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三壺聞書/巻之十四

 
三壺聞書巻之十四 目録
 
 
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三壺聞書巻之十四
 
 
 
寛永二年利常公の御息女亀鶴姫、御年十二歳にならせ給ふを、森右近大夫殿へ縁組被仰出、其の御用意品々御道具夥敷、惣領御姫の事なれば善美を尽し給ふ。其の時分天下一の御嫁取と沙汰せし。御家老として熊谷勘解由・田辺将監其の外御広式御台所御用人共記すに不及。さて御婚姻千秋万歳の御祝残る所なく相済みけるが、頓て姫君御不例にて、御養生の為御里へ入らせられ、下屋敷寿福院殿と御一所に御殿を建て御入り被成、よきに御保養限りなしと申せ共、次第に重らせ給へば程なく御遠行被成、則ち寺町の妙蓮寺に移し奉り、御葬送相済み、池上に御墓所を建てさせられ、浩妙院殿とぞ号し奉る。惣領の姫君なれば、何れも御愁傷御理りとぞ聞えける。
 
 
同二年越前国宰相忠直一伯殿と申しけるは、悪行様々成る故に豊後の萩原へ流刑せられ、一伯殿御子仙千代殿と母上を越後へ移し給ひ、一伯殿御舎弟伊予守殿を越後より、越前へ引越し、北の庄を改め福井の庄とぞ名付ける。一伯殿出頭人田伏監物と云ふ者を、加州利常公へ御預被成。是れ併し悪行の棟梁にして、一伯殿を諫め申す事もなく、公儀へ注進もせず、共にすゝめ申す罪科也。此の外に三人有之由。則ち能登の奥へ蟄居せしめ置き給ひしが、後には監物死して、せがれ弥右衛門公儀へ御伺ありて御扶持給り勤めける。
 
 
同年大塩伝左衛門御成敗被仰付。此の起りを尋ぬるに、妹聟小林庄兵衛より事起りけり。此の小林と云ふ者、始は越前朝倉家の者にて、義景一条谷に在りし時名誉の医道の者にて、殊更金瘡・腫物・産前産後の療治上手也。朝倉没落の後、利家公へ被召出者の孫也。庄兵衛甥に豊右衛門と云ふ者医道相伝してける。然るに利常公御家督とらせられしより、小林庄兵衛は御式台に相詰め、進物奉行相勤めしが、其の頃までは請払の御算用なく、上り物・馬代・樽代共に手前に預り置き、御用次第に指上ぐる。なき物は無御座由申上ぐる。或時御用の御道具を御尋の有りし時、元来なきやらん、又は取失ひけるやらん、手前に無御座由申上げければ、御前慥に御覚や御座ありけん、奥村因幡・宮城采女・奥村源左衛門等被仰渡、前後の御算用被聞召しに、請払しどろもどろに成りて、切手証文と云ふ事もなく、夥敷引込に成りて、世間に貸方の金銀もあり、居躰も身代の十双倍も有りければ、悉く御吟味ありて被召上、庄兵衛は切腹被仰付。小舅大塩伝左衛門は、小林家の儀諸事金銀も裁許致し、御算用の節は伝左衛門磅ひけるが、此の伝左衛門は公事場の取次相勤め、年々の公事銭・過料・闕所銀共に預り置き、是も御算用なかりければ、小林手前埓明きて伝左衛門手前御吟味に成り、伝左衛門方々の質を取り貸渡す金銀多し。又手形を以て貸渡す事おびたゞしかりければ、かりたる者元利返弁致せ共手形を不返、とのかくのと仮手形を遣し言ひ延べ、一両年立ちて又催促を入れて、二度なしする百姓・町人多かりけり。公事場の御用人なれば非義を可申立様もなく、皆堪忍して過ぎけるが、質物借状公儀へ上り、御奉行を極めさせられ、悉く御取立被成けり。然る所に吉光の脇指を質に置きたる人、請返すべき代はなし、惜き事なれ共是非なく流し捨てける事御耳に達しければ、何方へ売遣しけるやと御尋ありけるに、盗まれたる由申す時もあり、又質に不取と申す時もありしかど、極りなかりければ大に御機嫌あしく、拷問致し白状致させよと被仰出。其の役々の者共種々様々の責道具にて、世間にありとあらゆる呵責のせめ、中々聞くさへ身の毛も立ちける次第也。伝左衛門せがれ兵左衛門、弟市郎右衛門、伝左衛門甥に浪人一人、此の四人の者共夥敷責に逢ひけり。然れ共吉光の脇指行き所なし。依りて伝左衛門父子、浪人四人共に御成敗仰付けらる。哀共すさまじかりける御事也。とらと申す十二・三歳計なる娘一人あり。是は三輪法受家来木村権左衛門と云ふ者の子也けるが、伝左衛門養女にして置きけるを、親に御返しありければ、権左衛門難有存じ、育てゝ一向宗円長寺に妻合せり。伝左衛門妻も御成敗被成けり。此の妻女を御成敗被仰付事は、此の女先年利長公に御奉公申上げ、殊の外出頭致し、御前躰も勝れければ、御逝去の後縁に付き度くば縁オープンアクセス NDLJP:105付被仰付ん、左なくば御扶持方可被下と御意ありし時、此の女申上げけるは、誠以難有御事哉、縁付の事存じもよらず、さまをかへて御寺参りなど致し度しと申上ぐるに付き、奇特に思召し、御知行百石被下、御寺参り致し殊勝に見えけるが、金銀多くたまりて後、穏便に大塩伝左衛門に嫁娶しける事兼々御聞に達して、にくき次第と思召しけれ共、序もやと思召しけん、一年も月日を立ち、栄耀栄華の有様なりしが、伝左衛門拷問可被仰付前廉に、本座御小人・御先番・唐犬引などを御催促に被遣、妻子共に給仕させ、下々の如く召仕ひ、催促賄難儀千万の有様也。色々の物語有之といへ共畧せしむ。此の時の催促より以前は催促人と云ふ事なし。此の時より初りて、御城銀・御城米御貸方、武家・町人・郡方へ御かし付け、日限より遅参に及ぶ時は、早や催促を附けさせらるゝに、鶴・雁・白鳥を除き、其の外の魚鳥は催促人より献立を好み賄申す事なれば、催促請くる人々迷惑限りなかりけり。一人に三匁宛の催促銭を取けるを、是を立封と名付けたり。御隠居の時分、岡本小左衛門高直払の代銀借用の者遅参の時は催促を被遣けり。
 
