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十八史略新解/戦国

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戰國時、子思居於衞、言苟變可將、衞侯曰、變嘗爲吏、賦於民、食人二雞子、故弗用、子思曰、聖人用人、猶匠之用木、取其所長、棄其所短、故杞梓連抱、而有數尺之朽、良工不棄、今君處戰國之世、而以二卵棄干城之將、此不可使聞於鄰國也、衞侯言、計非是、而羣臣和者如出一口、子思曰、君之國事、將日非矣、君出言自以爲是、而卿大夫莫敢矯其非、卿大夫出言、自以爲是、而士庶人莫敢矯其非、詩曰、具曰予聖、誰知烏之雌雄、【衞侯】愼公、【賦】斂也、【杞梓】音起子、二木名、皆良材也、杞樹如柳、葉麤而白色、理微赤、梓楸之疎理白色而生子者、【連抱】一拱曰抱、【處】音杵、【卵】音鑾上聲、【干城】皆所以扞外而衞內、故以爲比、干如字、【和】去聲、【將日】之將音漿、【矯】揉曲爲矯、【詩曰】小雅正月篇、【雌雄】解見朱子集傳、周之諸侯、惟衞最後亡、至秦幷天下爲帝、二世始廢君角爲庶人、世紀、衞自康叔至君角、凡四十三世、 戦国の時、子思、衛に居(を)る。苟變(こうへん)を将とす可しと言う。衛侯曰く、變は嘗て吏たりしとき、民に賦して、人の二雞子を食(くら)えり。故に用いず、と。子思曰く、聖人の人を用うるは、猶お匠の木を用うるが如し。其の長ずる所を取って、其の短なる所を棄つ。故に杞梓(きし)連抱(れんぽう)にして、数尺(せき)の朽有るも、良工は棄てず。今君、戦国の世に處(お)り、而して二卵を以て干城の将を棄つ。此れ隣国に聞かしむ可からざるなり、と。

子思は衛に居るとき苟変を将に薦めた。衛侯の言うには、苟変は役人をしていた時、民に鶏卵を二個づつ徴収して食った、だから用いないと。子思は、聖人が人物を登用するのは、棟梁が材木を使うようなもので、その良い所を取って、悪いところを棄てます。 ですから杞(やなぎ)や梓の幾抱えもある材になると、たとえ朽ちた所があっても良い棟梁はうまく使います。いま卵二個で国の守りの大将を用いないとは、隣国にも知られてはならない事です、と。

連抱 幾人も手を連ねて抱きかかえること  干城 たてと城、国を守る武人

〔鄭〕姫姓、周宣王庶弟、桓公友之所封也、桓公子武公、與其子莊公、竝爲周司徒、數世至聲公、相子產、子產者公族、國氏、名僑、孔子過鄭、與子產如兄弟云、【鄭】伯爵、都西周畿內、後徙滎陽、【聲】案左傳、當作簡、【相】去聲、【公族】鄭君之族、【國氏】子產父、字子國、故以國爲氏、【僑】音喬、【過】音戈、【云】語辭、穆襄以來、鄭無歲不被晉楚之兵、子產受之以禮自固、雖晉楚之暴、不能加焉、鄭至周威烈王時、君乙爲韓哀侯所滅、韓徙都之、【穆襄】鄭穆公、襄公、【雖晉楚】之楚、舊作秦、非、【爲】去聲、○世紀、鄭自桓公至君乙、凡二十三世、


聲公ハ、簡公ニ作ルベシ。

(訳なし)


〔晉〕姫姓、成王弟唐叔虞之所封也、【晉】侯爵、初都平陽、後徙曲沃、又徙絳、國本號唐、後子燮者、乃更號曰晉、成王幼、與叔虞戲、削桐葉爲圭、曰以此封若、史佚請擇日、王曰、吾與之戲耳、佚曰、天子無戲言、遂封唐、【圭】瑞玉曰圭、【若】汝也、【史佚】佚音逸、史太史佚其名也、【無】毋同、後世至文公、霸諸侯、文公名重耳、獻公之次子也、獻公嬖於驪姫、殺太子申生、而伐重耳於蒲、重耳出奔、十九年而後反國、嘗餒於曹、介子推割股以食之、及歸賞從亡者、狐偃、趙衰、顚頡、魏犨、而不及子推、

 晉は姫姓、成王の弟、唐叔虞の封ぜられし所なり。成王幼きとき、叔虞と戯れ、桐葉を削って圭と為して曰く、此れを以て若(なんじ)を封ぜん、と。史佚(しいつ)、日を択ばんと請う。王曰く、吾、之と戯れしのみ、と。佚曰く、天子に戯言(ぎげん)無し、と。遂に唐に封ず。後世、文公に至って諸侯に覇たり。文公名は重耳(ちょうじ)、獻公(けんこう)の次子なり。獻公、驪姫(りき)を嬖(へい)して、太子申生を殺し、而して重耳を蒲に伐つ。重耳出奔し、十九年にして後、国に反(かえ)る。嘗て曹に餒(う)う。介子推、股(もも)を割(さ)いて以て之に食わしむ。帰るに及んで、從亡の者狐偃(こえん)・趙衰(ちょうし)・顚頡(てんけつ)・魏犨(ぎしゅう)を賞し、而も子推に及ばず。

成王が幼少の頃、弟の叔虞と遊んでいたとき桐の葉を圭の形に切って叔虞に諸侯とするとした。史の佚が日を択んで任命しましょうと申し出ると、冗談だからというと佚が天子に冗談はありませんと、唐に封じた。後に文公(重耳)が諸侯の旗頭になった。重耳は獻公の二子で、獻公は驪姫を寵愛して後継ぎの申生を殺し、重耳を蒲という所で殺そうとした。重耳はようやく逃れ、わずかな臣と共に各国を流浪の末、十九年後に故国に戻る。嘗て曹の国にいて飢えた時、介子推が股の肉を割いて重耳に食わせたことがあった。放浪を共にした狐偃等は恩賞に与ったが、介子推には何も無かった。

圭 天子が諸侯を封ずるとき授けた玉  史 記録を掌る官 なお宮城谷昌光に「重耳」「介子推」共に、著作がある。


子推之從者、懸書宮門曰、有龍矯矯、頃失其所、五蛇從之、周流天下、龍饑乏食、一蛇刲股、龍返於淵、安其壤土、四蛇入穴、皆有處處、一蛇無穴、號于中野、公曰、噫、寡人之過也、使人求之、不得、隱綿上山中、焚其山、子推死焉、後人爲之寒食、文公環綿上田封之、號曰介山、【重】平聲、【驪姫】驪戎女、姫姓、【蒲】重耳所守邑、【餒】音內上聲、饑也、【介子推】左傳作之椎、注云、介姓、椎名、之語助也、推音吹、【食之】之食音嗣、【從】去聲、【衰】初危切、【頡】音賢入聲、【犨】音丑平聲、【有龍】喩重耳、【頃】項同、【五蛇】喩狐趙顚魏介五臣、【下】叶音戶、【一蛇】專喩子推、【刲】音奎、割也、【號】音豪、【野】叶上與切、【噫】音醫、恨聲、【綿上】地在汾州、【焚其山】欲使之出、【爲】去聲、【寒食】荊楚歲時記、淸明前三日禁火、謂之寒食、詳見胡曾詠史詩注、 文公卒、其後遂世爲霸、歷襄公、靈公、成公、景公、厲公、至悼公、霸業復盛、又歷平公、昭公、頃公、公室益弱、而六卿范氏、知氏、中行氏、趙氏、魏氏、韓氏皆大、歷定公至出公、知氏與趙魏韓氏、分范中行氏、公怒、四卿反攻公、公出奔而死、哀公立、韓趙魏氏、又滅知氏而分之、幽公立、晉獨有絳曲沃、餘皆入韓趙魏氏、號爲三晉、烈公立、三卿以周威烈王命爲侯、又歷孝公至靜公、魏武侯、韓哀侯、趙敬侯、共廢靜公爲家人、而分其地、晉絕不祀、【頃】音傾、【知】智同、【絳曲沃】絳州、屬山西、曲沃其縣也、【靜】通鑒作靖、【家人】猶庶人、○世紀、晉自叔虞至靜公、凡三十九世、 子推の従者、書を宮門に懸けて曰く、龍有り矯矯(きょうきょう)たり。頃(しばら)く其の所を失う。五蛇之に従って、天下を周流す。龍饑えて食に乏し。一蛇股を刲(さ)く。龍淵に返り、其の壤土に安んず。四蛇穴に入る。皆處處有り。一蛇穴無し。中野(ちゅうや)に號(な)く、と。公曰く、噫、寡人の過なり、と。人をして之を求めしむ。得ず。綿上の山中に隠る。其の山を焚(や)く。子推死す。後人之が為に寒食す。文公、綿上の田(でん)を環(めぐら)して之を封じ、號(ごう)して介山と曰う。文公卒す。其の後遂に世よ覇たり。以下略

矯矯 高く挙がるさま  刲 割に同じ  中野 野中に同じ  寡人 自分をいう謙遜語 徳のすくない(寡)ひとの意  寒食 介子推の死を悼んだ人々が火を使う食事を三日間(冬至後105日の前後)止めたことから始まったという。

文公の死後九世頃公の時、六卿范氏・知氏・中行氏・趙氏・魏氏・韓氏皆大なり。定公を歴(へ)て出公に至る。知氏、趙・魏・韓氏と、范・中行氏を分(わか)つ。公(出公)怒る。四卿反って公を攻む。公出奔して死す。哀公立つ。韓・趙・魏氏、又知氏を滅ぼして之を分つ。幽公立つ。晉独り絳・曲沃(きょくよく)を有(たも)つ。余は皆韓・趙・魏氏に入り、号して三晉と為す。烈公立つ。三卿、周の威烈王の命を以て侯と為る。又孝公を歴て静公に至る。魏の武侯・韓の哀侯・趙の敬侯、共に静公を廃して家人と為し、而して其の地を分つ。晉絶えて祀らず。

六卿が勢力を伸ばして、出公の時、知・趙・魏・韓が范と中行氏を滅ぼし、領土を分けた。出公が怒った、すると四卿がかえって出公を攻めた。公は逃げて死ぬ。哀公が立ち今度は韓・趙・魏の三卿が知氏を滅ぼした。烈公のとき、周の威烈王の命によって、三卿は侯となる。静公になって、ついに公を廃して絳と曲沃を分けてしまった。晋は絶えて祀る者が居なくなった。


〔陳〕嬀姓、虞舜之後、胡公滿之所封也、周武王求而封之、後世至春秋、有公子完者、出奔而仕于齊、陳後爲楚惠王所滅、而完之後遂大于齊、爲田氏、【陳】侯爵、都宛丘、【嬀】音龜、【爲楚】之爲去聲、○世紀、陳自胡公至閔公、凡二十五世、 (訳なし)

〔齊〕姜姓、太公望呂尙之所封也、後世至桓公霸諸侯、五霸桓公爲始、名小白、兄襄公無道、羣弟恐禍及、子糾奔魯、管仲傅之、小白奔莒、鮑叔傅之、襄公爲弟無知所弑、無知亦爲人所殺、齊人召小白於莒、而魯亦發兵送糾、管仲嘗遮莒道射小白、中帶鉤、小白先至齊而立、鮑叔牙薦管仲爲政、公置怨而用之、【齊】侯爵、都營丘、【糾】音九、桓公弟、【傅】相也、【爲弟】之爲去聲、【爲人】之爲去聲、齊大夫雍廩、【遮】欄也、【射】音石、【中】去聲、【帶鉤】絛環也、【置】說文云、置赦也、  齊は姜姓、太公望呂尚の封ぜられし所なり。後世桓公に至って諸侯に覇たり。五覇は桓公を始めと為す。名は小白。兄襄公、無道なり。羣弟、禍の及ばんことを恐る。子糾は魯に奔る。管仲之に傅(ふ)たり。小白は莒(きょ)に奔る。鮑叔之に傅たり。襄公、弟無知の弑(しい)する所となり、無知も亦人の殺す所と為る。齊人、小白を莒より召く。而して魯も亦兵を發して糾を送る。管仲嘗て莒の道を遮り、小白を射て帯鈎に中つ。小白先づ齊に至って立つ。鮑叔牙、管仲を薦(すす)めて政を為さしむ。公、怨みを置いて之を用う。

五覇 齊の桓公、晉の文公、楚の荘王、呉王夫差、越王勾践(呉王と越王に代えて宋の襄公、秦の穆公を入れる場合もある) 傅 守役  莒 地名  帯鈎 帯がね、バックル  中つ 的中の中、当てる

仲字夷吾、嘗與鮑叔賈、分利多自與、鮑叔不以爲貪、知仲貧也、嘗謀事窮困、鮑叔不以爲愚、知時有利不利也、嘗三戰三走、鮑叔不以爲怯、知仲有老母也、仲曰生我者父母、知我者鮑子也、桓公九合諸侯、一匡天下、皆仲之謀、一則仲父、二則仲父、【賈】音古、坐商也、【怯】音欠入聲、【九】左傳作糾、督也、【匡】正也、【仲父】尊稱之也、父音甫、 仲、字は夷吾、嘗て鮑叔と賈(こ)す。利を分って多く自ら与う。鮑叔以て貪(たん)と為さず。仲の貧しきを知ればなり。嘗て事を謀(はか)って窮困す。鮑叔以て愚と為さず。時に利と不利と有るを知ればなり。嘗て三たび戦って三たび走る。鮑叔以て怯と為さず。仲に老母有るを知ればなり。仲曰く、我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり、と。桓公、諸侯を九合し、天下を一匡(きょう)せるは、皆仲の謀(はかりごと)なり。一にも則ち仲父(ちゅうほ)二にも則ち仲父と言えり。

