保険の始め

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石井研堂『明治事物起原』橋南堂、1908年

金融商業部

保険の始め[編集]

 (一)保険の語原 保険は明治後の新名にて、最初は、「災難請合」あるいは「危難請負」などといへり。慶応二年版『事情』次篇の坤に、「災難請合の事イニシアランス、生涯請合、火災請合、海上請合、災難請合とは、商人の組合ありて、平常無事の時に、人より割合の金をとり、万一其人に災難あれば、組合より大金を出して、其損亡を救ふ仕法なり」と、海上の例に、ロイドを引けり。

 また同書外編の二に、「相対扶助の法〈フレンド・ソサイチ〉〈ベネヒト・ソサイチ〉、人々の随意に会社を結び、平生より積金を備へおきて、其社中に病人又は不幸に逢ふ者ある時は、積金を以て之を扶助する法なり」といへり。別項海上受負の名も、あるいは『事情』の訳字を用ひたるならん。

 明治四年五月造幣規則に、金銀地金を納め、造幣を望む者の運賃ならびに危難請負の規定を出せり。

 また五年春、東京に大火ありしとき、井上馨建言の内に、「防火兵は勿論、貸家会社、又者火災請負等の方法未だ不2相立1」とあり。しかるに同年五月の『毎周十号附録』英米葛藤記中に、始めて保険賃の沸騰、保険の増賃等、保険の二字見え、六年二月の『日要』六十一号にも、イギリス保険会社中の損耗莫大なりなど見ゆ。  新訳字 明治二年刊『開智』の記事は、よく保険業の要領をつくせども、ただ旧会社と記せるだけにて、いまだ保険とはいはず。いはく、「英国に一会社あり、此社中に入るものは、仮令へば家興三千ポンドある時は年毎に其高百ポンド半より二ポンドを出しおく事なり、然る時は、万一失火或は盗賊の災厄に罹るとも、家代及び諸具に至る迄、洩さず償ふべき金を、会社より出す事なり、又当主存生中、相談の上、年々若干ポンド宛を会社へ出しおく時は、当主死亡の後も、其家族は、此社中より悉く養育する事なり」。

 同書はまた、在庫品の受け合ひ、汽車旅行中の受け合ひを説き、同年刊『新塾月刊』第二号は、「海上請合証書の訳」を説き、三年刊『聞見録』|保認会社《ウケアヒナカマ》の題下に、家宅保認会社、洋船保認会社を説き、同八月刊『交易心得草』に、諸請負の法一章あり、各種の保険事業の外貌内容は、明治初年すでに各種の著書によつて明らかにされをりしを知る。

 明治の新語なるこの保険の二字は、最初いかに翻訳せしやを見るに、

  開成所編慶応版『英和対訳袖珍辞書』に、Insurance「請合ヒ慥ニスルコト」。

  英人スウエルス・ウエレンス著柳沢信太訓点、明治二年版『英華字彙』に、Insurance Companies「担保会」。

  『新塾月誌』明治二年四月版インシユレンス保険あるいは担保と訳す。

  英人ニユツタル編、吉田賢助等訳、明治五年版『英和字典』に、「請合ヒ、慥ニスルコト、買保険之事、保信」。

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