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利用者:Nux-vomica 1007/我國將來の建築様式を如何にすべきや (四十三年五月三十日通常會討論會)

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〇我國將來の建築様式を如何にすべきや (四十三年五月三十日通常會討論會)

○會長(辰野金吾君)諸君、是より開會いたします、討論を始めます前に一言述べて置きたいことがあります、抑今晩の會を正員討論會としたるは大した理由はありませぬが、此討論と云ふものは今日まで開會したことがありませぬ、此度が初めてゞありますから共様子も分りませぬし、然るに餘りくしては如何なるものであらうか云ふやうな懸念も致しましたから先づ試に今は正員討論にしやうさ云ふ意味で斯く決めた譯であります、此一回の成績如何に依って將來はくするかも知れませぬ、此段一言いだして置きます、次に討論の時間を正六時より九時までと致しましたが、最早既に三十分後れました、それは伊東博士の御出席を待って居りました故であります。然れ共今に御出席がありませぬ、従て段々時間も経過しますから始めたのであります、正六時より九時までと決めましたが都合に依っては或は一時間以内の延長をするとに致します、主論者は此所に掲げました通りであります、又主論者以外に討論をなされやうと思ふ正員諸君は主論者の演説の後に其御姓名とは賛成とか不賛成とか云ふとを書いて豫め會長の手許まで御差出しを願ひます、其の順序に依って指名を致します、討論は成るべく賛成論者の次に反論者と云ふ順序に討論をやりたうございますから、豫め御通告を願ひたいのであります、又一つは整理上の都合もあらうと思ひますから右の通り決めた譯であります、討論は或は本日終結しないかも知れませぬ、若し終結しない場合に於ては役員會の決議を経て此の討論を大會に開くことゝいたします、それから討論及討論に對しての質問は時間の制限がありますから成るべく簡單に願ひたいと思ひます、以上申上げました外に臨時に起つて來る問題は會長が臨機の處置を致します、右樣御承知を願ひます、是より主論者三橋君に御演説を願ひます。

正員 工學士 三橋 四郎[編集]

勸業銀行
黒江屋
参考館
「ユニテリアン」敎會
白木屋

諸君は日本建築は如何に日本で達して居るか、西洋建築は如何にして我に傳って來たものであるか、さうして又それが如何に進みつゝあるかと云ふことにも十分御承知のことゝ存じますから更に喋々致しません、それで今や我國の有様は種々の西洋式と日本式を和洋の何れも付かない所の建築物が雑然として市街に林立して居る有様である、實に建築界は混沌たる所の時代であります、此時に際し建築學會は將來の建築様式を如何にすべきやさ云ふ問題を掲げて玆に議すると云ふことを最も必要な問題であつて實にむづかしい所の問題であります、一言以て之を例へますれば甚だ卑近な例ではあり升が日本の建築は恰も日本料理の如く淡泊なものであつて西洋の建築は恰も西洋料理の如く、濃厚なものである、それで西洋式と言っても近頃になつて舊來の建築式に則らずしてに「ヌーボー」式や或は「セセッション」式と云ふものが流行し始めて來ました、それはどう云ふ風にし起てつて來たかと云ふことは是は疑ひでありますが、或は西洋人が日本へ観光に來て見たのであるが、或は日本の圖面に依って來たのであるが、それは分りませぬけれども、日本の趣味が餘ほどご這入つて居る自分の考では日本の光琳風等を加味したものであるまいかと思はれる點が餘ほどあるのであります、例へて見れば間格イチマツ模様だの魚鱗ウロコ模様だの渦紋だのマスの様なものだの皆んな日本風である又二階の根太を表はして天井の装飾としたのなどは日本の商店を見て擧んだのでないかと思ふ、それで西洋では日本の建築の趣味がほど面白いやうに思はれて流行の氣味になつて居ると思ふのであります、實に日本の趣味と云ふものは一種捨つべからざる所の趣味がある、それで私の考へではの建築式はどう云ふ風にしたら宜からうか、純日本式でもなく、純西洋式でもなく、詔はゆる日本の長所と西洋の長所を探った所の一つの折衷式が宜からうと思ふのであります、それでは大むづかしいことでありますが、それに付てどのくらゐ西洋式を容れたものであるが、或はどのくらの日本式を容れたものであるかと云ふことは建築家の手段で随意にして宜からふと思ひます、それで今まで日本に出來て居る建築物で其の意味に幾分か適つたものがあるのであります、私は其数例を寫眞に撮りましたから諸君に御紹介しやうと思ひますこゝにありますのは勸業銀行で、私の見た所では日本趣味が六分で、西洋趣味が四分であるそれからこゝにあるのが黑江屋であります、日本趣味が七分で西洋趣味が三分、是は「デテール」を御覽くだされば分ります、それからこゝにあるのが上野の参考館であります、是は西洋趣味が非常に多くして八分である、「デテール」は日本趣味があって私は二分と鑑定した、能見ると日本の物が大變に使ってある、それからここにあるのが津村順天堂で、是れは日本趣味が五分、西洋趣味が五分で、五分五分の建築と思ふ、それから是れは芝の「ユニテリアン」敎會の惟一館で、日本趣味が五分、西洋趣味が五分、矢張り五分五分の建築と思ひます、こゝにあるのが白木屋で、日本趣味が六分で西洋趣味が四分、四分六の建築であります、それで私はどこまでも純然たる西洋も付かず純然たる日本とも付かず巧い工合に行かないまでどもどうか折衷して日本の將來の建築式を段々させて謂はゆる折衷式の巧い建築を拵へたいのが希望であります

