利用者:Kzhr/海潮音

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上田敏による訳詩集。1905年発表。

  • 底本は近代文献画像データベースにて提供せらる上田敏著『海潮音』(1905、本郷書院、東京)によった[1]
  • UnicodeのCJK統合漢字内に於いて成る丈底本通りにするよう努めたが、選びうる字体がなかった場合、補遺に示した。また、JIS X 0208外の文字に就いても補遺に示した。示し方は非JIS漢字表現に拠った。ただし、玄の闕画に関しては断らなかった。
  • フリガナに就いては字の後ろに()を以って示した。タイトルの文字にもふりがなは振ってあったが、それは省略した。
  • 傍点等はフリガナに同じくした。
  • 踊り字は/\、/゛\を以って示した。
  • 目次は割愛した。
  • 詩の出典については底本ではページ下に寄せてあったがそれをしなかつた。

(端書)[編集]

遙に此書を滿州なる森*1外氏に獻ず

大寺の香の烟はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる。
獅子舞歌*2

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 卷中收むる所の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亞に三人、英吉利に四人、獨逸に七人、プロ*3ンスに一人、而して佛蘭西には十四人の多きに達し、曩の高踏派と今の象*4派とに屬する者其大部を占む。
 高踏派の莊麗體を譯すに當りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象*4派の幽婉體を飜するに多少の變格を敢てしたるは、其各の原調に適合せしめむが爲なり。
 詩に象*4を用ゐること、必ずしも近代の創意に非らず、これ或は山嶽と共に舊きものならむ。然れども之を作詩の中心とし本義として故らに標榜する所あるは、蓋し二十年來の佛蘭西新詩を以て嚆矢とす。近代の佛詩は高踏派の各篇に於て發展の極に達し、彫心鏤骨の技巧實に燦爛の美を恣にす、今茲に一轉機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、*5ルレエヌの名家之に觀る所ありて、*6新の機運を促成し、終に象*4を唱へ、自由詩形を*7けり。譯者は今の日本詩壇に對て、專ら之に則れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる所か、譯者の同情は寧ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバテルの詩に注げり。然れども又徒らに晦澁と奇怪と以て象*4派を攻むる者に同せず。幽婉奇聳の新聲、今人胸奧の絃に觸るゝにあらずや。坦々たる古道の盡くるあたり、*8棘路を塞ぎたる原野に對て之が開拓を勤むる勇猛の徒を貶す者は怯に非らずむば惰なり。
 譯者甞て十年の昔、白耳義文學を紹介し、稍後れて、佛蘭西詩壇の新聲、特に*5ルレエヌ、*5ルハアレン、ロオデンバッハ、マラルメの事を*7きし時、如上文人の作なほ未だ西歐の評壇に於ても今日の聲譽を博する事能はざりしが、爾來世運の轉移と共に*6新の詩文を解する者、漸く數を*9し勢を加へ、マアテルリンクの如きは、全歐思想界の一方に覇を稱するに至れり。人心觀想の默移實に驚くべき哉。近體新聲の耳目に嫺はざるを以て、倉皇視聽を掩はむとする人々よ、詩天の星の宿は徙りぬ、心せよ。
 日本詩壇に於ける象*4詩の傳來、日なほ淺く、作未だ多からざるに當て、*10に早く評壇の一隅に囁々の語を爲す者ありと聞く。象*4派の詩人を目して徒らに神經の*11きに傲る者なりと非議する評家よ、卿等の神經こそ寧ろ過敏の*4候を呈したらずや。未だ新聲の美を味ひ功を收めざるに先ちて、早く其弊竇に戰慄するものは誰ぞ。