 
寛永三年五月秀忠公御上洛被成、天下の諸侯供奉の次第御定め、中々行列極りたる御事也。二条の城へ御着きありて、追付き御参内被成、御幸の儀を奏聞ありければ、伝奏衆叡聞に達す。叡感大方ならず、禁裏より二条の御城の其の間諸町人棚をかざり、道を造り、掃除以下美々敷拵へ、諸職人棚をかざり、糸屋・扇屋・織殿・呉服・縫物師・仏師・絵師・木地挽・金銀銅の細工人・桶檜物屋に至るまで、一色も不残思ひの装束にて、男女夫々に出立ちて、営む業の道具共取備へ、六月九日の五つ時より九つ時の初まで御所車を静にやり、鳳輦の内より叡覧あり。親王・摂家・清華・女官等に至るまで、一人も不残供奉し奉り、心静に御見物也。中三日の御逗留、色々様々の御慰み、御進物・捧物・拝領物筆紙に尽し難し。諸大名任官此の時に多かりけり。此の時加州利常公は中納言兼肥前守に任ぜらる。諸大夫二人随身たら。本多安房守・横山山城守を諸大夫に補任あり。頓て還御ありて、将軍家も御下向、諸侯も帰国とぞ聞えける。
 
 
数年所々に遊君ありて、色にふける者金銀を尽す。此の金銀の出づる所に事欠きて、勝負をもはやり、天狗頼母子と云ふ事を下々の者仕出し、夥敷利徳の者もあり。又進退を破るもあり、盗賊人も出来す。富山藤縄と云ふ角力の者大将にて、大方金沢にて若者だてする若党共、あなた此方にて土蔵を破る。か様の者も顕れて御成敗被仰付ける。是れ皆傾城ある故也とて、町奉行へ被仰渡、堅く御禁制の所に、才川惣構の風呂屋に女を抱へ置き、湯女と名付けて人々是に群集す。又中村刑部預りの足軽病死して、其の後家いもかゝと云ふ者、きちと云ふ娘を持ち、其の弟に男子あり。此かゝ娘子を売るのみならず、あなた此方にかこひ置きて、御用の方へ参らせけり。此の事御目付より御両殿へ書上ぐる。本多房州・横山城州の計らひにて、彼の風呂屋親子三人、いもかゝ親子三人、泉野に磔に懸けらる。夫より博奕・傾城と云ふ事なし。操り歌舞伎の座は、御歩行・相撲の者何れの芝居にても札銭なしに見物す。それに似せて家中又は若党見物せんと云ふを、御徒衆を鼠戸に頼みおきて目明しにて、正真なれば入るゝ、似せなれば追出す。是に付き鼠戸にて耻をかく者唯出づる事なく、刀脇差を抜きて振廻り、騒動させて立退く。幾度も有之、手負も出来す。国家の費喧嘩の種也とて、堅く御禁制被仰出ける。河原町茶屋作右衛門と云ふ者、川原者の芝居を立てかしければ、か様の者棟梁人也。何れの座にても、初日一日は法楽とて所の者只見物す。二日目は茶屋作右衛門もらひ也。其外は五節句の日の見物の札銭又作右衛門もらひなり。如斯也ければ、作右衛門にも町奉行より被申渡、随分見物事も留りけり。然るに中一年立ちて、才川の河原に芝居立ちて操りを初めけり。