕事を片付けたと見えて、やがて後から追って来た。半七は彼を頤(あご)で招いて、善光寺の仁王門をくぐろうとしたが、また俄に立停まった。青山善光寺の仁王尊は昔から有名で、その前には大きい草鞋(わらじ)や下駄(げた)がたくさんに供えてある。奉納の大きい石の香炉もある。その香炉に線香をそなえて、一心に拝んでいる若い男の姿に半七は眼をつけた。
彼はまだ十八九の色白の男で、髪の結い方といい、着付けといい、それが役者であることは一見して知られた。彼はしゃがんで俯向(うつむ)いて拝んでいた。その格好がかの和藤内の虎狩に働いていた虎によく似ているのを、半七は見のがさなかった。あたかもそこへ十三四の小娘が二人連れで通りかかった。
「あら、あすこに照之助(てるのすけ)が拝んでいてよ」
娘たちは若い役者を幾たびか見返りながら行き過ぎるのを、半七は追いかけて小声で訊いた。
「あの役者はなんというのです」
「市川(いちかわ)照之助……。浅川(あさかわ)の小屋に出ているのです」と、娘のひとりが教えた。
「浅川の芝居……」と、半七はかんがえていた。「あの、小三の芝居に出ているのじゃありませんか」
「そんな噂󠄀もありますけれど、男の役者ですから今までは浅川の芝居に出ていたのですが……」と、他の娘が云った。
「いや、ありがとう」
娘をやりすごして、半七は又しばらく市川照之助のすがたを眺めていた。若い役者はなんにも知らないように、いつまでも仁王尊に何事をか祈っていた。


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善光寺境内は広い。半七は人目の少ないところへ源次を連れ込んで、その報告を聞くと、彼は庄太の指図にしたがって、ゆうべから今朝にかけて懇意の飴屋仲間を問い合せたが、唐人飴屋で青山の方角へ立廻る者はないらしいと云うのであった。
「して見ると、あの飴屋はほんとうの商人(あきんど)じゃあねえ。やっぱり喰(く)わせ者ですよ」と、源次は云った。「お前さんはあの若い役者もしきりに睨んでいなすったが、あれにも何か仔細がありますかえ」
「むむ、あいつもただ者じゃあねえな」と、半七は云った。
「あいつの拝み方が気に入らねえ。そりゃあ芸人のことだから、不動さまを信心しようと、仁王さまを拝もうと、それに不思議はねえようなものだが、ただひと通りの拝み方じゃあねえ。あいつは真剣に何事をか祈っているのだ」
「そりゃあ役者だから、自然にからだの恰好が付いて、真剣らしく見えるのでしょう」
「いや、どうでねえ。舞台の芸とは違っている。あいつは本気で一生懸命祈っているのだ。あいつは浅川の芝居の役者だと云うが、どうもそうで無いらしい。さっき見た小三の芝居にあんな奴が出ていた。第一、おれの腑(ふ)に落ちねえのは、小三の芝居は女役者だ。その一座に男がまじっているという法はねえ。宮地の芝居だから、大目に見ているのかも知れねえが、男と女と入りまじりの芝居は御法度(ごはっと)だ。おそらく虎になる役者に困って、男芝居の役者を内証(ないしょ)で借りて来たのだろうと思うが、その役者が眼の色をかえて仁王さまを拝んでいる……。それがどうも判らねえ。なにか仔細がありそうだ」
「そこで、わっしはどうしましょう」
「そうだな」と、半七は又かんがえながら云った。「まあ、仕方がねえ。おめえはもう少しここらを流しあるいて、何かの手がかりを見つけてくれ。常磐津の師匠と雇い婆、あいつらもなんだか胡散(うさん)だから、出這入りに気をつけろ」
なにを云うにも人通りの少ない場末の町である。そこをいつまでも徘徊しているのは、人の目に立つ虞(おそ)れがあるので、半七はここで源次に別れて、ひとまず引揚げることにした。
帰るときに半七は、念のために浅川の芝居の前へ行った。その頃の青山には、今の人たちがの知らない町の名が多い。久保町から権田原(ごんだわら)の方角へ真っ直ぐにゆくと、左側に浅川町(あさくさちょう)、若松町(わかまつちょう)などという小さい町が続いている。それは現今の青山北町二丁目辺である。その浅川町の空き地にも小屋掛けの芝居があって、これは男役者の一座である。半七は小屋の前に立って眺めると、庵看板(いおりかんばん)の端に市川照之助の名が見えた。
