今川記

 
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今川記第一 又称富麓記
 
世の盛衰転変は代々の鑑に記し置所もるゝ事なし是はたゝ近来世乱れて或は一国一郡或は一郷一村を争ひ私欲にまかせて軍を起し国郡をうはひうはゝるゝたくひはなへて世のしるへきにあらねはまのあたり見し事聞し事又はふるき人の語り伝へ書置し事共を筆にまかせて書付ぬ相搆てよく心得へし主に不忠の臣親に不孝の子いかにたけくいさめる人も謀をもとゝし君臣の礼を忘れ長幼の義を守らて不道不義にして人の所領をうはひしは一旦身を立家をおこす事あれとも皆一世のみにてほろひ後代に耻を残す事むかしも今もかはる事なし誠につゝしむへき事也抑我等か父祖のいにしへ勿論人の数ならねとも元は京都に祗候し殿中にましはり番役等も勤仕しか中比所領につき遠江に下りし後は京都もみたれ公方にもたひ御没落の御事なれはをのつから奉公の望も絶しにや此一二代は今川殿の被官と成て在国せし也さるから駿遠参州の事はよくしれる事なれは見聞し事のたしかなるをは書のせ侍りかたりつたへておほつかなき事は略之畢むかし眼前見し事を今人のかたるをきけはかたもなき偽なとをとりまきらかしていひつゝくる也されは今の世に人の語りつたふるにちかひたれはとて此事書置し事はひか事と計思ふへからす同し事をかたるにも贔負偏頗のあれは大きに相違する事也よく吟味すへし又京都の御事管領四職の噂もをのつから昔のよしみもあれは聞伝へし事はかたはし計書付侍る関東の方様は所縁の人の物語又記し置し事なとのたしかなるを少々書載ぬされと他国の事はあやまりも空言もあるへきにやよくあらさる事をはひちらすはよしなき事なれとも前にも申ことく世の治乱家の興廃は人君臣下の善と不善による事なれは忠臣孝子の志行をしるへきたよりにもなれかしと存計也ねかはくは子孫末葉の輩万に一も君に忠節親に孝行真実の道理を心にかけ後代に誉れをのこし我等か不肖の家をおこし給へと思ふ心のやみのまよひにて跡を先へたとりなからかきしるす物也ゆめ人にみすへからす

王道おとろへ君臣の義父子の道今しらぬ世と成事保元の乱出来しより武士の威をあらそひ又平治の戦も有ける也一治一乱は世の常の事なれとも賞罰理にたかひぬれは是又乱逆のもとゝは成也保元平治の忠賞に平家おこりを極めて一家永く断絶せしかは源氏又武威をかゝやかし王道弥すたりきりされは朝憲を蔑如する事は清盛公にはしまり武家権を取て治承より今に至て四百年に及ふ事は頼朝の遺風也又此末の世にも公家の一統する事は有へき事ともおほえす世の成行さまは自然の事にて鳥羽院よりさきさまにも聖主賢王計世をたもち給ふにはあらす後白河院まて七十四代は相続せし也何事も時節到来といひなから是等は又理の当然也事の濫觴はかすかなれ共後の賢に成へしとは誠なるかな高き山もふもとのちりひちよりなりふかき海も一滴の流に初まると申とかや凡慮の不及所也

誰もある事なれともかゝる乱世の後は一文不智の民となり王殿原も父祖の事さへしるましけれは其為計に書付る也抑御門の御はしめは神武天皇と申て天照大神の御子孫にて今にいたるまてかの御末也将軍と申奉るもかの神武より五十六代清和天臣の御末にてわたらせ給オープンアクセス NDLJP:350しかるに源氏は代々の御門の御子孫そのなかれまちなれとも清和の御末源氏の武将として今に繁昌まします也先正統の次第を申さは清和天皇より貞純親王経基王多田満仲頼信頼義八幡太郎義家也今の公方様と申も管領の人々も吉良殿今川殿と申も何も此御末なり八幡殿の御子四人まします一男対馬守義親二男河内守義忠三男式部大夫義国四男六条判官為義也しかるに義親は反逆の聞え有て被遠流於配所誅伐也実は讒言にてありけるとかや二男義忠は叔父新羅三郎義光と不和の事にて鹿島と云郎等にひそかにうたせられけるとかや三男義国は康和年中に東国に下向し下野足利に住し給四男為義京都にとゝまり大内守護にて有しとかや実は此為義は義親の子なりしを義家襁褓のうちより養ひ給しとかや此事義家の置文八幡の宝蔵より出て後には露顕せし也

為義の嫡子左馬頭義朝相続して京都の警衛也源氏の武士等彼下知にしたかはすと云事なしされ共義国の御子義重義康なとは自余の源氏に不准諸事に付てれんみん慇懃の御事とかや其​本マヽ​​迄​​ ​義朝はあつた大宮司藤原季範か聟也義康又其妹に嫁しいとこにて相むこなれはかたかたよしみも有ける也

当時源氏の正統を申奉るに義国の御子一男義重新田殿の初め也二男義康足利殿是そ今の将軍の御先祖也義康の御子一男矢田判官義清木曽殿と同時せめ上り備中国水島合戦に討死也二男足利判官義房は頼政に一味し宇治川合戦に討死し給ふ三男上総介義兼そ義康の家督をは御相続也

義兼は実は八郎為朝の子成しを義康の窃に養ひ給ひけると也御長九尺計にて力人に勝れ給ふ義兼は此事しろしめさぬ頼朝は窃にしろしめし給ひけると也頼朝に眤近し給ひ人柄も穏便にましけれは時政か聟になし申されけると也去は頼朝と義兼もいとこにて又相聟也去程に新田殿より足利殿御末繁昌し代々北条家と縁を結ひ給ひし也義兼の実父為朝は高名の合戦廿五度人をころす事数不知されとも一人として非儀の敵をうたす古今無双の強弓にてあれとも漁猟のあそひをこのます慈悲を先として父母に孝有て礼儀を専とし一心に地蔵を奉念さる故にや現在にて荒神のやうにおそれしかとも子孫は残りて天下の武将とあふかれ高位将軍に登り給ふ不思儀の御事也

義兼の御子左馬頭義氏御法名正義北条義時のむこ也其御子一男足利五郎長氏上総介二男義継三男泰氏宮内大輔平石殿と申此御母義時の娘のはらにて左馬入道殿の家督を相続にて惣領に立給ふ泰氏又最明寺殿の妹聟にて式部大夫頼氏を生給ふ頼氏の御子家時伊予守殿其御子貞氏讃岐守殿其御子尊氏将軍等持院殿様是也其御弟直義大休寺殿今の京鎌倉の始め也尊氏公は北条相模守久時の聟也宝筐院様御母是也加様に代々先代の御縁辺にて関東の御威勢源家の棟梁にてましましけるとかや

権長氏の御事義氏の一男にてまし候へ共病気によつて三州吉良の庄に御隠居泰氏当腹の威に付長氏の猶子の義にて惣領に成家督相続有しと也去により吉良今川の御事とも公方様より他にことなる御尊敬也又今川殿長氏御隠居の跡を御相続被成し故也田舎人の申事にオープンアクセス NDLJP:351や御所絶は吉良継吉良絶は今川継と申とかや加様のいはれも故有申事にて候されとも其家々にては沙汰もなき御事也

長氏の御一男満氏三郎実相寺殿吉良の初祖也次男国氏今川の初祖也満氏一男貞氏右兵衛督満義寂光寺殿其弟貞弘は荒川殿満義の御子満貞道貞寺殿其弟有義一色殿満長橋田殿尊義東条殿満康岡山殿也然るに此尊義は満義御隠居の御跡東条を押領にて満貞と忽御中悪成御合戦もありけれと後は御和談にて終に東条御相続也吉良東条殿と申は此御末也満貞の御子尊義其子俊氏龍門寺殿其御子義尚正法院殿其御子義真枯花院殿其子義信常楽寺殿義元少林院殿其子義尭乾福院殿其御子義郷宝珠院殿其御弟義安義昭也義郷御他界の後此義昭御家督御相続候へ共駿河と度々御取合にて終に御没落也然に義安は東条殿御遺跡御相続にて候へ共義昭御没落の時今川殿御はからひにて又西条をも御相続と承及義安の御時より両吉良御相続にて今西条殿計御坐有し也

東条殿と申は満義の御子尊義霊源寺殿東条の初と也其御子朝氏右兵衛督光栄寺殿其御子持長長栄寺殿其子持助功徳院殿其子義藤亀蔵寺殿其御子持広花岳寺殿也持広は松平親忠の聟也女子一人まし御跡継なくて西条義安を養子してむことして東条を相続有し也然共義昭御没落の後西条殿御継絶により今川殿御計ひにて義安又西条も御相続也両吉良其に御相続也後に義安をは駿河へ義元よりとり申藪田と申所に置申されし駿州没落の後御帰国被成候也

今川殿は長氏の二男国氏国光寺殿其子太郎基氏童名龍王是は義家奥州御退治の有之時御随身の龍の目貫の御腰物を長氏相伝成しか基氏の御うふやの時被遣候により龍王と名付給ふと也御弟あまた有常氏関□殿俊氏入野殿政氏木田殿この比まてはたしかに見及申駿河今川御一家の人々の初め也又那児屋石川なとゝ申は基氏の御いもうとむこなり是も皆御一家と申人々也

基氏の御子式部大夫頼国次に刑部少輔範満次に仏満禅師法折次五郎範国入道法名心省也当今川殿は此心省の御筋にて候也

式部大輔頼国は等持院殿中先代御退治の時海道の大将にて御先をせめ給ひしに相模川大水にて猛勢さゝへけるに強てわたされけれは河中にて矢にあたり討死也すへて此殿はすくれたる武勇の大将にておはしけると也同時の合戦に遠江国佐夜中山にて中先代の大将名越大郎といふもの討捕せめくつし給又相模国湯本に敵要害を構て支ける程に頼国北の山に打あかり敵の後より大勢の中へ馳入給ひけれは敵敗軍にてをひ破られけると也昔の一の谷よりさかしき岩崎を五町計落し給ふと也二条殿より給はせ給松風といふ名馬にめされけると了俊の書置給ふ難太平記に見えたりかの馬其時跡足の皮皆破れけると承及ふ其子掃部助頼貞と申候其御子なくて範氏に御遺跡をゆすり被申し

刑部少輔範満は武蔵国小手指原の合戦に重病になりしか共馬にかきのせられ足を力革にゆい付させて合戦し給もゝを切落され酒田左衛門尉と云家人に頭をとらせけると也

オープンアクセス NDLJP:352其弟仏満禅師は鎌倉建長寺の前住にて彼塔頭続灯菴の開基也

其弟範国は先代の時泰家の高時に述懐有て出家せし時鎌倉中ことことく出家しけれは廿三にて入道し心省と申基氏の五郎にあたり末子にておはしけれと家督を継給ひける也凡建武より以後度々の合戦に忠義を尽しひとへに忠功のまことをは天道の盛有物と承候誠なる哉かやうのためしいつれの御家にも其数多し大身小身によらす武道におゐてはたゝ誠を本と可存事也〈右是は難太平記に委あり一覧せしまゝ存出し候所を書付候也〉