賈 商売  九合 糾合、鳩合におなじ  一匡 天下の乱れを正し直すこと 仲病、桓公問、羣臣誰可相、易牙何如、仲曰、殺子以食君、非人情、不可近、開方何如、曰、倍親以適君、非人情、不可近、蓋開方故衞公子來奔者也、竪刁何如、曰、自宮以適君、非人情、不可近、仲死、公不用仲言、卒近之、【相】去聲、下同、【食】史作適、管仲曰、願君遠易牙、公曰易牙烹其子以快寡人、尙何疑耶、【非人情】謂不合常情也、【倍】背同、【竪刁】音樹凋、刁臣名、竪其姓也、【自宮】自受宮刑、而爲宦官、宮割勢也、三子專權、公內寵、如夫人者六、皆有子、公薨、五公子爭立相攻、公尸在床、無殯斂者六十七日、尸蟲出于戶、【有子】謂長衞姫生武孟、少衞姫生惠公、鄭姫生孝公、葛嬴生昭公、密姫生懿公、宋華子、生子雍、【薨】諸侯死曰薨、【相攻】公與管仲、初欲立孝公、及卒而改、孟等皆爭、【殯斂】古者死三日而斂、斂而後殯、殯而後葬、見朱子家禮、  仲、病(へい)す。桓公問う、群臣誰か相とす可き。易牙は何如(いかん)、と。仲曰く、子を殺して以て君に食わしむ。人情に非ず。近づく可からず、と。開方は何如、と。曰く、親に倍(そむ)いて以て君に適う。人情に非ず。近づく可からず、と。竪刁(じゅちょう)は何如、と。曰く、自から宮して以て君に適う。人情に非ず。近づく可からず、と。仲、死す。公、仲の言を用いずして、卒(つい)に之を近づく。三子、権を専(もっぱら)にす。公、内寵、夫人の如き者六、皆子有り。公薨(こう)ず。五公子立たんことを争うて相攻む。公の尸、牀に在って、殯斂(ひんれん)する無き者(こと)六十七日、尸蟲、戸より出ず。

倍はい 背に同じ  宮 去勢する、宦官になること。 薨 貴人の死 尸 屍に同じ  殯斂 もがり、納棺  尸蟲 うじ

自桓公八世、至景公、有晏子者事之、名嬰、字平仲、以節儉力行重於齊、一狐裘三十年、豚肩不掩豆、齊國之士、待以擧火者七十餘家、晏子出、其御之妻、從門閒窺、其夫擁大蓋策駟馬、意氣揚揚自得、旣而歸、妻請去曰、晏子身相齊國、名顯諸侯、觀其志、嘗有以自下、子爲人僕御、自以爲足、妾是以求去也、御者乃自抑損、晏子怪而問之、以實對、薦爲大夫、公使晏子之晉、與叔向私語、以爲齊政必歸陳氏、如其言、【八世】桓公以下歷無𧇊、孝公、昭公、子舍、懿公、惠公、項公、靈公、莊公、僖公、本十世、今云八者、蓋略無𧇊子舍而言也、【一狐裘】狐貉、裘皮衣也、狐裘大夫之服也、三十年言服之久也、【豚肩】豚豕也、禮記集說云、大夫祭用少牢、不合用豚、周人貴肩、肩在俎不在豆、此但喩其極小、謂倂豚兩肩、亦不足以掩豆、故假豆言之耳、禮貴不豐不殺、晏子失之殺者也、【擧火】賴其供給而得炊爨、【御】僕也、【閒】如字、隙也、【大蓋】傘也、【爲人】之爲去聲、【對】實以妻言答之、【薦】薦御者爲大夫、【叔向】晉大夫羊舌肹、景公後五世至康公、田和受周安王命爲侯、遷康公海濱以死、姜氏遂絕不祀、【五世】景公而下、歷子荼、悼公、平公、至康公爲五世、○世紀、齊自太公至康公、凡三十世、 桓公より八世にして景公に至る。晏子という者有り、之に事(つか)う。名は嬰、字は平仲。節倹力行を以て齊に重んぜらる。一狐裘三十年、豚肩豆(とう)を掩(おお)わず。齊国の士、待って以て火を挙ぐる者、七十余家あり。中略 公、晏子をして晉に之(ゆ)かしむ。叔向(しゅくきょう)と私語し、以為(おも)えらく、齊の政(まつりごと)は必ず陳氏に帰せん、と。其の言の如し。景公の後五世にして康公に至る。田和、周の安王の命を受けて侯と為り、康公を海浜に遷(うつ)して以て死せしむ。姜氏遂に絶えて祀(まつ)らず。

桓公から八世景公に仕えた晏嬰は倹約家、努力家として齊に重く用いられていた。狐の皮ごろもを三十年着て、豚の供え物は豆という祭器に盛っても隠れるほどに質素であった。しかし齊国の人の中に晏子の援助を待って炊事の出来る者が七十余家もあった。 中略 景公は嘗て晏子を晉に使いにやった。その時晉の叔向と私語してわが国齊の政治は将来陳氏に帰すでしょうと言った。果たして景公の五代後康公の時、田和(でんか)という者が、周の安王の命を受けて諸侯となり、康公を海辺に追いやってそこで死なせた。齊の姜氏は断絶して先祖の霊をまつる者が居なくなった。



〔田氏齊〕者、本嬀姓、故陳厲公佗子完之後也、完奔齊、爲陳氏、後又以陳爲田氏、完事齊桓公、爲工正、卒、諡敬仲、五世至釐子乞、事齊景公爲大夫、其收賦稅於民、以小斗受之、其粟予民以大斗、行私惠於民、而公弗禁、由是得齊衆、乞專政、卒、子成子恒、弑簡公立平公、封邑大於公所食、【佗】音它、【工正】官主百工、利器用、【諡】音示、死後易名曰諡、【五世】譜系未詳、【釐】僖同、【乞】音氣、【予】與同、【恒】胡登切、恒卒、襄子盤立、與韓趙魏通使、蓋三家且有晉、而田氏且有齊也、歷莊子白、至太公和、遂以周安王命爲侯、


田氏齊は、本嬀姓にして,故の陳の公の子完の後なり。完、齊に奔(はし)って、陳氏となり、後又田氏と為す。完、齊の桓公に事(つか)えて工正と為る。卒す。敬仲と諡(おくりな)す。五世にして釐子乞(きしきつ)に至り齊の景公に事えて大夫と為る。其の賦税を民より収むるには、小斗を以て之を受け、其の粟(ぞく)を民に予(あた)うるには、大斗を以てし、私恵を民に行う。而も公、禁ぜず。是に由(よ)って齊の衆を得たり。乞、政を專(もっぱら)にす。子の成子恆(せいしこう)、簡公を弑して平公を立つ。封邑、公の食(は)む所よりも大なり。恆卒す。襄子盤立つ。韓・趙・魏と使を通ず。蓋(けだ)し三家は且(まさ)に晉を有せんとし、田氏は且に齊を有せんとすればなり。荘子白を歴て、太公和(か)に至り、遂に周の安王の命を以て侯となる。

田氏の斉は、もと嬀姓で陳の公の子完が斉に逃げて、陳氏を名乗り、のちに田氏と名を替えた。完は斉の桓公に事えて土木長官となる。五代後釐子乞に至って、景公に仕えて家老となった。乞は年貢を取り立てるときは小さいますで量り、種もみを貸し与えるときは大きいますを使って私的な恵を売った。景公も止めなかったので、民の人望を得て、国政を専にした。子の恆は簡公を弑逆して平公を立てた。領地は平公よりも広大になった。恆が死んで盤がたつと、晋の家老の韓・趙・魏と密かに通じた。おそらく三家は晋を、盤は斉を乗っ取ろうとする下心があったからだ。荘子白を歴て、太公和にいたって遂に周の安王の命によって、諸侯になった。



卒、子桓公午立、卒、子威王因齊立、初不治、諸侯皆來伐、八年楚大發兵加齊、齊使淳于髡請救于趙、齎金百斤車馬十駟、髡仰天大笑、王曰、先生少之乎、髡曰、臣見道傍有禳田者、操一豚蹄、酒一壺、祝曰、甌窶滿篝、汙邪滿車、五穀蕃熟、穰穰滿家、臣見其所持者狹、所欲者奢、故笑之、王乃益黃金千鎰、白璧十雙、車馬百駟、髡乃行、時齊國幾不振、王乃召卽墨大夫、語之曰自子之居卽墨也、毀言日至、然吾使人視卽墨、田野辟人民給、官無事東方寧、是子不事吾左右、以求助也、封之萬家、召阿大夫、語之曰、自子之守阿、譽言日至、吾使人視阿、田野不辟、人民貧餒、趙攻鄄、子不救、衞取薛陵、子不知、是子厚幣事吾左右、以求譽也、是日烹阿大夫與嘗譽者、羣臣聳懼、莫敢飾詐、齊大治、諸侯不敢復致兵、【使】去聲、下同、【因齊】威王名曰因齊、【淳于髡】淳于姓、髡名、【齎】音濟平聲、【駟】乘馬爲駟、【操】平聲、【祝曰甌窶云云】甌窶高田、窶音婁、汙邪低田、音烏耶、滿篝滿車、謂高下皆熟、滿載而歸也、篝音鉤、竹籠、車尺遮切、【五穀】稻、黍、稷、麥、菽、【穰穰】豐貌、穰音禳、【狹】少也、【奢】多也、【鎰】音逸、二十四兩曰鎰、【白璧】瑞玉名、白虎通云、外圓象天、內方象地、是也、【幾】音機、【卽墨】邑屬膠州、【語】去聲、下同、【辟】闢同、【阿】邑屬東平、【譽】音余、【鄄】音絹、縣屬濮州、【薛陵】或曰、卽薛郡、未詳、【烹】煮也、威王與魏惠王、會田于郊、惠王曰、齊有寶乎、王曰、無有、惠王曰、寡人國雖小、猶有徑寸之珠、照車前後各十二乘者十枚、威王曰、寡人之寶與王異、吾臣有檀子者、使守南城、楚不敢爲寇泗上、【田】畋同、【郊】城外曰郊、【徑寸】徑廣也、寸謂珠大滿寸也、【乘】去聲、【泗上】泗水名、出魯國示縣陪尾山、西南過彭城、又東南過下邳入淮、泗上者、泗水之上也、十二諸侯皆來朝、國號未詳、【朝】音潮、有肹子者、使守高唐、趙人不敢東漁於河、【肹子】肹與盼同、讀如眄、卽田盼也、【高唐】地在東昌、有黔夫者、使守徐州、則燕人祭北門、趙人祭西門、【黔】音琴、【徐州】徐、通鑒注、音舒、齊邑也、【祭】燕在齊北、故祭齊北門、趙在齊西、故祭齊西門、賈逵曰、燕趙之人、畏齊侵伐、故祭以求福、有種首者、使備盜賊、道不拾遺、此四臣者、將照千里、豈特十二乘哉、惠王有慚色、【種】去聲、【將】音漿、威王卒、子宣王立、喜文學游說之士、騶衍、淳于髡、田駢、愼到之徒、七十六人皆爲上大夫、是以齊稷下學士盛、且數百千人、然而孟子至、而不能用、【騶】音鄒、【上大夫】卿也、【稷下】稷齊城門名、或曰山名、


(訳なし)

魏伐韓、韓請救於齊、齊使田忌爲將、以救韓、魏將龐涓、嘗與孫臏同學兵法、涓爲魏將軍、自以所能不及、以法斷其兩足而黥之、齊使至魏、竊載以歸、至是臏爲齊軍師、直走魏都、涓去韓而歸、臏使齊軍入魏地者、爲十萬竈、明日爲五萬竈、又明日爲二萬竈、涓大喜曰、我固知齊軍怯、入吾地三日、士卒亡者過半矣、乃倍日幷行逐之、臏度其行、暮當至馬陵、道陿而旁多阻、可伏兵、乃斫大樹、白而書曰、龐涓死此樹下、令齊師善射者、萬弩夾道而伏、期暮見火擧而發、涓果夜至斫木下、見白書、以火燭之、萬弩俱發、魏師大亂相失、涓自剄、曰遂成豎子之名、齊大破魏師、虜太子申、【龐】薄江切、【涓】音鵑、【臏】音貧上聲、【涓爲】之爲去聲、【斷兩足】刖也、斷音端上聲、【黥】音擎、高誘曰、謂刻其額、以墨實其中、曰黥、【齊使】之使去聲、【走】音奏、下同、【度】音堂入聲、【馬陵】在大名、【陿】音峽、【伏】藏也、【令】去聲、【萬弩】弓有臂曰弩、【燭】照也、【豎子】豎童豎、斥孫臏言也、

魏、韓を伐つ。韓、救いを齊に請う。齊、田忌をして将たらしめ、以て韓を救う。魏の将龐涓(ほうけん)、嘗て孫臏(そんびん)と同じく兵法を学ぶ。涓、魏の将軍と為り、自から所能の及ばざるを以て、法を以て其の両足をを断って之に黥す。齊の使、魏に至り、竊(ひそ)かに載せて以て帰る。是に至って臏、齊の軍師と為り、直ちに魏都に走(おもむ)く。涓、韓を去って帰る。臏、齊軍の魏の地に入る者をして、十萬竈(そう)を為(つく)り、明日(めいじつ)は五萬竈を為り、また明日は二萬竈を為らしむ。

魏が韓を伐った、韓は斉に救いを求めた。斉では田忌を将軍として救援に向かう。ところで魏の将軍龐涓は、かつて孫臏と共に兵法を学んだことがあった。魏の将軍になったが、孫臏が魏に行った時、自分が孫臏に及ばないことを知っていたので、嫌疑をかけて足を切り、額に刺青を入れた。たまたま斉の使が魏に行ったとき、密かに救い出して連れて帰った。魏を伐つことになり、孫臏は軍師に推されて魏の都に向った。龐涓は急遽韓より引き返す。孫臏は一計を案じ、初めの日は炊事のかまどを十万作り、翌日は五万、次は二万に減らしていった。  以下つづく

孫臏 一説に孫子、臏は足斬り  所能 能力  黥 いれずみ  竈 かまど 





涓、大いに喜んで曰く、我、固(もと)より齊軍の怯なるを知る。吾が地に入ること三日にして、士卒亡(に)ぐる者過半なり、と。乃ち日を倍し行を并(あわ)せて之を逐(お)う。臏、其の行を度(はか)るに、暮れに当(まさ)に馬陵に至るべし。道陿(せま)くして傍(かたわら)に阻(そ)多く、兵を伏す可し。乃ち大樹を斫(き)り、白くして書して曰く、龐涓此の樹下に死せん、と。齊の師の善く射る者をして、萬弩、道を夾んで伏せしめ、暮に火の挙るを見て発せよと期す。涓果して夜、斫木(しゃくぼく)の下に至り、白書を見、火を以て之を燭す。萬弩倶(とも)に発す。魏の師大いに乱れて相失す。涓、自剄す。曰く、遂に豎子(じゅし)の名を成せり、と。齊、大いに魏の師を破り、太子申を虜にす。

