こがね丸
少年文学序
奇獄小説に読む人の胸のみ
めむとする世に、一巻の 物語を著す。これも人 せぬ一流のこころなるべし。 の穉物語も多くは の より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新 、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと るものは、〈[#改ページ]〉
凡例
の 。もう八ツ寝るとお正月といふ日
〈[#改丁]〉
上巻
第一回[編集]
むかし
る の奥に、一匹の虎住みけり。 をや経たりけん、 の よりも く、 は百錬の鏡を欺き、 は の針に似て、 ゆれば声 を かして、 の鳥も落ちなんばかり。一 の れ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を うして、自ら 大王と名乗り、 の を眼下に して、一山 の君とはなりけり。しも一月の つ 、春とはいへど名のみにて、 からの大雪に、野も山も岩も木も、 き に包まれて、寒風 ろに堪えがたきに。金眸は朝より に りて、 り まりゐる処へ、 てより の、 といふ 、 伝ひに雪踏み て、 く洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、 に る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし におはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「 聴水なりしか、よくこそ来りつれ。 に がいふ如く、この大雪にて もならねば、独り洞に眠りゐたるに、 漸く しくなりて、やや う覚ゆるぞ。何ぞ き獲物はなきや、……この大雪なればなきも なり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし に くて、 を求め給ふならば、 好き獲物を せん」「なに好き獲物とや。……そは に持来りしぞ」「 。 には持ち らねど、大王 の骨を惜まずして、この を歩みたまはば、僕よき処へ せん。 に」トいへば。金眸 と打笑ひ、「やよ聴水。 ひわれ老いたりとて、 ンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ めしも、決して寒気を ふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処 ならずば、 に せよ、われ きてその獲物を取らんに、 そは ぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに たまひて、 も に喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の の里なる、 が家の飼犬にて、僕 には浅からぬ あり。今大王 きて を打取たまはば、これわがための 、僕が これに かず候」トいふに金眸 りて、「こは しからず。その とは なる ぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。 の事なりし、僕かの荘官が家の を りしに、 と き に当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、 ち裏の垣より忍び入りて 近く往かんとする時、 くも僕を て、 に で るに、不意の事なれば僕は へ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、 わが を へて引きもどさんとす、われは て出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し み取られて、痛きこと しく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、 の にさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても はぬ処なれば、 も思ひ まりて、 を で過ごせしが。大王、 と さば、わがために を返してたべ。さきに獲物を せんといひしも、 はこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに れば。金眸は き、「憎き犬の かな。よしよし今に み、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を に立てて、 にあまる雪を踏み分けつつ、山を越え を り、ほどなく麓に出でけるに、 に立ちし聴水は立止まり、「大王、 に見ゆる森の陰に、今煙の る処は、即ち が にて候が、大王自ら踏み込み給ふては、 らに を驚かすのみにて、 の犬は逃げんも知れず。これには僕よき あり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん しが、また金眸が に立ちて、高慢顔にぞ進みける。
第二回[編集]
ここにこの里の
の家に、 とて の犬ありけり。年頃 を て飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも に ふれば、年久しく といふ者 らず、家は 栄えけり。降り続く大雪に、
に逢ひたる にや、月丸は に、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の てかかり、 叫んで がほどは、力の限り ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の に息 たる。その を に へ、あと白雪を つつ、虎は へと帰り行く。あとには流るる のみ、雪に紅梅の花を散らせり。の花瀬は最前より、物陰にありて の様子を、残りなく めゐしが。身は き なり。かつはこのほどより乳房 れて、常ならぬ身にしあれば、 が の をば、 見ながらも、 くることさへ成りがたく、 り心を へつつ、いとも哀れなる声張上げて、 りに え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、 ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血 しく流れたるが、 見れば の に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、 しく月丸が なれば、「さては彼の虎めに はれしか、今一足早かりせば、 は殺さじものを」ト、 は して めども、さて もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の 、その日よりして物狂はしく。 小屋にのみ入りて、与ふる も は はず。怪しき声して 狂ひ、 を守ることだにせざれば、物の用にも ぬなれど、主人は事の を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に るるのみにて、今は肉落ち骨 で、 全く きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、 かに産の気 しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、 なる光を放つにぞ、名をばそのまま と呼びぬ。
さなきだに
疲れし上に、 を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に み出でて、重き枕いよいよ上らず、 をも知れぬ命となりしが。 の に、兼てより せし、裏の に飼はれたる、 といふ をば、わが枕 に ひよせ。苦しき息を ト き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き が 、とても る身にしあらねば、臨終の際にただ一 、 に頼み置きたき あり。妾が 月丸ぬしは、いぬる日猛虎 がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。 時妾 り、雄が を見ながらに、これを けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の たる身の、たとひその身は ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、 時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も に出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は か仇をば討つべきぞ。 は親子三匹して、命を るに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、 の犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、 えがたきを く堪えて、 雄を殺せしが。これも へに の を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ なくも病に打ち し、 に絶えなん玉の緒を、 く ぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを むこと はず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、 この児を の児となし、阿姐が もて育てあげ。 もし一匹 の雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、 がためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に て給はれかし。頼みといふはこの のみ。頼む/\」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと き、命は犬も同じことなり。
第三回[編集]
はしや花瀬は、夫の 追ひ駆けて、 より急ぐ の山、その日の夕暮に りしかば。 はいとど さに、その を に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを めて石を置き、月丸の名も共に り付けて、 ばかりの比翼塚、 にぞ ひける。
かくて
の は、西東だにまだ知らぬ、 の上より牧場なる、 が に養ひ取られ、それより牛の乳を み、牛の小屋にて ちしが。次第に成長するにつけ、 の犬に れ、 も しくて、 れ頼もしき犬となりけり。さてまた牡丹が
