初等科國史/上

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初等科國史 

文部省


しん ちよく
とよあしはらちいほあきみづほくには、うみのこきみたるべきくになり。よろしくいましすめみまきてしらせ。さきくませ。あまつひつぎさかえまさんこと、まさあめつちきはまりなかるべし。

御歷代表[編集]

  • 第一代 じんむ天皇
  • 第二代 すゐぜい天皇
  • 第三代 あんねい天皇
  • 第四代 いとく天皇
  • 第五代 かうせう天皇
  • 第六代 かうあん天皇
  • 第七代 かうれい天皇
  • 第八代 かうげん天皇
  • 第九代 かいくわ天皇

  • 第十代 すじん天皇
  • 第十一代 すゐにん天皇
  • 第十二代 けいかう天皇
  • 第十三代 せいむ天皇
  • 第十四代 ちゆうあい天皇
  • 第十五代 おうじん天皇
  • 第十六代 にんとく天皇
  • 第十七代 りちゆう天皇
  • 第十八代 はんぜい天皇

  • 第十九代 いんきよう天皇
  • 第二十代 あんかう天皇
  • 第二十一代 ゆうりやく天皇
  • 第二十二代 せいねい天皇
  • 第二十三代 けんぞう天皇
  • 第二十四代 にんけん天皇
  • 第二十五代 ぶれつ天皇
  • 第二十六代 けいたい天皇
  • 第二十七代 あんかん天皇


  • 第二十八代 せんくわ天皇
  • 第二十九代 きんめい天皇
  • 第三十代 びだつ天皇
  • 第三十一代 ようめい天皇
  • 第三十二代 すしゆん天皇
  • 第三十三代 すゐこ天皇
  • 第三十四代 じよめい天皇
  • 第三十五代 くわうぎよく天皇
  • 第三十六代 かうとく天皇
  • 第三十七代 さいめい天皇
  • 第三十八代 てんじ天皇

  • 第三十九代 こうぶん天皇
  • 第四十代 てんむ天皇
  • 第四十一代 ぢとう天皇
  • 第四十二代 もんむ天皇
  • 第四十三代 げんめい天皇
  • 第四十四代 げんしやう天皇
  • 第四十五代 しやうむ天皇
  • 第四十六代 かうけん天皇
  • 第四十七代 じゆんにん天皇
  • 第四十八代 しようとく天皇
  • 第四十九代 くわうにん天皇

  • 第五十代 くわんむ天皇
  • 第五十一代 へいぜい天皇
  • 第五十二代 さが天皇
  • 第五十三代 じゆんな天皇
  • 第五十四代 にんみやう天皇
  • 第五十五代 もんとく天皇
  • 第五十六代 せいわ天皇
  • 第五十七代 やうぜい天皇
  • 第五十八代 くわうかう天皇
  • 第五十九代 うだ天皇
  • 第六十代 だいご天皇


  • 第六十一代 すざく天皇
  • 第六十二代 むらかみ天皇
  • 第六十三代 れいぜい天皇
  • 第六十四代 ゑんゆう天皇
  • 第六十五代 くわざん天皇
  • 第六十六代 いちでう天皇
  • 第六十七代 さんでう天皇
  • 第六十八代 ごいちでう天皇
  • 第六十九代 ごすざく天皇
  • 第七十代 ごれいぜい天皇
  • 第七十一代 ごさんでう天皇

  • 第七十二代 しらかは天皇
  • 第七十三代 ほりかは天皇
  • 第七十四代 とば天皇
  • 第七十五代 すとく天皇
  • 第七十六代 このゑ天皇
  • 第七十七代 ごしらかは天皇
  • 第七十八代 にでう天皇
  • 第七十九代 ろくでう天皇
  • 第八十代 たかくら天皇
  • 第八十一代 あんとく天皇
  • 第八十二代 ごとば天皇

  • 第八十三代 ちちみかど天皇
  • 第八十四代 じゆんとく天皇
  • 第八十五代 ちゆうきよう天皇
  • 第八十六代 ごほりかは天皇
  • 第八十七代 しでう天皇
  • 第八十八代 ごさが天皇
  • 第八十九代 ごふかくさ天皇
  • 第九十代 かめやま天皇
  • 第九十一代 ごうだ天皇
  • 第九十二代 ふしみ天皇
  • 第九十三代 ごふしみ天皇


  • 第九十四代 ごにでう天皇
  • 第九十五代 はなぞの天皇
  • 第九十六代 ごだいご天皇
  • 第九十七代 ごむらかみ天皇
  • 第九十八代 ちやうけい天皇
  • 第九十九代 ごかめやま天皇
  • 第百代 ごこまつ天皇
  • 第百一代 しようくわう天皇
  • 第百二代 ごはなぞの天皇
  • 第百三代 ごつちみかど天皇
  • 第百四代 ごかしはばら天皇

  • 第百五代 ごなら天皇
  • 第百六代 おほぎまち天皇
  • 第百七代 ごやうぜい天皇
  • 第百八代 ごみづのを天皇
  • 第百九代 めいしやう天皇
  • 第百十代 ごくわうみやう天皇
  • 第百十一代 ごさい天皇
  • 第百十二代 れいげん天皇
  • 第百十三代 ひがしやま天皇
  • 第百十四代 なかみかど天皇
  • 第百十五代 さくらまち天皇

  • 第百十六代 ももぞの天皇
  • 第百十七代 ごさくらまち天皇
  • 第百十八代 ごももぞの天皇
  • 第百十九代 くわうかく天皇
  • 第百二十代 にんかう天皇
  • 第百二十一代 かうめい天皇
  • 第百二十二代 めいじ天皇
  • 第百二十三代 たいしやう天皇
  • 第百二十四代 きんじやう天皇

目錄[編集]

第一 神國

  1. 高千穗の峯……一
  2. 橿原の宮居……七
  3. 五十鈴川……十四

第二 大和の國原

  1. かまどの煙……二十三
  2. 法隆寺……二十九
  3. 大化のまつりごと……三十六

第三 奈良の都

  1. 都大路と國分寺……四十四
  2. 遣唐使と防人……五十二

第四 京都と地方

  1. 平安京……六十一
  1. 太宰府……六十九
  2. 鳳凰堂……七十六

第五 鎌倉武士

  1. 源氏と平家……八十四
  2. 富士の卷狩……九十二
  3. 神風……百二

第六 吉野山

  1. 建武のまつりごと……百十四
  2. 大義の光……百二十五

第七 八重の潮路

  1. 金閣と銀閣……百三十九
  2. 八幡船と南蠻船……百四十六
  3. 國民のめざめ……百五十六

年表

第一 しん  こく[編集]

一 たかちほみね[編集]

おほうちやまの松のみどりは、おほみよみさかえをことほぎ、いすず川の淸らかな流れは、日本の古い姿をそのままに傳へてゐます。

遠い遠いかみよの昔、いざなぎのみこといざなみのみことは、山川の眺めも美しい八つの島をお生みになりました。これをおほやしまといひます。島々は、黑潮たぎるおほうなはらに、うきしろのやうに並んでゐました。つづいて多くの神々をお生みになりました。最後に、あまてらすおほみかみが、あめのしたの君としてお生まれになり、日本の國のもとゐをおさだめになりました。
五十鈴川の流れ
五十鈴川の流れ

大神は、天皇陛下の先祖に當らせられる、かぎりもなく尊い神であらせられます。おんとくきはめて高く、ひのかみとも申しあげるやうに、惠みは大八洲にあふれ、海原を越えて、遠く世界のはてまで滿ちわたるのであります。

大神は、たかまがはらにいらつしやいました。稻・麥等五こくを植ゑ、かひこを飼ひ、糸をつむぎ、布をることなどをお教へになりました。春ははたを織るをさの音ものどかに、秋はみづほの波がこがねのやうにゆらいで、樂しいおだやかな日が續きました。私たちは「あめの岩屋」や「やまたのをろち」のお話にも、大神の尊い御德と深い御惠みを仰ぐことができます。おんすさのをのみことを始めたてまつり、多くの神々が、どんなに深く大神をおしたひ申しあげてゐられたかを知ることができます。

大神は、大八洲を安らかな國になさらうとして、子孫をこの國土におくだしになることを、お考へになつてゐました。當時大八洲には、多くの神々があり、中でも、素戔鳴尊の御子、おほくにぬしのかみは、勇氣もあり、なさけも深く、いづも地方をなつけて、勢が最もさかんでありました。そこで大神は、おん使ひをおつかはしになつて、くんしんの分をおしめしになり、國土のほうくわんをおさとしになりました。大國主神は、つつしんでその仰せに從はれました。大神は、その眞心をおほめになつて、大國主神のために、りつぱな御殿をおつくらせになりました。これが出雲大社のきげんであります。
皇孫のお降り
皇孫のお降り

いよいよ、皇孫のお降りになる日がまゐりました。大神は、御孫ににぎのみことをおそば近くにお召しになつて、

とよあしはらちいほあきみづほくには、うみのこきみたるべきくになり。よろしくいましすめみまきてしらせ。さきくませ。あまつひつぎさかえまさんこと、まさあめつちきはまりなかるべし。

と、おごそかに仰せられました。ばんせいいつけいの天皇をいただき、あめつちとともにきはみなく榮えるわが國がらは、これによつて、いよいよ明らかとなりました。大神はまた、やたのかがみやさかにのまがたまあめのむらくものつるぎをそへて、尊にお授けになつて、

れのかがみは、もはみたまとして、みまへいつくがごと、いつきまつれ。

と仰せられました。御代御代の天皇は、このさんしゆじんぎを、皇位のしるしとせられ、特に鏡は大神として、おまつりになるのであります。

瓊瓊杵尊は、おんかどでの姿もけだかく、大神においとまごひをなさつて、しんちよくと神器を奉じ、文武の神々を從へ、天上の雲をかき分けながら、ををしくおごそかに、ひうがの高千穗の峯にお降りになりました。この日をお待ち申しあげたたみくさのよろこびは、どんなであつたでせう。空には五しきの雲がたなびき、高千穗の峯は、ひときはかうがうしく仰がれました。

その後、〈第一代〉じんむ天皇のおん時まで、代々日向の國においでになり、大神の心をついで、まつりごとにおいそしみになりました。かうして、豐葦原の瑞穗の國は、御惠みの光ゆたかに、日向の國から開けて行くのであります。瓊瓊杵尊・ひこほほでみのみことうがやふきあへずのみことおんさんかたを、世に日向三代と申しあげます。さうして、えのみささぎたかやのやまのへのみささぎあひらのやまのへのみささぎに、遠く御三代の昔を、おしのび申しあげるのであります。

二 かしはらみやゐ[編集]

宮崎神宮
宮崎神宮
日向御三代ののちは、神武天皇の御代であります。雲間にそびえる高千穗の峯から、御惠みの風が吹きおろして、つくしの民草は、よくなつきました。ただ、遠くはなれた東の方には、まだまだ、御惠みを知らないわるものがゐて、勢を張り、人々を苦しめてゐました。天皇は「東の方には、あをやまをめぐらした、國を治めるのによい土地があるといふ。都をうつしてわるものをしづめ、大神の御心を國中にひろめよう。」と仰せられ、くわうけいいつせのみことたちといろいろ相談の上、陸海の精兵を引きつれて、勇ましく日向をおたちになりました。
神武天皇の御東幸

神武天皇の御東幸

日向なだからせとないかいへ、みいくさぶねは波をけたてて進みました。行く行く船をおとどめになつて、各地のわるものをお平げになり、また苦しむ民草をお惠みになりました。みいつをしたつて御軍に加るものも、少くありませんでした。島山の多い内海のこととて、春のあした、秋のゆうべの美しい眺めが、御軍びとのつかれをなぐさめたこともありませう。かうして、長い年をお重ねになりながら、天皇は、やうやくなにはへお着きになりました。

いこまやまをひとつ越えると、めざすやまとの國であります。御軍は、勇氣をふるつて東へ進みました。ここに、ながすねひこといふわるものが、にぎはやひのみことを押し立て、多くの手下を引きつれ、地のにたよつて、御軍に手むかひました。くさゑざかの戰では、おそれ多くも、五瀨命が敵の流矢のために、ふかでをお負ひになりました。それほどのげきせんだつたのです。このけいせいをごらんになつて、天皇は「日の神の子孫が、日へ向かつて戰を進めるのはよくない。」と仰せになり、海路きい半島をくまのへと、おまはりになりました。しかも途中の御難儀は、かくべつでありました。五瀨命は、かまやまでおかくれになり、悲しみに包まれた御船は、さらに、熊野灘の荒波をしのいで進まなければなりませんでした。紀伊へ上陸になつても、さらに大和へ入る道すぢは、山がけはしく谷が深く、まつたく道なき道を切り開いての進軍でありました。しかし、御軍には、つねに神のおまもりがありました。熊野では、たかくらじしんけんをたてまつり、山深い道では、羽ばたきの音高く、やたがらすが現れて、御軍をみちびき申しあげました。かうして、大和へお進みになつた天皇は、みちみち、わるもののはかりごとをおくじきになり、從ふものはゆるし、手むかふものをお平げになつて、最後に、長髓彦の軍勢と決戰なさることになりました。

鵄邑の顯彰碑

鵄邑の顯彰碑

御軍人たちは、一せいにふるひたちましたが、賊軍も必死になつて防ぎます。またまた、はげしい戰になりました。折から、空はまつ暗になり、らいめいがとどろいて、ものすごいひようさへ降つて來ました。すると、どこからとなく、金色のとびが現れて、おごそかにお立ちになつていらつしやる天皇の、御弓の先に止りました。金色の光は、いなづまよりもするどくきらめいて、賊兵の目を射ました。御軍は、ここぞとばかり攻めたてました。賊はさんざんにやぶれました。かねて、天皇に從ひたてまつることをすすめてゐた饒速日命は、つひに長髓彦をつてかうさんしました。 大和地方はすつかりをさまつて、かぐうねびみみなしの三山が、かすみの中に、ぽつかりと浮かんで見えます。民草は、よみがへつたやうに、田や畠でせつせと働いてゐます。やがて天皇は、畝傍山のふもと、橿原に都をおさだめになり、この都を中心にして大神の御心をひろめようとおぼし召し、かしこくも「あめのしたおほいていへむ」と仰せになりました。さうして、この橿原の宮居で、そくゐの禮をおごそかにおあげになつて、第一代の天皇の位におつきになりました。この年が、わが國のきげんぐわんねんであります。
卽位の禮
卽位の禮
鳥見のおまつり
鳥見のおまつり
天皇は、功あるしやう士をおほめになつて、それぞれ、神をおまつりしたり宮居をおもまりする重い役目に、お取り立てになりました。やがてとみの山中に、天照大神始め神々を、おごそかにおまつりになり、したしく大和へいていおん事をおつげになりました。日本の國の基は、神武天皇のかうしたごくしんと御惠みとによつて、いよいよ固くなつて行きました。
橿原神宮
橿原神宮

今、畝傍山の陵を拜し、橿原神宮にお參りして、天皇のおほみわざをはるかにおしのび申しますと、松風の音さへ、二千六百年の昔をものがたるやうで、日本に生まれたよろこびを、ひしひしと感じるのであります。

三 いすずがは[編集]

その後も、御代御代の天皇は、民草を子のやうにおいつくしみになりました。國民もまた、親のやうにおしたひ申しました。かうした、なごやかさが續いてゐる間に、日本の力は、若竹のやうにずんずんのび、御稜威は、やがて海の外までおよぶやうになりました。

神々のお生みになつた大八洲、海原をめぐらす敷島の國のこととて、海・山の眺めはひときは美しく、山のさち、海の幸がゆたかで、野には、大神のたまものである稻の穗がそよいでゐます。かうしたうらやすの國に、國民は多くのうぢに分れ、それぞれ一族のかしらにひきゐられて、皇室に仕へてゐたのであります。それぞれ、氏の先祖の神をまつり、先祖から傳はる仕事にはげんでゐました。皇室のおまつりをつかさどり、宮居をおまもりして武をみがき、田畠をたがやしてこくもつを作ることなどが、いちばん大切な仕事でありました。

