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十八史略新解/三国志

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【黄巾の乱】十八史略  鉅鹿張角、以妖術教授。号太平道。符水療病。遣弟子遊四方、転相誑誘。十余年間徒衆数十万。置参十六方。大方万余、小方六七千、各立渠帥。一時倶起。皆著黄巾所在燔劫、旬月之間、天下響応。遣皇甫嵩等討黄巾。  鉅鹿(きょろく)の張角、妖術を以て教授す。太平道と号す。符水(ふすい)を以て病を療す。弟子を遣はして四方に遊ばしめ、転(うた)た相誑誘(きょうゆう)す。十余年間に徒衆数十万あり、参十六方を置く。大方は万余、小方は六七千、各?(おのおの)渠帥(きょすい)を立つ。一時倶(とも)に起る。皆黄巾(こうきん)を著(つ)け、所在に燔劫(はんきょう)す。旬月の間、天下響応す。皇甫嵩(こうほすう)らを遣はして黄巾を討たしむ。   (以下、吉川英治『三国志』桃園の巻より引用 青空文庫版)  また、黄巾軍の徒党は、全軍の旗もすべて黄色を用い、その大旆(おおはた)には、    蒼天已死      そうてんすでにしす    黄夫当レ 立     こうふまさにたつべし    歳在二 甲子一      としこうしにありて    天下大吉      てんかだいきち  という宣文を書き、党の楽謡部は、その宣文に、童歌風のやさしい作曲をつけて、党兵に唄わせ、部落や村々の地方から郡、県、市、都へと熱病のようにうたい流行(はや)らせた。  大賢良師張角!  大賢良師張角!  今は、三歳の児童も、その名を知らぬはなく、 (――蒼天スデニ死ス。黄夫マサニ立ツベシ)  と唄った後では、張角の名を囃(はや)して、今にも、天上の楽園が地上に実現するような感を民衆に抱かせた。  けれど、黄巾党が跋(ばっ)扈(こ)すればするほど、楽土はおろか、一日の安(あん)穏(のん)も土民の中にはなかった。  張角は自己の勢力に服従してくる愚民どもへは、 (太平を楽しめ)と、逸(いつ)楽(らく)を許し、 (わが世を謳(おう)歌(か)せよ)と、暗に掠奪を奨励した。  その代りに、逆(さか)らう者は、仮(か)借(しゃく)なく罰し、人間を殺し、財宝を掠(かす)めとることが、党の日課だった。  地(じ)頭(とう)や地方の官吏も、防ぎようはなく、中央の洛陽の王城へ、急を告げることもひんぴんであったが、現下、漢帝の宮中は、頽(たい)廃(はい)と内争で乱脈をきわめていて、地方へ兵をやるどころではなかった。  天下一統の大業を完成して、後漢の代を興した光武帝から、今は二百余年を経、宮府の内外にはまた、ようやく腐(ふ)爛(らん)と崩壊の兆(ちょう)があらわれてきた。  十一代の帝、桓(かん)帝(てい)が逝(ゆ)いて、十二代の帝位についた霊帝は、まだ十二、三歳の幼少であるし、輔佐の重臣は、幼帝をあざむき合い、朝綱(ちょうこう)を猥(みだ)りにし、佞智(ねいち)の者が勢いを得て、真実のある人材は、みな野に追われてしまうという状態であった。  心ある者は、ひそかに、 (どうなり行く世か?)と、憂えているところへ、地方に蜂(ほう)起(き)した黄巾賊の口々から、  ――蒼天已死  そうてんすでにしす  の童歌が流行ってきて、後漢の末世を暗示する声は、洛陽の城下にまで、満ちていた。 (引用終わり)     【月旦評】十八史略  嵩与沛国曹操、合軍破賊。操父嵩、為宦者曹騰養子。或云、夏侯氏子也。操少機警、有権数。任侠放蕩、不治行業。汝南許劭、与従兄靖有高名。共覈論郷党人物。毎月輒更其題品。故汝南俗有月旦評。操往問劭曰、我何如人。劭不答。劫之。乃曰、子治世之能臣、乱世之姦雄。操喜而去。至是以討賊起。  嵩(すう)、沛国(はいこく)の曹(そう)操(そう)と軍(ぐん)を合(あは)せて賊(ぞく)を破(やぶ)る。操(そう)の父(ちち)嵩(すう)、宦者(かんじゃ)曹騰(そうとう)の養(よう)子(し)と為(な)る。或(ある)いは云(い)ふ、夏(か)侯(こう)氏(し)の子(こ)なりと。操(そう)、少(わか)くして機警(きけい)、権数(けんすう)有(あ)り。任(にん)侠(きょう)放(ほう)蕩(とう)にして行(こう)業(ぎょう)を治(をさ)めず。汝南(じょなん)の許(きょ)劭(しょう)、従兄(じゅうけい)の靖(せい)と高名(こうめい)有(あ)り。共(とも)に郷(きょう)党(とう)の人(じん)物(ぶつ)を覈論(かくろん)す。毎(まい)月(つき)、輒(すなは)ち其(そ)の題(だい)品(ひん)を更(あらた)む。故(ゆゑ)に汝南(じょなん)の俗(ぞく)に月(げっ)旦(たん)の評(ひょう)有(あ)り。操(そう)、往(ゆ)きて劭(しょう)に問(と)ひて曰(いは)く「我(われ)は如何(いか)なる人(ひと)ぞ」と。劭(しょう)、答(こた)へず。之(これ)を劫(おびやか)す。乃(すなは)ち曰(いは)く「子(し)は治(ち)世(せい)の能(のう)臣(しん)、乱(らん)世(せい)の姦雄(かんゆう)なり」と。操(そう)、喜(よろこ)びて去(さ)る。是(ここ)に至(いた)りて賊(ぞく)を討(う)つを以(もっ)て起(お)こる。   (以下、吉川英治『三国志』桃園の巻より引用 青空文庫版)  曹操は一日、その許子将を訪れた。座中、弟子や客らしいのが大勢いた。曹操は名乗って、彼の忌憚ない「曹操評」を聞かしてもらおうと思ったが、子将は、冷たい眼で一眄(いちべん)したのみで、卑(いや)しんでろくに答えてくれない。 「ふふん……」  曹操も、持前の皮肉がつい鼻先へ出て、こう揶(や)揄(ゆ)した。 「――先生、池の魚は毎度鑑(み)ておいでらしいが、まだ大海の巨鯨は、この部屋で鑑たことがありませんね」  すると、許子将は、学究らしい薄べったくて、黒ずんだ唇から、抜けた歯をあらわして、 「豎子(じゅし)、何をいう! お前なんぞは、治世の能臣、乱世の姦雄だ」  と、初めて答えた。  聞くと、曹操は、 「乱世の姦雄だと。――結構だ」  彼は、満足して去った。 (引用終了)   (注) 許劭の曹操評は、正史では「治世之能臣、乱世之姦雄」(『三国志』魏書・武帝紀注)あるいは「清平之姦賊、乱世之英雄」(『後漢書』許劭伝)であった。   【張角の死】十八史略  皇甫嵩討張角。角死。嵩与其弟戦、破斬之。  皇甫嵩、張角を討つ。角死す。嵩、其の弟と戦ひ、破りて之を斬る。   【献帝即位】十八史略  上崩。在位二十二年、改元者四、曰建寧・熹平・光和・中平、子辨立。何太后臨朝。后兄大将軍何進、録尚書事。袁紹勧進誅宦官。太后未肯。紹等画策、召四方猛将、引兵向京、以脅太后、遂召将軍董卓之兵。卓未至。進為宦官所殺。紹勒兵捕諸宦官、無少長皆殺之。凡二千余人。有無鬚而誤死者。卓至問乱由。辨年十四、語不可了。陳留王答無遺。卓欲廃立。紹不可。卓怒。紹出奔。卓遂廃辨。陳留王立。是為孝献皇帝。  上(しょう)崩ず。在位二十二年、改元すること四、建寧・熹平・光和・中平と曰ふ。子の弁、立つ。何太后、朝に臨む。后の兄、大将軍・何進(かしん)、録尚書事となる。袁紹(えんしょう)、進に宦官を誅せよと勧む。太后、未だ肯(がえ)んぜず。紹ら画策し、四方の猛将を召して兵を引(ひきゐ)て京(けい)に向かひ、以て太后を脅かし、遂に将軍董卓(とうたく)の兵を召す。卓、未だ至らず。進、宦官の殺す所と為る。紹、兵を勒(ろく)して諸?(もろもろ)の宦官を捕へ、少長と無く皆、之を殺す。凡そ二千余人なり。鬚(ひげ)無くして誤ちて死する者有り。卓、至り、乱の由(よし)を問ふ。弁、年十四、語、了すべからず。陳留王、答へて遺(のこ)す無し。卓、廃立せんと欲す。紹、可(き)かず。卓、怒る。紹、出奔す。卓、遂に弁を廃す。陳留王、立つ。是を孝献皇帝と為す。   (注) 献帝(181~234)。姓は劉、諱(いみな)は協、字(あざな)は伯和。後漢の最後の皇帝。禅譲して退位し、山陽公となった。魏による諡号(しごう)は孝献皇帝、蜀漢による諡号は孝愍皇帝。古代日本の東漢氏(やまとのあやうじ)は献帝の子孫と称した。   【反董卓連合軍】十八史略  孝献皇帝名協、九歳為董卓所立。関東州郡、起兵討卓、推袁紹為盟主。卓焼洛陽宮廟、遷都長安。  孝献皇帝、名は協、九歳にして董卓の立つ所と為る。