半七捕物帳 第三巻/女行者

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女行者[編集]

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明治三十二年の秋とおぼえている。わたしが久松町(ひさまつちょう)の明治座(めいじざ)を見物にゆくと、廊下で半七老人に出逢った。
「やあ、あなたもご見物ですか」
わたしの方から声をかけると、老人も笑って会釈(えしゃく)した。そこはほんの立ち話で別れたが、それから二、三日過ぎてわあしは赤坂の家(うち)をたずねた。半七老人の劇評を聞こうと思ったからである。そのときの狂言は「天一坊(てんいちぼう}」の通しで、初代左団次(さだんじ)の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)、権十郎(ごんじゅうろう)の山内伊賀之助(やまうちいがのすけ)、小団次(こだんじ)の天一坊という役割であった。
わたしの予想通り、老人はなかなかの見巧者(みこうしゃ)であった。彼はこの狂言の書きおろしを知っていた。それは明治八年の春、はじめて守田座(もりたざ)で上演されたもので、彦三郎(ひこさぶろう)の越前守、左団次の伊賀之助、菊五郎(きくごろう)の天一坊、いずれも役者ぞろいの大出来であったなどと話した。
「ご承知の通り、江戸時代には天一坊をそのままに仕組むことが出来ないので、大日坊(だいにちぼう)とか何とかいって、まあいい加減に誤魔化していたんですが、明治になってもう遠慮はいらないと云うことになって、講釈師の白山(はくさん)がまず第一に高座で読みはじめる。それが大当りに当ったので、それを種にして芝居の方でも河竹(かわたけ)が仕組んだのですが、それがまた大当りで、今日までたびたび舞台に乗っているわけですが、やっぱり書きおろしが一番よかったそうですな。いや、こんなことを云うから年寄りはいつでも憎まれる。はははははは」
芝居の話がだんだんに進んで、天一坊の実録話に移って来た。
「天一坊のことはどなたもご承知ですが、江戸時代には女天一坊というのも随分あったもんですよ」と、老人は云った。「尤(もっと)もそこは女だけに、将軍家の御落胤(ごらくいん)というほどの大きな触れ込みをしないで、男の天一坊ほどの評判にはなりませんでしたが、小さい女天一坊は幾らもありましたよ。そのなかで、まず有名なのは日野(ひの)家のお姫様一件でしょう。あれはたしか文化(ぶんか)四年四月の申渡(もうしわた)しとおぼえていますが、町奉行所の申渡書では品川宿(しながわじゅく)旅籠屋(はたごや)安右衛門(やすえもん)抱(かかえ)とありますから、品川の貸座敷の娼妓(しょうぎ)ですね。その娼妓のお琴(こと)という女が京都の日野中納言家(ちゅうなごんけ)の息女だと云って、世間の評判になったことがあります。その頃、公家(くげ)のお姫(ひい)さまが女郎(じょろう)になったと云うのですから、みんな不思議がったに相違ありません。お琴は奉公中に主人の店をぬけだして浅草(あさくさ)源空寺(げんくうじ)門前の善兵衛(ぜんべえ)というも者を家来に仕立て、例の日野家息女をふりまわして、正二位内侍局(ないじのつぼね)とかいう肩書(かたがき)で方々を押し廻してあるいていることが奉行所の耳へきこえたので、お琴も善兵衛も吟味をうけることになりました。しかし奉行所の方でも大事を取って、一応念のために京都へ問いあわせたのですが、日野家では一切知らぬと云う返事であったので、結局お琴は重追放、善兵衛は手錠を申渡されて、この一件は落着(らくちゃく)しました。なぜそんな偽りを云い触らしたのか判りませんが、おそろらく品川の借金をふみ倒した上で、山仕事を目論(もくろ)もうとして失敗したもので、つまりこんにちの偽(にせ)華族と云うたぐいでしたろう。それが江戸じゅうの噂(うわさ)になったので、狂言作者の名人鶴屋南北(つるやなんぼく)がそれを清玄桜姫(せいげんさくらひめ)のことに仕組んで、吉田家の息女桜姫が千住(せんじゅ)の女郎になるという筋で大変当てたそうです。その劇場は木挽町(こびきちょう)の河原崎座(かわらざきざ)で『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』というのでした。いや、余計な前置きが長くなりましたが、これからお話し申そうとするのは、その日野家息女一件から五十幾年の後のことで、文久(ぶんきゅう)元年の九月とおぼえています」


八丁堀(はっちょうぼり)同心岡崎長四郎(おかざきちょうしろう)からの迎えをうけて、半七はすぐにその屋敷へ出かけて行った。それは秋らしい雨のそぼ降る朝であった。
「悪い天気で困ります」
「よく降るな。秋はいつもこれだ、仕方がねえ」と、岡崎は雨に濡れている庭先をながめながら鬱陶(うっとう)しそうに云った。「いや、この降るのに気の毒だが、ちっと調べて貰いたい御用がある。このごろ茅場町(かやばちょう)に変な奴があるのを知っているか」
「へえ」と、半七は首をかしげた。
「もっとも、この頃は変な奴がざらに転(ころ)がっているから、ただそればかりじゃあ判断がつくめえ」
岡崎はちょっと笑い顔をみせたが、又すぐにまじめになった。
