利家夜話/国史研究会

利家夜話 目次

 

 
オープンアクセス NDLJP:8利家夜話 卷之上

信長に仕ふ一、大納言樣十四歲にて、信長公へ御奉公に御出でなされ、同年八月、御具足御召初なされ、御高名折々なされ候由、常に御物語なされ候、十五歲より信長公御傍に召仕はれ、片時も御放たれなされず候て、御奉公遊され候由、御物語なり、

一、十六歲の時、信長公の御舍弟勘十郞殿、〈後武藏守と號す、〉御中不和にならせられ、稻生の合戰の時は、武藏守殿御人數三千計りなり、信長公御人數七八百計りにて、御戰の時、武藏守殿御小姓頭宮居勘兵衞と申す者︀、弓を持來り、利家へ對し、矢を放し、利家の右の目の下に當り申し候、則ち其矢を拔かで、館︀にて突︀臥せ、首を御取りなされ候、其御威勢を以て、信長公御勝陣になり申し候、此度は淺野又八郞殿御具足御召初を、利家御著︀せ參らせ候、時々淺野彈正殿・同左京大夫殿、此儀を承りたき由、御所望にて、御物語なされ候、

一、前田藏人殿二千貫の御家、今程は五千石計りの御知行の由、大納言樣も豐後オープンアクセス NDLJP:9も御申し候、

一、利家十九歲の御時、御腰物の笄を、信長公の御次にて、御同朋十阿彌盜み申し候を、信長公へ御意を得られ、成敗なさるべき由、御申上げ候處、彼御同朋に目を懸け申す衆、佐々內藏助殿を始め、此度は平更に、下にて御免︀候へと、詫言申され候へども、御近所に之ある者︀なれば、以來の爲と思召され、御意を得られ候へども、日來不便に思召し候御同朋故、此度は許し申す樣にと、信長公御意候故、利信長の怒を被る家卿是非なく、御意次第と仰せられ候處に、彼同朋に目を懸け申す衆、蔭にて利家を笑ひ申し候由を御聞きなされ、御立腹あり、二の御丸の櫓に、信長公御座なされ候御下にて、彼同朋を御切りなされ候、此時、大納言樣はお犬と申し候、信長公曲事に思召され、犬を成敗なさるべしと仰せられ候を、柴田修理殿・森三左衞門殿など蒐塞り、御詫言申上げられ候へば、さ候はゞ、犬めを浪人と仰出され候、其頃、利家をお犬と申し候由に御座候、翌年、信長公、義元合戰の時、利家一番に首を御取なされ候、其時、孫四郞首取り候と、申上げられ候へば、士の役と計り、御意なされ候、其時、利家卿彼首を御前にて、水田の中へ御捨なされ候て、又駈出でんとなされ候時、御前に有合ふ衆、孫四郞一番首を取り申し候、其上薄手も負ひ申し候、此度は自然に討死仕るべき體に見請け申し候、如何御座あるべく候やと、皆皆申上げられ候へば、急ぎ留め置き候へと、御意なされ候間、利家卿を押止め申され候由に御座候、

一、同年、森部合戰の時、又一番首を御取りなされ候、利家卿御奉公に御出なされ、始めて五十貫下され候、其後御加增にて、百五十貫になり、森部合戰の後、又御加增下され、其後御舍兄藏人殿の跡目を下され、合二千四百五十貫になり、其後越前府中にて、三萬三千三百石下され、其後能州一國下され、又其後加州石川・河北兩郡、太閤樣より下され、其後越中をば、自分崩取になされ候由、御物語に候、斯樣に色々若年より骨を折り、取上げ候へば、心を富士の山程に持ち、奉公仕るべきものと、常々仰せられ候、

一、美濃・尾張取合の時、日暮になり、互に兵共鎗を持ち、ねめ合ひ候折柄、佐久間久衞門といふ剛の者︀、是は佐久間玄蕃父にて、柴田修理姊婿なり、暮相に左右を下知して、小聲になり、田を結へと云ふ時、八月の頃なれば、有合うたる兵オープンアクセス NDLJP:10共、流石其道に心得たる兵共なれば、鎗を持ちながら、田を結ひ、靜に引く、折節︀中秋の頃とてや、艸村くさむら過ぐる風の音、しほと六七間も引く時に、敵どつと鎗を入れ來る、其時彼結び置きたる稻にけづまづき、轉びし所を、美濃方の兵共、十五六人の首を取り申し候、其後は濃州方より、五十日計り、人を出さず候由、利家御物語なされ候、皆々斯樣の咄などは、うつかと聞き候事には之なしと、仰せられ候、

一、同國合戰の時、濃州方より物見に、谷七郞左衞門と申す人出て候時、何れも丸く包み、取卷き候て、遁るまじき由申しければ、七郞左衞門、次第に輪を小く乘り、馬上にて威言を言ひ、近々と寄り、ひらりと刀を拔くと齊しく駈出す、是は信長公の御父、備後守殿御代のことの由、足輕物見を仕付けたる人の由、御物語なり、

一、伏見關白樣の御屋形へ、利家御移の時、村井勘十郞、其時具足を拵へ、御目に懸け候へば、殊の外御機嫌能く、色々御武邊の御物語御話どもなされ候、忍の緖の結び樣、御敎なされ候、其上冑を三枚しころに致すべき由、是又濃州尾州取合の時の御物語御座候、具足を御目に懸け候儀、皆々羨み申され候、

一萬と三千との戰敗一、利家度々御咄に、立合の合戰の時、一萬と三千とは、必ず大將の分別にて、三千の方度々に勝利を得るものなり、其故は、小人數は最早二つ一つと兵共存じ切る故なり、夫に就き、大軍の大將、油斷いかゞの由、御物語なり、

一、大納言樣御咄にも、人を呪ひ申す事なるまじく候、故は利家樣、荒子あらこを信長公御意にて、前田藏人殿より御渡り候時、藏人殿御內樣、腹を御立て、色々呪ひ事を召され、屛風・障子まで封じさせ、御出で候へども、大納言樣結句彌增に吉事ありと、色々御物語なされ候由、豊後御申し候、

利家前田氏の總領となる一、藏人殿御知行を、右の如く、信長企上意として、利家へ下され候、荒子あらこ御請取り候故、御兄弟に候へども、早や敵々の樣に、御中不和に御座候、夫に就き、柴田修理殿・佐久間右衞門殿・森三左衞門殿・佐々內藏助殿・又左衞門殿など御參會にて、色々御咄の上に、利家は手柄度々の儀故、前田の總領御繼ぎ候由、尤に存じ候由にて、御舍兄藏人殿事、皆々譏口にて御咄の時、寔に忝しと、御挨拶にて、其上に武邊も少し藏人殿はぬるく候樣に、取々言の端に出て候へば、又左衞門殿押跪オープンアクセス NDLJP:11きなされ、藏人殿分別惡しく候故、跡職某に下され、忝く拜領仕り、前田の總領、私持つなり、但し藏人儀、武邊は我等が前にて御申し候事、御免︀候へと、急度御申し候へば、尤と仰せられ、物をも申す仁も御座なく候、是も森殿・柴田殿・三左衞門殿計りにて候へば、御知音の間、苦しからず候へども、右衞門殿・內藏助殿、其外二三人之あり候故、右の通り仰せられ候由御申し、御物語に候、是も又左衞門殿は、偏にさりとては只者︀にあらずと、人々申慣らし候、信長公の御耳にも相立ち、御感の旨に御座候由、其後森殿・柴田殿も利家へ御斷り、利家も御兩人へ御斷にて、彌〻御手柄能く御座候旨、御物語なされ候、

一、又左衞門殿、鎗の合ひ申す事九度、佐々內藏助殿、三度御合ひ申し候なり、戶田武藏殿も度々御出で候て、御次の間にて、年寄衆と御咄し、坪內平太は備後守殿よりの仁にて候、是も御咄、村井豐後も所々を語り申され候、

若き者︀の壯言一、同御物語に、若き者︀は、世上に事の之ある時は、威言をいはせ能く候、其口を違ふまじと思ふ人あるものなり、早や二三度も手柄をしては、威言をいはぬものと申され候、

一、利家樣、鶴の汁上り候へば、早や御蟲に當り申し候、其故御物語なされ候、信長公、安土山御城に成らせられ候て、何れも御振舞下され、鶴色々の珍物の上に、信長公、御引物を御自身なされ候、柴田前にて御意に、貴殿を始め、度々手柄致され候故、斯樣に天下を靜め、萬事成就、滿足申し候由御意、其外夫々に御言葉、扨七八人末座に利家樣御座候へば、御引物下され候刻、利家樣、若き時は、信長公御傍に寢臥なされ、御祕藏にて候と、御戲言ざれごと、御意には、利家其頃まで大髭にて御座信長大に利家の勇戰を賞す候、髭を御取り候て、其方稻生合戰の刻、十六七の頃、武藏守內宮居勘兵衞といふ者︀の首を取り候刻、我等十一になり、合戰初に候、其首を、犬忰なれども、此手柄を見よと、我等馬の上にて振り候へば、味方氣を得て、只七八百計りにて、三四千の人數を押崩し候、其如く各〻手柄故、斯樣に我等天下を靜め、萬事成就致し候由、御意にて、扨も忝き御諚と存ずる所に、御近習衆、通ひを仰せられ候衆までも、さても冥加なる又左殿かなと、あやかり者︀とばひゐ合ひ候樣に、通ひ物候故に、奢にて、忝き御諚と、ひた物食ひ過し、鶴汁を是非なく過したれば、其後中り申し候と御意にて、御笑なされ候、右の通り、太閤樣も度々仰せられ候由、金森法オープンアクセス NDLJP:12印・羽︀柴下總守なども、利家樣へ御出なされ候て、御申なされ候を承り、書付け申し候、右合戰の刻は、柴田殿は武藏守殿衆になる、

又左衞門鎗一、利家樣、御若き時は、かぶき御人、中々粗忽人の樣にて、喧嘩好きをもなされ候、其時の事に候へば、御持鎗さへ、又左衞門鎗と、人遠くより見付け、是へ又左衞門來る由にて、皆人歸り申す樣に、興なる御拵に御座候由、豊後・伊豫も語り申され候、御年寄なされ候ては、御やさしき事あり、御袴腰世上に小きが流行り候時、大府樣を始め、皆々小き腰を召し候、或時、與十郞と申す細工人に、御納戶奉行申し候は、今流行り候樣に裁ち候へと申し、心得申す由にて、腰小さく仕立て候流行を追ふを嫌ふへば、御機嫌惡しく、御袴を投げ捨てなされ候て、其儘にてよく候、大府などの袴腰を見て、斯樣に仕りたるか、沙汰の限りと仰せらる、夫よりは又昔流の腰にさせ召し候、又若き者︀共、かぶいたる程の氣立の者︀を、御意に入り申し候、右袴腰の儀、德山五兵衞、其外皆々年寄感じ申し候、

一、利家樣、村井豐後を又兵衞と御附なされ候、又左樣の又の御字を下され候は、度々御咄承り候、豐後も語り申され、伊勢國大河內の城、信長公御攻めなされ候時に、大納言樣御側にて太刀打致し、首を取り申し候、其時までは、若名村井長八郞と申し候を、右の如く、又兵衞になされ候、常々若き時より、愛宕山を信仰致し候へば、御利生ありての儀、是は豐後廿三の年の時の由申され候、此時に限らず、度々愛宕の御利生、御吿蒙り候由、申され候、

一、大納言樣御若き時、御浪人なされ候時の御物語御座候、信長公の同朋を御切人情の厚薄なされ候時、御傍輩御兄弟程に常々御中能き衆沙汰なく、しか御見舞も之なく候、佐々內藏助は彼同朋に目懸け候衆候故、其時より御中惡しく、後までも其分に御座候、右人多き內に、森三左衞門殿・柴田修理殿、其外御小姓二三人ならでは、御牢人の內、心添なく候由、御意候、扨又關東陣の刻、太閤樣御前へ支へられ、御前惡しき時、是又日頃出入り、目を懸け申す者︀、結句敵になり、支へ口仕る者︀多く、我等人數一萬餘之あるを、橫目心に參り候て、利家人數は四五千之あるべき由申し候、木村常陸などは兄弟の樣に親しみ候に、八王寺を攻め候時、結句我等を支へ言上申し候、然れども蒲生飛驒守・淺野驒正などは、御前にて殊の外申直し候由、兎角人間は、牢人を仕る時、見繼ぎ候者︀は稀なるものなりと、度々御咄オープンアクセス NDLJP:13し御意候、心も僻むものにて候由、夫に就き、猪︀子內匠宗無、牢人の時、一入御情入らせられ候、後々京・伏見にて、大納言樣御門前に市をなす時、前廉支へ口仕り候衆を、蔭にて御笑ひなされ候、樋口と申す仁などへは、直に御意候へば、殊の外迷惑致され、狂言に取直し申され候、右關東御陣以後、太閤樣、大納言樣へ御中直り、色々品ともに物語多く候、

一、柳ケ瀨合戰の時、御備に置かれ候衆、小塚︀藤右衞門・木村三藏・富田與五郞、其外五六人三度まで敵を突︀崩し、枕を竝べ、討死仕り候由、大納言樣、度々御物語なされ、是等も今居申し候はゞ、一萬石程づつは遣し申す者︀に候由、御意なされ候、

一、戶田武藏殿も、坪內平太も御物語に候、利家を中頃取沙汰申し候は、又左衞門は、此頃は威言が之なき程に、早や縮み候やと申し候へば、大坂合戰の時、又其後日本無雙の鎗をなされ候へば、利家は若き時威言をいひても、武邊を仕り、今又しまりても、斯樣に手柄をするなれば、兎角には押せぬ人と、皆々申され候由、御物語なされ候、

一、柳が瀨敗軍、今日、利家、越前府中の城へ御入り候へば、柴田修理殿馬乘以上八騎にて、鎗の柄切折れたるを、馬の上に御持ありて、御通り候時、村井又兵衞、利家へ申上げ候は、是にて修理殿を御討留なされ候はゞ、御忠節︀になるべしと、申武士の作法上げ候へば、御手にて又兵衞が胸を御打ち、沙汰の限り、士の作法を知らずと、御叱り候て、御出なされ、修理殿へ御對面なされ候、又左衞門殿、恥しく候由、御申しなされ候處、其時利家仰せられ候は、合戰の習、是非なき御仕合に御座候、隨分隨分府中を固め申すべく候、急ぎ北の庄へ御歸城之あり候て、御人數御拵へ候へと、仰せられ候由、御物語に候、

一、其後、秀吉公府中の城へ鐵炮打懸けなされ候へば、內よりも打出す、扨堀左衞門殿をあつかひに、秀吉公より御越し候て、それより無事になり、利家も太閤樣へ御附なさるゝ由に候、但し北の庄の御人質の左右を、利家御待ち候儀、後までも感じ申し候、其時の證人、加賀殿にて御座候、御供にはあちやこ、後には少將殿になされ候由、

秀吉加賀二郡を利家に與ふ一、太閤樣へ利家御息女、今備前中納言殿へ御座候、御幼少より御養子と御座候故、殊に利家能州國主なれば、柴田殿へ御從なくては、叶はず候、然れば甥の佐久オープンアクセス NDLJP:14間玄蕃、殊の外利家を疑ひ申す由にて候、然れども御侍は互の儀に候間、謀叛の御心はなく候、夫に就き、前日玄蕃荒木瀨兵衞が城を攻め候時、利家御指引の如く仕り候へば、修理殿勝軍になるべきを、疑ひ候て、玄蕃、利家の御下知を用ひざる故に、案の如く負になり候、其段、太閤樣能く御聞きなされ候故、又左衞門殿、さりとては、ためし珍しき大將なり、味方にしても、賴しき人と御意にて、結局越前・加賀御手に入り、北國の押に、又左衞門殿賴入るの由、御意にて、加州石河郡・河北郡を、利家へ御加增候て、御歸城なされ候由、御物語なされ候、

一、利家御物語なされ候は、柳ケ瀨陣の中、一年過ぎ候が、佐々內藏助殿、尾州內大臣公と三州家康兩將へ、越中さら越をして參られ、申談ぜられ候は、北國より切つて上り申すべく候、御本意の御事に候はゞ、北國五箇國下さるべき旨申合せ、越中へ歸城して、尤も表裏を企て、佐々平左衞門といふ同名方より、其頃村井豐後方へ京町人油屋小きんといふ者︀出頭人、利家も御存知なされ候者︀に御座候を、平左衞門語らひ、村井方まで申越し候は、內藏助は娘計りを持ち候、御國佐々成政利家の子を婿とす竝びの事に御座候間、又左衞門御子息を婿に致し、內藏助跡をも繼がせ申すべく候、此由、利家へ御意を得られ候樣にと申越され候、利家御聞き、其通りになされ候故に、內藏助殿より御使として、佐々平左衞門參られ、色々御祝︀儀進物送られ候、利家、平左衞門御對面候て、御馳走、殊に、又刀・脇指など平左衞門に下され、萬事賴む由仰達せられ、平左衞門御返し候由、

