下関通り魔事件第一審判決

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殺人,殺人未遂,銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件 山口地方裁判所下関支部平成11年(わ)第242号 平成14年9月20日判決

判決[編集]

被告人 氏名 《乙1》 年齢 昭和39年3月6日生 職業 軽貨物運送業 検察官 大圖明,石部照将 弁護人(私選) 於保睦

主文[編集]

被告人を死刑に処する。 押収してある包丁1本(平成12年押第2号の1)を没収する。

理由[編集]

(犯行に至る経緯)

1 被告人は,昭和39年3月6日,山口県下関市内において,ともに教員であった父A(以下,「父A」という。)及び母B(以下,「母B」という。)の一男一女の第1子として出生し,地元の小中学校を卒業後,昭和54年4月,高等学校に入学した。被告人は,将来医者になることを志し,○○大学医学部進学を目指したものの,共通1次試験の成績が悪かったため,医学部受験を諦め,昭和57年の高校卒業時には△△大学理学部を受験したが不合格となった。そのため,被告人は,北九州市内の予備校に通い,翌年の共通1次試験では医学部に合格できる可能性のある得点に達したものの,確実に合格できるようにという父Aの指示に従い,△△大学工学部建築学科を受験し,昭和58年3月これに合格した。
2 被告人は,大学合格後,福岡市内に部屋を借りて通学するようになったが,友人もあまりできず,次第に他人と視線が合っただけで相手が自分を嫌っているのではないかなどと考え悩むようになり,自己が対人恐怖症であると思うようになった。そして,被告人は,卒業間近になっても,就職活動も全くしない状態であり,昭和62年3月,大学を卒業したものの,社会生活における人間関係を嫌って就職せず,実家に帰って引きこもり,無為に過ごしていたが,次第に対人恐怖症を治療しようとの気持ちを持ち始め,陰陽療法などの民間療法を受けたり,昭和63年2月から5月ころまで,東京都新宿区にあったC院に入院して治療を受けたが,十分な改善効果は得られなかった。しかし,被告人は,医師の勧めもあって,同院を退院後,大学時代に生活していた福岡市内で就職することとし,同年5月から,D病院精神科に通院しながら,いくつかの会社で働いたが,苦手な人間関係に悩み,いずれも長続きしなかった。ところが,平成元年4月,被告人が福岡市内の建築設計事務所に就職したところ,同事務所は,所長と被告人の2人だけの職場であり,しかも所長が営業担当であり,被告人が対外的な折衝をする必要もなかったことなどから,対人関係に悩まされることなく,通院治療の効果もあって,精神的に落ち着き始め,平成2年ころから対人恐怖や視線恐怖の症状は軽減するようになり,平成3年には通院しなくても日常生活を送れるようになった。
3 被告人は,同年12月,結婚相談所の紹介で知り合ったE(以下,「E」という。)と交際を始め,平成4年4月,同女と会う機会を増やしたいとの思いから,同女が住んでいた福岡県久留米市内に転居した。そして,同年8月ころには,前記建築設計事務所を退職し,1級建築士の資格取得をめざして合格し,同年12月,福岡市内にある建築構造設計事務所に就職した。しかし,同事務所は,所員5名の職場で,被告人は,人間関係の煩雑さや同事務所への通勤に長時間かかったことなどから,次第に対人恐怖や視線恐怖の症状が出始め,平成5年2月8日から,再びD病院精神科に通院するようになり,生活環境を変えるために,父Aの援助を受ける等して福岡市内のマンションへ転居した。更に被告人は,同市内で「F設計事務所」の名称で独立開業し,主に以前勤務していた建築設計事務所から仕事の紹介を受けるようになって,事務所の仕事も順調に始まり,通院によって上記症状が少しずつ改善したこともあって,同年9月,ニュージーランドでEと挙式し,同年10月から,福岡市内のマンションで新婚生活を始めるに至った。
4 被告人の仕事や結婚生活はしばらくの間は大きな問題もなく経過していたが,平成7年,些細なことから仕事を貰っていた建築設計事務所の所長と喧嘩となり,同事務所から仕事を回して貰えなくなったため,収入が半減し,営業活動を嫌って仕事の注文を獲得できなかったこともあって次第に仕事や収入が減り,平成9年頃には,被告人の事務所は,事実上の廃業状態になって,Eが働きに出て得た収入や被告人の実家からの仕送りなどによってようやく生計を立てる状態となった。被告人は,このような自分を情けないとして嫌悪すると共に,周囲の人間が自分を軽蔑しているに違いないと思い込んで苛立ちを募らせるようになり,新婚旅行で行ったニュージーランドであれば,煩雑な人間関係から逃れられると考え,ニュージーランドへ移住する計画を立てたりしたが,英会話が上達しなかったことからその実現は困難と感じるようになっていった。そして,被告人は,将来に対する不安が膨らみ,建築設計の仕事を続けることはおろか,平成10年1月中旬ころには,ニュージーランドへ移住することも諦めて実家に戻ることにし,Eも一旦は了承した。ところが,被告人の妹が出産のため里帰り中であったため,両親から実家に戻ることについて断られてしまい,そのことを知ったEが一転してニュージーランド移住を強く望んだことから,同年2月,被告人はEを残して,単身で山口県豊浦郡○○町の実家に戻った。
5 被告人は,実家に戻った直後ころから,Eと別居状態になったのは妹が長期間里帰りしており,両親が被告人夫婦の同居を認めなかったことが原因だとして,気に入らないことがあると,母Bを小突いたり,家の物を壊したりして暴力を振るうようになり,両親を怒鳴ったりするようになった。また,被告人は,同年3月からは,G病院精神科で治療を受け始めると共に,実家の農業の手伝いを始めた。そして,被告人は,ニュージーランド渡航の意思が固いEと話し合い,同女が単身でニュージーランドに赴き,1年間暮らした後,帰国して被告人の実家で一緒に生活するということで折り合いを付け,Eは,同年5月,ニュージーランドに出国した。被告人は,同年末ころまでは,農作業をしながら生活していたが,対人恐怖,視線恐怖,音に対する過敏症状が相当程度軽減したこともあって,定職に就いて妻の帰国を待とうと考え,職を探したところ,個人軽貨物運送業者の募集を知り,同年10月ころ,その事業説明会に参加した。被告人は,軽貨物運送事業であれば,営業や交渉が不要なので,自分に向いた仕事であると考え,荷主の紹介などを業務とする会社(以下,「貨物取扱業者」という。)と契約のうえ,軽四輪貨物自動車を約160万円のローンで購入し,平成11年2月から「H運送」という屋号で軽貨物運送業を始めた。
6 軽貨物運送の仕事は,あまり他人に気を遣う必要がなく,対人関係に悩むこともなかったため,被告人は,この仕事が気に入り,Eの帰国を心待ちにしていたところ,同年6月中旬,帰国したEから突然離婚を求められ,被告人は内心Eとの離婚を望んでいなかったものの,同女から強く離婚を求められたことから,やむなく承諾し,Eと共に,その旨両親に申し出たところ,両親からの強い反対に遇い,離婚届こそ出さなかったが,同年7月には,Eが米国に渡航したため,事実上の離婚状態となった。被告人は,Eと一緒に実家で生活することを心待ちにして,軽貨物運送の仕事を頑張ってきたにもかかわらず,Eと事実上の離婚状態となったことから,精神的な支えを失った状態となり,Eとの関係が中途半端な状態になったのは,両親が離婚に強く反対したためであるとして,同月以後,以前にも増して両親に当たるようになった。その一方で,気に入っていた軽貨物運送の仕事が軌道に乗り始めていたため,そのまま仕事を続け,配送の仕事によって資金を貯めてニュージーランドに移住すれば,Eが自分のところに戻ってきてくれたり,どこかで再会する可能性もあると考え始め,同年9月中旬ころから,英会話の勉強を始めた。
7 同年9月24日,台風18号が下関を通過したが,被告人は,配達する荷物を取りに行く必要から軽四輪貨物自動車を運転して荷物の配送ターミナルに向かった。ところが,その途中,高潮で運送業に使用していた同車が海水に浸り,動かなくなるという被害を受けてしまい,被告人は荷物運搬の仕事を同日中に終える必要から,自動車修理工場に修理を依頼すると共に代車を借りて配送の仕事を行った。被告人は,同月27日,修理工場から,軽四輪貨物自動車の故障がひどく,修理が不能であるとの説明を受け,しかも,車両保険に入っていなかったことから,同車のローンが約130万円残っており,再度,新車を購入すると,ニュージーランド移住資金が貯まらないと思い,中古車を買ってまで運送業を継続する気力を失ってしまった。そして,被告人は,一刻も早くニュージーランドへ移住しようと考え,同日夜,自宅で両親に相談し,車のローンの肩代わりや移住の意図を隠して金銭の借用を求めたが,父Aからいずれも拒否され,逆に同人から実家の軽四輪乗用自動車で運送業を継続してローンを返済するよう強く叱責された。被告人は,両親が被告人夫婦との同居を拒否し,しかも,被告人の離婚にも反対してEとの関係を中途半端な状態にしたうえ,やり直そうとする被告人の気持ちすら理解せず,被告人の依頼を全て拒否したことから,ニュージーランド移住の希望を実現する手段が全て閉ざされ,自分には将来がないなどと感じると共に,上記のような態度をとる両親に対する強い怒りや不満を抱いたが,同夜の両親特に父Aの厳しい態度から,両親に対して直接怒りをぶつけることもできず,話し合いを続けている間に自殺を考えるようになった。そして,それと同時に,親が助けてくれないだけでなく,台風の被害を受けているのに政府が支援してくれないこと,あるいは運送会社や貨物取扱業者が台風の日に出てこないように忠告してくれなかったことが自己を追いつめている原因であるなどと考え,更にこれまで周囲の者に無視され,大学を卒業しても満足な就職もできず,比較的単純な作業である運送業すら成功できず,貧乏くじばかり引いてきた,自分だけが惨めな思いをしてきたのに,他の者はぬくぬくと生きており,自分は世間から不当に冷遇されてきたなどとする憤懣が一気に高じて自暴自棄となり,単に自殺するだけではなく,誰でもよいから巻込んで道連れに殺してやり,大量殺人をしたら,両親にショックを与えて自分の怒りを思い知らせることもできるし,この機会に社会にダメージを与えて世間に対する憤懣も一気に晴らしてやろうと思い始めた。そこで,被告人は,両親に対し,仕事を続けるなどと言ってその場の話合いを切り上げて自室に戻り,犯行の具体的な実行方法を考え始め,同県下関市○○町×丁目×番×号I鉄道株式会社××支社○○地域鉄道部下関駅(以下,「JR下関駅」という。)の人混みの中に,自動車で突っ込み,次々と人を跳ね飛ばして轢き殺し,自動車が使えなくなったら包丁を使って殺害すれば,両親にも世間にも強い衝撃を与えることができるし,睡眠薬を犯行直前に多量に飲んでおけば,犯行を終えたころに薬が効いて自殺もできると考え,犯行の決行日も人出の多い日曜日である10月3日と決めた。
8 被告人は,同年9月28日朝,犯行準備のため,修理に出していた普通乗用自動車の修理状況を確認すること,殺人に利用する包丁を購入すること,その必要資金として銀行口座から金を引き出すこと,JR下関駅近くにあるショッピングセンター「○○○○○」付近を下見することを意味する言葉を手帳にメモした。また,被告人は,犯行までは通常の生活を続けていた方が自己の犯行動機が不明となって社会により大きな衝撃を与えることができるし,両親や周囲の者に邪魔されないなどと考えて仕事を続けることとし,同日午前7時30分ころ,借りていた代車を運転し,運送会社の配送ターミナルに行き,その日の仕事に取りかかり,同日午後2時ころ,修理工場に電話して,預けていた普通乗用自動車の修理が,翌日か翌々日には終わることを確認し,更に銀行に赴いて預金を引き出したりした。被告人は,その後,ディスカウントストアーに行き,犯行に使用するための包丁1本(平成12年押第2号の1)を購入し,同日午後4時30分ころ,下見をするため,JR下関駅に向かった。そして,被告人は,代車に乗りながら,同駅東口付近を周回し,犯行に際しては同駅東口前のロータリーに通じる車道からJ向かいにあるK店舗前歩道上に右折して進入し,同駅東口から左折して同駅コンコース内に突入しようと考えた。その後,被告人は,車を置いて,歩いて下見することとし,同駅東口の両開きガラスドアを見て,車の車幅とドアの幅に問題がないことを確認して,同駅構内に入ったところ,同日は,平日であったので,構内は閑散としていたが,被告人は,予定している日曜日にK店舗前歩道から,同駅コンコース内まで車で暴走すれば,10人位は殺せるのではないかと考え,更にコンコース内で車を降り,改札口を抜け駅ホームに上がって行けば,その場にいる何人かを包丁で刺殺できると考えた。被告人は,下見を終えた後,荷物を配り終えて帰宅し,自分の部屋に戻って,カレンダーの10月3日の欄に,最後は死んで人生の舞台から退場するという意味で「スクランブルアウト」と書き込んだ。
9 被告人は,同月29日午前7時30分ころ,実家の軽四輪乗用自動車で自宅を出発して運送会社の配送ターミナルに赴き,当日配達分の荷物の仕分けをして,その配達を開始したが,貨物自動車と違い,乗用自動車に無理に荷物を積み込んでいたため,配達先で荷物を取り出すのに苦労して,憂鬱な気持ちになり,犯行日と決めた10月3日まで間があることから,そのまま配達業務を続けることがひどく苦痛に感じられたうえ,父Aに電話して,修理を依頼していた軽四輪貨物自動車の廃車手続や修理工場に対する費用の精算を自分に代わってやってくれるように頼んだものの,同人に断られたことから,頼みを聞き入れてくれない父Aに対し怒りが爆発し,配達先で路上に止めた車の中で,予定していた犯行日まで待ちきれないなどと考え,レンタカーを借りて,同日中に犯行を行うこととした。そこで,被告人は,前日購入していた包丁と睡眠薬等を持ち出すため,同日午前11時30分ころ,自宅に戻り,犯行に必要な事項をメモに書き出したうえ,包丁をタオルで包む等の準備をし,睡眠薬をパッケージから取り出し,120錠を封筒に入れ,余った20錠ばかりをポケットに入れた。被告人は,準備が整うと,正午前ころ自宅を出,国道191号線沿いにあるスーパーマーケットに赴き,同店駐車場に駐車した自動車内で昼食を取ったりした後,JR下関駅周辺の人出が多いか否かを知るために,Jに電話し,駅前のショッピングセンターが開店していることを確認した。その後,被告人は,同スーパーマーケットで2リットル入りのミネラルウオーター2本を買い,電話帳でレンタカー会社を探したところ,JR下関駅前に営業所があるレンタカー会社の広告があったことから,馬力があって小回りが利き,しかもJR下関駅東口のガラスドアからコンコース内に突入できる幅の車として,マツダファミリアのハッチバックを借りようと考え,レンタカー会社の営業所に電話し,ファミリアのハッチバックがあることを確認し,上記駐車場を出発した。
10 被告人は,同日午後1時15分ころ,下関市○○町所在の株式会社L○○○○店に行き,普通乗用自動車マツダファミリアハッチバック(以下,「本件車両」という。)を借りて同店を出発し,下関市内を試走した。被告人は,大量殺人の実行のためには,交通が渋滞せず,通行人が多くなる午後4時30分から5時30分ころまでが適当であるとして,そのころを決行時刻と決め,同市内に車を止めて休憩していたが,気持ちの高ぶりを押さえきれず,自動車の時計が午後3時54分を表示した時点で,JR下関駅に向けて出発した。被告人は,同日午後4時15分ころ,同駅に到着し,同駅東口前ロータリーを一周して様子を窺い,K前歩道周辺には障害になる車両がないことを確認し,同歩道上の通行人の数,同駅東口ガラスドアの状況を確認した。その後,被告人は,同駅東口から東方約300メートル,同市○○○町×丁目×番所在○○○○ビル出入口から西方約300メートルの路上に本件車両を停車させ,タオルに巻かれた包丁を取り出して助手席足元にタオルを広げ,包丁を裸のまま置いたうえ,睡眠薬120錠を服用した後,本件車両を発進させ,交差点の赤信号で一旦停止後,時速約30から40キロメートルの速度で,上記歩道に向かい,時速約10キロメートルに減速して,右折して同歩道に突入し,アクセルを加速した。