「変な奴の正体は女の行者(ぎょうじゃ)だ。案外に年を食っているかも知れねえが、見たところは十七か十八ぐらいの美しい女で、何かいろいろの祈禱(きとう)のようなことをするのだそうだ。まあ、それだけなら見逃(みのが)しても置くが、そいつがそうも怪(け)sっひからねえ。女がいい上に、祈禱が上手だというので、この頃ではなかなか信者がある。この信者のなかで工面(くめん)のよさそうな奴を奥座敷へ引摺り込んで、どう誤魔化すのか知らねえが、多分の金を寄進させるという噂だ。男だけならば色仕掛けという狂言かとも思うが、そのなかには女もいる。いい年をした爺さんも婆さんもある。それがどうも腑(ふ)に落ちねえ。いや、まだ怪しからねえのは、そいつが京都の公家(くげ)の娘だと云っているそうだ。冷泉為清卿(れいぜいためきよきょう)の息女で左衛門局(さえもんのつぼね)だとか名乗って、白の小袖に緋(ひ)の袴(はかま)をはいて、下げ髪にむらさき縮緬(ちりめん)の鉢巻のようなものをして、ひどく物々しく構えているが、前にも云う通り、容貌(きりょう)はよし、人品はいいので、なかなか神々(こうごう)しくみえると云うことだ。どうだ、ほんものだろうか」
「そうですねえ」と、半七は再び首をかしげた。「京都へお聞きあわせになりましたか」
「勿論、念のために聞合せにやってある。その返事はまだ判らねえが、冷泉為清とかいう公家はいねえと云う話だ。といったら、考えるまでもなく、それは偽物(にせもの)だと云うだろうが、なにぶんいも今の時節だ。ひょっとすると、ほんとうの公卿の娘が何かの都合でいい加減の名を云っているのかも知れねえからな。そこが詮議(せんぎ)ものだ」
「ごもっともでございます」
半七もうなずいた。今の時節――勤王討幕の議論が沸騰している今の時節では、仮にも京都の公家にゆかりがあるという者、それは厳重に詮議しなければならない。殊(こと)に祈禱にことよせて、多分の金額をあつめるなどとは聞き捨てにならない。討幕派の軍用費調達と云うほどの大仕掛けではなくとも、江戸をあばれ廻る浪士どもの運動費調達ぐらいのことは無いとも云われない。岡崎が懸念するのも無理はないと思ったので、半七はすぐにその探索に取りかかることを請合(うけあ)って帰った。
彼は神田の家へ帰って、子分の多吉(たきち)を呼んだ。多吉はその話を聞かされて頭をかいた。
「親分、申訳ありません。その女の行者のことは、このあいだからわっしもちらりと聞き込んでいたんですが、ついその儘にして置いて、八丁堀の旦那に先手(せんて)を打たれてしまいました。こいつは大しくじり、あやまりました。だが、あの辺りは瀬戸物町(せとものちょう)の持場じゃありませんか」
多吉の云う通り、茅場町辺の事件ならば、そこは瀬戸物町の源太郎(げんたろう)という古顔の岡っ引がいるので、当然彼がその探索を云い付けられる筈であるが、源太郎はもう老年のうえに近来はからだも弱って昔のような活動も出来なくなった。子分にもあまり腕利(うでき)きがなかった。それらの事情で今度のむずかしい探索は特に半七の方へ重荷をおろされたのであろう。それを思うと、彼はいよいよ責任の重いのを感じないわけには行かなかった。
「多吉。まあ、しっかりやってくれ。なにしろ其の行者という奴が一体(いってえ)どんなことをするのか、それをまず詳しく詮議しなければなるめえ。なんとかして手繰(たぐ)り出してくれ」
「ようがす。一つ働きましょう」
事件の性質が重大であるのと、他人(ひと)の縄張りへ踏み込んで働くという一種の職業的興味とで、年の若い多吉は勇み立って出て行ったが、普通の人殺しや物盗りなどとは違って、事件の範囲も案外に広いかも知れないと云う懸念(けねん)があるので、半七は更に下っ引の源次(げんじ)をよび付けた。こういう事件には、なまじいに其の顔を識(し)られている手先よりも、秘密に働いている下っ引の方が却って都合がいいかも知れないと思ったからである。
相手が京都の公家の娘で、問題が勤王とか討幕とかいう重大事件であるから、下っ引の源次はすこし躊躇した。これは自分の手にも負えそうもないから、誰か他人(たにん)に引受けさせてくれと一応は断わったが、半七から説得されてとうとう請合って帰った。きょうの雨は日の暮れるまで降りつづけて、宵から薄ら寒くなったが、多吉も源次も帰って来なかった。
「何をしていやあがるのか。いや、無理もねえ。あいつらにはちっと荷が重いからな」
こうお持つ手、半七は気長に待っていると、その夜は四ツ(午後十時)過ぎに多吉が帰って来た。
「よく降りますね」
「やあ、ご苦労。そこで早速だが、ちっとは種が挙がったか」と、半七は待ちかねたように訊(き)いた。
「まだ十分と云うわけには行きませんが、少しは種を洗い出して来ました」と、多吉は得意らしく云った。「まあ、聴いておくんなせえ。その行者というのはまったく十七、八人ぐらいに見えるそうです。すてきに容貌(きりょう)のいい上品な女で、ことばも京なまりで、まあ誰がみてもお公家さまの娘という位取りはあるそうですよ。なんでも高い段のようなもんおを築いて、そこへ御幣(ごへい)や榊(さかき)をたてて、座敷の四方には注連(しめ)を振りまわして、自分も御幣を持っていて、それを振り立てながら何か禱(いの)りのようなことをするんだそうです」
「どんな禱りをするんだろう」