御目付是を見て咎めければ、茶屋作右衛門申しけるは、御両殿に御断申上げ、御免を蒙り仕る由申しければ、其の通を両殿に申上ぐる。両殿にも終に其の沙汰もなかりし所に、作右衛門大なる偽りを申す事押領至極せりとて、捕へて泉野に於て火罪被仰付。夫より芝居見物の品々は留りけり。其の間三年程間きれて、又弥々天下御静謐なり。光高公御任官の後、英賢様御法事旁に、縁引を以て御詫言申上げ、さつまの磯之助・金太夫一類集り、才川に浄瑠璃初めけり。一両年もしける中に、四月十四日御城火事に町オープンアクセス NDLJP:106中も立替りて、才川の河原寸地もなく屋敷に渡り、芝居のある内に龍淵寺へ二千歩屋敷相渡り、金太夫は龍淵寺に借屋して、又三十日計も操り仕けるが、其の後追付き退散し、いづちともなくなりて、金沢に操りの場は止みにけり。
 
 
寛永三年四月の初より八月の末まで一日も雨降る事なし。天下共に大旱にて国民難渋に及ぶ。其の頃郡中も諸代官の儘にして、百姓の手前収納の儀を専に精出し取上ぐるとい人比で、耕作に精を出せと申付くる事なし。只百姓己が儘の事なれば、立毛悉く日照に逢ひ、未進等過分に出来し、其の代に奉公に出づる者多し。然るに依りて御国救の為に、日用人足余多江戸へ被召寄、同三年の秋より、神田の下屋敷に御普請被仰付。加州の下屋敷とて神田に先年より御拝領にてありけれ共、前は本郷の町をさかひ、後は不忍の池をさかひ、草茫々たる小笹原に谷嶺も有之て、所々に番人又は下々の者のみ有之、屋敷の内まだらに茶園してぞ居たりける。先づ四方に塀を懸けさせられ、御舘共立てさせ給ひ、別けて寿福院様の御屋形も立ち、又は御姫様の御屋形、千勝様・宮松様の御屋形も建てさせらる。追々に金沢より御子様方御引越被成入らせらる。天徳院様御遠行ありし故也と、諸人申ならしける。御上屋敷の御近所、小田原町・めつた町に加賀衆借屋して在りけるを、大方神田に長屋を建て置かせられける。寿福院様の御用人には、堀三郎兵衛を附置かせ給ふ。其の外御子様方附々の人々守護せしむ。
 
 
加賀の御下屋敷に、小幡宮内惣奉行にて、御成御書院内々より御造営被成、此の年漸く出来す。家光公御疱瘡も御機嫌能く相済み、翌年の夏中に御成と極りて、其の御用意の品々は、御分国は申すに不及、京・長崎・出羽・奥州まで御調物共被仰遣、相調ひければ、寛永五年四月廿二日に将軍秀忠公御成被成、終日御機嫌能被為成、還御をぞ被成ける。其の時筑前守光高公、四位少将に御任官被仰出、家光公の光の字を被進、其の御祝儀として御一門方数日御振舞、御家中にも御祝儀の御振廻被下けり。金沢には天徳院様の第七年忌として、大法事を被仰付執行せられ、江戸・金沢の御用共弥重り、上下武家・町人・百姓まで御事多く、昼夜の勤に寸暇を得ざる有様、推量して可知、記すに不及。記すに不及。
 
