プログラマが知るべき97のこと/「イエス」から始める
先日、スーパーで「エダマメ(その時は、野菜の一種というだけでどういうものかよく知りませんでした)」を買ったのですが、見つけ出すのは大変でした。とにかく店中を探し回りました。何しろ、野菜コーナーに置いてあるのか、冷凍食品のコーナーに置いてあるのか、それとも缶詰のコーナーにあるのか、全然見当もつかないのですから仕方がありません。結局はあきらめ、そばにいた店員を捕まえて尋ねてみたのですが、その店員も「わからない」というのです。
店員には他にも何通りもの答え方があったろうと思います。実際にわからないので仕方ないのですが、「わからない」と答えれば、自分の不勉強を私に知らせることになってしまいます。わかっているのかわからないのか、どっちともつかない暖昧な態度を取ることもできたでしょう。あるいは、単に「うちには置いていません」と答えてしまう手もあるかもしれません。しかし彼女はそうせず、わからないと答えた上で、それでも何とか解決策を探し、客である私を助けようとしてくれました。自分の知らなかったことを学び、客の役にも立てる良い機会だと捉えてくれたようです。彼女は他の店員を呼ぴ、ほんの2、3 分で、目的の品物のあるところまで連れて行ってくれました。エダマメは冷凍食品のコーナーに置かれていました。
この時、店員は私の要求に対し、「店としてこの問題は解決し、顧客の要求に応じなくてはならない」という前提から行動を始めてくれました。言い換えれば、彼女は「ノー」からではなく「イエス」から行動を始めたのです。
私はテクニカルリーダーという立場になったばかりの頃、自分の役目は、プロダクトマネージヤやビジネスアナリストから来るバカげた要求をはねつけ、自分たちのチームの素晴らしいソフトウェアを守ることだと思っていました。何か要求が来た時には、それを「受け入れるべきもの」ではなく、常に「却下すべきもの」と捉え、その前提でほとんどの会話を始めていたのです。
しかし、あるとき私は突然悟ったのです。「ノー」でなく「イエス」という返答から始めるようにすれば、それだけ物の見方は大きく変わり、仕事の進め方も変わるだろうと。それからというもの、「イエス」から始めることは、テクニカルリーダーに不可欠な態度だ、とまで考えるようになりました。
「イエス」から始めるようにする、という簡単な変化だけで、私の仕事への取り組み方は劇的に変わりました。わかったのは、「イエス」という返事の仕方にも多くの種類があるといろことです。たとえば、誰かが「このアプリケーションのウィンドウを全部、円形で半討にしてくれたら嬉しいんだけど」と言ってきたとします。こういう要望は、「バカバカしい」と即座に拒否することもできます。そうはせずに「どうしてですか」と尋ねるようにすると、その方が良い結果になることが多いのです。尋ねてみると、円形で半透明のウィンドウが欲しいと思う、何か切実な理由が本当にあるかもしれません。どうしても「ウィンドウは円形で半透明であること」と定められた規格に準拠しなくてはならない、ということもあり得ます。要望に応え、規格に準拠できるようにすれば、その顧客から大口の契約が取れる可能性もあります。
要望が出されたコンテキストがわかれば、新しい可能性が広がることが多いのです。実は既存の製品にまったく手を加えなくても、方法によっては要望に応えられる場合も珍しくありません。その場合は、「イエス」と応えても特に何の作業も発生しないのです。「円形、半透明のウィンドウスキンをダウンロードし、ユーザプリファレンスの画面を開いて、「オン」にすればいいですよ」と回答すれば解決、というようなこともあります。
たとえ同じシステムでも、それに対する見方は人によって違います。そうした認識のズレが、要望をバカげたものに思わせるのかもしれません要望された時に、相手に「なぜ」と問う代わりに、自分に「なぜ、こういう要望が出るのだろう」と問いかけてみるのも有効です。すると、最初に「バカバカしい要望」と思ったのがそもそも間違いだった、とわかることもあります。最終的には、自分だけで判断せずに、社内の他の人の意見も聞いて意思決定をすべきでしょう。重要なのは、「イエス」と言って要望に応えるのは、必ずしも顧客のためだけではない、ということです。そうすることは自分自身や開発チームにとっても役立つのです。
最終的には要望に応えないとしても、なぜその要望が製品に合致しないのか、きちんとした説明をすれば、実りのある会話ができるでしょう。それにより、作っている製品が果たして適切なものなのか、ということもわかってくるはずです。会話の結論がどうなったとしても、製品がどういうものであるのか、あるいはどういうものでないかを、皆が真剣に考えることになります。それには大きな意味があるでしょう。
「イエス」から始めれば、人との対立は生まれず、協力関係が生まれるのです。