(拍手)

工學博士 關野 貞[編集]

私は今夕「我國將來の建築様式を如何にすべきや」と云ふ此討論題の主論者と云ふ譯で此所に現れたのであります、併し之れに付てさうはつきり考を有つて居る譯ではありませぬが、兎に角日本建築の將來はどう云ふ風になるであらうか又どう云ふ風にしなければならぬかさ云ふことについて私の希望を述べて見たいと思ひます、本論に入るに「先だち第一に決めて置かなければならぬことは將來の建築様式と云ふここでありますが、唯將來と云ふのでは、今から五年先きか十年先きか、或は五十年も百年も先きのことであるか、いつのことであるか分らない、私は其年数は如何にあつても一つて日本の「ナショナルスタイル」、即ち我明治時代を代表すべき立派な「スタイル」が出來る時を指す者と解釋します。 次に建築様式でありますが、是も色々の點から考へなければならぬ、日本の建築の様式に就ては少くも、三つの方面から觀察せねばならぬ、第一は住家建築、第二は公共的建築、第三は宗教的建築である、併し將來我國の建築界の中心となるべきものは、無論公共的建築であつて之には誰も異論はなからうと思います、それですから、私は此公共的建築を目的として御話しやうと思ひます、以外に住家建築とか宗教的建築とか云ふことを交へる議論があまり複雑になつて討議も困難になるから先づ將來の建築は公共的建築を目的とすることに定めたいと思ひます、それから次に其公共的建築を構造する材料は何を用ゐるか、若し木造でも又は石造でも煉瓦造でも鐵骨構造でも何でも宜いさ云ふことになる議論が多岐に亘って却て困難であるから先づ材料も一つに決めて置きたいと思ひます、將來の公共的建築はどうしても永久的のものでなければならぬ、永久的のものであれば自然煉瓦石造と云ふことが主になるであらうと思ふ、是までの日本建築は木造が主であつたが、將來は木材の不足其外種々の關係からどこまでも木材本位で行く譯にいかない、結局主要な建築は重に煉瓦石造となるであらふと思ふ、それであるから將來の建築の構造的材料としてまで、煉瓦石造に決めて置きたいと思ふ、外に鐵骨構造などもありますが、是は純粹鐵造建築と云ふまでに發達して居らない、骨組は鐵であつても外部に煉瓦又は石を張付けますから矢張り一種の煉瓦石造建築と看做して宜い、それ故此討論題に對する私の解釋は我國將來の公共的建築を目的とし其の材料は石、煉瓦を用ゐることである、又將來と云ふは、現代の國民的性質を能く現はした所の一つの立派な「ナショナルスタイル」の出來上る時を豫想して私の意見を申上げたいと思ひます。