 歐洲の評壇亦今に保守の論を唱ふる者無きにあらず。佛蘭西のブリュンチエル等の如きこれなり。譯者は藝術に對する態度と趣味とに於て、此偏想家と頗る*7を異にしたれば、其云ふ所に一々首肯する能はざれど、佛蘭西詩壇一部の極端派を制馭する消極の評論としては、稍耳を傾く可きもの無しとせざるなり。而してヤスナヤ・ポリヤナの老伯が近代文明呪詛の聲として、其一端をかの「藝術論」に露はしたるに至りては、全く贊同の意を呈する能はざるなり。トルストイ伯の人格は譯者の欽仰措かざる者なりと雖、其人生觀に就ては、根本に於て*10に譯者と見を異にす。抑も伯が藝術論はかの世界觀の一片に過ぎず。近代新聲の評隲に就て、非常なる見解の相違ある素より怪む可きにあらず。日本の評家等僅に「藝術論」の一部を抽讀して、象*4派の貶斥に一大聲援を得たる如き心地あるは、毫も*6新體の詩人に打*12を與ふる能はざるのみか、却て老伯の議論を誤解したる者なりと謂ふ可し。人生觀の根本問題に於て、伯と*7を異にしながら、其論理上必須の結果たる藝術觀のみに就て贊意を表さむと試むるも難い哉。
*4の用は、之が助を藉りて詩人の觀想に類似したる一の心*13を讀者に與ふるに在りて、必ずしも同一の*14念を傳へむと勉むるにあらず。されば靜に象*4詩を味ふ者は、自己の感興に應じて、詩人も未だ*7き及ぼさゞる言語道斷の妙趣を翫賞し得可し。故に一篇の詩に對する解釋は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心*13を喚起するに在りとす。例へば本書百五十九頁「鷺の歌」を誦するに當て讀者は種々の解釋を試むべき自由を有す。此詩を廣く人生に擬して解せむか、曰く、凡俗の大衆は目低し。法利賽(パリサイ)の徒と共に*15僞の生を營みて、醜辱汚穢の沼に網うつ、名や財や、はた樂欲を漁らむとすなり。唯、縹渺たる理想の白鷺は羽風徐に羽*12きて、久方の天に飛び、影は落ちて、骨蓬の白く*6らにも漂ふ水の面に映りぬ。之を捉へむとしてえせず、此世のものならざればなりと。されどこれ只一の解釋たるに過ぎず、或は意を狹くして詩に一身の運を寄するも可ならむ。肉體の欲に*16きて、とこしへに精神の愛に飢ゑたる放縱生活の悲愁こゝに湛へられ、或は空想の泡沫に歸するを哀みて、眞理の捉へ難きに憧がるゝ哲人の愁思もほのめかさる。而して、此詩の喚起する心*13に至りては皆相似たり。二〇二頁「花冠」は詩人が*17昏の途上に佇みて、「活動」、「樂欲」、「驕慢」の邦に漂遊して、今や歸り來れる幾多の「想」と相語るに擬したり。彼ら默然として頭俛れ、齎らす所只幻惑の悲音のみ。孤り、此等の姉妹と道を異にしたるか、終に歸り來らざる「理想」は法苑林の樹間に「愛」と相睦み語らふならむといふに在りて、冷艷素香の美、今の佛詩壇に冠たる詩なり。
 譯述の法に就ては譯者自ら語るを好まず。只譯詩の覺悟に關して、ロセッティが伊太利古詩飜譯の序に述べたると同一の見を持したりと吿*18白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、*10に成語に富みたる自國詩文の技巧の爲め、精神の趣味を犠牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必ずしも忠實譯にあらず。されば「東行西行雲眇々。二月三月日遲々」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱が二條の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の樓に上る」と詠じたる例に從ひたる所多し。

明治三十八年初秋 上田 敏

海潮音[編集]

上田 敏*1

燕の歌[編集]

彌生(やよひ)ついたち、はつ燕(つばめ)、
海(うみ)のあなたの靜(しづ)けき國(くに)の
便(たより)もできぬ、うれしき文(ふみ)を、
春(はる)のはつ花(はな)、にほひを尋(と)むる
あゝ、よろこびのつばくらめ。
*1(くろ)と白(しろ)との染分縞(そめわきじま)は
春(はる)の心(こころ)の舞姿(まひすがた)。