一、扨此方より、追て村井を御禮返しに仰遣はさるべき由、仰せられ候へば、七成政擧兵の情報八月は、祝︀儀月にても御座なく候間、此方より、吉日を考へ、御案內に及ぶべき由にて、相延び申し候處、八月十七日、越中より、茶湯坊主小法師養頓と申す者︀參る、村井內、小林彌六左衞門と申す者︀、昔は出家にて之あり、彼彌六左衞門と大知音にて御座候、其ちなみに因つて、彌六左衞門方へ參り候て、咄し候を、則ち豊後に申聞けさせ候樣子は、內藏助殿謀叛の談合、夜々南の櫓にて、家老衆呼寄せ、御相談の由申し候、其通り村井、利家へ申上げ候、是れ天の與と御滿足にて、彼坊主に金子二枚下され候、大に越中より人數遣され候、一兩日以前に、御案內申上ぐべき由にて罷歸り候、利家、此儀仰の如く之あるべくや、實正ならぬに、粗忽をしては、以來までの越度たるべきなり、更に此方より、其手當なさるべく候由にて、オープンアクセス NDLJP:15扨朝日山へ、村井を大將にて、高畠平左衞門・原田又右衞門、其外鐵炮大將二人差添へ、遣さるべく候間、取出を拵へ申すべく候由、仰出され候、

利家の軍朝日山に據る一、佐々內藏助殿、始めて人數出し申され候は、八月廿八日なり、朝日山に右の通り柵を附け、居陣の用意仕り、金澤へ人數を返し申す、則ち豐後と見舞に、朝日山へ參る、其時刻越中よりも、端々に人數出し候由なり、其折、利家御馬𢌞り阿波賀五郞右衞門・江見藤十郞兩人、村井を見舞に、朝日山へ參り候、其時早や越中勢を見付け、急ぎ金澤へ註進に、幸各〻是是御入り候間、參られ候へと、又兵衞申しければ、兩人耳にも聞入れず、早々飛脚を以て仰遣され候へ、此體を見捨て、歸るべき樣子こそ安からねと申しければ、村井申し候は、飛脚にては、〔慥か〕ならねばこそなれ、各御越し候へば、御直に申上げられ候、いかにも然るべく候、但し此體は、道にも早や一揆なども之あるべきかと、申し候へば、兩人、此上は是非なく候、日頃の御懇慮、忝く存じ候間、御用に立ち、討死仕るべしと存じ候へば、此一言を聞きながら、註進に歸らねば、以來に談話の儀も之ありと、泪と共に、馬に打乘り候時、村井申し候は、各歸りて、利家へ申上げられ候へ、我等討死の沙汰、之あり候はば、城より內に、骸はあるまじく候由申し候、兩人利家へ此儀申上げ候へば、村井、利家下知なきとても、心許なき事はなけれども、去りながら時日を移すべからず候とて、不破彥三・多奈村三郞四郞・片山內膳・岡島帶刀、其外先手大將の分として御出馬なり、然れども其內に大雨降出で、殊に朝日山靜まりたる勢を見て、城中勢も遠卷に控へ申し候、其の時よりして度々御取合なされ候由、御物語なされ候、

一、津幡の城には、前田右近殿父子御入り候、

一、鳥越の城には、目賀田又右衞門・丹羽︀源十郞罷在り候、

一、能州末森の城には、奧村介右衞門・千秋主殿助・土井伊豫・瀧澤金右衞門、其外歷々十人計り之ある內に、介右衞門は侍大將なり、

一、同年九月十一日、能州末森へ佐々內藏助殿出でられ候時、奧村介右衞門方よ利家利長の出陣り金澤註へ進申上げ候へば、則ち利家・利長御出陣なされ、御具足御召の時、上帶を御切なされ候故、御討死と、何れも存じ奉る由に候、御上樣へも仰置かれ候由、笹原勘六便毒を煩ひ候へども、仰をも聞入れず、御供に入られ候、何れも感じ申オープンアクセス NDLJP:16す由に候、御先手は村井又兵衞・多奈村三郞四郞・片岡內膳・岡島越中など、端々に備へ候なり、金澤留守居前田藏人殿、其頃中も御直り候て、利家を御賴み候て、御出なされ候を幸に、金澤に置かれ候、其頃魚住隼人・篠原彌介などなり、金澤町まて小松の村上周防、越前守殿より越し置かるゝ筈の由に候、扨利家御父子、津幡へ御著︀なされ候時、前田右近申され候は、末森は最早落城仕るべしと存じ候、是にて御待ちなされ、然るべき由申され候、利家御申し候は、若き時より武邊は存ぜられず、內藏助に於ても、一度も越されたる事之なく候、奧村介右衞門捨殺︀し候ては、我存命も何かせんと、意見を御用ひなされず候、其時右近、宗與と申す博士の上手之あり候間、時取をも御見せ然るべしと、申され候由に候、其時村井を召出され、兎角合戰と思ふはいかゞと、御意なされ候時、村井申し候は、御尤に存じ奉り候、一合戰手間も入り申すまじく候、越中人數押崩し申すべしと、申上げ候へば、利家御機嫌よく本の御座敷へ御入り候て、各博士に見せ候樣にと申され、其者︀を呼び候へと御意候時、彼博士罷出で、書物抔を取出すを御覽なされ、兎角此又左衞門は、後卷するぞ、能く見よと、御叱り聲に仰せられ候へば、博士書物を懷中し、いかにも時分も〔星イ〕も一段と能く御座候、早々御出馬遊ばされ然るべしと、御氣色に應じ申上げ候へば、扨も貴殿〔機轉カ〕心得たる博士なり、大利を得、頓て褒美申付くべしと、御笑ひ候て、御立あるを、上下能き大將かなと申しけり、津幡に少し御逗留なされ候內、金澤より大方追附き御供仕り候由、

一、利家、右近・宗與に、いはれざる事を申す者︀共かなと、御叱なされ候由に候、扨何れも少し油斷仕る故、津幡御出の時、あわて申し候、利長の御馬印は、橫山三郞持ち候て御供仕り、町口を出でしを、皆々感じ申す由に候、利家も御譽なされ候由なり、其折節︀、御弓衆、弓弦をはづし申すを、利家御覽じて、以ての外御叱り候へば、大鹽大海︀と申す御弓衆、弓を空張を仕り持ちけり、後まで御咄なされ候事、

一、利家、川尻にて御馬を乘𢌞し御覽なされ候へば、其勢二千五六百程ならでは、續き參らず候、最早合戰は勝つよと思召の由、後々にも御物語なり、此段上方にて、加藤主計殿・淺野左京殿御問ひ候へば、夜中に是まで附從ひ候人數二千五六百候へば、皆死に定めたる人數にて候間、敵の三萬には向ふべしと、思召し候なり、御兩人も御尤の由にて感ぜられ候、

オープンアクセス NDLJP:17末森の戰一、末森追手、右の如く、先手大將共駈向ひ、是や又兵衞內、野間新之佐・吉川平太・小林彌六左衞門・江見藤十郞・大窪少五郞・屋後太右衞門など、首を手に取來る、其時道二筋之あり、一筋は內藏助殿本陣、坪井山なり、そこにて村井乘向ひ、一戰仕るべき由申上げ候へば、利家の仰には、佐々も流石の者︀に候間、陣場をも能く見屆け居り申すべく候間、末森へ懸り候へと仰せられ候、重ねて又兵衞申上げ候は、本陣へ懸り候はゞ、佐々を討ち申すべき儀、御座あるべく候と申しければ、利家御怒り、某をいかに下知用ひざるはと仰せられ候へば、御意に任せ候時、首共御覽なされ、一番首の見樣ありとて、今日の合戰は勝なりと、御祝︀なされ候、之ぞ軍士御勇の爲めなり、扨大手口、越中の先手物頭佐々與右衞門などと、又兵衞自身鑓を合せ、突︀崩し申す由、後々まで御意なされ候、扨搦手は利家なり、御馬𢌞山崎彥右衞門・野村傳兵衞鑓を合せ申し候、半田半兵衞は一番に之あり候へども、鐵炮に打貫かれ候故、鑓合せ申さず候へども、鑓場一番に之ある事を御意候て、御知行三人の內にては、千石づつは何時も多く下され候、扨御小姓篠原勘六・北村三左衞門・富田六左衞門など、鑓下の高名の由に候、其外名違も之ある由、御物語共御座候、其時德山五兵衞、利家の御跡に參り候、首を取り參り候者︀には、七八人も御懇意御座候へば、御息も切れ遊さるべく候間、銘々には如何の由申しければ、一段能く申上げ候とて、後々まで御意に候、

一、末森の城、奧村介右衞門、其外何れも能く持堅め申す儀、土井伊豫、十文字の鑓を持ち候て、三十人計り召連れ、利家の御後卷なさるべく候、町を敵に破らせて無念と、門を明け、切つて出で、四方を突︀立て、終に討死仕り候、此儀も色々御咄なされ候、

一、內藏助、合戰負になり、退かれ候時、御人數御附なさるべしと、積り御覽候へ、勢にて御人數八千程に見え申すべき由、御物語なされ候、其時、村井又兵衞・不破彥三に先手仰付けられ、兩人ながら忝しと、御請申上げ候へば、路次此方よりは、出馬は筋惡しく候、利家、御乘𢌞なされ候て御覽あり、御附なく候、其時分鳥越に置かれ候、目賀田又右衞門・丹羽︀源十郞兩人は聞き驚き、城を開き退き申し候、內藏介殿悅び、鳥越へ入り申され候由、度々御物語候、兩人は面目を失ひ、行方之なく候、利家思召には、若しも內藏助、金澤の城へ心を懸け候やと思召し、跡より慕オープンアクセス NDLJP:18ひ、津幡まで御出馬なさる、夫にて鳥越の事をも御聞き、鳥越へ押寄する、一戰遊さるべき旨、御叱り候へば、家老など申し候は、今日日本無雙に御座候間、先づ御馬を入れられ、然るべしと申すに付、其通りなされ候由、

一、其後村井に仰付けられ、蓮沼を燒く事之あり、此時、又兵衞、忠功多く之あり候、

成政秀吉に降る一、秀吉公御仕留の爲め、御出馬なさる、利家、其時は越中の御先手にて、吳服山の下に御入り候、其時、內藏助御詫言相濟み、秀吉公へ御禮に參られ候、利家の御陣所の前を、十人計り召連れ、罷通り申され候時、笑ひ候へと仰せ候間、皆々笑立て候へば、內藏助殿、面目之なき體にて通られ候て、秀吉公へ御禮申上げられ候、其時新川郡一郡、佐々へ下され、殘る越中三郡、利家へ遣され候時分、御意には、是れ又又左衞門、鑓先にて御取り候へば、指して思にも請けらるまじと、秀吉公仰せられ候、殊に羽︀柴筑前守と、御名字御名共仰付けられ候、扨々古今稀なる事共なり、其後、不破彥三・村井又兵衞兩人召出され、金子五枚に御道服下され、度々骨折の由、上形にて聞召され候、其上此度の樣子、利家申聞けられ候由、御懇意なり、其夜、殘る家老共四五人召出され、御道服・時服等、夫々に下され候由に御座候へども、利家の御咄に承らず候故、こまやかに書付け申さず候、此等秀吉公御歸の節︀、加賀殿を是非と仰せられ、御もらひなされ、御上京なされ候事、

利家、景勝と家格の優劣を諍ふ一、聚樂にて、御殿三つ出來申して、重陽の御禮の時、幕を張𢌞して、其內にて御禮仰上げられ候、利家と景勝と、一度に御出會の刻、利家の太刀は村井又兵衞、景勝の太刀は直江山城守なり、其時の奏者︀衆は、阿波攝津守・寺西筑後守兩人なり、何れも先と分別仕兼ね居られ候時、直江山城守申され候は、景勝上杉家の位を申立て候、其時利家是非なく、景勝と刺違ひ候はむと、思召の由に候、村井申し候は、直江にいはせ果て、側へ寄り、上杉の位、御申分尤に候、然れども今日の上樣は、昔は御小身なれども、其身御手柄にて、天下を御靜なされ候、筑前も官位亞相なれども、其身の手柄を持ち、三箇國の主たり、折節︀位も少將なり、夫程位高き人ならば、今日の御禮、御無用に存じ候と、申上ぐれば、景勝も直江も言葉なく、其上奏者︀衆も尤に存じ候由にて、利家の御禮先に濟み申し候、其後御歸なされ、村井が大髮を御取なされ候て、筑前守を筑前といはするは、此髮、殿の文武に叶ひオープンアクセス NDLJP:19たる故なりと仰せられ、大盃にて御差しなされ候、又兵衞三獻給べ申し候、利家御機嫌能き時は、折々此事共御咄なされ候、其時村井左馬助、御小姓にて御供に參り、能く承り候由に候、

一、利家御笑言に御咄なされ候、蜂屋出羽︀と申す人、信長公の時より御傍輩、其後、越前敦賀に居られ候が、色々の雜談に、去程に侍たる者︀の馬に心得ざるは、沙汰の限りなる事に候、其故は、厩に金子一兩懸け置き候へば、人盜み申すべきかと思ひ、夜の目も合はず、案じ煩ひ申すべく候に、或る金子五兩一枚・五枚、其身上身上に應じ、馬を五匹・十匹も、馬取り次第に任せ置く事、昔より仕置き候、扨も扨も不思議と申され候由、度々御物語遊され候、

一、東國御陣の時、金澤を御立なされ候刻、御具足召の時、丁違ちやうつがひの御頰當、離れ落ち申し候時、高木と申す御細工人、折節︀御前に居り申し候、斯樣の者︀の請取役に候へば、御腰物に御手を懸けられ、御手討に遊ばさるべしと、思召され候へども、御堪忍なさるべく候由、御意にて候、其後關東御陣中、秀吉公の御前を、人々に支へられ、惡しく候へば、扨も金澤にて、高木めを成敗仕るべきものと、後まで度々仰せられ、御笑なされ候、

一、蒲生飛驒守・淺野彈正內衆十七八人程づつ、同名に申付けられ候由、利家思召され候は、人は一代手柄をして、又は奉公能くして、身上上げ候は、我々の名字を立てたきとこそ、念じ願ひ申す者︀に候處に、餘りあの衆達の樣に、同名多く申付けられ候はいかゞ、天下を御治め候秀吉公の格合は、無用に候、總て一家の同名、我等も申付け候はゞ、村井又兵衞、其外高畠石見・靑山佐渡・奧村伊豫・篠原出羽︀、是れ忠節︀又は緣も候へども、其身の爲めと存じ、其儀なき旨、度々御意候、

村井・笹原・諸︀大夫一、利家、關東陣濟み候て、宰相に御昇進候、一家に諸︀大夫兩人入り申す故、我も我もと存ぜられ候、先づ村井又兵衞儀を仰達せられ、知行も少し取らせ候へども、利家斯樣に官を昇るも、重ねて國數を取り候も、又兵衞故なれば、先づ又兵衞をなされ候、扨又今一人は、笹原勘六をも思召され候由、村井に仰せられ候、勘六事、我笑若なよりそばに召仕ひ、五上未盡、又は八王寺にて手柄仕り候、我等姪婿に致し申すべき由、仰せられ候へば、又兵衞、御意御尤に存じ奉り候旨、申上げ候へば、さらば御使に又兵衞參り候て、勘六に申聞け候へと、仰せられ候へば、勘オープンアクセス NDLJP:20六、有難︀き仕合に存じ奉り候、併し私儀、村井などと一統に仰付けられ候者︀にても御座なく候、未だ石見・佐渡・介右衞門、歷々居り申し候間、如何御座あるべく候や、然るべき樣に、仰上げられ下され候へと、辭退申し候へば、又兵衞達つて意見申し候故、然らばと御請申上げ候由、此頃まで古風散在、斯樣の事の時宜之ありと、申しなし候、然して又兵衞は豐後守になり、勘六は肥前守になり申し候、其後、那古屋陣過ぎ候て、利長を肥前に仰付けられ候故、笹原、出羽︀になり候、右兩人諸︀大夫に之なき前は、旗本の外に、又家中に十二人之ある由に候、先づ家康公に四人、備前中納言殿に二人、安藝毛利殿に二人、越後の景勝に二人なり、然る上は、利家に二人の由、利家公、御引付御書付なされ候、

一、越中御取合の時、鳥越にて鑓を合せ申す者︀、利長の衆にては、横山三郞、十七歲にて鑓を合せ申し候、利家の衆にては、山崎庄兵衞、後は長門と申し候、鷲津九藏は討死の由、利家常々御物語遊され候、

一、越中佐野菊池伊豆守を、村井豐後、調略を以て御吟味方に仕り候、利家御滿足大方ならず候、靑の御召馬鞍置かせ、豊後に下され候、豐後手柄調略とも、度々小田原陣從軍御感じなされ候、關東御陣の刻、利家は、北國七箇國の總大將にならせられ、木曾路御通りなされ候由、御咄候、御國御城代には、加州金澤に前田五郞兵衞・村井豊後兩人なり、越中富山の城も、兩人預り分なり、則ち名代之あり候、同國魚津の城には、總て豐後守居城も之あり候、同國森山の城には前田對馬守、能州は右五郞兵衞・豐後守預り分なり、

一、上州松枝城、大道寺駿河守持之あり候を、利家御取卷きなされ候へば、冑を脫ぎ申す故、御免︀なされ候て、先手へ御懸の分なり、

一、八王寺御陣には、前田又次郞殿・笹原出羽︀守殿・不破彥三・富田六左衞門、此衆手柄能く候の旨、後々まで御物語候、小身者︀には、湯原八之丞・九里庄右衞門・脇田庄五郞・一橋淸十郞・北村甚八、御馬𢌞には、半田半兵衞・野村傳兵衞・荒木善太夫・阿波賀藤八郞、これ等の者︀共、手柄能く候、次に討死の面々は、九里庄右衞門・北村甚八郞・一橋淸十郞・野村傳兵衞・荒木善太夫、この外御馬𢌞都︀合廿七八人、討死仕り候由、殊に善太夫は高名仕り、二度目に討死、不便の由、御咄の序には、折々御意候、

