十八史略新解/周

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周の武王は姫(き)姓にして、名は發、后稷(こうしょく)の十六世の孫(そん)なり。后稷名は棄(き)。棄の母は姜嫄(きょうげん)と曰い、帝嚳(こく)の元妃(げんひ)たり。野に出でて巨人の跡を見、心欣然として之を践(ふ)み、棄を生む。以て不祥と為して、之を隘巷(あいこう)に棄つ。馬牛避けて踏まず。徒(うつ)して山林に置く。適ゞ(たまたま)林中人多きに会す。之を氷上に遷(うつ)す。鳥之を覆翼(ふよく)す。以て神と為して遂に之を収む。児たりし時屹として巨人の志の如し。其の遊戯するに種樹を好む。成人に及んで、能く地の宜しきを相し、民に稼穡(かしょく)を教う。陶唐虞夏の際に興り、農師と為り、邰(たい)に封ぜらる。其の姓を別ち、后稷と号す。

武王は后稷の十六世の子孫で、その后稷の母姜嫄は帝嚳の元妃(第一夫人)で棄(后稷)を産んだが不吉として路地に棄てた。牛馬も避けて踏まず、山林に置いたが、人が居たので果たせず、氷の上において凍死させようとしたが、鳥が翼で覆って助けた。姜嫄は神の子であるとして拾って帰った。幼時からしっかりしていて、大人の様であった。遊びには樹を植え、成人しては地の良し悪しを見て、民に農事を教えた。堯、舜、禹の時代に身を興し、農師となって、邰を支配した。公孫姓を棄て、姫姓を名乗り后稷と号した。

隘巷 狭い路地  稼穡 稼は植えつけ、穡は取り入れ 后稷 后は尊称 稷は五穀で 農事を司る長官 ※古代中国では長男は不祥として棄てられたと読んだことがあります。


〔周武王〕姫姓、名發、后稷之十六世孫也、后稷名棄、棄母曰姜嫄、爲帝嚳元妃、出野見巨人跡、心欣然踐之、生棄、以爲不祥、棄之隘巷、馬牛避不踐、徙置山林、適會林中多人、遷之冰上、鳥覆翼之、以爲神、遂收之、兒時屹如巨人之志、其游戲好種樹、及成人、能相地之宜、敎民稼穡、興於陶唐虞夏之際、爲農師、封于邰、別其姓、號后稷、


卒、【棄】初欲棄之、故名曰棄、【姜嫄】嫄音原、姜姓、嫄名、有邰氏女也、【踐】蹋也、【隘】烏拜切、狹也、【覆】音否去聲、【爲神】朱子曰、無人道而生子、故棄之、而有此異也、故復收之、【屹】音垠入聲、卓立貌、【好】去聲、【樹】猶植也、【稼穡】種曰稼、斂曰穡、【邰】音台、朱子曰、在京兆府武功縣、【別】音編入聲、【號】史記、號曰后稷、別姓姫氏、子不窋立、【窋】之出切、夏后氏政衰、不窋失其官、奔戎狄之閒、不窋卒、子鞠立、鞠卒、子公劉立、復修后稷之業、務畊種、百姓懷之、公劉卒、子慶節立、國於豳、歷皇僕、參弗、毀隃、公非、高圉、亞圉、公叔鉏、至古公亶父、獯鬻攻之、去豳、渡漆沮、踰梁山、邑於岐山下居焉、


豳人曰く仁人なり。失う可からずと。老を扶け幼を携えて以て従う。他の旁國皆之に帰す。古公の長子は太伯。次は虞仲。其の妃太姜、少子季歴を生む。季歴、太任を娶って昌を生む。聖瑞有り。太伯・虞仲、古公の季歴をたてて以て昌に伝えんと欲するを知り、乃ち荊蠻にゆき、断髪文身し、以て季歴に譲る。古公卒し、公季立つ。公季卒し、昌立つ。西伯と為る。