といへるは、 義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、 心を傾けつつ、 の の に入れて。或時は を取らせ、または などさせて、ひたすら を勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、 あくまで強くなりて、 の犬と み合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も ならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を 近くまねき、さて は の児にあらず、 なりと、 を語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の に、 は驚き一度は悲しみ、また一度は が非道を、 して怒り り、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ せ登り、 金眸を み殺さん」ト、 あらく かかるを、文角は と押し め、「 思ふは なれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来 が親の 、ただに彼の金眸のみならず。 が配下に とて、いと き狐あり。 ある日鶏を盗みに入りて、 なく月丸ぬしに見付られ、 が尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。 の力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。 れば の とするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今 が、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、 と雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の とならん。これこそわれから死を求むる、 より なる なれ。 に は年経し大虎、其方は犬の事なれば、 ひ なる力ありとも、尋常に み合ふては、彼に んこといと難し。それよりは今霎時、 を き爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の るを て、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を んで、世の を招かんより、無念を えて英気を養ひ て時節を待つには かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、 もと心に りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露 ず、 の 母君と思ひて、 気儘に したる、無礼の罪は にも、許したまへ」ト、 養育の恩を謝し。さて めていへるやう、「知らぬ は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、 して過すは本意ならず、それにつき、 に の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、 に を賜はれかし。某これより諸国を ぐり、あまねく強き犬と み合ふて、まづわが牙を鍛へ。 ら仇敵の に心をつけ、 もあらば名乗りかけて、父の を してん。年頃受けし御恩をば、返しも へずこれよりまた、 を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし 幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命 なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、 の暇賜はりて……」ト、涙ながらに けば、文角は て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば より、 ても勧めんと思ひしなり。 のままに武者修行して、天晴れ父の を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと して、「見事金眸が首取らでは、再び には帰るまじ」ト、 にも言葉を ひ文角牡丹に を告げ、行衛定めぬ草枕、われから の に入りぬ。
第四回[編集]
は の門を守りて、 に真鍮の輪を し身の、今日は の となり て、 るに なく食するに肉なく、 は辻堂の に雨露を いで、 なる に驚かされ。昼は の に を求めて、 知らぬ人の に られ。或時は に かれて、 に し犬と争ひ、或時は に襲はれて、 に危き命を ふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる にさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、 に心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も はねば、 きこといはん なく。苦しさに堪えかねて、 に まるほどに、夕風 を侵し、 骨に りて、 死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と しが、かつて ともせざりしに。 てふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と て、 の となりなんも知られず。……里まで出づれば もあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は にともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事 」ト、途方に くれゐたる折しも。 よりか来りけん、 ち一団の に現れて、高く り低く照らし、 と宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや りて、「さてはわが の 、仮に に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。 し」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、 を見廻はせば、此処は なる寺の門前なり。 しと思ふものから、門の に入りて見れば。こは大なる にして、今は住む人もなきにや、 は落ち柱斜めに、破れたる壁は に縫はれ、朽ちたる軒は の に張られて、 きまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根に ひたる の 、時を に色付きたる、その より、 の傾きて見ゆるなんぞ、 し の も思はれ。尾花 く れる中に、斜めにたてる は、 に悩む かと忍ばる。―― 見れば 蒸したる石畳の上に。一羽の に を受けしと覚しく、飛ぶこともならで みをるに。こは き獲物よと、急ぎ走り て足に押へ、 に喰はんとなせしほどに。忽ち に声ありて、「憎き野良犬、 動きそ」ト、 一 えかかるに。黄金丸は打驚き、 を りて見れば、真白なる の、われを噛まんと たるに、黄金丸も少し つて、「無礼なり なれば、われを野良犬と るぞ」「無礼なりとは が事なり。わが飼主の打取りたまひし、 を爾盗まんとするは、言語に断えし かな」「 、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾 如き奴あればこそ、 が世に えて、わが まで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な 、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答 し。 せぬ にその鳥を、われに渡して く逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、 爾に得させんや」「 ツ面倒なりかうしてくれん」ト、 でかかれば黄金丸も、 しやと振り て、また み付くを と し、その を んとすれば、 も去る者身を沈めて、黄金丸の を噬む。黄金丸は に疲れて、勇気日頃に劣れども、また の犬にあらぬに、 もなかなかこれに劣らず、互ひに ふさま、彼の が に、 と争ひけるも、かくやと思ふ りなり。
先きのほどより、〈[#「片+嗇」、U+245FC、75-7]〉をば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ と、噬み合ふ も いたままなり。
の木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を ゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その を見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる を へて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。 してやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて
第五回[編集]
互ひに争ふ時は に猟師の となる。それとこれとは異なれども、われ 二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、 雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の も、これかれ しく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても なしト、 くに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても は、 の犬なれば、かかる処にに ひ給ふぞ。最前より あひ見るに、世にも鋭き御身が 、 如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に されて、雉子は御身が となりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、 嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる かな。さいふ御身が こそ。なかなか ばぬ処なれト、心 かに敬服せり。今は何をか むべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に へて、守門の役を勤めしが、宿願ありて を ひ、今かく となれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名 に。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば は き、「さもありなんさもこそと、某も く したり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この の に事ふる、猟犬にて候が。ある時 を て押へしより、名をば と呼ばれぬ。こは鷲を りし なれば、 といふ心なるよし。