オープンアクセス NDLJP:21利家馬上洪水の川を渡る一、利家、奧衆の仕置仰付けられ、御下向なされ候、金河〔鬼怒イ〕にて先手衆渡り申され候跡より、殊の外洪水の時、利家の御馬、景みすと申すにて御渡なされ候、利長も御年寄に越されたると思召し、卽時に御渡しなされ候、御小姓・御馬𢌞、我先にと渡し候、御父子向の岸に御上りなされ候時、家老の者︀共涙を流し、口惜の御振舞やな、常々我等の申上げしも、是にてこそ候へ、たとへ如何樣の事、御命には代へ給ふべきかと申しければ、利家之を聞召し、いやとよ、利家は今少しの敵を攻め兼ね、利家退屈といはれんは、無念の次第なるべし、さらずば命を此川に捨てんと思ふは、末代の名の爲めなりと語り候へば、家老の者︀共、扨は其外の人も、鎧の袖を濡しける、

一、名古屋陣引取り候て、後年、太閤樣・政所樣、其外、加賀樣・御手懸衆御同道にて、吉野山へ御花見に御座なさる、御供の人々は、家康・利家・金森法印・蒲生飛驒守・淺野彈正殿、其外御咄の衆御供なり、御歸には高野山へ御參詣なり、

一、同年卯月八日に、秀吉公、利家へ束帶の御成御座候、御車にて入らせられ、天下初めての御成故、天下動き申し候、此時、利家中納言に御昇進なされ候、此時又、諸︀大夫兩人入り申し候故、中川淸六を武藏守になされ、高畠織部を石見守になされ、以上御家の諸︀大夫四人之あり候、右四人裝束にて、秀吉公へ御禮申上げ候、一番に豐後、二番出羽︀、三番石見、四番武藏守なり、

利家大納言に昇進一、其年より、右の如く束帶の御成、家康公・蒲生飛驒守殿・安藝の毛利殿・備前中納言殿へ御成なされ候、其時、越後景勝も中納言になされ候、其後御城にて最前宰相、遲き早きにて、利家は景勝より下座に御座候故、殊の外御機嫌惡しく候、其段卽時に太閤樣御聞き、御驚き候て、御座敷奉行德善院を御召し、樣子御吟味の所、右の通り具に言上す、沙汰の限り、何とて左樣の事などは、申上げず候と仰せられ、淺野彈正を以て、利家を大納言に仰出され候、其日、夜に入り、御禮登城なされ候、其後、家康公を內府になされ候、利家大納言、家康公內府に候故、右兩人に肩を雙ぶる人も之なく候、此時又、諸︀大夫兩人仰付けられ候、奧村介右衞門を伊豫守になされ、神︀谷左近を信濃守になされ候、已上諸︀大夫六人なり、

一、右の年の暮に、聚樂の御城へ、太閤樣・關白樣束帶の御成にて、五日の間、御在城なされ候、其間に大納言殿日々に召され候て御登城なり、殊の外御用心に相見オープンアクセス NDLJP:22え申し候、小姓・馬𢌞にても、能き者︀數十人程づつ、御供に召連れられ候、五日も濟み候て、太閤樣聚樂の御殿へ還御なされ、息をつきたる體の由なり、

一、八月十五日夜、御月見に太閤樣御出なされ候、其頃、利家公の屋形伏見にて、御城の月見櫓の堀一重下にて御座候に、太閤樣御手懸衆の高聲、近々に聞え申し候由、利家の御物語に候、希代の御大將の由、利家仰せられ候、

一、其後、大納言殿を秀賴公の御守にと仰出され、彌〻天下に於て、御威勢大方ならず候、其後七月の事なるに、關白樣御謀叛の沙汰之あり、夜に入り、伏見にて秀次謀叛は、子を倒に負ひ申し候由、利家其夜色々仰付けられ候、具には書付け申さず、御拵へ置き候具足二百領取出し、具足之なき者︀には、札を附け置くものの由御意候、伏見の諸︀屋形々々へ、橫目を遣され候、內府と屋形向合に候、內府は折節︀御免︀にて江戶へ御下向、御留守居知らぬ體にて、夜明け候て、猪︀子內匠殿へ、御數寄屋御約束候故、御越しなされ候、此儀にも巨細の物語御座候、然る處に、太閤樣より利家公を御召に任せ、朝四つに直に御登城なされ候、其日八つ時分に、關白樣、幸藏主と申す比丘尼にたばかられ、上下六七十人御供にて、伏見木下大膳方まで、御斷に御座候を、御城より兩度の上使にて、御髮落され、直に夫より、高野へ御流しなされ候、色々御物語共御座候、

一、名護屋陣より御歸り候て、明くる正月二十日、御具足の餅、大納言殿御祝︀ひ候時、御家中大名・小名、何れも出仕の時分、御鏡の時刻能く御座候由、申上げ候へば、盃出し候への由御意にて、先づ豐後守を座敷へ召され、我相伴に祝︀ひ候へと、御意に候、扨出羽︀守・半田半兵衞・富田大炊・山崎彥右衞門・北村三右衞門も、次の間にて、祝︀ひ申すべきの旨御意候、御盃は村井豐後守に下され候、扨殘る五人御流れを下され候、其時、皆々豐後守を羨しがり申し候、又若き衆は、五人をも羨み申し候、

一、聚樂にて、關白樣より、猪︀子內匠殿御使として、大納言殿御登城之あるべき由にて、過ぎし武邊物語、御聞なされたき由、仰越され候、夫より折々に、色々御利家秀次に鷹野を勸む物語共仰上げられ候、或時、利家卿仰上げられ候は、少々山鷹野などにも御出で遊されるべくやと、言上ありければ、さらば仕るべしとて、則ち大納言も供にと仰せられ候て、二三度御出なされ、大せんつかれ走りなど御下知仰付けられ、尤とオープンアクセス NDLJP:23御心得なされ候由、

一、過ぎし頃、關白樣伏見へ御見舞に御越しなされ候時、俄に大納言殿へ御押懸りなさるべき由にて、未だ作事半に候へども、御用意なされ、日暮に御出で遊され候、其時鹿毛の御馬を、利家へ下され候、則ち宮川與左衞門請取り候、夜に入りさい鳥さしの狂言御座候、

一、大納言殿、大小姓北村八兵衞を京都︀へ使に遣され候、則ち藤の森と大佛の間にて、正宗殿七八騎にて、上方へ乘物にて御越し候に行合ひ候へども、誰とも知れず、其上急々の御使とて、乘過ぎ通り申す、正宗殿腹立にて、何者︀ぞやとて、則ち御內衆八兵衞を、又乘越し候體になし候、そこにて八兵衞存じ候へども、知らざる體にて、彌〻中早道に乘越し候へば、正宗殿の挾箱持を乘倒し申し候へば、又騎馬四五人馳集り、誰の人なれば、かゝる仕合ぞやと、荒らかに問ひ、是へ參られ候は、正宗にて御座候、其身の主は何者︀ぞ、主人の申付にて、斯樣の事に候やと申しければ、八兵衞騎馬に乘りながら、綿帽子をも取らず申しけるは、正宗殿とも存ぜず候、我等儀、加賀大納言の者︀にて御座候、京都︀へ急ぎの使に罷越し候、乘越し參り候を、腹立努々存ぜず候、此段大納言承り候はゞ、定めて曲事に申付くべく候、正宗殿の跡より御越と相見え候へば、御前にて切腹仕るべしと申し候へば、大納言の者︀と聞き、膽を潰したる體、其上又思切り申す體を見て、其內の老人乘返し、殘る者︀と叫き、又立歸り、亞相樣の御人、其上急御用に候はゞ、早々御通り候へと申しける、其折節︀は八兵衞を褒め申しけり、此段大納言殿御耳に相立ち候、御笑ひ候て、重ねて左樣の喧嘩好き、無用と計り御意に御座候、

利家利長宇治川を堰く一、或時、伏見御城下宇治川を、大納言殿、肥前殿へ川堰に仰付けられ候へば、宇治川を堰切る事、末代の聞えとて、御滿足にて、御家中に當て、土俵集め候へば、其日暮方に水出で來り、明日は此體に候はゞ、二日の普請を流し候はむの由、申し候へば、利家御下知なされ、土俵取れとも言はず、投入れ候へば、肥前殿御家中の土俵を取り申す時、岡島備中、御小姓梶川長介と防ぎ申し候、大納言殿御腹立なされ、御使にて御追退け夫より御父子の御からかひになり申し候、其時片山內膳、是も利家より前廣に御附なされ候者︀にて候、涙を流し、申分に仕り候を、皆々譽め申す由、後に色々御物語候、

オープンアクセス NDLJP:24大納言の土籠持一、同後日に、大納言殿後代の聞えの爲めとて、土籠もつかふ持をなされ候、御相肩は齋藤刑部、二かへり持ち候て、以ての外肩を痛め、しほらしく轉び申し候、利家殊の外御機嫌にて、起きつ轉びつ、御笑ひなされ候、扨長九郞左衞門內、鈴木と申す者︀、是も六十歲計りになり候、之を御招ぎ、御相肩になされ候て、御持なされ候、其時肥前殿、後向に御座候、其後公方御聞き遊され、則ち利家に、扨も大納言の位にて、土籠を持つものかとて、御笑ひ事に御座候、大納言殿御申は、昔より宇治川を堰き申す事之なき事故、態と私の土籠もつかふ持を仕り候由にて、御笑ひ候、又孫四郞殿にも、其時土籠もつかふ持物持なされ候由、君の樣子被史、御書請神︀見𢌞に、太閤樣御舟にて御出で遊され、御父子へ骨折の由、御懇意の御事に候、夫より御舟にて、內府へ御越し遊され、大納言父子の喧嘩を、何れもあつかひ候へと仰せられ候、我等も其爲に御出で候由、上意に候、則ち大納言殿御父子を召され、色々御噯ひ、御戯言ざれごとなど御意にて、利家に雁の繪の名物之あり候を、御覽あるべき由にて御取寄せ、御覽の後、此繪は中直りに肥前へ遣し候へと上意にて、御自身に肥前殿へ御渡し遊され候、扨御中直り御座候て、其後色々御物語になり申し候、

一、大納言殿、江州箕作山、信長公御攻なされ候とき、利家使に參り候へと仰付けられ、御越なされ、山下にて鑓下の高名、一番首御取なさると、後まで御物語に候、

一、江州淺井と御取合、柴田修理しつ拂の時、引取り候樣にと、日暮蜂屋出羽︀を御使にて、御下知なされ候、然れども埓明き申さず候所、重ねて又左衞門參り、申渡し候樣にと、仰に依つて御越し候、其時敵慕ひ附きしを、利家御居留り、御鑓合せ申し候、其時、村井・木村三藏・小塚︀藤右衞門など、鑓を合せ追崩し申し候、其時柴田殿、利家へ御禮に候、度々御咄なされ候、其砌三度まで鑓合せ申す由、

大坂城內の賊一、大坂御城奧の御櫓へ、關白樣御身上御果ての春、盜人入り申して、四五人も之あり候、三四日計りも居り申す體に候、其故は、御物置へ御用にて、奉行衆出入に、跡を見申し候へば、少し內堀破れ申したる所あり、御土藏の脇にて、食を給べ候跡も之あり候、此段、太閤樣御耳に相立ち、能く案內存じ候細工人・大工・塀塗まで御穿鑿にて、御糺明なされ候、少しも物取に入り申す體は之なく候由にて、終に知れ申さず候、右の職人共は、糺明にて殺︀され候、御番所へ程遠く候故、存ずべオープンアクセス NDLJP:25き樣なし、其儀、關白樣より忍を入れ置かれ、太閤樣いつもの通りに、女郞衆に御腰物御持たせ、日暮などに御出なされ候を、討ち申すべき覺悟にて之あるべしと、申合へり候、太閤樣御運强き御事と、大納言樣御物語なされ候、夫に就き、士共煩は格別、是非番を仕り候は、目も寢ずして、用心仕るべき事と御意候、

佐久間盛政村井豐後を招ぐ一、過ぎし頃、村井又兵衞と申す時、能登にて知行七百石下され候時、佐久間玄蕃、加州石川郡・河北郡兩郡、柴田殿より拜領の時、前廣金森にて一所に之あり、彼是手柄を覺えられ候故、五千石遣し申すべく候間、參られ候樣にと、隱密にて呼び申し候、豐後書狀の內をも見ず、其儘利家へ御目に懸け候、利家殊の外御滿足なされ候て、呼ぶというても、其方が我等を見捨て行くものかと、仰せられ候由、其後京・伏見にても、夫を仰せられ、さりとては、玄蕃は靑い奴かな、豐後を呼び申す事と、御笑なされ候、
 

 
オープンアクセス NDLJP:25利家夜話 卷之中

秀吉の信寵一、太閤樣、大佛へ成らせられ候時、大納言利家公は御持病氣にて、御供之なく候、路次にて四十計りの男、訴訟申上げ候は、利家御謀叛の御用意と申上げ候、太閤樣聞召され、扨も憎︀き奴に候かな、我等死去候はゞ、落淚限りなき大納言を、斯樣に申す儀、末代の見せしめに、大納言に渡し候べとの上意にて、則ち搦め捕り、寺西筑後守を以て、彼囚人を下され候、忝き次第に思召し、大納言樣、則ち表へ御出なされ、如何なる粗忽を申上げ候ぞ、誰人が敎へて言はせしか、有體に申すべき由、御尋なされ候へば、頭を傾け、兎角の儀を申上げず候、少しありて申し候は、夕、五條の橋を通り候へば、何者︀とも存ぜず、四五人歷々罷通り候が、大納言殿こそ御謀叛などと、色々申すを承り候故、此由を上へ申すならば、忠節︀者︀に罷成り、御褒美も下さるべきかと存じ、申上げ候由、其時分も御見舞、又は御番の者︀共に見せられ、御吟味の上にて、御成敗なされ候、其後に利家公御禮に御登城候オープンアクセス NDLJP:26處、太閤樣、御淚を流させられ、其方事、我等秀賴の守に頼み申す故、中惡しくせんと思ひ候て、佞者︀の申出でたるものと存じ候間、能く糺明候て尤と、御意なされ候、利家忝く思召し、御淚を流させられ候由、御歸り候て、御物語に御座候、折節︀、內府公・金森法印・淺野彈正殿・有馬法印、其外御見舞に御出なされ、有樂樣も御出にて、大納言殿御手柄、今日の上意などはと仰せられ候、彌〻御門前に市をなし申し候、其後寺西筑州へ御禮として、利家御越しなされ候、袷十・單物五・帷子五御持參、其上御腰物遣され候へば、筑後守殿、扨も外聞と申し、忝き由、頭を地に附け、御禮申され候、其刀銘は兼光なり、御指料なり、唐桑鞘の由に御座候、

伏見の地震一、伏見にて地震の時、大納言殿御屋敷と肥前守殿御屋敷と、上下にて御座候、御父子坪の內へ御出なされ、互に御言葉御懸合なされ候、大納言殿、小姓五六人に仰付けられ、上樣は御城𢌞四方へ御出で遊され候や、大納言呼はり候へと申付け候と申すべき由、仰せられ候へば、其意を得奉り、呼はり申し候へば、太閤樣御答なさせられ、無事に出でたるに、大納言無事に候やとの上意なり、其段罷歸り、利家へ申上げ候、夫より大納言殿御一人、何の構もなく、御城中へ御入り候時、太閤樣御機嫌克く、秀賴公を利家へ御渡なされ候、則ち御抱き御歸の由、御物語御座候、右の御分別は、御取込の時分、扨もと皆感じ申し候、伏見御城を御拵なされ、太閤樣御移徒の由、

一、加藤主計殿、高麗にて骨折り申さるゝ儀を、度々太閤樣へ利家御取成し候、主計殿、此事を脇より御聞き、誠に以て忝き由、度々御禮申され候由、

五奉行利家に謝罪す一、太閤樣御他界三年前より、石田治部少輔・增田右衞門・長束大藏、利家公へ御斷り、德山五兵衞・岡田長右衞門を賴み申され、色々御詫言之あり候へども、前廣御腹立の儀に付、御同心なく候、重ねて又秀賴公御守の儀に候間、御主樣御同事に存じ奉り候、跡々の儀は、何事も御免︀なされ下さるべしと、斷に御座候へども、御合點御座なく候故、五兵衞・長右衞門、此段豐後・伊豫、[〈此間脫字アルカ〉]先づ左樣に奉行衆御斷り申上げられ候はゞ、御免︀にて出入仕られ、然るべく存じ奉り候旨、利家へ申上げ候へば、いか樣ともと、相濟み申し候に付、先づ治部少輔は世の御沙汰なく、御禮に參られ候、

森可成一、利家廿一歲にて、其頃信長公御內にて、武邊數手柄人は、森三左衞門にて御座オープンアクセス NDLJP:27候、老功の仁にて候故、美濃國御取合の時、取出を御攻の砌、三左衞門殿一所に、懸り位を御覽なさるべしと思召し、御馬を引附け召して、御懸り候へば、山城にて頓て人數馬より下り候處、味方きほひ懸り申す刻、三左衞門ふがんでうにて候を、大納言樣、三左衞門殿の手を引立て、遲くなり候間、御急ぎ候へと、御いらち候へば、三左衞門殿、今は皆々逸︀り候へども、疲れ申し候間、草臥れぬ樣に、靜かに行き候て、敵の前になりて、人の控ふる所を懸るが、武邊を仕る者︀なり、我等次第にして、又左衞門御いらちあるまじき由申され候、扨城際に付き、人々溜る所を見て、三左衞門殿御申し候は、今は懸る時と、互に言葉を懸合ひ候刻、利家公一番に懸入り、續いて三左衞門懸入り、御兩人共に高名なされ候、信長公御前にても、又其後までも、又左衞門に越され候と申され候、さりとては、三左衞門殿程の功の者︀は、其頃稀なる由仰せられ候、