関東の州郡、兵を起して卓を討ち、袁紹(えんしょう)を推(お)して盟主と為す。卓、洛陽の宮廟(きゅうびょう)を焼き、都を長安に遷(うつ)す。   頼山陽「詠三国人物十二絶句」 六、本初 冀北万蹄麾蓋辺 群雄用武孰斉肩 不蹂千里青青草 熟視阿瞞先著鞭 冀(き)北(ほく) 万蹄 麾(さしま)ねきて辺を蓋(おほ)ふ 群雄 武を用ゆる 孰(たれ)か肩を斉(ひと)しうする 蹂(ふ)まず 千里青青の草 熟視すれば 阿瞞(あまん) 先(むち)づ鞭(むち)を著(ちゃく)す   千里青青草=董卓のアナグラム。 阿瞞=曹操の小字。 著=「著作」「著名」のときはチョと読むが、「著鞭」のときはチャクと読む。 [大意]  袁紹は最初、ヒーローだった。彼は反・董卓連合軍のリーダーとして、冀北の地から攻め寄せてきた。しかし、いざ開戦となると、董卓の強大な軍事力がこわくなり、足踏みした。敵と見合っているうちに、袁紹よりずっと小物だった曹操が先(せん)鞭(べん)をつけ、自軍に進撃の号令をくだした。 [評]「先鞭をつける」は、漢文の四字成語では「先我著鞭」ないし「先吾著鞭」。   【孫堅】十八史略  長沙太守富春孫堅、起兵討卓。至南陽。衆数万、与袁術合兵。術与紹同祖。皆故太尉袁安之玄孫也。袁氏四世五公、富貴異於佗公族。紹壮健有威容、愛士。士輻湊。術亦?気。至是皆起。堅撃敗卓兵。術遺堅図荊州。為劉表将黄祖歩兵所射死。  長沙の太守・富春の孫堅(そんけん)、兵を起して卓を討つ。南陽に至る。衆数万、袁術(えんじゅつ)と兵を合(がっ)す。術は紹と同祖なり。皆、故(もと)の太尉・袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗(た)の公族に異なり。紹、壮健にして威容あり。士を愛す。士、輻湊(ふくそう)す。術も亦た侠気あり。是(ここ)に至りて皆起る。堅、撃ちて卓の兵を敗る。術、堅をして荊州を図らしむ。劉表の将・黄祖(こうそ)の歩兵の射る所と為りて死す。   【呂布と董卓】十八史略  司徒王允等、密謀誅卓。中郎将呂布、膂力過人。卓信愛之。嘗小失卓意。卓手戟擲布。布避得免。允結布為内応。卓入朝、伏勇士於北掖門刺之。卓堕車大呼呂布。布曰、有詔討賊臣。応声持矛、刺卓趣斬之。先是卓築塢于?、積穀為参十年儲。金銀・綺錦・奇玩、積如丘山。自云、事成拠天下。不成守此以老。至是暴屍於市。卓素肥。吏為大?、置臍中然之。光達曙者数日。卓党与兵犯闕、殺王允。呂布走。  司徒・王允(おういん)ら、密かに謀りて卓を誅す。中郎将・呂布(りょふ)、膂力(りょりょく)人に過ぐ。卓、之を信愛す。嘗て少しく卓の意を失ふ。卓、手づから戟(ほこ)もて布に擲(なげう)つ。布、避けて免(まぬか)るるを得たり。允、布に結びて内応を為さしむ。卓の入朝するとき、勇士を北掖門(ほくえきもん)に伏せて之を刺す。卓、車より墜ちて、大いに呂布を呼ぶ。布曰く「詔(みことのり)有りて賊臣を討つ」と。声に応じて矛を持ち、卓を刺し趣(すみや)かに之を斬る。是より先、卓、塢(お)を?(び)に築き、穀を積みて参十年の儲を為す。金銀・綺錦・奇玩、積むこと丘山の如し。自ら云ふ「事成らば天下に拠(よ)らん。成らずんば此(これ)を守りて以て老いん」と。是(ここ)に至りて屍(し)を市に暴(さら)す。卓、素(もと)より肥えたり。吏、大?(だいしゅ)を為(つく)りて臍中(せいちゅう)に置き、之を然(や)く。光、曙に達すること数日なり。卓の党、兵を挙げて闕(けつ)を犯し、王允を殺す。呂布走る。   【劉備、関羽、張飛】十八史略  ?郡劉備、字玄徳、其先出於景帝。中山靖王勝之後也。有大志。少語言、喜怒不形於色。河東関羽、?郡張飛、与備相善。備起。二人従之。  ?郡(たくぐん)の劉備、字は玄徳、其の先(せん)は景帝より出づ。中山靖王(ちゅうざんせいおう)勝の後(のち)なり。大志有り。語言、少なく、喜怒、色に形(あら)はれず。河東の関羽、?郡の張飛、備と相善(よ)し。備、起る。二人、之に従ふ。   頼山陽「詠三国人物十二絶句」 一、先主 長腕双垂閑不勝 結髦織履枉多能 幢幢一樹柔桑緑 展到蜀山青万層 長腕 双(ふた)つながら垂(た)れて 閑(かん)に勝(た)へず 髦(ぼう)を結び履(り)を織りて 枉(むな)しく多能なり 幢幢(どうどう)たる一樹 柔(じゅう)桑(そう) 緑なり 展(の)べて蜀(しょく)山(さん)の青きこと万層に到る   先主=劉備のこと。両腕は膝まで届くほど長く、耳も人並みはずれて大きかった。 幢幢一樹・・・=劉備の一族が住む邸の角に大きな桑の木が生えていて、皇帝の乗る屋根付 き馬車のような形に茂っていた。幼い劉備は「将来、きっとこんな馬車に乗れるような 人物になってやる」と宣言した、という。 [大意]  蜀漢の皇帝となった劉備は、若いころは不遇だった。人並みはずれた長い腕、という異相をもちながら、生活のためムシロやわらじを編んで暮らしていた。彼が子供のころ、邸に生えていた桑の木の若葉にかけた夢は、後に見事に成功して、蜀漢の国土に青青と広がる山林にまでつながった。 [評]子供のころの夢を捨てきれない人が、意外と大成するものだ。 [参考]正史『三国志』蜀書・先主伝:先主少孤、与母販履織席、為業。舍東南角籬上有桑樹、生高五丈余、遥望見、童童如小車蓋。往来者皆怪此樹非凡、或謂当出貴人。先主少時、与宗中諸小児於樹下戯、言「吾必当乗此羽葆蓋車」。叔父子敬、謂曰「汝、勿妄語。滅吾門也」・・・ [参考]篠崎小竹は、劉備が頼山陽に罵られなかったのは大いなる幸いだ、と評している。   川柳 「桃の木の下で文殊の知恵を出し」柳多留32篇 「桃園で関羽一人が飲んだよう」41篇 「翼徳も知らずに張飛酒が好き」91篇   (吉川英治『三国志』桃園の巻、より引用)  久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。  ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。 「ああ、わが家が見える」  劉備は、驢の上から手をかざした。舂(うす)ずく陽(ひ)のなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋(しゃがい)のように見える桑の木。劉備の生れた家なのである。 「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」  彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがて懐(なつ)かしい桑の大樹の下までたどりついた。 (中略) 「今まで、何千人、いや何万人となく、村を通る人々が、あの樹を見たろうが、誰もなんともいった者はいないかね」 「べつに……」 「そうかなあ」 「珍しい樹だ、桑でこんな大木はないとは、誰もみないいますが」 「じゃあ、わしが告げよう。あの樹は、霊(れい)木(ぼく)じゃ。この家から必ず貴人が生れる。重々(ちょうちょう)、車蓋のような枝が皆、そういってわしへ囁いた。……遠くない、この春。桑の葉が青々とつく頃になると、いい友達が訪ねてくるよ。蛟龍(こうりょう)が雲をえたように、それからここの主(あるじ)はおそろしく身の上が変ってくる」 「お爺さんは、易者かね」 「わしは、魯の李定という者さ。というて年中飄々としておるから、故郷にいたためしはない。山羊をひっぱって、酒に酔うて、時々、市へ行くので、皆が羊仙といったりする」(中略) 「では、永く」 「変るまいぞ」 「変らじ」  と、兄弟の杯を交わし、そして、三人一体、協力して国家に報じ、下万民の塗炭(とたん)の苦(く)を救うをもって、大丈夫の生涯とせんと申し合った。  張飛は、すこし酔うてきたとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、 「ああ、こんな吉日はない。実に愉快だ。再び天にいう。われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希(ねが)わず、願わくば同年同月同日に死なん」  と、呶鳴った。そして、 「飲もう。大いに、きょうは飲もう――ではありませんか」  などと、劉備の杯へも、やたらに酒をついだ。そうかと思うと、自分の頭を、ひとりで叩きながら、「愉快だ。