彌生(やよひ)來(き)にけり、如月(きさらぎ)は
風(かぜ)もろともに、けふ去(さ)りぬ。
栗鼠(りす)の毛衣(けごろも)*2(ぬ)ぎすてゝ、
綾子(りんず)羽(は)ぶたへ、今樣(いまやう)に、
春(はる)の川*3をかちわたり、
*4なだるゝ枝(えだ)の森(もり)わけて、
舞(ま)ひつ、歌(うた)ひつ、足速(あしはや)の
戀慕(れんぼ)の人(ひと)ぞむれ遊(あそ)ぶ。
岡(をか)に摘(つ)む花(はな)、*5(すみれ)ぐさ、
草(くさ)は香(かを)りぬ、君(きみ)ゆゑに、
素足(すあし)の「春(はる)」の君(きみ)ゆゑに、

けふは野山(のやま)も新妻(にひづま)の姿(すがた)に通(かよ)ひ、
わだつみの波(なみ)は輝(かがや)く阿古屋珠(あこやだま)、
あれ、藪陰(やぶかげ)の*1鶇(くろつぐみ)、
あれ、なか空(そら)に揚雲雀(あげひばり)。
つれなき風(かぜ)は吹(ふ)きすぎて、
*6(ふるす)啣(くは)へて飛(とび*7)び去(さ)りぬ。
あゝ、南國(なんごく)のぬれつばめ、
尾羽(をば)は矢羽根(やはね)よ、鳴く音は弦
「春(はる)」のひくおと、「春(はる)」の手(て)の、
あゝ、よろこびの美鳥(うまとり)よ、
*1と白との水干(すゐかん*8)に、
舞(まひ)の足(あし)どり*9へよと、
*4ばし招(まね)がむ、つばくらめ。
たぐひもあらぬ麗人(れいじん)の
イソルダ姫(ひめ)の物語(ものがたり)、
飾(かざ)り畫(ゑが)けるこの殿(との)に
*4ばしあれよ、つばくらめ、
かづけの花環(はなわ)こゝにあり、
ひとやにはあらぬ花籠(はなかご)を 給(たま)ふあえかの姫君(ひめぎみ)は、
フランチェスカの前(まへ)ならで、
まことは「春(はる)」のめがみ大神(おほがみ)。

〔ダンヌンチオ——『フランチェスカ・ダ・リミニ』〕

聲曲[編集]

*1

われはきく、よもすがら、わが胸(むね)の上(うへ)に、君(きみ)眠(ねむ)る時(とき)、
吾(われ)は聽(き)く、夜(よる)の靜寂(しづけさ)に、滴(したヽり)の落(お)つる將(はた)、落(お)つるを。
常(つね)にかつ近(ちか)み、かつ遠(とほ)み、*2間(たえま)なく落(お)つるをきく、
夜(よ)もすがら、君(きみ)眠(ねむ)る時(とき)、君(きみ)眠(ねむ)る時(とき)、われひとりして。

〔ダンヌンチオ——『ショパン*3興樂(アンプロンプチユ)』〕

眞晝[編集]

「夏(なつ)」の帝(みかど)の「眞晝時(まひるどき)」は、大野(おほの)が原(はら)に廣(ひろ)ごりて、
白銀色(しろがねいろ)の布引(ぬのひき)に、*1天(あをぞら)くだし天降(あもり)しぬ。
寂(じやく)たるよもの光景(けしき)かな。耀(かがや)く*2空、風*3えて、
炎(ほのほ)のころも、纒(まと)ひたる地(つち)の熟睡(うまい)の靜心(しづごヽろ)。
眼路(めぢ)眇茫(べうばう)として極(きはみ)無く、樹蔭(こかげ)も見えぬ大野(おほの)らや、
牧(まき)の畜(けもの)の水(みづ)かひ場(ば)、泉(いづみ)は涸(か)れて音(おと)も無(な)し。
野末(のすゑ)遙(はる)けき森蔭(もりかげ)は、裾(すそ)の界(さかひ)の線(すぢ)*4(くろ)み、
不動(ふどう)の姿(すがた)夢(ゆめ)重(おも)く、寂寞(じやくまく)として眠(ねむ)りたり。

