太閤秀吉公寵臣逆心思ひ立つ事附関白秀次公生害の事上杉神刺原の新城を取立つる事加州前田利長逆心の沙汰并利長人質進上の事上杉使者藤田能登守上洛の事上杉謀叛の沙汰藤田能登守栗田刑部会津を立退く事藤田能登守上洛の事伊奈図書助河村長門守会津へ下さるゝ事大坂に於て上杉退治御評定の事上杉景勝白河表手配の事直江山城謀を以て越後諸浪人一揆を催す事上杉伊達矢合の事御所会津御発向附花房註進の事伏見城より嗣君に註進附宇都宮御帰の事小山御陣御評定并本多中書・榊原式部御諫言の事伊達政宗帰城並白石城を攻取る事政宗白石城より岩手沢に引退く事越後国一揆蜂起爾附後守直寄手柄の事一揆勢越後国三条の城を囲む事附溝口宣勝村上義明後巻の事〔〈家康公イ〉〕小山より江戸へ御帰陣の事蒲生飛騨守秀行使者を以て岡野左内〔イナシ〕志賀布施〔〈外池・小田切・高力・安田・北側等イ〉〕に示す事
景勝長沼より会津城に帰る事秀康卿景勝方へ御使者の事直江兼続景勝を諫むる事并最上発向陣触の事越後国津川城落去并一揆退散の事直江山城守兼続最上へ攻め入る事并幡屋城を攻むる事直江山城守諸大将と軍評定并長谷堂の城を攻む附最上義明、後巻対陣の事最上義明加勢を伊達に乞はるゝ事附政宗加勢の事并井上杉方松本木工之助討死の事上の山の城口合戦附上杉方穂村造酒允討死の事上泉主水討死の事会津より飛脚を遣し関ヶ原敗軍の由を直江が陣に告ぐる事直江山城守并上杉の諸軍勢長谷堂口を引払ふ事附洲川合戦の事伊達政宗福島の城を攻むる事本庄出羽守宮代合戦の事政宗信夫郡焼働并木幡四郎右衛門討死附須田大炊助長義政宗と逢隈川合戦の事松川合戦政宗福島の城を攻むる事景勝御赦免〔付イ〕上洛〔并上杉系図イ〕の事杉原彦左衛門物語覚書条々〔〈二十三箇条の事イ〉〕宇佐美民部少輔の事
【 NDLJP:96】
近世軍記
序
近代軍記、行㆓于世㆒者数部矣。雖㆑然、皆闕㆓会津戦争之事迹㆒、諒不㆑能㆑無㆓遺憾㆒焉。以㆑故酒井讚牧左少将源忠勝、苦㆓捜索㆒数㆓年于茲㆒。時麾下之士、有㆓杉原親清者㆒、是乃上杉宿将、杉原常陸介親憲族、而経㆓歴北越・東奥数十戦㆒之徒也。忠勝命㆑之、令㆑輯㆓慶長庚子・辛丑之会津戦伐之古事㆒、輒筆記焉。讚牧、台閣繁務之余暇、読㆑之賞㆑之、甚以為㆑珍焉。我僥倖得㆓其書于敦賀商舶㆒、而弄賞有㆑歳。窃以、上杉景勝、謀略勇猛、廟算幄籌、卓㆓落于近世㆒、独㆓歩於一時㆒。況於㆘会津守戦奇画、最上攻撃勇悍、一日抜㆓数城㆒、勢如上㆑破㆑竹、至㆓夫福島・松川之戦㆒、摧㆓政宗堅陣㆒、奪㆓伊達帷幕㆒者、其勇威重名冠㆓于天下㆒也。我苟、欲㆑俾㆓㆘上杉武勇㆒偏識㆗于後世㆖、於㆓蛍雪之下㆒、恭起㆓麁毫㆒、而訂㆓正杉原氏筆記㆒、以備㆓後覧㆒者然矣。
時延宝八年庚申冬十月良蓂読題
㆓于江州大津西湖楼
㆒ 国枝清軒
【 NDLJP:97】
近世軍記 上
太閤秀吉公寵臣逆心思ひ立つ事附関白秀次公生害の事
太閤秀吉公御治世の頃、五奉行の中にも、石田治部少輔三成、殊更寵臣にして、天下の用ひ斜ならず。是に依つて、其の身も、及びなき志を挟み、一度天下を望み思ふ。故に関白秀次公を讒言し、亡し奉り、此の上は、幼君秀頼公を守り立て候と称し、秀吉公御他界の後、是非天下を奪はんと巧みけり。夫に付き、我が望の障となるべき人多き中に、江府内大臣公を目に懸け、之を亡したき存念、止む事なし。つく〴〵案ずるに、弓箭を取り、御所公へ敵対すべき大名は、上杉中納言景勝なり。之を味方に引付けんとぞ巧みける。景勝は、天性言葉少く、世に愛相なき人なりければ、三成、取寄るべき便なし。然れども景勝家老直江山城守兼続に、軍国の政事を任せられけるを、三成よき便と心得、其の事となく、直江に近づき、懇志なしける故に、直江も天下第一の五奉行、治部が事なれば争で疎略なるべき。程なく懇志の間となり、又直江は、謙信の時に、与板の城主樋口与惣左衛門が子にて、樋口与六と申して、小性に召使はれ、無双の出頭となりける。上杉家老直江大和守実綱並に儒者専柳斎と一所に、森名左衛門といふ者に討たれ、男子なかりければ、山城守を壻名跡として、直江が家を相続し、此頃は三十二万石を領知し、米沢に在城し、陪臣たりと雖も、御所公の御内、本多中書・榊原式部・井伊兵部同前に、太閤の御前へも出頭しけるが、此者先祖は、木曽義仲の四天王樋口次郎兼光が後胤にて、武略智謀に達し、詩文・和歌の道に暗からず。殊に人柄・骨柄、無双の器量にて、既に秀吉公の御意にも、小早川隆景・直江山城守兼続・堀監物直政が如くなる調ひたる武士を見ずと、常に仰せられける程の者なりけり。されば、上杉の家中、大小事共に、山城守に任せ置かれけるを、治部少輔も、能く知りける故に、之を引付けゝるとかや。或時、三成は直江山城守と、只両人差向ひ、夜更迄酒宴して遊びけるが、密かに山城守に向つて申しけるは、侍と生れ、弓矢に携はる者、天下に望みなきは、男子と称するに足らず。差当りて秀吉公は、匹夫たりと雖も、天下を掌握に帰し給ふ。我も一度は、四海を治めんと思ふ心入、止む事なし。【 NDLJP:98】されども秀吉公御在世の内は、思ひたつまじ。御他界ある上にて、旗を揚げんと思ふなり。御辺も、景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ、天下を覆しなば、景勝を滅し、御身、関東の管領となり給へ。我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人して世を治むべしと語りけり。直江も、大胆なる者なれば、此の謀事、こゝろよく思ひ、左様思召立ち給はゞ、上杉家中の事は、一向に我に任せ給へ。夫に付き、謀事を廻らし見るに、蒲生会津宰相氏郷は、武道逞しき人にて、中々御所公に差続きたる大将なり。此の人の子藤三郎秀行は、御所公の壻なり。領分奥州と下野の国隣りつく。御所公後強み、是にして事なし。縦ひ貴殿、思ひ立つとも、御所公、氏郷と差続けば、中々退治叶ふべからず。先づ氏郷を殺し、其の跡へ、景勝を国替させ、東西より立挟みて、打果すべき事、然るべしと囁きける故、三成之を承引し、氏郷を毒害し、其跡に、藤三郎秀行家老共をそゝのかし、蒲生家中、大なる騒動を出来させ、其咎〔〈にて脱カ〉〕秀行百二十万石を没収し、僅に十八万石にて、野州宇都宮へ所替させ、其跡会津へ、上杉景勝を入れ替へ、思の儘に、謀を廻らしける。景勝先祖上杉民部大輔憲顕の時は、尊氏公より、越後を給はりしより以来、今に至つて二百年余、領知せられし国を出でし事なれば、会津五郡の外に、仙道七郡、伊達・信夫二郡、出羽の庄内、佐渡の国を添へ、以上百五十万石の地を給はり、会津山の内の本城の外に、十一箇所に城ありしかば、家老共を分け遣し、御所公に差続き、東国二番の大名たり。直江山城守兼続は、米沢に在城し、大国但馬守は、南山の城、甘糟備後守清長は、白石の城主、本庄越前守繁長は、森山の城、須田大炊介長義は、簗川の城、安田上総介〈順易としやす利包カ〉は、小峯の城、中条与次郎は、鮎貝の城、木戸元斎は藤島の城、色部長門守は、金山の城、下条駿河守は、二本松の城、杉原常陸介親憲は、猪苗代の城、五百川修理は、白河の城、志田修理は、大宝寺の城、松木伊賀は、大浦の城、岡野左内・栗生美濃守は、福島の城、其の外、藤田能登守は、津川の城、島津月下斎は、長沼の城、方々の城主、其の数記すに遑あらず。斯くて慶長三年八月十八日、太閤秀吉公御他界なされ、其の後、五大老・五奉行を始め、諸大名嗷訴一揆し、京・伏見・大坂の騒劇、是偏に三成が御所公を討たん為めの巧みなりけり。後には二心の輩あつて、三成終に奉行職をやめられ、佐和山へ蟄居しぬ。是慶長四年三月の事なり。同八月十八日、豊国大明神御祭礼事済み、同廿八日に、加賀肥前守利勝は、加州へ下り、同廿九日、上杉中納言景勝、会津へ帰国す。其砌直江山城守は、年来存ずる旨あるにより、九月朔日に大坂を立ち、【 NDLJP:99】同三日に、佐和山の城へ立寄る。三成も之を聞き、高宮迄迎に出で、夫より同道して、佐和山の城にて、馳走斜ならず。夜更けて、三成、密かに申しけるは、先年よりの本望、今に達する事を得ず。貴殿の心底も、恥しく候とありければ、直江打笑み、御心中承りたしとありしかば、三成も、月日の往く事、矢を射るが如くなれば、いつ迄相待ち申すべきや。其の段は、推量も中々愚かにこそと申しければ、直江は、三成が側に立寄り、景勝、会津へ帰られ候間、我等、之を勧めて、新城を取立て、其の上にて、近国の浪人を召抱へ申すべく候。此の段、京・大坂へ聞え申し候はゞ、御所公、立腹ありて会津発向の催、之あるべし。今天下を校量するに、景勝と懸合はせ、合戦を致すべき大将なし。然る時は、御所自身、大将にて会津へ向はるべく候。其の時、景勝は、手勢六万にて、白河の城を、一の木戸として、御所と対陣仕るべく候。貴殿は、其の弊に乗じて、伏見の城を攻め取り、諸大名の妻子、大坂に罷在候を、人質に取り固め、伊勢・美濃・尾張・参河・遠江を切従へ、江戸へ押寄せ申さるべく候。御所、之を聞き、白河表を引払ひ、江戸へ取除き申され候はゞ、恐らくは、関東一味の大小名も、大坂の妻子を取らるゝ事を聞かば、皆貴殿へ降参致すべく候。其の勢を合せて品川口より江戸へ押詰め給はゞ、我等は、上杉勢を以て、江戸へ取詰め、表裏手をあはせ立挟み、討取らんに、陳平・張良が智ありとも、如何にかして、利を得候はんや。東西に陣をたて、南北より攻取り候はゞ、両月を過ぐさずして、関東は討平げ申すべく候。而して後に、君臣の分明かに、順逆の勢定まりて、貴殿、大功をば四海に輝し、中興の大業、一度に立つ則ば、国家の仕置は、我等の知る所にて候はずと、弁舌明かに申しければ、三成、大に悦び、武略智謀、誠に文武両道の才智、世人の外に出づる者にあらずんば、斯くの如きの謀事あるべきや。今其の方の手だてを聞く時は、天下の治乱興廃、恰も目前にあるが如し。我れ其元の謀ごとに随ひ、天下を覆へさん事、疑なしと喜悦斜ならず。直江、弥〻方便を相談し、佐和山を立ちて下りしかば、三成も、醒ヶ井迄打送りて別れけり。三成は、佐和山にありながら、長束大蔵大輔正家・増田右衛門尉長盛・浅野弾正少弼長政へ申し遣はし、京・伏見騒動絶ゆる問なし。九月九日に、重陽の御祝儀として、御所公へ、大坂の城にて、御茶を進じ候に事寄せ、浅野弾正・土方勘兵衛雄久・大野修理亮治長等、御所公を、刺殺し奉るべき企ありと、披露ありしかば、大坂、俄に騒ぎ出し、伏見より御所公御人数、夜通しに馳せ来り、只今一戦あるべき体なりしかども、皆三成が謀にて、増田・長束が偽【 NDLJP:100】りて、拵へし事なれば、別条なし。浅野弾正は、奉行職を止められ、甲州へ引込み、土方勘兵衛は、常州へ流罪し、佐竹義宣に預けられ、大野修理亮は、野州結城へ配流せられ、少将秀康卿預り給ふ。扨秀頼公並に淀殿より、増田長盛・徳善院玄以・尼幸蔵主・片桐市正を御使にて、去年太閤御他界以後、秀頼幼稚なるにより、諸大名やゝもすれば、嗷訴に及ぶ事、誠に以て歎かはしく候。太閤御遺言にて、秀頼、大坂に御座候へば天下の重り、実に中興の根本にて候。加賀大納言逝去し、毛利輝元・上杉景勝・前田利勝皆帰国せしめ、大坂、以の外危く候間、誰か大坂を守護致し候はんや。今世上穏ならぬ砌、京・大坂の騒劇は、御所の伏見に居られ、其間隔りたる故なり。唯今より大坂西の丸に住居して、秀頼を守立て給ふべしとありしかば、同十一日に、御所公、西の丸へ入らせ給ふ。増田・長束相談して、大広間並に三重の天守を上げて、進上しけるに依り、御威勢、前日に倍せしとなり。
伝に曰く、秀吉公の氏姓詳ならず。大徳を賞せんが為め、種々の奇怪を託すと雖も、皆信ならず。もと尾州愛知郡中村の出生にて、父を知らず。母の家にありて、八歳の時、同国光明寺へ登せけれども、程なく還俗し、やゝ成長して、始めて松下嘉兵衛が従僕となる。天性聡明勇悍にして、十六歳の時、つら〳〵謂へらく、松下如き小身者に仕ふる共、人に知らるゝ程の功をなし難し。所詮、命を捨て主を求めんにはと、松下が家を出でにけり。然るに其頃織田信長公、武威益〻盛んに、名将の聞えありければ、縁を求めて下僕となり、木下藤吉郎とぞ申しける。利根才覚発明にして、昼夜に奉公し、智謀群を抜く。武勇、猶人に超えければ、次第に昇進して、羽柴筑前守秀吉と申しける。其頃、天下大に乱れて、合戦止む時なし。羽柴秀吉、信長公の命に従ひて、向ふ所の強敵、討ち従へずといふ事なし。仍つて、備前・備中・播磨・但馬・因幡五箇国の大主とぞなし給ふ。然る処に、信長公の家臣明智日向守光秀、逆心を起し、天正十年六月二日、賊兵を率ゐて、洛陽本能寺の旅館に於て、信長公を弑し奉る。此時、秀吉公は、備中高松の城を攻めて、毛利元就と合戦の最中に、将軍父子、明智光秀が為めに、討たれ給ふと聞いて、大いに驚き、痛み悲み給ふ事甚だ深し。則ち弓箭を治め、旗を捲きて、毛利元就に和睦を乞ひ、君敵明智を討亡したき旨を演ぶ。元就聞きて、其の志を感じ、誠に義士なりというて、秀吉の請に応じ、今迄敵なりしかども、元就も、使者を以て、尤も懇に信長公の変を弔ひ、次に軍労を慰めらる。加之、軍馬を行装【 NDLJP:101】して、兵糧を運送せん事を約せらる。秀吉、喜悦浅からず、急ぎ都へ打つて上り、山崎表に於て、明智と合戦し、忽ち光秀を討滅して、主君の讐をぞ報い奉る。是よりして、秀吉の武名、天下にはびこり、威風、四海におそれ、直に大将軍となりて、後陽成院天正十年十月三日、従五位上に叙せられ、同じく豊臣の姓を賜ふ。夫より昇進して、高く関白太政大臣従一位に陛り、城郭を京都・伏見・大坂に築きて、善尽し美尽せり。天下の諸侯及び大小の勇士、昼夜の出仕ひまもなく、何不足はなし。然れども、世嗣の若君なきに依つて、秀吉公の甥三好秀次公を養君とし、関白職を譲りて、洛陽聚楽の城に居置き、其身は、大坂・伏見の城に、隠居まし〳〵て、太閤の御所とぞ申しける。或説に、秀吉公の父は、木下弥右衛門といふ人にて、織田信秀の鉄炮の者なりしが、奉公を辞して、其在所なれば、尾州愛知郡中村に帰住す。同母は、同郡御器所村の人なり。持萩中納言の息女なりとかや。其故は、中納言罪ある故に、尾州村雲の里へ配流せらる。息女一人ありて、二歳の時、中納言卒去せらる。之に依つて、後室娘を誘ひて京へ上り、多年おはせしが、其頃、洛陽兵乱起り、在京成り難きに依つて、息女十六歳の時、又尾州へ下り居給ひしが、十八歳の時、弥右衛門に嫁して、女子一人と、其次に、天文五年丙申の春、正月朔日の朝、男子一人儲け給へり。是則ち秀吉なり。童名猿といふに就きて、さま〴〵の異説あり。皆実ならず。唯申の年生れ給ふに依り、父母、何となく其名を、猿と呼ばれしに、面貌も自然に猿に似、又仕業もさかしくて、猿に似給ひけるにや。此説尤も可なり。秀吉の姉は、成人の後、同国乙村の民弥介に嫁す。弥介、後に三好武蔵守三位法印一露と称す。是則ち関白秀次公の実の父なり。依つて秀次は、秀吉姉壻の子にして、秀吉公の甥なり。秀次の舎弟丹波少将秀勝・同辰千代丸三人の実母は、秀吉公の姉なり。法名瑞龍院と号す。秀吉公の父弥右衛門は、天文十二年卯の夏、病死せられ、後室、女子と秀吉と二人の子を養育して、彼の里に住み給ふ。其頃、信長公の同朋に、筑阿弥といふ者あり。思ふ事ある故に、奉公をやめ、古郷なれば、尾州中村に帰り居たるを、里人取計りて、弥右衛門後室の家へ、筑阿弥を入れて、夫婦となす。此故に、筑阿弥は、秀吉公の継父なり。筑阿弥、子二人あり。男子は、幼名小筑といふ。後に、羽柴小市郎秀長と称す。其後、美濃守になり、又大納言に任ぜられ、大和・紀伊・和泉三箇国を領す。秀吉胤替りの弟にて、大和大納言といへり。斯くて、秀吉公は、江州浅井備前守長政の息【 NDLJP:102】女、艶色類なしと聞き及びて、妾とせられける処に、文禄元年壬辰の冬より、懐胎の心地なりしかば、大に悦び、四箇の大寺に仰せて、貴僧・高僧を請ぜられ、大法秘法を修し、殊に、変成男子の法を行はせられける。明くれば、文禄二年八月廿日、安産成就の為めの御祈祷に、大坂の城中にして、連歌の会をぞ催し給ふ。其頃の宗匠花の下紹巴の発句に、
大般若はらみ女のきたうかな(紹巴) 一二は過ぎて産の紐とく(昌叱)
未だ百韻みたざるに、若君誕生あるこそ不思議なれ。天下の大名はいふに及ばず、下万民に至る迄、千秋万歳の其声は、欣々然として、阡陌だに満てり。頓て元服あらせ給ひて、秀頼公とぞ称し奉る。三歳にならせ給ひし頃、秀吉公寵愛の余、思慮し給ひしは、我れ一世の後、秀頼が敵とならんずる者は、関白秀次なり。如何あらんと宣ふ時、治部三成、折を得たる思ひして、はや秀次公、兼ねて逆心の風聞これある由、御前近く馴れ寄つて、さゝやきて讒しけり。然りと雖も、秀吉公、さして許容もなかりければ、三成、猶も深く思察して、謀事をぞ企てける。秀吉公より秀次公後見として、中村式部少輔・田中兵部大輔両人を、附置かれしかば、両人の後見等、強く諫言せし故に、秀次の御前次第にうとくなりにけり。其頃、田中は、摂・河両国の堤普請奉行として、彼の地に居けるを、夜通に召寄せて、先づ三成が宅へ呼び入れ、奥の亭に請じ、二人、頭を差合せて、三成、さゝやきて申しけるは、いかに田中殿、御自分の命をば、三成が助け候といへば、田中、思ひ寄らざる故、大いに驚き、珍しき仰哉といひければ、三成重ねて、今度の一大事、如何遁れ給ふべき。御首は、某つぎたりといひけるにぞ、田中、甚だ気色を変じ、何と申さるゝぞ三成殿。過言がましき仰に候。日本の諸士の内に、田中が身上、白地にいひし人は覚えなし。御辺が、当時出頭して、諸事思ふ儘に振舞はるゝ迚、首をつぎたるは、命を助けたるは抔とは、無用の過言に候。縦ひ、讒言するとも、上には豈用ひ給はんや。若し罪科、紛なきに於ては、速に我が首を取つて、見参に入れ奉られよと、肘をはり、刀の柄に手を懸けて、思ひ切つたる形勢なり。時に、三成申す様、事の仔細を述べざれば、御気に障りたるも尤なり。秀次公、御謀叛企て給ふ事、隠れあらざれば、太閤の上意に、中村は病気に付き、引籠るなれば、知さざる事もあるべきが、兵部は、兼ねて淵底を知らぬ事は、よもあらじ。当世の人心、頼み難きぞかし。急ぎ兵部をたばかりよせ、腹切らせよと仰せられしを、某、御前へ伺候して、斯程の不覚を思ひ【 NDLJP:103】立ち給ふ有様なれば、いかでか、渠等に御心をゆるし給ふべき。況んや、両人の者共、度々諫言仕る故、機嫌をそこなひ、近所にも参り難き仕合なれば、存ぜざるこそ、必定に候はんと、種々に陳じ申す故、夫はさもあるらん。されども、用意支度せんに、不審の立つべき事多からんに、兎角を知らぬといふは、心得ずと、にが〳〵しき上意なりしを、彼の者共、兼ねて物語仕る事の快いは、御野心あらんとは、努々在しも密らきき事其儀なし。弥〻万事に、目を配り、意を付け候様に、計らひ申さんと、言葉を尽して退出仕ると、語りければ、田中聞いて、某が身の上を、何者か讒言しつらんと思ひ候に、存じの外なる一大事を承り候。仰の如く、頃日は、外様ものゝ儀になり候へば、争でか、大事の企を知らせ給ふべき。上意に悪しと思召すも至極せり。さり乍ら夢にも存ぜざる段は、如何様にも陳謝申すべし。此の上は愚意を尽して、伺ひ申さんといひければ、三成悦んで、御辺は、普請場へ早早帰り給ふべし。上意の使者を以て申さんとて、田中を河内へぞ帰しける。其後、上意なり迚、使者を以て申遣しけるは、堤の普請は、誰にても申付け置かれ、秀吉公の御成前なれば、急ぎ帰京あつて、聚楽の御殿事、心を付けられ、掃除等に至る迄、気を配り、然るべき御諚の申伝へける。田中は、夫より聚楽へ参り、万端に心を付けしかども、さして、思ひ当りたる事はあらざれども、覚束なき事もありけるにや。昨日・今日、兎角の様どもを、三成がもとへ告げければ、三成、謀事はなれりとして、同年の七月八日に、登城して秀次公の逆心、事既に露顕仕る条、速に征伐なくんば、天下の大事近き憂ひたらんと、則ち一味同心の大名を誌して、認め置きし謀書をば、太閤へ見せ奉る。秀吉驚き給ひ、此の上は、議擬するに及ばずとて、石田治部少輔三成・増田右衛門尉長盛・長束大蔵大輔正家・徳善院玄以法印等を以て、急ぎ聚楽の城を御披きあれと、仰付けられければ、こは如何にと思ひながら、早速聚楽へ参りて、四人の使者申されけるは、先づ高野山の方へも、御越ありて、一旦の御憤を鎮められ、御誤なき通り、仰せひらかれなば、其の虚名、などか晴れさせ給はざるべきやと、理をせめて申されければ、秀次公も、しばし案じ煩はせ給ひ、所詮、聚楽にて兎にも角にもなるべきと、思ひ定め給ひけるが、然りと雖も、天恩父子の義を重んじ、一先、高野山へ赴かんも、是ならんかと、御心をぞ苦しめ給ひける。げにや、樹静かならんと欲すと雖も、風之を動かす習にて、秀次公、奥に入らせ給ひ、近臣白井備後守・木村常陸介・熊谷大膳、此三人【 NDLJP:104】を一間に召され、我れ今、進退爰に極まりたり。面々の心底如何とありければ、白井備後守、自余の言葉を顧みず、今聚楽を御披きあらんは、中々、勿体なき次第なり。愚、按ずるに、此三人の内、一人伏見へ遣され、一往理を尽させ、其上にも、御承引なく、討手の向はん時は、戦に真先懸けて、討つて出で一命を塵芥よりも軽んじ、討死して叶はざる時節到来せば、御腹召され給はんに、何の仔細か候はんと、気色をばらしてぞ申しける。其時、熊谷大膳申しけるは、備後守申さるゝ所も、一理あるに似たりと雖も、某、退いて愚案を廻らすに、此城にて一戦を励まし、御腹召されんずる事、流石天照大神より、譲を請けさせ給ふ王城を、穢さるゝ其恐一つ、次に太閤より請け得させ給ひし聚楽なれば、天道の悪む所其二つ、次に昨日迄も今日迄も、六十余州の関白と仰がれさせ給ひ、今更、下露々々籠城に及ばん事、日本の諸士のいひ甲斐なく思はんも其三つ、彼是、世の嘲多ければ、唯今宵、志賀の山越へ懸かり、東坂本へ移らせ給ひて、父子の礼儀なれば、一旦帝都を御開き、讒者の実否を糺し、其明なきに於ては、打向ふべし。其時は、大岳を本城とし、我々は唐崎表へ討つて出で、日本を引受けて、合戦に及ばん事、願ふ所の幸なり。凡そ御人数も、三万余はあるべし。若し御運尽きさせ、御腹召されんに、何の残念か之あらんと、募りきつてぞ申しける。斯かりける処に、木村常陸介申す様、此節に臨んで、如何に退き給ひて、御誤なき通りを、尽させ給ふ共、太閤に限りては、御宥免あるべからず。秦の子嬰果して降るを、項羽許さず、遂に殺しつ。今以て和漢相同じ、とても迫りたる御身の上なれば、四人の使者を忽ち討果し、今宵、伏見へ取懸かり、火を放ちて、城を枕として相戦ひ申さんは、弓箭取つての面目なり。君も、戦場に御名を残し給へかし。然らずんば、京中焼払ひ、帝を此城中へ、行幸なし奉り、一支へ支へなば、太閤も、などか天子へ弓を引き給ふべき。先づ京中の兵糧を取籠め、丸薬を用意して、城を固めなば、扱と仰あらんは治定なり。其時は、十分の利を得給ふべしと、手に取る様にぞ勧めける。善を見て而も怠り、時至つて而も疑ふとやらん。秀次公も、一所懸命の思案なれば、唯途方に暮れさせ給ひて、御詞もなし。常陸介重ねて申す様、斯程迄、いひがひなく、渡らせ給ふこそ口惜しけれ。唯今伏見へ御出あらんか。高野へ御登りあらんか。何れの道にも、都へとては、再び還り給ふべからず。道にて雑兵の手に掛り給ふか。遠国へ流され給ひて、俊寛が思をなし給ふか。又は介錯もなき御生害【 NDLJP:105】あらん時は、後悔ありとも、返るまじと、居丈高になりてぞいさめける。爰に、阿波木工頭進み出でて、常陸介殿申さるゝ、当理なりと雖も、伏見の大殿は、心はやき大将にて候へば、君の御謀叛、必定と思召さば、のび〳〵の沙汰あるべからず。即時に押寄せ給ふべし。只三成が、種々に讒し申すにてぞあらん。太閤の心底には、承引なきと存じ候。さあらん時、何心もなく御参勤あらば、弥〻御心も、解けさせ給ふべし。唯今、伏見へ押寄せたりとも、はか〴〵しく利を得給ふ事、思ひも寄らず。其故は、彼方は譜代重恩の士なれば、十騎が百騎にもむかふべし。此方は、大勢なりとも、諸国の借武者にて、伏見に親を持ち子を置きたる者、或は妻の愛に心引かされ、何の用にも立つべからず。又此城に籠りたりとも、厳しく合戦せば、頓て勝負も窮るべきか。遠攻に打囲まれ、数日を送らば、兵糧の乏しくならん其時は、親類・縁者に付いて降参し、敵には力をつくる共、味方の用に立つ者は候まじ。人の心の変り易きは、古今其ためし多ければ、今更いふに及ばず。さりとは頼みなき人心と、理を尽してぞ申しける。元より臆し給ふ秀次公にてましませば、げにもと思召し、聚楽を出で給はんと、志し給ふ御運の程こそ拙なけれ。頃は文禄四年七月八日、御輿一挺に、道具をも差置き、御供に三十人、歩行立にて、聚楽の城を出でさせ給ひ、伏見の城へと、急がせ給ふに、五条の橋を打渡り、大仏殿の前へ過ぎ行かせ給ひける。何とやらん前後の体、騒がしく開いて行き違ひ、人も立ち迷ひければ、供奉の人々、之ははや、討手の向ひたると見え候。雑兵の手にかゝり給はんより、東福寺に御輿を入れられ、御心静かに、御腹召され候へかしと、申し上げければ、扨は法印めに、計られつる事の無念さよ。引返し、聚楽にて腹切らんと、仰せける処に、御後より若党等馳せ来りて、はや五条辺には、敵数千騎入廻つて候へば、還御は思ひもよらずと、申しければ、秀次公、然るにても、弓矢取る身の、仮初にも乗るまじきは、興車ぞかし。馬上ならば、何なりとも、蹴散らして通らんに、犬死すべき事の口惜しさよ。常陸が詞の末、今ぞ思ひ合せたりと、宣ふ所へ、増田右衛門尉参り向ひ、馬より飛んで下り、輿の前に畏まりて、以の外の御悪みに候へば、先づ高野山へ忍ばせ給ひ、連々に御野心なき通りを、仰せ聞かれ候へと、申しければ、秀次公の仰に、聚楽を出づるより、其覚悟なれば、今更驚く儀なし。城に居て断り申すは、恐多く思ひ、是迄は出でたるなり。只今、無実にて果てなん事、何よりも無念なり。捨つる命は、露塵より【 NDLJP:106】も惜しからず。秀次程の者に、最後を知らせざる事やある。尋常に腹切るべしと宣へば、右衛門尉、承つて御生害に及ぶべきか。一旦の御憤なれば、時節を伺はせ、御自筆の御書を以て、御心底言上あらば、和睦ありて、讒者の輩を、いか様にも仰付けらるべしと、弁舌を尽して申し上げられければ、秀次公、力及ばず、夫よりも武士共に、前後を打囲まれ、大和路に差懸り、夢路を辿る心地にて、南をさして赴き給ひしは、哀なりし形勢なり。聚楽に残りし人々は、太閤の御対面も、叶はせ給はで、路よりも武士共に囲まれて、高野山へ登らせ給ふと聞えければ、皆あきれ果てたる計りなり。取分け哀に聞えしは、孺君達なり。三十余人の上臈達、わつと叫びて、其儘に前後を知らで、泣き沈み問え倒れて歎かるゝ。御子五人持ち給ふ。嫡子は仙千代丸とて、五歳に成り給ふ。次は百丸殿とて四歳、三男は於千丸とて、玉を磨ける如くにて、秀次公の御寵愛、いと浅からざりける。平日太閤へ御参勤の時には、同車にて片時もはなれ給はざりし。此度は、何とて連れさせ給はぬぞ。急いで父のおはす方へ、倡ひ行け。我も先へ行かんと、三人の若君達、声々に泣き渡らせ給へば、母上達は、詮方なさに、大殿は西方浄土と申して、目出たき国へ入らせ給ひ候。頓て御迎に参り給ふべしと、いひもあへず、猶涙にかきくれ給へば、末々の女童に至る迄、皆伏しまろびてぞ、泣きさけばるゝ。こは何となり行く世の中ぞや。斯くあるべきとだに、露計りも知らば、縦ひ、地獄の底迄も、御供申さであるべきか。神ならぬ身の浅ましさは、ついと計り心得て、後に残りし果なさよと、悲しむ声は、暫くも止む事なし。中にも、厚恩深き人々は、巡礼者の姿に、身を窶し、後を慕ひて出でけれ共、此処彼処にて改められ、力及ばず、夫よりも直に、諸国を巡るも多かりけり。斯くて、秀次公は、高野山へ登り給ひ、木食上人の坊へ案内ありければ、上人、驚き急ぎ請じ奉り、只今の御登山は、思ひ寄らざるなりとて、墨染の袖をぞぬらされける。秀次公、何も物をば宣はずして、御袖を顔におしあてゝ、涙にむせび給ひしが、我れ斯様の事あるべきとは、思ひも寄らずして、世にありし時は、心を付くる事もなく、今更浅ましくこそ候へ。自らが露の命も、早極りたれば、今にも伏見より検使来らば、自害すべし。然らん後は、誰をか頼み申すべきと、御涙ぐませ給へば、御諚には候へども、当山の衆徒、一等に訴へ申さんに、たとひ太閤、御憤り深くおはしますとも、抔永引し給はざらんやと、頼母しくぞ申しける。秀次公、法体にならせ給ひ、【 NDLJP:107】道意居士とぞ申しける。供奉の人々も、皆髻切つて、偏に後世の祈にて、上使をば、今や今やと待ちたりける処に、福島左衛門大夫・福原左馬助・池田伊予守を大将として、都合一万余騎、七月十三日の申の刻に、伏見を立ち、十四日の暮方に、高野山にぞ著きたりける。三人の上使、則ち上人の庵室に参りければ、折節、入道殿は、大師の御廟所に詣うで給はんとて、奥の院におはしけるを、上人より、此由申されければ、頓て御下向ありて、三人の上使に対面あり。左衛門大夫畏つて、御姿の替らせ給ふを見奉り、涙を流しければ、入道殿御覧じて、いかに汝等は、入道が討手に来りたるよな。此法師、独を討たんとて、事々しく振舞ふかなと、仰せければ、左馬助畏つて、さん候。御介錯仕れとの上意に候と申せば、扨は我が首を討つべきと思ふか、如何なる劒をや持ちたるぞ。入道も腹切らば、首討たせん為めに、斯くの如く、太刀をば持ちたるぞ。汝等に見せんとて、三尺五寸ありける金作りの御はかせ、するりと抜き、是見よとぞ仰せける。是は左馬助、若輩にて推参申すと思召し、重ねて物申さば、討つて捨てんとの御所存とぞ見えにける。三人の小性衆は、御気色を見奉り、少しも動きなば、中々御手にはかけまじきものをと、互に目と目を見合せて、刀の柄に手を掛け居たる形勢は、いかなる天魔・鬼神も、退くべきとぞ見えにける。入道殿は、御はかせを鞘にをさめて、如何に汝等、入道が此時に到る迄、命を惜んで居ると、臆したる様に思ふべし。路にて如何にもなるべきと思ひしかども、上意を待たずして相果てば、すはや、身に誤のあればこそ、切腹したれと、故なき者共を、多く失はれん事の不便さに、斯くはながらへしぞかし。今は最後の用意すべし。我は故なき讒言にて、相果つるとも、仕へし者共は、一人も罪ある者は、あるまじければ、御前宜しく申上げ、入道が供養に、命を助けて得させよ。面々頼むぞと宣ひしは、有難き御心底ぞと感じける。夫より座を立たせ、奥に入らせける。然る処に、上人を始め、一山の衆徒会合して、三人の上使に向ひ、当山七百余歳以来、此山へ登りし人の命を取りたる事、更になし。一旦此由を言上し、御願ひ申す。扨はと大衆、一同に申されける時に、上使の三人聞き。さる事にては候へども、とても叶ふまじき事にて候と、再三断り、問答しけるに、衆徒の評議止まざりければ、福島進み出で、衆徒の評議、尤も殊勝に覚え候。さり乍ら、時刻移りなば、我々共、勘気を蒙り、腹切らんとあるべきなれば、是非に於て、言上との思慮ならば、先づ斯く申す某を、各〻の手にか【 NDLJP:108】けられ、其後は心次第と、膝立て直し申されける。其夜は、評議に時移り、漸く明くる巳の刻計りに、入道殿、附従ひ参りたりし人々を召され、汝等是迄、来る志、返す〳〵も浅からね。多くの者の其中に、五人・三人、最後の供するも、前世の宿縁なるべしと、御涙をうかめ給ひ、如何に若者なれば、最後の程も心許なし。其上、某、腹切ると聞かば、雑兵共乱れ入り、事騒がしく見苦しかるべしと、山本主殿に、国吉の脇差を下され、是にて腹切れと仰せられければ、主殿承り、某は、御後にこそと存じ候に、御先へ参り、死出の山・三途にて、倶生神に、路清めさせ申すべしと、莞爾と笑ひ戯れしは、悠々とこそは見えにけれ。彼の脇差おし戴き、西に向ひ、十念して腹十文字に搔切つて、五臓をつまみ出しけるを、御手にかけて討ち給ふ。今年十九歳、次に岡三十郎を召して、汝も是にて腹切れとて、原藤四郎の九寸八分ありけるを下さる。承り候とて、是も十九歳にて、さも神妙に切腹すれば、御手にかけられ討ち給ふ。三番には不破万作なり。是にしのぎ藤四郎を下され、汝も我が手にかゝれと仰せければ、忝しとて、御脇差を頂戴し、生年十七歳、其頃、日本に隠れなき美少人、雪にまがふ白き肌を、おし肌ぬぎ、初花の漸やく綻ぶる風情なるを、嵐に吹き散らさるる気色にて、弓手の乳の上に突き立て、馬手の細腰迄、曳きさげたるを御覧じ、いしくも仕りたりとて、太刀あげ給へば、首は前にぞ落ちたりける。誠に彼等をば、人手にもかけじと思召す、御寵愛の程こそ浅からね。入道殿は、立西堂を召して、其方は出家の事なれば、誰かは咎むべき。急ぎ都へ上り、我が後世を弔ひ候へと、仰せければ、是迄供奉仕り、唯今、暇給はり都へ上り候へば迚、何の楽しみの候べき。厚恩深き者なれば、出家とても遁るべき僅の命永らへんとて、都迄上り、人手に掛り候はん事、思ひ寄らずと、申し切つてぞ居られける。此僧、博学多才にして、和漢の書に暗からず。富楼那の弁を持ちたれば、御前さらず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供迄致されけるは、他生の縁にてやありけん。扨篠部淡路守を召して、此度跡を慕ひ、是迄参る志、生々世々迄報じ難し。汝はとてもの事に、我が介錯して後、供せよと仰せける。淡路守畏つて、今度御供仕りたく存ずる者、いか計りあるべき。中々某、武運に叶ひ、御最後の御供申すのみならず、御介錯迄仰付けらるゝ事、一生の望、何事か、是に過ぐべきとぞ悦びける。入道殿、心地よげに打笑はせ給ひて、両眼を塞ぎ、迷悟三界誠悟十方空と、観念あつて、さらば御腰の物と仰せける【 NDLJP:109】時、篠部四方ざまの供養、三尺三寸の正宗の中巻したるを差上ぐる。右の手に取り給ひ、左の手にて心元繰下げ、弓手の脇に突き立て、妻手へ屹と引廻し、御腰骨に少し懸ると見えしを、淡路守立廻りけるに、暫く待てと宣ひて、又取直し、胸先より押下げ給ふ所を、頓て御首を討ち奉る。惜しいかな。御年三十一を一期として、南山千秋の露ときえ給ふ。哀れといふも余りあり。則ち立西堂、御死骸を治め奉りて、是も供をぞ致しける。淡路守は、関白殿の御死骸を拝し奉りて、後三人の検使に向ひ、其身不肖に候へども、此度慕ひ参りたる恩分に、介錯仰付けられ候へば、誠に弓矢取つての面目と存じ候と、いひもあへず、一尺三寸の平作の脇差を、太腹に二刀さしけるが、切先五寸計り、後へ突き通して、又取直し、首におし当て、左右の手をかけて、前へふつゝと押落しければ、首、膝に抱きて、骸は上に重りけり。見る人、目を驚し、遖れ大剛の者かな。腹きりたる者は、世に多けれど、斯かる様は、伝へても聞かずとて、諸人一同に噫というてぞ感じける。木村常陸介は、摂州茨木にて腹を切る。其子木村志摩介は、京北山に凌ぎ居たりしが、父の最後を聞きて、其日、寺町正行寺にて自害してぞ失せにける。熊合大膳は、嵯峨の二尊院にて腹を切る。白井備後は、四条の大雲院、阿波木六は、東山にて腹をぞ切りたりける。有為転変の世の習、生者必滅の理とはいひながら、昨日迄は、聚楽の春の花の宴も、今朝は、野山の秋の露と、皆散り果て給ふぞ哀れなる。扨しも関白秀次公は、類なき色好みにて、洛中・近国はいふに及ばす、遠国田舎の端迄も、大名・小名の息女によらず、町人・百姓の娘に限らず、容色の美女を尋ね出し、都へ集め給ひしが、数多の中にも、勝れたるを、別けて三十余人、寵愛せられける。金銀を鏤めたる聚楽の殿に、玉の簾に錦の茵、庭には牡丹・芍薬咲き乱れ、梅や桜の花の宴には、色を尽せし重ねの絹、裳を翻へして、なまめきしは、譬へていはん方もなかりしが、君、南山の露と消えさせ給ふと聞くよりも、黒髪は、蓬の如く取乱し、翠黛は、棘の如くになし、御髪を落し髻払ひつゝ、高野へ送る人もあり。黒谷へ遣す方もあり。思ひ思ひの寺にぞ納めらる。既に八月二日に、伏見より上使立つて、若君・上臈・夫人達を、誅すべしとの事なれば、いやが上なる悲こそは増さりけれ。斯くて、あるべきにあらざれば、我も我もと、最後の出立せられしは、芙蓉の嵐に向ひ、紅葉の霜を待ちしに似て、華麗にも又哀れにぞ見えにける。検使には、石田治部少輔・増田右衛門尉を先として、三条の橋より【 NDLJP:110】西の片原に、布革敷きて並居たり。斯くて若君達を車にのせ、上臈達の警固して、上京を引廻り、一条・二条を引下し、三条の河原へかゝりしは、牛頭・馬頭・あばう羅刹が、十悪の罪人を、無間叫喚の大地獄へ□□も、是には争で勝るべき。橋にもなりしかば、検使、車の前後に立向ひ、先づ若君達を害し奉れと、下知すれば、青侍・雑兵共走り寄り、玉の様なる若君を、車より抱き下し、替らせ給ふ父上の御首を、見せ奉れば、仙千代丸は、おとなしくも御覧じて、こはそも、何とならせ給ふぞやと、あつというて歎かるゝを、母上達は、いふに及ばず、見物の貴賤男女・警固の武士に至る迄、前後を□□、共に涙に咽びしが、太刀取の武士共、心弱くては叶ふまじと、眼をふさぎ、心本を一太刀づつに害し奉れば、母上達は、人目も恥も忘れ果て、声を揚げ、こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ。我を害せよと、空しき死骸に抱きつき、臥しまろばるゝ有様は、焼野の雉の身を捨てゝ、烟に咽ぶに異ならず。夫よりも、目録に合せて、次第々々に直さる。一番に、上臈一の台の御局、前の大納言殿息女にて、三十にあまらせ給ひける。是ぞいまはのすさみとて、
ながらへて有りつる程を浮世ぞと思へば残る言の葉もなし
二番に、小上臈於妻御前なり。三位中将殿の息女にて、十六歳になり給ふ。紫に柳色の薄絹の重ねに、白袴引きしめ、練貫の一重紺打懸け、緑の髪を半ば切り、肩の廻りゆら〳〵と振下げ、君の御首を、三度拝しつゝ、かくなん詠ぜられける。
朝がほの日影まつまの花に置く露よりもろき身をや惜まん
三番に、姫君の母上、中納言の局於亀の前なり。摂津の国小浜の寺の御坊娘にて、年は三十三、盛りに少し過ぎ給ふが、西に向ひ、南無極楽世界の教主弥陀仏と観念して、
頼みつる弥陀の教のたがはずばみちびき給へ愚かなる身を
四番に、仙千代丸の母上、於和可の前なり。尾張国日比野村下野守が娘にて、十八歳になり給ふ。練貫の経帷子を重ね、白綾の袴著て、水晶の珠数を持ち、若君の御死骸を抱きつつ、なく〳〵大雲院の上人に、十念さづかり、心静かに回向してかくなん、
後の世を掛けしえにしの栄えなくあと慕ひ行く死出の山道
五番に、百丸の母上なり。尾張国の住人山口将監が娘にて、十九歳になり給ふ。白装束に墨染の衣を打掛け、若君の御死骸を抱きつゝ、紅ぶさ付けたる珠数持ちて、是も大雲院の【 NDLJP:111】十念を受け、心静かに回向して、
妻や子にさそはれて行く道なれば何をか路に思ひ残さん
六番には、大丸の母上、於ちやの前なり。美濃の国竹中与右衛門が娘にして十八歳、白装束に、墨染の衣著て、物ごと軽々しく出立ち、兼ねて禅の智識に参学し、飛花落葉を観じ、世理無常を悟つて、少しも騒ぐ気色なく、本来無二物の心とて、
うつゝとは更に思はぬ世の中を一夜の夢や今さめぬらん
七番には、十丸の母上にて、於佐子の前なり。北野松梅院の娘にて、十九歳になり給ふ。白紋に、練貫の単衣の重ねに、白袴引縮め、捩子の衣うちかけ、左には御経を持ち、右には珠数〔〈を持ち脱カ〉〕西に向つて、法華普門品を、心静かに読誦して、入道殿並に若君、我が菩提を回向して、
一と筋に大慈大悲のかげたのむ心の月のいかでくもらん
八番には、於万の前なり。近江国の住人多羅尾彦七が娘なり。十三にぞなり給ふ。練貫に白袴引締め、紫に秋の花尽し摺りたる小袖かづき出でらるゝ。折節、病中の事なれば、見る目もいと悲しく、心もき之入るやうにぞ覚えける。大雲院の十念をうけ、掌を合せて、
何国とも知らぬ闇路にまよふ身を導き給へ南無阿弥陀仏
九番には、於与危の前なり。尾張の国の住人堀田治郎右衛門が娘にて、十六歳、是も白装束に、珠数と扇子を持ちそへ、西に向ひ十念して、
説き置ける法の教の道なれば独り行くとも迷ふべきかは
十番に、於阿子の前なり。形よりも猶勝れたる心にて、情深くぞ聞えける。毎日、法華読誦怠らず、最後にも此心をなし。
妙なれや法の蓮のはなの縁引かれ行く身は頼もしきかな
十一番に、於伊満の前なり。出羽国最上殿の息女にて、十五歳になり給ふ。東国第一の美人の由伝へ聞き、様々に仰せられ、去る七月上旬、上洛なりしが、旅の労れにて、未だ見参なかりける内に、此難儀出来ければ、淀殿の御方より、如何にもして、申請け参らせんと、心をくだかるゝ故、太閤黙止し難くや思召しけん。命を助け鎌倉へ遣し、尼になせとありければ、伏見より、もみに揉んで、早馬をうたせけるに、今一町計りにして害しける。あは【 NDLJP:112】れといふも猶余りあり。最後のきはもやさしくて、
罪を切る弥陀の劒にかゝる身の何か五つの障あるべき
十二番には、於世智の前なり。上京の住人秋葉が娘にて、三十に余られける。月の前花の宴、事にふれて、歌の名人とかや。最期の時も、先を争はるれども、目録究りたれば、是非なく、辞世に、
冥途にや君や待つらん現とも夢ともわかず面影にたつ
弥陀顆む心の月をしるべにて行かば何地に迷あるべき
十三番には、小少将の前なり。備前国本郷主膳が娘にて、廿四になられける。是ぞ関白公の御装束を承はりし人ぞかし。
長らへば猶も憂目を三つ瀬川渡りを急げ君や待つらん
十四番には、左衛門の後殿なり。岡本某が後室にて、三十八とかや。琵琶・琴の名人にて、歌書の師をぞせられける。是ぞ今はの気色にて、
しば〳〵の浮世の夢の覚め果てゝ是ぞ実の仏なりける
十五番には、右衛門の後殿なり。村瀬何某が妻とかや。村井善左衛門が娘にて、三十五にぞなられけるに、十一にて村瀬にはなれ、今亦重きが上のさよ衣、かさね〳〵のうき涙、よその袖さへ、かわく間もなし。
火の家に何か心のとまるべき涼しき道にいざや急がん
十六番は、妙心老尼なり。同坊の普心が妻にてありけるが、夫にはなれし時も、自害せんとしたりしを、無理にとゞめて、御伽うばにぞなられける。此節も最期の供を悦びて、
先立ちし人を知るべに行く路の迷を照らせ山の端の月
十七番は、於宮の前なり。是は一の台の御娘、父は尾張の何某にて、十三にぞなられける。母子を寵愛ありし事は、畜生の有様ぞと、太閤深くねたみ思はるゝとかや。最期の体、おとなしやかに念仏して、
秋といへば未色ならぬ裏葉まで誘行くらん死出の山路
十八番には、於菊の前なり。津の国伊丹兵庫が娘にて、十四歳にぞなられける。大雲院の上人に、十念をさづかりて、心静かに取直りて、
【 NDLJP:113】 秋風にさそはれて散る露よりも脆き命を借みやはせん
十九番に、於喝食の前なり。尾張の国の住人坪内市右衛門娘にて、十五歳なり。武士の心にて、男子姿あり。器量類あらざれば、児の名を付けられけり。萌葱に練貫の一重衣の重に、白袴引きしめて、君の御首を拝し奉りて、残りし人に打向ひ、急がせ給へ。三つ瀬川にて待ち連れ参らせんと、検使のかたにも暇乞し、西に向ひて、高声にかく二三返ぞ吟じける。
闇路をも迷ひて行かん死出の山清める心の月を知辺に
廿番には、於松の前なり。左衛門の後殿の娘にて、十二歳とかや。未だ幼けなくおはしぬれば、唐紅の秋の花づくし縫びたる薄衣に、練貫のうちかけ、袴の裳をかい取つて、母上の死骸を拝しつゝ、
残る共存らへ果てん浮世かは終には越ゆる死出の山道
廿一番には、於佐伊の前なり。別所豊前守が内なる客人といふものゝ娘にて、十五の夏の頃、始めて見参し、新枕の後、中うちたえて召さゞれば、拙き身をぞ恨みけるが、またある酒宴の折に、君やこし我や行かんと謡ひしより、一入寵愛せられけるが、後に如何思ひけん。いたはる事候とて、久しく出でざりしが、最後の御跡を、慕ひ参るこそあはれなり。心静かに、法華経を読誦して、
末の露もとの雫や消えかへり同じ流れの波のうたかた
廿二番には、於古保の前なり。近江の国の住人鯰江権之助が娘にて、是も十五の春の頃より寵愛ふかし。閨の袖の香、浅からずなりそめて、花月の戯に、心うかれつゝ、後世の事は、思ひもよらざりしが、此期には、大雲院の十念を受け、回向して、
悟るとも迷ある身もへだてなき弥陀の教を深く頼まん
廿三番には、於仮名の前なり。越前国より木村常陸分、呼寄せし女臈とかや。十七歳にぞなりにける。心勝れて賢かりければ、泡の如くに観念して、
夢とのみ思ふがうちに幻の身は消えて行く哀れ世の中
廿四番には、於竹の前なり。一条辺にて、或方の拾はれし娘とかや。類なき美人にて、昔の如意の妃にぞ思合せられたり。仏もと古往今来なく心又去来の相なしと、悟り給ひて、
【 NDLJP:114】 来りつる方もなければ行く末も知らぬ心の仏とぞなる
廿五番には、於愛の前なり。古川主膳が娘にて、廿三なり。法華読誦の信者にて、草木成仏の心を詠じける。
草も木もみな仏ぞと聞く時は愚かなる身も頼もしき哉
廿六番には、於藤の前なり。大原参河守が娘にて、洛陽の生、廿一にぞなられける。槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受けて、
尋ねゆく仏の御名をしるべなる道の迷の晴れ渡るかな
廿七番には、於収の前なり。斎藤平兵衛が娘にて、十六とかや。是も十念を受けて、西に向ひ掌を合せて、
急げ唯御法の船の出でぬまに乗り遅れては誰を頼まん
廿八番には、於国の前なり。尾張の国大島新左衛門が娘にて、廿一なりしが、肌には白惟子に山吹色の薄衣の襲に、練貫に阿字の大梵字、書きたるを掛けて、裳を取つて歩み寄り、入道殿・若君達の御死骸を拝し奉り、君の御首に向ひて、直らるゝを、太刀取り西に向はせ給へといへば、本来東西なし、急ぎうてとて、其儘に、
名ばかりを暫し此世に残しつゝ身は帰行くもとの雲水
廿九番には、於杉の前なり。十九歳なるが、去りし年より労気を痛はり、鳳閣鸞台の枕も、遠ざかりしかば、浮世を恨み、いかにもして、姿をも替へばやと、願はるれども叶はずして、いと哀れを催されける。
捨てられし身にも縁や残るらん跡慕ひ行く死出の山道
三十番には、於あやとて、御末の人、心静かに回向して、
一声にこゝろの月の雲晴るゝ仏の御名を唱へてぞ行く
三十一番は、東とて六十一歳、中居・御末の女房を預りし人なり。夫は七十五にて、三日以前に、相国寺にて自害しける。
三十二番に、於三、是よりは御末の女房の内なり。
三十三番に、津保見、三十四番、於知母、
右、三十四人の女臈達を、午の刻より申の終迄に、蕣の花に先立つ朝露と、消えられしは、【 NDLJP:115】知るも知らぬも、見る人・聞く人毎に、肝もさけ魂も消えて、涙にくれぬものはなし。殊更に、死骸をば、親類だにも給はらで、大に穴を掘らせ、せんだらが手にかけ、足を取つて投げ入れし有様は、譬へていはんものぞなき。斯く最期に臨んで、辞世の詠歌までせられし風情ども、万年の後迄も聞きて、涙を催すべし。聖智名将の所為にはあらず、太閤の強暴なるゆゑ、婦人・孺子億万を殺したりとも、何の益かあらんやと、諸人評して、御代の短かゝるべき事とぞ申しける。是はみな、もとは三成が悪逆より出でたるなり。其後、慶長三年の春の末より、秀吉公、御心地例ならず、日々に衰へ給ひ、万薬を失ひ、百医手を拱し、同八月十八日に、春秋六十三歳にて、伏見の城に於て、終に薨去ならせ給ふ。是に依つて、天下の大小名、伏見の城に会盟し、声を呑んで哀傷せられける。扨あるべきにあらざれば、御遺命に任せ、洛陽東山に廟祠し、勅許ありて、豊国大明神と諡号を賜はりけり。
蒲生氏郷は、藤家房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤なり。永禄十一年、信長公、江州に討つて入り、佐々木を攻め傾け給ふ時、氏郷の父蒲生兵衛大夫信郷、信長の味方に参り、子息鶴千代〈氏郷幼名〉の十三の歳、証人とて信長へ進し、近習に伺候せられ、奉公、他に異にして、利根発明なりければ、信長の御意に叶ひ、或時宣ひけるは、汝が眼睛常ならず、何さま只者にてはあらじ。我が壻にするぞと契約し給ひけり。元亀元年、信長、越前の国へ発馬の時、氏郷十五歳にして、鎌を合せ高名を励す。是初陣なり。其後、濃州岐阜の城にて元服あり。其頃、信長、弾正忠にておはしければ、忠の字を給はりて、蒲生忠三郎氏秀と名づけらる。秀吉公の代に至り、秀の字を憚りて、氏郷と改めらる。文禄元年の初陣より、文禄四年迄、氏郷自身の高名三十六度なり。太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任せらる。始めて南伊勢五郡十二万石を領す。其後、数度の忠戦、秀吉感心斜ならず、其賞として、奥州会津七十万石を給はり、又奥州の軍功に依つて、二十万石加恩地、合せて百二十万石なり。斯くて、三成かねて工みし如く、関白秀次公は、思の儘に亡しければ、直江兼続が密談の通、蒲生氏郷を失はん事を計りて、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部に内通し、能く示し合せて、氏郷を掃部が茶の会盟に請じ、酒を進め、毒を飼ひけるに依つて、同二月七日、氏郷四十歳にして、俄に身心悩乱し、逝去せられけるこそ、いたはしかりし事どもなれ。三成は、直江が方へ、此由ひそかに通じ知らせ、悦びあふ事限なし。扨氏【 NDLJP:116】郷の長臣蒲生四郎兵衛に内通し、余の家臣共と、不快ならしめて、則ち蒲生の家を、四郎兵衛一人に打任せ、心の儘にぞさばかせける。其上に、隠密の御朱印迄を下しけり。之に依つて、四郎兵衛、万事に付無作法のみなれば、前方出頭せし老臣亘八右衛門等、甚だ彼が不義を憤る。之に依つて、四郎兵衛も仲悪しければ、奇怪に思ひ、須賀太左衛門・中島嘉内両人に通じ合せて、会津の城にて、闇討にぞしたりける。之に依つて、蒲生源左衛門・稲田数馬・町野左近等、四郎と遺恨になりて、家中二裂に分れて、大に騒動しける由、聞えければ、彼等を伏見へ召のぼせられ、対決に及びし時、四郎、懐より蒲生家の支配、一人に仰付け給ふ御朱印を取出し、差上げけるに依つて、命をば助けられ、知行四万石を没収せられ、加藤清正の預として、高麗へぞ渡されける。扨蒲生氏郷の息男秀行をば、家中騒動の罪科に事寄せ、百二十万石を取上げ、唯十八万石になして、宇都宮へぞ移しける。会津をば元より議したる事なれば、慶長三年の春、則ち上杉景勝にぞ給はりける。
上杉神刺原の新城を取立つる事