一、大納言樣・柴田修理殿・森三左衞門殿・坂井右近殿などは、威言申し、武邊の場にて、鐵炮打ち來る時、柴田は立ちながら居られ、軍兵共を、かゞみ候な、中らぬものぞと御申し候、又三左衞門殿・右近殿などは、柴田ぢやといひても、中るまじき事かは、かゞむ時はかゞみ、鐵炮矢に當らぬ樣にして、懸る時は押開き、何にても構はず、懸るものなりと申され候、三左衞門殿・右近殿などは功の者︀と、度度仰せられ候、

加藤嘉明の戰功一、加藤左馬助殿・脇坂中務殿、唐にて番船を乘取り候事、御註進に、中務殿より先に參り候使者︀、三十計りの士、額に矢疵之ある者︀なり、利家御煩故、御居間にて御對面なされ候、右の使者︀口上を聞かせられ候て、扨は早や、左馬助一番と聞え候と御意候、案の如く、後日橫目衆より註進候へば、左馬助一番と知れ申し候、上手の御申し候事、此の如くに合ひ申し候と、上下感じ申し候、

博士の豫言一、大納言樣、昔御物語なされ候、村井豐後・岡田長左衞門などと語り申し候、印南いなみと申す博士、京の者︀にて之あり候が、利家御目を懸けられ候故、越前に御座候時、御見舞に罷下り候、利家公、後は日本の片方かたかたが天下御取なさる旨、占ひ申し候、御內衆村井豐後・笹原出羽︀・岡田長左衞門は後の仕合、木村三藏・山崎彥右衞門・富田與五郞は討死仕るべき由占ひしが、大方合ひ申し候と、御咄なされ候、斯樣の儀に付、大納言樣御物押へなされずと仰せられ候、

オープンアクセス NDLJP:28村井豐後と奧村伊豫一、大納言樣、能登國を孫四郞樣へ御渡なされ候時、村井豐後を下され候樣にと仰せられ候、さなく候はゞ、奧村伊豫を下され候へと、表向より齋藤刑部・岡田長左衞門御使にて、御訴訟候へば、御內證よりも、御母儀樣仰せられ候へば、尤も孫四郞申す如く、世上無事に候故に、孫四郞は取合はず、肥前は、信長なされたる事も、若年の頃、二三度も見申し候、其上柳ケ瀨の大きなる人數立も見申し、又は內藏助と取合の刻、度々の事を見、末森の後卷をも、豊後などを附けて先手させ候間、孫四郞事を案じ申し候故、我等內にて長九郞左衞門、其外高山南坊・不破源六、人々に知られたるものを、皆々附け申し候、おとな分には、村井左馬助を遣し、我等內にて度々手柄を仕る半田半兵衞、誰とも負さぬ者︀、跡目左太夫・山崎彥右衞門・北村三右衞門を附け、其外口上能く申す奧野與兵衞なども附は申し候、前田孫左衞門は城代に致し、附け申し候、豊後事は、我等召仕はで叶はぬものなり、伊豫事は、孫四郞に附け申し候はゞ、奢る事之あるべく候、其上餘り心狭き者︀に候間無用、兎角死水までも召仕ふ者︀に候間、右の通りと仰せられ候、

利根のたはけ一、大納言樣御普請奉行宮川與左衞門を、何事に候や、御使に遣され候へば、結句公事を取込み、罷歸り候由にて、御返事申上げ候へば、殊の外御機嫌惡しく、扨も信長公の御意、昔より申し置さ候通り、利根のたはけといふ者︀は、何とも仕るべき樣なく、結句おつなる者︀は、主の申付により、利根を仕るものなりと仰せられ候、野村五郞兵衞・前波嘉右衞門を遣され、理窟相濟み申し候、是に付、色々御物語遊され候事、

蒲生氏鄕の遺領一、蒲生飛驒守殿御遠行の時、鶴千代殿十三にて候、何樣とも大納言樣を賴み奉り候由、自筆の御狀、又は御口上にも仰せ置かれ候、彼跡目、初は其儘、鶴千代殿へ下さるべく、仰せられ候へば、奉行衆議し申し候、國は一揆國衆、親飛州さへ氣遣ひ仕り候間、如何あるべしと申上げ候時、御意は、鶴千代二十になり候はゞ、今迄の會津なりとも、さなくば夫程の國なりとも遣すべく候、先づ江州日野は、飛驒守在所にて候間、本知四萬石下さるべき旨、仰出され候へば、大納言樣折節︀御不豫の由にて、御登城なされず候へども、御上樣、政所樣へ御上り候て、前廉に仰出され候て、今更斯樣の御意、大納言外分も迷惑仕り候間、鶴千代は出家に仕ふべき由、色々御才覺候へば、政所樣、太閤樣へ仰上けられ候は、今程秀賴を持ちて、其方オープンアクセス NDLJP:29納言を身に召されず、末々誰を御賴なさるべく候や、御分別違と仰せられ候由に候、そこにて利家を召し候て、鶴千代に會津を前の如く遣さるべき旨、跡職相濟み、其上會津と近國の間、內府の婿に仕るべき由、上意にて、忝しと思召され、德山五兵衞・脇田主水を御添へ候て、會津へ遣され候、忝き儀、扨もと、飛驒守殿家老衆、大納言樣へ御禮に參り、御門前に市を成し申し候、其後御差圖にて、太閤樣、伏見にて鶴千代殿へ御成御座候、其時に太閤樣、鶴千代殿を吉三郞殿になされ候、藤吉郞の藤の字と、飛驒殿忠三郞の三郞を取り、藤三郞に成り候へと御意候、是も申すも、亞相の御蔭と大名・小名申され候、

一、越前國柴田修理殿御拜領、加州御朱印、扨大納言樣・佐々內藏助殿・不破河內殿三人、柴田勝家と共に武功を語る府中に御座候時、柴田殿北の庄より御出で、佐々殿五部市より御出で、不破河內殿も御出で候て、一日一夜御振舞の由、其時、修理殿殊の外機嫌能く、匍匐になり寢候て、色々上方の御咄、又は信長公の手柄ども御咄し候て、柴田殿御申し候は、又左、御聞き候へ、此程表裏者︀の明智、出頭申す由に候、扨指を御折り候て御覽候へ、柴田が手柄故、廿六度まで勝利を得られ、信長公の御禮承り候間、何者︀が出頭仕り候ても、恐しく存ぜず候、又左も指を折られ御覽候へと、柴田殿御申し候へば、又左衞門殿御申し候は、親仁の事は、人持衆に候故、御先手をなされ、度度勝利を得られ、又は端武者︀の如く、鑓を度々なされ候故、今の世には無雙に御座候、仰の通り、私も申すべしと、指を折り御覽候へば、所々十八度、御手柄の御咄なされ候、柴田殿一段機嫌能く、何やかや御咄し候て、柴田殿御申し候は、世間に二三度間に合ひ候とて、覺えがほする者︀多く候、假令けりやうは心は猛しといふとも、合戰なければ是非なく候、此御代は武勇を仕るべきならば、いか程もありつるなり、又左や柴田は、信長公へも、又は傍輩衆へも、恥しく之なしと御笑ひ候、柴田殿・利家、內藏助殿と中惡しく候故、內藏助殿へ當てゝ御申し候と、御物語に候、そこにて內藏助殿淚を流し、物をも申されず候、柴田殿・利家、猶以て繰返し、其威言御申しなされ候、扨不破河內殿は御挨拶に、親仁樣は申すに及ばず、又左殿などは、若き衆のあやかり者︀と御申し候、河內殿は、其頃年寄にて御座候故、此挨拶の由に候、岡田長左衞門御右筆仕り、人數其時、加州へ働の事仰遣され候、觸狀を書き申し候故段々承り候、村井豐後・富田下總・木村土佐、其時次の間に相詰オープンアクセス NDLJP:30め候て、能く承り申し候由なり、其後、利家樣家來衆へも、御物語なされ候、

利家配下の諸︀大夫格一、遊擊伏見へ參り候時、利家御宿なされ候刻、諸︀大夫多く入り候故、太閤樣へ上意を得られ、奧村織部は河內守になり、富田大炊は下野守になる、其時又四人出來申し候、此時孫四郞樣衆、前田孫左衞門・村井左馬助・富田左太夫・山崎彥右衞門、此人々諸︀大夫になされざる儀、腹立ち申候、

一、目賀田又右衞門、聚樂にて蒲生飛驒守殿・淺野彈正殿を賴み奉る由にて、德山五兵衞・齋藤刑部を以て申上げられ候は、最前越中鳥越にて、面目を失ひ申し候間、頭を剃り、御咄の衆に召仕はれ候へとの事なり、大納言樣、其時色々御談議なされ、總て成敗をせうと思ふ者︀も、又免︀す事もあるものなり、然れども第一城の取出などを預け置き、留守居させ申し候者︀の、城を明け退く事は、士の上の第一みせしめなり、此又右衞門、成敗をせで叶はざるものに候へども、飛州・彈正殿に對し、命を免︀し申し候、召仕へ候事、存じも寄らぬと御意候、

全く取得なき者︀は稀なり一、伏見にて大納言樣へ、淺野彈正殿・金森法印・猪︀子內匠殿・土方勘兵衞殿、此衆御機嫌克く御咄なされ候時、大納言樣、各は今迄にかゝらぬ虛氣、幾人御覽候やと仰せられ候へば、各御申し候は、今迄幾人といふ數は、覺え申さずと御申し候、利家仰せられ候は、各違ひたる御申分に候、我年は各に餘り負くまじく候が、今迄かゝらぬ虛氣は、兩人ならでは見申さず候、何れも御笑なされ候、そこにて大納言樣御意には、能く見給へ、體はうつけと見え申す者︀に、殊の外心の才覺なる者︀も之あり、うはつら利根に見え、たはけも之あり、いか樣にも、何卒取得なき者︀はなく候、何をさせても遣うてて、取り得なき虛氣は、信長公の時、夫と御申し候へども、しかと聞き申さず候、今の世には誰と仰せられ候、是は織田上野殿の儀に候、是兩人ならでは見申さず候、我等召仕ひ候ものにも、何れぞ取得なき者︀は之なく候、各も左樣に御座あるべく候、能く御思案にて見られ候へ、人は九分十分なる者︀は、其內五百人・千人の時も一人もなく、すたる者︀あり、之を存じ候へば、主人たるもの、能く夫々に召仕ひ候て然るべく候と、御意なされ候、其序に增田右衞門尉を御覽候へと、仰せられ候へば、何れも御尤と感じ申され候、いろいろ御物語なされ候、

一、佐々內藏助殿、能州末森へ寄られ候時分、利家御切勝なされ、上方へ御註進オープンアクセス NDLJP:31なされ候處、太閤樣前廣內藏助殿より御取置きなされ候人質、九歲になり候息女を、乳母諸︀共に、粟田口に磔に御懸けなされ候、上下爪彈をして、佐々を惡しく申なし候由、御物語に候、

一、伏見にて、越中御陣の御物語御座候時、片山伊賀御請答に、蓮沼の事を、跡より追附き申すなど、主の威光を申し候、利家の御意に、蓮沼の事は、先づ豐後にいはせ、威光を聞き、其方は其跡に申せと御意候、

一、右御咄の時、越前手筒山の城を、信長公御攻の刻、利家早々城下に御著︀き候時、村井豐後、鐵炮の先に楯に罷成り、右の肩を打貫かれ申す由、御物語御座候、

家康及び利家との家來の衝突︀一、先年、名護屋御陣の時、五月五日、內府樣御家來衆と、大納言樣衆笹原出羽︀守水汲と、假初に申す事出來、大なる事になり、兩家中侍共出合ひ、旣に鑓合せ、喧嘩になり申し候、蒲生飛驒守殿・淺野左京殿・毛利河內殿三人は、利家の御贔屓方に候へば、取敢へず人數に具足を著︀せ、御越し候て、何方に人數を備へ申すべくやと、御申の由にて候、御家中長九郞左衞門、一番に五百計り召連れ參り候へば、一段々々、人を預け申す者︀は、其心得尤と、御機嫌好く御座候由、金森法印・堀久太郞殿・村上周防殿などは、公儀への御仕付に、御出なく候へども、利家の御門に伊達政宗の不評人を御附け置き候て、大納言の御出で次第に、直に內府へ懸り申すべき旨、御內證にて御使御座候、正宗殿は其時より前廣に、利家より金子三十枚御借り候が、其時利家へも內府へも、使者︀を遣し候旨申され候、千計り主は小屋場に人數丸めて居られ候、然れども鐵炮先、大納言樣御小屋の方へ向けて居られ候、物見に遣され候、宮河與左衞門・野村勘兵衞罷歸り申上げ候へば、正宗は若き者︀に似合はず、殊の外內股膏藥と仰せられ候、扨德山五兵衞を內公へ遣され、我等者︀共制度申付け、喧嘩場へ出さず候に、家康の衆は、皆々御出し候と見え申し候、如何の事に候やと、樣子御見せ候へば、內府は家の屋根に御上りなされ候て、是はと計り仰せられ候て、御笑止がりの體に御座候、御近所に人數二百騎計りとも御座なく候と、五兵衞罷歸り申上げ候へば、利家御意に、夫をこそ見せに遣したれ、先づ喧嘩始めなば、眞直に家康の旗本へ懸り討果すべし、我等用に立つべしと存じ候ものは、先へ參らず、我等傍にあるべき由、御下知なされ候由、折々御物語なされ候、

オープンアクセス NDLJP:32信長村井又兵衞の功を賞す一、長篠合戰の時、信長公御鐵炮三千挺なり、利家公、佐々內藏助・福︀富平左衞門などを御下知なされ候由、其時敵の物頭、朱武者︀罷通り候を、利家言を懸け、其儘太刀討なされ候處、御向脛にしたゝか疵御負ひ候處、敵も手負ひ候故、引行き申し候を、村井又兵衞此由を見て追付き、川中にて太刀勝負仕り、終に朱武者︀の首を取り申し候、其時又兵衞は甲の眞疵を切破られ、餘る太刀唇に當り、血留り兼ね申し候、其時、信長公御直に御藥下され候、信長公より御具足・羽︀織拜領仕り候由、度々御意に候、

信長の弟信孝を弑す 一、信長公の御舍弟武藏殿、御謀叛なされ候へども、御免︀なされ候處に、重ねて又媒叛御企て候間、柴田修理殿、色々異見申されども、御用ひ之なく、結句柴田を惡み申し候故、其後信長公へ申上げられ候へば、頓て信長公御煩散々の由、御母儀より仰遣され、武藏殿を呼に遣され候て、池田勝三郞臺所にて切り申し候、靑地と申す人に仰付けられ、切留め申し候は、勝三郞にて御座候よし、御物語なされ候、

一、越中魚津の城を、北國の人數、柴田殿總大將にて御取卷の時、景勝越後より、後卷の心に、天神︀山まで人數出し申され候を、柴田伊賀・佐久間玄蕃・佐々內藏助、其日先手を諍ひ申され候、利家仰分けられ候の處、柴田御出にて、此由御聞き候て、又左の御入り候に、忰共が何事を申すと、御叱の由、その外、色々御物語共御座候、

一、伏見にて、利家へ太閤樣御成にて、四五日の間御座候時、御灸治遊され候、御相伴衆十人計り御座候、上樣の御詰衆不足に候故、大納言樣近所に召仕ひ候小姓共罷出で、灸治をすゑ申すべき旨、上意に付、有樂には神︀谷信濃、富田左近殿には村井勘十郞、其外奧村金左衞門・桑原勘七郞罷出で申し候、有樂と左近殿は、上樣の御座の間にて御すゑ候故、御近所に候へば、何とも窮窟の體に候、利家は御亭主故、御灸もなされず候、太閤樣斯樣に輕々しく天下主の由、御物語なされ候、

一、大納言樣御物語なされ候は、鑓を合せ申し候時、同寸に候へば、必ず下鑓なされ候、鑓を張立て、上鑓に打𢌞し申し候へば、勝利を得らるゝ由、仰せられ候、

伊達政宗蒲生氏鄕間の調停一、聚樂にて、太閤樣より、大納言樣へ、御內證にて仰遣され候は、蒲生飛驒守と正宗と、先年の遺恨にて、中惡しく候間、國雙びと申し、上樣の御爲も如何に候オープンアクセス NDLJP:33間、大納言方にて中を直し候へと上意候、夫に就き、右兩人・淺野彈正殿・德善院・長岡越中守殿・金森法印・有馬法印・佐竹備後殿、其外五六人御出て、櫻の間にて御振舞御座候、正宗の仕立は肩衣にて、朱鞘一尺八九寸の大脇指に候、飛驒守殿仕立は、雨かゝりの脇指にて候、德善院、扨は佐竹は正宗方贔屓にて御座候、彈正殿は正宗の御奏者︀なされ候へども、飛驒守殿とも御挨拶能く候、正宗は遠國人にて押籠まるまじき體に見え申し候、大納言樣、彼脇指急度御目に懸けられ、正宗はだてなる仕立と、御拶挨ながら御當り候、正宗は殊の外當りたる體にて候、戲言ざれごとに仕なし、遠國に候故と御申し、謹︀んで御入り候、其後度々仰せられ、御笑なされ候、扨御振舞出で、御盃二つ出で、大納言樣御座敷中へ御出なされ、盃の御挨拶に候、兩方へ御指しなされ、酒納まり、何事も無事にて相濟み申し候、其時御勝手衆申され候は、今日正宗の體、大納言殿御座敷にてなく候はゞ、難︀をも仕られ申すべく候、又飛驒守殿も、少しも左樣の事堪忍之なき仁に候、事も出來申し候事も、之あるべく候へども、御亭主の威光も强く候故、首尾殘る處なく、大納言に仰付けらるゝも御尤と、御讚歎に御座候、其御座敷へ肥前守樣・孫四郞樣、御出は之なく候、