唯(たヾ)熟(じゆく)したる麥(むぎ)の田(た)は*5金海(わうごんかい)と連(つら)なりて、
かざりも波(なみ)の搖蕩(たゆたひ)に、眠(ねむ)るも鈍(おぞ)と嘲(あざ)みがほ、
聖(せい)なる地(つち)の安(やす)らけき兒等(こら)の姿(すがた)を見(み)よやとて、
畏(おそ)れ憚(はヾか)るけしき無(な)く、日(ひ)の觴(さかづき)を嚥(の)み干(ほ)しぬ。

また、邂逅(わくらば)に吐息(といき)なす心(こヽろ)の熱(ねつ)の穗(ほ)に出でゝ、
囁聲(つぶやきごゑ)のそこはかと、鬚(ひげ)長穎(ながかひ)の胸(むね)のうへ、
覺(さ)めたる波(なみ)の搖動(ゆさぶり)や、うねりも貴(あて)におほとかに
起(お)きてまた伏(ふ)す行末(ゆくすゑ)は沙(すな)たち迷(まよ)ふ雲(くも)のはて、
程(ほど)遠(とほ)からぬ*1草(あをくさ)の牧(まき)に伏(ふ)したる白牛(はくぎう)が、
肉置(しヽおき)厚(あつ)き喉袋(のどぶくろ)、涎(よだれ)に濡(ぬ)らす慵(ものう)げさ、
妙(たへ)に氣高(けだか)き眼差(まなざし)も、世(よ)の煩累(わづらひ)に倦(う)みしごと、
終(つひ)に見果(みは)てぬ*6(ないしん)の夢(ゆめ)の衢(ちまた)に迷(まよ)ふらむ。

人(ひと)よ、爾(なんぢ)の心中(しんちう)を、喜怒哀樂(きどあいらく)に亂(みだ)されて、
光明道(くわうみやうだう)の此原(このはら)の眞晝(まひる)を孤(ひと)り過(す)ぎゆかば、
*7(の)がれよ、こゝに萬物(ばんぶつ)は、凡(す)べて*2(うつろ)ぞ、日(ひ)は燬(や)かむ。
ものみな、こゝに命(いのち)無(な)く、*8(よろこび)も無(な)し、はた憂(うれひ)無(な)し。

されど涙(なみだ)や笑聲(せうせゐ)の惑(まどひ)を*9(だつ)し萬象(ばんしやう)の
流轉(るてん)の相(さう)を忘(ぼう)ぜむと、心(こヽろ)の渇(かわき)いと切(せち)に、
現身(うつそみ)の世(よ)を赦(ゆる)しえず、はた咀(のろ)ひえぬ觀念(くわんねん)の
眼(まなこ)放(はな)ちて、幽遠(いうゑん)の大觀樂(だいくわんらく)を念(ねん)じなば、

來(きた)れ、此地(このち)の天日(てんじつ)にこよなき法(のり)の言葉あり、
親(した)み難(がた)き炎上(*10んじやう)の無間(むげん)に沈(しづ)め、なが思(おもひ)、
かくての後(のち)は、濁世(だくせい)の都(みやこ)をさして行(ゆ)くもよし、
物(もの)の七(なヽ)だひ*11槃(ニルワナ)に浸(ひた)りて澄(す)みし心(こヽろ)もて。

〔ルコント・ドゥ・リイル——『古代(こだい)詩集(ししふ)』〕

大飢餓[編集]