龐涓、おおいに喜んで、もとより斉兵の臆病なことは知っていたが、魏の地に入ってたった三日で半数以上が逃亡したわいと言って、急遽追撃に移った。孫臏は魏軍の行程を測り、暮れに馬陵に着くと計算して、大樹を削って「龐涓此の樹下に死せん」と書いた。斉の兵で弓の得意な者を伏せて、火が見えたら一斉に放てと打ち合わせていた。果たして夜になって龐涓が大樹の下に立って文字を読もうと灯をかざせば、矢は一斉に放たれ魏軍は大混乱に陥いり多くの死者を出した。龐涓、遂にあの青二才に名を成させてしまったと言い自ら首を刎ねて死んだ。魏の太子申は捕虜になった。

萬弩 万の石弓  自剄 自ら首をきる  豎子 軽蔑してあの小僧、孫臏のこと





鶏鳴狗盗 長い文なので多少省略して書きます。靖郭君田嬰に子あり文という。食客数千人、名声諸侯に聞こゆ。号して孟掌君と為す。秦の昭王、其の賢を聞き、乃ち先ず質(ち)を齊にいれて、以て見んことを求む。至れば則ち止め囚(とら)えて之を殺さんと欲す。孟掌君人をして昭王の幸姫に抵(いた)って解かんことを求めしむ。姫(き)曰く、願わくは君の狐白裘(こはくきゅう)を得ん、と。蓋し孟掌君嘗て以て昭王に献じ、他の裘無し。客(かく)に能く狗盗を為す者有り。秦の蔵中に入り、裘を取って以て姫に献ず。姫為に言って釈(ゆる)さるるを得たり。即ち馳せ去り、姓名を変じて夜半、函谷関に至る。関の法、鶏鳴いて方に客を出す。秦王の後に悔いて之を追わんことを恐る。客に能く鶏鳴を為す者有り。鶏盡(ことごと)く鳴く。遂に伝を発す。出でて食頃(しょくけい)にして、追う者果して至る。而して及ばず。孟掌君帰って、秦を怨み、韓・魏と之を伐ち、函谷関に入る。秦、城を割いて以て和す。孟掌君、齊に相たり。或るひと之を王に毀(そし)る。乃ち出奔す。

質 人質 狐白裘 狐の腋の下の毛を集めて作ったコート  伝を発す 通行許可か? 食頃 食事をするほどの僅かな時間




湣王(びんおう)、宋を滅ぼして驕る。燕の昭王、齊の嘗て燕を破りしの故を以て、諸侯と謀を合わせて齊を攻む。燕軍、臨淄(りんし)に入る。湣王、莒(きょ)に走る。楚の将、淖歯(とうし)齊を救い、反って湣王を殺して燕と共に齊の侵地を分つ。王孫賈(おうそんか)湣王に莒に従いて、王の処を失う。その母曰く、汝、朝に出て晩(くれ)に来れば、吾は則ち門に倚(よ)って望む。汝、暮れに出て還らざれば、吾は則ち閭(りょ)に倚って望む。汝、今王に事(つか)え、王走り、汝、処を知らず。汝尚お何ぞ帰る、と。賈乃(すなわ)ち淖歯を攻めて之を殺し、湣王の子法章を求めて之を立て、莒を保って以て燕に抗す。

斉の湣王は宋を滅ぼして驕るようになってきた。嘗て斉が燕を伐ったのを怨んで、燕の昭王が諸侯と謀って斉を攻めた。燕軍は臨淄に入ったので湣王は莒に逃げた。楚の淖歯が救援に赴いたが、却って湣王を殺して燕と齊の侵地を分け合った。王孫賈は湣王に従って莒に随いて来たが、はぐれてしまった為、家に戻った。賈の母が言うには「お前が朝でて晩に帰れば、家の門で待っている、暮れに出て帰らなければ、村の門口まで出てお前の帰りを待っている。なのにお前は王様に仕える身でありながら、はぐれたからと言っておめおめ帰って来たか」と叱った。王孫賈は味方を糾合して淖歯を攻めて之を殺し、湣王の子法章を探し出して王に立て、莒を守って燕に対抗した。





 時に齊の城、惟だ莒と即墨とのみ下らず。即墨の人、田單を推して将軍と為す。身づから版鍤を操(と)り、士卒と功を分ち、妻妾は行伍に編す。城中を収めて牛千余を得たり。絳(こうしょう)の衣を為(つく)り、五彩の龍文を画き、兵刃を其の角に束ね、脂(あぶら)を灌(そそ)いで葦を尾に束ね、其の端を焼き、城に数十穴を鑿(うが)ち、夜、牛を縦(はな)ち、壮士其の後に随う。牛尾熱し、怒(いか)って燕軍に奔(はし)る。触るる所盡く死傷す。而して城中鼓譟(こそう)して之に従う。声天地に振う。燕軍敗走す。七十余城、皆復齊と為る。襄王を莒に迎う。單を封じて安平君と為す。

版鍤 板と鋤  行伍 兵士の隊列 行は二十人 伍は五人 絳 赤い絹の着物  

その時、斉の城は莒と即墨だけになっていた。即墨の人は田単を推して将軍にした。田単は自ら板やすきを取って士卒と仕事を分担し、妻妾までも隊伍に組み入れた。城中の牛を集め千余頭に赤い着物を作り、五色の龍の絵を画いて着せ、角には刃物を結び、尾に油を染み込ませた葦を結わえて、夜に火をつけ、城から放った。兵士が後について打って出た。牛は尻尾が焼けて、怒り狂い触れればたちまち死傷し、兵士も太鼓ろ打ち、鬨の声を挙げて、牛の後から攻め立てた。その声は天地も揺るがすほどで燕軍はたちまち敗走し、七十余城は斉に戻った。田単は襄王を莒に迎え、単を安平君として、土地を与えた。




 單、狄を攻む。三月(さんげつ)克たず。魯仲連曰く、将軍、即墨に在りしとき、曰く、往く可き無し、宗廟亡びぬ、と。将軍、死するの心有って、士卒、生くるの気無し。泣(なみだ)を揮(ふる)い臂(ひじ)を奮って戦わんと欲せざる莫(な)し。今将軍、東に夜邑(えきゆう)の奉あり、西に淄上(しじょう)の娯(たの)しみ有り。黄金帯に横たえ、淄・澠(じょう)の間に騁(は)す。生くるの楽しみ有って、死するの心無し。故に勝たざるなり、と。單、明日(めいじつ)、気を(はげ)まし城を巡り、矢石の所に立ち、枹(ふ)を援(と)って之を鼓す。狄人乃ち下る。

夜邑 地名  淄上 淄水のほとり  澠 澠水  枹 ばち

田単が狄を攻めたが、三つき経っても勝てなかった。魯仲連が言うには、将軍が即墨の城を守った時には、「往く所も無い、先祖を祀る事も出来ない」と必死の覚悟があり、士卒も生還の気も持たなかった。だから、涙を振り払い肘を奮って、戦おうと思わぬ者は無かった。ところが今将軍には東に夜邑のみいりが有り、西に淄水の宴遊が有る。思うがまま黄金を使い、馬を走らせている。生きる楽しみのみ有って、死ぬる気持ちが無い、だから勝てぬのですと。あくる日から勇気を奮い立たせて城を巡り、矢玉の飛ぶ中に立って、みずからばちをとって太鼓を打ったので、狄は降伏した。





初め馮驩(ふうかん)、孟嘗君客(かく)を好むと聞いて来り見(まみ)ゆ。傅舎に置くこと十日(じつ)。劍を彈(だん)じ歌を作って曰く、長鋏(きょう)帰らんか、食に魚無し、と。之を幸舎に遷す。食に魚有り。又歌って曰く、長鋏帰らんか、出づるに輿(よ)無し、と。之を代舎に遷す。出づるに輿有り。又歌って曰く、長鋏帰らんか、以て家を為す無し、と。孟嘗君悦ばず。時に邑入(ゆうにゅう)、以て客に奉ずるに足らず。人をして銭を薛に出さしむ。貸(か)る者多く息を與うること能わず。孟嘗君乃ち驩を進めて之を責めんことを請う。驩往き、與うること能わざる者は、其の券を取って之を焼く。孟嘗君怒る。驩曰く、薛の民をして君に親しましめん、と。孟嘗君竟(つい)に薛公と為り、薛に終りぬ。

馮驩は、孟嘗君が客を好むと聞いていたので面会した。孟嘗君は馮驩を伝舎(下等の宿舎)に泊めた。十日して驩は長剣のつかを叩き、歌を作って言うには、「長剣よ帰ろうじゃないか。膳に魚もついてないから」と。そこで中等の幸舎に移した。今度は魚が付いた。又歌って言うには「長剣よ帰ろうじゃないか。外出に乗り物も無いのだから」と。孟嘗君は馮驩を最上の代舎に移した。今度は外出するのに乗り物がついた。ところが、又歌って言うには、「長剣よ帰ろうじゃないか、これじゃ一家を立てることもできないから」と。さすがの孟嘗君も良い顔をしなかった。 当時孟嘗君は食客達を養うのに充分でなかったので、人を使って薛の人に銭を貸し利息を取っていた。借りた人の多くが利息を払えなかった。そこで孟嘗君は馮驩を取り立てに遣った。驩は利息の払えない人に対して、証文を焼き捨てた。怒った孟嘗君に驩は、「薛の民を永く君に懐き親しませるためです」と言った。孟嘗君はとうとう薛公となり、薛で一生を終わった。




齊の終焉 襄王卒す。子建立つ。母、君王后(くんおうこう)賢なり。秦に事(つか)うるに謹しみ、諸侯と信あり。君王后卒す。齊の客多く秦の金を受けて反間を為し、王の秦に朝するを勧めて、攻戦の備えを修めず。五国を助けて秦を攻めず。秦王政、既に五国を滅ぼして、兵臨淄に入る。王建遂に降る。共(きょう)に遷(うつ)し、之を松柏の間に處(お)いて死せしめ、齊を以て郡と為す。以下略

襄王が亡くなり子の建が立った。母の君王后は賢く、秦に対しては謹しみ、諸侯には信義を以て対した。君王后が亡くなると、斉の重臣たちの多くは、秦から賄賂を受けて斉王建に秦への朝貢を勧め、秦との交戦の準備も怠って五国を見捨てた。秦王政、五国を滅ぼして、秦の兵臨淄に至り王建は降伏する。共に遷してそこで餓死させ、斉を郡に組み入れた。





趙 春秋の時趙夙(ちょうしゅく)という者あり、晉に事(つか)う。夙、成子衰(し)を生む。衰、宣子盾(とん)を生む。-中略― 盾、朔(さく)を生む、大夫屠岸賈(とがんか)朔の族を滅ぼす、朔に遺腹の子武有り。賈之を索(もと)むれども得ず。朔の客(かく)、程嬰(ていえい)・公孫杵臼(しょきゅう)、相与(とも)に謀って曰く、孤を立つると死すると孰(いず)れか難(かた)き、と。嬰曰く、死するは易く、孤を立つるは難きのみ、と。杵臼曰く、子(し)其の難きを為せ、と。杵臼、它(た)の子を取って山中に匿(かく)る。嬰出でて謬(いつわ)って曰く、我に千金を与えば、吾、趙氏の孤の處を告げん、と。賈喜ぶ。乃ち人をして嬰に随(つ)いて杵臼及び孤を殺さしむ。而して趙の真の孤は在り。嬰後に武と賈を滅ぼし、竟(つい)に武を立てて自殺し、以て下(しも)、宣孟及び杵臼に報ず。

趙の大夫屠岸賈が趙朔の一族を滅ぼした。朔には落し胤の武がいたが、探し出されずにいた。朔の客、程嬰と公孫杵臼は、死ぬことと、孤児を守り立てて趙の君にすること、どちらが困難だろうか。と話した。嬰が死は易く、立つるは難きと答えると、杵臼は、あなたがその難儀な方を、やりなさいと言って、他の子を身代わりに取って、山中に隠れた。程嬰が屠岸賈に向って、私に千金を下されば、趙の遺児の居場所を教えましょうと申し出た。賈は人を遣って杵臼と身代わりの子を殺させた。 後に嬰は武と共に賈を滅ぼした。主家を再興させたのち、嬰は自ら命を絶って地下の宣孟(趙盾のこと)と杵臼に報告した。




武、卒す。文子と号す。文子景叔を生む。景叔、簡子鞅(かんしおう)を生む。簡子、臣あり、周舎と曰う。死す。簡子、朝を聴く毎に、悦ばずして曰く、千羊の皮は一狐の腋(えき)に如かず。諸大夫の朝する、徒(ただ)唯唯(いい)を聞くのみ。周舎の諤諤(がくがく)を聞かざるなり、と。簡子の長子を伯魯と曰い、幼を無恤(ぶじゅつ)と曰う。訓戒の辞を二簡に書して、以て二子に授けて曰く、謹んで之を識(しる)せ、と。三年にして之を問う。伯魯は其の辞を挙ぐること能わず。其の簡を求むれば已に之を失えり。無恤は其の辞を誦すること甚だ習う。其の簡を求むれば諸(これ)を懐中より出だして之を奏す。是に於いて無恤を立てて後と為す。

趙武の孫に当たる簡子に周舎という臣がいた。周舎が死んで後、簡子が嘆いて言うには「千匹の羊の皮も狐の腋の毛皮一枚にも適わないものだ。ただ唯々諾々として、周舎のように諤諤と直言する者が一人も居ない」と。 ところで簡子の長男を伯魯、下の子を無恤といった。ある時、簡子は二人を前に訓戒を示して、よく覚えておくよう言いつけた。三年後、訓戒を尋ねてみると、伯魯は答えられず、竹簡も亡くしてしまっていた。無恤の方は、すらすらと暗誦して竹簡も懐から取り出して見せた。そこで無恤を跡取りに立てた。




 簡子、尹鐸(いんたく)をして晉陽を為(おさ)めしむ。請うて曰く、以て繭糸(けんし)を為さんか、以て保障を為さんか、と。簡子曰く、保障なるかな、と。尹鐸、其の戸数を損す。 簡子、無恤に謂って曰く、晉國、難有らば、必ず晉陽を以て帰と為せ、と。簡子卒し無恤立つ。是を襄子と為す。 知伯、地を韓・魏に求む。皆之を与う。趙に求む。与えず。韓・魏の甲を率いて、以て趙を攻む。襄子出でて晉陽に走る。三家囲んで之に灌(そそ)ぐ。城浸さざる者三板なり。沈竃(そう)、鼃(あ)を産すれども、民に叛意無し。襄子陰(ひそか)に韓と約し、共に知伯を敗り、知伯を滅ぼして其の地を分つ。襄子、知伯の頭(こうべ)に漆して、以て飲器と為す。