「やっぱり家運繁昌、病気平癒、失(う)せもの尋ねもの、まあ早くいえば世間一統の行者の祈禱に、うらないの判断を搗(つ)きまぜたようなもので、それがひどく効目(ききめ)があると云うので、ばかに信仰する奴らがあるようです。なんでも毎日五、六十人ぐらいは詰めかけると云いますから、随分実入(みい)りもあることでしょう。祈禱料は思召(おぼしめ)しなんですけれど、ひとりで二歩(ぶ)も三歩も納める奴があるそうですから、たいしたものです」
「それはまあそれとして、その行者は工面(くめん)のよさそうな信心ものを奥へ連れ込んで、なにか秘密の祈禱をして多分の金を寄進させると云うじゃあねえか。それはどうだ」
「それもあるらしいんです」と、多吉はうなずいた。
「だが、それはいっさい秘密の行法(ぎょうほう)で、うっかり口外すると一年経(た)たねえうちに命がなくなると嚇(おど)されているので、誰もはっきりと云う者がねえそうです。それに、その秘密を行なうのはいつでも夜なかときまっていて、どこの誰が秘密の祈りをして貰ったと云うことが他人に知れると、その験(げん)がないと云うので、秘密の祈りを頼むものは世間がみんな寝静まった頃に、顔を隠したり、姿を変えたりして、そっと裏口から出這入(ではいり)をしているので、誰だがよく判らないと云うことです。行者の奴め、なかなかうまく考えたもんですよ」
「むむ」と、半七は又かんがえた。「そのほかに何か浪人らしい者の出這入りする様子はねえか」
「それは聞きませんでした」
「行者の家には、当人のほかにどんな奴らがいる」と、半七は訊いた。「なにか、弟子のような者でもいるのか」
「五十ばかりの男と、十五、六になる小娘と、ほかに台所働きのような女が二人いるそうですが、台所働きはこのごろ雇った山出しの奉公人で、祈禱の方のことは一切(いっさい)その男と小娘とが引受けてやっているんだそうです」
多吉の報告はそれだけであった。


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あくる朝になって源次が来た。
「親分。多吉さんの方で面白いことが手に入りましたかえ」
「面白いと云うほどのことも判らねえが、まあ少しばかり眼鼻をつけて来た。そこで、おめえの方はどうだ」と、半七はすぐに訊いた。
「わたしの方でも取立ててこうと云うほどの種は挙がりませんが、ただひとつ、妙なことを聞き出しましたよ。葺屋町(ふきやちょう)に炭団伊勢屋(たどんいせや)という大きい紙屋があります。何代か前の先祖は炭屋をしていたとか云うので、世間では今でも炭団伊勢屋と云っているんですが、地所家作(じしょかさく)も持っていて、身上はなかなかいいと云う評判です。その伊勢屋の息子がこの頃すこし乱心したようになって……。息子は久次郎(きゅうじろう)といって、ことし二十歳(はたち)になるんですが、俳優の河原崎権十郎にそっくりだと云うので、権十郎息子という綽名(あだな)をつけられて、浮気な娘なんぞは息子の顔をみたさに、わざわざ遠いところから半紙一帖ぐらいを伊勢屋まで買いに来るようなわけで、かたがたその店も繁昌していたんですが、例の行者のところへ行って来てから、なんだか少し気が変になったと云うんです」
「その息子も祈禱をたのみに行ったのか」
「久次郎のおふくろというのが、その春の末頃から性の知れない病気でぶらぶらしているので、茅場町に上手な行者があるという噂をきいて、一度見て貰いに行ったのが病みつきになってしまったんです」
久次郎も世間の噂に釣り込まれて、最初は半信半疑で母のお豊を連れてゆくと、神のように美しい行者はお豊をひと目見て、これは怪しい獣(けもの)の祟(たた)りである、自分の祈禱できっと本復させてやると云った。久次郎もそれを信用して、なにぶんお頼み申すと云うと、行者はお豊を神壇の前に坐らせて、一種のおごそかな祈禱を行ってくれた。その効験は著しいもので、お豊はそのあくる朝から神気(しんき)がさわやかになって、七日ほどの後には元の達者なからだに回復した。それだけでも、伊勢屋一家の信仰を貰うには十分であって、伊勢屋からは少なからぬ奉納物を神前にささげた。取分けて久次郎は美しい行者を尊崇した。
彼が奉納物を持参したときに、行者は久次郎の顔をつくづく眺めながら云った。
「はて因果はおそろしい。おふくろ様ばかりでなく、おまえにも同じ祟りが付きまとうています。その禍(わざわ)いの来たらぬうちに、早くお祓(はら)いをなされてはどうでござります」
あくまでも彼女(かれ)を尊崇している久次郎に異存のあろう筈もなかった。彼はその日からすぐに祈禱をたのむことになったが、行者は一七日(いちしちにち)のあいだ日参(にっさん)しろと云った。久次郎は勿論その指図通りにした。初めの三日は昼のうちに通っていたが、四日目からは奥のひと間で秘密の祈禱をうけることになって、夜ふけを待って通っていた。しかしその一七日を過ぎても、彼の祈禱は終らなかった。行者は更に一七日の参詣をつづけろと云うと、久次郎はやはりその指図にそむかなかった。彼は毎晩かかさず通いつづけていた。