景勝、会津へ帰城あり。直江山城守も帰著して申しけるは、唯今の御居城山の内の城は葦名盛重代々より、卑湿の地にて、水土悪しく、上下病人多し。山の内より八里隔つる神刺原は、佐野川に沿ひて、地高く勢秀で、城郭に第一の所なり。是へ山の内の城を引き候はんと申しければ、景勝聞き給ひ、昔とちがひ、唯今は城を取立つる事、公儀へ達せずしては叶はずと、申されければ、直江は聞きもあへず、我等、大坂を罷り出づる時、奉行衆を以て、秀頼公にも、淀殿へも達し候て、事済み候間、御気遣あるまじくと、申しければ、景勝も、其意にぞ任せられける。斯くて直江は、数万の人夫を遣し、神刺原に新城を拵へけるに、二月十日に、島倉弥左衛門総奉行として、城地の普請始あり。会津四郡・仙道七郡・長井・刈田・佐渡・庄内より、人夫八百万人を集め、桂がだけの峯々より、大石を引き出し、夜を日についで急ぎける。其外、天下に名ある浪人共を召抱へ、会津七口の道橋を造らせ、武具・馬具の支度怠なし。之を聞きて、畿内・上方の浪人、追々に会津へ下る。中にも、前田慶次郎利太・水野藤兵衛重俊は、京都より下り、山上道及・上泉主水は、上野の国より会津に赴き、其外三百余、会津へぞ下りける。山上道及は、首供養三度せし者なり。上泉主水は浅葱しなへをさし、利根川の先陣をせし兵なり。【 NDLJP:117】前田慶次郎は、加賀大納言利家の従弟なり。隠れなき兵なれども、不断の行跡、おどけ者故、加州を立退き浪人たり。此者の事、語るに詞なく、記すに筆にも及ばざる事共なり。景勝へ奉公に出づる時は、法体にて穀蔵院ひよつと斎と名づけ、衣物二幅袖にして、長袖なりと称す。白四半に大武辺者と書きたり。其上、皆朱の鑓を持たせたる故に、人々之を咎め、直江山城守組になりしに、其頃は玳瑁の鑓、皆朱の鑓は覚の士ならでは、差させざりし故、皆上杉古参の兵、之を咎めしなり。されども、慶次郎に、朱柄の鑓、無用といひ難しとて、右の咎かゝりし兵、韮塚理右衛門・水野藤兵衛・藤田森右衛門・宇佐美弥五左衛門四人にも、朱柄の鑓赦免せしが、最上長谷堂合戦に、此四人と慶次郎と、一同に鑓を合せ、高名せし故、世の人、称美斜ならず。又白四半に大武辺者と書きたるを、上杉家中平井出雲守・金子次郎右衛門とがめて、謙信以来、武士の花の本と、天下にて唱ふる当家中にて、押出でたる大武辺者とは、中々指物にさゝせまじ。蹈折つて捨てんと訇りける。慶次郎は、目もあやに打笑ひ、流石田舎衆なり。文字のかなの清濁を弁へられず。我れ永々浪人にて、貧しき故に、大ふべん者と申す事なり。べんをば、清みて読み、ふを濁りて読まるゝ故に、皆皆腹を立てられ候。我が指物は、大ふべん者にて候と申して、大に笑ひければ、上杉家中の士共、興をさましけるとかや。
加州前田利長逆心の沙汰并利長人質進上の事
三成より、密かに謀を囘らし、加賀肥前守利長謀叛の由、京・大坂に披露ありしかば、御所は、丹羽五郎左衛門尉長重、時に小松の宰相と号するを召し、肥州、逆心これあり、貴殿は小松在城、金沢口一の手先なれば、先手致さるべしとて、手自ら吉光の脇差を給はり、又大聖寺の城主山口玄蕃允弘正をも、長重に相添へられける。元より曽てなき事なれば、利勝大に驚き、横山大膳へ、森平左衛門・寺西宗養・斎藤刑部を差登せ、血判誓紙にて、全く逆心なき由、申訳これあり。御母儀芳春院を、江戸へ人質に下し、新将軍の御息女を、利長の嫡子犬千代丸へ遣され候はんと御約束にて、加州征伐は止みけり。〈犬千代、後肥前守利常といふ。〉
上杉使者藤田能登守上洛の事
【 NDLJP:118】慶長五年正月朔日、御所は、大坂の城西の丸におはして、諸大名の礼を請け給ふ。其中、在国の大名上杉景勝・毛利輝元・前田利勝は、使者を差登せ、年頭の祝儀を申上げられけり。景勝が使者藤田能登守
〈会津の津川の城主〉事、前々より御所御存じある故、御前近く召し、其方、会津へ罷帰り候はゞ、天下仕置の事、相談すべき事も繁多なり。又豊国の御社、御普請造営奇麗に出来申し候間、参詣の為め、景勝早々上洛し給ふべき由、申達すべしとて、能登守に、さま
〴〵御懇意、其上青江直次の御腰物・銀百枚・小袖二十下され、藤田は会津へ下りける。後に沙汰せしは、能登守、是より御所へ心を寄せ奉り、一度奉公仕りたしとの密々の御約束、申上げ候とかや。
上杉謀叛の沙汰
其春より、風聞ありしは、上杉中納言景勝、新城神刺原を取り立て、関東・北国・畿内・遠境の諸浪人数千、召抱へ候。中にも、山上道及・上泉主水・前田慶次郎等の名士数百騎これあり。逆心疑なき旨、京・大坂に披露し、其沙汰、夥しかりし処に、二月朔日に、越後の国の守護堀久太郎秀治家老、堀監物直政、一書を以て、大坂へ申上げけるは、景勝、天下の諸浪人を召抱へ、神刺原に新城を取立て、口々の道橋を造り、馬・物具・弓・鉄炮用意の事も、夥しき次第なり。殊に越後は、上杉の旧領なれば、国中の民・百姓、景勝を慕ふ事、父母を思ふが如し。之に依り、一揆を起さんかと気遣ひ、枕を傾け眠る事を得ず。公儀、もし忽に御沙汰候て、事延び候はゞ、天下の大事に罷成るべき旨、註進申上げけり。又御所の御家老榊原式部大輔康政、上州館林在城なれば、堀監物方より、度々、会津表の註進ありて、康政よりも、頻に申上げられしかば、御所も、増田・長束・徳善院へ、御相談これあり、上方より会津へ諸浪人の下る事を、禁制し給ふ。其砌、本多佐渡守正信は堀監物使者を呼びて、詳に会津表の様子尋ね問ふに、彼の使者申しけるは、監物事は、直江山城守と宿意これあり候。其仔細は、去々年景勝、会津へ移られ、其跡へ堀久太郎罷越し候時分、既に冬になり候故、越前の旧領年貢は、半分は納め取り候へども、越後へ罷越し候に付き、其納め米を蔵に納め、公儀御代官へ相渡し、越後へ罷越し候処に、直江山城守指図にて、越後一国の年貢、半分過納め取つて、会津へ罷越す。是により、監物方より断を立て、越前の納米は、皆国に還納せし間、越後の当年貢、其元へ納められ候半【 NDLJP:119】分を此方へ返納致さるべしと、申遣しければ、直江、曽て承引なし。之に依り、監物と直江と、中悪しく罷成り、常々忍の者を、会津に入れ置き、上杉家中の様子を承り候に、謙信以来、或は罪科に依り、又は故これありて浪人し、越後に蟄居せし上杉家の諸浪人、斎藤八郎
〈赤田の城主斎藤下野守朝信が弟なり。〉・同三郎左衛門・丸田左京・朝日采女・宇佐美民部〈柏崎城主宇佐美駿河守定行が子〔孫なりイ〕〉・其子様三郎〈後に兵左衛門といふ。〉
安田平八・加地右馬助・万貫寺源蔵・矢尾板主膳・竹俣壱岐守・長尾喜左衛門・柿崎参河守
〈柿崎和泉守景家が子、或は弟源左衛門〉等、二千余人の方へも、直江山城守内意を以て、密々に合体し、一揆を企て候由申し候と、返答しければ、本多佐渡守、此段を御所へ申上げけり。
堀久太郎、越後へ入部せしめ、家老堀監物等より、国中へ触れ渡し、当年貢を納め取らんとす。百姓共曰く、時分既に冬にて候。年貢半分は、上杉殿へ納め候間、其分は納め候事、罷りならずといふ。監物方より、直江山城守方へ申遣し候は、納め取られ候当年貢半分、此方へ返し給ふべしとありしに、直江返答に、久太郎殿、越前を御出で候砌、越前の当米半分納め取るべく候。会津領も、前の地頭蒲生秀行、当年貢半分納め取りて、宇都宮へ移られ候へば、景勝も、其残り半分を納め候。越後にて納め候半分を、返納致すべき仔細なしと、肯はず。重ねて監物、使者を以て、越前の当年頁を残し、蔵に納め置き、公儀へ差上げ候間、越後半分の年貢は、戻し候へと乞ひければ、直江、笑つて曰く、越前の年貢半分を納め取らざるは、監物が誤なり。左様のうつけたる同類には、此方には罷りならずと、嘲弄せしかば、監物、根深く遺恨に思ひしとなり。
御所は、監物が註進の一書を、増田右衛門尉長盛・長束大蔵大輔正家に見せ給ひ、扨談合終りて、長盛・正家方より、景勝上洛然るべき旨、急度申遣されける処に、直江山城守返事に、先年太閤秀吉公、景勝を召し、越後より会津へ、所替へ仰付けられ候時、景勝固く辞退して、越後は太祖上杉憲顕、鎌倉基氏〈尊氏公次男〉に、越後を給はりてより以来二百余年、数代不易の旧領なり。願くば、会津へ参り候事は、御免下され候へと、申上げし時、秀吉公上意には、其方の所存、聞召し届けられ候。さり乍ら、奥州は大国にて、古より一揆起る事、数十度なり。其方の武器ならでは、治め候事叶ふべからず。此故に、本領の外に、加恩の地を添へ、百五十万石下され候へ。其上、三年在国を御免なされ候由、御前にて相極まり候間、唯今自分上洛の事、存じも寄らず候。さり乍ら、召に依つて上洛の儀は、格別の儀にて候と、御請申上げられざりしかば、【 NDLJP:120】御所、御不興少からず、上杉退治あるべき旨、内々思召し立ちけり。出羽・奥州・下野・常陸の辺、騒動斜ならず。佐竹義宣も、景勝一味の由、沙汰ありしかば、御所より召状を遣されけるに、義宣、病と称して上洛せず。さり乍ら、景勝一味は仕らざる旨、返報を差上げけり。
藤田能登守栗田刑部会津を立退く事
今年三月十三日は、謙信廿三年の遠忌に当りければ、会津に於て、法華経一万部の法事ありしかば、廿一箇城の家老共、皆会津へ来り集る。中にも、甘糟備前守清長は、刈田郡白石の城にこれあり。其境、政宗領と入り組み、仙台より、僅に廿里を隔てつゝ、殊に、伊達の家老石川大和守昭光が居城する金山の城と相対せり。四海静謐の時だに、上杉・伊達中悪しく、境目、互に油断なし。まして頃日、世上の騒により、両方怠る間もなし。此度会津にて不識庵謙信、廿三年忌の大法会あるに付き、甘糟も、此法席に参詣せん事を望みしかども、若し其留守へ、取懸けらればと、遠慮を廻らし、使者を懇に石川昭光に申遣し、三月六日に、和談相調ひ、則ち人質を取替し、同七日に、白石の城を立ち、会津へ赴きけり。其壻登坂式部と、家老豊野又兵衛に、留守を預け、其身は会津へ赴きけり。本庄越前守繁長も、嫡子出羽守を、福島の城に残し、繁長は会津へ赴きけり。浜田大炊助長義も、簗川の城は、政宗境目なれば、横田大学・筑地修理を留守に残し、会津へ参りけり。十三日には、謙信追善の法会、事落なく相済みける処に、十五日に、藤田能登守、俄に会津を立退き、妻子を引連れ、坂東道六十里を、〈上方道二十八里、〉一日一夜に馳せ過ぎ、野州那須へ駈け入り、其より江戸へ参り、程なく上方へ上りけり。是は当正月、大坂にて御所の御懇意を請け、御腰物金銀等拝領の事露顕し、内々誅せらるべき様子なりけるに依り、立退きたり。又同家中栗田刑部も、藤田と一味にて、会津を立退きけるを、直江山城守聞き付け、岩井備中守・木戸監物を追手にかけ、南山口にて追詰め、刑部並に妻子・家人百廿七人討果し、則ち其首を獄門にかけたりけり。其末子一人生残り、後には栗田刑部と名乗り、宇佐美造酒助勝興と同時に、寛永の初に、水戸中納言頼房卿へ召出さるゝとなり。宇佐美勝興は、上杉謙信の家老宇佐美駿河守定行が孫にて、宇佐美民部少輔勝行が次男なり。
藤田能登守上洛の事
【 NDLJP:121】
三月廿三日、藤田能登守は、這々江戸へ落着き、景勝逆心の旨、申上げしかば、新将軍、委細に聞召し届けられ、能登守が口上の一書を以て、早飛脚を大坂に上せられ、其跡より能登守も上りければ、御所は、藤田が一書を、備前中納言秀家並に奉行中へも見せられ、此上は、某、直に馳向つて、退治仕るべしと宣ひけり。秀家も、生駒雅楽頭親正・増田右衛門尉・長束大蔵大輔正家も、内意は景勝・義宣と同意なれども、詐り驚きて申しけるは、太閤御他界の後、幾程もなく、京・伏見騒動し、遠国御下知を背く事、曲事の至り、是併し乍ら、若君、御幼少の故なりと呟きける。然れども、御所は、筑前中納言秀秋よりの内通にて、秀家奉行共、景勝・義宣一味にて、謀叛を起させける由、詳に御存じなりけれども、さあらぬ体にもてなし、宣ひけるは、奥州は、我が領分下野と隣なれば、他の手へ渡す道なし。某罷向ひ、追討仕るべしと存じ候。さり乍ら、再応は使者を遣し、色々、異見を加へ、景勝逆心を翻し、上洛仕り候はゞ目出度候。承引仕らず候時は、急度討果し申すべしと、宣ひければ、秀家奉行等も、すはや、屈竟の事こそ出来たれと、心には悦びつゝ、弥〻上杉・佐竹へ内通油断なかりけり。藤田能登守は、御前より一万八千石下され、野州烏山の城主となる。其後、大坂夏の御陣に、榊原遠河守康信に、差添へられける処に、五月六日、若江合戦に、下知悪しくして、藤田、御勘当を蒙り、流罪仰付けられ候。元来は、古主景勝を背きける逆意を御悪みなされ、一旦召出さるゝと雖も、終には御勘当とかや。
伊奈図書助河村長門守会津へ下さるゝ事
御所は、備前中納言秀家ならびに奉行中と御相談これあり。重ねて、会津へ使者を下さる。但し書状の儀は、豊光寺承兌長老より差越され、然るべしとて、則ち其の儀に及びける。書状にいはく、
一、態〻以
㆓使札
㆒申達候。然者、景勝卿、御上洛遅滞に付、内府公、御不審の儀不
㆑少候。上方雑説穏便に無
㆑之に付、伊奈図書・河村長門守被
㆓差下
㆒候。此段は、使者口上に可
㆓申達
㆒候得共、他年申通じ候上は、愚僧笑止に存じ如
㆑此候。神刺原の新地被
㆓取上
㆒、越後津川口道橋被
㆑造候段、何筋にも不
㆑可
㆑然候。中納言殿、御分別相違候共、貴殿油断と存候。内府公御不審無
㆑拠候。
【 NDLJP:122】一、景勝卿、別心無㆑之候はゞ、霊社の起請文を以て、御申聞可㆑被㆑成候。内府公御内存に而候事。
一、景勝卿、律儀なる御心入は、太閤様以来、内府公御存之事に候べ共、仰分けられの品さへ、相立候はゞ不可有異議事。
一、近国之堀監物、一々申上候間、御陳謝堅く無之ば、御申訳相立申間敷哉。何廉御心中に可有事。
一、去年の冬、北国肥前守利勝違義之処、内府公、順路なる思召に而、無㆓別儀㆒思ひの儘に、静謐仕候。是皆前車のいましめにて候間、其許、兼而御覚悟尤たるべくとの事。
一、京都には、増右・大刑少、万事内府公へ可㆓申合㆒候間、御申訳候はゞ、可㆑有㆓御申越㆒候。榊原式部へも被㆓仰越㆒可㆑然事。
一、千万も不㆑入、中納言殿御上洛遅々に付、如㆑斯に候間、一刻も早く御上り候様に、貴殿可㆑被㆓相計㆒事。
一、上方に而、専ら沙汰之事は、会津に而武具を被㆑集候と、道橋被㆑造候との事に而候。内府公、一入、中納言殿上洛御待ち被㆑成候事は、又高麗〔ナシイ〕へ、御使者被㆑遣候間、若し降参不㆑仕候はゞ、来年か来々年、御人数可㆑被㆑遣候。其御相談可㆑被㆑成由に候間、御入洛近々可㆑然候。其上にて、無㆓疎意㆒被㆓仰訳㆒候様に、少しも早く御上洛尤の事。
一、愚僧は、貴殿と数十年無㆓等閑㆒申通じ候得ば、何事も笑止に存じ、如㆑斯候。其他の存亡、上杉の興廃のさかひに候条、被㆑廻㆓思案㆒之ほか、他事有間敷候。万端使者口上に申含め候。恐惶謹言。
卯月朔日 豊光寺 承兌
直江山城守殿御宿所
此書状を、使僧に持たせ遣はしけり。御所よりは、伊奈図書助・河村長門守差下さる。但し河村は、増田右衛門尉家人たりと雖も、長門が弟、直江方に奉公して罷在り候。其便り、よければとて差下されけり。両使、会津へ下著し、直江に対面し、御直に秀家奉行中の存底を申達し、兌長老の書状を渡しけり。直江申しけるは、諸浪人を召抱ふる事は、御加増領にて、会津へ移られ候故にて候。武具を集め候事は、武家の習ひ珍しからず候。新城を取立て候事は、【 NDLJP:123】大坂罷在り候砌、奉行中へ申達し候。上方の武士こそ、茶の湯・庭・造り花・数寄・茶入・炭斗・ふくべ・茶筅抔を専に致され候へ。上杉家は、昔より他家に勝れ、武勇を専一に仕り候故、物具の仕度は、珍しからず候抔と、悪口まじりの御返事に及びけり。又、兌長老へは、直江返報あり。其状に曰く、
一、今朔日の尊書、昨十三日に著、具に拝見多幸々々。
当国の儀、於其許種々雑説申すに付、御所様、御不審の由、尤無㆓余儀㆒候。併し京・伏見の内に於てさへ、色々無㆓心得㆒雑説無㆓止時㆒候。況哉、遠国之景勝、若輩といひ、似合たる雑説と存候。不㆑苦儀に候条、尊慮安かるべく候。重而連々可㆑被㆓聞召届㆒候事。
一、景勝上洛延引に付、何角と申廻候由、不審に存候。去々年国替無程上洛、去年九月下国、当年正月時分、上洛被㆑申候而は、いつの間に、仕置可㆑被㆓申付㆒候哉。就中、当国は、雪国に而、十月より三月迄は、何事も不㆓罷成㆒候。当国案内者に御尋可㆑有候。然者正月より雑説に、逆心を企てたるにより、上洛延引に而不㆑可㆑有㆑之候。何者か、景勝、逆心を具に存じたるやと申成す故と、推量せしめ候事。
一、景勝、於㆑無㆓別心㆒は、誓紙を以てなりとも可㆓申上㆒由、去々年以来、数通の起請文、反古に成候はゞ、重而不㆑及㆓申入㆒候事。
一、太閤様以来、景勝律儀の仁に思召候はゞ、今以別条不㆑可㆑有候。世上の朝変暮化とは、相違候事。
一、景勝心中、毛頭別心無之候得共、讒人の申儀、御糺明もなく、逆心と思召候はゞ、不㆑及㆓是非㆒候。尚又、御等閑なきしるしに候はゞ、讒人を引合、是非御尋可㆑有候。左様に無㆑之候はゞ、御所様御表裏と可存候事。
一、北国肥前殿思召儘、被㆓仰付㆒候由、御威光不㆑浅存候事。
一、増右・大刑少御出頭の由、珍重に候。自然用所の儀、可
㆓申越
㆒候。榊原式大は、景勝表向の取次に而候。然者、景勝逆心歴然に候はゞ、一往は異見に被
㆑及候而こそ、侍の筋目、又御所様御為めにも、可
㆑被
㆓罷成
㆒処に、左様の分別こそ不
㆓相届
㆒候共、讒人堀監物、奏者に被
㆑仕、種々以
㆓才覚
㆒可
㆑被
㆑讒事には無
㆑之候。忠臣歟・佞人歟、御聞別次第に、重而頼入候事。
【 NDLJP:124】一、雑説第一、上洛延引故に候。御使者江如㆓申演㆒候事。
一、第二、武具集候事、上方武士は、今焼炭斗・ふくべ以下、人たらし道具御所持持候。田舎武士は、鑓・鉄炮・弓矢之道具、支度申候。其国々之風俗と思召し、御不審有間敷候。たとひ、世上に無㆑之不㆓似合㆒道具、用意被㆑申候共、景勝不肖之身、何程之事可㆑有㆑之哉。天下に不㆓似合㆒御沙汰と令㆑存候事。
一、第三、道造り・同船橋被㆓申付㆒、往還之煩無㆑之様に仕る儀、国を抱へ候役に而候条、如㆑此候。於㆓遠国㆒も、船橋道造候。然ば端々残候処も、可㆑有㆑之候。淵底堀監物可㆑存候。当国へ被㆓罷移㆒、仕置申付る上は、本国と云、久太郎を蹈潰し候に、何の手間入るべく候哉。道造迄も不㆓断立㆒候。景勝領分越後之儀は、不㆑及㆑申、上野・下野・岩城相馬政宗領、最上・田村仙北へ相続き、いつにても道造る事、同前に候。自余之衆は、何共不㆑被㆑申候得共、堀監物計、道造りにおぢ候而、色々之儀申来候。能々弓矢を不㆑知無分別者と、可㆑被㆓思召㆒候。景勝、天下に対して逆心有㆑之は、諸境目・堀切ふさぎ、防戦之支度こそ、可㆑被㆑仕候へ。十方へ道を造り、逆心の上、自然人数取向候はゞ、一方の便にさへ、罷成間敷候。況や、十方を防戦の事、罷成者に候はん哉、縦、他国へ罷出候共、一方へこそ、景勝相当の出陣可㆓罷成㆒候に、中々不㆑及㆓是非㆒候。十方共に、如何として、可㆓罷成㆒候哉。うつけ者と存候。景勝領分道橋申付くる体、従㆓江戸㆒節々の御使者、白河口の体、可㆑為㆓御見聞㆒候。尚御不審候はゞ、御使者被㆑下、所々境目の体、御見せ候はゞ、御合点可㆑参候事。
一、無㆓御等閑㆒間にても、亦以後虚言に成候様の処は、自他被㆓仰遣㆒間敷候。高麗降参不㆑申候はゞ、来々年人数遣し候と御諚候は、可㆑為㆓虚言㆒候歟。一笑々々。
一、景勝、当三月は謙信之追善に相当候条、左様之際を明け、夏中には、為㆓御見廻㆒上洛可㆑被㆑仕内存故、人数・武具以下、国の覚仕置の為めに候之間、在国中急度相調へ候様にと、用意被㆓申付㆒処に、増右・大刑少より被㆓申越㆒候分は、景勝逆心、穏便にもならず候様に候間、尚別心なき旨、上洛尤の由、御所様御内証の由に候とて、無㆓等閑㆒候はゞ、讒人申分有様に被㆓仰聞㆒、急度、御糺明候てこそ、御懇切の験し〔族イ〕たるべきに、無㆓意趣㆒逆心と申唱候条、無㆓別心㆒は上洛候へ抔と、乳呑子のあいしらひ、不㆑及㆓是非㆒候。昨日迄企㆓逆心㆒【 NDLJP:125】候其者も、其手だて、はづれ候へば、知らぬ顔に而上洛仕、或は縁辺、或は新知行を取、恥有㆑之をも不㆑顧、人の交をなし候当世風には、景勝身上不相応に候。心事無㆓別儀㆒候へ共、逆心、天下に無㆑隠候はゞ、むざと上洛致し候ては、末代律儀の名・弓箭の覚失候条、讒人引合せ、無㆓御糺明㆒候はゞ、上洛罷成間敷候。右の趣、景勝利歟非歟、不㆑可㆑過㆓尊慮㆒候。就中景勝家中藤田能登守と申者、去月半、当国を引切、江戸へ罷移、夫より上洛仕候由に候条、万事知れ可㆑申候。景勝被㆑違候歟。御所様御表裏歟。世上の沙汰次第の事。
一、千万句も不㆑入、景勝別心毛頭無㆑之候。上洛之儀は、不㆓罷成㆒候様に御支度候条、不㆑及㆓是非㆒候。此上も、御所様御分別次第、上洛可㆑仕候。縦、此儘、遠国に居候共、太閤様御置目相背き、数通の起請文、反古になし、其上、御幼少の秀頼様を見放し申、御所様へ不首尾に被㆑仕、此方より手出し仕候而は、天下の主に成候而も、悪人の名は不㆑遁候条、末代可㆑為㆓恥辱㆒候。此処無㆓遠慮㆒、何事を可㆑仕候哉、可㆓御心易㆒候。但し讒人の申儀、異議に被㆓思召㆒、御改なきに於ては、不㆑及㆓是非㆒候条、誓詞契約も入申間敷候之事。
一、於㆓其許㆒景勝逆心と申なし候如く、隣国に於て、会津働迚触廻し、或は城々にて人数を入、兵糧迄支度、或は境目人質を取、女の口留仕族の難説共候得共、無分別者の仕事に候之間、不㆓聞入㆒候事。
一、内々御所様へ、以㆓使者㆒成共、御見廻可㆑申候へ共、隣国より讒人打詰、種々申成候。家中より、藤田引切候条、逆心歴然と可㆑被㆓思召㆒処へ、御音信抔と被㆓申上㆒候はゞ、表裏者第一と御沙汰可㆑有㆑之条、先条々無㆓御糺明㆒候うちは、罷上る間敷候由、全無㆓疎意㆒候通、折節御執成、我等に於ても可㆓畏入㆒候事。
一、何事も遠国ながら推量仕候間、有様に可㆑被㆓仰越㆒候。当世様の余情ケ間敷事候へば、自然実の事が、うそのやうに罷成候。申迄も無㆑之候へ共、被㆑懸㆓御目㆒候儀と云、天下黒白を御存の儀候間、被㆓仰越㆒候処を、実儀と可㆑存候。御心安きに任せ、むざと書進上候。慮外不㆑過㆑之候得共、愚意を申述可㆑得㆓尊意㆒ため、其憚を不㆑顧候者也。使者奏達。恐惶敬白。
卯月十四日
直江山城守兼続
在判
【 NDLJP:126】 豊光寺尊館侍者御中
右の返事並に伊奈図書助・河村長門守帰洛し、大坂に著きしかば、直江返答、並に兌長老への返状を、御所御覧之あり、直江が申条、公儀を侮り、某を嘲弄致したる仕方、事常篇に堪へたりと、大に怒り給ひ、弥〻上杉征伐の御工夫あり。同月廿八日、佐竹義宣へも、島田次兵衛を使者として、当春、使者を以て、申入れ候処に、病気と申され候条、其意に任せ候。去り乍ら、世上の風聞は、上杉一味と沙汰之あり候。さなく候はゞ、上洛早々致さるべしと、仰せ遣さる処に、義宣返事に、我れ全く、景勝に一味仕らず候。さり乍ら、誰人に寄らず、秀頼公を蔑如致し、我意をふるまふ輩へ、一矢射懸け、忠節を致すべしと存候と申されける。是は太閤秀吉公、御他界以後、御所御一人して、天下の置目を成され候を、心に持ちける故に、斯様に返答せられけるとぞ聞えける。斯様に、御所へは返答して、其後、車丹波守猛虎と申す覚えの侍大将に、五百余の勢を相添へ、加勢として、会津へ相越されけり。此丹波守は、常州車の城主なり。隠れなき勇者にて、白四半の車を書きて、指物にしたりける。是は行く所にて、人を取るといふ事なるべし。
大坂に於て上杉退治御評定の事
四月廿九日、御所は、備前中納言秀秋・生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴・増田長盛・大谷吉隆・徳善院を招き給ひ、景勝御退治あるべき旨、仰せ合され、五月朔日に、諸大名を西の丸へ召集め、景勝御退治の御評定あり。御所は、戸沢能登守・岩城伊予守常隆・南部信直・最上義光等、奥方の諸大名に向いて、奥州白川より打入り、会津の取付背炙を南山口と二筋あり。切所の体、如何あるべきと問ひ給ひければ、堀久太郎秀治が家老堀監物直政進み出で、御意の如く、関東第一の切所を大事と申上ぐる事、心得難し。猥りに攻め入らばこそ、さもあるべけれ。陣取の大事あるべきや。凡そ切所といふ時は、多く人数を用ひ難し。敵も鑓一本、味方も鑓一本、身が侍共、むざと上杉の者共に負け申すべきや。嶮岨の戦、両鼠の穴中に鬪ふが如し。勇者のみ勝つ事を得べし。大事とは、覚悟なき申分なりとて、以ての外、御機嫌悪しかりけり。最上出羽守義光申されけるは、上杉領分地広く、其兵十万にも及び申すべく候。また城、廿一箇所あり。其上、謙信以来、軍になれ、景勝代には、弥〻軍法厳密にして、士卒、法度を【 NDLJP:127】守る事世にこえたり。弓はさげ針を射、鉄炮は皆種子島にて、あたりのこまかなる事、世に又稀なり。白河の城を大手とし、西の関、白坂と蓑沢口・左靱・右靱といふ切所あり。南の関は、常州境大垬といふ。皆白河の城への海道なり。東は二本松・白石・福島・簗川の城々ありて、勢ひ政宗を圧す。西は津川・庄内の固めあり。北は米沢の城ありて、出羽口を支へたり。景勝、其内にありて、謀を廻し候へば、卒爾に御取懸り、頗る御難儀たるべしと、申上げられければ、御所、御笑ひなされ、景勝、何様に手だて致し候とも、我等に任せられ候へ。各〻の苦労には、懸け申すまじとて、御軍法を仰せ渡され、最上義光・伊達政宗・堀秀治・溝口宣勝〈伯耆守、〉・村上明〈周防守、〉・堀親直〈美作守、〉等には、皆御暇下され、早々本国へ下り、会津口の手だて仕り、御所御著陣を相待ち申すべしとありしかば、各〻大坂・伏見を立つて、夜を日に継いで、本国へぞ馳せ下りける。同月九日には、会津発向の御陣触あり。仙道には、佐竹義宣、一万八千にて攻め入るべき旨、仰せ触れらる。信夫口は、政宗二万にて攻め入るべし。最上義光は、米沢口に向ひ、村上周防・溝口伯耆・堀久太郎・同美作・加賀肥前は、越後路津川口より押寄せ、御所御父子は、七万余にて、白河口より攻め入り給ふべきにぞ極めける。同廿日に、御所より上杉景勝へ、仰せ遣されけるは、恣に在国し、上洛仕らざるのみならず、剰へ、新城を取立て、諸浪人抱へ候段、曲事是に過ぎず。関東の軍兵を催し、某、大将として、近日其表へ取懸るべき旨なりければ、景勝聞いて、神刺原の新城は、直江山城、御断申上げ相済み候に付、普請仕り移徙致し候処に、御咎め候へば、申分くべき品之なく候。此上は武士の習、手を束ね頭を延べて、御成敗を待ち申すべき様、之なく候間、太閤様御遺言を破り、是非なく一合戦仕り、勝負を決し申すべしとて、総軍兵共を、残らず謙信菩提所雲洞庵と、毘沙門堂へ召集め、景勝申渡し候は、此度御所、天下の軍兵を引率し、寄せ来られ候間、勢は定めて雲霞の如くなるべし。故に我れ、此度の合戦を最後と極むる間、軍兵共、いづれに寄らず、若し最後の供する事、心に叶はざる族もあるべし。戦場に臨んで逃げ失せて、上杉の家名を汚し、面々の恥を遺さんより、唯今暇を乞ふべきよしなりければ、数千の軍兵共、皆頭を地につけ、御恩を泰平安楽の時に受け、妻子を養ひ候て、只今難儀の時に及んで、御家を立去り候はゞ、人の法にはづれ、天道の悪みを請け申すべく候。唯国と共に、死亡をよくし、道を守り、主君景勝卿と、枕を並べ討死仕るべき旨、一同に申しければ、一組々々、血判の誓紙を書かせ、妻子を残らず城中に入れ【 NDLJP:128】置きけり。扨景勝は、諸大将を呼び、評定せられけるは、会津は諸方の寄口七口あり。殊に白河より海道二筋の内、南山口と背炙とは、白河城と会津との間にあり。会津より其道四里余あり。是へ取上る時は、会津を目の下に見下し、秋毫をも数へつべし。故に籠城して、久しく持たるゝ城にあらず。総軍を一所に集め、会津をば打捨て、白河表迄逆寄せに打出で、御所と野合の一戦仕り、勝負を決し、軍に打勝たば、御所の跡を追うて、上方へ切つて上るべし。打負けば、白河を墓所として、討死致すべき旨宣ひけり。家老組頭、何れも尤の御事と一同せり。直江山城守兼続申しけるは、白河の城一の木戸なり。此城、固く守らざる時は、野合の戦、其詮なかるべし。白河の城を堅固に抱へ、大軍にて持固むべし。只今迄の海道蓑沢へは、左靱の切所ありて、御所公打入の時、押路悪くして、大軍、思ふ様に攻め入るべからず。此所をば切塞ぎ、西の関白坂を海道に致し、道を造り、革籠原を切り平らげ、是亦足場をならし、一戦場と定め、御所の大軍、一度に白河の城下へ押来らんずる術肝要なり。三成治部は、佐和山にて勢を揃へ、御所の白河迄攻め入り給ふ一左右を聞かば、京・伏見へ打つて出で、旗を揚げ申すべし。伏見の城を攻め落し、勝に乗りて東国へ攻め下らば、御所は会津を捨て、江戸へ引取り給ふべし。其時の機に乗つて、江戸へ追討ち候時は、伊達政宗・最上義光・堀秀治、跡より起つて、会津へ取懸るべし。此所は、如何あるべきやといふ。本庄越前守繁長・甘糟備後守清長・安田上総介順易・島津月下斎・杉原常陸介親憲申しけるは、左様にて之なく候。其仔細は、御所御父子を引請け、九死一生の合戦を遂げ、大軍を追返し候を見ば、隣国の諸大名、色を変じ志を改むべし。其時、口々に圧を文夫に置く時は、縦ひ、御所の御跡を付け、我が君切つて上り給ふとも、会津の留守を窺ふ事なるまじ。其故は、御所は根本にして、政宗・義光・秀治は枝葉なり。御所を切崩し候はゞ、三人の諸大将は、運を両端に窺ひて、会津の留守を窺ふべからず。今彼の輩をはかるに、堀久太郎秀治は、三十五万石を領すと雖も、其勇智、父左衛門督秀政に似ず、殊に歳尚若し。軍兵多しと雖も、風俗不行儀なり。家老堀監物直政は、驕り甚だしく、自専の威を振ふ。其嫡子雅楽助直清は、其心勇ならず、弓箭の家を、相続すべき器量にあらず。秀治・監物主従共に、太閤の御恩をすて、御所へ属する程の者、何の恐ろしき事あらんや。其上、越後の民百姓、旧君を慕ひて、今度、上杉殿を越後へ入れ奉りたしと願ふ事なれば、御使を遣され、民百姓を催し候はゞ、国中一揆を起し申すべく候。左【 NDLJP:129】様候はゞ、久太郎は、討果すに手間入るべからず。又政宗は、累代の名家にて、数百年の大名たりと雖も、元より東夷卑賤にして、大半強盗・山賊の類なり。故に義理を知らず、殺害・押領を業とし、道理を弁ふる事なし。政宗先年、北条氏政と一味し、忽ちに約束を違へ、秀吉公へ馳せ付け、少しも信を守る事なし。唯一旦、兵の威光を見せ、大禄を与へんと、是を招くときんば、政宗、必ず御所を棄て此方へ属すべし。又最上義光は、足利の庶流斯波の家にして、代々武勇の名ありと雖も、先年本庄越前守繁長と、境目にて数年取合ひ、千安・天童・野辺沢方方の合戦に、本庄に打負け、既に庄内十五万石の地を、本庄繁長切取り候へば、是以て計るに足らず。左様候へば、三家の武勇、何の恐ろしき事候はずと、皆々申しければ、直江も尤もと同じ、急に約議の通、佐竹義宣へ申合すべしとて、直江は常州太田の城へ赴きけり。扨東は、白河中峯に城あり。是には五百川縫殿助・平井内蔵助に、三千の兵を付けて、籠らせたり。南は、山王峠を背にあて、横川の宿へ、大国但馬守に、二千の勢を付けて守らせ、宿外れの谷川を堰きて、湖をたゝへたり。鶴淵といふ所の山の上を切り塞ぎ、山王峠の此方なる高山に、遠見を置き、相図の貝の揚がると等しく、糸沢の宿より討つて出づる筈に拵へたり。猪苗代の城には、杉原常陸介、並に今井源左衛門、長沼の城には、島津玄蕃を入れ置けり。二本松の城には、下条駿河守、須加川の城には千坂対馬守、津川の城には鮎川帯刀、鮎貝の城には、中条与次郎を入れ置けり。瀬の上へは、七頭の張番を出せり。岡野左内・才野伊豆守・深尾市左衛門・安田勘介・伊奈図書・志賀与惣右衛門等とぞ聞えし。
伝に曰、秀頼公、今年七歳にぞなり給ふ。大小名参勤怠りなく、近所侍士出仕ひまなかりけり。然るに、前田肥前守利長は、父利家逝去なれば、喪礼を執り行はんと、去年の冬より加賀へ下り、喪の最中なる故、毛利元就、秀頼公執権にぞ代りける。此時にして、直江山城兼続は、兼ねて謀りし事なれば、会津の内、神刺原といふ所に、新城を取立て、夥しく普請をぞ始めける。上杉中納言、遠江を召して、近世の城普請等は、古に違ひ、公儀に伺ひ御許の上にてなすべき由なれば、先づ普請をやめ、一応伺ひ申さんとありければ、直江聞きて、いやとよ。去年の秋、京より下され候節、御所並に利長・秀家・元就・生駒・堀尾・中村、其外、諸奉行に至る迄相談、事済みたりと、言葉を巧にして謀るにぞ、三成と直江が久しき巧とは、夢にも知り給はず、然らば、仔細あらじと、会津七口、城々の要害を修理し、普請をぞ始【 NDLJP:130】めける。此事都鄙に隠れあらざれば、大坂の評議、区々とぞ聞えける。抑〻上杉家は、累代武勇の家にして、会津・奥州・出羽庄内・佐渡、合せて百五十万石を領し、直江山城守は、米沢の城主にて、三十二万石を治め、石田治部少輔は、佐和山の城主にて、十八万石に七万石の預り地、合せて廿五万石をぞ、支配しけるとなん。斯かる騒動の折節に、上杉の家来藤田能登守といふ者、景勝の心に違ひて、会津を退き京へ馳上り、上杉逆心の様をぞ訴へける。之に依つて、御所より、伊奈図書を使者として仰せけるは、何とて上意を伺はず、城の普請をなし、参勤をやめて、秀頼公の継目の礼をも勤めざるやと、ありければ、其返答に、太閤御在世の時、上洛の儀、五箇年免許あり。城普請は、直江山城守、上意を得たれば、仔細あらずと、事もなげにぞ申しける。図書帰つて、復答申上ぐるを聞召し、無礼・不義の族、如何して延引の沙汰に及ぶべき。直に御出馬あつて、其実否を糺さるべしとぞ聞えける。是に依つて、大坂諸奉行の面々、何れも会合ありて、評定せられけるは、此度、景勝、叛逆の聞えあるに依つて、御所直に、御鎮罰あるべき由、我々、斯くてありながら聞きながしに、致すべき様更になし。叶はぬ迄も、一応御止め申し、御承引あるに於ては、何卒相謀りて、無為の沙汰になるまじき者になし、其上にも、暴威を逞しくせば、早速申給つて退治致すべしと、各〻膚胸一致にして、頓て登城せられける。則ち井伊兵部少輔直政を以て、申入れらるゝは、此度、上杉、背違せしむるの所行、糺明を遂げられん為め、御出馬あるべき由、承り及び候。尤も景勝、武勇の家族たりと雖も、直に御手をおとされん事、勿体なき御事に候。縦ひ、何程の強勢を振ふとも、太閤の遺命に背き、天下に向つて、弓を引き候はん事、天罰遁るべからず。暫く穏便の御沙汰候とも、何条事をか仕出し候はん。其内に、何卒密計を廻らし、和睦せしむる様に仕るべし。若し又、異議に及ばゝ、其時、即時に蹈潰さんに、何の仔細か候はんと、事もなげにぞ申されける。御所聞召し、各〻の評議、尤も其理なきにあらず。然れども、未だ遠慮の至らざる所なり。其故は、今幼君、不予の砌を幸ひ、斯くの如き事、延引に及び、城の普請を相調へ、隣国を攻め靡くるに及んでは、ゆゝしき大事たるべし。其上、渠には、必定合体の者ありと覚えたり。我れ直にむかふ事は、渠に催促を受け、心体当感の者共、我が旗を見ば、多分に走り附くべし。先んずる則ば、人を制するに理ありとかや。彼是以て、緩怠すべきにあらずとて、同年六月十六日に、大坂を打立たせ給ひ【 NDLJP:131】ける。其日の御装束には、弥八鹿毛といふ名馬に、金覆輪の鞍置き、虎の革泥障に金地の鐙をかけ、紫の手綱に、猩々緋の鞦、びろうどの著籠に、紺繻子の御上著、蜀紅錦の陣羽織を召し、御鎧・太刀・小刀・弓・鉄炮・鑓・長刀に至る迄、金・銀を鏤め、玉をみがき輝かし、地を轟かしてぞ、出立たせ給ひける。御供には、酒井甚内少輔・同右衛門大夫忠朝・奥平美作守信昌・同息大膳大夫家昌・平岩主計頭親吉・小笠原兵部大輔秀政・同信濃守長備・松平玄蕃助家清・戸田左門・一西豊後守広重・高力左近大夫・菅沼大膳亮定利・大須賀出羽守内藤三左衛門尉信成・松平内膳正忠慶・天野三郎兵衛康景・石川長門守康道・本多縫殿助康俊等、都合其勢一万余騎、美を尽して打立たせ給ひたる其ゆゝしさ、上下万民打続き、枚方・淀・伏見迄、見物の貴賤、ちまたを争ひて、耳目を驚かしける。同十七日に、伏見に入御まし〳〵て、会津発向の軍法を極め給ひける。白河口は両御所、信夫口は陸奥守政宗、米沢口は山形出羽守義光、津川口は前田肥前守利長、魁首は堀久太郎、遊軍には村上周防守義明・同溝口伯耆守宣勝、追手・搦手一同に乱れ入るべき旨、兼ねて相触れられ、道中路次の御掟、法令の箇条を出させ給ふ。其詞に曰く、
一、喧嘩口論堅停止之上、若於㆓違背之輩㆒者、不㆑論㆓理非㆒、双方共可㆓誅罰㆒。或作㆓傍輩之思㆒、或倚㆓知音之好㆒、荷担之輩於㆑有㆑之者、可㆑為㆓本人よりも曲事㆒旨、急度可㆓申付㆒。自然於㆑乞㆓用捨㆒者、縦、後日に相聞え候共、可㆑為㆓重科㆒事。
一、於㆓味方之地㆒、〔〈放脱カ〉〕火并乱妨・狼藉停止之事。附作毛取散らし、田畠之中に不㆑可㆓陣取㆒事。
一、於㆓敵地㆒、猥りに不㆑可㆑取㆓男女㆒事。
一、差㆓越先手㆒、たとひ雖㆑令㆓〔〈為脱カ〉〕髙名㆒、軍法を背く上者、可㆑為㆓斬罪㆒事。
一、無㆓仔細㆒而、有㆓他之備に相交輩㆒者、武具・馬具共被㆑取㆑之、若其主人及㆓異議㆒者、倶に以、可㆑為㆓曲事㆒之事。
一、人数押之時、不㆑可㆑為㆓岐道㆒之由、堅く可㆓申付㆒。若於㆓漫道㆒可㆑為㆓重科㆒事。
一、不㆓先駆相断㆒而、不㆑可㆑出㆓斥候㆒事。
一、為㆓時使㆒而、雖㆑差㆓遣何様之者㆒、不㆑可㆑為㆓違背㆒事。
一、諸事不
㆑可
㆑漏
㆓奉行人之指図
㆒事。
【 NDLJP:132】一、持鑓は、為㆓軍役之外㆒間、可㆑為㆑差㆓置長柄㆒事。
一、武具・馬具・弓・鉄炮・玉薬、兼而入念求置、応㆓身上㆒可㆓所持㆒事。附不㆑可㆑為㆓押買・狼藉㆒事。
一、酒宴大酒令㆓停止㆒事。
一、博奕堅令㆓停止㆒事。
一、小荷駄押の事、兼々不㆓軍勢に相交㆒様可㆓申付㆒。若有㆓相交族㆒者、可㆑為㆓曲事㆒。
但、路次中、右之方に就而可㆓押通㆒事。
一、出陣之中、不㆑取㆓放馬㆒様可㆓申付㆒事。
一、敵勝負之間、放㆑馬候事不㆑苦、其放馬雖㆓捕得㆒、味方の馬者、其主人に可㆓返渡㆒之事。
一、舟渡之儀、不㆑雑㆓他之備㆒、一手に可㆓越渡㆒。其馬以下同前之事。
一、無㆓下知㆒而不㆑可㆓陣払㆒事。
右条々、若於㆓違背之輩有_㆑之者、忽可㆑処㆓罪科㆒者也。仍如㆑件。
慶長五年七月 日
斯くの如く軍令正しかりければ、関東万里之道中に、多勢と雖も、一箇の過失なかりしかば、農民・工・商に至る迄、賢智大徳の恩なりと、悉く皆安堵の思をぞなしにける。伏見の城番には鳥居彦右衛門元忠、西の丸には内藤弥次右衛門尉家長、大手の番には松平主殿助忠利・松平五左衛門近正、西の丸の加勢には若狭少将勝利等を差置かせられ給ひ、十八日の昼、伏見を御出馬にて、大津にぞ休ませ給ふ。路次の行粧整々たり。大津の城主京極宰相高次迎へ奉つて、山海の珍物を調へて、丁寧にぞ饗応せられける。其日は、石部の旅殿に入らせ給ふ。かくて石田三成は、此度、御所の東征、思ひ設けたる巧みなりければ、悦ぶ事限なく、水口の城主長束大蔵大輔正家に、兼ねて牒し合せ議し置きける通、長束父子、頓て石部の御宿へ参りつゝ、明日の献膳を願ひける。公御対面あらせ給ひ、望に任せられければ、長束大に悦び、急ぎ城に帰つて、内証に大力士を集め、手配を定め置き、ひまを窺ひて討ち奉るべしと用意しける。扨又、石田が家臣に、島左近とて、命知らずの大剛の者あり。五日以前より、伏見へ斥候を忍ばせて、御出馬の日限旅泊の時分を告げさせければ、左近、佐和山の城に居て、思案を廻らし、石田に申しけるは、御所、今宵石部に在陣の由承【 NDLJP:133】る。殊に、手勢近習の士五六十騎、家臣井伊兵部少輔が勢兵も、三十騎には過ぎず。是ぞ天の与なり。唯今、人数五百給はる者ならば、夜討にして、本望を達してんとぞ申しける。三成聞いて、卒爾の謀、然るべからず。長束と牒し合せたれば、水口の城にて討果すべし。周章てゝ事を仕損ずる時は、ゆゝしき大事となるべしとぞ制しける。左近聞いて、仰には候へども、天狗も鳶鴉と化する時は、蛛の巣にまとはる。小蛟、龍と変ずる時は、人を呑むの勢あり。御所は、今小蛇なり。関東へ下り給ふ時は、雲を得て大龍となり、却つて其時は、一呑に呑まれ給ふべし。所詮今夜、彼の地に打越し、風上より此処彼処に火を放ちて、焼討にするならば、即時に攻め亡し、勝利を得る事、掌の中に候と申しければ、三成聞きて、げに尤もと思ひ、さらば急ぎ用意せばやとて、島左近を大将とし、柏原彦右衛門・河瀬左馬助・新藤縫殿助・後藤又介・百々宮内・早崎平蔵・磯野平三郎・香筑島隼人・三田村織部・町野助之丞・馬渡外記・口分田伊織・浅井新六・島新吉・渡辺新之助・川崎五郎左衛門・山本清三郎を先として、宗徒の兵共八百余騎、雑兵三千人、袖印に白き一文字を付け、誰ぞといはゞ、勇と答へよと、合語を定めつゝ、大船廿余艘に取乗せて、蘆浦の観音寺辺より、草津・石部の上手へ廻つて、子・丑の刻に、石部へ押寄せんと、歯がみをなして進みしは、危かりける次第なり。斯かる処に、御所思召しけるは、江州・伊勢路は、入雑りたる事なれば、如何あらん。敵の密計かあらめと、御思案を廻らし給ふ処に、井伊直政祗候し、近く寄りて囁き奉るは、近頃毎夜打続き、不思議の夢を見候。殊更昨夜は、現の様に、亡父来り告げけるは、暫くも近江路に宿すべからず。不意の大事必ずあらんと、荒々しく申候。夢中のたは言は、勇士の取るべきにあらざれども、殷の高宗の傅説を夢に見、賢弼を求め得、晋の王濬が三刀を夢に見て、益州の太守なる事候へば、菲儒・腐俗の少智にさゝへられて、夢は皆、妄想と撥無するに堕つべけんや。唯疾く、此処を御立あれかしと、申上げられければ、其夜の戌の刻計りに、俄に石部を御立あつて、水口を夜通し打過ぎさせ給ひ、途中より長束が方へ、御使者遣され、明日立寄るべきの約諸に候へども、急用につき通らせ給ふとて、来国光の御脇差を下されければ、長束も手に取る様に思ひしに、案に相違の事なれば、無念ながらも、忝くも領掌し、土山迄送り奉り、空しく水口へぞ帰りける。島左近が夜討の者共は、斥候五・三人遣しけるに、御所ははや、立たせ給ひて、更に人音もなしとぞ申しける。是は如何なる仕【 NDLJP:134】事ぞと、呆れ果てゝ、取敢へずあわてふためきてぞ帰りける。御所は、夫より伊勢の関に泊らせ給ひて、大難を遁れさせ給ふぞ、不思議なる。翌日四日市に著き給ふに、桑名城主氏家内膳正、使者を以て申上ぐるは、例年の賀儀に任せ、数寄屋にて麁茶を献じ奉りたき由、謹んで言上すれば、則ち明朝の饗膳を、受け給はんとありて、其上、熱田へ越すべきの船をも仰付けらるべしと、御返答あれば、氏家、此由を聞きて、何の謀やありけん、悦んでぞ待ちたりけるに、又井伊直政、近く寄りて、囁き申上げけるは、昨夜も赤倉の宿にて、悪夢、心痛仕り候て、ひねもす静ならず。唯今、是より直に御船に召され、参河路へ渡海あらせ給へと、諫め奉れば、頷かせ給ひ、頓て、氏家方へ小栗大六を御使者にて、急用出来に依つて、昨夜渡海致すなり。来春上京の節、目出たく芳茶申受くべし。先づ謝礼の為め迄に、斯くの如しとありて、程なく参州の佐久島にぞ著き給ふ。田中兵部少輔吉政、船場に急ぎ相走り向ひて、其日の御膳をぞ奉りける。石田三成は謀りし事共、一々相違しければ、悶え焦れて悔みけるが、書翰を以て、直江山城守方へぞ申遣しける。
細書則及㆓返報㆒候。御所方一昨十八日、伏見出馬にて候。兼而之調略、任㆓存分㆒天の与へと令㆓祝意㆒候。我等も、無㆓油断㆒支度仕候間、来月始、佐和山罷立、大坂へ可㆑令㆓越境㆒候。輝元・秀康、其外無二之味方に而、弥〻可㆓心安㆒候。其表手段承度候。中納言殿へ、以㆓別書㆒申進候。可㆑然御心得奉㆑頼候。恐々謹言。
六月廿日 三成在判
直江山城守殿
斯くて、御所、船を廿一日は、笹島にぞかけられける。爰に池田三左衛門輝元、希有の魚共買求め、不時の菜菓を調へて、最も丁寧にぞ饗応奉りける。廿二日には白須賀、廿三日は浜松、廿四日、佐夜の中山にて、山内対馬守忠豊、饗応を備へらる。廿五日は、駿府の二の丸、中村式部大輔一氏が家臣横田内膳が宅に入らせ給ひ、朝献畢りて、一氏折節、大病を得て、肩興に助けられ、伏して御目見を遂げ申上ぐるは、此度、供奉をかき、本懐を失ふ事、遺憾少からず。愚子は幼少なれば、役に立ち難し。則ち弟彦左衛門を以て、軍勢を催さしむるなりと、誠をおもてに顕はして、額に汗を流し演べければ、御所、一氏が手を取らせ給ひて、甚だ其志を感じ給ひ、御涙を浮められ、御懇意の上意に、式部も倶に感銘し、涙に沈みてぞ退きける。廿六【 NDLJP:135】日、沼津にて中村彦左衛門尉一栄、種々の饗応を設けて慰め奉る。三島に到り給へば、大久保加賀守忠隣、朝献を進め奉らる。則ち本多佐渡守御迎に祇候すとかや。廿七八日は、小田原・藤沢、廿九日は鎌倉へ御参向ありて、山々・谷々・海辺迄、名所・旧跡残りなく御巡見まし〳〵て、七月朔日には、神奈川に泊らせ給ひ、同二日には、江府の御城にぞ入らせ給ひけるに、後陣の勢は、猶伊豆・駿河に支へけるとぞ聞えし。誠に千里の行跡、恙なかりける御運の程こそ目出たけれ。斯くて会津御進発の聞え、天下に隠れあらざれば、御所へ志の諸侯武勇の士卒我れ劣らじと、馬・武具を飾り立て、郎従兵卒に至る迄、美麗を尽し、金甲天を輝し、霜刃星を並ぶるが如し。関東へと急ぎける。其行装、朝鮮征伐以後の壮観と、老若男女頭をのべてぞ見物す。先づ一番には、福島左衛門大夫正則・同息刑部正元・同掃部正頼・池田三左衛門輝政・同備中守長吉・同吉左衛門・堀尾信濃守忠晴・長岡越中守忠興・同息与一郎忠利・中村彦左衛門尉一栄・京極修理亮高知・浅野左京大夫幸長・稲葉蔵人通茂・田中兵部大輔・同息民部長顕・山内対馬守忠豊・藤堂佐渡守高虎・同猶子宮内高定・加藤左馬助嘉明・中川修理大夫秀重・有馬玄蕃頭豊氏・蜂須賀長門守・生駒讚岐守正俊・寺沢志摩守広高・織田有楽斎・同息河内守長孝・富田信濃守高定〔カ〕・古田兵部少輔重勝・同織部正重然・金森出雲守重頼・同法印・九鬼長門守隆尚・徳永左馬助・戸川筑後守正則・天野周防守景俊・分部左京亮政寿・小出遠江守吉晨・市橋下総守高成・石川玄蕃頭貞政・桑山相模守一貞・宇喜多左京亮成正・皆川山城守信政・成田左馬助氏憲・仙石越前守忠俊・水谷左京亮勝俊・真田安房守昌幸・同伊豆守信幸・同次男左衛門佐幸村・森右近大夫忠政・山川民部朝信・多賀谷左近頼資・日根野徳太郎吉明・松平飛騨守忠昌・松倉豊後守・佐久間河内守政豊・亀井武蔵守玆経・秋田城之介実秀・佐藤三河守筒元〔本ノマヽ〕・鈴木越中守重愛・黒田甲斐守長政・山名禅高・筒井伊賀守定次・一柳監物直盛・仙石少弐秀久・同息兵部少輔忠政・池田備後守知路・同息弥右衛門・丹波勘助氏信・船越五郎右衛門・本多若狭守重氏・村越兵庫頭・長谷川甚右衛門・岡田勘右衛門・三好新右衛門・同入道為三・津田長門守・同小平次・神保長三郎・秋山右近・赤井五郎作・中川宇左衛門・岡田庄五郎・能勢宗右衛門・森宗兵衛・箸尾半左衛門・兼松又四郎・柘植平右衛門・別所孫四郎・野間久左衛門・堀田権八・同若狭・溝口源太郎・伊丹兵庫・山岡道阿弥・同息修理・奥平藤兵衛・河村助左衛門・山城宮内・平野九左衛門・落合新八郎・佐久間久右衛門・同源六・大島雲八・祖父江法斎・佐々喜三郎・野村喜太郎・遠藤左馬助・中村又蔵・清水小八郎・石川伊豆守、【 NDLJP:136】都合其勢五万八千余騎、天地を轟かし下向ありしは、夥しき形勢なり。早や江府に著きしかば、一々次第に点検あらせ給ひ、御悦は限なく、諸将暫く長途の労を休めけり。
上杉景勝白河表手配の事
景勝行には、会津より白河迄十四里、其道二筋のうち、南山口は殊に切所なり。会津よりして四里余なれども、人馬を出すに、羽太・鶴生の難所あつて宜しからず。此故に、朴坂を斫塞ぎ、根子鷹助へ路を付け、黒川郡より白坂の西へ出づる。此道へは、本庄越前守繁長、八千の勢にて働くべし。今一筋の道は、背炙の山より、勢至堂・長沼・井伊出を過ぎて白河に至る。此道人数を出すによろし。背炙を登り、這坂といふ切所十町計りありて、峠に登る。峠の絶頂に上れば、会津領は目の下なり。西北は出羽国湯殿山・羽黒山、秋田・酒田の海づら、西南は越後本庄・出雲崎の山々見え渡る。則ち背炙の峠に、土矢倉を立て、大筒狼煙を籠めたり。又只今迄の白河海道簑沢口は、左靫・右靫といふ大切所あつて、関東の大軍、一度に攻め入る事成り難し。兎角、関東の御父子を思の儘に、白河表革籠原へ引付けざるに於ては、十分の勝を得難し。左靫右靫の山を斫崩し、簑沢海道の往還の路を塞ぎ、夫より西二里計り、堺の明神白坂の道を作り、関東の御勢を、白河表革籠原へ引入れん為め、近辺の在々里々を焼き払ひ、山林の竹木を伐取り、道を造り地を帯び、三里四方一面に、畳の上の如くにして、待懸けたり。白河城の西南へ引廻し、谷田川といふ深沼あり。其長廿二里余、其東南に革籠原あり。夫より西方一里計りに、西原といふ野あり。直江山城下知にて、中細の浪人蕪木といふ者、酒樽を二千程取集め、地にひとしく西原の野に並べ埋め、黒川郡より逢隈川を、其上へ切流したるに、水流、野の上へ流れて、大河に臨むが如し。革籠原の東に、関山といふ松山あり。其幅二里余、白河の城下迄連りたり。是に中条越前守・長尾権四郎・山木寺庄蔵・大崎肥前守・長井丹後守・田原左衛門・色部長門守・黒川右衛門・斎藤下野・千坂対馬・飯森摂津守・小田切治部・長尾兵衛尉・村上国清・烏山因幡守・竹俣参河守・吉江中務・諏訪部次郎右衛門・平賀志摩守・沼掃部を陣取らせ、白河の城を丈夫に拵へ、安田上総介順易・島津左京進入道月下斎を大将として、人数四万、是に属す。一番合戦は、安田上総介、二番は、島津月下斎と定め、先づ本庄越前守繁長・其子孫次郎、其時改名して、出羽守と号す。此父子、屈強の兵八千にて、南山口より朴【 NDLJP:137】坂へ懸り、根子・鷹助を過ぎ、白坂の西に到り〈[#「到り」は底本では「り到」]〉、父繁長は、四千余にて此山に伏し、其子出羽守、四千にて野州葦野辺へ討つて出で、嗣君御著陣候はゞ、態と一と合戦して、颯と引取るべし。御勢、勝に乗りて追来り、白坂を過ぎて押込み給はゞ、革籠原にて待受け、一番合戦を安田上総介、二番合戦を島津月下斎仕るべし。是又、譜代二万の兵に、地士四万なれば、寄手大軍にても、やはか容易打負けんや。景勝は、兼ねて背炙の峠を越し、勢至堂を後にして、長沼に待懸け、夫より古田・川布・馬瀬に移り、革籠原の合戦半ばに、関山の陰を廻り、小井堀・老野髪を過ぎて、嗣君御陣の後へ廻り、景勝、旗本を以て切つて懸り候時、関山より中条・千坂・山本寺・松本等、横合を入れつゝ、安田・島津と揉合はすべし。然るときんば、景勝旗本にて押懸り、前には安田・島津切懸り、関山より千坂・斎藤・中条・竹俣等、横槍を入れば、寄手の大軍は、是非を論ぜず、白河の城の西南に向け、谷田川の沼へなだれ懸るべし。其時、三方よりかり立て、大将軍を谷田川の深沼へ追込むべし。此沼は、二里余にて、深き事底なし。若し御人数駈入る則ば、人馬助かる者、一人もなかるべし。谷田の沼を遁れ、西へ落つる敵は、又西原の野川へ逃懸るべし。本庄越前守繁長、四千にて南の山より槍を入れ、弥〻西原へ追懸けよ。寄手は川と心得、人馬渉り懸らば、埋め置きたる酒桶へ馳込み、悉く亡ぶべし。其時、佐竹の先勢渋井内膳は、五千計りにて、御大将御父子の間を取切るべし。御所は、御先の嗣君御合戦始めらるゝと聞召し候はゞ、急いで鬼怒川を渡つて、押し来り給ふべし。其左右を聞かば、直江山城、手勢一万・浪人二万計りにて、会津山の内より出馬、高原・塩原へ懸り、奈須嵩の麓高林・加野原・八田地より、佐久山・太田原の間へ討つて出づべし。扨佐竹勢梅津半左衛門・戸村豊後一万にて、富田道場宿より、石井の渡り嫗井筋へ押通り、是も佐久山・太田原の間へ押出し、相図の野烽を揚げ、直江山城と、東西より御所の旗本を立挟み、真中に取籠め討取るべし。此間一里半の所、野山・森林・深田多し。御所の御人数、案内を知らず、沼沢へ馳入り、此処彼処谷岸へ墜入り、過半此処にて討取るべし。然る則ば、御所は江州〔戸イ〕の方へ志し、除き給ふべしされ共、烏山・千本□・鬼怒川の難所あり。其上、直江・梅津・戸村勢、跡を取截り押来り攻立てば、是非を論ぜず、御所勢は、奈須湯の嵩方へ除くべし。其時、佐竹義宣は、棚倉を討つて出で、強梨・伊王〔和イ〕野へ懸り、蘆野口へ押出し、渋井内膳と手を合せ、直江山城・梅津・戸村と立挟み、御所を真中に取籠め討取るべし。是は手に余りたる時の事、大方は箒川より南にて討【 NDLJP:138】取り申すべし。御所さへ討奉れば、天下は図るに足らずと、景勝と直江内談して、何卒して、御所御父子を思の儘に、白河表へ引入れたしとの評定の外はなかりけり。景勝は、自身唯一騎歩士二三人にて、密に会津を出で、背炙山へ登り、這坂の峠に馬を立て、山川の形勢を考へ、夫より勢至堂へ下り、長沼へ懸り、伊井出・右田・川布・馬瀬・金山・小井堀・老野髪へ出で、奇兵を廻すべき道筋を見積り、夫より白坂河の明神迄の間を、樵夫を案内者として、山中の道を通り、人も知らざる山路を過ぎ、境の明神迄乗廻し、夫より鷹助・根子・朴坂へ廻り、南山口を経て、又会津へ帰られけり。之をば、世の人曽て知らざりき。数箇年の後、上杉の家老共計り、ほのぎきけるとかや。景勝了簡には、御所御父子を白河口へ引受け、景勝旗本にて、密に山中の道を廻り、寄手の後へ出で、御所御父子の御旗本へ切懸り、谷田・西原の深沼へ追込み、一人も洩さず討取るべし。疾雷、耳を掩ふに及ばざる所なりとて、御所御父子を襲はんとぞ待懸けたる。若し此時、御父子白河表御取懸り候はゞ、十に八つは御大事に及ぶべし。万一御利運に候とも、御人数過半討たるべしと、兼ねて勝負を計られけり。