この時、半七の袖をそっと引く者があるので、見返れば庄太が摺(す)り寄っていた。
「源次に逢いましたか」と、彼は囁(ささや)くように訊いた。
「むむ、逢った。善光寺前にうろ付いている筈だ。あいつと打合せてよろしく頼むぜ」
「ようがす」
半七はあとを頼んで神田へ帰った。彼が鳳閣寺内の宮芝居をのぞいたのは、単に芝居好きであるが為ではない。そこで『国姓爺合戦』を上演していたからである。そうして、案の如くに一つの手がかりを摑(つか)んだ。まだそれだけではこの事件を完全に解決することは出来なかった。彼は文字吉に就いても考えなければならなかった。小三津や照之助についても考えなければならなかった。
あくる日の午前(ひるまえ)、庄太が汗をふきながら駈け込んで来た。
「親分、済みません。おおしくじりだ。まあ、堪忍しておくんなせえ」
きのうの日暮れ方に源次を帰して、彼は百人町の菩提寺にひと晩泊めて貰った。しかもその夜のうちに、目と鼻のあいだで、又もや一つの椿事が出来したと云うのである。
「どうした」と、半七は訊いた。「また斬られた奴があるのか」
「その通り……。場所も同じ羅生門横町に、唐人飴の片腕がまた落ちていました」
「そうか」と、半七はにやりと笑った。「それからどうした」
「やっぱり唐人の筒袖のままです。なんぼ羅生門横町でも、三日と経(た)たねえうちに二度も腕を斬られたのだから、近所は大騒ぎ、わっしも面くらいましたよ」
「腕は前のと同じようか」
「違います。前のは色の生(なま)っ白(ちろ)い腕でしたが、今度のは色の黒い、頑丈な腕です。前のは若い奴でしたが、今度のはどうしても三十以上、四十ぐらいの奴じゃあねえかと思われます。なにしろ泊り込みで網を張っていながら、こんな事になってしまって、なんと叱られても一言もありません。庄太が一生の不覚、あやまりました」
彼はしきりに恐縮していた。
「今さら叱っても後(あと)の祭りだ。その罪ほろぼしに身を入れて働け」と、半七は苦笑いした。「おめえは早く青山へ引っ返して、そこらの外科医者を調べてみろ。今度斬られたのは近所の奴だ。ゆうべのうちに手当てを頼みに行ったに相違ねえ。斬った奴も大抵心あたりがある。おれは誰かを連れて行って、その下手人を見つけてやる」
「下手人はあたりが付いていますか」
「大抵は判っている。やっぱり眼のさきにいる奴だ。浅川の芝居にいる市川照之助だろう。あいつは力を授かるために仁王さまを拝んでいたらしい。どうもあいつの眼の色がただでねえと、おれはきのうから睨んでいたのだ」
「でも、唐人飴とどういう係り合いがあるのでしょう。斬られた腕は二度とも唐人飴の筒袖を着ていたのですが……」
「おめえは知るめえが、鳳閣寺の女芝居で国姓爺の狂言をしている。十六文の宮芝居だから、衣裳なんぞ惨めなほどにお粗末な代物で、虎狩や楼門に出る唐人どもも満足な衣装を着ちゃあいねえ。みんな安更紗の染め物で、唐人飴をそっくりの拵えだ。それを見ると、今度の腕斬りの一件は、この女芝居の楽屋に係り合いがあるらしいと思っていたが、いよいよそれに相違ねえ。照之助という奴が誰かの腕を斬って、それに唐人の衣裳の袖をまき付けて、わざと羅生門横町へ捨てて置いたのだろう。その訳を大抵察しているが、それを云っていると長くなる。これだけの事を肚に入れて、おめえは早く相山へ行け」
この説明を聞かされて、庄太は幾たびかうなずいた。
「わかりました。すぐに行きます」
庄太が出て行った後、半七も身支度をして待っていると、やがて亀吉(かめきち)が顔を出した。
「おい、亀。ご苦労だが、青山まで一緒に行ってくれ」と、半七はすぐに起(た)ちあがった。「筋は途中で話して聞かせる」
こんなことには馴(な)れているので、亀吉は黙って付いて来た。
