コンテンツにスキップ

万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第十一

提供:Wikisource

巻第十一とをまりひとまきにあたるまき


古今相聞往来歌類上


相聞したしみうた 旋頭歌〔十七首。十二首、人麿集。五首、古歌集。〕


2351 新室にひむろの壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ処女をとめは君がまにまに

2352 新室を踏み鎮む子が手玉たたま鳴らすも玉のごと照らせる君を内へと申せ

2353 泊瀬の斎槻ゆつきがもとにが隠せる妻あかねさし照れる月夜つくよに人見てむかも

2354 ますらをの思ひたけびて隠せるその妻天地あめつちに通り照るともあらはれめやも

2355 息の緒にふ妹は早も死ねやも生けりともあれに寄るべしと人の言はなくに

2356 高麗錦紐の片方かたへとこに落ちにける明日の夜しなむと言はば取り置きて待たむ

2357 朝戸出の君が足結あゆひを濡らす露原早く起きて出でつつあれも裳の裾濡れな

2358 何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりともふ妹にやすく逢はなくに

2359 息の緒にあれは思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを

2360 人の親の処女児をとめこ据ゑて守山辺もるやまへから朝なな通ひし君が来ねば悲しも

2361 天なる一つ棚橋何かさやらむ若草の妻がりと言はば足結し立たむ

2362 山背の久世くせ若子わくごが欲しと言ふをあふさわにを欲しと言ふ山背の久世

     右ノ十二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。


2363 岡の崎みたる道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避道よきみちにせむ

2364 玉垂たまたれ小簾をすすけきに入り通ひねたらちねの母が問はさば風と申さむ

2365 うち日さす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れてる夜しそ多き

2366 真澄鏡まそかがみ見しがと思ふ妹に逢はめかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこの頃