それから此將來の様式を論する前にどうして此様式と云ふものが決まるものであるか、それは大抵御承知であらうと思ひますが、話の順序さして一應申上げて置きたい、其様式を決める要件は第一に地勢である、今日本の建築様式を決めるのでありますから第一に日本國土と云ふことを頭の中に持つて居らなければならぬ、第二には氣候即ち日本の気候である、第三には建築の材料である、第四には慣習である、坐るとか立つとか云ふやうな慣習です、第五には従來の様式である、従來の日本の様式は將來の様式に如何に影響するものであるか、或は影響せずに済むものであるか、それを考へなければならぬ、第六には外國の様式の觸接である、唯今では西洋建築が盛んに這入って來た將來の様式は其感化影響を受けずに済むものであるか、或は従來の様式を捨て、全然之れを採用すべき者であるか、充分にそれを研究しなければならぬ、第七は特に新様式成立の最大要素である、即ちそれは時代思潮であります、言ひ換れば今日の日本國民の時代精神です、又現代の我日本國民の趣味と云ても、宜い是れは最も重きを置いて考へなければならぬ事と思ひます、我國將來の様式を決定するには此七大要件に付き充分に研究しなければならぬが、委しく御話する餘裕がありませぬから簡單にちよつと考へて見ようと思ひます、第一地勢、第二氣候、是は従來の通り別にりはない、第三の材料はどうであるか、従來は木造本位であったが、將の公共的建築は煉瓦石造を主とすることに決めて仕舞ふと材料は變って來る、第四は慣習です、是れ迄の日本建築は坐式であつたが、御承知の通り今日の諸官衙、學校、銀行、會吐等は悉く西洋流に立つたり腰掛けたりする慣習を探って居る、將來の公共的建築は無論此慣習に従はねばならぬ、第五には従來の日本建築の様式は直に需要に應じて公共的建築又は煉瓦石造建築に向つて用せらるものであるかどうかを考へなければならぬ、併し木造建築は直に石造に換へる譯にいかない是れは説明する必要は無いと思ひます、それから是までは坐式の建築であったか之を直ぐ様立式建築に應用する事はできない、されば従來の日本建築の様式では今日の需要に直ぐ様應する事の出來ない事は分る、併し従來の日本建築は殆ご千餘年間我國民の趣味嗜好に依って陶治されてたのであるから、是までの我國民の趣味を十分に現はして居るに違ひない、將來も我國民の趣味は直ぐ樣變更するものでない、忽然として西洋建築が這入つて來たからと言つて直ぐ様我國民の趣味が全然西洋風になる筈はない、されば従來の日本建築の様式は矢張り將來にも大なる感化影響を有って居らねばならぬと云ふことが分って來る、それから第六には外國式の觸接です、今日の公共的建築は第一に西洋風に立つたり腰掛けたるする慣習を採用し第二に材料までも西洋と同じやうに煉瓦石造を用ることになつて來た、従つて建物の「ブラン」其他の設備までも自然に多少西洋風になって來なければならぬ、それ故今日西洋建築と觸接した結果、日本建築の様式はどうしても其感化影響を避くることが出來ないものであらうと思ひます。