元より ならぬ犬なれども、 には得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を れぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が を見て、わが慢心を く恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の は怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は を見かへり、「さらば 語り らん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を とねらひ、 を出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の に はなけれど、 猛威を うして、余の を りに げ。あまつさへ る時は、 に走りて を騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、 もあらば がんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ に に けたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、 が を見過せしが。今御身が言葉を聞けば、 を す互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて を はば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身 にその ならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ れこの は、兄となり となりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、 の犬と み合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと なく思ひゐしに。今日 く御身に て、かく頼もしき を得ること、 に 父の ならん。さきに路を照らせし も、今こそ思ひ合はしたれ」ト、 り感涙にむせびしが。猟犬は ありて、「某今御身と を結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも を て、御身と共に とならん」ト、いふを黄金丸は め、「こは なり鷲郎ぬし、わがために主を る、その志は けれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その は無用なり。某 の家に へ、をさをさ猟の にも けて、 山野を走り巡り、数多の を捕ふれども。 ら思へば、これ に なる不義なり。 ひ主命とはいひながら、罪なき を らに めんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。 をもて某常よりこの を棄てんと、思ふこと なりき。今日この を得しこそ なれ、断然 を取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる なく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる この寺は、荒果てて住む人なく、われ がためには き なり。これより両犬 に棲みてん」ト、それより連立ちて寺の に踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを びて、 をば棲居と定めける。
第六回[編集]
て黄金丸は と義を結びて、兄弟の約をなし、この を棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、 し とて野山に し、小鳥など りきては、 くその日の となし、ここに幾日を送りけり。
或日黄金丸は、用事ありて里に出でし〈[#「口+畫」、U+35F2、79-4]〉叫んで るに。 の狐も一生懸命、 の作物を らして、里の へ走りしが、 ある人家の に、結ひ らしたる を、 と り越え、家の に逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。 ばかりなる の、余念なく遊びゐたるを、 て蹴倒せば、 ち と泣き叫ぶ。その声を聞き て、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で しが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては が みしならんト、思ひ めつ に て、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の より、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「 」ト一声叫びもあへず、後に と倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き もて、 と められぬ。その に彼の聴水は、危き命助かりて、 も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、 して え立つれば。「おのれ の子を けながら、まだ飽きたらで り狂ふか。憎き よ、今に目に物見せんず」ト、 立て曳立て裏手なる、 の幹に ぎけり。
、独り を り くに、 見れば の山岸の、野菊あまた咲き乱れたる に、黄なる りをれり。 さ犬の如くなれど、 やらわが の者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口 りて、 しくこれ狐なるが、その尾の の毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに ぬしが物語に、 といふ狐は、かつてわが父 ぬしのために、尾の尖 切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖 れたり。恐らくは聴水ならん。 、有難や や。此処にて逢ひしは天の恵みなり。 みに……」ト思ひしが。 義を知る獣なれば、 みを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の なりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、 の狐は打ち驚き、 も開かずそのままに、一 ばかり んで、 しく げんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、の親の 、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は の罪に縛められて邪見の を る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、 に ふこともならねば、ぢつと無念を ゆれど、 し涙に地は掘れて、 に木も ぐめり。
く鷲郎は、 より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。 か門に出でて、 を れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一 が身の上に、 はなきやと思ふものから。「 元より の犬ならねば、 と に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、 りに案じ煩ひつつ。 とおのれも里の へ ひ出でて、或る人家の を りしに。ふと聞けば、垣の にて き き声す。耳傾けて立聞けば、 やらん黄金丸の に似たるに。今は少しも はず。結ひ らしたる生垣の穴より、入らんとすれば に、 の針腹を指すを、 うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き の に り付けられて、 きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を き起し、耳に口あてて「 、黄金丸、気を に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに を げ、「こは鷲郎なりしか。 しや」ト、いふさへ息も なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、 の を りつつ、「 にや黄金丸、苦しきか。 何としてこの ぞ」ト、かつ はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく められし事の を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、 になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが へと急ぎけり。
第七回[編集]
鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより
痛みて堪えがたく。 右の前足 けて、物の用にも立ち兼ぬれば、 しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか へん。この宿願叶はずば、 なる文角ぬしに、また合すべき なし」ト、 して くに、鷲郎もその心中 しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は といはずや。心静かに養生せば、 は ざらん。 にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、 しき も ぬに、ひたすら心を ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、 より に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空 く、 を れてさす日影の、 と暖きに、黄金丸は をすべり出で、 に して、独り に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、 を呼ぶ の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の に、一匹の 鼠走り来て、 の下に忍び入りつ、 を乞ふものの如し。黄金丸はいと に思ひ、 の雌鼠を に ひ、そも何者に追はれしにやと、 を ト見やれば、 れたる板戸の陰に身を忍ばせて、 を ふ一匹の黒猫あり。 見れば る日鷲郎と、かの を争ひける時、 を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は に怒りて、一飛びに てかかり、 てて柱に る黒猫の、尾を へて曳きおろし。 り み裂きて、 に息の根 めぬ。この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ
ひ寄りて、 に前足をつかへ、 を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は と打ち み、「 は に む鼠ぞ。また彼の猫は なる故に、爾を けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく を進め、「さればよ 聞き給へ。 が名は と呼びて、この天井に棲む鼠にて り。またこの猫は とて、この に棲む なるが。 てより妾に し、道ならぬ れなせど。妾は定まる あれば、更に く色もなく、常に き返辞もて、かへつて を めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、 の鼠を慰めつつ、彼の烏円を にかけ、「さりとては憎き猫かな。 はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、 に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽 に はへて、 より帰り来りしが。この を見て、事の を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその を称賛しつ、「かくては御身が も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを ひぬ。さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、
黄金丸が傍に きて、何くれとなく に働くにぞ、黄金丸もその を し、 を て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る に飼はれて、 の芸を仕込まれ、縁日の に し身なりしを、 ありて小屋を忍出で、今この に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、 えの舞の 、または綱渡り けなんど。 し たる の、 なくも でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。
第八回[編集]
黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、
の痛みも せしかど、前足いまだ えずして、歩行もいと苦しければ、心 りに つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の さへ討ちがたけん。今の によき薬を得て、足を さでは ふまじ」ト、その薬を るほどに。或日鷲郎は しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。 今日 き を聞得たり」トいふに。黄金丸は を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは の ぞ」ト、 はしく問へば、鷲郎は へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、 が原といふ処ありて、其処に の とて、 き兎住めり。この翁若き時は、彼の りの がために、 を海に沈めしことありしが。その功によりて より、 と とを賜はり、そをもて の薬を きて、今は に世を送れるが。この翁が にゆかば、 の の は、癒えずといふことなしとかや。その犬も る日 に石を打たれて、左の を破られしが、 の翁が薬を得て、その とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、 にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは に嬉しき事かな。さばれかく貴き のあることを、今日まで知らざりし ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、 の骨を得し心地して、その より立ち出で、教へられし路を りて、 が原に来て見るに。 なんどの色々に染めなしたる の に、柴垣結ひめぐらしたる あり。丸木の柱に木賊もて となし。 清らかに、 の水も音澄みて、いかさま ある獣の と覚し。黄金丸は に立寄りて、 と へば。中より「 ぞ」ト声して、 自ら立出づるに。見れば耳長く毛は に、 に光ありて、 の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ しく礼を施し、さて病の由を えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその を打見やり、 りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、 くも の 、 ら伝授したまひし霊法なれば、 なる難症なりとも、とみに ること の如し。今御身が痍を見るに、 れたればやや重けれど、 の には癒やして進ずべし。ともかくも 再び来たまへ、 か御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。 すがら ある森の木陰を りしに、忽ち りたる木立の より、 ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を りてその矢をば、 ト牙に みとめつ、矢の来し を ト見れば。 へもある赤松の、幹 になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、 に黒木の弓を持ち、 に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を へんとせしが。黄金丸が め し、 の光に恐れけん、その矢も たで、 しく枝に走り昇り、 伝ひに れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、 ばかりの を携へ、朱目が に行きて、全快の由 え、言葉を尽して を べつ。「 にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。 くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「 御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして をあらため、「 の を て、やや神通を得てしかば、 ら獣の相を見ることを覚えて、 に も なし。今御身が相を見るに、世にも なる名犬にして、しかも に でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも したり。総じて は胎生なれど、多くは雌雄 を みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。 牛に養はれて、牛の乳に まれしかば、また牛の力量をも て、けだし の犬の猛きにあらず。さるに なればかく、 くも足を られ給ひし」ト、 かり問へば黄金丸は、「これには深き あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、 の と ふて、常に なかりしが。 る日 の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて に られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事 に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、 心を ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、 を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ りて をすれば、朱目も きて、「御身が心はわれとく しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身 に を討たんとならば。われに き あり、及ばぬまでも試み給はずや、 そ の は、その て く、 深き獣なれば、 いに みたりとも、 く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、 が好むものをもて、釣り して に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、 てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。 にして作り候や」「そは にして へ、それに をかけ置くなり」「して が好む物とは」「そは鼠の とて、 太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気 が鼻を ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて は、その罠に落つるものなり。これよく のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、 に教へしかば。「こは きことを聞き得たり」ト、 喜び聞え、なほ の物語に、時刻を移しけるほどに、日も に きて、 に騒ぐ の、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、 したまへ」ト会釈しつつ、わが をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。 は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も なすや、 へてくれんず」ト、走り て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも の に隠れしが、われに ふ術あらねば、 けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは より、仲 しきものの に呼ばれて、互ひに を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、 く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、 へて さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。―― この猿は何者ぞ。また狐罠の 。そは次の を読みて知れかし。
上巻終
〈[#改頁]〉
下巻
第九回[編集]
かくて黄金丸は、ひたすら〈[#「口+約」、U+55B2、89-6]〉、黄金丸、今日はなにとてかくは かりし。待たるる身より待つわが身の、 はしさを してよ。 る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、 がましく聞ゆれば、黄金丸は と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は ぬしに引止められて、思はず に時を移し、かくは の れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、 ぶるに鷲郎も深くは めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま に引入れて、共に も ひ果てぬ。
