銀台遺事
一、此冊子、政務にあらはれたる事は、頗る年の次第によりて記す、先後する所を知らしめんとなり、其余は思出づるまゝにして詮次なし、
一、身よりして家、家よりして国は、極りたる次第なるに、こゝには国の政務を首に挙げたるは、世の遍く知れる所を先にせるなり、江河の浩々たるを見ん人の、漸く濫觴を尋ねんことを思ふのみ、
一、松井・米田・有吉三氏は、いづれも万石以上を領して、譜代の家老なり、其外時の家老・中老など、嘉謀嘉献さこそは多かりつらめ、然れども惟幄の機密は、末臣の知るべきにあらず、たゞ堀勝名等が擢用の次第は、あら〳〵記しぬ、
君の別館、芝の白銀台にありしかば、世に銀台侯とも申しき、此冊子の名、それを借れり、
【家中諸役心得を示す】一、寛延元年の夏、初めて入国し給ひき、其冬、家中諸役の者、心得べき条々を、自ら書きて、示させ給ふ、其第一の箇条に、
諸事清廉に取計ひ申すべき段は、先代よりの趣の事に候、然る処、近年まゝ不直の輩も之あり、差通し難き儀に付、其段申付け候、此儀、人の撰宜しからざるは、我等不肖に候哉、又は役頭々々依怙贔屓よりの申立により候哉、正道を取失ひたる儀と存じ候、兎角私欲の筋専らにて、申付け置きたる筋道違ひ候故、末方の者、迷惑に及び候へども、末方の者は、役頭を恐れ、是非なく訴へ出でず候に付、第一我等為に相成り申さず候、依つて此以後、軽輩たりとも、志之ある者は、其人の高下によらず、支配々々まで、存寄封印を用ひ、差出し申すべく候、国政の儀は、我等存念計りにても、相行はれず候、貴賤一和を以て、治国に至り候儀に候、何れも相考ふべき事、
総べて我意を立て、権を争ひ、功を奪ひ候は、未練の至と、深く戒め給ふ、斯かりける後は、聊も存寄ある者は、皆封印の書付を奉りければ、下の情も能く上に通じ、役々の司などいふ者も、皆恐れ謹みて、不法の事なかりけり、
【収民の吏を諭す】一、同役数多あるもの、事を同じ様にせむとすれば、互にためらひて、職掌を闕如し、賢愚の分ちも見えず、自ら世の衰と成行く事、唐土にいへる陵夷の類なるべし、かゝる理をや思召しけん、寛延三年八月の頃、領分の郡代仕うまつる家士【 NDLJP:97】を、皆御前に召して、仰せらるゝ旨あり、云く、
在中の儀、郡奉行共心得次第、締り方精粗あるべく候、郡村の風俗は、其所々々に違もあるべく候条、預け置き候郡村は、一統の見合なく、銘々存寄に、締り方申付くべく候事、
其日、老臣もまた申伝へたる事あり、こゝに註す、
御帰国以後、御国中の儀、追々聞召され候処、在中の儀も、未だ締り方得と之なき様、思召上げられ候、去々年仰出され候趣に付いては、各委しく心を付け申さるゝにては之あるべく候へども、猶ほ又怠なく取計ひ、追々相改り候様、仕らるべき旨、仰出され候、別紙頭書の御書付、各へ急度仰せ渡さるゝにては之なく、拙者より申聞くべき旨にて、御直に御渡し遊され候に付、之を写し、相渡し候間、拝見仕られ、弥〻以て油断なく、取計らひ申さるべき事、
八月
頭書
一、在中風俗宜しからず、今以て下役人執計の内、不直の儀も之ある趣、相聞え候、定めて郡奉行共、委細心を付け申すにては之あるべく候へども、はきと改め候程の事も之なき段は、未だ何れも心懸薄き故にては之なく候哉、其上善悪を糺し候様なる儀も、相聞えず候は、広き在々の事に候故、旁〻不審候事、
一、郡奉行共執計の儀、下々の儀を委しく存知せず候ては、間違の儀も之あるべき処、平生権高に心得候て、下方の儀に疎く、下役人の申立計りを拠として、執計ひ申す者も、之あるにてはなく候哉、さ候へば、不埓の至に候事、
但、新役・古役の差別之なく、随分腹蔵なく、申談ずべく候、
一、事を恐れ、無事を好め、身構を仕り候ては、支配行届き申すべき様之なく候、此儀何れも覚悟の前たるべき事、
以上
夫れ民は邦の本なれば、仕置の初め、殊更之をこそ沙汰し給ひつらめ、夫より愈〻本固くして邦安かりき、
【知行の家士を穿鑿役に用ふ】一、此国にて囚人を糺問する者を、穿鑿役と名付けて、昔より徒の者の職なり、其身賤しければ、唐土に云へる、獄を鬻ぐ類なきにしもあらざりけるに、此役は【 NDLJP:98】大事の役なり、若し聞き誤りつる事ありて、殺すまじき者を殺しては、再び生くべからず、天道の恐、是に過ぎたることなし、せめては所領持ちたらん侍に申付けて、其司とせよとて、宝暦元年、平野権九郎・村上市右衛門といふ侍にぞ命じ給ふ、是よりして、いよ〳〵推問私なくして、無実の罪かうむる者なかりけり、中にも此権九郎時成といふ者、殊に其任に堪へたり、或時一人の囚、白状極まりて、此上は如何様の厳科に処せらるとも、恨なき由、手摹をもしければ、首切らるべきに究まりけるに、権九郎いかゞ思ひけん、此囚の罪決せらるゝ事、今暫く待ち給へといふ、時の奉行、此の如く罪明白なる上、何条事を構へつべきといへば、権九郎、いや〳〵、思ふ子細有りと、あながちに申せば、其旨に任せたり、夫より三年計りありて、果して首罪の者露れて、初の囚は命助かりぬ、さてこそ権九郎見る所ありけるよと、人皆感心しけり、総べて君の人を召仕ひ給ふに、各其器に当れる事、此の如くなりき、
【新に寺社の建立を禁ず】一、新規の寺社建立停止の由は、公の御掟なれば、領内にて、もとより厳重に沙汰ありけれども、猶いかさまに拵へて、寺院めかしき所出来る事、絶えざりしかば、宝暦三年四月、有司御旨を受けて、本寺々々に申伝へける牒書、
在中に居住の坊主の儀に付、先達て寺院一統沙汰に及び候処、段々願の趣も之あり、今以て相究まらざる儀之ある条、猶ほ左の通、
一、願に依つて、在中居住、追々御免成し置かれ、又は前々よりの住所、川塘の障に相成り、中興所替仰付け置かれ候坊主の事、
右は、其僧一代の居住は、御免成され候、跡入相続叶ひ難く候事、但し隠宅等の儀も右同断、
一、真宗寺通ひ寺と名付け、在中所々に之あり、又は往古寺跡と申伝へ候由を以て、居住致し候坊主の事、
右は、元禄十五年、寺社本末改の節、何方通ひ寺と書出し、其通り仰付け置かれ候儀、畢竟小庵を御免なし置かれ候、然る処自然と堂舎数を建て、門徒も之あり、内証は其寺号を唱へ候由相聞え、不届の至に候、之に依つて此節は所を引払ひ、仰付けらるべく候へども、数年居住致し、急に参向も之あるまじく候条、当時の住僧一代は、今迄の通り、御免なされ候、跡入相続叶ひ難き事、
【 NDLJP:99】但右の内、往古より訳之ある庵室は、相続仰付けらるべく候条、右類の庵室、二間梁に七間以上は、之を停止す、且又相続以後、庵室に妻子は申すに及ばず、女人の居住無用たるべし、尤も相続の僧、当時住僧の子にて、母姉妹の類之あるは、其節に至り、相達し次第、吟味を遂げ沙汰に及ぶ筈、
一、在中に前々より小社・小堂之あり、堂守等の坊主据ゑ置きたき由、尤も寺号唱へ申さず、仏壇も仕らず、仏事・説法も仕るまじき由、下方より、願に依つて、御免なし置かれ候坊主の事、
右は、其社内、若くは其堂社の近辺に、小家を建て、居住る分は、今迄の通り、堂社を遥に隔て候ての居住は叶ひ難く候間、社内に晶地之あるは、其社内に、畾地之なきは、其近辺にて、相応の所柄に家を移し申すべく候事、
一、元禄年中改の節、書出に洩れ、又は其後いつになく、庵室を構へ、在中に居住仕り候坊主の事、
右は急度其所引払ひ申すべき事、
右の条々、支配の寺々より、申渡さるべく候、畏り候書付・由来の書付をも、五月十五日限り、洩れざる様取揃ひ、相達せらるべく候、若し相違の儀之あり、又は後年ともに、沙汰之ある筋、相背き候僧は、早速其所を追立て候筈に候、総ベて支配の寺々より、兼ねて委しく申付けらるべく候、違却之あるに於ては、支配の寺々にても、越度たるべき事、
かくて今まで違犯の者二百人余を、或は本寺、或は師の房に返し遣り、六十人余は、住居其身を限る抔、汰汰せしかば、還俗して農民になるもの多かりき、
【敬に過ぐるを戒む】一、礼は尊卑を分つものなり、恭しうして体なからんは、いたつがはしく、はては諂になり行きなんことをやおぼしけん、宝暦三年三月、有司申伝へけることあり、
御発駕前、監物殿へ御意之あり候は、総体御家中の面々、座席又は役方に対し、余り敬ひ過ぎ候歟と思召し上げられ候、是に依つては、自然と諂ひがましき風俗も、夫に応じ申すべしと、思召し上げられ候、尤も人により、当時程能く相心得候も之あり、又は無礼の体の者も之あるべく候へども、敬し申さゞる様、偏に申聞け候はんとにては之なく候〔彼是見合せ候て、心を付け候様にと御意之あリ候イ〕、此段水知置き、寄々申聞け候様に、去る三【 NDLJP:100】日、監物殿へ御申聞け候事、
一、家中の者の申状、思ひ〳〵にして、一定ならざりければ、宝暦の頃、文式を作りて、組頭抔に授けらる、元服・婚姻より始めて、其事々々の文案あり、又公事の消息に用ふる殿文字の品を分けて、打見るにも、其段・其格と知らせたり、初めは、くだけたる様に、人も思ひつれども、頓て習はしとなり、事よく調へり、
【狂気自殺の跡目相続を許す】一、狂気にて自殺せし者は、昔より子孫相続を許されざりしに、君不便に思召して、宝暦三年、命じ給ふ事あり、其旨を老臣伝へて、家中に知らしむ、其詞に云く、
乱心にて自殺の跡目、前々より相続仰付けられざる事に候へども、畢竟病気の儀に付、此以後、跡目相続仰付けらるべき旨に候事、
但、右自殺の節、通り難き始末之あり候はゞ、病乱紛之なく候とも、断絶仰付けらるゝ筈候事、
誠に気血禀けたる者の、病に犯されんをば、如何はせん、然るに自殺せし跡には、老いて子に離れ、幼くて父に離れ、偕老の契の夫に離れ、悲の中に、所領をさへ没収せられて、寄方なき身とならんは、如何計りの歎ぞや、然るに此君の御情によりて、かゝる不幸に遭ひても、人並みに所領たびて、行末めでたく召仕はるゝ者、今までも幾何ぞや、それらは子々孫々に申伝へて、此君の仁恩、暫しも忘るまじき事なり、
【時習館を建つて文武の業を奨励す】一、宝暦四年、熊本の城二ノ丸の内に、学校を建て給ひ、文を学ぶ所を時習館と名付け、一族長岡内膳忠英を総教とし、秋山儀右衛門定政を教授として、訓導師・句読師などいへるもの十余輩あり、武を習ふ所を東樹、西榭と名付け、数多の武芸の品を分けて、それ〴〵の師あり、其数後は八十余人に及べり、家中にて侍ほどの者の、年若からんをば、皆々こゝに於て、文武の事を習はしめ、其内に分きて秀でたるを、常に館中に居らしめ、居寮生と名付け、之を養ひて、専ら勤学せしむ、たとひ農商たりとも、俊秀ならんものは、館樹に入る事を許さる、明くれば宝暦五年正月七日、君学校に入らせ給ひ、定政孝経を講ず、畢りて文武の師を御前に召して、懇にねぎらひ聞え給ふ、之を例にて、在国の年の始には、必ず入りて講談を聞かせられ、又参観の門出前、帰国の始には、先づ登城ありて、直ちに学校に入らせ給ふ、斯く自ら勤めて導かせ給へば、其下たらん者、誰かは志を励まざら【 NDLJP:101】ん、されば講日の聴衆など、年月に数そひて、所狭くなりたりければ、宝暦十年六月、重ねてかう〳〵しき堂を建て、之を講堂として、尊明閣と名付け、君自ら筆を染め、仰止といふ字を書かせ給ひて、扁額とせらる、月の三八の日、講師一人、経書を爰に講ず、其日は家老一人、必ず席に臨む、忠英老を告げられし後は、之を総教と定む、侍頭・番頭・奉行・日付などいへる類、役毎に必ず一人宛出で、東席に列座す、老臣の嫡子以下、皆北面して講を聞く、其出入座作を使番指揮して威儀を正し、物いふ事なからしむ、講師の座には毛氈を設けたり、君入らせ給ふ日は、氈をば徹すれども、なほ君と差向ひ座して、臣下の列を離れしめらる、是れ先王の道を君に告ぐるに、北面せずといへる礼を思ひ給ふなるべし、
一、宝暦七年・同十三年、館樹に於て、子弟の文武の業を自ら試み給ふ、之を例として、其後も折々御覧あり、江府にまします年は、春の末・夏の初に、総教必ず之を試む、かくて皆々勤め励む中に、殊に勝れたるを、年に一度、講堂に呼び集めて、総教其聞えある由を称揚す、又其中に勝れたるを選びて、君に告げ奉る、宝暦十三年正月十五日、講堂に召して、君の褒賞に与るもの、百十人に余れり、其中五十余人は、家の紋の服を給ふ、是よりして、或は二年・三年の内には、必ず此事あり、人数もひたすらに増して、今は年毎に勧賞を賜る事になれり、総べて此家中の子弟、才・不才によりて、巧拙はあれども、・形の如く、文武の業を習はざるものなく、或は経書・詩文に長じ、或は武芸に名を得るものゝ多くなりたるは、まさしく此君の恩徳なり、されば安永六年の頃、国中の詩を集めて、楽洋集と名付けて梓行せしに、作者二百余人なりき、一国の集には多しや少しや、今は、其数を二つ合せたる計りはありなん、
【衣服の制を定む】一、宝暦五年亥の二月、諸士を御前に召して、衣服の制度を仰付けらる、されども事俄にしては、中々下々の煩とならん事をおぼして、今より三年の間は、有り来りのまゝにてあれよかし、寅の年よりは、堅固に守るべしとなり、たとへば、侍の衣服は、総べて表は紬木綿を用ひ、裏は絹をも許す、其外は裏・表共に布木綿たるべし、女の衣服も大やう是に準ふ、但し七十歳以上・十歳以下、并に医師・出家は制外たるべしとぞ、猶ほ細かなる制あれども、事繁しければ略す、
【刑法の改正】一、此国にて人を罪なふには、死刑・追放の二つのみを用ひ来れるを、宝暦五年【 NDLJP:102】の頃より、笞・徒・墨の刑を始め給ふ、家臣堀平太左衛門勝名、御旨を請けて、刑法草書一巻を綴りて奉る、其序に云く、
夫れ刑は一人を罰して、万人を治むる道なり、一人を殺すこと、至重なりと雖も、化を梗り、俗を敗るの徒は、其天誅を如何、故に唐虞三代以来、刑法ありて、聖人の最も重ずる所なり、古は墨・劓・判・宮・大辟の五刑にして、異罪同罰、合せて三千条なり、漢の相国蕭何、律九篇を造り、罪の軽重細微に分ち、音楽の調、十二律の外に出でず、正声各和すると云ふに比して、律と云ふ名始めて起れり、歴代損益ありと雖も、大柴此九篇に本づくと云へり、近代に及びては、大明律尤も其精詳を極む、本朝公家の代、淡海公藤原不比等、和律十二巻を作る、其後武家の世となり、此律も陵夷して、海内戦国の風余に因循して、今に至る、我藩には、死刑・追放の二刑ありて、盗者の初犯を専ら追放に行はれ、郭外方幾里、或は幾郡と限り、禁錮遠近の差ありて、一旦懲悪に似たりと雖も、禁以外の地にては、衣食の便を失ふこと弥〻切なれば、縦令悪を改悛せんと欲する者も、飢寒に堪へざるの憂已むことなく、盗心遂に復生じ、所在の地の害となる、此の如くなる時は、何を以て悪を懲し、何を以て害を去らんや、唯一国中に於て、害の処を遷すのみなり、是れ白圭が水を治むる、鄰国を以て堅とするに近からずや、然れども初犯は死を宥め、再犯は死に処し、其差ありと雖も、已むことなきの再犯を、死刑に処する時は、則ち之を奔に陥れて殺すに似たり、此の如きは、其罪戻、彼にあらずして此にありと、謂はざることを得ず、是れ旧典なりと雖も、治平久しく、今に至りては、時勢・人情に齟齬し、処置の当らざることあり、此に於て、君侯厳命を下し、革めんことを議せしむ、大なる哉、民を恤むの徳、封内に布くこと、永々不朽の善政と云ふべし、蓋し今綿密の律を作らしめ、国に施さるゝこと、其美言ふべからずと雖も、恐らくは頓かに行はれ難かるべし、故に先づ的大の弊を救はしめば、其余は類推すべし、臣愚なりと雖も、敢て固辞することを得ざるの職に列す、故に古今の刑法を増損し、これを簡易にして、僅に数条を左に録し、稽類して執政の府下に呈す、其精詳なること、大明律の如きは、伏して後の君子を俟つと云爾、
