初等科國語 七/月光の曲

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十六 月光の曲[編集]

 ドイツの有名な音樂家ベートーベンが、まだ若い時のことであつた。月のさえた夜、友人と二人町へ散歩に出て、薄暗い小路を通り、ある小さなみすぼらしい家の前まで來ると、中からピヤノの音が聞える。
「ああ、あれはぼくの作つた曲だ。聞きたまへ。なかなかうまいではないか。」
かれは、突然かういつて足を止めた。
 二人は戸外にたたずんで、しばらく耳を澄ましてゐたが、やがてピヤノの音がはたとやんで、
「にいさん、まあ何といふいい曲なんでせう。私には、もうとてもひけません。ほんたうに一度でもいいから、演奏會へ行つて聞いてみたい。」
と、さも情なささうにいつてゐるのは、若い女の聲である。
「そんなことをいつたつて仕方がない。家賃さへも拂へない今の身の上ではないか。」
と、兄の聲。
「はいつてみよう。さうして一曲ひいてやらう。」
ベートーベンは、急に戸をあけてはいつて行つた。友人も續いてはいつた。
 薄暗いらふそくの火のもとで、色の靑い元氣のなささうな若い男が、靴を縫つてゐる。そのそばにある舊式のピヤノによりかかつてゐるのは、妹であらう。二人は、不意の來客に、さも驚いたらしいやうすである。
「ごめんください。私は音樂家ですが、おもしろさについつり込まれてまゐりました。」
と、ベートーベンがいつた。妹の顔は、さつと赤くなつた。兄は、むつつりとして、ややたうわくのやうすである。
 ベートーベンも、われながら餘りだしぬけだと思つたらしく、口ごもりながら、實はその、今ちよつと門口で聞いたのですが──あなたは、演奏會へ行つてみたいとかいふことでしたね。まあ、一曲ひかせていただきませう。」
そのいひ方がいかにもをかしかつたので、いつた者も聞いた者も、思はずにつこりした。
「ありがたうございます。しかし、まことに粗末なピヤノで、それに樂譜もございませんが。」
と、兄がいふ。ベートーベンは、
「え、樂譜がない。」
といひさしてふと見ると、かはいさうに妹は盲人である。
「いや、これでたくさんです。」
といひながら、ベートーベンはピヤノの前に腰を掛けて、すぐにひき始めた。その最初の一音が、すでにきやうだいの耳にはふしぎに響いた。ベートーベンの兩眼は異樣にかがやいて、その身には、にはかに何者かが乘り移つたやう。一音は一音より妙を加へ神に入つて、何をひいてゐるか、かれ自身にもわからないやうである。きやうだいは、ただうつとりとして感に打たれてゐる。ベートーベンの友人も、まつたくわれを忘れて、一同夢に夢見るここち。
 折からともし火がぱつと明かるくなつたと思ふと、ゆらゆらと動いて消えてしまつた。
 ベートーベンは、ひく手をやめた。友人がそつと立つて窓の戸をあけると、清い月の光が流れるやうに入り込んで、ピヤノのひき手の顔を照らした。しかし、ベートーベンは、ただだまつてうなだれてゐる。しばらくして、兄は恐る恐る近寄つて、 「いつたい、あなたはどういふお方でございますか。」
「まあ、待つてください。」
ベートーベンはかういつて、さつき娘がひいてゐた曲をまたひき始めた。
「ああ、あなたはベートーベン先生ですか。」
きやうだいは思はず叫んだ。
 ひき終ると、ベートーベンは、つと立ちあがつた。三人は、「どうかもう一曲。」としきりに頼んだ。かれは、再びピヤノの前に腰をおろした。月は、ますますさえ渡つて來る。
「それでは、この月の光を題に一曲。」
といつて、かれはしばらく澄みきつた空を眺めてゐたが、やがて指がピヤノにふれたと思ふと、やさしい沈んだ調べは、ちやうど東の空にのぼる月が、しだいにやみの世界を照らすやう、一轉すると、今度はいかにもものすごい、いはば奇怪な物の精が寄り集つて、夜のしばふにをどるやう、最後はまた急流の岩に激し、荒波の岩に碎けるやうな調べに、三人の心は、驚きと感激でいつぱいになつて、ただぼうつとして、ひき終つたのも氣づかないくらゐ。
「さやうなら。」
ベートーベンは立つて出かけた。
「先生、またおいでくださいませうか。」
きやうだいは、口をそろへていつた。
「まゐりませう。」
ベートーベンは、ちよつとふり返つてその娘を見た。
 かれは、急いで家へ歸つた。さうして、その夜はまんじりともせず机に向かつて、かの曲を譜に書きあげた。ベートーベンの「月光の曲」といつて、不朽の名聲を博したのはこの曲である。

概要[編集]

ベートーベンのピアノソナタ第14番「月光ソナタ」第1楽章。嬰ハ短調。2/2拍子、adagio sostenuto、自由な三部形式。「前奏-A(提示)-B(中間)-A(再現)-後奏」の形で構成されている。4/4拍子で書かれている者もあるが、オリジナルは2/2拍子。合計は69小節ある。月光といえば、まず思い出されるのが、有名な第一楽章。

ベートーベン本人が書き記したのは「幻想曲風ソナタ」であり、ソナタ形式に囚われない自由な三部形式をとっている。全体的に、冒頭から奏でられる右手の三連符と左手の重厚なオクターブのフレーズを持っている。冒頭の部分は前奏4小節で、3小節目の後半にはナポリの6で、雪明りのように温かみのある和音に変化している。第5小節目からは提示部で、嬰ハ短調で第1テーマの旋律から始まり、このフレーズの次は平行調のホ長調に転じている。そしてすぐさまホ短調に入る。主題提示の確保は、ハ長調を経由して、すぐさまロ短調に転調し、主題が転調を繰り返されている。次に続く素材は、呼びかけと応答のような第2テーマで、15小節目後半~19小節目前半で、ロ長調(第2音、第6音がフラット)で出される。第20小節目からは、嬰ヘ短調に転調している。まとめていうと、提示部では,数回の転調を経ている。嬰ハ短調→ホ長調→ホ短調→ハ長調→ロ短調→ロ長調(第2音と第6音が下方変位のため、ホ短調っぽく聞こえる。サスペンスっぽいロ長調)→嬰へ短調。 24小節目からは中間部または展開部とみなされ、中間部の始めは嬰ヘ短調で第1テーマの旋律を出し、ここから主調の嬰ハ短調に戻る。28小節目からは、バスの属音が長く続き、途中では右手の減七の和音のアルペジオがあり、緊張が高まる。

42小節目からは、再現部の始まり。提示部と同じように、嬰ハ短調で第1テーマの旋律から始まり、ホ長調に転調し、そしてその次からはそのままのホ長調で第1テーマを出している。つまり、短調だった第1テーマの旋律を長調に変えた(移旋した)ものである。そして、第51小節目後半から第55小節目前半は、再現部の第2テーマで、嬰ハ長調(第2音、第6音がフラットしているため、嬰ヘ短調っぽく聴こえる)で再現される。56小節目で一瞬ホ長調になるが分かりにくく、テーマではないためホ長調とは言えない。60小節目からは、コーダであり、コーダでは第1テーマの旋律が左手のバスに移って静かに楽章を閉じる。アタッカで次の楽章に入るという指定がある。