2367 海原の道に乗れれやが恋ひ居りて大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに

     右ノ五首ハ、古歌集ノ中ニ出ヅ。


ただ心緒おもひを述ぶ〔百四十九首。四十七首、人麿集。百二首、人麿集外。〕


2368 たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに

2369 人の味寐うまいは寝ずてはしきやし君が目すらを欲りて嘆くも

2370 恋ひしなば恋ひも死ねとや玉ほこの道行き人に言も告げなき

2371 心には千たび思へど人に言はずが恋ふ妹を見むよしもがも

2372 かくばかり恋ひむものそと知らませば遠く見つべくありけるものを

2373 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ふはすべなし

2374 かくのみし恋ひし渡れば玉きはる命も知らず年は経につつ

2375 あれゆ後生まれむ人はがごとく恋する道に逢ひこすなゆめ

2376 ますらをの現心うつしこころあれはなし夜昼といはず恋ひし渡れば

2377 何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひざる先にも死なましものを

2378 よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはずあれは恋ひつつ居らむ

2379 見渡しの近き渡りをたもとほり今や来ますと恋ひつつそ居る

2380 はしきやし誰がふれかも玉ほこの道見忘れて君が来まさぬ

2381 君が目の見まく欲しけみこの二夜千年ちとせのごともが恋ふるかも

2382 うち日さす宮道を人は満ち行けどふ君はただ一人のみ

2383 世の中は常かくのみと思へども半手不忘なほ恋ひにけり

2384 我が背子はさきくいますと度まねくあれに告げつつ人も来ぬかも

2385 あら玉の年は経れどもが恋ふる跡なき恋のやまぬあやしも

2386 いはほすら行き通るべきますらをも恋ちふことは後悔いにけり

2387 日暮れなば人知りぬべみ今日の日の千年のごとくありこせぬかも

2388 立ちて居てたどきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず

2389 ぬば玉のこの夜な明けそ赤らびく朝行く君を待てば苦しも

2390 恋するに死にするものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし

2391 ぬば玉の昨日の夕へ見しものを今日のあしたに恋ふべきものか

2392 なかなかに見ざりしよりは相見ては恋しき心いよよ思ほゆ

2393 玉ほこの道行かずしてあらませばねもころかかる恋には逢はじ

2394 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに

2395 行けど行けど逢はぬ妹ゆゑ久かたの天の露霜に濡れにけるかも

2396 たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む

2397 しましくも見ぬば恋しき我妹子を日に日に来れば言の繁けく

2398 玉きはる世まで定めて恃めたる君によりてし言の繁けく

2399 赤らびく肌も触れずて寝たれどもしき心をはなくに

2400 いで如何にねもころごろに利心とごころの失するまでふ恋ふらくのゆゑ

2401 恋ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子が我家わぎへの門を過ぎて行くらむ

2402 妹があたり遠くし見ればあやしくもあれはそ恋ふる逢ふよしを無み

2403 山背の久世の川原にみそぎしていはふ命は妹がためこそ

2404 思ひ寄り見寄りしものを何すとか一日へだつて忘ると思はむ

2405 垣ほなす人は言へども高麗錦こまにしき紐解き開けし君ならなくに

2406 高麗錦紐解き開けて夕へだに知らざる命恋ひつつあらむ

2407 百積ももつみの船漕ぎ入るる八占やうらさし母は問ふともその名はらじ

2408 眉根掻き鼻紐解け待てりやもいつかも見むと思ひし我君わぎみ

2409 君に恋ひうらぶれ居れば怪しくもが下紐の結ふ手たゆしも

2410 あら玉の年は果つれど敷妙の袖交へし子を忘れて思へや

2411 白妙の袖をはつはつ見しからにかかる恋をもあれはするかも

2412 我妹子に恋ひすべなかり夢に見むとあれは思へどい寝らえなくに

2413 故もなくが下紐そ今解くる人にな知らせ直に逢ふまで

2414 恋ふること心遣りかね出で行けば山も川をも知らず来にけり

     右ノ四十七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。


2517 たらちねの母にさはらばいたづらにいましあれも事成るべしや

2518 我妹子があれを送ると白妙の袖づまでに泣きし思ほゆ

2519 奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は如何にせむ

2520 苅薦かりこもの一重を敷きてされども君としれば寒けくもなし

2521 かきつはた丹頬にづらふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも

2522 恨みむと思ひなづみてありしかばよそのみぞ見し心はへど

2523 さ丹頬ふ色には出でじ少なくも心のうちにはなくに

2524 我が背子にただに逢はばこそ名は立ため言の通ふに何かそこゆゑ

2525 ねもころに片思かたもひすれかこの頃のが心どの生けるともなき

2526 待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む

2527 たれそこの我が屋戸に来呼ぶたらちねの母にころばえ物あれ

2528 さ寝ぬ夜は千夜もありとも我が背子が思ひ悔ゆべき心は持たじ

2529 家人は道もしみみに通へどもが待つ妹が使来ぬかも

2530 あら玉の寸戸きへ竹垣たかかき網目よも妹し見えなばあれ恋ひめやも

2531 我が背子がその名のらじと玉きはる命は捨てつ忘れたまふな

2532 おほかたは誰が見むとかもぬば玉のが黒髪をぬらして居らむ

2533 面忘れいかなる人のするものそあれはしかねつ継ぎてしへば

2534 相思はぬ人のゆゑにかあら玉の年の緒長くが恋ひ居らむ

2535 おほかたのわざとははじ我ゆゑに人に言痛こちたく言はれしものを

2536 息の緒に妹をしへば年月の行くらむわきも思ほえぬかも

2537 たらちねの母に知らえずが持たる心はよしゑ君がまにまに

2538 独りと薦朽ちめやも綾莚緒になるまでに君をし待たむ

2539 相見ては千年やいぬるいなをかもあれやしかふ君待ちかてに