実に愉快だ」と、子供みたいにさけんだ。(引用終わり)   【孫堅と周瑜】十八史略  孫堅之子策、与弟権留富春。遷于舒。堅死、策年十七。往見袁術。得其父余兵。策十余歳時、已交結知名。舒人周瑜、与策同年。亦英達夙成。至是従策起。策東渡江転闘、所向無敢当其鋒者。百姓聞孫郎至、皆失魂魄。所至一無所犯。民皆大悦。  孫堅の子・策、弟・権と富春に留まる。舒(じょ)に遷(うつ)る。堅死するとき、策、年十七。往(ゆ)きて袁術に見(まみ)ゆ。其の父の余兵を得たり。策十余歳の時、すでに交結して名を知らる。舒人(じょひと)周瑜(しゅうゆ)、策と同年なり。亦た英達(えいたつ)夙成(しゅくせい)なり。是(ここ)に至りて策に従ひて起る。策、東のかた江を渡りて転闘し、向ふ所敢て其の鋒に当る者無し。百姓(ひゃくせい)、孫郎の至るを聞き、皆、魂魄を失ふ。至る所、一も犯す所無し。民、皆、大いに悦ぶ。   【曹操、献帝を許都へ移す】十八史略  初曹操自討卓時、戦于?陽、還屯河内。尋領東郡太守、治東武陽。已而入?州拠之。自領刺史。遣使上書、以為?州牧。上還洛陽。操入朝、遷上於許。  初め曹操、卓を討つ時より、?陽(けいよう)に戦ひ、還りて河内(かだい)に屯(とん)す。尋(つ)いで東郡の太守を領し、東武陽を治む。已にして?州(えんしゅう)に入りて之に拠(よ)る。自ら刺史(しし)を領す。使ひを遣はして上書し、以て?州の牧と為る。上(しょう)、洛陽に還る。操、入朝し、上を許に遷(うつ)す。   頼山陽「詠三国人物十二絶句」 七、孟徳 金刀版籍得雄蹲 銅雀楼台日月昏 七十二堆春草碧 更無寸土到児孫 金(きん)刀(とう)の版(はん)籍(せき) 雄蹲(ゆうそん)するを得(え)て 銅(どう)雀(じゃく) 楼(ろう)台(だい) 日月(じつげつ) 昏(くら)し 七十二堆(しちじゅうにたい) 春草(しゅんそう) 碧(あを)く 更(さら)に寸(すん)土(ど)の児(じ)孫(そん)に到(いた)る無(な)し   金刀=卯金刀。漢王朝の国姓「劉」のアナグラム。 七十二堆=曹操は自分の墓を盗掘されぬよう「七十二疑(ぎ)冢(ちょう)」を作らせた。 [大意]  魏の曹操は、劉氏の国土を乗っ取った。曹操は自分の権勢を天下に示すため、銅雀台を築かせた。天空の太陽や月が隠れて見えぬほど豪壮な高層建築だった。また曹操は自分の死後、墳墓が盗掘されぬよう、七十二もの偽の墓を作らせた。  それほど周到に悪知恵を働かせた曹操だったが、曹操の魏も、司馬氏に乗っ取られ、あえなく滅亡。結局、曹操は自分の子孫に寸土も残せなかった。残せたのは、彼の七十二箇所の墓に青青と生える春の雑草だけである。 [評]徳が薄ければ、結局、何も残せない。 【呂布の死】十八史略  操撃殺呂布。初布自関中出奔袁術。又帰袁紹。已而又去。為操所攻、走帰劉備。尋又襲備。拠下?。備走帰操。操遣備屯沛。布使陳登見操、求為徐州牧。不得。登還謂布曰、登見曹公言、養将軍如養虎。当飽其肉。不飽則噬人。公曰、不然。譬如養鷹。飢則附人、飽則?去。布復攻備。備走復帰操。操撃布、至下?。布?戦皆敗。困迫降。操縛之曰、縛虎不得不急。卒縊殺之。備従操還許。  操、撃ちて呂布を殺す。初め布、関中より袁術に出奔す。又、袁紹に帰す。已(すで)にして又去る。操の攻むる所と為りて、走りて劉備に帰す。尋(つ)いで又、備を襲ふ。下?(かひ)に拠(よ)る。備、走りて操に帰す。操、備をして沛(はい)に屯せしむ。布、陳登(ちんとう)をして操に見(まみ)えしめ、徐州の牧と為らんことを求む。得ず。登、還りて布に謂ひて曰く「登、曹公に見えて言ふ『将軍を養ふは虎を養ふが如し。当に其の肉に飽かしむべし。飽かずんば則ち人を噬(か)まん』と。公曰く『然らず。譬(たと)へば鷹を養ふが如し。飢うれば則ち人に附き、飽けば則ち?(あが)り去る』」と。布、復た備を攻む。備、走りて復た操に帰す。操、布を撃ちて下?に至る。布、屡?(しばしば)戦ひて皆、敗る。困迫して降る。操、之を縛して曰く「虎を縛するは急ならざるを得ず」と。卒(つひ)に之を縊殺(いさつ)す。備、操に従ひて許に還る。     【袁術の死】十八史略  袁術初拠南陽。已而拠寿春。以讖言代漢者当塗高、自云、名字応之。遂称帝。淫侈甚。既而資実空虚。不能自立。欲奔袁紹。操遣劉備邀之。術走還、欧血死。  袁術、初め南陽に拠(よ)る。已にして寿春に拠る。讖(しん)に「漢に代る者は塗(みち)に当りて高し」と言ふを以て、自ら「名字、之に応ず」と云ふ。遂に帝と称す。淫侈(いんし)甚だし。既にして資実空虚なり。自立する能はず。袁紹に奔(はし)らんと欲す。操、劉備をして之を邀(むか)へしむ。術、走り還り、血を欧(は)きて死す。     【孫策から孫権へ】十八史略  孫策既定江東、欲襲許。未発。故所殺呉郡守許貢之奴、因其出猟、伏而射之。創甚。呼弟権代領其衆曰、挙江東之衆、決機於両陣之間、与天下争衡、卿不如我。任賢使能、各尽其心以保江東、我不如卿。卒。年二十六。  孫策、既に江東を定め、許を襲はんと欲す。未だ発せず。故(もと)、殺す所の呉郡の太守・許貢(きょこう)の奴(ど)、其の出でて猟するに因りて、伏して之を射る。創(きず)甚(はなは)だし。弟・権を呼びて、代はりて其の衆を領せしめて曰く「江東の衆を挙げて機を両陣の間に決し天下と衡(こう)を争ふは、卿(けい)我に如かず。賢を任じ能を使ひ各?其の心を尽くさしめて以て江東を保つは、我、卿に如かず」と。卒す。年二十六なり。     【官渡の戦い】十八史略  袁紹拠冀州。簡精兵十万、騎一万、欲攻許。沮授諌曰、曹操奉天子以令天下。今挙兵南向、於義則違。窃為公懼之。紹不聴。操与紹相拒於官渡。襲破紹輜重。紹軍大潰。慚憤歐血死。  袁紹、冀州(きしゅう)に拠る。精兵十万・騎一万を簡(えら)び、許を攻めんと欲す。沮授(そじゅ)、諌めて曰く「曹操、天子を奉じて以て天下に令す。今、兵を挙げて南に向かはば、義に於いて則ち違(たが)はん。窃(ひそ)かに公の為に之を懼る」と。紹、聴かず。操、紹と官渡に相拒(ふせ)ぐ。襲ひて紹の輜重(しちょう)を破る。紹の軍、大いに潰(つい)ゆ。慚憤(ざんぷん)して血を欧きて死す。     【ただ使君と操とのみ】十八史略  車騎将軍董承、称受密詔、与劉備誅曹操。操一日従容謂備曰、今天下英雄、唯使君与操耳。備方食。失匕?。値雷震詭曰、聖人云、迅雷風烈必変。良有以也。  車騎将軍董承(とうしょう)、密詔を受くと称し、劉備と曹操を誅せんとす。操、一日、従容(しょうよう)として備に謂ひて曰く「今天下の英雄は、唯、使君(しくん)と操とのみ」と。備方(まさ)に食す。匕?(ひちょ)を失す。雷震に値(あた)りて詭(いつは)りて曰く「聖人云ふ、迅雷風烈には必ず変ず、と。良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり」と。   「いなびかりまでは玄徳箸を持ち」柳多留25篇   【劉備の離反】十八史略  備既被遣邀袁術。因之徐州。起兵討操。操撃之。備先奔冀州。領兵至汝南。自汝南奔荊州。帰劉表。  備、既に遣(つか)はされて袁術を邀(むか)ふ。因(よ)りて徐州に之(ゆ)き、兵を起して操を討つ。操、之を撃つ。備、先づ冀州(きしゅう)に奔(はし)る。兵を領して汝南に至る。汝南より荊州(けいしゅう)に奔り、劉表に帰す。     【髀肉の嘆】十八史略  嘗於表坐。起至厠。還慨然流涕。表怪問之。備曰、常時身不離鞍。髀肉皆消。今不復騎。髀裏肉生。日月如流、老将至、功業不建。是以悲耳。  嘗(かつ)て表(ひょう)の坐(ざ)に於(おい)て、起(た)ちて厠(かはや)に至(いた)る。還(かへ)りて慨(がい)然(ぜん)として涕(なみだ)を流(なが)す。表(ひょう)、怪(あや)しみて之(これ)を問(と)ふ。備(び)、曰(いは)く「常(じょう)時(じ)、身(み)、鞍(くら)を離(はな)れず。髀(ひ)肉(にく)、皆(みな)、消(しょう)す。今(いま)、復(ま)た騎(の)らず。髀(ひ)肉(にく)、生(しょう)ず。日月(じつげつ)は流(なが)るるが如(ごと)く、老(お)いの将(まさ)に至(いた)らんとするに、功(こう)業(ぎょう)、建(た)たず。是(ここ)を以(もっ)て悲(かな)しむのみ」と。     【三顧の礼】十八史略  瑯?諸葛亮、寓居襄陽隆中。毎自比管仲・楽毅。備訪士於司馬徽。