直江山城謀を以て越後諸浪人一揆を催す事
石田三成・直江山城守、先年より相謀り、北国筋の手段を相談しけるに、直江申しけるは、謙信・景勝両代に、勘当を蒙り、越後に蟄居する浪人共を語らひ、一揆を起させ申すべし。斎藤八郎は、赤田辺に起り、柿崎参河守は、浜辺に起り、安田平八・矢尾板主膳・丸田左京・加地右馬助
〈謙信甥なり。〉万貫寺源蔵・七寸五分監物等は、妻有の庄・田川・下倉新発田・本庄・五泉・分陀川・水の戸・橋本・橡尾・三条辺に旗を揚げ候はゞ、彼の堀久太郎秀治・溝口伯耆守宣勝・村上周防守義明も、なじかは攻め亡さで置くべきとて、筵田清六といふ者を、治部少輔方より越後へ下し、本望を達する上は、本領に加増して、遣すべしとぞ語らひける。皆一議にも及ばず、同心しける。越後浪人の内、宇佐美民部少輔勝行は、其父宇佐美駿河守定行代々、柏崎の城にあつて、永正七年、上杉顕定、妻有の庄長森原合戦に討死の後、長尾為景と取合ひ、上の越後は、長尾為景打随へ、庄内に在城、長尾越前守政景は、上田の城にありて、其筋南越後を、越中の諸丸迄手に入れ、宇佐美駿河守定行は、〈後、定備と改む。〉柏崎の城に楯籠り、寺泊・出雲崎・新県より、出羽の庄内・沖【 NDLJP:139】野迄打随へ、旗下にして、大永元年迄、十年余支配せし故、柏崎より庄内迄、片浜の分は、皆宇佐美名染ありしかば、三成・直江よりも、別して宇佐美民部に、一揆を勧めけるに、民部所存は、代々上杉家にては、曽祖父宇佐美能登守定興・〈法名道盛、後土御門院勅撰新筑葉集の作者なり。〉祖父越中守孝忠・〈初め盛人、〉父駿河守に至る迄、誰に劣り候はんや。然れども、駿河守定行、不慮の仕合にして、永禄七年七月五日に、景勝の実父長尾政景と、信州野尻にて打果しける故、跡目断絶、我も十五歳より浪人せしに依り、一たび謙信・景勝に御勘当赦され、上杉家へ帰参せんと望み思ひ、忍びて出陣の供致し、景勝目通にて、度々高名せしかども、終に召帰されず。此事、骨髄に徹し、憂ひ存じ候故、何卒致し、上杉衆へ一と奉公仕り、帰参をこそ望み候へ。一揆を起し申すべき所存に之なしとて、此段、直江方へ申遣しければ、尤も至極なる心底なりと、返答せし故、六月中旬に、宇佐美民部少輔勝行・嫡子藤三郎定賢・〈時に十六歳、後に兵左衛門尉と号す。〉次男造酒助勝興〈時に十一歳、大菊丸と号す。〉父子三人、家人上下百八十余にて、深川口より会津の城へぞ籠りける。残る輩は、皆越後にありて、一揆の内談、行の評定に、油断は更になかりける。
宇佐美駿河守定行〈後、定満と改む。〉永禄の初、信州野尻に在城し、武田信玄を圧へける。駿河守が嫡子左太郎定勝、隠れなき大剛の者にて、人数を連れ、川中島へ働き、栗田と芋川にて合戦し、打勝つて善光寺を攻め破り、〈永禄三年七月十日なり。〉如来を乗取り、野尻へ帰城せしを、栗田、様々懇望し、八百貫の所〈一説、二千石の所なりと、〉を、宇佐美方へ遣し、如来と替物にして、善光寺へ取戻しけり。永禄五年七月十日に、宇佐美左太郎、〈時に、造酒介と申す。十七歳〉武州上尾にて、北条氏邦〈[#「北条」は底本では「北原」]〉と一戦して討死せり。世人、善光寺如来の御罰と申侍るなり。左太郎弟は、此宇佐美民部なり。
上杉伊達矢合の事
政宗、既に京都を打立ちたる由、申来りければ、家臣片倉小十郎・伊達成実・浜田治部大輔七千余にて打立ち、六月廿三日に、上杉領簗川の城へ押寄せける。簗川の城主は、須田大炊助長義なり。会津より横田大学を加勢なり。佐竹より車野丹波守馳せ加はる。元より前の大崎の屋形義隆も、須田手へ加属〔勢カ〕なり。鬼生田大膳・金子美濃守・大塔小太郎・墨谷次郎左衛門・島倉孫左衛門・筑地修理・猪狩玄蕃二千余なり。須田長義、廿三歳といひ、父相模守に劣らざる大剛の兵にて、此旨を聞くと等しく、大枝といふ所へ、逆寄に切つて懸りけるに、政宗勢も取【 NDLJP:140】合せ、弓・鉄炮にて迫合ひけれども、伊達勢、備色あしく押立てられ、総敗軍に及ぶべきを〈[#「べきを」は底本では「べをき」]〉、成実と片倉と、敵味方の間へ乗込み引取りけり。須田大炊も、長追せず、甲付の首十八討取り、簗川へ引入りけり。之を後まで、上杉・伊達の鉄炮・矢合境目の手切れ始とは申伝へけり。
御所会津御発向附花房註進の事
去る程に、御所は、六月十六日に大坂を打立ち給ひ、伏見の城に、一日御逗留、十八日に伏見を御立にて、七月二日、江戸へ御帰城あり。後陣を待揃へ給ふ。同月十九日に、御先手として嗣君、軍兵四万三千にて江戸を打立ち、会津へ向ひ給ふ。相伴ふ人々には、結城少将秀康・
〈後に越前黄門〉蒲生飛騨守秀行・皆川山城守広照・松平下野守忠吉・〈御所の四男、後に薩摩守と号す。〉成田左衛門佐泰高・仙石越前守秀久・森右近大夫忠政・日根野徳太郎師広・右川玄蕃頭康正・〈石川伯耆守数正子。〉奥平飛騨守忠昌・松平下野総守忠明・井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝・多賀尾右近大夫朝宗・水谷左京大夫勝通・山川民部丞将具・佐野修理大夫信言・里見安房守氏康等とぞ聞えける。其中に、榊原式部大輔康政は、先年九戸陣口勝軍の吉例なればとて、会津口の先陣をぞ仰付けられける。十九日、辰の刻に、大将江戸御立あり。行列、馬・物具の結構、光り輝き目を驚かせり。御勢雲霞の如く見えたりける。同廿一日に、御所は三万八千余にて、江戸を立たせ出でさせ給ふ。江戸御留守居には、御舎弟松平因幡守康元・石川日向守家成なり。町奉行は、板倉四郎右衛門勝重、並に代官は、伊奈熊蔵忠次、同江戸に差置かれけり。其夜は、鳩ケ谷の城に御著陣、是には阿部伊予守罷在り、御馳走申上げけり。廿二日には、高力河内守居城岩槻へ御著、廿三日には、小笠原信濃守秀政居城古河に御馬著、廿四日には、小山の城に著かせ給ふ。嗣君は、八里先の宇都宮に、御著陣ありければ、野も山も旗の手をなびかし、軍兵ならずといふ所なし。佐竹義宣は、兼ねて上杉一味なれば、去る六月下旬に、家老梅津半左衛門・戸村豊後守を大将にて、五千余の勢を、奥州南の関より打入れしかば、東館・関岡・寺山・川上・袖山・浅川・石川・竹貫・仁井町・蓬田・滑津・赤埴・管野・三森・高城・鹿島・宍倉・行方・信太・新張・玉作・竹田・手賀の諸浪人、此手に馳せ加はり、其勢数千に及ぶ。渋井内膳、二千余にて寺山鐘ヶ城に著きければ、河戸〈或は河内戸〉
式部内屋代・桜岡・仁井田・小井堀・老野髪・養沢近辺の浪人共、我も〳〵と馳せ加はりければ、甲の緒をしめたる兵者、二万三千余人、其外、殿原・歩侍・野伏等、凡そ四万余とぞ注しける。佐竹【 NDLJP:141】義宣も水戸を打立ち、奥州南の関大垬より打入り、伊香・台宿へ懸り、棚倉に陣を取り、景勝へ使者を立てられければ、上杉勢も会津を打立ちけり。既に安田上総介・島津月下斎、四万にて白河の城に来る。本庄越前守も、八千の軍兵を率し、南山口に討つて出で、朴坂より根ッ子・鷹助に陣を取る。千坂対馬守・斎藤下野守・〈斎藤朝俊子〉毛利上総介・高梨源五郎・松本内匠・長尾権四郎・中条越前・山本寺庄蔵・泉沢河内守・清野助次郎・市川左衛門・山浦源五郎・木戸監物・村上源五郎国清・〈義清子〉色部長門守・沼掃部・松川大隅守・甘糟加賀守・〈甘槽近江守子〉竹俣三河守・須加右衛門・山岸宮内・柏崎日向守・山吉小次郎・桃井右近・神藤出羽介・黒川右衛門等は、革籠原を西南に請け、関山近辺に陣を張り、直江山城守兼続、二万余にて古城山の内を立ち、高原に陣を取り、御所鬼怒川の渡を越え給ふ。左右今やと待ち懸けたる上杉勢は、過半は、謙信時代の兵共なれば、事ともせず、早く御著陣あれかし。真中に追取り込め、一人も洩すまじと、甲の緒をしめ、弓鉄炮を揃へ待ち懸けたり。七月廿四日、小山に御著あつて、島田治兵衛を御使として、常州水戸へ遣しければ、義宣は、爰には居られず、奥州棚倉に在陣せられしが、留守居の家老共差計らひ、義宣病気故、対面仕らざる由申しけり。島田は、力なく家老共へ申し渡しけるは、御所、此度秀頼公の御名代として、会津征伐の為め、小山に著陣候間、義宣も早々、軍兵を率し、先手として、会津へ働かるべく候。若し同心之なくば、景勝同意に、誅伐仕るべき旨申され候由、演べければ、義宣返事として、家老共申しけるは、義宣事、全く御所へ対し奉り、宿意之なく候。但し会津口の御先手は、御免下さるべく候はゞ、妻子を大坂に差置き候由、返答なり。島田、小山に帰り、此旨申上げければ、御所、弥〻佐竹逆心を聞召し届けられ、御手当の御相談ありけり。爰に、宇喜多中納言秀家の家人、花房助兵衛といふ者、去年大坂にて、秀家の家中大いに騒動し、宇喜多左京・戸川肥後守・花房志摩守等一味致し、出頭人松田次郎兵衛を追出し、嗷訴しければ、其咎にて、助兵衛も流人となり、佐竹許に預けられ罷在り候が、此度、水戸を忍び出で、小山へぞ馳せ参じける。此時、御所の御陣中にては、白河口へ攻め入り候時、佐竹、大軍にて御後より取りかくべき由、取沙汰ありて、其説いひ止まず、陣中穏かならざりけり。御所には、花房を召し、いかに花房、佐竹義宣敵対と見えたり。但し切つて出づべきか、出づまじきかと御尋あり。花房畏まつて、義宣事、極めて律儀なる仁体にて候間、中々切つて出で申すべき様子とは、存ぜずと申上げけり。御所重ねて、左様候はゞ、義宣は堅く【 NDLJP:142】出づべからざるの旨、汝誓詞を書き、差上げ申すべき旨、仰せられけるに、花房承り、人情の反覆、父として子の心を知らず候へば、佐竹堅く罷出づまじとの誓詞は、御免候へと申上げければ、御所御機嫌あしかりけり。花房退出の跡にて、御所宣ひけるは、花房は、武功重累の士と聞きつるが、左様にもなし。殊に大将の器量は、思も寄らずと仰せられけるを、一座の人々は、心得ぬ顔にて、罷在りけるとかや。
後に花房助兵衛、江戸にて病死する砌、申しけるは、口惜しくも名大将に向つて、不覚を申し、一代御見限を蒙りける事よ。其仔細は、先年小山御陣にて、御所我等を召し、佐竹は出張致されず候旨、誓詞を仰付けられけるに、我れ愚蒙にして、思召の旨を覚らず、誓紙を書いて差上げざるに依つて、御見限を得、一生斯様に沈淪せし事、後悔余りあり。誠に名大将に仕へ奉る士は、一言一行に心を尽さずしては、叶ふべからず。我れ其時、御意に随ひ、誓詞を仕り差上候うへに、佐竹、出張致したりとも、我れ何の過ならんや。其時分、景勝強大の軍兵にて、会津に待懸け、佐竹も亦逆心して、後より懸らば、御所の御人数敗軍仕るべしとて、陣中雑説はやりて、士卒も安心もなかりしに、我れ佐竹より参り、義宣出づべからざるの旨、誓詞を書上げ候はゞ、花房能々、佐竹出勢仕るべからざる内証の実を、知りたればこそ、誓詞を書上げたるらめとて、陣中の雑説、鎮らんとの御謀なりけるを、我れ愚にて、察せざりける事、冥途迄の怨なりと、申しけるとかや。
佐竹留守居の家老共、御所、小山に御著陣ありて、島田治兵衛、使者に下されける旨、奥州棚倉へ、早飛脚にて申遣しければ、例の定らぬ癖おこりて、義宣も思案出来ければ、棚倉を陣払し、台宿に馬を立て、世上を見繕ひ申されける処へ、重ねて古田織部正重勝を御使者として、水戸へ下されけり。留守居の者共、偽りて申しけるは、義宣は、是より五里、北の太田の城に罷在り候と申しければ、古田承り、左候はゞ、義宣御帰り迄、是にて相待ち申すべき旨にて逗留す。此旨、台宿へ註進申しければ、古田は茶道の師匠なり。止む事を得ずして、台宿より水戸へ帰られければ、梅津半右衛門・戸村豊後も、其時は、岩瀬郡蕪木の砦を攻めて居たりけるが、御所、小山へ御著陣、義宣も水戸へ引返されけると聞きて、囲を解きて水戸へ引入りけり。いひ甲斐なき義宣の仕方なりけりと、沙汰せぬ者もなかりける。元より父義重は、太田在城にて、御所へ一味なり。義宣も運を両端に伺はれけり。
【 NDLJP:143】
伝に曰く、太閤秀吉公の寵臣石田治部少輔三成は、江州石田村の地士、佐五右衛門といふ者の子なり。然るに、佐五右衛門、久しく此処に住みければ、村邑の長とぞ称しける。或時、其妻懐妊したりけるが、月満たんずるころほひに、煩ひ悩みて、既に死に及ばんとす。爰に同国長光寺の観世音は、普聖徳太子の夫人、産の進に向はせ給ふ時に、甚だ苦み疾ひ給ひて、百肢千節も砕け落つるが如くにて泣悲しみ給ひ、祈願あらせけるに、観音則ち大光明を放つて、夫人の家を照し給へば、誕産安全なりしより、長光寺とは名付けたり。之を念じて、佐五衛門、彼の観音に参詣し、種々の願をかけゝるが、即時に安産しけるこそ不思議なれ。即ち名を佐吉と付けて、限なく寵愛しけるが、早弱冠に及びしが、智計群にこえ、器量類あらざれば、父母の悦、弥〻増りける。然れども、家貧しくして、育みがたければ、近里の真言寺へ、小性にぞ遣しける。或時、秀吉公参詣の折節、御覧ずるに、容貌艶にして立居振舞他に勝れて見えければ、則ち召して夜閨を同くし、玉枕を双べさせ給ひしかば、夫より次第に昇進して、廿万石の大名とかや。秀吉公在住の日には、上意におもねり、尊寵に媚びて、讒を構へければ、皆人恐をなし、権勢日々に盛にして、栄華年々に大なり。鹿を指して馬といはんも、怪むに足らず。之に依つて、逆心を思ひ立ち、兼ねて上杉の家臣直江山城守と密談かため居たりしが、太閤薨御の後は、頻に胸を焦し案じける。之に依つて、先づ直江方へ書状を以て牒し合せける。
六月廿九日の御状到来、其表諸口、丈夫に被㆓申付㆒旨、大慶不㆑過㆑之候。先書にも申入候通り、越後の儀は、上杉御本領に候間、中納言に被㆓下置㆒候旨、秀頼公御内意に候。彼国の成次第に、手段御油断不㆑可㆑有候。中納言殿勘当にて、越後に残り候浪人、歴々有㆑之由、柿崎三河守・丸田左京・宇佐美民部・万貫寺・加治等御引付、御尤に候。此節に候間、聊不㆑可㆑有㆓油断㆒候。堀久太郎、大方大坂奉公之志候。能登上の条、民部可㆓差遣㆒候。尚追々可㆓申入㆒候。恐々謹言。
七月十四日 治部少輔三成
直江山城守殿
斯くて、三成は佐和山・大垣の城普請、丈夫にし、思の儘に塹塁を掘立て、武具・馬具・兵糧・矢種・玉薬に至る迄、山の如くに調へて、諸方に触をなし、浪人を余多抱へ置き、謀叛の用意とぞ【 NDLJP:144】聞えける。扨亦、京都より似せ金匠の上手を尋出し、佐和山へ呼び寄せて、金銀を夥しく拵へ置き、旗を揚げ、馬を馳せん時に臨んで、足軽以下町人・百姓等に、褒美の為めの用脚に、兼ねての計策なりとかや。帷幄の籌策既に成りて、勝つ事を千里の外に得たりと、三成独り笑をぞなしにける。扨大谷刑部吉隆が許へ、使者を以て申しけるは、近頃御苦労憚に候へども、相談の事、急なる儀候間、愚城迄来駕に於ては、千万、身に余りて忝く思ふべしと、懇にいひ遣しける。折節、刑部も奥州進発の為め、三万余人を引率し、越前の敦賀を立ち、佐和山へぞ著きたりける。三成大いに悦び、様々饗応終りて、奥の亭へ招寄せ、あたりの人を遠く除けて、二人首を寄せ私語きけるは、世上の体を窺ふに、秀頼公の御事は、有つて無きが如く渡らせ給へば、眼前に之を見て、其儘に捨置かん事、不忠といひ、且は無念の至なり。仮令、事ならずして、骸は郊原にさらすとも、此義を天下に送りなば、草葉の隠なる先君も、嘸嬉しくおぼすらめ。今、内府の威、微なるを討たずんば、後必ず大山の勢をなしてん。其時には、龍を海に追ひ、虎を山に狩るが如くにして、争で利を得ん。其時に及びて、臍を嚙むとも、益あらんやと、忠を君に顕し、姦を人に譲り、弁を逞しくし舌を振つてぞ申しける。大谷、首をたれて、暫くあつていひけるは、御辺の鬱憤、一往其理あるに似たりと雖も、今の時節、左様の事を企てらるゝは、石を抱きて淵に入り、薪を負うて焼野を行くに異ならず。其上先年、諸大名の心に背かれし砌、既に大事に及びしか共、御所の首尾を調へさせ、数ならぬ某等、様々に取持ちて、事なく卿安穏に暮せるにあらずや。然るに、却つて斯くの如きの企、発されなば、遺恨ある輩は、必定敵となりぬべし。憖に身命を失ひ、後代迄の嘲を取り給はんより、会津へ発向せられんには如かじとぞ諫めける。三成、重ねていひけるは、我れ此大事を企つる事、全く以て、我が身の為めならず。聊君の為めにして、義に依つて命を軽んじ、恩の為めに身を捨つるは、是忠臣・勇士の志なり。大丈夫の一言、再び万金にもかへじと、色を変じてぞ申しける。大谷聞いて、某病身なれども、遥々、奥州へ下らんと思ふも、天下無為の為めなれば、暴虎馮河の族に言を尽さんにはと、佐和山を出で、濃州垂井迄赴きしが、流石年月交りし情も、今更捨難く、垂井に三日逗留して、平塚因幡守と相談して、種々に諫言し、関東へ下向あつて然るべしと、再三強ひて申せども、三成終に承引せず。吉隆は、心底には染まざれども、日頃断金の契、今更約を変【 NDLJP:145】じて見放すも、義士にあらず、是非なく、三成に与力して、佐和山へぞ帰りける。三成、斜ならず悦びて、則ち荷担の輩増田右衛門尉長盛・長束大蔵大輔正家、石田治部少輔は、其張本として、相共に密談をぞしたりける。増田・長束一同に、扨如何謀りて宜しがるべき。先づ面々本国に引帰り、籠城をや致すべきか。但し我々、枢機の諸大名を密かに語らふべしやと、軍議分明ならざる時に、治部少輔進み出で申しけるは、何れもの思策、尤も其理なきにあらず。併し、退いて愚意を廻らすに、一先づ諸国をおびやかし、大坂へ呼寄せずんば、事なり難かるべし。其故は、枢機に応じて来る輩は、元より我々が内証を以て、いひ遣す事なれば、彼是の心底を疑惑して、有無を明かに説く者あるべからず。諸方一度に馳せ集るに於ては、人の心身を一統して、秀頼公〔〈へ脱カ〉〕の忠戦致さん者はあらじ。其上、秀頼公の御印は、我等儘なれば、表に公の印を押し、裏に我々承はるの連判を以て遣はさんに、争でか遅滞せしむべき。此儀、如何といひければ、一座同音に、是に過ぎたる事あらじと、各〻評議一決して、直に密書を調へて、国々へぞ廻しける。誠に当時の権を専にして、斯かる奇怪を企て、諸士を欺訴して、己が味方に引入れんとの謀、不敵とやせん。莫大とやいはん。治部が無道類なし。真実がましく、偽文を巧に、則ち表には秀頼公の御判をすゑ、裏には治部・刑部が両判を加へければ、是全く三成が叛逆と知つて、同心の面々、有合せたる諸侯・大夫はいふに及ばず、関東下向の人々も、或は濃州・尾州より引返し、或は三河・遠江より、直に佐和山に馳行くもあり、上方の騒動は、夥しくぞ聞えける。之に依つて、早速大坂へ駈集る人々には、安芸黄門元就・同甲斐守秀元・吉川駿河守元春・岐阜黄門秀信・安国寺恵瓊長老・島津兵庫頭義久・同弟中務少輔昌久・同又八郎忠恒・筑前中納言秀秋・備前中納言秀家・長曽我部土佐守成親・同式部卿法印鎮定・高橋右近長行・同九郎・有馬修理亮政純・垣見和泉守純昌・秋月三郎種長・相良宮内少輔頼重・福原右馬助・伊藤民部大輔祐慶・筑紫上野介広門・久留米藤四郎秀包・立花左近将監宗茂・鍋島信濃守勝茂・太田飛騨守政信・熊谷内蔵助直陳・木村宗左衛門尉・堅田兵部少輔広澄・宗対馬守義智・毛利壱岐守勝信・同豊前守勝長・小川土佐守祐忠・同左馬助・沢田武蔵守・山崎左馬助・小野木縫殿助・小西摂津守行長・増田右衛門尉長盛・長束大蔵大輔正家・平塚因幡守・戸田武蔵守・原隠岐守・宮部兵部少輔・別所豊後守・木下備中守・石川掃部頭・南条中書忠成・脇坂中書・九鬼大隅守嘉隆・多賀出雲守・荒木平太夫・石川備【 NDLJP:146】中守・奥山雅楽助・大友宰相義統等を先として、五畿七道の大名・郡牧迄、都合其勢十三万三千八百余騎、同年の七月十九日に著到し、大坂の城をぞ固めける。扨三成は、思の儘に謀計なりぬれば、諸将と相議して、関東へ申遣し、其通〔返カ〕状をも待たずに、急ぎ軍議を究めて、濃州関ヶ原へ出張せんとぞ勇みける。
伏見城より嗣君に註進附宇都宮御帰の事
佐竹義宣は、台宿より水戸へ引返し、家老梅津半左衛門・戸村豊後も、岩瀬郡より水戸へ引入れけれ共、渋井内膳は、数万騎にて、猶奥州鐘ヶ城に陣取り、上杉に力を合す。相馬利胤も、内心は景勝に同意し、近藤主膳を大将にて二百余、三春の大竹山迄出しけり。さる程に、景勝は、佐竹義宣、棚倉表を引払ひ、水戸へ引入れけると聞きて、申されけるは、義宣、心を変じける上は、初ての手段をかへ、勝負を一戦に決すべし。一番合戦は、安田上総介、二番合戦は、島津月下斎仕るべし。本庄繁長・木戸監物・上倉治部少輔・中条越前・村上国清は、関山より横合に、革籠原に鑓を入れて、嗣君中納言卿と勝負を決すべし。御所、白坂を過ぎて討つて入り給ふ時分、直江山城守二万にて、根子・鷹助より白坂へ出で、御所の左へ懸るべし。其時、景勝旗本は、長沼・倉〔古イ〕田・川布・高瀬へ懸り、関山の東を通り、小井塚〔堀イ〕・老野髪を過ぎて、寄手の後へ出で、御所の旗本へ、無二無三に切つて懸り、御父子を谷田・西原の深沼へ追入れ、一人も洩さず、討取るべしとぞ謀りける。既に、御所の御先手榊原式部大輔康政、数千にて下野国太田原に著きたりと、聞えければ、白河より太田原迄、僅か十一里なれば、一日にして来るべしと、上杉の諸軍勢、鉄炮の火縄を懸け、矢筈を取つて待ち懸けたり。景勝は、会津を出で、唯一騎にて白河に到り、安田上総・本庄繁長・島津月下斎等の諸大将七八騎召連れ、白坂を越え、奈須野の原を打廻り、又白河口革籠原に馬を立て、諸手の大将物主共を召し、合戦の次第を示し合せて、又会津へ乗帰り、旗本八千にて、背炙・這坂の峠を越え、勢至堂を後に当て、長沼に陣取りつゝ、寄手の先手、白坂へ打入るを聞くと等しく、長沼を立ち、小田・川布・馬瀬を過ぎ、関山を廻り、先日樵夫を案内者にて、見置きたる山道を押し通り、寄手の後へ出で、其不意に乗つて、真直に御大将御父子の旗本へ切つて懸り、三方よりかり立て、谷田・西原の深沼へ追込み、四方より引包んで討果すべし。若し味方、打負けなば、景勝を始めて、白河を枕【 NDLJP:147】として討死すべし。我旗本八千は、謙信以来の家法なり。多勢入るべからずとぞ申されける。家老新津右近以下諫めけるは、御旗本八千は、御家法たりと雖も、余り無人に覚え候。其上、輝虎公御代の武功の大将物頭は、過半相果て、大方若手にて候へば、八千計りにては、心許なく候間、外に御人数召連れられ候へかし。一円御合戦には差出で構ひ申すまじく候と、達て訴訟しければ、景勝聞き給ひ、軍の勝利は、八千にて能く候へば、曽て人数入り申さず候へども、各〻何れも訴訟に候間、談合次第に仕り候へ。但し本陣より三里近くへは、堅く禁制仕り候由、申渡しければ、皆々悦びつゝ、新津右近・沢〔宗カ〕根刑部・潟上権之丞・岡野左内・栗生美濃守・外池甚五左衛門、其外諸浪人等二万にて、勢至堂より背炙迄、陣取りけり。御所・嗣君も、小山・宇都宮に御著なされ、廿五日には、小山・宇都宮御立ち候て、会津へ攻め入り給はん御触なり。上杉方には、之を聞き、天の与ふる所なり。御父子を引入れ、四方より引包み、一人も洩さず、討取らんと待懸けたり。若し御父子、白河表へ押詰め給はゞ、四方より引廻し、上杉勢立挟み討つべし。さあらば、御人数、案内は知らず、東西に迷ひ乱れ騒ぐ処へ、景勝八千にて、思ひ寄らざる御後へ廻り、切懸り死狂ひに攻め戦ふ時は、御人数は長途を経て労れたり。詮方なく、手明きの方へなだれて、谷田と西原のおとし穴へ追入れて、人馬残らず討果さるべきを、御運や強かりけん。廿四日の夜、大坂より早飛脚来り、治部少輔三成、逆心して佐和山より大坂へ罷出で、諸大名を引付け、伏見の城へ取懸るべしと、支度仕り候て、京・伏見の騒動、夥しく候由告げ来る。其外よりも、申来りければ、之に依つて、廿五日の御出馬、相延びける処に、奥州棚倉領、前の地頭赤館源七郎といふ浪人、其父伊賀守当分の召にて、伏見へ籠りけるが、使者を下し、御所へ御忠節申候へと、申越しけるに依り、源七郎、父の命を請け、三十騎計りにて、奥州を忍び出で、御迎に登りけるが、御先手皆川山城守広照が陣所、宇治江岩屋の地蔵堂に来り、御所へ申上ぐべき旨ありて、来る由申しければ、皆川、人を添へ、小山の御陣へ遣しけり。赤館、小山へ参りければ、本多弥八郎正純を以て、白河の城の儀、御尋あり。赤館は、あたりの人を除けられ候へ。密かに申上ぐべき仔細候由なりければ、正純、赤館を一間の所に呼入れけり。そこにて、赤館さゝやきけるは、上杉勢譜代三万に、奥州浪人四五万も馳著き候て、御所御父子を、白河表へ引付け、四方より引包み、討取らんとの巧み次第、委しくは存ぜず候へども、大体、斯様に候と、見聞の通申達し、景勝を始め【 NDLJP:148】家中残らず、白河を墓所として、討死を遂げ申すべき旨、各〻神水を飲み、経帷子を著し、血脈をかけ死につきて罷在り候。白河表へ御著陣候はゞ、十に九つは御敗軍か。扨は御人数は、大かた残少なく討たるべく候。相構へて、卒爾に御取懸り候な。必ず越度を御取りなさるべき由をぞ申しける。此旨、密に御耳に達しければ、
御所は、八月四日、小山を御立ち、古河より船に召され、江戸へ御帰城なり。御船に召され候時、赤館源七郎始めて召出され、具足並に刀一腰下さる。源七郎御後より江戸へ罷登り関ヶ原へ行くなり。関ヶ原に於て、中村一学、九月九日十四日追合の時討死するなり。
御所も、御了簡ありて、御譜代の諸大将を召し、御密談ありける処へ、伏見の御城代鳥居彦右衛門元忠・松平主殿助家忠・内藤弥次右衛門家長連判にて、飛札到来し、石田治部少輔三成・増田右衛門尉長盛・大谷刑部少輔吉隆・安国寺恵瓊長老申合せ、西国にては、毛利輝元・島津義弘・宇喜多秀家を始め、大小名残らず一味仕り候。十五日に大坂にて勢揃へ仕り、近日伏見の城へ寄せ来り候由申し候。我々、御譜代の者にて候へば、存命の内には、城を渡す事候まじとぞ、告げたりける。御供の人々、上下色を失ひけり。兎角御相談あるべきにて、早馬にて宇都宮へ仰遣されければ、嗣君中納言卿も、宇都宮を立ち給ひ、夜通しに小山へ御馬を入れ、諸大将も、皆一騎駈に、宇都宮より小山へ引返しける程に、事の仔細は知らず、景勝逆寄に発向するといふ程こそありけれ。下々騒ぎ立ち、取る者も取敢へず、夜もすがら小山をさして、引取る人数引きもきらず。此時、若し景勝一二万にても出でたらば、寄手総敗軍たるべきに、上杉方には之を知らざりけり。扨鳥居・内藤が状を御披見なされしに、伏見の城松の丸の橋を引きて、楯籠りける由、書きけるを御覧なされ、橋なき所は、橋を架けてこそあるべきに、橋を引きて城に籠るは、籠城持堪へ難しと宣ひけり。
小山御陣御評定并本多中書・榊原式部御諫言の事
江戸嗣君は、七月廿四日の夜半に、宇都宮を御引払なされ、翌日晩景に、小山へ御著ありければ、本多中書忠勝・井伊兵部直政も、同じく小山へ参られけり。御所は、中納言卿へ御対面なされ、本多中書・井伊兵部・酒井左衛門尉家次・大久保次右衛門忠佐・大須賀出羽守忠政・平岩主【 NDLJP:156】計頭親吉・牧野右馬允康成・本多豊後守康重・石川長門守康通・松平玄蕃頭家清・菅沼織部正定盈等、諸大将数輩を召して、御相談ありしは、差当りたる景勝を、御退治あるべきか。又景勝を捨てゝ、上方を御退治あるべきかと、衆議区々にて、面々の所存を申上げらる。酒井左衛門尉申しけるは、景勝を捨てゝ、上方御退治なさるべく候。但し諸大名を召して、仰渡さるべきは、本国へ罷帰りたく存ぜらるゝ輩は、国に帰りて時節を待つべし。又国に帰りても、功を立て難からん人は、御所と江戸にありて、本意を達せらるべしと仰せ聞けられ、箱根を限つて持ち固めば、日本は措いて論ぜず。縦ひ、大明・天竺が働き来るとも、三島より東へは入るべからずと申されければ、井伊兵部少輔直政、申されけるは、箱根山を要害とし、三島を境目とする時は、是守額の行計りにて、自ら居籠になる者なり。我れ能く思ふに、駿府を以て御本陣とし、江府黄門君をば、浜松に置き奉り、下野守忠吉は、岡崎に御陣を召され、中書と我等は、吉田に罷在り、福島左大殿は、〈左衛門大夫正則の事〉清洲を守られ、東海道を持続くべし。敵、若し清洲を攻めば、吉田より後詰し、又敵、清洲を棄て、岡崎・吉田を攻めば、福島は敵の後を遮るべし。其外の諸大名は、各〻要害に陣を張り、変に乗じて、間を窺ふ兵を出し討つ時は、敵必ず退屈すべし。其時、諸口相図を定め、上方に攻め上る時は、大利を得ん事、掌の中なりとありければ、本多中書忠勝、暫く思案して、両人の申分、誠に尤なり。我も考へ見申し候に、景勝をば差置き、上方御退治御尤なり。上方の大敵さへ攻め亡し候はゞ、景勝は、遂には独り亡ぶべし。其上、最上に義光あり。岩手沢に政宗あり。越後に秀治あり。皆味方なり。三人の大将、会津を窺ふ則ば、景勝、やたけに思ひ候とも、都へ攻め上る事、叶ふべからず。今に考へ見候に、治部少輔王城に旗を立て、名を秀頼公に仮る則ば、大軍日々に累り、大事に及び申すべく候。不義の名を負うて、天下の進まざる所を攻めば、危き事にあらずや。我等了簡仕り候に、結城少将殿に、人数二三万附けて、景勝を圧へ、御所は、総軍を召連れ、美濃・尾張へ討つて出でさせ、急に鋒先を、江州・美濃の境に争ひ給はゞ、大功、即時になるべく候。佐竹義宣逆心候へども、父義重は、竹隈の城にありて、御味方申され候上は、義宣、遂に父を棄つべからず。然る時は、始終は御味方なり。相馬利胤も、景勝一味なりと雖も、小身の家なれば、物の数にもあらず。唯一刻も早く、江戸へ御馬を入れられ、諸大名を、先づ尾州・濃州境迄遣され、其相色に随ひて、御出馬なさるべく候。但し榊原式部大輔が帰るを御待ちな【 NDLJP:157】され、御極めあるべきかと、申されければ、御所も諸大将も、中書が議に同ぜられ、其夜の御評定は果てにけり。さる程に、榊原式部大輔康政は、太田原迄発向し、明後日は、白河表へ押詰め候はんと仕りける処に、宇都宮より、黄門君御自筆を下されければ、十五里を夜通しに、押して小山へ罷帰りければ、御前へ召出され、景勝御退治あるべきか。又上方御進発あるべきか。両様を御尋ありけるに、式部大輔承もあへず、景勝は剛敵にて候へども、申しても小敵なり。上方の敵は、弱敵にても大事の敵腹心の病なり。少しも早く、会津表を御引取り、御上洛なされ、青野・関ヶ原辺にて、一戦に勝負を極められ候へ。上方さへ御退治候はゞ、上杉独ころび仕るべく候。大軍、京・伏見に充ち〳〵て、中々勢に誇りつゝ、御所景勝と取合ひ、上洛努々叶ふべからずと思ひ侮る処へ、急に御上洛なされ、其不意に出で給はゞ、勝利は目の前に御座候。穴賢、箱根・大井川の要害を、頼みあるべからず候。唯早々御上洛なさるべく候。兵は神速を貴む事、兵書にも見え申し候と、申上げられければ、御大将、御機嫌能く、本多中書を召して、式部が申す所も、其方と同意なり。一時も早く、御上洛あるべしと仰せ出されけり。是に依つて、小山表を御引払なされ、江戸迄、御馬を入れらるべきに極りけるが、若し上杉、切つて出で、御跡を慕ひ候はんかと、御思慮あつて、会津の前の城主蒲生秀行の家老、蒲生源左衛門尉郷成を召し、御尋あり、源左衛門申上げけるは、上方は景勝に替へ難く候。其景勝は、叛逆の心入なし。直江山城所為にてこそ候へ。此方より御攻めなされずば、景勝は申出で申すまじく候。早々御上洛、御尤に候。さりながら、景勝御跡を付け候はん事、御心許なく思召さば、秀行を是に御残し候へ。我等、先陣に罷出で、景勝を、箒川より南へ越させ申すまじと、聞くもすゞしく申し上げければ、御所、御機嫌大方ならず宣ひけるは、我れ兼ねて、汝に尋ねば、斯様にこそ申し候はめと、思ひ設けしに、果して我が思ふ所を申しけるよと、殊の外感じ給ひ、結城少将秀康を大将にして、蒲生飛騨守秀行・里見安房守義康・佐野修理大夫信吉〈佐野天徳寺養子富田左近知信次男なり〉・六郷兵庫頭・水谷伊勢守・多賀谷左近・山川民部、並に那須七党福原・太田原・佐久山・蘆野・伊王野・黒羽・泉の輩、二万八千にて、宇都宮に残し置き、景勝を押へんとの御手段なり。此時、秀康は、宇都宮におはしければ、御所より松平玄蕃頭家清を、御使として、上方蜂起に依り、征伐として江戸へ帰陣仕り候。其方は宇都宮に残り、景勝を押へ申さるべき旨、仰せられけり。秀康は、大に怒り給ひ、関東の圧に罷在るべき事、存じ【 NDLJP:158】もよらず。唯上方の御先手承るべき旨、御返事之ありて、松平玄蕃に、御自分の御使者を取添へ、小山へ遣され、頻に上方へ、御先手をぞ御所望ありける。然れども、御所、曽て御許容なかりければ、秀康大に怒り給ひ、御所に先立ち参らせ、宇都宮より直に上方へ越さんと、打立ち給ひければ、其旨、聞召され大に驚き給ひ、秀康卿を小山へ呼び参らせて、直に御頼ありけるは、其方、上方の先手所望の事、尤も至極道理千万なり。さりながら、其方を、景勝押に置かんと存ずる仔細は、今度供致し、上洛仕り候士卒共、皆妻子を江戸・関東に残し置き候に付、其留守へ、景勝取懸り候はんと、雑説にて上下安き心なく、見え侍り。されば、景勝は十万に及ぶ人数を持ち、勢天下を呑み候。殊に上杉は、代々軍法に委しくして、兵を用ゐる事、日月の如し。家中軍法厳重にして、士卒思ひ付き一味同心す。謙信以来、武辺仕馴れたる兵共なり。武具・馬具に至る迄、精絶なる事、世に超えたり。又只今、上杉へ馳附きたる諸浪人は、皆奥州夷共にして、其心の猛き事、譬へん方なし。されども、直江山城守、智勇ありて之をなづけ従ふる事、譜代同前なり。只今、上方・西国一同に起り、景勝と手合致し候事、誠に以て大事なり。我れ分別するに、剛敵の景勝を抑へん者は、其方より外はなし。我れ上洛仕らば、景勝定めて討つて出づべし。其時は、宇都宮を丈夫に持ちこたへ、一人も外へ人数を出すべからず。景勝、宇都宮を棄て、江戸をさして攻上り。利根川を越ゆると聞きなば、跡より切つて上り候へ。さ候はゞ、景勝返し合すべし。其時、一戦に勝負を仕られ候へ。偏に頼み候由、仰せられければ、秀康卿も、兎角の御事に及ばず、御請なされける。又黄門君をも召して仰せられけるは、秀康と同道致され、宇都宮へ参られ、城普請等、夜を日に継いで申付けられ、我等、江戸出馬を聞き候はゞ、宇都宮より直に、木曽路を経て馳せ上り、美濃口迄、手を入れ合され候へと、仰せられければ、少将殿も、中納言卿も、御兄弟御同道なされ、宇都宮へ御帰ありける。扨又、御所は、上方諸大名並に大坂御馬廻り衆迄へ、東条法印・津田小平次・本多中書・井伊兵部を御使にて、仰せ渡されけるは、今度三成、大坂へ罷出で、各〻の妻子以下、皆召籠め候由に候へば、心中察し入り申し候間、早々大坂へ上られ候て、妻子の片付け尤もに候。縦ひ治部と一味致され候とも、少しも恨も存ぜず候間、早々帰洛然るべき旨仰出されけり。是に依つて、福島左衛門大夫正則・加藤左馬助嘉明・黒田甲斐守長政・田中兵部少輔吉政・生駒讃岐守一正・筒井伊賀守定次・藤堂佐渡守高虎・京極修理大夫高知・池田三左衛門輝政・山内対【 NDLJP:159】馬守一豊以下、大名・小名御馬廻の衆、小山の城の大広間に群集して、談合評定区々なり。御所を棄てゝ大坂へ帰るべきか。又人質を棄てゝ御所の御手を引かんか。義理の当る所褒貶は、何れか宜しかるべきと、談合未だ決せざる内に、細川越中守忠興は、去る十七日、大坂にて治部少輔討手を遣し、内方並に幼少の男子・女子二人共に生害の由、夜前告げ来りければ、無念口惜しく思はれければ、かたく隠密して披露なし。故に最早、大坂に執心なかりければ、進み出で申されけるは、治部に妻子を取らるゝ事は、兼ねて覚悟の前なり。唯一筋に御所の御味方仕るべしとぞ申されける。されども、衆議区々なりける処に、末座より上条民部少輔氏春〈上杉謙信養子壻、始は越後の上条の城主なり。景勝義絶にて京都へ立退き、秀吉公へ召出され、後御当家にて畠山入庵と号す。〉進み出で、福島正則・加藤嘉明・黒田長政へ申しけるは、各〻の御相談あるべき事と存ぜられ候。初より妻子を治部少輔に出し置き、只今御所の御味方申して、人質を棄てば、妻子の恨も、天下の誹り遁るべからず。此人質は、秀頼公へ差上げ候を、治部横取に仕る処、了簡に及ばず。仮令、治部と一戦に及ぶとも、妻子の恨あるべからず。余人は大坂へ上られ候へ。我等は、御所の御手を引き、一つ枕に討死を遂ぐべしと申しければ、福島正則・黒田長政を始め、上下一同に、御味方仕るべしとぞ、申上げられける。是に依つて、御先手として、諸大名、日次を追て上られけり。七月廿八日、福島正則・池田輝政・藤堂高虎・黒田長政・加藤嘉明・田中兵部・蜂須賀長門・堀尾信濃・細川忠興・山内対馬・金森法印・浅野幸長・徳永寿昌法印・本多中書・井伊兵部を取添へ打立ちけり。八月初には、御所、小山を御立なされ、江戸迄、先づ御帰城あつて、御先手の註進次第、御上洛之あり、美濃口御一戦との御定とかや。小山表より上方へ上る勢と、江戸へ引取る勢にて、道中は軍兵、引も切らずぞ通りける。
さる程に、上方には治部三成、諸大名に会合し、伏見の城へ取懸りて、速に攻め潰さんとぞ議しける。先陣の大将には、筑前中納言秀秋・備前中納言秀家・島津兵庫頭義久・毛利輝元・増田右衛門尉長盛・長束大蔵大輔正家、其外、弓・鉄炮の頭を相添へて、都合十万余騎とぞ聞えける。伏見の方はいふに及ばず、近辺の在々・所々に至る迄、あわてふためき色を失ひ、資財・雑具を持たせ運び、上を下へと返しつゝ、泣叫ぶ形勢は、如何なる大風・洪水も、是にはまさらじとぞ見えにける。斯くて、七月十五日、伏見本丸の大将鳥居彦右衛門尉元忠、諸将を集め申しけるは、近日凶徒、大勢押寄すると風聞あり。味方は無勢の事なれば、九牛が一毛とやいはん。【 NDLJP:160】然れども、合戦の習、必ず勢の多少には由るべからず。運の通塞、士の剛臆に依つて、勝負を得る事なれば、今度、各〻持口に於て、命を塵芥よりも軽んじ、名を万代に揚げんと思うて、一戦を励み忠を尽し給へと、軍議を決して、先づ公の御台所・公達を、退け奉らんとぞ評定しける。爰に、御所、会津御進発の折節、鍋島加賀守直茂に仰せけるは、若し東国へ出馬せば、女中・公達を、頼み置き給ふとの上意ありし時、直茂承つて、幸に三千の人馬、国元より引越し候へば、御心安く警固し奉らんと、領承申上げらるれば、則ち御盃を給はりて、御快く立たせ給ひけり。是に依つて、加賀守、警固を承つて、女中・公達をば、京都の方にぞ退け奉る。扨鳥居元忠は、今は心安しと、諸将に酒肴を勧めつゝ、早用意し給へ方々と、武具を肩にかけ、甲の緒をしめ、馬を陣場に引出し、寄せ来る敵を、今や〳〵と待居たり。然るに、廿万余の軍兵共、四方八面より、一度にどつと音を揚げ、金鼓の声、地を動かし、鉄炮の音、天を響かして、百千の雷の落つるが如く、須弥もくだくるかとあやしまる。鳥居は、櫓に上つて見けるに、敵の勢、稲麻竹葦の如くに囲みたれば、木幡が岳も宇治川も、平地にやなすらんとぞ覚えける。扨寄手は、もみに揉んで、七月晦日の子の刻より、緊く夜を昼についで攻むれども、城中の軍兵、身を棄て防ぎ戦へば、たやすく落つべしとは見えざりしに、江州永原の軍兵共、俄に心変して、松の丸より夜の中に、敵を引入れたりければ、続いて秀秋の軍勢、雲霞の如くに乱れ入り、鬨を上げけるに、城中の諸士、思ひ寄らざる事なれば、前後を取巻かれて、大半討死したりける。鳥居が兵卒、其由を見届けて、元忠に斯様々々の仕業にて、内より破る事なれば、落城は程あらじ。人手に懸り給はんより、早く御自害候べし。則ち御供申さんと、勧めしかば、元忠聞きて、昔より大将たる者の、敵にかこまれて、自害を急ぐは、武勇にあらず。叶はぬ迄も戦うて、一人なりとも、敵を討たんこそ本意なれ。然れども、我れ味方ヶ原にて、信玄との戦に、疵を蒙りしより、歩行合期し難しと雖も、最後の軍に、目覚させんといふ儘に、八月朔日の早天に、本丸の城門を押開き、兵卒に助けられ名乗りけるは、是へ出でたるは、昔味方ヵ原にて、甲斐信玄と一戦を遂げ、数ケ所の疵を被りて、合期なり難き鳥居彦右衛門といふ者なり。最後の思出に、一戦仕らんといふ儘に、四尺余の大太刀を、真向に取りかざし、戦士を鶴翼に備へ、魚鱗になし、爰を先途と戦ひて、虎鸞・輪違・車切・毒龍・真影・払ひ切・飛越え跳越え、右往左往に薙廻りたる働に、舌を巻きてぞ恐れける。され共、深手・薄手数しら【 NDLJP:161】ず、身は唯朱に染みかへりければ、太刀を逆手に取直し、今は天運是迄と、さもはなやかに、腹を切つて死したりしを、誉めぬ者こそなかりけれ。松平主殿助・松平五左衛門尉も、共に討死をぞしたりける。其中に、西の丸を預りし内藤弥次右衛門が生死、明白ならざれば、両君の御気色、宜しからずとや。又若狭少将勝俊は、西の丸の加勢にておはせしが、諸将と不和なりければ、敵の未だ襲ひ来らざる以前に、伏見を立退きて、洛東の霊山に閉居して、其名を長嘯と改め、松風に吟じ、渓泉に嘯きて、敷島の道に心を澄し、和漢の歌に、思を浮べて住まはれけり。勝俊は太閤政所の舎兄木下肥後守家定の子、金吾中納言秀秋の弟なりとかや。又家定の庶弟木下佐渡守は、兄と不和なるに依つて、加藤清正を頼み、肥後の熊本にありて、軍事を謀りしが、太閤御他界の後は、肥前の国守寺井の邑に行きて、鍋島の家中となりしとかや。扨又、三成は、細川の父子を味方に勧め、同心せずんば、丹後国田辺の城主細川兵部大輔藤孝を攻め滅さんと、幄策を廻らし、同国宇都宮の城主一色式部を招ぎ寄せ、心を尽して饗応しければ、今は骨肉の思をぞなしにける。式部は、細川藤孝の妹壻なりければ、三成密にいへらく、細川藤孝と其子忠興とを、味方になせと勧めける。式部、智恵短くして、三成が秀頼公を守り立てんといふに事寄せて、己れ天下を奪はんとするを、夢にも知らずして、尤なりと承引し、頓て使者を以て、藤孝と忠興の方へ、密かに申遣しけるは、各等、太閤の厚恩莫大なれば、心を翻して、秀頼公の味方に属し給へと、頻にこそは申しけれ。細川父子は、式部をこそは味方に附けん者をと、思はれける処に、却つて案の外なる事なれば、呆れてぞ居られけるが、その返答に、仰越さるゝ通、如何にも、秀頼公の味方に属し申すべし。さりながら、先づ此方へ来り給へ。対面の上、直に心底を談合せんとありければ、式部は、委細を聞いて悦び、頓て忠興方へ行かんとぞ出立ちける。扨忠興は、藤孝に申合せ、一色を田辺の城に呼び寄せ、東国の味方に勧め、承引なきに於ては、忽に討果し、三成が一方の羽翼を□べしと、密談してぞ待居たり。斯かる処に、一色来りければ、忠興対面して申しけるは、御辺、能く能く思案を廻らして了簡せられよ。太閤の厚恩を報ぜんと思ひ、御子秀頼公を守り立てんと思ひ給はゞ、先づ三成を討亡し給ふべし。其故は、彼の三成が心底を推察するに、秀頼公を寄〔守カ〕立つるといふに事寄せて、義兵を挙げ、却つて秀頼公をおとりにして、吾と仲悪しき諸大名の家を滅し、後日に天下を奪はんとする謀なり。依つて御所を敵とし、諸大名軽無にして、【 NDLJP:162】関白秀次公を失ひ奉り、筑前金吾を流言し、太閤に讒言して、浪人の身となせし時、此も証拠にあらずやと、拳を握つてぞ申されける。一色聞いて、さりとは大胆なる言分かな。東国方こそは、後日に必ず秀頼公をなき者にして、自ら天下を掌握せんとの兆、鑑に掛けて見え侍るに依つて、三成と申合せ、太閤の御厚恩蒙る事莫大なれば、孤君秀頼公を守り立て、先君の厚恩を報じ奉らんと思ひ、一命を塵芥より軽んじ、忠義を、磐石よりも重んぜん我等を疑ひて、貴辺父子が、高恩を忘れ、忠を失はん事こそ、無慙なれと、あらげなくぞ申しける。忠興聞いて、いらざる広言だてをいはんより、我等が言に従ひ、東国方に与し、忠を尽されよと申せしかば、一色、以の外に気色を損じ、厚恩を忘れ敵になりたる東軍方には、与せじとて、其目の先忠興を、討たんとするの様子にぞ見えにける。折節、口論の最中に、忠興の刀の柄、後へ廻りありけるを、家臣に長岡佐渡といふ者、之を見て、用ある体にて忠興の後へ廻り、刀を蹴たる風情にて、取つて戴き様に、刀の柄を、主の左の脇に寄せければ、忠興心得て、抜討にぞしたりける。一色も、最後ぞと、太刀引抜いて討つて懸る処を、忠興、太刀にて真向二つに討破りけるにぞ、空しくなりにける。一色が家来共、此有様を聞付けて、主を討たせて置くべきか。いで物見せんといふ儘に、百四五十人の侍共、面をふらず切つて入り、追つゝまくりつゝ、おめき叫んで火花を散らして戦ひける。忠興方には、長岡佐渡・有吉武蔵を先として、其外、当番の侍共、鑓・長刀の鞘を外し、鉄棒・熊手を追取のべ、討つて出で、爰を先途と戦ひけり。其ひまに、田辺の諸家中聞付けて、侍共我れ劣らじと駈合せ、内外より攻めければ、一色が侍共、一人も残なく、枕を並べて討死したりけり。此事、四方に隠れなかりければ、三成聞いて肝を消し、大坂表の諸大名、色を失ひ見えにけり。之に依つて、三成申しけるは、細川父子、先君の厚恩を忘れ、秀頼公を背いて東軍に従ひ、一色を討ちけるこそ悪き所為なれ。此上は逆心といひ、一色が恨の程も哀なれば、急いで田辺城主藤孝を攻め亡し、不義を糺さんと軍議して、小野木縫殿助・藤掛三河守・高田豊後守・別所豊前守・小出大和守・椙原伯耆守・生駒左近大夫等先陣として、丹後・但馬の勢を相添へ、都合八万三千余人をぞ遣しける。其頃忠興は、東軍にありて、田辺の城には、藤孝の手勢計りあるべし。勢の著かざる内に、即時に踏潰さんとて、八万の軍兵、十方より取囲んで、一度にどつと鬨を揚げ、七月廿日より九月十二日迄、昼夜を分たず、攻め戦ふと雖も、本より期したる城中の精兵共、厳しく四方を固めつゝ、【 NDLJP:163】弓・鉄炮・石火矢を、雨の如くに打ちければ、竹束の仕寄せも微塵になり、鉄の楯も、次第に網の目の如くになりければ、寄手も攻めあぐんでぞ見えにける。軍半ばの事なるに、其頃、公家にも殿上にも、古今集の伝授中絶して、天子にも御伝あらせ給はざる処に、細川藤孝入道玄旨法印が身にありければ、もし藤孝討死せば、日本の神道・歌伝、永く絶えなんと、忝くも後陽成院歎き思召して、時の伝奏三条大納言実条卿・烏丸大納言光広卿に、加茂の大宮司松下を相添へて、田辺の戦場へぞ遣されける。両軍相挑んで、戦半ばなるに、勅使、急ぎ輦より下りさせ給ひて、両陣へ向つて仰せけるは、今度、天子の勅使として、三条大納言・烏丸大納言、遥遥是迄来りたり。両陣慥に承はれ。今に本朝の歌道の秘伝、鳳闕には絶えたる如くにて、武家に相続せり。輒ち古今伝授といふは、中古濃州の士東下野守平常縁より、紀州の種玉庵宗祇に伝へ、宗祇より三条大納言道遥院実隆卿に伝へ、実隆卿より称名院公保卿に伝へ、公保卿より三光院実澄卿に伝へ、夫より円智院公国卿に伝ふ。公国早世の折節、其子香雲院実条、まだ七歳なりし故に、細川兵部大輔藤孝入道玄旨に伝ふ。藤孝は、文武二道に達し、義勇の名将にて、我が師範たる円智院の息実条卿に伝へん為めに、田辺の城へ迎へ取つて養育し、歌道・神道悉く伝授しぬれども、未だ幼弱なれば、古今の伝計りを残されける。実条、既に成長に及ばれし故に、帝都へ返し奉りけるに、天子の寵遇、他に超えて聞えさせ給へば、輔佐の大臣とも、成らせ給はんと思はれて、藤孝も悦びあへり。古今の伝授をも遂げて、師恩を報ぜばやと思はれし処に、高麗征伐の触あるに依つて、則ち異国合戦の用意に取詰められ、実条卿を呼迎へて、伝授せん隙のあらざれば、武士の習、何国にて討死せん時に於ては、本朝の歌道の伝授、永く絶えなん事を歎き、則ち古今の箱を、幽斎孫烏丸大納言光広に遣し、高麗陣の間、其方に預け奉る。若し討死致すならば、此箱を、実条卿へ渡し給はへとあつて、一首の和歌をぞ送られける。幽斎
人の国ひくや八島も治りて二た度かへせ和歌の浦波
藻塩草かき集めつゝ跡留めて昔にかへせ和歌の浦波
古今の箱、預り給ふとて、返歌に光広卿、
万づ代と誓ひし亀の鏡しれいかでかあけん浦島が箱
斯くの通りにて、高麗陣の時、藤孝入道玄旨は、筑紫名護屋に詰められけり。其息、朝鮮にて【 NDLJP:164】軍功大なるを以て、秀吉公御遺言にて、豊前の臼杵の城を加恩に預けられける。帰陣の後に、光広より箱をかへすとて、
明けて見ぬかひも有りけり玉手箱再び帰る浦島が波
御返事をとて、幽斎
浦島や光を添へて玉手箱明けてだに見ずかへす波哉
と、互に諷吟をして、伝授の箱を贈り返し、公家・武家共に悦びあへる折柄に、はからずも、治部三成、軍兵を催し、諸卒を遣して、玄旨が在城を取囲み、大軍厳しく攻め戦ひ、落城近きにありと奏聞ありければ、駭かせ給ひ、玄旨若し討死するに於ては、本朝の神道・歌伝、永く絶え、神国の掟も空しくなるべし。古今の伝授を、再び禁裏に残さん為めに、勅使相向ふなり。此陣、暫く引退いて、古今の伝授あらしめよと、宣旨委細に演べ給へば、両陣畏まつて、鋒を伏せ甲を脱ぎ、鳴を鎮めて、戦をやめければ、勅使、宣旨の通を、玄旨に仰せけるにぞ、入道法印、有難き勅諚なりと、頓て本丸に請じ奉り、焼香・灑水して、古今の箱を取出し、三神・五社を掛け奉りて、秘密して伝授、一言半句も残さずして、三条大納言実条卿に伝授せられける。其上に、源氏物語の奥義・廿一代集の口訣・切紙・和歌の三神人丸正体・八雲の大事、二た時計りが其間、丁寧に認めて、神国秘密伝授の印信とて、一首の和歌をぞ奉上られける。
古も今も変らぬ世の中に心の種を遺す言の葉
と詠み、実条卿に対つて、古今の箱並に源氏物語・廿一代集の箱共にぞ渡し奉らる。斯くて烏丸光広卿も、次を以て、伝授し給ふとかや。いと目出たくぞ聞えける。玄旨法印は、古今の伝授、此時に永くたえもやせんと、是のみ苦しみ思はれける処に、再び禁闕に遺し奉り、神国の光を、弥〻雲の上に輝す也と、千喜万悦譬へん方もなく、思ひ奉れり。扨伝授事終りて後、両人の勅使は、大宮司松下を以て、寄手の大将共に、勅命の趣、宣べさせ給ひけるは、今度、勅使として三条の大納言・烏丸大納言、爰に向つて、藤孝入道玄旨法印に、天子古今の伝授ましませば、玄旨は、則ち天子の神道・歌伝の国師なれば、此陣、早く引取るべしと、仰せられければ、互に拝みて、寄手の諸将も、勅命なれば慎んで領掌し、異議なく囲をときて引去りけり。輒ち此藤孝は、尊氏十二代の後胤、義晴公の四男なり。母は還翠軒義賢息女にて、飯川妙佐の妹なり。万松院義晴公、東山鹿ケ谷に移住し給ひし時、寵せられて懐妊し、男子を儲けさ【 NDLJP:165】せ給ひ、之を後に兵部大輔藤孝とは名付けたり。義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の固嵩、三男は南部一乗院門跡覚慶、四男は則ち藤孝なり。後に此妾を、三淵伊賀守に嫁せられて、大和守とは別胤の兄弟なりとかや。慈母〔〈嫁脱カ〉〕する時に、藤孝も倶に行きて、三淵が継子となつて、養はれける処、其頃、泉州岸和田の城主細川右馬頭元常に子なし。幸に三淵と縁ありし故に、兵部大輔藤孝を養ひて子とす。依つて細川といふ。其子越中守忠興永岡と名乗る事は、昔藤孝、南勝龍寺の軍に戦功ありし故に、則ち其在所永岡の庄を、信長公より、采邑の地に拝領せしに依つて、永岡とは名乗られけるとかや。