大体の筋を話しながら、青山まで行き着くあいだに、きょうの空は怪しく曇って来たが、どうにか今夜ぐらいは持つだろうと半七は云った。ここらの宮芝居は明るいうちに閉場(はね)ることになっている。殊に照之助は虎狩に出るだけの役らしいので、ぐずぐずしていると帰ってしまうかも知れないと、二人は鳳閣寺へ急いで行くと、桶屋の源次が門前に待っていた。
二人を見ると、源次は駈けて来て、顔をしかめながら訊いた。
「さっき庄太さんに逢いましたが、又ほかに変なことがあるので……」
「又ほかに……。何が始まった」と、半七は催促するように訊いた。
「ここの小屋の様子を探ってみると、虎を勤める奴は確かに市川照之助ですが、きょうは楽屋に射ていません。呼び物の虎が出て来ない上に、錦祥女を勤める小三津という女役者も急病だと云うので、きょうは舞台を休んでいるのです。表向きは急病と云っているが、実はそのゆくえが知れないので、芝居の方じゃあ大騒ぎをしているそうです。時が時だけに、少し変じゃあありませんかね」
「むむ。それも面白くねえな」と、半七は舌打ちした。
「そこで、小三津の家はどこだ」
「小三津は師匠の小三の家にいるのです。小三の家は善光寺門前です」
「照之助の家は……」
「照之助は兄貴の岩蔵(いわぞう)と一緒に、若松町の裏店(うらだな)に住んでいます。兄貴も役者で市川岩蔵と云うのですが、芝居が半分、博奕が半分のごろつき肌で、近所の評判はよくねえ奴です。おふくろはお金(きん)といって、常磐津の師匠の文字吉の家へ雇い婆さんのように手伝いに行っていますが、こいつもなかなかしっかり者のようです。実は照之助の家を覗きに行ったのですが、兄貴も弟も留守で、家は空ッぽでした」
「岩蔵はどこの小屋に出ているのだ」
「弟と一緒に、ここの芝居に出ていたのですが、それに就いて何か面倒が起って、この二、三日は休んでいるようです」
これで唐人飴の謎(なぞ)も半分は解けたように、半七は思った。最初に発見されたのは、市川岩蔵の腕である。二度目の腕は誰か判らないが、それを斬ったのは市川照之助である。照之助は兄のかたき討に、相手の腕を斬ったらしい。そうして、同じ唐人の衣裳の袖につつんで、同じ場所へ捨てたらしい。二度目の腕の主は、庄太が外科医を調べて来れば、大抵は知れる筈である。
ただ判らないのは、最初からここらに立廻っている疑問の唐人飴屋の正体である。もう一つは、、坂東小三津のゆくえ不明である。師匠の小三と折合いが悪くて、結局無断で飛び出したのか。あるいは別に仔細があるのか。常磐津の文字吉はいっさい無関係であるのか。雇い婆のお金は照之助兄弟の母である以上、この事件に無関係であるとは思われない。それらの秘密がはっきりした暁でなければ、半七は迂闊に手を入れることが出来なかった。
「なにぶん場所が悪い」と、半七はつぶやいた。
町方の半七らに取っては、まったく場所が悪いのである。この事件の関係者は多く寺門前に住んでいる。現にこの芝居小屋も寺内にある。寺内は勿論、寺門前の町家はすべて寺社方の支配に属しているのであるから、町奉行所付きの者が、むやみに手を入れると支配違いの面倒がおこる。十分の証拠を挙げて、町奉行所から寺社奉行に報告し、その諒解を得た上でなければ、町方の者が自由に活動する事を許されない。それを付け目にして、寺門前には法網をくぐる者が往々ある。その欠陥を承知していながら、洗礼を重んずる幕府の習慣として江戸を終るまであらためられなかった。
庄太の戻って来るのを待つあいだ、三人が寺門前に突っ立ってもいられないので、源次だけをそこに残して、半七と亀吉は百人町の表通りをぶらぶらと歩き出した。ほかに行く所もないので、二人はきのうの蕎麦屋へはいった。


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きのうの今日であるから、蕎麦屋の亭主も半七に余計な世辞などを云っていた。きょうは亀吉が一緒であるので、半七も酒を一本註文した。
「ここらにゃあ顔役とか親分とか云うものはいねえかね」と、半七は訊いた。
