佐久間軍記/信長公御生害

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武田勝賴滅亡 ↑佐久間軍記 →明智光秀被討


信長公御生害

同五月。羽柴秀吉中國ヨリ注進。備中國ヲ伐テ。カハヤカフリノ兩城ヲマヽ圍ム。高松城ヲ攻所ニ。毛利輝元爲救之發兵。秀吉大河ヲヘタテ對陣ノヨシヲ申。信長公爲救秀吉ヲ。中國可有御進發ヨシ。諸將ニ觸。軍勢ヲ發ヲ不待。少勢ヲ率御上洛。信長公本能寺。信忠妙覺寺御宿陣。六月二日。明智日向守光秀。圍ム本能寺ヲ信長公御年四十九。奉弑。明智左馬助妙覺寺襲。信忠二條御所ニ入給。明智兵ヲ進攻破。信忠御年二十八。御自殺。諸人仰天ノ外無他。光秀到安土。金銀珠玉重寶ヲ愛スト云々。

大坂ニハ三七信孝。四國赴カンタメ堺ニ有。丹羽五郎左衞門長秀。信孝ヲ大坂ヘ招入。織田七兵衞信澄光秀聟。有大坂。ヲ殺シ。長秀。池田信輝ト相議光秀ヲ擊ト秀吉ヘ通。

此時。家康公。泉州堺ニ御座。亂ノ發ヲ聞召。御上洛有テ光秀ヲ擊ト被仰ケレトモ。御勢不足ニヨリ。後戰ヲ期。江州信樂ヲヘテ勢州ニ出御。爰ニ柴田源六勝之。甲州以後安土ノケイエイニ居。信長公御事ヲ聞馳登。道ニヲイテ奉參會。勢州白子マテ供奉ス。此時。源六ニ忝キ上意アリト。家康公ハ御船ニメ 岡崎ヘ渡御。源六ハ北國ニ行。同年。佐々内藏助成政。爲柴田源六養子。嫁シ成政娘。越中外山城ニ置。號佐佐源六。於此長尾景勝。河田長親發兵。圍攻成政之小出城ヲ。佐々源六勝之。外山城ヲ出救之。景勝。長親城ヲ卷ホクシ退散。源六擊之大ニ破ル。



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