かうして、五百年ばかりの年月がたつて、〈第十代〉すじん天皇が御位におつきになりました。天皇は「神鏡を身近く奉安してゐるのは、まことにおそれ多いことである。」とお考へになり、御鏡に御劒をそへて、これを大和のかさぬひのむらにおまつりになりました。〈第十一代〉すゐにん天皇もまた、そのみこころざしをおうけになり、いせの五十鈴川のほとりに、あらたな社殿をお造りになつて、そこにおまつりになりました。これをくわうだいじんぐうと申しあげます。國民も、今はまのあたりに神宮を拜して、ますます敬神の心を深め、國の尊さを、はつきりと心に刻むやうになりました。

四道將軍
四道將軍
世の中はいよいよ開け、人口は多くなり、產業もまた進んで來ました。そこで崇神天皇は、御惠みを國のすみずみまでおよぼさうとの思し召しから、四人の皇族をほくりくとうかいさんいんさんやうの四道へおつかはしになりました。これをしだうしやうぐんといひます。また人口を調べ、みつぎ物を定めて、せいぢをお整へになり、池をほらせて農業をお進めになり、さらに、しよこくに命じて船を造らせ、海國日本のそなへを固くなさいました。このころ、てうせんおほからみまな)といふ國が、となりのしらぎにおびやかされて、わが國に助けを求めましたので、天皇はしほのりつひこに軍勢を授けて、おつかはしになつたこともあります。垂仁天皇は、もつぱら御父の御業をおつぎになつて、農業をお進めになり、ひたすら民草をおいつくしみになりました。あのたぢまもりものがたりによつても、高德のほどをおしのび申すことができるのであります。かうしておん二代の間に、國の力は一だんと強まり、御稜威は遠く海外に、かがやくやうになりました。

しかし、かうつうの不便なこのころのことですから、遠い九州や東北の地方には、皇室の御惠みを、まだ十分にわきまへないものがありました。〈第十二代〉けいかう天皇から〈第十四代〉ちゆうあい天皇の御代にかけて、西のくまそ、東のえぞが、しばしば、わがままなふるまひをくりかへしました。おそれ多くも、景行天皇は、おんみづから熊襲を討つておしづめになり、またたけのうちのすくねに命じて、蝦夷のやうすをお調べさせになりました。それでもなほ治らないので、わうじやまとたけるのみことに、重ねてお討たせになりました。尊の勇武によつて、熊襲もしばらく鳴りをひそめ、蝦夷もまたしづまりました。東國へお出かけになる時、尊は、特に皇大神宮の御劒をお受けになり、神々のおまもりによつて、武運をお開きになつたのでありました。かうして、今や御稜威は東西にかがやき、やがて〈第十三代〉せいむ天皇の御代になると、國やこほりまうけられ、役人が置かれて、地方の政治が大いに整つてきました。

ついで、仲哀天皇がお立ちになつてまもなく、またまた熊襲がそむきました。天皇は、じんぐう皇后とともに、將兵をひきゐて、筑紫へおくだりになりましたが、熊襲がまだしづまらないうちに、おそれ多くも、あんぐうでおかくれになりました。皇后は、おん悲しみのうちにも、新羅が熊襲のあと押しをしてゐることを、お見やぶりになり、武内宿禰の考へをもおくみになつて、いよいよ、新羅をお討ちになることになりました。紀元八百六十年のことであります。
半島の形勢
半島の形勢

國々からは、勇ましい將兵や多くの軍船が、お召しに應じて、次次にまつらの港へ集つて來ます。まことに、くはしほこちたるの國の力づよさを思はせる光景であります。皇后は、うやうやしく、神々に戰勝をお祈りになり、將兵は、決死の覺悟をちかひました。折からの追風を帆にはらんで、軍船は矢のやうに、海面をすべつて行きました。

皇后の御出發
皇后の御出發
おどろきあわてたのは、新羅王です。「音にきく日本の船、神國のつはものにちがひない。」と思つて、王はすぐさま皇后をお出迎へ申しあげ、ふたごころのないしるしに、每年かならずみつぎ物をたてまつることを、堅くちかひました。勢こんだ將兵の中には、王を斬らうとするものもありましたが、皇后は、それをとめてかうふくをお許しになり、王が眞心こめてたてまつつた金・銀・あや・錦を、八十さうの船に積んで、勇ましくめでたくお歸りになりました。
畿内の要地
畿内の要地

こののち、熊襲がしづまつたのはいふまでもなく、くだらかうくりまでも、わが國につき從ひました。日本のすぐれた國がらをしたつて、その後、半島から渡つて來る人々が、しだいに多くなりました。このやうに、國内がしづまり、皇威が半島にまで及んだのは、ひとへに、神々のおまもりと皇室の御惠みによるものであります。


第二 やまとくにはら[編集]

一 かまどのけむり[編集]

天皇の惠みのもとに、國民はみな、樂しくくらしてゐました。半島から來た人々も、自分の家に歸つたやうな氣がしたのでせう、そのままとどまつて、朝廷から名前や仕事や土地などをたまはり、よい日本の國民になつて行きました。中には、朝廷に重くもちひられて、その子、その孫と、ながくお仕へしたものもあります。がくしやはたおりかぢにたくみなものが多く、それぞれ仕事にはげんで、國のためにつくしました。

〈第十五代〉おうじん天皇は、これらの人々を用ひて、學問や産業をお進めになりました。天皇が特に心をお注ぎになつたのは農業で、池やみぞをおつくらせになり、すゐでんをふやして、米が多く取れるやうになさいました。また、使ひを支那へやつて、さいほうや機織にすぐれた職人を、お召しになつたこともあります。かうして、だんだんかうつうが開けると、てうせん半島は、わが國から大陸へ渡る橋の役目をすることになりました。ついで〈第十六代〉にんとく天皇は、都をなにはにおうつしになりましたが、それも、半島との交通のべんをお考へになつてのことであります。

三年ののち
三年ののち

仁德天皇は、深くたみくさをおいつくしみになりました。不作の年が續いたころのことです。ある日、たかどのにのぼつて、遠くむらざとのやうすをごらんになりますと、民家から煙一すぢ立ちのぼらないありさまです。天皇は、民草の苦しみのほどを深くおさつしになつて、三年の間、税ををさめなくてもよいことになさいました。ために、おそれ多くも、おん生活はきはめて御不自由となり、宮居の垣はこはれ、御殿もかたむいて、戸のすきまから雨風が吹きこむほどになつて行きましたが、天皇は、少しもおいとひになりませんでした。かうして三年ののち、ふたたび高殿からごらんになると、今度は、かまどの煙が、朝もや夕もやのやうに、一面にたちこめてゐます。天皇は、たいそうお喜びになつて「ちんすでにめり」と仰せになりました。御惠みにうるほふ民草は、今こそと宮居のごしうりを願ひ出ましたが、天皇は、まだお聞きとどけになりません。さらに三年たつて、始めてお許しが出ましたので、喜び勇んだ民草は、老人も子どもも、日に夜をついで、宮居の御造營にはげみました。

天皇は、その後、池・溝・つつみなどを造つて、農業をお進めになつたり、橋をかけ道を開いて、交通の發達をおはかりになつたりしました。かうして、御父天皇以來御二代の間に、多くの荒地は、みづほのそよぎわたる水田とかはり、米のさんがくが、いちじるしくふえました。今、さかひにあるごりようにお參りして、ひさご形の山を仰ぐにつけても、天皇のせいとくのほどを、しみじみとおしのびすることができます。

御養蠶
御養蠶

その後、五十年餘りたつて、〈第二十一代〉ゆうりやく天皇がお立ちになりました。天皇は、御心を深くやうさんげふの發達にお用ひになり、皇后もまた、おんみづからかひこをお飼ひになつて、人々に手本をおしめしになりました。養蠶業につくした人々の子孫は、この時重く用ひられ、また、あらたに招かれて支那から來た機織の職人も、少くありませんでした。

このやうに、御代御代の天皇が、産業の發達をおはかりになりましたので、米やきぬの産額は、いちじるしくふえて來ました。さうして、雄略天皇の御代には、國内や半島からたてまつるみつぎ物が、朝廷のみくらに滿ちあふれるほどになりました。そこで天皇は、藏を大きくお建てになり、たけのうちのすくねの子孫にあたるそが氏に、藏をつかさどる重い役目をお命じになりました。

天皇は、かうして國がゆたかになるのも、ひとへに神々のおかげであるとお考へになり、神代の昔、大神をたすけてまつつて、農業や養蠶のことにおつくしになつたとようけのおおかみを、皇大神宮の近くにおまつりになりました。これがげくうの始りであります。

もうこのころは、神武天皇の御代から、千年以上もたつてゐます。「青山にこもる大和」も、名實ともに國の中心となり、「やまと」といへば、海をめぐらす日本全體をさすほどになつてゐました。また、海をへだてた大陸に對し、おごそかにかまへる「もとの國」ともなつてゐたのであります。

大和の國原
大和の國原

二 ほふりゆうじ[編集]

このやうに、國の勢がのびて來ると、國民の心に、ゆるみを生じるおそれがあります。朝廷に仕へるものは、家がらによつて、代々役目がきまつてゐるので、しぜんつとめを怠りがちになり、中には、皇室の御惠みになれたてまつつて、わがままをふるまふものさへあります。特に、蘇我氏を始め重い役目の人たちで、勝手に多くの土地や人民を使つて、せいりよくあらそひするものが出て來ました。朝鮮へ出向いてゐる人たちのせいせきも、あまりよくありません。それに、このころしらぎの勢は、目だつて強くなり前からの約束を破つて、しばしば半島の平和をみだします。かうして〈第二十九代〉きんめい天皇の御代、紀元千二百年ころから百年ばかりの間、わが國は、内も外も、まつたくゆだんのできない有樣となりました。

太子の御幼時
太子の御幼時

〈第三十三代〉すゐこ天皇は、かうしたなりゆきを深く心配になり、しやうとくたいしせつしやうとして、ゆるんだせいぢの立て直しに、力をおつくさせになりました。太子は、人なみすぐれてりつぱなお方で、二十一歳のおん時、攝政におなりになりました。まづ、政治をひきしめる手始めに、すぐれた人を重く用ひる方法をお立てになりました。役目を家がらだけで固める習はしは、政治のみだれるもとになると、お考へになつたからです。ついで、十七條のけんぽふを作つて、しんみんこころえをこまごまとお示しになりました。その中に「みことのりけてはかならつつしめ。」「國民はみな天皇の臣民である。政治をつかさどるものは、勝手なふるまひをして、民草を苦しめてはならない。」ときびしくおさとしになつてゐます。また「和」の大切なことをおときになつてゐるのも、朝廷に仕へる人々の爭ひを、なくしようとのおぼし召しに、よるものであります。やがて太子は、百官を引きつれ、天皇に從つて、神々をあつくおまつりになりました。それは、神をまつることが、政治のもとゐであるからであるとともに、このころ、國民の中には、外國から來たぶつけうをよろこぶあまり、神をまつることをおろそかにするものが、あつたからであらうと思はれます。

法隆寺
法隆寺

佛教が我が國に傳はつたのは、欽明天皇の御代のことであります。ぶつざうをまつつてよいかどうかについて、蘇我氏ともののべ氏とがはげしく爭つたこともあります。そこで太子は、佛教を十分お調べになり、これを日本の國がらに合ふやうにして、おひろめになりました。推古天皇の思し召しによつて、法隆寺をお建てになつたのも、御父〈第三十一代〉ようめい天皇に對する孝心からであります。このやうに、太子は佛教の長所をお取りになり、お示しになつたので、これにならつて、信じるものが多くなり、人々の心もおちつき、學問や美術・こうげいも、いちじるしく進むやうになりました。

太子はまた、新羅をしづめることをお考へになるとともに、かねがね、大陸に目をお注ぎになつてゐましたので、始めて、支那との國交をお開きになりました。このころ、支那では、ずゐといふ國がおこつて、たいそう勢が強く、まはりの國々を見くだして、いばつてゐました。しかし太子は、使節をののいもこにお持たせになつた國書に、堂々と、次のやうにお書きになりました。

づるところの天子、書を日ぼつする處の天子にいたす、つつがなきや。

隋の國王は、眞赤になつて怒つたさうですが、しかし、わが國のこの意氣に押されたのか、それとも、わが國のやうすを探らうとしたのか、たふれいの使節をよこしました。太子がこれを堂々とお迎へになつたことは、申すまでもありません。あすかの都から難波の港へ通じる大道をお造りになつたのも、隋の使節をあつといはせるためでありました。このころ、とうあの國々で、これほど威光を示した國は、日本だけであります。太子は、その後も、使節につけて學生や僧をおつかはしになり、支那のいろいろのことについて、けんきうさせるやうになさいました。

夢殿
夢殿
かうして、わが國の政治も、よほど改つて來ましたので、太子は、最後に、國史の本をお作りになりました。國がらを後世に傳へ、外國にも知らせようと、お考へになつたからでありませう。まもなく太子は、まだ四十九歳といふおん年で、おなくなりになりました。國民はみな、親を失つたやうに、なげき悲しみました。

今、ならの西南いかるがの里に、法隆寺のだうたふが、なだらかな山々を背にして、太子の遺業をものかたるかのやうに立つてゐます。力のこもつたちゆうもんの丸柱、どつしりとかまへたこんだう、大空にそびえるごぢゆうのたふ、それらが、まことにへんくわに富むとともに、調和の美しさを示してゐます。さらに、道を東へとつてゆめどのの前に立つと、繪にもかきたい八角の堂の中に、今でも太子が、しづかにくふうをこらしてゐられるやうな氣がします。

法隆寺の堂塔は、木造の建物として世界で最も古く、最も美しいものの一つです。これを今に傳へてゐることには、世界の國々もおどろいてゐます。まことに、法隆寺は日本のほこりであります。

三 たいくわのまつりごと[編集]

聖德太子がおなくなりになると、人々の氣持がまたゆるみ、一度よくなつた政治も、あともどりをすることになりました。それは、蘇我氏が、前にも增して、わがままをふるまつたからです。その上、大陸では、隋がほろびてたうが興り、その勢は隋よりさかんで、わが國は少しのゆだんもできません。ながらく支那に行つてゐたたかむこのくろまろみなぶちのじやうあんなどが、〈第三十四代〉じよめい天皇の御代に歸つて來たので、向かふのやうすが、手に取るやうにわかるのです。それなのに、蘇我氏は、えみしいるかと代を重ね、〈第三十五代〉くわうぎよく天皇の御代になつて、そのわがままは、つのる一方です。蝦夷は、生前に自分たち親子のはかを作つて、これをみささぎと呼び、入鹿は、そのやしきみやといひ、子たちをみこしやうしました。聖德太子のせつかくのごくしんも、これでは、水のあわとなつてしまふのではないかとさへ思はれました。

日本は、神のおまもりになる國であります。蘇我氏の無道なふるまひを見て、ふるひたたれたのが、舒明天皇の御子、なかのおほえのわうじで、それをおたすけ申した人々のうち、最も名高いのがなかとみのかまたりであります。皇子は、まづ蘇我氏を除くため、鎌足始めどうしの人々と、いろいろ工夫をおこらしになりました。蘇我氏も、ない々それと知つたか、邸に引きこもつて、めつたにすきを見せません。ちやうどそのころ、朝鮮からみつぎ物をたてまつる式がおこなはれ、入鹿も、それに參列することになりました。この機會に乘じて、皇子は鎌足らと、しゆびよく入鹿をお除きになりました。これを聞いた蝦夷は、急いで兵を集めましたが、皇子が使ひをやつて、ねんごろに不心得をおさとしになりましたので、不忠と知つた兵は、ちりぢりに逃げ去り、蝦夷は、邸に火を放つてじさつしました。夏草のやうにはびこつた無道の蘇我氏は、かうして、つひにほろびました。大和の國原にたちこめた黑雲も、すつかり晴れて、飛鳥の都には、さわやかにてんじつがかがやきました。