宝暦四年甲戌夏五月 堀勝名頓首謹言
【堀吉勝の殉死】一、此堀平太左衛門は、曽祖を平左衛門吉勝といひて、本は越前の者なりしを、君の御先祖妙解院殿、〈忠利公、〉未だ豊前におはしゝ時、御家人になされ、御子
【医学の美励】一、宝暦六年の頃にや、郭外の角井といふ所に、医学寮を建て、再春館と名付く、 〈此寮明和六〔八イ〕年郭内に移さる、〉村井見朴・岩本原理を師として、領内の医者に、医学を勧めらる、また医業吟味役といふ役を立てゝ、領内の医者共、年々療治せる内に、大病・奇疾は医案を書き、世の常の病は、たゞ其人数を記し、正月毎に、必ず医業吟味の許に遣すべしと、掟て給ふ、是より医師も益〻書籍を考へ、業を励む事になりぬ、扨又医道を学ばん者、薬草のやう、知らではあるべからずとて、建部といふ所に、薬園を開きて、繁滋園と名付け、さま〴〵の薬草を植ゑて、物産を知る便りあらしむ、是皆仁慈の御心より出でゝ、病悩を救はしめん為めなり、
【重臣等奉行所に於て事を執らしむ】一、此国のおとな達、昔より月番といふ事を定めて、番に当りたる人、其月の国て事を執務を沙汰す、又君国にまします時は、日毎に屋形に出仕をもしつれども、江府にましませば、家にのみ居籠りて、家中の者の賞罰をも、家に召して申渡抔せしを、かくては事の体たらく、宜からずとやおぼしけん、奉行所とて、城内に局務の所ありけるに、宝暦六年五月より、家老共日毎にそこに詣でゝ、万の事をも沙汰すべき由仰付けらる、かゝりし後は、おとな達、月番をやめて、日毎の用番を定め、一人・二人宛、必ず奉行所に詣でぬ、さて君の在国・在府をいはず、侍以上の褒美の類は、皆屋形にて申渡し、貶罰のみをぞ奉行所にて申渡しける、斯くてこそ、国務もいよ〳〵滞りなく、事の体も所を得たりけれ、【宝暦改正】抑〻此宝暦六年の頃、領内の仕置を改められし事、挙げて数へ難し、是を此家中にて宝暦改正と云へり、此頃君の御心尽されける事、いはん方なし、勝名以下、心合ひたる者から、さま〴〵書付物などもて参りて、夜中にも御旨申請ひければ、まどろみ給ふ間もなくて、明け終てける事、常にありきとぞ、
【奉行所の政治】一、此奉行所といふは、昔よりありけれども、さき〳〵は、奉行所を物頭の兼帯政治などにせし事もありて、猶おろ〳〵しき様なりき、又勘定奉行・郡奉行抔を始め、【 NDLJP:105】其下の役迄、奉行の名を付けたりしに、此改正の頃、もろ〳〵の役の奉行といふ事をとゞめて、専ら此役の名とし、段格抔も進めて、蒲地喜左衛門・清田新助・村山何某・志水才助抔いへる、才ある者共を、ひた〳〵と挙げて、此職に補し、選挙・刑法・勘定・郡村などゝ、職掌を分けられ、皆日毎に詣でしめて、其職分々々の事を議す、又郡頭・勘定頭の局をも、やがて作り続けたり、たとへば、家中の者、如何なる事もありて、申状を棒ぐれば、組頭持ちて、こゝに来て、奉行に渡す、奉行取りて、家老の座に持ち行きて、事の様を申次ぎ、評議すべき由を、家老申せば、奉行退いて、根取などいふ者を召して、旧例を考へさせ抔し、又は勘定頭・郡頭抔を呼びて、沙汰する事もあり、議やゝ定りて、又家老に告げて、大事をば必ず君に申して、御旨を受け、小事は家老裁判す、家老・中老の座に大目付、奉行座には目付副ひ居たり、家老の附属に佐弐の役あり、奉行に根取あり、何れも物書あり、かくてこそ奉行所も事調ひけれ、公の職員・唐土の周官抔は、天下の御政にて、はしばしの国々にて、準へ云はん事は、傍痛けれども、有司を先にすとの、聖の教には叶ふべくもや、此時の奉行共の議定したる事は、今も人の口にありて、目出たき事多かりき、中にも志水才助清冬は、世々三百石を領したる士なり、清冬の父金右衛門致仕し、清冬家督したる日、即ち奉行役に命じ給ふ、果して其職に叶ひ、後には大奉行になされ、所領加へ賜ひ、千石になし、猶役料二千石を添へて、三千石の高にて、中老となれり、【蒲地正定】又蒲地喜左衛門正定は、世禄百石の侍にて、隆徳院殿の御時より近侍し、君の御代になりては、納戸役の事を司りてありけるに、或時、鷹野に具し給ひて、此犬暫し牽きてよとありければ、犬は犬牽にこそ牽かせらるべけれとて牽かず、又或時、御傍を掃くべき由宣ひければ、それは掃除坊主にこそ申付けめとて掃かず、かく何事も、むくつけに言ひければ、おのづから御覚もよからぬ様に、人も見なし、其身も役を辞退などせしに、幾程なく、役料五百石の高給びて、奉行になし、後は所領を加へ給びて、三百石、猶ほ役料六百石添へて、九百石の高になされ、ゆゝしかりしに、身にいたはる所ありて、辞職しければ、六百石の高賜りて、休らはせたり、改正の時、殊更心を尽して、此国にては、平太左衛門と共に高名なりき、大方度量ある人にて、物語多き事なり、すべて此頃より、人の器用を選びて、あながちに禄の多少、族の盛衰によらず、元より士たらん【 NDLJP:106】者は、いふにや及ぶ、緒方何某・田添何某といふ者は、農民なりしかども、其道に委しかりければ、侍となして、領内の勧農を司らしめ、後は所領をも給ひたり、斯かる類挙げて数へ難し、
【世禄の制を改む】一、同じ年の事に、諸臣を屋形に召し集めて、諭し示さるゝ旨を、自ら書きて、授け給ふ、其文に曰く、
家中知行代々相続の事、大体当国の高に応じ、古代の定之ある処、中古より我等に及ぶまで、新知・加禄等も、総べて世禄に申付け、当国不相応の高に至り、後年勲労の者之あるとも、賞すべき禄乏しく、数世前代の本意に背き候、之に依つて、慶安二年以前の知行は、旧故の家に付け、相違なく相続せしめ、右以後の新知・加禄は、代々相続の高を斟酌して、申付くべく候尤も其身抜群の功労によつては、旧故の家に準じ、或は子孫の材芸によつては、あながちに世禄減ずべからず、新知・加禄の儀に付、近年申渡し置き候趣も之ある条、何れも存知の為め、申聞けるものなり、
此条、有来りつる禄を減じ給ふ事を、君の御心には、愧ぢ恐れ給ふなど、承りし事もあれども、誠に節度なくては叶ふべからず、古の禄を世々にせしも、限りありての事なるべし、此君一代の内、人の器用に随ひ、相応の禄を与へて、挙げ用ひ、又は昔より功労ありし者の子孫、不肖にして、所領放たれたるを、ゆかりを尋ねて扶持し、召仕ひ給ひたる類、挙げて数へ難し、初に此条の掟なかりせば、いかで是等の事、心に任せ給ふべき、されば善政といはざらめや、
一、右の条、定められて後、慶安三年より此方、御被官になされたる家は、親致仕を請ひ、又は死にたる時は、家を嗣ぐべき子の行状は、いふに及ばず、文学・武芸の程を、委しく封事にして、組頭より奉る、父の功労と子の材能とを計り、抜群の者には、新禄とても減ぜられずして、親のまゝ給はり、さあらぬ限りは、譬へば、千石の所領、九百石・八百石抔、程々に随ひて給ひければ、勧懲著しく、家中の子弟恥ぢらひ、相勤め学びて怠らず、大方は文学にも疎からず、武芸も二品・三品、奥儀を極めたり、殊に医師・馬役などは、技芸を以て奉公する者なれば、世禄すべからずとて、皆糜米を給へり、家を嗣ぐ子、不肖にして、業拙なければ、纔に口米を与へ、猶ほ其道を学ばしめ、年を経て、上達するに随ひて、禄を加へらる、或は親【 NDLJP:107】に勝りて、堪能なるものは、家督を嗣ぐ日、親の禄に倍して給ひたるもあり、是は稽㆓其医事㆒以制㆓其食㆒といへる本文の心にや、斯かりければ、是らも家業を益〻、励ましけり、
【養子の法改正】一、家中の侍、男子なうして、人の子を養ひ、子にしつれども、さりがたき由ありて、家を嗣がせざらん者の事に付けて、宝暦六年の頃、仰せらるゝ旨あり、老臣家中に伝へて云く、
士席以上、養子願書付、尊聴に達し奉り、願の通り、仰付けられ、養方に引取り候上、御暇願ひ奉り、願の如く、仰出され候へば、何方へも達之なく、実方へ差返し、別人養子願ひ奉り来り候へども、一度父子契約致し候上は、病気たりとも、容易に実方へ返し候事は、之あるまじき儀と、思召され候、向後養子病気等にて、御奉公相勤め難き体に候はゞ、其旨書付を以て、御暇願ひ奉り、同居成り難く、久離に成り候はゞ、右の旨趣、前以て双方より、書付を以て、相達せらるべく候、以上、
六月 日
是も人倫を厚くせんとの御事なるべし、但し当国にては退身を暇といへり、又養子に娘を妻する事はさらでもありなんと思ふものから、今は天下の習はしとなりぬれば、あながちに禁じ給ふべうもなし、其内にても、名義の斯かる所をや思召しけむ、明和五年、老臣伝申す御旨に云く、
男子之なく、婿養子相願はれ候面々、今までは、往々娘と嫁娶仕らせたき段、相願はれ候事に候処、右之通りにては、間々存違の輩も、之ある様子に付、以来は婿養子に仕りたしと、相願はるべく候、此段支配方へも達せらるべく候、以上、
明和五年六月
【母出奔の子の家督相続】一、往にし延亨四年の頃、母出奔の子は、家督相続、又は他の養子に遣し候事も、成り難き由、公儀の御掟定められし後は、襁褓の中の子も、母斯かるまさなき振舞しつれば、罪に及されて、一生沈落せしを、君不便に思召して、宝暦六年、家中に命じ給ふ旨を、老臣伝へて云く、
母出奔致し、行方相知れず、其子部屋住にて能在り、縦ひ幼少にて、右の訳存ぜずとも、家督相続の儀は、相成り難く候、尤も他へ養子に遣し候儀も、成り難く【 NDLJP:108】候事、
但、母家女にて候はゞ、其沙汰に及ばず候、
右の趣、寄々相達すべく候、
右の通り、先年公儀より御触之あり、御家中へも沙汰に及び候、然る処御触紙面は、大略の趣にて、御家中の面々は、一概に右の通り、仰付けらるべき様も之なく候に付、右体の儀之ある節は、右の父母、其子共に、始末の様子、委細書付を以て、頭々支配にも、如何相心得申すべくやの趣、其時々相達すべく候事、
其後宝暦十年に、重ねて公儀より、向後出奔候とも、其子家督相続、并に他へ養子に遣し候儀も、苦しからずとの御触ありけり、されば公も私も、御心を合せ給ひて、有難かりける御代なりけり、
【納税法の改正】一、民の租税、さき〳〵は、其年の内に、三の二を納め、今一つは、明の年の七月を限りて、貢ぐ事なりき、世降り、民の心も直ならざりけるにや、近き頃は、其つは、春夏の程に用ひ尽し、七月になりて、俄に弁へんとすれども叶はず、租吏責めさいなめども、誠に無き物なれば、せんすべ無く、上下の悩となりければ、宝暦六年より定めて、其の年の内に、残なく納めさせらる、凡そ民の情は、物の改るを、うけひかぬ習、殊に今迄長閑なりけるを、俄にきは〳〵しく、掟てなん事と、如何ありなんとて、上中思ひ煩ひたれども、此頃は例の賦など、軽くなりける折柄なればにや、兎に角に、いなむ者もなくて、安らかに事行はれけり、斯かりければ、冬の程は、誠に事繁けれども、春にもなりぬれば、民の心も長閑にして、一筋に耕し耘る業を勤めけり、是等や姑息をとゞめて、誠に仁政にも叶ふといふべからん、
一、宝暦七年の頃、役々の条目を授け給ふ、其役たらん者、之を旨として守るべしとなり、されども之を
【毎年家中の勤書を出さしむ】一、家中の者の恪勤の程をも、詳に知ろし召さむとて、宝暦七丑の年、仰付けらるゝ旨あり、老臣伝へて曰く、
【 NDLJP:109】各当六月朔日より、来年五月晦日までの内、奉公の趣等書付け、来年六月朔日より、三日までの内、相達せらるべく候、尤も以来年々沙汰に及ばず候間、毎年右の通り、御逹あるべく候、相達せらるゝ様の文案、則ち別紙相添へ候、
一、今迄御奉公差出被相達来候衆、当正月より同五月廿九日迄の御奉公の趣は、是又被相達来候、見合之通、差出相調、来年六月、前条之通、書付一同に可㆑有㆓御逹㆒候、以上、
四月
覚
私儀、何御役、去六月朔日より当五月晦日迄、日勤又は隔日罷出候内、当前一日も無㆓懈怠㆒出勤仕候、又斯様々々の儀にて、日数何日不㆓参仕㆒候、又忌中にて、何日出勤不㆑仕候、
一、何月何日、為㆓江戸詰㆒、此許被㆓差立㆒、何月何日、江戸著仕、当前之御奉公、或は斯様之儀相動、当何月何日、江戸被㆓差立㆒、何月何日、此許に著仕、何日より出勤仕、当五月晦日迄の内、斯様々々、
一、当年何十歳に罷成申候、
一、両親有無、年月付共に、
一、〈嫡子養子〉何之何某、当年何歳に罷成申候、稽古事何々、何某之弟子にて、時習館両樹に罷出、斯様々々、
右之通御座候、以上、
何年六月
何之何某殿
斯くて三年の内、一日も怠らず、恪勤せし者には、末が末に至るまで、必ず勧賞あり、其程に随ひて、家の紋の服をも給び、銀銭をも取らせたり、是よりして、其身其身はいふに及ばず、子弟も愈〻文武の業を怠らざりき、
【田地の境界を正す】一、仁政は境界より始むとは、孟子の金言なり、誠に田の境界定かならずんぼ、いかで賦租も均しかるべき、されども又、後の世の暴君汚吏は、検地といふ事をして、余畝を捜り求めて、それに租税を責め
【備荒儲蓄】一、宝暦八年の頃より、領内に仰せて、租税の内を、程々に随ひ、籾ながら貢がせて、凶荒の備とし給へり、されども一所に蓄へ置きては、頓の事あらん時、便なからん事を計りて、そこ〳〵に倉を立て、納め置かせらる、其数九十七箇所となん、上に誘はるゝ下なれば、百姓共、己が物の中をも、思ひ〳〵にさゝげて、此倉に納め置く、かくて凶年は云ふに及ばず、すべて麦の実りなど、思ふやうならで、夏秋の種乏しき所々へは、此籾を与へて、民の飢を救ふ、又米の価貴くして、商人苦む時は、殿の御倉の米を取出し、価を賤くして、売り与へらる、されば天明の頃、天下凶荒なりしにも、此国の民は、餓死する者なかりけるこそ有難けれ、扨も此籾を蓄ふ様こそたやすからね、悪しく取計らへば、却て民の煩となり、又は虫ばみなどして、徒に成行く、斯様の事まで、細かなる掟あり、
【天明の賑恤】一、此凶荒に疫さへ打添ひて、民飢に悩みしかば、遍く物を分ち給ひて、救はせらる、其数左に註す、
米五百石二十余 籾五万八千〔百イ〕九十石余
栗二千百三十石余 大麦四石二斗
蕎麦四拾二石余 銀二十貫目余
銭一万四百九十三貫文余
右天明癸卯甲辰両年分
【 NDLJP:111】斯くても、兼ねて田畑抔も持たざりける者は、猶さまよひければ、国府の傍、白河の辺に、仮屋