夢(ゆめ)圓(まどか)なる滄溟(わたのはら)、濤(なみ)の卷曲(うねり)の搖蕩(たゆたひ)に
夜天(やてん)の星(ほし)の影(かげ)見(み)えて、小島(をじま)の群(むれ)と輝(かヾや)きぬ。
紫摩(しま)黄金(わうごん)の良夜(あたらよ)は、寂莫(じやくまく)としてまた幽(いう)に、
奇(く)しき畏(おそれ)の滿(み)ちわたる海(うみ)と空(そら)との原(はら)の上(うへ)。
無邊(むへん)の天(てん)や無量海(むりやうかい)、底(そこ)ひも知(し)らぬ深淵(しんえん)は
憂愁(いうしう)の國(くに)、寂光土(じやくくわうど)、また譬(たと)ふべし、炫耀卿(げんえうきやう)、
墳塋(おくつき)にして、はた伽藍(がらん)、赫灼(かくやく)として幽遠(いうゑん)の
大荒原(だいくわうげん)の縱横(たてよこ)を、あら、萬眼(まんがん)の魚鱗(うろくづ)や。

*1空(せいくう)かくも莊嚴(さうごん)に、大水(たいすゐ)更(さら)に*2(かみ)寂(さ)びて、
大光明(だいくわうみやう)の遍照(へんぜう)に、宏大(くわうだい)無邊(むへん)界中(かいちう)に、
うつらうつらの夢枕(ゆめまくら)、煩悩界(ぼんなうかい)の諸苦患(しよくけん)も、
こゝに通(かよ)はぬその夢(ゆめ)の限(かぎり)も知(し)らず大(おほ)いなる。

かゝりし程(ほど)に、粗膚(あらはだ)の蓬起皮(ふくだみがは)の*3なやかに
飢(うゑ)にや狂(くる)ふ、おどろしき深海底(ふかうみぞこのわたり魚(うを)、
あふさきるさの徘徊(もとほり)に、身(み)の鬱憂(うついう)を紛(まぎ)れむと、
南蠻鐵(なんばんてつ)の腮(あぎと)をぞ、くわつとばかりに開(ひら)いたる。

素(もと)より無邊(むへん)天空(てんくう)を仰(あふ)ぐにはあらぬ魚(うを)の身(み)の、
參(からすき)の宿(しゆく)、みつ星(ぼし)や、三角星(さんかくせい)や天蝎宮(てんかつきう)、
無限(むげん)に曳(ひ)ける光芒(くわうぼう)のゆくてに思馳(おもひは)するなく、
北斗星前(ほくとせいぜん)、横(よこた)はる大熊星(だいいうせい)もなにかあらむ。

唯(ただ)、ひとすぢに、生肉(せいにく)を*4(か)まむ、碎(くだ)かむ、割(さ)かばやと、
常(つね)の心(こヽろ)は、朱(あけ)に染(そ)み、血(ち)の氣(け)に欲(よく)を湛(たヽ)へつゝ、
影(かげ)暗(くら)うして水(みづ)重(おも)き潮(うしほ)の底(そこ)の荒原(くわうげん)を、
曇(くも)れる眼(まなこ)、きらめかし、凄惨(せいさん)として遲々(ちヽ)たりや。

こゝ*5(うつろ)なる無聲境(むせいきやう)、浮(うか)べる物(もの)や、泳(およ)ぐもの、
生(い)きたる物(もの)も、死(し)したるも此(この)空漠(くうばく)の荒野(あらや)には、
音信(おとづれ)も無(な)し、影(かげ)も無(な)し、たゞ水先(みづさき)の小判鮫(こばんざめ)、
眞黒(まくろ)の鰭(ひれ)のひたうへに、沈々(ちんちん)として眠(ねむ)るのみ。

行(ゆ)きね妖怪(あやかし)、なれが身(み)も人間道(にんげんだう)に異(こと)ならず、
醜惡(しうを)、獰猛(だうまう)、暴*6(ばうれい)のたえて異(こと)なるふしも無(な)し。
心(こヽろ)安(やす)かれ、鱶(ふか)ざめよ、明日(あす)や食(く)らはむ人間(にんげん)を。
又(また)さはいへど、汝(なれ)が身(み)も、明日(あす)や食(く)はれむ、人間(にんげん)に。