それから最後に今日の國民の趣味、即ち今日の時代思潮はごうであるかと云ふと、是は前の徳川時代とは非常に變遷して居る、是まで日本建築は奈良時代とか藤原時代とか鎌倉時代とか桃山時代徳川時代と云ふやうに其時代時代の國民の趣味に依ってそれぐの様式が現れて來たのでありますが、此の明治時代は今日までに経験せぬ程非常に國民の趣味に變動を來たしたのである、第一政體の機動、封建政治から君主専制政治に移り、又直ぐ立憲政治に幾つたと云ふ様に政事上に大變化を生じた又日清戦争や日露戦争を経て國運が非常に發展して來た其他科學の進歩文學、美術の発達殊に外國思潮の刺等の爲に我國民の時代思潮が非常に大變動を來したのである、而も一般の大勢は是まで徳川時代の消極的、縮小的であつたに反して、積極的膨大的にどん〲海外に發展して行くと云ふ様になってた、其上社會の状態が總て複雑になつて來て國民の趣味も亦之に伴て複雑になつて來たのは、實である斯様に今日の時代精神が従來とは大變動を來たしたのであるから將來の建築も亦其國民の趣味を發揮する為には是れまでの日本建築の様式ではいかない、何か一つ變ったものが出來なければならぬこと思ひます、さればと言つて日本人がすつかり西洋人になつたのではないから西洋趣味の様式をそつくり持つて來ても決して發達する見込は無いと思ひます、畢竟今日我國の建築界は目下大革命の時代に瀕して居るのであります、それなればどう云ふ風に凝って行かなければならぬか、結局は斯うなると思ひます、將來我建築界の中心となる者は公共的建築で其材料は石、煉瓦其慣習は洋式其現はれる所の精神は現代の國民的精神である、此の三つの者を都合宜く滿足に調和する事が出來たならばそれが將來我國の立派なる國民的建築様式となるのである、次に此國民的様式に到着するにはどう云ふ風にしたが宜いか、今日の儘に放任して宜いか、又は成べく早く理想の國民的様式を造上げる為に我々建築家は出來るだけ盡力しなければならぬか、構はずに放任して置いても行くくは必ず日本趣味を現はした所の新様式が現はれて來るに違ひない、併しそれを待て居ては何十百年掛るか分らぬから出來るだけ我々建築家は共時機を早めるやうに盡力しなければならぬと思ひます、それにはごう云ふ方法を取るべきか、これには又色々の手段があらうと思ふ、第一は従來の日本様式を本位とするのである、日本式をごこまでも本位として將來の建築を發達させやうと云ふのである、日本式本位の中に自ら二つの派がある、一は是れまでも日本の建築式をどこまでも其儘進化させて公共的建築に適する様石煉瓦で構造する様進化させて行くと云ふ説と、今一つはどこまでも日本式を本位に立てゝ置いて、それに西洋式を加味し折衷すると云ふ説であります、ところが此の従來の日本式をどこまでも本位にして外國の様式などは折衷しなくても宜い、飽まで日本式を進化させて行くさしても、それでも理想の域に達することが出來やうと思ふ、併し是れまでの木造本位の日本建築を煉瓦石造に進化させて見ると或る程度までは是れまで外國に於て發達した煉瓦石造建築に大體似たものとなつて來ると思ふ、なぜかと云ふに、第一是までの柱本位が壁本位になつて仕舞ひ、是れまであつた貫などが要らなくなつて來る、それから是までは柱の上に頭貫があつて上に組物を置いたのであるが、煉瓦石造建築になると共柱で直ぐ「ビーム」を受けることになるから柱と「ビーム」との間に何かものを置きたくなる、即ち一の「キャピタル」が出來る又柱を床の上に立てた儘では工合が悪いから「ベース」が出來ると云ふやうになると長い間西洋で用ゐて居った「ベース」も「シャフト」も「キャピタル」も揃って來る傾きになる、それから組物の必要は無くなつて矢張り一種の「キャピタル」のやうなものに變つて仕舞ふ、次に日本建築の特色は軒の出と、反りが多いのであったが、煉瓦、石造になると軒の出を多くすることが出來ない、構造上無理にすれば出來るが無理にしたのでは立派な煉瓦、石造の性質其儘の様式ではない、一つの虚僞的構造である、どうしても煉瓦石造になれば軒の出が少くならなければならぬ、將來日本の公共的建築が煉瓦石造になれば随て軒は西洋建築の「コルニス」のやうに短く縮まつて來なければならぬ、それから、是までは軒の出が多いから軒の反りが必要であったが、併し軒の出が少くなれば反りも不必要になる、屋根の形も同様である、是れまで日本の主要なる建築は屋根に弛みがあつた、それは軒の出が多いから自然さう云ふ結果になる、軒の出が少ければ弛みも要らない、特別に強みを作るのは別であるが、構造上弛みの必要は無くなって仕舞ふ、次に窓は壁に孔を開けることになるから上に「リンテル」若くは「アーチ」を用ゐることになる、最後に建物全體の形を決めるに最も必要な「プラン」は煉瓦石造になること、西洋風に立ったり腰掛けたりする慣習を採用することによって自然幾らか西洋風に近くなる、其上建物内部の総ての設備も同様西洋の者に近いものになつて來るご思ひます、それ故日本建築の在來の様式を共儘進化させると言つても幾らか是れまでに外で發達し來った煉瓦石造の者に近付いて來るとさえ思ひます。

次に今一つ考へなければならぬことは現代の建築家の建築に關する知識の性質にあります中には従來の日本建築も研究して居る人もありますが一般に曰へば寧ろ日本よりは却て西洋建築の様式構造に造詣の深い人が多い様であります是等の人が在の日本建築様式を煉瓦石造に進化させて見やうと思つても頭の底には西洋建築の構造様式があるから、それが幾らか感化影響を及ぼさずに居る譯にいかぬ、これ等の理由から日本の建築を進化させて見やうとしても矢張り或る程度までは西洋建築を度外視する譯にはゆかぬ結局日本建築を本位にしてそれに西洋建築を加味して行く事に近付いて來ると思ふ、それから次に日本建築を本にしてそれに西洋式を折衷する説でありますが、これは或る程度までは都合が宜いと思ふ、従來の日本建築の様式を十分に頭の中に置いて之れを本位さして更に西洋建築構造様式の長所を折衷すねば是れまでの日本建築の趣味を十分に持つた一種の新しき煉瓦石造の「スタイル」が出る兎に角是は將來の様式を造る所の一つの手段になるであらうと思ふ、第二は西洋建築を本位とする説であります、これに三つの方法があります、一つは西洋建築は構造に於ても様式に於ても十分發達したものであるからしてそれを共儘輸入すればそれで宜いと云ふ説、是れは餘ほど不都合だと思ふなせなれば西洋建築は今御話したやうに色々の原因やらそれの時代それの國に於て其時々の時代思潮を現はして初めて出來たものである、それを共儘時代もひ國土もひ又國民の時代思潮もふ所の日本へ持つて來ても決して満足に達するものでない、上西洋でも是れ迄の典型的様式に満足せずに何か現今の時代思潮に適ふやうな一の新様式を造出したいと云ふ希望が追々實現されて或は「アールヌーボー」になったり、或は「セセッション」になつたり、は古い埃及あたりの建築などを復興して見たり色々煩悶して居るかく煩悶努力とつゝある間には今から五十年百年の後には従の者と全く違った新様式が完成せられるかも知れぬ、而るに今の日本の建築家は既に西洋人が飽き果てゝ居る陳腐の様式を其儘採用して居る中に西洋ではずん〲變つた行く、又其跡を追ふて始終彼の糟粕を甞めて居るやうでは到底新様式の彼岸に達することは出來ない、是れは最愚の説であると思ひます。

