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亀の随筆


本文

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⻲の随筆


 近代の看板は、主としてペンキ塗りである。それは変⾊しやすく、剥げやすい、しかしそれで構わないので、剥げたらまた塗るだけの事である。この⽬まぐるしい近代の街景にあっては地味にしてお上品なものは⼈の⽬には⽌らない。特に円タクの窓からの⾛りながらでは、よほどのものでない限り⼈⽬をひかない。何かなしに近ごろは、⼈の頭を撲りつける位いの看板を必要とする。電燈の明滅の如きはちかちかとして⼩きざみに通⾏⼈の神経を撲っているのである。
 最近のドイツあたりから来る新しいポスターにしてもがさようである。あの表現派⾵の円や棒、⽴体、縞等を配置する処の⼀⾒驚くべき⼤柄である処のものは皆、⼈の頭を撲る役⽬を勤めているのである。
 ちらと⾒た瞬間に了解出来る看板は近代における重要な看板である。
 ところで、昔の看板はさようではなかった。

⼦守や丁稚が、あるいは⾞屋さんが⾞上の客と話しながら、珍らしい看板にはゆったりと⾒惚れているという有様であった。

 従って、ゆっくり観賞出来るだけの⼿数のかかった看板が多かった。
 ペンキのなかった昔は、看板は⽴派な⽊材が⽤られ、そして彫刻師によって、書家によって、あるいは蒔絵師の⼿によって⼯夫されているものが多い。
 今の⼤阪では古⾵な家は改築され、取払われ消滅しつつあるが故に、三⼗年前の旧態をそのまま⽌めている商家もまた少くなり、⾯⽩い看板もだんだん姿を消して⾏くようである。しかしまだ、⾼津の黒焼屋の前を通ると、私は私⾃⾝の⽣れた家を思い出す。それから船場⽅⾯や靱あたりには、私の幼少を偲ばしめる家々がまだ相当にのこっている。
 現在の堺筋は殆ど上海の如くであるがその島之内に私の⽣れる以前からぶら下っている⾜袋の看板が⼀つ、そしてその家は昔のままの姿で⼀軒残っている。
 それから、私は町名を忘れたが今もなお⽊彫である処の古めかしい河童が屋根からぶら下っているのを⾒たことがある。グロテスクで気味悪いくせにちょっと⾒たい気のするものである。
 私の⽣れた家は堺筋にあって、⼗年以前まで存在していた。先祖代々が古めかしい薬屋であるがために、家の店頭はあらゆる看板によって埋まっていた。今でも記憶にあるものでは急活丸という⾆出し薬の看板である。藪医者のような男の半⾝像が⾚い⾆をペロリと出しているのである。それからライフという当時ハイカラな名の薬の看板はガラス絵だった。痩せた男が臓腑を⾒せて指ざしている絵だった。その他、様々の中で最も⼿数のかかった⼤作は、何んといっても、私⾃⾝の家の膏薬天⽔⾹の⻲の看板であった。
 それは屋根の上に飾られてあった。殆ど⼀坪を要する⽊彫の⼤⻲であった。