徽曰、識時務者在俊傑。此間自有伏龍・鳳雛。諸葛孔明・?士元也。徐庶亦謂備曰、諸葛孔明臥龍也。備参往乃得見亮、問策。亮曰、操擁百万之衆。挾天子令諸侯。此誠不可与争鋒。孫権拠有江東、国険而民附。可与為援、而不可図。荊州用武之国、益州険塞、沃野千里。天府之土。若跨有荊・益、保其巖阻、天下有変、荊州之軍向宛・洛、益州之衆出秦川、孰不箪食壺漿、以迎将軍乎。備曰、善。与亮情好日密。曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。  瑯?(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽(じょうよう)の隆中に寓居す。毎(つね)に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽(しばき)に訪(と)ふ。徽曰く「時務を識る者は俊傑に在り。此の間、自ら伏龍(ふくりょう)・鳳雛(ほうすう)有り。諸葛孔明・?士元(ほうしげん)なり」と。徐庶(じょしょ)も亦た備に謂ひて曰く「諸葛孔明は臥龍なり」と。備、参(み)たび往きて乃ち亮を見るを得、策を問ふ。亮曰く「操、百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)みて諸侯に令す。此れ誠に与(とも)に鋒を争ふべからず。孫権、江東に拠有し、国、険にして民附く。与(とも)に援(えん)と為すべく、図る可からず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞(けんそく)にして沃野千里、天府の土なり。もし荊・益を跨有(こゆう)して其の巌阻(がんそ)を保ち、天下に変有らば荊州の軍は宛(えん)・洛に向かひ益州の衆は秦川(しんせん)に出でなば、孰(たれ)か、箪食壺漿(たんしこしょう)して以て将軍を迎へざらんや」と。備曰く「善し」と。亮と情好、日に密なり。曰く「孤の孔明有るは、猶ほ魚の水有るがごとし」と。 川柳 「今日もまた留守でござると諸葛亮」柳多留26篇 「孔明も三会目から帯をとき」柳多留拾遺4篇   頼山陽「詠三国人物十二絶句」 二、孔明 有魚?尾泣窮冬 涸轍無人憐?? 誰料南陽半溝水 養渠忽地化為龍 魚(うを)有(あ)り ?尾(ていび) 窮冬(きゅぅとう)に泣(な)く 涸轍(こてつ) 人(ひと)として??(けんぐう)を憐(あは)れむ無(な)し 誰(たれ)か料(はか)らん 南(なん)陽(よう) 半(はん)溝(こう)の水(みづ) 渠(かれ)を養(やしな)ひて忽地(たちまち) 化(か)して龍(りゅう)と為(な)る   ?尾=『詩経』「魴魚?尾、王室如燬」。魚が病気になると尾が赤くなる、という。 ??=魚が空気や餌を求めて、水面に口を突き出すこと。 [大意]  若いころの諸葛孔明は、道路の水たまりの中の魚だった。貧乏と寒さに苦しみ、誰からもかえりみてもらえなかった。南陽の狭い田舎は、小さなどぶのようだったが、そこで暮らしていた彼が龍のように飛躍して天下に名を轟かせると、一体だれが予測できたろう。 [評]「轍(てっ)鮒(ぷ)の急」から成功した「臥龍」孔明は、江戸時代の浪人の希望の星だった。 [参考]篠崎小竹は、半溝の水では孔明はともかく頼山陽みたいな大物を浮かべるには足りず、定めし不安定だろう、と評している。   【?統】十八史略  士元名統、?徳公従子也。徳公素有重名。亮毎至其家、独拝床下。  士元、名は統、?徳公の従子なり。徳公、素(もと)より重名(じゅうめい)有り。亮、其の家に至る毎に、独り床下に拝す。     【赤壁の戦い・一】十八史略  曹操撃劉表。表卒。子琮挙荊州降操。劉備奔江陵。操追之。備走夏口。操進軍江陵、遂東下。亮謂備曰、請求救於孫将軍。亮見権説之。権大悦。  曹操、劉表を撃つ。表卒す。子の琮(そう)、荊州を挙げて操に降る。劉備、江陵に奔(はし)る。操、之を追ふ。備、夏口に走る。操、軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮、備に謂ひて曰く「請ふ、救ひを孫将軍に求めん」と。亮、権に見(まみ)えて之に説く。権、大いに悦ぶ。   「趙雲が膝であどなく伸びをする」柳多留43篇 「戦いのひまに趙雲子守り唄」145篇   【赤壁の戦い・二】十八史略  操遣権書曰、今治水軍八十万衆、与将軍会猟於呉。権以示群下。莫不失色。張昭請迎之。魯粛以為不可、勧権召周瑜。瑜至。曰、請得数万精兵、進往夏口、保為将軍破之。権抜刀斫前奏案曰、諸将吏敢言迎操者、与此案同。遂以瑜督参万人、与備并力逆操、進遇於赤壁。  操、権に書を遣(おく)りて曰く「今、水軍八十万衆を治め、将軍と呉に会猟せん」と。権、以て群下に示す。色を失はざるもの莫(な)し。張昭、之を迎へんと請ふ。魯粛、以て不可と為し、権に勧めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く「請ふ、数万の精兵を得て、進みて夏口に往き、保(ほ)して将軍の為に之を破らん」と。権、刀を抜きて前の奏案を斫(き)りて曰く「諸将吏、敢て操を迎へんと言ふ者は、此の案と同じからん」と。遂に瑜を以て参万人を督せしめ、備と力を併せて操を逆(むか)へ、進みて赤壁に遇ふ。     【赤壁の戦い・三】十八史略  瑜部将黄蓋曰、操軍方連船艦、首尾相接、可焼而走也。乃取蒙衝・闘艦十艘、載燥荻枯柴、灌油其中、裹帷幔、上建旌旗、予備走舸、繋於其尾。先以書遣操、詐欲降。時東南風急。蓋以十艘最著前、中江挙帆、余船以次倶進。操軍皆指言、蓋降。去二里余、同時発火。火烈風猛、船往如箭。焼尽北船、烟?漲天。人馬溺焼、死者甚衆。瑜等率軽鋭、??大進。北軍大壊、操走還。後?加兵於権、不得志。操歎息曰、生子当如孫仲謀。向者劉景昇児子、豚犬耳。  瑜の部将・黄蓋、曰く「操軍、方(まさ)に船艦を連ね、首尾相接す。焼きて走らすべし」と。乃ち蒙衝(もうしょう)闘艦十艘を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せ、油を其の中に潅(そそ)ぎ、帷幔(いまん)に裹(つつ)み、上に旌旗(せいき)を建て、予め走舸(そうか)を備へ、其の尾に繋ぐ。先づ書を以て操に遣り、詐(いつは)りて降らんと欲すと為す。時に東南の風、急なり。蓋、十艘を以て最も前に著(つ)け、中江に帆を挙げ、余船、次(じ)を以て倶(とも)に進む。操の軍、皆、指さして言ふ「蓋、降る」と。去ること二里余、同時に火を発す。火、烈しく、風、猛く、船の往くこと箭(や)の如し。北船を焼き尽くし、烟?(えんえん)天に漲る。人馬、溺焼し、死する者、甚だ衆(おほ)し。瑜ら、軽鋭(けいえい)を率ゐて??(らいこ)して大いに進む。北軍、大いに壊(やぶ)る。操、走り還る。後、??兵を権に加ふれども、志を得ず。操、嘆息して曰く「子を生まば当(まさ)に孫仲謀(そんちゅうぼう)の如くなるべし。向者(さき)の劉景昇の児子は豚犬のみ」と。   「暖かな風に曹操気が付かず」柳多留39篇   【劉備、荊州を得る】十八史略  劉備徇荊州・江南諸郡。周瑜上疏於権曰、備有梟雄之姿。而有関羽・張飛、熊虎之将。聚此参人在疆?。恐蛟龍得雲雨、終非池中物也。宜徙備置呉。権不従。瑜方議図北方。会病卒。魯粛代領其兵。粛勧以荊州借劉備。権従之。  劉備、荊州・江南諸郡を徇(とな)ふ。周瑜、権に上疏(じょうそ)して曰く「備は梟雄の姿(し)有り。而して関羽・張飛、熊虎(ゆうこ)の将有り。此の参人を聚(あつ)めて疆?(きょうえき)に在らしむ。恐らくは蛟龍の雲雨を得ば、終に池中の物に非ず。宜しく備を徙(うつ)して呉に置くべし」と。権、従わず。瑜、方(まさ)に北方を図らんことを議す。会?(たまたま)病(や)みて卒す。魯粛(ろしゅく)、代りて其の兵を領す。粛、権に勧めて荊州を以て劉備に借(か)さしむ。権、之に従ふ。   「大きいは耳ばかりかと孫夫人」柳多留63篇   【呉下の阿蒙にあらず】十八史略  権将呂蒙、初不学。権勧蒙読書。魯粛後与蒙論議。大驚曰、卿非復呉下阿蒙。蒙曰、士別参日、即当刮目相待。 権の将呂蒙(りょもう)、初め学ばず。権、蒙に勧めて書を読ましむ。魯粛、後に蒙と論議す。大いに驚きて曰く「卿は復(ま)た呉下の阿蒙に非ず」と。