(罪となるべき事実)  被告人は, 第1 通行人らを無差別に殺害しようと企て,

1 平成11年9月29日午後4時25分ころ,山口県下関市○○町×丁目×番×号K○○店前歩道上において,本件車両を運転し,いずれも殺意をもって,同所を通行中の
(1)P1(当時41歳)に向けて,本件車両を時速約20キロメートルで走行させ,同車前部を同人の背部に衝突させて,同人をボンネット上に跳ね上げたが,同人に全治約5日間を要する右足・左手関節捻挫等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(2)P2(当時41歳)に向けて,本件車両を時速約30キロメートルで走行させ,同車前部を同人の背部に衝突させて,同人をその場に転倒させたが,同人に全治約2週間を要する頭部打撲等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(3)P3(当時16歳)に向けて,本件車両を時速約30キロメートルで走行させ,同車前部を同人の背部に衝突させて,同人をその場に転倒させたが,同人に全治約6週間を要する左膝蓋骨骨折等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(4)P4(当時60歳)に向けて,本件車両を時速約30キロメートルで走行させ,同車前部を同人の左腰部付近に衝突させて,同人をその場に転倒させたが,同人に全治約5週間を要する左臀部打撲等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
2 上記第1の1の各犯行の直後ころ,同市○○町×丁目×番×号I鉄道株式会社××支社○○地域鉄道部下関駅東口から同駅コンコース内において,本件車両を運転し,いずれも殺意をもって
(1)同所を通行中のP5(当時58歳)に向けて,本件車両を時速約20キロメートルで走行させ,同車前部を同人の背部に衝突させて,同人をボンネット上に跳ね上げた後その場に転落させた上,更に同人の背部を轢過し,よって,同日午後5時30分ころ,同市○○○町×丁目×番×号M病院において,同人を胸部圧迫に基づく左心房破裂による心タンポナーデにより死亡させて殺害した
(2)同所を通行中のP6(当時80歳)に向けて,本件車両を時速約20キロメートルで走行させ,同車前部を同人の背部に衝突させて,同人をボンネット上に跳ね上げた後その場に転落させた上,更に車底部で同人を約30メートル引きずり,転倒している同人の上半身を轢過し,よって,同年12月16日午後1時40分ころ,同市○○町×丁目××番×号N病院において,同人を右側多発性肋骨骨折に基づく呼吸不全により死亡させて殺害した
(3)上記第1の1記載の歩道上から上記下関駅コンコース内に逃げ込んだP7(当時50歳)に向けて,本件車両を時速約20キロメートルで走行させ,同車前部を同人の背部に衝突させて,同人をボンネット上に跳ね上げた後その場に転落させたが,同人に全治約2週間を要する左頭頂部切創等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
3 上記第1の2の各犯行の直後ころ,上記下関駅改札口から6及び7番線ホームに通じる階段上において,同所を通行中のP8(当時50歳)に対し,殺意をもって,所携の刃体の長さ約18センチメートルの包丁(平成12年押第2号の1)でその左顔面を切り付けたが,同人に全治約8日間を要する左頬部・左耳介部切創の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった
4 上記第1の3の犯行の直後ころ,上記下関駅6及び7番線ホーム上において,いずれも殺意をもって
(1)同ホームのベンチに座っていたp9(当時15歳)に対し,上記包丁でその前額部を切り付けたが,同人に全治約1か月間を要する前額部切創及び出血性貧血の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(2)同ホームのベンチに座っていたP10(当時55歳)に対し,上記包丁でその前頭部を切り付けたが,同人に全治約3週間を要する左前頭部切創の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(3)同ホーム上を通行中のP11(当時79歳)に対し,上記包丁でその背部を切り付けた上,更に左胸部を突き刺し,よって,そのころ,同所において,同人を左心室刺切創により死亡させて殺害した
(4)上記P11とともに同ホーム上を通行中のP12(当時74歳)に対し,上記包丁でその右側胸部を突き刺したが,同人に全治約12日間を要する右側胸部刺創等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(5)同ホームのベンチに座っていたP13(当時68歳)に対し,上記包丁でその前頭部等を切り付けたが,同人に全治約1か月間を要する前頭部・前額部・左顔面・頬部裂創等の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
(6)同ホームを通行中のP14(当時43歳)に対し,上記包丁でその背部を突き刺し,よって,同年11月13日午後3時8分ころ,同市○○町×丁目××番×号N病院において,同人を背部刺創に起因して併発した左視床出血により死亡させて殺害した
(7)上記P14とともに同ホーム上を通行中のP15(当時69歳)に対し,上記包丁でその右上腕を切り付け,その場に転倒した同人の右側胸部を突き刺し,よって,同日午後8時17分ころ,同市○○町×丁目×番×号O病院において,同人を右側胸部刺切創,左心房刺切創による失血により死亡させて殺害した

第2 業務その他正当な理由による場合でないのに,上記第1の3及び4記載の日時・場所において,上記包丁を携帯した ものである。 (証拠の標目)(省略)

(被告人の背部刺突行為とP14の死亡との因果関係について)  被告人及び弁護人は,被告人のP14に対する背部刺突行為と同女の死亡との間には刑法上の因果関係がないと主張するので,以下検討する。   関係各証拠によれば,P14(昭和31年6月26日生)は,高校卒業のころ,腎不全を発症し,以後,20年以上にわたって人工透析を受けることとなり,本件まで,週3回程度,人工透析を受けていたこと,そのため,P14は,血圧が高く,血管がもろくなって出血を起こしやすい状態であったこと,P14は,平成11年5月27日,自然発症した脳出血により入院し,右視床からの出血のため,左半身麻痺の症状が出たが,手術することなく回復し,同年7月10日退院し,本件時点では,出血部位は軟化巣となって治癒過程に入って瘢痕の状態となっていたこと,しかし,P14は,同年9月29日,本件において,JR下関駅のホームを通行中,被告人から,包丁でその左背部を突き刺され,長さ約3センチメートル,深さ約3ないし5センチメートルの左背部刺創の傷害を負ったこと,被害にあった当初,P14は,被告人から上記包丁で右上腕及び右側胸部を突き刺された母P15の介護に当たっていたが,その内,段々前屈みになり,突然嘔吐し,両眼の黒目が段々と上がって白目を剥き,全身がピクピクと震え出し,痙攣し始め,P15の上から被さるようにして前に倒れ動かなくなり,その後全く反応のない状態のまま救急車で済生会下関総合病院に搬送されたが,脳出血の疑いがあるため,脳外科がある下関市立中央病院に転送されたこと,同病院に搬入直後のCT検査によれば,P14は左視床からの出血があり,その出血は多量で脳幹部に達しており,その時点において瀕死の状態であったこと,同女には,入院直後,人工呼吸器を取り付けられ,同年10月7日には,一応自発呼吸が可能となって同呼吸器が外されたものの,挿管具を外せば,気道が閉塞する状態であり,呼吸などの生命維持機能を司る脳幹部の損傷は,当初から回復する可能性は全くなく,したがって呼吸機能や循環機能等の障害が回復することもなかったことから,次第にこれらの機能が衰弱していき,臓器不全の状態となり,同年11月13日午後3時8分ころ,同病院において死亡したこと,前記右視床からの出血は本件時の左視床からの出血には何ら影響していないこと,同女の主治医であるQ及びP14の解剖を行った医師Rは,いずれもP14の死因について,人工透析によって血圧が高く,血管が脆くなっていたところ,被告人に左背部を刺されたことによって,強い痛みの刺激を受け,これが誘因となって,更に血圧が急激に上昇し,その直後,左視床部の毛細血管が破綻し,同部の出血を起こしたと理解するのが自然である旨供述しているところ,上記のようなP14の身体的状況や刺突後の同女の発症経過及び刺創の深さが約3ないし5センチメートルという深いものであり,同女が激痛を感じたことは容易に推認できることなどの事情に照らすと,被告人による攻撃行為などによる興奮が影響したとしても,被害者の本件時の発症が被告人の刺突行為を大きな誘因とするものであったことは十分認められる。  弁護人は,被告人の刺突行為によって生じた傷害自体は軽傷であり,ほぼ治癒状態になっていたものであり,刺突による傷害自体が直接の死因ではないのであって,P14が腎不全により人工透析を受けていた等上記の特殊な体質であったことが死亡の結果を生じさせたものであるから,被告人の行為と死亡との間に因果関係はないし,平成11年10月25日のP14の気管支吸引痰からMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が検出(3+)されており,それが同女の死亡に大きな影響を与えているから因果関係の中断も考慮すべきである旨主張するが,被告人の行為と同女の死亡との因果関係が認められるためには,被告人の行為が同女の死亡の唯一の原因あるいは直接の原因であることを要するものではなく,被告人の行為が同女の体質等他の原因と相俟って死亡の結果を生じた場合であっても因果関係は認められるものと解すべきである。そして,上記認定のように,被告人の行為は同女の左視床出血の大きな誘因となったものであるから,被告人の行為と同女の死亡との間には因果関係が認められるものと言うべきである。また,同女が,受傷後約1か月経過した時点において,MRSAが検出されたことは弁護人の指摘するとおりであるが(甲201号証),上記のように,同女は,被告人の行為によって受傷した時点において瀕死の状態に陥っていたものであり,回復の見込も全くなく,その後も徐々に衰弱し,早晩生命を維持することが困難となる可能性が高かったものであり,その経過において,上記のような事情が介在したとしても,因果関係がなくあるいは中断するものとはいえないことも明らかである。  したがって,被告人及び弁護人の上記主張は採用できない。 (法令の適用) 罰条 判示第1の1の(1)ないし(4),2の(3),3,4の(1),(2),(4),(5)の各事実について いずれも刑法203条,199条 判示第1の2の(1),(2),4の(3),(6),(7)の各事実について いずれも刑法199条 判示第2の事実について 銃砲刀剣類所持等取締法32条4号,22条 刑種の選択 判示第1の1の(1)ないし(4),2の(3),3,4の(1),(2),(4),(5)の各罪につき いずれも有期懲役刑 判示第1の2の(1),(2),4の(3),(6),(7)の各罪につき いずれも死刑 判示第2の罪につき 懲役刑 併合罪の処理 刑法45条前段,46条1項本文,10条(刑及び犯情の最も重い判示第1の2の(1)の罪の刑で処断。) 没収 刑法19条1項2号,2項本文 訴訟費用の不負担 刑事訴訟法181条1項ただし書 (弁護人の主張に対する判断) 第1 争点  弁護人は,被告人は,本件犯行当時,精神分裂病あるいは妄想性障害(パラノイア)に罹患しており,自己の行動につきその是非を弁別し,これに従って行動する能力を欠く心神喪失の状態にあったものであるから無罪であり,仮に心神喪失の状態でなかったとしてもその能力が著しく低下していたから心神耗弱の状態にあった旨主張するので,以下検討する。 第2 当裁判所の判断