建武四年駿河国手越河原の合戦に味方打負錦小路殿御討死有へき由細川卿房定禅すゝめ申されしを心省不了然とて御馬の口を押返し御馬の尻を打引かせ奉り夜に入けれは心省計御跡に留り敵付来らさりけれは奥津の宿にて追付給けり又九州へ御退の時兵庫莫の御堂と云所にて皆々腹切の着到を付られしに心省は殊に御腹めさるへしとすゝめられ細川卿房は只御船にめさるへしとて御船にめされし也此事を後に錦小路殿常に被仰しは此両度は已に御先途と思召定めしを両人の異見​本マヽ​​後​​ ​合せさりきよき武士の心は同しかるへきに此違目は不審也とおほせられしとなり其後落書有りし

 今川に細川そひて出ぬれい堀口切れて新田なかるゝ

細河清氏御不審かうふりし時心省の御謀事として御所様へ被仰しは貞世は清氏と入魂の者也かれをめしのほせ清氏と指違打果給はゝ御大事はあるましとて其比遠州に在国なされしをめしのほさせ給ふと也されとも貞世上洛以前に清氏は没落せしと也正布戦場のうち死仕はあれとも一子をすて給ふ忠義は有難き事也〈伊予守貞世とは了俊の俗名也〉

建長四年北畠顕家三十万騎にて奥州よりせめ上り給ひし時桃井宇都宮三浦介已下の味方敵の跡をおそひ上りし時心省い遠州三倉山に陣とり味方に加り海道所々にて御合戦有殊に美濃国にて諸勢もみ合評義有明日の合戦一大事也とて海道の勢三手に分て一二三の鬮を取入替々々せめらるへしとて桃井宇都宮は一くし今川三浦は二くし吉良三河勢ハ三鬮也桃井勢は皆たかの鈴を付たり今川心省かさしるしを思案被成あかとりを馬に付給けり今川の家人稲垣八郎左衛門尉米倉加々爪平賀なとゝ云若武者一番勢をぬけ先かけして合戦を初め桃井宇都宮打負けるに今川勢三浦勢入替て合戦心省の手にかけ山の内と云人を討捕ほろかけ武者二騎射落し給ふ也それより奥州勢所々の合戦に打負伊勢路にかゝり登りけると也此忠賞として駿河国並数十所の御所領をたまはらせ給ふと也〈私云此奥州勢は北畠殿白河結城入道楠木左右近蔵人常陸国小田の少将以下の人々也〉

駿州御入部の初め富士浅間へ御神拝の時神女詫し云遠江の国ちかくて氏子にほしかりしまヽ笠しるしを得させし也さるにより合戦に打勝て此国の主と成しと申けるに心省信を取て拝し給ふと也今川殿の赤鳥のかさしるし此いはれなり

心省駿州国務の時浅間惣社の宮に誓状を納め給ふ其状に云

  沙弥心省謹言

駿州国務成敗の間諸事の理非をわきまへなから遵行のさたをいたさす沙汰に親踈ありてへんはを存わいろをそくたくにふける思ひあらは心省以下諸奉行並家人等に至るまてねオープンアクセス NDLJP:353かはくは浅間大菩薩たち所にはつしたまへと也仍せいくはん如件

  建武五年五月十七日              心省敬白

此願書かの社に納り于今有之彼心省の御子上総介範氏次男伊予守貞世法名了俊瀬名殿堀越殿尾崎殿名和殿何れも此下より出たる也次に氏兼蒲原殿次に仲秋法名仲高是了俊の御跡を継給ふ範氏は心省に先立て御早世也今のするかの国の大すの慶寿寺殿是也其御子中務大輔氏家是も御早世にて其弟上総介泰範御家督は継せ給ふなり

了俊は範氏御早世の後心省の御跡継として京都に祗候有て宝筐院殿様に眠近し康安貞治の比侍所にて御坐有し也鹿苑院殿の御時西国の御敵の蜂起せしかは九州の探題に了俊を被仰付しに已に発向のとき遠江国の守護職を惜く思召けるにや管領細川殿へ〈岩栖院〉かくよみてつかはされけり

 何となくこゝろにかけて思ふ哉浜名の橋の秋の夕くれと有しかは御分国ゆめ相違不可有との御返事有りとかや扨ては心安とて御発向有永和元乙卯年三月より戦はしまり筑前国せふり山に陣とり九州の御敵菊池松浦千葉の人々をうちあたかへ給ふ味方にも遠江国横地奥山以下のともからあまた討死しけるかくて筑紫い残りなく治り十三年の間九州の探題にて御坐有しに大友と大内介と丁俊の事を讒言申勘解由小路殿取持有り了俊の探題をは召上て渋川左近将監義俊に被仰付ける其比公方も管領も政道正しからさりしを細川前の管領常久なけき給ひけれと讒人おほくて今は常久のいさめも用ひたまはさりけれは世のたゝしからさるを恨み阿波国へ隠居し給はんとて一首の詩作り給ふ

  人生五十愧無功 花木春過夏已中 満堂蒼蠅払難尽 去尋禅榻臥清風

鹿苑院殿様御政道あしくて諸人うらみうとみ奉けれは其比の鎌倉殿氏満公御政道も正しく東国十一ヶ国御存知有り篠川殿と申て御子を一人奥州に下し御申あり御下知ありし京都の御有様諸人内心は背申由聞召てそのかみ尊氏公直義と御相談にて基氏をかまくらに居へ御申有事も京都の御政道たかひ給はゝ関東より制し御申あり又関東の御ちかひ目有は勿論京都より御制し御申ありて他家に天下をうはゝれ給はぬ様にとの御謀なれは今京の義満公の御政道悪く諸人恨奉るなれは従関東征し御申ありて天下を治め等持院殿大休寺殿の御存念を守り給ひ天下万民の為に御逆心有へしとて上杉刑部大輔憲春なとゝ被仰合しかは上杉いさめ申けるは京鎌倉両方に御坐候へは互に御守りにはならせ給へ今京都をほろほし御申あらは唯両頭の鳥有て毒を食て一つの体をうしなふと同しと申けれ共用ひ給はす上杉よしやいさめに死するは忠臣の道也とて一紙の諫状を書氏満へ奉り康暦元年七月十九日自害し果給ひけれは氏満も驚き是非御逆心も難叶して思召とゝまりけり

応永六年の事にや中国大内左京大夫義弘鎌倉殿へ内通して逆心し泉州堺まてせめ上り討死しけり其後上杉安房守いさめ奉りいろの事有て京鎌倉御中色々いさめ奉り終に御和睦なりにき其比了俊は鎌倉殿に心を寄御申有よし京都に被聞食御辛労有けれ共後にはきこしめしなをされ遠州堀越をやう安堵被成し也遠州見付の海蔵寺は了俊の御墓所也此子孫オープンアクセス NDLJP:354後には駿州瀬名郡へうつり給ひけれは今は瀬名殿と申也木の源五郎は仲秋の御末也

彼了俊は文武二道の名将にておはしまして御詠歌なとも多集に入たると申也冷泉為秀への御うたに

 心ある友こそかたき世なりけれひとり雨聞秋の夜すから此歌ゆへに歌道は為秀の御門弟に成給ふと申伝也又後普光恩寺の摂政殿より連歌の御ゆるしを給はらせ給ふと也其比の事にや冷泉為尹歌道に達し給はぬとて人そしり申事有けれは落書抄落書露顕抄といふ物を了俊のかゝせ給ひけれは其比の御門後円融院の御製に

 誰もなと拾はさりけん和歌の浦にめなれぬ玉の残る光をとかやうにあそはされ下されけると也時の高名にてましけるとそすへて御述作の物あまた在之よし承り及といへとも今の世にはつたはらぬにや今川の双紙なとも了俊のあそはし置れたりと承也言塵抄なとも同御作也又九州御合戦記とてあそはしたる物在之也何事も古人の御あとをいよく吟味すへき御事也

 
今川記第二
 
其比の鎌倉殿勝光院殿満兼公去応永十七年七月廿二日御年廿三歳にて御早世なり其御子幸王殿御年十二歳にて御代をつかせ給ふ時の管領は上杉安房守長基(俗名憲定)上杉中務入道禅助なりしか禅助は満兼御逝去の日愁傷にたへかね遁世し殿中より直に宿所へも帰り給はす上総国長柄山に閑居し給ふ其上鎌倉殿おさなく御坐故に人の心もさたまらす野心の族もありけり就中的父満隆御謀反の企有已に事急なりと風聞有て応永十七年八月十五日幸王殿佐介谷管領長基の舘へ御出有りけり満隆是を聞召大に驚色々御陳謝有しかとも以の外に沙汰有しかは管領に付色々被仰開て御無事相調て同年の九月三日に若君御所へ帰らせ給ふ其明る年十二月廿二日に御元服有り京公方義持公の御一字を給り持氏と号し奉るかゝりし処に応永十九年二月十八日管領安房守憲定卅八歳にてむなしく成給ふ間故禅助入道の子息右衛門佐禅秀入道管領を給る俗名は氏憲と号す此人父の家を継き政道たゝしくて礼義を乱らさりしかは民の愁もなく人の恨もあらさりしに鎌倉殿其比御年十七歳御若気の上やらん管領と不快にて何事によらす上下和睦せさりし折ふし応永廿二年の秋禅秀の家人常陸国小田の役人越幡六郎御勘気をかうふり本領没収せられしを禅秀頻にとかなきよしを申あけ懸命の地に安堵させんと色々取持給ふ間鎌倉殿以の外にいかり給ひ已に君臣の恨の基と成りし事こそ浅間敷けれ氏憲申されけるい我已に職に居なから政道の直ならぬと見て正し申さすいたつらに君の非をかそへてあらん事管領に任し何の益か有とて則三か年目に管領をさしあけらるへきよし御そせう有処に鎌倉殿弥々いかり給ひ上をかろんする次第無念なりとの上意にて則故憲定の子息安房守憲基に管領を被仰付禅秀は閑居の体也