「ここらのことですから大していい顔の人もいませんが、原宿の弥兵衛(やへえ)という人があります」と、亭主は答えた。
「子分といったところで五、六人ですが、ここらでは相当に幅を利かせているようです」
「浅草の芝居に出ている岩蔵は、弥兵衛の子分かえ」
「岩蔵さんは役者ですから、子分というわけでもないでしょうが、あの人もちっと悪い道楽があるので、弥兵衛さんのところへも出這入りもしているようです」
やかん平(へい)というのとは違うのかえ」と、亀吉は口を出した。
「違います。やかん平さんは一昨年なくなりました。あの人は町内の鳶頭(かしら)で、本名は平五郎(へいごろう)、あたまが禿(は)げているので薬缶平(やかんへい)という綽名を付けられたのですが、あの人はまことに良い人で、町内の為にもよく働いてくれました。原宿の弥兵衛は別な人で、これは薬缶平さんのようには行きません。それに、親分よりも子分の角兵衛(かくべえ)というのが幅を利かして……。本名は角蔵とか角次郎とか云うのでしょうが、ここらではみんなが角兵衛と云っています。その角兵衛さんがあんまり評判のよくない人で……」
亭主がここまで話して来た時に、暖簾(のれん)の外から覗き込んだのは庄太であった。亭主が眼の先にいるのを見て、彼は半七を表へ呼び出した。
「どうだ。判ったか」と、半七は小声で訊いた。
「わかりました」と、庄太も小声で云った。「この近所に外科医はねえので、だんだんに探して宮益坂(みやますざか)まで行きました。岡部向斎(おかげこうさい)という医者で、何か口留めでもされていると見えて、最初はシラを切っていましたが、こっちが御用の風を匂わせたので、とうとう正直に云いました。どこで斬られたのか知らねえが、ゆうべの四ツ過ぎに、原宿の弥兵衛の子分が怪我人(けがにん)をかつぎ込んで来た。怪我人は弥兵衛の一の子分の角兵衛という奴で、左の腕を斬り落とされていたそうです。たぶん喧嘩でもしたのだろうが、まあ死ぬ事はあるまいと云っていました」
二度目の腕の主は、今や亭主の噂󠄀にのぼった角兵衛であった。斬られた角兵衛は秘密にしているにしても、人の腕を斬って往来に投げ捨てて、世間を騒がした照之助を不問に付して置くわけにも行かない。この上はいよいよ照之助のありかを詮議しなければならないが、何をするにも寺社方の諒解を得て置かなければ不便であるので、その後の仕事を庄太と亀吉にたのんで、半七はふたたびここを引揚げることにした。
彼はその足で八丁堀同心の屋敷へまわって、いっさいの経過を報告して、町奉行所から寺社方へ通達の手続きを頼んだ。それから神田の家へ帰ると、その夜更けに亀吉と源次も帰って来た。
かれらの報告によると、角兵衛は親分の弥兵衛の家で傷養生をしている。岩蔵はどうしているか判らないが、常磐津の師匠の家に寝込んでいるのではないかと思われるのは、ふおふくろのお金が赤坂まで金創(きんそう)の塗り薬を買いに行ったことである。師匠の文字吉は風邪を引いたと云って稽古(けいこ)をことわり、湯にも行かずに引きこもっていると云うのである。
「そこで、飴屋はどうした」
「飴屋は一日来ませんでした」と、亀吉は云った。「近所の者は、きょうに限ってあの飴屋の来ないのは不思議だ。今度こそはあの飴屋の腕だろうなぞと噂󠄀をしていますよ」
「きょうは来(こ)ねえか。二度あることは三度ある。今度はおれの番だと思ったわけでもあるめえが、なにしろ変な奴だな」と、半七も首をかしげていた。「それはまあそれとして、さしあたりは照之助の片を付けてしまおう。寺社の方へも断わって置いたから、もう遠慮はねえ。どこへでも踏ん込んで引挙げるのだ」
そうなると、源次は下っ引で、蔭で働く人間であるから、表向きの捕物には顔は出せない。半七は亀吉だけを連れて行くことにして、その晩は別れた。夜半(よなか)から雨がふり出した。