蒙曰く「士別れて参日ならば、即ち当(まさ)に刮目して相待つべし」と。     【劉備、蜀も取る】十八史略  劉備初用?統、為耒陽令。不治。魯粛遣備書曰、士元非百里才。使為治中別駕、乃得展其驥足耳。備用之。勧取益州。備留関羽守荊州、引兵泝流、自巴入蜀、襲劉璋、入成都。備既得益州。孫権使人従備求荊州。備不肯還。遂争之。已而分荊州。備自蜀取漢中、自立為漢中王。  劉備、初め?統(ほうとう)を用ひて耒陽(らいよう)の令と為す。治まらず。魯粛、備に書を遣(おく)りて曰く「士元は百里の才に非ず。治中別駕たらしめば、乃ち其の驥足(きそく)を展(の)ぶるを得んのみ」と。備、之を用ふ。益州を取らんことを勧む。備、関羽を留めて荊州を守らしめ、兵を引ゐて流れを泝(さかのぼ)り、巴(は)より蜀に入り、劉璋(りゅうしょう)を襲ひて成都に入る。備、既に益州を得たり。孫権、人をして備従より荊州を求めしむ。備、肯て還さず。遂に之を争ふ。已にして荊州を分(わか)つ。備、蜀より漢中を取り、自立して漢中王と為る。   「三度まで通いお蜀を手に入れる」柳多留36篇 「虎五匹龍一匹で蜀を取り」44篇   【関羽の死】十八史略  漢中将関羽、自江陵出、攻?城取襄陽。自許以南、往往遥応羽。威震華夏。曹操至議徙許都以避其鋒。司馬懿曰、備権外親内疎。関羽得志、権必不願也。可遣人勧権躡其後。許割江南以封権。操従之。時魯粛已死、呂蒙代之。亦勧権亦図羽。操師救?。権将陸遜、又襲羽後。羽狼狽走還。権軍獲羽斬之。遂定荊州。  漢中の将関・羽、江陵より出でて、?城(はんじょう)を攻めて襄陽(じょうよう)を取る。許(きょ)より以南、往々遥かに羽に応ず。威、華夏に震(ふる)ふ。曹操、許の都を徙(うつ)して以て其の鋒を避けんと議するに至る。司馬懿(しばい)曰く「備と権とは外、親にして、内、疎なり。関羽、志を得(え)ば、権、必ず願はざるなり。人をして権に勧めて其の後ろを躡(ふ)ましむべし。江南を割きて以て権を封ぜんことを許せ」と。操、之に従ふ。時に魯粛、已に死し、呂蒙、之に代わる。亦た権に勧めて羽を図(はか)らしむ。操の師、?を救う。権の将・陸遜、又、羽が後ろを襲ふ。羽、狼狽して走り還る。権の軍、羽を獲(え)て之を斬る。遂に荊州を定む。   「我がひげをふんまえ関羽度々のめり」柳多留122篇   【後漢の滅亡】十八史略  初曹操自?州牧、入為丞相。領冀州牧。封魏公。作銅雀臺於?。已而進爵為王。用天子車服。出入警蹕。以子丕為王太子。操卒。丕立。自為丞相・冀州牧。魏群臣言、魏当代漢。丕遂迫帝禅位、以帝為山陽公。帝在位改元者参、曰初平・興平・建安。元年至二十五年、則皆曹操為政時也。共参十一年。禅位又十四年而卒。漢自高祖元年為王、五年為帝、至是二十四世、四百二十六年。  初め曹操、?州(えんしゅう)の牧より、入りて丞相と為る。冀州(きしゅう)の牧を領す。魏公に封ぜらる。銅雀台を?(ぎょう)に作る。已にして爵を進めて王と為り、天子の車服を用ひ、出入(しゅつにゅう)に警蹕(けいひつ)す。子・丕(ひ)を以て王太子と為す。操、卒す。丕、立つ。自ら丞相・冀州の牧と為る。魏の群臣、魏は当(まさ)に漢に代るべしと言ふ。丕、遂に帝に迫り位を禅(ゆず)らしめ、帝を以て山陽公と為す。帝、位に在り改元すること参、初平・興平・建安と曰ふ。元年より二十五年に至るまでは、則ち皆、曹操の政を為しし時なり。共に参十一年なり。位を禅って又十四年にして卒す。漢、高祖元年に王と為り、五年に帝と為りしより、是(ここ)に至りて二十四世、四百二十六年なり。     【劉備、蜀で即位】十八史略  昭烈皇帝諱備、字玄徳、漢景帝子中山靖王勝之後。有大志。少言語、喜怒不形。身長七尺五寸。垂手下膝、顧自見其耳。蜀中伝言、曹丕簒立、帝已遇害。於是漢中王、発喪制服、諡曰孝愍皇帝。夏四月、即帝位於武擔之南、大赦、改元章武。以諸葛亮為丞相、許靖為司徒。立宗廟、袷祭高皇帝以下。立夫人呉氏為皇后、子禅為皇太子。  昭烈皇帝、諱(いみな)は備、字(あざな)は玄徳。漢の景帝の子の中山靖王勝の後(のち)なり。大志有り。言語少なく、喜怒形(あら)はさず。身の長(たけ)七尺五寸。手を垂るれば膝より下り、顧みれば自ら其の耳を見る。蜀中伝へて言ふ「曹丕簒立(さんりつ)して帝已に害に遇へり」と。是(ここ)に於て漢中王、喪を発し服を制し、諡(おくりな)して孝愍皇帝(こうびんこうてい)と曰ふ。夏四月、帝位に武担の南に於て即き、大赦して章武と改元す。諸葛亮を以て丞相と為し、許靖(きょせい)を司徒と為す。宗廟を立て、高皇帝以下を袷祭(こうさい)す。夫人の呉氏を立てて皇后と為し、子の禅を皇太子と為す。     【魏王朝、成立】十八史略  魏主丕、姓曹氏、沛国?人也。父操為魏王、丕嗣位。首立九品官人之法。州郡皆置九品中正、区別人物、第其高下。丕既簒漢、自立為帝、追尊操為太祖武皇帝、改元黄初。  魏主丕、姓は曹氏、沛国(はいこく)?(しょう)の人なり。父の操、魏王と為り、丕、位を嗣(つ)ぐ。首(はじ)め九品もて人を官するの法を立つ。州郡、皆、九品の中正を置き、人物を区別して、其の高下を第(つい)でしむ。丕、既に漢を簒(うば)ひ、自ら立ちて帝と為り、操を追尊して太祖武皇帝と為し、黄初(こうしょ)と改元す。     【魏と呉の講和】十八史略  帝恥関羽之没、自将伐孫権。権求和不許。権遣使於魏。魏封権為呉王。魏主問呉使趙咨曰、呉王頗知学乎。咨曰、呉王任賢使能、志存経略。雖有余閑博覧書史、不效書生尋章摘句。魏主曰、呉難魏乎。咨曰、帯甲百万、江・漢為池。南難之有。曰、呉如大夫者幾人。咨曰、聡明特達者、八九十人。如臣之比、車載斗量不可勝数。  帝、関羽の没せしを恥ぢ、自ら将として孫権を伐つ。権、和を求むれども許さず。権、使ひを魏に遣はす。魏、権を封じて呉王と為す。魏主、呉の使ひの趙咨(ちょうし)に問ひて曰く「呉王、頗る学を知れるか」と。咨、曰く「呉王は賢を任じ能を使ひ、志、経略に存す。余閑有れば博く書史を覧ると雖も、書生の章を尋ね句を摘むに效(なら)はず」と。魏主、曰く「呉は魏を難(はばか)るか」と。咨、曰く「帯甲百万、江・漢を池と為す。何の難ることか之れ有らん」と。曰く「呉に大夫の如き者幾人かある」と。咨、曰く「聡明特達の者、八九十人あり。臣の如きは車に載せ斗もて量(はか)るとも勝(あ)げて数ふべからず」と。     【夷陵の戦い】十八史略  帝自巫峽至夷陵、立数十屯、与呉軍相拒累月。呉将陸遜、連破其四十余営。帝夜遁。 魏主責呉侍子。不至。怒伐之。呉王改元黄武、臨江拒守。  帝、巫峽(ふきょう)より夷陵(いりょう)に数十屯を立て、呉軍と相拒(ふせ)ぐこと累月(るいげつ)なり。呉将・陸遜、其の四十余営を連破す。帝、夜に遁(のが)る。魏主、呉の侍子(じし)を責む。至らず。怒りて之を伐つ。呉王、黄武と改元し、江に臨みて拒(ふせ)ぎ守る。     【劉備の死】十八史略  参年、夏四月、帝崩。在位参年。改元者一、曰章武。諡曰昭烈皇帝。太子禅即位。封亮為武郷侯。太子既立。是為後皇帝。  参年夏四月、帝崩ず。在位参年。元を改むること一、章武と曰ふ。諡(おくりな)して昭烈皇帝と曰ふ。太子・禅、即位す。亮を封じて武郷侯と為す。太子、既に立つ。是を後皇帝と為す。     【劉禅、即位】十八史略  後皇帝名禅、字公嗣、昭烈皇帝子也。年十七即位。改元建興。丞相諸葛亮受遺詔輔政。  後皇帝、名は禅、字は公嗣(こうし)、昭烈皇帝の子なり。年十七にして即位す。建興と改元す。丞相・諸葛亮、遺詔を受けて政を輔(たす)く。     【君、みずから取るべし】十八史略  昭烈臨終謂亮曰、君才十倍曹丕。必能安国家、終定大事。嗣子可輔輔之。如其不可、君可自取。亮涕泣曰、臣敢不竭股肱之力、效忠貞之節、継之以死。  昭烈、終りに臨んで亮に謂ひて曰く「君の才は曹丕に十倍せり。必ず能く国家を安んじ、終(つひ)に大事を定めん。嗣子、輔く可くんば之を輔けよ。如(も)し其れ不可ならば、君、自ら取る可し」と。亮、涕泣(ていきゅう)して曰く「臣、敢て、股肱(ここう)の力を竭(つく)して忠貞の節を效(いた)し、之に継ぐに死を以てせざらんや」と。     【蜀、呉と講和】十八史略   亮乃約官職、修法制、下教曰、夫参署者、集衆思、広忠益也。若遠小嫌、難相違覆、曠闕損矣。亮乃遣鄧芝、使呉修好。芝見呉王曰、蜀有重険之固。呉有参江之阻。共為脣歯、進可兼并天下、退可鼎足而立。呉遂絶魏専与漢和。  