蘇我氏を除くことは、聖德太子のお考へになつたやうに、政治を根本から立て直して、日本をりつぱな國にするためのじゆんびでありました。やがて〈第三十六代〉かうとく天皇がお立ちになつて、中大兄皇子を皇太子とし、鎌足始め功のあつた人々を重くお用ひになつて、わるい習はしをいつさい取り除き、新しい政治をお始めになりました。時に紀元一千三百五年で、聖德太子がおなくなりになつてから、二十數年のちのことであります。

まづ、多くの役人をひきゐて、神々をおまつりになり、始めて大化といふねんがうをお建てになりました。都は、やがて難波にうつりました。さらに、よく大化二年の正月、拜賀の式が終つたのち、詔をおくだしになつて、新政のはうしんを明らかにお示しになりました。國民はみな天皇のみたみであること、土地は全部ほうくわんして、國民はこれを使はせていただくのであること、新しいりつぱな人々が政治をおたすけ申しあげることなどを、はつきりとお定めになりました。この新しい政治を、世に大化のかいしんと申します。

大化のまつりごと
大化のまつりごと

皇室の御惠みは、國のすみずみまで行きわたり、國民はみな、安らかに仕事にはげむことができるやうになりました。このころ、分けていただいた土地のあとかたが、今でも地方に殘つてゐます。私たちは、千三百年の昔をまのあたりにしのんで、深い感動に打たれるのであります。

比羅夫の遠征
比羅夫の遠征

孝德天皇がおかくれになつて、〈第三十七代〉さいめい天皇の御代になりました。中大兄皇子は、引きつづき皇太子として、まつりごとをおたすけになりました。このころ、改新の政治も、よほど整つて、皇威は、海外へおよぶやうになりました。まづ、えぞはんらんをしづめるため、あべのひらふをやつてお討たせになりました。比羅夫は、水軍をひきゐて蝦夷をしづめ、さらにえんかいしうを攻めて、蝦夷のあと押しをするみしはせをこらしめました。

やがて、中大兄皇子が御位をおつぎになり、〈第三十八代〉てんぢ天皇と申しあげます。このころ半島では、新羅の勢がますます強く、大陸では、唐の最も盛んな時代でありました。しかも、この兩國が力を合はせて、くだらかうくりを攻めるので、わが國は、わざわざ兵を送つて、百濟をたすけたのでありますが、やがて、百濟も高句麗も、相ついでほろびてしまひました。わが國にのがれて來た、たくさんの百濟人は、みな、てあついほごを受けました。

かくて新羅や唐は、いつわが國へ攻め寄せるかわからないけいせいとなりました。天皇は、御心を深く國防のことにお注ぎになり、ながとつくしに守備兵を置き、みづきをお造らせになりました。また、國民の氣分を新たにするため、都をあふみしがの里におうつしになり、法令やこせきを整へて政治をひきしめ、産業を盛んにしてぶつしをゆたかにするなど、もつぱら國力を增すことに、おつとめになりました。かうした御苦心のうちに、やがて四十六歳で、おかくれになりました。

天皇をおまつり申しあげる近江神宮は、今、びはこのほとり、志賀の都のあと近く、おごそかに立つてゐます。ここにお參りして、遠く大化のいにしへをしのぶと、三十年の御苦心と御惠みの數々が胸によみがへつて、ありがたいかんげきに滿ちるのであります。


第三 ならみやこ[編集]

一 みやこおほぢこくぶんじ[編集]

やがて〈第四十代〉てんむ天皇が、あすかの宮居で御位におつきになるころは、國のそなへも、すでに十分でありました。それに、たうの勢がくだり坂となり、しらぎと唐が、まもなくあらそひを始めたので、わが國にとつては、ますますいうりとなりました。そこで天皇は、國内のせいぢをいつそうよくするため、いろいろなごけいくわくをお立てになりました。中でも、法令を整へること、りつぱな都を建てること、國史の本を作ることの三つが、そのおもなものでありました。さうして、これらの事業は、そののち、御代御代にうけつがれ、次々に完成されて行くのであります。まづ〈第四十二代〉もんむ天皇の御代には、たいはうりつりやうが定まつて、法令が整ひました。

大きな都をつくるには、用意もなかなかたいへんですから、すぐといふわけには行きません。〈第四十一代〉ぢとう天皇がかぐ山の西にお造りになつたふぢはらのみやは、ずゐぶんりつぱな都ではありましたが、やがて〈第四十三代〉げんめい天皇の御代に、すばらしい都が、やまとの北部、今の奈良の近くに、できあがりました。とうざい四十町、なんぼく四十五町といふ大きな構へで、これをへいじやうきやうといひ、また奈良の都ともいふのであります。

天皇が、この都におうつりになつたのは、紀元一千三百七十年、わどう三年のことであります。これまで、都といへば、大和平野の南部を中心に、ほとんど御代ごとにうつされ、新しく造られたのでありますが、奈良の都は、七代・七十餘年の間、咲く花のにほふやうにさかえました。北の正面には、だいだいりがあり、南へ走るすざくおほぢは、都を左右に分けて、そのはてに、らじやうもんを開いてゐます。東西九條・南北八ばうの都大路は、ちやうどごばんの目のやうに、きちんと町をくぎり、宮殿や寺々の青い瓦、白い壁、赤い柱が、日の光、山のみどりに照りはえて、まるで繪のやうな美しさです。かうした都大路を、銀をちりばめた太刀をさげて、ねりあるく若者もあれば、梅の小枝をかざして行くおほみやびとも見受けられます。この美しい都をしたつて、人々は四方から集り、いつもいちが立つありさまでした。
平城京

平城京

奈良の都が榮えたのは、國に力が滿ち滿ちたしるしであり、國民は、喜びの中に、國がらの尊さをしみじみと感じました。さうして、元明天皇・〈第四十四代〉げんしやう天皇御二代の間には、おほのやすまろらのくしんによつて、いよいよこじきにほんしよきといふ國史の本が、りつぱにできあがりました。また、元明天皇の勅によつて、國々からは、それぞれ地方の地理をしるしたふどきといふ書をたてまつりました。

奈良の都が最も榮えたのは、〈第四十五代〉しやうむ天皇の御代であります。奈良といへば、まづ思ひ出されるとうだいじだいぶつも、天皇のお造らせになつたものであります。佛教を國のすみずみまでひろめて、國民をますますかうふくにしたいとのおぼし召しから、國ごとに國分寺をお建てさせになつたのでありますが、東大寺は、大和の國分寺として、また日本の總國分寺として、從つて大佛は、特にそのほんぞんとして、いかめしくお造らせになつたのであります。國民は、先を爭つて金や銅や木材などをたてまつり、すぐれた職人が全國から集つて、くふうをこらし、工事にはげみました。しかも、大佛の高さは五丈三尺を越え、大佛でんの高さは、十五丈餘りといふ、すばらしいものですから、なかなかの大工事であり、難事業であります。佛像にもちひる金がりなくて困つてゐる時、むつから金が出て、上下喜びに滿ちたことさへあります。すつかりできあがるまでには、十年といふ長い年月がかかりました。大佛は世界第一のこんどうぶつで、大佛殿もまた、木造建築として、世界第一であります。今から千二百年の昔に、わが國では、かうした大工事を、もののみごとにしとげたのであります。今、大佛の前に立つて、その大きな姿を拜する時、聖武天皇の御惠みを、さながらに仰ぐとともに、當時の人々のすぐれた腕前を、しのぶことができるのであります。

大佛殿の工事
大佛殿の工事

くわうみやう皇后もまた、なさけ深いお方で、せやくゐんひでんゐんを建てて、身よりのない病人や、みなしをおすくひになりました。かうした皇室の御惠みによつて、奈良の都は、東大寺を始め多くの大寺をちりばめ、今をさかりと咲きほこるやへざくらのやうに、美しく榮えました。ふぢはら氏やおほとも氏など、朝廷に仕へる人々が、それぞれの役目にはげみ、たみくさは、あめつちとともに榮える大御代をことほぎました。國中に元氣が滿ち、力があふれました。このころできたまんえうしふといふ和歌の本には、わかあゆのやうにぴちぴちとした歌が、たくさん集つてゐます。

また地方の國分寺も、こくふと結び、その役人と助け合つて、よく人人をなつけました。そのゐぶつゐせきや「國分寺」といふ里の名が、今なほ多く殘つてゐるのは、國分寺が國のしづめとして、よくその役目をはたしたしようこです。道を造り、橋をかけ、港を開くなど、地方のためにつくした僧も、ぎやうきを始め少くありません。

國分寺のおもかげ
國分寺のおもかげ

佛教が盛んになるにつれて、美術・こうげいも、目だつて進みました。寺々に傳はつてゐる數々のぶつざうや、東大寺けいだいしやうさうゐんや、その中にをさめられてゐる聖武天皇のぎよぶつなどは、すべてりつぱなものばかりです。それが、千二百年後の今日まで、そのままほぞんされてゐるのは、わが國だけに見られることで、そこにも、わが國からの尊さがしみじみと思ひ合はされるのであります。

二 けんたうしさきもり[編集]

〈第四十六代〉かうけん天皇の御代に、いよいよ大佛ができあがると、せい大な儀式がおこなはれ、全國から一萬の僧が集つたほか、はるばる支那やインドからも、名僧が參列しました。また、正倉院の御物の中には、大陸の國々から傳來した、めづらしい品物があります。これらによつてもわかるやうに、このころとうあかうつうは大いに開け、東海に位するわが國は、これら東亞の諸國に對して、堂々とまじはりをしてゐました。

荒波をしのいで
荒波をしのいで
天武天皇のころから、半島・大陸のけいせいもおちついて、國々の間がらは、よほどしたしくなつて來ました。わが國は、唐へ遣唐使を送つて威風をしめし、唐の使節もまた、たびたび來朝し、新羅も、前どほりみつぎ物をたてまつりました。奈良の御代御代には、往來が一だんと盛んで、遣唐使を出した回數も、このころがいちばん多かつたやうです。

遣唐使の一行は、留學生を加へて、五百人以上の人數でありました。なにはから船を出して、はかたに寄り、東支那海を橫ぎつて大陸へ向かひます。當時の船は、外海の荒波を乘りきるのに、決して十分ではありませんでした。しばしば吹き流されたり、くつがへつたり、まつたく命がけの航海でありました。それでも、海外へのびようとするわが國民は、よくこのこんなんに打ちかち、そのつとめをはたしたのであります。

使節が唐へ行つてのふるまひも、まことにりつぱでありました。唐の國王が、使節の禮儀正しいのに感心して、日本の國がらをほめた話もあります。また、わが國のめんもくにかかはるやうな扱ひを受けたため、相手を手きびしくやりこめた使節もあります。留學生の中でも、名高いあべのなかまろは、わづか十六歳で支那へ渡り、その名を唐にとどろかしました。歸りに船が吹き流されて、なつかしい奈良をふたたび見ることができず、つひに大陸で一生を終りました。

大陸との交通

大陸との交通

聖武天皇の御代は、唐の最もはなやかな時でありましたが、やがて唐は、〈第四十七代〉じゆんにん天皇の御代にらんが起り、これをしづめるのに苦しみました。わが國から、わざわざ、弓を作る材料を送つて、唐をはげまさうとしたほどです。

滿洲には、元明天皇の御代に、ぼつかいといふ新しい國がおこりましたが、この國の王もまた、わが國がらをしたつて、聖武天皇の御代に使節を送り、丁寧な國書とめづらしいみつぎ物とを持たせてよこしました。渤海は、その後、國がほろびるまで約二百年の間、三十數回も使節を送つて來ました。その使節の一行は、今のポシエット灣またはせいしん附近から、つるがへ向かふ航路を取り、日本海の荒波をしのいで來たのであります。朝廷では、いつも使節をあつくおもてなしになり、またわが國からも、たふれいの使節をおつかはしになりました。

このやうに、奈良の御代御代には、東亞の國々がしたしく交つて、きようえいの喜びを分つてゐました。しかし、わが國は、その間でも、決して國のまもりをおろそかにしなかつたのです。

喜び勇んで

喜び勇んで

都や地方の役人たちは、御代の榮えをことほぎながらも、いつたん事があれば、いつさいを捨てて、大君のために死ぬ覺悟をきめてゐました。大伴氏・さへき氏のやうに「海行かばづくかばね、山行かば草むす屍、大君のへにこそ死なめ。」と、世々にいひ傳へいひ續けて來た武人の家もありました。かうした氣持は、ただに文武の役人だけでなく、國民全體の心でありました。

つくしの防備に當る兵卒の防人にも、忠義の心は滿ちあふれてゐました。かれらは、生まれ故鄕の東國から、父母に分れ妻や子を置いて、はるばる筑紫へくだつて行きました。二度と歸らぬ覺悟をきめ、大君のために、喜び勇んで旅立つたかれらは、來る日も來る日も筑紫の海を見つめて、少しのゆだんもみせなかつたのでした。

奈良の御代御代は、かうして、平和のうちに過ぎて行きましたが、ここに思ひがけないことが、國の中に起りました。それは、だうきやうといふあくそうの無道なふるまひです。道鏡は、〈第四十八代〉しようとく天皇の御代に、朝廷に仕へて政治にあづかつてゐましたが、位が高くなるにつれて、しだいにわがままになり、つひに、國民としてあるまじき望みをいだくやうになりました。すると、これもある不心者が、うさはちまんのおつげと稱して「道鏡に御位をおゆづりになれば、わが國はいつそうよく治るでございませう。」と奏上しました。いふまでもなく、道鏡に對するへつらひの心からいひ出した、にくむべきいつはりごとでありますが、天皇は、わざわざわけのきよまろを宇佐へおつかはしになつて、神のおつげをたしかにお聞かせになりました。

清麻呂の奏上
清麻呂の奏上

宇佐から歸つた清麻呂は、天皇のおん前に進んで、道鏡にはばかるところなく、きつぱりと、かう申しあげました。

「わが國は、かみよの昔から、くんしんの分が明らかに定まつてをります。それをわきまへないやうな無道の者は、すぐにもお除きになりますやうに。これが宇佐の神のおつげでございます。」

なみゐる朝臣は、すくはれたやうに、ほつとしました。あたりは水を打つたやうな靜けさです。清麻呂のこの奏上によつて、無道の道鏡は面目をうしなひ、尊いわが國體は光を放ちました。しかも、清麻呂のかげに、姉ひろむしのなさけのこもつた、はげましがあつたことも、忘れてはなりません。やがて〈第四十九代〉くわうにん天皇の御代に、道鏡はしもつけの國へ流され、清麻呂は、朝廷に重く用ひられるやうになりました。

宇佐のしんちよくを受けて國をまもつた清麻呂も、ちよろづあたを筑紫の海にとりひしがうとする防人も、忠義の心は一つであります。清麻呂は、廣虫とともに、京都のごわう神社にまつられ、その銅像は、宮城のお堀の水に、靜かに影をうつして、いつまでも皇國をまもつてゐるのであります。


第四 きやうとちはう[編集]

一 へいあんきやう[編集]

國内を治めるにも、外國とまじはりをするにも、青山にこもる奈良の都は、だんだんふべんだと、思はれるやうになりました。そこで〈第五十代〉くわんむ天皇はきよまろの意見をもおくみになつて、今の京都の地に、都をおうつしになりました。紀元一千四百五十四年、えんりやく十三年のことであります。