青山には庄太が出張っている。こちらからは半七と亀吉が出てゆく。三人がかりで立ち騒ぐほどの大捕物でもないと思ったが、それからそれへと糸を引いて、また何事が起らないとも限らないので、とっもかくも三人が手分けをして働くことになった。
明くれば四月十四日、ゆうべの雨も今朝はうららかに晴れたので、半七と亀吉は早朝から青山へ出向いた。ここらの青葉の色も日ましに濃くなって、けさも時鳥(ほととぎす)が幾たびか啼いて通った。
鳳閣寺の門前には庄太が待っていた。
「お早うございます」と、彼は半七に挨拶して、寺の奥を指さした。「きょうは休みです。小三津のゆくえがまだ知れねえ。ほかにも休みの役者がある。座頭の小三も気を腐らして、血の道が起ったとか云って、これも楽屋入りをしねえ。そんなわけで芝居は無理(わや)になってしまって、ともかくもきょうは休みの札(ふだ)を出しました。折角評判のいい芝居がめちゃめちゃになって、小屋の連中は大愚痴(おおこぼし)ですよ」
「そうか」と、半七はうなずいた。「なにしろ常磐津の師匠という奴が気になってならねえ。まずあすこを調べることにしよう」
三人は連れ立って、久保町の実相寺門前へゆくと、文字吉の家では何か女の罵(ののし)るような声がきこえた。近寄って覗くと、四十近い女役者が弟子らしい若い女二人を連れて、格子のなかで押問答をしている。その相手になっているのは雇い婆のお金である。双方ともに気が強いらしく、負けず劣らずに云い合っていた。
「あの年増が小三ですよ」と、庄太は小声で教えた。
「さあ、隠さずに小三津を出して下さい」と、小三は云った。「師匠が弟子を連れに来たのに不思議は無いじゃありませんか」
「不思議があっても無くっても、当人はいませんよ。おおかた師匠を見限って、ほかの小屋へでも行ったのでしょう。ここの家(うち)ばかり因縁を付けに来たって仕様がない。おめさんも国姓爺を勤める役者だ。唐天竺(からてんじく)まで渡って探し歩いたらいいでしょう」と、お金はせせら笑っていた。
喧嘩の火の手はいよいよ強くなるばかりである。小三は舞台の和藤内をそのままに、大きい眼を剝(む)いてまた呶鳴(どな)った。
「シラを切っても、いけないいけない。あたしはちゃんと証拠を握っているのだ。ここの師匠は化けものだ。女のくせに女をだまして、金も着物もみんな捲(ま)きあげて、仕舞いには本人の体まで隠して……。並大抵のことじゃあ埒(らち)が明かないから、きょうは芝居を休んで掛合いに来たのだ。もうこうなりゃあ出るところへ出て、拐引(かどわかし)の訴えをするから、そう思うがいい」
「どうとも勝手にするがいいのさ。白い黒いはお上(かみ)で決めて下さるだろう」
「知れたことさ。そのときに泣きっ面をしないがいい。さあ、もう行こうよ」
小三は弟子たちを見返って表へ出ると、半七はふた足三足追いかけて呼び留めた。
「おい、師匠。待ってくんねえ」


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「長くなるから、ここらでお仕舞いにしましょうかね」と、半七老人は云った。
これが老人のいつもの手で、聴く者を焦(じ)らすかのように、折角の話を中途で切ってしまうのである。その手に乗ってはたまらないと、わたしは続けて訊いた。
「まだ半分で、なにも判りませんよ」
「判りませんか」
「判りませんよ。一体それからどうなったんです」
「小三は自分の弟子を隠された口惜(くや)しまぎれに、何もかも話しました。それを聞くと、常磐津の文字吉とうい師匠は不思議な女で、酒屋の亭主を旦那にしているが、ほかに男の弟子は取らないで、女の弟子ばかり取る。それには訳のあることで、本人は女のくせに女を騙(だま)すのが上手。ただ口先でだますのでは無く、相手の女に関係をつけて本当の情婦(いろ)にしてしまうのです。こんにちではなんと云うか知りませんが、昔はそういう女を『男女(おめ)』とか『男女さん』とか云っていました。もちろん、滅多にあるものじゃあありませんが、たまにそういう変り者があって、時どきに問題を起すことがあります。文字吉は浄瑠璃が上手というのでも無いのに、女の弟子ばかり来る。殊に囲い者や後家さんたちがわざわざ遠方から来ると云うのを聞いて、わたくしは少し変に思って、もしやと疑っていたら案の通りでした。つまりは色と慾との二筋道で、女が女を蕩(たら)して金を絞り取る。これだから油断はなりませんよ」