【蚕業獎励】一、此国の民は、昔より蚕飼の業に疎かりければ、宝暦十年の頃、領内に申触れて、桑を植ゑさせ、蚕飼の事を勧めらる、されども糸を取るべき術を知らぬ者多かりければ、繭にて持ちて参らん者には、価を給ふべしと申触れ、城下の市中に、糸取り機織る所を定めて、やう〳〵見習ふ様にし、又島已今とて、本は志賀小左衛門といひし侍、今は致仕してありけるが、兼て此道に志ある由を聞召して、事の様委しく伝へて来れとて、京へ登せらる、巳今、京より近江に下りて、織工をも召具して来りぬ、其後又糸を採る事に、堪能なる女を三人迄、近江より呼下して、国中の男女に、其業々を学ばしむ、されども城下より遠き所の者は、なほ習ふに便なからん事をおぼして、折々已分を差週して、今日へさせらる、かくまで御心を尽されければ、今は領内の者、遍く此業を知りて、営む事になれり、
一、領内の山々を司る者、木を植うべき由は、昔より掟ある事なれども、年々に伐取る事は繁く、植うる事は、自ら忽せなりしに、水足五郎兵衛重房といふ侍、兼ねて栽培の道に委しかりける由聞召して、是に命じ給ひければ、絶えず打迴りて、其土地相応の木を植ゑさせ、養ひ育つる道まで、細やかに教へ諭しければ、皆よく茂れり、又城下より始めて、道端・川岸などにても、聊かの空地あれば、楮・櫨などいふ木を植ゑさせ、夫々の役人を立て、司らしめしかば、年々に生ひ茂りて、国用の助けとなれり、
【重臣の家来の不法を取締る】一、おとな達、家にて国務を沙汰したりし程は、そこの筆役などいふ者、いたうしたり顔にて、君の家士の進退をも、己が手に握りたる風情して、内々は財をも貪りしに、かく改正ありければ、さる事ひし〳〵と已みたり、又其頃は、其家の下部迄も、勢ひ猛に振舞ひて、人の煩となりしを、おとな達、心憂き事に思ひて、宝暦九年、時の奉行に示し合せて、国中に申流しゝ事あり、左に記す、
御家中家来々々、諸事相慎み候様、主人々々より申付けらるゝ儀は、勿論の事に候、別して御家老中・御中老は、御役柄の儀に付、家来々々へも、兼ねて稠しく御申付、之ある事に候へども、間には心得違の者も之あるべく哉、外向にて【 NDLJP:112】の儀は、右屋敷々々へは、相知れざる儀も之あるべく候条、右家来々々、町・在、其外にても、万一法外の事之あり候はゞ、下々は勿論、刀差したりとも、総べて用捨なく、其筋に随ひ、手強く取計ひ、事により候ては、其所に押へ置き、如何様にも取計ひ、右屋敷々々へ知らせ候はゞ、早速役人罷出で、引取り申すにて之あるべく候、其外軽き事たりとも、相替る儀之あり候はゞ、善悪によらず、其所の役人方より、内々知らせ申すべく候、御役柄と申し候ても、其役人、遠慮仕るべき訳は、之なき事に候、此段内意申達し置き候間、支配々々へも、寄々知らせ置かるべく候事、
【農事の妨害を慮りて禁猟の期を定む】一、鷹野を好み給ひて、御庭にも、所々に鳥屋をしつらひ、朝夕玩び給ふ、されども狩に出で給ひても、稼穡の妨となりなん事を恐れ給ひて、御供の者共をば、本道を打たせて、近習僅かを召具せらる、夫も必ず畔伝ひして、仮にも田畑の内に、入るまじき由、又本道を打つ者は、待遠にあらざれば、其処の村、彼処の小屋に、休らひてもあれよかし、但し茶一椀にても請ひたらん所は、必ず代を与ふべしと、深く戒め給ふ、無下に間近く渡らせ給へども、耘る者変らず、耕す者已まず、道に行き遭ひ奉りて、君とも知らず、行き過ぐる者もありけれども、狩装束は主従同じ様なれば、誰とも見分かぬこそ理なれとて、物咎めし給ひし事、一度もなし、又春の物伸び立つより、秋の実り苅り納むるまでは、川添ひに鷺など羽合せし、粟の穂風に鶉など打ちしきるをも、皆余所に聞きなして、立寄らせ給はざりき、されば此事家中にも制し給へば、宝暦十三年、老臣申触れて云く、
春作生長の頃に成り候はゞ、鷹野の網懸け等に罷出で申すまじき旨、仰出さるる趣、相触れ候通りに付、此節に至り候ては、何れも罷出で申さゞるにては之あるべく候へども、作方の障をも思召され、太守様にも、此節は御出で遊されざる御事に付、弥〻以て右の趣承知奉り、鷹野の網懸けに限あらず、張網等にも罷出で申さゞる様、触支配方へも達せらるべく候事、
三月十一日
一、国侍の江戸に勤番せる者には、月々の扶持米を、時の価を計り、金子をもて給び来れるを明和〔宝暦イ〕六年の頃よりは、此国の米を運漕して、給はる事になれり、凡そ人の情、事の改る際は、うけがはぬ習なれば、初めは兎に角に呟く者もありけ【 NDLJP:113】るに、君卒去の後、天明七年、米の価騰貴して、江戸殊更に甚しく、飢に臨む者もありて、物騒しかりけるに、此家中のみぞ、其憂なかりける、さてこそ君の遠慮の程も顕れ、有難がりし事なりけり、
【家中知行の者に遍く馬草料を課す】一、侍の乗馬持ちたる者は、其所領に仰せて、馬草の料を納めさする諚なりければ、所領少き者は、民の煩とならん事を、いたはり思ひて、心ならず馬をも飼ひ置かぬ者多く、百姓共も、また己が主の分限に随ひ、料を出す事均しからず、又新に馬を求めたらん人の所領は、昨日までなかりし事の、俄に出て来にければ、心感しけるに、明和八年の頃より、遍く国中に沙汰し、家中の所領の者には、少しづゝ此料を出させ、夫を勘定役の者請取りて、馬持ちたらん侍には、年の八月・十二月に分ち与ふ、所領の高に合せて、馬の数も定ありけりとぞ、斯く改めて、諚ありけるにより、小身の者も、心安く馬を飼はせ、民も煩なかりけり、凡そ斯様の物、押渡して出すべき程定りければ、民も兼ねて其支度をして、愁訴もなし、野路の時雨の、所をわきて、俄に降り来らん様なるは、立寄る蔭なき心地して、民の煩、大方ならず、かゝる理を、深く知らせ給ふにこそ、
【幕府より天草警備の命を受く】一、明和六年九月、台命を松平右近将監武元君伝へ給ふ、其詞に云く、
揖斐十太夫当分御預所、肥後国天草郡の儀、離島に付、唐船漂著等の節、其人数・船等入用の砌、且つ御用に付、十太夫渡海致し候節、往来船等、同人より申達次第、差出され候やう、心得らるべく候、尤も平日さし出し置かれ候に及ばず候、
以上、
君謹んで領掌あり、速に家中に申触れ給ふは、夫れ武士たらん者、其程々に随ひて、物具・打物など、誰かは備へ置かざらん、然れども治れる世の習、家の子・郎等まで、出立せんには、事足らぬ者なきにしもあらざるべし、異国の船は、今もや漂著せんずらん、斯かる仰を蒙ぶりては、片時も油断すべからず、速に用意仕れ、然れども家貧しからん輩は、思ふまゝには、力に及び難き事もありなんか、さあらん際は、用途与ふべし、但し弓矢執る程の者、武具全たからざる由、若し顕して申さん事は、深く恥だ思ふべければ、其組の頭、密に承りて、取計ふべしと、世に有難き御情に、皆々勇み立ち、馬の口取、陣具運ぶ雑人に至るまで、思ひ〳〵に支度しぬ、さて用意調ひたらん者をば、かつ〴〵名乗らせて、著到に記す、明くれ【 NDLJP:114】ば、明和七年より始めて、年毎に一備宛、此手当を定められたり、遥に程経て、天明三年、天草郡を島原城主に御預ありて、今は此事を已むべかりしを、治平久しき世には、武備疎かに成り易し、猶此年月の旨を守れと有りしかば、今以て怠らず、
一、家中の番方数百人、其外に組々の指物の事、先々は人々私に弁ふ定なりしに、斯くては、均しからぬ方も有りなんとて、明和七年、悉く公物をもて制せさせて、一人々々に授け置かる、若し組替り、或は死などすれば、速に組頭受取りて、奉行所に納む、是より組々の差別も著しく、且は事厳重になりて、人々の心も怠りあへず、又此家中には、昔より軍令の宝螺を吹く者を定めず、時に取りて、傾内の修験者などを用ひらるべしと、聞えけれども、今は山伏共、其道捗々しく得たる者なかりしかば、家士横田勘左衛門景一とて、兵学に達したる者に命じて、先づ山伏に其式を伝へ、夫より歩小姓に教へさせられければ、堪能の者余多出来、始めて貝吹の役を置かれたり、是等は皆治世に武を忘れぬ設なるべし、
一、明和七年の頃、熊本城下度々火起りしかば、物頭に命じ、組の歩卒を引具し、火を防ぐべき出立して、夜昼となく打週り、盗賊風情の者あれば、問ひ詰り、搦め抔しければ、城下火も鎮り、盗も少なくなれり、是より定例として、物頭の内にて、三人づゝ選びて、其年此役を勤むべき由を、必ず正月十一日に命ぜらるゝ事になりて、今もしかなり、又衣服の制度を犯せる者をも、此後より糺問せしかば、法令能く行はれたり、
【天明二年の倹約令】一、飲食を非し給ひし事は、又世に類あるべしとも覚えず、天明二年の頃、家中に倹素を勧むとて、老臣達申伝へたる事あり、左に記す、
諸事質素に相心得べき旨は、兼ねて仰付け置かれ候通りに候処、今年は非常の不作に付、四民共に困窮の手柄に付、弥〻以て稠しく、勘略仕り候様仰付けらる、左の通り、
一、平日の飲食、奢がましき儀は、之あるまじく候へども、此節は猶又心を附け、勘弁之あるべき事、
一、年始・五節句、其外祝事に付、一類中集会候とも、吸物看二種、料理は一汁・二菜を限り、酒宴長ぜざる様、致さるべく候事、
【 NDLJP:115】一、平日の出会、以て軽く致し、酒宴がましき儀、一切無用の事、
一、衣服の品、弥〻質素相心得らるべく候、御制度を相守られ候上は、子細之なき事に候へども、其内にも品を択び、著用の輩、間々之あり、小禄の面々は、猶以て不都合の至に候条、家来々々の衣服ども、急度其心得あるべき事、
一、音信・贈答、親類の外、一切無用の段、先年相達し置き候通り、弥〻堅く相心得らるべく候、旅行の節、銭別・土産も同前たるべき事、
十一月
右に添へたる覚書あり、
【重賢自ら粗食に甘んず】一、太守様召上がられ物、朝御膳は御茶漬の飯・御香の物・御焼味噌・梅干の類にて召上がられ、御料理物は申すに及ばず、御汁も召上がれず候、
一、夕御膳は、御一汁・御一菜、
一、御夜食前、御吸物の外に、御有合の軽き御肴一種にて、御酒召上がられ、御夜食は御香の物・御焼味噌等なり、
右の通りの御様子は、当時の御規定にて、御保養の為にも、在らせらるべく候へども、兼ねて飲食の奢侈を御意遊され候に付、御誠旁〻の思召にも在らせらるべく、有難き儀に御座候、恐れながら、右の御様子、御家中の面々は、申すに及ばず、末々に至るまで、存じ奉り候はゞ、分々の心得にも、相成るべく候に付、今年手柄の儀、彼是組々へも、急度寄々申聞け置かれ候様存じ候、以上、
又一年、天下凶荒して、家中の扶助など、例の様にあらざりける頃、朝の物に、例の味噌・香の物参らせければ、其内一品を取除け給ふ、御前に侍ふ者共、倹約も限りは有るべうもや候ひけん、夫までは余りにやと申しければ、いやとよ、今程は家中の者共、難儀たらんに、せめては斯かる事をもして、艱苦を共にせんと思ふなりと、宣ひしぞありがたき、
【 NDLJP:116】銀台遺事 夏【篤行者旌表及ひ敬老の典】一、忠孝を賞せらるゝは、珍しからぬ事なれども、君入国の初め、先づ善良の民を尋ね、孝子・忠臣より、勤業の者に至るまで、其程々に随ひ、恩賞ありしより、風移り俗易り、恩賞に与る者、年々に多くして、四十年計りの間に、殆ど六百人に及べり、中村忠亭といふ者、其行状を書綴りて、肥後孝子伝前後編として、世に流布せしかば、爰には略す、又年老いたる者を、殊に憐み給ひて、士にもあれ、農商にもあれ、齢九十に満つる者あれば、其人の品に随ひて、衣服・金銀の賜物あり、又百歳以上は、年毎に之を賜ふ、初めは年々六月、此事行はれけれども、夫までは又半年なり、老木の風を待たぬ例もあれば、命の内にこそとて、総べて正月十一日を、定例となされたり、又一年、関東にて尚歯会とて、七十歳以上の人を招ぎて、終日饗応あり、御内の者共、其齢なるをば、皆々召して酒賜り、三井孫兵衛親和とて、その頃高名の能書あり、是も七十余なりけるに、寿字を篆文に書かせて、夫を蒔絵にしたる杯を、万歳杯と名付け、各引出物として、下賤の者には、金子に此の日の駕の料まで添へ賜ふ、扨又御内には、女の其齢なるをば、小君の許に召して、同じ様にもてなされたり、御客
有馬備後〔筑後イ〕守殿七十九歳 柳生〔沢イ〕播磨守殿八十二歳 津軽良〔蘭イ〕策老七十六歳 森宗乙老七十二歳 森雲禎老七十一歳 戸田五助殿七十九歳 水上楠左衛門殿七十三歳 林宇〔森卯イ〕兵衛殿七十一歳 寺田〔町イ〕百庵八十三歳 三井孫兵衛七十八歳 高安是竹七十三歳 馬場孝〔存イ〕義七十三歳 谷口桜川〔八イ〕七十九歳
家臣
成瀬尉内八十一歳 野坂源助七十六歳 遠山瀬兵衛七十二歳 奥田五郎助七十一歳 桂助四郎七十歳 蒲野文助七十九歳 白井平治七十九歳 吉沢要助七十二歳 林庄五郎七十二歳
雑人七人
【 NDLJP:117】五郎兵衛 喜左衛門 甚四郎 平吉 喜右衛門 半兵衛 弥右衛門
女十九人
【賦税を軽減す】一、民に賦・税の二つは、古へよりある事にて、式・令にも、租・庸・調など沙汰せられしにや、されば当国にて、賤き詞に、懸り物といふは、賦の類にやあらん、其品数多ありけるを、君聞召して、民の苦みは、賦の重きによれり、いかにもして、れを軽くせよとて、有司に仰せて、兎角に計らはせ、三品まで除かれたり、其米一年に一万五千石計りなり、斯く云へば、聊かなる様なれども、宝暦四五年の頃、此賦免されて、君卒去の天明五年まで、三十二年計りの間、其高を算ふれば、四十五万石余なり、猶ほ行末は計なかるべし、又郡代の職務に用ふる料紙・筆墨は、其郡の民共、弁ふる定なりしを、安永七年よりは、其料を皆国府より下し賜ひて、聊かも民よりは出さしめず、是も年毎に銭三千貫計りの物にやあらん、又田に虫多く生じて、笛を損ふ年は、鯨油を遍く配り与へて、それを田に差して、虫を除かしむ、其料も又幾許ぞや、是等の物、自ら領内の民を潤して、春雨の普き恵の如し、民草の生ひ茂るも、宜べならずや、
一、稲の未だ熟せざるに苅取りて、
【凶作地の徴税】一、民の租税を納むる事、年により所によりて、実り好からずして、定式のまゝに、事行くまじきは、検見を望み申す事あり、此検見こよなき大事なり、聊も辛ければ、民苦み、余りに弛みぬれば、民怠る、鳥の子を握りたらん様なるべしとぞ、されば君の御代に、様々御心を尽されて、見積り・
一、民の家宅は、地の善悪によらず、なべて其渡りの上田に準へて、賦税を出す習なりしを、古は一夫毎に五畝の宅を与へきと聞く、さまでは叶ふまじきが、せめて其地の程に随ひて、物を出させてよ、過分に責取らんは、勝れたる不法なりとて、此御時より、制を改められたり、
【租税滞納者の処分を緩にす】一、いつの頃よりか、此国の民、年貢合期せざる者は、所の庄官、其親族を召捕りて、永牢といふに入れて、責めはたる習なりき、其牢の様こそ、むげに痛はしかりつれ、四方に埓を厳しく結ひ迴し、内に膝を過ぐる計り、水をたゝへたり、通税の民あれば、其父母・妻子を是に籠めて、水の中に立たしむ、厳冬の頃なれば、雪の夜、霜の朝、堅氷肌を貫きて、かの紅蓮・大紅連の苦みも、是にはいかで勝るべきと覚えたり、斯く老いたる親、幼けなき子をさいなまれて、主は涙に暮れながら、富家に向ひて、手を摺り、物を借り求むるなど、申すも胸潰るゝ有様なりき、君此由を聞召して、大に驚き給ひ、思はざりき、我国に、さまで惨酷の事あるべしとはとて、速に仰せ流して、永く此事を停止し給ふ、斯かりけれども、民の貢は中々滞なく、いち早く納めけり、爰に知る、民を責めさいなむは、愛しいとほしむに如かざる事を、