この地は、三方に美しい山をひかへ、しかも東西のしよ地方との往來もべんりである上に、よどがはびはこによつて、大阪やつるがの港に出やすく、のびゆく日本の都として、まことにふさはしいところでした。都のかまへは、へいじやうきやうよりさらに大きく、山川の眺めもまた、奈良にまさるものがありました。四方から集つて來た人々は、すがすがしい新都を祝つて、平安京とほめたたへました。思へば、桓武天皇から〈第百二十一代〉かうめい天皇まで、およそ一千年の間、御代御代の天皇は、ここにましまして、國をお納めになつたのであります。この間、世の中がどんなに變つても、京都は日本の中心であり、京といへば京都をさす習はしも、この間にできました。今、ひがしやまのふもとの近く、あをがはらの屋根、しゆぬりの柱も美しい、だいごくでんにかたどつたへいあんじんぐうには、桓武天皇と孝明天皇のおんふたかたがおまつりしてあります。
平安京

平安京

大極殿
大極殿
桓武天皇は、平安京におうつりになると、かねてのお考へどほり、いろいろせいぢをお改めになりました。特に心をおもちひになつたのは、地方の政治であります。わが國は、西に大陸をひかへてゐますので、地方の政治も、西と東とでは、力の入れ方に、昔から多少のちがひがありました。
.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-variant-east-asian:ruby}.mw-parser-output ruby>rb,.mw-parser-output ruby>rp{speak:none}奧羽(あうう)の要地

あううの要地

從つて西の國々は、わりあひ早くから開けましたが、東の方は、とかくおくれがちでありました。奧羽地方の日本海方面は、齊明天皇のころから、しだいに治り、太平洋方面は、聖武天皇のころ、せんだいあたりまで開けましたが、その北の一たいが、まだそのままで、その地のえぞが、しばしばそむきます。
多賀のとりで
多賀のとりで
そこで桓武天皇は、さかのうへのたむらまろせいいたいしやうぐんに任じて、この蝦夷をお討たせになりました。田村麻呂は、武勇にすぐれ、なさけも深い、りつぱな武將でありました。從ふものはゆるし、手むかふものは討ち從へて、今のいはて縣のあたりまで進み、ゐざはじやうを築いて兵をとどめ、めでたくがいせんしました。ながらくの間、ついたり離れたりしてゐた蝦夷も、これからまつたく、しづまるやうになりました。

一方、朝廷では、蝦夷に對して、でんぢを授け、農業ややうさんの方法を教へ、地方の役人にとりたてるなど、いろいろこれをお惠みになりました。また關東地方や中部地方の人々で、奧羽に移り住み、蝦夷をみちびいて、さんりんや荒地を切り開いたものも、少くありません。蝦夷もまた、皇威をしたつて、少しでも都に近く住まうとするものが、しだいにふえて來ました。かうして蝦夷は、だんだんりつぱな國民となり、中にはさきもりとして忠義をつくす勇士さへ、出るやうになりました。

天皇はまた、新しいぶつけうおこして、世の中に役だつやうにしたいとお考へになりました。そこで、さいちようくうかいとをお選びになり、唐へ渡つて佛教を硏究して來るやう、お命じになりました。どこまでも國のためになる、新しい佛教を興さうといふ意氣にもえて、二人は、熱心に唐で勉強しました。最澄は、きてうすると、ひえいざんの延曆寺を都のまもりとし、てんだいしゆうを開いて、多くのでしたちに勉強させました。空海もまた、かうやさんこんがうぶじを建てて、しんごんしゆうをひろめ、京都に學校を開いて、身分の低いものでも勉強のできるやうにしました。かうして、二人とも、寺を奧ぶかい山の上に建て、弟子たちと一しよにしゆげふにはげみましたので、佛教はめんもくを一新することになりました。

萬農池

萬農池

最澄・空海は、また國々をまはつて、地方の開發に力をつくしました。空海がさぬきの國につくつたまんのうのいけは、今にいたるまで、その地の農業に役だつてゐます。朝廷では、二人の功をおほめになつて、その死後、最澄にはでんげうだいし、空海にはこうぼふだいしがうをお授けになりました。

支那では、このころ唐がおとろへ始めたので、大陸とのかうつうも、前ほどさかんでなくなつて來ましたが、しかも尊いおん身を以て、支那ばかりか、遠くマライ方面までおでかけになつたお方があります。それは、桓武天皇の御孫しんによしんのうで、親王は、はじめ空海から佛教をおまなびになり、〈第五十六代〉せいわ天皇の御代には、唐へ渡つて、その硏究をお深めになりました。その後、さらに、唐からインドへおいでにならうとして、くわんとん出發になりました。おんよはひも、すでに高くいらせられながら、遠くいきやうにお出ましになつたおん心、思へばまことに尊くかしこききはみでありますが、ふかうにも、途中でおなくなりになりました。土地の人々は、日本の尊いお方であると知つて、てあつくとむらひ申しあげたと傳へてゐます。

二 だざいふ[編集]

桓武天皇ののちも、御代御代の天皇は、新しい法令や制度を作つて、政治をおひきしめになりました。國は都の名のごとく、安らかに治りました。かうして五十年ほどたつ間に、かまたり以來の功によつて、ふぢはら氏の勢が、目だつて盛んになりました。やがて清和天皇のころから、藤原氏は、せつしやうまたはくわんぱくといふ高い官職に任じられ、政治を思ふままに動かすやうになりました。

〈第五十九代〉うだ天皇は、このわがままな藤原氏によつて、政治がみだれることを心配になり、家がらよりも人物のすぐれたすがはらのみちざねを重くお用ひになりました。道眞は、眞心ふかくしんせつで、その上なかなか賢い人でありました。學問はよくできるし、歌や詩も上手でありました。朝廷に仕へてからも、國史の本を作つたり、けんたうしをやめることを奏上したり、なかなかすぐれた意見をしめしました。特に遣唐使については、このころ、唐がすつかりみだれてゐましたので、支那のことを硏究することは、まつたくむだなことだと見てとつたからです。

やがて〈第六十代〉だいご天皇が、御年十三歳で御位におつきになり、御父宇多天皇のみこころざしをおつぎになつて、道眞をうだいじんといふ高い官にお進めになりました。藤原氏は、ときひらさだいじんに任じられましたが、年も若く、學問からいつても、はたらきからいつても、道眞にはかなひません。從つて、天皇の信任も人々のひやうばんも、しぜん道眞に集ります。時平は、それがだんだんねたましくなり、とうとう、仲間のものとわるだくみをして、道眞を太宰府へうつし、都から遠ざけてしまひました。

道眞がいよいよつくしに旅立つ時のことです。正月といふのに、そのやかただけは、深い悲しみに包まれてゐました。庭には、日ごろ愛する梅が、今を盛りと清らかな香を放つてゐます。風もないのに、一ひら二ひら、やり水の上にこぼれて、靜かに流れて行きます。

こち吹かばにほひおこせよ梅の花
    あるじなしとて春を忘るな

しゆの歌に心をのべた道眞は、氣をとりもどして、旅支度を整へました。

太宰府

太宰府

太宰府といへば、九州の政治や大陸との外交をつかさどる重要な役所であり、いざといふ場合には、敵を防ぐ第一線でもありました。しかし、このころでは、久しく太平が續き、從つて前ほどの威勢もありません。それに道眞は、ほんの名ばかりの役目で、ここへうつされたのです。はたらきのある道眞にとつえ、十分な奉公のできないのは、どれほどさびしいことだつたでせう。道眞は、每日一室に閉ぢこもつたまま、ただ天皇のおん事ばかり、心におしのび申しあげてゐました。
都の思ひ出
都の思ひ出
太宰府の秋もふけて、すすきの穗がゆらぐ道眞のすまゐにも、菊のせつくがおとづれて來ました。ちやうど一年前の今日、道眞は、菊見のぎよえんに詩をたてまつり、おほめにあづかつて、ぎよいをたまはつたのでした。これを思ふにつけても、今さらのやうに、くんおんのかたじけなさが、ひしひしと身にせまつて、淚がとめどなく流れました。うやうやしくおんしの御衣をささげ、眞心を詩にのべて、しばし都の思ひ出にふけりました。

大宰府に三年ばかりゐた道眞は、五十九歳でなくなりました。道眞のお案じ申しあげた都も、國々もよく治つて、まことに安らかでありました。世にえんぎのみかどと申しあげる醍醐天皇のおんとくは、申すもおそれ多いほどで、天皇は、ともし火もこほるばかりの寒い冬の夜に、御衣をおぬぎになつて、まづしい人々の心を、お思ひやりになつたことさへあります。時平たちのわるだくみも、時がたつにつれて、わかつて來ました。天皇は、道眞をもとの右大臣にかへし、特に正二位をお授けになりました。

人々もまた、道眞をうやまつててんじんとあがめ、〈第六十二代〉むらかみ天皇の御代には、京都のきたのに、社が建てられました。〈第六十六代〉いちでう天皇は、この社にぎやうかうあらせられ、また正一位・だじやうだいじんをお授けになりました。地方でも、大宰府はいふまでもなく、國々いたるところに社を建て、梅の花のやうにけだかい道眞の眞心や一生のおこなひを、うやまひあがめました。

太宰府の遺蹟

太宰府の遺蹟

今、太宰府神社にお參りして、道眞の眞心をしのび、さらにあゆみをうつして西の方へ行くと、道眞の配所、えのきでらを始め、數々のゐせきが、遠い歷史をものがたるかのやうです。太宰府の役所のそせきや國分寺のあと、それにみづきつつみまでが、古いおもかげを見せて、太宰府の移り變りを、ありありとしのぶことができるのであります。

三 ほうわうだう[編集]

太宰府といへば、〈第六十八代〉ごいちでう天皇の御代に、ここの役人であつた藤原たかいへが、九州に攻め寄せたといといふ外敵を打ち拂つて、大きなてがらを立てたことがあります。都は、藤原氏ぜんせいのころで、よりみちが關白に任じられ、父みちながのために、ほふじやうじといふりつぱな住居を建てました。それが、刀伊を打ち拂つたのと同じころです。道眞がなくなつてから、もう百年餘りたつて、世の中もずゐぶん變つてゐました。

藤原鎌足─ふひとよしふさ─基經┬時平     ┌みちたか─隆家
              └ただひら─□─かねいへ┴道長┬賴通…ただざね┬忠通
                         └のりみち   └よりなが

醍醐天皇の御代、唐とぼつかいが相ついでほろび、次の〈第六十一代〉すざく天皇の御代には、しらぎもほろびました。わが國と大陸諸國との長い間の交りも、ここで、ひとまづ絶えてしまひました。このころ都では、藤原氏が、朝廷のおもな官位をひとりで占めてゐましたから、ほかの諸氏で、はたらきのある人たちは、だんだん地方の役人になりました。かうなると、藤原氏は、すつかり氣をゆるめて、政治にはげまうとしません。春は花、秋はもみぢにくらして、生活は、はでになるばかりです。一族だけ威勢がよくなると、今度は親子・兄弟が、たがひに勢をあらそふやうにさへなりました。

かうして、藤原氏はさかえに榮えましたが、一條天皇・〈第六十七代〉さんでう天皇・後一條天皇の三代に仕へた道長と、後一條天皇・〈第六十九代〉ごすざく天皇・〈第七十代〉ごれいぜい天皇の御三代に仕へた賴通とが、いはば藤原氏の最もはなやかな時でありました。道長は、かもんの榮えに滿足して、これをもちづきにたとへたほどでした。法成寺は、その後あとかたもなく燒けてしまひましたが、當時書かれた本によつて見ると、實にすばらしいものであつたことがわかります。

中央の政治がゆるむと、地方は地方で勝手になり、世の中が、だんだんみだれて來ます。山賊や海賊がはびこり、役人の中には、人々をなつけ、ぶげいをねらせて、賊にそなへるものもありました。自分らの手で、地方のらんをしづめるために、家來を集め武藝をねる。かうしたことから、武士といふものが起るやうになりました。中でも源氏と平家は、もともと家がらがよく、主となる者は、人がらもりつぱで、なさけが深く、從つて、部下がよくなつきました。かれらは、それぞれ地方をしづめて功を立て、それとともに、勢はしだいに盛んになつて行きます。刀伊が攻め寄せたのは、都の人の心がゆるみ、地方の政治も振るはない時のことでしたが、しかも、よくこれをしりぞけることができたのは、筑紫の武士がふるひたつたからです。

太宰府

太宰府

賴通の生活も、道長どうやうはなやかなものでした。かれもまた、うぢびやうどうゐんを建てましたが、その一部分の鳳凰堂が今に殘つて、藤原氏のえいぐわをしのばせてゐます。なだらかな屋根のこうばい、すらりとのびた左右のよくらう、なるほど、鳳凰が大空を飛んでゐるやうな、美しい建物です。堂の中にはいると、ほんぞんを始め、とびらの繪やらんまてうこくなど、何一つとして、やさしく美しい漢字を與へないものはありませんじつと見つめてゐると、藤原氏の榮華よりも、これを作つた人々のたくみなわざに、おどろかされます。さうして、どうしてこのころ、かういふりつぱなものが作れるやうになつたかを、考へさせられます。
紫式部

紫式部

遣唐使がやめられてから、人々は、今までより、もつと日本人の精神にしつくり合ふものを、作らうとするやうになりました。かなもじがひろまり、和歌やものがたりなどが發達したのは、みなかうした心やどりよくけつくわであります。その中には、むらさきしきぶの作つた源氏物語のやうに、世界にすぐれた文學もあります。繪や彫刻や建物なども、だんだん日本人の心に合ふものになりました。鳳凰堂は、建物を始め、中のすぐれたぶつざうそのほか、いつさいをくるめて、いはば美しい博物館であります。すべて、古く支那やインドから傳はつた習はしも、このころまでに、生まれかはつたやうに、日本らしい美しさを見せるやうになりました。

はなやかな都の生活も、一面には、かうしたよいものを殘してゐますが、ただ藤原氏が政治を怠つたのは、まことに困つたことでありました。平等院ができたのは、ちやうど、奧羽であべ氏がそむき、みなもとのよりよしが、朝廷の命を受けて、これをしづめるために戰つてゐる、ぜんくねんえきの眞最中のことです。

後三條天皇の御學問
後三條天皇の御學問
やがて〈第七十一代〉ごさんでう天皇が、御位におつきになりました。天皇は、世のなりゆきを深く御心配になり、おんみづから政治をおとりになりました。たびたび藤原氏をおいましめになり、ゆるんだ政治を立て直さうと、おつとめになりました。おそれ多くも、けんやくもはんをお示しになり、日々のごぜんぶにまで、御心をお配りになつたと傳へられてゐます。いはしみづはちまんぐうに行幸のおん時など、はうげいしやの車のはでなかなぐに、お目をとめさせられ、その場で、これをお取らせになつたこともありました。しぜん役人たちは、心をひきしめてつとめにはげみ、さすがの賴通も、おそれ入つて、關白の職を退き、平等院へいんきよしてしまひました。しかし天皇は、わづか五年で御位を〈第七十二代〉しらかは天皇におゆづりになり、まもなく、まだ四十の御年でおかくれになりました。

白河天皇もまた、後三條天皇の御志をおつぎになつて、御みづから政治をおとりになりました。御位をおゆづりになつてからも、院で政務をおさばきになつたので、攝政・關白の職も、名ばかりとなり、藤原氏の勢は、どんどんおとろへて行きました。


第五 かまくらぶし[編集]

一 げんじへいけ[編集]

ふぢはら氏がおとろへると、代つて武士の勢がさかんになつて來ました。武士は、身分が低くても、まじめて勇氣もあり、よいと思つたことは、かならず實行する力を持つてゐました。朝廷では、地方にらんが起ると、武士にこれをおしづめさせになり、そのてがらが重なるにつれて、しだいに重くおもちひになりました。かうして、まづ名をあらはした武士は、東國の源氏です。

東國といへば、さきもりなどを出して、古くから、武勇にすぐれた土地でした。また、ひろびろとした野原や、りやうばを產するぼくじやうが多いため、武士がぶげいをねるのに、きはめて都合のよいところでした。それに、京都から遠いので、都の華やかな風にそまることも少く、がうけんきふうが滿ちてゐました。かうした土地にそだつた、ゆうかんな武士のかしらとして、源氏の家名をあげるもとゐを作つたのは、みなもとのよしいへであります。