次は西洋建築を本位にして之を日本化して行くと云ふ説であります是れは一理ある考であると思ふ今お話した様に公共的建築は構造は固よ「プラン」も慣習も西洋風に近くなるのであるからそれに適當した様式即西洋建築を先本位とし採用するも之を段々我國民の趣味に合ふ様に變化して終に彼と大に性質を異にせる新様式に到達せんとするのである我國民は飛鳥寧樂時代に於て大陸式を輸入したけれども之を國民の趣味に淘治して終に全く之れを日本化した程同化力の強盛な人種であるから此説は全く見込のないことはない唯新様式に達するにまであまり多くの年数を要すること思ひます次は西洋建築の様式を本位にしてそれに日本式を折衷して行かうと云ふ説であります此れは或る程度までは都合が宜い説であると思ふ大器に西洋建築を基礎として從來我國民の趣味をあらはした日本建築の様式を之に加味し摸骨脱すれば前説よりは頗便宜で効果もかであると思ふこれは兎に角新様式建設の一の手段として考へられべき者である、さて第三には別に新様式を開創する、即ち日本でもなく西洋でもない是までのものと全くった新様式を造出さう云ふ考へである、是れは最も面白い説である、是にも二つの方法がある、一つは従來の様式は全く度外に置て此等面目を異にせる新様式を開拓しようと云ふの考である、今の「アールヌーボー」なども幾らかさう云ふ考へでやつて居るに違ひない、併し是はどうしても絕對的には出來ない、何故なれば古いものを十分知って居なくては新しいと云ふ事も分らぬ、新しいものを造り出さうとするには十分に古いものを研究しなければならぬ、言ひ換へれば新様式を開拓するにも結局是まで人類が拵へた建築様式が土臺となるべきである。次は是までに我々人類か造り出した所の總ての様式を基礎として共上に更に新なる方面を開拓すると云ふ説であります折角人類が何千年も費して是までに發達せしめたいろ〱の様式を全然放棄して別に新奇の者を建やうとするのは意見としては面白いが徒らに勞が多くて却て効果が少い是まで人間のへて來た者を土臺にして其上一歩進んだ新様式を建設すると云ふのは最至常の考と思ふ是は必しも日本ばかりでなく世界的の事業である若しさう云ふ事が出來れば非常に結構であるが又非常に困難な問題である私は大體此の説を賛成するのでありますが日本人の立場より又我國土民性より此説を今少く變へて従來人類の造出したての様式特に我國民の建設した様式を基礎として現代の我國民の趣味を充分にあらはした新様式を開拓することゝしたいと思ひます従來の日本建築は木造建築としては古今を通して世界第一の進歩をなして居る又坐式建築としては是れまで人間の工夫したものの中に最發達した者で時代の變遷にて多少の變化はあるも要するに古今を貫通した一種の我國民的性格を發揮し他の國民の作った様式とは餘程性質を異にして居る、現代の國民的精神は西洋の文化に接して非常にて來たかまだ根本の性格に依然たる所の者か殘て居る將來の新様式を建設するにはこれまでの日本建築にあらはれた趣味精神をごこまでも土臺にして更に其上に西洋式でも回数式でも印度式でも支那式でも總て参考となるべき者は十分参考し取るべき者は悉く取りそれを十分に嘴砕き十分に消化させてさうして一種のな國民的様式を造り出すことにしたいと思ひます尤も現代の我國民の趣味が西洋趣味の感化を受けて居ることが多いから従來の日本趣味を土臺にして外國の様式を參考するとせば無論最多く西洋の趣味が這入て來るに相違ないさうすると第一に述べた日本式を本位として西洋式をを加味すると云ふ説に近くなつて來るか私のは必しも日本式西洋式と云ふことに執着しない日本式と云ふても形の上ばかりでなく日本建築に現はした精神趣味を指すので總ての様式を参考して自由に研究し自由に「デザイン」して従來の日本式でもなければ従來のどの國の式でもない立派な新機式を建設するに盡力したいと思ふのでありますそれはいつ出來るか五十年経って出來るか百年経つて出來るか其遊は豫想することが出來ませぬが兎に角さう云ふ方針で進まなければならぬと思ひます併し無論これは一足飛びには出來ない今三橋さんの御話になつた和洋折衷と云ふこともそれに達する一つの階段である又日本式を進化させて行くと云ふのは洋式を土臺として日本化させると云ふも何れもそれに往く一つの手段たることを失はないと思ひますまた此外に新しい様式を開拓するに付て私の希望する所を色々列べて見たいと思ひましたが餘り長くなりますからこれで界して措きます