亮、乃ち官職を約し、法制を修め、教へを下して曰く「夫(そ)れ参署は、衆思を集め、忠益を広むるなり。若し小嫌(しょうけん)を遠ざけ、相違覆(いふく)することを難(はばか)らば、曠闕(こうけつ)して損あらん」と。亮、乃ち鄧芝(とうし)を遣はし、呉に使ひして好(よし)みを修めしむ。芝、呉王に見(まみ)えて曰く「蜀に重険(じゅうけん)の固(かた)め有り。呉に参江の阻(そ)有り。共に唇歯(しんし)と為らば、進みては天下を兼并(けんぺい)す可く、退きては鼎足(ていそく)して立つべし」と。呉、遂に魏と絶ち、専ら漢と和す。     【南船北馬】十八史略  魏主以舟師撃呉。呉列艦于江。江水盛長。魏主臨望、歎曰、我雖有武夫千群、無所施也。於是還師。  魏主、舟師(しゅうし)を以て呉を撃つ。呉、艦を江に列す。江水盛長す。魏主、臨み望みて歎じて曰く「我、武夫、千群有りと雖も、施す所無きなり」と。是(ここ)に於いて師を還す。     【七縦七禽】十八史略  南夷畔漢。丞相亮往平之。有孟獲者。素為夷漢所服。亮生致獲、使観営陣、縦使更戦。七縦七禽、猶遺獲。獲不去曰、公天威也。南人不復反矣。  南夷、漢に畔(そむ)く。丞相亮、往(ゆ)きて之を平らぐ。孟獲なる者有り。素より夷・漢の服する所と為る。亮、獲を生致(せいち)し、営陣を観(み)しめ、縦(ゆる)して更に戦はしむ。七縦七禽(しちしょうしちきん)、猶ほ獲を遣(や)る。獲、去らずして曰く「公は天威なり。南人復た反せず」と。     【波濤、洶湧す】十八史略  魏主又以舟師臨呉。見波濤洶湧、歎曰、嗟乎、固天所以限南北也。  魏主、又、舟師を以て呉に臨む。波濤の洶湧(きょうよう)するを見て、歎じて曰く「嗟乎(ああ)、固(まこと)に天の南北に限る所以(ゆゑん)なり」と。     【曹丕、死す】十八史略  魏主丕?。僭位七年。改元者一、曰黄初。諡曰文皇帝。子叡立。是為明帝。叡母被誅。丕嘗与叡出猟、見子母鹿。既射其母、使叡射其子。叡泣曰、陛下已殺其母。臣不忍殺其子。丕惻然。及是為嗣即位。 魏主・丕、?(そ)す。僭位(せんい)すること七年。改元すること一、黄初と曰ふ。諡(おくりな)して文皇帝と曰ふ。子・叡(えい)立つ。是を明帝と為す。叡の母、誅せらる。丕、嘗て叡と出でて猟し、子母(しぼ)の鹿を見る。既に其の母を射(い)、叡をして其の子を射せしむ。叡、泣きて曰く「陛下、已に其の母を殺せり。臣、其の子を殺すに忍びず」と。丕、惻然(そくぜん)たり。是(ここ)に及んで、嗣と為り、位に即く。     【処士、管寧】十八史略  処士管寧、字幼安。自東漢末、避地遼東参十七年。魏徴之。乃浮海西帰。拝官不受。  処士・管寧(かんねい)、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること参十七年。魏、之を徴(め)す。乃ち海に浮かびて西に帰る。官に拝すれども受けず。     【出師の表】十八史略  漢丞相亮、率諸軍北伐魏。臨発上疏曰、今天下参分、益州疲弊。此危急存亡之秋也。宜開張聖聴、不宜塞忠諌之路。宮中・府中、倶為一体。陟罰臧否、不宜異同。若有作姦犯科及忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭平明之治。親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。臣本布衣、躬畊南陽、苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、参顧臣於草廬之中、諮臣以当世之事。由是感激、許先帝以駆馳。先帝知臣謹慎、臨崩、寄以大事。受命以来、夙夜憂懼、恐付託不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、兵甲已足。当奨率参軍、北定中原。興復漢室、還于旧都、此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。遂屯漢中。  漢の丞相・亮、諸軍を率ゐて北のかた魏を伐つ。発するに臨み、上疏(じょうそ)して曰く「今、天下参分し、益州疲弊せり。此れ危急存亡の秋(とき)なり。宜しく聖聴を開帳すべく、宜しく忠諌(ちゅうかん)の路を塞ぐべからず。宮中・府中は倶(とも)に一体たり。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜しく異同あるべからず。若し、姦を作(な)し、科を犯し、及び忠善の者有らば、宜しく有司に付して其の刑賞を論じ、以て平明の治を昭(あきら)かにすべし。賢臣に親しみ小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せし所以なり。小人に親しみ賢人を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。臣、本(もと)布衣(ほい)、南陽に躬畊(きゅうこう)し、性命を乱世に苟全(こうぜん)して、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)して、臣を草廬(そうろ)の中に参顧し、臣に諮(と)ふに当世の事を以てす。是に由(よ)りて感激し、先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。先帝、臣の謹慎なるを知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以てせり。命を受けてより以来、夙夜(しゅくや)憂懼(ゆうく)し、付託の效(こう)あらずして、以て先帝の明を傷(そこな)はんことを恐る。故に五月、瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入る。今、南方、已に定まり、兵甲、已に足る。当(まさ)に参軍を奨率(しょうそつ)して、北のかた中原を定むべし。漢室を興復し、旧都を還(かへ)さんことは、此れ臣が先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり」と。遂に漢中に屯す。     【北伐】十八史略  明年、率大軍攻祁山。戎陣整斉、号令明粛。始魏以昭烈既崩、数歳寂然無聞、略無所備。猝聞亮出、朝野恐懼。於是天水・安定等郡、皆応亮、関中響震。魏主如長安、遣張?拒之。亮使馬謖督諸軍戦于街亭。謖違亮節度。?大破之。亮乃還漢中。已而復言於漢帝曰、漢賊不両立、王業不偏安。臣鞠躬尽力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣所能逆覩也。引兵出散関、囲陳倉。不克。  明年、大軍を率いて、祁山(きざん)を攻む。戎陣(じゅうじん)整斉、号令、明粛(めいしゅく)なり。始め魏、昭烈、既に崩じ、数歳、寂然として聞くこと無きを以て、略?(ほぼ)備ふる所無し。猝(にはか)に亮の出づるを聞き、朝野、恐懼(きょうく)す。是(ここ)に於て天水・安定等の郡、皆、亮に応じ、関中、響震(きょうしん)す。魏主、長安に如(ゆ)き、張?(ちょうこう)をして之を拒(ふせ)がしむ。亮、馬謖(ばしょく)をして諸軍を督(とく)し街亭に戦はしむ。謖、亮の節度に違(たが)ふ。?、大いに之を破る。亮、乃ち関中に還る。已(すで)にして復(ま)た漢帝に言(まう)して曰く「漢と賊とは両立せず、王業は偏安(へんあん)せず。臣、鞠躬(きくきゅう)して力を尽し、死して後に已(や)まん。成敗利鈍(りどん)に至りては、臣が能く逆(あらかじ)め覩(み)る所に非ざるなり」と。兵を引ゐて散関より出で、陳倉を囲(かこ)む。克たず。     【孫権、皇帝を称す】十八史略  呉王孫権、自称皇帝於武昌、追尊父堅、為武烈皇帝、兄策為長沙桓王。已而遷都建業。  呉王・孫権、自ら皇帝を武昌に称し、父・堅を追尊して武烈皇帝と為し、兄・策を長沙桓王(ちょうさかんおう)と為す。已(すで)にして都を建業に遷(うつ)す。     【木牛流馬】十八史略  蜀漢丞相亮、又伐魏囲祁山。魏遣司馬懿督諸軍拒亮。懿不肯戦。賈?等曰、公畏蜀如虎。奈天下笑何。懿乃使張?向亮。亮逆戦。魏兵大敗。亮以糧尽退軍。?追之、与亮戦、中伏弩而死。亮還勧農講武、作木牛流馬、治邸閣、息民休士、参年而後用之。