                ┌よりみつ…………………………賴政
清和天皇─さだすみ親王─源つねもとみつなかよりのぶ─賴義┬義家┬よしちか─爲義┬義朝
                      └よしみつよしくに   └爲朝
義家は、前九年のえきに、十七歳の若さで、父よりよしに從つて出征し、早くも、數々のてがらを立てました。きびしい寒さと大雪、それにひやうらうの不足になやまされて、つひに敵のぢゆうゐにおちいり、父の身も危いと見えた時「清和天皇六代のこうえいむつのかみ源賴義のちやくなんはちまんたらう義家」と、名乘りも勇ましく、むらがる敵を射倒して、けつろんを開いたこともあります。また、敵將さだたふを追ひつめながら、歌のやりとりに、あつぱれなおちつきぶりをしめし、敵をあはれんで、いつたんこれを逃がしてやつたといふ、ゆかしい話もあります。 白河天皇の御代に、またまたあううがみだれた時(三年の役)、陸奧守であつた義家は、源氏の總大將として、堂々とさいせいこまを進めました。あるひは、がうおくの座を作つて、將士の勇氣をふるひたたせ、また寒さにこごえた部下を、身を以てあたため、あるひは、雁の列のみだれを見て、ふくへいがゐることをさつしるなど、よく名將のほまれをかがやかしました。「勇將のもとにじやくそつなし」といひますが、十六歳のかまくらのごんごらうかげまさが、大人もおよばないてがらを立てたのは、この時のことです。亂が平ぐと、義家は、わざわざ自分のざいさんを分け與へて、部下をいたはりました。東國の武士は、その恩に感じて、源氏のためなら、身を捨ててもかまはないと、思ふやうになりました。
金色堂

金色堂

みだれにみだれた奧羽も、これですつかりしづまつて、この役で義家を助けた藤原きよひらが、治めることになりました。清衡は、都の風をうつしてひらいづみをいとなみ、ここを奧羽の中心としました。今に殘るちゆうそんじこんじきだうは、〈第七十五代〉すとく天皇の御代に、清衡が建てたものです。

平家の勢が盛んになり始めたのは、崇德天皇の御代に、ただもりせとないかいの海賊を平げたころからです。その後、二十年ばかりの間に、平家はさいごくを根城にして、めきめきと勢をのばし、源氏と竝んで朝廷に用ひられるやうになりました。もうこのころ、藤原氏は昔の威勢を失つて、やつとその地位をたもつてゐるだけです。しぜん、勢をた源氏と平家とが、京都でにらみ合ふことになりました。

桓武天皇─かつらはら親王─たかみ王─平たかもち……忠盛┬清盛┬重盛─維盛
                     │  └宗盛
                     └つねもり─敦盛

やがて〈第七十七代〉ごしらかは天皇の御代に、はうげんの亂が起ると、源氏は、武運つたなくためよしためともを失つて、忠盛のきよもりのひきゐる平家が、源氏をしのぐ勢となりました。さらに〈第七十八代〉にでう天皇の御代に起つたへいぢの亂で、源氏は、平家のために、またまた一族のかなめであつたよしともを失ひ、ちりぢりばらばらになつてしまひました。かうして平家は、そのぜんせいきを迎へたのです。

清盛は、朝廷に重く用ひられて、〈第七十九代〉ろくでう天皇の御代には、だじやうだいじんに進み、一族のものも、それぞれ高い官位にのぼりました。一門の領地は、三十餘國にまたがり、中には「平家でないものは人でない」などと、いばるものさへ現れました。まつたく、平家の勢は、わづかの間に、藤原氏の全盛期をしのぐほどになりました。

重盛の眞心
重盛の眞心
思ひあがつた清盛は、勢の盛んなのにまかせて、しだいにわがままをふるまふやうになり、一族のものもまた、これにならひました。ただ長男のしげもりだけは、忠義の心があつく、職務にもまじめな人で、平家がさかえるのも、まつたく皇室の惠みによるものであることを、よくわきまへてゐました。つねに、父清盛のふるまひに深く心をいため、皇恩のありがたさをいて、父のわがままを直さうとつとめました。清盛が、おそれ多くも、後白河ほふわうをおしこめたてまつらうとした時、重盛は死を覺悟して、その無道をいさめました。惜しいことに、その重盛は、父に先だつて、なくなりました。こののち、清盛のわがままは、いよいよつのるばかりです。人々の心も、しだいに平家から離れて行きました。源氏のみかたは、しよ國にかくれて、平家をほろぼす機會をねらつてゐました。

〈第八十一代〉あんとく天皇のぢしよう四年に、まづ源よりまさが、後白河法皇のわうじもちひとわうを奉じて、兵をげました。すばやい平家の攻擊にあつて、賴政は、惜しくもうじでたふれ、以仁王は、流矢にあたつて、おなくなりになりました。しかし「平家を討て」との王の命令は、水にとうじた波紋のやうに、國々の源氏へひろがつて行きました。

二 ふじまきがり[編集]

  ┌義朝┬賴朝┬賴家─公曉
爲義┤  ├範賴└實朝
  │  └義經
  └義賢─義仲
以仁王の御命令が東國に傳はると、源義朝の長男よりともが、まづふるひたちました。賴朝は、平治の亂で源氏がやぶれた時、十四歳でいづへ流され、その後二十年餘り、父のうらみをはらす日の來るのを待つてゐたのです。

いよいよ、その時が來ました。かねて、源氏に心を寄せてゐた東國の武士も、賴朝の旗あげを聞き傳へて、續々と集つて來ます。賴朝は、これらの兵をひきゐてさがみにうつり、源氏とえんの深い鎌倉を根城にしました。ちやうどそのころ、一族のきそよしなかも、しなので兵を擧げ、源氏の意氣は、大いにあがりました。

おどろきあわてた清盛は、ただちに孫のこれもりに大兵を授けて、鎌倉へ向かはせました。賴朝の軍勢も、鎌倉をたちました。東へ向かふ平家の赤旗、西へ進む源氏の白旗、この兩軍は、富士川をはさんで相對しました。ある夜のこと、源氏の一隊が、敵の不意をつかうとして、ひそかに川を渡り始めますと、あたりのぬまで眠つてゐた水鳥が、びつくりして、一度にばつと飛びたちました。おどろいたのは、平家の軍勢です。それ敵の大軍が押し寄せたとばかり弓矢を捨てて、逃げ足早く都へ歸りました。戰はずして、まづ勝つた賴朝は、きせがはまで陣をかへして、しばらくやうすを見ることにしました。弟のよしつねが、はるばる奧羽からかけつけたのは、この時のことです。京都では、やがて清盛が死んで、むねもりが後をつぎ、さしもの平家も、いよいよ落ち目になつて來ました。
東國の要地

東國の要地

木曽義仲の勢も、一時はなかなか盛んでした。ゑつちゆうくりからたうげで、維盛の大軍を擊ち破ると、義仲は、一氣に京都へせまりました。浮き足たつた平家の一族は、宗盛にひきゐられて、住みなれた都を後に、西國へと落ちて行きました。かうして、まづ都に入つた義仲は、勝つた勢に乘じて、さんざんらんばうを働きます。それを聞いた賴朝は、源氏のめいよのために、弟ののりより・義經に命じて、義仲を討たせました。するとその間に、平家は勢をもりかへして、せつつふくはらまで歸つて來ました。

いよいよ源氏と平家のはなばなしい合戰が瀨戸内海の美しい景色をはいけいにして、次から次へと、くりひろげられることになりました。平家が賴みにしてゐたいちのたにの要害が、ひよどりごえからなだれうつ義經の不意討ちで、つひに落ちました。十六歳の若武者、たひらのあつもりのけなげなさいごを見とどけるいとまもなく、平家の軍は先をあらそつて、やしまへのがれました。しかし、屋島の城も、あらしをつく義經のつゐげきに、もろくもおちいりました。なすのよいちの弓のほまれをたたへながら、源氏の軍船は、西へ西へと、平家を追ひつめました。平家のめざす九州は、すでに範賴がおさへてゐます。つひに平家は、だんのうらの決戰もむなしく、一族ほとんど、海底のもくづと消えてしまひました。「おごる平家は久しからず」といはれたやうに、清盛が太政大臣になつてから、わづか二十年たたないうちに、早くも平家は、かうしたまつろにたどりついたのです。

範賴・義經が、義仲を討ち平家を攻めてゐる間、賴朝は、鎌倉にふみとどまつて、國内をしづめることを、じつと考へてゐました。そこで、平家がほろびると、賴朝は、さつそく朝廷の許しをいただき、京都や國々へ家來をやつて、御所のまもりや地方の取りしまりに當らせました。勝ちほこつた義經のふるまひにも、うたがひをいだくやうになり、これを除くことに決心しました。義經は、すごすごと奧羽へのがれて藤原氏にたより、やがてひさうな最期をとげました。賴朝は、藤原氏が義經をかくまつたつみを責め、とうとう藤原氏をも討ちほろぼして、奧羽をへいていしました。

〈第八十二代〉ごとば天皇は、亂後の地方をひきしめるおぼし召しで、けんきう三年(紀元一千八百五十二年)、賴朝をせいいたいしやうぐんにお任じになりました。そこで賴朝は、鎌倉の役所を整へ、ますますせいぢにはげみました。

この役所は、のちに鎌倉ばくふと呼ばれるやうになりました。

賴朝の敬神

賴朝の敬神

賴朝は、平家が武士の本分をわきまへず、おごりにふけつて、もろくもほろびたのをよいいましめとして、もつぱら質素けんやくを實行し、部下にもそれを守らせました。また、つねに朝廷を尊び、神を敬ひ、ほとけをあがめ、武をねることをすすめ、特に剛健な氣風を養つて、いざといふ場合にそなへさせました。武士たちは、遊びのうちにも、やぶさめとか、かさおけとか、いぬおふもの・狩・すまふなどきそつて、からだをきたへ武藝をねることを、第一とするやうになりました。武士のかうした氣風は、しだいに國中にひろまり、人々の心は、いつぱんにひきしまつて來ました。さうして、鎌倉武士の名は「いざ鎌倉」のことばとともに、ながく後世に傳へられました。
富士の卷狩
富士の卷狩
狩といへば、賴朝が征夷大將軍に任じられたあくる年、富士のすそのもよほした卷狩は、全國の武士を集めたほど、盛んなものでした。富士川の對陣以來、早くも十二三年は過ぎて、今では、源氏に手むかふものもありません。土をけたてる馬のいななき、風に高鳴る弓の音が、富士の裾野にひびきわたるありさまを見て、賴朝は、どんなにとくいであつたでせう。そがの十郞・五郞兄弟が、父のかたきくどうすけつねを討つて、あた討ちのほまれを世に殘したのも、この時のことでした。

しかし、かうした源氏の全盛も、賴朝がなくなると、もうあとが續かなくなりました。これまで、源氏を助けて來た、ぐわいせきほうでう氏が、そろそろ、わがままをふるまふやうになつたからです。賴朝の長男よりいへは北條ときまさに、次男さねともは賴家の子くげうに、その公曉は腹黑い北條よしときに殺され、源氏は、賴朝からわづか三代で、ほろびてしまひました。あとは、まつたく北條氏の思ひ通りで、義時は、まづ朝廷にお願ひ申して、源氏のとほえんに當る藤原よりつねを、名ばかりの鎌倉の主として迎へ、自分はしつけんといふ役目になつて、勝手なふるまひをしました。

    ┌まさこ
北條時政┴義時─泰時─ときうぢ─時賴─時宗─さだとき─高時

これでは、もう武士に政治をまかしておけないと、朝廷では、お考へになるやうになりました。後鳥羽じやうくわうは、義時をお討ちになる御決心から、兵をお集めになりました。それと知つた義時は、急いで大軍を京都へさし向け、このおんくはだてにあづかつたくげや武士を、つたり流したりしたばかりか、おそれ多くも、後鳥羽上皇を始め、つちみかど上皇・じゆんとく上皇おん三方を、それぞれおきとささどへうつしたてまつりました。まことに、わが國始つて以來、臣下として無道きはまるふるまひです。その後北條氏は、やすときときよりが、ともに身をつつしみ、政治にはげんで、義時の罪をつぐなふことにつとめました。

三 かみかぜ[編集]

鎌倉幕府が開かれたころ、てうせんには、かうらいといふ國があり、滿洲・北支には、きんといふ國があり、中支・南支には、そうといふ國がありました。わが國とこれらの國々との間に、表向き使節の往來はありませんでしたが、商人や僧たちの中には、高麗や宋と、盛んに行つたり來たりするものがありました。

元の勢

元の勢

ところで〈第八十三代〉土御門天皇のころ、金の治めてゐるもうこから、てむぢんといふ者が出て、蒙古地方をとういつし、じんぎすかんと名のりました。以後五十年ばかりの間に、蒙古は、すぐれた武力とたくみな作戰によつて、アジヤの大部とヨーロッパの一部を合はせ、すばらしく強大な國となりました。初めはなかなか屈しなかった高麗も、つひになびいて、そのいふことを聞くやうになりました。 蒙古は、勢に乘じて、わが國をも從へようと考へ、〈第九十代〉かめやま天皇のぶんえい五年、使節をよこして國書をたてまつりました。その文章があまりにも無禮なので、朝廷では、返書をお與へになりません。するとあくる年、またまた蒙古の使ひが來ました。朝廷では、わが國が神國であること、武力や作戰によつて擊ち破ることのできないことを、蒙古におさとしにならうとしました。ちやうどそこのろ、鎌倉では、北條ときむねが執權となり、わづか十八歳ではありましたが、だいたんで勇氣に滿ちたえいゆうでありました。時宗は朝廷に奏上して、蒙古の使ひを追ひ返し、西國の武士に命じて、備へを固めさせました。朝廷では、神官や諸社にこの大難をおつげになり、神々のおまもりをお祈りになりました。その後も、蒙古は、使ひをよこして、わが國のやうすをひそかに探つてゐました。
北條時宗
北條時宗

蒙古は、いよいよ出兵を決心したものと見え、文永八年、最後の使ひをわが國によこすとともに、國の名をげんと改め、兵を高麗に移し始めました。さうして、この使ひもまた追ひ返されると、すぐに、高麗に造船の命令をくだしました。

文永十一年(紀元一千九百三十四年)、〈第九十一代〉ごうだ天皇が御位におつきになると、その年の十月、果して、元・高麗の兵約二萬五千は、九百せきの艦船をつらね、朝鮮の南端から攻め寄せて來ました。

敵は世界最強をほこる元であり、從つてわが國としては、かつてためしのない大きな國難であります。思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、國のためにあらはす時が來たのです。敵はまづつしまをおそひました。そうすけくにが、わづかの兵でこれを防ぎ、ことごとくそうれつな戰死をとげました。そこで敵は、いきからはかた灣へせまり、つひに上陸をあへてしました。つくしの武士は、力のかぎり戰ひまいしたが、敵のすぐれた兵器、變つた戰法になやまされて、なかなかのくせんです。しかし、日本武士のたましひが、果して、かれらの進擊をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戰ふわが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。このふんせんが神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますますはげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、あさせに乘りあげた船もあります。敵は、殘つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役といひます。
元寇

元寇

これにもこりず、元は、あくる年、またも使ひをわが國へよこしました。すると時宗は、一刀のもとにこれを斬り捨てて、鎌倉武士の意氣を示すとともに、一面かうした使ひの往來のために、わが國のやうすが敵にもれることを防ぎました。もちろん、元は國のめんもくにかけても、再征をくはだてるつもりで、すでに、いやがる高麗に命じて、船をつくらせてゐましたし、時宗もまた、それを見ぬいて、ひたすら防備を固めました。