行者を信仰している伊勢屋では、久次郎の日参を怪しまなかった。母のお豊はむしろ我が子をすすめて出してやるほどであったが、久次郎の参詣が初めの一七日が過ぎて更に二七日になり、又もや三七日となり、四七日とつづくようになったので、店の番頭どもは少し不安に感じて来た。おふくろの病気はただ一度の祈禱で平癒したのに、息子の病気、しかも差当ってはどうと云うこともない病気が、幾日の祈禱を頼んでも去らないのはどういうわけであろう。殊に夜ふけを待って秘密の祈禱をつづけると云うのも少し可怪(おかし)いと、一の番頭の重兵衛(じゅうべえ)が、それとなくお豊に注意したが、かの行者を固く信用しているお豊は絶対に耳を籍(か)さなかった。伊勢屋の主人は五年前に世を去って、今では後家(ごけ)のお豊がひとり息子の後見役(こうけんやく)でこの大きな店を踏まえているのであるから、彼女(かれ)があくまで行者を信仰して、わが子の祈禱に何の故障(さしさわり)もない限りは、ほかの奉公人どもが強(し)いてそれを遮(さえぎ)るわけには行かなかった。久次郎はその後も相変らず通いつづけていた。その奉納物は親子二人きりの相談で、店の者どもにはよく判らないのであるが、ひと月あまりのあいだに、二、三百両を運び込んだらしいと番頭どもは睨(にら)んでいた。
そうしているうちに、久次郎の様子がだんだんとおかしくなって、この頃はちっとも落着かないようになって来た。店に坐っていたかと思うと、不意にどこへかふらふらと出て行ってしまうのである。彼はなんだか魂のぬけた人のようにみえた。権十郎息子の顔色もひどく蒼ざめて来た。
「まあ、こう云うわけで、店の若い者や小僧なんぞは、若旦那が気が違ったらしいと云っているんです」と、源次は説明した。
「むむ、気が違ったかも知れねえ」と、半七はほほえんだ。「相手はすばらしく美しい行者と云うじゃあねえか」
「そうです、そうです。むこうが若い美しい行者で、こっちが権十郎息子と云うんですからね」と、源次は笑った。
しかし半七は笑ってばかりもいられなかった。単にこれだけの事件であるならば、問題は案外に単純であるが、かの怪しい行者は勤王とか討幕とか、京都の公家の娘とかいう、大きな背景を持っているらしいだけに、半七は迂闊(うかつ)に彼女に手をつけることが出来なかった。軽はずみのことをして、たとい本人だけを引挙げたところで、ほかの徒党を取逃がしてしまっては何にもならない。うまく工夫してかれらの一類を一網に狩りあげることを考えなければならない。半七は源次に云いつけて、これから毎夜茅場町の近所に網を張って祈禱所へ出入りする者を偵察させることにした。
その日の夕方になって、多吉が再び来た。
「親分、どうも思うような種はあがりませんよ。女の行者はお局(つぼね)様とかお姫(ひい)様とか云っているだけで、ほんとうの名はわかりません。五十ばかりの家来の男は式部(しきぶ)とかいっているそうで、どうも上方(かみがた)生れに相違ないようです。十五、六の小娘は藤江(ふじえ)といって、これもなかなか容貌(きりょう)がいいんですけれど、行者のほんとうの妹か身よりの者か、そこはよく判らないそうです。台所働きはお由(よし)とお庄(しょう)というんですが、これは飯炊きや水汲みに追い使われているだけで、奥の方のことは何も知らないようです」
「ゆうべも云ったことだが、祈禱をたのむ者のほかに誰も出這入りするらしい様子はねえのか」と、半七は念を押して訊いた。
「わっしもそこが大切だと思って近所の者によく訊いてみたり、お由という女中が外へ出るところを捉(つか)まえて、それとなく探りを入れて見たんですが、まったく誰も出這入りをするらしい様子がないんです」
「夜になって祈禱をたのむ奴が幾人ぐらい来る」
「それがこのひと月ほどは一人も来ねえそうです。頼む奴が来ねえのじゃねえ、行者の方でなにか身体(からだ)がわるいと云うので、夜の祈禱はみんな断わっているんだそうです。だが、その中でたった一人かかさずに来る奴があります」
「紙屋の息子か」
「あ、源次の奴(やつ)ほじくり出しましたかえ。あいつ油断がならねえ」と、多吉は鼻毛をぬかれたような形で少してれた。「じゃあ、その方は大抵ご承知ですね」
「だが、まあ話してみろ」
多吉の報告も源次の種とあまり違わなかった。そうして、紙屋の久次郎は色仕掛けでたくさんの祈禱料をまきあげられているに相違ないと云った。
「そうだろう。誰が考えても、落着くところは同じことだが、ただ困るのは、徒党の奴らだ」と、半七は云った。「夜なかに祈禱をたのむ振りをして、姿をかえて入込むのじゃあねえかと思うが、これも此の頃はちっとも来ねえというのじゃあ仕方がねえ。行者の奴らをつまかえるのは何日(いつ)でも出来る。あいつらはまあ当分は生簀(いけす)にして置いて、ほかから来る奴らに気をつけろ」
多吉は承知して帰った。
それから半月ほど経ったが、多吉も源次も思わしい成績をあげることが出来なかった。その報告はいつも同じことで、夜になっては紙屋の息子のほかに誰も出這入りするものは無いとのことであった。行者の家(うち)でも女中が買物に出るほかには、誰も外出するものはないらしかった。
「半七、どうだ。貴様にしてはちっと足が鈍(のろ)いな」
八丁堀同心の岡崎から時どきに催促されて、半七も気が気でなかった。こうなったら仕方がない。まず行者一家の者どもを引挙げて、それを打(ぶ)っ叩(たた)いて白状させるよりほかあるまいと、彼は内々でその手配りにかかっていると、あしたが池上(いけがみ)のお会式(えしき)という日の朝、多吉があわただしく駈け込んで来た。
「親分、紙屋の息子が二、三日前から姿を隠したようです」