一、越前崩れ申す時、大納言樣、鑓を雨度まで御合せ、二度目に越前の大將分の首御取なされ候、其時、村井又兵衞・木村三藏・小塚︀藤右工門、三人一所に、御際にて鑓を合せ、皆々首を取り申し候、此時分、奧村助右衞門は浪人にて候が、首を取り參り候間、召置かれ候由、御物語色々御座候、

一、淺野左京大夫殿、關白樣と一味の由、磯貝といふ者︀、似せ判の時、奉行衆、太閤樣へ申上げ候へば、旣に彈正殿・左京殿父子共に、御成敗等相極り、伏見中騒ぎ申し候、

利家淺野長政父子の冤罪を解く一、御城の御門際に、彈正殿屋形之あり候故、御城御門の外に人數を寄せ、彈正殿と御下知次第に、押寄せ申す體に、奉行衆申付けられ候、利家樣の御露地口と、彈正殿の門と向合ひ御座候、前廣左京殿は、利家樣の御婿に御座候間、其好に利家樣へ御出で候て、扨も私共少しも謀叛仕らず候、御存知の如く、石田治部少輔・增田右衞門、我等と中惡しく御座候間、支へ申す儀、是非なく候由、色々御斷り申され候、大納言樣不便と仰せられ、露地口より彈正殿父子を御呼入れ、聞召オープンアクセス NDLJP:34し候て、此上は我等共に切腹仕り候とも、御斷り申上げ、無理には御成敗させ申すまじき由、第一は上樣御爲なりと仰せらる、則ち利家御登城なされ、內證より上樣・政所樣へ御上りなされ候、御城御門外に拔身・鑓など、態と仰山に見せ、彈正方より色立て致し候樣に、奉行仕なし候を、利家御乘物より御下り候て、己等何事ぞや、今は日本の侍は申すに及ばず、唐までも從ひ申すに、彈正父子程の者︀、自然不屆の事に相極め、御成敗なされ候とも、御門際に拔身を仕る事、扨も沙汰の限りなり、左樣の事、武道をば奉行の奴原知るまじ、算用の事や人の口にて、痛め申す事などは存ずべしと、高らかに御叱り候、己等め、其鑓の鞘はめまじきかと、御怒り候へば、御威光に恐れ、奉行衆櫓より小聲になり、鞘はめ候へ と、申さるゝに付、ひたとはめ申し候、御供に參り候者︀共申す樣、斯樣に氣味の能きは、終に覺えず聞及ばず、まして目に見候は、只今が始めの由申し候、扨太閤樣御前へ、利家御出でなされ候て、彈正父子少しも誤り御座なく候、御穿鑿仰付けられ、其上にて越度實正に御座候はゞ、私申付け、腹切らせ申すべしと、仰上げられ候へば、其儘穿鑿仰付けられ、似せ判に相極り、磯貝と申す者︀、磔に懸けられ申し候、彈正殿は甲州相極るなり、左京殿は、則ち利家預り申す由にて、能登へ遣され、つむきといふ所に屋形を作り、御入れ置きなされ候、扨も忝き儀と、御悅なされ候、

一、其後、左京大夫殿、若き者︀に候條、高麗へ遣され、一骨折らせ、然るべき由仰上げられ、さらば參るべき旨仰上げらる、高麗へ御渡り候て、手柄重り候べば、召返され候、則ち利家、御同道にて御登城なされ、左京大夫殿より獻上には、金子五十枚上げられ候、上樣へ御上げなされ候金子を、又左京殿へ下され、骨折り申す由、御慇懃の上意にて御座候、御歸の序に、直に利家の御館︀へ御越にて、有難︀き由伏悅び、御禮御申し候て、御悅一方ならず候、

緩急伸弛一、利家、或夜御機嫌能き時分、仰せられ候、人は大將も士卒も、能する如く、さし・くせ・舞・切とてあるものなり、極位といふ時は切に候故、萬事物を指置き、肝要の事はつめにて候故、是れ切なり、又餘り入らざる時は、優にいかにも心靜にする、曲舞なりと、御意に候、御用仰付けらるゝに、油斷罷成らず候樣にて、又三日も五日も、緩々と遊され候、

オープンアクセス NDLJP:35一、太閤樣、俄に大坂へ御船にて御座なされ候時、利家御追付の時、眞田鴇毛さなだつきげと申す御馬の由、息をして命殞し候、神︀谷信濃の馬にて、橋本にて死申し候、其外御供中の馬共、一兩日過ぎ、息をして死申し候、村井勘十郞馬計り、小鴉と申す馬計り、無事の由に候、

一、伏見にて、加藤主計殿・羽︀柴下總殿・戶田武藏殿・猪︀子內匠殿・肥前樣御同道にて、大納言樣へ御出なされ候、利家樣、折節︀、宗無と碁を遊され候、其內に主計殿其外の衆へ、武邊の物語色々仕なし、利家御咄共を御聞なされたき體に候、利家碁御濟み候て、御挨拶共御座候、利家、其時からと御笑ひ、若き衆、我口をも御陣の備方聞なされたき體に候、亭主振仕るべき旨、御挨拶候て、我等父子三人に、上樣より御先手仰付けられ候はゞ、斯樣に仕るべしと、碁盤上にてなされ候、

 八百       五百
千五百□三千□三千□三千□五百
 八百       五百

敵十萬騎之ありとも、我等備は一萬三千程にて、斯樣に仕るべしと、御申し候へば、主計殿色々御尋ね、御滿足候て、側へ御寄り、能々御覽なされ、御感に候、御挨拶に色紙に御書寫し御歸り候、主計殿などは、常常肥前樣へ申上げられ候は、亞相公御存命の內、武道の樣子も御尋なされず候と、御悔︀の由、

一、秀賴樣、伏見より御參內の刻、利家は御抱き參らせ御越し、御歸城の時分、伏見備前中納言殿の上の城中にて、御供の大名・小名馬より下り、下々入込み申さず候樣に、御車際に利家の御內衆警固仰付けられ候、小姓・馬𢌞跡を押へ申し候時、我もと入𢌞り、押合ひ申し候へば、利家御馬𢌞の內、山本久助と申す者︀、長岡越中守殿つらを食はし申し候、越中守殿とも知らず候由、山崎喜右衞門なども手傳へ申し候由、肥前守樣、越中殿を餘所の者︀かと思召し、御車の先より御歸り候て、御覽候へば、越中殿にて御座候故、知らぬ體になされ、又先へ御越しなされ候、其夜、肥前守樣御意なされ候通り、色々御物語御座候、

利家前田玄以の子に對する處置を難ず一、德善院總領羽︀柴左近と申す者︀、行儀惡しく候由にて、父子中絕、勢州へ遣し、淺間に頭を剃り居り申し候時、色々あつかひ候へども、德善院合點之なく候て、太閤樣の御耳に入り申し候、其刻利家の仰に、今の世には、德善院を分別者︀と譽者︀にオープンアクセス NDLJP:36てあるが、さりとては分別違ひ候、肥前守若き時、殊の外行儀惡しく候事多く候へども、其儘置き、村井豐後・近藤善右衞門・木村三藏・小塚︀藤右衞門などを遣し申し候て、構へて行儀惡しくするなど言はせ、肥前申す事をば、金言を申す樣に仕なし候へば、世上よりも能く申慣らし候、父が左樣に惡しく申しなし、中絕して主君の御耳にも入れ候事、さりとは無分別と仰せられ候へば、皆御尤の由申し候、

一、內府樣、大納言樣へ卯月十二日に御越し、染々御咄し候、利家御直に御料理なされ候、御挨拶人は猪︀子內匠殿計りにて御座候故、德山五兵衞・齋藤刑部兩人、御前へ召出され、御咄共之あり候、いつもの如く、村井勘十郞・奧村金左衞門通ひ仕り候、勘十郞・金左衞門を內府御覽候て、いつ見ても、能く奉公する者︀にて候、大納言殿、人仕ひ上手に候、豐後が子などを、あのごとく細に御仕ひ候事と、仰せられ候、勘十郞承り、忝がり申し候、此段利家御聞き、御笑なされ候、

一、大納言樣草津へ御湯治の時、おさる樣六歲の時なり、森山そせん御供にて、今石動へ御出で、御宿肝煎主計所を御出で、初めて大納言樣へ御對面なされ候、御機嫌能く、御いとほしがり、大方ならず候、御刀脇指差させ參らせられ、殊の外御滿足の御意に候、

一、大納言樣、大坂合戰の刻、前日御使に御越しなされ候て、信長公・佐々內藏助始め、惡しく候ひつる事を、其日暮御歸の時、歷々御寄合ひ候ひて、御咄し候へば、利家樣、我等共在合はせ候はゞ、左程にはあるまじきものなど、御威言候て、各つらになされ候由、後日に利家、天下無雙の鑓を、押返し御手柄なされ候、其時、村井豐後、御側にて鑓を合せ、二人を突︀倒し、少し鑓疵も負ひ申し候、大納言樣、度々御物語なされ候、

利家と上杉景勝の交款一、伏見にて、越後景勝より御使として、家老直江山城、大納言樣へ參り、德山五兵衞・村井豐後兩人を奏者︀にて口上には、御國竝びの事に候へば、以來は是非是非御目を懸けられ下され候へ、上洛仕り候刻、賴み存じ奉り候由なり、其後關東御陣の節︀より、何かと遠々しく罷成り、迷惑仕り候由、御斷り申され候、重々の事に候間、さらば心中疎略あるまじと、御返事御座候、追付御禮に參りたき由に候故、山里にて御對面あるべき由にて、景勝參られ候、出立は袴・肩衣の上に、海︀松色オープンアクセス NDLJP:37の單羽︀織を著︀し、御出で候て、山里へ御入り、利家へ御對面の時は、羽︀織を御取り、供には直江山城一人參り候、土方勘兵衞殿、御相伴にて御振舞候て、利家御手前にて御茶御座候、又御盃の上に御腰物、景勝へ遣され候、直江山城へ御小袖三つ・胴服一つ下され候、扨歸られ候て、後日に村井豐後を御使に遣され、昨晩御出て、忝く候由、御述べ候へば、景勝對面にて、忝き次第、御返事申含められ候て、豊後に小袖三つ・胴服二つ給り候、其夜、德山五兵衞方へ、景勝より使者︀にて、小袖三つ・胴服一つ贈︀られ候、流石遠國人と、利家も御禮返しを仕られ候を、御笑なされ候、其後、大關常陸と申す人を使にて、忝き次第を御禮に越され候、夫にも利家よりも、又小袖・胴服下され候、景勝御斷にて、參る儀を隱密に仕られ候、其後、十日計り過ぎ、夜に入り、利家、景勝へちらと御禮がてらに御越しなされ候、小袖十・太刀目錄にて御座候、御吸物にて御酒出で、殊の外忝がり申し候、其時、景勝より正廣の脇差進上候、其後、豐後方まで人を越され、利家御廣間までちらと御出て候て御歸り候、夫よりして御內意中能く候、

佐竹氏と利家一、利家、草津へ御湯治の御暇仰上げられ、御湯治御座候、佐竹修理殿、五日路程、佐竹より御見舞に御出なされ候、大納言樣御滿足にて、御馳走の上に、御指料兼光の御腰物遣され候、修理殿御滿足にて御座候、內府は伏見に御座候、然れども神︀谷善右衞門殿と申す仁、御家の神︀谷信濃とは從弟にて御座候、夫故善右衞門御使にて、御時衣三十・御夜著︀二・御蒲團二つ・御肴色々進上にて、草津は風荒き所にて候間、御冷なき樣に、關東雙びに候の間、何にても御用仰付けられ候樣に存じ、御心安く思召され候神︀谷善右衞門を附け置き申し候由、御口上に候、大納言樣御滿足にて、善右衞門に金打鮫の大脇差・御胴服など下され、御返事なされ候、堀久太郞殿、其頃、越後國御拜領にて御在國に候、則ち本栖と申す者︀を使者︀にて、越後布御時衣二十、其外御肴色々遣され候、是も本栖を附け置き候間、御國雙びに候條、御用等仰付けらるべく候樣にとの御事に御座候、則ち御使者︀に小袖十三下され、御返なされ候、蒲生吉三郞殿、其頃、宇都︀宮に所替にて御入り候が、內々蒲生源左衞門・町左近、其外家老共參り候間、小袖十下され、忝がり候て歸り申し候、其外國持衆を始め、御見舞の御使者︀つと斷え申し候、

一、大納言樣、草津の湯へ御越しに付、肥前守樣、伏見にて御申上げ候は、越中富オープンアクセス NDLJP:38山新城に仕り候間、御下りの節︀、御繩張仰付けられ候樣にと、越中の御馳走橫山大膳、金澤まで詰め置かれ候、萬事御用仰付けられ候、魚津の城には、靑山佐渡之あり候、佐渡は伏見に相詰め候故、子息與三郞馳走申上げ候、佐渡內室は利家樣の御姪子故、御城へ御入り候樣にと、申上げられ候へども、御合點なく候間、城より少し行過ぎ、野中に假屋を打ち候て、御膳上げられ候、境に御泊りなされ候時、橫山大膳、御膳上げられ候、一段と御機嫌も能く御座候、大納言樣仰せられ候は、大膳を蔭にては御譽めなされ候、肥前取立の者︀には、一の奴と、度々仰せられ候、富山へは御入りなされず候、

家康と利家との威望一、大野修理殿・蒔田權之介殿など、利家へ御出で候て、御次の間にて、御家老衆に御咄し、內店と大納言とは、御位も國數も多く候へども、御城中にて、人の用ひ申すは、大納言殿强く候、是は第一御武邊故と申し候、扨又御前體も能き故なり、御城中にても路次にても、あがまへ申すは、內府よりは勝り申す故、我々までも、心勇み申し候と、御物語に候、淺野彈正殿・有馬法印も、常々大納言樣御威光强き事御咄候、

一、能登一國・加州二郡、利家樣御領分、松任は、利長を孫四郞樣と申す時御居城、越中國は佐々內藏助領分にて後、

村井豐後長賴一、村井豐後守長賴、村井玄蕃長忠子なり、父は尾州荒子の住人なり、永祿十年、豐後十一にて父玄蕃に離れ、前田藏人公へ近習となる、其時は十三、同十四の夏より、利家公、藏人樣より御もらひなされ候間、利家公傍に放れず、奉公仕り候由、

一、同豐後十七にて、始めて敵と太刀打して、則ち其首を取る、豐後刀は二尺五寸一文字なり、敵の冑の錣に當り、物打折れ、其刀數年離し申さず候、此頃は、村井左馬助に渡し申され候、

金ケ森城攻の功名一、江州金ケ森の城を信長御攻め候刻、村井豐後夢に、時分も能く候、構へて左の道へ附き候へと、山伏枕本にて慥に御吿ありて、目覺め申し候、扨も日頃愛宕山を信仰仕り候故、御吿と有難︀く思ひ、水垢離をかき、具點を著︀し、利家樣御陣所へ參り候へば、未だ鳥前と覺え候間、今少しと御意候時、小屋へ罷歸り、居睡り候て之あり候へば、其內に又御吿、左へ附けとあり、扨又信長公本陣に一番貝立ち、我人城下へ寄せ候時、左右に道あり、何れも右の道へ行き候、豐後も其道に候へオープンアクセス NDLJP:39ども、いや、かつきりと愛宕山の御吿に候間、夫に任せ、一人歸りて左へ行き、から堀の柴折に附く、誰と知らず四五人、柴折際に見え候間、豐後、夫なるは敵か味方かと、つと寄る、其時名乘りて、夫へ來るは何者︀か、爰にあるは、柴田修理が甥、佐久間玄蕃といふ者︀なりと、名乘り給ふ、其時豐後申すは、前田又左衞門內に、村井又兵衞と名乘り候へば、玄蕃、又左衞門殿御內にて、內々承り申し候人に候、合戰の場にて始めて參會申す儀、大に悅ぶなり、夜明くれば、柴折切り申すべしと申合ふ、其內に跡より味方共寄せ來る時、玄蕃・又兵衞言葉懸合ひ、柴折を切り、兩人ながら鎗を入れ、則ち首を取る、利家樣は信長本陣に御座候、右の首持し申す由、其首、信長公へ利家樣御目に懸け給へば、信長公、兼ねての又兵衞手柄仕ると、御意なされ候、釣し柹五つ、御前にあるを、御手づから下され、〈[#オープンアクセス史籍集覧 第13冊 改定」では“並”とある]〉に働の驗と御意にて、南蠻笠拜領仕り候由、其時に[本ノマヽ]

一、利家樣、富田孫九郞を召され、御用仰付けられ候刻、孫九郞殊の外いやひなる體にて出で申し候へば、御機嫌惡しくなり、扨も惡くい奴かな、武士は武邊一度するを、箸鷹もの喰合といひ、二度目を眼を合するといひ、三度目を覺の者︀といふ、今程靜かにて、血臭き事にも、己れめ遭ひ申さず候て、主の申す事など、二度・三度も答へ申さず候は、沙汰の限りと、御怒なされ候、