聖(せい)なる飢(うゑ)は正法(しやうほふ*7)の永(なが)くつゞける殺生業(せつしやうごふ)、
かげ深海(ふかうみ)も光明(くわうみやう)の天(あま)つみそらもけぢめなし。
それ人間(にんげん)も、鱶鮫(ふかざめ)も、殘害(ざんがい)の徒(と)も、餌食(えじき)等(ら)も、
見よ、死(し)の*2の前(まへ)にして、二(ふた)つながらに罪(つみ)じ無(な)き。

〔ルコント・ドゥ・リイル——『悲壯(ひさう)詩集(ししふ)』〕

補遺[編集]

漢字の場合番号、Unicodeでの表記、非JIS漢字表現による字形の表記、註の順序で書いた。

補遺 序[編集]

  • *1 鷗 - {區鳥} JIS X 0208では鴎
  • *2 ページ改まりて後本歌あり。獅子舞歌の文字はページ下に揃へられてあり。
  • *3 ヷ - {ワ゛}
  • *4 徵 - {(徴-(山/王))<(山/一/王)} JIS X 0208では徴
  • *5 ヹ - {ヱ゛}
  • *6 淸 - {(清-青)(靜-爭)} JIS X 0208では清
  • *7 說 - {言兌} JIS X 0208では説
  • *8 荆 - {(艸/刑-リ)リ#リはりっとうのこと} JIS X 0208では荊
  • *9 增 - {土曾} JIS X 0208では増
  • *10 旣 - {((餉-向)-人)旡} JIS X 0208では既
  • *11 銳 - {金兌} JIS X 0208では鋭
  • *12 擊 - {(車/山)殳/手} JIS X 0208では撃
  • *13 狀 - {爿犬} JIS X 0208では状
  • *14 槪 - {木((餉-向)-人)旡} JIS X 0208では概
  • *15 虛 - {墟-土} JIS X 0208では虚
  • *16 饜 - {厭/食:あク}
  • *17 黃 - {廣-广} JIS X 0208では黄
  • *18 吿 - {牛/口} JIS X 0208では告

補遺 海潮音[編集]

  • *1 ページ下に揃へられてあり。

補遺 燕の歌[編集]

  • *1 黑 - {默-犬} JIS X 0208では黒
  • *2 脫 - {月兌} JIS X 0208では脱
  • *3 瀨 - {(瀬-頁)(刀/貝)} JIS X 0208では瀬
  • *4 志の変体仮名なり。
  • *5 堇 - {廿/中/王#画は離さない} 誤字なり。正しきは{艸/堇}なり。
  • *6 巢 - {巛/田/木} JIS X 0208では巣
  • *7 原文儘なり。
  • *8 原文儘なり。
  • *9 敎 - {(メ/(孝-十))(教-孝)} JIS X 0208では教

補遺 聲曲[編集]

  • *1 ものゝね。
  • *2 絕 - {糸(刀/巴)} JIS X 0208では絶
  • *3 卽 - {((餉-向)-人)

補遺 眞晝[編集]

  • *1 靑 - {主/円#主の縦線は一直線} JIS X 0208では青
  • *2 序註15を参照せよ。
  • *3 聲曲註2を参照せよ。
  • *4 燕の歌註1を参照せよ。
  • *5 序註17を参照せよ。
  • *6 內 - {冂<入} JIS X 0208では内
  • *7 逭 - {(辺-刀)_官}
  • *8 悅 - {(性-生)兌} JIS X 0208では悦
  • *9 燕の歌註2を参照せよ。
  • *10 江の変体仮名なり。
  • *11 {(清-青)(日/工)} JIS X 0208では涅とおぼゆ。

補遺 大飢餓[編集]

  • *1 眞晝註1を参照せよ。
  • *2 神 - {示申} JIS X 0208では神
  • *3 燕の歌註4を参照せよ。
  • *4 嚙 - {口齒} JIS X 0208では噛
  • *5 序註15を参照せよ。
  • *6 戾 - {戸'犬} JIS X 0208では戻
  • *7 原文儘なり。