「そうすると、小三津という女役者もそれに引っ懸(か)かったんですね」
「そうですよ」と、老人はうなずいた。「小三津は人気役者で、容貌(きりょう)もよし、小金も持っている。それに眼をつけて、最初は贔屓のように見せかけて、うまく丸め込んでしまったんです。どういう手があるのか知りませんが、この『男女』に引っかかると、女はみんな夢中になること不思議で、小三津も文字吉に魂を奪われてしまって、持っている金も着物も片っ端から入れ揚げる。それを師匠の小三に覚(さと)られて、幾たびか意見をされても小三津も肯(き)かない。これだけでも無事には済みそうもないところへ、又ひとつの事件が出来(しゅったい)しました。それは国姓爺の芝居です」
「鳳閣寺の芝居ですね」
「さっきもお話し申した通り、ここの芝居は女役者の一座ですから、男と女と入りまじりの芝居は出来ない。そこで、今度の国姓爺を上演するに就いては、虎狩の虎を勤める役者に困ったので、浅川町の男芝居から市川岩蔵と照之助の兄弟を引っこ抜いて来ました。岩蔵はごろつきのような奴ですから、金にさえなれば何でも引受けるというわけで、弟の照之助にすすめて虎を勤めさせ、自分も一緒に出て唐人の役を勤めることになりました。芝居の方じゃあ岩蔵に用はないが、照之助を借りる都合上、兄貴も一緒に買ったのです」
「浅川町の芝居では黙って承知したんですか」
「承知しません」と、老人は頭(かぶり)をふった。「おまけに、その国姓爺の評判がよくって、自分の芝居が圧(お)されがちになったから、なおさら承知しません。第一、男と女と入りまじりの芝居をするのは不都合だと云うので、浅川の方から鳳閣寺の芝居へ掛合いを持込んだが、四の五の云って埒が明かない。それを聞き込んだのが原宿の弥兵衛で、それなら俺(おれ)の方から掛合ってやる……。こういう時に口を利けば、両方から金が入ると思ったから、弥兵衛はそれを買い込んで、子分のひとりを女芝居へやって、少し話したいことがあるから、誰か来てくれと云わせました。
弥兵衛がはいると、どうも事面倒になると思って、芝居の方でもいろいろ相談の末に、岩蔵をたのんで原宿へやりました。岩蔵は博奕も打つ奴で、弥兵衛の家へも出這入(ではい)りをしているから、こいつをやるがよかろうと云うことになったんです。岩蔵もよろしいと引受けました。これも少し変った奴で、楽屋で一杯飲んだ勢いで、舞台の唐人衣裳を着たままで原宿の弥兵衛の家へ出かけると、弥兵衛はなにか急用があって表へ出たあとで、子分の角兵衛という奴が親分気取りで掛合いを始めました。
ここで親分が掛合ったら、なんとかおだやかに納まったかも知れませんが、唐人のままで押掛て来た岩蔵をみて、人を馬鹿にしやあがると角兵衛はむっとした。岩蔵はまた、角兵衛の奴めが親分顔をして威張りゃあがると思って、これもむっとした。そんなわけですから、この掛合いも所詮(しょせん)無事には済みません。双方が次第に云い募って、角兵衛が『貴様も小屋の代人で出て来たからは、どうして俺たちの顔を立てるか、その覚悟はあるだろう』と云うと、岩蔵の方でも『知れたことだ。おれの首でもやる』と売り言葉に買い言葉、根が乱暴な連中だから堪(たま)りません。角兵衛は『てめえの首なんぞ貰っても仕様がねえ。これから稼業が出来ねえように腕をよこせ』と云ってほかの子分に出刃包丁(でばぼうちょう)を持って来させました」
「腕を斬ったんですか」と、わたしもその乱暴におどろかされた。