1 関係証拠により認められ,当裁判所が被告人の責任能力を判断するうえで基礎とした事実は,次のとおりである。
(1)被告人の本件犯行に至るまでの行動経過等について
ア 被告人は,昭和39年3月6日,山口県下関市において,ともに教員であった父A(以下「父A」という。)及び母B(以下「母B」という。)の一男一女の第1子として出生した。

 被告人は幼少時から,父Aの指示に対しては,逆らうことができないという気持ちを持っており,母Bに逆らえば父Aに叱られるという思いから母Bにも逆らうことはできないとの気持ちを抱いていた。そして,被告人は,内心では両親に反発することもあったが,表面的にはその言いつけを守り,反抗的な態度をみせることもなく,友人関係についても父Aの指示で交友を絶ったこともあり,他面,両親に対して依存心も強く,困難な場面では両親の助けを期待するという性格傾向を持っていた。  被告人は,地元の小中学校を卒業後,昭和54年4月,高校に入学して将来医者になることを志し,○○大学医学部進学を目指したものの,共通1次試験の成績が悪かったため,医学部受験を諦め,△△大学理学部を受験したが不合格となった。  被告人は,北九州市内の予備校に通い,翌年の共通1次試験では医学部に合格できる可能性のある得点に達したものの,父Aから医学部受験を反対され,△△大学工学部建築学科を受験するよう指示されてしまい,被告人は不本意ではあったが,その指示に逆らうことはできず,指定された学科を受験し,昭和58年3月,同学科に合格した。

イ 被告人は,大学合格後,福岡市内に部屋を借り,大学に通ったが,友人もあまりできず,次第に他人と視線が合っただけで相手が自分を嫌っているのではないかと考えるようになった。

 被告人は,昭和61年4月,大学4年生となり,研究室に入って共同研究活動を行わなければならなくなったが,そのためには,自分のことを嫌っているのではないかと恐怖心を持っている相手とも話さざるを得なくなって,強いストレスを感じるようになり,同年夏ころ,夜間,自動二輪車を運転し,やけ気味になってスピードを出し過ぎ,転倒事故や衝突事故を起こし,2か月ほど大学を休んだこともあった。被告人は,このころ,「対人恐怖の人間学」という書物を読み,自分の症状が対人恐怖症とそっくりだったため,自分が対人恐怖症であると思うようになった。また,被告人は,同年12月ころの深夜,研究発表に対するストレスから,父Aに対し,研究発表が嫌で逃げ出したい等と電話をかけ,父Aが急遽福岡に赴いて被告人を元気づけるということもあり,被告人は父Aの援助や3か月程度通院治療を受けたこともあって,無事研究発表を終えたものの,卒業に際しても就職する気持ちになれず,就職活動も全くしない状態であった。

ウ 被告人は,昭和62年3月,大学卒業後も,社会生活における人間関係を嫌って就職せず,実家に帰って過ごしていたが,次第に対人恐怖症を治療しようとの気持ちを持ち始め,陰陽療法やカイロプラクティック療法といった民間療法や祈祷まで受けた。しかし,症状が改善されないこともあって,被告人は,悩んだ末,自動車の排気ガスで自殺を試みたが,排気ガスが臭くて息苦しくなり,途中で辞めたことがあった。

 被告人は,昭和63年2月から5月ころまで,東京都新宿区にあったC院に入院し,S医師(以下,「S医師」という。)による治療を受けたが,十分な改善効果は得られなかった。しかし,同医師から,退院後直ぐに就職すれば症状が軽減されるとの指導を受けたため,大学時代に生活して慣れ親しんでいた福岡市内で就職することとし,同年5月から,D病院精神科に通院しながら,建築会社,コンピューターソフト会社,パン製造会社等で働いたが,苦手な人間関係に悩み,いずれも長続きしなかった。  被告人は,平成元年4月,福岡市内の建築設計事務所に就職したが,同事務所では,所員が所長と被告人の2人だけであり,所長が営業を担当し,被告人が対外的な折衝を行う必要もなかったことなどから,対人関係に悩まされることなく,通院治療の効果も出たため,平成2年ころから対人恐怖や視線恐怖の症状が軽減しはじめ,被告人と同様の悩みを抱えた者の集会に出席したり,結婚相談所に会員登録して交際相手を探すという積極的な行動をとるようになり,平成3年には通院や服薬も不要な状態となった。

エ 被告人は,同年12月,結婚相談所の紹介で知り合ったE(以下,「E」という。)と交際を始め,平成4年4月,同女が住んでいた福岡県久留米市内に転居した。被告人は,同年8月ころ,前記建築設計事務所を退職し,1級建築士取得の試験勉強をして,合格後,同年12月,福岡市内にある建築構造設計事務所に就職した。しかし,同事務所は,所員5名の職場で,被告人は,人間関係の煩雑さや同事務所への長時間通勤から対人恐怖や視線恐怖の症状が強く出始め,外の音に敏感になって,自宅のアパート1階にある建設会社の資材置場で,わざと自分に対して嫌がらせをする目的で,資材を動かす音や車が通る音を立てられていると思ったりするようになった。このような状態のなかで,被告人は,平成5年2月8日,父Aにアパートの階下の音が怖い,周りの人が怖いと訴え,そのため父Aがかけつけることがあり,被告人は再度,D病院精神科に通院するようになり,同日,W医師(以下,「W医師」という。)の診察を受けた。そして,被告人は,生活環境を変えるために,同月,父Aの援助を受ける等して福岡市内のマンションへ転居し,同市内で「F設計事務所」の名称で開業独立し,主に以前勤めていた建築設計事務所から仕事の紹介を受けるようになった。被告人は,同年5月からは,D病院精神科のT医師(以下,「T医師」という。)の診療を受けるようになったが,通院によって上記症状が少しずつ改善されてきたこともあって,同年9月,ニュージーランドでEと挙式し,同年10月から,福岡市東区のマンションで新婚生活を始めた。
オ 被告人は,平成7年,前記建築設計事務所の所長と喧嘩になり,同事務所からの仕事がなくなったため,収入が半減し,営業活動を嫌って仕事の注文を獲得できなかったこと等から次第に仕事が減り,平成8年10月には,家賃の安いマンションに引っ越した。そして,被告人の事務所は,平成9年には事実上の廃業状態に至り,Eが働きに出て得た収入及び実家からの仕送りなどによって生計を立てていた。被告人は,このような自分を情けないとして嫌悪すると共に,妻を含めて周囲の人間が自分を軽蔑しているに違いないと思い込み,苛立ちを募らせ,Eを怒鳴ったり,物に当たって壊すということもあった。このような状態のなかで,被告人は,新婚旅行先のニュージーランドに行けば,煩雑な人間関係から逃れられると考え,ニュージーランドへ移住することを考えたものの,英会話が上達せず,将来に対する不安が膨らみ,対人恐怖,視線恐怖,音に対する過敏の症状が激しく出るようになり,平成10年1月中旬ころ,ニュージーランドへ移住することを諦め,実家に戻ることとした。しかし,妹が里帰り中であったため,被告人は,両親から夫婦で実家に戻ることを拒否されてしまい,あくまでニュージーランド移住を望んで離婚の話まで出たEを残して,同年2月上旬,単身で,山口県豊浦郡○○町の実家に戻った。被告人は,実家に戻った直後ころから,Eと別居状態となったのは,妹が長期間里帰りしており,両親が被告人夫婦の同居を認めなかったことが原因だとして,気に入らないことがあると,母Bを小突いたり,家の物を壊し,両親に怒鳴ったりするようになった。被告人は,同年3月からは,G病院に通院するようになり,当初は同病院のU医師の診察治療を受け,同年4月から,同病院のV医師(以下,「V医師」という。)の診療を受けるようになった。被告人は,実家に戻ってからは農業の手伝いを始め,父Aから農業を継ぐことも考えたが,収入の低さからこれを諦めたものの,同年末ころまでは,農作業をしながら生活していた。実家に戻ってからの被告人の対人恐怖,視線恐怖,音に対する過敏症状は静かな環境や通院治療の効果もあって相当程度軽減された。そこで,被告人は,1年後には帰国して,被告人と同居すると約束してニュージーランドに赴いたEの帰国を待つ間に定職に就こうと考え,職を探したところ,個人軽貨物運送業者の募集を知り,同年10月ころ,その事業説明会に参加し,荷主の紹介などを業務とする会社(以下,「貨物取扱業者」という。)と契約のうえ,軽四輪貨物自動車をローンで購入し,平成11年2月から「H運送」という屋号で貨物取扱業者から運送の仕事の紹介を受けて,軽貨物運送業を始めた。
カ 被告人は,この仕事を気に入り,以後は,両親に対して怒鳴る回数が減り,対人恐怖,視線恐怖,音に対する敏感症状は殆ど出なくなり,E以外の女性にも交際を求めて声をかけることもあった。被告人は,Eの帰国を心待ちにしていたところ,平成11年6月中旬,帰国したEから突然離婚を求められたことから,やむなく承諾し,被告人の両親にその旨申し出たところ,両親から強く反対され,離婚届こそ出さなかったものの,同年7月,Eが米国に渡航したため,事実上の離婚状態となった。被告人は,Eと一緒に実家で生活することを心待ちにし,将来の生活設計を考えて軽貨物運送の仕事を頑張ってきたにもかかわらず,Eと離婚状態となったことから,精神的な支えを失ってしまった。もっとも,被告人は,気に入っていた軽貨物運送の仕事が軌道に乗っていたため,仕事を続けており,同月には,結婚相談所に行って結婚相手の紹介を受けようともしたが,条件的に難しいなどと言われて諦めると共に,再びEとの離婚に強く反対した両親に当たるようになり,ニュージーランドに移住して,Eと再会し,やり直すことを考え始め,同年9月中旬ころから,英会話の勉強を始めた。
キ 同年8月24日,台風18号が下関を通過し,仕事で使用していた軽四輪貨物自動車が冠水したことから,被告人は仕事に対する意欲を失ったうえ,両親に申し出た援助の依頼を拒否されるなどしたため,判示犯行に至る経緯7ないし10記載のとおり,本件犯行を決意し,犯行に必要な物品を準備したり,犯行場所を下見するなどの犯行準備を行い,判示罪となるべき事実記載のとおりの犯行に及んだものである。
(2)本件犯行前の被告人の治療経過及び簡易鑑定について
ア C院における治療経過及び診断等

 被告人は,対人恐怖症関係の本で知ったC院院長のS医師に「他人の視線が気になって仕方がない。人前に出たり,人と一緒に居るのが嫌。病院に行ったり,カウンセリングを受けたが治らない。C院に入院したい。」旨の手紙を送ったところ,同医師からも入院を勧められて,昭和63年2月8日から同年5月7日まで,同院に入院し,同医師から,森田療法という治療を受けた。当時,被告人が書き綴った日記(C院の医師による指導を受けるために被告人が記載した日記)には,大学時代に被告人が感じた関係念慮を整理したものとして次のような事項が記載されている。 昭和63年3月4日記載分, 今までの大学生活の中での関係念慮 q,バイクで走っていると回りの車が邪魔だ,のけ,生意気だと思っているように感じる。2,町で歩いていると,すれ違う人や回りの人が僕のことを不快に思い,僕をふくろだたきにするんじゃないかと感じる。3,車にクラクションを鳴らされると自分へのあてつけと思う。4,駅のホームに立っていると誰かにつきおとされるのではないかと感じる。5,とにかくすべての人が僕のことを不快に思い,僕をいじめる機会を狙っているように感じる。6,いつか誰かに殺されるのではないかと思い,どうせ殺されるのなら他の人を殺そうかと思う。7,とにかく,世の中すべての人が信じられず,僕にあてつけ,仲間はずれにしているように思い,こうなったら銀行強盗か大量殺人でもやるしかないと思う。(自殺は怖くてできないし,どうせ死ぬのなら大勢を犠牲にしたいと思う。)  上記の日記記載に対し,S医師は「『関係念慮』は,一般的な言葉で言えば,『ひがみ根性』です」とのコメントを記載しており,同医師は被告人について,強迫神経症の中の対人恐怖及び視線恐怖(大勢の人がいると人の視線が気になる,又自分の視線が人におかしく思われるのではないか気になる)が認められた旨診断している。同医師によれば,その診断は症状に重点を置いたものであり,人格に重点を置いた人格障害という診断と同じものであり,被告人は関係念慮が人一倍強く,思い込みが激しいという,ひがみ根性が強い状態であった。しかし,善悪の判断や行動能力には何ら異常はなく,治療当時,被告人にはうつ病の症状はみられなかったとする。