利家利長の情誼一、大納言樣、大坂へ御引越なさるべき前年、霜月十九日、御壺口切なされ、肥前樣へ御茶遣され候、相伴には猪︀子內匠殿・土方勘兵衞殿・宗無にて候、御壺の上に、この村の御茶入を肥前樣へ遣され候、我等死して其方が取るは、父の物を子が取る程に、恩にも思ふまじく候間、今遣し候て、嬉し顏見申し候が滿足の由、御意にて、遣され候刻、此御茶入にて手前致され候へと、仰せられ候へば、利長樣御頂戴なされ、忝き次第に存じ奉り候、但し私方に御座候へども、御慰に預け進上仕るべく候、先づ御前に御置き遊さるべしと仰せられ候へば、是非ともと仰せられ候、御相伴衆も目出たく御頂戴なされ候へと申され候へば、そこにて利長御勝手へ御入り候て、挾箱持參候へと御意候、勘十郞承り、御小姓衆へ申次ぎ候、木村九郞三郞御挟箱持參仕り候、御裝束直しなされ、御手前なされ候時、利家樣客に御成り、御茶御心よく御參り、色々御物語御座候、

一、伏見にて、蒲生藤三郞殿內、藤田四郞兵衞・渡利八左衞門といふ傍輩を申付オープンアクセス NDLJP:40け、成敗仕り候刻、利家樣御人數揃へ押𢌞し、四郞兵衞を御成敗なさるべきかと思召し候時、土方勘兵衞殿、其時、藤三郞殿に居合せ、直に利家へ御越し候て、樣子語られ候、夫に就き、御分別なされ候て、德善院など御呼び候て、御談合の上に、上意を得られ候て、四郞兵衞、又は贔屓の物頭三十六人御改易にて、四郞兵衞父子、其外五人は高麗へ遣され候、其時の讚談に、利家公御腹立ち、喰付いても果し相なる御人なるが、此度の御分別は、名大將と申し候、

一、伏見にて、國大名衆の臣下共、世上を致し候事、大納言樣聞召され、御笑なされ候、戶田武藏殿・富田左近殿などへ利家樣御咄に、內々の者︀は我等に隨ひ、能く成ると仰せられ候へば、御尤と御感なされ候、

一、利家樣名護屋陣より御歸なされ、御代官衆色々御吟味なされ候て、廣瀨作內取込み之あるに付、脇田主水・喜多村八兵衞兩人に仰付けられ、金澤町にて成敗仕り候、二人首尾能く仕舞候故、御機嫌克く御座候、

一、伏見にて荒木善太夫に御加增下され候刻、親善太夫、八王寺にて討死仕り候儀仰出され、下され候、扨も久しき事思召出され、殊更々々善太夫新參者︀に候處に、忝く賴もしき御主とて、皆々感じ申し候、

一、太閤樣他界なさるべき春、伏見にて堀久太郞殿より夜火事出來、岐阜中納言殿竝にて燒け申し候、長岡越中殿とは向合に候間、大納言樣、越中殿へ御越しなされ、屋根へ御自身御上りなされ、上下肩を雙べ申す事、其時、利家樣御刀鞘走り、旣に御手を御切りなされ候を、ちやと御はづしなされ候て、兵法の御自慢なされ候由、

一、其砌、堀久太郞殿、越前北の庄より、越後國拜領にて國替に候、上意には、久太郞門出は、大納言所にて祝︀はせ申すべき由なり、則ち利家樣にて御振舞御座候、久太郞殿へ御召料具足・鐵炮持筒三十挺遣され候、久太郞殿忝がり候て御座候、柴田源左衞門、名を越後と申し候、利家御盃下され候、御胴服下され候、冥加の由、謹︀んで申上げられ候は、私儀只今まで越後と申し候へども、久太郞儀、越後拜領仕り、罷越し候間、今日よりは佐渡守に罷成るべき旨、申上げ候へば、然るべしと仰せられ候、

一、太閤樣御他界の九月、奧村金左衞門御折檻の時、奧村主計・馬淵六郞左衞門奧村主計・馬淵六郞左衞門・オープンアクセス NDLJP:41小堀藤十郞など、御家賴に之あり、御扶持御放しなされ候、是に就き色々御物語御座候、

一、備前中納言殿・土方勘兵衞殿・大野修理殿、大納言樣へ暮合に御見舞候て、御咄共御座候、何れも殊の外御機嫌能く候て、中納言殿御申し候は、我等秀吉公の御蔭にて、國をも上下人數も持ち候へども、終に野合の大合戰覺え申さず候、合戰には大將本陣にのみ在るべからざる事御語をも承りたく存じ候由仰せられ候、修理殿・勘兵衞殿挨拶にも、左樣の事、備前殿聞合せられたき由、常々御申し候と申され候へば、利家の仰には、合戰の刻は、大將本陣に計り之あり候へば、自然先手一二段も崩れ候へば、必ず味方に押立てられ、存じ寄らず、後れを取る事多く候、昔も是非なく蹈殺︀されたる衆も之あり候、信長公のなされ候樣、又は其時分の先手を致す、竝なき柴田修理・森三左なども、段々備へ置き、本陣は其儘居ゑ置き、乘返し先手に力を附け、蒐け𢌞り下知仕り候へば、本より勝軍なれば、思の儘附け申し候、若し味方惡しく候へば、麾を振り申し候、彼是に就き、大將は本陣に計り之あり候ては、越度取るものに候由御語なされ候、其も佐々と取合ひ申す刻、朝日山といふ所へ、敵出で申し候時、末森へ  申時も、蓮沼といふ所を燒立て候時も、信長の時を存出し、聞くや以來、同勢押竝び、早や々々と駈出し、勝利を得申し候由、色々御物語仰せられ候、何事も聞入れぬが、能く候由仰せられ候、是は末森後詰の時、津幡にて前田右近など止め申す儀などに就きて、又は色々思召合せらるゝ儀も御座候旨之ある由、備前殿・修理殿・勘兵衞御感じ入り候、

一、大納言樣、大坂に二十日計り御詰の時に、太閤樣御直に御暇遣され、伏見へ日暮に御歸り候、御機嫌克く、御乘物兩方ながら明放し、何れも馬上より下り候て御供申し候、色々御咄共遊され候處に、森口と平瀉との間にて、四十計りの男に候が、馬上に有りながら、頰冠して通り申し候、御乘物の內より御覽候て、頰冠御法度、何者︀にても候へ、あの男引下し候へと、御意候所に、御供の衆飛懸り、引摺り下し、頰冠御法度に御座候と、引たぐり申し候、殊の外迷惑仕たる體にて候、後に聞え申し候、安藝國毛利殿の者︀の由に御座候、御家老衆何れも御笑止がりに候、未だ御若年の御心、失せ申さずと申され候、

一、越中と御取合の時、大納言樣、久保といふ所へ、村井豐後を大將として、鐵炮オープンアクセス NDLJP:42頭平野五郞右衞門・河村縫殿之介・同善五郞などに、燒働など仰付けられ候、村井豐後の統率然る所、敵出で突︀懸け申し候所に、先づ鐵砲崩れ、あらになり候所に、村井、折敷き候て、逃ぐる味方を突︀倒し候へと、下知致し候へば、そこにて取つて返し、河村・平野鎗突︀き、首を取り申し候、之に依りて何れも押返し、勝利を得申し候、大納言樣、後々まて此儀仰せられ候、千人の軍兵より、一人の大將とは、能く申傳へ候、豐後を大將に遣し候故と仰せられ候、

一、伊白と申す片目なる針立、出羽︀國最上の者︀なるが、大納言樣へ罷越し、針を立て申し候、初めは御氣色能く候と、主め申し候、三十日計り過ぎ、薄墨︀色の御小便なされ候、彼伊白申上げ候は、扨は蟲下り申し候、百日過ぎ候はゞ、御本復と申上げ候間、御家中悅ぶ事、中々申す計りなく御座候へば、草津御湯治なされ候て御歸り、金澤にて種普坊御使にて、彼伊白に、未だ薄墨︀止まず候如何と、御問なされ候、仰の如く、伊白に申聞かせ候へば、何とも御返し仕り兼ね申し候、其後伏見にて、豐後、隱密に申上げ候は、內々の伊白は下の者︀、其上何たる仁か、以來大納言樣を六かしく存じ候て、能く認め候て、伊白を越し申すも存ぜず候間、針を御立なされ候事いかゞと、申上げ候へば、心得申すと御意なされ、夫より針御立なされず候、彼伊白、次第に御前遠く罷成り申し候、

一、大納言樣、京より御下向の時、西の丸に村井豐後御城代に罷在り候故、八月二日、豐後所へ成らせらるべきに就いて、豊後有難︀き次第とて、御成を仕り候、一段御機嫌も能く、豐後手前にて茶上げ申し候、其にて御意には、御椛に御手前遊さるべしとて、德山五兵衞・寺西宗與・笹原出羽︀など、謹︀んで之ある時、二間次の間にて、神︀谷信濃と江年平右衞問と、戯言ざれごとの上に、からかひ仕出し、旣に平右衞門拔き申し候を、岡田長右衞門・種善坊中へ走り込み、取分け申し候、夫より言葉次第にひきく成り申し候、存切の體に候、扨御意に、豐後はや薄茶になり候間、菓子を出せと仰せられ候、夫をしほに仕り、御前を罷立ち、兩人へ殊の外强く意見申し候へば、平右衞門は、豊後取立て出し申したる仁なり、信濃は是非引𢌞してたもれと、常に申す仁に候故、兩方鎭り申し、迷惑仕る體に候、如何樣とも豐州次第と申し候、其夜、大納言樣御寢なされ、殊の外信濃を御叱なされ候、信濃爲には、忝き次第にて御座候、
 

 
オープンアクセス NDLJP:43利家夜話 卷之下

一、加藤左馬殿家來を直に成敗の時、少し手負ひ申され候を、折節︀利家の御前にて、御囃の方々誹立て申され候を、利家御聞なされ、夫は僻言なり、兩手あれば、左馬助手を負はれ申すとても、越度に之なく候、併し仕損じ遁し申され候はゞ、各の御咄も尤に候、仕濟し候へば、左馬助勝にて候、信長公の御時代も、斯樣の事多く候由仰せられ候、

一、太閤樣關東御陣の刻、北條伯父安房守命を御免︀なされ、大納言利家に御預け候時、無故にて千石下され候、其後、安房守死去申され候時、紫野の喝︀食にて居られ利家と家康候子息を、德山五兵衞御使にて、北條庄三郞と名を附け召出され、彼へ千石下され候、其時、內府肥前守殿御賴の由にて、北條父子を上意に預け、成敗なされ候間、元の如く出家にて御置き、然るべき由御申し候、其通りを大納言樣御聞き、いやいや安房を先年御預なされ候間、跡目も之なき故、呼出し申し候、私ならぬ事と、御返事なされ候、其後御居間にて、利長を御呼なされ、仰せられ候は、扨も其方は大心之なき人なり、其故は、家康左樣に申され候とも、此方へ申すに及ばず、右の返事仕らるべき事なり、自然の儀之あらば、家康とは敵々に必ずなるべく候、其時、關東は先主を忘れず候、國の義理深き國に候間、後々北條を押ふは、其方に之ある松田四郞左衞門、我等方に抱へ置き候大道寺新四郞兩老にして、左右の旗を擧げさせられば、卽時に關八州は一味仕るべく候、內府がいひ樣も心得たりと仰せられ候、利長、兎角の事も仰せられず候、其時御次の間に、村井豐後・岡田長右衞門・神︀谷信濃・種善坊計り之あり候故、耳を密めて承り候由、

扈從者︀の心得一、大納言樣、伏見へ御移の時分、御意に、御城へ小姓衆御供に參り候時、自然棒に當りたらば、拔討に打放し候へ、我等も助けて取らせ申すべく候、使などに行き候時、右の仕合ならば、堪忍致し、其警固人の主人を附けて置き申すべく候、我等供に參り候を、眼前にて棒を當て候へば、我等を打ち申し候と、同前に候間、打放し申すべき由、度々仰渡され候、此の如き御意候故、御供の內は氣遣仕り、當り申さず候樣に彌〻仕り候、御使に參り候時は、猶以て愼み申し候、右の如く仰せられオープンアクセス NDLJP:44候へども、猶々皆愼み申し候、名大將と何れも感じ申し候、其時分は、秀賴公の御守に御座候故、御門番衆も歷々つくばひ、目見え申され候、然れば御家來には、いかにもいかにも懇の由に候、

村井又兵衞一、大納言樣、村井を又兵衞と御附け候事、又左衞門の又の字を下され候旨、度度御咄遊され候、豐後も其通り語り候、先年勢州大河內の城、信長公御攻の時、利家傍にて太刀の高名にて首を取り申し候、其時は長八郞と申し、廿三歲に候、右の手柄に依つて、又兵衞になされ候、豐後、常々愛宕八幡を信仰仕り候が、度々利生を蒙り申し候由、其時も愛宕山の御利生御座候由、語り申され候、

蒲生氏鄕利長を戒む一、重九の御禮に、大納言樣.肥前守樣・長岡越中殿・蒲生飛驛守殿御同道にて、御登城の刻、御門番申す樣、御供の衆多く入り申す儀、御停止御座候旨、何かと口答申し候へば、大納言樣、番人の面を御食はしなされ候、彼者︀の手を、肥前守樣と飛驒殿と、御取附なされ候、越中殿はなさるべき樣もなく、刀に手を懸け、彼番人の後に御座候、其夜、御兩三人御寄合なされ候刻、飛驒殿肥前守樣へ御申し候は、構へて構へて、大納言殿へあの體ならば、見限られ申すべく候、肥前守殿其御心得然るべしとて御咄にて、いろ御物語なされ候、

政權利家に歸せむ一、或時蒲生飛驒殿にて、肥前守樣・長岡殿・上田主水殿・戶田武藏殿など御參會の刻、其時は雁の汁を喰ひ申すべしとて、人混ぜなしにと仰合はさる、食も過ぎ候て、色々御物語になり、後は誰が天下を掟て申さるべくやと、讚歎の時に、飛驒守殿仰せられ候は、此後は肥前殿を指して、あれあの親父と申され候、利長は御聞き、何事を飛驒は申され候やと、御笑に候、皆々如何の貌の體に候、其時飛驛殿、申され候は、扨も各は合點の行かぬが、又肥州も心得られぬが、其謂を申すべく候、自然の儀出來候時、今の體は、利家ならて、誰か武邊者︀之あり候や、其上北國三州の主なり、京までの道すがら、足に障る者︀も之なく、自然に西國毛利出し候とも、備前に宇喜多が居られ候、最早家康計りなれども、上洛仕られ候はば、此飛驒が之あり候條、卽時に喰附き、箱根を越させ申すまじく候、斯くの如くに候へば、各も分別して見られ候へ、但し又上方に何れも居ながら、事出來候はゞ、猶以て大納言殿へ一味の衆多く候間、之を思案仕り候へば、此次には、肥州の我等は支配にあらんと、御申し候へば、何れも飛驒殿の御申、尤とて感ぜられ候、其オープンアクセス NDLJP:45時、肥前樣仰せられ候は、又候や、あの飛州の戯言ざれごとに飽き果て候と、御申し候て、御笑なされ候、此段、飛驒守殿咄の衆、仙石德齋と申す者︀、大納言樣へ右の事共語り申し候へば、世上へ聞え候はんとて、御笑なされ候、

冗費の節︀約一、伏見にて大地震の時、大納言樣を彌四郞樣の地震小屋にて御振舞なされ候、殊の外御小屋の結構なる樣子を御覽なされ候、御歸り候て、岡田喜右衞門・齋藤刑部兩人を御使にて仰せられ候は、地震小屋など申すものは、いかにも、輕輕しく、過之なき樣に仕るものなり、左樣の儀は入らざる事なり、むざと金銀費し、後には無理を申して、人の物が欲しくなるものなり、孫四郞は一國の主めに候へば、存事も申さず、深く心に懸け申す者︀が、武者︀道具・馬等の沙汰もなく、每日、鷹野又三味線など候て仕り候、沙汰の限りなる行儀なり、孫四郞一國の主なれば、日本に六十六人の一人なり、不作法の行儀と、御叱なされ候、

一、信長公江州やす村を御攻の時、利家御傍にて、村井又兵衞手柄仕り候旨、一度御咄なされ候刻、表へ御使に罷出で、承らず候故、書付申さず候、

一、太閤樣、坂本の古城の跡へ御鷹野に出御の時、內府樣・大納言樣を始め、國大名端々に供奉なされ候、其時、平塚︀と申す者︀など、鳥を手取に仕り、太閤樣御機嫌能く候時、家康風雨に惱む俄に風雨故、直に坂本へ御座なされ候に付、何れも馬上にて御供なされ候、家康は油道服を召し候へば、風にさゝめき、吹立ち候へば、御馬驚き、足をためず蒐出し、旣に御落馬なさるべき體に候、其夜の御咄に、內府に似合はぬ、濡れ候が、大事の油道服、さりとてはと仰せられ候、利家樣は合羽︀を召し候が、何事も御座なく候、

一、大納言樣に、三池傳太の御腰物之あり候、第一狐など落し申し候、備前中納言殿御內儀殿御煩の時、此腰物參り、狐落し申し候由、

一、太閤樣座敷にても、御雜談、昔物語、其外、信長公の御時代の御咄なされ候にも、必ず先づ大納言・內府と、大納言を先に仰せられ候御詞は、此上に重ねて一國下され候より忝き次第、御加增にも替へ申すまじと、御機嫌の時仰せられ候、