 
加州の御上屋敷かゝる閙敷打節に、子小将の内玉井主水・藤田長吉両人、御書院の廊下にて討ち果し、互に三ケ所宛手負、勝劣は不知、両人死して有之所を、横山大膳見付けて言上せられ、御吟味の所に、日頃意趣もなし、扇子引のうへ共いふ。曽て以てしれざれば、無是非寺へ移し煙となし、遺骨を金沢へ送り被遣る。両人の父母一門の歎き言語に絶する所也。是非に不及、手次の寺にて追善供養哀なりける有様也。玉井主水は十二・三の頃、高島左京の下屋敷長久寺へ毎日登山有りて手習をせらる。其の時は名を左門とぞ申しける。至りて利発なる少人にてぞ有りける。夫より御子小将に被召出、主水と申して江戸御供御成の御振舞御用を相勤む。父母の寵愛浅からざりしに、早世の程こそ痛はしけれ。大乗寺にて四十九日の廻向の時、母余りに堪へ兼て悲歎の泪を留め、和歌を詠じて亡魂を弔ふ。

うき七日めぐり来にけり七車けふのりかふる花のうてなに

か様に詠みて大乗寺謙室和尚に披露有りければ、和尚奇特の思ひをなし、頌を作りて亡子の母に物せらる。

和歌一首助余哀  何事人間去不来

月白風高真面目  西方豈願別蓮台

如斯の大活現成の一句唱へられければ、人皆難有祖意の活法を尊みけり。主水母儀は横山山城妹にてありけるが、常に和歌の道に達し、剰へ参禅学道に心ざしをみがき、賢女の名を世に顕す人也と其の頃申しあへり。玉井市正御上洛の御供して、上方より妾一人相具し、下屋敷にて家老岸五郎右衛門家を明けさせ、五郎右衛門は外へ移り、其の跡へ彼の女を入れ、男女を付け賄はせ、折々市正通はれけるに、主水母儀より殊更念頃にして、毎日菓子・肴以下慰みの為とて贈り、旅泊の住居嘸不自由に候はんと申し被遣ければ、さすが上方の人なれば、其の御志又難有との水茎になんだを催す返事に、此のさよ衣の重ねづま御はもじなどゝ有りしかば、猶いと哀にや思はれけん、市正に被申けるは、我等すでに助太夫・主水・大学とて三人の男子、其の外娘も有り、何の不足の候べき。下屋敷の客来こそ泊り定めぬ海士オープンアクセス NDLJP:107小船、浦の笘屋の夕暮もさこそ寂しかるらんに、随分とはせ給へと折々の催促也。かゝる御方の又可有共思はれずと、諸人貴く思ひける。又是よりたうときは、市正娘を佐藤与三右衛門に嫁娶の時、成程眉目よき若女房を撰び召抱へて娘に相添へ、与三右衛門方へ遣しけり。是は娘気にあはぬ時は心易く召仕へとの事也き。娘のお乳は至つて是を妬みに思ひ、市正内室へさゝへ申ければ、内室曰く、夫婦の挨拶の悪敷成るは、恪気嫉妬より事起りて、身躰の邪魔に成り、家を破り命をたち、子供をうき目にあはせ、世間に悪人の名をとる。是皆嫉妬の致す所也。本妻は其の家にして崇敬してさへ置きなば、かまへて恪気は云ふべからず。悪女也とて侍の娘を離別する事なき者也。但日本一のたわけ者なる男は格別也と能々制し被申ければ、与三右衛門伝へ聞きて、御心人の程誠に以て聖賢の道とても是には過ぎしとて、一入妻女に念頃に致しけり。是等の人は、形は女性なれ共誠に此の世の男かな、変成男子疑なしと沙汰しけり。

 
 