繭糸 繭から糸を引き出すように、たえず租税を取り立てること。  保障 ささえ防ぐこと、間垣で家を守るように仁政を施すこと。 戸数を損す 戸数を減らして租税を軽くした。 帰と為せ 身の拠り所とせよ  甲 兵に同じ。 三板 六尺、一板は二尺。  沈竃、鼃を産す 水に浸かったかまどから蛙が産まれる

簡子は尹鐸に晋陽を治めるよう命じた。尹鐸は繭から糸をとる様に厳しく臨むか、垣根が家を守るように仁政を敷くべきか指図をもとめた。簡子は、仁政に限ると答えた。よって尹鐸は税を軽くして善政をとった。 簡子は無恤に、わが国に危難がある時は必ず晋陽を拠り所とせよと言い残して死んだ。 無恤が立って襄子となる。そのころ晋の家老の知伯が韓と魏に土地の割譲を迫り、韓・魏は譲った。次に知伯は趙にも迫ったが趙は拒絶した。知伯は韓・魏の兵を糾合して趙を攻めた。襄子は晋陽に逃げて立てこもる。知伯と韓・魏の兵は晋陽を囲んで水攻めにした。城は六尺を余して水没し、かまどからは蛙がかえるほどであったが、晋陽の民は寝返る者も無く耐えた。襄子は密かに韓と謀って知伯を破り、領地を分け取った。知伯の頭蓋骨に漆を塗って盃にした。

趙はもともと韓・魏と共に晋を分割して諸侯となったので、自国でも晋国難あらばといった。 前出の火牛の計は木曾義仲、今回の酒盃は織田信長と、中国に倣ったのでしょうか、




 国士もて之に報ず。 知伯の臣、豫譲、之が為に仇をを報ぜんと欲す。乃ち詐(いつわ)って刑人と為り、匕首(ひしゅ)を挟(さしはさ)み、襄子の宮中に入って厠(かわや)を塗る。襄子、厠に如(ゆ)き、心動く。之を索(もと)めて譲を得たり。問うて曰く、子嘗て范・中行氏に事(つか)えざりしか。知伯之を滅ぼせり。子為に讐(あだ)を報ぜず、反って質(し)を知伯に委(い)す。知伯死す。子独り何為れぞ仇を報ずるの深きや、と。曰く、范・中行氏は、衆人もて我を遇す。我、故に衆人もて之に報ず。知伯は国士もて我を遇す。我、故に国士もて之に報ず、と。襄子曰く、義士なり。之を舎(ゆる)せ。謹んで避けんのみ、と。ー解説は次回にー



 知伯の臣、予譲は仇を取ろうとして囚人になりすまし、あいくちをしのばせて、厠の壁塗りをしていた。襄子が厠に行くと、殺気を感じたので調べさせたところ予譲がとらえられた。襄子が「おまえは以前范氏にも中行氏にも仕えたではないか、知伯が范氏も中行氏も滅ぼしたのに、仇を討とうとしないで、その知伯に礼物まで差し出して臣となった。そして知伯が死ぬと一人でわしをつけねらう。どうしてそこまで執念深いのだ」と。 予譲が答えて言うには「范氏も中行氏も私を普通の人間として遇した。だから私は普通の人間として報いた。知伯様は国士として私を待遇してくれた、だから国士として報いた」これを聞いて襄子は、「義に篤い漢だ赦してやれ、こちらが避けるだけだ」といった。

質(し)進物のこと、委は置くこと。君臣を約すとき進物を差し出して君の前に置くことを礼儀とした。 なお予譲はこの後も襄子をねらい、橋の下に潜んで馬上の襄子を襲わんとしたが、ついに捕らえられて死ぬ。史記の刺客列伝には、捕らえられた後に襄子に上着を請うてこれを仇に見立てて、三度躍り上がって剣を突き刺して曰く「吾、以て下(しも)智伯に報ずべし」と。遂に剣に伏して自殺す。とある(史記では智伯となっている)



 寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為る無かれ 襄子、伯魯の孫浣(かん)を立つ。是を獻子と為す。獻子、烈侯籍を生む。周の威烈王の命を以て侯と為る。武公・敬侯・成侯を歴(へ)て肅侯(しゅく)に至る。秦人、諸侯を恐喝して地を割かんことを求む。洛陽の人、蘇秦というもの有り。秦の惠王に遊説して用いられず。乃ち往(ゆ)いて燕の文侯に説き、趙と従親せしむ。燕之に資し、以て趙に至らしむ。肅侯に説いて曰く、諸侯の卒、秦に十倍せり。力を并(あわ)せて西に向わば、秦必ず破れん。大王の為に計るに、六国(りっこく)従親(しょうしん)して以て秦を擯(しりぞ)くるに若(し)くは莫(な)し、と。肅侯乃ち之に資(し)し、以て諸侯に約せしむ。蘇秦、鄙諺(ひげん)以て諸侯に説いていわく、寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為る無かれ、と。是(ここ)に於いて六国従合す。 従親 縦に親しくすること、燕・趙・楚・韓・魏・斉の六国が連合すること。 資 同意する。 鄙諺 ひなびたことわざ。 従合 合従すること。寧ろ鶏口と・・・鶏の口は小さくとも貴く、牛の尻は大きいが賤しい。だから小国といえども君主となる方が、大国の臣下になるよりもよろしい。

襄子は、兄の孫を後継ぎにした。その獻子の子が籍で侯となる。三代を経て肅侯に至る。その頃、秦が領土を拡げるため諸侯を脅した。洛陽の蘇秦は、秦の惠王に用いられず、燕に行って文侯に、趙と結びなさい、と説いた。燕は同意したので趙の肅侯に説いて、諸侯の兵を集めれば、秦の十倍になる、力を併せれば秦は必ず敗れます。六国が合従して秦を退ければ、これ以上の策は無いでしょう、と説いた。肅侯も賛成したので、諸侯に約束させた。そのとき「寧ろ鶏口と為るとも牛後と為る無かれ」と俗な諺を用いた。ここに六国は合従した。



 蘇秦は、鬼谷先生を師とす。初め出游し、困して帰る。妻は機より下らず、嫂(そう)は為に炊(かし)がず。是に至って従約の長と為り、六国に并せて相たり。行(ゆ)いて洛陽を過ぐ。車騎輜重(しちょう)、王者(おうしゃ)に擬(ぎ)す。昆弟妻嫂、目を側(そばだ)てて敢て視ず。俯伏して侍して食を取る。蘇秦笑って曰く、何ぞ前には倨(おご)って後には恭(うやうや)しきや、と。嫂曰く、季子の位高く金多きを見ればなり、と。秦、喟然(きぜん)として嘆じて曰く、此れ一人の身なり。富貴なれば則ち親戚も之を畏懼(いく)し、貧賎なれば則ち之を軽易す。況や衆人をや。我をして洛陽負郭の田(でん)二頃(けい)有らしめば、豈能く六国の相印を佩(お)びんや、と。是(ここ)に於いて千金を散じ、以て宗族朋友に賜う。既に従約を定めて趙に帰る。肅侯、封じて安君と為す。その後、秦、犀首をして趙を欺かしめ、従約を敗らんと欲す。齊・魏、趙を伐つ。蘇秦恐れて趙をさり、而して従約解けぬ。

鬼谷先生 戦国時代の縦横家、 機 織機  嫂 あによめ  昆弟 昆は兄に同じ、  喟然 ためいきをつく  負郭 郭はくるわ、負は背にする。城下のよく肥えた畑  頃 百畝  犀首 もと魏の官名 公孫衍(こうそんえん)のこと。



 和氏(かし)の璧(へき) 肅侯の子武靈王、胡服して騎射を招き、胡地を略し、中山を滅ぼし、南のかた秦を襲わんと欲して、果さず。子惠文王に伝う。惠文嘗て楚の和氏(かし)の璧(へき)を得たり。秦の昭王、十五城を以て之に易(か)えんと請う。与えざらんと欲すれば欺かれんことを恐る。藺相如(りんしょうじょ)璧を奉じて往かんと願う。城入らずんば、則ち臣請う璧を完うして帰らん、と。既に至る。秦王、城を償うに意無し。相如乃ち紿(あざむ)いて璧を取り、怒髪、冠を指し、柱下に卻立(きゃくりつ)して曰く、臣が頭は璧と倶に砕けん、と。従者をして壁を懐(いだ)いて、間行して先づ帰らしめ、身は命を秦に待つ。秦の昭王、賢として之を帰す。

和氏の璧(連城の璧)卞和(べんか)が楚の文王に献じた環状の宝玉、十五城と交換しようとしたので連城の璧ともいう。

肅侯の子武靈王は、えびすの服装で騎射をよくする者を集め、胡の土地を攻略し中山を滅ぼした。さらに南の秦を攻めようとしたが果せず、子の惠文王に位を伝えた。以前惠文王は和氏の璧を手に入れており、秦の昭王は十五のまちと交換したいと申し入れてきた。ただ交換に応じてもおそらく十五の村邑は渡してくれないだろう。交換に応じなければ、秦は侵略してくるにちがいない。この時、藺相如が進み出て使いを申し出ていうよう、城が手に入らなければ璧を完うして帰りましょう、と。すでに秦王に会見し璧を見せたが果して城を差し出す気配が無い。藺相如は瑕があるので示します、と偽って璧を取り返し、私の頭共々この璧を粉々にして見せましょうか、と迫った。璧を携えて戻った相如は従者に璧を持たせて密かに趙に帰した。その上で、秦の昭王の処分を待ったところ、昭王は賢者である、帰してやれと送り帰させた。

璧を完うして 完璧はここから 胡服して騎射を招き このころから戦車戦から騎馬戦に移行していったものか?胡服は乗馬に適している。 この話は史記の廉頗藺相如伝に詳しい。


 秦王、趙王に約して澠池(べんち)に会す。相如従う。酒を飲むに及び、秦王、趙王に瑟(しつ)を鼓せんことを請う。趙王之を鼓す。相如復(また)秦王に缶(ふ)を撃って秦声を為さんことを請う。秦王肯(がえ)んぜず。相如曰く、五歩の内、臣、頸血(けいけつ)を以て大王に濺(そそ)ぐを得ん、と。左右之を刃(じん)せんと欲す。相如之を叱(しっ)す。皆靡く。秦王為に一たび缶を撃つ。秦終に趙に加うる有ること能わず。趙も亦盛んに之が備えを為す。秦敢て動かず。

瑟 琴の大きいもの  缶 酒を入れる土器  靡く 後ずさる

秦王は趙王に澠池での会見を所望した。酒宴たけなわのころ秦王は趙王に瑟を弾くことを請い、趙王はしかたなく、瑟を弾いた。今度は、相如が進み出て、秦王に缶を撃って秦の音楽を聴かせて欲しいと申し出た。秦王が断ると、相如が、臣と大王の距離は五歩の内であります、臣の頸を切って大王に血を注ぎかけることも出来るのですよ、と脅した。秦王の左右の者は相如を殺そうと色めき立ったが、相如が一喝したので皆退いた。秦王はしぶしぶ缶を撃った。趙王は面目を保ち、秦は終に趙に対して何の要求も出来ずに会見を終えた。その後も趙は軍備を整えたので秦は戦を仕掛けられなかった。




趙王帰り、相如を以て上卿と為す。廉頗(れんぱ)の右に在り。頗曰く、我、趙の将と為り、攻城野戦の功あり。相如は素(もと)賎人なり。徒(ただ)口舌を以て、我が上に居る。吾、之が下たるを羞ず。我、相如を見ば、必ず之を辱(はず)かしめん、と。相如之を聞き、朝する毎に常に病と称し、與(とも)に列を争うを欲せず。出でて望み見れば、輒(すなわ)ち車を引いて避け匿る。其の舎人皆以て恥と為す。相如曰く、夫れ秦の威を以てすら、相如之を廷叱(ていしつ)して、其の群臣を辱かしむ。相如、駑(ど)なりと雖も、独り廉将軍を畏れんや。顧念(こねん)するに強秦の敢て兵を趙に加えざる者は、徒(ただ)吾が両人の在るを以てなり。今両虎共に戦わば、其の勢い倶に生きず。吾の此れを為す所以の者は、国家の急を先にして、私讐を後にするなり、と。頗之を聞き、肉袒(にくたん)して荊を負い、門に詣(いた)って罪を謝し、遂に刎頚の交わりを為す。

右に在り 中国では右が上位  廷叱 朝廷で叱りつけること  肉袒して荊を負い はだぬぎしてイバラを背に負い(これで鞭打ってくれの意) 刎頚の交り その人の為なら頸を刎ねられてもかまわないという極めて親しい交り




 生兵法は大怪我の基 恵文王の子成王立つ。秦、韓を伐つ。韓の上党、趙に降る。秦、趙を攻む。廉頗、長平に軍し、壁を堅うして出でず。秦人千金を行って反間を為して曰く、秦独り馬服君趙奢の子括(かつ)の将と為るを畏るるのみ、と。王、括をして頗に代らしむ。相如曰く、王、名を以て括を使う。柱(ことじ)に膠して瑟を鼓するが若(ごと)きのみ。括、徒(いたずら)に能く其の書を読んで、変に合うを知らざるなり、と。王聴かず。括少(わか)うして兵法を学び、以(おも)えらく、天下能く当たるもの莫し、

恵文王の後、子の成王が立つ。秦、韓を伐った。韓の上党郡が降って趙に入った。そこで秦は趙を攻める。趙の将廉頗は長平に陣して城壁を堅固にして出て戦わなかった。秦は金を使って偽りの情報をながした。秦が恐れているのは廉頗将軍ではなく、馬服君趙奢の子の趙括らしい、と。まんまと信じた王は廉頗から趙括に交代させた。藺相如が趙括の評判だけで用いようとしておられますが、まるで琴柱を膠で貼り付けるようなものです、括は兵法書を読んだだけで、臨機応変に欠けます、と反対したが王は聞かなかった。括は若いうちから兵法を学び、天下で自分に敵う者は居ない、と思っていた。  続く



父の奢と言う。難ずること能わず。然(しか)れども以て然りと為さず。括の母、故を問う。奢曰く、兵は死地なり。而して括、易く之を言う。趙若し括を将とせば、必ず趙の軍を破らん、と。括の将(まさ)に行かんとするに及び、其の母、上書して言う、括、使うべからず、と。括、軍に至る。果して秦の将白起の射殺する所と為る。卒四十万、皆降り、長平に抗にせらる。