イ D病院における診療経過及び診断等
(ア)被告人は,昭和63年5月ころから平成3年にかけて,D病院精神科に通院し,一旦通院を中断したものの,平成5年2月8日から,再び,D病院精神科へ通院するようになり,同日から平成10年3月まで,合計160回,2週間に1回以上の割合で同病院に通院し,再診初診時にはW医師による診察を受け,うつ病及びノイローゼと診断され,その後,平成5年2月22日から同年4月28日までは他の医師(精神科の専門医でなかった可能性もある。)による診察を受け,同年5月7日以降,平成10年3月13日まで,T医師を主治医として,その診察を受け続けた(昭和63年から平成6年までの診療録は所在不明であり,その当時の症状については記録上明らかではない。)。なお,診療録表紙の病名欄には,平成5年2月15日には,診断名がうつ病と記載され,同年3月2日診断名が「SC(注。精神分裂病)」と変更され,T医師が診察を開始した後の同年7月2日診断名の「SC」が削除されて,うつ病と訂正されており,その後,同病院への通院中,被告人の病名が変更されることはなかった。
(イ)被告人の診療録などによれば,次のような診療経過などが認められる。 

 被告人は,再診初診後,初めのうちは,死にたいと訴えるなど,うつ的な症状を示したり,Eとの結婚がうまくいかなくなるとの不安や苛々感を訴えることはあったが,次第に落ち着いた状態を示すようになり,同年4月9日の診療録には夢(悪夢,自殺する夢)を見る。」との記載もあるが,他方,「まとまりのない話をすることがなくなった。幻覚マイナス,妄想マイナス」とも記載されて,同月から翌月にかけて「やる気が出てきた。」などと積極的な姿勢を述べるようになった。しかし,被告人は,同年9月にEと結婚式を挙げ,引き続いて入籍,披露宴を行っており,その前後には,Eとの結婚や収入,仕事など生活面の不安を訴えるようになり,時折「人に見られるのが嫌。おかしいと思われるのではと考える。」(平成5年9月24日)「将来やっていけるのだろうかと思い,不安で苛々する。」(同年10月1日)との記載がみられるが,平成6年1月ころまで一応安定した状態となった。しかし,同年2月ころから対人関係や他人との接触についての不安を訴えはじめるようになり,更に「現場に男の人と2人で行った。遠くに行ったので,ちょっとおかしくなった。症状が出てきた。自分がいらだっているのが人に移っていく感じ。」 (平成6年3月5日),「他の車に気を取られる。クラクションとかならされると,気になる。気分が悪い。他車に対してのであっても,自分のではないかと気になる。」(同年4月1日)、「隣でマンション建てている。その音が気になる。工事でやっている人に頭にくる。その苛立ちがまわりの人に移っていくような感じ。」(同年4月13日),「初対面の人と話をして緊張してとんちんかんなことをいってしまった。近所の人が気になる。仕事のことで苛々する。」(同年5月13日)等の関係念慮や音に対する敏感症状と思われる訴が続くようになったが,その後は平成7年3月初めまで,苛々感を訴えることもほとんどなく落ち着くようになった。もっとも,平成6年11月末に,妻の姉の婚約者が来ることから,一時緊張感が高まり,「12月9日に妻の姉の婚約者がくるので,そのこと気になる。それと仕事をしていないことを考えてしまう。前おかしくなった時のように前兆が訪れた。」(平成6年11月30日)との訴があったが,その婚約者との会合が済むと落ち着き,強い症状の訴もなくなり,「かわりなく,うまくやっている。緊張プラスだが,それが人に移っていくといった感じはない。」(平成7年2月3日)という状況が続いていた。ところが,同年3月18日の診察では「所長と話す時に症状(自分の苛々が移っていくのではないかという症状)が出てくる。」という訴があり,その後,「人に対して敵意を抱いているので,犬とかいじめてやりたいような感じになるし,してしまう。自分が他人に対して敵意を持っている,他人も自分と同じであることより,他人も自分に対して敵意を持っている。他人が苛々しているのをみたり感じたりするとそれは自分への攻撃だと思ってしまう。」(同年4月1日),その後の2回の診察でも苛々感や不安感を訴えており,その後も同年5月6日の診療録には,「落ち着きがない。周りをきょろきょろしてしまい,人の方が気になる。被害妄想というか。」との記載がなされ(なお,T医師は,5月6日の記載については,被告人の主訴を記載したものに過ぎず,同医師が被害妄想と診断したものではないとする。),同年6月17日の診療録には「○○○学院というところへ文句を言いに行って暴れた。2年前のことを思い出して言いにいった。30分くらい言うことを言って謝ってもらって整理ついた。その後,そのことに対して自己嫌悪,人がみんな敵という感じがして,人から石を投げられるのでは,ピストルで撃たれるのではと恐ろしい感じがある。」と不安定な精神状態になっていた状況が記載されている。しかし,同年7月1日の診療録には「あの(6月17日)のあと2日症状が続いたが,その後は大丈夫。薬も減らした。」(同年7月1日)と落ち着きを取戻し,その後,うつ状態のような記載がみられるようになり,同年8月ころから他の事務所に出向という形での仕事も入るようになって,同年10月ころから苛々感を訴えるようになり,「自分の苛々感が他の人に移る。人の苛々の原因が自分であるように感じてしまう。」(同年10月13日)等の記載がなされている。被告人は,同月20日,建築設計事務所の所長と喧嘩をして,同事務所から仕事を回して貰えなくなり,経済的に困難な状態となり始め,アルバイトもなかなか見つからないため,安定した仕事や収入を得られず,両親の育て方に対する不満を訴えたり,非難するようになり,また,そのころから就職や転職を考え始め,平成8年8月ころまで,仕事を探して面接を受けに行ったり,試験勉強のために不安感が強くなったことを訴える状況が続いている。そして,その間の同年3月22日の診療録には「刑務所に入ることを考えてしまう。社会が敵という考え方をしてしまう。」との訴があり,被告人が綴っていた雑記帳である雑ノート1には,同年1月29日の日付で,「今の社会に対してすごく反感がある。政府がすぐに死ねる安楽死の薬を認めるべきである。認めなければ離婚して,窃盗を繰り返し刑務所に入ったり出たりして暮らそうと思います。それが社会への復しゅうです。でも,懲役を2年も,3年も食らうようだったら大量殺人を犯してマーダーケースブック(世界の殺人者リスト)の49号に名前をのせたいですね。最低30人は人を殺そうと思っています。世界中が敵だぜ。」との記載も見受けられるところである。また,同年9月以降,妹の結婚,転居などが重なり妻との喧嘩も多くなり,同月20日の欄には,「上の部屋やとなりの部屋の人がさわいでいると自分が原因のように考えてしまう。ドアを強く閉める人がいると自分へのあてつけのように考えてしまう。」など不安を訴える記載がある一方,同年12月16日の診療録には「最近になって,自分がおかしいのではと考え始めた。車の運転などでも,わがままだったと気づいた。」と自己の行動についての反省を述べる記載も見受けられるところである。そして,「(平成9年)2月21日に,もう仕事ができないようになった。わたしの精神状態の限界で。2週間の休みをもらった。箱崎商店街を運転するのがこわくなった。クラクション鳴らされストレス。電車で通うと考えている。3月10日から行こうと思っている。」(平成9年2月26日)と不安感や音に対する敏感症状などを訴えているが,「苛々や苛々が他の人に移っていく感じはかなり少なくなってきている。」(平成9年6月17日)などの記載もある。その後,「外に出るにはサングラス必ずいる。まわりの人が自分に対して何かしてくるのではないかと見られているような感じあり。ぼくがいるだけでまわりの人が苛々したり,嫌な思いをするのではないかという思いこみもある。」(同年10月16日)等視線恐怖や関係念慮を窺わせる記載がなされている。

(ウ)T医師は,被告人は苛々した感情を訴えることが多くあったが,それはうつ症状である不安焦燥感からきていたものであり,同8年9月20日の記載についても,関係妄想という程のものではなく,被告人の対人恐怖症や自分に自信がないといううつ状態からきている訴えであるとし,被告人には幻覚,幻聴ないし関係念慮を超えるような妄想はなかった旨治療当時の被告人の状況について述べる。T医師は,被告人について,「人とうまく接することができず,他人から見られるのは嫌だ。他人にどう思われているのか気になる。」などという対人恐怖症の症状,及び「サングラスをかけないと外へ出られない。」という視線恐怖症の症状が認められ,これらは神経症の症状であるとする。そして,被告人には,うつ症状も見られ,神経症の症状を持ちながら,うつの症状が出ていたので,神経症性うつ病(抑うつ神経症)と診断した。同医師は,以上のような神経症に加えて,被告人は自分が社会でうまくやっていけないのは両親の育て方が悪かったからだとか友人や職場の周りの者あるいは世間や社会が悪いせいだと考えており,それは神経症の症状ではなく,本人の性格が歪んでいるためであると診断した。同医師は,被告人に対し,抗精神病薬,抗不安剤,抗うつ剤,睡眠導入剤を処方したが,被告人の場合,神経症性うつ病に本人の歪んだ性格が結びついているので治りにくいと考えた。
ウ G病院における診療経過及び診断等
(ア)被告人は平成10年3月24日から,G病院で治療を受けるようになった。被告人の初診を担当したU医師は,同日の診療録に「上部は,気分が落ち込んで何もする気がなくて,風呂に入るのもおっくうで散髪も面倒で自分で髪を切る。騒音がするとものすごくイライラする(例,ドアの音,電話の音など)。人と喋るときテンションが上がり,思うように喋れない。電話だと特にまともに会話ができない。今の薬はもうひとつ合っていない時期(引っ越すとき)があったが,今は合っている。人に見られると緊張する。自分が見ると人が嫌がって逃げていく,怒り出す。ドアをドンと閉めると嫌がらせをされている気がする。人に会うこと自体が嫌で人の気配がしただけでイライラする。」などと記載し,人格障害と診断した。
(イ)U医師が他病院に転任となった同月末以後は,同病院のV医師が被告人の主治医となり,被告人は,本件事件の前日である平成11年9月28日まで,1か月に2ないし3回の割合で同病院に通院し,その診察を受けていた。同医師は,被告人には,持続的で広汎な緊張と心配の感情,対人関係を恐れて重要な対人的接触を伴う社会的あるいは職業的活動を回避している状態が認められ,周囲が自分の思いどおりにならないと不安になったりイライラするという強迫的性格も認められた。しかし,被告人には,幻聴や幻覚,訂正不能であったり,持続する妄想はなく,回りが気になるという神経症レベルの症状があったに過ぎず,人類全体からの迫害というような訴はなかったし,そのような妄想もなかった。そして,被告人がG病院の初診時に訴えていた前記のような症状は,同病院に通院するにつれて改善されていったとする。また,同医師は,被告人にはうまくやっていけないという悔しさはあったと思われるが,社会に適応しようと努力していたものであり,全人類が敵であるというような妄想を持っていたとは考えられず,本件犯行当時の被告人は症状が軽快した状態にあり,被告人の精神状態について,回避性人格障害(特定不能),適応障害(社会からの引きこもり)とする。同病院の診療録には,妄想と思われるような被告人の訴えの記載はなく,視線恐怖や対人恐怖の症状を訴えた記載も乏しく,その中心は両親に対する不満や暴言暴行の状況,仕事に就いてからはその関係の記載が多く,診療録の記載からも被告人が同病院での治療当時,視線恐怖や対人恐怖の症状が軽減していたことが窺える。V医師は,被告人に対し,抗精神病薬のロドピン,ドグマチール,コントミンや抗不安薬のソラナックス,レキソタン,睡眠薬のロヒプノールを投与し,敏感さを押さえて日常生活を続けることを目標とし,カウンセリングを続けた。なお,同医師は,ロドピンは,精神分裂病が適応となっているが,それ以外でも躁鬱病の興奮や焦燥を押さえたりする場合には,少量使用する場合があり,被告人に対しても精神分裂病に使用する量の2分の1ないし4分の1を使用したもので,ロドピンを被告人の精神分裂病の治療のために使ったものではなく,評価のための入院を考えたのも,被告人の家庭内暴力の原因等を見極めるためであって,精神分裂病を想定したものではないとする。もっとも,被告人は,V医師から,平成11年7月27日の診察で家庭内で王様になっているなどと言われたことから,同医師に対し好印象を持っておらず,また,同医師は父の味方であると思うようになっていたので,少なくとも,その頃以後は,同医師に対し,真情を述べていたとは言い難い面もある。
エ X鑑定について

 捜査段階で,X医師によって,いわゆる簡易鑑定がなされて精神衛生診断書が作成され,公判段階において,同医師作成の「鑑定人Y氏による「殺人・殺人未遂等被告事件被告人《乙1》精神状態鑑定書」に関する意見書」が提出され,公判廷において,X医師による証言(第13回公判調書中の証人Xの供述部分)がなされており,これらによるX医師の被告人の責任能力に関する意見は次のとおりである(なお,これらを総称して「X鑑定」という。)。

(ア)診断結果

 被告人は,回避性及び妄想性の人格障害と思われ,刑事責任能力に問題はない(なお,妄想性人格障害とは,人間特性の平均からの偏り(人格障害,平均範囲から逸脱した性格特性の偏異)のうち,人間一般に対する長年の疑惑(邪推)と不信によって特徴づけられるものである。ここにいう妄想とは,妄想性障害の妄想とは異なるものであり,妄想性人格障害の場合には通常固定した妄想が欠けている。回避性人格障害は,上記人格障害のうち,拒絶に対し極端な感受性を示し,それがために社会的に引きこもるものである。)。

