頓化原合戦記
此度小場三河守聊の遺恨により当家へ敵対之由其用意候仍て当家へ御志之旁旗下之面々急御用意有之早速馳可被参候条仍て執達如件
天正三年亥八月廿日 平沢丹後判
大縄信濃判
高久播磨大山大膳田代遠江小林豊後阿久津信濃桜井専太郎小野崎小三郎富田大極院富田兵庫之介同修理之介清水大内蔵小堀五三郎関主計南条岩戸衛門平賀新五郎飯村出雲同左馬之介大座畑六郎太郎同弥五郎横倉兵部臼井万次郎舘甚五兵衛中田市衛門根本弥兵衛山口播磨安土左京之介馬次伊大夫綿引石見田中源蔵河村雅楽之介
斯て小場三河守父子小田部孫九郎を押返してよりは止事なく日々に軍の用意をいたしける【 NDLJP:467】一族外様の大々には前小屋右近之助高橋因幡黒沢小太郎山方佐渡羽生縫殿之助斎藤重太郎江戸長門等各申様合戦之義は往古より勢之多少によらす只兵士之心に有と申せとも多勢こそ勝利多く候と申ける三河守申様此城へは留主居士を残し置石塚の城へ立越義国と示し合せ大山を討へしと評議決定して城主小場三河守義忠同嫡子城之助義久付随ふ人々には前小屋右近之助黒沢小太郎高橋馬之介同道因同因幡同左近山方佐渡斎藤延斎同重太郎羽生縫殿之助江戸長門同善太郎中河淡路所善左衛門山田織部同伝之允利員主水小林対馬田口豊後大畠駿河下遠助之進佐賀大熊根本平沢三山中島舟津矢部越先陣にて其勢合せて二百余騎松原を下り岩瀬にかゝりさしもに早き那賀河を渉り石塚の城へそ着にける義国え義忠義久対面有て扨も二月嫡孫朝日丸死去之砌因幡家来小田部孫九郎両度之使者につかはし候事不吉とや云はん全く我等へ遺恨の根さし相見ゆる上は無拠一合戦仕勝負を決せんと存る也故是迄馳参りしと申ける義国父子聞給ひ扨当家小場大山三家は先祖義篤の枝流にて親み殊に深く他の一族より各別也左候得者不宜思召何卒御止り可然と異見等申候三河守答には御尤に候得共大山方には早合戦之注進有と承候得者最早止る所存なく候と申されけれは義国無是非一家中を召集め其用意そいたされける右之趣大山へ聞けれは先つ石塚の城に押寄と大山城主因幡守義勝同嫡子孫次郎義則相随ふ人々には上杉長門平沢丹後和田越後同掃部之助大縄信濃萩谷新左衛門山崎新右衛門平田剏負を初として其勢都合二百余騎大山の城を打立ける斯と聞より此手より馳参る人々に高久播磨大山大膳田代遠江小林豊後阿久津信濃桜井専太郎小野崎小三郎富田大極院同兵庫之介同修理之助清水大内蔵小堀五三郎同主計両城岩戸衛門平賀新五郎飯村出雲同左馬之助大座畠六郎太郎同弥五郎横倉兵部臼井万次郎舘甚五兵衛中田市衛門根本弥兵衛河村雅楽之助其勢六十余騎石塚の城ね押寄せける 三河守諸士に向つて曰く扨も此度之合戦聊の事より起り一門しのきを削るの所他の聞ね耻しき所なり此上は血筋同緑之者なりとも覚悟して一人も用捨なく一々首取て高名あれ弥天運に叶ひ勝利を得彼等か所領を合する時はをの〳〵も弥家を建つへし必す戦場に望みて見苦しき死をとくる事なかれ一命をおしみ末代の名を汚す事なかれと申されけれは諸士の答に曰一旦小場の城を出しより一命は君に奉り骸は戦場にさらすとも名は末代に残さんと覚悟仕候上は余も不覚は取ましく奉存候と申もあへぬに乾の方より白旗颯と押立て貝鐘を鳴し大皷を打凱歌の声をそ上にける寄手の大将大山因幡守義勝先一陣に進み給ふ同孫次郎義則外堀逆茂木の内迄乗入給ひ大音上いかに此城に小場三河守父子や候