悉衆十万、又由斜谷口伐魏、進軍渭南。魏大将軍司馬懿引兵拒守。  蜀漢の丞相・亮、又、魏を伐ち、祁山(きざん)を囲む。魏、司馬懿(しばい)を遣はして諸軍を督して亮を拒(ふせ)がしむ。懿、肯て戦はず。賈?(かく)ら曰く「公、蜀を畏るること虎の如し。天下の笑ひを奈何(いかん)せん」と。懿、乃ち張?(ちょうこう)をして亮に向かはしむ。亮、逆(むか)へ戦ふ。魏の兵、大敗す。亮、糧の尽くるを以て軍を退く。?、之を追ひ、亮と戦ひ、伏弩に中(あた)りて死す。亮、還りて農を勧め武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息(やす)め士を休め、参年にして後に之を用ふ。衆十万を悉(つ)くして、又、斜谷口(やこくこう)より魏を伐ち、進みて渭南(いなん)に軍す。魏の大将軍・司馬懿、兵を引ゐて拒ぎ守る。     【蜀の屯田兵】十八史略  亮以前者数出、皆運糧不継、使己志不伸、乃分兵屯田。耕者雑於渭浜居民之間、而百姓安堵、軍無私焉。  亮、前者(さき)に数?(しばしば)出づるも、皆、運糧継がず、己(おの)が志をして伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分かちて屯田す。耕す者、渭浜(いひん)の居民の間に雑(まじ)り、而も百姓(ひゃくせい)安堵し、軍に私(わたくし)無し。     【女衣巾幗】十八史略  亮数挑懿戦。懿不出。乃遣以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍。懿問其寝食及事煩簡、而不及戎事。使者曰、諸葛公夙興夜寐、罰二十以上皆親覧。所?食、不至数升。懿告人曰、食少事煩、其能久乎。  亮、数?、懿に戦ひを挑む。懿、出でず。乃ち遣(おく)るに巾幗(きんかく)婦人の服を以てす。亮の使者、懿の軍に至る。懿、其の寝食及び事の煩簡を問ひて、戎事(じゅうじ)に及ばず。使者曰く「諸葛公、夙(つと)に興(お)き、夜に寝(い)ね、罰二十以上は皆、親(みずか)ら覧(み)る。?食(たんしょく)する所は数升に至らず」と。懿、人に告げて曰く「食少なく事煩はし、其れ能(よ)く久しからんや」と。     【死せる諸葛、生ける仲達を走らす】十八史略  亮病篤。有大星、赤而芒、墜亮営中。未幾亮卒。長吏楊儀整軍還。百姓奔告懿。懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓、若将向懿。懿不敢逼。百姓為之諺曰、死諸葛、走生仲達。懿笑曰、吾能料生、不能料死。亮嘗推演兵法、作八陣図。至是懿案行其営塁、歎曰、天下奇材也。  亮、病ひ篤(あつ)し。大星有り、赤くして芒あり、亮の営中に墜つ。未だ幾(いくばく)ならずして亮、卒す。長吏・楊儀、軍を整へて還る。百姓、奔(はし)りて懿に告ぐ。懿、之を追ふ。姜維(きょうい)、儀をして旗を反(かへ)し鼓を鳴らし、将(まさ)に懿に向かはんとするが若(ごと)くせしむ。懿、敢て逼(せま)らず。百姓、之が為に諺(ことわざ)して曰く「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と。懿、笑ひて曰く「吾、能(よ)く生を料(はか)れども、死を料ること能はず」と。亮、嘗て兵法を推演し、八陣の図を作る。是(ここ)に至りて、懿、其の営塁を案行し、歎じて曰く「天下の奇材なり」と。   「孔明が死んで夜講の入りが落ち」柳多留64篇   【泣いて馬謖を斬る】十八史略  亮為政無私。馬謖素為亮所知。及敗軍流涕斬之、而?其後。李平・廖立、皆為亮所廃。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至発病死。史称、亮開誠心、布公道。刑政雖峻而無怨者。真識治之良材。而謂其材長於治国、将略非所長、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、臣成都有桑八百株、薄田十五頃。子弟衣食自有余。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有余帛、外有贏財、以負陛下。至是卒。如其言。諡忠武。  亮、政を為すに私(わたくし)無し。馬謖(ばしょく)素より亮の知る所と為る。軍を敗(やぶ)るに及び、涕(なみだ)を流して之を斬り、而(しか)して其の後を?(あはれ)む。李平・廖立(りょうりつ)、皆、亮の廃する所と為る。亮の喪(そう)を聞くに及び、皆、歎息流涕(りゅうてい)し、卒(つひ)に病を発して死するに至る。史に称す「亮、誠心を開き、公道を布(し)く。刑政(けいせい)、峻(しゅん)なりと雖も而も怨む者無し。真に治(ち)を識るの良材なり」と。而して「其の材、国を治むるに長じて、将略は長ずる所に非ず」と謂ふは則ち非なり。初め丞相・亮、嘗て帝に表して曰く「臣、成都に桑八百株、薄田十五頃(けい)有り。子弟の衣食、自(おのずか)ら余り有り。別に生を治めて以て尺寸(せきすん)を長ぜず。臣死するの日、内に余帛(よはく)有り、外に贏財(えいざい)有りて以て陛下に負(そむ)かしめず」と。是(ここ)に至りて卒(しゅっ)す。其の言の如し。忠武と諡(おくりな)す。     【司馬懿と曹爽】十八史略  魏主性好土功、先是既治許昌宮。後又作洛陽宮、徙長安鐘?・?駝・銅人・承露盤於洛陽。盤折声聞数十里。銅人重不可致。乃大発銅、鋳銅人二、列坐於司馬門外、号曰翁仲。起土山於芳林園、植雑木善草、捕禽獣致其中。諫者皆不納。魏主有疾。召司馬懿入朝、以曹爽為大将軍。魏主叡?。僭位十四年。改元者参、曰太和・青龍・景初。子芳立。是為廃帝邵陵厲公。芳八歳即位。司馬懿・曹爽、受遺詔輔政。懿為太傅。  魏主、性、土功を好む。是より先、既に許昌宮を治む。後に又、洛陽宮を作り、長安の鐘?(しょうきょ)・?駝(たくだ)・銅人・承露盤を洛陽に徙(うつ)す。盤折れて声数十里に聞こゆ。銅人は重くして致すべからず。乃ち大いに銅を発し、銅人二を鋳(い)て、司馬門外に列坐せしめ、号して翁仲と曰ふ。土山を芳林園に起こし、雑木善草を植ゑ、禽獣を捕へて其の中に致す。諫(いさ)むる者、皆、納(い)れず。魏主、疾(やまひ)有り。司馬懿を召して入朝せしめ、曹爽を以て大将軍と為す。魏主・叡、?(そ)す。僭位(せんい)すること十四年。改元すること参、太和・青龍・景初と曰ふ。子・芳立つ。是を廃帝邵陵(しょうりょう)の厲公(れいこう)と為す。芳、八歳にして即位す。司馬懿・曹爽、遺詔(いしょう)を受けて、政(まつりごと)を輔(たす)く。懿を太傅(たいふ)と為す。     【費?と姜維】十八史略  漢自丞相亮既亡、??為政。楊敏毀?曰、作事??、不及前人。或請推治敏。?曰、吾実不如前人、無可推。?卒。費?・董允、為政。公亮尽忠。允卒。姜維与、費?並為政。  漢は、丞相・亮の既に滅びしより、??(しょうえん)、政を為す。楊敏、?を毀(そし)りて曰く「事を作(な)すこと??(かいかい)たり、前人に及ばず」と。或ひと、敏を推治(すいち)せんと請ふ。?曰く「吾、実に前人に如かず、推すべき無し」と。?、卒す。費?(ひい)・董允(とういん)、政を為す。公亮(こうりょう)にして忠を尽くす。允、卒す。姜維(きょうい)、費?と並び政を為す。     【夏侯覇、蜀に亡命】十八史略  魏曹爽驕奢無度。司馬懿殺之。懿為魏丞相、加九錫不受。爽之党夏侯覇奔蜀。姜維問之曰、懿得政。復有征伐志否。覇曰、彼営立家門、未遑外事。有鍾士季者。雖少若管朝政、呉・蜀之憂也。  魏の曹爽(そうそう)、驕奢(きょうしゃ)にして度無し。司馬懿(しばい)、之を殺す。懿、魏の丞相と為り、九錫(きゅうしゃく)を加ふれども受けず。爽の党の夏侯覇(かこうは)、蜀に奔(はし)る。姜維、之に問ひて曰く「懿、政を得たり。復た征伐の志有りや否や」と。覇曰く「彼、家門を営立して、未だ外の事に遑(いとま)あらず。鍾士季(しょうしき)といふ者有り。少(わか)しと雖も若(も)し朝政を管せば、呉・蜀の憂いならん」と。     【司馬懿の死】十八史略  魏司馬懿卒。以其子師為撫軍大将軍、録尚書事。  魏の司馬懿卒す。其の子師を以て、撫軍大将軍と為し、尚書の事を録せしむ。     【孫権の死】十八史略  呉主?。諡曰太皇帝。子亮立。  呉主?(そ)す。