父の奢と兵法を議論しても、父は言い負かすことが出来なかった。だが父は納得した風ではなかったので、母が訳を尋ねると、戦場は人の生死の場であるのに括は事も無げに言う、もし括を大将にしたら趙の軍は敗れるだろうと答えた。括が出発しようとするに臨んで、母が趙王に書を奉って、括を使わないで下さいと嘆願したが、聞き入れられず括は戦陣に赴いた。果して秦の将白起に射殺され、兵卒四十万は降参し、なんと皆生き埋めにされてしまった。



 孝成王の子悼襄王立つ。復(また)廉頗を用いて将と為さんと思う。時に頗、奔(はし)って魏に在り。人をして頗を視しむ。頗の仇、郭開、使者に金を与えて之を毀(そし)らしむ。頗、使者を見る。一飯に斗米、肉十斤、甲を被(こうむ)って馬に上り、以て用う可きを示す。使者還って曰く、廉将軍、尚お善く飯す。然れども臣と坐すること之を頃(しばら)くにして、三たび遺矢(いし)す、と。王以て老いたりと為し、遂に召さず。楚人、頗を魏に迎う。頗、楚の将と為り功無し。曰く、我、趙人を用いんことを思う、と。尋(つ)いで卒す。 斗米=約一升の米  十斤=約6㎏  甲 よろい(かぶとでは無い) 遺矢 矢は屎に通じ大小便をする  尋 ひろ(寸法)、たずねる、常、用いる、討つ、継ぐ、次いで、の意味がある。この場合はついで、間もなくの意

孝成王の子悼襄王が立ち、再び廉頗を用いたいと思った。人を遣わして魏にいる廉頗を見に行かせたが、廉頗の仇敵郭開が、使者に金を渡して、廉頗に不利な報告をするよう頼んだ。廉頗は使者に会見すると、飯一斗と肉十斤を平らげ、鎧をつけ、騎乗して元気なところを見せた。使者は帰って趙王に「簾将軍はよく食べますが、会見の間に三度厠に立たれました」と報告した。趙王は廉頗に衰えを見てとって、召さなかった。その後楚が迎えて将となったが、とりたてて功はなかった。そして「趙の兵を指揮して戦がしたい」と愚痴を言った。ほどなく廉頗は死んだ。




趙得李牧爲將。先居北邊、破匈奴。悼襄王子幽繆王遷立。秦王政遣兵攻趙。牧爲大將敗之。秦緃反、言牧將反。遷誅之。秦兵至虜遷。趙之七大夫、立趙嘉爲王。王于代。秦進攻破嘉、遂滅趙爲郡。

趙、李牧を得て将と為す。先に北辺に居て、匈奴を破る。悼襄王の子、幽繆王(ゆうぼくおう)遷(せん)立つ。秦王政(せい)、兵を遣わして趙を攻む。牧、大将と為って之を敗る。秦、反間を緃(はな)って、牧将(まさ)に反せんとす、と言う。遷之を誅(ちゅう)す。秦兵至って遷を虜にす。趙の七大夫、趙嘉を立てて王と為す。代に王たり。秦進み攻めて嘉を破り、遂に趙を滅ぼして郡と為す。

秦王政 後の始皇帝  代 地名  反間 間者、スパイ




魏之先、本與周同姓、文王子畢公高之後也。國絶。有苗裔、曰畢萬。事晉邑于魏。數世有絳。絳後四世曰桓子者、與韓・趙共滅知氏而分之。桓子之孫、曰文侯斯者、以周威烈王命爲侯。以卜子夏・田子方爲師。過段干木之閭必式。四方賢士多歸之。

魏の先は、本と周と同姓にして、文王の子畢(ひつ)公高の後なり。国絶ゆ。苗裔(びょうえい)有り、畢萬(ひつまん)と曰う。晋に事(つか)えて魏に邑(ゆう)す。数世にして絳(こう)有り。絳の後四世にして桓子(かんし)と曰う者、韓・趙と共に知氏を滅ぼして之を分つ。桓子の孫、文侯斯(し)と曰う者、周の威烈王の命を以て侯と為る。卜子夏・田子方を以て師と為す。段干木の閭を過ぐれば必ず式(しょく)す。四方の賢士多く之に帰す。

苗裔 遠い血筋  卜子夏・田子方 孔門十哲の子夏とその弟子田子方段干木の閭 段干木という有徳の隠士が住む村の門  式す 馬車の前の横木(軾)に頭を付けて敬礼すること。因みに唐宋八家の蘇洵が、蘇軾、蘇轍の二人の子に付けた名前を解説する文があり、軾の由来を書いている。




文侯謂李克曰、先生嘗教寡人。家貧思良妻、國亂思良相。今所相、非魏成則翟璜。二子何如。克曰、居視其所親、富視其所與、達視其所擧、窮視其所不爲、貧視其所不取。五者足以定之矣。卜子夏・田子方・段干木、成所擧也。

文侯、李克に謂って曰く、先生嘗て寡人に教う。家貧にしては良妻を思い、国乱れては良相を思う、と。今相とせんとする所は、魏成に非ずんば則ち翟璜(てきこう)なり。二子は何如(いかん)と。克曰く、居ては其の親しむ所を視、富んでは其の與うる所を視、達しては其の挙げる所を視、窮しては其の為さざる所を視、貧しては其の取らざる所を視る。五つの者以て之を定むるに足れり。卜子夏・田子方・段干木は成の挙ぐる所なり、と。すなわち成を相とす。

文侯が李克に、先生は嘗て私に教えて下さいました、家が貧しければ良妻を得たいと思い、国が乱れると良い宰相を得たいと思うものだと。今、宰相にしたいと思う者は魏成かさもなくば翟璜だが、どちらがよろしいでしょう。李克が答えて言うには、「人を視るには、仕官前の人は付き合っている人物を、金持ちになっている人は、投資するところを、すでに高位高官になっている人は、どのような人物を登用しているか、困窮している人の場合は、道義に外れた行いをしていないか、貧しい人は不義の金品を得ていないかを視るのです。この五つで充分です。卜子夏・田子方・段干木の三人はいずれも魏成の推挙によるものです。」そこで魏成を宰相に決めた。 寡人 徳の寡(すくな)い人 王侯が自分をさして使う謙称





 呉起  有衛人呉起者。初仕魯。魯欲使起撃齊。而起娶齊女。疑之。起殺妻以求將、大破齊師。或曰、起殘忍薄行人也。起恐得罪歸魏。文侯以爲將、抜秦五城。起與士卒同衣食、卒有病疽。起吮之。卒母聞而哭曰、往年呉公吮其父。不旋踵死敵。今又吮其子。妾不知其死所矣。

衛人呉起という者有り。初め魯に仕う。魯、起をして斉を撃たしめんと欲す。而して起斉の女を娶る。之を疑う。起、妻を殺して以て将たらんことを求め、大いに斉の師を破る。或る人曰く、起は殘忍薄行の人なりと。起、罪を得んことを恐れ、魏に帰す。文侯以て将と為し、秦の五城を抜く。起、士卒と衣食を同じうす。卒に疽を病むもの有り。起之を吮(す)う。卒の母聞いて哭して曰く、往年、呉公、其の父を吮う。踵を旋(めぐ)らさずして敵に死せり。今又其の子を吮う。妾(しょう)、其の死所を知らず、と。

吮う 膿や血を口を付けて吸い出すこと  踵を旋らさず 敵に後ろを見せなかった 妾 自分の謙称




 文侯卒、子撃立。是爲武侯。武侯浮西河而下。中流顧謂呉起曰。美哉山河之固、魏國之寳也。起曰、在徳不在險。昔三苗氏、左洞庭、右彭蠡、禹滅之。桀之居、左河・濟、右泰・華、伊闕在其南、羊腸在其北、湯放之。紂之國、左孟門、右太行、恆山在其北、大河經其南、武王殺之。若不修徳、舟中人皆敵國也。武侯曰、善。武侯卒。子惠王罃立。東敗於齊、將軍龐涓與太子申皆死。南敗於楚、西喪地於秦。乃卑辭厚幣、以招賢者。孟子至。而不用。子襄王立。孟子去之齊。

文侯卒し、子撃立つ。是を武侯と為す。武侯、西河に浮んで下る。中流にして顧みて呉起に謂って曰く。美なるかな山河の固め、魏国の宝なり、と。起曰く、徳に在って険に在らず。― 中略 ― 若(もし)徳を修めずんば、舟中の人皆敵国なり、と。武侯曰く、善し、と。武侯卒し、子の恵王罃(おう)立つ。東は斉に敗られ将軍龐涓、太子申と皆死す。南は楚に敗られ、西は地を秦に喪(うしな)う。すなわち辞を卑(ひく)うし、幣を厚うして、以て賢者を招く。孟子至る。しかも用いず。子襄立つ。孟子去って斉に之(ゆ)く。

武侯は舟で河西を下ったが、中流にさしかかった所で、呉起に言った、「なんと見事なことよ、この山河の堅固なことは、わが国の宝ではないか」と。呉起は答えて「いえ、国の宝は君の徳にあって、険阻な山河ではありません、―中略― もし徳を修めなければ、この舟の中の者でも敵になりますぞ」と言った。武侯が死ぬと子の恵王罃が立ったが、戦いには敗れ将軍、太子は失い、領地は侵された。そこで国勢を立て直すために、言葉を低くし、贈り物を厚くして、広く賢者を求めた。そのとき孟子が来たが、恵王は用いなかった。子の襄王が位に就くと、孟子は去って斉に向った。



 魏の安釐(き)王立ち、公子無忌(むき)を封じて信陵君と為す。無忌、人を愛し士に下る。食客三千人あり。 秦趙を攻む。魏王、晋鄙(しんぴ)をして之を救わしむ。秦の昭王、兵を移して先ず救う者を撃たんと欲す。王恐れ、晋鄙の兵を止めて、鄴に壁せしめ、又新垣衍(しんえんえん)をして趙に説き、共に秦を尊んで帝と為さしむ。魯仲連往いて衍に見(まみ)えて曰く、彼の秦は礼義を棄てて首功を上(たっと)ぶの国なり。即(も)し肆然(しぜん)として天下に帝たらば、則ち連は東海を踏んで死する有るのみ、と。衍、再拝して曰く、先生は天下の士なり。吾敢て復た秦を帝とすと言わじ、と。

鄴に壁せしめ 鄴(地名)に壁を高くしてこもる。 礼義 人の行うべき礼の道  首功を上ぶ 敵の首を取る手柄を尊ぶ  肆然 気ままに


https://blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200903/3



 趙平原君夫人、無忌姉也。趙急。使者冠蓋相望、責救於無忌。無忌請於王、及使賓客游説萬端、王不聽。客侯嬴教無忌禱於王幸姫、竊得晉鄙兵符、且薦力士朱亥與倶、謂、晉鄙合符而疑、則撃殺而奪其軍。一如嬴言、得兵以進、大破秦兵、解邯鄲圍。而無忌不敢歸魏。

趙の平原君の夫人は、無忌の姉なり。趙、急なり。使者冠蓋相望み、救いを無忌に責む。無忌、王に請い、及び賓客をして游説萬端せしむれども、王聴かず。客侯嬴、無忌をして王の幸姫に祷(こ)わしめて、晋鄙の兵符を竊(ぬす)み得、且つ力士朱亥を薦めてともに倶にせしめ、謂う、晋鄙、符を合わせて、疑わば、則ち撃殺して其の軍を奪え、と。一に嬴の言の如くし、兵を得て以て進み、大いに秦の兵を破り、邯鄲の囲みを解く。而して無忌は敢て魏に帰らず。

急なり 危急がせまる  冠蓋相望み 使者の冠と車のおおいが引きもきらない状態

趙の平原君の夫人は無忌の姉に当たる人で、趙に危急が迫っていた。冠や車の蓋いが続くほどの使者が無忌に救援を請うた。無忌は使者ともども王に出兵を促がしたが王は聴かなかった。食客の侯嬴が無忌に、「王のお気に入りの女性に頼み晋鄙の割符を盗ませて力士の朱亥を連れて行き、晋鄙に割符を合わせて、兵を出させなさい、晋鄙が疑った其の時は、朱亥に殺させて、兵を奪えばよろしい」と献策した。侯嬴の策通りことが進み、大いに秦の兵を破って邯鄲の囲みを解いた。かくして無忌は魏に帰ることは無かった。



秦伐魏。魏患之、使人請無忌。不肯歸。客毛公・薛公見曰、魏急、而公子不恤。一旦秦克大梁、夷先王宗廟、公子何面目立於天下乎。無忌趣駕還。諸侯聞無忌爲魏將、皆遣救。無忌率五國兵、敗秦兵於河外、追至函谷關而還。無忌卒。十八年而魏王假立。後又二年、秦王政、遣兵伐魏、殺王假、而滅魏爲郡。

秦、魏を伐つ。魏之を患(うれ)え、人をして無忌に請わしむ。帰ることを肯(がえ)んぜず。客の毛公・薛(せつ)公見(まみ)えて曰く、魏、急にして、公子恤(うれ)えず。一旦、秦、大梁(たいりょう)に克(か)って、先王の宗廟を夷(たい)らげば、公子何の面目あってか天下に立たんや、と。無忌、駕(が)を趣(うなが)して還る。諸侯、無忌が魏の将と為りしを聞き、皆救いを遣わす。無忌、五国の兵を率いて、秦の兵を河外に敗り、追うて函谷関に至って還る。無忌卒す。十八年にして魏王假(か)立つ。後又二年、秦王政、兵を遣わして魏を伐ち、王假を殺し、而して魏を滅ぼして郡と為す。

恤 うれう  大梁 魏の都  夷 平らげる  河外 黄河以北を河内、以南を河外という。



 韓之先、本與周同姓、武王子韓侯之後也。國絶。其後裔事晉爲韓氏。韓武子之三世曰厥。厥五世至康子、與趙・魏共滅知氏。又二世曰景侯虔。以周威烈王命爲侯。 韓相俠累、與濮陽嚴仲子有惡。仲子聞軹人聶政之勇、以黄金百鎰、爲政母壽、欲因以報仇。政曰老母在。政身未可以許人也。及び母卒、仲子乃使政圖之。俠累方坐府。兵衞甚嚴。政直入刺之、因自皮面抉眼。韓人暴其尸於市購問莫能識。姉嫈往哭之曰、是深井里聶政也。以妾在故、重自刑以絶蹤。妾奈何畏没身之誅、終没賢弟の名。遂死政尸旁。