(イ)理由の要旨

 被告人の対人恐怖は幼児から顕著であったが,大人の関係が必要になってくる大学生,社会人と長じるにつれてますます回避性を強め,内気に閉じこもってしまった。対人恐怖が昂じるにつけてその投影として自分を取り巻く人々全般への邪推,不信感を募らせ,これが先鋭化していった。したがって,回避性・妄想性人格障害とする方が,より確実に被告人を捉えられる。被告人がいう「人類から迫害される」というのは,回避性・妄想性人格障害の辿り着いた先の,広範で根深い対人恐怖と対人不信についての高度なつらさの高等な表現である。これに実生活上の不首尾や不運も重なっていよいよ行きづまり,自暴自棄となって自殺の道づれに社会への復讐を企てた最後の一矢が本件である。  鑑別すべき診断名として精神分裂病,うつ病,妄想性障害などがあるが,被告人には分裂病に特有の人格の弛緩,プレコックス感は感じられず,思考形式の障害はなく,妄想性障害でいう具体的な「妄想」もなかった。被告人は,人類に迫害されるという表現を使うが,これは被告人の歪んだ社会観を示すものである。幼い頃から対人恐怖に悩まされ,知的に優れているのに仕事も家庭もうまく行かず,ランクを落とした仕事にさえも冠水の不運に遭い,親からも突き放されてしまった。生きていて何一つ良いことが無かったとして,世をすね世間一般を恨むことは自然な感情の動きであると思われ,被告人にはそのような被害感情などはあったが,それは妄想というものではなく,後記「DSM-4」の1軸として妄想性障害という診断をする必然性はない。また,G病院での治療により対人恐怖症そのものが軽減されていた状態にあった。  そして,被告人が上記のような人格障害であれば,刑事責任能力に問題はなく,本件犯行は,被告人なりに考えた末の確信的行動であり,社会に及ぼす影響及び意義こそが犯行目的そのものであった。  なお,被告人の脳波異常,クモ膜のう胞,てんかん遺伝負因などの器質的素因は,精神病や人格障害の素因であるかどうか確証はなく,被告人には,幻聴,幻視を認めることはできず,解離性尺度については被告人の詐病の可能性を否定できない。

(3)被告人の親族の病歴

 前掲各証拠並びに戸籍謄本写(弁4),診断書写(弁5,9),陳述書(弁6,10)及び死体検案書写(弁11)によれば,母Bは,昭和37年11月から約3か月余りの間,反応性うつ病で入院加療を受けたことがあり,平成6年,症候性てんかんの診断を受けて現在も投薬治療中であり,Bの実妹も,昭和35年1月に20ないし30日程度,うつ病で入院,平成元年12月から4か月弱の間,同病で通院治療を受けたことがあり,同女の長男は,てんかんに罹患し,治療中の平成5年1月,てんかん発作重積のため窒息死しており,母Bの実父も意識を失うような発作を起こしていたことが認められ,被告人においては,うつ病とてんかんの家族歴が認められる。

(4)鑑定意見について

 被告人の本件各犯行時における責任能力については,〔1〕Y医師(以下,「Y鑑定人」という。)作成の「殺人・殺人未遂等被告事件被告人《乙1》精神状態鑑定書」(以下,「Y鑑定書」という。)及び「殺人・殺人未遂等被告人《乙1》精神状態鑑定書・補遺」(以下,「Y補遺」という。)並びに第9回公判調書中の証人Yの供述部分(以下,「Y証言」という。)(以下,これらを総称して「Y鑑定」ということもある。),〔2〕Z医師(以下,「Z鑑定人」という。)作成の「殺人,殺人未遂,銃砲刀剣類等所持取締法違反被告事件被告人《乙1》精神鑑定書」(以下,「Z鑑定書」という。)及び第16回公判調書中の証人Zの供述部分(以下,「Z証言」という。)(以下,これらを総称して「Z鑑定」ということもある。)がそれぞれ得られているところ,各鑑定結果及び理由等の要旨は以下のとおりである。

ア Y鑑定
(ア)鑑定結果

 被告人は,本件各犯行時において,妄想性障害(パラノイア)であり,また回避性及び妄想性の人格障害も併存してしいたが,犯行の進行にしたがって,犯行直前に大量服用したロヒプノールの影響による軽度の意識混濁が加わっていた疑いもある。しかし,それは,被告人の刑事責任能力に大きな影響を与えるものではなかった。それゆえ,本件各犯行時の被告人の精神状態は「妄想性障害」(パラノイア)のために事物の是非善悪を弁識する能力及びこの弁識に従って行動する能力が著しく減退していたことは確実であるが,その能力が完全に喪失していたとまではいえない。

(イ)理由の要旨
〔1〕精神医学的診断
〈1〉DSM診断=妄想性障害

 被告人の精神医学的診断を,アメリカ精神医学会編の『DSM - 4:精神疾患の診断・統計マニュアル』に従って行うと,被告人は第1軸(精神疾患)妄想性障害(被害型),第2軸(人格障害)回避性・妄想性人格障害,第3軸(一般身体疾患)糖尿病,第4軸(心理社会的等)中等度の不適応(定職の維持が困難な状況,対人関係の困難),第5軸(機能の全体的評定)GAFで50点程度(全体を0 - 100点に分類)となる。この中で最も重要なものは,第1軸診断(=妄想性障害)であり,これに第4軸診断(人格診断)が続く。  DSM-4の妄想性障害の診断基準は,「A,奇異でない妄想が少なくとも1か月間持続,B,精神分裂病の基準Aを満たしたことがない,C,妄想またはその発展の直接的影響以外に,機能は著しく障害されておらず,行動にも目立った風変わりさや奇妙さはない,D,気分エピソードが妄想と同時に生じていたとしても,その持続期間の合計は妄想の持続時間と比べて短い,E,その障害は物質や一般身体疾患による直接的な生理作用によるものではない。」である。被告人のDSM-4での妄想性障害の病型は,「人類全体が自分を迫害している」と要約でき「被害型」である。  Aについて,被告人は,青年期に発症した対人恐怖・視線恐怖などから,他人の視線や自分を見る気持ちなどに敏感になり,自分を嫌がっている,噂している,意地悪するなどの敏感性の関係妄想を抱くようになり,それが遅くとも平成5年頃までには「他人に嫌われる」,「人類全体に迫害されている」などの被害妄想に発展した(Y証言では,被告人は学生時代から妄想をもっていた旨述べており,Y補遺では遅くともC院入院当時から,妄想があったと訂正している。)。被告人の被害妄想は,確固とした,強い主観的観念であり,かつ説得や事実の告知による訂正が不能であり,妄想である。そして,この妄想が1か月以上にわたって持続して本件犯行時及び現在に至っている。よって,Aの基準は満たす。また,BないしFも満たすものと言える。

〈2〉伝統的診断

 被告人は,パラノイア(対人恐怖症パラノイア)である。すなわち,パラノイアとは,ドイツの精神科医クレペリンにより,「内的原因(生まれながらの資質)から発生し,思考・意志・行動の明晰さが完全に保たれたまま徐々に発展する,持続的で揺るぎのない妄想体系である」と定義づけられている。また,精神病理学者内沼幸雄は,対人恐怖症者の中核的患者は,恥(赤面恐怖),罪(表情恐怖),善悪の彼岸(迫害妄想)というつの段階を辿って,「対人恐怖性パラノイア」と称すべき妄想形成に至ると論じた。この対人恐怖性パラノイアは,最初は対人恐怖症という神経症レベルの症状に始まりながら,3段階の最後において,自我感情の高揚と低下,多幸感と絶望感などという躁うつ病的な気分の波がみられたり,迫害妄想・関係妄想などの精神分裂病的な症状がみられるなど,2大精神病の両方の症状が認められるというもので,被告人の現病歴からみると,現象としては,内沼のいう対人恐怖性パラノイアのプロセスに最も一致する。  TAT(絵画統覚検査)によれば,被告人は,図版の情景の認知に歪みや偏りはなく,因果関係の説明などは理路整然としており,思考障害は認められない。しかし,通常人が注意しないような周辺的な事物に関心を寄せるなど,変わり者の傾向があり,物語の内容では「死」,「死体」,「怪我」など身体の損傷が多く言及され,その中でも,特に「殺人」の話が最も多かった,初犯者の反応としては珍しく,犯罪や殺人に対する心理的な親和性が認められる,また,きわめて強い攻撃性の存在を示唆する,また,描かれる世界は迫害的・被害的・敵対的で不安と恐怖に満ちていた。SCT(文章完成法)によれば,被告人は,自分は精神障害者であり,その原因は父母の性格や養育に問題があったためであり,両親の責任が決定的であると考えていること,そのため対人恐怖が形成され,友人なども出来ず,社会生活でも大きなハンディを被ってきたもので,今では,この対人恐怖は人間増悪というべき,人類一般の恨みの感情,呪詛,攻撃心,征服欲にまで発展し,人類の滅亡を望んでいることが認められ,これらからすると,被告人は,対人恐怖症パラノイアであると診断される。

〈3〉精神分裂病との鑑別診断

 上記DSM - 4によれば,精神分裂病の診断基準は,以下のとおりである。「A,特徴的症状:以下のうち2つ(またはそれ以上),各々は,1か月間の期間(治療が成功した場合はより短い)ほとんどいつも存在。(1)妄想,(2)幻覚,(3)解体した会話,(4)ひどく解体したまたは緊張病性の行動,(5)陰性症状,すなわち感情の平板化,思考の貧困,または意欲の欠如,B,社会的または職業的機能の低下:障害の始まり以降の期間の大部分で仕事,対人関係,自己管理などの面で1つ以上の機能が病前に獲得していた水準より著しく低下している。C,期間:障害の持続的な徴候が少なくとも6か月間存在する。D,分裂感情障害と気分障害は除外。E,物質や一般身体疾患は除外。F,広汎性発達障害との関係。」とされている。  被告人については,BないしFはすべて満たすが,Aのうち確定できるのは(1)妄想のみであり,その他の項目は存在する疑いは濃厚であるが確実に満たすと断言できない。よって,被告人が精神分裂病と診断することは保留する。

〈4〉睡眠薬ロヒプノールによる精神及び行動の障害

 被告人は,本件犯行直前に,睡眠薬ロヒプノール120錠を嚥下しており,殺傷行為の最後のあたりは傾眠状態であった可能性はあるが,もうろう状態を疑わせるような奇異な言動は観察されておらず,計画通りの行動を合理的に遂行しており,深い意識障害の状態(もうろう状態,錯乱状態)にある人の行動とはとても考えられない。さらに,被告人は,自動車を発進させてから刃物を捨てて逮捕されるまでの状況をかなり詳細に記憶しており,現在も時系列に従って自分の行動を供述できる。しかも,ベンゾジアゼピン系薬物の強い影響下にある場合に特異的にみられる前行性健忘(当時は分別を持って行動しているようにようにみえても,事後に追想できない。)を欠いていることからも,その薬理作用は,少なくとも犯行を終わるまでの期間はそれほど強くなかったことを示唆する。以上によれば,被告人は,本件犯行時,もうろう状態,昏睡状態,錯乱状態など,根深い意識障害の状態にあったとは考えられない。

〔2〕犯罪心理

 本件犯行は,自殺念慮を伴う大量殺人である。これは,妄想性障害には時にみられる。被告人の自殺の主たる動機,原因は,その精神障害による苦痛から解放されたいという願望であり,これに現実的挫折が加わって,自殺心が強く刺激された。一方,大量・無差別な殺傷の動機は,長年にわたる被害妄想・関係妄想の対象たる不特定多数の人々に対する増悪と攻撃心によるものである。この動機の原点は「妄想」にあり,合理的なものでも真に了解可能なものでもない。

〔3〕被告人の精神能力

 以上のとおり,被告人は,妄想患者であり,精神病に罹患していたこと,犯行前の社会的・職業的機能には大幅な低下があったこと,本件犯行の動機は,人類全般を敵とみなして無差別大量殺人を行うという,パラノイアによる被害妄想に基づく奇想天外の発想によるものであり,更に,被告人の場合には,脳波異常,てんかんの濃厚な遺伝要因が認められ,抗うつ剤・抗不安剤常用による衝動性・攻撃性の抑制能力の低下という特異な事情が存したこと,本件犯行の態様も,異常かつ了解困難な行動であり,常識から著しく隔たっていること,本件犯行は計画的であり、自殺以外の動機による犯行は合理的に遂行されていることからすれば,被告人の精神状態は,是非善悪の弁識能力やその能力に基づく行動制御能力が完全に喪失していたとまではいえず,その能力が著しく減退していたものといえる。

イ Z鑑定
(ア)鑑定結果

 被告人の精神状態は,妄想性障害とか精神分裂病圏内のものというより,特異な性格的偏りが基盤となる,非定型的であるが,うつ病の家族歴なども参考にすると,うつ病圏内のものと考えてよい,犯行当時の精神状態は,物事の善し悪しを判断し,その判断にしたがって行動する能力にある程度の障害があったと考えるが,著しい障害があったとまではいえない。   特定の診断名を付けることは難しいが,DSM-4の多軸診断方式で言うならば, 1軸,神経症性うつ病,反応性うつ病 2軸,人格障害 ということになる。