同六年大坂御普請の御触有り、諸国より奉行・人足・役人等罷上り、御城を造営す。越中高岡には百五十人の出家にて、夏百日の廻向として置かせらる。惣奉行安見隠岐・永原土佐、小奉行嶋田清右衛門・古江次右衛門・池田弥次兵衛・市川長左衛門、其の外先年高岡衆何れも相詰め、御番以下代りに被遣相済みけり。此の年女帝御即位有りて寛永の帝と申し奉る。秀忠将軍の御孫にてぞおはしける。
 
 
此の年六月下旬の事成るに、前田孫四郎殿御子息肥後殿は利家公の御孫也、左右なく御一門中より崇敬被成。いまだ若年の時分也、ちやんふ彦右衛門・高畠又八は朝より罷越し、昼時分に成りて石黒権左衛門・神戸嘉助・桑嶋藤右衛門・兄の次右衛門方へ人を遣し呼寄せられ、夕飯を急ぎ済し、何れも同道し才川へ出で、中村の淵にて水をあび、未の刻に帰らるゝ。法船寺町は其の時分川除にて、富田右衛門前なる橋まで出づる間は侍町也。川除のきはに坂部次郎兵衛、其の次に水野小兵衛、鬼川の際に村瀬九右衛門也。坂部次郎兵衛向ひに内藤助右衛門、其の次に外科の不乱坊、村瀬九右衛門向ひに辻助左衛門と不乱坊間に横井清右衛門、鬼川越えて橋際に松江次郎兵衛、向ひは神戸蔵人也。惣構の方へ横田弥五兵衛・山本治部、向ひは半田五郎左衛門、如斯有りけるに、肥後殿鬼川の橋際へ何れも同道し行懸り給ふ所に、村瀬惣領四郎右衛門・坂部惣領市郎右衛門両人連れて、鬼川の橋へ行懸り、坂部市郎右衛門橋の爪へ渡り懸り、肥後殿も渡り懸り、橋の真中にて刀の鞘と鞘とはつしと当る。肥後殿扇子を取直し、市郎右衛門が肩をひしとうち、せがれ如何と宣給へば、市郎右衛門刀を抜き心得たりと云ふ所を、石黒権左衛門市郎右衛門を後よりかき抱き、橋より道へ押落す。肥後殿家来川へ飛入り、橋向ひなる村瀬四郎右衛門を取籠めたり。四郎右衛門は刀を抜き、肥後殿橋を渡り道へおり給ふを待かまへたりしが、取まはされてたゝき合ひ、大勢なれば四郎右衛門・松江次郎兵衛前にて討留る。坂部は権左衛門にかゝへられ刀を振るに付いて突放すを、何れも寄合ひ討留る。其の間に肥後殿は何れも引包み、半田五郎左衛門門へ引入り、裏伝ひに富田右衛門方へ入り給ひ、表門へ出で給ひて高岡町へぞ引取り給ふ。村瀬九郎右衛門は其の時湯殿に行水して有之所へ、四郎右衛門乳兄弟左太郎と云ふ者走り入りて、四郎右衛門殿こそ喧嘩被成討れ給ふと申しければ、九右衛門聞きて、浴衣の上に手拭帯して長刀追取りかけ出し、せがれを討ちて何方へかのがし可申とて山本治部前まで追懸る。肥後殿家来共立帰り、追つまくりつ戦ひけるが、肥後殿歩行の者二人討たれ、草履取跡にさがつて後より九右衛門のよわ腰を切る。九右衛門長刀取直すかと見れば、此の草履取胸元より首筋半分かけ倒さるゝ。肥後殿歩行頭市川六兵衛しばし戦ひ、真甲切られけれ共九右衛門を討留めたり。其の時坂部次郎兵衛は宿に在合ひけれ共、程隔りて聞くや否や鑓追取りて出けれ共、早や何れも引入りて見物人のみ多ければ、無是非妙慶寺へ引込み法躰して上方へぞ登りける。村瀬九右衛門二男忠蔵十六・七歳の頃也。是非に出でんと刀を追取り出けるを、母・乳母など引留る。其の弟乱助はいまだ若衆にて十三・四歳也。村瀬四郎右衛門乳兄弟左太郎は、少し手負ひけれ共軽くして別義なし。追付き江戸へ言上有りけれ共、肥後殿手前別条なし。去れ共敵討もあらんかと、一代気遣油断はなかりけり。肥後殿後に三左衛門と云ふ。オープンアクセス NDLJP:108保科肥後守殿出来しての事也。後には小幡宮内聟に仰付けらる。村瀬妻子共は江戸へ引取りける。森川出羽守殿姪聟なれば江戸へ引越す。二男忠蔵は水野甲斐守殿へ在付き、弟乱助は旗本衆へ児小姓に出でけるに、若年の頃器量殊の外いみじく、見る者毎に執心し、引手数多に成りぬれば申分出来し、乱助後に浅草にて討死す。此の由兄忠蔵聞付け、相手を打とらんとて走り廻りて渡合ひ、糀町にて討死す。此の事、四郎右衛門乳兄弟の左太郎弟石松と云ふ者加州より被召連、兄弟の果を見て又金沢に来り語りけり。彼の村瀬四郎右衛門は新蔵と申し、坂部市郎右衛門は権八と申して長久寺にて手習し、十九・二十歳の頃前髪取り、其の翌年の事也。惣構の河岸ばた其の時分まで町屋也。鞘師徳兵衛と云ふ音頭とりの名人也。此の者の所へ鞘を頼みに両人参りたる折節也。何れも若き者共と、をしまぬ人はなかりけり。
 