「さあ、野郎、斬るぞと云って、角兵衛の方じゃあ少しは嚇かしの気味もあったのでしょうが、岩蔵はびくともしない。さあ、すっぱりとやってくれと、左の腕をまくって出した。もう行きがかりで後へは引かれず、とうとう岩蔵の腕を斬ってしまったんです。そこへ親分の弥兵衛が帰って来て、さすがにおどろいたが、今さま仕方がない。腕の喜三郎の芝居をそのままという始末。取りあえず近所の心やすい医者を呼んで手当をしたが、これは外科でないから本当の治療は出来ない。まあいい加減なことをして、おふくろのお金を呼んで引渡すと、お金はそれを自分の奉公先へ連れ込んで養生させることにしました。
ぞんなものを担(かつ)ぎ込まれては、文字吉の家でも迷惑ですが、それを忌(いや)とも云われないのは、例の男女さんの秘密をお金に握られている為です。そこで怪我人を引取ったのはいいが、斬られた腕も一緒に送って来たので、その始末に困った。羅生門の鬼の腕とは違って、もとの通りに繫ぐわけにも行かない。いっそ庭の隅へでも埋めてしまえばいいのに、なんだか気味が悪いと云うので、文字吉は明くる朝、それを羅生門横町へ捨てに行ったのです。女の浅はかと云うのでしょうか、実に詰まらない事をしたもので……。捨ては捨てたが、又なんだか気が咎(とが)めるので、自分がそこで初めて見付けたように騒ぎ立てて、豆腐屋へ駈け込んだと云うわけです。自分が見付けたように騒ぎ立てるのは、世間によくあることで、誰の知恵も同じものだと見えます」
「そのかたき討に、照之助が角兵衛の腕を斬ったんですね」
「照之助は兄思いの人間で、それを知るとたいへんに口惜しがって、その意趣返しに角兵衛の腕を斬ってやろうと思い込んで、どこからか刀を買って来ました。自分は年が若い、相手は頑丈の大男ですから、善光寺の仁王さまを拝んで、十人力を授かるように祈って、角兵衛の出入りを付け狙(ねら)っていると、そんな事とは夢にも知らずに、角兵衛は十二日の夜五ツ頃(午後八時)に権田原の方へ出かけた。そこを待ち受けて斬り付けたんですが、人間の一心は恐ろしいもので、兄貴と丁度同じように、角兵衛の片腕を斬り落してしまいました。
角兵衛は倒れる。照之助は落ちている腕を拾って逃げました。万事が兄貴の通りにしなければ気が済まないので、照之助はかねて用意の唐人の筒袖――楽屋の衣裳の袖を切って来たんです。それを角兵衛の腕に着せて、例の羅生門横町へ捨てて置いて、これでまず立派にかたき討を仕遂げたつもりで立去りました。
これは後(のち)に判ったことで、坂東小三もそんなことまでは知りません。自分の弟子の小三津を文字吉が隠したと思って、その掛合いに行っているところへ、丁度にわたくしたちが行き合わせたんです。小三の話を聞いて、文字吉の正体も判りましたから、小三を連れて引っ返して、無理に文字吉の家へ踏み込むと、奥の四畳半に岩蔵が寝ていました」
「文字吉はどうしました」
「文字吉は二階にいました」と、老人はその当時の光景を思い泛(う)かべるように顔をしかめた。「ちらし髪で、真蒼(まっさお)な顔をして、まるで幽霊のような姿で、だらしなく坐っていました。何を訊いても碌(ろく)に返事をしない。戸棚がおかしいので、念のために明けてみると、そこに若い女役者の死骸がある。小三津が絞め殺されているんです」
「文字吉が殺したんですか」
「勿論、文字吉の仕業です。前にも云う通り、文字吉には女の関係者がたくさんあるんですが、こういう女に限って不思議に嫉妬(しっと)深い。それで、このごろ小三の楽屋へはいって来た照之助と、小三津が人一倍に仲好くすると云うのがもとで、小三津を自分の二階へ呼び付けて、やかましく責め立てる。云わば女同士の痴話喧嘩、それが嵩(こう)じて文字吉は半狂乱、そこにあった手拭をとって小三津を絞め殺してしまったが、さてどうするという分別もなく、死骸を戸棚に押込んだままで、自分はその張り番をするように、ただぼんやりと坐っていたんです。それも十二日、照之助が角兵衛の腕を斬ったのと同じ晩のことで、狭い土地にいろいろの事件が湧(わ)いたものです。その翌日も、又その次の日も、文字吉は碌々飲まず食わず、自分は半分死んだようになって、その戸棚の前に坐り込んでいるとことへ、わたくしどもが踏み込んだのでした。