(拍手)

正員 工學士 長野宇平治[編集]

私も今日の問題に付て豫め自分の解釋を決めて置きたいと思ひますが唯今關野君の解釋はありましたが、建築様式と云ふことの點は閼野君と私は同意であつて、本問題に於ける建築と云ふことは公共的建築と云ふことに制限を置て議論を立てる積りであります、それから將來と云ふことに付ては是も大分漠然としたもので、決めて置かないと云ふと、或は昔埃及の如き様式と希臘さを比較して、埃及から希臘のことを將來と云ふまでの甚しく遠いことになるかも知れぬと思ひますが、私は此に將來と云ふはさほど遠いことの意味でない、併し何か將來と云ふことに付て決めて置かないと不都合でありますので、能く歴史上便宜の爲に世紀にて別を立てる通り、本問題の將來と云ふここを現世紀即ち二十世紀と云ふ趣意で御話する積りであります、それからも二つ、此「問題に如何にすべきや」と云ふ文句があります、此「すべきや」と云ふことは如何にも我々が持へ物をすることが出来るかの如くに聞えますけれども、併し是れはさよ云ふ意味でなく、私は拵へるべきものは拵へ、又自然に成るべきものは自然に成ると云ふ意味で、「すべきや」と云ふ字句に拘泥せずして御話する積りであります。

そこで日本の將來の建築と云ふことにして今日一般の議論、殊に多世界の物を取寄せることでも何んでもないことになつて来る、世界数の議論はどうであるかと云ふと、日本の建築には日本の國粹を發揮中の事を研究すると云ふことも、至極便利になって来る、さうして世させたいと云ふのが、まあ日本人並に日本の建築家の多数の意向らしい、日本で日本人が造る建築であるから日本の國粹を發揮させると云ふことは至極至當で、日本人としては別に異論を唱る者は無からうと思ひますけれども、其國粹と云ふことの程度に付ては、餘程是はむづかしいものであらうと思ふ、果して将来の日本の建築は古代の歴史上に現ばれた如き、或は英吉利の「ゴシック」とか、或は西班牙の「ゴシック」とか云ふ様な著しいものが出来るか、「サラセニック」とか「グレシャン」とか云ふ風な著しいものが出来るか、若しさう云ふものが出来れば至極結構であるけれども、それは私は望むことが出来ないものであらうと思ふ、それでさう云ふことを知るには、古代から今日に至るまで世界の建築の沿革を以て見るにある、歴史上各國に於て建築の「スタイル」の判然として居るのは、それは色々原因のあることで、あつて其原因に付ては私が述べるまでもない、皆さん御承知であらうと思ひますが、從前各國に於ける建築の「スタイル」の旗幟鮮明なりと云ふものは色々の障壁に依って支配されて、各さの交通が今日の如く十分でなかつた時分の有様である、今日、十九世紀以後二十世紀に亘つて世の中はどうであるかと云ふと非常に世界が狭くなつてて、世界を一周するのにも僅かの月数で一周が出来る、又世界の物を見、世界の物を取り寄せることでも何んでもないことになって来る、又世界中の事を研究すると云ふことも、至極便利になつて来る、さうして世界の人民は互に各國の長短を比較してさうして、進歩と云ふことに汲汲として居る有様であつて、人間の総ての事柄、學問でも、商業でも、工業でも、段々各國は其學理並に應用に於て各々研究して居りますからして、段々悪いものは棄てられ良いものは探られて其結果同じやうな形になる傾向を有つて来る。