其年七月の中旬に禅秀ひそかに持氏公の御伯父新御堂小路に御坐満隆の御所へ参り色々のオープンアクセス NDLJP:355御物語共申夜ふけて後御近所へより申けるは抑関東の体如何御覧し候哉御所様の御政道あしく御外戚の人々讒言おほく諸人の恨みかきりなし某も已に虎口の難に沈みしを本より誤なかりしかは身命を全いたし候か様に逆なる御政道ならは定て頓て謀反のものありて御当家めつほううたかひなし然は此一跡永く絶果給はん事こそうたてけれと申上る満隆もつくと聞召てあたりの人をのけ入道と唯二人被仰合事懇なり入道又申けるいとかく思召立給へ君は先年佐介憲定か申けるにより已に御切腹有へきに相きはまり給ふ事有りさる御恨に事よせ早々思召立御代を取給ひて御政道を正しく礼儀をみたり給はすは関東の諸家誰か背可申候入道かくて候へは一方の大将を承り子共一門のものとも相伴ひ頓て鎌倉をは攻落可申候ものをと手にとるやうに申けれは満隆被仰けるは全く我身代を取栄花にさかへむとの事にあらす持仲を猶子として父子の義有是を大将に取立給へと御けいやく有不日に思立給ふ去程に禅秀方の郎等共兵具を俵に入粮米の如く馬に付人に負せて忍ひに鎌倉に入来る満隆の御内書と禅秀の廻状を関東中へ触まはる意趣は京都様よりの御下知にて持氏公並憲基等を討伐し政道をたゝすへきの趣なり御請申人々には禅秀か聟新田城主岩松治部大輔同相聟千葉新介兼胤渋川左馬助武州には丹党のものとも甲州には禅秀か舅武田安芸入道小笠原一族伊豆には狩野介相州には曽我中村土肥土屋常陸国には名越佐竹小田小栗下野国には那須宇都宮奥州には篠河殿の下知にしたかふ蘆名白川田村石川南部葛西等皆以てしたかひて打立可申候由御返答申ける近国は已に馳来ると聞えしかは同十月二日満隆持仲西御門の宝寿院に御出有て御旗を上けられしかは禅秀の郎等塔辻に下り所々を堀きり鹿垣を結て待かけたり木戸の将監此由を見て馳参り告申間持氏大に驚急き御馬にめし大蔵の御所を御出塔の辻い敵のかためける間岩殿上の路小坪へ廻り十二所にかゝり前浜より佐介管領の舘へ入給ふ其勢五百余騎にはすきさりける同四日佐介よりも合戦を初め日夜三日せめ戦ひ敵味方悉つかれ果ける折節禅秀方へは国々より一味の人々加勢有千葉小山を初め数万騎六本松へ押寄ける間御所方には梶原但馬守椎津出羽守上田上野守疋田右京進等討死し一陣破れぬれは残党まつたからす敵方には岩松渋川きをひかゝり国清寺に火をかけせめける程に今川三河守畠山伊豆守と名乗り両人爰にて討死也此三河守は上杉扇谷中務大輔朝顕の孫也朝顕の息女今川範満〈範政三男〉の内室と成て上杉式部大夫朝広以下の子共あまた出来皆鎌倉に伺候有り母方の祖父の家を継上杉を名乗りけりされは此人々も持氏の御身にかはり所々に討死也去間敵軍乱入佐介に火をかけしかは御舘に籠るへきやうなく持氏公も管領も打連て肩瀬腰越にかゝり大磯小機を過行て小田原の宿に落着給ふを土肥土屋夜討に寄ける間上杉兵部大夫等残留討死し大将達い箱根山へたとりにけ上りかの別当に案内させ三島に落着給ふ爰許にて評定をこらし先御座の体にて木戸将監を初め御近習の人々名越の国清寺に籠り敵を爰にてさいきりとめんと密談し持氏公と管領い箱根別当御供申しのひて駿河国瀬名へ御移りありける御跡より参りし人々は是をゆめ程も不知して国清寺に御座と思ひかの寺へ馳集る処に狩野介伊豆山の衆徒等引率して国清寺へ押寄せめける間籠る人々元来思ひ切オープンアクセス NDLJP:356たる事なれは一足もさらす切て出向敵数百人討捕木戸将監を初め廿一人自害して義を金石に比して名を万代に残しけり

此由駿河へきこえしかは今川殿大に驚き瀬名陸奥守斎藤弾正入道同加賀守葛山備中守以下三百余人持氏公御迎に馳向ひ先大森か舘へ入奉りかたく守護し申種々もてなし奉る禅秀等か造意の企一々に聞召届則高木左衛門佐米倉伯耆守を以京都へうつたへ被申ける間京都より御旗を被下満隆禅秀不日に退治可有由今川殿へ被仰下依之関東の諸家へ廻状を被下今川殿よりも加々爪蔵人半空軒両使を以禅秀方の人々の方へ被仰遣其状に云

今度関東御開の事先以驚入存候仍事之子細如風聞者右衛門佐入道依搆逆心候承京都上意致如此沙汰候之由披露之間就左様廉面々被成与力候之由聞候一端者雖似無謬候有名無実至誠狂惑之次第候就中風渡当国へ御移之条希代未聞也爰上意以御合力之儀諸人に被成御教書可致忠節之旨被仰下刻既御口下着之上者不承上命候事明白候哉抑如此上意厳重候之間自是も重而被成御教書候雖然軽都鄙貴命而強叛逆之輩に被致同心候上は且先祖譜代忠勤を失此時且子孫之後跡を永被成他人拝領地事為君致不忠為家似無​本マヽ​​育​​ ​所詮者観応年中に曽祖父心省祖父範氏等於当国由比山抽忠節並関東諸人降参儀を被申沙汰再天下静謐帰其謀事奮例勿論也此上者知非而早改属理被忠節者云彼云此順儀也若不然者早速に被馳向当陣被決雌雄事尤所望也以此両条一途被致返報一儀に被定事可然候哉恐々謹言

 十二月二日                   上総介源範政判

   人々御中まいる

此状を披見して関東之諸家尤々と同心し皆持氏方へ与力す先武蔵国には江戸豊島の人々二階堂下総守を初めとして南一揆の人々禅秀退治の為に鎌倉へ発向しけれは持仲公を大将として上杉伊予守同舎弟五郎十二月廿五日入間川に馳向ひ合戦し散々にかけまけ伊予守同五郎鎌倉へ引返せは禅秀大にいかり同正月朔日満隆御発向あり禅秀御供申鎌倉を打立武州世谷と申所にてせめたゝかひて南一揆江戸豊島等を追散禅秀大によろこひけり然処に同正月九日今川殿代官三浦次郎左衛門石川相模守箱根山を越て大勢にてせめ来り武州江戸豊島以下再発してせめ寄諸人悉心替しけれは鎌倉へ引返此上力なしとて正月十日満隆御所を初奉り御子持仲金吾入道禅秀子息伊予守憲方兄宝性院快尊法印其弟五郎憲春其弟同契菴長合兵庫助氏春以下一族郎等二百余人一同に念仏申自害して失にけり今度不図大軍を催し鎌倉を攻落し大功をなし給へとも不運次第又如此滅亡有りしかは持氏公憲基朝臣喜悦の眉を開きて駿州より同月十一日に鎌倉へ帰入給ふ

上州新田城主岩松治部大輔入道天用は禅秀か聟にて有しか今度の軍に打もらされ新田に帰りて大息つきて居たりしか鎌倉より打もらされし人々馳来りけれは頓て残党を催て蜂起し鎌倉へ発向しけるに敗軍の士卒悉集りけるを同四月廿九日舞木宮内丞是を見て則他の勢をましえす唯一手にて馳向て合戦し忽に打勝て悉追散大将岩松治部大輔を生捕て鎌倉へ引まいらせけるに是そ朝敵の張本なれいとて同五月十三日滝の口にて首をはねて腰越にかけらオープンアクセス NDLJP:357るゝ新田義貞の一類とてい此人計残りたま免許をかうふり懸命地に安堵しけるに舅の逆心にともなひて生涯を失ひけるこそむさんの次第なり

其外禅秀の末子並岩松の子共有しを郎等ともいたきて忍て皆上方へのほりけり持氏公は今川殿としたしく管領は縁辺なれは本よりの事といひなから今度の一乱鎌倉破滅なりしに関東諸家静謐に治まりし事偏に今川殿の武功による故也と京公方義持公の御感の御教書を被下又持氏公も管領も今度の忠功莫大の恩義難忘次第なりと涙をなかして悦ひ給ふかくて関東の大名小名初めは京都よりの御下知と思ひ禅秀に一味しけるか氏憲の造意勿論なるよし聞て皆持氏公へ降参申ける然共上総国本一揆の族猶背申せしかは木戸内匠助大将として是を退治し給ふ不残したかひ奉る其後佐竹上総守も在鎌倉しいろ陳謝せしかとも不叶て比企谷にて被誅然ともかれか息女の有りしに上杉の息男を合て則佐竹の一跡をは立られし其後常陸国住人小栗孫五郎満重下野国の住人宇都宮持綱等猶背申せしかは持氏結城の城迄御進発有今川殿より御加勢として三浦右衛門佐石川名児屋三百余人先かけの勢に馳加るかくて先手の大将上杉弥四郎憲実小栗の城をせめ落しけれは満重持綱敗北しけるを塩谷駿河守追かけ塩谷といふ処にて二人共に自害しけるを首を捕りて奉る是を初め佐々木入道桃井下野守以下宗徒の敵悉くうたれ持氏は鎌倉に還御有し

其頃京公方義持公御隠居有りて若君に征夷大将軍をゆつり奉り給ふ義量の御所と申は此若殿の御事也又其時分甲斐国の武田安芸守は上杉禅秀か舅なりしかは鎌倉殿より上杉憲直大将として追伐有しかは其子悪八郎中途へ張陣して数度合戦しけれとも不叶して父は自害し子共は皆敗北し行方ゑらす成にけり