【殿様祭】一、仁愛の御心を以て、仁愛の政を行ひ給ひければ、民の竈も、年に増して賑ひ、誰勧むとはなけれども、宝暦の中頃より、家毎に殿様祭といふ事を始めて、年に一度必ず仕けり、古の紀伝博士共が、いかめしく申伝へたる、生祠などいへるも、かゝる類にやと覚えぬ、其祭、定れる日はなくて、たゞ己が暇あるべき程を計りて、一里示し合ひ、餅を搗き、酒を作るなど、其身の程に随ひて営み、それを神に奉る如く供して、其日は、一里の者、己が業をせず、酒呑み歌ひて、此君に御代に、生れ合ひたる身の悦を述べ、一日の楽に、百日の労を慰めけり、
【能く人を用ふ】一、或国の主、年若くおはしましゝが、召仕ふ者をば、いかに択び候はんかと、問ひければ、別の事も候はじ、我物好を立てず、人の善しと申さん者を、私なく用ひ給うべうもや候はんと答へ給ふ、常にも、誠に善からん人をば、我は天に誓ひて、捨つまじと、思ふなりと宣へり、斯かる御心ばへなればこそ、遍く人の器用を尽【 NDLJP:119】されたり、たとへば、藪市太郎安といひつる者などは、堅固の
【竹原玄路堀勝名を推薦す】一、君御家継がせ給ひし初に、いかでさるべき者を得て、家中の仕置をも任せてんやと、思ひ煩ひ給ひける頃、竹原勘十郎玄路といふ者ありけるが、堀平太左衛門勝名こそ、其任に叶ふべき者にて候へ、とく〳〵厚禄を与へて、挙げ用ひ給へと薦む、又或者今一人を薦む、君も内々は、今一人の方に、御心引かれけるを、玄路あながちに執し申しければ、御気色損じて、つと奥に入らんとし給ひけるに、御袖を控へて、諫め奉りし事、二度までありければ、終に玄路が申すに任せて、大奉行といふ職になし、政事を任せ給ひしより、年月につれて、其績顕れ、世に誉ある国となれり、之をや管仲・鮑叔といふべき、此玄路が先祖竹原下総惟政までは、当国阿蘇の累代の家人にて、侍頭たりけるが、天正の頃、阿蘇と相良との戦に、嫡子勘五左衛門惟房と共に討死す、惟房が子上総宗守、故あつて阿蘇の家を退き、薩摩の国に往きて住む、文禄四年、幽斎君、豊臣家の仰を受けて、薩摩に渡らせ給ひし時、島津義久入道龍伯の御許にて、連歌ありけるに、宗守が嫡子市蔵惟成、齢僅に八歳にして執筆し、勝れて利根の者なりければ、幽斎君、御あるじに請ひ受け、召具して丹後国に帰り、所領百石たびて、側近く召仕ひ給ふに、万に賢かりければ、天下に隠れなき幽斎君の歌道を、此者に伝へ、書札式をも教へて、常に代筆とし給ひ、又武田宮内少輔信重主〈幽斎君実方の姉婿、此主より弓馬の故実、御当家に相続せらる、事長ければ略す〉の弟子に付けられて、弓馬の故実、残りなく受け伝へ、更に仰を受けて、伊勢流の仕付方を一色一遊斎に学び、庖丁の術を大草氏に学ぶ、皆奥儀を極めたり、所領加へ賜ひて、二百五十石、後には致仕して、墨斎と号し、玄可と名付く、夫より此方、右の品品の道をも禄をも伝へて、玄路まで六代に及べり、玄路家の道は云ふに及ばず、才学もありて、世に多能の者なりければ、君の御時、用人になされ、参観の度毎【 NDLJP:120】に、必ず召具せられ、総べて御側に恪勤せし事三十年余、賢を薦めては、上賞を蒙るといふ本文によらば、更に殊なる加恩もあるべきに、役料こそ千石にも満ちぬれ、所領は、僅に二百石を加へ賜ひ、合せて四百五十石のみにて、君の御代を過しつるは、如何なる故なりしぞと、いぶかる者もありけれども、始めて勝名を薦めける時、玄路申上ぐる子細ありて、後まで加禄を辞し申したりとぞ、其人今猶ほ職にあれば、例の委しくは記さず、
【善く臣下の諫言を聴く】一、明和七年冬の頃、君の寵臣、聊か不正の事ありければ、罪し給ふべき由、家老・奉行抔申しけれども、御許なくして、其年も暮れぬ、法は人によりて抂ぐべからず、あながちに申行ひなんとて、明和八年正月十一日、奉行職の者、朝とく参りたり、其朝しも、夜深く鷹野に出て給ひて、辰の刻計りに帰らせ給ひ、未だ御湯をも引かせられぬ程なりけれども、近習の者に就きて、某御旨伺はんとて、参りたりと申させければ、御前の人を除けて、とく〳〵と召す、奉行則ち事の由を申しけれども、猶受ひき給はざりければ、一向諫めて、御詞にあらがひ奉る事余多度、終に申し叶へて、御前を立ちけるに、今日しも、御具足の鏡餅参らすべき次の間には、近習の者共、膳具居ゑ並べて、評議の終るを、今や〳〵と待ち居たる風情を見て、打驚き、日影を見れば、はや午の刻計りなり、御鷹野の帰り、夫まで朝御膳をも参らざりげれども、怒り給ふ色、倦み給ふ色も、見えさせ給はざりきとぞ、
一、治れる世の習、君と臣との間、おのづから遠ざかりて、国の老臣抔は、君の御前に、召さるゝ事も間遠になり、側近き用人などいふ者、御旨を受けたりとて、万の事を取計ふこと、諺にいふ、虎の威を借る狐となりて、思ふまゝに振舞へども、君のあたり近きを恐れて、制する者もなきを、社の鼠に譬へたるは、唐も大和も同じ程の事なり、君深く此禍を恐れて、仕置の事、近習・外様の隔なく、皆老臣に任じ給ひ、月に六日宛、用日と定めて、家老を始め、奉行・目付・郡頭・勘定頭など、替る〴〵御前に参りて、其職々の事を、直ちに申して、御旨を受く、又近習の者には、側近く召仕ふとて、外様の者に、無礼すべからずとて、朝夕戒め給ひければ、何れも恐れ慎みて、虎の威を借るべうもなく、社の鼠の議も絶えて、政の筋乱れざりき、
【 NDLJP:121】【家士の等級を分つ】一、朝廷には、位階・官職の筋を分けられて、官位相当せざるは、位署にも、行・守と申すなど、密に承り及びぬ、夫に準へ云ふべきにはあらねど、一国一家の内にても、役と席との二つは、さすがに定められずしては、事整ひ難かるべし、されば此家中には、家老侍頭抔の役席の外は、昔より大概段別を四品に分つ、著座・物頭・平士・軽輩といへり、君の御時に、夫が中の等級を分けて、著座に上・中・比あり、物頭は、元来足軽五十人の頭より、十人の頭まで次第す、平士は、所領ある者と、中・小性といふ者と違あり、之を大概にして、軽輩まで、程々の等級を定めらる、其役を命ぜられて、其席に就くは、常の事なり、或は席上りて役下り、或は役上りて席下り、又は其職に適ひたる者は、役を易へずして、席を進め抔せられしかば、選挙の道自在にして、大方は其人其職に適へり、又役によりて、本役・副役あり、権・正といはんが如し、更に当分役あり、仮に其役に付けて、器用の程を試み、適はぬをば除き、適ひたるは、五十三年を経て後、定に命ぜらる、唐土に摂真の沙汰あるが如し、
一、朝鮮の者の、我朝に聘使たらん用意を書きたる、日観要考といふものに、我国の事を評して、痒序もなく、四礼もなし、良知ありとても、いかでか道を弁へ知らん、士・農・工・商の外は、医を上とす、僧是に次ぐ、儒を末とす、たとひ祭酒たらん人も、尺寸の地なしなどゝ、飽くまで、あざみたるは、我朝の風を知らぬ夷共、己が国に引較べて、口に任せて、荒涼云ひ散らすとは、思ふ物から、いはゞ云ひぬべき節なきにしもあらざるべし、然るに当国には、学館を建て給ひける事は、先に申したるが如し、【時習館教授】前教授秋山定政、一名儀、字子羽、五山と号す、高名の者なり、君殊に寵遇ありて、関東参観の度にも、必ず召具しなどし給ひて、ひたすら教育すべき暇もなかりき、斯くて宝永十三年、身まかりにければ、藪茂次郎といふ者を、教授となし給ふ、茂次郎、名懲、字子厚、朝陽・孤山と号す、先に申しつる市太郎が弟なり、父を久左衛門弘篤、号を慎庵といひき、同時に大塚丹右衛門久成、号を孚斎、致仕して退野といひし者あり、此二人、心を合せて、程朱の学を研究して、頗る精奥を極めたり、其文集を慎庵遺稿とて、世に梓行す、茂次郎兄弟、幼きより、庭訓に習ひ、家学を伝へ、教授になりし時は、年未だ三十に足らざりき、是より学徒弥〻盛にして、余所の国より来りて、物学ぶもの多かりしかば、君の老臣計ひて、【 NDLJP:122】教授が許に塾を建て、遊学のものを居ゑたり、隣国の教職・儒臣、此門より出てたる者、数多ありき、此家中の例として、本家ありて、別に子弟を召仕はるゝ者は、所領を賜はぬ習なれば、懲にも、年毎に廩米五百俵をたび、物頭の一に座せしめたり、君卒去の後、猶加へ給ひて、六百俵、番頭格とぞ聞えける、其次に助教あり、訓導あり、皆程々に随ひて、所領を賜ひ、物頭格にもなれり、句読師は、専ら其役なるものあり、又は番方とて、暇ある侍共の兼帯にもし、遊倅をも加へ用ひらる、今の世の習はし、儒者を家業としては、
【米田松洞】一、米田波門是著は、芸能多きものなり、弓馬・軍術、皆奥儀を極め、殊に幼きより、学問を好みて、詩の道を南郭に学び得て、其名高し、君命じて家集を梓行せしむ、四時園詩集とて、世に流布せり、書画・印篆まで、人に勝れ、しかも心静にして、極めて無欲なり、長岡助右衛門是福とて、一万五千石領せし、譜代家老の弟なりしを、例の二千俵賜ひて、中老までなされたり、年若き程に、妻を失ひて、二度要らず、唐の王維などが風情してぞ有りける、君も又なきものにして、御覚え浅からざりき、歳既に六十に過ぎぬれば、幽閑を楽まほしとて、わりなく致仕を望み申しゝかば、憖に許し給ひ、家をば其子に嗣がせて、猶老を養ふ料とて、八十人扶持賜ひけり、かゝりし後は、みづから松洞と号して、西山のほとり、水石をかしき所に、幽棲を構へ、避竹園と名付け、風に吟じ、月に嘯きて、春秋を送り、城下も頓て見渡す許りの所なれども、年を経ても出でず、節々の屋形の慶賀も、人して申させけり、助右衛門妻は、君の御妹なり、其許に渡らせ給ひける時、あながちに召しければ、辛うじて参りたり、君打見させ給ひて、いかにやいかに、汝は誠の隠居にてありけるよと、繰返し讃歎し給ひて、上段なる所に召す、恐をなして、登らざりければ、いや、仕へてありける程は、さもありぬべし、隠居の身なれば、我上に座したりとも、何か苦しかるべきとて、強ひて御側に召して、盃たび、のどやかに物語し給ひ、興じ給ふ事斜ならず、其時、詩の続集を参らせよ、梓にも
【宝暦五年の洪水】一、宝暦五年、当国の洪水こそ、夥しかりつる事なれ、六月朔日より降出したる雨の、篠を束ねて、衝くが如く、九日まで、をやみだにせず、川々の水、皆溢れけるに、蘆北郡の瀬戸石山とか、忽ち崩れて、球摩川を堰き留めければ、川浪逆巻きて、山をつゝみ、陵に登るといへる、古への様、眼前に見えける程に、やがて其堰押流し、一時に川下の方へ打出でければ、八代の萩原といふ所の堤数十町、忽ち切れて、田も畑も澪になり、神社・仏閣を始め、数多の人家流れ失せ、溺死する者数百人、目も当てられぬ有様なり、今年は君東にまし〳〵ければ、急ぎ其由を註進す、君則ち公儀に言上し給ふ、其状に曰く、
私領分肥後国の内、六月朔日より同九日まで、追々強雨・洪水・山崩、損毛破損の覚
一、高廿三万〔七イ〕五百六十余名 潮入・石砂入・洗剥・山崩
此田二万〔七イ〕千七百五十三町余畑七千六百廿五町余
一、塩浜 九十七町五反
一、塩塘 三千四百十五間
一、川塘 十三万二百九十間
一、井手塘堤 八万七千八百九十九間
一、水除石垣 八百五十間
一、磧所 一万九千五十七間
一、水除柵 四千二百八十七間
一、山岸崩所 一万七千百四十三間
一、土橋 百五十五箇所
一、往還道筋 一万九千七百四十六間
一、井樋 百八十七箇所
一、流舟 百一艘
【 NDLJP:124】一、流失番所 二箇所
ー、右同社 二箇所
一、右同辻堂 八箇所
一、右同八代蜜柑木の内 二百四十本余
一、流家 二千百十八間
一、流木 三千八百廿二本
一、溺死男女 五百六人
一、怪我人 五十六人
一、溺死牛馬 五十八疋
右損毛破損の儀、水引候上相改め、国許留守居の者より申越し候、右損所、郡村の内、蘆北郡球摩川筋に之あり候、瀬戸石山、高さ二百間、横百五十間程崩落ち、川迎に之あり候山に、右の崩れ先、高二百間、横百間程突上げ、是又崩落ち、球摩川突埋め候間、洪水却て逆流仕り、水かさ三四十間程磧上げ小山抔は、山上を水打越え候程の水勢、半時余も右の通りにて、程なく右突埋め候所を洗切り、押落し候水勢、一同に川下に溢れ候故、塘上道幅十五間余、根張四十間程之あり候塘筋、悉く崩れ申し候、右は先祖越中守入国以後、遂に之なき損所にて、別して水先の村々、亡所に及び、溺死の者も多く之あり候由、註進仕り候に付、申上げ候、以上、
宝暦五年八月五日
やう〳〵水は落ちけれども、渺々たる曠原となりて、又もや雨降り、水かさ勝らば、其わたりの里人は、皆魚の餌となりぬべくぞ覚えたる、されば此堤速に築かずんばあるべからずと、老臣評議す、【稲津頼勝萩原堤を築く】抑〻此川は木綿柴川とて、世に聞えたる大河なるが、しかも球摩の高山より落ちて、流の急なる事、矢を射るが如く、萩原の堤は、其的に準へたれば、之を築き留めむ事、又なき大事なり、前国主加藤肥後守忠広朝臣の時、加藤右馬允正方とて、文武兼備の老臣、心力を尽して築き立てたり、今の世には、正方程の者あるべくもなし、如何せんと、案じ煩ひたるに、稲津弥右衛門頼勝とて、郡目付なりけるもの進み出で、其正方とても、鬼神にては候まじ、同じ人ならんには、夫がしたらん程の事、何条得せぬ事の候べきと云ふ、実に此【 NDLJP:125】男は言葉に恥づまじきものなりとて、君に其由告げ奉りければ、則ち頼勝に任じ給ふ、頼勝承りて、凡そ男女年十五以上、土を運び、石を負はん者には、皆銭を取らすべき由、郡中に申触れ、其強弱を三品に分つ、たとへば、
男 上 百五銅 中 八十四銅 下 七十銅
女 上 八十四銅 中 七十銅 下 五十六銅
右の定にて、日毎に与へければ、我も〳〵と、きほひ集る男女数万人なり、頼勝遠慮を迴して、水際より三四十丈こなたに、本の広さ二十丈余、頂四丈五尺程の堤を、数十町築きたり、斯くてこそ、いかなる大雨にも、水溢れずして、川添ひの里人も、夜を安く寝ね、思ふまゝに、農桑を営みたりけれ、此堤を築くとて、頼勝夜昼馳せ迴りて、下知をなし、かの門を過ぎて入らずといへる様なりければ、民も悦び勇みて、頓て頌を作りて、口々に歌ひ〳〵、土石を運ぶ、こゝに伊形庄助、名質、字大素とて、高名の詩作りあり、之を聞きて、詩経の雅頭の類なりとて、韻語に移して、湯々九章とす、既に楽洋集に入れて、世に梓行せしかば、爰には漏しつ、又ざれ歌に取なしたるものあり、左に記す、
いづれの年にか有りけん、卯月・五月の雨、久しく降り続き、萩原の堤崩れにければ、松江・城岡の里、皆淵瀬も分かずなりにけり、家を流し、身を流したる人、
いくら計りとも知らず、古へにも、斯かる例は、いと稀なる事になん、
熊川の水かさまさる五月雨にまつ江の城は沖のなかじま