又飜って日本の有様を見るに、日本では維新以来、鎖國の舊慣を棄てゝ世界共通の交際をしてから以後、どうなったかと云ふと、政治でも、又個人の生活でも、又風俗習慣其他百般の事が段々西洋の長を探つて變化をして居る、殊に日本で著しいのは「サイアンス」を應用したものである、さう云ふものには、日本と西洋の別は益々少くなってますし此日本にして維新の際にもう少し躊躇して居たらどうですか、其の常時のことは我々は子供の時分に父兄の話を耳にして居るが、ちょん髷を切られる時に當つて日本の國識は是れで以て亡びて仕舞ふ、日本は獨立を失って夷狄禽獣に化せらるゝと云うて悲んで、ちよん髷に別れるに涙を以てしたと云ふ話を聞きました、併し日本人民の有様は今日はどうですか、決して獨立を失はないで、世界に於て日本と云ふ一強國は出来て居るではありませぬか、著しい例は軍事上のことである、日本の軍隊が若し維新の常時、昔の大小を棄てるのが惜くて、大小を持ち鐵砲を持つて居たならば、支那の兵隊と同じこさであつて、世界の強國に列することは出来なかったであらう、併日本の今日の軍隊とそれから維新前後の軍隊を比較すれば其の間に一の過渡(トランジション)を認めることが出来る、それは極短い間であるけれどもたしか遊就館でそれを綰にしてあると思ひますが、西洋の式を探る前に當つて矢張り其時分に全く西洋の事は不案内であつたのか、或は痩我慢であつたのか知らぬけれども、帽子の代りに韮山笠を被つて、筒ッポに段袋を穿いて、それから大刀を肩から吊つて、さうして鐵砲を持つて居る兵隊が繪に書いてある、若し其兵隊が其通りで今日まで日本の物と西洋の物を両方加味して行つたならば今日のや世界の強國となることは出来なかったであらうと思ふ、幸にして日本は早く其過渡時代(トランジションペリオド)を通り抜けて、學問上良いと云ふ所にずん〱赴いて、さうして古い不便なものは藁沓を棄てる如く投棄て、研究した御蔭で以て今日は日本と云ふ一の歐羅巴の強國と同等のが出来たのである、併ながら日本がまだ強國でなかつた時分は、西洋人から見れば日本人と云ふものは人眞似をしてさうして一も二もなく西洋の武器を探り西洋の服を落て居るが、西洋人の精神を有つて居ないからして、あれは猿の人眞似に過ぎないと云ふことを言って笑ったことがあります、併し日本人は思切って西洋の長を探つたけれども、少しも日本の國粹(ナショナリティー)は失はれて居ない、必しも西洋と同じ服を落たから、同じ鐵砲を持つたからこつて日本の「ナショナリティー」は失はれるものでない、詰り形に於ての日本は西洋と區別が少くなったけれども、日本人の精神氣風と云ものは今日と雖も失はれて居らざるのみならず、今後益々發揮されるであろうと思ひます、其他に於ては或は軍事上の如く落しからざる者もあり、又中に弊害のある者を眞似て居る者もあるかも知れないけれども、日本人が鋭意改良に注意する結果として總て社會上の事は益々變りつゝある、又變つて行くものと看做なされければならぬ、そこで社會の總ての事が變化する間に日本の建築に付て考へて見ると、私は今の日本の軍事上の成功に於ける如く、建築と云ふ者も必ず形が幾つたからして日本人の「ナショナリティー」が建築の上に現れないと云ふことは言へない積りである、形の上に於てのみ現はれて居る「ナショナリティー」は失はれても精神上に於ける日本の國粹は矢張り建築に於ても軍隊と同じやうに益々發揮することが出来るであらうと思ふ。