(イ)理由の要旨
〔1〕被告人には,対人恐怖,視線恐怖,それに結びついて,過敏性,依存・攻撃,自己中心的,自己愛的,執拗性,易怒性,未熟などの性格傾向が目立っている。一番頼っていた両親に対する憎しみ(父親に対し強いが,母親の方に対しより強いという印象もある)が特に強く,妻に対する憎しみ,妹に対する憎しみ,仲間,上司に対する憎しみもあるが,暴言や形だけの暴行はみられているが,実際には反抗できない状況で,助けを常に求めながら追いつめられて,誰でもよいから巻き込んで,社会に対して反発する形で,両親に対し復讐するというもので,いわば八つ当たり的な発散であり,しかも記録に残るような格好いい形のもので復讐するというもので,自殺も両親への復讐であると述べている。被告人の精神状態は,大学4年時ころから発症した対人恐怖,視線恐怖を中心とした神経症状態から始まり,執着性,敏感性,依存・攻撃,自己中心的,自己愛的,易怒性等の人格的偏りを背景に,多くはうつ病圏内の不安,抑うつ,焦燥,無気力,無為,あるいは敏感,関係・被害念慮と,主として両親,その後,妻に対する依存,攻撃傾向が目立つ状態で,犯行に至るまでの平成3年から5年ころまでの中断期間を除き精神科専門病院への入院,通院治療を続け,犯行前は不安定ながらある程度の落ち着きを示していたが,事業の不振,妻との離別などから再び不安定となり,救いを求めていたものの,仕事のために折角ローンで買った車が台風で駄目になり,親の立て続けの拒絶にあって不安,刺激性,うつ状態から,親への復讐に転じ,自らも命を絶って復讐することとし,家族には手を出さずに,やや高揚した気分で犯行を計画し,睡眠薬を相当量飲んで犯行に及んだものである。

 すると,被告人の精神状態は,妄想性障害とか精神分裂病圏内のものというより,特異な性格的偏りが基盤となる,非定型的ではあるが,うつ病の家族歴なども参考にすると,うつ病圏内のものと考えて良い。

〔2〕被告人は,睡眠薬を120錠飲んだのは死ぬつもりであったと言う。それまでも排気ガス,飛び降り,舌かみなどを試みたというが,刃物は痛いから,舌はかむと痛いからやめたというので楽な方法を選んだのかもしれない。睡眠薬は被告人の行動に多少抑制的に働いたとも考えられるが,むしろ緊張し高ぶっていた状態に対し促進的に働いたとも考えられる。
〔3〕被告人は,本件犯行を計画し実行に及んだが,睡眠薬は,被告人をもうろう状態に置いたり,せん妄状態に置いたようにはみえない。なお,被告人は,大学時代から「世間が仲間はずれにすれば自殺は怖いが大量殺人か銀行強盗かやるしかない」と考えたことがあったという記載があり,もちろんそんなことはできないとも言っているが,その後も,病院などで反社会的な行動を起こすと困るという心配も述べているようである。しかし,被告人は,少なくとも,以前は,落ち着けばこのような行動には出ていない。本件犯行は,おそらく被告人のこのような言辞が実際には考えだけで行動に移されることはないだろうという周囲の判断に対する反発も含まれているだろう。

 なお睡眠薬が120錠すべて飲み下されていたかどうかは,その後の経過からみて疑問である。

〔4〕以上によれば,犯行当時の被告人の精神状態は,物事の善し悪しを判断し,その判断にしたがって行動する能力にある程度の障害があったと考えるが,著しい障害があったとまではいえない。
2 犯行時の被告人の病状に関する当裁判所の判断
(1)本件犯行前に被告人を診察してきた各医師の診断及びX鑑定並びにY鑑定及びZ鑑定の鑑定意見は上記のようなものである。

 いずれの医師及び鑑定人の診断及び鑑定においても,被告人には,対人恐怖症,視線恐怖症があると診断ないし鑑定されており,更に,V医師,X医師,Y鑑定人は,被告人に回避性人格障害の症状があるとし,Z鑑定も,これを否定するものではない。  更に,X医師及びY鑑定人は,妄想性人格障害を認め,Z鑑定書やZ証言によれば,Z鑑定人もこれを否定する趣旨とは考えられない。しかし,Y鑑定人を除く他の医師及び鑑定人はいずれも被告人に確立した妄想は存在しないとするが,Y鑑定人は,被告人には人類による迫害を受けているという妄想体系があるとして上記のように診断したが,その当否及び妄想の存否は,被告人の刑事責任能力の有無を判断する上で,重要な検討事項となる。

(2)Y鑑定について

以下,Y鑑定の当否特に妄想体系の存在の有無について検討する。

ア 妄想性障害及び妄想の定義

 妄想性障害とは,長期間持続し,ときには生涯続くような,単一の,あるいは相互に関連し合った一連の妄想を特徴とし,かつ,脳器質性疾患,精神分裂病,感情障害などに分類できない病態(精神病性障害のうち,優勢な症状が妄想である障害)である。ここに,妄想とは,病的に作られた誤った(不合理な,あるいは実際にあり得ない)思考内容あるいは判断で,根拠が薄弱なのに強く確信され(絶対の確信),論理的に説得しても訂正不能なものであり,複数で共有されるものではなく,個人的信念であるとされる。DSM - 4によれば,前記のとおり,妄想性障害にはAないしEの診断基準があり,Y鑑定は,被告人が妄想性障害の診断基準を満たすとするのでその当否を検討する。

イ Y鑑定によれば,被告人は,奇異でない妄想が1か月以上持続しているとする。そして,被告人は,青年期に発症した対人恐怖・視線恐怖などから,他人の視線や他人が自分を見る気持ちなどに敏感になり,自分を嫌がっている,噂している,意地悪するなどの敏感性の関係妄想を抱くようになり,それが早ければ学生時代から,遅くとも昭和63年にC院入院中には「他人に嫌われる」,「人類全体に迫害されている」などの被害妄想に発展したが,この被害妄想は,確固とした,強い主観的観念であり,かつ説得や事実の告知による訂正が不能であるから妄想であって,この妄想が1か月以上にわたって持続して本件犯行時及び現在に至っていると述べる。そして,Y鑑定書は,「被告人が少なくとも7年以上前から現在まで「周囲の人が自分を迫害する」という妄想を抱いており,片時もその観念から解放されることがなく,本件犯行もその妄想に基づく不特定多数の人々(人類)に対する憎悪と復讐であった。」とする。
ウ 確かに,上記のように,被告人のC院における日記帳1の昭和63年3月4日の記載には「とにかくすべての人が僕のことを不快に思い,僕をいじめる機会を狙っているように感じる。いつか誰かに殺されるのではないかと思い,どうせ殺されるのなら他の人を殺そうかと思う。とにかく,世の中すべての人が信じられず,僕にあてつけ,仲間はずれにしているように思い,こうなったら銀行強盗か大量殺人でもやるしかないと思う。」と記載されていたり,Y鑑定人の問診の際,同鑑定人の「人類全体から嫌がらせを受けているという考えに悩み始めたのはいつ頃ですか。」という質問に「大学4年生,23歳ですか。社会に出て社会人となったのが25歳ですか。その頃から,要するに仕事をしている時がひどいでした。」と述べている。しかし,他方,同日の日記帳の記載部分には,C院での患者らとのやり取りについて,「確かに回りの人が僕をどうこうするということはないと思いますが,・・」などという記載があったり,上記問診に際しても,「そう思い込んでしまいました。」とも答えており,被告人が他人から襲われるという訂正不能な確信を持っていたとするには不自然な,自己の思い込みを自覚しているような記述もみられるところであるし,日記帳の銀行強盗や大量殺人をやるしかないとの記載が,単なる空想ないし思いつきであることはその後の被告人の生活状況や同部分前後の日記帳の記載自体から明らかである。また,上記のように,被告人の雑ノートや被告人の診療録にも,「社会に反感がある。」,「回りの人が自分に敵意を持っている。自分も回りの人に敵意を持っている。」,「世界は敵だ。」等の記載も散見される。しかしながら,そもそも,被告人は,前記認定事実に照らして明らかなように,自己の対人恐怖症や視線恐怖症の症状を自覚してC院に入院したり,その後も,軽快状態となった一時期を除き,本件犯行に至るまで,自ら積極的に病院への通院を続けて,自らの視線恐怖症や対人恐怖症の症状を改善しようと努力していたものであり,そのような症状が病的なものであるとの認識をもっていたものであって,被告人がそのような症状について,それが事実であるとの絶対的訂正不能な確信を抱いていたものとは認められない。しかも,Y鑑定における問診においても,被告人は妄想のひどい状態として「誰かがわざとドアをバタンと閉めたとか,道路を走っている車がわざとエンジンを吹かして音をたてて嫌がらせをしたとか,電車に乗っていて,横の人がよそを向いていると,自分のことを嫌がって横を向いているような気がしたりとか。気がするというよりも,もうそう思い込んでしまう。」と述べている程度であって,その訴は対人恐怖症などの神経症の症状として十分理解しうる程度のものに過ぎない。
エ 被告人は平成5年2月8日に,自宅のアパートの階下で工事音がうるさく,発狂しそうな症状が出たとして,父Aに助けを求め,D病院に通院を再開し,上記のように診療録には,父Aに電話があり,同人が被告人方に赴くと,被告人が「自分は限界である。発狂しそうである。」という内容を訴えた旨記載されており,Y鑑定もこの点を被告人の精神状態の悪化を認める重要な事実としているが,この時期においても,被告人からは上記記載にあるような人類や世界を敵に回すという訴はみられていないこと,当時の被告人は,福岡から久留米に転居し居住環境が変化し,久留米から福岡まで電車通勤を余儀なくされていたうえ(同日の診療録には,2月上旬に被告人から父Aに通勤の不安恐怖を訴える内容の電話があった旨の記載もある。),被告人の居住していたアパートの階下は建設会社の資材置場で早朝から資材を運ぶなどして大きな音がしていたという状況があり,当時交際していたEとの結婚問題など,被告人が精神的に不安定になる要素が多かったと認められること,T医師もこのような被告人の訴を踏まえて精神病を疑ったものの,同月以後の診療によって被告人は軽快し,同年7月には,うつ病と診断し直すに至ったことからすると,上記混乱は,環境の変化等による一過性の混乱状態に過ぎなかったものと認めるべきである。
オ かえって,被告人は,昭和63年5月以後,S医師の勧めにより,職に就き,平成元年4月以後,所長と2人だけの所員しかいない建築設計事務所に就職してから,対人関係に悩む機会が減り,対人恐怖や視線恐怖の症状は改善していき,平成3年からは病院通いもしなくなり,同年末からはEと交際を始めていること,前記のような診療録の記載からは,被告人がD病院での再診初診時には,混乱状態にあったものの,治療によって落ち着きを取戻し,その後も環境の変化,仕事や収入など将来に対する不安,人との接触についての不安などから,安定した状態と精神的に不安定な状態を繰返し,平成7年4月から平成8年6月ころにかけて,4回程周囲の人から攻撃されるというような訴や過激な表現をすることはあったが,そのような訴は継続しておらず,それ以外の時期については,苛々感や視線恐怖症,関係念慮と思われる症状を訴える程度であったこと,また,前記のように,被告人は,平成10年10月には自ら仕事を捜そうという積極的な気持ちになって事業説明会に出かけたり,同11年2月からは,実際に軽運送業の仕事を始めており,更に,交際を求めて女性に声を掛けたり,妻との事実上の離婚状態になった後の平成11年7月にも,結婚相談所に赴くなどして,他人との関係を持って,社会の中で生きようとする行動に出ており,人類からの迫害を受けているという妄想を抱いていたとするには矛盾した行動に出ていることなどの事実に照らすと,被告人が対人恐怖症や視線恐怖症の症状を超えて,Y鑑定のいうような人類からの迫害を受けているというような妄想を抱き続けていたものとは考えがたい。
カ 被告人は,公判廷において,「人がわざと嫌がらせをやっているような気がしたり・・・,そういう思いが強くなったときに,それに対する恨みの気持ちが起こって人類は皆敵という意識になりまして,人をみんな殺してやろうという気持ちが起きまして・・・」と供述し(第5回公判),また,Y鑑定人の問診に対して,「人類に復讐した」あるいは「人類に対する恨み辛みが募っていた。」などと答えているが,Y鑑定人の問診に対しては,いずれの場合も自ら「大げさな話」であると断ったうえで述べているものであり,被告人自身がそのような表現が自己の認識とはかけ離れていることを窺わせる内容を述べている。しかも,被告人はY鑑定人の問診において,「自分が精神障害で社会生活に困っているのに,何の援助もしてもらえないということと,国が自殺として安楽死を認めないということが非常に不愉快でしたので,国に対する復讐という意味でも不特定多数の人に向かって攻撃しました。」と述べており,不特定多数の人を狙ったのは,自己の生活状況に対する援助が得られないという現状に対する不満も原因であると述べ,人類による迫害という妄想によるとは思われない現実社会での挫折が犯行動機の一つであると述べており,この点からも妄想が存在したとすることは疑問である。
キ 上記のような各病院における治療経過からすると,被告人が,環境の変化や生活上の困難からのストレスあるいは対人関係についての不安などから,一時的な混乱や過激な表現を示したことはあるものの,その後の治療経過からも明らかなように,その後は種々の外的ストレスに反応して視線恐怖症ないし対人恐怖症の症状として十分理解しうる程度の症状を示していたに過ぎず,そのような混乱や過激な表現をする状態が継続発展していたことを窺わせる事実は見当たらない。また,「人類からの迫害」というような表現は,本件犯行前の診療録や被告人本人の日記帳や雑記帳にも見当たらず,むしろ,前記のように,被告人は他人との関係を持って,社会の中で生きようとする行動に出ていたものである。しかも,被告人は,G病院における治療当時及び本件犯行時において,視線恐怖や対人恐怖などの症状が軽減していたことは前記認定のとおりである(このことは,本件犯行当時,被告人が精神安定剤を指示通りに服用する一方,処方された睡眠薬を多量に保管しており,犯行前の被告人が睡眠薬を使用しなくても睡眠をとることができた状態が相当あったことからも認められるところである)。しかるに,Y鑑定は,このような視線恐怖症や対人恐怖症の症状が,本件犯行時までに,どのような経過で人類全体による迫害という妄想体系にまで至ったのか,被告人が具体的にどのような迫害を感じたために妄想へと発展していったのかということを明らかにしないまま,上記のような妄想体系が被告人の中に構築されていったとするのであり,明らかな論理の飛躍があると言わざるを得ない(Y鑑定人はY補遺において,「被告人の妄想の中心主題は周囲の人から迫害され,中傷され,嫌がらせをされるということであり,被告人に被害を及ぼす人々が,周囲の人々から人類全体へとその規模が拡大していることがすなわち妄想の体系化であり,咳払いとか,ドアを閉める騒音などの些細なことが誇張され(て受取られ),妄想体系の焦点となっている。」と述べているが,上記のような音に対する敏感性などは対人恐怖症や視線恐怖症によっても十分説明しうるものであり,前記の疑問は,Y補遺によっても解消されるものとはいえない。)。
ク Y鑑定人は,心理検査のうち,風景構成法,MMPI(ミネソタ多面人格目録),解離性体験尺度(J - DES),WCST(ウイスコンシンテスト),ロールシャッハの検査などでは被告人が重い精神障害者であることや病的な範囲にあることを示すとし,更に前記のようにTAT(絵画統覚検査)やSCT(文章完成法)では被告人がパラノイアであることを強く示唆する結果が得られたとし,Y補遺においても被告人の病態水準が神経症と重症の精神分裂病との中間・境界域に位置する妄想性障害の所見と考えると矛盾がないとするのであるが,Z鑑定における心理検査(ただし,Y鑑定における心理検査と重なる主要なテストは,SCT,ロールシャッハであり,他に主要なテストとして描画テスト,P - Fスタディなどが行われている。)の担当者は,被告人は日常の欲求不満場面では直接的な攻撃性を相手に向けるより,欲求や願望そのものに固執しては問題の解決を周囲に依存して図ってもらおうとする傾向が強く,反社会的なことを知りながら,自己の破壊性を強調しており,その背景には自分が幸せでなければ他者が幸せであることを許さずに他者を破壊するという羨望の感情が非常に激しく,精神病というよりも人格障害(反社会的人格)が疑われるとしており,相矛盾する検査結果がみられること等に照らすと,Y鑑定における心理検査の結果をもって,被告人の妄想を裏付ける有力な証拠ということもできない。