を急ぎしが、 も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を けなどせしほどに。 に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月 に映る 、 くにして帰り着けば。 ははや門に りて、黄金丸が を待ちわびけん。 が姿を見るよりも、 しく走り迎へつ、「して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が にて聞きし事ども 語り、「かかる良計ある上は、 かに彼の聴水を、 き して んず」ト、いへば鷲郎もうち き、「狐を釣るに の を用ふる由は、われ に へし故、 よりその法は知りて、 の掛け方も心得つれど、さてその に供すべき、鼠のあらぬに ひぬ」ト、いひつつ天井を め、少しく声を低めて、「御身がかつて けたる、彼の こそ なれど。 はわれ に みて、いと に けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ なら知らず、 にも義を知るわが の、 すに忍びぬ処ならずや」「 に御身がいふ如く、われも すがら考ふるに、まづ の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また が命を取らば、 にも恩を するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を し らんに かじ」ト、言葉いまだ らざるに、 ち「 」と叫ぶ声して、 より ト るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを と見れば、今しも二匹が したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血 しく流れ るに。鷲郎は急ぎ き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば も血に れたるに、……また猫にや追はれけん」「 にや襲はれたる」「 くいへ は討ちてやらんに」ト、これかれ しく はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、 自らかく成り り」「さは何故の ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また しく かくれば。阿駒は と涙を落し、「さても情深き殿たち 。かかる殿のためにぞならば、 る命も くはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん に侍り」「さては今の物語を」「 は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾 る日 めに、無態の恋慕しかけられて、 に が に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの にて、不思議に ぎ候ひしが。 時わが は のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、 し、地獄落しも何のその。 ひ石油の火の中も、 の水の底までも、死なば共にと ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく へて今日までも、君に きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に されて、 かは君の に、この命を らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心 かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから を みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に ひたる若草の、根を りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて べ。日頃 に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト の、とり乱したる前 き合せ。西に向ふて を組み、 を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。
二匹の犬は
より耳 てて、 が語る由を聞きしが。黄金丸はまづ して、「さても珍しき鼠かな。国には 家に鼠と、 に憎まれ めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には めり。これを彼の猫の三年 ても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との あり。むかし の といふ 、水を避けて に住す。或夜 なる鼠浮び来て、嘉夫が の に伏しけるを、 みて飯を与へしが。かくて水退きて後、 の鼠 を げて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。 の に復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば れぬ因果なりけん。さばれ とし生ける者、何かは命を惜まざる。 に生れ に死すてふ、 といふ虫だにも、追へば れんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して の、辛き思ひをなさんとは、 に得がたき阿駒が忠節、 むるになほ言葉なし。……とまれ が に任せ、無残なれども油に揚げ。彼の を よせて、首尾よく を討取らば、 か の ともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の を調理すれば、鷲郎はまた庭に り立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。
第十回[編集]
彼の聴水は、 る日途中にて黄金丸に出逢ひ、 に命も取らるべき処を、 うじて身一ツを助かりしが。その時よりして 附き、 は更なり、 も里方へはいで来らず、をさをさ なかりしが。その 他の獣 の を聞けば、彼の黄金丸はその 、 く に されて、そがために前足 えしといふに。少しく の思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、その 重くして、日を れども えず。さるによつて よりは、 の が に行きて、療治を はんといふことまで、 にしけんさぐり つ、「こは ておけぬ事どもかな、 もし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる をや見ん。とかく を亡きものにせでは、 を高く られじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち を と ち、「 によき こそあれ、 大王が に へて、新参なれども だちて働けば、大王の 浅からぬ、彼の こそよかんめれ。彼の猿弓を引く に けて、先つ年 が叔父 と合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。その 叔父は に たれ、 は木から となつて、この山に ひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかし たる とやら、 の矢 の弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく してん。まづ が に きて、事の を に語り、この を頼むに かじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心 し悪猿なれば、異議なく ひ、「われも久しく さねば、少しは腕も鈍りたらんが。 の知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日 の朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「 づは に すべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、 の弓に の をかけ、 を く削りて矢となし、用意やがて ひける。
さて畑時能が飼ひし犬の名)の智勇ありとも、わが大王に はんこと の日を ゆる、愚を極めし なれども。大王これを し召して、 か心に恐れ給へば、 しくは もしたまはず。さるを 和主が、一 の に したれば、わがために を去りしのみか、 大王が、 の を払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これ へに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王に え、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。
の夕暮、聴水は の黒衣が許に往きて、首尾 にと尋ぬるに。黒衣まづ に ひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの に行き、 なる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が を待ちけるが。われいまだ を見しことなければ、もし ちて の犬を け、後の をまねかんも なしと、案じわづらひてゐけるほどに。 して より、茶色毛の犬の、しかも一 えたるが、 なくも歩み来ぬ。 て和主が物語に、 はその毛茶色にて、右の前足痿えしと しかば。 これなんめりと思ひ。 を測つて と放てば。 誤たず、 が右の に くも ちしかば、さしもに き黄金丸も、何かは てたまるべき、 ち と倒れしが四足を いて でけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より と走り下りて、 が を取らんとせしに、 より来りけん一人の大男、思ふに なるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩み てわれを り、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんず に。われも さへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが を されて、残念なれども争ふて、 けられんも しと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、 は に仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、 が軒に げられてん。思へばわれに もなきに、無残なことをしてけり」ト、 しやかに物語れば、聴水喜ぶこと ならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならず くも、大王までを と ふて、 が なば、この山に て、大王を み さんと計る由。…… に (