だんだんに調べてみると、文字吉は小三津のほかに、囲い者や後家さんやら併せて八人の女に関係していることが判りました。それがみんな色と慾で、女を蕩らして自分のふところを肥(こや)していると云う、まったく凄い女でした。こんなやつとはちっとも知らずに、酒屋の亭主は世話をしていので、それを聞いて真蒼になって驚いていました。文字吉のような女をそのままにして置くことは出来ません。殊に小三津を殺した罪がありますから、後に死罪になりました」
「照之助は……」
「それにもお話があります。小三津の死骸は師匠の小三が引取って、海光寺に葬りました。これは庄太の菩提寺です。その葬式の済んだ晩、照之助がそっと忍んで来て、小三津の新しい墓の前で腹を切ろうとするところを、庄太に召捕られました。もしやと思って張り込んでいたら、まんまと罠(わな)にかかったんです。文字吉が嫉妬をおこしたのも無理ではなく、小三津と照之助は関係があったのでした。照之助は年も若いし、兄のかたき討と云うところに情状酌量の天もあるので、遠島になりました。
腕を斬られた二人、そのうちで岩蔵は癒(なお)りましたが、角兵衛はとうとう死にました。碌々に手当てをしなかった岩蔵が助かり、外科医の手当てを受けた角兵衛が死ぬ。人間の命は判らないものです。角兵衛が死んだ以上、照之助の命もない筈ですが、前に云ったようなわけで、一等を減じられたのでした」
これでまず一服と、老人は徐(しず)かに煙草(たばこ)を吸いはじめたが、わたしとしてはまだ聞きのがすことの出来ない大事の問題が残っている。それはかの唐人飴屋の正体で、この謎が解けなければ、この話は終ったとは云えない。老人が煙管(きせる)をぽんと掃(はた)くのを待ちかねるように、わたしはかさねて訊いた。
「そこで飴屋はどうなりました」
「はははははは」と、老人は笑い出した。「これはお話をしない方がいいくらいで……。飴屋は四、五日ほど姿を見せないで、又あらわれて来ました。もう打っちゃっては置けないので、庄太が捕捉(とっつかま)えて詮議すると、いや、もう、意気地(いくじ)のない奴で、小さくなって恐縮している。だんだんに調べると、こいつは外神田(そとかんだ)の藤屋(ふじや)という相当の小間物屋のせがれで、名はたしか全次郎(ぜんじろう)と云いました。稽古所ばりをする、吉原通いをする。型のごとくの道楽者で、お定まりの勘当、多年出入りの左官屋に引取られて、その二階に転がっていたんですが、ただ遊んでいても仕方がない。勘当の赦(ゆ)りるまで何か商売をしろと勧められた。とっても根が道楽者だから肩に棒を当てるようなまじめな商売も出来ない。そこで考えたのが唐人飴。ちっとは踊りが出来るので、これがよかろうと云うことになったが、さすがに江戸のまんなかでは困るので、遠い場末の青山辺へ出かけることになったんです。
相当の店の若旦那が飴屋になって、鉦をたたいて踊り歩く。他人から見れば随分気の毒なわけですが、当人すこぶるのん気で、往来でカンカンノウを踊っているのが面白いという始末。どうも困ったもので、これでは勘当はなかなか赦(ゆ)りません。おまけに女親が甘いので、勘当とは云いながら内証で小遣いぐらいは届けてくれるので、飴は売れても売れないでも構わない。道楽半分に歌ったり踊ったりしている。正体を洗えばこういう奴で、隠密も泥坊もあったもんじゃない。実に大笑いでした。それでも唐人の腕が二度も斬られたというので、自分もなんだか気味が悪くなって、四、五日ばかり場所をかえて、青山辺には寄り付かなかったんですが、馴染のない場末は面白くないと見えて、又もや青山辺へ立廻って来たところを庄太に押えられたんです。
青山辺を荒らした賊は別にあるので、これは又あらためてお話をする時がありましょう。全次郎はその正体が判ったので、俄に信用を回復して、飴もよく売れるようになったそうです。何が仕合せになるか判りません」

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