「行者はどうした」と、半七はすぐに訊いた。「まさか駈落(かけおち)をしたわけでもあるめえ」
「行者はやっぱり家(うち)にいます。それについて、行者の家の式部という奴がなにか紙屋へ掛合いに行ったらしいんです」
そう云っているところへ源次も来た。


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今度の事件について、多吉はとにかく下っ引きの源次に先(せん)を越されていた。源次は多吉の報告以上に紙屋の息子が姿を隠した事件を詳しく知っていた。
源次の話によると、きのうの午(ひる)過ぎにかの式部が炭団伊勢屋へたずねて来て、後家のお豊に厳重な掛合いを持出した。それは当家の伜久次郎どのがお姫(ひい)様に対して無礼を働いたと云うのであった。久次郎どのには怪しい獣の悪霊(あくりょう)が付きまとっているので、それを祓う(はら)うために毎夜秘密の祈禱を行っていることは、おふくろ殿もかねてご存じの筈である。本来ならば一七日の祈禱で当然その禍いを祓い得るべきであるのに、今度の祈禱に限って不思議にその験(げん)がみえない。更に二七日、三七日、四七日と祈りつづけても、やはりその験のあらわれないのは甚だ不思議に思っていたところが、今になってその仔細が初めて判った。当人の久次郎どのが汚(けが)れた心を持っていたからである。久次郎どのは毎夜かかさず通って来るのは、まことの心からの信心ではない。実はお姫様に懸想(けそう)していたのである。現にゆうべの祈禱の休息のあいだに、彼はお姫様をとらえて猥(みだ)らなことを云い出した。実に言語道断(ごんごどうだん)の不埒(ふらち)である。
お姫様は勿論それを取合われる筈はなかった。持っていた幣束(へいそく)で彼の面(おもて)を一つ打ったままで、無言で奥の間へはいってしまわれたが、それを知った拙者はすぐにその場へ踏み込んで、久次郎の不埒をきびしく叱って、今後決して参ることは相成らぬと襟髪をつかんで表へ突き出してしまった。久次郎どのは何と云っているか知らないが、事実は全くこの通りであって、お姫様を瀆(けが)そうとするのは髪を瀆そうとするも同じことである。久次郎どの如き言語道断の不埒者はもとより相手にはならない。改めておふくろ殿にお掛合いをいたすために、こんにち罷(まか)り越した次第であると、式部は形を正しゅうしておごそかに云った。
思いもよらない掛合いをうけて、お豊は魂が消えるほどにびっくりした。殊に自分はあくまでもかの尊い行者を信仰しているだけに、わが子の不埒が重々(じゅうじゅう)面目なかった。面目ないと云うよりも、彼女(かれ)は実におそろしかった。彼女は畳に額(ひたい)をうずめて、恐れかしこんでわが子の罪を幾重(いくえ)にも詫(わ)びた。彼女は当然自分ら親子のうえに落ちかかて来たるべき神々の御罰(ごばつ)をのがれるために、あらためて謝罪の祈禱を嘆願した。祈禱料の二百金は式部のまえに差出された。式部は容易にそれに手を触れなかったが、結局お姫様の思召(おぼしめ)しをうけたまわるまで、ともかくもお預かり申して置くと云うことになって、その二百両を受取って帰った。
式部の帰ったあとで、お豊はすぐ久次郎を奥へ呼んだ。相変らずぼんやりして店へ坐っていた久次郎は、母のまえに出てその詮議をうけたが、彼の答弁はすこぶるあいまいであった。尊い行者を瀆そうとした事実について、彼はそれを絶対に否認しようともしなかったので、母はいよいよ悲しみ嘆いて、神罰のおそろしいことをくれぐれも云い聞かせた。今後その汚れた心を入れかえて、身に付きまとった禍いを祓(はら)わなければならないと、涙ながらに説き諭(さと)した。久次郎は黙っておとなしく聴いていた。
日が暮れてから久次郎はいつものようにふらりと何処へか出て行ったが、夜が更けても帰らなかった。伊勢屋でも心配して、念のために式部のところへ聞きあわせてやると、久次郎はきのうから一度もみえないと云う返事であった。久次郎はその晩も帰らなかったそうして、今朝になってもまだ帰らないので、伊勢屋ではいよいよ不安を感じた。式部が掛合いのことはお豊ひとりの胸に秘めて、店の者にはいっさい秘密にしてあったのであるが、もう斯(こ)うなっては匿(かく)しても隠(かく)されないので、お豊は番頭どもを呼びあつめて、その秘密を打明けた。番頭どもには差当ってどうという確かな見当も付かなかったが、おそらく自分の不埒を恥じ悔んで、面目なさの家出であろうと云うことに諸人の意見が一致した。
家出の動機がそれであるとすると、久次郎の身のうえにかかる不安はいよいよ大きくなって来た。お豊は狂気のようになって騒ぎ出した。彼女はすぐに祈禱所へ駈けて行って、久次郎のゆくえを占(うらな)って貰うことにした番頭の重兵衛は瀬戸物町の源太郎のところへ駈けつけて、秘密にその探索方をたのんだ。親類そのほかの心当りへ使を出した。
この報告を聞いて、半七は膝を立て直した。
「それじゃあ、いよいよ思い切って手入れをしなけりゃあなるめえ。伊勢屋の番頭が瀬戸物町へかけ込んで、そっちから何かちょっかいを出されると面倒だ」
「すぐにやりますかえ」と、多吉は訊いた。
「むむ、すぐに取りかかろう。相手はその行者と、式部とかいう奴と、藤江という女だ。まずそれだけだな。いや、係り合わねえといっても、女中ふたり逃がしちゃあいけねえ。まだほかにどんな奴が忍んでいるかも知れねえ。源次は表向き面出(つらだ)しするわけにも行かねえんだから、多吉一人じゃあちっと手不足かも知れねえよ。善八でも呼んで来い」