熊川やゆふ葉のつゝみ水こえてなみのそこなる岡のべのまつ
たらちねの行方をとへばしら浪の八百の汐合に立ちさわぐみゆ
浪のうつ磯辺の蘆のあしも手もいはにくだけてふせる子はたぞ
ゆく川のこの水底はちゝの里ははのすみかと聞くはまことか
わたつ海のもくづとならばもろともに我も水泡とけなしものを
或は曰く、父母を流し、妻子を失ひ、或は、はらから、友達など流し、一方ならず、悲しめる人の心なるべし、
君聞召して、深く歎かせ給ひける余りに、誰か此水を治めてんやと、宣ひければ、稲津某が承りて、死ぬるを弔ひ、生けるを憐みつゝ、堤を築きて、田畑の荒れだるを正して、よく調へければ、民皆悦びて、神の如く、仏のやうにぞ敬ひけ【 NDLJP:126】る、則ち歌へる歌を、萩原堤築の歌といふ、其歌にいはく、
ともつきは堤築きなるべし、堤をともといへるは、此国の民の言葉にして、堤とも、ともとも、兼ねていへるになむ、
秋の田のいなづの神のなかりせば死ぬる命を誰か助けん
萩原のつゝみつくとや手弱女のはなずり衣まくり手にして
手勇女の我身にしあれどいくひ打ち石をも引かむ男によりては
あなたふと君は神かもほとけかも死ぬるいのちを救ひ給へば
萩原やつまこひかねてなく鹿の声聞くらんかつゝみつくいも
あはれなり妻恋ひかねて鳴く鹿の人目つゝみを中にへだてゝ
あけのたすき藍の前垂誰とだに知られぬ人をかけて恋ひつゝ
わきも子はけふも堤をつきはぎの衣たちぬふ暇やなからん
白糸のよるこそきぬをたちぬはめ堤つく日は幾日もあらじを
死ぬる命生としいへば仏ともかみともなどか仰がざらめや
けふ幾日くしげの小櫛とりも見ず身を八代のつゝみつくいも
うたの声きけばなつかしから衣たちぬふ手さへ忘れてぞきく
吾せこがらき思をなぐさめて甘きもらひを贈りてしがな
わぎもこが贈りし餅の甘ければからきしわざも知られざりけり
はね馬にねたき男を打乗せて心地よげにもおとしてしがな
しにもいきも君が心に任すれば神とやいはん仏とやいはん
今よりは紙子のてゝら身につけじ川し渡れば人わらへなり
稲津某の下司に、いと腹あしき男なん有りける、ともすれば、腹立ちて、杖を振立てつゝ、怒りけるに恐れて、歌を作れり、それが名をば、けにけちとなん呼びければ、歌の頭に置きて、
けはしくも昼飯くふ間もあらせじと杖振立てゝ怒る君かも
になひかね引きかねにける石よりも君がこゝろの角ぞ激しき
梳るともあぐるともなき黒髪のとけぬ恨はいふかひもなし
ちゝはゝの撫でし我身ぞあらちをの荒きたぶさの杖なふれそね
いなづの神といふ事を頭に置きて、
【 NDLJP:127】 いたづらにしぬる命を永らへて嬉しき世にもあひにけるかな
なみの上磯辺のつゝみ今よりは動かぬ国のかためにぞつく
つゝみてふ堤はあれど嬉しさを袖につゝむはこれのはぎ原
のゝ末に山のきはみに住む民も皆おり立ちてつく堤かな
かみつ瀬の清き流をくむからに心濁れる民はあらじな
みつぎものまたとゞこほる秋もあらじ耕す民の力つくして
斯くて民の力を尽しけるを、稲津の神いたく憐みて、公に、申して、御倉の銭を出して、民に与へられしかば、皆悦びて、此塘は、海山の石を引きもて、築きたれど、公の金の塘なりといへりければ、
うみの石山の土もてつくめれどつくは黄金の堤なりけり
塘築き終りて、松を植ゑられける時の歌、
山となる磯のつゝみに松植ゑて千年の末も波はこさじな
是は文字を合せたれば、歌めきたり、誠はあのや稲津様は、仏か神か、死ぬる命を助けさすなどとぞ歌ひける、此事終てゝ後、君殊に悦び思召され、頼勝にさま〴〵恩賞を賜りけり、或時の家の宴に、君自ら此歌を謡はせ給ひける由を、頼勝伝へ承りて、有難く辱しとて、涙をこぼし、老の後まで、之を思出にして、凡そ君の臣たるもの、此国に満ち〳〵たれども、まさしく其名を様と呼ばせ奉りしものは、恐らくは我のみならむと、人にも語りて、喜び合へり、此弥右衛門頼勝といひつる者は、世々三百石を領したる侍なりけるが、天性心猛くして、而かも智恵あり、隆徳院殿の御時、領内の租税滞りて、国用足らざりけるに、頼勝自ら薦めて、臣に此事を任せ給ひなば、三年の内には、裕になし奉らん、若し其時に至りて、申しゝ事違ひなば、腹仕うまつらんと、あながちに望み申しゝかば、郡頭といふ役になされけるに、みづから国中を打迴り、主官などの邪なる者を推問し、中にも咎の重きものを、数人搦めさせて、首斬りたりければ、其類の者共、雀の鷹にあへる如く、皆息を詰めて屈まり、今日は弥右衛門、此あたりに来べしなど聞えては、色を失ひて、
一、こゝに阿蘇大宮司といへるあり、神武天皇の第二の御子、綏靖天皇の御兄を、神八井耳命と申し奉る、天が下知ろしめさるべかりけれども、事の由ありて、御弟綏靖天皇に譲り奉らる、此命の第六の御子、健磐龍命、火の国の国造に下らせ給ふ、是れ則ち阿蘇大神なり、景行天皇筑紫巡狩し給ひし時、大神御夫婦、阿蘇津彦・阿蘇津媛とあらはれ給ひしかば、大神の御孫、惟人命に勅して、その祭を司らしむ、是れ大宮司の元祖にして、今惟典に至るまで、七十九代、連綿として絶えず、後奈良帝の御代までは、国郡数多領し、勅を受けて、内裏造営などをも仕うまつり、時の大宮司惟豊宿禰、従二位に経昇り、目ざましき事なりしに、天正の頃にや、従四位惟種宿禰、世をはやうして、世継の子、未だ幼かりし程に、世の乱打続き、家忽ち衰へて、矢部といふ山の奥に、身を隠し居たるを、前国主加藤主計頭清正朝臣、求め出して、形計り所領を寄せて、其家を継がしむ、かゝりけれども、さすがに皇別神孫の、類稀なる家なれば、代毎に、鷹司殿の執奏にて、五位より進みけるに、今の曽祖正四位友隆宿禰、久しく都にありて、馴れ睦びける故か、吉田兼連の執奏にて、叙位せしかば、其後何となく、世の常の社司・
【勉学】一、若くまし〳〵ける程より、学問を好み給ひ、常に書籍を遠ざけ給はず、狩に出で給ふにも、必ず斎しむ、日毎に朝御膳済みては、必ず書を御覧あり、又月に六度の会業ありて、近侍の人々を召しつどへて、読み給ふ、凡そ会読は、予め読み置きてこそ、其甲斐もあれとて、下見といふ事を、一度も怠り給はず、されば御身一代に、会読ありける書籍、経史子集数百巻に及べり、其内論語・詩経・書経・左伝・漢書などをば、繰返し数多度読み給ふ、若し会の日、障る事あれば、必ず日を易へて、六度の数を満て給ふ、又其書の難儀をば、皆考へて、手づから書き加へ給ふ、【 NDLJP:130】今も文庫に手沢の残れる書、数知らずありとなん、
一、経書を尊み給ふ事、殊に深く、仮にも畳に置き給はず、常に諸々の書を堆く積み置かるゝにも、必ず経書を上に置かせらる、又すべて巻の次第を乱さず、積ませられしな、近習の者、闇き夜にも、
【服部南郭重賢に仕ふ】一、詩を好みて作らせ給ふ、遺稿数巻あり、楽洋集にも聊か載せたり、御年若くまし〳〵し時、服部元番・高野蘭亭など召して、詩会度々ありき、此人々をば、先生とて尊み給ふ様、唐土にいへる、布衣の交の例などにやと覚えき、殊に元喬は、詩のみにはあらで、万の事をも問ひ謀らひ給ひければ、贈㆓肥後侯㆒序とて、心を尽して書きたるものなどもあり、其文集に載せて、遍く人の知る事なれば、こゝに略す、号を南郭とて、其頃天下に名高く、彼方此方にもてなされし者なり、身いたく老い屈まりては、世の交らひも、ものうしとて、いづくへも参らざりけれども、細川殿は、今の世の賢き国土にて、老をよく養ひ給へば、並にいふべきにあらずとて、唯此殿のみにぞ、絶えず詣で来ける、身まかりし後は、其妻子詫しき住居して、事問ふ人もなかりしに、君のみ有りし世の事忘れ給はず、常に音づれさせ、其孫のいとけなくてありけるに、五人扶持をさへ与へ、大輔殿〈治年公〉の召しおろしの御衣をも、年毎に賜りなどして、終には御家の士の養子となし給ふ、又蘭亭が娘も、はやく父に別れて、寄方なかりしを、小君の御許に召させ、憐みはぐゝみ給ひて、今は姆になされたり、
一、常に御気色さはやかにして、晴れ渡りたる空に、朝日の差出でたらんが如くなりき、一年、披雲閣の会集に、青天開鎮西と遊したるや、よく御気色に適ひぬらん、
【武芸に習熟す】一、御力強くして、武芸をもさま〳〵習熟し給ふ、中にも弓馬は、勝れさせ給へり、未だいとけなくおはせし頃、御厳父霊雲院殿より、附け参らせられたる侍に、木原惣兵衛正明といふ者あり、竹林流の射芸に達したりしかば、君十年余り、怠らず是に学び給ふ、漸々二十をも過ぎさせ給ひて、元文五年の頃、此惣兵衛、身にいたはる所ありて、職を辞し、肥後に帰るべかりしかば、君年来の名残を惜み給ひ、重ねて遭ふまでの忘形見に、手並の程をも見せばやとて、家士溝口三五といふ者を、手番にて、八寸的を矢数百五十射させ給ひけるに、百四十九筋当りて、た【 NDLJP:131】だ一筋ぞあだ矢はありけりとなん、惣兵衛、老の後は、帰雲といひけるが、常に此事を語りて、感賞し奉りき、又常には、七分五厘計りの弓を引かせ給ひけれども、誠には強弓にてまし〳〵き、其由は附録に見えたれば、こゝに略す、馬は大坪・解龍二流の奥儀を究め給ひ、世の馬乗とて、それを業にしたるものも、及ばぬ際なりき、
【動植物の学に通ず】一、猿楽・俳諧を慰にし給ふ、いづれも堪能なりき、又物産を知る事を好み給ひ、鳥獣草木の少しも様変りたるを、皆写し絵にせさせ給ふ、虫などは飼ひ置かせて日にそへて、変り行く様を御覧じけるに、果は蝶になるもの多かりけり、此図を躍淵海錯など、部類を分けて、数十巻もやあらん、されども斯様の事に付けて、財費し給ふ事聊かもなし、或時大名の訪ひ来給ひて、物語の序に、飼鳥の事になりしかば、重賢も形の如く好みて候、是に入らせ給へとて、奥の方に伴ひて、数多の鳥ども見せ参らせらる、次の日、其大名の許より、昨日は珍しき見物して悦び入り候、但し籠の余り疎かに覚え候に、折節こゝに候ひけるとて、美しき籠十二三参らせられたり、其籠は皆朱に塗りて、金を鏤め、色々の紐を著けて、心も及ばず結構せり、君御覧じて、御志の程、忝う候とて、使を帰し、頓て庫に納めさせて、一つも用ひ給はず、其後珍しき鳥求め出し候へども、籠の候はぬと申す人ありければ、此籠を取出して、三つ四つ給びぬ、其余は今も御庫にありとなん、常に我は鳥を飼ひ、草木を植ゑさせて、其様を見る事を好めども、籠と盆とは好まず、世には鳥よりは籠、植物よりは盆を好む人多きぞと宣ひき、是や櫃を買うて、玉を返すの譬ならん、猿楽し給へるにも、鳴物など、皆御内の者仕うつまり、其内には堪能もありけれども、其れによりて、勧賞かうぶりし者、一人もなし、たゞ文武の業を勧むる者は、御覚も深く、殊に御恩かうぶりしに事、前にいへるが如し、
【土木の冗費を節す】一、此君、土木の好み、聊かもましまさず、今其一つ二つを挙げて記す、傾内なみ野といへるは、方六七里計りの萱野なり、昔は筑紫野とて、武蔵野と、東西に名を並べたりなど、所の人は言ひ伝へり、君の参観には、いつも其野を行きかひ給ふに、暫し駕を停め給ふべき陰もなければにや、笹倉といふあたりに、昔より旅館を設けたりけるを御覧じて、御身一つの為めに、民を煩して、此館を建て置かん事、恐れある業なり、道行き疲れたらんには、芝草の上にて事足りぬべしとて、実暦四【 NDLJP:132】年、名残なく解き除けらる、又国府の屋形南面に、三階に作り重ねたる楼ありて、遠望勝れて佳かりしを、不用のものなりとて、同じ六年、毀たせらる、殊に国府より一里計り隔てゝ、水前寺村といふ所に、成趣園とて、致景勝れたる別荘あり、砌より清き泉湧き出で、やがて広き渡りとなり、舟をも浮べたり、向には、富士の形に、芝山を築きなどして、当国の内には、類なき所なり、君も此景趣をば殊にめで給ひ、政事の暇には、常にこゝに遊び、参観の道すがら、他所の勝景を御覧じても、わが水前寺には、いかゞあらんなど、宣はせしとぞ、かばかり執し思召せば、異所はいかにもありなん、此処計りは、造りも琢かれぬべう覚えけるに、思ひの外、昔よりありける広き別館を、皆毀たせ、たゞ酔月亭とて、聊かなる亭のありけるをのみ残されたり、それも水の上に、をかしく作り出したる所をば、毀たせられしかば、並々の人の心には、無下に浅ましくぞ覚えける、是に付けて、思合せたる事あり、一年、参観の道に、江州醒ヶ井に宿らせ給ひけるに、其宿いたく荒れて、詫しき所なりければ、大野万平といふ近侍の者、今宵の御宿のいぶせさよ、何とて斯かる所には、点じけんといふを聞召して、さな思ひそ、総べて人は衣食住の三つさへ足りぬれば、其上を願ふは、皆奢なり、衣は寒暑を凌ぎ、食は飢を止め、居所は雨露に濡れざる程にだにあれば足れり、今宵の宿も、それには余りあり、何かいぶせく思ふべき、兎にも角にも、人は奢を制すべき理、よく〳〵心得べしと、諭し給ひき、斯かる御心にてまし〴〵ければ、うべも峻宇彫牆の御好みなかりしなり、
一、国主の常に居給ふ所は、おほむね金銀珠玉をもて、飾もあるべう事なるに、この殿の有様こそ、思ひの外なりつれ、壁をば渋を引きたる紙をもて張らせ、畳の縁も、やがて渋布を用ひらる、欄間などいふ所には、雲閣・水紋などを彫らする事、常の事なるを、こゝには何のやうもなく、篠竹を間遠に打たせたり、一年、江戸龍口の館焼亡して、新に営ませられける時、客殿の柱などは、節なき材を選び、用ふべしと申す者ありしを聞召し、唯堅固ならん事を思ふべし、見懸けの麗しからん事を思ふは、よからぬ事なりとて、其選已みにき、又梯の下など、聊かも不用の所あれば、棚を
【衣食の冗費を節す】殿の御服の料は、都の呉服所にて選びて、上の品を奉らする定なりしを、君【 NDLJP:133】の御時、次の品を参らすべき由仰せ遣さる、君常には紬木綿をのみ召しけるを、御年老い給ひ、御病さへ著きぬれば、人々諫めて、やう〳〵世の常の縞などいふ類を奉りたり、それも垢附けば、洗はせて召しけり、
一、或時、関東にて、御身に等しき大名二三人伴ひ給ひて、君の別荘に遊び給ひしに、余所の
一、台所の一月の料を、兼ねて定め置かれて、若し其料尽きぬる時は、客人招請などをも、暫し留めて、更に倹約し給ひ、其定を越えぬ様にし給へり、
一、或時、大輔殿の方にて、御酒参らせられければ、是は能き酒なり、常に之を参らんは、過分にや候べきと宣ひ、暫しありて、さりながら、おことは鷹を好み給はねば、是程の事は許してもありなんか、我は鷹の費もあればと宣ひき、
一、御参観の程にてやありけん、或宿にて、夜になりて、例の様に、御酒参らせたるに、いかにして取違へけん、調味に用ふべき七年酒を参らせけれども、とかくの仰もなし、其残を近習に賜りて、始めて其れと知りぬれば、台所に其由告げけるに、膳部方大に驚きて、畏りて申しければ、いや、我飲みたるは、毎の酒とこそ覚えつれと宣ひき、