前の部分は省略させていただきます。韓の相俠累(きょうるい)、濮陽の嚴仲子と悪(にく)むことあり。仲子、軹(し)の人聶政(じょうせい)之勇なるを聞き、黄金百鎰(いつ)を以て、政の母の壽を為し、よって以て仇を報ぜんと欲す。政曰く、老母在り。政の身未だ以て人に許す可からざるなり、と。母卒するに及び、仲子すなわち政をして之を図らしむ。俠累方(まさ)に府に坐す。兵衛甚だ厳なり。政、直ちに入って之を刺し、因(よ)って自ら面を皮はぎ、目を抉る。韓人其の尸(しかばね)を市に暴(さら)し購問(こうもん)すれども能(よ)く識るものなし。姉嫈(おう)、往(ゆ)いて之に哭して曰く、是れ深井里の聶政なり。妾の在るを以ての故に、重く自から刑して以て蹤(あと)を絶つ。妾、奈何(いかん)ぞ身を没するの誅(ちゅう)を畏れて、終に賢弟の名を没せんや、と。遂に政の尸のかたわらに死す。

軹 県名  購問 賞金をかけて尋ねること


韓の先祖はもと周と同姓で、武王の子、韓侯の後なり。国が絶えてから、その子孫(韓武子)が晋につかえて韓氏になった。そこから三世目に厥(けつ)、厥から五世目の康子に至って、趙・魏と共に知氏を滅ぼす。又二世後を景侯虔(けん)と曰う。周の威烈王の命によって諸侯となった。 ところで韓の相、俠累(きょうるい)は、濮陽(ぼくよう)の嚴仲子と仲違いをしていた。仲子は軹(し)の人聶政(じょうせい)の武勇を聞き、黄金百鎰(いつ)を贈り、政の母の長寿を祝い、それを因縁に仇を晴らそうと謀った。聶政は「私には老いた母がいます、この身を人に託すわけにはいきません」と言った。その後母が死に、厳仲子はあらためて俠累を殺すことを求めた。断る理由の無くなった聶政は暗殺の場に赴く。俠累の身辺は厳重に警護されていたが、聶政は臆することなく近づき俠累を刺し殺した。そのまま自身の顔面の皮をはぎ、目を抉り取って自殺した。韓の人は屍骸をさらして身元を知ろうとしたが、だれも判らなかった。聶政の姉の嫈(おう)が大声をあげて泣いて言うには「これは深井里の聶政です。私に累が及ばないように自ら傷つけて、手がかりを消してしまったのです。私が誅殺されることを恐れて、この弟の名が闇に葬られるようなことができましょうか」と、遂に聶政の屍骸の傍らで自殺した。 史記の刺客列伝にはもっと詳しく述べられている。


ここでちょっと寄り道をして史記を覗いてみます。十八史略よりかなり詳細に書かれており解り易いと思います。 史記 刺客列伝 軹に聶政の事あり  聶政は軹(し)の深井里の人なり。人を殺して仇を避け、母・姉と齊に如(ゆ)き屠(と)を以て事と為す。之を久しくして濮陽(ぼくよう)の嚴仲子、韓の哀侯に事(つか)え韓の相(しょう)俠累(きょうるい)と郤(げき)あり。嚴仲子、誅せられんことを恐れ、亡(に)げ去りて游(たび)し、人の以て俠累に報ゆべき者を求む。齊に至る。齊の人、或いは言う、「聶政は勇敢の士なり。仇を避けて、屠者の間に隠る」と。 嚴仲子、門に至りて請い、数(しば)しば反(かえ)る。然る後、酒を具(そな)え、自ら聶政の母の前に暢(すす)む。酒酣にして、嚴仲子、黄金百鎰(いつ)を捧げ、前(すす)みて聶政の母の壽を為す。聶政、其の厚きに驚き怪しみ、固く嚴仲子に謝す。嚴仲子、固く進む。而うして聶政、謝して曰く、「臣、幸いにして老母あり。家貧しく、客游して以て狗屠(くと)と為り、以て旦夕に甘毳(かんぜい)を得て以て親を養うべし。親の供養(きょうよう)備われり。敢えて仲子の賜に当らず」と。嚴仲子、人を辟(さ)け、因って聶政の為に言いて曰く、「臣、仇ありて、諸侯に行游すること衆(おお)し。然れども齊に至りて、窃(ひそ)かに足下の義の甚だ高きを聞けり。故に百金を進めしは,将に用(も)って大人の粗糲(れい)の費と為し、以て足下の驩(よしみ)を交えんことを得んとす。豈に敢えて以て求め望むことあらんや」と。聶政曰く、「臣、志を降し身を辱め市井に居りて屠する所以のものは、徒(た)だ以て老母を養うを幸(ねが)えばなり。老母在(いま)せば、政が身は未だ敢えて以て人に許さざるなり」と。嚴仲子、固く譲る。聶政、竟(つい)に受くるを肯(がえん)ぜざるなり。然れども嚴仲子、卒に賓主の礼を備えて去る。 謝 謝絶  狗屠 食用の犬を屠殺する仕事 甘毳 美味く柔らかいもの   粗糲 糲は玄米 以下つづく

之を久しくして、聶政の母死す。既に已(すで)に葬れば、服を徐く。聶政曰く「嗟乎(ああ)、政は乃ち市井の人なり。刀を鼓して以て屠(ほふ)るのみ。而うして嚴仲子は乃ち諸侯の卿相なり。千里を遠しとせず、車騎を枉(ま)げて、臣と交わる。臣の之を待つ所以は、至って浅鮮(せんせん)なり未だ大功の以て称すべきものあらざるに、而も嚴仲子は百金を奉じて親の壽を為せり。我受けずと雖も、然れども是の者、徒らに深く政を知るなり。夫れ賢者は感忿睚眦(かんぷんがいさい)の意を以てして、窮僻(きゅうへき)の人を親信す。而うして政独り安(いず)くんぞ嘿然(もくねん)として已むを得んや。且つ前日政を要(もと)めしに、政徒らに老母を以てせり。老母、今天年を以て終る。政、将に己を知る者の為に用いられんとす」と。

服を徐く 喪があけた 枉げて わざわざ、わずらわせて  浅鮮 そっけない 感忿睚眦 睚も眦もまなじり 眦をさくほど憤る 忿は奮憤に通じる  窮僻 貧窮して世を避ける  嘿然 黙然に同じ


乃ち遂に西のかた濮陽(ぼくよう)に至り、嚴仲子に見えて曰く「前日、仲子に許さざりし所以の者は、徒だ親の在すを以てなり。今、不幸にして母天年を以て終る。仲子の仇を報いんと欲する所の者は、誰と為す。請う、事に従うを得ん」と。嚴仲子、具(つぶ)さに告げて曰く、「臣の仇は、韓の相、俠累なり。俠累は又た韓の君の季父(きほ)なり。宗族、盛んにして多く、居処、兵衛、甚だ設(もう)く。臣、人をしてこれを刺さしめんと欲ししこと衆(おお)きも、終に能く就(な)す莫し。今、足下は幸いにして棄てず。請う、其の車騎・壮士にして足下の為に輔翼する者を益(ま)さん」と。 聶政曰く「韓の衛と相去ること、中間甚だしくは遠からず。今、人の相を殺さんとし、相は又た国君の親(しん)なり。此れ其の勢い、以て人を多くすべからず。人を多くせば、得失を生ずるなき能わず。得失を生ずれば、則ち語泄(も)れん。語泄れなば、是れ韓は国を挙げて仲子と讎(あだ)を為さん。豈殆(あや)うからずや」と。遂に車騎・人徒を謝す。

濮陽 衛の都  季父 すえの叔父  輔翼 たすけ  謝す 断る


聶政、乃ち辞して独り行き、剣を杖つきて韓に至る。韓の相、俠累、方(まさ)に府上に坐す。兵戟を持ちて衛(まも)り侍する者、甚だ衆(おお)し。聶政、直ちに入りて階を上り、俠累を刺殺す。左右大いに乱る。聶政、大いに呼(さけ)び、撃ち殺す所の者、数十人。因りて自ら面を皮はぎ眼を抉り、自ら屠(ほふ)りて腸を出だし、遂に以て死す。韓、聶政の屍を取りて市に暴す。購問するに誰の子なるかを知る莫し。是(ここ)に於いて韓、之を購懸す、能く相の俠累を殺せし者を言うあらば、千金を予(あた)えん、と。之を久くするも、知るもの莫きなり。 政の姉嫈、聞く。人、韓の相を刺殺せし者あり、賊得られず。国其の名姓を知らず、其の尸を暴して、之に千金を懸くと。乃ち於邑(おゆう)して曰く、「其れ是れ我が弟なるか。嗟乎、嚴仲子、我が弟を知れり」と。立ちどころに起ちて、韓の市に如(ゆ)く。而うして死者は果して政なり。尸に伏して哭すること極めて哀し。曰く、「是軹の深井里の所謂聶政なる者なり」と。 購懸 お尋ね者の懸賞をかける  於邑 悲しむ


―中略―「政の汚辱を蒙り、自から市販の間に棄てし所以のものは、老母、幸いに恙(つつが)無く、妾、未だ嫁せざりし為なり。親、既に天年を以て世を下り、妾、已(すで)に夫に嫁す。嚴仲子、乃ち察して、吾が弟を困汚(こんお)の中より挙げて、これに交わり、沢(たく)厚し。奈何にすべき。士は固(もと)より己を知る者の為に死す。今、乃ち妾尚お在るの故を以て、重く自ら刑し、以て従うを絶つ。妾、其れ奈何んぞ身を没するの誅を畏(おそ)れて、終に賢弟の名を滅ぼさんや」と。大いに韓の市の人を驚かし、乃ち大いに天に呼(さけ)ぶこと三たび、卒に於邑(おゆう)悲哀して、政の旁に死す。 晉・楚・齊・衛、これを聞き、皆曰く、「独り政の能あるのみに非ざるなり。乃ち其の姉も亦た烈女なり」と。 さきに政をして誠に其の姉に濡忍の志なく、骸を暴すの難を重しとせず、必ず険を絶(わた)ること千里、以て其の名を列ね、姉弟倶に韓の市に僇(りく)せらるるを知らしめば、亦た未だ必ずしも敢えて身を以て嚴仲子に許さざりしなり。嚴仲子も亦人を知りて能く士を得たりと謂うべし。 市販 市井に商う  沢 恩沢  従う 累が及ぶこと  濡忍 ぐっとこらえる

姉にこらえる気持ちが無く、死体がさらされる災難をかえりみず、遠路の労もおかして姉弟して韓の市で死ぬことになったのだが、もし聶政がこうなることを予見していたら嚴仲子に身を許さなかったろう。嚴仲子もよく人を識って、よく勇士を得たというべきである。 終わりに司馬遷の思いが挿入される。 -史記刺客列伝終りー



史記を離れて十八史略に戻ります。  景侯四世、至哀侯、徒都鄭。哀侯二世、至昭侯。鄭人申不害、以黄老刑名學、爲昭侯相。國治兵強。昭侯有弊袴。命藏之。不以賜左右。侍者曰、君亦不仁者矣。昭侯曰、明主愛一嚬一笑。嚬有爲嚬者。笑有爲笑者。今袴豈特嚬笑哉。吾必待有功者。昭侯卒。子宣惠嚬王立。三世至桓惠王。韓上黨守降趙。致趙受秦兵、而有長平敗。又一世至王安。秦王政遣將虜安、遂滅韓爲郡。

景侯より四世にして哀侯に至る。都を鄭(てい)に徒(うつ)す。哀侯より二世にして昭侯に至る。鄭人申不害、黄老刑名の学を以て、昭侯の相と為る。国治まり兵強し。昭侯、弊袴有り。命じて之を蔵せしめ、以て左右に賜らず。侍者曰く、君も亦不仁者なり、と。昭侯曰く、明主は一嚬(ひん)一笑を愛(お)しむ。嚬するも為に嚬する者有り。笑うも為に笑う者有り。今袴、特(ただ)に嚬笑のみならんや。吾必ず功有る者を待たん、と。昭侯卒す。子宣惠王立つ。三世にして桓惠王に至る。韓の上党の守、趙に降る。趙、秦の兵を受くるを致して、長平の敗あり。又一世にして王安に至る。秦王政将を遣わして安を虜にし、遂に韓を滅ぼして郡となす。 申不害 法律、刑罰を以て国を治める事を提唱した。 黄老刑名の学 黄帝老子を源とし、刑(形)と名、つまり言行一致を重要とした。弊袴 破れた袴 一嚬一笑を愛しむ 顔をしかめたり笑ったりを軽々しくしない。 嚬するも為に嚬する者有り 君主が顔をしかめると、臣の中に主に迎合して顔をしかめる者が出てくる。


楚之先、出自顓頊。顓頊之子、爲高辛火正、命曰祝融。弟呉囘復居其職。呉囘二世、有季連者、得羋姓。季連之後有鬻熊、事周文王。成王封其子熊繹於丹陽。至夷王時、楚子熊渠者僭爲王。十一世至春秋、有曰武王。強大。至文王始都郢。成王與齊桓公盟召陵、尋與宋襄公争覇、後與晉文公戰城濮。 楚之先は顓頊(せんぎょく)より出づ。顓頊の子は高辛の火正と為り、命(なづ)けて祝融と曰う。弟呉囘(ごかい)、復其の職に居る。呉回より二世にして季連という者有り。羋姓(ひせい)を得たり。季連の後鬻熊(いくゆう)というもの有り。周の文公に事(つか)う成王其の子熊繹(ゆうえき)を丹陽に封ず。夷王の時に至って、楚子熊渠(ゆうきょ)という者、僭(せん)して王と為る。十一世にして春秋に至り、武王と曰うもの有り。益々強大なり。文王に至って始めて郢(えい)に都す。成王、齊の桓公と召陵に盟(ちか)い、尋(つ)いで宋の襄公と覇を争い、晋の文公と城濮に戦う。

高辛 高陽氏 火正 官名、火を司る  僭 僭越の僭


歴穆王至荘王。即位三年不出令、日夜爲樂。令國中、敢諫者死。伍擧曰、有鳥在阜。三年不蜚不鳴。是何鳥也。王曰、三年不飛、飛將衝天。三年不鳴、鳴將驚人。蘇從亦入諫。王乃左執從手、右抽刀、以斷鐘鼓之懸。明日聽政、任伍擧・蘇從。國人大悦。又得孫叔敖爲相、遂覇諸侯。