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政宗は、六月十四日に、大坂を立つて伏見・江戸に逗留し、仙台へ赴きしが、景勝領をよけ、佐竹領相馬・岩城を廻り、七月廿二日に、仙台へ帰城し、廿三日には、人数を休め、夜通に十四里をおして、廿四日に、白石の城へ取懸りけり。白石は、政宗領の境一の手先なり。去々年、景勝、会津入部の時、衆議ありて、白石の城には、誰か差置くべきとありしに、政宗領の境目大事の所なれば、勇智兼備の物主にてなくんば、然るべからずとの事にて、其器量を選ばれけるに、甘糟備後守清長然るべきにて、白石の城にぞ差置きける。元は越後国上田の者にて、長尾越前守政景の家人なり。
甘糟備後守同名近江守景持といふ者あり。謙信代に勇功の士なり。其子加賀守相続いで、景勝に奉公す。其子孫は、加賀右衛門と号して、今上杉家に奉公。但し甘糟同氏にて、備後守と一族にはあらざるなり。
度々の勇功・将帥の智才、柿崎和泉守景家・本庄越前守繁長にも、肩を並ぶべき者なりければ、謙信代に次第に経上り、一手の大将となりけり。此故に景勝も賞翫あつて、白石の城を預けられけり。其頃、政宗未だ帰城なし、会津に残し置きける甘糟が最愛の妻、病重り相果てたる由、白石へ申来りければ、備後守、悲歎に堪へず、妻の女房を葬送の為め、又は幼少なる子供、嘸や母を慕ふらんと、不便至極に思ひければ、家老豊野又兵衛を、本丸に差置き、甥にて壻なりける登坂式部を、二の丸に置き、景勝へは断を申さず、忍びて会津へ立帰り、妻女を葬送し、追善以下、又は家内・稚子共の事申付け、未だ白石の城へ帰らざりけるを、白石の城中に返忠ありて、【 NDLJP:166】政宗に告げたりけり。政宗、一昨日大坂より帰城し、廿三日には休息しける処へ、此註進ありければ、天の与と悦び、廿三日夜半に、仙台を立ち、廿四日の午の刻に、白石の城へ押寄せ、町口を放火し、急に攻め入りける。城中豊野・登坂、政宗帰国を知らざりけるに取懸られ、俄の事なりしかば、大きに驚き防ぎ戦ひ、早飛脚を以て、会津へ註進し、塀裏狭間配して、鉄炮厳しく打出しければ、流石寄手、左右なく近付き得ず。されども、城中は大将甘糟留守なれば、抱へ難く見えたりけり。政宗先手の大将浜田治部大輔は若年なれば、万事武者遣は、石田豊前守に申付けられける処に、浜田治部は、士卒に先立つて、一番に三の丸へ攻め入りける処を、石田馳せ来つて、物主の先懸する処にてはなし。是より先へは、一寸も遁れ申すまじと、後より抱きとめけるに、大力なりければ、浜田も力なく留まりけり。されども、三の丸を乗取らんと、政宗、頻に下知せられければ、矢代勘解由兵衛、千余騎にて入替り攻懸る。城中手垂の弓・鉄炮、爰を先途と射出しければ、手負・死人数を知らず。夜に入つて弥〻攻め近付き、火矢を以て矢倉を焼落し、是より矢代勘解由、施を取つて一番に乗込み、子の刻に至つて、三の丸を攻取りけり。翌廿五日、浜田治部手にて、二の丸に取寄せ候処に、城中より登坂二百余にて、門を開き、突いて出でたりける。寄手の先駈百計り追立てられ、岸よりなだれ逃げける処を、登坂、勝に乗つて追付き、少々討留めけり。浜田、之を見て、鉄炮を打立つて横合に懸るを見、登坂、城中へ引入りける。浜田、大言揚げ、附入にせよと下知して、透間なく追ひすがうて懸りける。登坂が精兵共返し合せ、鑓先を揃へ突立て追立て、六七人手の下に突臥せ、寄手しらむを見て引入りける。一番に大将浜田治部、手鑓引提げて追来る。中目大学・山川帯刀、大村隼人押続いて追来り、門を立てさせず、附入にせよと、二の丸大手の門へ駈入りける。登坂式部・甘糟三十郎・鹿子田求馬、かへし合せ鑓を入れて、さん〴〵に戦ふ。木村隼人を突伏せ、浜田・中目・山川を、廿間計り突立て、其ひまに門へ入りけるに、浜田・中目・山川、又引付けて駈入りけるを、門をやう〳〵閉て合せ、門差固めけり。浜田も中目・山川も力及ばず、門脇にひしと付き、後陣続けと招きける。浜田が家中沖彦三郎といふ者、主の馬印を以て、門脇の柳の木に付け置き候を、跡より味方之を見て、城内へ浜田馬印を入ると見て、我も〳〵と駈付け候を、塀裏・矢倉より屈竟の手垂共、ねらひすまし、鉄炮を打出しければ、廿間・三十間跡につかへつゝ、鉄炮を避けんと平臥して進み得ず。浜田・中目・山川三人計【 NDLJP:167】り、門脇に付きたる体、天晴剛の者とぞ見えたりける。政宗の鉄炮大将中島宮内左衛門、鳥毛の幌かけ、唯一人続き来り、四人になりて、門脇に附きける。浜田治部、節々立起り、後勢を招きて、続け〳〵と呼ばりける処に、片倉小十郎、ひた甲三十人計りにて、門近く押寄せける。城中の鉄炮雨の降る如くなれば、鑓を伏せ折しきこたへける。中目大学、門脇より顧みて、片倉殿見苦しく候。今少し寄りて見られ候へと申す。片倉手に附きたる兵共、塀下を心懸け候へども、召出の如く廿人計り、鉄炮にて打倒しければ、皆錣を傾けこたへつゝ、進み得ず。政宗了簡せられけるは、甘糟備後守留守なれば、早速乗取らるべしと思ひしに、思の外なる事かな。今一両日もかゝりなば、会津より甘糟も駈付け、後詰も来るべし。城中登坂式部は、元は甘糟弥三郎と申せしが、備後守壻なり。謙信以来、覚の兵なれども、心だて欲心深く、無道不義にして、其上、悪しき病ありければ、景勝もいぶせくや思はれけん。遂に呼出さざりしを、備後守が所為にて、直参にならざるかと憤りて、述懐しけると聞き、之を幸に、矢文を射て見んとて認めける。貴殿事、承り及び候仁にて候に、景勝、呼出されず、備後殿家人にて居られ候抔、本意なく候へ。昨日より今日迄の御働、誠に感じ入り候。侍の習にて候へば、回り忠仕給へかし。此城に五万石添へて遣すべしと、書きて射させける。登坂、矢文を見て、思召忝く候。委しくは、唯今、使者を出し申上ぐべしと返事しける。城中より少時矢止なされ下され候へ。使者を出し候と、扇を出しける処に、寄手も暫時門筋の矢止しける。されども、城の脇櫓・本丸の出塀よりは、鉄炮厳しかりけるに、片倉小十郎は、家人鈴木源兵衛といふ大剛の兵を使として、先懸四人へ申越し候は、浜田殿は申すに及ばず、大学・帯刀・宮内左の御手柄残からず候。とてもの事に、門を御焼払ひ候へかし。小十郎も攻め入り候はんといひ遣しける。矢・鉄炮はげしく立起る事も、成り難き所へ、源兵衛黒四半の指物にて、静々と来り、主の口上を述べければ、皆舌を慄ひ感じける。浜田治部申し候は、門を焼けと思召し候はゞ、焼草を下され候へ。易き事にて候と返事せしを、後に小十郎申し候は、其砌、城内より使者を出し、降参の訳之あり候に付き、使者に聞かせんと存じ、斯様には申しき。御心に懸けられ候など申訳しけるとぞ聞えし。則ち登坂、心を変じ、人質を取返し、白石の城に五万石の約束にて降参し、政宗の人数を、二の丸に引入れしかば、本丸の城代豊野又兵衛・鹿子田日向守切つて出で、防ぎしかども相叶はず、落城に及び、豊野を始め、百七十【 NDLJP:168】一人討死しけり。
私に曰く、登坂、譜代の主君を背いて、城を渡す事不忠なり。さりながら、此方へ城を渡す所を褒美するとて、三千石与へ、三咬の城主郡左衛門尉に、預け置きしとかや。
政宗の軍兵、討死・手負二千に及びける。手負を除け申すべき為め、白石に三日逗留し、廿八日に、直に、須田大炊助長義が籠りたる簗川の城を攻めんとて、評議しけるに、廿七日の夜、大雨降り、篠をつくが如し。廿八日も雨甚だしく、白石と簗川の間、逢隈川といふ日本一二番の大河あり。常にも川越たやすからず。まして、此雨にて水かさ増りければ、水の落足を待ちける処に、小山の御陣より、中沢主税介を御使として、白石へ下されけり。今度治部三成、謀を廻らし、畿内・西国日を追つて乱れ候。夫に付き貴殿の意は、上方一味にて候や。又此方へ一味にて候や。然れども、政宗の妻子方、大坂に居られ候へば、三成に一味致され、尤もに候。縦ひ、上方へ徒党候とも、少しも恨に存ぜす候由、申渡しけり。政宗は承り、妻子にかゝはり、上方へ一味仕り候はゞ、汚名を末代に残すべく候。只一筋に、御所の御手を引き申すべき旨、申され候。御使者中沢聞きて、主君所存は、達て政宗へ申し候て、上方御一味候様に申すべきにて候と、再三申さるれども、政宗は、中々同心なし。其時、中沢、密に申しけるは、我等、小山を罷立ち候時、主君申され候は、伊達殿、縦ひ東方致され候とも、達て、上方一味を勧め候へ。若し三日に及んで、伊達殿、志変らずば、其時、主君心底を申入るべしと、申され候とありければ、政宗は、斯程の騒劇の砌、三日を待ち候はん事、余りに待兼ね申候。早早、御所の思召を承りたしと、責めければ、中沢聞いて、主君三日を過ぎて、申すべしと下知にて候。せめて明日迄相待ち申すべしと、翌日迄延引す。政宗、頻に責めければ、中沢密に、政宗に囁きけるは、主君申され候は、伊達殿、別心之なくば、伊達の家老士卒迄の所存を聞届け、其上にて、政宗と皆々一味ならば、隠密の口上を、申渡すべしと申しければ、政宗は、我さへ一味の上は、家中の士卒、何を以て、異議之あるべく候や。申すに及ばずとありければ、中沢は、政宗に向つて、主君、上方の敵を討たん為め、致さるべく候。小山にて聞き候へば、景勝領白石辺に出張候て、上様一戦御心懸けと聞え候。主君、此儀を甚だ苦労に致され候へば、伊達殿、必ず景勝に負け給ふべきにはあらねども、若し景勝勝利を得、伊達殿敗軍候時は、上方口の一戦の障に成り申候。伊達居城岩手沢は、去る天正十九年九戸陣の砌、太閤の【 NDLJP:169】御内意にて、主君取立てられ候城にて候へば、要害の能き事、天険の地とも謂つべし。然る間、伊達殿早々白石表を引払ひ、居城岩手沢へ引籠り、関ヶ原口の合戦の左右を、御待ち候へと申され候。此段、承引候はゞ、隠密の口上を申渡すべく候。若し承引之なくば、隠密の口上、申入るべからずとの事にて候と申しけり。政宗、大いきをついて、近頃、難儀なる思召にて候。白石を引払ひ、居城へ取込め候へば、其道十余里引入り候。兵は進む事こそ、本望に候へ。居城へ引入り候事、武士の本意を失ひ候間、如何之あるべしと、申されけり。中沢は、曽て許容せず、伊達殿と景勝との御合戦なされ候事は、御所、曽て満足に存ぜられず候。唯遁れ〔枉げイ〕て、岩手沢へ御引取然るべしと申しければ、政宗も力及ばず、白石の城を引払ふべきにぞ極りける。其時、中沢、政宗に囁きけるは、此度、主君、勝利を得られ候はゞ、景勝領をば、残らず伊達殿に進じ申すとの内意にて候。尤も朱印をも、進じ置きたく候へども、景勝、未だ亡びざる敵地を、人に宛行はんとの約束は、末代の論、遯るべからず候間、唯我等の物語にて、申達すべく候。上杉領は、少しも残さず、進じ置き申すべしとの、主君の内意真実に候。其故は、会津其外も、蒲生秀行の本領に候へども、去々年、宇都宮へ所替せられ、僅に十二万石に罷成られ候に付き、会津は、秀行に遣し候筈に候へども、秀行も、舅の力にて会津へ帰住は、弓矢の外聞も如何に候。会津十郡は、四郡づつは、政宗と秀行と、弓矢を以て働次第に遣さるべく候。さりながら、秀行の分にて、何として、上杉領切取り候事、罷成るべく候はんや。さ候へども、一円に政宗への心当にて候と、語りければ、政宗大きに悦び、さ候はゞ、とてもの事に、会津を下さるべくとの御約束の御朱印、頂戴仕りたく候とあり。中沢聞いて、岩手沢へ御引取あるべきを見て、小山へ罷帰り申すべく候。御使を添へられかしとありしかば、政宗申す迄にや及ぶべき。岩手沢へ帰陣の事は、慥なる事に候とあるに付き、中沢は、白石を立つて、小山へ帰りければ、政宗より山岡志摩守と、堺の町人菜屋宗薫、折節、見廻に下りけるを、御所、存知の者なれば、之をも中沢へ相添へ遣しけり。三人、夜を日に継いで、小山へ罷越し、御朱相調ひ到来せしかば、政宗は、白石表を引払ふべきに極まりけり。
伝に曰く、岐阜の城主織田中納言秀信は、信長公の御孫、信忠公の御子にて、三十万石の大将なり。今度、会津へ出張あらんとて、家中の諸士を召集めつゝ、面々、其軍合を相定め、七月朔日に出馬あるべしと、議せられし処に、三成が許より、河瀬左馬助といふ者を、使者【 NDLJP:170】として申しけるは、此度、大坂表よりして、秀頼公、御旗をあげさせ給ふ間、貴辺御手引を頼み入らせ給ふと、一意にて斯様々々と、弁舌を以て信がましく、述べ遣しけるを、秀信聞いて、一種の心田両地の秋に作つて、兎角分り難く、夜に入つて、家老木造左衛門・百々越前守、其外宗徒の家臣を集め、三成が使の趣を閑談せられける。何れも大事の評定なれば、耳を傾け口を噤んで居たりける処に、木造、申す様は、忠諫せざれば、良臣にあらずとなれば、某、所存の通を申して見ん。何れも了簡し給へ。先づ此度、大坂方の儀は、偏に辞退し給ひて然るべし。其故は、仮令、三成に御心を寄せらるゝとも、既に会津出張の大軍を催されながら、三成が一往の勧に、はや御同心あれば、世間の聞え軽々しく、其上、是は彼の党が叛逆と推察せしめ候。御家の大事、必定ならんと覚え候。能々智謀を廻らされ、使者をよきに饗応し、追付、此方より返答あらんと御帰し候はん事、然るべしと言上すれば、何れも此儀に同じて、各〻御前を立ちにけり。秀信独り居て、思案せられしが、心にや叶はざりけん。近習の出頭入江左近・伊藤平左衛門・高橋一徳三人を招き寄せて、委細を密談ありけるに、左近が曰く、大坂の奉行は、いふに及ばず、四国・西国の諸大名、悉く一味の上なれば、天下一統に、大坂方の下知に従ふべき事、疑あらざれば、弥〻会津出勢の儀を止められ、三成に御同心あらば、以後の御為め繁昌ならん。早速、御許容の返事仰せられば、三成感悦斜ならず思はんと、三人の者共、異口同音に申しけり。秀信、実にもと得心あるこそ、滅亡の基なれ。翌日、自筆の返簡を以て、三成方へぞ送られける。偖其後、家老共、登城の折に、秀信申されけるは、弥〻大坂方に一味をなし、其旨、書札を調へて、今朝三成が許へ贈らるの由、物語せられしかば、何れも驚いて、兎角の了簡にも及ばず、急ぎ退出して相談しけるは、亡父信忠公の遺言に任せ、家中大小となく、徳善院玄以法印の下知を受けて、執行ふ事なれば、彼方に訴へんと、則ち木造・百々の両人共に、密に岐阜の屋形を忍出で、早打にて上京し、徳善院の数寄屋に於て、対面を遂げ、右の次第を具さに述べけるを、玄以聞いて仰天し、是ぞ御家の破滅、天魔悪神の所為なり。各〻一命を捨て諫言し、早くも会津へ出陣なし給へとあるに依つて、両人、委細を承りて帰る所に、秀信は、佐和山へ越し給ふとて、鳥本の宿、物騒がしき様子を聞きて、すは是非に及ばざる事共かなと思ひ、凌ぎ通らんとするを、石田、兼ねて斥候を遣し、両人出京を待つて、路次に人を附置き申しけるは、秀【 NDLJP:171】信も、近日打越され候、是非に、佐和山へ立寄られよと留むれば、強ひて辞退も成り難く、彼の地へ行きしかば、種々の饗応にて、三成、両人に対面し、今度秀頼公、大軍を思召立ち候に付き、中納言殿を御頼みあるの条、各〻も得心候て、主君と共に軍功を尽さるべし。恩賞は望に任せ、沙汰し申さんと、太刀・黄金を、当座の引出物に出しけるを、両人の者、忝しと領掌して、最早勘忍も成り難く、一太刀と思ふ所存は、頻なれども、若し仕損ずる者ならば、秀信の御為め、如何と思ひ、進む心を引きとめ、佐和山を立出でて、岐阜へこそは帰りけれ。彼の者共は、余りに胸にすゑかね、私宅に立寄らずして、其儘、直に登城し、家老分の物頭等を呼び集めて、玄以法印の心底口上の趣を、委細に披露して、当家の興廃、唯此一挙に極まりぬ。然る上は、各〻存念遠慮なく申さるべし。多分の方に付いて、了簡致すべしと申しければ、飯沼十郎兵衛進み出で、つら〳〵思案仕るに、主君今度、佐和山へ打越され候事、以ての外卒爾なる上なれば、関東への御出陣も、はや成り難き所なり。近日三成、是へ来るべきなれば、願ふ所の幸なり。当城に於て、三成を討果し、関東へ御註進あらば、莫大の御忠勤たるべし。討手は則ち某に仰付けられ候へと申しければ、満座の諸士、一同に、此儀尤も然るべしと、歯嚙をなして諫むれども、秀信は、曽て承引なきこそ無念なれ。斯くて、岐阜の城の麓なる瑞龍寺山に、三箇所の砦を構へ、三田が援兵とい〔〈ひ脱カ〉〕ふらし、樫原彦右衛門・同息左京・河瀬左馬助・同十太夫に、三千余の戦兵を差添へて、固めけるこそ不覚なれ。木造・百々・飯沼が諫めし言葉を、八月廿三日の落城に、思ひ出されて涙に咽び給ひけるこそ愚なれ。扨三成が才覚にて、七月廿一日に、秀頼公の命と称して、江州先方前右兵衛督義郷が許へ、使者を以て申遣しけるは、今度国表の大将として、発向致さるるに於ては、本領は相違なく安堵たるべしとの旨、三成以下の奉行連判の状をぞ渡しける。義郷は、連状を披見して、使者に対面し申しけるは、今此砌に及んで、家人共を召集め、軍兵を催し、北国表の大将をせよとや。誠に以て、三成にはよくも似合ひたる了簡の催促なり。是ぞ一揆とやいはん。何か是に過ぎたる恥あらんやと、以ての外、気色を損じ大に怒つて、則ち使者を切つてぞ捨てたりける。義郷といふは、関白秀次公の伏誅せられ給ひし時に、石田が讒言に依つて、浪人せしとかや。今度の振舞、実に道理なりと、世人つぶやきたりとなん。大坂方の詮議には、此度、義郷、北国へ発向あるならば、国中の諸卒駈【 NDLJP:172】集つて、手痛く一戦を励さんと思ひて、彼の地に打越えんは必定なり。さあらん時には、其跡は、人少にて要害もあるまじ。其上、味方に固まるなれば、必ず安く国々への使をも通ずべしと、臆して申遣す処に、案に相違しけるは、則ち八月二日の夜、諸将寄り集りて、先づ前田肥前守則長が、関ヶ原へ上らば防がんと、手当延引に及んでは、悪かりなんと、義郷が替に、山口玄蕃・同息左馬助・成田庄左衛門父子四人を、大将として都合、其勢一万余の軍兵、加賀・越前の境なる大聖寺の城に、差向はんとの評議区々なる所に、小西摂津守行長申さるゝは、会津表、方の如く難儀に及ぶと聞ゆれば、東国・北国手当は遅からぬ事なり。先づ急いで、近江の逆徒等を退治あらんこそ、然るべく存候へ。義郷、縦ひ、味方の催促に応ぜずとも、使者を斬るといふ事やある。前代未聞の所業なれば、片時も遁るべきにあらず。若し之を其儘置くならば、以後の狼藉、算を乱すが如くならん。早速、軍兵を馳せて、渠等を誅伐せらるべしと、畳を敲き、理屈を立てゝぞ述べにける。三成聞いて、暫し工夫しけるが、仰の通、最も義郷が仕方、奇怪千万・言語道断なれども、渠はもと江州の太守なり。今其人を、討果さんと披露せば、国中の者共、皆々好身を思ひ、必ず挙つて一揆を発すべし。唯天下の安危は、美濃と近江につゞまる事なれば、風なきに波を起す様にて〔は脱|カ〕却つて味方の騒なり。僅の敵に、天下を失はん事、本意ならず。大志・小節にかゝはらずとあれば、今度西国方、勝利を得るに於ては、義郷を踏潰さんは、掌の中なるべしと、からからと打笑ひければ、何れも此議に同じつゝ、北国手当の評定したりけり。加州前田肥前守利長は、東軍一味にて、金沢を固めて、小松の城主丹羽長重を押へんが為め、岡崎備中守を以て、三道山に遣し守らせけり。同八月三日に、利長は大聖寺の城主山口玄蕃頭を攻めんと議して、軍兵四万五千を引率して、小松の南三谷海道へ押出して、総構を攻め破らんとぞ謀りける。舎弟前田孫四郎利政は、二万余の戦兵を率して、能州より取懸り、諸手一同に攻め入らんと牒し合せける。其間に、利長申されけるは、先づ小松の城を攻め落し、軍神の血祭して、味方の軍勢に競はせんは、如何とありければ、高山聞きて、小松の城には、物に馴れたる長重、聞居り候へば、心安くは成り難き体に相見え候由申しければ、利長も重ねて返答なかりけり。扨丹羽長重は、総構へ出でて、町屋の屋根の上に登り見るに、肥前守が大軍、東は手取川・三道山より三谷に到つて、野も山も整々として、皆旗・長柄・長【 NDLJP:173】刀凛々たり。恰も星の連りたるが如くにて、味方の軍色おくれてぞ見えにける。時に坂井与右衛門、之を怒つていふ様は、勝負は大将にあつて、人数にあらず。いざや、各〻に目ざまさせんとて、古田五兵衛に、千四百余の兵を附けて、浅井口に遣し、桜木源太には、鉄炮八百挺相添へ、潟の海へ船に乗せ、二方より不意に、利長の後へ廻つて、討悩ませば、忽ち後陣の前田孫四郎・高山南之坊右近をば、馬場村へ押取込め、古田・桜木勝に乗りて、頻に討つて懸りける程に、小松勢、弥〻後陣に喰付けば、利長も難儀たるべしと思召し、則ち馬を止めて、床机に腰を掛け、備を立直しける処に、丹羽長重は、南部無右衛門・寺沢勘右衛門両人を、斥候に出して、利長が旗本を見ける処に、高山右近、之を見て、小松の斥候は、軍略を知らず、物に狎れざる者なり。彼を討取れと下知すれば、武者七八騎馳出でけるが、追失ひてぞ帰りける。始め小松方より、古田・桜木討出でし折に、肥前守が軍兵、今井橋に乗ると思ひて、小松の城へ取懸るの旨、註進したりければ、城には大に騒動し、長重未だ町屋の上にありしが、註進を聞いて、則ち潟へ出張せし古田・桜木に、早々引取れと、使を馳せければ、両人急ぎて、小松に引取りけるを見て、孫四郎・高山右近も、馬場村を馳出し、都べて古田・桜木が跡に附きて退くを、敵追へども顧ずして、城に入りしかば、前田孫四郎・高山右近も、残念ながら引返しけり。小松の城には、寄せ来る敵を、今や〳〵と待ちし処に、利長は城を後になし、大聖寺の方へぞ押し上りけるを見て、長重不審に思ひ、斥候を呼んで、利長、此城へ懸らずして、西をさして打通るは、如何なる故ぞといふ。南部・寺沢申しけるは、大呂村一屋にて見候へば、今井橋御幸塚に、人数伏兵之ある故に、註進するなりといふ。古田・桜木、大に怒つて、其伏兵は、此方より遣し置きたる鉄炮の人数なり。先刻、浅井口瀉の合戦に、勝利を得て、利長軍兵を、馬場村へ追込しに、扨々、是非なき仕合かなと、歯嚙をなして悶えければ、長重も、以ての外に気色を損じ、斥候の者を白眼付けて、適希有のうろたへ者と、真黒になりて怒りにけり。肥前守は、思の外に、手痛く一戦して鬪ひければ、高山がいひし事も、符合せりと思ひ、小松を差置いて志す大聖寺を攻め破らんと、兄弟一手になりて、六万余の勢、大聖寺の城へ、四方より取懸り、一度にどつと声を揚げ、弓・鉄炮・箭鳴の響は、白山も砕け、立山も地に割入るかとぞ聞えける。斯くて、城主山口玄蕃頭父子、並に成田庄左衛門・同喜太郎・飯田又六・松井宗介等一万千余騎、城門を押開き、お【 NDLJP:174】めき叫んで切つて出で、防ぎ戦ふと雖も、敵は六万の勢、城中は一万の兵なりければ、叶ふべしとも見えざれば、遂に本丸にぞ取籠りける。前田利政、之を見て急に攻め懸り、息をもつがせず、揉みにもんで押詰めしかば、鐘の丸をも打破られ、防ぐに手段なく、織田孫左衛門以下五百余人、枕を並べて討死せり。寄手にも、手負・死人数知れず。城主山口父子は、翌四日に自害をぞしたりける。此時に、大谷刑部少輔吉隆は、鯖並に陣取りて、山口玄蕃が勢の援兵、奥山雅楽助・木下宮内を伴ひて、東国方の堀尾帯刀吉晴が府中の城代、堀尾宮内・同勘解由を攻めんと思ひて、越前の府中に押寄せて、既に合戦に及ぶべかりしに、城兵等、異議あつて諸士和せざれば、固むる事成り難くして、大谷に和睦を乞はせし処に、大聖寺落城の由、北の庄青木紀伊守より告げ来れば、刑部、大に驚いて、府中を捨置き、北の庄の後詰をせんと、旗を巻きけるを、奥山・木下等申しけるは、府中の敵を、跡に据ゑなば、大なる害あらん。先づ府中の城を攻め破りて、其後、北の庄へ向はれなば、然るべからんといふを、大谷聞いて、城〔府カ〕中の城を攻め破らんとする中に、北の庄落城せば、小松の丹波長重・丸岡の青山伊賀守も、忽ちに力つきて、味方の弱り千万ならん。唯府中を、此儘置く時は、其苦労なく、能き留守居を置く如くなれば、気遣なし。北国手に入らば、府中は攻めずして取るべしと議して誘ひ、北の庄へ押詰めんと、堀尾が和睦を幸にして、府中の囲を解き、二万千余の兵を一手になして進む心を便とし、四日の丑の刻に、北の庄へぞ著きにける。斯かる処に、利長の縁者に、中川宗半といふ者、秀頼公の近侍なりしが、大坂より加州へ下りけるを。大谷、北の庄にて聞付け、則ち宗半を迎へ押留めて、是非をいはせず、一通の謀書を調へ、利長の許へぞ遣しける。其書簡の文に曰く、
此度、北国筋大谷刑部請取、四万余騎にて取向候。一万七千、北の庄口より、後詰三万余は、船手にて加州へ著岸し、金沢を可㆓攻取㆒の間、不㆑可㆑有㆓御油断㆒候。恐惶謹言。
八月三日 中川宗半
肥前守殿
利長は、之を開き閲るに、宗半は音に聞えし能書なれば、紛もなき自筆自判の状にて、疑ふべきにあらざれば、誠ぞと心得て、八月七日に、細呂木・大聖寺より、金沢へぞ引きにける。是は、刑部が利長を欺き、軍議を妨げんとの智謀なり。是に依つて、大谷は、青山紀伊守【 NDLJP:175】と、奥山雅楽助・木下宮内とに相談し、小松に到り、丹波長重に対面し、軍議一決して、上田主水・寺西備中を加へ置きて、刑部は其より関ヶ原へぞ赴きける。奥山は、北国別儀なければ、迚もの事に上方へ馳登りつゝ、三成と倶に働き、天晴武功を顕し、名を万代に揚げん者をと、思ひすまして、疾や遅しし、江州海津辺迄駈著きしが、早関ヶ原落去し、三成敗北すと聞いて、腰折れ果てけるが、やう〳〵直に京へ登りて、髪を剃り、名をば宗巴と改め、今出川に隠居して、空しく果てにけるとなん。
政宗白石城より岩手沢に引退く事
関東よりの御内意にて、政宗、岩手沢へ引取るべきに、極まりしかば、白石の城は、又敵付の方とぞなりにける。政宗は、諸大将を召し、扨此白石の城は、如何仕るべく候はんや。力を尽し、攻め取り候城を、捨てん事も口惜しく候。如何仕るべく候やと、申されけれども、大山・切所・大河を隔て、殊に剛強の大敵景勝領の中に、残るべしと思ふ者なければ、互に大息つきて、目を見合せたる計りにて、物いふ人は勿りけり。政宗は、片倉小十郎景綱を呼び、暫く密談し、浜田治部を召しければ、浜田傍近く参りけり。片倉は、政宗へ向つて、唯今御評定の通、仰せ渡され候へと、申し候へば、政宗は片倉に申候へとあり。片倉は、唯直に仰せ渡され候へとありけれども、片倉申渡すべしとの事にて、申しけるは、此白石の城、其方手柄を致し攻め取り候城を、御捨あつて御帰陣候はん事、口惜しき仕合に候間、是非とも、片倉を召置かれ候て、下され候へと、再三申上げ候へども、片倉儀は、万事御相談なさるゝ者に候間、罷成らず候由、仰せられ候間、近頃、大儀ある仕合に候へども、其方を此白石に差置かるべく候。満足の段、察し申候は、所望申し候片倉は、差置かれず候て、其方を差置かれ候段、浅からざる儀に候はず抔申しける処に、政宗申され候は、近頃無理なる所望にて候へども、唯其方、一命を貰うたるにて、申兼ね候へども、別に相残すべき者、見当りに之なく候に付いて、斯の如く候と申され、涙をはら〳〵と流し、手を合せて、浜田に頼まれければ、其時、浜田治部、誠に忝き儀は、浅からず候へども、廿歳の前後、東西をも弁へざる拙者儀に御座候間、只功者なる方を、召置かれ候へかし。私儀をも〔私にても苦しからずイ〕と思召され候はゞ、畏り奉り候。功者なる人に、御差添へ候様にと申しけり。政宗・片倉諸共に、只其方一人と談合相究め候との儀に付いて、浜田申【 NDLJP:176】しけるは、左様に御座候はゞ、兎も角も御下知次第、私若輩の者にて候へば、似合の働にて候へば、其旨を申上げ候。景勝御取懸り候に、何と致し、私無勢にて罷成るべく候はんや。勝利を得候はん事は、存じも寄らず。唯景勝、御取懸り候時、何れの木戸口へなりとも、罷出で討死仕り候か。又は本丸にて切腹仕り候歟。此両条にて、苦しからずと思召し候はゞ、何より以て安き御事に候間、此城に残り申すべく候。さりながら伝へ承る。先年越中陣の砌、宇佐美駿河守定行が、松倉の城に残り、又毛利家の能見兵部少輔宗勝が、筑前の立花の城に残り候様なる手柄の働は、罷成らず候と、打笑ひ申しければ、政宗聞きも敢へず、切つて出で候は悪しく候。景勝、攻め懸り候はゞ、随分防ぎ戦ひ、其上にて、城中にて自害仕り候へ。夫にて事済む儀にて候。さりとては、無理なる事を、所望仕り候間、暇乞の盃せんとて、政宗、盃をさし申されければ、何卒仕り、籠城三日堪へ申し候へ。さ候はゞ、我等、後巻を仕るべく候。愛宕八幡大菩薩も照覧候へ。見殺し申すまじとありければ、浜田治部大輔、大に気色を損じ、政宗をはつたとにらみ、申しけるは、後巻をなさるべしとの御意、合点参らず候。左様に思召し候はゞ、余人に仰付け候へと、眼に角をたてゝ申しければ、政宗聞き給ひ、何とて左様に申すぞと尋ね給ひければ、浜田申し候は、御奉公に命を捨て、此白石を墓所に相究め、御請申上げ候に、明日にも景勝、御取懸なされ候とも、御捨殺し、後巻計りは、御無用に候。此度、御馬を岩手沢へ入れられ候も、関東よりの御下知にて、兎角上杉と御一戦御無用と、ある御事にて候はずや。左様に候処を、景勝、此城を御攻め候に、私を不便に思召し、後巻に御出で、景勝と御一戦候はゞ、関東の御下知に御背き、末代迄御中違ひにて、之あるべく候。私命の助かり候とても、御所と主君と御中違ひ候事は、軍神八幡照覧あれ。罷成らず候。明日上杉殿、御取詰候とも、私儀は、命を限に持堪へ申すべく候。御後巻なされ候はゞ、今生・後生御恨に存ずべく候と、恚る眼に涙を流し申しければ、片倉小十郎も涙にむせび、浜田が申分、成程尤もに候。左様〔候イ〕上は、殿は殿、其方は其方、此乱鎮まり候迄は、不通致し候と申しければ、浜田は忝く存じ候由にて、白石に残りけり。其刻、政宗は、関東よりの御朱印を拝領し、景勝領地は、我が物よと悦びつゝ、内証にて、矢代勘解由兵衛・片倉小十郎・浜田治部には、加増の約束致されけるとなり。斯くて、政宗は、白石の城を引払ひ、岩手沢居城へ引取られける。白石の城は、先日落城の砌、二の丸迄焼払ひ、人馬焼死候を、取除け候事も罷成らず、塀【 NDLJP:177】の破に柵をふり候計りにて候へば、景勝御取懸り候はゞ、一怺へも怺へ難かるべきを、景勝は、上方の勝負、関ヶ原口の一戦次第と思ひ遂げられ、取懸り給はざりければ、浜田、さる剛の者にて、城を請取り候日より、上杉領へ働き、須田大炊助長義が籠りたる簗川の城と、本庄越前守繁長が居り候福島の城と、両方の間に、菱草を伏せ、数度首を取りけるとかや。
浜田治部が、古例を引きて越中陣とあるは、数度の事なれば、何れと尋ぬるに、天文七年四月、長尾信濃守為景・宇佐美駿河守定行両旗にて、越中へ働き、松倉の城には、畠山植長の内唐人兵庫・山下左馬助籠りしを、宇佐美一手にて攻取り、直に其城に之あり。長尾為景は、放生津の城へ取懸り、四月九日に攻め落し、徳大寺大納言実規、其外公家衆八人を討果す。十月十一日に、神保宗右衛門・椎名康雅、江波五郎と枢野にて一戦、為景討死、越後勢総敗軍になりたりしに、宇佐美駿河守、松倉の城に残り、十一日踏止まり、越中の敵を切り平げ、越後勢を引取りし事なり。徳大寺大納言実規は、亀山尾張守尚慶が外様なり。其頃京都大乱にて、公方万松院義晴公も、江州坂本へ御立除き、公家衆も其縁に寄り、諸国へ立除き給ひし故、徳大寺も右の通なり。又毛利元就、大友宗麟と弓矢を起し、度々、筑紫へ攻め入られけるに、元亀四年〈元亀四年癸酉は、天正元年なり〉九月に、元就、筑紫国立花の城へ取詰め候に付き、戸次道雪〈立花左近将監宗茂の父〉は肥後・筑後を相催し、二万計りにて、後巻ありしかども、元就、遂に打勝つて、立花の城を攻め落し、豊後勢と対陣しける所へ、山中鹿之助幸盛、尼子一族を引連れ出雲国へ攻め入り、過半討平げ、鹿之助詞儀にて、豊後より大内太郎左衛門、周防の山口へ取渡り、在々所々働き、難儀に及ぶ由、芸州より告げ来り、元就引取るべきに極まりける時、立花の城に残るべしと申すものなかりしに、小早川隆景の内、能見兵部少輔宗勝、〈浦兵部事〉
一手にて残り止まり、立花の城にこたへし手柄、西国に隠れなく、天下に名を揚げし事を、浜田も聞伝へて、唯今申しけるとなり。
白石の城主甘糟備後守清長は、会津に罷在りける処に、政宗、取懸り難儀に及ぶ由、告げ来りければ、急に会津を出で、白石へ急ぎける処に、はや落城の由、註進ありしかば、甘糟も、無念至極に思へども、詮方なく、福島〈イに二本松といふ〉の城へぞ籠りける。爰には、景勝内、五百川修理・岩井備中守・二本松右京罷在りければ、此城へ入り、何卒、白石の城を取返さんと謀りける。白石落城の由、景勝聞かれ、大に立腹し、甘糟を呼び、汝武勇の選にあうて、白石の城を預かる処に、【 NDLJP:178】妻女の死ぬるに依つて悲歎す。我にも伺ひ問はず、大事の境目を捨て、忍びて会津へ罷越す事、言語道断なり。妻女死に候に付き、其跡を見廻んと存ぜば、我に之を申聞け、誰にても其代に、物主一人を入れ候へば、何の気遣も之なきに、其儀に及ばずして、城を明け来り、落城に至る事、切腹申付けても、慊らず候へども、越後以来、度々の忠功の者といひ、又は妻女の死別に依り、幼少の児共に迷ひ、途方を失ひたる上なれば、命の儀は赦免し候間、私宅に閉門致し、罷在るべく候とぞ、申渡されければ、備後守、籠居してぞ居たりける。
甘糟備後守は、隠れなき勇将の誉の名ありしに、此度、白石の事に依り、恥ぢ悔みて、自ら世上も疎に、景勝も詞もしか〴〵かけられず。其後、景勝は、米沢三十二万石になり、所替せられしかば、甘糟も本領二万石なりしが、僅か五千石になりて罷在りけり。一年、景勝在京せし時、大御所、内々甘糟が大剛・勇智の誉を聞召し及ばれける上に、殊に白石落城より、景勝前も遠のきたりと聞召され、景勝猶子、畠山長門守義真を召し、甘糟〔〈を脱カ〉〕御旗本へ召寄せられたく思召し候間、何卒才覚致し候へ。三万石下さるべき由、仰付けられければ、畠山長門守は、甘糟を密かに呼寄せ、右の旨申聞けゝれば、甘糟涙を流し、我等、謙信・景勝の厚恩を受け、殊に譜代の主にて候へば、上意、山々忝しとは申しながら、景勝を捨て、御旗本へ参り候事は、罷成るまじく候由、申し切りければ、長門守、力及ばず、此旨、上聞に達しければ、弥〻甘糟を誉めさせ給ひけり。畠山長門守は、景勝と不通たりしに、彼の宅へ、甘糟忍びて参りたりと聞付け、弥〻立腹し、甘糟病死の後、其跡目、少しも立てざりける故、其子は南部へ浪人しけるとなり。
私に云、景勝逝去の後、子息弾正定勝より、甘糟が子藤右衛門・同帯刀を呼返され、知行を給はり、只今、甘糟五郎左衛門・同久三郎とて米沢に之あり。
斯くて、石田治部は、彼是と軍兵を催す中にも、真田安房守昌幸は、本多下野守が壻にて、石田と相壻なりければ、三成とは、骨肉の交とぞ聞えける。扨又、次男左衛門佐幸村は、大谷刑部少輔が壻にして、何れも、石田が為めには、後門の狼・前庭の虎の如くにぞ見え侍りける。是に依つて、今度も西軍の方に与して、石田とは、微量の志となれ長男伊豆守は、本多中務が壻なれば、関東に勤仕して、忠義も抽んづれば、御懇情も他に超え思はせ給ひける。然れば、父子兄弟、関東・西軍に義心を励ませば、忽ち呉越の隔とぞなりにける。伊豆守【 NDLJP:179】つく〴〵と思案しけるは、父子兄弟、讐敵となる事、我朝に於て其例少からず。遠くは義朝、近くは信玄等の大将、皆以て斯くの此くなれば、今更驚くべきにあらず。然れども、身体髪膚を父母に受けて、此身を相続し、父は天なれば、敵対すること、豈其理あらんや。道に背きて立つべきの義なしと、種々に工夫して、何卒父を諫めて、一所に働き、倶に軍功を尽し、君の為めに死なんこそ本意なれと、則ち安房守が許に行きて、詞を正し、術をかへて、色々に理を立てゝ、諫言を尽すと雖も、昌幸曽て承引なかりしかば、力なく、所詮仕官をやめ、いかなる深山幽谷へ入り隠れ、世を遁れ居らばやと思ひしが、今難儀に臨んで、退きなば、内証の心底をば知らずして、我が身命を遁れん為めなりなどと、諸人に嘲弄せられなば、却つて武勇の家に、疵を付くるに似たり。其上、不孝を先んずれば、又君を、末になし奉るの不忠をいだく。進退両楹あつて、爰に谷まれりと倦しが、又思へらく、父も天なり、君も天なれば、忠孝に、何の厚薄を存ぜんやと了簡して、退く心を取直し、我が身を君に奉らんとぞ決しける。斯くて、父子三人龍・虎・獅子の勢をなして、下野の小山迄は御供して下りける処に、治部三成が羽書を飛ばして、真田三人に申しけるは、其許の乱軍は、兼ねて思ひ設けたる処の幸なり。何卒、透間を窺ひて、御大将を討ち奉らるゝに於ては、秀頼公への忠節第一なるべし。其軍功には、伊豆守には上野の国を給はり、安房守には、信濃国、左衛門佐に甲斐の国三箇国を宛行はるゝの由、誓紙を遣すと雖も、伊豆守、之を見る事、腐鼠の如く思ひて裂き捨てたり。其後又、三成箇条を認めて、安房守が許へ遣しけるにぞ、弥〻父子の義絶とはなりにけり。三成が状に曰く、
去三日之御状、今六日子の刻、佐和山へ到著令㆓披見㆒候。
一、先書度々申入候。披見候哉。其国一箇国の仕置、忝被仰付之旨、輝元・秀家・増田右衛門・長束大蔵・徳善院等、自
㆓拙者
㆒可
㆓申達
㆒候間、其心得□□は川中島・諏訪・小諸・甲州迄之儀、成程弓矢御才覚可
㆑被
㆓仰付
㆒候。何上方妻子有
㆑之衆候間、不
㆑可
㆑有
㆓異議
㆒候。各〻於
㆓〔
〈脱アルカ〉〕愚意之輩
㆒者、押付成敗有
㆑之間、可
㆑有
㆓拝領
㆒旨、各〻相談の上、被
㆓定申
㆒候間、其旨、可
㆑被
㆓仰付
㆒候。被
㆑極
㆓時日
㆒、則其詮不
㆑可
㆑有
㆑之候。但御手余衆、此方へ可
㆑承候。美濃衆可
㆑被
㆓差向
㆒之旨評定也。羽右近儀、各〻別之遺恨候。其衆、御若年の秀頼公様新地拝領、曲事如
㆑仰候。
【 NDLJP:180】一、会津へ被㆓飛脚差越㆒、可㆑被㆓仰入㆒儀肝要候。
一、越後之儀、久太差而承引無㆑之候条、上方闕国多候間、越後景勝被㆑遣、久太上方拝領様有増候。
一、川中島の儀、御手余に付可㆑承候。此方被㆓仰付㆒事可㆑有㆑之。
一、羽肥前、江戸に置㆓老母並家老之人質㆒之処、其触之事候哉。于㆑今御請慥不㆑申。丹五郎左衛門手前人数出之由申付而、北国如㆑形人数遣候。羽久太、上方江無二之覚悟候。越後筋間越中江乱入申遣候事。
一、此後、国之儀、一国平均所務事申付候。幽斎事、久々付㆓懇望㆒赦㆓一命㆒流罪候。長岡越中事、破㆓御法儀㆒申㆓掠御若輩之秀頼公新地㆒有㆑之条、遺恨深き故、彼妻子大坂居候。焼討被㆓仰付㆒候事。
一、先書申候大坂西の丸之留守居五百余人追出、伏見之城江遣、西丸江移㆓居輝元㆒候。其心得伏見之城鳥居彦右衛門為㆓大将㆒千八百余置候。各〻申談、去朔日四方無㆑難、不㆑残㆓壱人㆒討取、城中御殿此方雑人原踏荒し候故、悉懸㆑火不㆑残㆓一宇㆒焼払候事。
一、此書立越候衆、何れ無二之覚悟を可㆓心安㆒候。日本之諸侍、妻子入㆓置大坂㆒之間、於㆓位置㆒者、可㆓心易㆒候。兎角手立不㆑及㆓愚意㆒之輩可㆑討候覚悟専要候。此方仕置、明後尾州表江被㆑遣候様、岐阜中納言と申談候。不㆑可㆑有㆓御気遣㆒候。一手之筑紫衆、佐和山残置、用次第可㆓打出㆒候。尾州表輝元人数一方討〔万計カ〕谷川安国寺召連、長束大蔵同道、而昨日被㆓打立㆒候。其刻、勢州表書立候次第候。鈴鹿越被㆓打出㆒、輝元儀、自然東将被㆑上候はゞ、浜松迄著之時分、人数二万召連、到㆓勢州㆒出馬可㆑仕相定候。此書立之人数、五三日以前、徒党国々馳上相交候。於㆓仕置㆒可㆓御心易㆒候。其上、金銀・玉薬之料入用之事可㆑承候。自㆓労頼公㆒可㆑被㆑遣候由、太閤御貯之金銀並闕地、何れ御忠節次第者、某可㆑被㆑下候事。
一、今度伏見表手柄仕候九州衆江、東将之江州十万石令㆓割付㆒、当座之引出物、金銀相添、感状被㆑下候。
一、東将会津・佐竹敵被㆑仕、僅か三万・四万之人数に而、抱㆓分国十五城㆒、甘日路上事成者候哉。路次筋之面々、今度出陣之上方衆如何在将軍次第申候。廿年以来太閤之御恩、去年壱年之懇切替、秀頼公江不忠仕、剰へ、於㆓〔〈脱アルカ〉〕大坂㆒妻子等可㆑申哉。御所此頃、各〻差而懇意等【 NDLJP:181】之由承候。右分別無㆑之手前人数、上方羽、一万計語而上候共、尾・参之間、可㆓討取㆒儀、誠に天之与に候。然則、会津・佐竹・貴殿関東誇著而、乱入可㆑有㆑之被㆑仰候。佐呂於天道仕置見之召上候事、可㆑有㆑之候。唯今遣候備、如㆑右被㆓相極㆒候事。
定而可㆓聞及㆒、水野和泉守、三州池鯉鮒居之処、加賀野江弥八出陣仕立寄、至㆓口論㆒、弥八、和泉守を刺殺し候。其座に、堀尾帯刀居合、之を被㆑斬、痛手に而相果候体に聞、帯刀新地取候事仕合相達、改㆓中村式部㆒病死之由、告事切し〔本ノマヽ〕、承候。御用無㆑之共、可㆑預㆓御飛脚㆒也。御内儀方、大坂御入一段無事候。□多河内父子、当地為㆓留守居㆒、今日当地江被㆑参候。下野事、先日佐兄誓之切所取合而、家中之者、少々手負候へ共、父子共無事、可㆓御心易㆒候。今度は九州衆不㆓大方㆒秀頼公江御奉公、振而抛㆑命無二之体に見申事候。輝元同事候。恐惶謹言。
八月六日 治部少輔
真田安房守殿
安房守、委細を見届けて、上方動乱の由を聞き、俄に上州犬伏の宿より引返し、伊勢崎に要害を構へ楯籠り、城をば固めつゝ、寄せ来る敵を、今や〳〵と待ちにけり。大坂には、諸大将会合して、勢州表東軍一味の城を、攻め没ぼさんと相議して、阿濃津富田信濃守信高を、先づ討たんと評定して、則ち安芸宰相秀元・宍戸肥前守・吉川広家・久留米秀包・長束大蔵大輔・中江民部少輔・長曽我部宮内少輔・山崎右近進・藤田権之助・松浦安太夫、都合其勢六百余騎、八月廿三日、須臾に馳せ著きて、七重八重に押取囲み、鬨をどつとぞ揚げにける。城よりは音も合せず、遠箭を射懸けて悩ませば、寄手心は勇め共、此城二方は打続きたる深田なれば、中々たやすく、攻め落すべき様もなく、攻めあぐんで見えにけり。城主信濃守信高は、野州小山の御陣にありけるを、召して仰せけるは、大坂より多勢を以て、勢州表を攻むべしと、用意するの旨註進あり。昔より東西の戦場は、必ず美濃・尾張なれば、若し勢州通路易からざれば、東軍も難儀なり。急ぎ本国に馳せ上つて、武勇を励ますべしとあつて、江州大溝の城主分部左京亮政寿を相添へて、上せ給ひけり。両将は、三州吉田より船百余艘を揃へて、渡海せる処に、沖中にて、大坂方の船大将九鬼大隅守が軍船に逢ひたりけり。時に大隅が武者共、はや富田が船に鑓引懸けて、押寄せたり。富田、騒がぬ男にて、船端につゝ立上りいひけるは、先年、朝鮮征伐の時、九鬼殿も某も、倶に異国に赴きて、昼夜合戦に及んで、身命危き事数を知【 NDLJP:182】らず。其折も、互に助け、助けられつして、目出たく本国に帰りたり。諸大名多けれども、其より刎頸の契約をなし、以後迄も事あらば、聊か余所には見なさじとの誓なるを、方々も、定めて見もし聞きも及ばれん。今日斯かる振舞を、後日に聞き給はゞ、主人も快くは思はれじと、富楼那の弁を以て、演べけるにぞ、兵船共、誠ぞと心得て、御免々々といひざまに、綱をとき、碇を放しつゝ、稲葉が船かと、見損ぜしと囁きて、遥にこそは漕ぎ行きけれ。富田・分部の兵卒共、蘇生したる心地して、順風に帆をあげて、万里を一時に急ぎしかば、程なく津の城にぞ著きたりける。分部は、自分の館は、要害抱へ難ければとて、共に津の城へ加つて、東の口を固めけり。古田兵部信勝も、東国より八千余の兵を引きて、松坂の城へ籠りけるが、敵未だ寄せ来らざれば、手勢を分けて、千余兵を津の城に遣し、南の口をぞ持たせける。同廿四日には、城中より分部を出して、西来寺の伽藍を、焼払ひける処に、俄に風替りて、町屋に火移り、災一時に燃え上りける。宍戸備前は、得たりやおうと、東門に攻め懸れば、分部左京、鑓追取つて、ついて出で、唯今寄せ給ふは、宍戸殿と覚えたり。分部左京参り候と、高らかに名乗りて、青龍半月に突詰め、しばし戦ひけるが、宍戸を頓て突伏せたり。分部も深手を負ひたれば、引入りにけり。輝元は、麾、振上げて、西南の口を打破りて、三の丸へ乱れ入らんとぞしけるを、吉田が勢に、分部も替りて防ぎ戦へども、敵、雲霞の如くに群りて、太刀先を揃へて攻めければ、味方、乱れ足になつて、我れ先にと引取るに、毛利の奇兵、附入にせんと馳込みしを、富田が軍兵に、上田吉之丞といふ荒者、五寸余の馬に乗り、三尺八寸の大太刀を、電光稲妻の如くに閃めかして、敵の群りて、三の丸へ入らんと、押込みける真中へ破つて、是ぞ兼ねての思出と、四方八面になぎ廻れば、さしもの大勢、一人に切立てられ、嵐に木の葉の散る如く、一度にぱつと引除くを、其儘、城戸をぞ固めける。敵も味方も、上田が有様を見て、天晴一騎当千とは、斯様の者をやいひつべしと、恐れて近づく者ぞなき。斯かりける処に、当瀬山より、鉄炮・右火矢を射懸くれば、矢楼・殿守も打崩され、西来寺の余烟吹掛くにぞ、城も危く見えければ、城主信濃守、本丸の追手に馳出で、命を限に戦ひしかば、佐々孫市・安塚平八郎等九人、枕を並べて、討死をしたりける処に、本多志摩守馳来り、四方の敵勢を追散らし、富田に申しけるは、雑兵の手に懸り給はんより、本丸に入りて、御自害あれと諫めて、又防ぎ戦ふ間に、富田は、本丸へ入らんとする処に、毛利の兵に、中川清左衛門といふ剛の者、【 NDLJP:183】紫の幌を懸け、葦毛の馬に乗り、信濃が跡より討つて城へ附入せんと、大勢押来りしかば、富田、取つて返し、鑓振廻し、突払ふ処に、分部左馬助も馳合せて、爰を先途と戦ひけるに、城中より容顔美麗なる若武者、緋緘の鎧に、中二段黒革にて、をどしたるに、半月打つたる甲の緒をしめ、片鎌の手鑓追取り、富田が前に進み出で、跳り上つて、振廻し、受けつ流しつ、西江水に構へて突き懸り、はや中川をば突殺して、五六人に手を負はせ、残る奴原、四方に追散らし、鑓提げ立ちし風情は、さながら牛若殿の古も、斯くやあらんと、何れも目をさまして感じけり。富田は、定めて分部が小性ならんと思ひて、彼の若武者は、左京亮の少年かと、問はせければ、右馬助申すは、曽て見知らず。左京が家の子にあらず。其上、内甲を見れば、年の頃廿四五、眉を抜き化粧し、鉄漿・紅粉をさしたれば、必定、女に極まりたりといひあへり。富田引く所に立寄りて、内甲を見入りければ、彼の若武者、馳寄りて、未だ討たれさせ給はで、浮世にながらへ給ふかやと、いふを見れば、富田が妻なり。わらはが参り候事、討死し給ふと聞きしに依つて、同じ場にて、枕を並べ討死せんと思ひ、斯くは支度して参りしに、御目に懸かる嬉しさは、申すも愚なりと悦び、涙に咽びけり。信濃守は肝を消し、御身、如何なる事にて、斯かる働やし給ふ。先づ此方へ入り給へと、本丸にぞ伴はれける。此奥方は、宇喜多安心が娘にて、隠れなき美人なり。加之、心賢くありける故、此度の働も、義経の静か、木曽殿の巴・山吹も、是にはいかで勝らじと、見る人、驚かぬはなかりけり。扨寄手の軍兵は、術を尽し、種々に攻むれども、城兵、更に屈せずして、堅固に守つて、厳しく防ぎ戦ひければ、虎口を少し退けて、廿五日の早天より、竹束を以て仕寄り、翌日に至つて矢文を射、高野の興山上人の扱に作つて、和睦調ひて、城を明渡しければ、蒔田権佐・中江民部・山崎右京請取つて、番をぞ勤めらる。信濃守夫婦は、同州の耳田専守寺に引込み、後に入道して、高野山にありけるを、関ヶ原平均の後、召出され、戦功を感じ給ひて、伊予国宇和島にて、十万石をぞ給はりける。折柄、何者かしたりけん。信濃守が門に、
城を退き信濃よしとは見えねども伊予は長閑にいのち信高
扨大坂一味の諸城、先づ桑名の城には、氏家内膳正、七千八百余人にて控へたり。濃州高須の城には、高木八郎兵衛・同福束の城には、丸毛三郎兵衛・同太田の城をば、隠岐守八百余人にて要害し、又尾州犬山の城には、石川備前守、加勢の大将には、濃州郡山の城主稲葉右京進具【 NDLJP:184】通・同息甚六一通・濃州黒野城主加藤左衛門・伊勢の関長門守・濃州岩手の城主竹中丹後守重門都合其勢七万七千余にて、大坂の弓・鉄炮を加へ、楯籠るとかや。是皆、秀信の軍令とぞ聞えける。爰に、濃州長松の城主武市式部は、会津出勢の人数なりしが、引替へて、三成に与力して、福束の城へ、加勢に行きしぞ不運なる。福束落城以後、長松へ帰城せしかども、東国の大軍、赤坂に著到する其勢を見るに、紅白の旌旗、天を輝かし、金銀の刀鑓、星を並ぶるが如くにて、野も紅錦を敷き、雲天も玉屑を飛ばすに異ならざれば、武市も是に顛倒して、鎧を著るに力なく、太刀を佩かんとすれば腰ぬけて、八月廿三日の夜に入りて、やう〳〵長松を引払ひ、伊勢の氏家内膳正・同志摩・寺西備中と、一所になつて、桑名の城にぞ籠りける。海上表には、九鬼大隅守・久留島助兵衛・菅野平右衛門、数船に取乗つて、伊勢・尾張の津々浦々を、放火して亡ぼせり。扨大津の城主京極宰相高次は、東国に兼ねて一味たりしかば、高次名代として、家老山田大炊助を、密かに関東へ下しけり。伏見騒動の節は、大津の地要害あしく、其上兵卒少くして、籠城成り難き事を慮りて、暫し謀を廻らし、三成と一味の由を示し、北近江より北国へ発向せしが、東軍、上方へ進発の由を聞付けて、九月朔日より、取つて返し、江州前原より終夜船にて上り、五十余騎は、比良の麓より陸を打たせて、合図を極め、高次、城へ入るとひとしく、大津の町を焼払ひ、粟津の此方に、逆茂木を引き、相坂の峠に柵をふつて、往還を遮り、厳しくこそは固めけれ。西軍方筑紫の一将、其頃、勢田に在城せしが、之を聞きて醍醐越に大坂に飛札を以て、註進しけるは、京極宰相逆心して、頃日、大津へ帰城し、柵をふり町を焼払ひ、通路を止めて、要害固く守り候。早速、踏潰さずんば、後に害あらん。某、関ヶ原に赴くも忠、大津を攻めんも、亦忠なれば、如何軍議を伺ひ奉るとありければ、大坂より返事に、註進の志尤もなり、早く取懸らるべし。此方より追付多勢を差向けんとあつて、久留米侍従・筑紫上野介義冬・南条中書忠成・毛利七郎兵衛元安・同輝元・石川掃部頭頼明・杉谷越中守〔〈脱アルカ〉〕なり。松浦伊予守も、討死をぞしたりける。高次の家臣山田越中・赤尾伊豆二人、踏止まつて防ぎ戦へども、続く味方のあらざれば、念なう両人共に、二の丸へ引入りて、城内厳しく固めければ、急に落つべしとは見えざりけり。斯かる処に、寄手三井寺より、大筒にて殿守の二重目を打ちければ、松の丸殿の女中二人、鉄炮に中りて、はつともいはず、微塵になつて失せにけり。其節、松の丸殿も、驚かせ問絶し給へば、御口に秘薬を入れ、御顔に冷水抔【 NDLJP:185】にて、〔〈脱アルカ〉〕高野山興山上人を大坂へ招寄せ、一々次第を言含めて、大津の城に遣し、扱を入れける故に、九月十四日辰の刻に、城を明渡して、高次は直に三井寺雲光院へ入りにけり。是より前にも、和睦の儀ありと雖、高次、曽て承引なかりしに、此度の和睦は、何故ぞといへば、二の丸の軍兵、大坂と一味の者あつて、矢狭間を閉ぢ、鉄炮をも討たせざりけるに依つて、城中疑をなし、守り兼ねし故、扱をぞ聞きにける。扨筑紫の一将より、註進せらるとあるは、立花左近将監宗茂の事なるべし。其故は、大津の城攻に、立花家大に勇功ありとかや。
越後国一揆蜂起爾附後守直寄手柄の事