かゝりし処に京都公方義量公御悩のよしきこえけるか次第に重らせ給ひて応永二十三年三月廿七日御年十九歳にて終にむなしく成給ふ長得院殿様是也天か下の歎たとへていはん方なし父公方の御心の中いか計の事をか思召けんあまた御座御子たにも別れとならはかなしかるへきに只一人御坐若君を先立給ひ天地もくらく月日もなきやうに思召けるとかやされは非常の大赦おこなはれ故禅秀か子共新田岩松か子共以下皆御免をかうふりけり又御世をつき給ふへき御子なくして内々は持氏公へ御代をつかせ奉るへきよし思召けるにや御重代の御鎧又御劔以下の御宝物をゆつり奉り給ふ其後ひたすら御歎息のつもりにて中二年有て正長元年正月十八日御年四十三歳にてむなしくならせ給ふ御年もいまた老たまはすさかりの御よはひ成りし程に御存生の中御遺跡の御さためもなかりし故御没後に至りて御家督の定め評定有或は御連枝の中御門勘衆あまた有是を俗になし奉り御跡御相続有へしと云儀も有或はかねて御望有りし事なれは鎌倉殿をのほせ奉り御相続有へしと云儀も有し関東の方さまにては持氏公一定御上洛ありて御相続必定と沙汰しける然共京都の管領武衛義淳細川持之朝臣相談有て御連枝の御中にて御相続有へきに相きはまり御門跡方の御名を書て八幡正八まんの御宝前にてくしを取りけるに青蓮院三位公義円と申に御園おりさせ給ふ此御門跡は故勝定院殿様と御一腹にて御心も不敵に可然公方にて御坐よし沙汰有其上細川殿武衛オープンアクセス NDLJP:358殿御相談の上は諸家申旨なくして頓て青蓮院殿御還俗有義宣と号し宰相中将に任し征夷将軍に備り給ひ義教と御改名有りけり此公方久敷門跡に御坐し御慈悲もふかく御心も優にそましまさんと思ひけるに殊外に荒強なる御振舞にて殊更たくましき御心なり人々も思の外なる心地しおそれ奉る事かきりなし御兄の大覚寺殿義昭僧正は御慈悲もふかく御心はせ情有りて万になたらかに御坐せしかは諸人ほめもてなし奉る然とも御他腹の御兄弟にて公方とも常に御中よからす聞えける大僧正も天下の御事とてい曽て御望もなかりしに或時御病気故久々御かみもそり給はす引籠りて御坐けるを何ものか申けん大覚寺殿御還俗有御謀反の御企有と讒言しけるすなはち実否を糺さす大覚寺殿へ討手をさしむけらる此よし僧正聞召いたはしや大覚寺殿御身にをかす科もなくして御陳謝も不叶行方しらす落させ給ふ大和と申坊官一人御供に候へけるとかや去程に年の頃廿四五の旅人二人山伏の如くにて流浪ある人を打留たらんものには不次の賞をたまはらんとの御教書国々へ配行す大覚寺殿西国へ落給ひ或時山家賤かふせやに立寄御休息有りしによねを引けるするすと言もの御覧して是はいかなる物そと御尋有けるを土民ともあやしみ御年頃も御姿も一定此人成へしとて近辺の土民蜂起し主従共に討ころし奉り御首を取り京都へ上せける然とも炎天の時分数日の事なれは御首そんし見知り奉るへきやうなし其時大覚寺殿御いとおしみをかうふりし童形参りなく申けるは先年御口中のいたはりおはしまし御おくの御歯みつおちける事有もしや左様の事もやと御口の中へ指を入て見れは案のことく一つの首のおくはみつなかりしかは是そ大覚寺殿の御首とも人しりける則御門徒の人々参り集り御葬礼懇にさたし色々の法事有しと聞えし

持氏公今度鎌倉より天下御相続有へしと思召けるに青蓮院殿御代を御つかせ給へは遺恨に思召都鄙御不快のよしにて内々思召立事有りと聞えける間今川殿大に驚き給ひ斎藤加賀守加賀爪伯耆守を以て数通之諫状を相調持氏公並上杉殿へ御異見有し間持氏公よりは簗田河内守上杉殿よりは大石石見守をさし越種々御問答有しか上杉殿はともかくも今川殿御意見にしたかひ給へと被申けれとも持氏公一円に用られす内々は京都の御下知をさみし給ふ体也けれは今川殿と鎌倉殿様は数代の御ちなみ有被仰合事懇なれとも此頃より内々御心よからす成行けると聞えし今川殿範政は上杉扇谷弾正少弼氏定の聟にてまし若子あまたおはしける故とりはけ鎌倉には親敷人々あまた有し

 
今川記巻第三
 
今川了俊同名仲秋へ制詞条々

一不知文道武道終に不得勝利事

一好鵜鷹逍遥楽無益殺生之事

一小過輩不遂糺明令行死罪事

オープンアクセス NDLJP:359一大科輩為贔負沙汰至宥免之事

一貪民令没倒神社極栄華之事

一掠公務重私用不恐天道働事

一先祖之山庄寺塔敗壊荘私宅事

一令忘却君父之重恩猥忠孝之事

一不弁臣下善悪賞罸不正之事

一企過乱両説以他人愁楽身之事

一不知身分限或過分或不足之事

一嫌賢臣愛佞人致非分沙汰之事

一非道而富不可羨正路而衰不可慢之事

一長酒宴遊興勝負忘家職之事

一迷己利根就万端嘲他人事

一客来之時搆虚病不能対面之事

一武具衣裳己は過分臣下は見苦事

一好独味不能施人令隠居之事

一貴賤不弁因果道理住安楽之事

一出家沙門尤致尊崇礼可正之事

一分国立諸関令煩往還旅人事

一臣如知之君又可為同前事

右之条々常に心にかけらるへし弓馬合戦嗜事武士之道めつらしからす候間専一に可被執行の事第一也先可守国之事学文なくして政道成へからす四書五経其外の軍書にも顕然也然者幼少之時よりも道のたゝしき輩に相伴ひかりそめにも悪しき友に不可随順水は方円の器に随ひ人は善悪の友によるといふ事実哉爰を以て国を治る守護は賢人を愛貪民国司は侫人を好よし申伝也君の愛し給ふ輩を見て其心をうかゝひしれといふ事也古語にも其人不知は其友を見よといへりされは己にまさる友を好己にをとる友をこのまされ求友須増吾似我不若無いへり但かくいへはとて人を撰ひすつへからす是は悪友を愛する事なかれといふ事也一国一郡を守身にかきらす衆人愛敬なくしては諸道成就する事かたし第一合戦を心にかけさる侍は人にすかさるよし名将いましめをかれる事なり先我心の善悪をしり給ふへきには貴賤群集して来る時はよきと思ふへし招とも諸人うとみ出入のともからなき時は己か心の行たゝしからさる事をしるへしさりなから人の門前に市をなすにも二種あるへし無理非法の君にも一端の恐有て又臣下無道にして民を貪謀略のともから申掠によつて権門に立くらす事有り如此の境をよく分別して臣下の猥を糺し先蹤を守憲法のさたいたすへき人を余多めしつかふへきなり心得大かた日月の草木を照し給ふかことく近習にも外様にも山海はるかにへたゝりたる被官以下迄も昼夜慈悲忠罰の遠慮を廻し其人の器量に随可召仕者也諸オープンアクセス NDLJP:360侍の頭をする人智恵才覚なく油断せしめは上下の人に批判せらるゝ事有へき也只行住坐臥仏の衆生を救と諸法に演給ふかことく心緒をくたきて文武両道を心に捨給ふへからす国民を治事仁義礼智信の一つもかけてはあやうき事成へし政道を以て科を行て人の恨なし非義を搆て死罪せしむる時は其科弥深し然は因果其科難遁専一臣下忠不忠の者を分別して可恩賞事肝要也莫大の所領を以ても妻子以下無益の働に私用を構弓馬無器用にして人数をも不持輩に所領を宛行事無益たるへし諸家の儀先祖より知行不相遣といへとも時の主人の心持によりて威勢多少を振事専ら合戦の道を翫ひ常に文武二道をわするへからす是一もかけては(脱歟)貴賤の善悪をしらすして天下の嘲を恥さる儀口惜かるへき次第也仍壁書如件

   応永十九年二月日              沙弥了俊

是は了俊の鹿苑院殿様御代に讒言により遠江国に隠居有りて御弟の仲秋へゆつり給ひし時治部少輔殿政道悪敷して国民ともうとみけるよし聞召て仲秋の後見高木彦六入道弘季を以て此条々を書立て遠州へ送り給ひしかは治部少輔殿大に恥ち給ひ政道を改め身をつゝしみ民を撫忠臣を愛し佞人をありそけ給ひしかは諸子首をかたむけ帰依しける其徳天下にかくれなくして当公方義満公京部へめし上せ仲秋を侍所に補して出頭隙なしときこえし然しより此かた了俊の壁書と号し諸家是を賞翫し天下に流布しけるとかや是当家の亀鑑なり誠に万代不易の庭訓なるへし就中当家代々におよんて此ケ条を用ひてゆめ背へからすよし範政の御遺書にもしるされたり

 以上

永享四壬子年九月十日公方義教公駿河国富士山御覧の為京都より御下向其日武佐に御泊十一日は垂井に御泊十二日おり津に御泊十三日矢はきに御泊十四日今橋に御泊十五日橋本に御泊り十六日に遠州府に御泊十七日駿河国藤枝鬼巌寺御下着雨少時雨て晩方より晴て月は有明にて急き御立同十八日に御着先小野縄手にして御輿を立られ御覧して前後左右とよみあひ御跡はいまた藤枝五六里の程何となくつたへ山も川もひゝきわたりけるとなん御着府則富士御覧の亭にすくに御あかり有て