穆王を歴(へ)て荘王に至る。位に即(つ)いて三年令を出さず、日夜楽しみを為す。国中に令す、敢えて諌むる者は死せん、と。伍擧(ごきょ)曰く、鳥有り阜(おか)に在り。三年蜚(と)ばず鳴かず。是何の鳥ぞや、と。王曰く、三年飛ばず、飛ばば将に天を衝かんとす。三年鳴かず、鳴かば将に人を驚かさんとす、と。蘇從(そじゅう)も亦入って諌む。王乃ち左に從の手を執り、右に刀を抽(ぬ)いて、鐘鼓の懸を断つ。明日(めいじつ)政を聴き、伍擧・蘇從に任ず。国人大いに悦ぶ。又孫叔敖を得て相と為し、遂に諸侯に覇たり。

阜 丘  蜚 飛に同じ  鐘鼓の懸を断つ 楽器を吊る紐を切る。


昨年夏、直江兼続の終わりにあたって閻魔大王に高札を立てた話を書いたことがあった。似た話をどこかで読んだ気がしたが、思い出した。  魏の文侯の時代、西門豹が任地に赴いた際、領民に何が一番苦しいか尋ねたところ、「河の神に毎年嫁を差し出さねばならず、その莫大な費用を税として徴収される。年頃の美しい娘の居る家は他国へ逃げ出す。そのうえ余った大金は顔役と役人それに巫女が分け取ってしまうのです」と。これを聞いた西門豹は今度その日が来たら是非見たいから私にも知らせなさいと命じた。さて、その日がきて、西門豹が花嫁を見ると泣きはらしておどおどした様子。そこで「この娘はあまり美しくないので、巫女どの河の神に使いに行って、もっと美しい娘を支度する間待ってくだされ、と言って下さい」と言うが早いか、それッとばかり巫女の長を河に投げ込んだ。しばらく様子を窺い、「もう一度行って下され」と次の巫女次の巫女と投げ入れた。「どうも女とみて侮られているようだ、今度は顔役殿行ってくだされ」と投げ入れる。残った顔役や役人はふるえだして許しを請うた。という話、おそらく兼続も知っていたと思われるのだが。さて


歴共王・康王・郟敖・靈王・平王・昭王・惠王・簡王・聲王・悼王・肅王・宣王・威王、至懐王。秦惠王欲伐齊、患楚與從親、乃使張儀説楚王曰、王閉關而絶齊、請獻商・於之地六百里。懐王信之、使勇士北辱齊王。齊王大怒、而與秦合。楚使受地於秦。儀曰、地從某至某、廣袤六里。懐王大怒、伐秦大敗。

共王・康王・郟敖・靈王・平王・昭王・惠王・簡王・聲王・悼王・肅王・宣王・威王、を歴(へ)て懐王に至る。秦の惠王齊を伐たんと欲し、楚の與に従親(しょうしん)せんことを患え、乃ち張儀をして楚王に説いて曰く、王、関を閉じて斉に絶たば、請う商・於の地六百里を献ぜん、と。懐王之を信じ、勇士をして北のかた斉王を辱かしめしむ。斉王大いに怒って、秦と合す。楚、地を秦に受けしむ。儀曰く、地は某より某に至るまで、広袤六里なり、と。懐王大いに怒り、秦を伐って大いに敗る。

秦の惠王は東の斉を伐とうと思ったが、南の楚が斉と合従することを恐れた。そこで張儀を遣わして楚の懐王に説かせて、「大王が関所を閉じて斉と交渉を絶つならば、秦の商・於の二県の地六百里を献上しましょう」と。懐王はこれを信じて勇士を派遣して斉王を辱めた。斉王激怒して、秦と同盟してしまった。楚は約束の地を秦に受け取りに行ったところ、張儀はどこそこからどこそこまで広さ六里でございます、どうぞお受け取りあれや、と言った。懐王大いに怒り、秦を伐ったが大敗してしまった。

廣袤 廣は東西の広さ、袤は南北の広さ



秦昭王與懐王盟于黄棘。既而遣書懐王。願與君王會武關。屈平不可。子蘭勸王行。秦人執之、以歸。楚人立其子頃襄王。懐王卒於秦。楚人憐之、如悲親戚。初屈平爲懐王所任、以讒見疏、作離騒以自怨。至頃襄王時、又以譖遷江南。遂投汨羅以死。秦抜郢。楚徒於陳。頃襄王卒。孝烈王立。又徒於壽春。

秦の昭王、懐王と黄棘に盟う。既にして書を懐王に遣(おく)る。願わくは君王と武関に会せん、と。屈平可(き)かず。子蘭、王に勧めて行かしむ。秦人之を執(とら)え、以て帰る。楚人その子頃襄王を立つ。懐王、秦に卒(しゅっ)す。楚人之を憐れむこと、親戚を悲しむが如し。初め屈平、懐王の任ずる所と為りしが、讒(ざん)を以て疏(うと)んぜられ、離騒を作って以て自ら怨む。頃襄王の時に至り、又譖(しん)を以て江南に遷(うつ)る。遂に汨羅に投じて以て死す。秦、郢(えい)を抜く。楚、陳に徒(うつ)る。頃襄王卒す。孝烈王立つ。又壽春に徒る。

秦の昭王は、懐王と黄棘で誼を通じたのち書をおくって、武関で会うことを求めた。   屈平(屈原)は反対したが子蘭が行くことを勧めた。懐王は捕えられ、秦で死ぬ。初め屈平は懐王に信任されていたが、讒言する者があって遠ざけられ、離騒という詩を作って自ら不遇を怨んだ。さらに頃襄王の時に至って再び人のそしるに遭って遂に汨羅に身を投げた。

 離騒 広辞苑には、「離」は遭う・かかる(罹)「騒」は憂いの意、とある。屈原の作った辞賦。生い立ちから、讒によって楚の朝廷を逐われ、失意の果て汨羅に投水する決心をするまでの無限の憂愁を述べた自伝的長編叙事詩。楚辞の代表作。

 屈原 名は平、字は原。また、名を正則、字を霊均ともいう楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが妬まれて失脚、湘江の辺をさまよい、ついに汨羅に投身。憂国の情をもって歌う自伝的叙事詩「離騒」を始め、楚の歌謡をもととした楚辞文学を集大成した。(前343ごろ~前277ごろ) とある。


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 燕の昭王賢者を求む。 燕姫姓、召公奭之所封也。三十餘世、至文公、嘗納蘇秦之説、約六國爲從。文公卒、易王噲立。十年、以國譲其相子之、南面行王事、而噲老不聽政、顧爲臣。國大亂。齊伐燕取之、醢子之而殺噲。燕人立太子平爲君。是爲昭王。弔死問生、卑辭厚幣、以招賢者。問郭隗曰、齊因孤之國亂而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士、與共國、以雪先王之恥、孤之願也。先生視可者。得身事之。

燕は姫姓、召公奭(せき)の封ぜられし所なり。三十余世にして文公に至って、嘗て蘇秦の説を納(い)れ六国に約して従(しょう)を為す。文公卒し、易王噲(いおうかい)立つ。十年にして、国を以て其の相、子之(しし)に譲り、南面して王事を行わしめ、而して噲は老してまつりごとを聴かず、顧(かえ)って臣と為る。国大いに乱る。齊、燕を伐って之を取り、子之を醢(かい)にし、噲を殺す。燕人、太子平を立てて君と為す。是を昭王と為す。死を弔い生を問い、辞を卑(ひく)うし幣を厚うし、以て賢者を招く。郭隗(かくかい)に問うて曰く、齊、孤の国の乱るるに因(よ)って襲うて燕を破る。孤、極めて燕の小にして以て報ゆるに足らざるを知る。誠に賢士を得て、国を與に共にし、以て先王の恥を雪(すす)がんこと、孤の願いなり。先生、可なる者を視(しめ)せ。身、之に事(つか)うるを得ん、と。

從 合従  南面 君は南面し、臣は北面する。宰相の子之が易王噲に代わって政を行った。 醢 しおから、塩づけにすること。 幣を厚うし 礼物を手厚くする。 弧 自身の謙称  與共國 ともに国を共にし?  雪 雪辱

隗曰、古之君、有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金返。君怒。涓人曰、死馬且買之。況生者乎。馬今至矣。不期年、千里馬至者三。今、王必欲致士、先從隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。於是昭王爲隗改築宮、師事之。

隗曰く、古の君、千金を以て涓人(けんじん)をして千里の馬を求めしめし者有り。死馬の骨を五百金に買いて返る。君怒る。涓人曰く、死馬すら且つ之を買う。況(いわ)んや生ける者をや。馬今に至らん、と。期年ならずして、千里の馬至る者三という。今、王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈千里を遠しとせんや。是に於いて昭王、隗の為に改めて宮を築き、之に師事す。

涓人 宮中の掃除や雑用をする小役人  期年 まる一年

於是士爭趨燕。樂毅自魏往。以爲以て亞卿任國政。已而使毅伐齊。入臨淄。齊王出走。毅乗勝、六月之、下齊七十餘城。惟莒・即墨不下。昭王卒、惠王立。惠王爲太子、已不快於毅。田單乃縱反曰、毅與新王有隙、不敢歸。以伐齊爲名。齊人惟恐他將來、即墨殘矣。惠王果疑毅、乃使騎劫代將、而召毅。毅奔趙。田單遂得破燕、而復齊城。

是に於いて士争って燕に趨(おもむ)く。樂毅は魏より往く。以て亜卿と為し、国政を任ず。已(すで)にして毅をして齊を伐たしむ。臨淄に入る。齊王出で走る。毅、勝ちに乗じ、六月(りくげつ)の間に、齊の七十余城を下す。惟莒と即墨とのみ下らず。昭王卒し、恵王立つ。恵王、太子たりしとき、已に毅に快(こころよ)からず。田単、乃(すなわ)ち反間を縦(はな)って曰く、毅、新王と隙(げき)有り、敢えて帰らず。齊を伐つを以て名と為す。齊人惟他将の来って、即墨の残せられんことを恐る、と。恵王果して毅を疑い、乃ち騎劫(きごう)をして代って将たらしめ、而して毅を召す。毅、趙に奔(はし)る。田単遂に燕を破って、斉の城を復するを得たり。

反間 スパイ  隙 仲違い  名と為す 口実にする  残 損なう、滅ぼす  





 燕の太子丹 惠王後、有武成王・孝王、至王喜。喜太子丹質於秦。秦王政不禮焉。怒而亡歸。怨秦欲報之。秦將軍樊於期、得罪亡之燕。丹受而舎之。丹聞衞人荊軻賢、卑辭厚禮請之。奉養無不至。欲遣軻。軻請得樊將軍首及燕督亢地圖以獻秦。丹不忍殺於期。軻自以意諷之曰、願得將軍之首、以獻秦王。必喜而見臣。臣左手把其袖、右手揕其胸、則將軍之仇報、而燕恥雪矣。於期遂慨然自刎。

喜の太子丹、秦に質(ち)たり。秦王政、礼せず。怒って亡(に)げ帰る。秦を怨んで之に報いんと欲す。秦の将軍樊於期(はんおき)罪を得、亡げて燕に之く。丹受けて之を舎(しゃ)す。 丹、衛人荊軻の賢を聞き、辞を卑(ひく)うし、礼を厚うして之を請う。奉養至らざる無し。軻を遣わさんと欲す。軻、樊將軍の首及び燕の督亢の地図を得て以て秦に献ぜんと請う。 丹、於期を殺すに忍びず。軻自ら意を以て之を諷して曰く、願わくは将軍の首を得て、以て秦王に献ぜん。必ず喜んで臣を見ん。臣、左手に其の袖を把り、右手に其の胸を揕(さ)さば、則ち将軍の仇報いられて、燕の恥雪(すす)がれん、と。於期、遂に慨然と自刎(じふん)す。

質 ひとじち  舎す かくまう  樊將軍の首 秦は懸賞金をかけて求めていた。 督亢の地図 燕で一番肥沃の土地  諷して 喩して  揕す 突き刺す  将軍の仇 樊於期が出奔する際、父母一族捕えられて殺された  慨然 いきどおりなげく、と気力を奮い起こすさまと広辞苑にある  自刎 自ら首をはねる。



風蕭蕭兮易水寒 丹奔往、伏哭。乃以函盛其首。又嘗求天下之利匕首、以藥焠之、以試人、血如縷立死。乃装遣軻。行至易水、歌曰、風蕭蕭兮易水寒。壯士一去兮不復還。于時白虹貫日。燕人畏之。

丹奔り往き、伏して哭す。すなわち函を以て其の首を盛る。又嘗て天下の利匕首(ひしゅ)を求め、薬を以て之を焠(さい)し、以て人に試みるに、血、縷の如くにして立(たちどこ)ろに死す。乃ち軻を装遣す。行(ゆ)いて易水に至り、歌って曰く、風蕭蕭として易水寒し。壮士一たび去って復還らず、と。時に白虹日を貫く。燕人之を畏る。  続く

利匕首 切れ味の鋭いあいくち  縷の如くにして 細い糸ほどの傷口なのに  焠 塗りつける、焼き入れる

このとき紀元前227年、900年ほど経った初唐の詩人駱賓王はこの詩を残している。  易水送別           駱賓王 此地別燕丹   此の地燕の丹に別る 壮士髪衝冠   壮士髪冠(かんむり)を衝(つ)く 昔時人已没   昔時(せきじ)の人已(すで)に没し 今日水猶寒   今日水猶お寒し


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軻至咸陽。秦王政大喜見之。軻奉圖進。圖窮而匕首見。把王袖揕之。未及身。王驚起絶袖。軻逐之。環柱走。秦法群臣侍殿上者、不得操尺寸兵。左右以手搏之。且曰、王負劒。遂抜劒斷其左股。軻引匕首擿王。不中。遂體解以徇。秦王大怒、益發兵伐燕。喜斬丹以獻。後三年、秦兵虜喜、遂滅燕爲群。


 荊軻続き 軻、咸陽に至る。秦王政、大いに喜んで之を見る。軻、図を奉じて進む。図窮まって匕首現(あら)わる。王の袖を把って之を揕(さ)す。未だ身に及ばず。王驚き起って袖を絶つ。軻之を逐(お)う。柱を環(めぐ)って走る。秦の法に群臣の殿上に侍する者は、尺寸(せきすん)の兵を操(と)るを得ず。左右手を以て之を搏(う)つ。且つ曰く、王、剣を負(お)えと。遂に剣を抜いて其の左股を断つ。軻、匕首を引いて王に擿(なげう)つ。中(あた)らず。遂に体解して以て徇(とな)う。秦王大いに怒り、益ます兵を発して燕を伐つ。喜、丹を斬って以て献ず。後三年、秦兵、喜を慮にし、遂に燕を滅ぼして郡と為す。 尺寸の兵 わずかな刃物  剣を負え 王の長剣を抜き易くするため背中に回す   中 的中の中  体解して以て徇う 切り刻んで見せしめにした 