 
同八年三月六日に寿福院殿御遠行被成ければ、江戸にて御遺骸を寺町へ御移し、日蓮寺へ納め奉り、池上に御墓所を御建立有りて、加州へ早速御飛脚到来し、天徳院様の御例になぞらへ、御葬礼を小立野にて執行せられ、善尽し美尽せり。則ち経王寺導師にて規式相済みけり。御法名寿福院殿花岳日栄大姉と号し奉りけり。
 
 
同年三月三日宝円寺に於て大法会を御執行被仰付、三ケ国の禅宗は申すに不及、諸宗の惣録諷経の衆、上方諸宗諸門跡諷経の使僧夥し。其の頃まで寺にて膳部被仰付、昼夜三度・四度の御賄に、木具・野菜品々郡中より持参す。畳の裏に数千串の豆腐をさし、廻廓の庭に炭を起し、数畳立て並べて焼かゝる。大い成る事共なれば商売人織るが如くに参りつどひ、人民御報謝の徳に依りて豊かに世を渡り、尤施行・牢払、閉門・蟄居も開門し、尊霊の牌前に参詣し奉る。三月十日には二の丸に於て御能被仰付、御家中並に出家衆まで御振廻を被下けり。
 
 
同年四月十四日寿福院殿御葬送の灰塚もいまだ不納、番人を附置かせらるゝ所に、大風吹いて天気能く、から風にて世間も騒敷思ふ所に、巳の刻に至りて才川橋爪法船寺の門前町二軒の間に火をはさみ焼上りて、法船寺の薬師堂に付き、夫より客殿・庫裏に付きければ、河原町を一面に押来り、南風は強く、中河原の大橋を焼落し、寺町より東をさして惣構の外を竪町より焼払ひ、惣構の外の火藪の内長九郎左衛門・山崎長門家に付く。大家の火なれば仙石町・堂形一面に火通りて、煙暗うして中天まで闇の如し。御城御本丸の上に人雲霞の如く、筵を以て懸る火の粉をあふぐを見るに、中々肝魂も消ゆるばかりに思はれけり。後には黒煙有頂天に棚引き、城の形も見えざりけり。然るに奥村河内屋形に火懸りて城を打越え見えければ、是はと云ふ内に、御城たつみの矢倉に火懸りて御本丸焼け、火の粉江戸町を焼払ひ、田井口悉く焼通り、金屋町にて火留る。御城の火は明日四つまで消えざりけり。肥前守様は北の丸飛駅様丸へ入らせらる。堂形米共上こげして煙匂ひし御用に難立に付き、御扶持人たる者の火事に逢ひたる者共に五石・十石宛被下、足軽・小者に割符し、外は惣町中へ被下けり。江戸へ此の由相聞えければ、上使として徳山五兵衛・桑山左衛門に、御夜着・ふとん・御小袖・御帷子為持被遣、五月十一日に金沢へ着き、御本丸へ上り焼跡見物申されけり。利常公御父子御同道にて御城を見物し、徳山五兵衛被申は、扨々此の御城は昔佐久間玄蕃頭暫く在城の後、利家公築かせ給ふ御城なるが、あの茶臼山の目の下にて、殊に小立野も城の為には宜しからず。上口より五千、下口より五千程有るならば、余り手間も入間敷と被申しは、御挨拶と何れも申ならしけり。其の火事に南町の片町は焼けざれば、金屋忠左衛門近所二・三軒の町屋へ上使を入置き、御賄仰付けらる。其の時分御通ひ子小将に柳田長三郎・佐藤伊織・安彦兵部、其の外五・三人替りに被参けり。やがて御暇申上げ、拝領物有りて江戸へ被罷帰けり。
 