【家臣の小過を咎めず】一、江戸にて、雨の降りける日、登城し給ひけるに、御傘に参りたる者、過りて傘の爪を御ぐしに打当てたり、下城まし〳〵ければ、供頭、御前に出でゝ、今日の御傘の者を、いかゞ申付け候はんやと、伺ひければ、今日は常より時刻遅れたりと、【 NDLJP:134】覚えければ、急ぎ参りし程に、我過ちたるにてこそあれと宣ひき、又御鷹野にて、調度持ちたりし下部、いかにしけむ、転びて、調度を散々に打損ぜしかば、御気色いかゞあらんと、近習の者、恐れ〳〵其由申しければ、其転びたる下部は、怪我はせざりしやとのみ仰せられき、
一、御手跡は、初め細井文三郎、号を九皇といひし者、御手本参らせたり、藍より出づるとかや申すべからん、或時、水戸治保卿、此君の人となりを慕はせ給ふ余りにや、常に住み給ふ所の額の文字をあつらへ給ひけるに、辞退まし〳〵けれども、強ちなりければ、玄々亭と遊して参らせらる、其頃、かゝる事、是のみならずありけれども、請ひ給ふ方の御名も文字も、忘れたればかひなし、
【寸陰を惜む】一、寸陰を惜むといふ本文、常に宣ひ、暫しも徒にましまさず、御齢傾ぶかせ給ひても、日課怠らせ給はず、御内の者共、宿番仕うつまる程も、なす事なくてはあるべからずとて、書を読み、手習はせ、さる事も得せざる者は、せめて網を結ふ業をもせよ、猶已むには勝りなんと、掟て給ひければ、宿番する程も、皆己れ〳〵が業をしけり、
【学習の道】一、近侍の者共に、其事彼事を学べなど、仰ある時、性質さることに疎く、齢も程過ぎ候、今よりはいかでかなど申せば、さこそ思ふらめ、されども唯ひたすらに学び候へ、我も一切の事にさとからず、然れども人十度すれば、己れ百度すといへる理を思ひて、若かりし程より、物に怠らず、形の如く、勉めぬれども、今六十に余るまで、一として為し得たりと思ふ事なし、さりとても、猶ほ倦む心はなきものを、まして汝等は、行末遥なり、学ばゝ何事かは成らざらん、事を左右に寄せて、せざらん者は、憎さげなりと、常に諭し給ひければ、近侍の者共、齢の程をもいはず、諸芸を学びぬ、或時、何某といふ近習の者に、梳る職を命じ給ひけるに、其者、固より其事に不堪なりければ、辞し申しけれども、許し給はず、同職の者をも措きて、日毎に是れにのみ梳らせらる、一日の中に、
一、未だ幼くおはせし程より、昼寝し給はず、日長き頃などは、いたく疲れ給ひては、書をひろげながら、儿に凭りて、暫しまどろみ給ふのみなりき、馬召し給ふべき日など、昼の程、事繁くして、叶はざれば、
一、下賤の者を指して、われと呼ぶは、賤しき詞なれども、今はやむごとなき人も、自ら宣ひけるに、此君は仮にもさは宣はず、近習の者をも、必ず名を呼び給ふ、是は其初め、秋山定政が、我とは、自らを呼ぶ詞にて、人を指すべき詞に非ずと、諫め申しゝを、御生涯守らせ給ひきとぞ、
【馬を好む】一、馬を好み給ふ事、世に勝れたり、草飼・口取の様まて、委しく知ろし召したり、されども駿足を求めず、常に宣ひけるは、馬は乗る人だに能ければ、たとひ驚馬なりとも、其生付きたる程の業は出づるものなり、乗る人桃尻ならば、駿足も要なし、されば我は其馬の程々に随ひて、性分を尽させん事をのみ心とすれば、馬の善悪は、さまで思はずとて、代料二十両に過ぎたるをば、求め給はざりけれども、皆々足色をかしかりき、実にや人を仕ひ給ふにも、夫々の器量の程を尽させられたり、其御心の物にも及べるなるべし、
一、一年、領内柳水と云ふ所より出でたる馬を、頓て其名に呼びて、殊に愛し給ひ、参観に引かせられけるに、川を渡す所にも、船嫌せしかば、馬役・口取数多打寄りて、兎角しけれども乗らず、君御覧じて、初めに悪しく取成せば、永く癖になる物なり、そこ退き候へとて、御自ら口取らせ給ひぬれば、すら〳〵と乗りたり、斯かる業まで、何時馴れさせ給ひけるにや、人皆驚き合ひたり、
【善く養母に事ふ】一、静証院大夫人は、紀州大納言宗直卿の御女にて、隆徳院殿に嫁し給ひ、君の御養母にて渡らせ給ふ、御齢は同じ程の事にまし〳〵けれども、敬ひ仕うまつり給ふ事、誠の御母の如し、此国にまします年は、厳寒の頃、必ず御鷹の鴨を参らせらる、其鴨は腹を割りて、
【静証院の婦徳】一、右に申しつる大夫人、婦徳まし〳〵て、常に経書を好み給ひ、かたへの女房達には、密に説きても聞かせ給ひけれども、女の身にて、真名読み給ふ事、深く包み給ひて、御内の者にも、知らせ給はざりき、殊に慎み深くまし〳〵て、隆徳院殿失せ給ひし日に当りては、月毎に蔬菜をも参らず、又諸寺・諸社に代参とて、御内の者を遣されては、其者の帰り来るまでは、茶・烟草の類をも絶ち給ふ、初の程は其れと知る者もなかりけれども、度重りて、著しかりければ、女房達、いかなる御心にやと、問ひ奉りけるに、女の身にて度々物詣せんも便なければ、代を参らせたり、されば心計りは、自ら拝み奉る思をなすなりとぞ、答へ
一、安永九年秋の末、当国にまし〳〵ける頃、静証院大夫人、御悩以ての外の由聞えければ、君大きに驚き給ひ、急ぎ関東へ使者を参らせて、嘗薬の為め、罷下りたき由を愁訴し給ひ、従者共も、皆旅支度して、使者の馳せ帰るを、今や〳〵と待ちける折に、早や十月四日、かくれさせ給ふ由、告げ来りければ君の御歎、申すも中々愚なり、つれ〴〵と喪に籠り給ふ頃、御句に斯く、
枯蘆の塒も寒し夜の鶴
【静証院資給の金額を削減せしむ】くだ〳〵しけれども、此大夫人の御事、又思出でたる事あり、明和五年の頃、非常の事共、さま〴〵打続きて、国用殆ど乏しからんとす、此事等閑に打過すべからず、いでや主従艱苦を共にせよとて、今年より五箇年を限り、更に倹約して、君の御
【重賢夫人の婦徳】一、小君は久我内大臣通兄公の御女にて渡らせ給ふ、いかなる御事にや、御年盛にまし〳〵し頃より、御目を煩はせ給ひて、さま〴〵療治を尽させ給ひけれども其験なく、終に癈ひさせ給ふ、されども聊かもすさぶる御気色ましまさず、偕老の契違ひさせ給はざりしかば、小君も亦婦徳まし〳〵て、御自は日月の光をも、見奉らぬ御身とならせ給ふに、君未だ御子をも渡らせ給はねば、いかならん女を【 NDLJP:139】も、とく〳〵召し給へと、あながちに諫め聞え給ひければ、此井と申す女房を召して、此腹に御世嗣生れさせ給ふ、今一人は、かもんとて、女の童にて、幼きより、馴れ仕へ奉りける者の腹に、男子生れ給へども、三歳と申すに、世をもはやうし給ひ、幾程なく、かもんも身まかりにけり、此二人の外には、御側近く召したる女房もなし、さても世には、斯かる類には、禄多くたびて、栄耀を極めさする習もありけるに、君の此女房達を扶持し給ひけるこそ、得も言はず、
一、唐土にも、婦に長舌ありなど云へる如く、大名の側近く、召仕はるゝ女房は、口さかしく、人の上をも云ひ、果ては仕置をも、内々取計らふ例なきにしもあらず、君深く斯かる事を悪み給ひければ、此女房達はいふに及ばず、御内にさぶらふ者は、
【家臣の進退に就き婦人の容喙を許さず】一、君の御姉、或国の守の許に住み給ひけるに、年久しく著け参らせられたる片山何某といへる侍、一年君の御計らひにて、役を移さるべかりけるに、守殿、年頃馴れ仕へける者なれば、返し給はん事、心うくや思しけん、御使して、今暫くは抱へて置かせ給へ、妻にて渡り給ふ御姉君も、さこそ宣ふものをと、云はせられければ、君の御返事に、仰承り候、但し家士共の役は、器量を計りて、申付くる事に候、其片山は、此度の役に適ふべく思ふ子細候間、御旨に任せ難う候、抑〻姉君の宣ふやうこそ、心も得候はね、総べて女の身にて、国務の事、兎にも角にも、ないろひ給ひそとこそ、兼ねて諫め候ひつるを、いかでさる事宣ひつらん、重賢が身に取つても、面目なう候と、宣ひ遣されける、御
【重賢の兄弟姉妹】一、をのこの御兄弟は、隆徳院殿を始めにて、御身共に四人渡らせ給ひき、差次の御弟紀休主は、御心地世の常ならずして、はやうより引籠りてまします、季の興膨主は、御一族の家を継がれたり、御姉妹は数多まし〳〵けれども、かつ〴〵君に先立ち給ひて、関東に清源夫人、当国に寿鏡院の御方までに、見なし参らせ【 NDLJP:140】られしかば、本より友愛深き御心に、猶更他事なく思召しけり、一年清源夫人、此国の歌枕をも見ばやとて、下らせ給ひければ、君の御悦なのめならず、諸共に彼方此方に渡らせ給ひき、これや老らくの御思出なりけん、君の在国の程は、興膨主絶えず見参し給ふに、いかに寒き頃なりとも、君の御炉の辺には、さすがに恐れをなされければ、客殿の方に、火燵しつらはせて、休息の所と定め置かれたり、一族の家を継がれては、自ら君臣の類にて、疎しくもならせらるべきに、少しも御隔なかりし事、大方類なかりき、されば興膨主も、一筋に敬ひ奉らる、殊に哀なりし事は、天明三年、君、関東の御首途の程にやありけん、興膨主に向はせ給ひて、おことの許に、茶室しつらはせられよ、やがて帰り来て、必ず住み給ふ所をも見ん、其折茶給はらばやと宣ひしかば、興膨主、有難き御事にこそとて、斜ならず喜び、程なく茶室営ませられ、思ふまゝに出来にけれども、君の渡らせ給はん時、始めて入れ奉らんとて、其身計りにも、立入られず、明暮御帰国の程を待たれけるに、御所労ありて、滞府まし〳〵、同五年十月、終に関東にて卒し給ひければ、其設けも徒になりて、興膨主の歎、いはん方なし、やがて其年の十二月に、これも身まかり給ひぬ、紀休主も、現なき御心にて、一向君の御別を歎き給ふなど、聞えし程に、御病もいやまして、同七年九月、空しくなり給ひ、寿鏡院の御方は、君に一年先立たれき、天明四年二月の頃なりき、
イニ、霊雲院殿の御男子、すべて八人なれども、四人は亡失、爰には後まで御存生の数を挙げて、四人と記す、
一、御鷹のみにはあらで、さかしき山の鹿狩、広き原の追鳥狩など、数多度の事なりき、それは家の子・郎等共の、歩立の達者・馬上の自由の程を見そなはして、武事に怠なからしめんとなり、其狩場駈引の様、誠に勇ましかりき、こと長ければ漏しつ、
一、殿の狩に出で給へる時、其所の郡代、必ず御代に仕うまつる定りなりしを、郡代は民を治むる職なり、民の事は暫しも免すべからず、遊猟に従ひて、もし職務闕如せば、計りなき民の煩なるべしとて、君の御時より、此事永く停めらる、又【 NDLJP:142】阿蘇といふ所にて、山方築きて、狩暮し給ひければ、其
一、御狩にて、俄に雨の降り来らん時、侍共、御傘など申せば、我は濡れたりとも、脱ぎ替ふべきものも乏しからず、供に候ふ下郎共は著る物一つをだに、得持たぬ者も多かりなん、それすら猶ほ濡れ〳〵行かんに、我れ独り傘さすべき理なしとて召さず、又
【家士に対する恩情】一、家士不破万平昌之、常に語りけるは、安永の頃、山鹿の郡代仕うまつりしに、君其辺に、三日・四日おはしまして、狩し給ふ事のありき、山鹿は国府より遥に隔りたれば、斯かる事は、いと稀なり、殊更職務も暇ある程なりしかば、御許かうぶらば、日毎に御供に仕うまつらん、若し頓みの事も候はんには、御狩場にても、御暇たびてんと、近習に就きて、望み申しゝかば、子細あらじ、但し職事も、苟且の事は、御前にて裁判仕れなど、いとも懇に宣ひき、或日、十三部原といふ所を狩らせ給ひて、
一、参観の折柄は、常に豊後国の内、君の領分、鶴崎といふ所より御船出し、播州室津に押渡して、夫より陸路を打たせ給ふ、御供の船は、播磨の沖を追ひて、難波に著くる定なり、安永四年、例の如く、室津に著け給ひし時、御船の指揮仕うまつる野間文左衛門・鏡寛治といふ者を召して、いつも難波に著きぬべき御供船は、君の船に遅れ奉らじと、雨風も厭はず、押渡るとか聞召す、志の程は、誠に神妙なれども、斯くてはいかなる過もあらんずらんと、御心痛め給ふこと、一方ならず、船路の習、雨風にさへられて、遅れ奉らんは、何か苦しかるべき、今よりは相構へて、よく〳〵空の景色も見定めて、船出すべき旨命じ給ふ、又常に宣ひけるは、郎等共の難波に渡海せんに、思はざる難風に遭ひたらんは、むげに力なし、それすら水主・楫取、心を合せ力を尽さば、恙なくもなりなん、たゞ船の修復疎かに【 NDLJP:144】して、朽損ねたる所あらんは、自ら招ぐ災なり、常に心を尽して、ゆめ〳〵怠るべからず、此旨船手の者共に、よく〳〵諭し置くべしとなん宣ひき、
一、殿の御座船は、昔より聊も節なき材を選びて作れり、さばかりの大船の材は打任せても、たやすかるまじきに、まして節なからんを求め出でん事、さうなき大事なり、されば常に天下に求め、たま〳〵式に合ひたる材あれば、数千金を擲ち、必ず買ひ得て、不時の用に備ふ、君此の由聞召して、従者共の船をば、いかゞはすると問はせ給ふ、それは節をゑり抜きて、跡を補ひ候と申しゝかば、さらば我船も其定にせよ、さりとても、たやすく損ねはせじ、節ある材は、必ず危き程ならば、従者共の船をも、皆節なからんをもてこそ作らめ、さらでは、従者共を危きものに乗せて、我れ独り堅固に構へたらんは、何心地かせん、若し節ありても、危からずば、今までの様に、徒に財宝を費して、国の煩となりなん事、奢の沙汰なるべしとて、夫よりは御船の材も、節の嫌なく用ひさせられたり、
一、いづくにかありけん、やむ事なき御方、動もすれば、御内の者を手討し給ふ由、君聞召して、同じ人なる上、主従とまで頼みつれば、わきて不便にこそ仕給ふべかめれ、何とて斯くまで、つれなくは渡らせ給ふらん、そこに召仕はるゝ者共、さこそいぶせかるらめ、されども累代の主君なれば、義を思ひて、え離れ奉らぬなるべし、余所に聞くも、胸苦しきわざなりとて、そゞろに涙を落し給ふ、
一、君の御月代に参りたる者には、いつも過して、血あへても苦しからぬぞ、月代の疵は、早く癒ゆるものぞと宣ひき、
【重賢の宿札】一、いつの年の参観にか、木曽路を打過ぎ給ひけるに、ある客館にて、あるじの男、昔御先祖三斎君の御宿に点ぜられし事の候ひし、其時の御名札とて、持ち伝へて候とて、取出し御覧ぜさせしに、紛らふ方なきものながら、今の世国主達の関札といふ物には、遥に長劣りたり、扈従の者に仰せて、其寸尺を取らせて、今より後は此式に仕るべき由、仰付く、東海道などの客館に、家々の関札、懸け置きたらん時、見苦しかるべしと、申す者ありけれども、かうやうの物、先祖に超過せんは、よからぬ事なりとて、用ひ給はざりき、少将に任じ給ひければ、御宿札にも、肥後少将と書かせ申さん、通例しかなりと申す者ありけるに、誇らしき事なせそとて、本のまゝに書かせられたり、
【 NDLJP:145】一、御養生の為めにやありけむ、桑の飯とて、桑の若葉を加へて、炊ぎたるを、好みまゐりければ、夫をだにとて、旅行の宿々にても、割子取賄ひける者共、必ず営みて進めけるに、一とせ、木曽路にて、其物まゐるまじき由、仰ありければ、御供の者共、嗜みは誰とても限りある習、今は飽かせ給ふにこそと、呼きけるに、二宿・三宿程過ぎさせ給ひて、又参らすべき由、仰ありけり、事のやうを、つらつら考ふれば、其参らざりけるあたりは、専ら蚕飼を業とする里なりき、さては仮にも、民の業を妨げじとの事なりけるよと、始めて思ひ知られたり、