秦之先、本顓頊之裔。―中略― 犬戎殺幽王、襄公救周有功。封爲諸侯、賜以岐西地。歴文公・寧公・出子・武公・徳公・宣公・成公、至繆公。有百里傒者、故虞大夫也。爲繆公夫人媵。亡秦走宛。楚人執之。繆公聞其賢、以五羖羊皮贖得之、授之政。號曰五羖大夫。百里傒進友蹇叔、以爲上大夫。

秦の先は、本顓頊(せんぎょく)の裔(すえ)なり。―中略―犬戎幽王を殺すや、襄公、周を救って功有り。封ぜられて諸侯と為り、賜わるに岐西の地を以てす。文公・寧公・出子・武公・徳公・宣公・成公、を歴(へ)て繆公(ぼくこう)に至る。百里傒という者有り、もとの虞の大夫なり。繆公夫人の媵(よう)と為る。秦を亡(に)げて宛に走る。楚人之を執(とら)う。繆公其の賢を聞き、五羖羊(ごこよう)の皮を以て之を贖(あがな)い得て、之に政(まつりごと)を授く。号して五羖大夫を曰う。百里傒、其の友蹇叔(けんしゅく)を進めて、以て上大夫と為す。

媵(よう)諸侯の娘が嫁ぐ時、付き添って行く家臣  五羖羊 五匹の黒い羊



河山以東、強國六、小國十餘。皆以夷狄遇秦、擯不與諸侯之會盟。孝公下令。賓客・羣臣、有能出奇計強秦者、吾其尊官與之分土。衛公孫鞅入秦、因嬖人景監以見、説以帝道・王道、三變爲覇道、而後及強國之術。公大悦、欲變法、恐天下議己。鞅曰、民不可與虞始、而可與樂成。

河山以東、強国六、小国十余あり。皆夷狄を以て秦を遇し、擯(しりぞ)けて諸侯の会盟に与(あずか)らしめず。孝公、令を下す。賓客・群臣、能く奇計を出だし秦を強うする者有らば、吾其れ官を尊くし之に分土を与えん、と。衛の公孫鞅、秦に入り、嬖人(へいじん)景監に因(よ)って以て見(まみ)え、説くに帝道・王道を以てし、三変して覇道と為り、而る後に強国の術に及ぶ。公大いに悦び、法を変ぜんと欲すれども、天下の己(おのれ)を議せんことを恐る。鞅曰く、民は与(とも)に始めを虞(はか)る可からず、而して与に成るを楽しむ可し、と。

夷狄を以て秦を遇し・・ 野蛮国扱いをして会盟にも参加させなかった  公孫鞅 商鞅のこと  嬖人 公のお気に入りの家来  己を議せん・・ 自分を非難する  ともに始めをはかる可からず 手始めを相談することは出来ないが、成功をともに楽しむことはできる



卒定令、令民爲什伍、相収司連坐。不告姦者腰斬、告姦者、與斬敵同賞、匿姦者、與降敵同罰、有軍功者、各以率受爵、爲私鬭者、各以輕重被刑。―中略―  太子犯法。鞅曰、法不行、自上犯之。君嗣不可施刑。刑其傅公子虔、黥其師公孫賈。秦人皆趨令。

卒(つい)に令を定め、民をして什伍を為し、相収司(しゅうし)連坐せしむ。姦を告げざる者は腰斬し、姦を告ぐる者は、敵を斬ると賞を同じうし、姦を匿す者は、敵に降ると罰を同じうし、軍功有る者は、各々率を以手爵を受け、私闘を為す者は、各々軽重を以て刑せらる。―中略― 太子、法を犯す。鞅曰く、法の行われざるは、上(かみ)より之を犯せばなり。君の嗣は刑を施す可からず、と。其の傅(ふ)公子虔(けん)を刑し、其の師公孫賈を黥す。秦人、皆令に趨(おもむ)く。

什伍 隣り組  姦 悪事 傅(ふ) 守り役  黥 額に入れ墨する刑    法の行われないのは、上の人から破るからだが、君のあとつぎを罰することはできないからとして、もりやくを首斬り、師を入れ墨の刑にした。



行之十年。道不拾遺、山無盗賊、家給人足、民勇於公戰、怯於私鬭、郷邑大治。初言令不便者、来言令便。鞅曰、皆亂法之民也。盡遷之邊。民莫敢議。―中略― 秦人富強。封鞅商・於十五邑、號曰商君。孝公薨、惠文王立。公子虔之徒、告鞅欲反。鞅出亡。欲止客舎。舎人曰、商君之法、舎人無驗者坐之。鞅嘆曰、爲法之弊、一至此哉。去之魏。魏不受、内之秦。秦人車裂以徇。鞅用法酷。-中略― 嘗臨渭論囚。渭水盡赤。

之を行うこと十年。道、遺(お)ちたるを拾わず、山に盗賊無く、家々給し人々足り、民、公戦に勇に、私闘に怯に、郷邑大いに治まる。初め令の不便を言いし者、来たって令の便を言う。鞅曰く、皆、法を乱るの民なりと。尽く之を辺に遷(うつ)す。民敢えて議する者莫(な)し 中略 秦人富強なり。鞅を商・於の十五邑に封じ、号して商君と曰う。孝公薨(こう)じ、恵文王立つ。公子虔(けん)の徒、鞅、反せんと欲すと告ぐ。鞅、出でて亡(に)ぐ。客舎に止まらんと欲す。舎人(しゃじん)曰く、商君の法、人の験無き者を舎すれば之に坐すと。鞅嘆じて曰く、法を為(つく)るの幣、一(いつ)に此に至るかと。去って魏に之(ゆ)く。魏受けずして、之を秦に内(い)る。秦人、車裂して以て徇(とな)う。鞅、法を用うること酷なり。中略 嘗て渭に臨んで囚を論ず。渭水尽く赤し。

人の験無き者 通行証を持たないひと  坐す 連座する  車裂 最も重い刑罰、手足、首を牛車で引きちぎる  渭に臨んで囚を論ず 渭水のほとりで囚人を裁断した。


惠文王薨、子武王立。武王使甘茂伐韓。茂曰、宜陽大縣、其實郡也。今倍數險、行千里、攻之難。魯人有與曾參同姓名者。殺人。人告其母。母織自若。及三人告之、母投杼下機、踰墻而走。臣賢不及曾參。王之信臣、又不如其母。疑臣者非特三人。臣恐大王之投杼也。―中略― 今臣覉旅之臣也。樗里子・公孫奭、挟韓而譏、王必聽之。王曰、寡人弗聽。乃盟于息壌。茂伐宜陽。五月而不抜。二人果爭之。武王召茂欲罷兵。茂曰、息壌在彼。王乃悉起兵佐茂、遂抜之。

恵文王薨(こう)じて子の武王立つ。武王、甘茂(かんも)をして韓を伐たしむ。茂曰く、宜陽(ぎよう)は大県にして、其の実は郡なり。いま数険に倍(そむ)き、千里を行き、之を攻むること難し。 魯人、曾參と姓名を同じうする者有り。人を殺す。人其の母に告ぐ。母織ること自若たり。三人之を告ぐるに及んで、母、杼(ちょ)を投じ機(はた)を下り、墻(かき)を踰(こ)えて走る。臣の賢、曾參(そうしん)に及ばず。王の臣を信ずること、又其の母に如かず。臣を疑う者特(ただ)に三人のみに非ず。臣、大王の杼を投ぜんことを恐るるなり。―中略― 今、臣は覉旅(きりょ)の臣なり。樗里子(ちょりし)・公孫奭(こうそんせき)、韓を挟んで譏(そし)らば、王必ず之を聴かんと。王曰く、寡人聴かず、と。乃(すなわ)ち息壌に盟(ちか)う。 茂、宜陽を伐つ。五月(げつ)にして抜けず。二人果して之を争う。武王、茂を召して、兵を罷(や)めんと欲す。茂曰く、息壌彼に在り、と。王乃ち悉く兵を起こして茂を佐(たす)け、遂に之を抜く。

宜陽は大県にしてその実は郡なり わが国とは逆で県の上に郡がある 郡>県 数険に倍(そむ)き、数々の険阻をかさねて、 曾參・・・ 孔子の弟子、曽子と同名の者が殺人を犯した。ある人が思い違いをして曾子の母に其の事を告げたが、母は子を信じて機を織ること常の如くであった。だが三人同じことを告げられると、杼(ひ)を投げ出し機を下りて垣を越えて走った。私は曾子には及びません、王が私を信ずることも曾子の母に及びません。  覉旅の臣 甘茂はもと楚人、子飼いの臣ではない  韓を挟んで 樗里子・公孫奭二人とも韓に縁があり韓に味方して,の意  息壌 秦の邑  息壌彼に在り、息壌はそこにあります(ですから約束を忘れないでください)


https://blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200906/1


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武王の最期は力士孟説と力くらべをして鼎を持ち上げたところ、脈を絶って死んだという。 続き 弟の昭襄王稷(しょく)立つ。魏人范睢(はんすい)という者有り。嘗て須賈(しゅか)に従って齊に使す。齊王、其の辯口を聞き、乃ち之に金及び牛・酒を賜う。賈、睢が國の陰事を以て齊に告げしかと疑い、帰って魏の相の魏齊(ぎせい)に告ぐ。魏齊怒り、睢を笞撃(ちげき)し、脋(きょう)を折り、歯を拉(くだ)く。-中略 睢、出づるを得、姓名を更めて張禄(ちょうろく)と曰う。秦の使者王稽、魏に至り、濳かに載せて與(とも)に帰り、昭襄王に薦めて、以て客卿と為す。教うるに遠交近攻の策を以てす。時に穣侯魏冉、事を用う。睢、王に説いて之を廃せしめ、而して代って丞相と為り、應侯と号す。 魏、須賈をして秦に聘(へい)せしむ。睢、弊衣間歩し、往いて之を見る。賈驚いて曰く范叔、固(まこと)につつが無きか、と。留まり坐して飲食せしめ、曰く、范叔、一寒此くの如きか、と。一綈袍(ていほう)を取って之に贈る。  やがて范睢は須賈のために申し出て、私が宰相に取り次いで来ますと、屋敷に入った。須賈はいつまで経っても出て来ないので、不審に思い門番に尋ねたところ、先ほどお入りになった方は宰相の張禄さまですよ、と。はっと気づいて范睢は膝でにじり歩いて邸内に入って罪を詫びた。睢は坐ったまま須賈を責めて「お前が殺されずにすんでいる訳は、あの綿入れを贈ってくれたことが、なつかしく昔馴染みの心もちが残っていたからだ」と。やがて、他の使者をも招待してご馳走の用意をしたが須賈の前には飼い葉桶が置いてあるだけであった。その上「帰って魏王に告げよ、速やかに魏齊の頭を斬り来たれ」と。魏齊逃げてのち死す。 睢既に志を秦に得、一飯の徳も必ず償い、睚眦(がいさい)の怨みも必ず報いたり。


王既用睢策、歳加兵三晉、斬首數萬。周赧王恐、與諸侯約從、欲伐秦。秦攻周。赧王入秦、頓首請罪、盡獻其邑三十六。周亡。秦將武安君白起、與范睢有隙。廢爲士伍、賜劍死亍杜郵。王臨朝而歎曰、内無良將、外多強敵。睢懼。蔡澤曰、四時之序、成功者去。睢稱病。澤代之。昭襄王薨。子孝文王柱立。薨。子莊襄王楚立。薨。嗣爲王者政也。遂并六國。是爲秦始皇帝。

王既に睢の策を用い、歳ごとに兵を三晋に加え、首を斬ること数万なり。周の赧王恐れて、諸侯と従を約し、秦を討たんと欲す。秦周を攻む。赧王秦に入り、頓首して罪を請い、尽く其の邑三十六を献ず。周亡ぶ。秦の将武安君白起、范睢と隙(げき)有り。廃せられて士伍と為り、剣を賜うて杜郵に死す。王、朝に臨んで歎じて曰く、内に良将無く、外に強敵多しと。睢懼(おそ)る。蔡澤(さいたく)曰く、四時(しいじ)の序、功を成す者は去ると。睢、病と称す。澤之に代る。昭襄王薨じて、子孝文王柱立つ。薨ず。子莊襄王楚立つ。薨ず。嗣(つ)いで王と為る者は政なり。遂に六国を併す。是を秦の始皇帝と為す。

従を約し 合従の策  隙 仲違い  士伍 五人一組の長  杜郵 杜(地名)の宿場  四時の序  春夏秋冬の順序 春の役目を果したら夏に役目を代るように、功成り名遂げたら去るが宜しかろ


黄帝以来、天下列百里之國萬区。蓋自中國以達于四裔。中國之制、可攷於王制者、九州千七百七十三國。古之建侯、各君其國、各子其民、而宗主於天子。歴夏・殷至周、強併弱、大呑小、春秋十二國外、存者無幾、戰國存者六七。至是遂併於秦。

黄帝より以来、天下、百里の国を列(つら)ぬること萬区。蓋し中国より以て四裔に達す。中国の制、王制に攷(かんが)う可き者は、九州千七百七十三国なり。古の候を建つるや、各々其の国に君とし、各々其の民を子とし、而して天子を宗主とす。夏・殷を歴(へ)て周に至り、強は弱を併せ、大は小を呑み、春秋には十二国の外、存する者幾ばくも無く、戦国には存する者六七のみ。是に至って遂に秦に併せらる。

黄帝以来中国の天下に百里四方の国が一万もあった。まことに四方隅々まで令が達していた。中国の制では、礼記王制篇によって知れることは九州(冀・兗・青・除・揚・荊・予・梁・雍)の中に千七百七十三国あった。その昔、諸侯を置いた時、諸侯はそれぞれその国の君主となり、それぞれその民を我が子の如く慈しみ、天子を宗家と仰いだ。夏・殷を歴て周に至り、強国は弱国を併せ、大国は小国を呑み込んで春秋には十二国(魯・衛・晋・鄭・曹・蔡・燕・斉・宋・陳・楚・秦)のほか無く、戦国には七国(秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙)だけとなった。そしてとうとう秦に併合されてしまった。