 
斯くて御城御造営有るべき所に、俄に御材木もあらざれば、其の時分六条の末寺建立の為に、数万の材木末口物幾千本も年々に宮腰に積置きけるを、御借用被成、京都車牛十疋言上有りて被召下、彼の末口物・大材木を車にとらせらる。宮腰の馬借共是を迷惑がりて訴訟申上ぐる所に、此の末口物・大材木十四・五間も通りて、さし渡し二尺・三尺・四尺あオープンアクセス NDLJP:109るをば、何共して馬にてつけのぼすべしと被仰渡ければ、還りて御記言申上ぐる。北国七ケ国の大工共集り、其年・翌年両年かけて御屋形出来す。序を以て侍屋敷町なみ悉く建直り、屋敷替共有りて開敷事共也。
 
 
法船寺権誉上人の前師は妙慶寺へ移り、其の跡の住持にて、談義は北国に第一也。頓て寺を建立せんとて材木共夥敷積置かれ、大工の隙を窺ひ有之所に、火事に及び難儀の上、火元なればとて牢舎被仰付。扨門前の者御吟味の所に、我の人のと論になり、二軒の家主牢舎となり、火事の節盗賊数多にて道具共取らるゝ者多し。何方にも道具を拾ひ、又はのけたる道具あらば持出すべき旨、御触日々に廻りければ、友吟味に成りて隠し置く事成り難く、不審成る者有りて申出づる者には御褒美可被下旨御触なれば、我も人も大事と云ふ折節、或寺の門前にまづしき小者奉公人有り。不時に近所の者を振舞ひ、俄に有徳に見えたり。又不思議成る事共有り、旁隠し置き難く、以来の為を思ひて密に奉行所へ注進す。頓て公儀へ被召寄御吟味の所に、早速白状に及びけり。大原次郎右衛門役人にてぞ有りける。不参銀重り難儀仕り、つけ火致し、騒動のまぎれに河原町米屋より米を五斗盗取りて宿におろし、又立出で長九郎左衛門殿式台より長筒の鉄炮一挺取りて立帰り、坂の上より見てあれば、御城に火ぞ懸りける。見るより其の儘腰ぬけて立つ事難し。漸く垣の竹をぬきて杖につき帰申候。天命にて顕れ是非に不及申候由申上げれば、女子共に三人を牛にのせ、金沢町を引廻し、十四日の火付なりと呼はり、泉野にて火罪せられ、其の後法船寺は牢舎御赦免、門前の火元二軒ながら御追放、法船寺には才川の下にて河原を屋敷に被下けり。此の権誉上人は北国無双の談義者にて、暫く小屋掛の内にて談義せられしかば、頓て諸旦那寄進して大伽藍を建立せられ、追付き万人講を立て寺造営を補益し、其の後出入の座頭坊主宗寿と云ふ者発心し、裏屋敷に念仏堂を建て引籠る。其の内に諸国道心坊主集り、昼夜念仏怠る事なし。宗寿は泉野へ上りて小庵を結ぶ。彼の念仏堂相続繁昌して、自然と万日講と成りて、延宝年中に万日の廻向として江戸新智恩寺来駕有りて、国中一宗の智識此の廻向にあひぬ。三十三年以後の万日廻向発起せらる、奇妙と云ひつべし。先づ過分の材木をよせ置きて、夫を四月十四日に灰塵となし、下の河原に追付き寺造営せられける。弥陀本願の難有故とは云ひながら、権誉上人の智力による。善導大師の三尊を吹出だされけるよりも、此の上人の弁舌を以て伽藍を造立せらるゝ事猶貴しと申して、諸人崇敬致しけり。
 