「善八ひとりで沢山(たくさん)ですかえ」
「それでよかろう。なんといつても相手は女だ。そんなに大勢でどやどや押掛けて行くのも見っともねえ」
多吉はすぐに子分の善八を呼びに行った。源次はその後の模様を探るために、ふたたび炭団伊勢屋の方へ出て行った。半七が身支度をして神田の家を出たのは朝の四ツ(午前十時)過ぎで、会式桜(えしきざくら)もまったく咲き出しそうなうららか小春日和(こはるびより)であった。
半七は途中で買物をして、更になにかの支度をして、日本橋茅場町の祈禱所へたずねてゆくと、以前は誰が住んでいたか知らないが、新しく作り直したらしく門柱には神教祈禱所という大きな札がかけられて、玄関先に注連(しめ)が張りまわしてあった。六畳ばかりの玄関には十四、五人の男や女が押合うように詰めかけていて、坐り切れない人たちは式台の上までこぼれ出していた。半七もおとなしくそこに坐って、自分の順番のくるのを待っていると、そのあとからまた五、六人がだんだんにはいって来た。そのなかには子分の善八もまじめな顔をしてまじっていた。彼は勿論半七の方を見返りもしないで、ほかの人たちとなにか小声で話しているらしかった。
一人ひとりの祈禱や占いがかなり長くかかるので、半七は一時(いっとき)ほども待たされたが、それでも根(こん)よく辛抱していた。先の人が立去ると、入れ代りのように後の人がまた詰めかけて来るので、玄関にはいつでも十四、五人が待ちあわせている。なるほどなかなか流行(はや)ることだと半七は思っていると、やがて自分の番がまわって来て、彼は正面の祈禱所へ通された。
祈禱所は十五、六畳ばかりの座敷で、その構えは先に多吉が報告した通りであった。正面には翠簾(みす)を垂れて、鏡や榊や幣束(へいそく)などもみえた。信心者からの奉納物らしい目録包みの巻絹や巻紙や鳥や野菜や菓子折や紅白の餅なども其処(そこ)らにうず高く積まれてあった。若い美しい行者は藁(わら)の円座(えんざ)のようなものの上に坐って、手には幣束をささげていた。少し下がったところに、それが彼(か)の式部というのであろう。五十ばかりのいかにも京侍らしい惣髪(そうはつ)の男が、白い袴に一本の刀をさして行儀ただしく控えていた。神前をはかばるのか、彼は絶えずうつむいているが、時どきに鋭い上目(うわめ)使いをしてあたりに注意しているらしいのが半七の眼についた。
「どうぞお進みください」と、式部は徐(しず)かに云った。
「ごめんください」
半七は丁寧に会釈(えしゃく)して進み出て、正面の行者の顔をみあげた時、そのそばに一人の若い女が控えているのを更に身いだした。女は白絹の小袖を着て、おなじく白い切袴(きりばかま)をはいていた。それが彼(か)の藤江というのだろうと半七はすぐに覚った。
藤江も美しい少女であったが、正面の座に直っている行者はさらに麗(うるわ)しいものであった。十七、八というのは彼女の美に惑わされた報告で、どうしても二十歳(はたち)か、あるいは二十歳を一つ二つぐらいは越えているらしいが、見たところはいかにも若々しかった。彼女は白粉(おしろい)のあつい顔に眉黛(まゆずみ)を濃くして、白い小袖のうえに水青(みずおあ)の狩衣(かりぎぬ)を着ていた。緋の袴という報告であったが、きょうは白い袴をはいていた。万事の応対はすべて式部が引受けているので、彼女はひと言も口を利かなかった。
「して、ご祈禱をおたのみでござるか」と、式部は訊いた。
「はい」と、半七は再び頭(かしら)をさげた。「実はわたくしの母が昨年以来、なにか憑物(つきもの)でもいたしたようで、時どきに取留のないことを口走りますので、まことに困り果てて居ります」
何分にもそのお祓(はら)いをお願い申したいと云って、半七は白木の台付きの箱をうやうやしく捧げて出した。箱の形から見て、それは一匹(いっぴき)の白絹であるらしかった。式部も会釈して、その箱をうけ取って、まず行者のまえに押し直すと、行者は幣束を取り直してその箱のうえを一度払った。そうして、神前に供えよと頤(あご)で知らせると、式部は心得てその通りにした。
「お聴きの通りでございますが、お禱り下さりましょうか」と、式部はあらためて行者に訊くと、彼女はやはり無言でうなずいた。
「では、もっと近うお進みください。ご遠慮なく……」
式部は半七を頤(おとがい)でまねいた。半七は会釈して又ひと膝すすみ出ると、行者の衣はなにかの香が焚(た)き籠(こ)めてあるらしく、蘭奢(らんじゃ)とでも云いそうな一種の匂いが彼の鼻にしみた。


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行者は半七の顔をひと目みて、更に何事をか問いたそうに式部を見かえると、半七は声をかけた。
「いえ、いちいちお取次ぎは、かえってお願いの筋が通りかねるかとも存じます。ご用でございましたらば、わたくしから直々(じきじき)に申上げます」
「いや、そのような失礼があってはならぬ」と、式部はさえぎった。「おたずねのこと、お答えのこと、すべて拙者がうけたまわる。して、こなたの母御(ははご)は当年何歳で、なんの年のご出生でござるかな」
「母は六十で、戌年(いぬどし)の生れでございます」と、半七は答えた。