 みすはいかて思ひ知へき言の葉も及はぬ富士と兼て聞しを   義教公

 君かみむけふの為にや昔より積りはそめしふしの白雪     範政

   同十九日

 朝日影さすよりふしの高根なる雪も一しほ色まさるかな    義教公

   御返し

 紅の雪を高ねにあらはして富士よりいつる朝日かけかな    範政

 月雪の一方ならぬ詠めゆへふしにみしかき秋の夜半かな    義教公

   御返し

 月雪も光を添て富士のねの動きなき世の程を見せつゝ

   同廿日朝御わたほうしまいらるへきよし有て頓て御ひたひに打をかせ給て

オープンアクセス NDLJP:361 我ならす今朝は駿河の富士の根の綿ほうしともなれる雪哉   義教公

 雲や是雪を戴く富士の根かともに老せぬわたほうしかな    山名金吾入道〈号真居士〉

 富士の根も雪そ戴く万代のよろつよつまんわたほうしかな   雅世朝臣〈飛鳥井殿〉

 白妙の高根はかりはさたかにて日かけ残れる山のはもなし

 跡たれて君守るてふ神も今名高き富士を共に仰かん      尭孝法印〈常光院〉

 君か名をあふけは高き影とてやいとゝ見はやす富士の白雪   一色右京大夫持信

 富士の根も雲こそをよへ我君の高き御影そ猶たくひなき    細川下野守持春

 あきらけき君か時代を白雪も光そふらし富士の高ねに     細川右馬頭持賢

 露の間もめかれし物を富士の根の雲のゆきゝにみゆる白雪   山名中務大輔凞

 朝あけのふしの根おろし身にしむか忘れはてつゝ詠めぬる空  公方

 吹さゆる秋の嵐にいそかれて雲より降ぬ富士のしら雪     範政

 我君のくもらぬ御代に出る日の光に匂ふ富士のしら雪     三条実雅卿

 よもの海風も治るころとてや雪のみ積る富士のしは山     範政

 こと山は月になるまて夕日影なをこそ残れ富士の高ねは    義教

 ゆふへたに猶​本マヽ​​を​​ ​よはぬ入やらて染る日影の富士の自雪     範政

 いつゆくと忘れやはするふし川の浪にもあらぬけさの詠は   義教

 ふし河の深きめくみの君か世に生れ合ぬることの嬉しき    範政

 敷島の道をしらねは富士の根の詠に及ふことのはそなき    公方

 敷島の道ある御代のかしこさに言葉の玉の数そかさなる    範政

   廿日に清見か関を御覧せんとて御出有りて

 関の戸はさゝぬ御代にも清見かた心そとまるみほの松原    義教公

 吹風も治る御代は清見かた戸さしをさゝぬ浪の関守      範政

   又御詠

 富士の根に似る山もかな都にてたとへてなりと人にかたらん  義教公

 こき出て三穂の奥津の松の手代都のつと​にカ​​も​​ ​君そつゝまん    雅世

 けふかゝる言葉の玉を清見瀉松にそよする三穂の浦波     真居士

   又

 忘れめや曇らぬ秋の朝日影雪にゝほへるふしのなかめは    雅世卿


   又

 旅衣たちそかねぬる雲たにもかゝらぬふしの名残おしさに   公方義教公

 雨風もさはすもなきに富士の根の神の​うカ​​か​​ ​けひく程はしられつ  範政

 あふきみる君に引れて富士のねもいとゝ名高き山とこそなれ  同

 すなをなる君に任て日の本を心やすくや神もみるらん     同

 つたなさもおろかなるをももらさしの神の恵そ身に知れぬる  義教公

オープンアクセス NDLJP:362   御連歌有 御発句

  いく秋のやとのひかりそふしのゆき            公方

  霧もをよはぬまつのことの葉               持信

  有明の月をあふくやあさほらけ              範政

  雲路たゝしきはつかりのこゑ               祖阿

  千町田はみなかりしほのときを得て            常盤

   又御詠

 詠めける時こそ時をわかねとも富士のみ雪は始めなりけり   公方義教公

   御返し

 御心に叶ふ時代のなかめ哉袖にもふれるふしのしらゆき    熙貴

   熈貴の方へ

 我為はあたら詠の富士の雪都のつとになすかうれしき     公方

 時ありてみはやす君か御代なれや富士の高根も名を重ねつゝ

   御返し

 今ははや君そみはやす時しらぬ山とは富士のむかし成けり   凞貴

   又御詠

 秋寒き富士のねおろし身にしめて思ふ心もたくひやはある

   御返し

 富士の根の雲と月とにあかす夜や君か言葉の花をそへけん   雅世卿

 雲はらふ富士のねをろし吹や​本マヽ​​道​​ ​秋の朝けの身にはしむとも   尭孝法印

 富士の根の月と雲との移り香にあかす珍し君か言の葉

   廿一日御立の時

 すなをなる君に任て日本を心やすくや神もみるらん      範政

 富士の根は名高き山のあかすみる此言の葉やたくひなからん  真居士

   還御遠州塩見坂御詠

 今ははやねかひみちぬる塩見坂心ひかれし富士をなかめて

 嬉しさも身に余る哉富土のねを雲のころものよそに詠て

   御返し

 折をえて三重の山風吹からに雲の衣はたちもをよはす     範政

   同所にて御発句

 秋さむみふしねもみつしほ見坂

諸大名御供衆其外の外様衆奉公奉行衆旅亭に雨傘卅本つゝ人ハ三十人下男以下白米雑事雑具をの同し如此味細の事しるし候事いかゝにては候へともむかしの御太義をもしろしめさせん為にて候御分国は当国駿河まてにての御事にて候ける其内寺社本領御成敗にあらオープンアクセス NDLJP:363すいかゝ如此の御まかなひ御申候ける也諸大名の宿所は御風呂湯殿の御用意御樽二十荷三十荷美物以下毎日の事ともを臨川坊海汁法師常に物かたりしに今かたるやうに覚候まて書にて候只昔のことをくはしく御しり候得者自他の忠の程をもしろしめすへく候委細に御智候てさて御智候はぬやうに何事も又大やうにや御つらん大名にも高下しな御わたり候けにも御供衆外様奉公衆ともの次第わけ御知候て肝要候此一冊に候細河下野守同右馬頭山名中務大輔なとは御供衆と見之候こゝもとむまれかはり候て無案内にてありけに候都鄙みたれはてん事は何事も​本マヽ​​着​​ ​異候はぬやうには候へとて昔よりの次第は御存出候てはよく候はんすらんと注申上候返々物しり候衆は一笑々々    八旬有余書之

 
今川記第四
 
都鄙不快の由来者鎌倉持氏公内々思召立けるは義持公御存生之時御子なくして持氏に御跡をゆつり奉るへき由御けいやく有しを細川殿の御はからひにて今の公方青蓮院殿御世をつき給ふ故鎌倉殿口惜く思召事の次もあらは思君立へきもやうなり管領上杉殿はとてもかくても京都の御下知にあたかひ給ふ間内々君臣不快にて有りけり永享八年の事にや信濃国にて小笠原大膳大夫入道と同国村上中務大輔と合戦に及ふ村上は元来鎌倉へ申通しける間使を以鎌倉殿を奉願間持氏公より桃井を大将として那波高山の人々已に打立けるを上杉憲実いさめ申けるは信濃国は京都の御分国なりかの国の守護人を御退洛可有事京都様の御前不可然よし申留ける是より弥々持氏公と憲実と不快に成行同九年四月武州榎下城主上杉陸奥守憲直を大将として重而信州へ発向有へしと打立ける何者の申出しけるやらん此討手は信州の事にあらす憲実を可被誅よし聞えける間憲実のおんこの人々国々より馳集る六月中より鎌倉中以の外に猥騒し上杉の家人大石憲重長尾景仲かやうの事を申出して持氏公と上杉を不快になし申由聞えけれは両人を籠居すへきと被仰下又公方家には一色直兼上杉憲直等憲実をさゝへ申かやうに雑説出来と風聞有し程に則此人々を三浦へ追下し互に御和談有けれとも心中は猶々不平の体也

永享十年六月持氏公の若君天王殿御元服の事有憲実いさめ申けるは先例にまかせ京都様の御一字を御申下し可然と申上けるに持氏公何事も憲実の異見を聞召不入ける間つるが岡の社壇にて御元服有り八幡宮を島帽子親と被成足利太郎義久と名つけたまふ其時先年三浦へ下りし一色宮内大輔上杉陸奥守をも召返され此祝儀として憲実出仕あらは生害あるへきよし御内談ときこえし此由何者か憲実へ申けるにや病気とて出仕なしかやうに種々雑説ありて互に不快に成行けれは扇谷修理大夫千葉介以下色々和平の儀申けれとも不叶して憲実は讒言のかれかたし御敵に成らんより自害せんと有りしかとも家人ともいさめ先々落行て科なきよし陳し申へきよしにて上州へ落行給ふ然に御使有りてなため給はゝ和談に成へきに讒言おほくして両一色を大将として討手に下さるゝ持氏公も武州高安寺まて御出有りけりオープンアクセス NDLJP:364鎌倉の御留守居は三浦介時高に被仰付しに三浦介は今川殿と申通しける事多年なりしかは今川殿より内々被仰越事ありて忽にひるかへり京方に成鎌倉を明て三浦へ帰り一族を催し鎌倉へおし寄せ御留守を攻ける間若君をは扇谷へのかせ奉り簗田河内守同出羽守名塚左衛門等残り止り合戦して討死し御所に火をかけ一時の烟と焼にける持氏公此由聞召て鎌倉へ御馬を返し給ふに千葉介も御敵に成行上州の討手も軍散々に落失けれは両一色も引返しけり

京都より持氏公の討手の大将として故禅秀の子息上杉中務少輔持房同治部少輔教朝御旗を給りて発向しける間遠江国住人横地勝間田先陣として伊豆代官寺尾左衛門案内者に頼同九月十日箱根山を越ける程に持氏の御味方大森伊豆守箱根法印等わつかに百騎計にて水呑の辺にまちかけ高山より一文字に突てかゝりし程に京方人々散々打負横地は爰にて討死し三河遠江の人々多以て此所にてうたれ寺尾左衛門兄弟深手負て引退く第二度目の合戦に河野小笠原武田一つに成て同十一日攻来る処に筥根別当大森の人々くつきやうの悪所に引かけ先のことく山上より懸下しけれは京勢引退き三島にもたまり得す沼津真門に陣を取てしはらく息をそ休めける

然に今川上総介泰範京都の仰を蒙り関口四郎小笠原掃部助斎藤加賀守葛山を先かけの大将として足柄山を越て関本の宿に陣取る是を聞て持氏両上杉陸奥守大将として二階堂下総守宍戸備前守海老名上野介以下三百余人発向す今川勢関本を立て相州早川尻成田と云所に押寄同七月廿四日散々責戦ひ憲直打負けれは家人肥田勘解由足立萩窪討死し憲直を初め二階堂宍戸海老名悉く数軍して鎌倉へ引返す京都大将上杉持房も越山有りて今川勢と一つになる此人々高麗寺山に陣を取り鎌倉をせめんとうかゝひける鎌倉方よりも猶木戸左近持季百余騎にて対陣しける処に憲実上州より攻上りける所持氏公の御馬廻皆憲実へ降参有けれは力にをよはす持氏公鎌倉へ返り給ふに三浦のともから防矢射かけて鎌倉へ入給ふへき様もなし金沢の称名寺へ御移り有り爰にて叶ましとお思召けん御出家有りけり法名道継と申けり今度の讒者の張本一色直兼上杉憲泰二人郎等五十三人此所にて憲実か為にうたれ或は自害してうせにけり其後二月十日鎌倉の永安寺にて持氏公満貞御兄弟共御自害をすゝめ奉る若君義久も御切腹有り其後上杉憲実も主君を亡し奉りめいわくして出家し隠居有り弟兵庫頭清方代官として関東の成敗を司る其後持氏公の御子二人日光山にかくれ給ひしか結城氏朝を御たのみ有りしかは甲斐々々敷たのまれ申数百人馳集り籠城しけれは此由京都へ申上る間御代官として上杉持房同舎弟教朝御旗を帯し馳下る鎌倉勢も数​千カ​​十​​ ​馳下り已に四方を取巻攻けるに籠る処の猛勢は少もひるます日夜旦暮に合戦し更に落へきやうもなし其比信濃大井越前守結城の加勢に馳来ると聞えし程に上杉三郎重方上州へ馳向ふ又箱根法印兄弟大森伊豆守鎌倉をうかゝひけると聞えしかは今川上総介範政に被仰駿河勢を引率して足柄山を越て平塚に陣を取り蒲原播磨守国府津に陣取て待かけたり

然に永享十二年改元有嘉吉と号す四月十六日結城の城を四方一度に攻破り数千人籠し人々オープンアクセス NDLJP:365大将結城右馬頭父子名家の面々三百余人以上軍兵五百余騎自害し或は討死して失にけり今川式部丞氏広も此合戦に討死也是は今川の一門範満の孫上杉式部大夫朝広と言ひし人の子なり持氏公とけいやく不浅しか鎌倉の合戦にはのかれて此時討死しけり若君達もいけとり申同五月御上洛ありて美濃国埀井の金輪寺にて御自害有り此度関東に干戈うこき諸家難儀の思ひをなす折ふし今川勢両度に及ひて越山有り粉骨の忠節比類なしとて義教公御感のあまり御聞有りて今川範政に副将軍□給りけり是又今川家の名誉の其一也