一、孫四郞樣を感じ申す儀は、江間平左衞門子細候て、大納言樣より御折檻なされ候に付、孫四郞樣へ村井豐後を御使にて、御諚に仰遣され候は、平左衞門、餘所へ遣すべき者︀に之なく候、其上に早や年も寄り候へども、法度の爲め、折檻申付オープンアクセス NDLJP:46け候事、不便に思召し候間、孫四郞咄の者︀に抱へ置かれ候樣にと御意に候、夫に就き、金澤にては知行六百石取り申し候へども、能登にて千石下され、召仕はれ候、其後に丹羽︀權之助・小泉彌八郞・井口茂兵衞・九重九郞兵衞・大道寺新四郞など、皆々大納言樣より御折檻、又は御知行不足に付、身上替へ申す者︀を、今程餘所より呼び申すよりは、前廣より利家に數年之ある者︀抱へ置き候はゞ、なじみにて能く候はんと、皆々御加增少しづゝ下され候、

一、大納言樣、物破りなされ候御人なれども、御祈︀禱なされ候に、法印を御撰び候て、舍利有馬の法印物知と聞召され、正・五・九月、御本丸にて護摩御焚かせ候事、扨も文武の大將と皆感じ申し候、

一、太閤樣・內府樣・大納言樣御立合に、御能之ある時は、何事も德善院と申す出家を、愛宕へ御代參に遣され候、愛宕山は人の鼻を御はじきの由、能を御仕損ひなされ候樣との御立願と御意候、是と申すも、御嗜の深き大將と申し候、

一、村井勘十郞十七の歲より、大納言樣御腰物、私獨に御持たせなされ候、有難︀き仕合ながら、寸の隙も之なく、迷惑の事、

一、高麗作藏、松任にて喧嘩仕り、相果て候刻、其相手を大納言樣より仰斷られ、丹羽︀五郞左衞門殿、是非なく、五人町中にはたものに懸けられ候、夫に就き、石川・河北兩郡の一向宗の太鼓、御打たせなく候、

一、越中氷見のを燒働の時、村井豐後・片山伊賀・岡崎備中、其外御鐵炮大將三人燒き候刻、伊賀申し候は、我等其計り先を燒き候と申し候て、豐後と備中を訇り申す樣に候間、豐後乘𢌞し、先を見て、江見藤十郞・小林彌六左衞門・吉川平太・池田喜助、其外十人計り、豊後與力の者︀共の名を讀み立て、先々此者︀共が燒き申し候が、〔目カ〕に見えぬかとて、片山が前を乘𢌞し申しければ、仰の如く、誠にそれ樣御家中に、小指物多く見え申し候、日暮故、殊に煙の內にて見損ひ申し候由に候、此儀、大納言樣度々御咄し、御笑なされ候由

一、毛利河內殿と佐竹侍從と、名護屋陣押の時、喧嘩之ある由、河內は舟より人少に御上り候故、少し越度を御取り候由御座候、大納言樣、其談を後まで御雜談なされ、御傍にて無念に思召し候由、御物語に候、

一、越中森山淵の上にて、亞相公の御家中喧嘩の時、淺井左馬助・奧村主殿助・森オープンアクセス NDLJP:47九郞三郞、銘々に物語多し、鵜野平八切腹の時、手柄を仕り候、後まで譽め申し候、是は橫山大膳と、太田但馬と、中惡しくなり、家中二つになり候に就いて、此喧嘩之ある由、

利家利長の粗暴を咎めず一、大納言樣草津へ御湯治の跡、太閤樣御不豫日々に惡しく候に付、大名・小名中の中の惡しきを、內府にて直し申すべく候由、秀賴公の御爲の由、上意にて、肥前樣を始め、諸︀大名家康へ御寄合なさる、然る所に、肥前樣と正宗と御盃御引合ひ、正宗に肩より胸へ酒を御懸なされ候、そこにて家康、御挨拶の樣子も御座候へども、書付け申さず候、此段をば大納言樣御歸り候て、森壹岐殿・糟谷內膳殿・御越し候て御咄、利長は勿體なき儀に候間、以來の儀、御異見なさるべしと御申し候、大納言樣の御意には、御聞かせ滿足申し候、但し我等若き時は、左樣の事幾度も之利家之を看過すあり候、其心立は一段よく候、扨又我等斯樣に申す通り、人には必ず沙汰なしにと仰せられ候て、御笑なされ候、扨御咄過ぎ、御兩人御歸の時、御次にて豐後・長右衞門・五兵衞などに御申し、親父樣の今の御申分、皆々御聞き候やと、笑止に御笑なされ候、右の酒御懸の時の首尾は、內府御內豐崎源十郞、其時分酌仕り候に付、よく語り申し候を、具に承り申し候、

伏見の川堰先年伏見川堰の後、大納言樣御下知に、十月の事なるに、川端に大釜を十計り置き、粥を煮︀させ、五六十人の者︀共に、食べ次第に下され候、侍も役人も十月の事なる故、一入きほひ申し候、

秀吉諸︀大名に誓紙を徴す一、太閤樣御他界遊さるべき前月七月に、上意には、御煩も重り候へば、今日諸︀大名に御遺物下さるべく候、幸大納言は、秀賴が守の事にて候間、大納言所にて誓詞をせさせ、其上に御遺物を遣し候へと仰出され候、則ち七月七日に大納言樣へ、內府始めて諸︀大名御出て、誓詞なされ候て、御遺物拜領致され候、御振舞は素麫にて御座候、慶長三年七夕に御座候、

秀吉の臨終に赴く一、太閤樣、八月十八日に御他界なされ候刻、朝の事なるに、淺野彈正・石田治部兩使にて、大納言召出され候、利家御氣遣の御氣色にて候、其前は、御本丸御門の內へは、內府と大納言兩人計り、一人草履取一人ならでは御連なされず候を、大納言樣能く存知候故、小さ刀を袋に入れて、勘十郞持參仕るべき由に候、勘十郞刀は御門にて留め申し候、其時に利家勘十郞が耳に御口を差附け、其方いつも通オープンアクセス NDLJP:48りに、坊主共の部屋へはいり、之あり、奧がどやといひ候はゞ、此小さ刀を拔き、當るを幸に、奧へ切込み申すべく候、但しどやめく善惡を能く見聞き申すべく候と、勘十郞頭に御手を懸けられ、仰せられ候、誠に忝き次第に候、扨太閤樣の秀吉秀賴のことを利家に託す御前へ御出なされ、御淚に御咽び候、太閤樣利家の御手を御戴なされ、萬事々々秀賴の事賴み申し候、大納言々々々と、上意の由に御座候、

一、太閤樣御他界の儀、いつともなしに、知らせ申すまじき由上意にて、五奉行衆誓紙を書かれ申し候由に候、石田治部、其判を仕たる手にて、宿へ用所之ありとて、次の間へ出て、狀箱を求め、書狀認入れ、利家へ御知らせ申上げ候、御心得の爲め、申進じ候由なり、大納言樣いつもの通り、御使者︀上げられ、御機嫌伺ひ候處淺野長政秀吉の喪を祕すに、淺野彈正殿御返事に、御他界なされ候て、晝の事なるに、今朝も割粥を召上られ候由、申し參り候、二十日計り過ぎ、早や世上に隱なき時、彈正殿をさりとては聞えぬ由、大納言樣仰せられ候へば、彈正殿御申し候は、御意御尤に候、定めて御知らせは治部少輔にて之あるべく候、達て申分仕るべく候、能く御聞屆なさるべく候、遲く申上げ、大納言樣御爲に、惡しき儀御座候はゞ、身に替へても申上ぐべく候、左なきに誓紙を破り候者︀が、以來利家の御用に立ち申すべくや、又誓紙を破らざる者︀が、御用に立ち申すべく候や、御爲に惡しき儀御座なく候間、遲く申上げ候と、誓紙を以て仰分けられ候、彌〻御中よく御座候、

一、大納言樣、右の年十一月の事なるに、御夜咄に、御機嫌能く、金子二兩、小袖・肩衣・袴・帷子、又は道服・錢三貫文・卷物・扇子・中折五卷・帶・下緖、其外色々札を附け神︀谷信濃を戒む置き、御咄の衆神︀谷信濃・村井勘十郞など召加へられ、名書御覽なされ候處、小袖は德山五兵衞、扇子一本齋藤刑部、金子二兩三休、肩衣・袴宗與、帶二筋信濃、卷物二卷村井勘十郞、其外皆々取り申し候、御機嫌能く御笑なされ候、中にも宗與が肩衣・袴を取り候を、以ての外御笑なされ候、其時信濃申上げ候は、三郞、御次の間に居り申し候と、父宗右衞門に目を懸け申す故、申上げられ候、利家公、御氣色惡しく見え申し候、如何と存じ候處に、笑事過ぎて、左樣の分別にてはなるまじく候、あれ一人入り候へば、餘の者︀共の恨之あり候、總て我が目を懸け候者︀の事をばいはぬものと、御叱なされ候、年寄共御尤と感じ申し候、

一、太閤樣御他界の後、唐より人數出し候に就いて、島津へ加勢遣され、然るべオープンアクセス NDLJP:49き旨に付、利家援兵を朝鮮に出す內府大納言を始め、諸︀大名寄合ひ、相談之あり、其時、內府の御意には、百萬騎にて出で申す由と御申し候、大納言樣殊の外御氣色替り、信長公時より、十萬騎と申すを、誰か積り申し候や、人數積り仕るべく候はゞ、今貴樣・我等兩人の內參り、積り候はゞ積り申すべく候、氣を替ゆるものかと、御意なされ候、其時內府、尤の事と御申し候、扨大納言樣誰へも御構なく、誰々御越し候へと、書付御判なされ候、何れも强き御威光と申し候、

秀吉の夢一、或時、大納言樣御物語御座候、太閤樣御病中の御夢に、信長公御出なされ、最早藤吉郞能き時分なるに、參り候へと御意候時、太閤樣夢中にも仰上げられ候は、□眞殿御敵を取り、御奉公申上げ候者︀に候間、今少し御免︀候へと、御申上げ候へば、いや我等子供の有樣も、不便にならせられ候樣に候間、急ぎ參り候へと、引摺り出し候かと御覽じて、太閤樣御目を御覺し、御心附き候へば、御寢なされ候跡まで、一間程御引出され候、扨政所樣も上﨟衆も、肝を潰しなされ候、其時よりも、早く思召切り、御仕置ども急に仰出され候、七月一日の事の由、

一、太閤樣御隱之なき十箇年計り前、伊勢山田より金子百枚御出しなされ候、是も御病中に、白裝束の者︀、御眼前へ來り、伊勢より金子取り候を、返し候へとありければ、太閤樣は御覺なされず候故、伊勢より金子取り候事之ありやと、奉行衆へ御尋なされ候、其時古帳を繰り候て、石田治部少輔存出し、如何にも過怠に百枚取り、召上げられ候事之ありと申上げ候、左候はゞ急ぎ返し候へと仰出され候、神︀主共へ奉行衆より返され候、是も恥しき物事と御物語候、

堀秀治一、堀久太郞殿、越後を拜領にて御越し候時、本栖と申す者︀を御使にて、金澤へ差越され、金子五十枚借に參り候、大納言樣御聞き、隣國の儀に候へば、何程も御用に立て申すべしとて、遣され候、

一、大納言樣草津の湯より御上り候刻、越後春日山の城に、久太郞國替にて居城候故、御寄なされ候へば、久太郞殊の外御馳走にて、忝がりに御座候、

病を冒して秀賴に出仕す一、太閤樣御遠行の後、正月御出仕、秀賴樣へ御禮なされ候刻、大納言樣御蟲氣起りにて、御城御臺所際にて、御裝束なさるべき由仰せられ候て、座敷之ある處へ長持持たせ、神︀谷信濃・村井勘十郞、宵より參り申し候、其日、御裝束なされ候所へ、大野修理殿・羽︀柴下總殿・森豐後殿御出で候て、大納言樣御心中御尤と、感じ申オープンアクセス NDLJP:50され候、其日、裝束にて御供仕り候者︀、村井豐後・奧村伊豫・富田下總三人、何れも秀賴樣へ御禮申上げ候、

島津氏の加封一、島津兵庫・同又七郞、唐にて切勝註進申上げられ候、長束大藏大輔、大納言樣へ御註進に參られ候、御對面にて、扨日向・薩摩に御藏入候やと御申し候、大藏申され候は、四萬石計り御座候と申され候、然れば之を島津に御加增に、秀賴公より下され候樣にも存じ候間、家康へも其通り御談合然るべき由仰せられ候、島津爲には忝き儀と、大藏申され候、扨內府へ參り、此由申入れ候へば、今程は如何に候、入らざる事と御申し候、又大藏大納言樣へ參られ、此通り申され候へば、夫は夫は內府分別とも覺え申さず候、先づは秀賴公の御代に成り、始めての戰に切勝ち候へば、一廉下され候はては叶はざる事に候、內府へも我等申すべく候間、淺野彈正・石田治部少輔などへも申談ぜられ、御朱印調へ候樣に中さるべく候由にて、加增に極り申し候、家康も利家の御分別尤と御折れ候、其後、島津父子國より大坂へ罷越し、有難︀き旨、秀賴公へ申上げられ、扨大納言樣へ參られ、扨も忝き次第と平伏し、涙を流され候、

利家秀賴に勸めて大坂に移る一、秀賴樣、太閤樣御他界遊され候翌年正月七日、大納言樣大坂へ御供なさるべきの由、何れも御談ぜられ候處に、內府を始め、又は秀賴樣御母儀樣、大坂へ御越をいやと思召され、先々四五月までも、伏見に御座候樣にと御申し候處に、大納言樣仰せられ候樣は、早や太閤樣の御遺言御忘れ遊され候かと、殊の外强く仰せられ候、御遺言には、大坂の城名城にて候間、上樣御他界の後、十日過ぎ候はゞ、大坂へ御供申し、十五になり候はゞ、大坂を御出之ある樣にと、仰置かれ候間、是非に七日に御供仕るべしと仰せられ候へば、其通りに相極め候へども、一日々々と相延び、十一日に御立なされ候、御座船にて御越し遊され候、兎に角に威光强き御事と、上下共に申す事に候、

五奉行利家と共に家康の不信を責む一、秀賴樣、正月十一日に、利家御供にて大坂へ御著︀候、二月初頃より、內府御法度共御崩じなされ候事を、奉行衆・國大名衆十一箇條、利家へ御意を得られ候、伏見にて安藝毛利殿へ諸︀大名御寄合ひ候、大納言樣より德山五兵衞・村井豐後・奧村伊豫三人、御名代にと遣され候、彼十一箇條、家康へ有馬法印・淺野彈正殿を以て仰遣され候、內府御返事の樣子、大坂へ註進次第、秀賴御名代に、大納言樣御出馬にオープンアクセス NDLJP:51相極り申し候、家康、彼條御覽候て、誤り申す由にて、如何樣ともと、十一箇條に點を御懸なされ候、但し江戶へ隱居の儀、此八月まで御差延べ下され候へ、今罷下り候へば、太閤樣御遠行、程も御座なく候故、我等法度も破り申し候由、上樣御仕置も違ひ候にもなり申し候間、八月、秀賴樣へ御暇申上げ、鷹野と申慣らし罷下り、中納言を務めさせ、私に隱居仕るべき由、內々御斷に候、さらば先づ夫にて相濟み候へと仰出され候、色々御物語共御座候、

井伊本多家康に擧兵を說く一、右の條々、內府誤りたりと、點を御懸け候時、參河殿・本多中務・井伊兵部など、內府を呼立て、思召切られ、御破り候へ、靜められ候て、無念に御座候と申され候、其時內府、忰共沙汰の限りを申し候、大納言を大將にして、水の出花の如く、諸︀大名きほひ申す、何としてと、御叱なされ候由、其時分家康流石功者︀と申慣し候、此一件には、色々御物語共御座候、

字喜多秀家一、右の時、備前中納言殿、利家へ御訴訟候、秀賴公御名代に、內府御退治の御出馬なされ候はゞ、私に先手仰付けられ下さるべく候大坂備前前島の下屋敷に、人數千騎計り、入れ置き申すと、御申し候へば、大納言樣殊の外御滿足にて、婿殿に今懸り申し候と仰せ候て、御慶にて御座候、

一、右の如く、方々不和なる故、內府と大納言樣と、中惡しく候へば、秀賴樣の御爲も、いかゞに候へば、肥前樣內府へ御越し、右の通り仰せられ候へば、家康殊の外忝く思召され、我等は大納言殿に御恨も御座なく候、如何樣とも肥前殿賴み申すと御意候、又は御出の處、忝く存じ候由、御滿足の由、

利家家康を伏見に訪ふ一、右の如く、肥前殿御あつかひにて、內府・大納言樣御中直りに極り、明廿九日に大坂を利家御立の時、肥前樣、私も御供と御意候、其時、大納言樣、殊の外腹立なされ、中々其分別にては、以來なるまじく候、我等は太閤樣御意に、秀賴事大納言次第と仰せられ、今はの御病中に、起上らせ給ひて、我等が手を御取り、奉行衆つくばひ居り申す所にて、御戴なされ、御賴なされ、繰返し仰せられ候を、今生・後生忘るまじと存じ候故、今幾程もなきに、內府と申分して、天下を騷しければ、秀賴公御爲惡しく候故、我等は內府に切られに行くは、太閤樣に切られ申すと存ずるなり、家康、此度我等を切らぬ事は、百にして一つなり、其時人數を揃へ置き、其儘弔合戰して、勝利を得候はんと、胸に持たずして[〈と一字脫カ〉]、高らかに仰せらる、扨正宗オープンアクセス NDLJP:52の御腰物を、御拔き放し御覽候て、內府に對面して事あらば、此刀を以て一刀にと、當るを幸に打放し申すべしと、利長に氣を御附けなされ候、扨御人數は皆々肥前樣に附けられ、大坂に差置かれ、一夜橋本に御泊なさるべき爲め、御番衆吉岡九左衞門、弓衆二十人召連れ參り申し候、廿九日、橋本まで御著︀なされ候へば、伏見より大小名殘らず、森口・平潟邊まで御迎に御出で候て、下馬にて御目見候、太閤樣御同前とて敬ひ申し候、