2540 振分けの髪を短み春草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ

2541 徘徊たもとほりゆきみの里に妹を置きて心空なり土は踏めども

2542 若草の新手枕にひたまくらをまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに

2543 が恋ひしことも語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ

2544 うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋に死ぬべし

2545 誰そ彼と問はば答へむすべをなみ君が使を帰しつるかも

2546 思はぬに至らば妹が嬉しみと笑まむ眉引まよびき思ほゆるかも

2547 かくばかり恋ひむものそと思はねば妹が手本たもとをまかぬ夜もありき

2548 かくだにもあれは恋ひなむ玉ほこの君が使を待ちやかねてむ

2549 妹に恋ひが泣く涙敷妙の枕通りて袖さへ濡れぬ

2550 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を

2551 思ふにし余りにしかばすべをなみ出でてそ行きしその門を見に

2552 心には千重しくしくに思へども使を遣らむすべの知らなく

2553 夢のみに見るすらここだ恋ふるはうつつに見てばましていかにあらむ

2554 相見ては面隠さるるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも

2555 朝戸遣あさとやりを早くな開けそうまさはふづらし君が今宵来ませり

2556 玉垂の小簾をす垂簾たれすを引きあげてさずとも君は通はせ

2557 たらちねの母に申さば君もあれも逢ふとはなしに年そ経ぬべき

2558 うつくしと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらくへば

2559 昨日見て今日こそ隔て我妹子がここだく継ぎて見まくし欲しも

2560 人もなき古りにし里にある人をめぐくや君が恋に死なせむ

2561 人言の繁きりて逢へりともはたが上に言の繁けむ

2562 里人の言寄せ妻を荒垣のよそにやが見む憎からなくに

2563 人目守る君がまにまにあれさへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ

2564 ぬば玉の妹が黒髪今宵もかが無き床にらしてらむ

2565 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ

2566 色に出でて恋ひば人見て知りぬべみ心のうちのこもり妻はも

2567 相見ては恋慰むと人は言へど見て後にもそ恋まさりける

2568 おほろかにあれし思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも

2569 思ふらむその人なれやぬば玉の夜ごとに君が夢にし見ゆる

2570 かくのみに恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ

2571 大夫ますらをは友の騒きに慰むる心もあらむあれそ苦しき

2572 偽りも似つきてそするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死にする

2573 心さへまつれる君に何しかも言はずて言ひしとがぬすまはむ

2574 面忘れだにもえせむやと握りて打てどさやらず恋のやつこ

2575 めづらしき君見むとこそ左手の弓取る方の眉根まよね掻きつれ

2576 人間ひとまり葦垣越しに我妹子を相見しからに言そ沙汰さだ多き

2577 今だにも目なともしめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに

2578 朝寝髪あれは梳らじうつくしき君が手枕りてしものを

2579 早ゆきていつしか君を相見むと思ひし心今ぞ凪ぎぬる

2580 面形おもかたの忘れてあらばあぢきなく男じものや恋ひつつ居らむ

2581 言に言へば耳にたやすし少なくも心のうちにはなくに

2582 あぢきなく何の狂言たはこと今更に童言わらはことする老人おいひとにして

2583 相見ずて幾ばく久もあらなくに年月のごと思ほゆるかも

2584 ますらをと思へるあれをかくばかり恋せしむるはからくそありける

2585 かくしつつが待つしるしあらぬかも世の人皆の常ならなくに

2586 人言を繁みと君に玉づさの使も遣らず忘るとふな

2587 大原の古りにし里に妹を置きてあれい寝かねつ夢に見えこそ

2588 夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりそ今もい寝かてにする

2589 相思はず君はあるらしぬば玉の夢にも見えずうけひてれど

2590 岩根踏み夜道は行かじと思へれど妹によりては忍びかねつも

2591 人言の繁き間守ると逢はずあらばつひにや子らが面忘れなむ

2592 恋死なむ後は何せむ我が命の生けらむ日こそ見まく欲りすれ

2593 敷妙の枕動きてい寝らえず物ふ今宵早も明けぬかも

2594 行かぬを来むとか夜も門さずあはれ我妹子待ちつつあらむ

2595 夢にだに何かも見えぬ見ゆれどもあれかも惑ふ恋の繁きに

2596 慰むる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日に

2597 いかにして忘れむものそ我妹子に恋は益されど忘らえなくに

2598 遠くあれど君にそ恋ふる玉ほこの里人皆にあれ恋ひめやも

2599 験なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝なむ子ゆゑに

2600 百代しも千代しも生きてあらめやもふ妹を置きて嘆かむ

2601 うつつにも夢にもあれは思はずきりたる君にここに逢はむとは

2602 黒髪の白髪までと結びてし心一つを今解かめやも

2603 心をし君にまつると思へればよしこの頃は恋ひつつをあらむ

2604 思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ

2605 玉ほこの道行きぶりに思はぬに妹を相見て恋ふる頃かも

2606 人目多み常かくのみしさもらはばいづれの時かが恋ひざらむ

2607 敷妙の衣手れてを待つとあるらむ子らは面影に見ゆ

2608 妹が袖別れし日より白妙の衣片敷き恋ひつつそ

2609 白妙の袖はまよひぬ我妹子が家のあたりをやまず振りしに

2610 ぬば玉のが黒髪を引きらし乱れてあれは恋ひ渡るかも

2611 今更に君が手枕まき寝めやが紐の緒の解けつつもとな

2612 白妙のそて触れてより我が背子にが恋ふらくは止む時もなし