老尼の意氣
老尼の意氣
特に、文永の苦戰にかんがみ、敵の上陸を防ぐために、博多灣一たいにせきるゐを築きました。國民いつぱんに節約を命じて、ぐんぴをたくはへさせたり、あらたに西國武士の總大將を置いたりしました。さらに軍船を整へ、進んで敵地に攻めこむけいくわくさへ立てました。これを聞く國民の血は、一せいにわきたちました。ひごゐぜうひでしげといふ老人や、しんあといふらうにまでが、身の不自由をかへりみず、たよりにする子や孫を、國のためにささげようといふ意氣にもえたちました。

その間に、元は宋をほろぼし、その海軍を合はせて、いつそう強大になりました。さうして、蒙古・高麗・宋の諸將を會し、作戰をねりにねつて、今度こそはと、いきり立ちました。折から支那にゐたわが商人が、急を知つて、すぐに知らせて來ましたので、朝廷では、敵國のかうふくを全國の神社や寺々にお祈らせになり、幕府は、九州の警備をいよいよきびしくしました。國民の心は、いやが上にもひきしまり、武士たちは、てぐすね引いて、待ちかまへてゐました。

紀元一千九百四十一年、こうあん四年五月に、まづ兵四萬・艦船九百隻のとうろぐんが、朝鮮から博多へとせまりました。かうのみちありきくちたけふさたけざきすゑながらの勇將は、石壘によつて、一步も敵を上陸させません。

夜になると、やみにまぎれて小舟を進め、敵艦をおそつて火を放つたり、帆柱を倒して船中へ斬りこんだり、さんざん敵をなやましました。
不意討ち

不意討ち

敵艦全滅
敵艦全滅
おそれ多くも龜山上皇は、皇大神宮に、おん身を以て國難に代ることをお祈りになりました。社といふ社、寺といふ寺には、眞心こめた國民が滿ちあふれました。七月になると、つひに兵十萬・艦船三千五百隻のかうなんぐんが押し寄せて來ました。さきに來た東路軍とがつして、敵艦は博多の灣をうづめつくしました。大日本は神國であります。風はふたたび吹きすさび、さか卷く波は數千の敵艦をもみにもんで、かたはしから擊ちくだき、くつがへしました。わが將士は、日ごろの勇氣百倍して、殘敵をおそひ、たちまちこれをみな殺しにしました。敵艦ぜんめつの報は、ただちにだざいふから京都へ鎌倉へと傳へられ、戰勝の喜びは、波紋のやうに、國々へひろがりました。世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、げんこうと呼んでゐます。

元は、さらに、第三回の出兵をくはだてましたが、すでにわが國威におぢけもついてゐましたし、それに思はぬ内わもめが起つて、とうとうあきらめてしまひました。わが國では、弘安の役後、十五年ばかりの間、なほ萬一に備へて、けいかいをゆるめませんでした。

思へば元寇は、國初以來最大の國難であり、前後三十餘年にわたる長期の戰でありました。かうした大難を、よく乘り越えることのできたのは、ひとへに、神國のしからしめたところであります。時宗の勇氣は、よくその思いつとめにたへ、武士の勇武は、みごとに大敵をくじき、たみくさもまた分に應じて、國のために働きました。まつたく國中が一體となつて、この國難に當り、これに打ちかつたのですが、それといふのも、すべてみいつにほかならないのであり、神のまもりも、かうした上下一體の國がらなればこそ、くしくも現れるのであります。

神のまもりをまのあたりに拜して、國民は、今さらのやうに、國がらの尊さを深く心に刻みつけました。また、世界最強の國を擊ち退けて、國民の意氣は急に高まり、海外へのびようとする心も、しだいに盛んになつて行きました。

今、福岡のひがし公園をたづねて、龜山上皇のごそんざうを仰ぎ、はるかにげんかいなだを見渡しますと、六百五十年の昔のことも、今の世のことかと思はれて、深い深い感動に打たれるのであります。

== 第六 よしのやま ==

一 けんむのまつりごと[編集]

「勝つてかぶとのをしめよ」といひますが、ほうでう氏は、ときむねの死後、しつけんに人物なく、やがてその氣持も、すつかりゆるみました。武士もまた、げんこうの時のきんちやうを失つて、地方のせいぢがみだれて來ました。こうあんえき後三十年餘りたつて、北條たかときが執權になると、そのわがままは、ひどいものになりました。ぜいたくな生活をし、每日遊びにばかりふけつてゐました。かうした時に、〈第九十六代〉ごだいご天皇がお立ちになつたのであります。

天皇は、かねがね醍醐天皇・後三條天皇・後鳥羽天皇の御遺業をおしたひになり、ごしんせいの御代にかへさうとお考へになりました。まづ不作の時など、米のあたひが高くならないやうごくふうになりおそれ多くもくごを節して、たみくさの苦しみをおすくひになりました。また、ひのすけとも・同としもとのやうな、りつぱな人物は、身分が低くとも、重くおもちひになりました。

ところで、高時のわがままは、いよいよ目にあまるやうになりました。そこで天皇は、しやうちゆう元年、わうじもりながしんのうを始め、きたばたけちかふさ・資朝・俊基らをお召しになつて、ばくふを取りつぶすことを決心になりました。資朝と俊基は、命を奉じてひそかにしよ國をめぐり、きんのうの兵を求めました。しかし、せつかくのおんくはだても、じゆんびの整はないうちに幕府にもれ、そののち、げんこう元年に、さいきよをおはかりになつた時もまた、幕府の耳に、はいつてしまひました。高時は、かうしたくはだてが天皇のおぼし召しによることを知つて、無道にも、つひに兵を皇居へさし向けました。

天皇は、神器を奉じて、ひとまづかさぎやまへお出ましになり、諸國の武士に「賊軍を討て」との命令をおくだしになりました。お召しによつて、眞先に兵をげたのは、かはちくすのきまさしげびんごさくらやまじしゆんであります。正成は、時をうつさずあんざいしよへ參り、つつしんで申しあげました。

「たとひ賊がどんなに強くても、はかりごとをめぐらせば、擊ち破れないはずはございません。みかたの旗色がよくない時でも、正成がまだ生き殘つてゐると、お聞きおよびでございましたら、どうぞ安心くださいますやうに。」

勤皇のさきがけ
勤皇のさきがけ
少しでも心をおやすめ申しあげたいと思ふと、正成のことばには、おのづから力がこもりました。

やがて正成は、きくすゐの旗をきづの川風になびかせながら歸りました。笠置を守る人々は、そのうしろ姿をたのもしさうに見送りました。

        楠木
敏達天皇…橘諸兄…正遠┬正成┬正行
           └正季├正時
              └正儀

正成は、あかさかに城を築いて、天皇をお迎へ申しあげようと思ひましたが、その間に、そなへの手うすであつた笠置は、攻め寄せる賊の大軍の手に、惜しくも落ちてしまひました。赤坂城へは、護良親王が、やつとお見えになりました。天皇は、赤坂へのおん途中、申すもおそれ多いごくなんをしのばせられて、京都へお歸りになることになりました。勝ちほこつた賊軍は、一氣に赤坂城へ押し寄せました。正成は、ちりやくをしぼつて、さんざん敵をなやましましたが、何ぶんわづかな軍勢なので、機を見て城をのがれ、たくみに姿をかくしました。

勤皇の史蹟

勤皇の史蹟

一方玆俊は、中國方面の賊軍を引きつけて、てがらを立てました。しかしこれも、笠置・赤坂が相ついで落ちると、賊のはげしい攻擊を受けるやうになりました。玆俊は、力のかぎり戰つて、櫻の花のやうに、みごとなさいごをとげました。 元弘二年、都の花も今がさかりの三月に、天皇は、幕府の無道をおしのびになつて、波間に沈む夕日のさびしいおきの島におうつりになりました。しかし、まだ正成は生きてをります。あるひは、赤坂城をうばひ返し、あるひはせつつわたなべの戰で、賊の精兵を擊ち破るなど、その活動は、めまぐるしいほどでありました。やがて、こんがうざんちはやに城を築いて、賊の大軍をなやまし續けました。吉野山の要害には、護良親王がおいでになつて、勤皇の兵をお集めになりました。金剛山と吉野山と、この二つが手をつないで、賊軍をまごつかせました。
義光の最期

義光の最期

高時はあせつて、さらにかまくらろくはらの大兵をくり出しました。そのため、吉野のとりでは、惜しくも落ちました。ざわうだうの別れのえんも、むらかみよしてるさうれつな最期も、ともにこの時のことであります。殘る一つの千早城は、うんかのやうな賊軍をしり目にかけて、びくともしません。正成のはかりごとは、いよいよさえて、賊のそんがいは增すばかりです。この間に、親王の御命令を受けて、勤皇の旗を擧げるものが、しだいに多くなりました。

天皇が、隱岐におうつりになつてから、もうそろそろ一年になります。波風の荒いこじまの冬は、どんなにきびしかつたでせう。おしのび申しあげると、胸のふさがる思ひがします。

天皇は、官軍のけいせいがしだいによくなつたことをお聞きになると、機を見てはうきへお渡りになり、なわながとしをお召しになりました。長年はかんげきして、ただちに一族のものをよび集め、せんじやうさんあんぐう建てて、天皇をお迎へ申しあげました。かうして、谷間を渡るうぐひすの鳴く音ものどかな、春がやつて來ました。
義貞の鎌倉攻め
義貞の鎌倉攻め

いよにはどゐみちますとくのうみちつなひごにはきくちたけときなど、勤皇の武士が、しきりにふんきしました。ことに武時は、北條氏の守りも堅い九州で、眞先に勤皇の旗を上げ、壯烈きはまる戰死をとげたのでした。かうした形勢に、おどろきあわてた高時は、六波羅が危いと見て、あしかがたかうぢらを京都へのぼらせました。ところが尊氏は、形勢をみて、にはかに官軍にくだり、勤皇の武將と力を合はせて、六波羅を落としました。この間に、かうづけから起つたにつたよしさがが、手うすになつた鎌倉を突き、ゆふきむねひろとしめし合はせて、一氣に幕府を倒しました。元弘三年五月のことでした。

源義國─新田義重…朝氏┬義貞┬義顯
           └義助├義興
              └義宗

六波羅が落ちると、天皇は、ただちに船上山から京都へお向かひになりました。みちみち、勤皇の武士がお供に加り、おん行列は、やがて兵庫へ着きました。兵庫には、正成が部下七千をひきゐて、お出迎へ申してゐます。天皇は、正成をおそば近くお召しになつて、このたびの忠義をあつくおほめになりました。正成は、笠置のことを思ひ起すにつけても、うれし淚がこみあげました。まもなく、義貞から鎌倉へいていの知らせがあつて、官軍の心は、いやが上にも勇みたちました。やがて天皇は、正成をぜんくとして、めでたく京都へお歸りになりました。時に紀元一千九百九十三年、元弘三年六月であります。

かうして、御親政のかがやかしい御代に立ちかへりました。天皇は、京都と地方の役所や役目を、あらたにお定めになり、このたびのてがらと家がらとにもとづき、人物をえらんで、それぞれ役人にお用ひになりました。くげも武士も、ひとしくてうしんとして、大政をおたすけ申しあげることになりました。足利尊氏のやうに、途中から官軍に降つたものでさへ、重い役目に任じられました。何といふありがたい思し召しでありませう。元弘四年正月、天皇は、年號を建武とお改めになりました。幕府が倒れて、御親政のいにしへにかへつた建武のまつりごと、このかがやかしいおほみわざを、世に建武のちゆうこうと申しあげます。

二 たいぎひかり[編集]

建武のまつりごとが始って、二年しかたたないうちに、たいへんなことが起りました。足利尊氏が、よくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつたのです。尊氏は、かねがね、せいいたいしやうぐんになつて天下の武士に命令したいと、望んでゐました。北條氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さうしたしたごころがあつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。しかも、六波羅を落したてがらで、正成や義貞さへはるかに及ばないほどおんしやうをたまはりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、國をみださうとするのですから、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません。

   ┌新田義重
源義國┤
   └足利よしやす‥‥さだうぢ┬尊氏┬よしあきら─義滿
            └ただよしもとうぢ─□─滿兼

建武二年十月、尊氏は、東國がみだれたのをよい機會として、勝手に兵を鎌倉へ進め、そのまま反旗をひるがへしました。朝廷では、ただちに義貞をおつかはしになりましたが、義貞の軍はやぶれ、尊氏らは、えんげん元年、勝ちに乘じて、京都へ攻めのぼりました。急を聞いて北畠あきいへは、のりなが親王を奉じて、あううからかけつけました。そこで、顯家・義貞・正成・長年らの官軍は、力を合はせて、賊軍をさんざん擊ち破り、尊氏らは、命からがら西へ逃げのびました。九州では、菊池武時の子たけとしが、たたらはまで、これと激戰をまじへ、惜しくもやぶれました。

                       ┌顯家
村上天皇─ともひら親王─源もろふさ‥‥北畠まさいへ‥‥親房┼顯信─もりちか
                       └あきよし

賊軍は、勢をもりかへし、陸と海の二手に分れて、ふたたび都へ攻めのぼつて來ました。朝廷では、義貞をおつかはしになり、さらに、正成にも出陣をお命じになりました。正成は、宮居の松にしばし名ごりを惜しみ、決死の覺悟も勇ましく、兵庫へ向かひました。途中、青葉に暮れるさくらゐの驛で、子のまさつらをそば近く呼びよせ、

「今度の合戰は、天下分け目の戰である。父討死ののちは、母の教へをよく守り、やがて大きくなつたら、父のこころざしをついで忠義をつくし、大君のために、朝敵をほろぼしたてまつれ。もう十一にもなつたそなたを河内にかへすのは、そのためである。」
櫻井のわかれ
櫻井のわかれ

と心をこめてさとしました。さうして、天皇からたまはつた菊水の短刀を、かたみとして、正行に與へました。

兵庫へ着いた正成はみなとがはに陣をかまへ、むらがり寄せる賊軍を右に左に受けとめ受け流して、今日をかぎりと戰ひました。みかたは次々に玉とくだけて、殘るはわづか數十騎、正成も十一箇所の深手を負ひました。もうこれまでと、とある民家に敵をさけ、弟まさすゑに向かつて、たづねました。

「最期にのぞんで、のこす願ひは。」

ななたび人間に生まれかはつて、朝敵をほろぼしたいと思ひます。」

正季は、かう答へて、兄の顏をみつめました。正成は、さもうれしさうにいひました。

「自分の願ひも、その通りである。」

兄弟は、につこり笑つて、しちがへました。家來もみな、續いて、勇ましい最期をとげました。正成は、四十三歳でありました。

義貞が形勢を見て京都にしりぞくと、賊軍はうしほのやうに、攻め寄せて來ました。天皇は、ひとまづひえいざんぎやうかうになりました。義貞は、名和長年らと力を合はせ、賊を退けようとしましたが、つひに長年も討死し、京都の回復は、こんなんとなりました。天皇は、官軍が振るはないのを心配になり、義貞を行宮にお召しになつて、

「皇太子つねなが親王を奉じて北國へおもむき、勢をもりかへして京都を回復せよ。」

との御命令を、おくだしになりました。またかねなが親王をせいせいたいしやうぐんとして、九州へおつかはしになり、さいごくの官軍をおはげましになりました。

吹雪をついて

吹雪をついて

延元元年12月、天皇は、神器を奉じて吉野におうつりになり、ここに行宮をお定めになりました。吉野は、けはしい山に圍まれたてんねんの要害であり、いせと河内を東西にひかへて、諸國の官軍をおすべになるには、きはめて都合のよいところでした。ことに、この地は、かつて護良親王の奮戰になつたところであります。藏王堂のかたほとりに、おそれ多くも天皇は、花のたよりもよそに、ひたすら官軍のきつぽうをお待ちになりました。