 なお,Y鑑定においては被告人の脳波所見に異常波形がみられ,それは遺伝的に規定された前頭葉の機能障害を反映するものであり,被告人の強い攻撃性の生物学的基底を証明し,妄想性障害及び本件犯行を敢行するに至った内因的要素であるともするが,脳波検査を担当した医師の所見は軽度異常所見であり,Z鑑定における脳波検査担当医師の所見も非特異的軽度異常で,特定の疾患の存在を示唆するものではないと診断している。この脳波の所見が人格形成などの点に何らかの影響を与えた可能性は否定できないものの,その異常が特定の疾患に結びついていると言えないことはもとより,それが犯行時の被告人の精神状態に直接影響していたと認められるような事実はない。また,被告人の親族のうつ病やてんかんなどの病歴も,被告人が時にうつ様の症状を呈していたことからすると,その人格形成や視線恐怖などの症状にある程度影響した可能性はあるが,これまで被告人はてんかんなどの発作を経験した事実は全くなく,その遺伝的要素も特定の疾患に結びついたり,本件時の被告人の精神状態に直接影響した形跡は認められない。したがって,これらの所見も被告人の本件時の精神状態に影響していたものと言うことはできない。

ケ 一方,被告人は,捜査官に対して「私は,それまでにも自分が苦況に追い込まれると,世の中にダメージを与えて自分も死にたいなどと思ったことはありましたが,その時は心の中でそのような思いが浮かんだだけで,実際に実行しようとしたことなど一度もありませんでした。」(乙15号証)と供述するなど,上記のような心情が一時的なものであることを明らかにしており,確信された妄想体系が構築されたことによって,上記のような考えが浮かんだわけではなく,あるいはそれ自体が体系的な妄想であったことを否定しているのであって,こうした点は診療録の記載からも裏付けられるところである。また,被告人の公判供述における曖昧さや多くの矛盾点をみてみても,被告人が従前から本件犯行時点まで,「人類からの迫害」というような意識を持っていたと認めることはできず,このような表現は,本件犯行後,精神鑑定における有利な判断を得るため,被告人が意図的に使用し始めた可能性が高く,信用性に乏しい。なお,被告人は,本件犯行後,自ら,医師に対し,妄想が激しくなったので薬を増やしてくれるよう求めているが,了解不能な揺るぎない確信を持つ者が,自己の症状につきこのような客観的評価をすることは考えがたい。被告人は,頻りに妄想という言葉を使うが,上記事情によれば,強い対人恐怖感や未決拘禁下の不安を指したものと捉えた方が自然である。
コ 被告人は,公判廷において,「大学時代から,実際にはいないのに父の姿が見えたり,声が聞こえたりしていたが,本件犯行の数日前から,神の姿が見え,「事件を起こしなさい。」という指示があり,これに従った。」と供述するが,捜査官による取調べにおいては上記のような供述を全くしていないこと,被告人は捜査官に対して,犯行を決意するに至った経緯に関して具体的かつ詳細に供述しており,しかも,記憶していることと記憶していないことを区別して供述していること,この点に関する被告人の上記公判供述は,前後矛盾する部分が多く,矛盾をつかれて供述を安易に変えたり,返答に窮している部分も多々あること,被告人は前記のように,神の姿や声の他に従来から,その場に居ない父の姿や声を見聞きしていたと供述するのであるが,そのような事実は従来の長期間にわたる診療録にも全く記載がなく,Y鑑定も真実性に疑問を呈しているところであり,被告人は公判廷において初めて上記のような幻覚幻聴について供述するに至った理由について,「精神鑑定があるかもしれないと聞いて,そのことを話せば,ひょっとして収容されずに,刑的に何かいいようなことがあるのではないかと思い話す気になった。」旨刑が軽くなるかもしれないといった功利的動機によって供述するに至ったとするものであって,これらの事情に照らすと,本件犯行前において,被告人が幻覚幻聴を経験したとする上記供述は全く信用できず,自己の刑責を軽減するための虚偽の供述にすぎないものと認められる。
サ 以上によれば,被告人は,本件犯行当時,Y鑑定人が述べるように,人類全体から迫害されているという,訂正不能な観念を揺るぎない確信として有していたとは言い難く,この妄想に支配されて本件犯行を敢行したと認めることはできない。

 したがって,被告人が,本件犯行当時妄想性障害の状態にあり,本件犯行の動機は,人類全般を敵とみなして無差別大量殺人を行うという,パラノイアによる被害妄想に基づくものであるとするY鑑定は採用できない。

(3)精神分裂病との鑑別診断について

 弁護人は被告人が精神分裂病に罹患していた旨主張し,Y鑑定人もY鑑定及びY証言において精神分裂病の疑いを強く示唆するところである。被告人が精神分裂病に罹患していたことを窺わせる証拠としては,上記のとおり,D病院において,平成5年3月から同年7月までの一時期精神分裂病の診断名が付けられていたこと,Y鑑定において指摘されるところによると,同病院での再診初診の際の診療録の記載が精神分裂病に特有の症状の記載をしていること,G病院においても精神病に使用される薬が投与されていることや一時期評価入院を考えたこと及び心理検査においても精神障害を示唆する結果も得られたこと(なお,Y補遺においては,心理検査のうち,投影法検査において被告人が健常者・神経症者ではなく,精神分裂病者でもないことを示し,自己記入式のMMPI,J - DESでは精神分裂病を含む精神疾患を示唆する結果も出ているとする。)などの事実はあるものの,上記1(4)ア(イ)〔1〕〈3〉に記載したように精神分裂病の診断基準Aを確実に満たすものが妄想のみであるとして,Y鑑定人自身が,精神分裂病との診断を保留しているうえ,上記のようにD病院における診断は数か月間で「うつ病」と変更されていること、Y鑑定人が従来の被告人の主治医が精神分裂病を疑っていたと理解した諸事情はいずれも同病の疑いを前提としたものでないこと,Y鑑定人の言う「妄想」は上記のように存在したものとは認められないこと,また,同病の特徴ともいうべき思考障害(解体した会話等)が被告人には全く認められず,被告人との疎通性は十分にあることからすると,被告人が精神分裂病に罹患しているものと認めることはできない。

(4)Z鑑定について

 Z鑑定は,上記のように,被告人の精神状態は,妄想性障害や精神分裂病圏内のものというより,特異な性格的偏りが基盤となる非定型的ではあるが,うつ病の家族歴なども参考にすると,うつ病圏内のものであり,被告人の場合,人格障害が背景にあって「反応性のうつ病」を繰返すものであること,また,反応性うつ病は精神病ではなく,神経症に入るので精神病状態とは異なり,うつ病の程度も軽いものか中等度のものであったとする。Z鑑定は,表現は異なるものの,被告人に妄想は存在せず,人格障害などとする精神科の専門医である犯行前の各医師の診断やX鑑定の診断経過及び鑑定結果と概ね合致するものである(なお,前記のように,Y鑑定も被告人に人格障害が存在することを否定するものではない。)。Z鑑定は,他の鑑定意見をも参酌し,被告人の視線恐怖及び対人恐怖の発症時期と思われる大学時代からの被告人の治療経過を診療録などを含めて検討し,被告人の対人恐怖及び視線恐怖と両親との心理的な関係についても十分検討しており,被告人のそれらの障害の原因及び治療経過の中で種々の不安感を訴えたりしながらも,社会との関係を保とうとする被告人の揺れ動く心情,犯行を決断するに至った被告人の精神状態や心情などを分析しているが,その内容は,診療録の記載や主治医の検察官調書及び公判廷における供述に照らしても十分理解納得できるものであり,その信頼性は高いものということができる。 

(5)被告人の病状に関する小括

 以上の事実に照らすと,被告人は精神分裂病に罹患したり,妄想性障害の状態にあったものということはできず,強い性格的偏りを持った人格障害あるいは神経症であって,狭義の精神病の状態にはなかったものと認めるのが相当である。

3 被告人の犯行の動機,犯行前後の行動経過等について

 上記のように,被告人には妄想体系は存在せず,その精神状態は人格障害あるいは神経症の程度にとまるものであるが,被告人が視線恐怖や対人恐怖で苦しんでいたことは明らかであるから,そのような被告人の責任能力を判断するためには,犯行当時の病状のみではなく,犯行に至った被告人の動機,心情及び犯行当時の被告人の行為状況などについて更に検討する必要がある。

(1)犯行動機について

 被告人の捜査官及び公判廷における供述によれば,被告人には,大学生のころから,対人恐怖,視線恐怖の症状があり,大学卒業後は,対人関係の怖さから就職できず,治療を受けるようになったこと,医師の勧めで働き始め,所長と2人だけの職場である建築設計事務所に就職してからは,その症状は落ちつき始め,女性と交際したり,1級建築士の資格も取得したこと,しかし,その後事務所を変わって再び上記症状が出始め,独立開業後,交際していた女性と結婚したが,症状は好転せず,他方,仕事は減り事実上の廃業状態となってしまい,妻の申出によって,やむなく離婚を承諾したものの,両親の強い反対にあって,妻とは事実上の離婚状態になり,妻は外国に去ったのに,戸籍上は夫婦関係にあるという中途半端な状態になって,やり直すこともできなくなってしまったこと,比較的単純な運送業という仕事に就職しながら,台風のために仕事用の車両が冠水してうまくいかず,使用不能となった同車両のローン残債務の肩代わりと意図を隠してニュージーランド移住資金の借用を父に求めたが,いずれも拒否され,逆に父から実家の軽四輪乗用自動車で運送業を継続するように強く叱責され,ニュージーランドへ移住したいとの被告人の希望が絶たれ,そのように妻との同居ができなくなったのも,妻との関係が中途半端な状態になったのも両親のせいであり,しかも,幼少時から被告人が困難な状況に陥った際には必ず援助協力してくれていた両親,特に父Aに自己の依頼も全て拒絶され,他に頼る者のない被告人は,自己の希望を実現する手段が全て閉ざされてしまったと感じ,そのような両親に対する強い怒りや不満を感じたが,幼少時から両親特に父Aには反抗することができなかったため,直接怒りをぶつけることもできず,自殺を考えるようになったこと,それと同時に,親が助けてくれないだけでなく,政府が支援してくれないこと,運送会社等も何ら忠告してくれなかったことが自己を追いつめている原因であるなどと考えたこと,そして,それまでの生活においても,周囲の者に無視されて大学を卒業しても満足な就職もできず,比較的単純な運送業でさえ成功できず,貧乏くじを引いてきており,自分だけが惨めな思いをしてきたのに,周りの者はぬくぬくと生きているなど,世間が自分を冷遇してきたとする憤懣が一気に膨らみ,単に自殺するだけでなく,誰でもよいから巻込んで道連れに殺してやり,大量殺人をすれば,両親にショックを与えて思い知らせることができるし,この機会に社会にダメージを与えて世間に対する憤懣も一気に晴らしてやろうと考えたことから本件犯行を決意するに至ったことが認められるところ,被告人が従来の心理的危機場面では,最終的には両親特に父親から支援を受けることによって切り抜けることができていたが,本件前にはその両親からも強い拒絶を受けて絶望し,自殺を考え,更に上記のような心理状況から本件犯行を決意したことは,本件犯行当時の被告人の境遇,生活状況及び追いつめられた心理状況からすると,十分了解しうるものである。なお,犯行を指示するような神の声があったとする被告人の供述が信用できないことは前記のとおりである。