京都公方義教公あまり物荒き御振舞諸家の人々少々上意に背輩討手を被下被誅去年五月十五日一色左京大夫義貫も大和国三輪にて一族三百人自害して失ぬ土岐世保刑部大輔も同月十六日細川讃岐守発向して打取ける諸大名も名家の面々も我身の上とや思ひけん今や上意にさかひ討手をや被下るゝと魂を消さすと云事なし然に赤松左京大夫満祐も折ふし御不審をかうふる事有是は妹を公方へ宮仕に奉りしを御生害有し事をうらみ奉る故也然とも無程御赦免をかうむりける又其時分赤松入道の舘の泉水に鴨の子をうみたるよしきこえける間是を御詠覧の為近日彼舘に御成有へきよし被仰出間赤松大によろこひ其用意有し折ふしあるもの申様今度の御成の次てに赤松を御成敗有へきよし思召立と聞えけれ赤松是を聞て一族若党数輩の軍兵を内に籠置待かけたり其日にも成しかは上様には更に御こゝろもなかりしやらん何の御用意もなくゆうと御成有已に御能一番初り諸人見物して居たる処に庭上へ馬を切て追はなし其まきれに屏風のかけより軍兵あまた切て出て御手をとり引立申御首を打落奉る山名中務大輔を初あまたの人々御供に討死しける武衛殿を初めとして御供の人々防くへきやうもなくしてついちをこしからき命生て敗北しけれは赤松もたてあふものなくして御首を持て分国なれはとて播州へ下り城山のしろに楯籠りけれは京都より則時刻をうつさす京極細川土岐武田二千余騎馳向ひける赤松逆寄にして蟻坂合戦に打勝けれは京勢も城をは中々攻むともせす対陣取り居たりしに山名左衛門佐持豊但馬口よりからめてに廻りき山の城をせめしかは赤松同名あまた山名かたへ降参して無程城を攻落しけれは満祐兄弟共自害し子息則康は伊勢国司を頼て落行けるを国司是を誅して首を収り京都へ奉りける此乱駿河へ聞えしかは上意を待にもおよはす今川上総助範政は国に留り子息五郎範忠軍兵千余騎にて打立尾州𤍠田に着陣の時山名か赤松を討捕首上洛のよし聞えけれは軍兵は引返すさりなから是迄参陣の験にとて石川八郎左衛門新野左馬助菴原安房守二百余騎にて上洛す

京都には嘉吉二年十一月十七日若君御元服有り義勝と号し奉り征夷将軍に備り給ふ上下目出度と悦ひ各々帰国有り山名御主君の御敵をうち申万代迄の高名比類なしと感せぬ人もなかりけり

其年今川上総介範政御不例の事有り頻りに重らせ給ひしか終に空く成給ふ法名道賀と号す全林寺殿と申奉る御子範忠元来御家督を継たはしけれは則上総介に被任今川上総分と申奉る御母上杉扇谷殿の御息女にて関東方とも親敷おはしける此殿も大力量有荒馬のりの強弓オープンアクセス NDLJP:366無双の大将とそ聞えし

嘉吉三年七月廿日京公方若御所御年十才にて御早世有て則御弟の三春御前御元服有りて征夷将軍に備り給ふ後には東山殿と申たる御事なり御名乗は義政と申ける

其頃西京の一揆起り都のさはきと成しかは日野権大納言入道有光卿子息左大弁資親の謀反の企有りとて生捕奉り父子共誅せられし又南方の御敵楠木雅楽助を初として紀伊国の宮方起りしかは折ふし上洛して有しによつて宇津宮入道​本マヽ​​群​​ ​綱を大将として馳向ひしかとも初度の合戦に打まけ粉河寺に引籠りしか畠山の人々加勢あり二度軍を起終には打勝て御敵の首共取り上洛しける

宝徳二年十二月又鎌倉に兵乱起りしは当鎌倉殿父持氏生害の時はおさなくておはしましける上杉持朝同清方長尾(脱カ)名名の人々京都へ申上持氏の一跡をなかく絶可申事をかなしみ成氏を迎申持氏の御跡に備へ奉り憲実末子を取たて山内殿にすゑ申憲忠と号し已に数年鎌倉中無為成りしに故結城右馬頭か子息と成氏公御対談有り互にむかしを語り給ひ御父持氏憲実と不快故御生害のよし御談合あり憲実の子なれはとて憲忠を討捕給ふ是により上杉の家来の人々と成氏の御家来日々夜々の合戦やむ事なし

今川殿は上杉と御一味にて毎度御加勢有といへとも範忠其時分御病気也御息五郎義忠若輩にて御座ける故今度は御加勢の為に越山もなかりける又故了俊の御跡六郎治部少輔殿御逝去有りしかはその御領河井堀越中村湊の領家屋形より御支配有へけれとも先京都の御下知を蒙ふりともかくも御はからひあるへけれとて京都へ御申の事有り伊豆国住人狩野助入道同七郎左衛門先年禅秀に一味し伊豆国には安堵せすして遠州に有しか理不尽に申かすめかの御跡を拝領しける天鑑私しなくして謀略を以押て申給し故に無程おごり上意に背申遠江国横地勝間田等に京都より被仰付寛正六年八月三日父子共にうたれ自害して亡ひ失けり

今川治部少輔殿早世の後御領所も京都より御下知に成又遠州の住人等久野小笠原の人々はもとのことく駿河の御下知にあたかひ其外尾州の武衛殿御下知に付ともからもあり京都へ

上洛し殿中の御直勤を望むともから多し是は遠江国侍にて治部少輔殿と申通したる人々也三河国住人も武衛殿に属し申族もあり駿河へ在府の人々もありけり其比吉良屋形左兵衛佐義真は多年御在京なり東条義藤御在国なりしかとも東条西条つねに御中よからす御家風の面々つねに合戦しける間よの国侍とも二方に成て吉良殿御下知を背きけり其中にも丸山中務入道父子大場二郎左衛門簗田左京亮なといふもの額田郡井の口と云所に楯籠り京都の御下知をも不用又駿河国へも音信もなし尾張衆とも不通にて諸牢人を集め鎌倉殿の御下知のよし申偽りて京都へ運送の官物ともきらはす狼藉しきりなりける間京都より故一色左京大夫の御家人牧野出羽守仁木殿侍西郷六郎兵衛といふもの両人に被仰付数百人押寄三日三夜に攻落して悉く討捕り然とも大将分のものは堀を越て落行けり是等猶所々に分散し狼藉たえさりしかは重て京都の御下知として三河国の御家人松平和泉守入道十田弾正父子に被仰付是を御退治有りしかは丸山は大平郷にて十田にうたれ大場次郎左衛門は深溝にて松平和オープンアクセス NDLJP:367泉守か子息大炊助にうたれ首とも京都へ上りけり然に蘆谷助三郎大場長満寺と云もののかれ来りて駿河国丸子のおく観勝院と云寺にかくれ居たりしを折ふし今川五郎殿駿府より宇都山辺に鷹野の為に出給ひしに所の民とも申けるは此両三日上下三十人計にてしかの体のもの此寺に籠りけるよし申間御供の若侍とも百余人則かの寺をとりまきける何ものそと尋けれはかの悪党とも答けるは鎌倉成氏の家人のよし申扨は命を助け送らるへし何故に爰に籠るそととひけれは分明に返事もなく頓て切て出散々に戦ひけるに御供の人々俄の事にては有りあはてさはく義忠も御馬をよせられしゝ矢の征矢にて悪党三人射ふせ給ふ其外生捕五人あり或は自害して一人も不残亡ひけり生捕に尋給へは三河国の悪党を結しものともなり則斎藤加賀守を付て京都へ引まいらせ給ふ其時瀬名陸奥守未源六郎とて若年なりしか義忠の御前に進出申けるは君子は刑人を近つけすと申にあれ体のものに御馬をよせられ御矢をはなし給ふ事大将の恥辱なりといさめ申て此大将は必不慮の御あやまちあるへく重てがゝる御働勿体なきよし人々にも申けるまことに源六郎か申されし如く後に義忠は流矢にあたりてうせ給ふ

鎌倉殿成氏公と上杉衆合戦度々也成氏打負て下総国古河へ御移り有り今川殿範忠も其年薨逝ありけり京公方義政公の御連枝天龍寺の僧にて御坐を還俗し奉り左兵衛督政智と名つけ申関東へ御下向有り然とも鎌倉は猶成氏にしたかふ人々おほしよの主君を備へ奉るへき事あやうしとて上杉の分国伊豆の北条に御所作りをかりに定め両上杉もかの御下知を仰き奉る故禅秀の子治部少輔教朝を御供にて伊豆の堀越に移り給へは皆豆州様とも堀越の御所とも申奉る

京公方義政御年四十に及ひ給ふを御子なくして御弟浄土寺の御門跡にて御座候を還俗させ奉り御代をゆつり申さるへきよしにて父子の御けいやく有今出河殿と申奉る其後又御台所の御腹に若君御誕生ありしかは御養子にも御代をゆつり奉る事なし今出河殿は細川右京大夫を頼ませ給ふ若君は又山名左衛門佐を頼ませ給ふ山名細川聟勇なりしか共二人なから我か若君を将軍の位に備へ可申候との争ひにて応仁元年より京中に軍起りて五畿七道も乱れ軍兵馳上り合戦やむ事なし上下闘争かきりなし今川義忠公は豆州様と御相談有り分国の仕置有軍勢を催し京都の御難義あらは馳上るへき由の御用意にて京家の御一左右を相待給ふ処に京都公方様は管領細川右京兆勝元御一味にて花の御所に御座今出川殿は伊勢国へ御下向有りしか後には西陣へ御上洛有山名方へ迎奉ると聞えける間今川義忠いつまてかくて有へきとて分国の勢千余騎引率先陣原小笠原笠原浜松菴原新野を先として後陳は高木蔵人葛山朝比奈丹波守等也御上洛有しかは山名殿よりも道迄御使有色々頼み御申有しかとも義忠は公方の御けいこの為に罷登り候何方にても義政御所の御坐御方へ可参よし御返事有花の御所細川殿へ御参り有り勝元大によろこひ頓て御対面有り則公方様被懸御目二百余日花の御所の御けいこ有しかは其後山名殿播磨国へ下向有り御敵皆降参ありしかは細川殿被申けるは京都の合戦には此方志を通る人々あまた候へは君の御けいこも心安いたし候へし此程オープンアクセス NDLJP:368は毎度味方勝色に候へは万事思置事なし只東海道の人々三河遠江よりやゝもすれは武衛義康に属してせめ上り候へは御分国に御下向有りてかれらを御退治有りて海道一遍御管領候て重て難儀の事あらは御勢を御のほせ候はゝ公私第一の御忠勤たるへきよし公方の上意被成と被仰下候間義忠畏と領掌し本国へ御下向有り武衛方の人々を退治の用意有しに遠江三河の住人武衛に心をよせしともから数百人皆今川殿へ降参しける