2613 夕卜ゆふけにもうらにも告れる今宵だに来まさぬ君をいつとか待たむ

2614 眉根まよね掻き下いふかしみ思へるに古へ人を相見つるかも

     或ルマキノ歌ニ曰ク、

    眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも

     一書ノ歌ニ曰ク、

    眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも

2615 敷妙の手枕まきて妹とあれる夜はなくて年そ経にける

2616 奥山の真木の板戸を音速み妹があたりの霜のに寝ぬ

2617 あしひきの山桜戸を開き置きてが待つ君を誰か留むる

2618 月夜つくよよみ妹に逢はむと直道ただちからあれは来つれど夜そ更けにける


物に寄せて思ひをぶ〔二百八十二首。 九十三首、人麿集。百八十九首、人麿集外。〕


2415 処女をとめらを袖布留ふる山の瑞垣みづかきの久しき時ゆ思ひ

2416 ちはやぶる神に祈れる命をばたれがためにか長く欲りする

2417 石上いそのかみ布留ふる神杉かむすぎ神さびて恋をもあれは更にするかも

2418 いかならむ名負へる神に手向たむけけせばふ妹を夢にだに見む

2419 天地あめつちといふ名の絶えてあらばこそいましあれと逢ふことやまめ

2420 月見れば国はおやじそ山へなうつくし妹は隔りたるかも

2421 参道まゐりぢは岩踏む山の無くもがもが待つ君が馬つまづくに

2422 岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひ渡るかも

2423 道のしり深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり

2424 紐鏡能登香のとかの山は誰ゆゑそ君来ませるに紐開けず寝む

2425 山科の木幡こはたの山を馬はあれど徒歩かちが来しを思ひかね

2426 遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねばあれ恋ひにけり

2427 この川の瀬々に敷く波しくしくに妹が心に乗りにけるかも

2428 ちはや人宇治の渡の速き瀬に逢はずありとも後はが妻

2429 はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらにこの川の瀬に裳の裾濡れぬ

2430 この川に水泡みなわさかまき行く水の事かへさずそ思ひ染めてし

2431 鴨川の後瀬静けし後は逢はむ妹にはあれは今ならずとも

2432 言に出でて言はば忌々ゆゆしみ山川のたぎつ心をかへたりけり

2433 水のに数書くごとき我が命妹に逢はむとうけひつるかも

2434 荒磯ありそ越えほかゆく波の外心ほかごころあれは思はじ恋ひて死ぬとも

2435 淡海あふみ沖つ白波知らねども妹がりといへばただに越え来ぬ

2436 大船の香取の海にいかり下ろし如何なる人か物はざらむ

2437 沖つ藻を隠さふ波の五百重波いほへなみ千重しくしくに恋ひ渡るかも

2438 人言の繁けき我妹綱手引く海ゆまさりて深くしぞ

2439 淡海の海沖つ島山奥まけてふ妹が言の繁けく

2440 淡海の海沖榜ぐ船にいかり下ろし隠れて君が言待つあれ

2441 隠沼こもりぬの下よ恋ふればすべをなみ妹が名りつ忌むべきものを

2442 大地おほつちも取らば尽きめど世の中に尽き得ぬものは恋にしありけり

2443 隠津こもりづの沢泉なる岩根をも通してぞが恋ふらくは

2444 白真弓石辺いそへの山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ

2445 淡海の海しづく白玉知らずして恋ひつるよりは今ぞまされる

2446 白玉を巻きてぞ持たる今よりはが玉にせむ知れる時だに

2447 白玉を手に巻きしより忘れじと思ふ心はいつか変はらむ

2448 白玉のあひだ空けつつける緒もくくり寄すれば後あふものを

2449 香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも

2450 雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも

2451 天雲の寄り合ひ遠み逢はずともあだし手枕あれまかめやも

2452 雲だにもしるくし立たば心遣り見つつし居らむ直に逢ふまでに

2453 春柳葛木山に立つ雲の立ちても居ても妹をしそ

2454 春日山雲居隠りて遠けども家は思はず君をしそ

2455 がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも

2456 ぬば玉の黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ

2457 大野らに小雨降りしくのもとに時々寄りが思ふ人

2458 朝霜のなば消ぬべく思ひつつ待つにこの夜を明かしつるかも

2459 我が背子が浜吹く風のいや早に早事なさばいや逢はざらむ

2460 遠妹とほづまの振り放け見つつ偲ふらむこの月のおもに雲な棚引き

2461 山の端に照りる月のはつはつに妹をぞ見つる後恋ひむかも

2462 我妹子しあれを思はば真澄鏡照りる月の影に見え来ね

2463 久かたの天照る月の隠ろひぬ何になそへて妹を偲はむ

2464 三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこの頃

2465 我が背子にが恋ひ居れば我が屋戸の草さへ思ひうらがれにけり

2466 浅茅原小野にしめ結ひ空言むなことをいかなりと言ひて君をし待たむ

2467 道の辺の草深百合のゆりにちふ妹が命をあれ知らめやも

2468 湖葦みなとあしに交じれる草のしり草の人皆知りぬが下思ひ

2469 山ぢさの白露繁みうらぶるる心を深みが恋やまず

2470 湊に根延ふ小菅のねもころに君に恋ひつつありかてぬかも

2471 山背の泉の小菅おしなみに妹を心にはなくに

2472 味酒うまさけの三室の山の巌菅いはほすげねもころあれ片思かたもひぞする

2473 菅の根のねもころ君が結びてしが紐の緒を解く人はあらじ

2474 山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ

2475 我が屋戸の軒のしだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず

2476 打つ田にもひえはあまたに有りといへど選えしあれぞ夜一人

2477 あしひきの山の山菅ねもころに君し結ばば逢はざらめやも

2478 秋柏あきかしは潤和川辺の小竹しぬの人にしぬへば君にへなく

2479 さねかづら後は逢はむといめのみにうけひわたりて年は経につつ