はん先日家来小田部孫九郎に対し不恙の致方遺恨止事なく今日我々父子是迄罷向候出合勝負仕候はんまつ義則矢一つ進上仕らん請取給へと三人張矢次早に散々に射立ける是に寄手も城内も互に味方を耻しめ引なすゝめと云声に惣かゝりに打入て鉄炮矢玉鯨波の声天地に響きおめき叫て戦ふたり一時計もみ逢て両陣互に引退く所に大半手負になりにけり然所へ陣中より萌黄威の鎧を着黒毛の馬に打乗り前鐙に進みて大音上け吾こそは大山因幡守義勝の御内にをいて一騎【 NDLJP:468】当千と呼れたる小田部出羽か一子同姓孫九郎泰行とし十八歳去る比小場三河守不恙の仕方其節討はたすへきの所大勢に隔られ其儘其場を退き帰り主人え対し云わけなく吾臆病の恥しめを受候事返々も残念なれ命をおします向ふたり名有兵者出合給へ見参せんと三尺二寸の大太刀真向にさしかさし敵陣さしてそ向ふたり爰に城中より黄糸威の鎧を着たる武者一騎河亦権太郎と名乗壱丈余りの十文字の鑓押とり走り出孫九郎に渡り合互におとらぬ剛の者秘術を尽して戦ふたり時に河亦か鑓中よりほつきと打おられ片へに捨て打物ぬきて戦しにいかゝしけん孫九郎内甲を切込れ深手なれは進みかねたる所をたゝみかけて切けれは孫九郎不叶終に権太郎に討れけり義勝大に怒り味方の油断にて孫九郎を討せたりそれ権太郎討とれと下知をなし懸れかゝれと義勝義則軍配し給ふ城中には義国義久下知をなし両陣互に挑み戦ふ暫時之内に寄手堀を越へ逆茂木を打破り城中に責入火花をちらし戦ける時に城の内より石突兵部と名乗大長刀水車のことく打ふり〳〵切て出大勢を事ともせす切立たり陣中より川野辺又七○(郎脱カ)と云者已に兵部に渡合秘術を尽して戦ふ折ふし川中又次郎三人張に十三束切て放せいあやまたす又七郎にはつしと当りきふ所の深手不叶して忽死す是を見て萩谷新左衛門田代遠江河久津信濃富田大極院四人一度に打入戦ふ暫し戦ふ其内に河久津信濃真甲を射られ引退大極院は鉄炮に当り死す萩谷踏止め戦しに不叶して引所山田織部か放つ矢馬の尾つゝに当りて三寸程射通され叶はすして大山さして引退く馬は門外にて失にけり義勝大にいかり見苦しき味方の軍兵譬敵鬼神にせよ何程の事あらん引なすゝめと下知し給ひけれと士卒捨鞭を打て落失けり大将も力なく一同引給ふ義国義久勝にのり城より出て追かけたりしも日もはや暮に及けれは引返し給ひけり 抑愛宕大権現ハ山州愛宕山に建せ給ふ本地将軍地蔵𦬇にて武門の輩軍之守護と尊敬し給ふ然に佐竹冠者昌義都より遷し久慈郡久米村に勧請有大山孫根の城にも南に当りて勧請す別当佐久山大興寺と号時に小場石塚之両将籠城せしむる上は又々義勝敗北とは申せとも究て打て出んは必定なり此上は此方より逆寄して踏落し腹居んと立出る大将軍には小場三河守義忠同城之助義久随ふ士卒四百余騎引率し宗田の塙打過て八幡舘を通り頓化の原に押寄たりかゝる所に出丸の城〈今北方平次か舘といふ所なり〉に楯籠る大山かたの人々には高久播磨保高平次徳宿内蔵之助田代遠江清水大内蔵大座畠六郎太郎同弥五郎加藤木弾正之勢合て六十余騎孫根大興寺に楯籠る人々には三村肥前光盛高次道斎入道三村豊後平沢源太郎小堀五三郎飯村出雲同左馬之助安土右馬之助都合廿八騎是本城え寄来る敵を横鑓の伏勢なり斯とはしらす三河守本城さして責寄る所に石桐藤兵衛忠光申様今宵雲気散乱せしは敵此辺に扣ゆるに極りたり伏勢有時は鴈か連を乱すと兵書に見へたり然は此辺大興寺山の辺心元なしと火をかけ火矢を放ち焼はらふ猛火の中より白旗押立大将と思しきもの蘆毛の馬に金覆輪の鞍をゝき赤地の錦の直垂に緋威の鎧を着し鞦形打たる龍頭の甲金作の太刀滋籐の弓を携千変万化に乗廻せはさしもの猛将進みかね少し引色見得けるところに猛火の中より三村肥前光盛石桐を目【 