豳の人々は古公が仁君であると、離れず従う。周りの国の人々もついてきた。古公の長男は太伯、次男が虞仲、古公の妃太姜が季歴を生む。季歴は太任を娶って昌を生んだ。時に聖人があらわれる兆しがあった。太伯虞仲は、古公が季歴を経て昌に継がせたいのだと悟って、南蛮の地に移り髪を剪りいれずみをして(二度と戻れないように)季歴に譲った。古公死んで公季(季歴)立ち、公季死んで昌が立った。昌は西方の諸侯の長となる。

豳人曰、仁人也、不可失、扶老攜幼以從、他旁國皆歸之、古公長子太伯、次虞仲、其妃太姜、生少子季歷、季歷娶太任生昌、有聖瑞、太伯虞仲、知古公欲立季歷以傳昌、乃如荊蠻、斷髮文身、以讓季歷、古公卒、公季立、公季卒、昌立、爲西伯




西伯、徳を修む。諸侯之に帰す。虞芮(ぐぜい)田を争い、決すること能わず。 乃ち周に如(ゆ)く堺に入って畊(たがや)す者を見るに、皆畦(あぜ)を遜(ゆず)り、民俗皆長に譲る。二人慙(は)ぢ、相謂いて曰く、吾が争う所は、周人の恥づる所なり、と。乃ち西伯に見(まみ)えずして還り、倶に其の田を譲って取らず。漢の南、西伯に帰する者四十国。皆以て受命の君と為す。天下を三分して、其の二を有(たも)つ。

虞芮 虞と芮の二国  受命 天命を受けた  有つ 保有の有 周人(しゅうひと)シュウジンとは読まない。豳人、商人も同じ


西伯修德、諸侯歸之、虞芮爭田、不能決、乃如周、入界見畊者皆遜畔、民俗皆讓長、二人慙、相謂曰、吾所爭周人所恥、乃不見西伯而還、俱讓其田不取、漢南歸西伯者四十國、皆以爲受命之君、三分天下、有其二、【西伯】紂命文王、爲西方諸侯之長、得專征伐、故稱西伯、【虞芮】二國名、虞在今陝州平陸縣、芮在今同州馮翊縣、傳曰、虞芮之君、相與爭田、久而不平、乃相謂曰、西伯仁人也、盍往質焉、乃相與朝周、【長】音張上聲、【漢】水出興元府番冢山、至漢陽軍大別山入江、【有其二】天下九州、歸文王者六州、惟靑、兗、冀、尙屬紂耳、