2480 道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬが恋ふる妻

2481 大野らにたづきも知らず標結ひてありぞかねつるが恋ふらくは

2482 水底みなそこに生ふる玉藻の打ち靡き心を寄せて恋ふるこの頃

2483 敷妙の衣手れて玉藻なす靡きからむを待ちかてに

2484 君来ずは形見にせよとと二人植ゑし松の木君を待ち出ね

2485 袖振るが見ゆべき限りあれはあれどその松が枝にかくりたるらむ

2486 茅渟ちぬの海の浜辺の小松根深めてが恋ひ渡る人の子ゆゑに

     或ル本ノ歌ニ曰ク、

    茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひや渡らむ人の子ゆゑに

2487 平山の小松がうれのうれむぞはふ妹に逢はず止みなむ

2488 磯のの立てるむろの木ねもころに如何で深めて思ひそめけむ

2489 橘の本にあれ立ち下枝しづえ取り成りぬや君と問ひし子らはも

2490 天雲に羽打ちつけて飛ぶたづのたづたづしかも君しまさねば

2491 妹に恋ひい寝ぬ朝明あさけ鴛鴦をしどりのこよ飛び渡る妹が使か

2492 思ふにし余りにしかば鳰鳥にほどりの足濡れしを人見けむかも

2493 高山の嶺行く鹿ししの友を多み袖振らず来ぬ忘るとふな

2494 大船に真楫しじ貫き榜ぐ間だにねもころ恋ひし年にあらばいかに

2495 たらちねの母が繭隠まよごもこもれる妹を見むよしもがも

2496 貴人うまひと額髪ぬかかみ結へる染木綿しめゆふの染みにし心あれ忘れめや

2497 隼人はやひとの名に負ふ夜声よこゑいちしろくが名は告りつ妻と恃ませ

2498 剣大刀つるぎたち諸刃の利きに足踏みて死ににも死なむ君によりてば

2499 我妹子に恋ひし渡れば剣大刀名の惜しけくも思ひかねつも

2500 朝づく日向かふ黄楊櫛つげくし古りぬれど何しか君が見るに飽かざらむ

2501 里遠み恋ひうらぶれぬ真澄鏡床の辺去らず夢に見えこそ

2502 真澄鏡手に取り持ちて朝なな見れども君は飽くことも無し

2503 夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しかなれが主待ちがたき

2504 解き衣の恋ひ乱れつつ浮草の浮きてもあれは恋ひ渡るかも

2505 梓弓引きてゆるさずあらませばかかる恋には逢はざらましを

2506 言霊ことたま八十やそちまた夕占ゆふけ問ふうらまさにれ妹に逢はむよし

2507 玉ほこの道行きうらに占なへば妹に逢はむとあれに告りてき

     右ノ九十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。


2619 朝影に我が身はなりぬ韓衣からころも裾のあはずて久しくなれば

2620 解き衣の思ひ乱れて恋ふれどもなそ汝がゆゑと問ふ人もなし

2621 摺り衣りと夢見つうつつには誰しの人の言か繁けむ

2622 志賀しかの海人の塩焼き衣れぬれど恋ちふものは忘れかねつも

2623 紅の八しほの衣朝なるとはすれどいやづらしも

2624 紅の深染こそめの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる

2625 逢はなくに夕占を問ふとぬさに置くに我が衣手はまたそ継ぐべき

2626 古衣ふるころも打棄うつてし人は秋風の立ち来る時に物ふものそ

2627 羽根蘰はねかづら今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く

2628 古の倭文機しつはた帯を結び垂れ誰ちふ人も君には益さじ

     一書ノ歌ニ曰ク、

    古の狭織さおりの帯を結び垂れ誰しの人も君には益さじ

2629 逢はずともあれは恨みじこの枕あれと思ひてまきてさ寝ませ

2630 結へる紐解きし日遠み敷妙の我が木枕こまくらは苔生しにけり

2631 ぬば玉の黒髪敷きて長き夜を手枕のに妹待つらむか

2632 真澄鏡ただにし妹を相見ずはが恋やまじ年は経ぬとも

2633 真澄鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ

2634 里遠み恋ひ侘びにけり真澄鏡面影去らず夢に見えこそ

     右ノ一首ハ、上ニ柿本朝臣人麿ノ歌集ノ中ニ見エタリ。

     但シ句々相換レルヲ以テ、茲ニ載セタリ。

2635 剣大刀身に佩き添ふる大夫ますらをや恋ちふものをしぬひかねてむ

2636 剣大刀諸刃の上に行き触れてせかも死なむ恋ひつつあらずは

2637 しはぶかひ鼻をそつる剣大刀身に添ふ妹が思ひけらしも

2638 梓弓すゑ原野はらぬ鳥狩とがりする君が弓弦ゆづらの絶えむとへや

2639 葛城の襲津彦そづひこ真弓荒木にも頼めや君がが名のりけむ

2640 梓弓引きみゆるべみ来ずは来ずそをなど来ずは来ばそを

2641 時守の打ちす鼓み見れば時にはなりぬ逢はなくもあやし

2642 燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ

2643 玉ほこの道行き疲れ稲莚いなむしろしきても君を見むよしもがも

2644 小墾田をはりたの坂田の橋の崩れなば桁より行かむな恋ひそ我妹

2645 宮材みやき引く泉のそまに立つ民の憩ふ時なく恋ひ渡るかも

2646 住吉すみのえ津守つもり網引あびきうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは

2647 横雲の空よ引き越し遠みこそ目言るらめ絶ゆと隔つや

2648 かにかくに物は思はず飛騨人の打つ墨縄のただ一道ひとみち

2649 あしひきの山田をぢが置く蚊火かひの下焦れのみが恋ひ居らく

2650 殺板そぎたもち葺ける板目の合はざらば如何にせむとかが寝そめけむ

2651 難波人葦火焚く屋のしてあれどおのが妻こそ常づらしき

2652 妹が髪上竹葉野かみたかはぬの放ち駒あらびにけらし逢はなくへば

2653 馬のとどともすれば松陰に出でてぞ見つるけだし君かと

2654 君に恋ひい寝ぬ朝明に誰が乗れる馬の足音あのとあれに聞かする

2655 紅の裾引く道を中に置きてあれや通はむ君や来まさむ

2656 天飛ぶや軽の社の斎槻いはひつき幾代まであらむこもり妻そも

2657 神奈備に神籬ひもろき立てていはへども人の心はまもりあへぬもの

2658 天雲の八重雲隠り鳴神の音のみにやも聞きわたりなむ

2659 争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎からなくに

2660 夜並べて君を来ませと千早ぶる神の社をまぬ日はなし

2661 たまちはふ神もあれをば打棄うつてこそしゑや命の惜しけくもなし

2662 我妹子にまたも逢はむと千早ぶる神の社を祈まぬ日はなし

2663 千早ぶる神の斎籬いがきも越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし

2664 夕月夜あかとき闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねて

2665 月しあれば明くらむわきも知らずして寝てが来しを人見けむかも

2666 妹が目の見まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし

2667 真袖もち床打ち払ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ

2668 二上に隠ろふ月の惜しけども妹が手本を離るるこの頃

2669 我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲な棚引き

2670 真澄鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまじ恋こそ益さめ

2671 この夜らの有明の月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし

2672 この山の嶺に近しとが見つる月の空なる恋もするかも

2673 ぬば玉の夜渡る月のゆつりなば更にや妹にが恋ひ居らむ

2674 朽網山くたみやま夕居る雲の立ちていなばあれは恋ひむな君が目を欲り

2675 君がる三笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも

2676 久かたの天飛ぶ雲になりてしか君を相見む落つる日なしに

2677 佐保の内よ下風あらし吹ければ立ち還りせむすべ知らに嘆く夜そ多き

2678 はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉くしげ開きてさ寝しあれそ悔しき

2679 窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしそ

2680 川千鳥棲む沢のに立つ霧のいちしろけむな相言ひそめてば

2681 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつそ見し雨の降らくに

2682 韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひそ暮らしし雨の降る日を

2683 彼方をちかた赤土はにふの小屋に小雨降りとこさへ濡れぬ身に添へ我妹

2684 笠無みと人には言ひて雨障あまつつみ留まりし君が姿し思ほゆ

2685 妹が門行き過ぎかねつ久かたの雨も降らぬかそを由にせむ

2686 夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取ればにつつ

2687 桜麻さくらあさ苧原をふの下草露しあれば明かしていませ母は知るとも

2688 待ちかねて内には入らじ白妙の我が衣手に露は置きぬとも

2689 朝露のやすき我が身老いぬともまた変若をちかへり君をし待たむ

2690 白妙の我が衣手に露は置けど妹には逢はずたゆたひにして

2691 かにかくに物は思はじ朝露の我が身ひとつは君がまにまに

2692 夕凝ゆふこりの霜置きにけり朝戸出に跡踏みつけて人に知らゆな

2693 かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ土ならましを

2694 あしひきの山鳥の尾の一峯ひとを越え一目見し子に恋ふべきものか

2695 我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ

2696 荒熊の住むちふ山のしはせ山責めて問ふとも汝が名は告らじ

2697 妹が名もが名も立てば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ

     或ル本ノ歌ニ曰ク、

    君が名も我が名も立てば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居れ

2698 行きて見て来れば恋ひしき朝香潟山越しに置きてい寝かてぬかも

2699 安太人あだひとやな打ち渡す瀬を速み心はへど直に逢はぬかも

2700 玉かぎる岩垣淵のしぬひには恋ひて死ぬとも汝が名は告らじ

2701 明日香川明日も渡らむ石橋いはばしの遠き心は思ほえぬかも

2702 飛鳥川水行きまさりいや日に恋のまさらばありかてましも

2703 真薦まこも刈る大野川原の水隠みごもりに恋ひ来し妹が紐解くあれ

2704 あしひきの山下とよみ行く水の時ともなくも恋ひ渡るかも

2705 はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳濡らしつ

2706 泊瀬川速み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも

2707 青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ

2708 しなが鳥猪名山響み行く水の名のみ寄せてしこもり妻はも

2709 我妹子にが恋ふらくは水ならばしがらみ越えて行くべくそ

2710 犬上の鳥籠とこの山なる不知哉川いさやがはいさとを聞こせ我が名のらすな

2711 奥山の木の葉隠りて行く水の音に聞きしよ常忘らえず

2712 言くは中は淀ませ水無川みなしがは絶ゆちふことをありこすなゆめ

2713 明日香川ゆく瀬を速み早見むと待つらむ妹をこの日暮らしつ

2714 もののふの八十やそ宇治川の速き瀬に立ち得ぬ恋もあれはするかも

2715 神奈備の折りむ隈の岩淵にこもりてのみやが恋ひ居らむ

2716 高山よ出で来る水の岩にれてそ思ふ妹に逢はぬ夜は

2717 朝東風あさこち井堤ゐて越す波のさやかにも逢はぬ子ゆゑにたぎもとどろに

2718 高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも

2719 隠沼こもりぬの下に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌むべきものを

2720 水鳥の鴨の棲む池の下樋したひ無みいふせき君を今日見つるかも

2721 玉藻刈る井堤のしがらみ薄みかも恋の淀めるが心かも

2722 我妹子が笠の借手の和射見野わざみぬあれは入りぬと妹に告げこそ

2723 あまたあらぬ名をしも惜しみ埋れ木の下よそ恋ふる行方知らずて

2724 秋風の千江の浦木糞こつみなす心は寄りぬ後は知らねど

2725 白真砂しらまなご御津の黄土はにふの色に出でて言はなくのみそが恋ふらくは

2726 風吹かぬ浦に波立ち無き名をもあれは負へるか逢ふとはなしに

2727 酢蛾島すがしまの夏身の浦に寄する波間も置きてはなくに