「ふだんから何かのご持病でもござるか」
「別にこれと云うこともございませぬが、二、三年前から折りおりに癪(しゃく)に悩むことがございます」
「左様でごおざるか。では、これからご祈禱にかかられます」
式部は促(うなが)すように行者の顔色をうかがうと、彼女は形をあらためて神前に向き直ろうとした。その時、半七は再び声をかけた。
「恐れながら申上げます。このご祈禱におかかり下さる前に、わたくしのご奉納物を一度おあらためを願いたいと存知ますが……」
「なんと云わるる」と、式部は少し眉をよせた。「こなたが奉納の品を一応あらためてみろと云われるか」
「どうぞお願い申します」
行者はなんにも云わなかった。式部はすぐに起(た)ちあがって、神前にいったん供えたかの白木の箱を取りおろしてしずかにその蓋(ふた)をあけると、彼の顔色がにわかに変った。半七は黙ってその顔色をうかがっていると、式部は案外におちついた声で云った。
「町人、これはなんでござる」
「ごらんの通りでございます」
「どういうわけで、かようなものを持ってまいられた」と、式部は箱のなかの品を睨みながら云った。
行者も横目にその箱をのぞいて、これもにわかに顔の色を変えた。傍にひかえている藤江も伸びあがってひと目みて、身を顫(ふる)わせるように驚いたらしかった。半七が神前に奉納した箱のなかには、泥だらけの古草履が入れてあった。
「こなたの母には何か憑物(つきもの)がしていると云うが、こなたにも憑物がしているらしい」と、式部の声はだんだん尖(とが)って来た。「当座のいたずらが、但(ただ)し仔細あってのことか。いずれにしても怪しからぬ儀、ご神罰を蒙(こうむ)らぬうちに早くお起(た)ちなさい」
「お叱りは重々恐れ入りました」と、半七は嘲笑(あざわら)った。「しかし、そこにおいでになる行者様は何もかも見透しの尊いお方だとうけたまわって居ります。それほどのお偉いお方がその箱のなかにどんな物がはいっているか、初めからお判りになりませんでしたろうか」
式部もすこし返事に詰まっていると、半七は畳かけて云った。
「その通り、どんなものでも蓋がしてあれば判らない。そのお手際(てぎわ)じゃあ、ここにいる人間もどんなものだか判りますまいね」
「いや、それで判った」と、式部は俄かに声をやわらげた。「それについて、こなたに少しお話し申したいことがある。お手間は取らせぬ。奥へちょっとお出でくださらぬか」
「折角だが御免(ごめん)蒙りましょう。こっちが奥へ行くよりも、そっちがお表へ出て貰いましょう」
「そこがお話だ。ともかくも奥へ……。どうもここではお話が出来にくい」と、式部はしきりに誘うように云った。
「ええ、うるせえ。出ろと云ったら素直(すなお)に早く出て貰おう」と、半七は小膝を立てながら云った。「おめえばかりじゃあねえ。そこにいる行者様もそのお巫子(みこ)も、みんな一緒に出てくれ」
「どうしても出ろと云われるか」と、式部は少し身がまえしながら云った。
「くどいな。早く出ろ。早く立て」と、半七もふところの十手を探(さぐ)った。
この場の穏かならない形勢が自然に洩れて、玄関に待ちあわせている人びともざわめいた。中には起(た)ちあがってそっとのぞく者もあった。それをかき分けて善八はつかつかと神前へ踏み込んで来た。
「親分、どうしますえ。お縄ですか」
「どうも素直に行きそうもねえ。面倒でも畳のっほこりを立てろ」と、半七は云った。
その声の終らないうちに、式部は腰にさしている一刀をそこへ投げ出して起ったかと思うと、奥の襖を蹴放すようにして逃げ込んだので、半七はすぐに追って行った。こういう徒(やから)の習い、得物(えもの)をわざと投げ出したのは、こっちに油断させる為であろうと、半七は用心しながら追ってゆくと、式部は奥の八畳の間へ逃げ込んで、そこに据えてある唐櫃(からびつ)の蓋をあけようとするところを、半七はうしろからその腕を取った。取られた腕を振り払って、式部はふところに忍ばせてある匕首(あいくち)をぬいた。用心深い半七は彼が必死の切っ先を空(くう)を突かせて、刃物を十手でたたき落した。
式部が唐櫃引っ縛(くく)られたときに、行者も善八の縄にかかっていた。小娘の藤江は勿論なんの抵抗もなしに引っ立てられた。裏口から廻った多吉は二人の女中に案内させて、戸棚から床下まで穿鑿(せんさく)したが、ほかには誰もひそんでいるらしい形跡もなかった。
その日の夕方に、久次郎の死骸が品川沖に漂(ただよ)っているのを漁師船が発見した。


女の行者は公家(くげ)の娘ではなかった。勿論、冷泉家の息女などではなかった。しかし彼女の母は公家に奉公したもので、おなじ公家侍のなにがしと夫婦になって、お万(まん)とお千(せん)という娘ふたりを生んだのだが、六年ほど前に夫婦は流行病(はやりやまい)でほとんど同時に死んだ。たよりのない娘たちは父の朋輩(ほうばい)の式部に引取られたが、その式部もなにかの不埒があって屋敷を放逐されることになったので、彼は二人の美しい娘を連れて、今後の生計(たつき)を求めるために関東へ下って来た。その途中でふと思い付いたのが祈禱所の仕事であった。
