初等科國語 八/もののふの情
十六 もののふの情
[編集]沈むギリシヤ國旗
[編集] 太平洋の夜明け、遠い地平線上に、黑煙のなびくのが潛望鏡に寫つた。
- 「汽船だ。」
わが潛水艦は、全速力で煙のあとを追つた。
近づいて見ると、五千トンぐらゐの商船だが、國旗を掲げてゐない。國旗を掲げない船は、撃沈してかまはないのだ。
敵船は、左舷に傾いたまま靜かに沈んで行く。わが潛水艦の甲板には、艦長を始め乘組員が、不動の姿勢で立つてゐる。
煙突が波間にかくれて行つた。横倒しになつたマストに掲げられたギリシヤの國旗が、朝の太陽に照らされながら、緑の波の上に光つてゐる。その國旗も、吸ひ込まれるやうに海の中へ姿を沒してしまつた。
わが潛水艦の甲板からは、一時にさつと右手を擧げて、沈んで行くギリシヤ國旗に、敬禮が送られた。
發射止め
[編集] 眞赤な太陽が、シドニー沖の海面に落ちてから、二時間もたつたころであつた。
よい獲物はないかとさがしてゐる潛望鏡に、あかあかと燈火をともした二本煙突の大きな客船の姿が寫つた。アメリカから、
急いで魚雷發射の準備がなされた。乘組員たちは、今か今かと發射の命令を待つてゐた。
吸ひつけられるやうに潛望鏡をのぞいてゐた艦長は、敵船の行動としては餘りに大膽すぎると思つて、しげしげと見た。すると、白い船體の舷側に、十字のしるしが赤く描かれてゐる。
- 「發射止め。」──魚雷發射の持ち場についてゐた勇士たちは、艦長のこの命令を意外に思つた。
- 「敵の病院船だ。攻撃は中止する。」
艦長は、潛望鏡から目を離しながらかういつた。
- 「艦長、敵はわが病院船バイカル丸を撃沈しました。今こそ、われわれに仇を討たせてください。」
涙を浮かべてくやしがる乘組員をなだめながら、艦長は、
- 「日本には武士道がある。武士道こそは、わが潛水艦魂なのだ。日本人は、斷じて
卑怯 なふるまひをしてはならない。」
とおもむろにいつた。
潛水艦は、思ひきりよく攻撃態勢を捨てて、ぐるりと艦首を向けかへた。
野戰病院にて
[編集] 昭和十七年二月十九日、わが陸の精鋭は、ジャワのバリ島を奇襲し、その上陸に成功した。
バリ島の敵の野戰病院には、アメリカの航空將校が、白い寝床の上に横たはつてゐた。顔から腕、腕から胸へかけて燒けただれ、視力もほとんど失はれてゐた。かれは、アメリカから濠洲へ派遣された四十名の航空將校の一人で、わがジャワ攻略に先立ち、濠洲からジャワのバンドンへ移り、偵察隊として出動の途中、この島に不時着して負傷したのであつた。
病院がわが軍に占領されたことを知つた時、この將校は、恐怖と失望とでがつかりしたやうすであつた。しかし、一日、二日とたつうちに、その氣持はだんだんなくなつて行つた。
上半身にやけどをした敵の將校は、夜となく晝となく、しきりに苦痛をうつたへた。目が見えない上に、手の自由もきかない。食事は子どものやうに一々たべさせ、
- 「私の今の身の上を悲しんで泣いてゐるのではありません。あなたがたが、私に示されたしんせつと、あなたがた同志の友情のうるはしさに、しみじみ感じて泣いてゐるのです。かうした温かい心は、アメリカの軍隊には決してありません。私は、日本の軍隊がつくづくうらやましくてならないのです。」
といつて、二人の衛生兵の手を、自由のきかない兩方の手で、堅く握つた。