一、ある日、台命の御使あるべきにて、とくより礼服かひつくろひて、客殿に出で、待ち居給ひけるに、やゝ時刻移りければ、こづけ参るべき由宣ひて、急ぎ奥の方に入らせらるゝに、村松長右衛門といへる近習の者、飱飯もて参るとて、大廊下の曲途にて、はたと君に行合ひ奉りて、御胸のわたりより、こづけをしたゝかに打懸けたり、其折しも、はや上使只今なりと告げゝれば、あわてゝ御衣脱換へて出で給ふ、長右衛門大きに恐れて、近習の長に、いかゞはせんと計らへば、君の世に勝れて、上使など敬ひ慎み給ふ程は、御辺も兼ねて知りつらん、常は兎もあれ、今日に当りて、斯かる不思議仕出したらんには、いかなる御咎、蒙むるべきも計り難し、先づ畏り居よといへば、長右衛門弥〻恐れて、とある所に、ひそまり居たり、程なく上使を門送りして、立帰り給ふや否や、長右衛門と召す、長右衛門恐れ恐れ、御前に参りたれば、よかりつるぞ、間に合ひたり、さても危き事なりき、然れども忙はしき時は、斯かる事もある習ぞ、くやしくな思ひそと宣ひて、御気色常に変らせ給はざりき、
【粗末なる鞠場】一、一とせ、関東の館にて、蹴鞠の遊せんとて、物の用に立つまじき、歪みたる木・細竹にて
【冗費の節約】一、常に鷹を居ゑ給ふ袖に、革を裁たせて、縫付けさせられけるを、或時、公儀の御鷹匠、何某とかいひける人、見参らせて、何の御為めに、斯くはと申されければ、別の事なし、やゝもすれば、鷹の喰ひ破るが、うるさきにと宣へば、げに〳〵かしこき御計らひなり、今よりは己も斯うこそ仕らめとて、重ねて参られける時は、誠にはな〴〵しく付けられたり、君御覧じて、此事は費を救はん為めなれば、某は、鉄炮など入れたらん古き皮袋の、用に立たざらんを取りて、付けさせたり、然るに人々は、新しき革を求めて、付けられたりと見ゆれば、費はなか〳〵勝りなんとて、笑はせ給ひぬ、
一、先々殿の御飯は、二釜づゝ炊ぎ、其内出来のよきを奉り来りしに、君聞召して、炊ぎ損じたらん時は、ともかうもすべし、常に其用意したらんは、奢らしきわざなりとて、一釜づゝに定めらる、又夜の物も、必ず其時営みけるを、夕げの残りにて、事足りぬとて、冷飯参りたり、
一、薬方の役人といふ者、昔より定めありけるを、君聞召して、こと〴〵しき業なり、薬を服せん時は、茶屋などにて、事足りなんとて、夫をもやめられたり、
一、常に宣ひけるは、世の中に多きものを、水火とぞいふなる、されば水をば、いか程使ひても、妨あるまじけれども、其水を多く使ひ捨つるものは、なべての物をも、費す事、必ず多きものなり、能く心得べしとなん、又料紙も、たやすく求めらるゝものなれども、さりとて、ゆめ〳〵疎かにすべからずとて、物を包みて奉りたるをも、皆々其儘取置かせて、内々の御消息などは、それに書かせ給ふ、又近習の者共、簿帳など綴ぢぬる事あれば、其たちはしを必ず竹釘にさゝせて、御傍に置きて、苟且の事は、皆それに書かせ給ひき、
一、宝暦の頃にや、武具・薬器ならざらん雑具に、金銀用ふべからずと、家中に掟出し給うて、御身も厳かに、かしこく守らせ給ふ、或時、御傍に宿番仕うまつる者共、用心の為めとて、ひねりといふものを作らせける、其飾に銀を用ふべきかと申しゝかば、君聞召して、夫は武具の類なれば、さもありぬべし、但しそれに用ひん料をば、我れ貯へ持ちたれば、与ふべしとて、袋戸の内より、一つの箱を取出し給ふ、見奉れば、銀にて作りたる、こはぜといふ物を、溢るゝ計り盛りたり、さて【 NDLJP:147】宣ひけるは、若かりし時より、鼻紙袋・烟草入などいふ物に、此こはぜ付きたるが、あたらしく覚えしかば、常に取り置きたりけるが、今斯かる事に、用ふる計り積れりとて、たびたりけるに、裕に其物に用ひても、猶ほ余りありき、実に露ばかりの物も、徒になすまじき事なり、
あるじまうけし給ひける時、肴の品、無下に少かりければ、用人等、斯くては疎かなるやうにや候ひなん、今少しは加へて参らせばやと申しゝしかば、いやとよ、大名は好ましき物をば、我宿にていかさまにも召しなん、人の方へ行きては、静に物語せんずるこそ、心慰むわざなれ、然るにさま〴〵の物取り出で、煩はしく進めんは、尾籠の振舞なりと、ある老人の申されしこそ、心にくゝ覚えきとなん宣ひき、
一、御寝所に入らせ給ひつる時も、宿番の者共、声高くのゝしるを、かしがましなど制せられし事は、一度もなくて、安らかに寝ねさせ給ふ、たゞさゝやく事あれば、御耳に響くとて、御目を覚し給ひし、故黄門光圀卿、斯くおはせしと申す者あり、いかなる故にか、
一、江戸にて、ある国主の舘に渡らせ給ひけるに、供膳進められし時、御箸取らんとし給ひける程に、ふとあるじに向ひて、年の寄りて候へば、暫しも用を忍びかね候、無骨御免候へとて、つと立ちて、障子の外に出で給へば、配膳の者、案内申さんとて、御跡に付きて参りけるを、側近く召して、誠は用を叶へんとにはあらず、唯今飯椀の蓋を取りたるに、いかゞしたりけん、未だ飯を盛らぬにてありしかば、本のまゝに、そと蓋をして立ちたり、我れ暫くこゝに有りて、座敷に直らんずる時、物皆冷えはてつらんとて、汝取換へて参らすべし、あなかしこ、主の殿にな知らせ奉りそ、かくと知り給ひたらんには、今日のまうけ承りたる者、罪かうぶる事もあらんと、私語き給ひければ、仰のまゝに計らひたり、かしこの侍共、密に此事聞伝へて、有難き御情なりけりとて、皆涙流しけり、其内に何某といへる者、次の日、龍口の屋形に参りて、近習に付きて、昨日の畏り申して、今にも不思議候ひなば、譜代相伝の主に、一命を奉らんずる事は、言ふにも及ばず、それに差続きては、物の用に立たずとも、此殿の御為にこそ、
【 NDLJP:148】一、或時、柳川城主立花殿、見参し給ひける御設に、卯月頃にやありけん、茄子を供しければ、あな珍し、今ほど世にあるべしとも覚えぬにとて、興ぜられしを、君聞き給ひて、誠に今日は其許の徳にて、重賢も珍らしき物たうべたり、総べて物の世に珍しき頃は、価殊に高し、暫く日を経て、多くなりてたうべんに、何か苦しかるべき、されば常には初物などいふもの、ゆめ〳〵求むべからず、されども客人のもてなしには、志の程をも、見せ参らせんずれば、其限りにあらずと、兼ねて台所の者共に申し示したり、今日其許来り給はずば、いかで斯かる物たうべんと宣ひき、
【奢侈の風俗を憂ふ】一、又国の菩提所妙解寺にて、寺主あるじ設けせられけるに、花豆腐といふものを参らせたり、それは豆腐ををかしく拵へて、紅にて色絵などして、興ある物なれば、下法師などは、之を今日の設の詮と思ひたるに、君御覧じてかゝる鄙の果まで、喰物に徒らの巧をして、財をも暇をも、費す事こそうたてけれ、いかにしたりとも、味は変るまじきものをと宣へり、又此寺〔奉勝イ〕に詣で給ふには、塩屋〔壺井イ〕町といへる市を通り給ふ、そこの店に洗粉といふものを、絵など押したる紙の袋に入れて売りけるを、ある時、君駕の内より御覧じて、我領内にも、斯かる物を売買ふ計り、はや華奢になりたり、これ国の貪しからん基なりと宣ひて、憂へ恐れ給へり、
ー、同じ寺にて、松洞といへる遁世者、侍食する事のありしに、此頃は当国の豆腐の制法、委しくなりて、都にもゆめ〳〵劣るまじう覚え候と、賞し申しゝかば、君聞召して、我は夫をうたてしく思ふなり、田舎は田舎にてあらんこそよけれとぞ宣ひし、又或時の御物語に、此国の若者共、何とやらん、物に移るひ易き風情の見えぬるは、人の心の軽薄に成り行くにこそと、いと口惜しと宣ひき、松洞退いて、親しき者にいへらく、昔、仕へて候ひし程は、朝夕に徳音を承りけれども、常の事に思ひなし奉りて、過ぎつる事のくやしさよ、今隠退の身となりて、たまさかに御掟承りては、心肝に銘ずるものをとて、此二箇条をぞ挙げける、
【老臣を敬ふ】一、明和九年二月の火災に、龍口の屋形焼亡して、白金に移り住ませ給ひける頃、そこに富士見の亭とて形計りの亭のありけるに、大輔殿住ませ給ひける、ある夜君渡らせ給ひ、つれ〴〵慰めんとて、候ふ人々を御前に召して、酒給ひければ、皆皆酔ひて、笑ひさゞめき、君も深く興に入らせられける時、いかなる頓の事かあ【 NDLJP:149】りけん、堀平太左衛門勝名、龍口より馬を馳せて参れり、近習其由申しければ、忽ち御形を改め給ひ、夜も更け、殊に寒きに、老人のはる〴〵参りたれば、さこそ疲れつらめ、暫し休らはせて召せとて、御座を正しくして待ち給へば、ありあふ人人、息を詰めて、潜まり居たり、やがて御前の人を退けて、勝名を召し、事のやうを聴かせ給ふ、やゝ久しくして、御暇給はりて、龍口に帰りぬ、すべて今宵、勝名参りしより、罷出づるまで、諺にいふ、沸きたらん湯に、水差したらん様に、雑人原まで、ひそと鳴を静めたり、君の、老臣を敬ひ給ふ事、此の如くなりしかば、勝名に委任し給ふ事、三十年計り、中をさゝゆる者もなかりけり、
【肥後に鳳凰】一、紀伊中納言治貞卿、いみじくまします御聞えありける頃、紀州に麒麟、肥後に鳳凰など、市童共申し触らせしを、ある時、近習の者共、世には斯かる諺の候と、申しも果てざるに、何条肥後に鳳凰なるべき、近頃は凶年打続きて、家中の扶助をすら、心に任せざりけるものを、左様のうきたる事は、言ひも伝ふまじき事なりとて、以ての外、御気色損じたり、
一、或時、微禄なる近習の者に、汝は父母ありやと、問はせ給へば、老いたる母を持ちて候と申す、それはめでたき事なり、されどもさこそ貧しかるらめ、総べて老いたる親持ちたる者は其養に力を尽すを詮とすれば、さのみ倹約をもならず必ず貧しかるべし、されども其貧窮は、楽しき事なるべしと宣ふ、
一、奥にて何事かありけむ、急しく立歩き給ひけるに、そこに候ひける女の膝に、そと御足さはりければ、御手を出して、戴き給ふ由、させられけるを、女のこを勿体なしとて、畏まれば、いやとよ、同じ人なるものをと宣ひきとぞ、
一、常の御座より、表海の御座敷へ参り給ふ
【自然を愛す】一、或時、松のをかしき木ぶりしたるを売る者候、御庭に移し植ゑ候ひなんやと伺ひければ、夫は天然か、作れる木かと、問はせ給ふ、作りたるにて候と申しけれ【 NDLJP:150】ば、我は作れるものは、嫌なりと宣ひき、実にや人も気質はさま〴〵に変れども、直くだにあれば、みづからの御物好を立てず、相応に用ひ給ひき、只偽り作れるものをばいとゞ嫌ひ給ひき、
一、未だ侍従にて渡らせ給ふ頃、常に隔なく語らひ給ふ国主の
一、天明五年、御所労いたく重らせ給ひて、御起臥も左右より扶け参らする頃、御寝所の畳の敗れて、御足にさはらん事のうたてければ、取換へまほしと、近習の者共、言ひ合ひけれども、さ申さんには、よも許し給はじとて、用所にまし〳〵し程に、異所の畳取換へて敷きたりしを、御帰り様に、御目とく見咎め給ひ、誰か斯かるよしなき計らひをせしとて、以ての外に、御気色損じ、折節、堀本一甫老、あたりに候らはれけるに、向はせ給ひて、いかに一甫、是れ見られよ、畳の
一、妙応院殿、をさなくおはせし頃、関東にて、時の執権の御許に、家老長岡勘解由延之を召して、物語の席に、故肥後守殿、国用乏しくて、物多く借りたりきと宣ひしが、今は左様の物をも償ひはてゝ、国も豊になりつるやと問はせ給ふ、延之謹みて、さん候、今とても償も得仕らず、国も貧しく候と申す、何とて左様には有りつるかと、重ねて問ひ給ふ、延之申しけるは、六丸いとけなく候に、大国を附し置き給へば、いかなる不思議も候ひなん時は、思ふ程の忠勤をも仕り候はんとて、分に過ぎて、家子・郎等を扶持し置き候、夫に凶年打続きて、何事も力に及び候はずと申しゝかば、公務・軍役などの為めに、そこばくの用途を、取分け置かれきと、故守殿宣ひぬ、夫は今も有りけるやと、問はせ給ふ、誠に左様の内々の事をも、殿には包まず聞え奉りたる由、肥後守候ひし時、申してければ、げにも其料は今も候へども、年を追ひて、減る事は候へども、増す事は候はずと、延之答へけりとなん、夫より此方、君の御時代まで、代は四世、歳は百三四十年計りにもやなりぬらん、其間に新知・加禄給ひたる事、また幾何ぞや、君の初めより、世間の掟ありつれども、なほ物の数にもあらで、誠に国の高には応ぜざりけり、されば時々の扶助の、豊ならざりけるも、宜べならずや、【重賢倹約の本旨】君此事を深く憂へさせ給ひて、世にはいみじき聞えまし〳〵けれども、御心には、事行かずとのみ、常に思召したる御気色なりき、ある時、懐中袋の損ねたるを、修理せさせて、用ひ給ひけるを見奉りて、近侍の者共、御大名の御物には、余り見苦しく候、新らしく取換へて、参らせばやと申しゝかば、いやとよ、家中の者共が、貧窮に憂きめ見るらんにと宣へば、夫をば貧窮ならざる程、物給はらせられ候へと申しゝかば、夫が心に任せねばこそとて、打萎れさせ給ひしこそ、有難かりし御事なれ、かゝる御心の底を知り奉らぬ者は、此君の倹約は、節に過ぎたり、逼下とやらんに近かるべしなど、呟く事もありぬべし、冥慮恐し、
一、何国にか有りけん、御年若き大名の、才学優長にして、万にいみじくまします由、近侍の者共、語り合ひけるを聞召して、誠に今の世の俊才なり、但し韓非子などをや好み給ふらんと、覚ゆる所の有るぞとよとなん、
【政の要は人を得るに在り】一、昔登城の御帰るさに、白金の御曹子の御許に、渡らせ給ふべきにて、御設な【 NDLJP:152】どありて、巳刻計りより、待たせ給ひけるに、遥に日闌けて渡らせ給ふ、いかで例に違ひて斯くはと、人々いぶかりければ、今日しも営中にて、やむ事なき御方召されしかば、御部屋に参りて、御物語に時移りぬ、いたう
一、御年闌け給ひても、夜の読書怠らせ給はざりしに、灯の影にて、やう〳〵文字も定かならず成らせ給ひしかば、燭を点ぜさせられけるに、蠟短くなりぬとて、度々差換へんは、費ゆる業なりとて、木にて同じ形を作らせ、蠟やゝ短くなりぬれば、夫に差させて、本まで残りなく、燃ゆるやうに計らせ給ふ、常にも近侍の者共、さりぬべき子細ありて、蠟燭数多灯しつれば、宣ふ事もなし、只其事果てゝ、暫しも徒に灯し置く事を、いたく制し給ふ、苟且の事のやうなれども、是は君の物を用ひ給ふ節度ならんとこそ覚ゆれ、一切の物は、用を弁ふ為めなれば、大名の御許などにて、事に当りて、用ふべきに用ひざらんは、吝嗇なるべし、唯事なからん時に、徒に費さしめざるを、倹約とはいふべし、君の御心懸の如くならば、萊公燭涙の奢もなく、公孫布被の議も免れ給ふべし、
一、君の字は子明、始めの御名は紀雄、又は利渉と遊したるものもあり、世に銀台侯とも、熊本侯とも申し奉る、御俳名華裏雨と記し給ふ、江都龍口の館に、表海楼・鸞嘯閣あり、肥後熊本の
【 NDLJP:153】【書牘】一、御年若かりし程は、彼方此方に、書牘の往復せさせ給ふ、夫が中、一つを挙げて、こゝに記す、
呈㆓楽山公子㆒