(2)犯行計画,犯行態様等

 被告人の捜査及び公判における供述から認められる犯行決意から実行に至るまでの経過は判示犯行に至る経緯及び罪となるべき事実において認定したとおりであるが,被告人は,世の中にダメージを与え,両親を苦しませて思い知らせるためには,できるだけ多くの人を殺傷する方が効果的であるとして,自動車を使用し,更に包丁を使用して殺傷行為を行うことを考え,犯行日も,人出が多い日曜日と決めており,犯行目的を達成するための合理的計画を立てていること,犯行の実現のために,あらかじめ包丁を購入したり,JR下関駅周辺の下見や同駅コンコース内への突入場所を下見する等犯行の準備を入念に行い,JR下関駅コンコース内に至るまでの自動車による殺傷やその後のホーム内での殺傷など具体的な犯行計画を立てていること,本件犯行当日になって,予定を繰上げて犯行を行うことになった後も,実家に戻って,犯行に手落ちがないように,犯行やその準備に必要な事項を手帳に書き出したうえ,包丁や睡眠薬などを準備し,更に人を殺傷しうる十分な馬力があり,しかもコンコースに入る扉の幅を考え,その扉を通過しうる程度の幅がある車を借り出し,交通が渋滞せず,通行人が多くなる時間を決行時刻と決めるなど,十分な準備を整えたうえ犯行に及んでいること,また,犯行状況も当初の計画通り,駅前の歩道に車で乗り上げ,通行中の4人を跳ね上げ,駅コンコース内にそのまま自動車で入り込むや,3人を跳ね上げ又は轢過し,自動車が使えないとなるや,改札口付近で車を降り,包丁を持って改札口からホームに向かい,途中の階段やホーム上で包丁を使用して殺傷行為に及んでいるものである。  以上のように,被告人は,犯行を思いつくや,犯行目的達成のために,周到,冷静かつ合理的な計画を立てて準備行為を行い,犯行時もその計画に従った合目的的な行動に出ており,被告人は本件犯行の準備段階はもとより犯行時においても,自己の行動の意味を認識し,冷静に行動していたことが認められる。

(3)犯行後の行動等

 被告人は,現場で警察官らに現行犯逮捕されたが,その際,自己の犯行を認め,弁解録取時やその後の取調べにおいても,犯行の動機や自己の行動を具体的かつ詳細に記憶供述しており,記憶の欠落も殆ど認められず,捜査段階においても,自己の犯行が許されないものであると認識している旨供述しており,犯行当時も自己の行為の違法性を理解認識していたことが認められる。

(4)犯行前の睡眠薬の服用について

 被告人は,本件犯行前に,睡眠薬であるロヒプノール120錠を嚥下しており,このことが責任能力に影響を与えるかについても検討する必要があるが,被告人は睡眠薬を服薬後,間もなく犯行に及んでいるものであり,その間,自動車を運転したり,犯行自体もその計画通りに実行しており,朦朧とした状態で行動した形跡は窺えないこと,犯行直後,警察官などに囲まれて,包丁を捨てるように指示され,これに応じて包丁を捨てていること,被告人は上記のとおり,犯行状況についても具体的詳細に記憶供述していること等の事情を考慮すると,睡眠薬の服用は被告人の本件犯行時における責任能力に何ら影響を与えていないものというべきである。

4 結論

 以上のように,被告人は,狭義の精神病に罹患していたものとは認められず,その病的傾向は人格障害ないし神経症の段階にとまるものであり,本件犯行時は,視線恐怖や対人恐怖の症状が軽減していた状態にあり,上記認定のような動機から犯行に及ぶことを決意したもので,その動機は被告人の置かれていた状況に照らすと了解可能であること,本件犯行時の行動やそれに関する記憶も十分に保持し,行為の違法性も認識していたことなど上記認定の各事実に鑑みると,被告人は,本件犯行時,いまだ事理の弁識能力もしくはこれに従って行動する能力が欠如した心神喪失状態,又は,これらの能力が著しく減弱した心神耗弱状態にはなかったと認めるのが相当である。  よって,弁護人の主張は採用できない。

(量刑の理由)

1 本件は,判示のとおり,被告人が,自己の将来に失望して自暴自棄となり,自殺を考えたが,そのような状態に陥ったのは両親や世の中のせいであるなどとして,自己の鬱憤を晴らすために,無差別大量殺人を計画し,周到な準備を整えたうえ,白昼,下関市内の繁華街であり,通行人や多数の乗降客が利用するJR下関駅周辺の歩道上や同駅コンコース内に自動車を運転して進入し,被告人と全く無関係の通行人に車両を衝突させ,あるいは轢過し,さらにあらかじめ準備していた包丁を持って自動車を降りて駅内やホーム上に侵入し,たまたま列車待ちなどをしていた被害者らを上記包丁で刺しあるいは切り付ける等して,無差別に5人を殺害し,10人に重軽傷を負わせたという,犯罪史上,まれにみる凶悪な事案である。
2 被告人は,大学生のころから対人恐怖,視線恐怖の症状に悩み,一旦その症状は軽快し,自分を理解してくれた女性と結婚し,1級建築士の資格も取得して,設計事務所を独立開業したものの,その経営に失敗して廃業状態となり,精神的な支えであった妻が外国に去って事実上の離婚状態となってしまったうえ,台風の影響による高潮のためローンで購入した仕事用の軽四輪貨物自動車を廃車せざるを得ない状態となり,両親に廃車した車両のローン残債務の肩代わりや借財を申し出たものの断られたことなどから,自暴自棄となって自殺を考えたが,そのような状態に陥ったのは両親や世の中のせいであり,自分だけが長年惨めな思いをしてきたのに,周囲の者は平然と暮らしているなどという理不尽な不満や被告人の頼みを断った両親への怒りから,自分が自殺するだけでは足りず,両親と社会に対し強烈な衝撃を与えようとし,全く無関係の他人をできる限り多数殺害しようとするに至ったもので,自らの不遇を全て周囲に責任転嫁し,身勝手かつ理不尽な怒りを正当化するなど,自己中心的な姿勢に終始した挙げ句,無差別殺人という非人間的な犯行を決意するに至るという本件犯行の動機には酌量すべき余地は全く認められない。
3 被告人は,自動車で通行人を殺傷し,自動車が使えなくなった後は包丁で殺傷し続けようとの計画を立てたうえ,あらかじめ犯行に必要な事項を書き連ねて犯行準備に落ち度がないように確認し,包丁を購入準備したり,入念に犯行現場の下見を行い,車両についても,犯行に適した車種を選択してレンタルする等周到に計画準備し,犯行日も最終的には予定を早めたものの,当初は人出の多い日曜日を予定し,犯行時刻も歩行者の数や交通渋滞を避けることを考慮して決定する等して犯行に及んだものであり,本件は,冷静な計算のもとに,計画的かつ確定的殺意をもって行われた犯行であり,犯行態様も,その計画通り,平穏な生活のなかで,たまたま付近を通行していた歩行者を次々と撥ね,あるいは轢過し,歩行者がいなくなると,駅改札口を越えて,階段やホーム上で列車待ちなどをしていた人々の身体の枢要な部分に包丁で次々と,執拗に切り付け刺していったという,冷酷で残虐かつ悪質なものである。
4 本件犯行の結果は,5人を殺害し,10人に重軽傷を負わせるという極めて重大なものである。被害者ら15人は,被告人とは何らの関係もない一般の歩行者や通行人であり,その内5人は,何らの落ち度がないにもかかわらず,被告人によって,残虐な方法で無惨にもその尊い命を奪われ,非業の死を遂げたものである。被害者P5はJR下関駅コンコース内を通行中に被告人の運転する車両に轢過されて死亡したものであるが,同人は被害者P6の家事を手伝い,同人の妻死亡後,同人を励まそうとして,同人の息子と共に下関市に立ち寄った際に本件凶行に遭遇したもので,健康状態にも何ら問題もなく,定年間近となった夫や2人の子供と共にその後の人生を歩もうとする寸前であった。また,被害者P6も被告人の運転する車両に轢過されたうえ,30メートル程度引きずられて,その後の治療の甲斐もなく,約2か月半後に死亡したものであるが,被害者P5をはじめとする周囲の理解や手助けを受けて,息子と共に静かな余生を送っていたにもかかわらず,本件凶行にあったものである。また,被害者P11は,下関市内の病院で診察を受け帰宅途中に本件に遭遇したものであるが,その日の診察で医師から健康状態が良くなっており,ひ孫に会いに行くための旅行許可が得られたところであり,妻をかばうようにして被告人から包丁で刺されるなどして突然生命を奪われたものである。また,被害者P15及び同P14は母娘であるところ,同P14は高校時から腎臓障害で人工透析を受けていたが,宗教団体に入信して精神的支えを得て明るく生活しており,被害者P15も,娘である被害者P12を支え,同人の健康状態を心配して,本件当日も北九州市内にある教会の礼拝に同行していたところ,その帰りに本件凶行にあったものである。このように,被害者らは,ごく平穏な日常生活を送るさなかに,何らの落ち度なく,本件凶行に倒れたものであって,このような形で人生の終焉を迎えざるを得なかった上記各被害者の無念さは察するに余りあり,その苦痛は筆舌に尽くしがたいものがあったというべきである。また,死亡を免れた者であっても,包丁で顔面などを切り付けられてその痕跡が消えないままであったり,自動車や駅などを通行することに恐怖心を持ち続けている者もおり,その肉体的精神的苦痛も甚大である。更に,殺害された被害者の遺族や重軽傷を負った被害者やその家族が受けた苦痛や悲しみも大きく,死亡した被害者の遺族はいずれも被告人に極刑を望んでおり,傷害を負った被害者は極刑あるいは厳重処罰を望んでおり,死亡した被害者遺族あるいは傷害を負った被害者の捜査段階における供述及び公判廷においてなされた意見陳述などからしてもこれら関係者の苦痛や悲嘆の大きさは,当然のものとして十分理解しうるところである。
5 被告人の捜査段階及び公判廷における供述からは,被害者やその遺族関係者に与えた苦痛や影響を十分理解認識しているとは思われないところもあり,公判廷においても自己の刑責を軽減するためとも思われる不自然な供述を繰返したり,被告人質問においても笑いながら質問に答える場面があるなど,自己の行為について十分な反省をしているか疑問なしとせず,また,死亡した被害者遺族や傷害を負った被害者らに対して相応な慰謝の措置も講じられておらず,今後もその見込は乏しい。
6 本件犯行は,白昼,駅という不特定多数の人が日常的に訪れる場所やその周辺の歩行者の中に自動車で突っ込み,更に包丁を持って駅ホームにまで入り込んで多数の人を殺傷したもので,列車利用客や付近住民はもとより一般市民に大きな衝撃を与え、平穏な地域社会に多大な恐怖感や不安感を抱かせたもので,社会全体に与えた影響も大きく,その点においても結果は重大であり,一般予防の見地からみても重大な事案と言わなければならない。
7 他方,被告人のために斟酌すべき事情としては,被告人の家系には,うつ病やてんかんの負因があり,被告人自身,長年,治療を行ってきたものの,対人恐怖症や視線恐怖症のため,対人関係に悩み,そのため仕事や結婚生活も長続きせず,収入や社会的地位,家族等に十分恵まれる状態にはなかったこと,被告人には前科がないことなどが認められる。 
8 そこで,被告人に対する刑の選択であるが,死刑は人間の生命自体を奪う極限の刑罰であり,近時,死刑制度については,その廃止論や適用をできる限り限定的にすべきであるとの議論を含めて盛んに論じられる状況にあり,死刑の適用について慎重に行うべきであるとの議論には首肯しうるところもあり,被告人に対する刑罰の選択においてもそのような配慮を行うべきことは当然である。しかしながら,死刑制度を存置する現行法制の下では,犯行の罪質,動機,態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性,結果の重大性ことに殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を合わせ考察したとき,その罪質が誠に重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には,死刑の選択も許されるものと言うべきである。

 そのような観点から本件についてみるに,前述したように,本件犯行の罪質,本件犯行が非常に計画的で,その態様が極めて残虐であること,その動機に特に酌量すべき事情が認められないこと,本件犯行により何ら落ち度も被告人との関係もない5人の生命を奪い,10人に重軽症の傷害を負わせるという極めて重大な結果を生じていること,遺族らの被害感情,社会的影響等などに鑑みると,その罪責は誠に重大であって,被告人のために酌むべき事情を最大限考慮し,本件と同種の各事案とを比較し,慎重に検討してみても,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも,被告人に対しては極刑をもって臨むことはやむを得ないものといわなければならない。  よって,主文のとおり判決する。 (求刑 死刑) 平成14年9月20日 山口地方裁判所下関支部第2部 裁判長裁判官 並木正男 裁判官 高島義行 裁判官 松井洋

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