有呂尙者、東海上人、窮困年老、漁釣至周、西伯將獵、卜之、曰、非龍非彲、非熊非羆、非虎非貔、所獲霸王之輔、果遇呂尙於渭水之陽、與語大悅曰、自吾先君太公曰、當有聖人適周、周因以興、子眞是耶、吾太公望子久矣、故號之曰太公望、載與俱歸、立爲師、謂之師尙父、【呂尙】呂氏、尙名、姜姓、【東海】全書作東河、在冀州、【至周】皇甫士安曰、太公欲隱東海、聞文王善養老、遂入釣于周、以干文王、【將】音漿、下竝同、【彲】音螭、神獸、【熊】獸、似豕、【羆】音碑、獸、似熊而長頭高脚、【虎】猛獸、說文云、山獸之君也、【貔】音毘、猛獸、【渭水】出渭州渭源縣鳥鼠山、至同州馮翊縣、入河陽水北也、【耶】語、助辭、後不音、讀者可以意詳、【尙父】父音甫、通鑒注、謂可尙可父、天子師也、西伯卒、子發立、是爲〔武王〕東觀兵至於盟津、白魚入王舟中、王俯取以祭、旣渡、有火自上復于下、至于王屋、流爲烏、其色赤、其聲魄、是時諸侯不期而會者八百、皆曰、紂可伐矣、王不可、引歸、【觀兵】示兵威也、觀音貫、【盟】孟同、在孟州河陽縣、【白魚】馬融曰、魚者介鱗之物、兵象也、白者殷家之正色、入王舟、是殷命歸周之兆也、【復】音伏、【王屋云云】馬曰、王屋王所居屋、流行也、魄然安定意也、鄭玄云、烏有孝德、武王卒父大業、故鳥瑞臻、赤者周之正色也、或曰、王屋山名、在河南北五里、【引歸】還師、有未知天命之語、○案、書傳、蔡云、孔氏以爲武王十一年觀兵、十三年伐紂、武王觀兵、是以臣脅君也、程子曰、此事閒不容髮、一日天命未絕、則是君臣、當日而絕、則爲獨夫、豈有觀兵而後伐之哉、司馬遷作周本紀、因亦謂觀兵而後伐紂、訛謬相承、展轉左驗、後世儒者、遂謂實然、而使武王蒙千百年脅君之惡、嗚呼惜哉、紂不悛、王乃伐紂、載西伯木主以行、伯夷叔齊叩馬諫曰、父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎、以臣弑君、可謂仁乎、左右欲兵之、太公曰義士也、扶而去之、【不悛】不改過也、悛音筌、【木主】神主、【伯夷叔齊】姓墨、伯者居長之稱、名允、字公信、諡曰夷、叔其弟也、名智、字公達、諡曰齊、孤竹君二子也、【弑】大逆曰弑、【兵】猶殺也、○武王太公之心、恐一時之無君、伯夷叔齊之心、恐萬世之無君、此義蓋竝行而不相悖也、王旣滅殷爲天子、追尊古公爲太王、公季爲王季、西伯爲文王、天下宗周、通鑒、武王旣勝殷、乃改正朔以建子月爲正月、色尙赤、牲用騂、以赤爲徽號、朝燕服冕而玄衣、伯夷叔齊恥之、不食周粟、隱於首陽山、作歌曰、登彼西山兮、采其薇矣、以暴易暴兮、不知其非矣、神農虞夏、忽焉沒兮、我安適歸矣、于嗟徂兮、命之衰矣、遂餓而死、【首陽山】在河中府河東縣南、【薇】似蕨而差大、有芒而味苦、可食、【適】音的、【于】吁同、【徂】周語作殂死也、【餓而死】謂不食祿而終其身、非饑餓而死也、武王崩、太子誦立、是爲〔成王〕成王幼、周公位冢宰攝政、管叔蔡叔流言曰、公將不利於孺子、與武庚作亂、武庚者、武王所立紂子祿父、爲殷後者也、周公東征誅武庚管叔、放蔡叔、王長周公歸政、【幼】年十三而卽位、【周公】武王弟、名旦、【冢宰】官掌邦治、統百官、均四海、【管叔蔡叔】管叔鮮、蔡叔度、皆武王弟、旣克殷、使之監於殷、【孺子】孺稚也、謂成王、【誅武庚云云】事見書金縢諸篇、【長】音張上聲、【歸改】史記、成王長能聽政、周公歸政於成王、成王臨朝、周公北面就臣位、初武王作鎬京、謂之宗周、是爲西都、將營洛邑、未果、王欲如武王之志、召公遂相宅、周公至洛築王城、是爲東都、以洛爲天下中、四方入貢道里均也、王居西都、而朝會諸侯於東都、周公召公、相成王爲左右人、自陝以西、召公主之、自陝以東、周公主之、交趾南有越裳氏、重三譯而來、獻白雉、曰、吾受命國之黃耇、