北國へ向かつた義貞・よしあきは、途中きびしい寒さとふぶきになやまされ、苦しい行軍を續けながら、やうやくゑちぜんにはいりました。さうして、かねがさき城やそまやま城を根城にして、大いに敵を破りました。しかし、賊の勢は、なかなかおとろへず、やがて官軍に苦戰の日が續いて、おそれ多くも皇子方も、討死なさるおんありさまです。後醍醐天皇に何とおわびをしてよいか、義貞は、はらわたもちぎれる思ひがしました。今はただ、最後のしようりようと、ひたすら心を引きたてながら、力のかぎり戰ひましたが、延元三年のなかばすぎ、つひにふぢしまの戰で、壯烈きはまる討死をとげました。まだ三十八歳の働きざかりでありました。

義貞戰死の少し前、北畠顯家も、いづみいしづで討死しました。顯家は、さきに結城宗廣とともに、義良親王を奉じて、奧羽を固めてゐましたが、天皇が吉野に行幸になつたと聞くと、ただちに吉野へと向かひました。途中賊軍にさまたげられ、やうやく親王を吉野へお送り申しあげたのち、いたるところで敵と戰ひ、まだ二十一歳の若さで、惜しくも討死したのです。

忠臣が次々にたふれて、吉野に、さびしい秋が來ました。しかし、天皇の志はいよいよ堅く、北畠親房・あきのぶらに、義良親王を奉じて奧羽にくだり、官軍の勢を回復せよと、お命じになりました。一行は、伊勢から海路をとつて、東へお進みになりました。ふかうにも、途中大風のため、義良親王の船は伊勢へ吹きもどされ、むねなが親王の御船はとほとふみに、親房の船はひたちに着くといふ有樣でした。

その年も暮れて延元四年となり、やがてまた秋を迎へました。夜もろくろくおやすみにならない、ながい無理のためでせうか、おそれ多くも天皇は、おん病におかかりになり、つひに御年五十二でほうぎよあらせられました。御位にいらせられること二十二年、笠置・隱岐・吉野と、筆にもことばにもつくせない御苦難を、お重ねになりながら、まだ朝敵のはびこる世に、惜しくもおかくれになりました。おしのび申すことさへ、おそれ多いきはみであります。

賊將にせまる

賊將にせまる

義良親王が御位におつきになり、〈第九十七代〉ごむらかみ天皇と申しあげます。この時親房は、常陸のをだ城にたてこもつて、敵と戰つてゐました。吉野のことも氣がかりですが、東國を離れるわけには行きません。攻め寄せる賊軍のときの聲を聞くにつけても、大義をわきまへないものの多いことが、なげかはしくなりました。親房は、戰のひまひまに、たましひをこめて、國史の本を書き綴りました。これが名高いじんのうしやうとうきであります。やがて親房は、吉野へ歸つて、後村上天皇をおたすけ申しあげました。このころ正行は、ふぼの教へをよく守り、りつぱな武士になつてゐました。たびたび賊軍を破つて、官軍の勢をもりかへしました。攝津うりふのの戰では、川におぼれる敵兵をいたはつてやるなど、正行の戰ひぶりは、實に堂々としてゐました。じりじりと敵を押し退けて、今にも京都へせまらうとする勢さへしめしました。惜しいことには、しでうなはての合戰で、敵の大軍をけちらしながら、わづかなところで、賊將かうのもろなほを討ちもらし、身に數知れぬ深手を負ひ、弟まさときと刺しちがへて、父そのままの最期をとげました。その時、正行はまだ二十三歳でありました。
血刀を洗ふ
血刀を洗ふ
     菊池      ┌武重
藤原隆家‥‥武房─□─武時┼武敏
             └武光

數年ののち、親房が六十三歳でなくなると、きんき方面の官軍はおひおひ振るはなくなつてしまひました。ただ九州では、菊池武敏の弟たけみつが、懷良親王を奉じて、賊將せうによりひさちくごがはの戰で擊ち破り、さらにちくぜんへ進んで、敵の根城だざいふを攻め取り、かがやかしいてがらを立てました。筑後川の戰は、ことにはげしい戰で、武光のふんとうは、實にめざましいかぎりでした。かぶとはさける、馬は傷つく。敵をつて、そのかぶとをうばひ、馬をうばひ、血刀を振るつて、當るをさいはひなぎ倒すといつた働きでした。武光は、一氣に京都へのぼらうとしましたが、志をはたさないで、陣中で病死しました。

新田氏もまた、義貞の子よしおきが、宗良親王を奉じて、東國でくわつやくしました。親王が

  君のため世のためなにかをしからん
      すててかひある命なりせば

とおはげましになると、善興らは、勇氣を振るつて戰ひました。しかしその善興も、武運つたなく、敵のはかりごとにかかつて、むさしやぐちのわたしでたふれました。

かうして勤皇の武將は、吉野の櫻のやうに、いさぎよく大君のために散りました。後村上天皇のおんのち、〈第九十八代〉ちやうけい天皇・〈第九十九代〉ごかめやま天皇の御代となりましたが、これらの忠臣は、黑雲のやうにむらがる賊の軍勢を破つて、つねに大義の光をかがやかしました。「歌書よりも軍書に悲し吉野山」といふやうに、まことにおん四代五十七年間の吉野山は、壯烈ないくさものがたりで滿たされてゐます。

今、吉野神宮にお參りして、六百年の昔をしのぶ時、谷をうづめて咲く花は、これら忠臣たちが、後醍醐天皇のみたまを、いつの世までもおまもり申し、おなぐさめ申しあげてゐるやうに思はれます。その忠臣たちも、朝廷から高い位をたまはり、今は神として、それぞれ社にまつられ、國民に深くうやまはれてゐます。

第七 やへしほぢ[編集]

一 きんかくぎんかく[編集]

もともとあしかが氏は、よくに目がくらんで、朝廷にそむきたてまつり、を以て軍勢を集めたのです。從つて賊軍は、いつも見苦しい内わもめをくりかへして來ました。たかうぢの孫よしみつになつて、やつと部下のわがままをおさへることが、できるやうになりましたので、後龜山天皇に、おわびして、京都へお歸りくださるやう、ひたすらお願ひ申しあげました。

天皇は、義滿の願ひをお聞きとどけになつて、めでたく京都にくわんかうあらせられ、まもなく、御位を〈第百代〉ごこまつ天皇におゆづりになりました。紀元二千五十二年、げんちゆう九年のことであります。

金閣
金閣
義滿は、朝廷にお仕へして、せいいたいしやうぐんに任じられ、京都のむろまちばくふを開きました。かうして世の中は、ひとまづしづまることになりました。やがて、義滿はだじやうだいじんに進み、子のよしもちが征夷大將軍に任じられました。義滿は、だんだんとくいになり、そのそのわがままを始めました。太政大臣をしりぞいてのちも、なほせいむをさばき、京都のきたやまに、りつぱなべつさうつくつて、ここに移りました。ことに、その庭に面して建てた三そうろうかくは、ずゐぶんこつた建物で、上層をきんぱくでかざりました。人々は、やがて、これを金閣と呼ぶやうになりました。

義滿は、幕府の役目や地方の役人を整へましたが、おもな役目は一族でめ、地方の役人には、勢のさかんな武將をあてました。かうした組立てでは、もとじめの幕府が、よほどしつかりしてゐないかぎり、地方は、ばらばらになりがちです。これまでも、足利氏は、もつぱら部下のきげんを取つて、自分の勢をたもつて來ました。從つて、武將の中には、おひおひ、わがままものが多くなり、地方の政治は、しだいにみだれて行きました。早くも義滿の時、中國のおほうち氏が幕府に手むかひ、關東を治めてゐた足利みつかねも、そのあと押しをする有樣でした。

義滿はまた、みんとのぼうえきがたいそうりえきになることを知ると、さつそく使ひを出して、まじはりを結びました。明といふのは、長慶天皇の御代にげんがほろび、これに代つた新しい國です。ところで、義滿は、少しでも多く、自分の利益をたいため、國民の大陸進出をおさへたばかりか、國のめんもくにかかはるやうなふるまひをさへしました。心ある人々が、まゆをひそめて、これをけいべつしたのは、もちろんのこと、さすがに子の義持は、父のふしだらをはぢ、明との交りをきつぱりとつことにしました。

義滿 義持 義量
義教 義勝
義政─義尚
└義視
かうして、室町の幕府も、義持一代の間、少しは引きしまりましたが、〈第百二代〉ごはなぞの天皇の御代に、よしのりが將軍に任じられたころから、またゆるみ始めました。足利氏は、源氏にならつて幕府を開きながら、その生活は、まつたく平家をまねたやうに、はなやかでした。義教も、はでな生活がすきで、ふたたび明との交りを開きました。しかも、足利氏の一族のあらそひが、このころから目だつやうになり、つひには、將軍が武將に殺されるさわぎさへ起りました。その後、よしまさが將軍に任じられると、あいにく不作が續き、惡い病がはやつて、國民はたいそう苦しみました。義政は、それを一かう氣にもとめず、たいきんをかけて、室町のやしきを造りかへようとしました。おそれ多くも後花園天皇は、これを深く心配になり、義政の不心得をおさとしになりましたので、さすがの義政も恐れ入つて、その工事を中止したといふことであります。

しかし、かうした時には、とかく人々の氣持がすさんで、物事が大きくなりがちです。〈第百三代〉ごつちみかど天皇のおうにん元年、足利氏やその一族に、後つぎのことで爭ひが起ると、家來の武將がふたてに分れて、京都で戰を始めました。しよ國の武將も、續々都へのぼつて戰に加り、さわぎは大きくなるばかりでした。この戰は、十年たつても一かうしようぶがつかず、兩軍ともつかれはてて、いつのまにか、それぞれ國へ引きあげました。花の都も、これですつかり荒れて、みじめな姿になりました。世に、この戰を應仁のらんといひます。

戰をよそに
戰をよそに
義政は、重ね重ね朝廷に御心配をおかけしながら、戰をよそに、すきな遊びにふけりました。亂がしづまつて數年たつと、ひがしやまに別莊を造り、ぎんかくかまへて、茶の湯にその日を樂しみました。しかし、せつかく造つた銀閣も、これをかざる銀箔が得られず、ぜいたくはやめられず、國民に重い税をかけたり、しきりに明と貿易をしたりしました。明との交りも、義滿の時とどうやう、まことにだらしないものとなり、幕府も、これですつかり信用を落してしまひました。

京都の戰はしづまりましたが、枯草に火がもえうつるやうに、戰火はしだいに地方へひろがり、ひもとの幕府には、もはやこれを消す力がありませんでした。これからおよそ百年の間、戰が國々で絶えまなく續くのであります。

はなやかな金閣も、おちついた感じの銀閣も、ともにこんにちに傳はつて、これを造りあげた人々のすぐれた腕前を、しのぶことができます。しかし、これを見るにつけても、義滿・義政を始め代々の將軍が、政治にまじめでなかつたことだけは、つくづく殘念に思はれるのであります。

二 ばはんせんなんばんせん[編集]

日本は、もともと海の國であります。機會さへあれば、海外へのびようとします。げんこうをもののみごとに擊ち破ると、國民の海外はつてんしんは、いよいよ盛んになりました。ことにさいごくの人々は、元寇における元・かうらいひだうな仕打ちを怒つて、これをこらしめる日を待つてゐました。

しかし日本人は、何事でも正々堂々とやる國民です。その進出は、まづ貿易から始りました。こうあんえき後約十年、〈第九十二代〉ふしみ天皇の御代に、早くも九州の商人たちが、元のえんがんへ押し渡りました。元では、海の守りを固めるやら、貿易に高い税金をかけるやらして、わが商人の進出をくひ止めようとしました。わが商船は、これにかまはず、どんどん大陸へ出かけました。もちろん高麗へも渡りました。高麗もまた、たいそうあわてました。

元も高麗も、わが商人をはばかつて、しきりに貿易のじゃまをするので、こちらもだまつてゐませんでした。向かふが約束を破つたり、品物の代金を拂はなかつたりすると、日本刀を振るつて、相手をこらしめました。さすがの元も、その武力を恐れ、やがて、わが商人のきげんを取るやうになつたほどです。高麗も、これを防ぐのに、ずゐぶんひようをかけたため、すつかり國がおとろへたといひます。かうしたことがてつだつて元はほろび、代つて明がおこると、國王は、さつそく使ひをわが國によこして、かうした商人の取りしまりを求め、高麗もまた、それを望みましたが、明の國書があまりにも無禮なので、せいせいたいしやうぐんかねながしんのうは、きびしくおとがめの上、きつぱりとこれをお退けになりました。

潮路はるかに
潮路はるかに
このころのわが商船には、ゆうかんな武士も多數乘りこんで、盛んにくわつやくしました。すると支那の海賊までが、そのしり馬に乘って、できたばかりの明の國を荒しまはるしまつです。さんとうせつかうふくけんの諸地方などは、ほとんどいつさいが、根こそぎされる有樣です。高麗も、さんざんになやまされ、これがげんいんとなつて、つひにほろびてしまひました。ついで興つたのが、てうせんといふ國であります。

足利義滿が、明のえうきうをいれて、取りしまりをおこなつたため、わが國民の大陸進出は、一時下火となりました。しかし、幕府の手ぬるい取りしまりぐらゐで、國民の海外發展心がくじけるわけはありません。やがて幕府がおとろへると、發展の氣勢は、ふたたびもえさかりました。ことに、應仁の亂後の活躍は、今までにないほどめざましいものでした。船には、はちまんだいぼさつと書いた大のぼりを押し立て、とうあの海を、ところせましと乘りまはしました。朝鮮・支那はもちろんのこと、八重の潮路を乘り切つて、はるか南洋までも進出しました。風向きを利用して、たくみに船をあやつり、上陸すれば、そのどうさはやてのやうで、進むにも退くにも、よくくんれんが行きとどいてゐました。地理やきしやうをくはしく調べ、ゑいせいを重んじて、特に飮み水には心を配つたといひます。

明では「それ八幡船よわこうよ」といつて、これを恐れました。しかし、八幡船の人たちも、貿易の望みさへかなへば、あへて武力をもちひるのではありません。かへつて、明の商人や海賊が、みづから倭寇としようして、人々をおびやかす場合が多かつたのです。

海外進出

海外進出

南方へ出向いた九州やおきなはの商人と、土地の住民との取引きは、きはめておだやかに行はれました。南方の人々は、ゆたかな産物にめぐまれて、樂しくくらしてゐました。かれらは、勇敢でまじめなわが國民をよろこび迎へて、日本の産物をもてはやしました。月影の明かるいやしかげで、めづらしい歌を聞かせてもくれれば、もつと盛んに貿易に來るやう、すすめるものもありました。かうして、日本刀やあふぎいわうなどを積んで行つた船は、藥やせんれうかうれうなどを積みこんで、意氣やう々と歸りました。

ところが、この平和な南洋へ、やがてヨーロッパ人が押し寄せて來るやうになつたのです。さきに元が、あおうにまたがる大國をけんせつしたので、アジヤとヨーロッパとの陸上かうつうは、大いに開けました。しぜん、アジヤの國々のやうすが、ヨーロッパに知れました。中でもわが國は、特に「わうごんの國」として傳へられ、ヨーロッパ人の欲望をそそりました。ところが、いつたん開けた交通路も、その後、ちゆうかんにトルコといふ國が興り、それにさまたげられて、通ることができなくなりました。應仁の亂が起る少し前のことです。

そこでヨーロッパ人は、あらたに海路によつて、日本へ來るくふうをしました。そのため、もつぱら造船や航海術の發達をはかりました。中でもポルトガル・イスパニヤの二國が、いちばんこれに力を注ぎました。やがて、イスパニヤ人は、西まはりを試みて、アメリカ大陸に達し、ポルトガル人は、東まはりをえらんで、インドへ着きました。ともに、後土御門天皇のめいおう年間のことであります。