⽤材は楠である。それは地⾞の唐獅⼦の如く、眼をむいて波の上にどっしり坐り、⼝を開いて往来をにらんでいるのであった。

 そして、私の店には、⼀畳敷あまりの板看板が黒い天井から下っていた。それには三社御夢想、神位妙伝⽅と記されてあった。
 その中で⽣れた私は、⼈間というものは、誰でも⽣れると、何かなしに、頭の上に⻲がいるもので看板の中に住んでいるものだと考えていた。そして、⼈間は膏薬を売っているものだと思っていた。ところが少しもの⼼づいて来るに従って⻲は私の家の看板で、薬屋は⾃分の家の商売だということがわかって来た。しかしその膏薬は何に効験あるものかという事は全く、⼗七、⼋歳に⾄るまで、私は本当によく知りもしなかった。
 ただ私の店へ毎⽇参ってくる⼤勢の客はすべて腫物の出来た⼈であり、あるいは妙な処へ負傷した⼈のみであった。とにかく私は私の家が何屋さんで⽗は何をしているのか、屋根の⻲は何んのまじないであるかについても永い間全く無意識だった。
 ところで私が中学へ通い出した時分頃からしばしば訊かれたものである。君の家の⻲はいつごろから存在するのか、その薬は何に効くのか、⾹⽔か、それとも線⾹か、私は随分その答弁に悩まされたものであった。さあ、俺が⽣れると既に⻲が往来をにらんでいたのでよく知らんといって置いたが。しかし私も気にかかるので先代からの古い番頭に訊ねて⾒たり⽗に問うたりして⾒たが、皆はっきりしたことは知らないらしかった。番頭の⾳七は何んでもあんた、あれは親旦那の親旦那のその親旦那の時分によその古⼿を買いはったもので、その以前はやはりある薬屋の看板やったといいますというのだ。そして私の知っているのでは、島之内焼けという⼤⽕事の時に何んと⽕の⼿が、隣の豊⽥はんまで来た時に、急に⾵むきが変って、あんた妙なもんや、私とこはそのままに焼け残ったもんだす。あまりの不思議に天⽔⾹の⻲が⽔を噴いたというてえらい評判だした。と彼は常に私に吹聴するのだった。それから、明治の始めには、ある⽑唐があの⻲を売ってくれといって来たという話も屡次していた。その時あの⻲の⽬⽟にはダイヤモンドがちりばめてあるのだという⾵評が⽴った。勿論、あれだけの⼤きな眼球がダイヤモンドであったら、私⾃⾝は今ごろ、どんな道楽息⼦になっていたか知れない。幸いにしてガラスであり、その中に綿が⼊れてあったから、私は画家位で収まっているのである。
 しかし、⻄洋⼈としては、⻲の眼球はどうであろうとも、ある東洋的なほりものとして、ほしがったということは事実であったことかも知れない。
 とにかく、この荘厳な⻲は看板としてはかなり⼈の注意を惹く事において成功していたものに違いなかった。堺筋の⻲の看板というと⾞屋でもヘイヘイといって直ぐ⾛り出したくらいである。そしてそのグロテスクな相貌は、よほど近所の⼦供たちにとってはおそろしいものの⼀つであったと⾒えて⺟や⼦守や⽗親が、泣いている⼦を私の家の前へ連れて来て、「それ⾒なはれ無理をいうと噛みまっせ噛ましまよか、さあどうだす」といっておどかしているのを私は常に店番をしながら眺めていたのである。
 その⻲は楠で作られてはいるが、永年の⾬露にさらされ、頭だけは早く朽ちてしまうために、私の家の⼆階の納屋には古い頭が⼆つころがっていた。
 彫刻師が誰であったか、何もかもが不明である。私の先祖の⾃伝の中にもこの⻲については記していない処を⾒ると、あまり問題にもしていなかったのかも知れない。古い出ものがあったから看板によかろ、⼤きいから屋根へ上げて置けといっていたのかも知れない。
 ところで近代の堺筋は外国の如くである。⻲の住むべき屋根を奪ってしまい、⻑男の私を油絵描きにしてしまった。
 私の弟が私に代って家伝の薬を継承してくれたことを私は⼼から感謝していいことである。最近、その⻲は、下寺町の⼼光寺の境内に居候していたのだが、その⼼光寺の本堂が三、四年前に炎上してしまった。しかし不思議にもその⻲のいた庫裡は幸いにして焼け残ったのである。この現代ではまたもや⻲が⽔を吐き出したのだと吹聴しても誰も本当にはしないであろう。
 近ごろその⻲も、いよいよ朽ちはてようとしつつある時、たまたま⼤朝の鍋平朝⾂、⼀⽇、私に宣うよう、あの⻲はどうした、おしいもんや、⼀つそれを市⺠博物館へ寄附したらどうやとの事で、私も直に賛成した。そして、⻲は漸くこの養⽼院において、万年の齢を保とうというのである。
 
 

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