天無烈風淫雨、海不揚波三年矣、意者中國有聖人乎、周公歸之王、薦于宗廟、使者迷歸路、周公錫以輧車五乘、皆爲指南之制、使者載之、由扶南林邑海際、朞年而至國、故指南車常爲先導、示服遠人而正四方、【初】凡言初者、因此年之事、而推其所由始也、後凡云先是者、亦倣此、【鎬京】在豐邑東二十五里、鎬音皓、王都曰京、【召公】名奭、召音邵、【相】去聲、【東都】案、書傳、洛水出商州洛南縣家領山、至鞏縣入河、王城在其北、曰洛陽、其地前直伊闕、後據邙山、左瀍右㵎、洛水貫其中、以象天漢、武王欲營都邑、而未成、成王遂卒其志而營之、後云郟鄏、卽此地也、餘見召誥傳文、【貢】下供於王曰貢、【左】佐同、【陝】音閃、州屬河南、【越裳氏】漢地理、交趾郡本南粵之地、武帝元鼎六年置、越裳之國又在其南、【重三譯】重平聲、譯音亦、通兩番之語者曰譯、重三譯者、過三國也、【獻】者下獻上之名也、【曰】使者言、【黃耇】耇音苟、老人髮白復黃、面色常垢、故曰黃耇、【烈風淫雨】暴風曰烈、大雨曰淫、【有聖人乎】以上乃黃耇之言、【錫】賜也、【輧】音駢、車有四面屛蔽曰輧車、【乘】去聲、【扶南】國在南蠻、【林邑】亦南蠻國、【朞年】歲一周曰朞、【常爲】之爲去聲、【導】引也、成王崩、子〔康王釗〕立、成康之際、天下安寧、刑錯四十餘年不用、【釗】音昭、【刑錯】錯措同、道隆德盛、民不犯刑、康王崩、子〔昭王瑕〕立、昭王南巡狩至楚、以膠舟載之、溺不返、【膠舟】正義曰、昭王德衰、南征濟漢、船人惡之、以膠船進王、王御船至中流、膠液船解、膠音交、【溺】音匿、子〔穆王滿〕立、有造父者、以善御幸於王、得八駿馬遊行天下、將皆有車轍馬跡、王西巡、世傳、王以此時、觴西王母瑤池上、樂而忘歸、徐偃王作亂、造父御王、長驅歸救亂、吿楚伐徐、徐敗、王將征犬戎、祭公謀父諫曰、先王耀德不觀兵、王不聽征之、得四白狼四白鹿以歸、自是荒服不至、諸侯不睦、【造】音操、【幸】得寵曰幸、【八駿馬】曰絕地、曰翻羽、曰奔霄、曰超景、曰踰輝、曰超光、曰騰霧、曰挂翼、【轍】車跡曰轍、【西王母】仙傳拾遺、又號金母元君、【瑤池】在崑崙、【樂】音洛、【偃王】東方諸侯徐子也、嬴姓、僭稱曰王、【吿】通鑒作命、【犬戎】西夷名、【祭】音債、【謀父】韋昭曰、祭畿內之國、周公之後、王卿士、謀父字也、【觀】音貫、【狼】似犬銳頭、白頬、高前、廣後、【荒服】要服之外曰荒服、見禹貢、崩、子〔共王繄扈〕立、崩、子〔懿王囏〕立、崩、弟〔孝王辟方〕立、崩、子〔夷王燮〕立、下堂而見諸侯、楚始僭稱王、【共】音恭、【繄】於兮切、【囏】古文艱、【辟】音壁、【燮】音纖入聲、夷王崩、子〔厲王胡〕立、無道、暴虐侈傲、得衞巫使監國人之謗者、以吿則殺之、道路以目、王喜曰、吾能弭謗矣、或曰、是障也、防民之口、甚於防川、水壅而潰、傷人必多、王弗聽、於是國人相與畔、王出奔彘、二相周召共理國事、曰共和者十四年、而王崩于彘、【監】平聲、察也、【以目】史記、王行侈傲、國人謗王、王怒使衞巫監之、巫以謗者吿、王卽殺之、故國人莫復敢言、道路閒惟以目相盻而已、【弭】音美、止也、【潰】音回去聲、旁決也、【彘】音滯、縣屬河東、今霍邑縣、【相】去聲、【周召】召音邵、下同、非周公旦召公奭、自二公之後、凡輔相周室者、皆通稱曰周召、【共】如字、子〔宣王靜〕立、任賢使能、有召穆公、方叔、尹吉甫、仲山甫等、爲政於內外、召穆公名虎、出平淮夷、方叔南征荊蠻、尹吉甫北伐玁狁、仲山甫以補袞職、王化復行、周室中興焉、崩、子〔幽王宮涅〕立、初夏后氏之世、有二龍降于庭、曰予襃之二君、卜藏其𣺶、歷夏殷莫敢發、周人發之、𣺶化爲黿、童妾遇之而孕、生女、棄之、宣王時有童謠、曰檿弧箕服、實亡周國、適有鬻是器者、宣王使執之、其人逃、於道見棄女、哀其夜號而取之、逸於襃、