去る四月、直江山城守兼続方へ、増田右衛門尉長盛・右田治部少輔三成より、血判誓紙にて申越しけるは、堀久太郎秀治は、父左衛門督秀政、代々勢州の人なる故、上方に居住を願ひつゝ越後に在国する事を迷惑仕り候に付き、上方にて一箇国、久太郎に下され候はゞ、上方一味仕るべしとの、秀治自筆の状を越し候に付き、さ候はゞ、上方にて、一箇国下さるべく候。然らば、越後は、景勝へ御返あるべきに極まり候間、弥〻越後へ御手遣尤もの由、申来りければ、直江方より、越後へ密に人を廻し、浪人共をぞ語らひける。安田平八郎定治・柿崎源左衛門尉景則・〈後、三河守といふ。〉丸田左京進清益・斎藤八郎利実・加地右馬助資綱〔冬イ〕・矢尾植〔板イ〕主膳〔亮イ〕正光政・竹俣壱岐守・万貫寺源蔵・宇佐美民部少輔勝行・其子藤三郎定賢・〈後兵左衛門尉と号す〉七寸五分因幡・朝日采女・庄瀬新蔵等、何れも上杉家譜代の兵共、皆浪人にて、越後に引込み罷在りし輩を、直江が催促に依り、又三成が懇に、書状到来せしに依り、皆是に一味し、譜代の家人を召集めける程に、物の具・馬具こそ見苦しけれ。屈竟の兵八千余人、鉄炮二千挺ぞ集めける。右の内、宇佐美民部は、存ずる仔細あるに依り、其年六月に越後より会津へ籠りけり。其外は皆、越後にありて、一揆を催しけるに、七月下旬に、直江方より斎藤三郎左衛門・長尾喜右衛門・多田浦伝蔵・朝日蔵人を差越しければ、浪人共、是に力を得、七月廿五日に、柏崎・三条辺を始め、在々所々、一同に一揆を起しけり。国中の民百姓共、古主の馴染を慕ひ、直江が勧に弥〻力を得、在々皆一揆を起しければ、丸田左京・三股主膳・樋口与左衛門・山吉長門守・宇佐美主水・有坂斎宮助・石坂与十郎・五智院の海龍庵を先として、諸郡に起り討つて出で、先づ上条の城を攻め取り、勝鬨を揚げたりけり。其時分、越後には四人の領主あり。堀久太郎秀治は、春日山の城にあり、【 NDLJP:186】其家老堀監物直政も、春日山の城にあり。監物が嫡子雅楽助直清は、三条の城にあり。二男丹後守直寄は、六日町坂戸の城にあり。神子田八右衛門は橡尾の城にあり。小倉主膳は下倉の城にあり。皆久太郎が領内なり。堀美作守親直は、長岡に在城し、溝口伯耆守定勝は、新発田に在城し、村上周防守義明は、本庄に在城せり。一揆石坂与十郎・宇佐美主水・有坂斎宮助・五智院の海龍庵等十〔千イ〕余人にて、春日山の城を乗取らんと、企てけるを、堀監物直政、聞くとひとしく、七月廿七日に、逆寄に切つて懸り、海龍庵を生捕り、石坂与十郎・三股主膳を始め、百八十余人討取り、近辺を退治しければ、残党宇佐美主水・有坂斎宮助・神得〔保カ〕刑部・七寸五分因幡等、妻有庄に引退き、丸田左京・斎藤八郎・長尾喜左衛門・朝日采女と一手になり、八月朔日に、下倉の城へ押寄せたり。此城には、堀久太郎秀治が内、小倉主膳正政熈並に秀治菩提所蓮正寺といふ一向宗の僧、楯籠りけるが、町口を抱へんとしたりけるを、上杉方、弓・鉄炮にて射立て打立て、風上より火を懸けければ、城方、叶はずして引入りけり。丸田・神得〔保カ〕等、勝に乗つて、三の丸揚錠門を附入にして、攻め入りければ、小倉主膳は、朱具足に、燕尾の甲、浅黄と黒と段々の幌をかけ、穂長の鑓を引提げ、自身突いて出で、爰を先途と防ぎ戦ひ、何れも鑓を持つて、えいや声を出し、敲き合ひけるに、主膳計りは、引突き〳〵七八人突倒しければ、寄手、少し引退きけるひまに、門をたて、上錠を刺固め、矢狭間配を丈夫にして、城を取られじと、鉄炮にて防戦しけり。此時分、堀丹後守直寄は、父監物を見廻に来り、春日山にありしが、国中一揆起る由を聞き、急ぎ居城六日町坂戸へ帰城し、聞けば、一揆共七十余、下倉の城を取巻き、攻むる由を聞きて、時刻を移さず、下倉の城へ、後詰をせんと打立ちけり。家人共、諫めけるは、唯今国中、大方一揆起り候へば、此城下とても計り難く候間、下倉の後詰を思ひとゞまり、此城を固く御守り候へかし。一揆寄せ来り候はゞ、此表にて、御一戦御尤なりと諫めけり。丹後守歳廿二、元より大剛の兵者なりければ、家人共をはつたと睨み、一揆共、此城へ寄せ来らんかと分別して、此城郭を守り、下倉の後詰を致さずして、若し一揆、此表へ寄せ来らざる時は、後難遁れ難く、天下の笑草となるべし。唯運を天に任せ、下倉へ後詰すべきなりとて、貝を吹かせ、旗を出し犇きければ、家人共も皆々打立ちけり。丹後守は、軍兵を従へ、八月朔日の夜半に、坂戸の城を打立ち、夜通し関東道五十四里を打つて、明くる二日の辰の刻に、下倉の城の一里計り、手前に著きたりけり。城中より、丹後守が旗・馬印【 NDLJP:187】を遠見し、後詰来りたりと悦びあへり。城の大将小倉主膳は、丹後守が後詰に来る由を聞き、蓮正寺に申しけるは、唯今切つて出で、追手を追払はんとありしかば、蓮正寺固く諫めて、大敵、勢盛なり。突出でば討取らるべし。暫く待つて、丹後守が旗を待付け、切出で給へと申しけり。主膳、頭を掉つて曰く、貴僧の言葉、尤もなりと雖も、我れ此城を守り、大軍の囲を請け、一矢の功を立てずして、唇の黄なる丹後守が、後詰を得て、敵を追ひ払ふ時は、末代迄の嘲なり。世上にても、亦関東にも聞召し、此度主膳は、丹後が後詰にて、命を助かりたりと思召されんは、生きても甲斐なく侍り。縦ひ百万といふとも、寄手は一揆なり。何程の事かあるべき。各〻は城を守り、丹後守を待ち給へと、いひもあへず、混甲六十余騎、門を開いて突いて出でたりけり。寄手の先陣六百余、箕の手にさつと開き、弓・鉄炮を揃へ、散々に射る。小倉主膳は、少しも疼まず、真先に駈入り、黒煙を立てゝぞ戦ひける。敵の先陣六百余、主膳に切立てられ引退く。主膳、勝に乗りて、遁るを追うて進みける処に、一揆方の二陣丸田・斎藤・朝日・長尾・石坂等二千余、左の方より廻つて、主膳が後を取切らんと、堤に沿うて追ふ所に、柿崎・七寸五分・宇佐美・有坂・神得〔保カ〕・庄瀬・万貫寺等、直に進んで、小倉が陣へ切つて懸り、手先を駈立て、三方より押包み、余さじとこそ攻めたりけれ。小倉主膳主従六七十余、切先を揃へて渡り合ひ、火花を散らし攻め戦ひ、十余人切伏せ、寄手の物主宇佐美主水と渡り合せ戦ひけるを、一揆共廿余人、四方より引包み、小倉主膳を鑓玉にあげたるに、橋破〔崩イ〕れ、主膳は堀へ落入りけり。されども、大剛の兵なれば、芝手を伝ひ、岸へ上らんとしけるを、宇佐美主水、鑓を抛突にしたりければ、主膳が胸板に中り、のど裂けゝれば、終に討死したりけり。相随ふ兵六十余、左右前後にて、皆討死を遂げたりけり。城の大将を討取つて、寄手勇み誇りつゝ、又城へ懸りければ、蓮正寺下知をなし、塀裏を持つて散々に射る。斯かりける処へ、堀丹後守、旗を押立て進みける。寄手丸田・柿崎・七寸五分等、昨朝より息をも続がず、戦ひ草臥れしかば、新手の丹後守に切立てられ、旗色しどろになりし処に、城下よりも突いて出で、揉合ひしかば、丹後守、勝に乗つて追討に、能き首三百余討取りたり。其内、物主神得〔保カ〕刑部・遠藤讚岐守以下八人迄、討取りければ、丹後守が勢、勝鬨を作りて追懸けたり。一揆といふとも、皆屈竟の士なれば、能き塩合を見て、取つて返すべき勢なりけるを、丹後、目賢く見付けて、指揮を振つて追行く勢を、さつと引取つて、下倉城下に陣を取り、城中へ使者を立てしかば、【 NDLJP:188】蓮正寺も出会対面し、小倉主膳が討死の次第を、春日山へ註進せり。寄手柿崎・宇佐美・斎藤・丸田・朝日・万貫寺等は、妻有の庄・小千屋田川にて、敗軍の勢を集めて、又丹後守へ討つて懸りける。丹後守、左右を顧みて、我れ若年の砌、秀吉公の御前にて、哲長老の孫子を講ぜられしを聞きしに、其文に曰く、正を以て合し、奇を以て勝つと云々。我れ今之を試むべし。皆見よ。唯今敵に切勝つべきぞとて、人数を二手に分け、一手は其勢六百余人、山中数馬・速水織部を大将として、釘貫の旗並に三階笠の馬印を立て、丹後守本陣の様に見せつゝ、道筋に立てさせ、丹後守は、屈竟の兵九騎、上下百八十余にて、敵の進み来るべき道脇の森の中に、伏したりけり。一揆方柿崎・万貫寺・庄瀬・丸田等は、直寄が旗・馬印の立つたるを見て、山中数馬・速水織部が陣を、丹後が旗本と心得、其勢五千余、弓・鉄炮を放ちたてつゝ、真一文字に駈来り、森の前を通りける時、直寄、下知して鬨をどつと揚げ、弓・鉄炮を打立て切つて出づ。一揆方、大に騒動しける処へ、直寄は、黒革の鎧に、銀の四尺計りの鯰尾の甲を著し、手鑓をさげ、堀丹後守と名乗りかけ、真先にぞ乗入りける。中村与左衛門・建部織部、続いて鑓を入れければ、残兵共、一度にどつと懸りける。山中数馬・速水織部正、之を見て、六百余円を合せて、真直に懸り来り、立挟んで攻めければ、一揆方宇佐美主水・七寸五分因幡を始め、頭分十三人、鑓下にて討死し、其外、二百余人討死しければ、一揆方、立つ足もなく敗北し、我れ先にとぞ落行きける。丹後守、逃ぐるを追うて進みける程に、此処彼処にて追討にあひ、一揆方、千余りぞ討たれける。然れども、丸田左京・朝日采女・有坂斎宮助は、千余にて半里計り引取り、百姓の大屋敷四方に、木戸ありけるに取籠りつゝ、鉄炮の手垂四百余人、四面に立渡つて、打立てける上、日既に暮れければ、丹後守人数を打入れけり。朝日・丸田・柿崎・有坂は、しづしづと引取りけり。丹後守は、下倉の城に入り、旗押立てゝ討取る首数、久太郎方へ差遣し、小山表へ註進にぞ及びける。丹後守が手柄、申すも中々おろかなり。此旨、御聴に達し、後日に御加増領に、御直判の御感状をぞ給はりける。
一揆勢越後国三条の城を囲む事附溝口宣勝村上義明後巻の事
丹後守直寄が兄、堀雅楽助直清は、三条の城にありける処に、越後国中一揆起る由を聞きて、【 NDLJP:189】取籠められては叶ふまじとて、家老山中兵右衛門を、三条城に残し置き、雅楽助は、取る物も取敢へず、春日山の城を指して除いたりけり。父監物直政大きに怒り、頃日、丹後守は此地にありけるが、一揆起ると聞きて、自分の居城坂戸へ馳帰りしに、弟とは表裏に違ひ、守る所の居城を捨て、親を頼みて、此地に来る事、いひ甲斐なき次第なり。誠に丹後は、三十郎と申せし頃、秀吉公御覧なされ、顔魂、眼ざし、唯者にてなし。我にくれよと上意にて、十三歳より御小性に召出され、御意に叶ひ、程なく諸大夫に仰付けられし。名大将の御眼程、恥しき物はなし。己れ雅楽助、日本一の不覚人よ。そこにて舌を嚙み、死ねかしと怒りければ、雅楽助赤面し、其座より馬に打乗り、三条の城をさして、馳帰りける処に、一揆方朝日采女・庄瀬新蔵・矢尾坂・万貫寺・柿崎・丸田等、下倉より敗軍せし兵共と、水原・加地・安田等一手になりて二万計り、三条の城を、七重・八重に取巻いて、竹束を附け、井楼を上げ、大筒にて打〔仕イ〕寄り、飛鳥ならでは通路なし。後詰の諸手として、有坂斎宮助・竹俣伊豆守八千にて、半道此方に、待懸けたりければ、堀雅楽助大に懼れ、五里阻て、高山要害に陣を取り、本庄の村上周防守と、新発田の溝口伯耆守と両所へ、加勢を乞ひたりけるを、有坂斎宮助下知して、物見足軽を出し置き、雅楽助が使の者二人迄生捕り、其首を斬つて、獄門にかけたりけり。此上は、雅楽助も詮方なく見えしが、禅僧を語らひ、重ねて本庄・新発田へ、助の後巻を乞ひたりければ、村上義明・溝口宣勝も、心得候と領掌して、打立ちつゝ三条城へ、後詰をぞしたりける。溝口伯耆守は、老将功者なりければ、若し我が領分にも、一揆の起る事もありと思ひ、毛呂次郎右衛門〔〈窪与左衛門・戸川半左衛門イ〉〕を遣し、領内の百姓共の人質を取らせつゝ、新発田の城へ入れさせけり。三人の者共、七日町の宿を過ぎて、川を渡りける処に、渡守三人寄合ひ、窪与左衛門を斬殺しければ、毛呂・戸井〔川イ〕二人は、川を泳ぎこし、命計り助かりて、此旨を、伯耆守に告げたりければ、さればこそ、我が領分も、景勝に組せり。先づ領内を討平ぐべしとて、其勢七百余にて、新発田の城を出で、三里行きて分陀川に陣を与り、使者を本庄へ遣し、村上周防守に申しけるは、一揆同心に、国中一味と見え候間、刈田仕り、城へ籠り候て後、出馬仕るべしと申遣しければ、村上義明にも、尤に候と同じ、刈田働して、其勢千余、本庄をぞ打立ちける。一揆方には、山吉・三条・万貫寺・庄瀬・水原・加地等八千にて、五衆〔泉イ〕に陣を取り、密に三百人を遣し、草村・篠の内に隠し置き、溝口を待懸けたり。伯耆守先手は、世間太兵衛、三百余にて進みけるが、川端【 NDLJP:190】に新しき不浄の多きを見咎め、後陣へ呼ばはりけるは、新しき不浄、多く川端にあり。思ふに、伏兵、此呼にありと見え候間、草捜せんとて、足軽百人計り遺弓・鉄炮を以て、草の中を射立て打立てければ、案の如く、伏兵共怺へ兼ね、一度にどつと立起り、引取りけるを、宣勝の軍兵共、追駈け〳〵百五十二人討取りけり。溝口方にも、手負・死人多かりけり。一揆ども分陀川を越え、二里を隔てたる橋本の城へぞ入りにける。溝口宣勝、是より水陸二手になつて、宣勝は陸路を進み、先手世間太兵衛・溝口太郎兵衛は、船数千艘にて、水の戸口より進みければ、一揆共は、敵を両方に受け、叶はじとや思ひけん。橋本の城を捨て、法華山へぞ取登りける。溝口伯耆守は、橋本の城を取り、橋本山の峠にて、大篝火十余箇所に焚きて、後詰の由を、三条の城へ見せければ、三条の城にも、火を合せ、夜通し篝火を焚きたりける。八月六日には、村上周防守義明、千余にて本庄より安田野に陣を張れば、堀久太郎が家人神子田八右衛門、三百余にて橡尾の城より出で、三条の城へ後詰にぞ赴きける。翌七日には、村上周防守・溝口伯耆守一手になり、三条より三里、此方に陣取り篝火を焚いて、後詰の近付きたるを、三条の城中へ知らせけり。三条の城主堀雅楽助直清は、先日、春日山より馳帰りけれども、大敵、三条の城を取巻く由を聞きて、五里隔て山取して居たりければ、城代山中兵右衛門、大剛の兵にて、三条の城を持耐へ、昼夜防ぎ戦ひて、一度も不覚を取らざりけり。七日には、後詰近づきて遠火を焚きけるを見て、眺めけるは、寄手、大軍たりと雖も、久々の合戦に労れ果つらん。殊に後詰の近づきたるにて、弥〻引心地付きたらめ。是大利を得る所なりと思ひ、屈竟の精兵共二百余人、八日の曙に、城の大手を開き、真黒に切つて出でたりける。寄手は、思ひ寄らざりければ、上を下へと騒ぎけるを、山中兵右衛門、真先に駈け入り、身命を捨て攻め戦ふ。一揆方の大将安田平八郎、黒幌を掛け、爰を遁れじと防ぎ戦ひて、鑓下にて討死せしかば、寄手二万余騒ぎ立て、三里余逃げたりける。山中は安田を討取り、其外、百十余人の首を取り、城中へ引入れ、此旨を、雅楽助に告げたりければ、雅楽助大に悦びつゝ、一騎駈に乗付け、三条の城へぞ籠りける。一揆共、之を聞きて、今朝不覚の軍して敗軍せし事よ。我等が大軍にては、堀久太郎・溝口・村上、一手になりて来るとも、などか軍に勝たざるべき。無念にも引散るよとて、又三条の城へ取詰め攻め戦ふ。さる程に、三条の城、大敵に取巻かれ、雅楽助難儀に及ぶ由、春日山へ聞えければ、堀監物直政、三千余にて春日山を立ち、【 NDLJP:191】八里押して、柏崎に著く。之を聞いて、溝口宣勝・村上義明等も、人数を寄せ、東西より立挟んで近づきければ、一揆共も、兵糧も尽き、又後巻は近づきぬ。かた〴〵怺へ難しとて、三条の城の囲を解きて、各〻小屋に火を懸け、陣払して、皆津川の城へぞ集りける。雅楽助は、村上・溝口を城中へ招き、後詰の礼謝、誠に懇にぞ見えたりける。宣勝・義明も、自分の領内も心元なしとて、新発田・本庄へ帰陣しけり。
〔〈家康公イ〉〕小山より江戸へ御帰陣の事
上方退治として、七月廿八日より、御先手の諸大名、小山を立ちて上洛す。夫より毎日、段々に打立たれければ、東海道は、人馬引を切らずぞ通りける。御大将も、八月四日に、小山を御引払なされ、江戸をさして御帰陣なり。本多中書・井伊兵部を始め、会津口へ取懸り、景勝と合戦は、中々片腹いたき事に思はれ、皆一代の大事とありしに、思の外に、上方退治に極まりければ、上下、色を直して悦び合ひてぞ見えたりける。其頃、直江山城守兼続は、三万余にて野州塩原に陣取罷在りしが、御大将、江戸へ御引取り候を聞きて、唯一騎にて乗出し、上杉本陣長沼へ駈付け、景勝を諫めけるは、石田治少、旗をあげ伏見の城へ取懸り候に付き、畿内・中国・西国・四国の大名・小名、此手に馳付き、大坂を打立ち、諸国へ手分け仕り、尾張より西は、悉く起り申し候事、天の授くる所と存候。是に依り、昨四日、小山に怺らへ兼ね、江戸を指して逃げ入り候に付き、今度供致し、小山迄下り候諸大名、大坂御馬廻り衆、大坂の妻子を、治少に取られ候に驚き、皆御大将を捨てゝ、我れ先〳〵と逃上り候。何れも長途に疲れ候輩、上方の大乱を聞き、敵を東西に受け、肝魂も之あるまじく候。御大将さへ、小山より逃帰られ候事、天の時至り候。此機に乗りて、御馬を出され、追駈け給はゞ、江戸へ馳せ入申さるべく候。佐竹義宣・相馬利胤が人数を附け、江戸へ取懸り候はゞ、治部少輔は、大軍を引率し、東海道を押して攻め下るべし。真田安房守昌幸・同左衛門尉信賀〈後、信繁と改む。或は信仍〉父子は、甲斐・信濃の勢を附け、八王子口より搦手押寄せ、南北手を合せ、挟立て挟攻め候はゞ、勝利目前にあり。天下の一挙、是に過ぎず候間、一時も早く御出馬なさるべく候と諫めければ、景勝頭を掉つて、曽て肯じ給はずして宣ひけるは、去々年、秀吉公御他界の前方、御前へ召出され、身を終る迄、逆心仕るべからざるの旨、牛王の表に起請文を書き、御所も、利家・輝元・秀家【 NDLJP:192】も、倶に血判仕り、其誓詞を太閤の御棺へ納め候事、天下の知る所なり。此度の儀は、堀監物が讒言にて、御所より御仕懸け候に付き、上杉代々、弓箭の家にありながら、頸を延べて誅せられんは、亡父謙信迄の名折と思ひ、随分手をくだき、一と合戦と支度致したりき。然るに、此方に構はず、江戸へ引取られ候へば、此方も亦、会津へ引取るべき事、理の当然なり。若し今、軍兵を引率し、奥州を打立ち、御所を追駈け候はゞ、前々の申合せ、一書の返答も、皆詐となり、天下首悪の名を以て、後代に残し、信を天下に失はん事、上杉家の恥辱なり。必ず御所を追ふべからずと、気色を損じ宣ひければ、直江、重ねて申しけるは、御意の通、御尤には候へども、今度手始は、上杉家と天下一門に存ずべく候へば、以来共に、御所より当家をば、根を断ち葉を枯らさんと致さるべく候処、鏡に写すが如し。万一天運に叶ひ、御所、勝利を得られ候はゞ、上杉の御家、一番に亡さるべし。之を以て考へ候に、合戦仕り候とも亡びん。又律儀を立て候とも、亡び候はん。合戦致さずして亡びんよりは、一合戦して亡びんにはいづれ。是則ち虎にのる勢にして、下るべからざる所なりと申しければ、景勝、大に怒り、君子殺㆑身以成㆑仁といへり。致すべからざる事に至つては、名をだにも愧づと聞く。国家の存亡興廃は、時節あり。我れ無信の名を負はん事、末代迄の恥なりとて、曽て許容無りけり。奥州浪人の中、名幡馬久左衛門尉義住も、長沼へ参り、石口〔田イ〕采女を以て、景勝へ申しけるは、御所、小山を引払ひ、江戸へ引取られ候事、天の与ふる所なり。御人数一万を、会津に御残し、残る八万を召連れられ、会津を御出馬なされ、御所を追駈け給はゞ、天下の勝利此時なり。尤も結城少将殿・江戸中納言殿、宇都宮に陣取り押へ〔此方をイ〕らるゝ由に候へども、若輩の人々、何の手に足り申すべく候はんや。其外、蒲生秀行を始め、踏破つて通らんに、何の手間取る事候はん。一時も早く、御出馬候へと諫めければ、景勝聞き給ひ、佐竹義宣心変と見え候。其上、政宗、最上跡に控へ候処に、之を捨て、足長に江戸迄、出張は如何と存じ候間、出馬仕るべからずと返答あり。名幡、重ねて申しけるは、白石こそ落城候へ。福島に本庄繁長あり、簗川に須田大炊罷在り、森山の城に山吉孫次郎あり、鮎貝の城に中条与次郎あり、二本松に岩井備中・五百川縫殿・下条駿河守あり、金山の城に色部長門守、須賀川に二本松右京在城致し、三春〔条イ〕に津川弾正・鉄上野介・栗林肥前罷在り候へば、政宗口は心安く候。最上口は、米沢の城に直江在城致し、志賀・新国・神幡・下条加勢あり。又束〔二本カ〕松に石坂新左衛門、百挺の鉄炮にて【 NDLJP:193】固め候へば、御留守には気遣なく候。佐竹義宣、水戸へ引入り候へども、家老渋井内膳鐘ヶ城に残り、車野丹波守、会津に罷在り、今に加勢に候へば、気遣に及ぶべからず候。唯一刻も早く、御馬を出され候へと申しけれども、景勝、少しも合点なければ力なし。然れども、総軍は触をなし、御所、小山より帰陣に候とも、少しも油断仕るべからずと、白石口も長沼も、用心厳しくぞ見えたりける。
蒲生飛騨守秀行使者を以て岡野左内〔イナシ〕志賀布施〔〈外池・小田切・高力・安田・北側等イ〉〕に示す事
蒲生秀行と申すは、童名は鶴千代、其後、藤三郎と号し、蒲生氏郷の嫡子なり。家老蒲生四郎兵衛が所行に依り、家中一一つにわれ、大なる騒乱出来り、其咎に依り、百廿万石の会津を召上げられ、只十八万石にて、宇都宮に移されければ、譜代の侍共、大分会津に残り、景勝へ召抱へらる。此頃、秀行より密かに自筆の状を使者に持たせ、会津に残る蒲生家の侍共に、遣し申されけるは、何れももと是、蒲生家譜代の侍なり。一旦上杉家へ附き候とも、定めて旧恩は忘れ申すまじく候。此度秀行事、宇都宮は一の手先たるを以て、関東の先手として、向ふ所なく、昔の契を存じ候て、景勝が裏切仕り候へ。本望の上に、大分恩賞を出すべしと、語らはれける。栗生美濃守〈初は寺村平左衛門〉・岡野左内・志賀与右衛門・布施治郎右衛門・外池甚五右衛門・小田切所左衛門・高力図書・安田勘介・北川図書等、何れも秀行の直書を拝見し、返状を送りける其趣は、思召の処、誠に以て浅からず忝く存じ奉り候。さりながら古より申し伝ふるにも、人の禄を食むものは、人の事に死すと御座候へば、古主の御恩浅からずと申しながら、差当つて、上杉の恩を受けながら、裏切は罷成らず候。殊更景勝事、唯今、天下を敵に請けられ、危き事目前に見え候時に臨み、二心を差挟み候はん事、武士の恥辱に候。さりながら明日、御一戦に及び候時、秀行様御難儀に及ばれ候を、見懸け候はゞ、何れも馬を控へ、進みも申すまじく候。之を御恩報と思召され、裏切は御免候へと申しければ、秀行も感涙を流し、聞く人皆称歎せり。斯くて、上方には、中納言秀秋、諸将と倶に、勢州津の城を攻め落し、美濃へ討つて出で、南宮山に城を構へ、要害の山取して控へける所に、関東より徳永法印が許へ、折々飛脚にて、上方濃州表へ、出張したる敵方の諸軍を、味方に引入るべき智略を働くべき旨、仰に依つて、徳永【 NDLJP:194】式部卿法印寿昌が方より、南宮の禰宜右衛門大夫を、使にして申されけるは、天下の安否時運到来して、諸国の武将、東軍一味の忠を通じ、麾下に属せん事を冀ふ所に、貴辺より、曽て兎角の音信もなく不審し、如何なる御所存に候や。多年の知音も、斯様の時節、互の是非を相談あるべき為めなれば、一往の儀あらんと待ちけるに、有無の便なし。誠に天下に人多しと雖も、継統〔系カ〕といひ、智謀といひ、御辺に過ぎたるはなし。之に依つて、御所、頼に思召すとの志、深切に候故、遮つて使者を以て、申入るゝ所なり。今もし味方に属し給はゞ、本領安堵の儀相違なく、且亦、何程の御望も達すべし。毛頭偽なきの段、誓詞を認め送られけり。秀秋、彼の禰宜を、陣所に呼び入れて対面せしに、禰宜は立烏帽子に、大紋直垂を著して、祇候したりけり。秀秋申されけるは、我れ御所とは、日頃、別して懇に申通ぜし事なれば、内々、此方より使者をも進ずべしと、存ずる所に、却つて返報になりたり。併しながら、唯今の口上、何とも心得難し。天下に味方の士なき間、頼むとの事ならば、承引致す事もあらんに、諸国の武士、附随ふ程に参れとの儀に於ては、得こそ参るまじけれ。其上、斯様の使には、名字正しき家の子抔をこそ、立てらるべきに、長袖使者、以ての外不審しとあつて、神文を返されけり。禰宜帰つて、法印に委細に申届けしに、法印熟々思案しけるが、是は如何様、不通切なる返事にはあらず、一往武士の意地を含んで、申し越さると覚えたり。今一度、促し見るべしとて、徳永法印、掃部を呼びて、一々次第をいひ含め、彼の禰宜に相添へて、件の神文を遣しけり。其頃、秀秋も誘ふ水あらばと思へるにや。頓て領掌し、東国方に従ひ、忠義を抽んづべしとの神文に血判して、掃部に相渡し、引出物として、巻物を掃部へ与へ、黄金一枚、右衛門大夫に給はりけり。斯くて、法印は仕済したりと悦びて、此旨、急ぎ関東へ註進し、早早御出駕あらせ給へと、申遣しければ、大悦斜ならず思召し、徳永に御書を下されける。
去る廿六日の一書、委細遂㆓披見㆒候処に、其表種々被㆔精入㆒之由令㆓祝著㆒、今月三日、小田原迄被㆓出張㆒候。早速其許可㆑使㆑知件、各〻有㆓談合㆒而、御待尤に候。恐惶謹言。
九月三日 御判
徳永法印
扨其頃、毛利宰相秀元・吉川駿河守元安・脇坂中務大輔安治・小川土佐守祐忠・朽木河内守利綱等は、始めより池田輝政・浅野幸長・藤堂高虎を以て、合戦の最中に、裏切仕るべき旨を内通せ【 NDLJP:195】られける。池田・浅野・藤堂三人は、悦びて此由を、斯くとぞ申上げられければ、御悦喜浅からざりき。則ち其趣を申通じけり。仍て味方に属し、軍功を励まされける。其外の大将達は、何故に返忠せられけるぞといへば、最前秀頼公の上意とあるに依て。後先をも鑒ず、何れも此度と思ひ、武勇を磨き、催促に応ずと雖、罷上て天下の様子を見聞するに、治少三成、叛逆を企て、終には天下の権をも、奪ひ取らんとするの謀、弥〻顕然たれば諸将も今は悪き所為なりと憤りて、其恨を晴さんとの志とかや。斯くて七月の末に、東国一味の上方勢より、関東に註進しけるは、治少三成・備前中納言秀家、美濃表へ出張して、岐阜中納言秀信を相語ひ、国中の士卒を駆催し、岐阜と大垣とを根城にして、不破に新関を据ゑ、東海・東山両道の道を差塞ぎ、西国・北国の往来を断切りしに依て、威勢を国に振ふ事、既に大儀に及ぶの間、急ぎ上洛遊ばされ候へと、方々より櫛の歯を挽くが如く、言上ありけるに依て、物に馴れざる者共は、此由を聞て、大に驚き、世は既に大乱となりたりと、魂を冷し肝を消し、危む者ぞ多かりける。
近世軍記上大尾
【 NDLJP:195】
近世軍記 下
景勝長沼より会津城に帰る事
八月四日、寄手の御大将、小山の御陣を御引取なされけれ共、景勝は少しも退かず、長沼・白河表の要害、弥〻堅固に申付け、少しも油断なかりけるが、同六日に、江戸御帰城の由、申し来りければ、同十日に、景勝も長沼を立ち、白河の城に著く。夫より白坂・堺の明神を過ぎ、蘆野迄打出で、夫より引返し、黒川郷へ懸り、鷹助・根子を過ぎ、南山口を通り、会津へ人数を打入れけり。寄手の大将は、江戸へ御引取り、伊達政宗は、白石の城を引払ひ、岩手沢へ引入りければ、諸口の城へも何の事もなく、却つて静かなる月日をぞ送りける。然れども、直江山城守兼続は、越後口の一揆衆堀久太郎・溝口伯耆守・村上周防守に打負け、津川の城へ籠りけるを聞きて、奈良沢主殿助・上倉庄兵衛・小佐原土佐守・南条求馬助・小境平九郎・蓼沼河内守・中曽【 NDLJP:196】根小左衛門等の百騎を、越後へ遣し、丸田・斎藤・水原・万貫寺二万を添へたりける。堀久太郎も、溝口・村上も、御所、小山口を御引取り、江戸へ入らせ給ふを聞き候。其上、京都・畿内、日を追つて蜂起し、伏見の城も攻落され、城の御留守居鳥居彦右衛門元忠内藤弥次右衛門家長・松平主殿頭家忠・松平五左親衛門正を始め、二千余討死せし由、註進ありしかば、弥〻行末心元なしとて、皆々居城へ引籠りければ、一揆方も、時々討つて出で、刈田働きして、猛威を振ひけり。
秀康卿景勝方へ御使者の事
結城少将秀康卿は、宇都宮の御陣を召し、会津の圧におはしけるが、景勝は、長沼にありて、御所、小山引払の左右を聞いて、長沼を打立ち、七万余にて江戸を指して切つて上る由、雑説区々なり。那須七党の人々も景勝討つて出で候はゞ、矢も楯もたまる事にて、これあるまじくと、日々に騒ぎけり。秀康卿、当年廿七歳にて御座ありけれども、勇猛は御父家康公・御養父秀吉公に似させ給ひけるが、両使を景勝へ遣され、此度京都大乱に付き、家康公、此表引払ひ上洛仕り候。留守居として、我等是に罷在り候。安閑として、日を送り候事待遠に候間、貴殿と一合戦仕るべく候。御同心に候はゞ、夫へ取懸り申すべきか。又は此方へ御出馬あるべきか。御返事次第なりと、仰せ遣されければ、景勝返事に、御使、忝く存じ候。輝虎以来、人の留守へ仕懸け候事これなく候。御所、御上洛に付き、御留守貴殿御在陣候由、何にても似合はしき用事承るべく候。一戦の儀は、重ねて御所、御出張候時、先手なされ候へ。其時、一戦仕るべく候。唯今、御所御留守に、若き人御座候処へ、取懸け申すべき事、中々存じも寄らずと、返答ありしかば、此頃の雑説、忽ちに止み、秀康卿を誉め奉りけり。
直江兼続景勝を諫むる事并最上発向陣触の事
斯かる処に、八月廿二日、美濃国新加納にて、御上洛の御先手池田輝政・同備中守長吉・細川越中守忠興以下合戦し、岐阜中納言打負けられしかば、福島左衛門大夫正則・加藤左馬助嘉明、京極修理大夫高知以下、同廿三日に押詰め、岐阜の城を取巻き、同日未の刻に、落城の由、東国へ披露ありしかば、佐竹義宣も、弥〻心変りし、諸貫大蔵少輔・人見主膳を使者として、江【 NDLJP:197】戸へ差遣し、聊別心を存ぜざる旨、申上げられ、奥州白河と、寺山・鐘ヶ城に陣を張りて、上杉加勢に置かれたりしが、渋井内膳も九月朔日、寺山を引払ひ、大典を打越え、水戸へ帰陣せり。慥に義宣、心変とぞ見えたりける。さる程に、上方退治として、九月朔日に、御所は江戸を御立ち、秀忠公、宇都宮を御出馬にて、東海・東山道二手に分けて、上洛し給ひぬと、同月七日に、会津へ聞えければ、直江山城守評定しけるは、御所御父子、此方へ御取懸り候はゞ、白河表にて一戦に打果し、天下の勝負を、一挙に決せんと思ひしに、夫はさはなくて、東国勢、上方へ馳上り、御大将も御発向の由、是れ味方の大事なれ。治少も、始め上方衆の力にて、御所との合戦、思ひも寄らず。西方敗軍疑なし。さあるに於ては、此方の大事に罷成り候。抑〻会津の城、場広くして大敵を受けては、持怺へ難し。其仔細は、白河口を防ぎ守るといふとも、越後より搦手にて、堀久太郎・溝口伯耆・村上周防を先とし、加賀肥前守利勝、大軍にて津川口より攻め入る時は、以の外大事なり。然らば、始終会津にして、功をなし難ければ、東軍上方へ向はれ候間に、最上へ取懸け、上の山・長谷堂・谷の城・山辺の城を攻落し、山形へ取懸け、出羽介義光を討亡し、山形を攻め取り、最上の本城東根の城を攻め取り、是へ会津の妻子・足弱を籠め置き、御所、重ねて大軍にて寄せられば、米沢へ引取り、夫より東根の城へ引籠り、岩手沢を東南に境ひ、北は羽黒・湯殿山を境ひ、秋田山を後に当てゝ、籠城仕り候はゞ、御所の軍兵、切所を越え東根へ働くべし。味方は、天堂・尾羽沢・小野・清水・新庄辺に出城を構へ、機に随ひ変に応じて戦はゞ、足長に深入したる軍勢、永陣に退屈し、引心付きたる処を、諸口一同に切つて懸り、一戦に利を得べしと、内議一決して、景勝へ此旨を申しける。景勝聞届け、此謀は、如何あるべし。大軍、最上へ働くと聞えば、結城少将、白河口より仕懸け、佐竹は、多河郡より南関へ打入り、北国勢は、津川の城を攻め破り、会津の搦手に廻り候はゞ、如何あるべきと、申しければ、直江承り、白河口は、安田上総・島津月下斎持ち固め候へば、結城殿の力にて、中々攻破ること、思ひも寄らず。津川口は、極めて大切所なれば、五日・十日に、人数一万共、押入り難し。先づ奈良沢・上倉・小佐原・南条以下差遣し候へば、さのみ気遣にも候はす。然れども我が最上は、働き候跡にて、白河・津川へ敵差出で候と聞き候はゞ、山形には附城数多拵へ、人数を残し、重ねて攻め取り易き様に致し、会津へ罷帰り候間、兎角最上へ取懸り、東根の城を攻取り、之を詰の城に拵へ置き候はん。当春我等、修行者に真似しつゝ、【 NDLJP:198】出羽・奥州城々を見申し候に、東根の城程、能き要害は、近国には候はず。此城を取りて、上杉家中諸侍の妻子を入れ置き、是へ引籠り候はゞ、恐らくは、御所の御自身、御出馬候とも、中々寄付き給ふ事、難かるべし。少しも早く、此城を取り申すべしとて、陣触をぞ致しける。
越後国津川城落去并一揆退散の事
八月廿三日、美濃国岐阜の城を、福島正則・池田輝政攻め取り、江上川にて、黒田長政・田中兵部等、治部少輔・小西摂津守・宇喜多秀家と一戦し、大いに切勝つて、六川迄、追討に数千討取る。其勢に、垂井・赤坂迄働入り、陣を取りたるに付き、総大将、江戸を打立ち給ひ、九月朔日、上方指して切つて上られ給ふよし、披露せしかば、堀久太郎秀治家老堀監物直政・同雅楽助直清・同丹後守直寄・神子田八右衛門尉基昌二千余にて、九月六日に、三条の城を立ち、津川の城へ押寄せける。一揆共は、直江方よりの加勢、奈良沢・上倉・中曽根・小佐原・南条が人数を捨てゝ、下田に陣を張りたりける。堀丹後守直寄、三百余にて先手に打ちけるが、九月八日の早天に、下田表へ押寄せたり。一揆方、高き所に三段に備へ、深沼を前に当てたりける。丹後守は、家人共に向つて、敵陣、深田を前にあて、高きに備へたれば、此方より懸りて勝負をせば、敗軍すべし。我れ脇道より、敵の横合に仕懸け切崩すべしとて、身近僅か十人計り徒立になつて、岸を廻り、一揆方の右の方より、近々と押寄せ、丹後守自身、鉄炮を打懸けゝれば、千人計り一度につるべかけたりける。一揆勢、少し色めき、丹後守方へ備を押出し、騒しく見えける時、残り勢、鬨を揚げ、一揆左の方より、真黒になつて斬つて懸り、黒烟を立でゝ攻め戦ふ。一揆勢取合ひ、鑓を入れ押つゝ押されつ、火花を散らし戦ひける処に、一揆方に、裏切ありて、後より斬り懸けしかば、一揆勢、大いに敗軍し、右往左往に逃げ行く。丹後守、勝に乗りて逃ぐるを追ふこと急なり。一揆方斎藤八郎・柿崎三河守、ひた甲二百余、取つて返し、丹後守が旗本へ斬つて懸り、東西へ追ひまくり、南北へなびき、火花を散らして戦ひける。丹後守、旗本に二手に懸分けられ、手負・死人伏したる事、算を乱せるが如し。柿崎三河守は、洗革の鎧に、三本柳の葉立てたる甲を著、大根の折懸をさし、葦毛の馬に乗つて、左右七八十人、真丸になつて、丹後守を目に懸け、鯰尾の甲に、河原毛の馬に乗つたる【 NDLJP:199】若武者こそ丹波守なれ。あますな者共、組んで討てと呼ばはつてぞ懸りける。丹後守が勢、二手の陣一手になりて懸合せ、散々に戦ひける。地烟虚空に覆うて、辻風、微塵を吹立てたるが如し。すはや、丹後守打負けぬと見えけるに、放馬二十疋計り、西の方へ駈け出づ。一揆方の兵、手々に首を引提げて見えければ、堀監物直政・神子田八右衛門大音揚げ、丹後討たすな。続けや者共とて、千余の勢、真黒になりて懸りければ、一揆方、此新手に駈立てられ、立つ足もなく打負けて、津川の城を指して引退く。丹後守、勝に乗りて追駈けしに、一揆方、此処彼処にて、五十・百計り討たれしかば、残り少くなりてける。斎藤八郎・柿崎三河守、返し合せ戦ひて、数十人計り討取り、両人倶に討死しけり。残る一揆共、津川の城へ引き籠りけるを追駈け、六里の間に、甲首百七十余討取りける。監物・丹後守・神子田等、息をもつがず、津川の城へ押寄せけるに、城中に玉薬尽きければ、斬つて出で、囲みを切抜け、残なく落ち行きけり。監物は津川の城を乗取り、此旨を御所へ註進にこそ及びけれ。溝口伯耆守宣勝が居城新発田の城へ、一揆方丸田・庄瀬・万貫寺・水原二千余にて押寄せ、佐々木川放生橋辺にて、宣勝と一戦しけるに、宣勝打勝つて、屈強の兵百二十余人、討取りしかば、一揆方、散々になりて落ちにけり。加地右馬助・竹俣越中守も、一揆二千余にて、本庄の城へ押寄せけるに、村上周防守義明、千余にて逆寄せにして斬り懸り、大将加地・竹俣討死しければ、一揆勢、残らず敗軍す。斯くて、越後国中は、残なく一揆鎮り、此処彼処の山の奥に、残党ありと雖も、頭を差出す者もなかりける。されども、景勝名代に、甥の上杉弥五郎義昌・上杉左近将監義直〈後島山長門守と号す。法名一庵〉両人、大将となりて本庄繁長・津川弾正・甘糟備後守等十一頭、人数三万にて、津川口より越後へ寄せ来る由、風聞しければ、堀監物父子も、三条の城へ引取り、溝口・毛利・村上も、皆居城へ引籠り、奥州口の沙汰を聞き居たりける。其頃、治部少輔三成思ふ様は、敵を居ながら待受けん事、謀の無きに似たり。大垣に出張して、雌雄を決せんと、則ち伊藤が方へ、使者を以て申遣しけるは、今度、関東凶徒の輩を、追討の為め、秀頼公の御名代として、西国の諸大名を引率し、某、美濃表へ出張せしむ。之に依つて、其方の城を暫く借りて、東より討つて上る軍勢を討平げんと存じ候。早速、城辺の在郷へ明け退きて、城を借し給はらば、莫大の忠義たるべし。且亦一戦を遂げ、軍功を励まるゝに於ては、恩賞は望に応ずべしと、委細に述べにける。此伊藤は、長門守より大垣の城主にて、子息伊【 NDLJP:200】藤彦兵衛継ぎ居たりけるが、使者の口上聞届け、是は珍しき御借物かな。能き了簡もあるべし。事にも寄り、時にも寄るべし。今天下、物騒なる時節、我が居城を明渡し、要害もなき所へ屯し居らん事、天下の嘲弄、先祖の恥辱、末代迄も遁れ難し。斯く存ずる上は、片時も城を明け渡し申す事は、思ひも寄らず。斯く申せばとて、聊以て、関東の贔屓にも候はず。此段、能々申されよと、返答しければ、三成聞いて、大に腹を立て、いざ借りて見せんとて、則ち福原右馬助・平塚因幡守を呼寄せ、急ぎ大垣へ馳行きて、是非の事をいはせず、直に城に入るべしと、委細申含め、権柄の使者をぞ立てにける。両人、早々馳行きて、当城を借らん為め、是迄参り向うたり。急ぎ城を明け渡され候へと、申しければ、伊藤聞いて、兎角の返答に及ばず、命を限に支へんと、更に驚く体もなく、屹と白眼んで居たりけり。福原思案して、何卒して智略を廻し、手戈動かさずして、城を取らんと慮り、伊藤が家人を、密かに招き寄せていふ様は、今度、城を借らんと申す事、私の用事にあらず。又宿意ありて夫を奪はん為めにもあらず。秀頼公の上意として、東軍誅伐の御名代なれば、前後を能々分別して、主人へ諫言を加へられ、早速城を明け渡し、近所に居住あらんこそ、忠義にて候はんと、無窮の弁舌を以て説きけるにぞ、分別未練の彦兵衛、福原が巧言に欺かれ、上意といふに折れ崩れ、尤なりと御請して、今村といふ邑に、搔上の要害を構へつゝ、悪□□にて城を明け渡してぞ退きける。其跡へ、福原右馬助直高、本丸に移り、平塚因幡、二の丸に入りて、三成が許へ此由を斯くと申遣しければ、高橋右近・秋月長門に、七千余人を相添へて、城を固めさせける。其有様、ゆゝしくぞ見えにける。其後、治部三成、さらば大垣に出張せんと、相伴ふ人々には、備前中納言秀家・薩摩侍従義弘・島津中務少輔昌久・同又七郎忠恒等・小西摂津守行長・熊谷内蔵允重陳・相良宮内少輔頼定・秋月三郎種宗・垣見和泉守家純・高橋主膳・水村左衛門・同息伝蔵、都合五万三千六百余、軍令を相定め、大垣の城へぞ移りける。近辺在々所々、透間もなく、小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の軍兵数万人、大垣の城を押包んで、陣をぞ取りたりける。楽田村は、島津の持口にて、木曽街道より南は大垣迄固めたり。街道より十五町北に当りて、曽我の城、直に東軍方西尾豊後守忠政が居城なり。尾州犬山は、石川備前守城主として、之を守りける。加勢大将には、濃州岩手の城主竹中丹後守重門・同国郡上の城主稲葉右京進貞通・同息彦六一通・加藤左衛門・関長門守等、都合其勢、一万余人にて楯籠り、二の丸をぞ固め【 NDLJP:201】ける。遠藤但馬守・西尾豊後守忠政は東軍一味たるに依つて、八月廿日、稲葉右京が郡上の城を攻むる処に、金森法印・同息出雲守、関東より馳せ来つて、又此陣に加はりける。稲葉は、犬山の城二の丸を固め居たりしが、之を聞き、即時に来り後詰して、はや合戦を始めて、鬨の声・鉄炮の音、雷の激するが如くに聞えける最中に、稲葉も兼ねてより東軍に内通あるに依つて、早速和睦して、互に陣をぞ引きたりける。関長門守・加藤左衛門、此等も共に通じて、関東へ降参したりける。然る処に、不慮の事こそ出来にけれ。此郡上と申すは、稲葉右京進城主たりと雖も、遠藤左馬助数代の本領にして、近頃迄居城なりければ、案内は能く知りたり。城替の恨もありて、思ふ様は、稲葉は、犬山にありければ、定めて、城にははか〴〵しき留守居もあるまじければ、密かに飛騨国より押寄せて、手痛く攻むる程ならば、いかに勇功の稲葉なりといふとも、無勢といひ、大将なき事なれば、途方にくれて降参し、城を渡すは必定なり。此術は、敵の猛気を、奪ふ所の計策なりというて、遠藤と金森と牒し合せ、遠藤は、濃州外田口より、金森は、飛騨より長滝口へ押出され、道筋の在々へ相触れて、夜は松明篝を焚き、嶮岨なる細道を通り、やう〳〵国境にぞ、馳出でたりける。斯かる処に、堀尾・福島も、日頃稲葉と懇志なる故、種々に異見を加へ、稲葉味方に参る上は、郡上の城を攻めらるゝ事、さら〳〵無用の由、井伊・本多の方よりも、遠藤・金森へ、急ぎ飛脚を以て、いひ遣すと雖も、金森聞いて、路次の嶮岨を経て、国境迄馳出でながら、空しく引取るといふも、思へば余り無念なり。後難は兎も角もあれ。是非に乗取り候はんかと、遠藤へ申遣しければ、聞くや否や、はや用意して打立ちける。金森は、家人に吉田孫三郎とて、もと郡上の者なれば、則ち之を案内にて、尾崎山より郡上の古田山へ打登り、城を目の下に見下して、九月朔日の早天に、長滝口より攻懸る。城中には、稲葉が末子修理亮稲葉土佐入道計り留守せしが、思はずも、鬨の声に駭き、周章て騒ぎ、誰よ彼よと呼ばはれ共、物に馴れたる宗徒の者共は、皆犬山へ供したりければ、唯途方にくれ茫然として居たりけるが、修理亮申しけるは、屈強の切所を持ちながら、一支も防がずして、敵を城へ入れん事、世上の嘲といひ、生涯の恨、何か是に過ぎ候はんとありければ、よくも申したり。我も年は寄りたれども、実盛にも劣るまじと、孫が心を諫めらるれば、修理も、楠正行が思をなし、今日を限の命ぞと、緋縅の鎧に、五枚甲の緒をしめて、躍り上つて上帯し、遣ひ馴れたる十文字の鑓を【 NDLJP:202】提げて、城の門を押開き、突いて出づれば、天晴の若者かなといふ儘に、柴崎甚左衛門・郡波土左衛門・中村太郎左衛門只三人、城山の谷間の切所を頼みて防ぎける。扨此口は、屏風を立てたる如くなる巌石の嶮岨の一筋を、通る路なれば、寄手の軍兵、攻め上らんと勇めども、二人と並ぶ事叶はざれば、魁首二三人の外は、皆々見物してぞ居ける。然るに、城兵中村が鑓先、唯古の栗生・篠塚よりも、手痛く突〔〈出脱カ〉〕せば、寄手も、辟易して見えける処に、郡波も続いて声を懸けゝるにぞ、真先なる敵兵、あまされて倒に落ちにけり。後に続き上りし者共、将棊倒しに落ち重り、歴々の飛騨武者共、味方の鑓・長刀に貫かれ、手負・死人にて、流石の谷も埋れんとぞ見えにける。中村も、此勢に破りて入り、一騎当千と戦へば、終に討死をぞしたりける。寄手も、是に肝を消し、是は楠正成が再来して、千早を持つが如きかと、続いて乗入る人もあらざれば、柴崎・郡波諸共に、城中へぞ引取りける。此時、寄手の軍兵共、城には、人もなきかとて、古城に寄りけるが、本城の後に大きなる堀ありて、柵の構へ厳しければ、たやすく攻め入るべきやうぞなく、並居ける処を、城中より見すまし、弓・鉄炮を打懸けゝれば、窻雀の如く、釣瓶打に打ちけるが、仇矢は更になかりけり。金森が家人牛丸次郎右衛門・今井平助・阿砂賀作十郎も打殺され、手負・死人は数知らず。平砂忽ち変じて紅口が如し。金森は覚えず尼崎山へ引取りけり。爰に飯沼源左衛門、城乗を心懸け、前よりも堀を越し、塀の下に著くと雖も、同じく続く者もなく、味方、既に引取りければ、引かんと思ひ、暫く猶予する処に、城中の体、旗・指物を、塀際に結ひ付けて置きたる計りにて、人音もせざりければ、堀を越えて、直に登つて、旗一本指物共にぬき取つて、味方の陣に帰りしを、城より之を見て、打てや者共と、弓・鉄炮を打懸けゝれども、恙なく引取りしは、誠に剛の者とぞ聞えける。遠藤左馬助は、和良口より追手へ押寄せけれども、搦手の勝負を聞いて、卒爾に城へ、手著せずして、桜町といふ所に、暫く陣取つて、両将より扱を入れければ、修理も、土佐守に先づ急いで、右京進に告知らせ、援兵を得て、戦はんと相談して、両将へ返答しけるは、扱の儀、如何にも仰に随ひ、是れより委細申入るべしと、いひ遣しけるは、謀深くぞ覚えける。扨犬山へ、此趣を知らせたく思へども、敵の囲、厳しくして、使を外へ出すべき様なければ、案じ煩ひ居ける処に、小室伝三郎といふ者進み出で、某、不肖には候へども、何とぞ才覚致し、随分参り見申さん。若し此事仕損じ死せん命も、戦場にて討死仕るも、忠義に二つはあるまじけ【 NDLJP:203】れば、御暇申す旁々とて、何とか謀りけん。大敵の囲を事なく忍び出でければ、先づ大息つぎ、嬉しやと独言して、犬山へ一馳駈付け、右京に、由を斯くと告げければ、右京、元来短慮なる勇気壮んなる男なれば、篤と巨細をも聞届けず、我が領内へ踏込まれても何の甲斐あらん彼の奴原、一人も生かしては帰すまじ者を。続けや〳〵と、馬引寄せ打乗りて、一騎駈に駈け行きけるが、城もとより二里計り此方なる借安村に馳著きて、続く勢を待揃へ、九月三日の暁天に、郡上の城へ乗込まんと、歯がみをしてぞ待ち明かしける。遠藤左馬助、之をば努々知らずして、無異の扱をや調へて、和睦あらんと、油断してありける処に、右京が軍勢、鬨をどつと揚げ、太鼓の声、鉦を鳴らし、貝を吹き、鶴の翼を広げたる如くになつて、攻包むに驚き、遠藤、思ひ寄らざる事なれば、何の用意もなく、馬に乗れども、繋いであれば、打てども出でず。弓を手には取れども、鎧を著る間もあらざれば、中帯計りにて走り出で、鉄炮を持つても、火縄なければ、杵を持ちたるが如くにて、算を乱して、蹈合□あひて、我も人も破れ具足に取附き、えいや〳〵と懸合ひて、途方を失ひ、騒動して、無事なる時に見ば、笑はぬはなかるべし。されども、其中より緋縅の鎧に、鍬形打つたる甲を著、二尺八寸の太刀を、真向に差かざし、粥川小次郎と名乗つて、右京が先陣を目懸け、真一文字に駈向ひし有様は、天晴勇士とぞ見えにける。雷光稲妻の如くに飛廻り人馬の選びなく、ばらり〳〵と薙倒し、死狂ひに狂ひける処に、稲葉忠次郎が兵卒に、日比野吉左衛門と名乗懸け、十文字を以て突き懸れば、小次郎、心得たりと打合ひけり。日比野、引退き以て開いて、鎧の綿嚙をかいすかし寄つて、もぎ放せば稲葉忠次郎、走り寄つて首を取りける。夫より敵・味方入乱れ、火花を散らして戦ひける。遠藤方の朽川五郎・鷲見忠左衛門・近藤作助等・思の儘に働いて、敵・味方の目を驚かし、三人一度に、討死をしたりける。暫時の間に、手負・死人は山の如くになりにけり。依つて遠藤・金森、桜町の陣を引取れば、稲葉は、其儘城にぞ乗込みける。斯くて、両方にらみ合ひし処に、弥〻扱の沙汰になつて、人質を出せば、遠藤・金森も和睦して、郡上を引払ひけり。稲葉は、元来会津出勢の人数なりしかども、秀信の慕下に居るは、心に任せざる事なりと、諸人に其理をいはんも成難く、世の人にも、面目なく思ひて、剃髪染衣の姿となりて、赤坂に来りしを、福島、種々に取繕ひしかば、兎角の異議に及ばず、御赦免ありければ、同九月十四日に、出仕を勤めけり。斯くて、稲葉は、次男修理を以て申上げけるは、御出【 NDLJP:204】馬の筋、待受け奉らん為めに、大豆戸の渡には、柏原平助大軍にて出張致させ候。小牧表には、島左近二万余人にて控へ候間、清洲へ御懸り給ひて、御進発に於ては宜しく候はんか。さあらんには、御迎に馳出で申さんと、委細に註進し奉らんにぞ、其儀に応じ給ひしとなん聞えし。福島左衛門大夫正則は、濃州西方を打廻り、敵方の要害方術を見分せんと、僅か二百余にて、清洲より打出で、風水の気象を窺ひ、天下の盛衰をぞ考へける。市橋下総守在所、西美濃今尾の城に馳行きて、美濃路へ出張したる西軍の強弱を聞き合せ、先づ高木が居城、高須の城をば、計策を廻らし乗取るべし。小事とはいひながら、一戦して敵の気を奪はん謀なればとて、徳永法印に、斯様々々と低語しければ、徳永則ち領承して、家臣布家市左衛門、並に宝寿院とて、加納村の一向坊主を、密かに高木が方へ遣し申しけるは、甲を脱ぎ降参し、城を明け渡され候へと、委細懇にいひ送りけるを、高木聞いて、思案しけるが、小身故、当城抱へ難くして、聞き逃したるかといはれんも口惜し。其上、原隠岐守、太田の中島郷に在陣せり。彼に固く申合せし事なれば、容易く御請を、致すべき様なしと返事して、両使をぞかへしける。徳永は、仔細を聞いて、寝食を忘れ、色々思案を廻らし、早々に其陣引取れと、頻並の使を立てたりける。是に依つて、高須の城の囲を解きて、寄手の軍兵は、早速引去りければ、高木は、味方の兵卒を呼集め、面々如何に思ふぞや。此城郭に、大敵を引請けて、後詰の頼もなき処に、討死せんも本意ならず。幸に寄手も引きたる事なれば、一と先づ、当城を明け退き、後日の合戦に、恥辱をば雪がんといひけるにぞ、諸士一同に、御尤と応ずれば、頓て、福岡縄手に差懸り、駒の渡し船に棹さして、山の手の方へぞ退きにける。高木は、何とか思ひけん、其近辺の川船共を、悉く截流してぞ。捨てたりける。
直江山城守兼続最上へ攻め入る事并幡屋城を攻むる事