第十一回[編集]
かくて聴水は、
が を立出でしが、 が言葉を なりとは、月に めく の、露ほども らねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。 、嬉れしやよろこばしや」ト。 く に れし の、急に へ出でし心地して、足も空に が に れば。金眸は折しも最愛の、 といへる の鹿を、 近くまねき て、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ に安否を尋ね。さて今日 のことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、 に物語れば。金眸も ならず喜びて、「そは なる なりし。さばれ 何とて を伴はざる、他に を取らせんものを」ト、いへば聴水は、「 も 思ひしかども、今ははや夜も けたれば、今宵は思ひ まり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、 めて参らん」ト、いふに金眸も きて、「とかくは爾よきに計らへ」「お まり候」とて。聴水は一礼なし、 が へ帰りける。さてその
、聴水は なし、里の へ出で来つ。 の畠 の と、日暮るるまで りしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみて ある に ひけるに。忽ち車の る音して、一匹の なる荷車を き、これに一人の牛飼つきて、 てつつ をさして来れり。聴水は身を潜めて の車の上を見れば。 の津より運び来にけん、俵にしたる米の に、 なんど 積めるに。こは き物を見付けつと、なほ隠れて車を り過し、 りとその上に飛び乗りて、積みたる をば音せぬやうに、少しづつ に すを、牛飼は少しも心付かず。ただ 牛のみ、車の次第に軽くなるに、 しとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ らねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。 に高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは にせんと案じ煩ひて、 みける処に。 の森の陰より、 に をさして せ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、 もふらず走り過ぎんとするに。聴水は しく呼び止めて、「 、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声を れば。漸くに心付きし 、黒衣は立止まり、聴水の を見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は しさを えて、「 し何事ぞや。 の色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、 かくれば。黒衣は初めて き、「さても恐しや。今かの森の中にて、 ……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、 計らんや は なる にて、われを見るより みに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸を でつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そは に かりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は にて、居ながら を ひ得んに、なにを苦しんでか自ら に出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いて を求むる、 もよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の を受け、和主を今宵招かんため、 より里へ り来つ、かくまで は獲たれども、余りに 多ければ、独りにては運び得ず、 にくれし処なり。今和主の来りしこそ なれ、大王もさこそ待ち侘びて さんに、和主も共に手伝ひて、この を運びてたべ。 は しためならず、皆これ和主に らせんためなり」ト、いふに黒衣も打ち て、「そはいと き事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共に き往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがて なる を拾ひきつ、これに肴を包みて上より をかけ。 の弓をさし入れて、 の など扛くやうに、二匹 にこれを ひ、金眸が洞へと急ぎけり。
第十二回[編集]
聴水黒衣の二匹の獣は、彼の〈[#「にんべん+陵のつくり」、U+5030、98-15]〉〈[#「にんべん+登」、U+50DC、98-15]〉く足を め踏〆め、わが へと りゆくに。この 空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、 なく えて清らかなれば、野も林も に、 の如く見え渡りて、得も言はれざる なるに。聴水は と、わが へ帰ることも忘れて、次第に の へ来りつ、 ある切株に腰うちかけて、 月を眺めしが。「ああ、心地 や今日の月は、 冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃 しと思ふ、黄金 を亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月 、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が を、それとも知らで聴水が、 しくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運のつき、とは らずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。
なんどを、 て一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、 の を呼び ひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて すに、黒衣はいと得意顔に、鼻 めかしてゐたりける。金眸も常に に けゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その に心 みて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、 を と を取り。聴水が へば黒衣が舞ひ、彼が の森を れば、これはあり合ふ を張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、 りに笑ひ めきしが。やがて も十二分にまはりけん、 が膝を枕にして、前後も知らず 、 は に響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや らんと聴水は、他の獣 に を告げ、金眸が洞を立出でて、折しも
く風のまにまに、 より来るとも知らず、いとも なる あり。怪しと思ひなほ ぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の の香なるに。聴水忽ち を細くし、「さても くさや、うま や。 の誰がわがために、かかる を へたる。 きて うけん」ト、 なき を踏み分けつつ、香を に り往くに、いよいよその物近く覚えて、香 りに鼻を つにぞ。 も今は空になり、 か かと るほどに、 茂れる中に、 く見当る鼠の 。得たりと飛び付き はんとすれば、忽ち と物音して、その身の は物に められぬ。「 、 にてありけるか。 くも られし しさよ。さばれ の来らぬ間に、 るるまでは逃れて見ん」ト。力の限り けども、更にその なきのみか は次第に り行きて、苦しきこといはん なし。〈[#「口+約」、U+55B2、101-4]〉黄金丸 く待ちね。 か思ふ由あり。 が命は今 、助け得させよ」ト、声かけつつ、 と るものあり。二匹は驚き何者ぞと、 に し見れば。 のほどにか来りけん、これなん黄金丸が 、 なりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再び を消しぬ。
る処へ、左右の小笹 と音して、 るものありけり。「さてはいよいよ よ」ト、見やればこれ ならず、いと ましき二匹の犬なり。この時 なる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを れりや」ト、いふに聴水 なくも、彼の犬を見やれば、こは に、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再び く驚きて、物いはんとするに声は出でず、 を見はりて ゆるのみ。犬はなほ語を ぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。 よくこそわが父を かして、金眸には はしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに に打たれて、 く足を けられたれば、重なる いと深かり。然るに爾その は、われを恐れて里方へは、少しも姿を さざる故、意恨をはらす事ならで、いとも なく思ふ折から。 ぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠を て、 かに爾が るを待ちしに。さきにわがため命を し、 が 通じけん、 くも爾釣り寄せられて、罠に落ちしも がれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、 に噛みさきて、わが を晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、 みかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「
第十三回[編集]