2728 淡海の海沖つ島山奥まへてふ妹が言の繁けく

2729 霰降り遠つ大浦に寄する波よしゑ寄すとも憎からなくに

2730 紀の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに

2731 牛窓の波の潮騒島とよみ寄せてし君に逢はずかもあらむ

2732 沖つ波辺波へなみの来寄る佐太さだの浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも

2733 白波の来寄する島の荒磯にもあらましものを恋ひつつあらずは

2734 潮満てば水泡に浮かぶ真砂まなごにもあれは生けるか恋ひは死なずて

2735 住吉の岸の浦にしく波のしばしば妹を見むよしもがも

2736 風をいたみいたぶる波のあひだ無くふ君は相ふらむか

2737 大伴の御津の白波あひだ無くが恋ふらくを人の知らなく

2738 大船のたゆたふ海にいかり下ろし如何にせばかもが恋やまむ

2739 みさご居る沖の荒磯に寄する波ゆくへも知らずが恋ふらくは

2740 大船のにもともにも寄する波寄すともあれは君がまにまに

2741 大海に立つらむ波は間あらむ君に恋ふらく止む時もなし

2742 志賀の海人のけぶり焼き立てて焼く塩のからき恋をもあれはするかも

     右ノ一首ハ、或ヒト云ク、石川君子朝臣ガヨメル。

2743 なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ

     或ル本ノ歌ニ曰ク、

    なかなかに君に恋ひずは田児の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る

2744 すずき獲る海人の灯火よそにだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこの頃

2745 湊入りの葦分け小舟をぶねさはり多みふ君に逢はぬ頃かも

2746 庭清み沖へ榜ぎる海人舟の楫取る間なき恋をするかも

2747 あぢかまの塩津をさして榜ぐ船の名はりてしを逢はざらめやも

2748 大舟に葦荷刈り積みしみみにも妹が心に乗りにけるかも

2749 駅路はゆまぢに引舟渡しただ乗りに妹が心に乗りにけるかも

2750 我妹子に逢はず久しも甘美物うましもの安倍橘の苔生すまでに

2751 あぢの住む須佐すさの入江の荒磯松を待つ子らはただ一人のみ

2752 我妹子を聞き都賀野辺つがぬへのしなひ合歓木ねぶは忍ひ得ず間無くし思へば

2753 波の間よ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして

2754 秋柏あきかしは閏八川辺の小竹しぬの偲ひてれば夢に見えけり

2755 浅茅原仮標かりしめ指して空言むなことも寄せてし君が言をし待たむ

2756 月草の仮なる命なる人をいかに知りてか後も逢はむちふ

2757 大王おほきみの御笠に縫へる有馬菅ありつつ見れど言無し我妹

2758 菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心ますらをこころ思ほえぬかも

2759 我が屋戸の穂蓼ほたで古幹ふるから摘みおほし実になるまでに君をし待たむ

2760 あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はむ母は責むとも

2761 奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかもふ妻は

2762 葦垣の中の和草にこぐさにこよかにあれと笑まして人に知らゆな

2763 紅の浅葉の野らに刈るかやの束の間もを忘らすな

2764 妹がため命残せり刈薦の思ひ乱れて死ぬべきものを

2765 我妹子に恋つつあらずは刈薦の思ひ乱れて死ぬべきものを

2766 三島江の入江の薦を刈りにこそあれをば君は思ひたりけれ

2767 あしひきの山橘の色に出ては恋ひなむを人目忌ますな

2768 葦たづの騒く入江の白菅の知られむためと言痛こちたかるかも

2769 我が背子にが恋ふらくは夏草の刈りくれども生ひしくごとし

2770 道の辺の五柴原いつしばはらのいつもいつも人の許さむ言をし待たむ

2771 我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり

2772 真野の浦の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか

2773 刺竹さすだけの葉ごもりてあれ我が背子が吾許あがりせずはあれ恋ひめやも

2774 神奈備の浅篠原のしみみにもふ君が声のしるけく

2775 山高み谷辺にへる玉葛絶ゆる時なく見むよしもがも

2776 道の辺の草を冬野に踏み枯らしあれ立ち待つと妹に告げこそ

2777 畳薦へだて編む数通はさば道の柴草生ひざらましを

2778 水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこの頃はかくて通はむ

2779 海原の沖つ縄海苔なはのり打ち靡き心もしぬに思ほゆるかも

2780 紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを

2781 わたの底おきを深めて生ふる藻のもはら今こそ恋はすべなき

2782 さ寝かねば誰とも寝めど沖つ藻の靡きし妹が言待つあれ

2783 我妹子が如何にともを思はねばふふめる花の穂に咲きぬべし

2784 こもりには恋ひて死ぬともみ苑生そのふ韓藍からゐの花の色に出でめやも

2785 咲く花は過ぐ時あれどが恋ふる心のうちは止む時もなし

2786 山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ

2787 天地の寄り合ひの極み玉の緒の絶えじと思ふ妹があたり見つ

2788 息の緒に思ふは苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも

2789 玉の緒の絶えたる恋の乱れには死なまくのみそまたも逢はずして

2790 玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れずおやじ緒にあらむ

2791 片糸もちきたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく

2792 玉の緒の現心うつしこころや年月の行きかはるまで妹に逢はざらむ

2793 玉の緒の間も置かず見まく欲りふ妹は家遠くありて

2794 隠津こもりづの沢泉なる岩根ゆも通してそ思ふ君に逢はまくは

2795 紀の国の飽等あくらの浜の忘れ貝あれは忘れじ年は経ぬとも

2796 水くくる玉に交じれる磯貝の片恋のみに年は経につつ