諡(おくりな)して太皇帝と曰ふ。子亮立つ。     【費?の死】十八史略  漢費?、汎愛不疑。降人刺殺之。姜維用事、数出兵攻魏。  漢の費?、汎(ひろ)く愛して疑はず。降人、之を刺殺す。姜維、事を用い、数?(しばしば)兵を出だして魏を攻む。     【司馬師の野望】十八史略  魏李豊、数為魏主所召。司馬師知其議己殺之。魏主不平。左右勧誅師。魏主不敢発。師廃魏主。僭位十六年。改元者二、曰正始・嘉平。師迎立高貴郷公。是為廃帝。名髦。文帝之孫、明帝之姪。年十四即位。  魏の李豊、数?(しばしば)魏主の召す所と為る。司馬師、其の己を議することを知りて之を殺す。魏主、平らかならず。左右、師を誅せんことを勧む。魏主、敢えて発せず。師、魏主を廃す。僭位(せん)すること十六年。改元すること二、正始・嘉平と曰ふ。師、高貴郷公を迎立す。是を廃帝と為す。名は髦(ぼう)。文帝の孫にして、明帝の姪(てつ)なり。年十四にして即位す。     【司馬昭の専横】十八史略  揚州都督?丘険・刺史文欽、起兵討司馬師。師撃敗之。師卒。弟昭為大将軍、録尚書事。已而為大都督、仮黄鉞。揚州都督諸葛誕、起兵討昭。昭攻殺之。昭為相国、封晋公。加九錫不受。  揚州都督・?丘倹(かんきゅうけん)、刺史・文欽、兵を起こして司馬師を討つ。師、撃ちて之を敗る。師、卒す。弟の昭、大将軍と為り、録尚書事と為る。已(すで)にして大都督と為り、黄鉞(こうえつ)を仮(か)る。揚州の都督・諸葛誕、兵を起こして昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相国(しょうこく)と為り、晋公に封ぜらる。九錫を加ふれども受けず。     【呉の内訌】十八史略  呉主亮親政。数出中書、視太帝時旧事。嘗食生梅索蜜。蜜中有鼠矢。召蔵吏問曰、黄門従爾求蜜邪。吏曰、向求不敢与。黄門不服。令破鼠矢。矢中燥。因大笑曰、若矢先在蜜中、中外倶湿。今外湿内燥。必黄門所為也。詰之果服。左右驚慄。大将軍孫?、以其多所難問称疾不朝。以兵囲宮、廃亮為会稽王、迎立瑯?王休。休立。以?為丞相。?又無禮於新君。遂被誅。  呉主・亮、親政す。数?中書に出でて、太帝の時の旧事を視る。嘗て生梅を食らひて、蜜を求む。蜜中に鼠矢(そし)有り。蔵吏(ぞうり)を召して問ひて曰く「黄門、爾(なんぢ)より蜜を求めしか」と。吏曰く「向(さき)に求めしも敢て与へざりき」と。黄門、服せず。鼠矢を破らしむ。矢中(しちゅう)、燥(かは)く。因(よ)りて大笑して曰く「若(も)し矢、先より蜜中に在らば、中外倶(とも)に湿(うるほ)はん。今、外湿ひ内燥く。必ずや黄門の為す所ならん」と。之を詰(なじ)れば果たして服せり。左右、驚き慄(おのの)く。大将軍孫?(そんちん)、其の難問する所多きを以て、疾(やまひ)と称して朝せず。兵を以て宮を囲(かこ)み、亮を廃して会稽王と為し、瑯?王(ろうやおう)・休を迎え立つ。休立つ。?を以て丞相と為す。?、又、新君に礼無し。遂に誅せらる。     【魏帝殺害】十八史略  魏主髦見威権日去、不勝其忿。曰、司馬昭之心、路人所知也。率殿中宿衛蒼頭・官僮、?譟出、欲誅昭。昭之党賈充、入与魏主戦、成済抽戈刺魏主髦。殞于車下。追廃為庶人。僭位七年。改元者二、曰正元・甘露。司馬昭迎立常道郷公?。是為魏元皇帝。常道郷公元皇帝、初名?、燕王宇之子、操之孫也。年十五即位。改名奐。  魏主・髦(ぼう)、威権、日に去るを見て、其の忿(いかり)に勝(た)へず。曰く「司馬昭の心は路人も知る所なり」と。殿中の宿衛・蒼頭(そうとう)・官僮(かんどう)を率ゐて、?譟(こそう)して出で、昭を誅せんと欲す。昭の党賈充(かじゅう)、入りて魏主と戦ひ、成済、戈を抽(ぬ)きて魏主・髦を刺す。車下に殞(お)つ。追廃(ついはい)して庶人(しょじん)と為す。僭位(せんい)すること七年。改元すること二、正元・甘露と曰ふ。司馬昭、常道郷公・?(こう)を迎へ立つ。是を魏の元皇帝と為す。常道公元皇帝、初めの名は?、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして即位す。名を奐(かん)と改む。     【諸葛瞻、戦死】十八史略  漢姜維?伐魏。司馬昭患之、遣鄧艾・鍾会、将兵入寇。会従斜谷・駱谷・子午谷、趨漢中、艾自狄道、趨甘松・沓中、以綴姜維。維聞会聞已入漢中、引兵従沓中還。艾追躡之大戦。維敗走、還守剣閣、以拒会。艾進至陰陰平、行無人之地七百里鑿山通道、造作橋閣。山高谷深。艾以氈自裹、推転而下。将士皆攀木縁崖、魚貫而進。至江油。以書誘漢将諸葛瞻。瞻斬其使。列陣綿竹以待。敗績。漢将軍諸葛瞻死之。瞻子尚曰、父子荷国重恩。不早斬黄皓、使敗国殄民。用生何為。策馬冒陳而死。  漢の姜維(きょうい)、??(しばしば)魏を伐つ。司馬昭、之を患(うれ)ふ。鄧艾(とうがい)・鍾会をして、兵を将(ひき)ゐて入寇(にゅうこう)せしむ。会は斜谷(やこく)・駱谷(らくこく)・子午谷(しごこく)より漢中に趨(おもむ)き、艾は狄道(てきどう)より甘松・沓中(とうちゅう)に趨き、以て姜維を綴(てい)す。維、会の已に漢中に入るを聞き、兵を引ゐて沓中より還る。艾、之を追躡(ついしょう)して大いに戦ふ。維、敗走し、還りて剣閣を守り、以て会を拒(ふせ)ぐ。艾、進みて陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿(うが)ちて道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈(せん)を以て自ら裹(つつ)み、推転して下る。将士、皆木に攀(よ)ぢ崖に縁(よ)り、魚貫(ぎょかん)して進む。江油に至る。書を以て漢の将・諸葛瞻(しょかつせん)を誘ふ。瞻、其の使ひを斬り、陣を綿竹に列して以て待つ。敗績す。漢の将・諸葛瞻、之に死す。瞻の子・尚曰く「父子、国の重恩を荷ふ。早くに黄皓を斬らず、国を敗(やぶ)り民を殄(てん)せしむ。用(もっ)て生くるも何をか為さん」と。馬に策(むちう)ち陳(じん)を冒して死す。     【蜀漢滅亡】十八史略  漢人不意魏兵卒至、不為城守。乃遣使奉璽綬、詣艾降。皇子北地王諶怒曰、若理窮力屈、禍敗将及、便当父子君臣、背城一戦、同死社稷、以見先帝可也。奈何降乎。帝不聴。諶哭於昭烈之廟、先殺妻子而後自殺。艾至成都。帝出降。魏封為安楽公。帝在位四十一年、改元者四、曰建興・延煕・景耀・炎興。右自高帝元年乙未、至後帝禅炎興癸未、凡二十六帝、通四百六十九年而漢亡。  漢人、魏兵の卒(にはか)に至るを意(おも)はず、城守(じょうしゅ)を為さず。乃ち使ひを遣はして璽綬(じじゅ)を奉ぜしめ、艾(がい)に詣(いた)りて降る。皇子(こうし)・北地王・諶(しん)、怒りて曰く「若し、理窮まり力屈し、禍敗(かはい)将(まさ)に及ばんとせば、便(すなわ)ち当(まさ)に父子君臣、城を背にして一戦し同じく社稷に死し、以て先帝に見(まみ)えば可なるべし。奈何(いかん)ぞ降らん」と。帝、聴かず。諶、昭烈の廟に哭し、先づ妻子を殺して後に自殺す。艾、成都に至る。帝、出でて降る。魏、封じて安楽公と為す。帝、在位すること四十一年、改元すること四、建興・延煕(えんき)・景耀(けいよう)・炎興と曰ふ。右、高帝の元年乙未(いつび)より、後帝・禅の炎興癸未(きび)に至るまで、凡(すべ)て二十六帝、通じて四百六十九年にして漢亡びたり。     【孫皓】十八史略  呉主休?。諡曰景皇帝。兄子烏程侯皓立。  呉主・休、?(そ)す。諡(おくりな)して景皇帝と曰ふ。兄の子・烏程侯(うていこう)皓(こう)立つ。     【西晋、成立】十八史略  魏司馬昭、先是已受九錫。已而進爵為晋王。昭卒、子炎嗣。魏主奐僭位六年、改元二、曰景元・咸煕。炎迫魏主禅位、封為陳留王。後卒。晋人諡之曰元。魏自曹丕至是凡五世、四十六年而亡。自漢亡後、又歴甲申、闕正統一年。  魏の司馬昭、是より先、已に九錫を受く。已にして爵を進めて晋王と為る。昭卒し、子の炎、嗣(つ)ぐ。魏主奐、僭位すること六年、改元すること二、景元・咸煕(かんき)と曰ふ。炎、魏主に迫りて位を禅(ゆず)らしめ、封じて陳留王と為す。後、卒す。晋人、之に諡して元と曰ふ。魏、曹丕より是(ここ)に至るまで凡て五世、四十六年にして亡ぶ。漢亡びてより後、又、甲申(こうしん)を歴(へ)て、正統を闕(か)くこと一年なり。