東都分㆑手甚艸々、不㆑能㆑尽㆓慇懃㆒、至㆑今瞻望不㆑已矣、蓋浹旬而帰㆓敝邑㆒、駅路山川悉足㆑観也、唯憾不㆑使㆓足下見_㆑之耳、九州斗大、無㆘足㆓与語㆒者㆖、益思㆓足下㆒不㆑置也、越子聡計已還㆑家矣、不㆑知有㆘書疏奉㆓左右㆒者㆖耶、為㆑労㆑致㆑意耳、蓋足下高誼、不㆑隠㆓肺腑㆒、告以㆓経国事要㆒、而辱有㆑造㆓于不佞㆒也、継㆓之風雅篇什㆒、陽春之調、幾㆓乎寡和㆒、不佞負㆓詩債㆒日久矣、愧㆑之愧㆑之、伊達侯豪気未㆑除、磊落魁偉、在㆓百尺楼上㆒、白眼見㆓世人㆒、真足下之益友、而不佞所㆑畏也、又善国士遇㆓仲英㆒、観㆘其与㆓仲英㆒書㆖、剛直自持、不㆑阿㆑所㆑好、碌々儕輩、豈易㆑交乎、答書亦愷悌可㆑喜、仲英不㆑墜㆓家声㆒、可㆑謂㆓南郭先生無㆑子而有_㆑子矣、献春朝覲畢、上㆓鑑湖〔潮イ〕台㆒、重臨㆓篠池㆒、同顧㆓菱芡芙蕖鴻雁㆒、以㆔与観㆓於賢者之楽㆒焉、則亦復愉快如何、時暑酷、伏惟自玉、需㆑有㆓嗣章㆒、昭諒不備、
【遺著】一、御著述とて、したりしがほに、政道の事など書かせ給ふ事は、仮にもなかりき、只歴史の中に、面白くゆかしき事共を、蒙求の標題のやうに、綴らせ給ふ事ありしかども、未だ終らねばとて、名をだに付け給はざりき、又鷹と馬とは、同じ程のものなりとて、其理を通はして、書かせ給ひしものあり、是も名などはなし、粉 問〔冗イ〕録とて、むげに賤しき諺を、筆のすさびに、書き集め給ひけれども、見苦しきものなり、あなかしこ、人にな見せそ、とく焼き捨てよと、宣ひ置かれき、
【詠歌】一、宝暦九年八月二十日、御先祖幽斎君、百五十回忌に当らせ給ひければ、竹原勘十郎玄路に仰せて、そのかみ、土佐光興が画き奉りし、写真の御影を写させ、都に上せて、有栖川職仁親王に、幽斎君の和歌三首の染筆を請ひ給ひ、風早三位公雄卿も、歌など贈り給ふ事ありし頃、寄月懐旧といふ事を、人々にすゝめ給ひて、御自も斯く、
くもりなき影にむかしの忍ばれて袖は涙のあきの夜の月
【詠詩】一、御年老いさせ給ひて、十人の唱和、九人はなしと、申す計りになりければ、常さへ徒然にのみまし〳〵けるに、折しも秋の夜長うして、明け難く、独り欄干に寄りて、月を詠め給ふに、夜風身に染みて、いとゞ昔を思ひ出て給ひければ、
【 NDLJP:154】 龍溝邸第夜将㆑闌 明月西風独倚㆑欄 筆似木華東海賦
楼同庾亮武昌看 昔時高調空歌罷 今也朱絃誰復弾
独座蕭条懐旧処 秋来白髪不㆑堪㆑寒
右懐旧
一、天明五年の秋の初めより、御所労重らせ給ひ、神無月の頃、はや頼み少くならせ給ひけるに、時雨の音しければ、
しぐるゝはあかり障子に音ばかり
さても此
【名声支那に及ぶ】一、九皐の鶴は声天に聞え、一室の言は千里に応ずと有りとなん、君の保ち給ふ国は、日本の内に取りても、筑紫の果にして、長を裁ち短を補ひたらんに、方三四十里には過ぎざるべし、然るに、いみじき御聞えの、唐土まで及びけるこそ不思議なれ、たとへば明和八年の頃、家士綾部孫助といふ者の、役に差されて、肥前の国長崎にありけるに、其頃しも、同じさまなる諸国の留守居といふ者を、唐人共己が旅館に請ずる事ありしに、孫助も行きぬべき由、兼ねて聞えければ、唐人共、斜ならず悦びて、游動といふ者こと〴〵しく招状を書きて送りぬ、その日はきらびやかに装ひ、麗しきあるじまうけなど、例の事なれども、いつよりも勝れて、喜べる気色にて、黄維幹・王世吉などいふもの、さま〴〵もてなし、己が国の楽奏して慰めたり、詞は本より聞き知るべくもあらねども、訳者に付きて申しけるは、抑〻肥後侯の賢明にまし〳〵、聖の道を崇み、学校を建てさせ給ふ事など、唐土まても隠なし、己等の幸ありて、其国の人に遭ひ見奉りぬ、異域に帰りて、斯くと語らんには、何の
一、又ある年、長崎に来りし、宋紫岩といふ唐人、奉りし詩に曰く、
恭頌㆓肥後侯徳政㆒五言三十韻并祈㆑教㆓正之㆒
柱石隆㆓千古㆒ 崇山祝㆓九天㆒ 三台呈㆓炳耀㆒ 百辟綴㆓班聯㆒ 霖降蒼生喜 雲施紫海連 若為㆓群物望㆒ 願得㆑志言詮 肥本名都秀 阿蘇箕尾躔 君才看㆓【 NDLJP:155】鳳挙㆒ 水濶繞㆓龍眠㆒ 閥閱東京著 文章南国伝 書詩垂㆓黼黻㆒ 勲業表㆓雲烟㆒ 武芸門材盛 彫弓世沢綿 八千禅景運 三十正青年 丹篆神人授 藜光大乙燃 従容趨㆓講席㆒ 左右侍㆓経筵㆒ 端座惟清慎 深情更塞淵 掄賢皆環璋 市駿慕㆓奇権㆒ 屢挈㆓珊瑚網㆒ 頻抽㆓玳瑁編㆒ 慈祥瞻㆓弼教㆒ 簡註考㆓大全㆒ 北極清光被 東華碩望懸 蓬瀛裁㆓衆羨㆒ 王府領㆓群仙㆒ 邦国紆㆓籌画㆒ 兵民仰㆓策鞭㆒ 便須㆑調㆓鼎鼐㆒ 原不㆑問㆓金銭㆒ 繁社添㆓芳版㆒嘉禾貢㆓甫田㆒ 列卿成㆓九叙㆒ 恩賜日三千 久矣忠誠貴 美哉風度姸 玉堂仍故里 金鑑毎新研 御仗邀栄近 宣揚拝手専 高階億世並 明府百僚光 喜色盈㆓朝野㆒ 歓声動㆓陌阡㆒ 争歌阪魯聖 永戴越王賢 鬱々風雲会 飄々鳳翥翩 王朝崇㆓倚望㆒ 仁徳慶㆓琱鐫㆒ 苕渓雲亭宋紫岩謹拝艸
一、此君、常に名誉の実に過ぎなん事を、厭ひ給へり、昔、ある人、国の中のいみじき事共を、世にも知らせまほしく、梓にも鏤めんとて、書き綴る事のありけるを、聞召されて、をこの事をなせそ、さしたる物、散りもて行かば、我治教善かりけんなど、世に歌はれん事、人を欺き、身の咎を重ぬる業なりとて、いたく制し給ひ御気色さへ善からざりき、然はあれども、畏く有難かりし事共を、語りつぎ言ひつぐ人もなからましかば、うたかたの泡と消えなん事を悲みて、もしほ草、かき集むるに就けても、いますが如きの冥慮を仰ぎて、聊も浮きたる事なく、必ず確かなる跡を尋ねて、恐れみ〳〵筆を執りぬ、
銀台遺事大尾【 NDLJP:156】銀台遺事の事に付高本敬蔵紙面之写 一、乍㆑恐霊感院様御徳義奉㆑称候は、能人を被㆑遊㆓御存知㆒、堀大夫に被㆑任候事、任㆑賢不㆑弐と申、人君第一の御美徳にて被㆑遊㆓御座㆒候、大坂の中井善太、肥後孝子伝の序に、恭倹持㆑己、任㆑賢不㆑弐と奉㆑称候、学問を仕、目少明候者は、数百里の外より、鏡にかけて見通奉り、二句八字に、御徳義を申尽し候、文明の世の中、恐敷事に候、然るに、御遺事、此箇条省候得ば、余り恭倹持㆑己と申たる一句計の事に相成、他所侯の考にも、却て省候得ば、折角御遺事御差出に相成候詮も無㆓御座㆒候、其上巳に台諭も有㆑之候、大夫にて候得ば、何ぞ御憚にも及申間敷儀歟と、乍㆑恐奉㆑存候、尤御家老にては、御自分方の身に被㆑受候事故、御断御尤なる儀に御座候、其境得斗御考被㆑成、思召次第には、尊慮御伺被㆑成候様、有㆓御座㆒度奉㆑存候、御遺事之内、省候箇条之事、別紙之通、時宜国是を以、御詮儀御座候と奉㆑存候、平太左衛門殿一件之外は、強而免角可㆓申達㆒様も無㆓御座㆒候御付紙の通可㆑仕候、併常の消息・達書などゝ違ひ、仮初にても、冊子に仕立候物は、一部の開闔、隠見有㆑之候事御座候、然処所々取除申候ては、たとへば、作立たる家の柱を、彼是抜取候様の物にて、見る者の見候ては、正体もなきものに成行候、此位は御存知の前にて候得共、承之分職に居候得ば、一通は、其意味、御役方にも不㆓申達㆒候ては、難㆓相済㆒、得㆓貴意㆒候、
一、乍㆑恐霊感院様御盛徳を奉㆑伺候に、所㆑謂不㆑可㆓小知㆒、而可㆓大受㆒君子にて、被㆑遊㆓御座㆒候と、茂次郎ども申合奉りたる事に候、近来諸名公の遺事に、御超過被㆑遊候処は、全此処に被㆑為㆑在候、然処御政事之稜は、取省候得ば、小知の御行状計に相成、可㆓大受㆒御器量は、隠伏仕候、
一、静証院様御儀を、事長に申候を、一通の論にては、此御遺事の中には、無用の事と相見可㆑申歟、併是は編述の格例有㆑之事に御座候、先詩経に、文王の徳を申さんとて、思斉大任文王之母と申出候、依㆑之史漢の類、本伝には、父母兄弟の事、毎々有之、先両親の徳行を述候にても、此意味相分り候、是には、聖賢の意味、深【 NDLJP:157】く有事と被㆑存候、されば先儒も称㆓人之善㆒、必本㆓父兄師友㆒、厚之至也と有㆑之候、近き頃出候烈公遺事にも、新太郎様の御母堂、福照翁主の婦徳を述たる所御座候、文明に成候に付ては、世間の人も、箇様の事に心付候哉と覚申候、
一、此内に御家臣の行状を、数多書乗候事は、惣て人君の徳は、挙用らるゝ人により見え候、歴史に本記・世家・列伝と是あるが如し、本記は、当代の事を、善悪共に分明には書れぬ事有㆑之候故、事を曲げたるものに候、され共列伝にて、用ひられたる人を考候得者、其時代の政事の得失、風俗の善悪まで、かくる所なく候、夫故に仮にも人君の事蹟を書候ものには、臣下を加へ候、左無㆑之候へば、一分の質素倹約ぐらゐの事は、人君も匹夫同様にて候、西山遺事など、文雅飄脱は格別の御事に候へど、霊感院様は、多くの異能異才を御用被㆑遊候事、所㆑謂済々多士にて、他の君公に卓越の所を知らせ候為にて候、
一、堀大夫・竹原の両家、先祖迄書出候は、区々の微意御座候き、惣而人たるもの善を行ふは、父母を顕さんがため、悪をせざるは、父母を辱しめん事を恐るゝ故と、聖賢の教は御存にて候、殊更我朝にて、此道を第一とす、甚深き訳御座候、されば昔の武士は、戦場に臨て、川を一つ渡しても、桓武天皇九代の後胤、首一つ取りても、山田の庄司何某が孫などゝ名乗申候、今の世にては、合戦の最中、長々敷先祖言立、無用至極、あほふの汰沙に思はれ候は、武士の気象、次第に軽薄に成候故にて候、扨堀大夫の事、他国にては足軽 り御取立被㆑成、父祖は無名無刀の人にて有つると、専申触候、已に先年、大坂御町奉行小田切出雲守様も、左様御聞被㆑成候歟、弥にて候哉と、御問被㆑成たるよしに候、堀家の御先祖は、御存知の通、類稀なる忠臣、追腹迄めされ候、其血脈継れてこそ、大夫も、あの通り被㆑在にて可㆑有㆓御座㆒候、然る処、御自分の名高くなられ候程父祖を下賤の者と唱候へば、大夫の不幸、過㆑之事無㆓御座㆒候、無念至極に可㆑有㆓御座㆒候、然処、霊感院様御余徳にて、先祖の様子、世上に相知れ候はゞ、大夫の恥辱を雪ぎ、乍恐御冥加にも叶申べき哉と奉㆑存候、
一、八代洪水の一条は、雑歌も数多書乗候、是又無益之事と相見可㆑申、然共民情事勢を見候は、詩歌にしく物なく候、口上・文言抔は、偽飾候事にも成候得共、詩歌は偽りのならぬ物にて候、依㆑之古へは、国々のはやり歌をとりて、天子に奉り【 NDLJP:158】夫にて国政風俗の善悪を被㆑考候事、聖人の法、御存の通御座候、我朝にては、殊更是を専とせられ、神武紀を始、代々の紀に、多く歌謡を乗せられ候は、此訳にて御座候、禁裏歌所被㆑置候世には、此事弥委しく相成候、国々より年貢米を運び候馬方共が、うたひ候を、催馬楽と申候は、文句は、今の世にうたひ候馬子歌にて、余り替らず候、たとへば、あかゞりふむな、あとなる子我も目はあり、先なる子、此類の事にて、夫を詞につくろひ、字数を合せて、撰集にも入れらるゝ事に候、扨此八代洪水、古今の珍事にて候、下民昏塾の折から、御仁政を喜び勇み候、民の情を顕はし候は、此ざれ歌にとゞまり候、田沼氏執政の時、誰かは追従尊敬せざらん、然共イヨサノ善、サテ血ハサンサとうたひ候にて、人うとはて、御子息の横死を悦候実情、全く顕れ候、斯様に善悪かくされぬところ、歌謡の甚深術妙に候、詩経を経典の内に入られたる聖人の深意、凡夫の了簡の外に而候、右の例は不㆑遑㆓枚挙㆒候、御刑法一条の儀も笞・墨・徒は律書にも有㆑之、誰も存候事に御座候へ共、御国の如く、徒刑の者共、往々良民に成候様に、委細の御徳被㆑立候所は、他国には不㆑及㆓承申㆒候、然処、荒々書置候は、残念の事に御座候、惣而此御遺事は、御徳義を述候迄にても無御座、諸国の法にも成し候様に、有㆓御座㆒たく奉㆑存候、乍㆑然前々申候通、国是時宜可㆑有㆓御座㆒候間、此長文、強而最初の通、被㆓成置㆒度と申事にては無㆓御座㆒候、世間文明の運にても候間、職分の事故、文事の通筋を、一通り、得㆓貴意㆒候事に御座候、惣教御衆へ御演舌等は、思召次第之御事と奉㆑存候
以上、
六月
一、賢能の人を進挙候人は、其賢者より重く貴候事、古法に而候、此道廃れ候得ば、人の心軽薄に成り、我一分の建立を専として、甚敷は人をおとし、我上らんと思ふやうなる、浅ましき事に成行候、玄路は堀老進められたる次第、誠に其身の秩禄を辞申されたる事、稀代の美事にて、さすがに御家久しく被㆓召仕㆒候家筋の御侍、御頼母敷事にて候、依㆑之両家相並て、先祖を申出候、先時被㆓仰聞㆒候、御遺事五冊、御付紙之儘差出申候、且頃日御内意申候通、此内の御政事の儀、公辺御遠慮の箇条迄相省、不㆑苦筋の儀は、被㆓差置㆒被㆑下度、相願申候、御存知被㆑成候通、国史を書候者も、事によりては、君大夫之命をも受不㆑申儀御座候、此意味御含被【 NDLJP:159】㆑成、可㆑然御周旋被㆑下度奉㆑存候、密に得㆓御内意㆒置申候、
六月十五日 慶蔵
関内様
竹原玄路書付写 一、寛延三年七月、封事を奉りしなり、数多の箇条を書て、御直に聞し召され候はゞ、申上んと、小川貞之丞を以て差上る、夫より度毎に召出され、子・丑の刻迄、聞召されしこと、数月に及ぶ、御次にては、身上の事を申上候歟、又はよからぬ事を御勧申上るにやと、或は疑ひ、或は恐るゝ者あり、玄路申上候は、左様の事に非ず、御先代より、御国の風俗、郡村の事、御役人の贔屓を以て、其任に当らざる人を御用ひになる事、賄ひて我勝にして立身する類、其事実を挙て申上る、玄路手の迥らざる事は、同志の人ありて、助け告知する者あり、寛延四年、何月か不㆑覚、政事の御咄の折節、不慮に大国を領せられ、今更御行当なり、中々御身様の如き、御気薄き上、御病さへあらせられ候へば、御政道などの事は、難き御事なり、まづはならせられずと、御歎息なり、玄路申上けるは、夫はいかなる思召に候や、御気薄、御病身とて、御自身の御働はなくとも、人を選び、夫に委ねられ候へば、何事か難からん、頼奉りしかひもなく、浅ましの御心かなと、落涙仕候を御覧じ、頼もしき心なり、一、年月は覚えず、
一、御しらべ御遺事の内、御昼寝を遊されずとある箇条は、御省き成され可㆑然【 NDLJP:161】候、毎度御昼寝は遊ばされ候なり、しかも御床を敷、何時より何時迄と云御究にて、其時刻は申上候なり、誰々もよく存じ居ることなり、
一、松洞老の条下に、平太左衛門同様、召仕はれ候て可㆑然と、脇より申上ければ、麒麟に田はすかせられぬとの御意の事、虚説なり、御省き可㆑然候、
きりんならば、猶以御政事を助けらるべきことなり、堀殿は田をすく役には非ず候なり、斯様のこと、かりにも御意は無きことなり、
一、熊本にての事なり、天草より鰹を酒漬にし、御取寄召上られ候、皆人御留め申上けれども、御聞入なくて、さしみに仰付られたり、玄路一番に御試仕候て、暫ありて倒伏、不覚なり、君も御酔なされ、余程御なやみなり、御手水に入らせられ候節、須佐美九太夫奉抱、御手水に奉㆑入るに、御病中に御眼を開かせ給ひて、九太夫は用人の申附置たるに忘忘たたに替りて、取次の者・小姓役を指揮する役なり、自ら余を抱て斯するは、心得違なりと、御呵なり、人を使ふべき者の、下なるわざをするは、兼て御嫌なり、斯る事は記し置度ものか、
右の外数箇条候へども、御政事にかゝる事にて、憚多く省きぬ、
この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。