る処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。 何として此処には たまひたる。そはとまれかくもあれ、その は御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は き、「その驚きは なれど、これには の仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、 を し問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、 る日 の事より、図らず兄弟の ひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃 が したる、養親の文角ぬしなり」ト、互に すれば。文角も鷲郎も、 しく一礼なし、初対面の もすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、 なる仔細の て、今宵此処には来たまひたる」ト、 しく尋ぬれば。「さればとよよく ね、われ元より御身たちと、今宵此処にて はんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家の に かれて、この なる市場へ、塩鮭 米なんどを、車に て運び来りしが。彼の の陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、 を て投げおろすに。 ツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。 いまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を して、かかる悪事を働けるや。 一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車に けられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや 通ぜざれば、 は少しも心付かで、 肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、 の が は、あらぬに初めて心付き。廝は く へて、さまざまに り狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた なしとあきらめしが。 められぬはわが心中。彼の聴水が なること、 見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。 には は黄金丸が、 の なれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は へて、後黄金丸に逢ひし時、 になして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、 なくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる しけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、 みかかるをば文角は、再び と押し隔て、「さな ちそ黄金丸。 に罠に落ちたる上は、 の上なる に等しく、殺すも すも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が の臣なれば、 を責めなば から、金眸が の様子も知れなんに、暫くわが さんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が を み、罠を めてわが の下に引き えつ。「いかにや聴水。かくわれ が計略に落ちしからは、 が悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は の なれば、よくその分を守る時は、人も みて くまじきに。性 にして慾深ければ、奉納の 豆腐を て足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の を抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に ひ行きつ。金眸が の をはらひ、 を ましうして、その威を仮り、 の を害せしこと、その罪 の湖よりも深く、また が よりも なり。さばれ爾が尾いまだ九ツに けず、 の神通なければ、つひに くも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし れぬ因果応報、大明神の のほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾 に聞け。過ちて改むるに ることなく、 の念仏一声には、 なる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、 かに心を翻へして、われ がために尋ぬることを答へよ。 に爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を と狙ひ。 もあらば討入りて、 が髭首 んと思へと。怎麼にせん他が棲む山、 にして案内知りがたく。 洞の には、怎麼なる猛獣 べりて、 なる ある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは ひしが、 爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ が前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、 く語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の を語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹 る更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに を見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、 の爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく して返答せよ」ト、あるいは しあるいは し、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より る涙 きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。 めし文角ぬしが、今の言葉に が、 の迷夢 め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、 が言葉にせめられて、今こそ一 の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ して、 と く息も苦しげなり。
第十四回[編集]
この時文角は、捕へし
少し めつ、されども か油断せず。「いふ事あらば くいへかし。この期に及びわれ を欺き、 を ふて逃げんとするも、やはかその に乗るべきぞ」ト、いへば聴水 を打ちふり、「その は なれど、 すでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて なる をせんや。さるにても黄金ぬしは、 にしてかく なきぞ」ト。 り問へば ひて、「われ に に られて、 る日 の家に踏み込み、 く されし上に、裏の の に がれて、明けなば皮も れんずるを、この鷲郎に救ひ され、 き命は辛く拾ひつ。その時足を かれて、 は歩行もならざりしが。これさへ の が薬に、かく の身になりにしぞ」ト、 して見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が に打たれて、足を られたまひし事は、僕 かに探り知れど。僕がいふはその事ならず。――さても和殿に追はれし日より、わが身 と はれては、 また怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、 思ひめぐらし。 を ふとも知らず、和殿は昨日彼の のために、朱目の翁を訪れたまふこと、 かに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては に欺かれしか」ト。いへば黄金丸 と打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より 、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。 が ならんと、その矢を に ひ止めつつ、矢の来し を打見やれば。こは人間と思ひのほか、 なる猿なりければ。 き奴めと まへしに、そのまま は逃げ せぬ。されどもわれ彼の猿に、 を受くべき なければ、 かかる事を すにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、 が狼藉の も知りぬ。然るに 今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。 もその矢われには当らず、肩の をかすらして、後の に立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を り、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、 欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、 他が を訪づれて、首尾 なりしと尋ねしなれ。さるに 事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、 は に取られしなどと、いひくろめしも の、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの 和殿に逢ふことあらば、事 れんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、 く物に ぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の なりと思へば、他を恨みん由あらねど。 なかりせば今宵もかく、 の恥辱はうけまじきに」ト、 の 、眼を釣りあげて えしが。ややありて胸押し め、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても る命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。――そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を ること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、 十町ばかりにして、その に達しつべし。さてまた大王が配下には、 ( ) ( )を初めとして、猛き獣 なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、 が持場を守りたれば、常には洞の にあらずただ とかの黒衣のみ、 大王の に侍りて、 が機嫌を ものから。