一、廿九日、橋本に御泊なされ、明三十日、又小舟にて日の出に御出なされ候、御弓の衆も皆々橋本に置かれ、富田下總、鎗に大身柄を仕たるを十本持たせ候へば、是計りを御馬の先に持ち申すべき由の御意候、御弓衆、橋本に指置かれ候事、御故ありての事に御座候、色々御物語御座候、

家康淀に迎ふ一、晦日には、內府、有馬法印計りを御共にて、御舟に召され候て、淀まで淺黃の上下にて御迎に御越し候、大納言樣も御舟を明け放し、內府、遙々御越し、忝きの由御申し候時、大納言樣、夫へすぐに參るべしと、仰せられ候へば、家康は扨も忝しと仰せられ、はし舟にて御召替へ、御先へ御歸り候、

一、大納言樣、御舟より直に內府へ御越しなされ候、御供には德山五兵衞・齋藤刑部・富田下總・神︀谷信濃・小堀權太夫・村井勘十郞、此六人召連れられ候、勘十郞には御小さ刀持參候へと御意に候、肥前樣より御添使者︀、大音主馬參り候、口上には、我等も大納言同道仕りたく候へども、秀賴公、御近所に相詰め候間、是非なき儀に候由仰遣され候、夫故主馬も我等と一緖に御振舞下され候、

一、右の時、舟端へ村井豐後・奧村伊豫、伏見旅屋より出向ひ、御供仕るべき由申上げ候へども、兩人參り候はゞ、內府道具をも出したく、思召さるべく候間、無用にて候と御意候、豐後は其方宿へ歸り、我等を待ち候へ、伊豫は旅屋へ歸り候へばと御意候、夫も御心得之ありての事に候、豐後が家は、則ち豐後橋の際に、太閤樣より御屋敷下され罷在り候、兩人ながら畏り申し候由、申上げ候へども、右兩人は、今を限りと存じ候なり、利家內府へ御入り候までも、後々までも、御門外に〔佇カ〕之ある事、內府大納言樣を御執成し、利家の御臺所人一人、御料理所へ入れ置き候へと、內府達て御意にて罷越し候、是は毒の御遣と聞え候、御辭退候へども、是非と御申す故、鯉塚︀といふ御料理人遣され候、御勝手にて、殊の外御馳走に遭オープンアクセス NDLJP:53ひ申し候由、鯉塚︀歸り、咄し申し候、

歸途に就く一、利家、內府の門の內にて、勘十郞に御呼き、御意には、歸に屋敷へは寄るまじく候、其方親の豐後所にて、饂飩を喰ひ候て、歸り申すべく候間、其通り豐後方へ申遣すべく候、扨御振舞も過ぎて、御歸には、御乘物にて豐後所まで御越しなされ候、大小名衆御步行にて御供申され候、皆々乘物・馬に召し候へと、仰せられ候へども、忝き由にて、淺野彈正殿父子を始め、步行にて六七町の間御越し候、餘りの事に、御乘物昇ぎ肩を替へ候時も、皆々御つくばひなされ候、扨も氣味の能き御威光の御供仕り候と存じ奉り候、扨豐後所にて、饂飩大名衆御相伴にて御參り、御機嫌能く御座候、其後豐後前より御舟に御召し、大坂へ御歸りなされ候、天下打擧り、御送に平瀉まで御出なされ候へども、忝く候とて、御斷にて御返しなされ候、

一、世上騷の時分、大納言樣にて御內談仰せられ候事、其日に內府へ聞え申す由に就いて、德山五兵衞、己が手前を拔けに、神︀谷信濃を支へ申す故は、內府御內神︀谷善左衞門と申す者︀、信濃と從弟にて候、夫に付、右の騒ぎ申す時分、信濃方より申遣し候と、支へ申し候、是に付、色々御物語共御座候、

利家要所に米を貯藏す一、大納言樣、京・伏見の御屋形、つまりに、人の目に立たぬ樣に、米を二十石・三十石・五十石宛置かれ候、自然の時の御爲にとなり、名大將と、年寄目交ぜにて申され候、

一、加藤主計殿・中村式部殿・平野遠江殿などは、前廣より御出入衆にも之なき處に、或時太閤樣の御前にて、利家、能く取成され候を忝しとて、其後より御出入に候、御物語にも御出入衆は申すに及ばず、右の衆高麗にての働のこと、御取成し候由、

一、慶長四年壬三月三日に、村井勘十郞書付け候は、利家の御傍に召仕はれ候者︀、中の間にて御居寢なされ候、御腰御打たせ候が、御髮を櫛にて撫附け仕り候者︀には、一年の內には、二三度も金子二兩宛、御手づから下され、我親にもいはれぬ事あるものなり、遣ひ候へと下され、皆々忝がり申し候、

不動山の僧︀徒等利家を謀る一、大納言樣御物語には、能登國不動山の坊主共、岩成と福︀井備前守・三國越後守とを取𢌞し、謀叛仕り候時、前廉相聞え候、山の坊主共御呼び候て、御穿鑿なさオープンアクセス NDLJP:54れ候へば、嘗て御座なく候事に候と、靈社︀の誓紙を仕り候故、御返なされ候、其後大納言樣、御鷹野に御出で候て御歸り候を、討ち申すべき工みを仕り候處、俄に大雨降り、路次より脇道を御歸り候故、異儀なく候、扨其後、大に色立ち申すに付、誓紙御覽候へば、程隔り候へども、誓紙の血判、未だ干申さず候、扨も恐しき事と申し候、右の御鷹の時、雨降り候て、別道御歸なされ候も、御運强き御事と申し候、

一、大納言樣御物語に、美濃國齋藤山城入道子息癩にて候、其上又父に不孝故、御讓あるまじく、內談聞かせ申す人之ありて、父子中惡しく、合戰に及び候處、尾州へ註進御座候と、信長公御出馬なされ候へば、早や山城入道合戰に負けられ、城に火を懸り申し候を御覽候て、扨も註進遲く候事無念なりと、信長公御淚を御流し候て御歸り候、其內一度は彼癩殿の首を取り、入道へ手向け申すべしと、御意候由、御物語なり、

平出甚左衞門の戰死一、同御物語に、甲斐國信玄、味方が原へ出で申す刻、家康へ信長公より御加勢として、平手甚左衞門・佐久間右衞門を大將分にて、七頭遣され候時に、家康右の衆町屋に之あり候を、御大儀忝しとの御禮として、御出て候へども、何の沙汰もなく、片端に御見舞候て、大將分の分ちもなく候へば、平手二階より之を見、腹を立て申し候、此度の大將は、信長公我に仰付けられ候處、何れもより跡に參られ候事、沙汰の限り、作法を知らずとて、二階にて三味線を高々と小歌に乘せ引かれ候て、我等事は明日は先登して討死仕る者︀に候間、我等方へ見舞は無用と申せと、高らかに申され候、家康之を聞き、迷惑の體に候、明朝平手一番に走せ出づるを、佐久間右衞門より使を立て、平手殿は、此度七頭の大將仰付けられ候へば、我我を始め、信長公と存じ奉り候に、先登なされ候儀、如何に候と、申遣し候へば、各こそ大將なれ、我等は端武者︀とて、一番に進むを、家康も色々使者︀を以て斷に候へども、平手聞きも入れず、終に討死仕られ候、扨濱松の城より、信長へ註進の時、御鷹野より直に御出馬の時、殊の外御機嫌惡しく、家康が我等家の子平手を討死させ候事、急ぎ甚左衞門を返し候へと、猪︀子に仰付けられ候、然れども其時、金子を馬に二駄持たせなされ、御越し候故、遣され候、信長公の上意には、斯樣の時は、軍士共心捨て候ものなり、諸︀卒へ遣すべしとの儀なり、信長公は又オープンアクセス NDLJP:55斯樣の名譽の御大將と感じ申し候、家康、平手へ遲く御見舞候により、討死仕られ候、人へ見舞も大事と、利家仰せられ候、

一、同御物語には、城を攻むる時、いらちける馬より早く下り候へば、必ず息切れ候ものなり、ふけ田・沼の外は、城際まで功者︀は乘り候由仰せられ候、

論語の一節︀を寫す一、信長公の御右筆、論語を講釋仕り候を、利家面白く思召し、書寫させ置かれ候は、天下有道則見、無道則隱也、是に就き色々御物語候由、

一、伏見にて利家御知行割の砌、岡田長右衞門、私の割仕り候由、高木と申す者︀と、北山と申す者︀、兩人訴へ申し候へば、其日暮に長右衞門召され、御叱なされ候へば、長右衞門申上ぐべき樣なく、退出仕り候刻、ふてたる顏附仕り候へば、奴めは惡くい事かな、片目を切潰し候はむの由御意候、出頭人にても、ま〔さカ〕なき事は、御免︀し之なき由、申慣らし候、

橫目の無益一、大納言樣御物語に、橫目といふ事入らぬ事、信長公の御代にも、始は仰付けられ候へども、頓て御無用に遊され候、其故は橫目は、結句依怙贔屓あるものなり、入らざる事を聞き、祕藏の者︀なども惡しく思ひ、又は失ふ事もあるなり、蔭聞に聞くこそよけれとて、早々御止めなされ候由、

一、同御物語候は、敵、弓にて懸け候時に、味方、鎗を持ち出合ひ申す時は、何時も敵の右の方へ、ふと突︀懸くるものと仰せられ候、

一、此外、新川郡に佐々內藏助殿御入り候時、神︀通川・枝川に就いて、堺目の爭共、大納言樣と之ある時、太閤樣御批判の物語共御座候へども、書付け申さず候、

淺野長政利家の恩義を思ふ一、內府と大納言樣、未だ御中直り之なき時、淺野彈正殿、大納言樣とも內府とも、御中能く御咄候故。或時、內府へ彈正殿御越し候て、いつもの通り御咄にて、碁を御打ち候時に、內府仰せられ候は、大納言儀、今度の事は由もなき事などゝ、少し後めたき事御申し候へば、彈正殿御申し候は、私前にては、大納言殿噂惡しきは、いやに御座候、其故は、內府も御目懸けられ候へども、大納言と內府は、手を差出し、大指と小指に存じ候、其存は、內府へは、我等、上樣へ出頭の世盛に申上げ候て、關八州を進上致され候、恩を見せ申し候、又大納言殿は私共父子の命の親にて御座候間、其御心得なされ候へと申され候、內府も尤と御申し候由に候、此儀大納言樣御聞き、彌〻御中能く御座候、彈正殿名言と、皆譽め申し候御事に候、

オープンアクセス NDLJP:56家康利家を訪ふ一、始め三月八日に、大納言樣へ、內府御禮返しに、御越しなされ候事に候、然れども利家はや御煩彌〻重り申し候て、中の御居間にて、御對面なされ候、御挨拶人には、どれとも御中能く候、有馬法印計り御同道にて御入り候、御雜煮︀・御吸物にて御振舞に候、其時は御書院にて御座候、內府へ御盃御差なされ候時、御刀を進ぜられ候、御口上は、則ち是が今生の御暇乞に候、我等相果て候はゞ、肥前事賴み申すと仰せられ候、內府の御挨拶には、頓て御氣分能く、殊更大納言殿は御料理の御上手なれば、頓て目出たく、御直の料理下さるべく候と仰せられ候て、其儘御涙を御流し候、又內府よりも、其時脇差進ぜられ候、折節︀御勝手には、大小名御詰め御座候て、御馳走にて御勝手も狹き程の由に御座候、此度の內府の御出に付、宵までは番所々々に人多く仰付けられ候、門・櫓へは弓衆四十人上下御番仕り候て、其手々々に番衆候へども、其朝は利家・利長・孫四郞樣村井豐後・奧村伊豫五人、中の間にて、何やらん御談合候、其中の間入口の戶際には、勘十郞之あり、一切人入れ申さず候、其故、番所々々の人も少く仰付けられ候由、御物語多く候、

利家病革一、大納言樣御不豫次第に重く、御隱れ候前より五十日計り以前、御乘物にて、路次を作り候を、御覽に御出で候へば、御咽より蟲出で申し候、勘十郞御腰物を持ち、傍に居り申し候へば、蟲を御引出し候て、是々と御渡なされ候、白毛細に生へ申し候蟲にて御座候、御持病にて候間、御本腹と申すものも之あり、又は合點の行かぬとて、笑止がり候も之あり候、御病中に大坂大小名屋形々々、そろ騷ぎ申し候、是も御煩故、手前々々の身用心と聞え候、大納言樣御耳に入り、夫々目付を遣され候、御果なされ候四五日前廣、孫四郞樣元結御切なされ、嵯峨の奧へ御走なされ候、是には色々物語共御座候、御遠行なさるべき二日前に、御前樣御經帷子の用意を闕く申し候は、終に經帷子も拵へ申さず候、先づ我等の參らせ申すべき由に候へば、大納言樣仰せられ候は、おれが經帷子は、今はの時に見申すべく候、うるさの經帷子なり、おれはいらず、御身跡からゆるかぶりてお〔りカ〕やれと、御笑なされ候、御姫樣達中にも、一色樣御申し候は、扨もとゝ樣强き御事仰せられ候、經帷子を如何程著︀候とも、臨終の時、胸違ひたらば、入らぬ事と思召す事なりと御座候を、女上﨟衆承り、どつと泣立て申し候、表へも聞え申し候、

一、二三年以前に、大納言樣に金子五十枚・三十枚御借なされ候方々、長岡越中オープンアクセス NDLJP:57守殿・堀久太郞殿・仙臺政宗殿、其外七八人も御入り候、此借狀を皆々肥前樣へ御渡なされ候、最早々々借狀の算用も、おれが罷り候間、無用に候、其方に從ひ、味方になる者︀には、大納言申置く由にて、此狀返し申さるべく候、其方の算用者︀共彌〻出來、味方になさるべく候由に候、名譽の大將と申し候、

一、壬三月三日の朝になり候に、前日の八ツ時まで、御乘物にて山里路次へ御出で候て、御機嫌能く何やかや御雜談なされ候、

利家逝去一、明三日御遠行なされ候、御館︀中物騒ぎ申すも愚に候、御近所に常に之あり候者︀をも、水を上げ申し候へと、御遺言に付、又は御影を拜みたく存ずべく候間、御中の間まで皆々罷越し候、御前樣・肥前樣仰出されにて、信濃・勘十郞兩人參り、信濃は抱立て申し候、勘十郞は貝にて水を上げ申し候、夫を御前樣御覽なされ、存命の時は、朝夕の膳も居ゑ候が、今は納じやを、勘十郞に仰せられ、御泣入なされ候、片山伊賀表に相詰め之あり候が、御馴染の者︀に候へば、一目拜みたき由申上げ候へば、肥前樣御意にて拜し申し候、御前樣も其時奧へ御入り候、御遠行より八日過ぎ候て、伊賀は御成敗なされ候、

一、大納言樣御遠行なされ候て、三日の七ツ時より、そろ浮世も騷ぎ、大坂中子をさかさまに負ひ申し候、夫より四五日過ぎ候て、石田治部を內府の御差圖にて、佐和山へ追ひ遣り候、利家公御逝去候て、十日計り過ぎ、若き國大名衆、家康樣の御意に入りたき體にて、伏見の御城へ內府を入れ申され候に就いて、利家の御威光申し候、內府を向島へ御遣りなされ候儀に就いての事に候、

遺骸金澤に至る一、扨大納言樣御死骸、御遺言の通り、長持に入れ、壬三月四日に、神︀谷信濃・橋本惣右衞門など御供にて、何となく金澤へ御下しなされ候、笹原出羽︀は金澤より御見舞に參り居り申し候故、是も御供仕り候て、罷下り歸り候、村井豐後・奧村伊豫は、肥前樣御萬事御談合の爲め、上方に置かるべき由、御遺言にて、止まり申し候、扨十日程過ぎ候て、岡田長右衞門・村井勘十郞、傍に之あり候者︀に候間、加州へ下るべき由、肥前樣御意にて下り候、其後四五日過ぎ候て、今居左太夫・脇田主水も罷下り候、

一、卯月八日、三十五日寶圓寺にて御葬禮御座候、御刀は、村井勘十郞御傍離れず之あり候者︀、其上豐後も上方に之あり候間、彼是勘十郞然るべしと、出羽︀七右オープンアクセス NDLJP:58衞門・前田對馬にて持ち申し候、

 一、持肩     肥前樣御名代     前田對馬

 一、先は                脇田善左衞門

 一、御位牌               笹原出羽︀

 一、沈の柱御香             竹田宮內

 一、天蓋                神︀谷信濃

 一、御腰物               村井勘十郞

右の通りに、目錄にて上方へ參り申し候、

一、天蓋の儀に付、出羽︀と信濃と申分仕り候 寶圓寺御出で、其外家老衆罷出で、噯に候、されどもことなく濟み申し候、其謂は、信濃申し候は、天蓋重く候間、家賴に持たせ申すべく候と申し候を、出羽︀聞きて、然るべからず候由、申し候に就いての事なり、

一、御遺言にて鬚を剃り申し候は、出羽︀・信濃・勘十郞兩三人なり、髮を切り申し候者︀も、御遺言の通り、主水・左太夫・孫平太なり、其外の儀、肥前樣御差圖に候、

一、御葬禮引導、寶圓寺石雲和尙、

一、御戒名、高德院殿前亞相正一位排雲淸見大居士、慶長四年三月三日辰刻、六十三歲にて御逝去なされ候、

一、此外御遺言の書、別書に之を記す、

 
利家夜話大尾
 

 

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