幽王の時に至り、褒人(ほうひと)罪有り。是の女を王に入る。是を褒娰(ほうじ)と為す。王之を嬖(へい)す。褒娰笑うことを好まず。王その笑わんことを欲し、萬方すれど笑わず。故(かっ)て王、諸侯と約し、寇(あだ)至る有らば、則ち烽火を挙げ、其の兵を召して来援せしむと。乃ち故無くして火を挙ぐ。諸侯悉(ことごと)く至る。而も寇無し。褒娰大いに笑う。王、申后及び太子宜臼(ぎきゅう)を廃し、褒娰を以て后と為し、其の子伯服を太子と為す。

十二代幽王の時、褒ひとが咎めを受け、償いにこの女を献上した。幽王は褒娰と名づけて寵愛した。褒娰は笑うことをしない、いろいろ試したが笑わない。かねてより、幽王は諸侯と、外敵が侵入したら、のろしを合図に来援すべし、と約す。ある日何も無いのに烽火を挙げたところ、諸侯が残らず参集した、しかし外敵は無し。褒娰がここで笑った、王、申后及び太子宜臼を廃し褒娰を皇后にし其の子伯服を太子にした。

至幽王之時、襃人有罪、入是女於王、是爲襃姒、王嬖之、襃姒不好笑、王欲其笑、萬方不笑、故王與諸侯約、有寇至、則擧烽火、召其兵來援、乃無故擧火、諸侯悉至、而無寇、襃姒大笑、王廢申后及太子宜臼、以襃姒爲后、其子伯服爲太子、

宜臼、申に奔(はし)る。王求めて之を殺さんとす。得ず。申を伐つ。申侯、犬戎を召して王を攻む。王、烽火を挙げて兵を徴(ちょう)す。至らず。犬戎、王を驪山の下に殺す。諸侯、宜臼を立つ。是を平王と為す。西都の戎に逼(せま)らるるを以て、徒(うつ)って東都の王城に居る。時に周室衰微して、諸侯、強は弱を併せ、齊・楚・秦・晉、始めて大なり。平王の四十九年は、即ち魯の隠公の元年なり。其の後孔子春秋を修する、此に始まる。

宜臼(ぎきゅう)は母の生国である申に逃げた。王は殺そうとしたが果たせなかった。そこで申を攻めた。申は犬戎の援けを得て幽王を攻めた。王は烽火を挙げたが、諸侯は懲りて参集せず驪山のもとで殺されてしまった。諸侯は宜臼を立ててこれを平王とした。都の鎬京(こうけい)がしばしば外敵に侵されるので東の洛陽に遷都した。ここに西周は終わる、紀元前771年とされる。周王室は衰え、斉、楚、秦、晋が強大となり、後に孔子がまとめた春秋は平王四十九年魯の隠公元年より書き起こしたので、この時をもって春秋時代の始めとする。

※春秋 紀元前722年から前481年まで魯国の歴史を編年体で記す、孔子の手が加えられ儒教の聖典五経の一つに数えられる。左丘明が注釈をしたものを春秋左氏伝(左伝)という。