このほど大王 よりか、 といへる を連れ給ひ、そが容色に れたまへば、われ が は日々に がれて、 かに恨めしく思ひしなり。かくて僕 る日、黄金ぬしに追れしより、かの が 、僕及び大王を、 と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。 れもまた少しく恐れて、 の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、 も しく したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと ならず、 ち を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし なりとて、 に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒 みしが、独り早く り つ、その にかかる 、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、 の山を と めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣 、 なして れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。 喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を ぎて、「 に今宵こそ なれ。さきに僕 し時は、大王は が膝を枕として、前後も知らず したまひ。その には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、 に帰りしかば、洞には絶えて なし。これより へ向ひたまはば、かの間道より たまへ。少しは路の けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、 るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ はせ、 に見ゆる の、杉の森の より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、 あまた ひつきたれど、 りに の大樹あれば、そを に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。 今前非を悔いて、吾 がために討入りの、 を教ふること なり。さればわれその に で、おつつけ彼の黒衣とやらんを て、爾がために を がん。心安く せよ」「こは有難き かな。かくては思ひ置くこともなし、 くわが を みたまへ」ト。覚悟 むればなかなかに、 も騒がぬ狐が本性。 なりと へつつ、黄金丸は牙を らし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。
第十五回[編集]
黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、〈[#「にんべん+陵のつくり」、U+5030、109-3]〉〈[#「にんべん+登」、U+50DC、109-3]〉きよろめき に行きて、太き松の幹にすがりつ、 登らんとあせれども、 にしけん登り得ず。 かすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、 を見ずや。松の幹に攀らんとして、 りにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、 し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま ふべきもあらぬ黒衣なり。 松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。 へて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「 果して黒衣ならば、われまづ往きて他を まん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、 るとて逃さんや」ト、一声高く えかくれば。猿は と地に して、 臭き息を き、「こは の犬殿にて渡らせ給ふぞ。 はこの に む しき山猿にて候。今 ふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、 と打笑ひ、「 黒衣。 ひ酒に酔ひたりともわが は見忘れまじ。われは昨日 にて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か 殿か、われは一向 なし。 を掘りに来給ふとも、この山には も出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが は。和殿が先祖 と共に、 く に従ひて、 に押し渡り、軍功少からざりけるに。 のほどよりか を生じて、互に牙を し争ふこと、 に本意なき事ならずや。さるによつて は、常に和殿 を貴とみ、 は を通ぜんとこそ思へ、 かも仇する心はなきに、 あつて僕を、 んとはしたまふぞ。山王権現の りも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、 を見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎 に ちて、「 悪猿、 に人間に近ければとて、かくはわれ を侮るぞ。われ曹 くより爾が罪を知れり。たとひ言葉を にして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて いへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、〈[#「口+畫」、U+35F2、110-10]〉んで飛びかかるほどに。元より が神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、 で犬にかなふべき、黒衣は忽ち ひ殺されぬ。
しく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の に出でしが、これより路次第に く。 いやが上に ひ茂りて、折々 を り。 月を ひては、暗きこといはんかたなく、 もすれば岩に足をとられて、 の に落ちんとす。鷲郎は原来 にて、かかる路には慣れたれば、「われ せん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして ある に出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は なれば に、路の もいと かり。かかる処に の より、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「 伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ と見れば、いと なる黒猿の、 に たるが、酒に酔ひたる の如く、
第十六回[編集]
鷲郎は黒衣が
を咬ひ り、血祭よしと喜びて、これを に げつつ、なほ奥深く り行くに。忽ち路 まり山 えて、進むべき だになし。「こは かし、路にや迷ふたる」ト、 を し見れば、年 りたる の く茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が なんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに はず、岩高く聳えて、 もて削れるが如く、これに鬼蔦の ひ付きたるが、折から して、さながら絵がける に似たり。また洞の外には累々たる白骨の、 く積みてあるは、年頃金眸が取り ひたる、 の骨なるべし。黄金丸はまづ によりて。 の様子を ふに、ただ暗うして とは知れねど、奥まりたる より の声高く れて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては なほ してをり、この に り入らば、 く打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と を見合せ、「 給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも ともろともに、 を枕として りゐる、金眸が を と れば。蹴られて金眸 と き、一声 ゆる声百雷の、一時に落ち るが如く、 ために震動して、物凄きこといはん方なし。去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術〈[#「口+翁」、U+55E1、112-16]〉と叫びつつ、 なく は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に と して、 は起きも得ざりけり。
、右に き左に躍り、縦横 に れまはりて、 ばかりも ひしが。金眸は より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。 は名に負ふ黄金丸、鷲郎も の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと る黄金丸、金眸が をねらひ、 も透れと みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が をば、力をこめて噬みたるにぞ。 の痛手に金眸は、一声文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、
も放たず見てありしが、この時 ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに り はり。漸く元に りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて へつ。やがて金眸が を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を せ り、 が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、 の金眸が を奉れば。 も は しやりて、喜ぶことななめならず、「さても したり黄金丸、また鷲郎も れなるぞ。その父の を しといはば、事 の意恨にして、深く むるに足らざれど。年頃 の を げ、あまつさへ人間を け、猛威日々に しかりし、彼の金眸を討ち取りて、 のために害を除き、人間のために を払ひしは、その功けだし なり」トて、言葉の限り へつ、さて黄金丸には金の 、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。
この著作物は、1933年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。