文明七年の春遠江国住人横地四郎兵衛勝田修理亮謀反を起し武衛殿に内通し故狩野介か舘を城郭にかまへ楯籠悪逆しきりなりしかは今川義忠駿河を打立久野佐渡守奥山民部少輔杉森外記三浦次郎左衛門岡部五郎兵衛御供にて五百余騎を二手に作り横地勝間田か城を取巻夜昼息をもつかせす攻戦ひ七日に当る夜中両人ともに討死し子共郎等とも皆敗北しけれは御本意をとけられ頓て駿河へ御馬を返さるゝ時不図に一揆起り塩見坂にて切てかゝりしかは俄の事にては有り夜中の事なれは御供の人々さはくといへとも義忠はすこしもさはき給はす御馬を立なをし自身切て落し東西を乗まはし下知して一揆の輩皆追落し討捕給ふ然といへともいつくより来りけん流矢一つ飛来り大将の御わきにのふかに立いたてにて次第々々によはり給ふ其後町屋へ入奉り色々いたはり申けれ共甲斐なく其明朝御年廿八にて御逝去あり御供の人々せんかたなくして御死骸の御供申駿河国へ帰りて御葬礼いとなみ奉る長保寺殿と号し申御道号は桂山宗公と申ける爰に今川の一門瀬名関口新野入野なこやかの家の老臣三浦両朝比奈菴原由比の人々二つに分て不快に成て已に合戦に及ふ是主人御幼少の間私の威を専して争ひける故也然間御家督龍王殿御母北川殿は御近習のともから引具し奉り忍ひて山西と云所へかくし置申ける人是をは不知けり是は家来の族二つに分て合戦あれは何方へ成共龍王殿の御入有し方御方と成て一方を御敵とて退治あらん事をむさんに思召故也両方なから主君へ合ひ奉り逆心の事はなかりしなり唯日比権を争ひし故かやうに数度合戦ありしと聞えし

去程に駿河国義忠討死被成其跡大に乱れ合戦数度におよひし事関東に聞えけれは伊豆の御所より上杉治部少輔政憲を大将として三百余騎にて馳向ふ上杉扇谷修理大夫殿より代官として太田左衛門大夫三百余騎にて馳登り両陣狐か崎八幡山に陣とりて駿河衆の両陣へ使を以申送けるは抑今度豆州様扇谷殿より我々罷向ひし意趣は今川殿御討死之跡御息御幼少にて上をかろんし各々私の動闘何事そや何方にても候へ今川殿へ逆心あらん方に向ひ一矢仕り候へとの上命をふくみ罷り向ひ候定て一方は御敵なるへし御返答次第に一合戦可仕と委細申送りけれは両陣なから陳答にをよはすしらけて陣を引たりけり然とも猶和談なかりしかは太田上杉御舘へ参り評定し和談のはかりことをめくらす処に龍王殿御母は北川殿と申て京公方の御執事伊勢守殿御めいなり先年御上洛の時かりそめ迎給ひ若君誕生ありしかは北川殿とて新殿を作り居給ふ其弟伊勢新九郎長氏と申人其比備中国より京へのほり今出川殿へ付申されしか今出川殿伊勢へ御下向の時御供に下りそれよりあね君をたつねて駿河国へ下向ありしか折節此乱に参り逢ひ関東より加勢の両大将に相談ありけるはかやうに家来オープンアクセス NDLJP:369人々二つに分て合戦の事今川家滅亡の基にて候尤主人に意趣なけれは謀反人にはなけれとも主の家を滅すへき事是に過ての悪事なし各々の御扱かひを不用和融の儀なくは京都の御下知を承り豆州様へ申合一方を退治可仕若又御あつかひを承り尤と一同し和談の事定り候はゝ龍王殿の御在所存知て候間御迎に参り御舘へ返し奉るへしと評定ありけれは関東の両将も尤と一同し此条々を駿河衆の両陣へ申送らるゝ駿河衆もよしなき私の戦を起し主の御行衛さへしらすしてめいわくの砌にかやうにあつかひ有りしかは大によろこひ早々両陣を引て則ち御舘へより合て惣社浅間の神前にて神水を呑両方和談相調ひけれは龍王殿は山西の有徳人と聞えし小川法栄かもとに御座しける法栄かゝる乱なくして何しに譜代の主君かやうなる山家に入り給ひ数日は御座有へきとて龍王殿御母公諸ともにいろもてなし慰めたりし比和談相調伊勢新九郎御迎にまいりしかはこは目出度次第なりとよろこひ新九郎を初めとして御迎の人々に馬鞍以下数の引出物を送り法栄父子も御供申駿府の御舘へ入奉る頓て御元服あり今川新五郎氏親と申奉る其比豆州様御改名有り初めい政智と申けるを氏満と御改めありし是は鎌倉殿御名乗也御早世の御一門の御名乗を此方へとり申さるゝはかの幸を此方にて継給ふへき議にてかならす御名乗を取事有是によりて氏満と御改名ありしとかや豆州様を御烏帽子親に頼ませ給ふ故に氏満の氏と申字を付させ給ひて氏親と名乗給ふと聞えし法栄子共今川殿近習に成り長谷川等是也

伊勢新九郎今度の忠功莫大なりとて富士郡下方庄を給り高国寺の城に在城なり

伊豆の御所氏満公に御子二人御座一男は茶々丸殿と申て十五歳に成給ふ先腹の若君也御弟は十二歳にて当腹の御子也然に御台所御まゝ子の茶々丸殿をにくみ何とそ二男の我か御子に御家督をつかせ奉らんとていろ讒言を被成て茶々丸殿を御気のちかはせ給ふとて籠を作り入申されしをちかくめしつかはれし人々上杉治部少輔に此よし申けるに上杉〈治部少輔発朝〉 色々御所へ御意見申けれとも御用なかりしかは治部少輔はいさめかねて自害して失にけり然とも猶御後悔もなく御驚もなかりしかはいかなる野心のものか籠の中の若君へ小刀を奉りしかは小刀にて夜の中に籠の番衆のふえを切て番衆の刀をうはひ取り御所へ乱入り御まヽ母も生害し奉り其後のかれ出て日比御懇意にめしつかはれし人々を催し父屋形をせめられしに御所も不叶落行給ひしを追かけ三島にて御切腹有り二男若君はしのひて京へのほり給ひ天龍寺の香厳院にて御出家有へきよしにて喝食にて御座有けり此人いかなる御果報にや後には細川殿取立御申有りて公方に備り給ふ法住院殿と申けるは此若君の御事也扨茶々丸殿父を討捕り豆州を押領被成ける間今川殿より氏満の御敵の為に伊勢新九郎と葛山を大将として千余騎にて押寄せ給ふ間茶々丸殿一戦にかけまけ願成就院にて御自害ありけれは伊豆の侍皆新九郎下知にしたかひけり

 巻第四終

  右四巻を前代之聞記と云是は駿州蒲原住人斎藤道斎七十余歳時記之者也

オープンアクセス NDLJP:370
 
今川記第五 かな目録
 

譜代の名田地頭無意趣に取放事停止之事

但年貢等無沙汰においては是非に不及也兼又彼名田年貢を可相増よしのそむ人あらは本百姓にのそみのことく可相増かのよし尋る上無其儀は年貢増に付て可取放也但地頭本名主を取かへんため新名主をかたらひ可相増の虚言を搆へ地頭においてはかの所領を可没収至新主は可処罪科也

田畠并山野を論する事あり本跡糺明之上剰新儀をかまふる輩於無道理者彼所領の中三分一を可被没収此儀先年議定畢〈此条各何訴訟以追加定とする所也〉

川成海成之地うちをこすに付て境を論する儀あり彼地年月を経て本跡知かたくは相互にたつる所の境之内中分に可相定歟又各別の給人をも可被付也

相論なかは手出の輩理非を不論越度たる事旧規よりの法度也雖然道理分明の上横妨の咎永代に及はゝ不便たるか自今以後は三ヶ年の後公事を翻理非を糺明して有落居也〈此条評論之上以追加為定也〉

古被官他人めしつかふ時本主人見あひに取事停止之畢たゝ道理に任裁許にあつかり請取へき也兼又本主人聞出し当主に相届の上は被官逐電せしめは自余の者以一人可返付也

譜代の外自然めしつかう者逐電の後廿余年を経は本主人是をたゝすに不及但失あつてちくてんの者においては此定にあらさるへし

夜中に及他人の門の中へ入独たゝすむ輩或知音なく或は兼約なくは当坐搦捕又ははからさる殺害に及ふとも亭主其あやまりあるへからさる也兼又他人の下女に嫁す輩かねて其主人に不届又は傍輩に知さす夜中に入来は屋敷の者其咎かゝるへからす但糺明之後下女に嫁す儀於顕然者分国中を追布すへきなり

喧嘩に及輩不論理非両方共に可行死罪也将又あひて取かくるといふとも令堪忍剰被疵においては事は非儀たりといふとも当坐おんひんのはたらき利運たるへき也兼又与力の輩そのしはにおいて疵をかうふり又は死するとも不可及沙汰のよし先年定了次喧嘩人の成敗当座その身一人所罪たる上妻子家内等にかゝるへからす但しはより落行跡においては妻子其咎かゝるへき歟雖然死罪迄はあるへからさるか

喧嘩あひての方人よりとりに申本人分明ならさる事あり所詮其しはにおいて喧嘩をとりもちはしりまはり剰疵をかうふる者本人の成敗におよふへき也於以後本人露顕せは主人の覚悟に有へき也

被官人喧嘩并盗賊の咎主人かゝらさる事は勿論也雖然未分明ならす子細を可尋と号し​本マヽ​​物​​ ​をくうち彼者逃うせは主人の所領一所を可没収此所帯は可処罪過

わらはへいさかひの事童の上は不及是非但両方の親制止をくはふへき所あまつさへ鬱憤を致さは父子共に可為成敗也

童へあやまちて友を殺害の無意趣の上は不可及成敗但十五以後の輩は其とかまぬかれ難オープンアクセス NDLJP:371

知行分無左右こきやくする事停止之畢但難去要用あらは子細を言上せしめ以年期定へきか自今以後自由之輩は可処罪過

知行の田畠年期を定枯却之後年期末をは​本マヽ​​う​​ ​さるに地検之儀合契約沽券〈[#「券」は底本では「劵」]〉に載又は百姓私として売置名田者沙汰の限にあらさる也雖然地頭沽券に判形をくはへは同可停止之

新井溝近年相論する事毎度に及へり所詮他人之知行を通す上は或替地或は井料勿論也然は奉行人をたて速に井溝の分限をはからふへし奉行人にいたりては以罰文私なき様に可沙汰也但自往古井料の沙汰なき所においては沙汰の限にあらさる也

他国人に出置知行沽却する事頗いはれさる次第也自今以後停止之畢

故なきふるき文書を尋取名田等を望事一向停止之畢但譲状あるにおいては可為各別借米之事わりは其年一年は契約のことくたるへし次の年より本米計に一石には一石五ヶ年の間に本利合六石たるへし十石には十石五ヶ年の間に本利合六十石たるへし六年におよひて無沙汰に付ては子細を当奉行并領主にことはり譴責に可及也