さる程に、景勝方の評定には、江戸御父子、上方御退治の間に、最上を攻め平げ、東根の城を取るべしとて、直江山城守兼続、四万余の軍兵を率し、九月九日に、会津をば打立ちける。先陣は、春日右衛門尉四千余、之に浪人五千余加はりて、真先を押へたりけるに、二陣五百川縫殿助四千五百余、浪人三千余之に加はる。三陣は、上和泉主水、其勢三千五百余、四番は【 NDLJP:205】大将直江山城守旗本一万、五番は色部長門・松本木工助・高梨兵部丞・松本内匠助、彼此其勢八千五百余、杉原常陸介親憲を以て、軍奉行となし、会津をば打立ちける。軍法の正しき事、尤も厳密なり。上杉家輝虎以来の軍法にて、旗はなし。皆一組一隊の識に、二本・三本宛、思ひ思ひに差させけり。何れも腰革にて前ざしなり。鉄炮は、大方種子島、凡そ此度二千挺とぞ聞えたる。諸手の軍兵共、思ひ〳〵の出立、申すも中々愚なり。西方院といふ法師武者、数十度の場数なりければ、景勝より皆朱の武具赦免にて、具足・甲・上帯・肌衣にて皆一色に赤かりける。朱鞘の太刀・刀・朱柄の鑓二三□尺ありけり。赤しなへに、金のぎら〳〵を置いて差したりける。鹿毛の馬に、猩々緋の馬面懸け、朱鞍懸けて乗りたりける。五百川縫殿助は、二の手の大将なるが、銀の具足甲に、鷺の簑毛の縨に、銀の中くりを出して差しければ、毛は千にぞ見えたりける。前田慶次郎利太は、黒具足に、猿の皮の投頭巾をかぶり、猩々緋の広袖羽織に、背に金の切裂けにて、曳両筋を縫ひ、金のいらたか珠数を襟に掛け、珠数のとめには、金の瓢簞を付け、後へ下りける。瓦毛の七寸計りなるを、野髪にして、銀の頭巾をかぶらせ、朝鮮鞦掛けてぞ乗りたり〔〈ける脱カ〉〕乗替は、黒の馬二寸五分計りなるが、殊に太く逞しきに、梨子地の鞍置かせ、緞子の嚢に、糧米に味噌を入れて、三頭にかけ、種子島二挺鞍壺につけて牽かせたり。其外、色々様々の物の具出立馬・鞍、誠によき見物にてありければ、僧俗・老若・男女、町中は申すに及ばず、城中より宿陣迄、大方続きける。十日には、米沢の城に著く。直江居城なれば、諸軍へ酒肴を送り、物主・組頭へは、城中にて饗応を出しけり。十二日は、払暁に米沢を打立ち、最上へぞ攻め入りける。最上出羽守義光は、直江、大軍にて寄せ来る由、聞えければ、上の山より幡屋の城迄、砦共五箇所を構へ、上杉勢の押し来る路を支へんとす。上杉勢の定には、上の山口より、山形の城へ攻め入るべし。此道、人馬の足立よく、平場なりとありけるが、最上義光が兵、江口五兵衛が籠りたる幡屋の城中の侍に、会津の先手の大将春日右衛門尉と、年来申通じ、懇切なる者あり。此者、密かに使を、春日が方へ遣し申しけるは、此度貴殿御先手として来り給ふ事、幸の事なり。幡屋の城へ取懸け給へ。我等後切して、城を取つて進らすべし。此通を山城守殿へ申達し、本領安堵を給はり候へとぞ申越しける。則ち人質を添へ、血判の誓詞を越しければ、右衛門尉悦んで、其状を本陣へ持参し、直江に見せければ、兼続、大に悦び、其使者に金銀等引出物し、本領安堵相違あるべからざる旨【 NDLJP:206】を、返答したりける。是より直江、俄に道を替へ、上の山をば余所に見て、山路へ懸り、幡屋の城へぞ赴きける。此道は上の山筋に違ひ、山中大切所にして、人馬の押道難儀なり。其上、幡屋の城・谷の城・寒河江城・長谷堂の城四箇所あり。其四箇所を根城にして、小城廿一館を構へたり。又上の山へかゝれば、山形の城へ押路もよし。早速の大功樹つべかりけるを、幡屋の城兵よりの内通を心に入れ、山道へ大軍を押入れける。軍奉行杉原常陸介親憲大に怒り、直江に向つて申しけるは、敵方より内通御座候て、味方、吉左右を得られ候由承り候。是は如何なる仔細にて候やらんと尋ねければ、兼続聞いて、其通幡屋の城中に、内通の者これあり。是に依り、押道をかへ、山路へ懸り、幡屋の城へ取詰め候といふ。杉原聞いて、山城守を諫めけるは、左様に候はゞ、春日右衛門尉一備九千余を、幡屋の城へ差向けられ、総軍は直に山形の城へ押詰め、其根元を攻め落す時は、其末々の小城共は、皆攻めずして落ち申すべく候。凡そ幡屋筋と上の山筋両道を考へ候に、迂路・直路三日路の違ひなり。我等考へ候に、敵軍、謀を構へ候て、此方へ一旦利を与へ、我が人数を、険阻の切所へ引入れ押路に滞らせ、其間に、山形本城要害を構へ、防戦の行をなすと見え候間、唯願はくは、諸軍勢を直路の上の山へ押入れ、山形の城へ、一時も早く取懸かられ、扨東根の城迄乗取る御行、専一に存じ候とありければ、直江、元より、杉原常陸介と中悪しければ、此異見を、曽て用ひずして申しけるは、貴殿は軍奉行にて、其職重き人にて候へば、其申さるゝ処、一々理に当り候。然れども、我等の申す処も、道理のなきにしもあらず。幡屋の城に、内通ありて、乗取らせ候はんと、申越し候故、我等も、先づ事の成り易きを求むる事、愚人の常に候故、先づ是へと志して、諸軍を押しむけ候なりと申しけり。常陸介、其意味を用ふべかららざる体をなし、重ねて申すに及ばずして、己が陣小屋へ帰し、大息つきて、独言に申しけるは、直江山城守は、寵愛の小性達より起つて、大身に経上り、施を取つて、度々の勝軍にならひ、威勢、年を追うて弥増、主君を軽んじ、上杉家を己一人にて、仕たき儘にし、おごり壮んにして、秀吉公の御前へ日々に召出さる。之に依つて御所をも見侮り、上杉家の仕置、万事に依怙これあり、左道なり。さりながら、直江飽く迄才智これあり、謀略人に勝れたる処ある故に、又能く人の情を得、諸人を懐け随へたり。此度治部と一味し、天下の大乱を引出す事、直江が所為にあらずといふ事なし。国家の禍を引出し、天下の騒動を致す事、彼にあらずして、又誰とかせん。【 NDLJP:207】上杉の御家も、末になり候と、涙ぐみて悔みければ、之を聞く人々、皆尤とぞ申しける。既に直江は、四万余の勢にて、幡屋の城へ押寄せければ、城主江口五兵衛尉光尭之を聞き、人数を出し、道寄にして一戦せんといふ。江口小吉・同忠作・飯田播磨守諫めけるは、世の諺に、外の百人を以て、内の一人を窺ひ難しと申伝へ候。上杉家四万に、〔〈脱アラン〉〕人数千計りにも及ぶぞ。是手を以て、大河を堰ぎ止めんと致すに似たり。唯城を出でずして、要害に引籠り、弓鉄炮にて打立てんと申しける。江口五兵衛が曰く、左様にてなし。人数を以て争ふ時は、小軍は多勢に叶ふべからず。謀を以て戦ふ時は、兵の多少に依らず。唯我に任せよとて、伏兵を六所に伏せ置き、五兵衛は、城中に旗指物を立てつゝ待懸けたり。さる程に、九月十三日の曙に、直江四万余にて抑寄する。江口五兵衛は、馬強なる兵七八十騎引連れ、誘引出さんが為め、城外へ押出す。皆馬上に弓を持ちたりける。総構を出でて、押廻す所にて、直江が大軍押出すに、はたと行逢ひたり。江口が兵共、差詰め引詰め矢種を惜まず散々に射る。直江が先駈、高浜弾正〈後肥州にあり〉・劒持市兵衛〈保科肥後守正之に奉公す〉駒木根小八郎〈後右近御機本御先手鉄炮大将〉等、種子島にて打立しかば、江口が騎馬弓の者共二十騎計り、将棊倒に打落され、残兵共怺へ兼ね、引色に見えけるに、右の犀ヶ崎より、前田慶次郎・宇佐美藤三郎・平居出雲守十騎計り馬を踏放し、鑓追取り懸りけるを見て、江口が勢押立てられ、城の大手迄、六町計り引取りける。上杉勢、遁すなとて、引付けて追駈けゝるに、海松色の縨かけたる武者と、猩々緋の羽織武者二騎、歩者四五人、町中にて返し答へけるを、直江が侍森山舎人〈後水野淡路守に奉公す〉一番に懸り鑓組し、縨著の武者を突き伏せ、高名しけるに、残る敵は城内へ引入りけり。上杉勢、雲霞の如く押込みける所に、矢倉の上塀裏より、大筒にて打立て、貝を吹きけると等しく、六所に伏せ置きける伏兵共、起出でて立狭み、散々に射る。上杉家は、謙信よりの軍法にて、奇の中の奇正・正中の奇正、一手・別手といふ事ありて、斯様の不意に遇うても、周章つる事なく、敵に当つて迷はず。此故に、六所の伏兵の敵へ取合せ、此方より却つて斬りかゝりしかば、伏兵共、一刃も合せず、城中指して引入りける。上杉勢、追ひすがひ鉄炮にて打立てければ、五町計り中にて、三十人余打留めける。伏兵大いに敗軍し、渓澗に落ちて死する者、数を知らず。上杉先手、春日右衛門尉九千余、伏兵の逃ぐるに従ひて、大手口迄、攻め付けゝるに、江口五兵衛、五十騎計りにて、大手の門前に控へて、伏兵共の逃げ来るを見て、いひ甲斐なき者共かな。上杉の軍兵【 NDLJP:208】共、手二つ、味方も手二つ、勝負に何と負くべきや。皆返し合せ、討死せよと訇りければ、伏兵の物主加藤源左衛門・岩瀬和泉守・草刈善助・林縫殿助・真島左衛門・日野八郎取つて返し、上杉の軍勢の中へ駈入りける。両方より打ちたつる矢・鉄炮は、雨の降るが如し。甲の鍛をゆりあはせ、えいや声を出して斬り結び、或は切つて落すもあり。或は組んで落つるもあり。南北へ追ひなびけ、東西へ追ひまくり、火花を散らし、七八度迄戦ひける。上杉方の大将春日右衛門尉、金銀の短尺纔懸け、馬に白泡はませ、杖に縋り下知しけるは、味方は皆小旗をさしたり。城方は、伏兵にて小旗なし。夫を目印に組んで討てと、下知しければ、心得候とて、押並べ〳〵引組んで落重り、透間ありとも見えざりけるに、多勢防ぎ難く、城方伏兵の物主加藤源左衛門・岩瀬和泉守・草刈善助・林縫殿助・真島左衛門・日野八郎六人、一足も退かず、討死したりける。上杉方、勝に乗りて攻め近づき、江口五兵衛も相叶はず、三の丸を捨て二の木戸にて防ぎける所に、兼ねて内通の者、本丸に火を懸け、鬨の声を揚げたりければ、城中周章て騒ぎて、男女東西に逃げ迷ひ、防ぎ戦ふ者なかりける。江口五兵衛は、ひた甲六百余、二の丸を抱へ防ぎ戦ふ。上杉方先手色部長門守・春日右衛門尉、麾を振つて、城中に裏切ありて、火を懸けたり。爰を揉合せと、其身、真先に進みける処に、宇佐美民部少輔勝行、銀の手の□の黒線にて、二の丸門脇へつき、一番に乗入りしかば、夏目軍八・宇佐美藤三郎は、柵を越えて乗込みける。続いて井上三郎兵衛・下条平太夫・白土内匠、〈佐藤継信が後胤、〉其外百人余乗入りける。城主江口五兵衛も、手廻二三十人にて、真丸になり引きけるを、色部長門守、麾を振つて下知しければ、上杉の軍兵共声を懸け、穢し返せ、五兵衛殿、本丸には火懸り、何方へ行くべきぞ。とても此世は仮の宿、心をとむるな。江口と、声々に呼ばりければ、五兵衛引返し、鑓を合せ、二三人突伏せ候処へ、上杉方志賀五郎右衛門突懸り、散々に戦ひて、遂に五兵衛を突伏せ、首を鑓先に高く差上げ、城主江口五兵衛をば、上杉内志賀五郎右衛門、討取りたるぞと呼ばはりける。城方の兵共、江口小吉・同忠作・飯田播磨守・新開又右衛門・小野田与八郎・幡屋藤太郎・同清左衛門・堀蔵人等五百計り、面も振らず、上杉の多勢へ馳懸け〳〵、火〔〈花脱カ〉〕を散らし戦ひけるを、上杉勢、新手を入れ替へ〳〵、攻め入りつゝ、大方残なく討留めけり。飯田播磨守をば、上杉方夏目軍八討取り、新開又右衛門は、水野藤兵衛討取り、幡屋清左衛門をば、宇佐美民部討取り、江口忠作をば、宇佐美藤三郎討取りける。其外、五百余の【 NDLJP:209】城方、皆二の丸にて討たれつゝ、幡屋は落城したりける。十三日の辰の上刻に、城を攻め取り、直江は、幡屋の城へ入り、勝鬨を揚げたりける。前田慶次郎は、搦手より乗込み、落ちて遁れ出づる敵共、八人討留め、家人共に持たせ、直江が旗本へ遣しける,直江は、手合に幡屋の城を攻落し、親を揺り悦びつゝ、下知しけるは、敵の臆病神のさめぬに、押入れや兵者共、破竹の勢失ふべからずと、息をも継がず打立つて、最上方の小城共、長谷堂の城迄の間に、廿三館構へけるを、押寄せ攻めけるに景勝の猛威に聞おぢし、又は今朝、幡屋の城、一時乗に攻め落されしに恐れつゝ、防ぎ矢射て、皆落ちければ、上杉勢、勝に乗りて進みつゝ、十三日辰の刻より、同日の暮合迄に、最上の小城廿一館迄攻め取りける。討取る首数三千四百七十余とぞ注しける。如何なる天魔鬼神なりとも、上杉の鋒先に、面を向くべしとは見えざりける。廿一館の落人共は、谷の城・寒河江・長谷堂の城、扨は山形の城へぞ逃げ入りける。最上方の軍兵共、昔より五千・三千の坪軍には遇ひたれども、斯程に厳しき事にあはずと、皆逃足にぞなりたりける。〈坪軍とは、地取合の事なり。奥州出羽の言葉なり。〉直江兼続は、一日の中に、幡屋の根城を始め、小城廿一館攻め取り、討取る首共実検し、須川の流にて、太刀・刀・物具の血を洗はせ、野陣を取り、大篝廿八箇所に焚かせ、人馬の息をぞ休めける。
斯くて、関東方には、木曽街道より、十五町北に当つて、曽根の城あり。此所には、関東より西尾豊後守忠政在城す。江州より街道北の地は、東国勢、陣を張つて大垣を圧へけり。扨会根の城は、東海道の傍にして、大事の手当なれば、松下右兵衛を加勢とす。然れども、軍用の程、毎度不足なる由を、井伊・本多聞き伝へて、松下を陣替へさせ、水野六左衛門・同舎弟惣十郎を、豊後守に加へて、木曽街道を阻てゝ対陣す。松下丹波守・津軽右京は、江尻の郷に屯して、笠縫縄手の通路をば、最も厳しく差塞ぎけり。斯かる処に、治部三成は、年来の家の子林半助を召寄せ、あたりの者を退け、囁きけるは、其方、年来の忠節
推量つて、委細を知りぬれば、わりなく所望する事あり。叶へてんや否やといふ。半助、頭を地に付けて申す様、事新しき御諚にて候。其の身に叶はん御用をこそ、日頃年頃、偏に願ひ罷在り候へば、斯かる不肖の某に相応ならん御用をば、争でか
辞み奉らん。仰の程こそ、恨めしく候へと、真実の志、顔色に顕はれしかば、三成一入喜悦して、別なる儀にあらず。其方が一命を、我にくれよといふ事なり。元来、曽根は汝が生国なれば、何卒思案を廻らして、百姓・浪人等を相語らひ、
【 NDLJP:210】曽根の城の搦手へ、夜に紛れて忍び入り、火を懸けさする術をせよ。然らば、水野・西尾が軍兵共、火元へ馳集り、馳廻りて騒ぎ立てんは必定なり。其時、火の手を相図にて、軍勢を引率し、早速に押懸けて、曽根の城を乗取るべし。偏に頼むといひしかば、半助聞きて領承し、御心安く思召し候へ。幸に馬淵兵左衛門と申して、物に馴れたる忍びの者候。元は氏家志摩守家来たりしが、故ありて浪人致し、呂久村に罷在り、私無二の知音にて候へば、渠と深く相計り、随分方便を廻らして、必ずしおほせ、本意を達せしめ申さんというて、我が陣所にぞ帰りける。扨兵左衛門を招き寄せ、件の有増を、内談し申す様、三成の仰にも、其事首尾能く遂げられなば、秀頼公へ言上あり、御馬廻りに召出して、過分の俸禄与へ給ふべしと、堅約の事なれば、随分働き給へといふ。馬淵、委細を聞届け、三成殿の御心底、近頃喜悦至極せり。去乍ら、此企、卒爾にしてはなり難し。敵味方の対陣間近く、程なき事なれば、遠見・夜廻り、暇もなく厳しく番をするなれば、仕済す事は優曇華なり。然れども、味方に多くの人を差措かれ、我等風情に、隔心なく、大事を仰ある上は、敵方に生捕られ、しゝびしほになるとても、惜むべき身にあらず。爰に高田何某・横山太兵衛といふ者、某、若年よりの友にて殊更斯様、の事に、心懸の鍛錬ある者にて候へば、彼等を伴ひ、忍び入り見申さんと、功者にぞ聞えける。半助、具に聞届け、三成に対面して、右の趣、一々に首尾を合せ、執なしければ、頼母しくぞ覚えける。三成、聞いて申しけるは、随分、身命を抛つて、よく事を遂げ申されよ。我れ斯くてあらん限は、縦ひ其身は果つるとも、子孫の末迄も見放さず、取立て得させん。是は当座の褒美とて、黄金三枚取出し、半助に渡しけり。夫より昼夜会合して、評議をぞしたりける。馬淵が了簡には、夜中は別して、番等も繁からんと存ずれば、何卒、謀を以つて、昼の間に紛入り、よき時分を待ち申さんは、如何にやといひければ、此儀、尤も然るべしと、彼是方々窺ひ居る処に、其頃、赤坂表の陣所、並に曽根の城の兵糧、次第に尽きければ、在々へ入渡つて、田を刈る最中なり。此人夫に打紛れ、忍び入らんと議定して、九月十日の申の刻計り、瀬古村の北の辺の田を刈る人夫に紛れ、彼方此方と窺ふ処に、折節、刈田の奉行、目の利きたる士にて、彼者共の行跡は、人夫体の者ならず、鎌の持様・稲さばき、曽て手馴れぬ業と見ゆ。其上、眼ざし、只者にあらずと、見咎め、敵方の奴原が、紛れて入りたると覚えたり。其手其組の人夫を、点検せよといふを聞きて、三人の者ども、頓て其場を駈出し、
【 NDLJP:211】二人は東へ逃げて行き、今一人は、西の方曽根を指して逃げけるを、奉行の士下知して、やれ討取れ
〳〵と、声々に呼ばはりて、両方へ追駈くる。近郷の者共迄も出合ひ、追駈けたり。二人は水練の上手にて、水を游いで逃げ延びぬ。今一人は追詰めて、斬らば斬るべき程なりし処に、跡より声をかけて、討つな生捕にせよと呼ばはる内に、瀬古村の名主宇野左近右衛門といふ者が、屋敷の内へ飛入りけり。此所には、豊後守の姉娘綾野殿といふ方を、名主の屋敷を囲ひつゝ置かれけり。其の所へ彼の賊徒駈入りて、綾野殿を引き寄せ、胸に白刃を差当て、人質に取りければ、追手の者、押込んでも搦むべき様なし。西尾・水野が両軍勢、雲霞の如く駈け来つて、名主が家を取巻いても、危き仕業なれば、詮方なく、何れも胸を冷してぞ居たりけるが、名主、賢き者にて、女房によくいひ含め、いはせけるは、其方は何国の人、いかなる訳に依つてか、斯くは仕給ふぞや。若し誤なき身ならば、其様子をいうて帰られよ。我は、此家の女房なり。亭主は、慈悲を第一とする人なれば、縦ひ科ある人なりとも、能き様に取持ちて、其罪を宥め給ふ様に申さるべし。増して誤なき人をや。唯有体に、亭主を頼み給ふべし。努々相違あるまじと、神をかけ仏に誓ひて、
実しやかに申しければ、彼の者、実にもと思ひて、されば、某は、馬淵庄左衛門とて、呂久村に居る者にて候が、豊後殿の御家中に、某同名の権右衛門と申す者、親類にて候故、対談の内参加せしむる処に、理不尽に追ひ駈けられ、途方にくれて、是非なく斯くの仕合に候。兎も角も、宜しく頼み存ずるとて、騒がぬ気色なれば、則ち権右衛門を召寄せ、彼の者を見せける処に、如何にも、以前より存知の者にて候へば、それがし、願ひ申さんに、何の祟のあるべきや。心安かれ。兵左衛門御咎めあるに於ては、一所に科を受くべしとて、先づ太刀を納めさせ、人質を放させて、豊後守に、此を斯くと申しければ、急ぎ城へ召し寄せて、仔細を問へども、曽て又別条なしと陳じけり。豊後守これを聞いて、仔細もなき其身にて、人が追へばとて、何故周章て騒ぎて逃げけるぞ。其の上、人質を取るからは、別条なしとはいはるまじ。兎角をいふまで責めよと、拷問既に度重りければ、是非もなき次第とて、三成が謀、半助が頼みの品、始めより終まで、一事ものこらず白状せしかば、みごらしの為めにせよとて、木曽街道の境目に、梟首にこそはしたりける。
【 NDLJP:212】
直江山城守諸大将と軍評定并長谷堂の城を攻む附最上義明、後巻対陣の事
明くれば、九月十四日に、直江兼続は、諸大将と評定し、最上義明の居城山形を、攻めんとぞ謀りける。時に、三番手の大将上泉主水正憲元〈一説道治〉始は、武州深谷の領主上杉左兵衛佐憲盛の家老にて、若年の時分、浅黄しなへ筵をさし、大鹿毛といふ名馬に乗り、利根川の先陣を渡し、大敵を攻め破りし武功、其外、度々の場数これあり。既に北武蔵・東上野にては、浅黄しなへ筵をさす事は、憚り遠慮する程の剛の者なり。深谷殿小田原落去の時分、没落せられ、上泉も浪人となり、景勝上杉の一門たるを以て、奉公に出で、万石〈組共に、〉給はりけるが、進出でて申しけるは、山形の城を攻められん事はよく〳〵了簡あるべき事にて候。城の西南は夥しき深沼にて、人馬の足、及ぶべからず。東北は、要害堅固にして、堀三重に柵五重なり、矢倉三十余箇所にあげたり。殊更、最上義光が先祖は、足利尾張守高経の弟、斯波伊予守家兼が、子修理大夫兼頼、延文元年八月に、尊氏公より、出羽の国司に任ぜられて、山形に居城を定めしより以来、今義光に至つて数十代、国富み人懐き、譜代の兵数万人、弓・鉄炮・兵具其数を知らず。皆義を重んじ、名を惜む兵共なり。卒爾に攻懸り給はゞ、大事に及ぶべく候。暫く是に控へて、行を廻らし、動静の機を窺ひ給へとありしかば、直江・杉原・松本・春日・五百川等の諸大将、うけがはずして申しけるは、今度、大軍を催し、此国に討入る事、山形並に東根の城を攻めん為めなり。貴殿今、山形の城要害よく、最上の軍兵の剛強なる事を述べらる。是皆、多年に存ずる処なり。但し、山形を攻めざる則ば、幸に手近の長谷堂を攻め洛すべし。兎角、何処へなりとも、取りかくべし。手を束ねて、日を送るべき様なし。貴殿は、上州・武州の名家、自分にも勇士と許さるゝ人の、唯々の御言葉は、相違にて候と、口々に申しければ、主水は、卒忽なる事をいひ出し、当座の恥辱と思ひ赤面し、無念色に顕はれ、心中には、兎角討死とぞ極めける。されば長谷堂の城を攻めんとて、明くれば十五日辰の刻、上杉の諸軍、長谷堂の城へ押寄せける。直江兼続、二万余にて長谷堂の城より、十九町隔てたる菅沢山に陣を取り、上泉主水三千五百余は、亀越山に陣を取り、長谷堂の城より、十四町を隔てたり。春日右衛門尉九千余は、小山崎に陣を張り、長谷の城を攻めんとす。此城には、最【 NDLJP:213】上方志村伊豆守守れり。小勢なるにより、義光より加勢として、酒延〈或鮭延ともあり〉越前守・氏江九兵衛・富南相模守・東根常陸介に、精兵八千添へて籠められたり。長谷堂の城は、山形の城より二里、上の山の城より二里、上の山の城へ一里半なり。山形の城と、上の山と相去る事三里、山形は、天堂の城よりも三里なり。上の山の城は〔中カ〕山形の城の南に当れり。大〔天カ〕堂は北に当る。皆鼎足の形にして、特角の勢をなせり。庄内の領主甲利八郎国盛も、其以前、上杉家老本庄越前守繁長と数年取合ひ、繁長に攻め付けられ、降参して景勝に従ひしが、此度、最上義光の謀により、又は美濃国岐阜落城、江土川の合戦に、東国方、勝利を得給ひたりと聞きて、心を変じ、景勝を背きしかば、直江兼続より、下次右衛門を大将にて、五百余の兵卒を、庄内より廻し、屋地の城へ取懸け攻め落し、夫より押入りて、千村・境村に陣を張りけり。此境村は、山形より四里の西にて、長谷堂も山形の西南にありて、米沢に向ひたり。上杉勢長谷堂の城へ取懸くべしと聞えしかば、最上義光も、屈強の兵二万余を率して、山形を出で、後巻として長谷堂に著陣し、城より二町隔てたる稲葉山に陣を取り、直江と対陣せり。さる程に、上杉勢は、最上義光、後巻に出張したるも、事ともせず、諸軍を手分けして、四方より手を合せ、大筒を放し、鬨を揚げて攻め懸る。城中も、爰を先途とぞ防ぎける。直江兼続、諸大将に下知して、井楼十余箇所にあげて、城中を見下し、築山を築き揚げ、銀掘を入れて、矢倉下へ掘入り、竹束仕寄り、透間なく、喚き叫んで攻め近づく。城方、評定しけるは、景勝が兵、猛く勇むのみならず、合戦に馴れたる体、輝虎の遺法を請け、其強き事、一騎当千とも謂ひつべし。城外へ出でずして、塀裏を持ち、矢狭間配りして、鉄炮にて、打立てよとぞ下知しける。城主志村伊豆守高治が家老、大風右衛門・横尾勘解由、主人に向つて申しけるは、此城、小勢なるを以て、八千の加勢を入れられ、其上、山形より太守義光御自身、御後巻にて、城外稲葉山に、御陣を召され候に、我々此城の主として、上杉殿に巻き詰められ、をめ〳〵と、塀裏計りを持つて、防ぎたる計りにては、諸人の思ふ処、第一は、屋形義光の御心底も恥しく候。我々斬つて出で、一と合戦仕るべしとありければ、志村も、汝等が存ずる処、又余儀もなしとぞ同じける。是に依つて、屈強の兵二百余騎にて、斬つて出でんと支度せり。此攻口は、上杉方上泉主水、三千余にて控へたり。上泉が陣の右二町計りに、宇佐美民部、其勢四百余にて、備へたりしが、城中の有様を見て、嫡子宇佐美藤三郎、〈後兵左衛門尉と号す〉十六歳になりける【 NDLJP:214】を使ひとして、上泉主水備へ、申遣しけるは、城方、追付、定めて出づべしと覚え候。御心得あるべく候へども申入れ候。上泉は、城の相色に心を付けず。宇佐美は、何事を申越したるやらんと、思ひけれども、心得候と計り返事しけり。されども、宇佐美藤三郎、父の備へ帰らず、是に罷在り、手に合ひ申したしといふ。主水は早々手分の備へ、帰られ候へといふと等しく、ひた甲二百余、大手の門を開き、一度に突いて出でたりける。上泉主水も、取合せ鑓を入れ合ひ、地煙を立つて突然矢・鉄炮を打合ふ事、霰の降るが如し。上泉が先駈大高六右衛門、〈大高階氏にて、高市皇子より峯緒が後胤大高伊予守重成末孫紀州大高源右衛門伯父なり、〉一番によき首を取りたりける。信太内匠・石谷半内、続いて高名し、何れも甲首を差上げたり。宇佐美藤三郎も鑓を合せて高名し、首を取る。上泉下知して、当方より横尾・大風が二百余を押包んで攻めければ、大風・横尾打負けて、城中指して引入りける。上泉追駈け、屈強の兵十四騎・歩者廿余人討留めける。上泉が手にも、精兵十三騎・足軽歩者卅七人討たれける。直江備より、漆木采女・坂田主税駈付け、両人共に組討の高名なり。宇佐美民部も、我備をば少も乱さずして控へしが、自身乗付け、上泉が手先にて、是も能き首取りにけり。直江は諸軍に下知して、縋井楼・亀甲車菱・向城の支度事急なり。大工数百人にて昼夜拵へければ、鑿槌の声城中へ聞え皆怖の思をなせり。
最上義明加勢を伊達に乞はるゝ事附政宗加勢の事并井上杉方松本木工之助討死の事
始め義光は、景勝の大軍、寄せ来ると聞きし時、子息修理大夫家親に申されけるは、此度、直江山城守大将にて、四万余の軍兵を引率し、攻来る由なれば、勢は定めて、雲霞の如くなるべし。我は山形の城を持ちて、なるべき程は防ぎ戦ひ、叶はずば腹を切るべし。其方は、早々奥州岩手沢に赴き、加勢を政宗に乞ひ候へ。但し我が姉は、政宗が実母にて、其方と政宗従弟なれども、先手、鮎貝藤太郎事にて、政宗と中悪しき事多年なり。既に弓矢、数箇度に及へば、中々合点仕るまじとは、思ひしかども、政宗も、関東方無二の味方なれば、我が告を聞く時は、関東の後聞を憚り、加勢あるべき事必定なり。其内、山形落城せば、我は討死すべし。其方は生き残りて、家名を相続仕るべく候。父子一所にありて、討たれん事、いひ甲斐なき事なりとて、今生の暇乞の盃を取替はし、家親は馬に打乗つて、奥州岩手沢指して赴【 NDLJP:215】きけり。九月八日に、岩手沢に著きて、政宗に対面し、家親申されけるは、此度、関東の御下知により、義光も軍兵を催促し、米沢口より会津へ取懸け申すべしと、支度仕り候処に、此度、治部、大坂へ討つて出で、京都・畿内之に一味し、伏見の城を攻め落し、既に治部が先勢、美濃口に充満に付き、関東の御勢、会津攻を止められ、江戸へ引入り、上洛仕られ候。是に依つて、直江山城、其利に乗り、此暇を窺ひ、四万余の軍兵にて、近日、最上を攻潰すべき支度の由、申し来るに付き、味方にも数箇所の砦を構へ、待受け候へども、大敵なれば、此方打負けん事、必定なり。事新しき申条に候へども、貴殿の御母堂は、我が伯母なれば、従弟の好み浅からず。然れども、先手鮎貝藤太郎が事により、伊達・最上確執に及ぶ、敵味方となり、数年争ひ戦ふ事、頗る本意にあらず。此度直江、最上を攻め平げ候はゞ、即ち猶下湯の原へかゝり、岩手沢へ取懸り候はん事、隴を得て蜀を望むの勢、とゞまるべからず。
〈後漢光武帝賜㆓岑彭㆒書、人若㆑不㆑知。是既平㆑隴復望㆑蜀〉是れ所㆑謂唇亡びて歯寒きの譬なり。今度、多年の宿意を咎め給はず、加勢を出され、最上の急難を救はれ候はゞ、外は関東への奉公、内は一家を救ふ所、名実共に全き所にて候。正に今、最上大事に及び候に、貴殿加勢なく、一旦、直江、最上攻め取り候はゞ、何の面目ありて、御所へ見えられ候はんやと、理を尽して申されければ、政宗聞きて、尤も至極と同心し、追付、加勢を出し申すべく候間、貴殿は父義光と一所に、山形を持たれ候へと、家親を返し、則ち最上へ加勢を差越しけり。伊達上野介・津田豊前守・保土原江南軒・大条隆摩守・与倉紀伊守・大嶺式部丞・鹿股大蔵丞・遠藤但馬守・石川弥兵衛・青木掃部・新館肥前守・青木勘四郎・佐々部淡路守・小野雅楽助・小野弥左衛門・堀野弥角等、其勢四千余、武山出雲守・成田左馬助軍奉行として、岩手沢を打立ち、夜を日に継いで、最上へぞ急ぎける。政宗総軍は、旗の紋に、琵琶面を書きたり。我は琵琶なり。敵ひけといふ事なり。政宗も、一万五千にて、押続いて打立ちつゝ、九月十五日には、最上長谷堂口に著陣し、文田村に陣を取りたりけり。最上方、勢を振て見えにけり。直江は、伊達の大軍、文田村迄出張りたるも、事ともせずして申しけるは、今朝城中より、大風・横尾斬つて出でたりけるを、残りなく討留めざるこそ口惜しけれ。此上は、ひた攻に攻めよと、下知しければ、春日右衛門尉七千余騎、竹束をかつぎつれ、城中へ攻寄せつゝ、柵を抜き、乱杙を取除け、喚き叫んで攻懸る。直江は、高き所に打登りて、大筒五台集めつゝ、城中へ放ち懸けゝるに、一抱計りの木を、中みぢんに打砕き、残る玉、矢倉にあ【 NDLJP:216】たりて、壁二間計り打破りけり。其音、千雷の震ふが如し。長谷堂城中の男女、一度に声を揚げてぞ騒ぎける。春日右衛門、是に利を得て、城門を攻め破つて、攻め入りけるに、城中より志村伊豆守・鮭延越前守、逞兵三百余人、真黒に斬つて出でつゝ、春日勢を追出さんと進み懸り、爰を先途と戦ひける。互に手負・死人は数を知らず。左右の櫓と、向うの塀より、雨の降るが如く、鉄炮を打立てければ、春日が勢、門外へ二十間計り退り、ひた〳〵と地に折りしき、鑓を伏せてぞ休みける。上杉方より、松本木工之助百余、春日に入替はらんと追ひける。志村伊豆守、新手の替らぬ前に、春日を追立てよとて、斬つて出でけるに、上杉軍法にて、畳陣といふ物に立つ春日が備は、唯大山の如くに立つ。同じ虎口の兵共は、鑓を膝車に乗せて折りしき、其次は、鉄炮を立て並べ、折り立つ事甚だし。是に依つて、城方、懸りかねて、見えける処を、松本木工之助七百余、横合に懸入りける。志村も、松本と懸合せ、押しつ押されつ戦ひけるを、松本、自身鑓を入れつゝ、上鑓になりて、二三人突倒し、曳々声を揚げたりけるに、志村が勢、崩れ立つて城中へ引退く。松本勝に乗りて、志村伊豆を追ひ立て、逃ぐるを追うて、城中へ攻め入りけるを、黒四半に、朱の山道書きたる指物にて、鮭延越前守と名乗り、手勢二百計り左右に立て、越前守、大長刀を水車に廻して、斬つて出でけるに、松本、是と渡り合ひ、追込め追出し、一時計りぞ戦ひける。松本、深入して三箇所迄、深手を負ひ、爰にて討死したりける。此手の兵共、大将を討たれ、当の敵を討たんと戦ひける程に、松本が兵、八十余討死し、残兵は門外へ引取りけり。城方には、木工之助が首を、鑓先に刺貫き、高く差上げ、上杉家の侍大将松本木工之助を、討取りたりとぞ悦び、景勝方には、松本木工之助を討たせ、此口の寄手、少し引退きけるを無念に思ひ、直江一万余、上泉が勢を先立て、春日に入替りて攻懸かり、手持楯・てう楯竹束・亀甲を以て、附寄せ〳〵攻め近づき、十五日未の刻より、夜中に至る迄、新手を入替へ〳〵、十六日の夜中迄、息も継がず攻めたりける。廿七日の朝迄も城中防ぎ戦ひて、弱る気色なかりければ、直江は、色部長門守・高梨対馬守三千余を、城の背の高山へ押登せ、頻に鉄炮を打懸けさせける。城中、鮭延越前・東根常陸介・新開備前守二千余、昨日の勝軍に利を得て、城の搦手の門を開き、驀地に討つて出でたりける。上杉方色部・高梨、天の与ふる所なりと悦び、山より下り立ちて、突いて懸りければ、城方まくり立てられ、引入りけるを、上杉勢引付けて攻入りつゝ、城方の待大将新開備前守を討取り、其【 NDLJP:217】外、屈強の兵百九十一人討取り、搦手の外張を踏み破り、勝鬨を揚げてぞ帰りける。直江は、新開備前守が首を得て、鑓の先に刺貫き、高く差上げ、最上方の大将新開備前守を、討取りたりと呼ばはつて、昨日の松本木工之助が仇を、報じたりとぞ悦びける。昨日の卯の刻より今日夜半迄、息も継がず攻めたりとぞ悦びけるに、城中雑人・女童も討たるゝ時は、念仏を唱へ、わきかへり喚き叫びつゝ、又攻め止めば、其間には、暫く息を休めける。唯地獄の苦も、是には増さらじとぞ見えにける。直江は、赤沢山に旗を立てさせ、政宗の陣所文田村を見下し、諸軍を手分けして、四方へ遣し、焼働きを致させけるに、最上領には、上杉の諸軍入渡り、堂社・仏閣を打破り、在々所々を焼払ひ、自由に横行す。眼中、既に政宗・義光を蔑如にして、威を振ひけれども、政宗も、義光も、頭を差出す事なかりける。されども、長谷堂の城、要害甚だ堅固にして、山高く谷廻り、攻め上るに自由ならず。城下に淵川の流ありて、峯峙ちければ、進み難し。上杉勢、剛強にして殊に大軍なりけれども、攻落し難くして、徒に日をぞ送りける。
上の山の城口合戦附上杉方穂村造酒允討死の事
景勝は、会津にありて、最上に心許なしとて、中山式部を大将にて、四千余の軍兵を、重ねて最上へぞ遣しける。中山、四千の士卒を引率して、上の山筋へ懸り、攻入りける。上の山の城には、最上方里見越後守・同民部楯籠りける。直江兼続は、景勝より加勢として、中山式部攻め来る由を聞きければ、兼続よりも、穂村〈木村と上杉家の侍帳にあり〉造酒允・篠野井弥七郎、三百余兵を遣して、中山に手を合せ、上の城へ働かせけり。其勢〔〈山脱カ〉〕既に中の山口へ打出でける。中の山と上の山の間は、小篠交り茂み深き谷あつて、甚だ切所なり。爰を川口と名づけたり。上の山の城主里見民部は、草刈志摩守七百余人を、繁みにぞ伏せたりける。上杉勢、之をば曽て知らざりけり。中山式部・穂村造酒允・篠野井弥七郎軍兵を率し、乱妨・刈田を致しけるに、上杉家の軍法にて、法令甚だ厳密にして、毛頭濫なる事なし。穂村・篠野井兵を発して焼働き、刈田を致す則んば、中村式部、備を真丸に立て、唯今敵に向ふ如くに致し、又中山刈田焼働き致す則ば、穂村・篠野井、丈夫に備を立固め、少しも濫なる事なし。互に警固をなして、【 NDLJP:218】急を待ち、三里四方、前〔刈カ〕田働放火をなし、皆二隊一手になりて、上の山城へぞ攻め懸りける。直江も、重ねて三千計り、加勢を差越しければ、中山、穂村に追ひすがうてぞ進みける。里見越後・同民部も、城より出でて待懸けたり。最上義光も、坂上紀伊守に三千余兵を差添へ、上の山の城へ分ちありしかば、里見、此勢を合せて討つて出でたりける。上杉方穂村造酒允、先手にて取懸りたり。造酒允、元より剛の兵なりければ、軍兵を下知し、其身、真先に進み出で、弓鉄炮にて打合せける。午の刻より未の刻迄、互に雌雄を争ひけるに、未の刻に至つて、敵の陣、殊の外騒がしく見えければ、頓て合戦始まるべしとて、中山式部・篠野井弥七郎、高見へ押出しける処に、最上方俄に紅の吹貫を差上げたり。是は如何にと見る処に、相図にてありけるが、川口といふ谷際より、伏兵五箇所に立起り、尾崎より峯筋に取上げ、鉄炮にて打立て懸け入りける。爰にて上杉方推野弥七郎討死せり。直江が軍兵、未明よりの遠駈働にて草臥れければ、過半裏崩れ、岸・がけより墜つる者数を知らず、皆我れ先にと崩れ行く。最上方、勝に乗りて追ひ懸けたり。日既に暮れかゝりしかば、直江が軍兵ども、返合せて踏怺へ、備を立つる兵共、長柄を立て持鑓をば伏せつゝ、皆座備にて、急度返して答へける。其陣の勢は、例へば大山が崩れ懸るとも、乱るべしとは見えざりける。最上勢も、追止り、備を立てゝ対陣せり。上杉の兵高浜弾正は、鉄炮の手垂なれば、頻に鉄炮を打懸くるに、仇矢はなし。時に城の大将里見越後守、耳坐紺の鎧に、月毛の馬に乗り、先陣に進み下知しけるを、高浜弾正見て、大将と心得、鉄炮にて打ちたるに、目あて下り、里見が馬を打倒しければ、弓校にすがり下り立ちたり。歩者四人走り寄り、松の二三本ありける蔭へ、里見を引入れ、小楯に取つて答へけり。之に依つて、最上方の陣、色めき渡り騒ぎ立ち、上の山の城より、頻に使を差越し、人数を引取り候へと申来る。上杉方には、之を推量し、直江が勢も、中山式部が勢も、其引足を突崩さんと、待懸けければ、最上勢も人数を引取る事叶はず、進退爰に谷まりける処に、最上方坂弥兵衛〈紀州里見勘四朗従弟〉朱具足に、黄練の四半を差し、鹿毛ぶちの馬に乗り、唯一騎にて、敵味方の際へ乗込み、最上勢をたゝき、上足をも乱さず、二町計りぞ引取りける。上杉の先手穂村造酒允、麾を振つて士卒を励し、追討たんと下知しけれども、上杉勢、人馬共に疲れ果て、追討つ事も叶はず、立起きたる計りなり。造酒允、大に怒りて、我れ進んで、彼の敵を取らんと、馬を馳せて追駈けたり。最上方後殿の兵者坂弥兵衛轡を引返【 NDLJP:219】し、造酒允に渡り合ひ、互に鑓くみ、二つたゝき合ふとぞ見えし。弥兵衛が鑓、造酒允が胸板のはづれに当り、馬より下にどうと落ちけるを、弥兵衛、馬より飛下り、無手と組みついて、造酒允が首を取つて差上げたり。最上諸軍、一同に勝鬨を揚げて悦びける。其声、山に響きて夥し。穂村一備、色めき立つて崩れけるを、里見越後守・同民部丞等、得たりかしこしと、抜きつれて懸りければ、穂村造酒允が軍兵共、主を討たせ、立足もなくなりにけるを、里見が兵共、追ひかけて斬り伏せ突伏せて、討取りければ、穂村が勢、或は岸より落ちて死するもあり。引返して討死するもあり。手負・死人数を知らず。篠野井弥七郎は、相役の穂村を討たせ、無念に思ひければ、馬を早めて乗付けしに、矢一筋左の肩先に立ちたりける。弥七郎、其矢を抜き捨て、二尺八寸の備前元重の刀を、真甲に差しかざし、上杉景勝が侍篠野井弥七郎と名乗つて、手負猪の如く、歯がみをして、真黒に懸りけるを見て、里見が勢、追止まりて進み得ず。中山式部も、人数を三段に立て備へしが、最上勢の追ひ来るを望み見て、ひたひたと鑓を作き、鬨の声を揚げて懸りける。里見越後守、此勢を見て、人数を引纏ひ退かんとせし処を、穂村が軍兵二百余、主の仇を報ぜんと、馬の鼻を並べ、鑓先を揃へて喚いてこそは懸りけれ。最上の諸軍しどろになりて、過半裏崩れして、見えし処を、穂村が兵共、鑓を入れければ、篠野井弥七郎、麾を取つて三百余人、横鑓を入れ立てければ、最上方、ぱつと崩れ、上の山の城をさして、人なだれをついてぞ、逃げたりける。穂村、篠野井が軍兵共、遁ぐるを追うて、透間もなく懸りけるに、城戸口に支へられ、入る事を得ず。穂村、篠野井が兵共、急に攻め付け、附入にせよと、呼ばはりけるに、義光よりの加勢、中山駿河守、眼を瞋らし、士卒を下知して、門を打ちたりければ、逃入り懸かる軍兵門外に立出だされ、途に迷ひ塀を越え、柵を登り逃入りけるを、穂村が兵と、篠野井が軍兵と、立ち狭んで討取りける。城中は漸く城を持怺へたるを勝にして、鉄炮を放ち防ぎけり。今日の合戦に、最上方屈強の侍百八十九騎、討たれければ、景勝方にも、二百三十余騎討死しける。骸は山坂に充満し、流るる血は、叢を染めなして、紅葉の色をましたりける。最上方諸大将、皆称歎して申しけるは、謙信・景勝、兵を用ふる事、神の如し。陣中法度正しく治まり、士卒剛強にして、戦を能くする事、年来聞き及びしが、此度、軍を取り結びて見るに、兼々聞き及びしにも勝りたり。古来より剛強なる弓箭の家、上杉に優るはあるまじと、諸人舌を振つて恐れけり。去る十三日【 NDLJP:220】より十七日に至つて、都て五日の間に、日々に合戦して、互に勝負相替る。然れども、景勝には、物頭多く討死し、其上、政宗、大軍にて義光を助け、近々と陣を張りければ、直江も、山形・長谷堂を攻め平ぐる事叶はず。されども、日々に人数を出し、最上領内を、縦横に働き、村里を攻め破り、小城・小館を攻取り、国中に充満ちて、合戦止む時なし。直江が人数の向ふ所、其鑓先に当る者なし。十八日より廿四日迄七日の間に、最上の寨・小館七箇所迄攻め落し。首数三千余討取りける。況んや此度拵へたる寨共は、一つも残らず、直江に攻め落され、今は、長谷堂・谷・寒河江・上の山・山形の城五つ計りぞ残りける。義光も、昼夜心を苦めて、防戦の行をいたしける。
上泉主水討死の事
九月廿四日の朝、直江兼続は、諸大将に向つて、長谷堂の城下に、少しの湖あり。四五町にも及ばず。我れ之を推量するに、谷口を堰ぎとめて、澗水を湛へたると覚えたり。先づ斥候を遣し、其様子を見するべしとて、二隊遣しけり。一手は、城下の在々所々を放火し、一手は、件の湖を窺はせけり。然る慶に、長谷堂の城より、ひた甲八百余、上簀戸を開き、城外へ打つて出で、彼の湖を渉りて懸り来る。直江が軍兵もひた〳〵と鑓を伏せて、あひて相懸りに進む。城方も鑓衾を作りて待ち懸け、既に鑓始めんとぞ見えたりける。直江、遥に之を見て、大きに怒り、使を遣して、斥候にこそは遣したれ。何とて軍法を破り、戦を取り結ぶぞ。早早引取るべき旨、追々に申遣しけれども、敵味方互に迫り寄つて、鑓二長計りに立ち堪へ、互に退く事叶はず。使も帰らず、両方の矢・鉄炮は、雨の如し。弥〻先手に集りて、先勢になりければ、互に取□ありて、引取る事を得ず。既に鑓合すべきと見えたりけり。時に、上泉主水、組下二十騎計り連れて、直江が旗本へ来る。山城守、主水を来り迎へて、貴殿、幸の所へ来り給ふ者かな。今程、若者どもを遣し、湖水を物見させ候処に、城中より出で喰留め申し候間、貴殿御越し候て、我が人数を連れて、御帰り給はり候へとありければ、上泉、仔細にや及び申すべきとて、手鑓追取り、馬を早めて馳せ行きけり。其組下大高六右衛門、馬を横に立て、主水に異見しけるは、御身は大将にて、軽々しく無用にて候。我等罷向つて、先手を引取り申すべしとて、馬を乗出しければ、主水も続いて乗行きけり。其組下の浪人共、如何したりけ【 NDLJP:221】ん、馬を控へて進まざりけり。宇佐美民部、馬を乗り寄せて、上泉が組の侍に向ひて、各〻は流石に勇士の名を得られし方々にて、大将上泉を見つぎ給はずば、後難あるべしと、申しけれども、高浜弾正を始めて進まざりければ、宇佐美民部・其子藤三郎・蓼沼日向守・石坂与五郎等、二十騎計ら駈向ひ、上泉主水・大高六右衛門は、既に湖ばたへ乗付け様に、取組みたる上にては、物放れなり難き者ぞ。先づ一合戦せよとて、主水、馬より飛び下りて、鑓を取つて懸りければ、両方の兵共、皆立起りて鑓を合す。主水は、鑓を繰出し敵を追ひ払ふ。其隙に人数を引取らんとす。城中より富南相模守・氏家右近等三百余、二の木戸より討ち出で、先手に加はり、直江が勢を喰留めける。政宗が加勢伊達上野介・石川弥兵衛七百余、横合に懸けて攻め戦ふ。直江が先手、敵を二方に請け戦ひけるが、上泉主水は、真先にありて合戦を始め、互に命を軽んじて挑み戦ふ。鉄炮雷の如く、一足も引くなと恥しめて、火花を散らし攻め戦ふ。景勝の兵共、討死数百人に及びしかば、伊達・石川、眼を瞋らし士卒を励まし戦ふ。上泉・宇佐美・大高・蓼沼・石坂等、叫び呼ばはりて、押立て〳〵攻め懸り、政宗の軍兵三十余騎、討取りしかば、伊達上野・石川弥兵衛も、半町計り引退く。されども、石川弥兵衛、麾を振り取つて返し、散々に戦ひ、上杉方には、前田慶次郎・股沼大学・宇佐美民部・其子藤三郎・蓼沼日向守等、各〻心を一つにして、力を合せ躍り懸り、先登を争ひ、合戦、時を移しける。上泉主水、先陣に進み出で下知をなす。其志、討死せんと申すに寄り、弓矢鉄炮の音・鬨の声・矢叫の音、山を動し谷を響かす。直江兼続弥〻怒つて、軍奉行杉原常陸介親憲を使にして、上泉へ申しけるは、日暮れて、合戦なり難く候。早く引取らるべしとありしかば、上泉は、心得候。人数を控へあげ召連れ、只今、夫へ参るべしとて、杉原をば戻し、其跡にて唯一騎、敵陣へ駈け入り、猛威を振ひ斬つて廻り、十余人斬り伏せ、近づく漆山九郎兵衛と引組んで、馬より落ち、上になり下になり、遥の谷底へ落ちにけり。落著きざまに、主水、妻手差を抜き、漆山を一刀突いて、二くり三くり繰りければ、漆山はのつけにかへし、又下の谷へ落ちにけり。主水も、精力尽き息きれ、絶え入りける処へ、最上方金原嘉兵衛といふ十八歳の若武者落合ひて、上泉が首を取りたりける。甲の真甲に、上泉主水佐金刺通治と金の象眼あり。生年三十四、惜まぬ者はなかりける。直江が軍勢、是より乱れ立ち、引色に見えけるを、大高六右衛門重綱〈佐州大高六石衛門伯父〉紅のふけりの指物にて乗出し、上泉主水が組、大高六右衛門なり。組頭の先【 NDLJP:222】途を見届け候と呼ばはり懸け、大勢の中へ切つて入り、終に討死したりける。直江が先手、なじかは怺ふべき。一度にどつと崩れけり。義光・政宗の軍兵共、勝に乗りて追ひ駈けしかば、直江が兵共、手負・死人相重り、屍は道路に充ち〳〵たり。上杉勢股江大学・宇佐美父子・石坂与五郎・蓮池新七・赤輪土佐守・蓼沼日向守等、馬より下り立つて、立堪へ防ぎ戦ひて、除いて行く。敵、引付けば取つて返し突き卻け、七八度に及んで除き行く処に、上杉方に、二番組の大将五百川縫殿助、四千余にて小高き所に備を立て、其勢、甚だ盛なりしかば、最上・伊達の軍兵共、是に恐れて、隠石といふ所より追出でず。蓼沼・宇佐美・若林・織部・前田慶次郎等、馬に打乗り、轡を並べて懸りけるを見て、最上勢は、長谷堂へ引入り、伊達勢は文田へぞ引取りける。上杉方石坂・前田・宇佐美父子・股江・赤輪等、鎧甲に立つ処の矢、七つ八つづつ折り懸けたり。鑓・太刀の刃は、簓の如く、乗りたる馬は、皆朱になり、各〻討取る首、四方手に付けて、本陣指して引入りけるが、上泉が本陣の前を過ぐるとて、宇佐美・股江大音揚げて、各〻は心強くも、大将主水をば、捨て殺され候者かな。情なく覚え候と訇りて通りける。上泉組は、一言の返答する者もなかりける。今日の合戦、最上方屈強の兵、二百九十七人討たれけり。政宗が兵も、百十余人討たれけり。景勝方にも、屈強の侍四百廿九人討死せり。手負は数を知らざりけり。其夜、杉原常陸介親憲は、ひた甲二百計りにて、長谷堂の城下に到りしが、先づ伏兵あらんと推量して、備を丈夫に立て、足軽を遣し、谷際をふませけるに、案の如く、七十余人伏せたりけるを見出し、大方討取り、直に湖の堤へ押登りければ、堤の警固に、彼是廿人罷在りしを、残らず討取り、扨湖の堤を切りければ、水滝鳴りて流れ出づる事、唯雷の声の如し。二里の外へ聞えけるとかや。一旦に堰ぎたゝへたる湖なれば、一夜の内に干落ちて、元の谷とぞなりにける。杉原常陸分は、己が陣へ帰り、組頭・物奉行を呼んで、今日上泉主水、軽々しく働きして討死致す事、大将の器量に叶はず。縦ひ城州下知をせらるゝとも、何ぞ一騎にして、敵地へ乗込まんや。侍は終に国家の為めに死すべし。唯徒に死する事、斯くの如くなれば益なし。唯死する所にて、明白に死するを第一とせり。扨今日、残り多く候ひしは、直江、物見を討たんと、城中より討つて出でたる時、直江、総軍を以て四方より攻め入らば、今日の中に、長谷堂の城を乗取らん事、手の内なりしに、山城守、心弱くて大利を得ざりし事、残念至極なりと、常陸は、後悔少からずぞ見えたりける。此時、杉原は、若【 NDLJP:223】年より輝虎に奉公し、其性深沈寛厚にして、勇才人に勝れて武略あり。士卒の思ひつく事、又其類少なし。能き大将とぞ申しける。
会津より飛脚を遣し関ヶ原敗軍の由を直江が陣に告ぐる事
昨日の合戦に、上泉主水を討たせ、直江、無念に思ひければ、新手の兵三千余を進ませ、九月廿五日の辰の刻に、長谷堂の城の外構へ、取り懸けたり。昨日の合戦に、城中にも手負・死人多かりし上に、殊の外、戦ひ労れしかば、三の丸の門を打つて出づる者なし。唯鉄炮を打出し、城を取られじと防ぎけり。直江が軍兵共、急に総構へ攻め入りて、矢倉に火を懸けたり。兼ねて長谷堂の城、難儀に及ばゝ、狼烟を揚ぐべき間、谷の城・寒河江の城より、助け来るべき旨、約束したりけるが、其放火の烟を、件の相図かと心得、谷・寒河江の両城より、新手の兵三千余、長谷堂の城へ懸け著けたり。直江が先手、是に驚いて、少し引退かんとせし処を、城中より志村・小林・日野・鮭延の兵共、三方の木戸を開いて、討つて出でたりける。杉原常陸介親憲八百余騎、横合に突き懸り、最上陣へ鑓を入れ、追つつ返しつ、火花を散らし、三度迄戦ひける故に、最上勢突立てられ、城を指して引き退く。杉原常陸、手鑓引提げ、馬を踏放し、真先に進みければ、溝口左馬助・五百川縫殿助、逞兵を引勝つて二千余、鉄炮を打立て、わき道を廻つて、谷・寒河江の敵の跡を取切つて、弓・鉄炮を揃へ、散々に射る。政宗が陣より、之を見て、与倉紀伊守・保士原江南・大条薩摩守・新館肥前守三千余にて、谷・寒河江の最上勢を助けんとて、馬煙を立て馳来る。直江山城守、旗本七千余にて押出し、高き処に備を立て、種子島大筒を集めて、打立てければ、政宗勢は引退く。上杉方尻高左京・三股九兵衛・平林内蔵助・石口主馬・寺島六蔵等百騎計り、谷・寒河江の陣へ切つて入りしかば、一たまりもなく、崩れ立ち、山へ懸りて、谷境へ引入りけり。上杉勢追駈け、能き首七十余討止めける。今日より同廿八日迄、四日の間に、直江、日々に兵を出して、義光・政宗と合戦す。毎日の軍、上杉方、毎度打勝ちしかば、勢を振はずといふ事なし。既に廿八日には、東根の城を乗取らんと、直江支度せし処に、其日の午の刻に、陣中に雑説ありけるは、此月十五日、美濃の国関ヶ原表の合戦は、東国打勝ち給ふ故、治部を始め、西国方の諸勢悉く敗軍し、三成・小西生捕られたる由申出せり。【 NDLJP:224】誰いふともなかりしかば、如何成事をかいふやらんと、分明ならざる処に、申の刻に、会津景勝より飛脚来り、関ヶ原口上方衆打負け、御所、近々会津へ取懸けらるゝの旨、其告あり。早早其表を引払ひ、会津へ引取るべき旨、註進ありければ、直江が諸軍、之を聞いて、皆肝魂を失ひ、色を変じ力を落さずといふ者なし。最上方・政宗方には、天晴潤色やと、悦び勇まぬ者はなかりけり。
直江山城守并上杉の諸軍勢長谷堂口を引払ふ事附洲川合戦の事
さる程に、関ヶ原合戦、味方討負くるに付き、早々最上口を引払ひ、会津へ帰陣仕るべき旨、景勝より飛脚到来しければ、此表、陣払すべきにぞ極まりける。直江・杉原は、諸大将を召集め評定しけるは、今度松本木工之助・穂村造酒允・上泉主水以下頭分、多く討死すると雖も、毎日の合戦、味方勝利を得ずといふ事なし。先日、幡屋の城を攻め落せしより以来、攻むれば、必ず取り、戦へば必ず勝つ。近日、長谷堂の城を攻め落し、山形・東根の両城を乗取らんと思ふ処に、関ヶ原口に合戦、味方敗軍の註進あり。然る上は、是非を論ずるに及ばず。但し、此儘引取る則ば、敵方にて必ずいはんは、景勝が侍共、聞逃を致したりと、是末代迄の恥辱なり。明日諸軍を押出し、長谷堂の城を力攻めにして、結城を城中に示し、武威を輝して、帰陣すべし。各〻も一際、精を出し給へと申しければ、何れも心得候とぞ同じける。されば引口の道を作り、総軍を易々と引取るべしとて、友町大膳・竹田金八・善場入道に、人夫二千引添へて遣しけるを、城中より、寄手引取ると心得、二千計りにて討つて出でければ、上杉方友町・竹田等も、返し合するを、直江方より敵不意に来り候間、早々引取るべしと、使を遣しける。友町申し候は、見懸け候敵を捨てゝは、除き難く候間、爰にて討死仕るべしと、返事して立ち堪へければ、直江も、月岡八右衛門に六百余差添へ、加勢に助け来るを見て、長谷堂の城の勢も、叶はじとや思ひけん。城へ引取りけり。直江は、劒持市兵衛・森山舎人を使として、長谷堂の城中へ申遣しけるは、今度大乱の根本は、秀吉公薨去なされ、秀頼公御幼稚にて、天下治まり兼ね申す故、忠義の諸大名、太閤様御厚恩報謝の為め、此度の大義を思ひ立ち候へども、天運時至らざるか。忠臣義士、多く頭を戦場におとし。謀首・健将、擒となる事、是前世の宿報【 NDLJP:225】なり。之により、我々も明日、此表を陣払ひ致し、会津へ帰陣仕り候。御暇乞の為め、一戦仕り度候へども、今日は日も暮れ候間、明朝一戦仕るべき旨、申遣しぬ。最上方も、上杉衆明日御帰陣の由、仰越さるゝ旨、其意を得申し候。明朝餞別に一鑓仕るべく候と、返事したりけり。明くれば、九月廿九日の早天に、直江兼続、四万の勢を二手に分け、二万は菅沢山に残し、政宗を圧へ、又二万を引率し、急に長谷堂の城へ取懸け、総構を焼き立てける時、上杉方山口軍兵衛、黒段の母衣を掛け、一番乗と名乗つて、塀へ上り飛び入りければ、友町大膳・篠塚伊賀守・大股彦兵衝十人計り続いて、込み入りける。直江兼続は、大旌の下に、馬を立て、只平攻に攻めよとなれば、上杉の軍兵共、我れ先にと乱れ入りける。之に依つて城中志村・鮭延以下、総構を持ち怺へず、二三の丸へ引籠り、石弓・大筒を放し懸け、爰を最期と防ぎけり。景勝勢は、外構を踏破り、甲附の首百六十余討取つて、風上に火を懸けたり。折節、山風烈しく、外構は申すに及ばず、侍の屋形々々・町屋に至る迄、大方焼き払ひ、当るを幸に斬捨て、勝鬨を揚げて、又菅沢山へ引取りけり。長谷堂城中にも、城内を払つて出で、追討たんとの支度なり。最上義光・其子家親も、政宗と一所になり、上杉勢の陣口を討留めんとぞ謀りける。殊更義光は、先手へ加り進まれけり。さる程に、直江四万余にて、菅沢山を下つて、
〈出村宇内跡に残る〉数百箇所の小屋に火を懸け、諸手段々に次第を守りて、洲川を右になし、引いて行く。義光・政宗、三万余にて追駈けたりしが、洲川の北半里計りにて
〈指倉八幡林辺、〉直江が引口に追著きけり。最上方谷地・森伯耆・川能讚岐・小国大膳等、真先に進みける。直江は事ともせず南へ
指して引取りければ、義光大きに怒り、是敵人、我を蔑如にする処なり。追討にして、手並みを見せよと、鬨を作りて追ひ駈けたり。杉原常陸介親憲・溝口左馬助勝路、種子島八百挺を立てゝ、後殿となり、段々に立引にしたりける。