2797 住吉すみのえの浜に寄るちふうつせ貝実なき言もちあれ恋ひめやも

2798 伊勢の海人の朝な夕なにかづくちふあはびの貝の片思かたもひにして

2799 人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家ふるへに語らひて遣りつ

2800 あかときかけは鳴くなりよしゑやし独りる夜は明けば明けぬとも

2801 大海の荒磯の洲鳥朝なな見まく欲しきを見えぬ君かも

2802 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

     或ル本ノ歌ニ曰ク、

    あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き永夜を一人かも寝む

2803 里中さとぬちに鳴くなるかけの呼び立てていたくは泣かぬこもり妻はも

2804 高山にたかべさ渡り高々にが待つ君を待ち出なむかも

2805 伊勢の海ゆ鳴き来るたづ音驚おとどろも君が聞こえばあれ恋ひめやも

2806 我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし

2807 明けぬべく千鳥しば鳴く敷妙の君が手枕いまだ飽かなくに


問答とひこたへのうた〔二十九首。九首、人麿集。二十首、人麿集外。〕


2508 皇祖すめろきの神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも

2509 真澄鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵のこもりたる妻

     右二首ふたうた

2510 赤駒の足掻あがき速けば雲居にもかくり行かむそ袖振れ我妹

2511 隠国こもりく豊泊瀬道とよはつせぢは常滑のかしこき道そが心ゆめ

     右二首。

2512 味酒うまさけ三諸みもろの山に立つ月の見が欲し君が馬の足音あとそする

     右二首。

2513 雷神なるかみの光とよみてさし曇り雨も降れやも君を留めむ

2514 雷神の光動みて降らずともあれは留まらむ妹し留めば

     右二首。

2515 敷妙の枕うごきてもい寝ず思ふ人には後逢ふものを

2516 敷妙の枕に人は言問へやその枕には苔生しにたり

     右二首。

     以前ノ九首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。


2808 眉根まよね掻き鼻紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひあれ

     右、上ニ柿本朝臣人麿ノ歌集ノ中ニ見エタリ。

     但シ問答ノ故ヲ以テ、ココニ累載ス。

2809 今日しあれば鼻し鼻まよかゆみ思ひしことは君にしありけり

     右二首。

2810 音のみを聞きてや恋ひむ真澄鏡ただに相見て恋ひまくも多く

2811 この言を聞かむとならし真澄鏡照れる月夜も闇のみに見つ

     右二首。

2812 我妹子に恋ひてすべなみ白妙の袖返ししはいめに見えきや

2813 我が背子が袖返す夜の夢ならしまことも君に逢へりしごとし

     右二首。

2814 が恋は慰めかねつま長く夢に見えずて年の経ぬれば

2815 ま日長く夢にも見えず絶えぬとも我が片恋は止む時もあらじ

     右二首。

2816 うらぶれて物な思ひそ天雲のたゆたふ心はなくに

2817 うらぶれて物は思はじ水無瀬川ありても水は行くちふものを

     右二首。

2818 かきつはた佐紀沼さきぬの菅を笠に縫ひ着む日を待つに年そ経にける

2819 押し照る難波菅笠すがかさ置き古し後は誰着む笠ならなくに

     右二首。

2820 かくだにも妹を待ちなむさ夜更けて出で来し月のかたぶくまでに

2821 の間より移ろふ月の影を惜しみ立ちもとほるにさ夜更けにけり

     右二首。

2822 栲領布たくひれの白浜波の寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつそ居る

2823 かへらまに君こそあれに栲領巾の白浜波の寄る時もなき

     右二首。

2824 思ふ人来むと知りせば八重むぐら覆へる庭に玉敷かましを

2825 玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋をやも妹と居りてば

     右二首。

2826 かくしつつあり慰めて玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし

2827 紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ

     右二首。


譬喩たとへうた〔十三首。人麿集外。〕


2828 紅の深染こそめの衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも

2829 衣しもさはにあらなむ取り替へて着せばや君がおも忘れたらむ

     右の二首ふたうたは、衣に寄せて思ひをたとふ。

2830 梓弓弓束巻き替へ中見判さらに引くとも君がまにまに

     右の一首ひとうたは、弓に寄せて思ひを喩ふ。

2831 みさごゐる洲に居る舟の夕潮を待つらむよりはあれこそ益さめ

     右の一首は、船に寄せて思ひを喩ふ。

2832 山川にうへを伏せ置きてりあへず年の八年やとせぬすまひし

     右の一首は、魚に寄せて思ひを喩ふ。

2833 葦鴨のすだく池水はふるとも儲溝まけみぞあれ越えめやも

     右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。

2834 大和の室生むろふの毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ

     右の一首は、このみに寄せて思ひを喩ふ。

2835 ま葛延ふ小野の浅茅を心よも人引かめやもあれ無けなくに

2836 三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠

2837 み吉野の水隈みぐまが菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りなむとや

2838 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ

     右の四首ようたは、草に寄せて思ひを喩ふ。

2839 かくしてや猶や成りなむ大荒木の浮田の社のしめならなくに

     右の一首は、標に寄せて思ひを喩ふ。

2840 いくばくも降らぬ雨ゆゑ我が背子が御名のここだくたぎもとどろに

     右の一首は、滝に寄せて思ひを喩ふ。