然らば日本は社會の百般の事に於ける如く建築の方も歐羅巴と同じやうな傾向に進んで行くに付ては、果して其の歐羅巴の建築と云ふものはどう云ふ風なものであるかと云ふことを、他の方から観なければならぬ、そこで先づ日本のことは措いて、歐羅巴の有様を見るに、私の言ふ歐羅巴と云ふのは歐羅巴の強國を指すので、弱い小さい國を指すのでない、詰り駸々として進歩して居る歐羅巴である、其歐羅巴の建築はどうかと云ふに、前世紀即ち十九世紀の中頃以後までは一定の「スタイル」と云ふものは無かったものである、其常時建築の批評家が悪口に、十九世紀の建築は昔の建築を真似した、眞似の建築に過ぎないと云ふことを言つて居た、併し十九世紀の終から今の二十世紀に掛けて歐羅巴の建築には一種の様式(スタイル)が顯れ來て、今日は既に判然たる「様式」が出来上った、其「様式」は何時出来たかと云ふに元来「様式」と云ふものは一遍に突飛に出るものでなく、又一國の力でも、個人の力でもない、今日二十世紀の歐羅巴の建築の「様式」の出来たと云ふことは、交通の結果之れを次第に造り上げたのである、若し二十世紀以前の建築「様式」を以て来て之れと比較して見ると判然と是れは二十世紀の建築様式であると云ふことを指し示すこが出来ると私は思ふ、成るほご歐羅巴にも種々様々の建築が今日でもあるけれども、併し歐羅巴の大勢と云ふものは一の「様式」を成して居るもの私は看做して居る、歐羅巴の現世紀の「様式」はごう云ふものかと云ふに、詰りは「クラシック、アーキテクチュア」を本として居る建築であつて、必しも前世紀に於ける如き、「クラシック」を戦々兢兢として真似るのでなく「レネーサンス」式でもなく「クラシック」を本として、新しい智識を以て、それを適度に應用するのは即ち現代の歐羅巴の様式である、そこで今こで日本だけが引込んで、歐羅巴さ區別される一種の判然たる様式を作れるかどうかと云ふに、私はさう云ふことは到底出来ないことであろうと思ふ、歐羅巴でも能く調べて見れば、其内には英吉利あり、佛蘭西あり、獨逸あり、それ等の國に各共図固有の様式があって、是れまでは判然たる別があつたけれども、此二十世紀の歐羅巴の「スタイル」は段々各國の固有の特徴を失ひつゝ、一様のものに近づく傾向がある、さうして見ると日本ばかりが世界の大勢に異つて、孤立して自分の城壁を守つて居ると云ふことは到底出来ないことである、歐羅巴の今日の建築は段々世界共通になつて、さうして著しい「ナショナリティー」が失はれつゝあるやうな有様であるから、日本も歐羅巴と同一の軌道を歩して行く以上は日本固有の著しい形ちを墨守して行くことは如何であるか、成るほど日本の建築を本位とする論者から云へば甚だ残念と思ふか知らぬけれども、従來の著しい特徴と云ふものは到底保つことは出来なくなるのは必然であらうと思ひます。然らば日本の國粹を如何にして顯はし得べきやと云ふに、判然現すことは六ヶ敷くなつて、さうして日本人の氣風精神と云ふものを含蓄して居る點に於てのみ即ち無形の所に於てのみ國粹を現すこさくなると思ひます、日本人は古代から支那は近傍の國さ交際して、其れ等より建築を學んだけれども、元日本人の建築に關する思想は如何なる状態のものなるかを調べて見るに、詰り古代支那朝鮮などに學んで来て、其の改良した仕方等に於て見ても日本人は建築に關して微妙なる頭脳を有って居るものと私は考へて居る、若し今日日本が歐羅巴の建築に傚っても單に摸倣して自分の國粹を失ふ憂は更に無いのみならず、益々日本人の微妙なる頭脳を以つて之れを了解し、さうして之を物にすることが出来るであらうと云ふことを私は信じて疑はないのであります。

それでありますからして私は日本の建築様式を無理に發達させるとか、或は折衷主義で無理に引止めることか云ふやうなことは出来ないもの看倣えて居る、それで今日の世の中で以て昔の歴史上に現はれたる徑路を踏んで行くことを望むのは大變時勢を考へない過であらうと思ふ、今日の世界の総ての事は先程申す通り接近して来て、日本は世界と同じ軌道を進んで行くのであるから、途中にて試みさか云ふことをやつて居る暇は無いのである、従つて過渡時代が若しありさしてもそれは極めて短い、到底時勢は長き過渡時代を許さぬのである、他の事柄と同じく、建築の有様も極短かい過渡時代があったが、それは西洋建築が日本に渡って来た當時にあつたので、私はもう其過渡時代は疾うの昔に過去って仕舞つて居ると考へます、詰り今日東京で少しばかり残って居る昔の官の建築、例へば大蔵省とか内務省とか云ふものも、あれは一の日本に於ける「トラジション、スタイル」であると思ふ、それから又銀座などにも幾分か形を残して居る或種類の建物にも「トランジション、スタイル」が見止められる、今日の日本は試験時代を終って、本當に歐羅巴の建築を悪用して居る時代だ私は看做して居るのである、それで今日折衷式或は日本の新様式と云ふことを言ふのはもう既に時代に後れて居る考と私は看做すのであります、一言私の主意を申上げます。

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