ヨーロッパ人は、これに勢づいて、いよいよ東亞へ押しかけて來ました。ポルトガル人は、さらに東へ手をのばして、南支那にも根城を作り、インドや支那と盛んに貿易を行ひ、イスパニヤ人も、やがてフィリピン群島を占領し、南洋の島々と取引きを始めました。

南蠻人

南蠻人

〈第百五代〉ごなら天皇のてんぶん十二年、ポルトガルの一商船が、たねがしまへ着きました。これが、ヨーロッパ人のわが國へ來た初めで、今から約四百年前のことです。少しおくれて、イスパニヤ人も來ました。ところが日本は、決してゆめのやうな「黃金の國」ではなく、天皇を神と仰ぎ、武勇にすぐれて禮儀正しく、しかも學問も進み、その上ふうけいの美しい國でした。ヨーロッパ人も、これにはすつかりおどろいたといひます。さいはひ、兩國とも貿易を許されたので、さつまばうのつひぜんひらどで、めづらしい品物の取引きをしました。わが國では、これらのヨーロッパ人を南蠻人、その商船を南蠻船と呼ぶやうになりました。

わが國民も、種子島でポルトガル人がしめした鐵砲には、ちよつとおどろきました。さつそくこれを買ひ取つて、その作り方をけんきうしました。やがて、わが國でも、りつぱな鐵砲が作れるやうになり、そのため、戰法や築城法がよほど變つて來ました。またキリスト教も傳はり、てんしゆけうと呼ばれて、盛んに各地へひろまりました。

しかし殘念なのは、勇ましい八幡船の活躍が、幕府にうとまれて、この南蠻船との競爭を、思ふやうに續けることができなかつたことであります。

三 こくみんのめざめ[編集]

足利義政が、荒波とたたかふ八幡船などには目もくれず、銀閣を建てたり茶の湯を樂しんでゐたのは、ちやうどヨーロッパ人が、東亞の航路を探つてゐたころのことでした。幕府の命令は、もうやましろ一國におよぶか及ばない有樣で、地方では、武將が、自分の領地をひろげるため、力にまかせて攻め合ひを始めました。まつたく、強いもの勝ちの世の中になつて、人々の苦しみは、增すばかりでした。義政の次に將軍に任じられたよしひさは、武將のわがままをおさへようと、いろいろ工夫しましたが、もう何としても、ききめがありませんでした。

應仁の亂は2127から2137まで

應仁の亂は2127から2137まで

戰亂のうづまきは、まづ關東に起りました。やがて、それがうしほのやうな勢で全國へひろがり、國々は、大波にのまれさうになりました。この大波にもまれて、いくにんものえいゆうが、次々に現れたのです。關東では、ほうでうさううんが、後土御門天皇の御代に、早くもいづりやくしました。その後、北條氏は、子のうぢつな、孫のうぢやすと、三代・五十年の間に勢を得て、後奈良天皇の天文年間、つひに關東一たいをへいていしました。これと前後して、中部には、うへすぎけんしんたけだしんげんいまがはよしもとおだのぶなが、中國には、あまごつねひさおほうちよしおきまうりもとなり、四國にはちやうそがべもとちか、九州にはしまづよしひさなどが現れ、やがてあううからは、だてまさむねが出ます。これらの英雄は、いづれも、まづとなりどうしの敵との間に、親子代々、血みどろの戰を續けました。

しかしわが國は、あきつみかみであらせられる天皇のお治めになつてゐる、尊い國であります。世の中の移り變りが、そんなにはげしからうと、國のもとゐは、少しもゆらぎません。京都は、應仁の亂ですつかりさびれ、くげも、一時はちりぢりになりましたし、おとろへた幕府は、もう皇室の費用をたてまつる力さへありません。日常の不自由は、申すもおそれ多いほどで、まして大切なおん儀式などは、よういにおげになることのできないおん有樣でありました。しかし、かうした中に、かたじけなくも御代御代の天皇は、戰亂・不作・病氣などに苦しむたみくさに、深い深い惠みをたまはつたのであります。

後奈良天皇の御寫經
後奈良天皇の御寫經
さきに後花園天皇は、民の苦しみをおさつしになつて、義政のおごりをおいましめになりましたが、後土御門天皇・〈第百四代〉ごかしはばら天皇も、戰亂の世を御心配になり、ひたすら、萬民の生活に御惠みの心をお注ぎになりました。後奈良天皇がお立ちになつたころは、とりわけ御不自由のはなはだしい時でありました。しかも天皇は、これを少しもおいとひなく、もつぱらごけんやくにつとめさせられ、すたれてゐた御儀式をごさいこうになりました。また、皇大神宮の社殿をお造りかへになることにも、いろいろ心をお用ひになりました。ある年、雨が降り續いて、不作とはやり病のために、民草が續々たふれました。天皇は、みてづからきやうもんをおうつしになり、これを國々の社や寺にをさめて、わざはひが除かれるやう、お祈らせになりました。

御惠みの光に照らされて、世の中は、しだいに明かるくなつて行きました。各地の英雄も、さすがに日本の武士でした。しのぎを削つて敵と戰ふかたはら、部下をいたはり人々をいつくしんで、よく領内の政治を整へました。戰ひぶりにも、しだいに、みがきがかかつて來ました。その上、かれらは、何とかして都へのぼり、天皇の命令を奉じて、全國を平定しようと、考へるやうになりました。ただ、だれもかれも、たがひに、にらみ合ひのかたちなので、それを實行することは、なかなかむづかしいことでした。

川端道喜の眞心

川端道喜の眞心

そこでこれらの英雄は、皇帝の日常のことをもれ承ると、續々御費用をたてまつつて、きんのうの眞心をあらはし始めました。大内よしたか・北條氏綱・上杉謙信・毛利元就・織田のぶひでとその子信長など、多くの英雄が、あるひは御儀式や御所しうりの御費用をたてまつり、あるひは神宮をお造りかへになるお手傳ひをいたしました。民草の中には、かはばただうきのやうに、御所の近くに濟んで、折を見てはくごを進めてたてまつつたものもあり、いせせいじゆんにのやうに、げくうのお造りかへに、力をつくしたものもあります。また、この間、さんでうにしさねたかやましなときつぐらの公家は、おいの身をいとはず、苦しい旅を續けて、英雄たちに皇室のやうすを傳えへ、神宮に奉仕してゐるものは、國々をまはつて、敬神をすすめました。わが國の古い習はしである「お伊勢まゐり」は、このころから、目だつて盛んになつたのであります。

いすず川の清らかな流は、いつまでも、日本の古い姿をそのままに傳へてゐます。さしもにみだれた世の中も、皇室の御惠みによつて、しだいに明かるくなつて來ました。しかも黑潮たぎるうなばらには、八幡船や南蠻船が、はげしく往來してゐます。國民は、そんのう敬神の心を深めて、うらやすの國に立ちかへる日を待ちわびました。やがて〈第百六代〉おほぎまち天皇の御代に、織田信長・とよとみひでよしが、相ついでせいしを奉じ、全國平定の事業を進めるのです。わが國がらの尊さは、あさましい戰亂の世にもかかはらず、かうして、はつきりと示されるのであります。

年表[編集]

御代 紀元 年號 事がら 題目
神武天皇 元年 御卽位 神國
四年 鳥見の山中で皇祖をおまつりになる
一〇 崇神天皇 五六九 六年 天照大神を笠縫邑におまつりになる
五七三 十年 四道將軍をおつかはしになる
五七五 十二年 人口を調べみつぎ物をお定めになる
五八〇 十七年 諸國に命じて船をお造らせになる
一一 垂仁天皇 六五六 二十五年 皇大神宮をお建てになる
六六六 三十五年 池や溝をお造らせになる
一二 景行天皇 七四二 十二年 熊襲をお討ちになる
七五五 二十五年 武内宿禰を東國へおつかはしになる
七五七 二十七年 日本武尊が熊襲をお平げになる
七七〇 四十年 日本武尊が蝦夷をお平げになる
一三 成務天皇 七九五 五年 國・郡を設けて地方の政治をお整へになる
一四 仲哀天皇 八六〇 九年 神功皇后が新羅をお討ちになる
一五 應神天皇 八六五 五年 新羅が始めてみつぎ物をたてまつる 大和の國原
九四五 八十五年 王仁が百濟から來て學問を傳へる
一六 仁德天皇 九七六 四年 税をお免じになる
二一 雄略天皇 一一二二 六年 皇后が養蠶におはげみになる
一一三八 二十二年 外宮の始り
二九 欽明天皇 一二一二 十三年 百濟から始めて佛教が傳はる
三三 推古天皇 一二五三 元年 聖德太子が攝政にお立ちになる
一二六四 十二年 十七條の憲法をお定めになる
一二六七 十五年 小野妹子を隋へおつかはしになる 法隆寺をお建てになる
一二八〇 二十八年 始めて國史が作られる
三四 舒明天皇 一三〇〇 十二年 高向玄理・南淵請安らが唐から歸る
三五 皇極天皇 一三〇五 四年 蘇我氏がほろびる
三六 孝德天皇 一三〇五 たいくわ元年 大化の改新が始る
三七 天智天皇 一三二五 四年 長門・筑紫に城が築かれる
一三二七 六年 都を近江におうつしになる
一三三〇 九年 戸籍をお造らせになる
四〇 天武天皇 一三四一 九年 法令をお整へになる 奈良の都
四二 文武天皇 一三六一 だいはう元年 大寶律令ができあがる
四三 元明天皇 一三六八 わどう元年 和同開珎をお造らせになる
一三七〇 同 三年 平城京におうつりになる
一三七二 同 五年 古事記ができあがる
一三七三 同 六年 諸國に風土記をお作らせになる
四四 元正天皇 一三八〇 やうらう四年 日本書紀ができあがる
四五 聖武天皇 一三八四 じんき元年 多賀城が築かれる
一三八八 同 五年 渤海が始めてみつぎ物をたてまつる
一三九〇 てんぴやう二年 施藥院の設置
一四〇一 同 十三年 國ごとに國分寺をお造らせになる
一四〇三 同 十五年 東大寺の大佛をお造らせになる
一四〇九 てんぴやうかんぱう元年 陸奧から金をたてまつる
四六 孝謙天皇 一四一二 てんぴやうしようはう四年 大佛ができあがる
四七 淳仁天皇 一四一八 てんぴやうはうじ二年 太宰府の防衞をお固めさせになる
一四二一 同 五年 弓を作る材料を唐へお送りにならうとする
四八 稱德天皇 一四二九 じんごけいうん三年 和氣清麻呂が道鏡の無道をくじく
四九 光仁天皇 一四三〇 はうき元年 道鏡を流し清麻呂をお召しかへしになる
五〇 桓武天皇 一四五四 えんりやく十三年 平安京におうつりになる 京都と地方
一四五七 同 十六年 坂上田村麻呂が征夷大將軍に任じられる
一四六二 同 二十一年 膽澤城が築かれる
一四六四 同 二十三年 最澄・空海が唐へ渡る
一四六五 同 二十四年 最澄が天臺宗を開く
五一 平城天皇 一四六六 だいどう元年 空海が眞言宗を開く
五三 淳和天皇 一四八八 てんちやう五年 空海が京に學校を開く
五六 清和天皇 一五二二 ぢやうぐわん四年 眞如親王が唐へお渡りになる
五九 宇多天皇 一五五一 くわんぴやう三年 菅原道眞を重くお用ひになる
一五五四 同 六年 遣唐使の停止
六〇 醍醐天皇 一五六一 えんぎ元年 道眞が大宰府にうつされる
六八 後一條天皇 一六七九 くわんにん三年 藤原隆家が刀伊を打ち拂ふ
一六八二 ぢあん二年 法成寺ができあがる
七〇 後冷泉天皇 一七一一 えいしよう六年 前九年の役が起る
一七一三 てんぎ元年 藤原賴通が鳳凰堂を建てる
一七二二 かうへい五年 前九年の役がしづまる
七一 後三條天皇 一七二九 えんきう元年 政治をお改めになる
七三 堀河天皇 一七四六 おうとく三年 白河上皇が院中で政務をおさばきになる
七三 堀河天皇 一七四七 くわんぢ元年 後三年の役がしづまる 鎌倉武士
七五 崇德天皇 一七八四 てんぢ元年 藤原清衡が金色堂を建てる
一七八九 だいぢ四年 平忠盛が瀨戸内海の海賊を平げる
七七 後白河天皇 一八一六 はうげん元年 保元の亂
七八 二條天皇 一八一九 へいぢ元年 平治の亂
七九 六條天皇 一八二七 にんあん二年 平清盛が太政大臣に任じられる
八一 安德天皇 一八四〇 ぢしよう四年 源賴朝が兵を擧げる
一八四五 じゆえい四年 平氏がほろびる
八二 後鳥羽天皇 一八四五 ぶんぢ元年 賴朝が地方の取りしまりを固める
一八四九 同 五年 賴朝が陸奧の藤原氏をほろぼす
一八五二 けんきう三年 賴朝が征夷大將軍に任じられる
一八五三 同 四年 富士の卷狩
八四 順德天皇 一八七九 しようきう元年 源氏がほろびる
八五 仲恭天皇 一八八一 同 三年 承久の變
八六 後堀河天皇 一八九二 ぢやうえい元年 北條泰時が武士のおきてを定める
九〇 龜山天皇 一九二八 ぶんえい五年 蒙古の使ひが來る 北條時宗が執權になる
九一 後宇多天皇 一九三四 同 十一年 文永の役
一九四一 こうあん四年 弘安の役
九六 後醍醐天皇 一九七八 ぶんぱう二年 御卽位 吉野山
一九八一 げんかう元年 院政の停止
一九八四 しやうちゆう元年 正中の變
一九九一 げんこう元年 元弘の變 楠木正成・櫻山玆俊らの擧兵
一九九二 同 二年 隱岐におうつりになる
一九九三 同 三年 伯耆へお渡りになる 菊池武時戰死 鎌倉幕府がほろび中興の政治が始る
一九九五 けんむ二年 足利尊氏がそむく
一九九六 えんげん元年 多々良濱の戰 湊川の戰 名和長年戰死 吉野行幸
一九九八 同 三年 石津の戰 藤島の戰
九七 後村上天皇 一九九九 同 四年 北畠親房が神皇正統記を作る
二〇〇三 こうこく四年 親房が常陸から吉野へ歸る
二〇〇八 しやうへい三年 四條畷の戰
二〇一二 同 七年 宗良親王を奉じて新田義興らが東國で賊軍を破る
二〇一四 同 九年 親房がなくなる
二〇一九 同 十四年 筑後川の戰
九八 長慶天皇 二〇四一 こうわ元年 懷良親王が明の無禮をおとがめになる 八重の潮路
九九 後龜山天皇 二〇五二 げんちゆう九年 京都還幸
一〇〇 後小松天皇 二〇五七 おうえい四年 足利義滿が金閣を造る
二〇五九 同 六年 應永の亂
二〇六一 同 八年 義滿が明と交りを結ぶ
一〇一 稱光天皇 二〇七九 同 二十六年 足利義持が明と交りを斷つ
一〇二 後花園天皇 二〇九二 えいきやう四年 足利義教がふたたび明と交りを結ぶ
二一〇一 かきつ元年 義教が部下の武將に殺される
二一二〇 くわんしやう元年 足利義政のおごりをお戒めになる
一〇三 後土御門天皇 二一二七 おうにん元年 應仁の亂が起る
二一三七 ぶんめい九年 應仁の亂がやむ
二一四三 同 十五年 義政が銀閣を造る
二一五一 えんとく三年 北條早雲が伊豆を占める
一〇五 後奈良天皇 二二〇〇 てんぶん九年 御書寫の經文を社や寺々におをさめになる
二二〇三 同 十二年 ポルトガル船が種子島に來て鐵砲を傳へる
二二〇九 同 十八年 イスパニヤ人が來て天主教を傳へる
一〇六 正親町天皇 二二二〇 えいろく三年 織田信長が桶狹間の戰で武名をあげる
二二二三 同 六年 外宮のお造りかへ

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