込替々々打立つて、敵ひためば引取りけり。直江山城守兼続は、革包鎧に、馬蘭の甲を著し、山鳥の羽の縨をかけ、黒栗毛馬の尾髪、飽く迄ちゞれたるに、十文字の鑓平首に引添へ、馬に白泡はませ、後陣に引き下知しけるが、最上勢も、杉原・溝口が種子島に打立てられ、度々しらむを見て、精兵八千にて取つて返し、最上・伊達が陣へ切り懸り、二揉・三揉揉みけるが、終に打勝つて、最上勢も伊達勢も、五町余追返し、首二百余討取つて、又引返し除き行きける。然れども、後陣多く馳せ加はりしかば、最上・伊達が軍兵共、亦進み駈けてぞ来りける。上杉方井狩玄蕃允重満と、最上方湯浅甚内と
【 NDLJP:226】戦ひて、宮内を討取る。最上方には、大門図書真先懸け高名するを見て、常に先を争ひける川副左門、無念に思ひ、乗込みて討死す。直江は、返合せて、戦ひては引退き、追返しては引
除きける処に、最上の侍大将天堂弥七郎、二千余にて透間もなく、直江を附け来りけるを、上杉の侍大将二本松右京進周次
〈此時十八歳〉手勢百騎計りにて返し合せ、火花を散らして戦ひけるが、遂に打勝つて、天堂弥七郎を討取り、首を討ち留めたり。最上義光、之を怒つて、旗本を以て突処け、二本松が手切崩し、逃ぐるを追うて進まれける。二本松が敗軍にて、直江が陣、色めきけるを見て、義光・政宗、諸軍を一日に進めて、攻め立てたり。上杉方備の足乱れ立ち、春日右衛門・五百川縫殿助が備、どつと崩れけるが、縫殿助、手廻三百計りにて取つて返し、堤の上に備へつゝ、敗軍を集めけり。縫殿助、手自から旗幟を取つて、之を堤の下に立てゝ、一寸も引くべからずと訇りて、士卒を励し下知をなす。最上・伊達の軍兵共、此堤を取らんと、攻め懸りけるを、五百川、自ら之を争ひ、防ぎ戦ふ事甚し。最上勢も、少々引退きける処へ、上杉方
七寸五分監物・友町大膳・神保隠岐守
〈後保科肥後守正之に本公す〉・夏目軍八等百騎計り、五百川を助け来り、弓・鉄炮にて、散々に射立て打立てしければ、最上・伊達の両勢も、手負・死人多かりける。両方互に人数を加へ、打合ひける程に、今朝辰の刻より、未の刻に至る迄、互に討つつ討たれつして、物離れする事を得ず、合戦時をぞ移しける。直江兼続、大いに怒り、早く人数を引取れと、度々申遣しけれ共、両軍喰留めて、別るゝ事叶ひ難し。色々下知しけれども、直江が後殿の軍兵共、此方
除口を、敵より討たんと仕り候気色、さながら顕れ見え候間、物離れなり難く、心ならず睨合ひ候といふ。直江怒に堪へ難くして、我れ大将となる上は、敗軍に及ばゝ、死を以て国思を報ゆべし。しかも我れ、国の大臣として、苟くも人手に懸るべからず。腹を切らんというてけるを、前田慶次郎利太、直江を礑と白眼み、御身の宣ふ処、一つも宜しからず。凡そ士卒は、大将一人を頼み候処に、若し大将、心弱くして、方寸の心違ひ候ては、士卒は、何となり申すべく候ぞや。大将は、遠きを見て近きを顧みず、大を料つて小に屈せざるを第一とす。若し小勝に誇り、小敗に気を失はゞ、自身に負を招くなり。何の功をか立て申すべき。此上は、爰をば我に任せ給へ。後手へ馳せ加り、下知仕り引揚ぐべしとて、唯一騎取つて返し、芋川
〈或は五百川〉が後殿の手へ馳加はる。宇佐美民部も、慶次郎に続いて返し来る軍奉行の杉原常陸介、始より後殿の備にありしが、慶次郎が来るを見て、大音揚げ、敵待
【 NDLJP:227】懸け候に、下立つてかけられ候へといふ。慶次郎、馬より飛んで下り、手鑓取り進みける。水野藤兵衛・韮塚理右衛門・藤田森右衛門・宇佐美弥五左衛門
〈後に越前少将殿に奉公す〉四人、ばら
〳〵と下り立ち、鑓追取りて進みける。政宗・義光下知して、差詰め引詰め、弓・鉄炮を放しかゝると雖も、事ともせず、慶次郎・宇佐美・韮塚・藤田・水野五人、一度に鑓を合せ、散々に戦ひて、鑓下に七八人突き伏せしかば、さしもの最上勢、突き立てられ、二町余こそ引取りけれ。宇佐美民部計りは、馬にて右の堤を乗り込みけるに、金子次郎右衛門・沼掃部乗付け、三騎連れて政宗手へ乗込み、弓手・馬手に相請け、四五騎斬り落しける処へ、杉原常陸介、種子島二百挺にて、高見に折敷き、敵の先手へは構はず、義光・政宗の旗本を目当に、雨の降る如くぞ打立てける。最上・伊達の本陣、手負・死人見る内に重りつゝ、過半裏崩れして見えしかば、すはや、此間に引上げよとて、上杉の諸軍、之をも乱さずして、五町計りぞ引取りける。然れども、最上勢は、前田慶次郎・韮塚理右衛門・水野藤兵衛・宇佐美弥五左衛門
五人〔脱アラン〕の鑓に、突き立てられしにや恐れけん。最早突かざりけり。此口の手柄、大将には杉原常陸介・溝口左馬助、又侍には、慶次郎・韮塚等五人にぞ極りたりと、諸人も之を感じける。斯くて、上杉の諸軍、洲川に沿うて、東を指して十町余引きける処に、政宗、精兵八千を左右に随へ、真黒になつてぞ進み来りける。上杉の小荷駄・雑人共、直江が前を押しけるが、之を顧みて、色めき渡り崩れんとせしを見て、政宗、歩者をば跡にさげ、馬武者計りにて、急に追ひ詰め来りければ、上杉の軍、小荷駄に押立てられ崩れける。政宗、勝に乗りて、追駈け来りけるとき、溝口左馬助、天つきの指物にて、取つて返し、小川の橋詰に下り立つて、目を瞋らかし、鑓を伏せて、我は是れ、景勝が侍に、溝口左馬助といふ者なり。一鑓参らんといふ儘に、政宗が先駈の兵共と鑓を合せ、三人突倒しけるに、二人は川へ倒れ入り、一人は橋の上にて突伏せ、鑓下に首を討ち取つて差上げたり。溝口が勢、
傍を払つて見えける故、政宗の兵も、二十間計り引退いて怺へたり。上杉方鹿沼右衛門、神山助右衛門と山陰へ、馬を乗上げ、旌を物深く立てしかば、最上方も是に白みて追止まる処に、石坂与五郎一人駈付け、溝口に立並びける。宇佐美弥五左衛門・韮塚理右衛門・前田慶次郎も駈著け、小川を隔てゝ怺へけり。宇佐美藤三郎も、五百川が手にて高名して、薄手一箇所負ひしが、首を提げ、父民部を尋ねて来りしを、溝口見て、高名は何れも見たり。敵多勢なり。首を捨て此処を固めよと申しければ、首をば下人に渡し、溝口と一
【 NDLJP:228】所に橋詰に怺へける。最上衆も、政宗勢も、上杉の兵共の勇力剛勢に摧かれ、是よりは追ひさり、直江兼続は、遥々と之を顧みて、手自から鑓追取り、六千余にて山道を伝ひ、伊達・最上の両陣の左脇を、後へ廻るとぞ見えし。最上・伊達の勢、色めくを見て、鬨を揚げてぞ懸りける。義光・政宗も、数十度の戦に草臥れしかば、直江に切立てられ、洲川へ追浸され、討たるる者数を知らず。我も
〳〵と、長谷堂指して逃げたりける。上杉勢も、今は是迄なりとて、悉く引退く。既に日も、西山に傾きければ、溝口左馬助、直江に向つて、夜に入りて人数を引取り候はゞ、大敗軍になるべく候。今夜は、堅固の地に陣を取り、明朝、引取り給へと申しければ、直江も、尤もと同じ、一里計りも引取つて、小高き所に野山あり。半道計り行く先は大山なり。爰こそよき所なれとて、陣を取り、夜の明くるをぞ待ちたりける。溝口左馬助事、鉄炮三つ中り、鑓疵八箇所ありける故、其夜、野陣にて死したりける。惜しき事なりと、諸人涙を流しけり。今日卯の刻より、申の刻に至る迄、十八度の戦に、上杉方十一度迄切勝ちければ、只鬼神とぞ沙汰しける。今夜の陣取、直江下知にて、山より半道前に陣取り、山へかゝらざる事を、将軍様にも、後々迄御称美なされけるとかや。今日伊達・最上の兵共の首千廿三、上杉方へ討取りける。景勝方も、千人の上討たれけり。直江は、其夜は野陣を取り、明くれば十月朔日の卯の刻に、野陣より見渡せば、最上・政宗の人数、半道計りに控へたり。直江は諸大将と備を立て、最上・伊達が陣へ向ひ、謙信家の軍法、かゝり引といふ術にて、引取りしかば、義光・政宗も、直江にはかられて、追はざりければ、上杉の諸軍、恙なく翌日の晩には、米沢へぞ引取りける。直江が組下下次右衛門は、三百余にて庄内を廻り、山形の西境村に陣取り、直江とは陣を隔てゝ居たりけり。直江勢も、帰陣せるを知らずして、陣取りけるが、上杉勢の引取りたるを聞き、下勘七・同美作守・原八左衛門・井上牛之助以下、死狂に合戦せんと、支度しけるを、最上義光より、さま
〴〵和談を入れられければ、心ならず、最上に降参してぞ出でにける。上杉家には、いひ甲斐なしとぞ嘲りける。酒田の城には、上杉より志田修理・川村兵蔵を籠め置きけるを、最上より義光の三男清水大蔵と、楯岡甲斐守を大将にて、五千余にて、月山へ懸り押寄せ、酒田の城を取囲み攻め戦ふ。城中には、志田・川村防ぎ戦ひけれども、小勢故叶はずして、城を開き渡し、会津へぞ引取りける。
【 NDLJP:229】
伊達政宗福島の城を攻むる事
上杉勢、最上より引取りしかば、政宗は、最上より帰足に、上杉領福島の城を取らんと志し、片倉小十郎・茂庭兵蔵に向つて、此度、上杉勢、数を尽して、最上へ押向ひ、過半手負ひ、又は討死すれば、福島の城・簗川の城には、さのみ人数は、あるまじければ、此透間に攻め取らんと相談し、十月六日の晩方、福島の城へ志し、瀬の上よりぞ寄せたりける。此城には、本庄越前守繁長在城せり。此繁長は、謙信一門にて、越後本庄の城主たり。永禄十一年に、謙信の気に違ひ、本庄の城へ楯籠る。謙信も、年々出馬しけれども、天正元年迄、六箇年の間、輝虎と楯つき、遂に攻め落されざる剛の兵なり。天正元年の春降参し、上杉家にて股肱の大将たり。さる頃、繁長一身にて、最上義光と取合ひ、遂に義光に切勝ち、庄内十万石切取りたる程の者なれば、奥北国にて、其名高し。景勝、会津へ移り候へば、福島の城に差置かれたり。之に依り、政宗をも、物の数とも思はざりければ、嫡子出羽守勝長・岡野庄内・栗生美濃に、二千余を附け、切つて出でたりしかば、政宗、一怺もせず、城下を引取り、雀原に陣取り、日々に物見を出し、互に矢軍に日を送りける。十月八日の早天に、上杉方永井善左衛門・
〈後江戸御直参紀州海野兵左衛門伯母の壻〉小瀬美作守、物見に出でけるが、永井が廻りける方に、菖蒲生えあり。此前を乗り通りける時、政宗より差置きける伏兵六人起りて、永井を取巻き討たんとしける。永井、元より大力の剛の者なりければ、六人の内四人討ち取り、甲首を、鞍の塩手・緒留取付に附けてぞ帰りけるに、二人の伏兵逃げ帰り、上杉方には、鬼神が候とぞ恐れける。政宗は、本庄が勇猛、其手の兵共の物馴れたる体を見て、始めて恐るゝ色ありて、申しけるは、次第に雪深くなるべし。寒気の浅き内に引取るべしとて、勢を打入れけり。繁長は、嫡子出羽守を、福島の留守に置き、自ら七千余を率して、政宗の跡を慕ひ、小須五迄討つて出て、少々、焼働きして引き入りけり。政宗は、白石の城に、十日計り罷在りしが、思へば無念にやありけん。夜通しに、人数を出し、上杉領長井郡湯原へぞ攻め入りける。折節、上杉方甘糟備後も、岩井備中守三千余にて、長井郡を打廻りけるが、十月十五日の辰の刻に、湯原にて、政宗と出合頭に、はたと行逢ひたり。折節、霧深くして、一間二間の内も見えざりければ、甘糟、大に悦びて是天の与なり。政宗を討たんと、真先に進みける。政宗、運や強かりけん。物見の者馳せ帰り、【 NDLJP:230】上杉の大軍押来り候と、告げたりければ、政宗も馬を控へける処に、又物見馳せ帰り、景勝直の出馬にて候。紺地に日の丸の大四半、一里計りに見え候といふや否や、景勝出馬ならば、多勢なるべし。少し引取つて、要害に待てといふ程こそありけれ。引取らんとせし処へ、甘糟備後守、真先に喚いて駈け入りしかば、政宗が八十余押立てられ、渡ら瀬〈所の名なり〉さして引退く。甘糟備後守、勝に乗つて、追討に能き首二百余討取りける。然る内に、景勝も二万計りにて、境目打廻に出でられけるが、政宗、此表へ罷出でたりと聞き、討止めんと、馬を早めて、湯原へ著き給ひけれども、政宗、既に引入りければ、残多き事なりと、景勝、後悔し給ひけり。斯くて、十月も末になり、次第に陰寒〔寒気イ〕甚しく、雨雪降り続きければ、景勝も犀川・瀬の上迄廻り、会津へ引取りけり。
関ヶ原敗軍の前、八月廿二日、岐阜の城を攻めんとて、東国勢、雲霞の如く川岸にぞ押寄せたり。岐阜の城主織田秀信は、早朝より手勢千七百余引率して、川手村の閻魔堂に屯し、斥候を出して、下知をぞせられける。同国上有知の城主佐藤才次郎・木造左衛門・古々越前・飯沼十左衛門・斎藤斎宮に、三成が加勢河瀬左馬助等は、新加納村と大野の間に控へて、待懸けたり。時に、越前下知しけるは、東国の武士共は、元来馬上達者なれば、河岸より三町控へて、行馬を結ひ、出入の口を付けて、千人の足軽を、四百人勝つて、行馬の前へ備へ置き、内に大筒を仕懸け、六百人は河端に進んで、繰替に立つて、敵、河へ乗入らば、半分渡ると見し時に、込替へ〳〵打立てよ。敵、陸に乗り上らば、行馬の際に引取つて、さつと懸りて、河へ追込み討取るべしと、五十騎の二備を、河の上下番方の村の小蔭に伏せ置きて、差挟んで駈出すべし。敵、散らずとも、其儘に旗本へ集るべしといふ処に、東国の軍勢、河を渡し、既に半ば渡る時、待懸けたりし鉄炮、俄に時雨の降る如く、打立てければ、之に中りて、寄手弥〻上に重り、手負・死人は数を知らず、流るゝ血は、紅葉散り浮く龍田川に異ならず。然れ共東国武士の習、死を厭はぬ素姓にて、流るゝ骸を足溜にして、我も〳〵と進みけり。其中に、監物は近辺の黒田にあつて、常々、川の浅深を、能く知りたる験にや、木曽川の逆浪を、ちつとも恐るる気色もなく、渡れや者共とて、其馬を乗入れし形勢は、古の四郎高綱にも異ならず。是より池田・浅野・堀尾等、相続いて馬を馳込めば、秀信の兵卒、之を防がんと、打連る鉄炮をば、物の数とも思はゞこそ。一度にどつと向の岸に乗上れば、岐阜勢、如何なる術にや。一町程退い【 NDLJP:231】て、火花を散らし戦ひけり。時に、堀尾信濃守が兵士に、堤五郎兵衛、一柳が家臣大塚権太夫、真先に進んで、一番に鑓をぞ合せける。堤は岐阜方の前田半右衛門と、暫く戦ひしが、遂に前田に討たれけり。大塚は、武市善兵衛と渡り合ひ、火出づる程打合ひしが、武市突伏せられ、既に危く見ゆる処へ、武市忠左衛門駈著けて、救はんとせしかども、善兵衛が運命や極まりけん。大塚に首をば取られけり。扨岐阜方の侍大将飯沼勘平は、緋縅の鎧に、赤母衣を掛け、白葦毛の五寸余の馬に乗り、四角八方をにらみ廻りて、天晴、敵もがなと窺ふ処に、大塚権太夫、善兵衛が首を取つて、引退く処を見て、其首返せといふ儘に、馬を乗放し、鑓追取つて追懸けければ、飛行く夜叉神の荒れ渡るも、斯くやあらんと、血気の勇者にぞ見えにける。一柳、之を見て、あれ討たすなと下知すれば、五騎押並んで突き来る。岐阜方よりも、続けやとて、前田半右衛門・藤田権右衛門かけ塞がり相戦ひ、頓て、大塚を突伏せければ、勘平、押懸けて首をば取りたりける。秀信の旗本へ、持参せよとて、坪井七兵衛に渡し、馬に乗らんとせしかども、つけずまひしに乗得ざりし処に、あたりを見れば、小高き岡に、好き武者あり。馬・物具の美々しさ、武者振のけだかさ、大将と見えければ、一鑓といふ儘に、飯沼と名乗りかけて進みしが、東軍の一将池田備中守なり。少しも臆せずして、つゝと馬を歩ませ進む処に、池田の兵に、伊藤与兵衛といふ者、駈入つて押隔てけるを、輝政見て、其所を去れと怒られければ、与兵衛、是非なく立除けば、早や鑓を合せ、龍吟ずれば虎嘯く勢をなし、風雲一百八盤栄の分野にて、両方盛の若武者、殊に聞ゆる手利にて、暫く勝負はなかりしが、何とかしたりけん。勘平、突かれて倒るゝ処を、備中守、馬より飛んで下り、首を取らんとせしを、勘平、がばと起上り、むずと組んで歯嚙をして、剛力を出すと雖も、手負武者の悲しさは、備中守に組伏せられ、遂に首をぞ取られける。刀は伊藤与兵衛に、己、取れとて取らせけり。次で堀尾が郎等畑田民部・津田四郎左衛門等、思ふ程戦ひて、終に討死をぞしたりける。又岐阜方にも、名を得たる前田・藤田、諸共に轡を並べて切廻り、此処を支へ、彼処を防ぎしが、皆枕を並べ討死せり。爰に於て、百々越前は、木造を招寄せて、某が手勢二千余人、其内に手負一人生残りて、皆々討死したる体なり。御辺は、未だ深手も負はず、手勢も過半残り見ゆ。味方、迚も負軍になれば、敗軍せざる其先に、急ぎ岐阜へ立帰り、町口を固め給へ。此表の合戦は、命限に戦ひて、叶はずんば、跡よりして引取るべし。急ぎ候へとありければ、木造聞き【 NDLJP:232】て、其方の指図に任せて、唯今の難儀を見捨てゝ引返さば、虎口をはづしたる抔と、今の嘲、後の恥、思ひ当らずといひ放つを、百々、重ねていふ様は、迚も遁れぬ虎口なり。明日の合戦に、其理は立つべきぞ。なれば是非に引取り候へ。且は忠ともなるべきぞ。はや疾々と諫むれば、木造、げにもと得心して、手勢を集め引取れば、味方の軍兵、此内談は知らず、只敗軍と思へば、駒の足も、しどろになりて、騒ぎ色めきける気色を、敵方より見て、東国武者に、武藤掃部・津田新十郎・沢井左衛門・平井弥次右衛門・同兵右衛門・武藤清兵衛・吾孫子善十郎・生駒隼人・安井将監・吉田平内・八島吉十郎・稲熊市左衛門・森勘解由・林藤十郎・小坂助六・堀田小三郎等、皆粉骨の働して、名を万天に揚げ、誉を後代にぞ残しける。爰に、池田輝政は、河上を乗渡り、岐阜方の旗の手の揺ぐを見て、備を崩し横合に截つてぞ懸りける。一柳・浅野・有馬・山内、麾を取つて突懸れば、岐阜方の軍兵、爰を先途と防ぎしが、終には一度に敗軍す。其中に佐藤才次郎と聞えしは、信部の庄司が末流にて、名に負ふ勇士の時めきしも、一番に敗走す。流石に、百々・飯沼・津田は、少しも騒がず、後殿して引退くこそゆゝしけれ。時に、佐々弥三郎、加納表より川手村へ駈懸り、秀信に申す様、急ぎ御引取然るべしとて、御馬の口を引返せば、寄手の軍兵、勝に乗つて追駈けたり。津田藤右衛門、唯一騎、ちつとも騒がず踏止まる。同藤三郎・堀場茂兵衛返し合せて、競ひて来る敵兵を、突捨て〳〵引退く。道の左右は深田にて、心は弥〻猛に進めども、寄手も更に進み得ずして、すべき様あらざりける処に、堀尾軍兵に、野々口彦助〈十六歳〉堀場に礑と渡り合ひ、鑓を捨て戦ひしが、堀場が馬の平首に、野々口が太刀の切先当りつゝ、馬、頻に跳ねければ、堀場たまらず、深田の中へ、真逆様に落ちけるを、野野口、続いて馬より飛下り、刺透し頓て首を取りにけり。味方の軍兵、之を見て、野々口を討たすなと、声々に呼ばはれば、野々口は、相続く勢と共に、しづ〳〵と引取りけり。尚寄手の軍兵進む処に、上加納村の前にて、滝川平六・中島伝左衛門、其外、岐阜方の兵共、取つて返し、足軽を立直し、鉄炮入替へ〳〵打たすれば、寄手も、さては進み得ず。滝川、高名を致すと雖も、残党全からざれば、大勢に攻め立てられ、四方八面に落行きけり。日も漸く傾けば、寄手も、新田の橋より引返して、芋島・新加納辺に、陣取つて篝を焚き、夜討の用心厳しく、長の夜を明す。扨中納言秀信は、今日河越の合戦に、打負けたりしを無念に思ひ、夜に入つて組頭を召集め、余りといへば、今日の合戦、無下に敗軍せし事、無念類なしと雖も、時の不幸、【 NDLJP:233】是非もなし。明日の合戦は、一際頼入るの間、各〻城を枕として、討死をすべき由、組下の兵卒へ、聢と相触れられ候へとありければ、木造承り、畏入り候。今朝新加納へ向ひ候兵共、過半は討死仕り、又新参の輩は、直に落失せ候も数多にて、十騎組は三四騎になりければ、危き籠城にて御座候。さりながら、此城、東と南は、谷深く其狭間は深田にて、馬の蹄も立ち難し。左右の峯は峨々と聳え、松柏生茂りて陰闇く、北の方は、長良川切岸、尤も絶壁なれば、此三方は、常だにも人馬の通路もなり難し。まして六具を固めし身は、天狗ならば、いざ知らず。攻め入るべき地にあらず。西の方は、七曲・追手・搦手三筋の道嶮岨なり。其上、つまりつまり難所にて、身命を惜まず防ぎなば、唐の韓信・樊噲もたやすく攻入り難く、要害の籠城に候へば、皆々必死の働仕り、三日持固むる程ならば、御利運は掌の中に候と、手に取る様に、演説してぞ退きける。斯くて、東軍の寄手、其日起の渡は、福島正則・田中兵部大輔長正・同民部長顕・加藤左馬助嘉明・京極修理亮高知・藤堂佐渡守高虎・生駒讚岐守正俊・寺沢志摩守広尚・蜂須賀長門守至鎮・黒田甲斐守長政・井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝・同美濃守忠政等、萩原を渡り、西美濃に到り、所々より船筏を集めて、総軍勢是に乗り、起を渡り、近辺の在々所々を放火して在陣す。然る処に、北の方には、合戦最中なりとの註進ありけるを、当手の諸将聞きて、甚だ怒り歯嚙をすと雖も、更に益ぞなき。之に依つて、各〻福島の陣所に会合して、屢〻評議を費すと雖も、げにもと思ふ沙汰もなし。時に加藤左馬助嘉明、膝直し申さるゝは、各〻の御評議は、偏に岐阜を乗取らんと、一途になづみ給ふ故、衆議、更に決し難し。先づ子・丑の方へ出張して、尤も岐阜を窺ふべし。若し北の方の軍士共、先ずるに於ては、岐阜を其儘打捨て、大垣の城を攻めらるべきは、如何あらんとあれば、諸将、げにもと一同せられけり。
本庄出羽守宮代合戦の事
慶長五年も暮れ、同六年正月になりしかば、会津にては、専ら合戦の用意して、寄せ給ふを待ちたりけり。去年九月十五日、関ヶ原合戦に、東国討勝ち給ひ、天下皆、御掌握に入り、御味方の諸大名、国替・新知行・加増領給はり、京・大坂は賑ひけり。三成一味の大名は、或は討たれ、又は生捕られ、流罪・死罪様々なり。罪科の重きも軽きも、関ヶ原口御勝と聞きては、皆々【 NDLJP:234】降参せられけるに、上杉景勝計りは、会津に楯籠り、最後の一と合戦、願やかに仕り、討死せんとて、一言の儀を申入れられず、矢尻を磨き待懸けたり。伊達政宗は、去年最上口にて、数度、直江に打負け、其後、湯原口にて、甘糟備後守に打負けられければ、之を口惜しく思ひ、慶長六年二月初に、岩手沢を立ち、同七日に、伊達郡へ取懸けて、方々焼働き、其烟先、福島の城へ見えければ、本庄繁長は、嫡子出羽守満長を大将にて、六千余を差向けたり。出羽守は、福島の城を出てゝ打廻りけり。〔〈爰にイ〉〕宮代といふ所に砦を構へ、簗井図書に二百計りにて差置きけるを、政宗の先勢取懸りけり。折節、宇佐美式部・小瀬美作は、五十騎にて大物見に出でけるが、之を見て、近所に森のあるをかたどり、備を立て鉄炮を打懸けけり。政宗の先手之を見て、多勢かと疑ひて、懸り兼ぬる処を、宇佐美・小瀬下知して、鉄炮をつるべかけ、喚いてこそは懸りけれ。政宗の先手桑折伊豆守三百余、川端へ引退く。宇佐美・小瀬追駈けて、能き首十一取り、其勢に、宮代の砦へ引入りしかば、図書も力を得、持固めける処へ、福島より本庄出羽守、六千余にて討つて出でたり。本庄が先手、外池甚五左衛門・小田切所左衛門・布施次郎右衛門二千計りにて、打廻りける処を、政宗の先手郡左〔〈衛イ〉〕門・伊達上野介四千余追駈け、之を討たんとす。外池・小田切取つて返し、会釈もなく切つて懸り、十騎計り切つて落しけるに依り、政宗の先手押立てられ、四町計りぞ崩れたる。外池以下の上杉勢、勝に乗つて追駈けたり。政宗が二の先石川大和守昭光・片倉小十郎景綱三千余にて、上杉勢を押返し、合戦を始むる時、柴田小平次・守屋伊豆守・鹿股喜右衛門・茂庭兵蔵、真先に鑓を入れ、喚き叫んで突立てければ、上杉勢まくり立てられ、三町計り崩れけり。上杉方栗生美濃守・唐人丹後守・江波五郎・岡野左門等、千余にて駈著けければ、宮代の砦より小瀬美作、横合に突いて出でたりける。互に鑓先を打合せ、押しつ押されつ戦ひて、石川・片倉を、二町計り追立てける処へ、杉原常陸介親憲八百計り、左より廻り、政宗の旗本を目がけ、跡へ廻して、本庄出羽守二千余、右の方より真黒になつてぞ懸りける。上杉の家風にて、長柄は竹柄なり。何れも錫杖持にして、えいや声を出して押来る。大将本庄出羽守、馬より飛下り、手鑓引提げて、士卒に二十間計り先立つて懸りける。銀の大夫衝の立物を見て、政宗方には、本庄繁長なるぞ。備を厚くして、破るゝなと犇きける処に、沢〔宗イ〕根刑部・瀉〔方イ〕上舎人・中村但馬守・三崎出羽守を乗越して、政宗の陣へ駈入りけり。政宗の勢、弓・鉄炮を揃へ、打立つる事甚だ烈しかりけるに、【 NDLJP:235】本庄出羽守、眼を瞋らし大音揚げて鑓を入れしかば、皆々続いて、鑓を入れたりける。政宗旗本、少時は戦ひけるが、遂に押立てられ、十町余、足を乱して崩れけり。伊達阿波守・羽根田因幡、五千余にて政宗を助けて馳来る処に、上杉方杉原常陸介、糸だての指物にて、八百余を左右に従へ、伊達羽根田が勢の真中へ、面もふらず駈入りければ、阿波守・因幡守も、一度にどつと崩れけり。政宗の軍兵共、川へ逃入り死する者多かりけり。本庄・杉原勝に乗つて、追討に首二百計り討取りけり。一里計りを隔てゝ、政宗の後陣一万計り、備を立て遥に見えければ、本庄も人数を纏ひ、福島へぞ帰りける。政宗、去年より度々の働に、大方上杉に打負けしに、能く〳〵思ふに、去年、大君より中沢主税を御使者にて、必ず景勝と戦ふべからずと、固く制し給ふも、政宗武勇のたけにては、上杉との勝負は、迚も叶ふまじとの御賢察ありし故なり。誠に明君の未来を鑑み給ふ事は、鏡に写すが如し。世以て、御了智を感じ奉りけるとかや。
政宗信夫郡焼働并木幡四郎右衛門討死附須田大炊助長義政宗と逢隈川合戦の事
政宗は、度々の敗軍にも恐れず、三月廿四日、二万余の勢を率して、白河の城〈一説に福島なるべしとあり〉に著陣し、一日人馬の足を休め、廿七日に信夫郡へ働き、在々所々放火し、民百姓共、当るを幸に斬棄て、飯坂の佐藤庄司が古屋敷に、陣をぞ取りたりける。其夜、伊達実光が子兵部大輔
成実〈政宗伯父一説に従弟〉政宗に向つて、去年白石の城を攻め取ると雖も、登坂式部が回忠なれば、伊達の家の手柄にはあらず。其後、数度の戦、毎度景勝に仕負け候事、誠に当家の瑕瑾なり。関東にも、斯様の儀を思召しけるにや。営家と上杉との弓矢を、御制禁ありける。誠に心憂く覚え候といひければ、原田左馬助・白石若狭も、成実の御申の通なりと答へける処に、木幡四郎右衛門進ふ出で、我等、存七寄る行候間、明日福島へ働き、其虚実を窺ひて、御左右申上ぐべしと申しければ、尤もとぞ同ぜられけり。明くれば、三月廿八日未明に、木幡四郎右衛門、手勢百騎にて、福島の城近く押寄せたり。本庄繁長父子は、城の高櫓に上りて之を見る。岡野左内は、大手口の門櫓にありけるが、士卒に下知して曰く、今朝、政宗方の大物見は、心に一戦を持ちたり。其仔細は、先手は騎馬甘騎見えたり。其次三町計りに、又五十騎計り控へたり。其次、亦五町計りに、後勢控へたり。是我を誘く行なり。卒爾に討つて出づべか【 NDLJP:236】らずとぞ制しける。やゝ暫くありて、先手廿騎計りを、木幡四郎右衛門引連れ、城下近々と打迫りける処に、鈴木彦九郎、岡野左内に囁きけるは、今日の大物見の内には、政宗・実元・成実の中、一人は是あるべきかと覚え候。手軽き若者、馬強なる輩を遣され、討止め給へと中しけり。左内聞きて、誠に左様に覚えたり。我れ馳向つて、討取らんとて、櫓より下り、門を開いて駈出でたり。木幡が先手廿騎の兵、元より本庄繁長を恐るゝ事斜ならず。左内が猩猩緋の羽織に、金の切団の腰差にて、駈出でたるを見て、すはや、繁長なるはと騒ぎける処を、左内、勝に乗つて透間もなく、鉄炮を打懸けければ、廿騎の木幡が勢、逃退いて二陣に加はらんとす。岡野左内、七十余にて追懸けたり。其中に、鈴木彦九郎、並を放れて追詰めければ、木幡四郎右衛門馬を引返し、爰にて防ぎ戦はんと、下知しけれども、士卒、大半崩れ逃げければ、詮方なく、木幡馬を乗離し、鑓追取つて懸りけり。岡野左内は之を見て、木幡を見届け、鑓玉を取つて走懸り、木幡と鑓を合せ、火を散らして戦ふ処に、鈴木彦九郎、大身の鑓を振つて脇〔横イ〕鑓に懸り、木幡が左の脇壺へ通し、倒るゝ処を押へて、首を取つて差上げたり。福島の城中、櫓の上も塀裏も、之を見る輩、一同にどつとぞ悦びける。本庄繁長は、高櫓より麾を振つて、左内討たすな、続けや者共。と下知しければ、尻高左京・手塚長右衛門・宇佐美民部・西条治部・大平左吉等八十余騎、西の木戸を開きて駈出で、木幡が二陣へ斬つて懸る。木幡が百騎、大将四郎右衛門討たれけるに依り、一支もせず、川を渡して引退く。尻高・宇佐美等追駈けしかども、政宗方、早々引きける故に、手合はずして、皆福島の城へ帰りけり。宇佐美藤三郎は、川中にて政宗方と、鉄炮にて互に相だめにしたりしが、藤三郎早くして、政宗方を打倒しけれども、敵十人計り返し合せ、死骸を肩に引掛け除きし故に、首をば取らざりけり。唯今日の手柄は、岡野左内一人にて、止まりたりとぞ申しける。政宗は、木幡が討死を聞き、無念至極に思ひけれども、本庄繁長が武勇に退屈して、福島へは取懸らずして、逢隈川の西に停つて、簗川の城へ取懸け、須田大炊助長義を攻めんとぞ謀りける。初め政宗、福島筋に働きし時、簗川の城に手当あるべしと申しけれども、政宗は、逢隈は大河なり。須田大炊は廿三歳にて乳臭き若者、何とて川越すべき。思も寄らずとて、手当を置かざりけり。地侍に、小原作内といふ者の後家、女なりと雖も、甲斐々々しく鉄炮十八挺出して、簗川の城を押しけるが、須田大炊助下知して、猿渡源内を遣し、川を渡り、小原が十八人の鉄炮の者【 NDLJP:237】を、一人も残さず討取りけり。政宗、弥〻怒り、簗川を攻め落さんとて、三月廿八日の夜、逢隈川を渡り、簗川の城近く陣を取り、明くれば廿九日の明方に、簗川の城より、須田大炊助長義、六千余にて押出し、大筒・種子島にて打立て、一戦を取結ばんとす。政宗の先手、少しく手負・死人出来ければ、政宗も思はれけん。俄に陣払し、川を渡りて引退く。須田大炊、之を見て、手自ら相図の旗を振りければ、宵より伏置きたる伏兵共、四所より起合ひ、鉄炮にて打立つる事、雨の降るが如し。政宗の諸軍、大いに騒ぎて、乱れ崩れける処に、逢隈川へ逃入つて、討たるゝ者数を知らず。須田が伏兵共、鉄炮を揃へ散々に打つ。片倉小十郎三千の備、先手なりければ、引足には後殿となりにけり。須田大炊、真先に進んで、片倉が手へ斬懸りけるに、片倉も討死と極めて、士共を皆々馬より下し、地に折敷かせ、鑓衾を作りこたへければ、大炊が軍兵も折敷き、十五六間隔てゝ立合せ、片倉が引取らば、即ち追討たんと白眼居けり。片倉も、九死一生になりて難儀に思ひ、使を浜田治部方へ遣し申しけるは、政宗公を始め、諸軍皆引取り候は、いかなる事にて候。片倉一手を見殺し候や。さりとては、卑怯なりと申し遣しければ、浜田、使を走らかし、政宗へ此旨を告ぐる処に、政宗聞きて、早々、浜田、川を越え、片倉を引取らせ候へ。両人罷越し候はゞ、難なく引取り申すべく候。両人にて引取る事ならざるに於ては、何程人数を遣し候ても、成るまじといひ捨て、捨鞭打つて、跡をも見ずして引取りけり。夫より浜田は、川端まで返し来り、此旨申しければ、片倉返事に、浜田は、川を越さずして、川端に人数を立てゝ待ち候へ。鉄炮を二百挺、川を越させ候へと申遣しければ、松岡清左衛門組百挺と、山岸修理組百挺を差越しけり。片倉、下知して曰く、松岡が百挺は、川端に立つて待ち受けよ。山岸百挺は、我が備の跡脇に立つべし。我等人数にて合戦を始め、其勢に引きあぐべし。其時打立ち候へと約束して、片倉真先に立起り、軍兵一同に、大炊が陣へ突懸り、互に黒煙を立て挑み戦へば、大炊が先手の勢、廿間計り突立てられけるを、塩合として、片倉人数を引取りけり。大炊が先手取つて返し、片倉を追懸けゝれば、山岸修理、鉄炮を下知して、二三間に引受け打立てけるに、須田大炊が兵共、甲を傾け、ひた〳〵と折敷き、鉄炮を避くる間に、片倉は川端迄引取りけり。大炊は麾を振り、山岸が百挺の鉄炮を追立て、片倉を追ふ事甚だ急なり。片倉の人数、逢隈川へ逃入り、人馬流るゝ事数を知らず。松岡清左衛門〈後久左衛門尉と号す〉川端に立固め、百挺の鉄炮にて打立てけれども、須田が軍兵、【 NDLJP:238】事ともせず、真黒に切懸けしかば、松岡が鉄炮組もどつと崩れ、片倉同前に逢隈川を逃渡り、流るゝ者、又は討たるゝ者多かりけり。須田が軍兵共、勝に乗つて追駈け、川半ば迄追懸りける処に、筑地修理進、大炊に乗著き、敵の二陣、川の向に立固め候。長追ひ候はゞ、越度あるべし。最早御引取り候へと諫めけり。佐竹加勢車丹波も、大炊前に乗塞がり制しければ、大炊も川半ばより引取りけり。片倉は浜田が二陣として、川向に立ちたるに助けられ、鰐の口を遁れたるよと、打連れて引取りけり。政宗の軍兵四百八十八人を、上杉方へ討取りけり。大炊は、其首共点検し、簗川の城へぞ引入りける。政宗も人馬を休めん為め、白石の城へ引籠りければ、其後、軍はなかりけり。本庄繁長は、老功の名将なりとて、政宗、恐れける事少からず。其故、福島へは取懸らず。須田大炊は、廿三歳の若輩といひて侮り、簗川の城へ取懸け、思の外に手を取りければ、世上の聞え、第一には、将軍家の御前を、如何あらんと気遣はれけるとぞ聞えける。
去年、東国方諸将の高名比類なし。八月廿二日、卯の刻に、先陣は福島、次に長岡・京極・黒田・加藤・藤堂・田中・井伊・本多次第々々に押出し、河上の相図の煙を見れば、狼煙は空高く晴揚るに、早や遥に鉄炮の音、夥しく聞えければ、正則、此軍に駈付けざりしを、無念に思ひ、気色を変じて、河岸に臻る処に、竹ヶ鼻の城主杉浦五郎左衛門並に毛利掃部、又岐阜よりの加勢梶川三郎・花村半右衛門等、起の河向に芝居を築き、柵を振り、弓鉄炮を仕懸けて、雨の降る如く打立てたり。折しも此所は、俄に砂入して、築上げたる堤なれば、馬の足途悪しく、進み難き故、東軍、河下へおり下つて。加々野江村の辺より一々に乗越えけるに、杉浦・毛利・梶川・花村も身命を抛つて戦ふと雖も、防ぐ術や尽きにけん。竹ケ鼻に引取りけり。本丸には杉浦、二の丸には毛利・梶川・花村楯籠る。少勢の事なれば、攻め潰すも易かるべけれども、福島は、毛利と親しきに依つて、降参あらば、御前の儀は、聊か気遣あるべからず。能く〳〵執成申さんに、本領異議あるまじき旨、委細にいひ入るゝに依り、無事を相調へて、二の丸を明け渡しけり。本丸も和睦あつて然るべしと、色々に諫むと雖も、杉浦、曽て承引せず、一度不義の名を汚して、百千年を経るとも、終には死すべき此身なり。人死して再度生ぜず。水流れて又帰らず。身は泉下に朽つるとも、名を雲上に揚ぐるをこそ、武士とも人ともいふなれとて、思切りし有様、潔くぞ聞えける。寄手も、是非に及ばずとて、取巻いて攻めしかども、元【 NDLJP:239】来要害よき城地といひ、殊に杉浦、義心金鉄の如くにして、命を捨てゝ防ぎしかば、たやすく落つべしとも見えざりければ、寄手、辰の刻より申の刻の終まで、大勢透間もなく入替へ入替へ攻めければ、城兵、手負或は討死して、防ぎ難く見えければ、城に火を懸け、杉浦既に自害せしかば、残兵悉く殉死申すと呼ばはり、主人の死骸を取囲み七人自殺せり。主従最後の体、聞く人、感歎せずといふ事なし。此外、岐阜の城より十八丁、南に当つて嶮岨なる山あり。此地に新城を取立て、塁を掘り櫓をあげ、外構に柵をふり、逆茂木を引懸け、三成が家臣柏原彦右衛門・同息内膳・河瀬左馬助・松田十太夫、都合一千余の兵士楯籠る。瑞龍山三箇所の砦の其一なり。東兵、同八月廿三日の卯の刻より、瑞龍山の西の麓に屯して、人数の手配をぞ定めける。爰に浅野左京大夫幸長は、屈強の軍兵を引率し、手々に持楯を提げ、同西の山の手両方より攻め上る。城中の者共、兼ねて期したる事なれば、つまり〳〵の切所・木隠に、弓・鉄炮を伏せ置きて、之を専らとぞ防ぎける。寄手の弓・鉄炮に対揚せば、十分が一にもあらざれども、元来、山の案内を能く覚えたる事なれば、片側を小楯に取り、稲麻の如く群集せる寄手を、目あてに射放つに、更にあだ矢はなかりければ、手負・死人は数を知らず。寄手も是に辟易し、少し猶予する有様を見て、幸長、麾を振上げ、敵は小勢なるぞ。唯息な継せそ者どもと、勇み懸つて下知をなし、四方よりして攻め上れば、城兵共、敵に跡をや取切られじと、城戸口迄さつと退く。柏原・松田下知して曰く、後詰をせん味方もなく、退路の便もなし。寄手は、味方に百倍して、四方皆敵勢なり。落ちんとせば、徒らに犬死せんは必定なり。上下士卒、心を一致にして思ふ程防戦し、討死せよといひもあへず、鑓衾を作りて出づる。寄手の方には、箕浦新左衛門・原伝三郎、真先に進みけり。箕浦は隠れなき大力なりければ、三尺余りの大太刀、打振り〳〵大勢に渡り合ひ、数刻を移し戦ひしが、能き敵の首を取り、立帰らんとせし処に、城中より黒革縅の曝に、星甲に鹿の角打ち、七つ道具を軽々と脊負うて、大長刀を横たへ、箕浦を目懸け躍り出でたる其骨柄、伝へ聞きし西塔の武蔵坊が再来かとぞ見えにける。余りに強く追駈けて、名乗もあへず斬結ぶ。箕浦、ちつとも驚かず、大長刀を請流し、左に払ひ右に迫り、前に当り後に廻り、少しも乱る兵法なく戦ひけり。今日の軍の花なるはと、数万の軍兵、片唾を呑んで見物す。互に勝負も見えざりしが、難なく城兵を斬倒し、首搔切つて、静々と本陣に著きてぞ引きにける。天晴手柄者【 NDLJP:240】とぞ見えにける。原伝三郎は、聞ゆる精兵の手利にて、実に梢の猿をも、叫かしむといふ程の名人にて、向ふ敵を五六人、時の間に射伏せたり。城兵、少し白む処を、浅野喜七郎・伊藤八左衛門、引く敵に追続き、城戸口に駈付けたり。されども敵、早く門を閉しゝ故に、塀を乗らんと、一番に喜七郎、続いて伊藤八左衛門・同又兵衛三人、乗越し戦ひしが、思ふ程働いて、一所に討死をぞしたりける。爰に三河の住人林水右衛門、忽ち城戸を打破り、味方を押入れて乗取るべしと切破るを、城戸を破られじと、鑓の穂先を揃へて、突いて懸り、入れじとす。寄手は、入らんと揉みに揉んで迫合ひしが、水右衛門手を負へば、歯がみをして引退く。友松弥五左衛門能き敵を突伏せて、首を取らんとせし処に、城兵、味方を討たせじと駈付けて、友松を礑と斬つて打倒す。されども、甲を透さねば、友松、頓て起上り、難なく敵の首を取る。危かりける勝負なり。斯かる処に、佐々忠右衛門が家の子に、杉浦源之丞といふ者、よき敵もがなと心掛け、八方に目を配り、暫く徘徊する処に、敵の大将彦右衛門、運命こゝにや縮まりけん。杉浦に渡合ひ、大将とは見えたり。遁さじ者をと斬り結び、柏原打負けて、杉浦首をぞ取りにける。之に依つて、残る軍兵も、或は討たれ落失せ〔〈け脱カ〉〕るに、巳の刻に落城せり。斯くて岐阜の城、後詰の押として、黒田甲斐守・藤堂佐渡守・田中兵部大輔・戸川肥前守等、威儀堂々として、川より東に陣を張る。時に石田・島津・備前黄門、岐阜の後詰として、数万騎を引率し、郷戸の宿迄押来りて、川を隔てゝ西の岸に控へたり。東軍の生駒正俊・寺沢広高・桑山相模守・村越兵庫等も、此由を聞きて駈来る。然れども、郷戸の川水漲り、歩行渉なり難くして、途を失ふ処に、田中、つら〳〵思案して、家人野村を近付け、密に囁きけるは、いづくいかなる大河にも、浅瀬は必ずある者なり。此辺の郷人に、金子を取らせ語らひて、浅瀬を案内させよとありければ、野村聞きて、御了簡至極せり。藤戸といひし海にだにも、浅瀬はありと承る。追付尋ね参らんとて、加賀島といふ郷へ行き、此処彼処尋ぬれども、家は多くありながら、人曽て見えざれば、兎やせん角やせんと駈廻りしに、梅ケ寺といふ禅院あり。是へ立入り、住僧を頼み、浅瀬の通りを委しく習ひ見届けて、郎等一人走らして、本陣へ内通す。田中、大に悦喜して、急ぎ陣所を引取つて駈出し、加賀島の方へ押廻し、廿騎町川上の浅瀬に到つて、人馬を越し、向の岸に駈上る。黒田、此由を聞付けて、人に先を越されし事、易からぬ次第かな。同じ瀬を越さんも、無念なればとて、十町計【 NDLJP:241】り川下に到りて、馬を馳込めば、思はず淵に乗掛り、既に危く見えしかども、長政、ちつとも騒がずして、引立て〳〵泳がすれば、残る軍勢之を見て、飛込み〳〵渡しけり。藤堂も追続いてぞ渡しける。黒田、此川の先陣ぞと、大音揚げて名乗りかけ、郷戸村の西の方へ押廻り、三成が同勢に横合に駈入りければ、藤堂・田中も続いて懸りけり。西国勢、之を見て、馬の足を立て兼ね、色めく気色に見えける処を、小西・島津等、麾を取つて下知をなせども、三成が軍勢、後陣よりひた引にぞ崩れける。東国勢、一同に鬨を作りかけ、余さじと追つて行く。三成が小軍将、松江といふ剛の者、後殿して道筋を引退く処に、田中が兵辻勘兵衛と名乗つて、松江と暫し戦ひしが、遂に辻が為めに突伏せられしを、松原善左衛門、馳懸つて首を取る。黒田は、自身追駈けて、三成が勇士渡辺新之助を討取りけり。大将の我と手を砕きて、強敵を討ちし事莫大の高名なり。又木村九兵衛は、堤をやう〳〵経廻り、大垣へ退きけるを、三成麾を振つて、敵は小勢なるぞ。返せ〳〵と下知すれども、耳にも更に聞入れず、大垣さして敗北す。東国勢、其勢に乗じて追駈け〳〵討捨てけり。郷戸川より呂久の川の辺迄、斬捨てたりし死骸は、幾千といふ数を知らず、人塚をぞ築きにける。東国の軍兵は、大河を越えて攻懸るを、西国方の将卒等、一支も支へ得ず、皆追討にせらるゝ事、薄運のなす処といひながら、浅ましかりける事共なり。同八月廿三日、河瀬左馬助は、秀信に従ひて、砦より引取り、本丸に楯籠る。木造左衛門・津田藤右衛門百々越前父子は、追手の七曲口に於て、防戦すと雖も、寄手厳しく攻め上るに依つて、引かんとするも自由ならず、返し合せ、今日を限と励み戦ひけり。其外、岐阜方に名を得たる大岡角介・同角内・伊藤長八・和田孫太夫・木田弥左衛門・大野善八・飯沼十左衛門等、勇をなして防戦す。福島・長岡・加藤一所に駈寄り、共々に諸軍勢に下知をなし、坂口より武藤が砦の間へ、颯と寄つて駈入れば、押出し、押出せば駈入り、死して骸は曝すとも、引いて名をば汚すなと、互に恥しめて、微塵になれと攻め戦ふ。福島の先手同姓伯耆守、真先に進んで高名す。城兵津田藤三郎、血気盛の若武者、殊更家名を下さじと、諸士に抽んで踏止まり、粉骨を尽して相戦ふ。長岡が軍兵幸田次郎助、好き敵ぞと互に名乗つて戦ひしが、幸田、遂に討死をぞしたりける。同郎等柳田半介、天晴敵もがなと窺ふ処に、生駒藤三郎と名乗つて、是も敵を待つ体なり。柳田透さず、駒駈寄り平三郎と渡合ひ、暫しが程戦ひしが、鑓をからりと捨て、引組んで上になり下になり、半時【 NDLJP:242】計り揉合ひしは、二つともなき見物なり。何とかしたりけん。両方、組む手を放さずして、遥の谷へ転び落ちけるを、敵も味方も身を悶へ、あれは〳〵と叫べども、何ともすべきやうぞなき。岩の角・古木の代に打付けられ、余多の疵を得て、精力や尽きたりけん。両人ながら、谷底に如狐々々し立変び、溜息ついで居たりしが、柳田、力や勝りけん。又運命や強かりけん。終に生駒が首を取り、本陣さして帰りしは、危かりける勝負なり。又長岡が勇士沢村才次郎とて、鑓の名人あり。色白くやせがれたる小男なり。敵の中島伝右衛門といふは、大勇力の大男なりしが、沢村と斬結ぶ。其形勢は、鷲に雀鶏を合せなば、斯くやあらんと見えにけり。沢村が味方の士卒共、此勝負を危く思ひ、心を痛め息をつめ、身を揉んでぞ控へける。長岡、遥に之を見て、拳を握り歯嚙をして、如何あらんと思ふ処に、沢村、鑓を取延べて、敵の鎧の胸板をしたゝかに、ぱつしと突きけれども、敵の大男、札よき鎧を二領重ねて、著たる事なれば、大石抔を突く如く、鑓の穂先五六寸、むずと折れてぞ飛んだりける。沢村鑓を投げ捨て走り入りて引組みける。中島は音に聞えし大力、事ともせず、矢庭に取つて引伏せ〔〈け脱カ〉〕るを、沢村、早わざの手利にて、倒れざまに、中島が脇壺を刺通し、刎返して其儘に、起しもあへず、首をぞ取りにける。主君長岡を始め、味方の士卒一同に、あつと感じけり。福島が勇士大橋茂右衛門は、多勢の中にわつて入り、腕も折れよ。刀も砕けよとなぎ廻し、功名をぞ励ましける。又福島が扈従に、星野又八郎といひし者、能き敵と引組んで、首を取つて持ちけるが、肘の力や疲れけん。谷底へ取落し、又味方の者共之を見て、をしやといへる人もあり。又傍にはばか抔と嘲笑ふやからもあり。敵方の輩はにが笑ひするもの多かりけり。又八郎之を聞き、首が乏しき者かなとて、敵陣へ駈入りしが、先に勝るゝ首取つて、本陣に帰りしは、類稀なる功名なりとて、初め笑ひし輩も、称歎せぬはなかりけり。此時に至つて、流石の武藤も、詮方なく本丸に取上る。秀信の旗本に、名高き津田藤三郎も、輝政の手へ生捕られ、又福島が兵卒に、梶田新助とて、器量骨柄人に勝れ、心も剛にて、力は国に双びなき勇猛の兵、敵五人に渡合ひ、二人は首を取り、一人に手を負はせ、今二人の奴原を、手捕にせんとて勇みけるが、其勢に恐れて、息もつぎあへず逐電す。斯かる処に、木造が手勢百人計り、七曲より突いて出で、追手の山口にて防ぎ戦ひけり。其中に奥山といふ者、保元の為朝・建武の本間にも劣らぬ程の精兵なりしが、重籐の弓四人張廿四束の大矢を【 NDLJP:243】小山の如く積重ね、群る寄手を的にして、ばらり〳〵と射放つ音、時雨につるゝ玉霰の、板屋を打つに異ならず。此矢にあたる寄手の士卒、或は疵を蒙り、又は当座に死するもあつて、暫く進み得ざりけり。七曲は福島と長岡、水の手は池田兄弟・一柳監物、此手は本丸に近き故、井川通を攻め上る。扨四方より一同に凱歌を作り、金鼓・螺貝なり渡り、喚き叫ぶ声は、山川に応へ震動す。福島が郎等、勇力人に勝れしが、城中に駈入らんと進む処を、入れたてじと突出すを、鑓をかつぎ上へぬけ潜つて組討す。吉田又右衛門は、出丸の新櫓へ打入つて、内を見れば、敵数十人、矢種をば射尽して、打物抜いて控へたり。吉田は名乗りかけて、梯子を固め居たる処に、松原自閑といふ法師武者、走寄りて、吉村に言葉を懸けたりければ、吉村弥〻勇をなし、著物を脱ぎ持つて、櫓の挟間より振出し、大音揚げてぞ名乗りける。長尾隼人、逸早く堀に著きて、既に塀に乗らんとするを、郎等に内野平左衛門とて、早業に名を得し者、早速塀に乗りしかば、己れが手を差下し、主人長尾を引上げんとす。隼人怒りて色を損じ、汝を頼んで城を乗取らんかというて、則ち塀に飛上りたり。其後、二の丸門前には諸手の軍勢数千人、我も〳〵と馳集りて、本城へ押詰めんと勇みける。又京極修理亮高知は、荒神の洞より攻め上る。輝政は、正則が攻口に押寄せんと、町口迄到る処に、其折節、正則は、総構の土居に上りて、輝政が攻来る手前の民屋に、火を懸けたり。依つて輝政の軍勢、煙に咽せんで進み得ざる故に、桑の木原に引廻り、長良川の辺に出で、水の手より攻め上る。諸手の軍勢、既に本丸にぞ乗入りける。然る処に、沢井左衛門・森勘解由は、木造と旧友たるに依つて、方便を廻らし参会を遂げ、種々に諫めて和を整ふ。其節に、秀信は既に自害に及ばんと、覚悟ありし処に、正則制して申されけるは、古より以来、三国の軍を考ふるに、或は数日・数年、挑み戦ふと雖も、既に難儀に及ぶ時、大将敵に降りし其例、あげて数ふべからず。是全く、命を惜んで然するにあらず。何卒命を存らへて、家系を続がんと思ふにあり。向後、志を翻し無二の忠勤を懐くに於ては、君も聊か御疎意あるまじきなれば、本領安堵あらんに於ては、何の仔細か候べき。能く〳〵取繕ひ申すべき条、御心安かるべしと、詞を尽して諫め申されしかば、則ち自害を止めらるゝに依つて、多くの人を差添へて、清洲にぞ送りける。光氏は昔の筋目を忘れず、扈従と四人、降人の法として、帷子一重にて御供す。其日、新加納村の一向宗の道場に入らしめて、三重に柵をふり、多くの武士共囲繞して、【 NDLJP:244】警固固く勤めけり。秀信は、流石に大将の心緒にて、今度の籠城に高名したりし侍共を召出し、各〻感状を与へらる。斯かる折に臨んで、忘却なきこそ有難けれ。其人数、士三十六人並に三成が加勢河瀬左馬助・大西善右衛門彼是三十八人なり。
松川合戦政宗福島の城を攻むる事