 
此の年中納言利常公は北の丸に御座被成、筑前守光高公は本多安房守屋形にまして、御本丸の御作事を仰付けらる。然るに大橋市右衛門を召して被仰出けるは、供廻りの小将共年寄りて若き者まれ也。子供・兄弟・甥たる者の無足にて有之者三十人計見立て、由緒を取りて指上ぐべし、召抱へ供廻り勤めさすべき由御意に付き、御家中へ触れければ、由緒一門付を調べ大橋市右衛門に持参す。一々御覧に入れ奉る、利常公御披見被成御点を被成、早々御目見可申付旨にて、何れも難有存じ、日限相極り、礼銭にて御目見仕る。則ち御一行御調被置、御前に於て頂戴す。人持・物頭・小将・馬廻・組外の無御構被召抱ける故、御知行もひとしからず。その被召出人々は、不破七兵衛・野村四郎左衛門・中尾宗兵衛・中村喜左衛門・矢野所左衛門・今村久兵衛・武藤長左衛門・脇田三郎四郎・湯原太左衛門・橋爪新兵衛・同宗右衛門・佃次兵衛・神戸清四郎・湯原又助・谷与右衛門・嶋田又八・丹羽次郎兵衛・宇野五左衛門・河内山半助・加藤九郎右衛門・田辺五左衛門・中村長右衛門・原三郎左衛門・青木新右衛門・岡田弥五郎・横地三郎右衛門・稲垣弥三郎・笠間新助・嶺喜右衛門・古江猪右衛門・同五兵衛、此等の人々江戸御供の用意として、親・一門兄弟より夫々に致用意、岩乗の為とて小松へ往来し、倶利伽羅・石動・高岡へ行き、富山へはせ、道の稽古を勤めけり。大橋市右衛門に被仰渡けるは、随分の大男と聞きけれ共、皆子小将上りの様なる若輩者と見えける由御意の所に、市右衛門承りて申上げるは、御意の通り相違無御座奉存候。併し初て御前へ上下を着し罷出候へばすくみて見え申候。旅出立など仕候ては能き器量共にて御座候由被申上。其の時分御家に大橋市右衛門・佃源太左衛門程なる申度きまゝの出頭人又ともなかりけり。其の年の暮に上通り御参覲の節、彼の三十人の者共旅の出立の半着オープンアクセス NDLJP:110物、本綿にて薄鼠又は空色に染めさせて着し、二尺二・三寸の大脇指一腰宛にて、腰に小さき馬柄杓・小瓢簞を帯に挟み、手拭を縄になひて腰に挟み、御乗物の先に進みければ、何れも背かいらぎに金鍔又は好みの太刀拵へ、誠に花々敷見えければ、利常公仰には、市右衛門申す通り能き器量の者共也と仰せらるれば、御意の通りに御座候と市右衛門申上げ面目を施しけり。東海道に至りて御昼休の節、大橋市右衛門御本陣へ出で、御供の人々を見渡せば、皆草履取に髪をゆはせ居たりけるを、市右衛門急度見て、扨々其の方達少分の身代にて、人に髪を結はする事沙汰の限り也。夜中にも自髪にゆひて御点にあふ事第一也。向後自鬢にて無之ば、急度申上候はんと高声に被申ければ、夫より何れも自鬢にこそは成りにけれ。扨道中御急ぎの事なれば、或時御弁当所へ着かせ給ひ、御本陣へ御乗物を舁入れんとするに、直に通せと御駕籠の底をたゝかせ給ふに付き、直に御駕籠を通しけるに、大橋市右衛門御乗物の棒ばなを追取りて、跡へ押戻し申しけるは、御供廻の者共草臥て見え候へば、他国路にては叶ふまじ、御乗物を舁入れとて御宿の式台まで無理に押やり、式台へ御乗物を押向けれ共、利常公は物をも不被仰、御駕籠より御出もなく、御鬢の髪さかさまに御眼色かはりて御座被成けれ共、其の間に御供廻りに早々支度させ、皆々食事等済み早速罷出ければ、御乗物を出せと市右衛門下知して、御泊まで一息にそ御着なる。其の節の市右衛門気色は樊噲・張良・安禄山と申すとも、是程には有るまじとぞ申しける。