NDLJP:469】かけいかに石桐殿引返して勝負有れと声をかけられ藤兵衛引返しける所を三村肥前三人張に十三束切て放つ矢あやまたす石桐にはつしと当り馬より真逆さまに落にけり一番に進し石桐打死しけれは大将も力を落し給ふ所に敵の大勢勝にのり責立けれは引色少し見へける所に小場家山田伝之允大に怒り甲斐なし味方の人々敵は小勢味方は大勢吾等小場の城を出しより骸は軍門に晒らすとも名は末代に残さんと一足も引へからす吾と思はん人々は寄合給へやと敵を事ともせすまち請たり続く兵者前小屋右近之助高橋因幡斎藤十太郎山田図書を初として出丸の城に押寄たり城中の兵高久播磨田代遠江保高平次徳宿内蔵之助清水大内蔵大座畑六郎太郎同弥五郎加藤木弾正門を開て乗出し敵を中に取籠め前後より散々に責立たりさしもに猛き両家の勢い必死の戦場と踏止め矢玉を飛して責戦ふ頓化保良佐久一同に草木も赤けに成にけり漸其夜も明かたになり朝露深く鎧の色旗の見分もなりかたし一陣に向て大座畑六郎太郎同弥五郎強弓の勢兵にて三人張に十三束指詰引詰放つ矢当らすと云事なく裏をかすゝと云事なし敵是に射立られ引退く大座畑六郎太郎矢野新左衛門阿久津信濃三人山田伝之允を中に取込め保良佐久大谷にて六郎太郎か矢に当り伝之允馬より落る所を阿久津信濃立より首かき切にけり小場勢過半打死しけれは三河守を初として石塚の城へそ引にけり死骸は頓化の原に満々たり凡小場石塚両家の侍討れたる者名有大将分石桐藤兵衛黒沢小太郎山田伝之允同新左衛門綿引藤八郎小林平六大久保長八小松軍平羽生縫殿之助斎藤十太郎以上十人雑兵二百人余頓化の原に身を捨しこそ口惜けれ大山かた此度の軍勝利を得て石塚の耻を雪きける是愛宕権現の御加護也有かたき御事也 此度之合戦味方の勝利偏に権現の御加護によりて存の外なる勝利也然るに社頭兵火の為に焼失し候事無是非次第也此上は急き再興せんと閏四月吉日を撰み大工棟梁大畑内匠に申付普請奉行は飯村出雲高須太郎左衛門承りて釿立こそ初りけり造営半なる所に水戸本城より〈城主佐竹右京太夫義重なり〉使者以今般小場石塚大山の面々私の遺恨を以軍器を用国家を騒動せしむる条将軍家之咎め不軽小場石塚の両城へは戸村重大夫発向す大山へは長倉遠江守承りて被参候別て石塚越後守へは小場大山遺恨之義ともかくも取扱手段も可有之処城之助へ令同心段不宜異見之上承引無之時分は早速注進有て此方より可受下知之所無其儀国家を騒かし士卒失ふ事其罪不軽仍て遠慮禁足小場大山は両陣ともに閉門ほとなく義勝は南郡小高の城え移し義久は小之城え移されける
于時享保二年丁酉三月吉辰常山廿五世現宥運与是写者也
当寺之秘記也他見不可有者也
案此書は天正年中此寺之住寺書する者と見得たり 先反訛多追て可正す 按に常山は当山の訛ならんか 按に当山二十五世現住宥運是を写者也ならんか
右以水戸彰考館本収録畢 近藤瓶城
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