式部は加茂(かも)の社(やしろ)に知己(しるべ)の者があったので、祈禱や祓いのことなどを少しは見聞きしていた。もとの主人が易学(えきがく)を心得ていたので、その道のことも少しは聞きかじっていた。それらを世渡りの手段として、彼は江戸のまん中に祈禱所の看板をかけたのであるが、自分では諸人の信仰を得がたいと思ったので、姉娘の美しいお万を行者に仕立てて、自分がうしろから巧みにそれを操(あやつ)ってゆくことにした。まだその上にも世間の信仰を増すことをかんがえて、彼は堂上方(どうじょうがた)の消息に通じているのを幸いに、都合よく云いこしらえてお万を冷泉家の息女であると吹聴(ふいちょう)した。式部自身はその家来と名乗っていた。妹は腰元の藤江に化けていた。この大胆な計画が予想以上に成功して、迷信の強い江戸の人びとを見事に瞞着(まんちゃく)しているうちに、ここに一つの障碍(しょうがい)が起った。それは炭団伊勢屋の息子が母の祈禱をたのみに来たことであった。
母の祈禱だけで済めば、何事もなかったのであるが、伊勢屋が裕福であることを知っている式部は、更にお万に入れ知恵をして息子の久次郎を釣り寄せることを巧(たく)らんだ。久次郎は果して釣り寄せられて来たが、それが単に信仰ばかりではないらしく見えた。式部はそれを薄うす承知のうえで、いろいろの口実を設けて少なからぬ奉納金を幾たびも巻きあげた。
それで済めばよかったのである。式部に取ってはむしろ思う壺にはまったのであったが、だんだんに時日を経るあいだに、お万の魂もいつか権十郎息子の方へ引き寄せられてゆくらしく見られて来たので、それに気がついた式部は今更にあわてた。それにはまた二様の意味があった。第一には商売の妨げになることで、尊い行者がその信者と恋に落ちたなどと云うことが世間に洩れた暁(あかつき)には、たちまちにその信用を落すのは判り切っていた。もう一つは、遠い昔に妻をうしなって久しく独身(ひとりみ)の生活をつづけていた彼は、江戸へ来る途中からすでにお万を自分の物にしていたのであった。冷泉家の息女と云い触らしてある美しい行者を、彼は自分の色と慾との道具に使っていたのであった。そういう秘密がひそんでいるので、この場合にはむしろ第二の理由の方が強い力を以て彼をおびやかした。手の内の玉を奪われようとする式部は、久次郎に対しておさえ切れない嫉妬(しっと)と憎悪(ぞうお)を感じた。彼は鋭い眼をかがやかして、厳重にふたりの行動を監視していた。
式部の監視がきびしいので、夜なかの秘密の祈禱の場合にも、若い行者と若い男とは膝を突きよせて親しく語るような好機会をあたえられなかった。それでも二人の心と心とがいよいよ熟して、いよいよ触れ合って来るのを式部は決して見逃(みのが)さなかった。彼は一方にお万を戒(いまし)めると共に、久次郎を追い遠ざける手段を講じた。一日でも長く釣り寄せて置く方が収入(みいり)の上には都合がいいのであるが、式部はもうそんなふところ勘定をしていられなくなった。彼はどんな利益を犠牲にしても、悪魔のような久次郎を追い攘(はら)ってしまわなければならないと決心した。
しかも彼はぬけ目のない一策を案じ出して、ひそかに伊勢屋へ押掛けて行って、久次郎の母に厳重の掛合いを申込んだのであった。久次郎は行者に懸想(けそう)して彼女を瀆(けが)そうとしたと云うのである。あくまでも彼を信仰している母のお豊はただひたすらに驚き怖れて、みごとに計画に乗せられたので、式部は思うがままに二百両の金をつかんで帰った。
久次郎が母に責められて、その無実を明らかに証明し得なかったのも、やはりその内心に疚(やま)しいところがあったからであった。式部に脅(おびや)かされ、母に責められても、美しい行者にまつわり付いている彼の魂は、ほかに落着くところを見いだし得なかった。彼は今日の掛合いの事情を問いただすために、日が暮れてからそっと祈禱所へたずねてゆくと、式部はさえぎって内へ入れなかった。行者との面会は勿論ゆるされなかった。心の汚(けが)れているお前のような者に祈禱は無用であると、式部は行者の口上を取次ぐようにして断わった。久次郎は行者の前で一度懺悔(ざんげ)したいと云ったが、それも許されなかった。式部は何事も行者様のお指図であると云って、彼を表へ突き出してしまった。突き出された久次郎はそれから家へも帰らないで、どこをどうさまよい歩いていたのか判らない。彼は水死の浅ましい亡骸(なきがら)を品川の海に浮かべたのであった。
式部の白状はこの通りで、お万とお千の申立てもそれに符合していた。八丁堀同心や半七らがうたがっていたような勤王や討幕などの陰謀はまるで跡方もないことで、一種の杞憂(きゆう)に過ぎなかった。彼はやはり初めに云ったような、偽公家(にせくげ)の山師(やまし)であった。その山師におびやかされて、すぐに疑惑と不安の眼を向けるのを見ても、幕末当局者の動揺が思いやられた。
こんなことは長くつづく筈はないので、一万両の金を儲け出したらば、京都へ帰って田地でも買って、安楽に一生を暮らすつもりであったと式部は申立てた。彼はもう三千両ほどをたくわえて、奥の唐櫃にしまい込んであったのを一切(いっさい)没収された。単にこれだけのことであれば、かれらは追放ぐらいで済んだかも知れなかったのであるが、伊勢屋の伜久次郎の死がこれに関聯しているので、その罪は軽くなかった。式部は死罪に行なわれた。お万とお千は追放を申渡された。美しい姉妹(きょうだい)のその後の運命はわからない。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。