借銭の事一はいになりて後二ヶ年之間は銭主相待へし及六ヶ年不返弁は当奉行并領主にことはり可及譴責也米銭其利分の事は契約次第たるへし

借用之質物に知行を入置進退事尽るゆへに或号遁世或欠落のよし侘言を企る儀有之去明応年中歟菴原周防守此儀ありし譜代の忠功もたし難きにより宜随其儀畢〈但以料所焼津の綱銭主に遣之〉今年〈大永五乙酉〉房州此段あきりに言上難去条一往加下知ところ也一家と云面々と云一通は其儀に任といへとも自今以後此覚悟をなす輩ハ所帯を没収すへきなり

他人の知行の百姓に譴責を入る事兼日領主と当奉行人にことわりとゝけすは縦利運の儀たりと云共可為非分也

不入之地の事改る不及但其領主令無沙汰成敗に不能職より聞立るにおいては其一とをりは成敗をなすへき也先年此定を置と云共猶領主無沙汰ある間重而載之歟

駿府の中不入地之事破之畢各不可及異儀

駿遠両国津料又遠の駄々日の事停止之上及異儀輩は可処罪過

国質をとる事当職と当奉行にことわらす為私とるの輩は可処罪過候也

駿遠両国浦々寄船之事不及違乱船主に返へし若船主なくは其時にあたりて及大破寺社の修理によすへき也

河流の木の事知行を不論見合にとるへき也

諸家之論之事分国中においては停止之畢

諸出家取たての弟子と号し智恵の器量をたゝさす寺を譲あたふる事自今以後停止之但可随事体歟

駿遠両国之輩或わたくしとして他国よりよめを取或はむこに取むすめをつかはす事自今オープンアクセス NDLJP:372以後停止之畢

私として他国の輩一戦以下之合力をなす事おなしく停止之畢

三浦二郎左衛門尉朝比奈又太郎出仕の坐敷さたまるうへは自余の面々はあなかち事を定むるに不及見合おりよき様に相はからはるへき也惣別弓矢の上にあらすして意趣をかけ坐敷にての□事を心かくる人比興の事也将又勧進猿楽田楽曲舞の時機敷の事自今以後図次第に沙汰あるへき也

他国の商人当坐被官に契約する事一向停止之畢

以上三十三ヶ条

右条々連々思当るにゑたかひて分国のためひそかにしるしをく処也当時人々こさかしくなりはからさる儀共相論之間此条目をかまへ兼てよりおとしつくる物也しかれはひゐきのそしり有へからさる歟如此之儀出来之時も箱の中を取出見合裁許あるへし此外天下之法度又私にも自先規の制止は不及載之也

 大永六丙戌年四月十四日             紹僖在印判

 
 
互遂裁許公事落着之上重而めやすを上訴訟を企る事証文たゝしき事あらは是非に不及さもなくして同口上の筋目申に付ては罪之軽重を不論成敗すへき也

各同心与力の者他人をたのみ内儀と号し訴訟を申事停止之其謂は寄親前々訴訟の筋目を存いはれさる事をは相押加異見により前後あらさる者を頼み我道理計を申により無覚悟なる者共取次事多也但寄親道理たゝしき上を贔負の沙汰をいたし押置歟又敵方計策歟又は国のため大事にいたりては以密儀たよりよき様に可申も不苦也

各与力の者共さしたる述懐なき事を左右によせみたりに寄親とりかふる事曲事たるの間近年停止之処又より親何のよしみなく当座自然之云次憑計の者共を恩顧之庶子のことく永同心すへきよしを存起請を書せ永く同心契約なくは諸事取次間敷なとゝ申事又非分の事也所詮内合力をくはふるか又寄親苦労を以恩給宛行者は永同心すへき也但寄親非拠之儀あるに付ては此かきりにあらすさあるとて未断に寄親かふへきにはあらす惣別各抽奉公の筋目あれは当坐の与力はつく事也一旦奉公を以あまた同心せしむるといふ共寄親又奉公油断の無沙汰あるにより昼夜奉公の者によりそひ一言をもたのむによりもとより別而真切の心さしなき同心はをのつからうとむ也己か奉公を先とりて各に言をもかけをかは故なき述懐なく同心すへき歟能々可為分別也

出陣の上人数他の手へくはゝり高名すと云共有法度之間不忠之至也知行を没収すへし無知行は被官人を相放すへき也軍法常の事なから猶書載也

駿府不入之事停止之由かな目録に有うへは不及沙汰と云共馬廻之事は目代の手いるへからさる由を□申来之間近日及沙汰悪党之事は家々あらたむるに不及雑物一色あひそへわオープンアクセス NDLJP:373たすへきよし議定畢並不入之地準之但家来之悪党を家来之者聞立成敗する事の他之云事なき間不及是非訴人ありて申出悪党に出ては当職に渡置可成敗也又自当職申付者悪党抱置においては重罪の間別て可加成敗也加様之儀申出者においてはかゝへをくものゝ家財以下出置其上為褒美也

各困窮せしむるにより徳政の沙汰にあらすといへとも弐年期をのへ或以連々弁済之事誠に非分之至也如増善寺殿時かたく停止之如此相定上訴訟のよし取次申出る者においては知行三分一を可没収訴訟人之事は一跡を改易すへき也□□徳人等或奉公の者或神社仏寺領売得の事一切不可有之但奉公之者​本マヽ​​降​​ ​参急用に付ては二三ヶ年期之事は宥免也神社寺領之事も修造顕然たらい同前に是を免許すへき也此条兼日雖相定条目に所書載也

他国之者当座宿をかりたるとて被官の由申事太曲事也主従之契約をなし扶助之約諾之上証人あるにおいては被官勿論也惣別他国の者の事は約束のことく扶持せさるに付ては速に暇をとらすへし扶持をいせすして一度契約したるなとゝ譜代同前の申事は非分の事也

分国中諸商売の役之事自先規沙汰し来る事は乍不便了簡に不及也今に至てのかれ来る事とて新役望訴者無際限といへとも許容せさる也自今以後ヶ様の訴訟取次者においては知行十分一を没収すへき也知行なくい給恩と雖可改易也

百姓等地頭にしらせすして名田売買之事曲事也但為年貢収納当座之儀においては宥免あるへし年期二三ヶ年にをよはゝ地頭代官に相ことはるへし永代の儀は不及沙汰也

奉公の者子孫の事嫡子一人之事は一跡相続之上是非に不及弟共に至ては知行をさき分扶持を加るの間嫡子共に与力すへき勿論也但割分之上に給恩を請内の合力にくはへ惣領につき奉公すへき事いははれさる也速給分あけ置兄一所に奉公すへきなり兄弟の間契約の筋目ありて割分に随ひ人数兄にくはへ其身は各別之奉公も随意たるへき約諾あるにおいては其身にまかすへき歟父祖譲与の所を惣領非分を以押領の上公事に及裁許を遂兄の非義為歴然者弟各別之奉公是非に及さる也惣別嫡子之外扶助すへきたよりなき者共子共おほきまゝ何も取ならへ幼少之間何となく出仕させ置給恩を望事甚曲事也嫡子一人之外は堅可停止之但弟たると云共別て忠節奉公せしむるにおいては各別として扶助すへき也父一代の労功を以給恩に預りたる者子共に割分何様に奉公さすへきのよし内議を得兄弟共に同前に相ことはり扶助するにおいては無是非歟但他国人足軽之事者一かしらとして奉公走廻之間不準之器量を以一跡可申付也

父の跡職嫡子可相続事勿論也雖然親不孝成事なきを親弟に相続すへき覚悟にて非分の事其申かくる事太曲事也時宜により可加下知也

庶子割分之事本知行五分一十分一程の儀においては大方相当すへき歟半分三ヶ一にいたりては惣領の奉公迷惑たるへき歟自今以後各可有分別也

田畠野山境問答対決の上越度の方知行三ケ一を可没収之旨先条雖有之あまり事過たる歟のよし各訴訟に任問答之傍示境一はひを以公事理運之方へ付置へき也

オープンアクセス NDLJP:374公事半年出三年理非を不論公事をあひてに落着すへしと云々雖然非義をかまふるの輩公事をのへ置手出の咎をねらひ先三年の所務をする事太奸曲之至也手出之越度あるにおいては其年の年貢を浅間造営に寄附し後年に至て公事の是非を可裁許也

公方人と号し田札する事公事相手有其志意趣をことはり其上田札すへし公方人の奉行を定うへは奉行人にあひ断諸事可申付也

小身の者盗人にあひ取るゝ所の財宝纔の事たりと云共其身においては進退さしかさる由を存彼盗人尋出す所に目代の手へわたるか或は不入之地たる間雑物出間敷由先規より申と云共無力の者においては不便の儀たる間贓物一色悪党に付置其外はぬしに可還附也

自他国申通事内議を得すして私に返答の事かたく令停止之也

祈願寺之住持たる者故なく進退あらためなから寺を他人に譲与の一筆出事甚以自由之至曲事也出家たいくつの上らくたせは寺は速に上置のよし以寺奉行披露すへし相応住持可申付也

諸事法度を定申付と云共各用捨あるゆゑ​本マヽ​​事​​ ​をぬしになり申出者なきは各の私曲也制法においては親踈を不論訴申事忠節也自今以後用捨をかへりみす申出に付ては可加扶助也

不入之地之事代々判形を載し各露顕の在所の事は沙汰に不及新議之不入自今以後停止之惣別不入之事は時に至て申付諸役免許又悪党に付ての儀也諸役之判形申かすめ棟別段銭さたせさるは私曲也棟別たんせん等の事前々より子細有て相定所の役也雖然載判形別而以忠節扶助するにおいては是非に不及也不入とあるとて分国中守護使不入抔申事甚曲事也当職の綺其外内々の役等こそ不入之判形出す上は免許する所なれ他国のことく国の制法にかゝらすうへなしの申事不及沙汰曲事也自奮跡守護使不入と云事は将軍家天下一同御下知を以諸国守護職被仰付時之事也守護使不入□ありとて可背御下知哉只今はをしなへて自分の以内量国の法度を申付静謐する事なれはしゆこの手入間敷事かつてあるへからす兎角之儀あるにおいてはかたく可申付也

奴婢雑人妻子の事夫婦各別の主人あるにより男の主人は我下人の子たる間被官之由を申女の主人は我下女の子たる由相論す所詮幼少より扶助をくはふる方へ落着すへき也互に扶助せさるにおいては親か計ひなるへき也但かせものゝ事は扶助をくはへすと云共子一人の事は譜代の奉公をつくへし末子に至ては親かはからひたるへき也

 以上廿一ヶ条

  天文廿二年二月廿六日


   明治十七年四月               近藤瓶城校

   明治三十五年一月再校了           近藤圭造

 
 

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