宜臼奔申、王求殺之、弗得、伐申、申侯召犬戎攻王、王擧烽火徵兵、不至、犬戎殺王驪山下、【涅】音年、入聲、【襃】國在襃城、【𣺶】音俟平聲、韋昭曰、龍所吐沫𣺶、龍之精氣也、【黿】音元、史記注作蚖、謂蜥蜴也、【孕】音盈去聲、【棄之】不夫而育、故棄之、【檿弧箕服】檿音掩、弧音胡、韋昭云、山桑曰檿、弧弓也、箕竹名、服矢房也、【鬻】音育、賣也、【號】音豪、【逸】匿也、【嬖】愛也、【萬方】多方以誘其笑、【烽】邊火曰烽、有急則於高處擧之、以爲號、【援】音院、救也、【奔申】姜姓國、宜臼母家、地在鄧州信陽軍之境、【徵】召也、【驪山】在華州渭南縣、古驪戎所居、故曰驪、

諸侯立宜臼、是爲〔平王〕以西都逼於戎、徙居東都王城、時周室衰微、諸侯强幷弱、齊楚秦晉始大、平王之四十九年、卽魯隱公之元年、其後孔子修春秋始此、【幷】倂同、後不音者皆倣此、【周室衰微】通鑒曰、四國更征伐、天子不能制、○蘇氏曰、周之失計、未有如東遷之謬也、自平王而至于亡、非有大無道者也、顯王之神聖、諸侯服享、然終以不振、則東遷之過也、昔武王克商、遷九鼎于洛邑、成王周公增營之、周公旣沒、君陣、畢公更居焉、以重王室而已、非有意於遷也、今夫富民之家、遺子孫者、田宅而已、不幸而有敗、雖乞假而生可也、然終不敢議田宅、今平王擧文武成康之業而棄之、此一敗而粥田宅者也、夏商之王、皆五六百年、而後王之敗、皆不減幽厲、然至於桀紂而後亡、其未亡也、天下宗之、不如東周之名存而實亡者、則不粥田宅之效也、商雖有遷、避水患也、非避寇也、其避寇而遷者、未有不亡、雖不卽亡、未有能復振者也、【春秋始此】春秋魯史記之名也、孔子以平王東遷、命令改敎不行於天下、故不得不因而修之、以示襃貶之法也、


周代の統治制度は天子(王)の下に、多くの諸侯が土地を領有し、領内の政治の全権を 諸侯が掌握した。(封土を分けて諸侯を建てる 封建制度)諸侯は王の命があれば、自国の兵を発した。王の権威が弱くなると、弱小国を併合する者、勝手に王を称するもの、鼎の軽重を問うものが出てきた。

平王崩ず。太子の子、桓王林立つ。崩ず。子の荘王侘(た)立つ。崩ず。子の釐王胡碎齊(きおうこせい)立つ。齊の桓公始めて覇たり。釐王崩ず。子の恵王閬(ろう)立つ。 崩ず。子の襄王鄭立つ。晉の文公始めて覇たり。中略 楚の荘王人をして鼎の軽重を問わしむ。王孫満之を卻(しりぞ)く。  以下続く。


平王崩、太子之子〔桓王林〕立、崩、子〔莊王佗〕立、崩、子〔釐王胡齊〕立、齊桓公始霸、【太子】洩父、【佗】音駝、【釐】音煕、【霸】持諸侯之權曰霸、釐王崩、子〔惠王閬〕立、崩、子〔襄王鄭〕立、晉文公始霸、【閬】音浪、襄王崩、子〔頃王壬匡〕立、崩、子〔匡王班〕立、崩、弟〔定王瑜〕立、楚莊王使人問鼎輕重、王孫滿卻之、【頃】音傾、【卻】却同、退也、後不音者皆倣此、有在德不在鼎、及鼎之輕重不可問也之語詳見左宣三年、

定王崩ず。子の簡王夷立つ。呉始めて僭(せん)して王と稱す。簡王崩ず。子の霊王泄心(えいしん)立つ。孔子其の時に生まる。霊王崩ず。子の景王貴立つ。崩ず。子の悼王猛立つ。庶弟の子朝(しちょう)之を弑す。晉人子朝を攻めて、敬王丐(めん)を立つ。孔子其の時に歿す。敬王崩ず。子の元王仁立つ。崩ず。子の貞王介立つ。崩ず。子の哀王去疾立つ。弟の思王叔帯襲うて之を弑して自立す。少弟の孝王嵬又攻めて思王を殺して自立す。崩ず。子の威烈王午立つ。晉の趙氏・魏氏・韓氏、始めて侯たり。周東遷より以来、是に及ぶまで二十世にして愈々微なり。諸侯兵を用いて強を争う。号して戦国と為す。


定王崩、子〔簡王夷〕立、吳始僭稱王、簡王崩、子〔靈王泄心〕立、孔子生於其時、靈王崩、子〔景王貴〕立、崩、子〔悼王猛〕立、庶弟子朝弑之、晉人攻子朝、而立〔敬王丐〕孔子歿於其時、敬王崩、子〔元王仁〕立、崩、子〔貞定王介〕立、崩、子〔哀王去疾〕立、弟〔思王叔帶〕襲弑之而自立、少弟〔考王嵬〕又攻殺思王而自立、崩、子〔威烈王午〕立、晉〔趙〕氏〔魏〕氏〔韓〕氏始侯、周自東遷以來、及是二十世而愈微、諸侯用兵爭强、號爲戰國、【朝】音潮、【丐】音緬、王猛母弟、【歿】音沒、卒也、【去】上聲、【襲】掩其不備曰襲、【嵬】音外平聲、○司馬温公資治通鑒始此、愚案、公曰、天子之職莫大於禮、禮莫大於分、分莫大於名、夫晉大夫暴滅其君、剖分晉國、天子旣不能討、又寵秩之、使列於諸侯、是區區之名分、復不能守、而倂棄之也、先王之禮、於斯盡矣、温公編鑒而始於此者、其亦春秋之意歟、

威烈王崩ず。子の安王驕立つ。齊の田氏始めて侯たり。安王崩ず。子の烈王喜立つ。崩ず。弟の顕王扁立つ。諸侯皆僭して王と称す。顕王崩ず。子の慎靚王定立つ。崩ず。子の赧王(たんおう)延立つ。五十九年、諸侯と從を約して秦を攻む。秦の昭王、周を攻む。赧王、秦に奔(はし)り、頓首して罪を受け、盡く其の邑を献ず。秦、献を受けて赧王を周に帰す。以って卒す。周、天子たること三十七世なり。初め夏亡んで、九鼎、殷に遷(うつ)る。殷亡んで周に遷る。成王、鼎を定め、卜して曰く、世を伝うること三十、年を歴(ふ)ること七百ならん、と。是に至って乃ち其の歴を過ぐ。凡て八百六十七年なり。

威烈王崩、子〔安王驕〕立、齊〔田〕氏始侯、安王崩、子〔烈王喜〕立、崩、弟〔顯王扁〕立、諸俟皆僭稱王、顯王崩、子〔愼靚王定〕立、崩、子〔赧王延〕立、五十九年、與諸侯約從攻秦、秦昭王攻周、赧王奔秦、頓首受罪、盡獻其邑、秦受獻、而歸赧王於周、以卒、周爲天子三十七世、初夏亡、九鼎遷殷、殷亡遷周、成王定鼎於郟鄏、卜曰、傳世三十、歷年七百、至是乃過其歷、凡八百六十七年、【扁】音匾、【靚】音淨、【赧】奴板切、【從】音蹤、合兵曰從、【頓首】頭叩地曰頓首、【郟】音夾、【鄏】音辱、【歷】數也、○司馬温公曰、周自平王東遷、日以衰微、至於戰國、又分而爲二、其土地人民、不足以比强國之大夫、然天下猶尊之以爲王、守文武之宗祧、綿綿然久而不絕、其故何哉、植本固、而源深且遠故也、昔周之興也、禮以爲本、仁以爲源、自后稷以來至於文武成康、其講禮也備矣、其施仁也深矣、民習於耳目浹於骨髓、雖後世微弱、其民將有陵慢之心、則畏先王之禮而不敢爲、將有離散之心、則思先王之仁而不忍去、此其所以享國長久之道、不然以區區數邑、處於七暴國之閒、一日不可存、況於數十年乎、