政宗は、度々の合戦に打負け、無念類ひはなかりけり。去年七月、江戸より中沢主税を御使にて、景勝と取合ふ事、固く御制止ありけるに、其御意を用ひず、剰へ、数度のおくれを取りければ、何卒して一戦に勝つて、御前の申訳仕りたしとぞ願はれける之に依つて、慶長六年四月十七日、片倉小十郎景綱・伊達兵部大輔成実・同右京亮盛重・伊達阿波守・屋代勘解由兵衛・茂庭石見守・高野壱岐・桑折点了等二万五千を引率し、白石の城に著かれけり。扨福嶋の城を攻めんと相談し、誰か物見に、遣し申すべしとありしかば、政宗従弟、伊達成実進み出で、某、罷越し候はんとて、十騎計り鉄炮三十挺つれて、福島の城へ赴かれけり。十三町手前に人数を残し、成実只一騎にて、福島の城堀端迄乗付け、大音揚げて申されけるは、是は政宗が物見の者にて候。此福島の御城には、上杉殿御家中、誰に御座候ぞ。尋ね承れと、政宗申付け候て参り候。銘々に御名乗候へと呼ばはりけり。櫓の上・矢間の蔭にて、上杉方の士卒、之を聞き、扨も大剛の兵かな。之を殺しては、情なき事なりと、矢・鉄炮を制し止めつゝ、櫓より答へけるは、上杉家中本庄越前守繁長・其子出羽守満長・甘糟備後守清長・杉原常陸介親憲・五百川縫殿助清国・岩井備中守政房・鉄上野介景任罷在り候とぞ呼ばはりける。成実、馬を静々と乗つて帰られけり。伊達家にても、上杉家にても、成実が剛強を、後々迄も称美せり。政宗は、廿一日に、白石の城を立ち、小山といふ所に出張す。上杉方杉原常陸介・甘糟備後守・本庄出羽守・岩井備中守・鉄上野介・栗生美濃守・岡野左内等五千に、浪人勢千余、合せて六千にて、福島の城を立ち、松川に陣を取りたりけり。松川は、福島の城よりは一里なり。政宗は、度々の負軍に手懲して、卒爾に寄せ来らず。密に間の使を入れ、松川百姓共に、金銀を取らせ、相図を定めて、上杉勢の油断を窺はせ〔〈けイ〉〕り。上杉方は、度々の勝軍になれ、政宗をば何とも思はざりければ、士卒、大に油断し、皆網を張つて鳥を捕り、雀のしゝめき抔立て、陣の徒然を慰みけり。松川の百姓共、其油断の有様を見届けて、女児共の衣類を解き【 NDLJP:245】て、旗に作し、或は筵抔を竿に付けて立並べ、上杉勢の油断を、相図を以て知らせけり。上杉の大将・侍共、是は如何なる事ぞと、怪み問ひければ、旗は敵の目を奪ふ者にて候へば、此所に大勢罷在る体を見せ候はゞ、然るべきかと存じ、斯くの如くに候と申しければ、さもありなんと計りにて、誰れ咎むる人もなかりけり。政宗は、小山に陣を取り、日々に斥候を出し、松川の様子を見せけるに、村中に、兼ねて約束の相図の旗を立並べけり。天の与と悦び、柴田小平次・中目大学・石川弥兵衛五千余を、簗川の城の押に置き、政宗二万余にて、四月廿五日の夜半に、小山を立ち、瀬の上を通り、廿六日の未明に、松川さして押寄す。上杉方よりの斥候乗帰り、奥州勢寄せ来り候と註進す。陣々皆騒いで支度せり。上杉家の軍法にて、諸手を三つに分け、一組宛具足・甲一縮し、唯今、打立つ様に拵へ、二時宛急度待居る事なり。此時は、栗生美濃守・岡野佐内当番なれば、組勢其儘取合せ、松川渡瀬へさして押出す。頃しも、霧夥しく降りて、咫尺の間も見わかざりけるに、瀬の上の方より、商人・高野聖二人来りけり。上杉の諸大将に向ひて、政宗殿、其勢三万計りにて、唯今此方さして御懸り候。などか此小勢にては、中々、御叶ひ候まじと、語り捨てゝ打通りけり。本庄出羽守満長は、諸大将に向ひて、松川を前に当てゝ防戦ひ候べきか。又、敵方より乗り渡させて、討取るべきか。得失如何と問ひければ、松本内匠助・岩井備中守が曰く、政宗、我が虚を窺うて、其不意に出でんとする処を、此方より川を渡し、遮つて逆寄にせんと申しけり。栗生美濃守は、いやいや此川凹にして薬研の如し。たやすく渡る事成り難し。殊に政宗大軍なり。唯松川を前に当てゝ、其半途を討たば、然るべしと申しけり。岡野左内は、黒具足に猩々緋の羽織を著し、角栄螺の南蛮甲を、猪首に著なし、黒の馬に乗りたりしが、歩ませ寄り、某は左様に存ぜず候。古よりの諺に、百聞一見に如かずと申伝へ候。未だ敵の多少も見ずして、進むべき所を進まざるは、後難遁るべからず。我等に於ては、此川を渡つて敵を待たんといふ。栗生美濃守が曰く、兵書にも、敵を料らずして、小勢を以て大敵に当る事は、大に戒めたり。今、大敵の到ると聞きて、利も見えぬ合戦をせん事、愚なり。只まげて此方に控へ、敵に川を越させ、其半途を討たんと争ひけり。左内は、中々肯はず、栗生と問答して論じける処へ、甘糟備後守・杉原常陸介、乗切つて馳来り、問答・口論も勝負の益ならず。先づ斥候を遣し、政宗が川を越すべきか。越すべからざる様子か。見届けさせよと申しければ、本庄出羽守、馬より下【 NDLJP:246】り床几に腰を掛け、猪俣主膳・本庄団右衛門・井筒小隼人を、物見に遣しけり。猪俣馳帰りて、政宗は、川を越すまじく候といふ。本庄出羽守・甘糟備後守、其仔細を問ふ。猪俣申しけるは、政宗、我が不意に出で、取懸らんと存じ候へども、此方待受け候を見て、川端迄来りたるを一利とし、引取る体に見せ、上杉衆、川を越えて追ひ来らば、半途を討たんと謀る体に、見及び候といふ。諸大将、何れも溜りける処へ、井筒小隼人・本庄団右衛門乗帰り、政宗は、川を渡して懸らん事、半時の内なりとて、出羽守・常陸介之を聞きて、猪俣主膳に向つて、只今両人の見積と、其方最前の見積と違ひたり。政宗、川を越すまじとの其方見積は如何。猪俣答へけるは、政宗が人数、川越の支度もなし。泥潭沓を取らず、足軽共、箙・靭も常の如くに付け、小荷駄・雑人も川下へ除け申候。是れ川を越ゆまじき相色といふ。小隼人・団右衛門申しけるは、左様にてなし。政宗、未だ川端より五町計りに控へたれば、川越の身支度あるべからず。打ひてゝ渡るに及でん、何の手間入るべき。又歩者・小荷駄を川下に立つるは、馬武者に川上を乗切らせ、下手に付て歩者・小荷駄を渡さんとの事なり。其上、度々の軍さに打負けて、無念を晴らさんとの意趣を持つて、二万の勢を催し来る。政宗が川を渡らずして、空しく帰らんや。只今、川を越え懸るべしといふ。諸大将、皆一同に団右衛門・小隼人が見積よし。左様候はゞ、川端を去つて、二町計りに備を立て、政宗が川を越す処を、半途を討たんと評定して、川端二町・三町しざりて備を立て、政宗が渡すを待懸けたり。岡野左内は、先刻の言葉を、空しくせん事を無念に思ひ、手勢五十騎計りにて、軍法を破り川を乗渡し、松川の向に備へたり。栗生美濃守が曰く、何れも大将達より御下知にて、川越さずして、政宗が渡る処を討取れとの定にて候。左内をたよりて、一人も越え給ふなと、乗廻し〳〵下知しけり然りと雖も、岩井備中守・寺瀬対馬守・横井太郎兵衛・深尾市右衛門・保科吉内・三俣九兵衛・綱島豊後守・布施次郎右衛門・北川図書・小田切処左衛門・志賀与惣右衛門・高力図書・外池甚五左衛門・安田勘介等二十騎計りは、左内が思ふ所を恥ぢて、軍法を破り川を越えて、左内が陣へ馳加はる。之を見て後陣の兵共、後日に左内・備中以下に辱しめられん事を遠慮し、又左内等に、手柄をさせん事を憤りて、追々に川を越して、左内が陣へ加はる者多かりけり。杉原常陸介、乗廻し制しけれども、用ひずして七八十騎、川を渡りけり。宇佐美民部、馬を渡口に立て、跡より渡らんとする者共を諫めけるは、少しの恥を患ひ、小義を立つるは、丈【 NDLJP:247】夫の志にあらず。川を越して利なきを知つて、尚越えんとするは、道理に背けり。あるべき事にあらずと申しければ、夫よりは越さゞりけり。さる程に、政宗は、片倉小十郎・伊達阿波守等十二段に備を立て、河原を一面になして、真黒になつて懸り来りける時しも、西風吹来つて、霧を吹払ひければ、目に懸る蔭もなし。岡野左内、僅に四百計りにて川を越え、同勢を離れて備へければ、政宗は、使を遣し、降参の分か又一戦の志かと問はせけり。左内、大音にて合戦を仕る者なりといふと等しく、鉄炮を放懸け、鬨をどつと揚ぐる。政宗が先手片倉・桑折・茂庭等四千余、東西より左内勢を引包んで、一人も余さじと攻め戦ふ。左内は、両刃の長刀を持ち、爰を最期と相戦ふ。岩井備中・布施次郎右衛門・小田切・外池・高力・北川等、大勢の敵の中へ駈入り、此処に馳抜け、彼処に乗廻し、火花を散らし戦ひけれども、多勢に無勢叶はずして、皆押隔てられ、討たるゝ者半ばなり。左内も、矢四筋迄射立てられ、鑓疵・刀疵三ヶ所負ひけれ共、薄手なりければ、安田・小田切相共に、百余兵にて十重・廿重の囲を切抜け、川の渡さして引きて行く。政宗の大軍、勝に乗つて追懸けたり。北川図書は、小田切所左衛門に申しけるは、事既に急なり。我は爰にて討死すべし。我が子、未だ幼少にして会津にあり。我れ死せば、生立つ所不便に候間、年来の芳志には、我等子を、貴殿養育して成人せば、景勝公へ奉公に出し給はり候へ。則ち之を遺物に渡し候間、我が子に渡し、形見に届け給はれとて、具足羽織を脱ぎて、小田切に渡せり。所左衛門は、之を請取り、腰にまき、戦場の習、我が身も生死計り難し。されども若し助かり帰りたらば、御子息へ渡し申すべしとて、川へ乗込み渡しけり。北川図書は、形見の物を小田切に渡し、幼児の事を頼置き、今は思置く事なかりければ、持たせたる指物金の公卿を取つて差しつゝ、馬を引返し、鐙ふんばり大音揚げて名乗りけるは、我は是景勝が侍に、北川図書といふ兵なり。只今討死するぞ。首取つて、政宗に見せよといふ儘に、大勢の中へ駈入り、縦横に切つて廻り、六騎に手を負はせ、五騎切つて落し、終に討死したりけり。布施次郎左衛門・安田勘介・高力図書は、皆之上杉の精兵にして、日頃、北川と懇志に伴ひ申通ぜしが、北川が討死するを見て、年来の朋友にて、争か見捨て申すべき。いざ引返し、北川と枕を並べんとて、馬の鼻を並べ取つて戻し、大勢の中へ駈入り、火を散らしてぞ戦ひける。今を最期と戦へば、面を向くる者はなし。唯遠矢に、弓・鉄炮にて打立て射立てしかば、三騎の兵共、敵十二三人討取り、皆枕を並べて討【 NDLJP:248】死す。是等に駈立てられ、政宗が先手も、群立つて控へたり。政宗、大に怒り、唯一騎にて先手へ乗込み、只追討に川を越せといらちけり。岡野左内も、長刀打折りて、太刀を抜いて、返合せ戦ふ処に、大将と見おほせ、政宗自から乗付け、左内が総角附を、二刀たゝみ掛けて斬付けたり。左内、急度驚き振返り、鍔元迄血になりたる二尺七寸の貞宗の刀にて、片手討に丁を切り、政宗の甲の眉庇より膝がしら、鞍の前輪掛け、切先はづれに斬付け、よわる所を、左内太刀にて、政宗の太刀をなぎ折りければ、政宗、二三間引退く。左内は政宗とだに知りたらば、組んで討つべかりけれども、物具麁相に見えければ、端武者なりと心得、馬を川へうちひてゝ、跡をも見ずして渡しけり。伊達の兵共、政宗が左内に切立てらるゝを見て、廿騎計り駈付けたり。政宗、力を得て差添の一尺八寸の刀を抜き、左内を追駈け、勝負せよ卑怯者なりと呼ばはりけり。左内は、向の岸へ乗上げ見れば、敵大勢馳せ来り、返せ返せと呼ばはりけり。左内は大音揚げて、眼のきゝたる剛の者は、左様の大勢の中へは、かへさぬ者ぞ。己は糞を喰へと悪口し、味方中へ駈入りけり。後目に、政宗なりと聞伝へ、組んで討つべき者をと、後悔すれども甲斐なし。先駈の上杉勢、大方川を渡り引取りけり。中に岩井備中は、甲首二つ討取りけるが、川越の土産に候とて、本庄出羽が前に投げにけり。ゆゝしくぞ見えたりける。大館左馬進・宇佐美兵左衛門〈藤三郎事〉は、何れも首一つ宛討取つて、川の向の岸へ下りけれども、馬放れければ、渡り得ず。宇佐美民部は此方の岸にありしが、之を見て、馬を川へ乗込み渡しけり。栗生美濃、之を見て先刻の言葉と違ひ、川をば何とて越され候ぞと呼ばはりければ、民部振返り、川向に忰兵左衛門罷在り候。十七歳に罷成り候を、敵に討たせては、何事も入り申さず候よと言捨てゝ、川を乗渡し、馬上より兵左衛門が手を取り、馬を引返し、川を渡つて元の岸へ上る処に、紙手半月の赤緑かけたる敵追来り、民部が妻手に乗並べ、むずと組んでどうと落つ。民部大力にて敵を組敷き首をかく。兵左衛門は、下り合せて近づく敵を追払ひ、父民部が馬に乗るを見て、我が身も、父が討取りたる敵の馬に打乗りて、杉原常陸が備へ馳入りけり。政宗の大軍、既に松川へ打入りて渡り来る。栗生美濃守は、備を厚うして待ちけるが、政宗が勢、半渡になりたる処を、美濃守、麾を振り一度に鑓を入れたりけるに、片倉が勢、川へ追ひひたされ流るゝ者数を知らず。栗生、勝に乗つて川へ乗込み〳〵追討にしたりけり。本庄出羽守・杉原常陸介・甘糟備後も切懸り、【 NDLJP:249】政宗先勢を追立て、松川を乗渡しけるに、二陣の伊達阿波守は、片倉を助けんともせず、徐々と引取る。杉原常陸介、之を見て敵は誘引と見えたり。長追するなと下知しけるに、案の如く伊達阿波守、四千余の勢に政宗旗本と、一手になりて驀地にぞ来りける。川中迄追懸る上杉勢、引返して此方の岸へ上る処を、片倉も、桑折点了・伊達成実・屋代茂庭も、一同に川を打ひてゝ、渡り来りければ、味方六千余、政宗二万なれば、遂にかけまけて、総敗軍となりにけり。鉄上野介・杉原・本庄等乗下り、返し合せ〔〈戦ひイ〉〕て、味方を退かせけり。岩井備中守〈流星の指物〉
杉原常陸介〈糸だての指物〉・本庄出羽守〈大天つき立物の甲〉・青木利兵衛〈鳥毛棒黒縨〉・永井善左衛門〈金の半月だし末縨上に○あり〉小田切所左衛門〈後に二才〉千坂与一郎・井上隼入正・市川太郎・西条弥三郎・寺尾源蔵・大宝兵部・大峡惣八郎・下条与五郎・秋山伊賀守・安田新太郎・甘糟惣五郎・西片次郎右衛門・川田玄蕃・正木大膳・水戸小七郎・山吉図書・恩田越前守・志賀与惣右衛門・外池甚五左衛門・簗井〔矢内イ〕図書五拾騎計りにて、諸軍の跡に引下り、引返し〳〵返合せ戦ひけり。政宗勢、皆駿馬に鞭をあて、急に追ひ来りければ、上杉勢、長柄を持つ事叶はず、持鑓さへ大方捨てたりけり。況んや肥え太りたるは、人も馬も皆息きれて倒れ伏す。返し合する者共、討たるゝは多く、助かるは少し。松川より福島の城迄、死駭と鑓・長刀にて地を敷きけり。甲・小手抔も、解捨つ者多かりける。青木新兵衛は、年来小だけなる馬を乗り、鑓も短き十文字を持ちけるが、少しも痿まず、馬に乗りつ下立ちつ、引返して突卻け、又取つて戻し追払ふ。其外、鉄上野介・本庄出羽守・甘糟備後守等馬を立直し、所々にて〔〈取つてイ〉〕返して防ぎ退きにしたりければ、松川より福島迄、一里余の其中に、廿八度迄ぞ戦ひける。政宗の兵に、四竈〈或は色摩〉縫殿助、大剛の兵なるが、鐘の縨をかけ、真先に追来りけるを、上杉方〈簗川矢内イ〉図書引返し、四竈と引ん組で、馬より下に落重り、四竈縫殿助、上になり図書を組伏せけるを、図書が郎等に、長市七郎左衛門下り合せて、四竈が首を取つて、主の図書を助けたり。福島川へ懸る処にて、甘糟備後守、廿騎計りにて立怺へ、政宗が勢を、六度迄突崩しける。其ひまに、皆々福島川を渡りけり。されども、茂庭・羽子田・屋代・桑折四備、又追ひ来りければ、殿の五十騎計りも川を渡しけり。小田切所左衛門先へ渡る。続いて永井善左衛門渡しける処へ、政宗の兵三騎乗付けて、三刀迄切りけれども、永井も、廿八度の合戦に草臥果て、其上数千の人馬、川を乗渡す水音と喚き叫ぶ声にて、敵の追著きたるを知らざりけり。斯かる処に、青木新兵衛退懸り、三人の敵を追払ふ。永井は知らず【 NDLJP:250】して川を乗上げ、青木乗付け、川中にて、敵三騎付け候を、我等追退け候といふ。永井驚きて見るに、実に緑に太刀あと三所、鞍の後輪にも二刀跡ありければ、永井は青木に向つて、助けられ候とぞ申しける。川の堤際にて、小田切所左衛門、馬より下り立つて、敵二人に取懸られ、既に討たれんと見えけるを、青木新兵衛乗付け、二人の敵を追払ひ、小田切を助けけり。小田切は本庄出羽守が組、青木は甘糟備後が組なり。昨廿五日夜、青木と小田切と武辺の事にて、口論を仕出し、甲乙は、重ねての手柄にて極むべしと約束せし故、今朝前手の合戦の音を聞き、中小屋より青木は駈著けしに、道にて小田切が一合戦して、除き来るに逢ひ、共に後殿をするとて、青木は小田切に言葉をかけ、夜前の言葉を忘るゝなといひければ、小田切も心得たりと申せしが、只今青木に助けられしかば、向後は他事なく申通ずべしとて、夫よりは入魂しけるとかや。〈小田切、後に才の伊豆と号す。加賀利常を罷在り、後、道仁といふ。元は御譜代にて、小田切加兵衛といふ者なり。〉津川弾正・宇佐美民部父子・金津新兵衛・吉江喜兵衛等、川の渡上りにて返し合せ、度々、政宗勢を突退けしかば、川中に立止まり、是よりは追はざりけり。其上、岡野左内、羽黒山〈出羽の羽黒にはあらず是は奥州の羽黒なり〉の麓に旗を立て、敗軍を立直しければ、政宗の先手も、川半より引返しけり。本庄出羽守・杉原常陸介・甘糟備後守等の諸大将、福島の城大手の門前にて、皆馬より下り、床凡に腰を掛け、敗軍の人数を城へ取込みけり。岡野左内も旗押立て福島の城へ入りければ、後殿の廿騎計りも、左内が跡に付きて城へぞ赴きける。堤より七八町も除け来り、左内は最早城へ入りける時分、政宗三百騎計りにて、歩者一人もなく、真黒になつてぞ追ひ来りける。甘糟・栗生・岡野も、急に敗軍を取込み、引続いて城へ入り、柵の木戸を打ちければ、後殿の十騎計りは、柵の外に立出され残りけり。宇佐美民部は、嫡子兵左衛門が乗馬を乗倒し、歩立なりけるを、馬上より手を引きて柵涯へ来る時、政宗、近々と追来りければ、永井喜左衛門馬より下り、宇佐美兵左衛門を抱上げ、鞍台に立たせ、夫をふまへて柵の中へ押入れけり。善左衛門と民部は、柵を乗越え入りにけり。津川弾正・大館左馬進は、搦手の門へ廻り入りにけり。青木新兵衛は七幅七尺の大縨・大鳥毛の幖なりければ、柵を越す事なり難く、彼方此方と佇み、何方か入るべき所ありと尋ねける処へ、政宗、唯一騎にて乗来りけるを見て、青木、十文字の鑓にて、政宗の内甲を目懸け突きければ、甲の立物にあたり、三日月の一方の爪を突折りけり。政宗は、叶はじとや思はれけん。馬を一散に馳せて退かれけり。福島の城主本庄繁【 NDLJP:251】長は、二千余にて西の門より打つて出で、信夫山の方より、政宗の右跡へ押廻りけるを見て、早々政宗引取りけり。繁長は、小高き所に備へて、政宗と対陣せり。簗川の城主須田大炊助長義は、横田大学・築地修理・車野丹波に向つて、政宗今朝、松川の陣を破りて、上杉勢を追つて、福島さして赴くとなり。いざ逢隈川を渡し、押の人数を追散らし、政宗が跡より切懸らん。尤とて六千余の兵卒、簗川の城を乗出し、大炊は、人数を二手にわけて懸りければ、政宗方柴田小平次・中目大学・石川弥兵衛五千余、川向に控へたり。此逢隈は、奥州出羽第一の大川なり。然れ共、大炊は渡り口を知りたりければ、車野丹波守二千を中備にして、正面より本瀬に向はせけり。須田大炊は、川上へ押廻したりけるを見て、政宗方も二手に分れて、川の上下へ廻らんとして、政宗備乱れ、旗色揉めて見えけるを、浜田大炊、遥に見て両方の瀬より打ひてゝ、渡しつゝ、左右より切つて懸りしかば、政宗方、どつと敗軍し、我れ先にと逃げたりけり。大炊、勝に乗つて追駈け、首三百余討取り、すぐに政宗の本陣の小屋小山の陣屋へおし込み、悉く焼払ひ、夫より政宗の跡を追うて、後陣へ切懸り、散々に切崩し、政宗が後陣屈強の兵、四百十三人討取り、小荷駄・兵糧・玉薬を奪ひ、剰へ、伊達の家の陣幕九つ星の紋の幕、並に家の什物紺の絹に黄なる糸にて、法華経廿八品を縫附けたる看経幕をば、大炊が組曽田宇平次〈景勝米沢へ所替の後、堀丹後守直寄へ抱へらる、〉・中村仙右衛門〈景勝所替の後、越前黄門秀康卿へ御抱、〉奪取り、此旨、福島の城へ註進す。須田大炊が手柄、申すも中々おろかなり。政宗が後陣の軍勢共、須田に追崩され、福島さして逃来りしかば、政宗、大に仰天し驚き騒ぐ処へ、本庄繁長、旗を進めて駈けゝれば、甘糟備後守・鉄上野介、福島より出立つて、挟んで攻め懸る。本庄繁長、川を渡して切つて懸りしかば、政宗は後陣の敗軍を聞き、色めきける処を、繁長切懸り、二百余討取りしかば、政宗も計略叶はずして、本道を除く事成り難く、摺神より人数を引上げ、信夫山へ取除きけり。本庄繁長・甘糟備後・鉄上野等も追駈けて、信夫山へ対陣し、夜明けば切懸らんと支度せり。景勝、会津に居られけるが、政宗、大軍にて小山へ出でたりと聞きて、八千の軍勢を引率し、会津を立ち、昨廿六日の晩、簗川へ著き聞かるれば、福島表へ、政宗取詰めたりと聞き、翌廿七日、福島さして押されけり。政宗は之を知らず、信夫山にありける処へ、遠見の者の方より、景勝出馬候由申候と告来る。是より政宗、騒ぎ立つて引取らんとする処へ、又注意あつて、紺地の日の丸の大四半見え候と、告げ来るや否や、政宗は取る物も取敢へず、総人数【 NDLJP:252】をば本道を引取らせ、我が身は、景勝と本庄繁長を恐れ、僅に十騎計りにて、本道へは除き得ず、飯坂の北東、佐藤庄司が屋敷跡へ懸り、摺神川を沂に、茂庭山を通り湯原へ出て、関を経て渡瀬より白石の城へ逃入りけり。総軍は、本道を除き行きけるを、本庄繁長父子・杉原常陸以下、上杉勢勝に乗つて追討に、首数七百余討取り、瀬の上を追返し、郡村に到りて追止まり引返しけり。信夫山より郡迄二里余の間は、政宗の人馬の死骸・旗指物・鑓・長刀にて、足の踏所もなかりけり。景勝は、福島の城へ入られ、境目の仕置して、十日計り逗留し、境目を打廻り会津へ帰陣せられけり。此度、政宗方を討つ事、首数千二百九十余なり。上杉の手柄、天下の美談とぞなりにける。
景勝御赦免〔付イ〕上洛〔并上杉系図イ〕の事
奥州福島にて、景勝と政宗一戦し、大に打負け、敗軍の由、宇都宮に御座す結城少将秀康卿より、一書を以て、大坂へ御註進ありければ、大君、大に怒り給ひ、我れ始より斯くあるべしと思ひ、去年、中沢主税を以て固く制しける処に、一度ならず七八度に及び、越度を取りたる事、言語道断と仰せられけるに依り、其後、御約東の御加増の御沙汰もなし。政宗も、御意を背き、景勝と度々合戦致し、剰へ、おくれを取りたる故、御加恩の事は、夢にも存ぜざりけるとかや。さる程に、慶長六年の春夏も過ぎ、七月にも成りにけり。当秋は、島津を御退治なるべきか。上杉を御退治あるべきかと御相談あり。両条共に、天下の大事なりとぞ見えたりける。君にも景勝は、逆心なくして、直江山城守が所行にてありける事を、能くしろしめされ、次には関ヶ原の後は、御敵の輩冑を脱ぎ降参を乞ひ、様々陳謝せられけるに、景勝一人は、治部方敗軍にも痿ます、一言の降参を乞はず、会津に独立して、去年九月より最上・伊達を相手として、二年越、合戦し、度々の勝利を得、今に至つて、稜を頽さゞる事、真の英雄と感じ思召し、罪科御赦免なされ、召仕はるべしと思召す御心著きにけり。其上、古き家といひ、御退治なさるゝも、惜き事と思召し、本多佐渡守正信を以て、景勝へ仰入れられけるは、今度の一乱、此方所存別儀なし。凡そ天下を望むも、弓箭を取るも、侍の習なれば、咎むべき処なし。何を以て深く遺恨を挟まんや。其上、景勝、始めより逆心なき事、明かに知見候上は、赦免を致し候間、早々上洛あるべき旨、申入れられけり。景勝返事に、我れ元、公に恨なし。神刺の【 NDLJP:253】原新城を取立つる事は、直江が公儀を得て、事済んだりと申すに依り、取立てたる儀なり。又合戦の儀、他の事なし。強ひて押懸け給ふにより、申分も罷成らず、一合戦仕るべき覚悟、是又武士の習なり。亡父輝虎以来、公へ等閑なく候間、此上は、御赦免にても切腹にても、御心次第の由、御請申上げられけり。斯くて、七月末になりしかば、結城秀康卿御取次を以て、同十二日に、上洛の御請を申上げけり。家老共は、直江・千坂・長尾を始め、御上洛の儀は御分別なされ、御無用の由異見申し候へども、景勝承引なし。我れ元来逆心なし。今上意を請けて、上洛仕らざるは、是実の逆心なりといひて、遂に上洛あつて、八月朔日に伏見へ著かれければ、同廿四日、御前へ召出され、今度の乱は、景勝に於て別心なし。早々上洛ある事尤なり。勿論、本領相違あるまじき事なれども、外への仕付の為めなれば、会津領百五十万石の内、米沢の城にて三十二万石下され候由、仰せられしかば、景勝、其年に米沢へ移られけり。百五十二万石の家中、五分一減じければ、譜代の侍共も、皆小身になつて、米沢へ赴くもあり。立身を心懸くるは、暇を乞うて浪人するもあり。新参者又諸浪人は、皆暇出づる。直江山城守は、三十二万石なりけるが、此度六万石を、景勝より給はりける。山城守は、忝しとて五万石を差配りて、諸傍輩へわり与へ、只一万石になりぬ。五千石わけに、小身なる傍輩に割与へ、自身は、僅かに五千石なりしを、景勝より新田を開き、一万石を直江に給はりけり。杉原常陸・本庄繁長を始め、五万石・七万石の身上、皆二千石・三千石に減じけり。会津へは、蒲生秀行、六十万石にて帰住仰付けられければ、栗生美濃・岡野左内は、蒲生家へ即き帰参せり。岡野左内は、政宗より三万石にて抱へたしと、ありしかども、存じも寄らずというて、秀行へぞ参りける。〔〈壱万石にてイ〉〕猪苗代の城主となる。岡野越後守とぞ申しける。景勝は、会津より米津へ移され候三年目に、千徳丸といふ子息誕生、後に上杉弾正大弼定勝と申しけり。淡海公不比等の二男房前大臣より七代、勧修寺内大臣高藤公より十二代、式乾門院蔵人重房、始めて丹波国上杉の庄を給はり、上杉と号す。又謙信先祖は、長尾なり。是は桓武天皇の御末、長尾新六郎定景より出でたり。之に依つて、平氏にて長尾たりしが、建武の末、前代蜂起の時分、長尾一味たりけるに依つて、尊氏より御退治なり。尊氏公の御母は、上杉左近将監頼成の御妹にて、贈従三位清子と申しけり。頼成の嫡子上杉宮内少輔藤成、其弟を上杉三郎藤明・同四郎藤景といへり。此二人は、尊氏の従弟なり。長尾の家を継ぎ候へとの事にて、【 NDLJP:254】此二人、長尾を相続致されたり。謙信は此子孫なり。此故に、元来上杉の庶子なりとぞ承る。さるに依つて、代々上杉の一家老なり。謙信代に、管領上杉憲政の養子となり、初め長尾景虎を改め、上杉政虎と号す。永禄二年上洛の時、光源院義輝公の時、輝の一字を下され、輝虎とぞ申しける。代々武勇の家にて、一門に名将多しとぞ申伝へける。文禄三年午極月に、秀吉公、景勝亭へ御成、即ち景勝を従三位権中納言に任ぜられ、清華に准ぜられけり。
杉原彦左衛門物語覚書条々〔〈二十三箇条の事イ〉〕
一、直江山城守兼続は、治部三成一味にて、関ヶ原御陣の御敵の第一なり。御誅伐あるべしと思召し候へども、今度の大乱に、国々の諸大名の家老共、治部に頼まれ、主人よりは一際、精を出したる輩あれば、直江を切腹仰付けられ候はゞ、皆々身の上と存じ、又逆心遂ぐべきも計り難し。直江を、御赦免候はゞ、彼をさへ御免の上は、我々は気遣なしと存じ、自ら静まるべしとの御賢慮にて、直江を御免成されける事により、天下一統に静まる。其上、程なく景勝宅へ、台徳院様御成なさるべき旨、仰出され、関ヶ原以後、程もなきに、扨々思ひ寄らざる御事と、天下にての沙汰なりき。景勝、申上げらるゝは、大樹御成なさるべき旨、忝き次第、言語に絶し候。さりながら、我等家人は、田舎者にて作法曽て存ぜず候。万事を本多佐州に頼入り、指図を請ひ申すべしとて、侍下々迄、一人も残さず、下屋敷へ出し、屋敷には、景勝・直江山城両人残り居て、御料理も、方々門の番等、広間玄関の番も、皆御旗本衆へ頼入りける故、将軍様、御機嫌斜ならず、天下にて景勝を分別者なりと誉め、大御所にも、中々御感なり。玄関前に、杉の葉にて葺きたる御厩出来なり。其前に、今度福島合戦に、政宗を切崩し、須田大炊助長義が奪取る伊達の家の什物法華経の幕を、御馬屋の前に打ち、九つ星の幕を台所門に打ちたり。此度、御成の御相伴に、伊達政宗・藤堂高虎・施薬院宗伯法印なり。政宗は、我が重代の幕を、景勝門内の御廐に打ちたるを見て、赤面し、中々迷惑の体にて、笑止千万なりしと、施薬院の物語なり。其後も、景勝息弾正定勝迄、御成の度には、右の例にて、奪取りたる経の幕を、御廐に打つなり。
一、直江山城守、後に将軍御父子様の御前へ
出て〔ナシイ〕出頭し、参勤御暇の時も、諸大名並に御小袖・御馬拝領なり。直江病死の時も、上使にて御香奠銀三百枚下されけり。
【 NDLJP:255】一、大坂冬御陣の時、鴫野口は、上杉に仰付けられ、朝と昼と両度合戦なり。関ヶ原以後、御勘当御赦免の事なる故、景勝も、一と際御奉公振を致され、合戦中々、諸手に勝れ、家来にも、百挺鉄炮の大将石坂新左衛門討死、其外、上泉主水、関十兵衛・北条清右衛門・桜囚獄・大俣八左衛門・同彦六・市川左衛門・針生市之助・原庄兵衛・駒沢与五郎討死仕り、多功豊後・坂田采女・松本助兵衛・北村茂介、勝れたる働高名なり。景勝先手の大将須田大炊助長義、自身太刀打にて、直取の高名首三つ手疵二ヶ所、比類なき働に依り、将軍様、御前へ召出され、御感状・御腰物・御小袖下されけり。杉原常陸介親憲、佐竹勢へ加勢に参り、木村長門・後藤又兵衛とを、追返し候手柄にて、是も御前へ召出され、御感状下され候。其砌、何れも御感状・御腰物・呉服・黄金等頂戴仕り罷在り候に、常陸は、包紙を開き、御感状拝見仕り、本多佐渡守正信に向つて、御感状下され候。有難き仕合に御座候。御吟味御文言、誠に以て忝き仕合と申上げ罷立ち候。天下にて称美仕り候とかや。其外、島津玄蕃、鑓を合せ高名に付き、御感状下され候。鉄孫左衛門も、横合の鉄炮打たせ候下知宜しとて、御感状下され候。安田上総分、二の先備にて、其日、比類なき働仕り候へども、直江と中悪しく候故、上聞に達せず、御感状下されず候。鳴野合戦の後、両御所様、景勝攻口へ御打廻なされ候時、御目見致され候へば、上意には、此表合戦、其方を始め、下々骨折り候由、御懇なりけるに、景勝承り、童いさかひにて候故、別に骨折り候事も、御座なく候と申上ぐる。是又、天下にて景勝を誉め申し候由、杉原常陸も陣屋に帰り、越後・関東にて、若き時分より輝虎・景勝御供をして、度々の合戦に逢ひ、今や死する。今日や限ならんと思ふ烈しき合戦にさへ、取らざる感状を、今度の心安く印地打つ程の事にて、御感状拝領して、子孫の宝に譲る事よとて、大に笑ひけるとなり。
一、前田慶次郎は、景勝より暇を出されけれども、其儘召仕はれ下され候へとて、五百石にて、米沢へ供をしたり。方々より七千石・八千石にて、抱へたしとて招きしか共、慶次郎は、関ヶ原陣にて、諸大名を見限りたり。治部が負けたると等しく降参し、追従軽薄、扨々男は、一人もなし。景勝計り、始より終迄、弓矢を取り臂を張り候事、適武士なり。我等が主には、景勝より外にはなしとて、在郷へ蟄居し、弾正代に病死せり。
一、関ヶ原以後、江戸・駿府の御城にても、直江山城守は、天下の御老中へ対しても、対揚の挨拶にて、中々、頭を下げ手を束ぬる事なし。大男にて弁舌よく、見事なる事なり。聚楽の御【 NDLJP:256】城にて、政宗、懐中より始めて金銭の出来たるを取出し、諸大名に見せられしに、皆々重宝なる事とて、手々に取つて見られ候時、政宗、金銭を持ち、直江に見せられければ、山城守は、扇を二けんひろげ、是にうけて見る。政宗は、我が随身の物故、敬ひて手に取らずして、扇にて請くると心得て、山城、苦しからず手に取つて見よとあるを、直江申しけるは、我等は、景勝先手を申付け候故、軍兵を指揮し、幸ひ取り候手にて、斯様のむさき物、取り候者にて之なく候。銭は下賤の持扱ひ候者なりとて、扇より政宗の前に投返しければ、赤面せられけるとかや。
一、上杉家も、勧修寺の流にて、家の紋、竹に雀なり。伊達も、山陰中納言の流にて、竹に雀を用ふるにはあらず候由。
一、松川合戦に、北川図書が方より、小田切所左衛門へ羽織を渡し、図書が子の事を頼みたるを、小田切請取りし事、上杉家にては誹り申候。布施次郎右衛門・高力図書・安田勘介は、北川を見捨てず、皆一所に討死したり。是にて小田切を、一入悪しく申候。
一、大坂鴫野合戦の時、須田大炊助備、三町余敗軍致し候を、二の先手安田上総介手にて、横合を入れ、大坂方七組並に大野修理・木村主計・竹田永翁を突き崩し、其日の軍、勝になる。比類なき働なれども、直江と中悪しければ、上聞に達せずして、御感状下されず。其後、景勝前にて、安田上総介は、杉原常陸・須田大炊に向ひて、皆々仕合能く、上聞に達し、御感状拝領目出たく候。但し我等は、取次申さゞる故、御感状拝領致さず候。昔より数度の合戦に、随分御奉公申上げ、人をば越し候へども、人に越されず候。其上今度、鳴野程の事を、我等功には申すべき様之なく候。今にはじめず、珍しからざる事に候。就中、我等に限らず、屋形への奉公に、身命を抛つて稼ぎ申候。曽て将軍への御奉公仕らず候故、御感状少しも所望に存ぜず候。以来とても、屋形へ御奉公に、命を捨て申すべくと申候。何れも、皆返答なく、直江も、黙然として居申候ひつる由。安田上総分は、小兵にて子疵故、左の足を引き、眼ざし光之あり、面にも疵の痕多し。何者が見ても、大剛の大将なりといはぬ人はなし。中々、するどき気高き侍なり。右鴫野にて、須田大炊〔〈は我がイ〉〕備、敗軍せしを口惜しく存じ、大炊は若党五人にて、敵の中に残りつゝ、太刀打にて甲附の首三つ、大炊直取に高名し、手疵二箇所負ひ、若党五人ながらに高名させ、敵の中より出で帰りし故、此段、上聞に達し、御感状下され候。【 NDLJP:257】此大炊は、関ヶ原陣の砌、政宗を切崩し、伊達の家の幕を取りたる者なり。島津玄蕃は、大勢の中へ鑓を入れ、三人と鑓を合せ、沼の中へ突落され、立上り三人を突散らし、一人を討取り高名を致し候故、御感状拝領せり。是は島津月下斎が子なり。
一、右鴫野口合戦、上杉、勝軍になり、城際へ詰懸け、景勝厳しく鉄炮迫合あり。上聞に達し、堀尾山城守忠明を御入替なさるべき間、景勝には、早々引取り、其場を堀尾へ渡し候へと、五の字の御使者、追々に乗来りける〔候イ〕。景勝不興して、此場を引取るべしとは、誰の指図にて候ぞ。承り届けず候。縦ひ、上の御意にても、引取る事罷成らず候。軍には、一寸増と承るに、取りたる場を、人に渡し引取る法やある。少しも引取る事あるまじと、景勝が申すと、上へ申上げられよとて、少しも退かず、其場を取りしき申候。
一、輝虎代に、家老北条丹後守、大剛の侍なり。或時、一尺計りの白練の小四半に、黒蟻一疋書きて、指物に仕けり。余りに小き指物故、謙信見咎め、丹後を呼んで、指物の訳を尋ねられけるに、丹後答へて曰く、皆人三幅県・四幅懸に、下猪・登龍、其外、大紋を付けて指すは、敵方へ能く見えんとての事なり。其大指物より我等が小四半は、能く見え申すべく候へば、何時の軍にも、間近く乗り申候程にと申しければ、輝虎機嫌なほりける由、此丹後は、謙信死後に、三郎と景勝と国争の時、萩田与惣兵衛に鑓付けられ、乗抜け候へども、其手疵にて相果てけるなり。三郎方、其儘敗軍にて候由。
一、輝虎、小田原の城を攻められ候時、明朝陣払するとて、備配の書付を出すに、柿崎和泉守景家・長尾越前守政景・宇佐美駿河守定行以下、何れも功者共、謙信の前にて評定相極め候処に、新発田因幡守、十六歳なりしが進み出で、此備配にては、城より北条氏康切つて出で候はゞ、御敗軍あるべく候。御改め然るべしといふ。謙信、怒つて忰の何を知つて、差出でたる事を申すと、散々に叱られ、因幡赤面し、左様候はゞ、私に只今御暇下され候へ。小田原の城へ加はり、御敵になり、明日の除口を、私附け申すべく候。酒勾より此方にて、屋形様を討留め申すべしといふ。輝虎、機嫌直り、明日の殿を新発田因幡に申付けられ、宇佐美駿河、備をつれて是に加はり、堅固に引上げけり。此因幡守は、景勝代に気に違ひ、新発田・五十君の両城に楯籠りけるに依つて、天正十年十月に、景勝直に馬を出されしに、因幡切つて出で、景勝の先手に備へ、放生橋といふ所迄、切退きければ、景勝の軍勢敗軍す。因幡、勝に乗りて旗【 NDLJP:258】本迄押懸り、既に大事に及びし処に、上杉弥五郎〈後に畠山入庵〉は、景勝旗本の前備にありしが、景勝の日の丸の旗を追取り、三十間程先へ押出し、入庵手廻の侍共、下馬させ鑓衾を作り、備を折敷かせ候に付、因幡引返しけるを追討にし、城下迄押詰め候ひき。斯様の大剛の者にてありし故、幼少より器量之あり候。六年目に因幡討死致し候由。
一、前田慶次郎は、詩歌に巧なり。紹巴の弟子にて、連歌を致せり。上杉家にても、節々源氏上杉家にても、節々源氏物語の講談せしに、中々聞事なりしとぞ。
一、景勝の家にて、荻田主馬、武者奉行に候。荻田立除き候て後、蓼沼日向守・三股九兵衛、武者奉行なり。何れも大剛の覚の侍なり。越前黄門秀康卿より、様々御手入之あり、日向も九兵衛も、一万五千石宛にて、御呼び候へども、景勝講代の主にて候間、御免下され候へとて参らず候。此二人は、大御所様より能く聞召し及ばれ候者なり。
一、上杉家にては、尺の旗対の役旗なし。輝虎旗本印は、五幅懸の紺地の四半物に、朱にて日の丸を出し候一本と、白地に黒く毗の一字を書き候四半と唯二本なり。天文の末、弘治の頃、四半に黒く無の字を書きて持たせ、謙信自慢せられたるを、城意庵、謙信気に違ひ、甲州へ走りて、無の字の四半を指物にする故に、謙信不興して、無の字の四半を、宇佐美定行に呉れ候由、太閤の御代に、大御所様より、扇の御馬印を景勝拝領し、御馬印は金なれば、上杉家は浅葱にせらる。家中にも役旗なし。一手一隊に、二本一本〔〈心イ〉〕次第なり。尤も旗は笈子さしなり。腰革にて前に指すなり。
一、信州川中島合戦も、都合五度にて候へども、信玄と輝虎と太刀打は、天文廿三年寅八月十八日の事なり。甲州方山本勘介入道道鬼討死は、弘治二年三月廿五日の夜の事なりとかや。甲州方の説は、永禄四年九月十日といへり。兎角、川中島五箇度にて、其度々に、謙信判形感状を取りたり。上杉家の士共、子孫感状相伝す。年号月日慥に之あり。右天文廿三年八月十八日、川中島合戦、御幣川にて太刀打の時、信玄も謙信も太刀なり。信玄、軍配団扇にて受けたりといふ事、遂に上杉家にて聞及ばず。甲陽軍鑑の説、慥なるべけれども、上杉家には、遂に其沙汰之なし。私にいふ、永禄四年九月十日には、上杉の家中荒川伊豆守、信玄と太刀打して討死せりと云々。
一、岡野左内は、上杉家にて一万石取、松川合戦にて、政宗と太刀打し、猩々緋の羽織に、政宗【 NDLJP:259】の太刀痕、肩に一つ・腰に一つあり。其を縫ひ合せつゝ、金のより糸を以て、切目に縫含めけるを、景勝御免にて、上洛致されし時、先を乗り申候。岡野越後守と号す。蒲生秀行に奉公し、会津猪苗代の城主たり。其子左衛門秀行逝去の時追腹を切る。其子源五郎は、蒲生宰相忠郷逝去にて、弟中書十八万石になりて、予州へ移る時分浪人せり。左内より南蛮宗故、身上有付なしとかや。始めは三井寺に引込み、後は京都に居、浪人にて病死。左内は隠れなき福人にて、金銀夥しく持ち、国に蔵屋敷あり。会津にて黄金を、書院と次の間に布満て、其上に居て、金子を見慰むる事度々なり。諸朋友の取沙汰に、左内は、金を弄物にするなり。人々のいひけるにも、唯町人の様なる者なりとて、悪しくいひなし、何事もあらば、金銀に心引かれ、臆病すべしと笑ひあへり。或時、右の通、黄金を広間一杯に積並べ慰む処へ、我が組の侍、喧嘩仕出したりと告げ来れり。左内聞くと等しく、貞宗の刀を差し、秘蔵の鹿毛の馬に打乗り、一散に駈付け、一日二夜附居て、色々と扱ひ済しけり。其時、右広間に広げ並べたる黄金を打捨て、其二夜一日の間に、其金の事、家人にも申付けず、何とも思ひたる顔にてなかりし故、扨は左内は、武用の為め計りに、貯へたる者にて、金欲はなしとて、諸人誉め、始め誹笑ひし傍輩も、却つて感じけり。陣触ありし度毎に、役者を呼びて、我が子の左衛門に能をさせ、出陣迄に毎日快く見物す。傍輩は、皆馬・物具・弓・鉄炮の支度にて騒動す。左内申すは、我等は常々に武道嗜み候故、出陣とても何の支度なし。何れもは、常は能・囃子・連歌抔にて、遊び居て、陣触の時、俄に忙しく御座候。我等も能・乱舞、好にて候へば、皆方々へ役者を呼び、隙なく〔〈してイ〉〕参らず。陣触之ありと、皆々出陣の支度にて、能もなく役者隙なる故に、一入能を致し候。明日討死も知れざれば、心を慰むとて、笑ひけるとなり。関ヶ原陣の前後、も、会津へ御発向とある時、掛硯に金銀の帳あり。我れ討死せば、焼捨てよと申付け、永楽一万貫〈黄金万両なり〉を、景勝へ進上し、御事は闕げまじく候へども、私は明日にも討死致し候へば、入り申さず候とて差上げ、傍輩中へも、金銀を配り、陣用意をさせけるなり。蒲生宰相殿代に、左内病死する砌、遺物として黄金三万両・正宗の太刀一腰を、忠郷へ差上ぐる。又黄金三千両と景光の力を、中書殿へ進上す。傍輩にも、夫々に遺物遣し、日来の借りし手形箱一つありけるを、焼捨て申候由。
一、松川合戦の砌、青木新兵衛、殿して隠なき働し、其上、政宗と出合ひ、甲の立物を突き折り【 NDLJP:260】候。総て、若き時より十六度の働あり。景勝、米沢へ移され候時分、暇出で浪人しけり。越前黄門秀康卿へ召出さる。永井善左衛門も召出されけり。加賀肥前守利長へ、茶の会にて、黄門秀康卿御越し、御相伴に政宗・堀丹後守直寄・半井驢庵参候致され候砌、数寄屋にて、政宗申され候は、今度奥にて骨折り候能き者共を、黄門様には召出され候て、御重宝に存じ候。青木新兵衛、鳥毛の棒の黒縨・十文字の鑓、瓦毛の馬に乗り候。中々鬼にて御座候と申候由、大坂両御陣にも、手柄あり。後は法体して、方斎と申候。落合卜安田、青木事を永井善左衛門と取違へ、政宗申され候事に付き、秀康様へ落合主膳申したる事あり。故ありて記さず。
一、小田切所左衛門は、後才伊豆守と申し、法体して道二と申候。加州へ召出され、大坂御陣に、真田丸へ付き、手柄之ある由、是も一代に、十三度の場数と承及び候。もとは大御所様へ仕へ奉り、長久手の御一戦に、御馬に著き候十四人の内にて候なり。
一、永井善左衛門、一代十八度の覚にて候。就中、会津・福島表にて、物見に出で、菖蒲ばえに罷在り候草伏六人起り申候を、四人討取り、甲首を鞍の四方手四所に付けて、物主の本庄繁長へ罷出で候由、永井、後は御旗本に召出され、御鑓奉行仰付けられ、法体して道存と申候とかや。
一、本庄繁長は、上杉一門にて、若年より次郎といふ。後は越前守と申候。一代戦功、百度に余り、上杉家にて十万石程の大身なり。永禄十一年に、輝虎の気に違ひ、本庄へ引籠り、謀叛せしに依つて、謙信、直に馬を出され攻められけれども、落城せずして、天正元年より六年の間、出羽の庄内迄切取り、弥〻大身に罷成り候。天正元年に、繁長、色々侘言致し、法体・染衣にて降参仕り候。其身、雲林斎と名を付け候を、謙信、咎められ候へば、雨順斎と改め申候。謙信逝去の後、三郎と景勝、兄弟家督を争ひ、合戦ある時、繁長一廉の忠戦致し候故、景勝より、上杉十郎憲景一跡を、繁長に宛行はれけり。十郎は三郎方にて討死す。繁長、自分として、出羽庄内の領主大宝寺義興と取合ひて、大宝寺を攻亡し、其の跡を我が二男千勝丸に与へ、大宝寺義勝と名乗らせ、景勝にも伺はず、秀吉公へ御礼致させけるに依つて、景勝、大に咎め申されしかば、繁長、越後を立ち、京都へ引込み浪人したりけり。斯くて、景勝、会津へ所替の節、赦免にて上杉家へ帰参仕り、会津の内森山の城に罷在り候。其後、福島の城主に申付けられ候。此本庄越前守繁長は、十三歳の時、一族の鮎川などいひし剛敵を討平げ、武勇【 NDLJP:261】智略、世に稀なる大将たり。最上義光と繁長取合ひ、出羽国千安表十五里原合戦の時、最上方の大将は、草岡虎之助・東禅寺右馬頭にて、初合戦あり。本庄繁長打勝つて、草岡虎之助を討取りけるに依つて、最上方敗軍す。東禅寺右馬頭は、首一つ提げて、越後勢へ打交り、越後黒川の者にて候、東禅寺右馬頭を討取り候間、首を大将越前守殿へ、実検に入れ申したしと尋ぬるを、越後方の者、実と思ひ、繁長は、あれに御入り候と、教へけるに依り、右馬頭、聞くとひとしく乗付け、正宗の刀にて、繁長が著たりける甲を、丁と切りしに、明珍の筋冑を切削り、脊の請筒の鉄の口金迄、切付けたりけるを、本庄、大剛の大将なりければ、ちつとも騒がず取合ひて、右馬頭を討取りけり。筋甲の四通は、透と切削り、請筒の口金・甲の鍛迄切破りたり。大きれ物故、首に刀を添へて、景勝へ進上せしを其方手柄にて討取りたればとて、本庄に返し給はる。秀吉公御代に、伏見の御城御普請の時、景勝請取り町場の奉行にて、本庄繁長在京し、勝手詰まりて、彼の正宗の刀を売り候へば、本阿弥肝煎にて、大御所様召上げられ、本庄正宗と、異名を御附け御秘蔵なり。其後、紀伊大納言頼宣卿へ進ぜられける由、承り及び候。上杉家にては、斎藤下野守朝信、智勇兼備候忠義の大将なり。色部修理亮長実・甘糟備後守・柿崎和泉守、右の本庄繁長抔は、関東・北国・上方にも、隠なき大将にて、謙信の左右の手にて候ひき。柿崎不義之あり、天正五年に誅戮せられ候。此本庄繁長末孫は、今に上杉家に之あり候なり。
宇佐美民部少輔の事
一、宇佐美民部少輔勝行は、越後国柏崎琵琶島城主宇佐美駿河守定行が子にて候。此駿河守定行は、上杉旗下にて、大身に御座候。祖父は、宇佐美能登守道盛とて、勇智の誉を取り、殊に美人にて、新筑波集にも、詠歌に入り申候。其子は、宇佐美越中盛久、後には孝忠と申す。公方家御直参にて、上杉旗下、則ち東山公方家蜷川親元が日記、又は東福寺万里が詩集梅花無尽蔵にも見え申候。謙信実父長尾信濃守為景逆心して、越後国主上杉房能を殺し、又管領上杉顕定をも討ち奉り、上条の上杉定実を壻に取り、為景、越後を押付致し候を、宇佐美駿河守定行、廿一歳なれども、父越中守孝忠が遺言を守り、為景に従はず、永正六年より大永元年迄、為景と取合ひ、顕定の子上杉播磨守定憲を取立てゝ、合戦止む事なく候を、時の管【 NDLJP:262】領上杉憲方の下知にて、為景と和睦仕り、越後一統に治まり申候。
一、天文七年四月十一日、越中国仙檀野にて、為景討死の時、宇佐美駿河守、松倉の城に、十一日、蹈止まり、越後の総敗軍を、恙なく引取り候。其手柄、北国・関東に隠なく候。其後、三条平六郎俊景・黒田和泉守・金津伊豆守逆心し、為景の嫡子弥六郎晴景と合戦、為景次男平蔵景康の三男、左平次景房を討取り、越後大方になり候。謙信、其時は虎千代と申し、十三歳なりしを、林泉寺大宝和尚の才覚にて隠し置き、橡尾の浄安寺門密和尚へ渡し候を、本庄美作守慶秀と、宇佐美駿河守定行・大熊備前守朝秀・庄新左衛門実為と申合せ、虎千代丸を取立て、長尾平三景虎と号し、逆心〔〈脱アルカ〉〕を退治す。其砌、兄の長尾晴景と景虎と、矛盾に及びしを、景虎、大義を行ひ、兄晴景を討亡せし処に、屋形上条の上杉定実、越後の国務を景虎に譲附し、景虎、遂に越後を治め申候。其刻、宇佐美駿河守定行、多勢にて景虎へ加勢し、越後の主になし候。其後、数十度の忠戦、比類なき忠功莫大なりしが、謙信姉壻長尾越前守政景は、上田の領主、隠なき勇将たりしを、少し仔細あつて、謙信直に宇佐美駿河守に密談し、永禄七年七月五日に、信州野尻城下弁財天の池籾が崎にて、政景を船にて殺し、宇佐美駿河守も、一所に生害す。此故に、駿河守本領断絶し、其子宇佐美民部勝行、十五歳にて浪人仕り候。されども、寺泊・柏崎・新県より、沖野庄内迄は、其昔、駿河守定満〈初は定行〉が旗下たりしかば、民部は此所に隠れ居り、忍んで謙信・景勝の陣の供致し、度々手柄仕り候。是は一度、上杉家へ帰参仕りたく望む故なり。
一、天正十年より新発田因幡守・同道如斎逆心仕り、十五年迄、景勝へ楯つき候。其内、天正十二年八月、景勝出馬致され、放生橋と申す所にて合戦の時、宇佐美民部乗込み、高名仕り、甲首二つ提げ、旗下へ参り、平林内蔵助を頼みて、景勝へ目見を望み候へども、実父政景の仇、宇佐美駿河守が子なる故に、景勝、中々許容之なく、目見能成らず。其後、民部は、上方にて方々と渡り、奉公仕り候。小西摂津守行長に奉公に出で、朝鮮陣の節、先手仕り、平壊合戦の時より、朝鮮加勢の両大将の内、遊撃将軍吏儒を、宇佐美民部討取り、其首を日本へ差上げ候へば、秀吉公御直判の御感状並に家康公御直判の御感状を下され、天下へ名を揚げ候由、其後、朝鮮七年の陣中、度々手柄仕り、立花左近将監宗茂とも立合ひ、一所に高名仕り、小早川隆景より感状取り申候。其後、喧嘩仕り、大事の讐を持ち候て、日本へ立除き、越後へ引込【 NDLJP:263】み、会津陣には会津へ走込み相勤め、又越後へ引込み、大坂御陣の時、秀頼公より召し候へども、大坂へ籠り申さず、其後、病死仕り候。朝鮮陣にては、黒田甲斐守内栗山備後守利安・後藤又兵衛年房・村上彦右衛門義晴、又加藤清正内森本儀太夫・飯田角兵衛抔と、同意に働き候故、黒田長政・加藤清正・小早川隆景も、宇佐美民部をば、能く存ぜられ候由、嫡子宇佐美藤三郎、後は兵左衛門と申候。苗字を替へ、米沢に罷在り、喧嘩致し切腹仕り候。次男宇佐美造酒助は、浪人にて大坂御陣へ罷立ち、鴫野合戦には、上杉家中松本助兵衛を頼み、上杉先手へ出で、大野修理亮治長家中武笠左助と申す者と、鑓を合せ候を、上杉家老杉原常陸介・須田大炊助見及び申候由、夏陣には、江戸御使者村瀬左馬助・中山勘解由を頼み罷立ち、五月六日、道明寺前にても高名、是は松平信濃守定真見及び申され候。七月には、稲荷町にて高名仕り、加賀衆野村左馬允・篠原織部など、宇佐美造酒助手前高名を見及び候由、其後、造酒助は、水戸中納言頼房卿へ召出され候と承及び候。先祖は、頼朝右大将家の忠臣宇佐美次郎祐茂にて、代々、将軍家の直参の名家と承及び候。代々武辺の家にて、殊に駿河守民部父子は、大剛の武士と申伝へ、今は其子孫、上杉家には絶え候。
一、色部修理亮長実、武勇の者にて、一代数十度の忠戦仕り、謙信・景勝の感状を、数多持ち申候。天文十三年、越後橡尾陣より始めて、越後国中の大乱、所々の合戦、川中島五ケ度の大戦、沼田陣・厩橋陣・古河城攻・小田原発向、其外の合戦、毎度の軍功莫大に御座候。永禄四年九月十日、川中島合戦にも、柿崎和泉守景家備、危く見ゆる処に、色部修理、日の丸の小旗を伏せて、横合を入れて、山県三郎兵衛手を突崩し、柿崎を討た〔〈せ脱カ〉〕ず候。謙信も、色部軍功を厚く存ぜられ候由、謙信も、常々咄に如何なる強敵を受け、籠城するとも、蓬気なく軍して、勿論軍を廻すまじきは、色部修理なりと申され候。子息長門守は、会津にては、金山の城主に申付けられ候。
一、上杉家中武功の侍大将、大身・小身に多く御座候。大方は、御所様御存にて、時には使宜しき節に、御伝言抔も遊ばされ候由、総て秀吉公・御所公も、亦家中の侍も、智勇の武士には御懇なり。文禄元年春、高麗御陣の時、御旗本の御先手は、一番は景勝、二番は利家、三番は御所公なり。何れも、芸州広島に御著、町家に御陣取り、御所公は、二階座敷に御座候処に、景勝家中潟上弥兵衛・河村兵蔵・横田大学三人つれて、御宿陣の前を通り候時、二階の上より、【 NDLJP:264】横田大学かと御尋ねなされ、大学見上げ候へば、御所公なり。用あつて行先急がば罷通り候へ。用なくば此上へ上り候へと、仰せられ候に付き、潟上・河村をば先へ遣し、大学は二階へ上り、永井右近奏者にて、御前へ罷出で候へば、御所公は、利家・景勝、先陣を争ふ事に付き、景勝、利家を討果さんと企つる者と聞く。押す陣なれば、先後の争入らざる事なり。御所、左様に思ひ候段、早々罷帰り、直江山城守に申聞け、景勝へ異見申させ候へと、仰せらるゝに付き、大学走帰り、其段、直江に申達し、景勝も聞届けられ、殊の外、御所公思召を、忝しと申され事止むなり。斯様に、他家中の者と雖も、大学が如き勇士には、御直に御心安くなされ候に付、天下の人、望み思ふなり。
一、会津御発向前、藤田能登守取次にて、御所様より上杉家中にて御存の輩へは、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働なさるべく候間、裏切の手を合せ候へと、御意ありつるに、上杉家中の面々、御書を返し進じ申したるもあり。又有無の御返事を、申さゞる輩も之あり。横田大学は、年来御所公御懇なれば、殊更此度、御懇書下されつる由、大学、つくづく存じ候は、古は、大身に罷在り候処に、秀吉公関東御打入り、其刻、本領に放れ、浪人仕り、今僅に二千石にて、一騎合になり候へども、景勝懇にて罷在り候。唯今景勝は小勢、御所には、数万騎にて御取懸け。候に、侍たる者の主を捨て、敵方へ書通申す。事、あるべき儀かと存じ、御請の書状差上げ申さず候。景勝、小身になられ、米沢へ移らるゝ故、大学も浪人仕り、駿河へ参り候に付き、城和泉守資永取持にて、御耳に達し候へども、召抱へられず候。しかも、大坂御陣の時は、南光坊へ、大学は何方へ居候やと、御尋ねなされ候ひつる由、其時分は、出羽へ下り居申し候。御所様にも、大学をば勇士と思召され候事を、紀伊大納言頼宣卿聞召し及ばれ、其時は、常陸介殿と申奉り、未だ十三歳なれども、勇知厚き御器量にて、名ある武功の侍を、御所望の御心深く、何卒、大学を召抱へられたく思召し、板坂卜斎を以て、柳生但馬守宗矩に、内意仰入れられ、大学事を、伊達政宗へ御尋あり但馬守、自分に尋ね候様に承候へば、政宗聞きて、此大学は、人も知りたる者なり。一万石計りにて、堪忍致し候はゞ、我等も望に存じ候と返答あり。奥にては、千五百・二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落し、我が城をも攻められ候事、数十度にて慥なる武士と、政宗物語ありしを、但馬守、卜斎に語る。卜斎、其段を常陸介頼宣も、〔〈脱アルカ〉〕半卜半左衛門召出され、御感斜【 NDLJP:265】ならず、差物迄召寄せられ、御手に取らせられ、御覧成され候に、二本ながら吹貫に、鉄炮の玉の跡十計り宛あり。則ち両人へ御感状を下され候。後に寺村は六千石になり申候。栗生美濃守と名をかへ、景勝へ罷出で、其後、蒲生秀行へ帰参仕り候。
一、志賀与惣右衛門も、元は蒲生家の侍、江州の人なり。度々の覚あり。是は委しき事承らず候。其子息は、本多内記殿に罷在り候。働の委細は、存ぜず候。
一、川中島合戦五度といふは、天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮にて合戦、是始めての合戦なり。天文廿三年八月十八日に、川中島にて一日の中、十八度の合戦、十一度は謙信の勝利、六度は信玄の勝利なり。犀川を信玄旗本にて、綱越にして、萱野へからまり、越後勢の後へ廻し、謙信旗下を突崩し、謙信敗北の処を、渡辺越中守、翔手にて横合を入れ候。宇佐美駿河守定行も、三千の備にて、大塚村に立ち候。斯様に鑓を入れ、信玄旗本を、御幣川へ追込め候時、川中にて、互に馬上にて渡り合ひ、謙信と信玄と太刀打なり。されども、川水深く勝負なし。此日、武田典厩信繁をば、謙信直に討取申され候。敵味方共に、七千余討死之あり候。三度目は、弘治二年三月廿五〔〈日脱カ〉〕夜より、明くる廿六日迄の合戦、是は勝負なく持合戦なり。四度目は、弘治三年八月廿六日、上野原にて合戦、始は信玄勝ち、後は謙信勝なり。五度目は、永禄四年九月十日、原の町にて、合戦、但し大合戦なり。信玄敗軍にて、土口といふ山へ懸り敗北、謙信大勝利にて、原の町にて休み、兵糧つかひ申され候処へ、武田太郎義信、八百余にて旗腰差を隠し、物蔭より不意に、謙信旗本を駈乱し、散々に戦ひ、謙信も自身重代の五挺の鑓の中、鍔鑓にて働き、後は彼のひふの長刀にて、防ぎ戦ひ終には武田太郎を追崩す。此合戦共に五度なり。委しき事は、五戦記にあり。
甲陽軍鑑には、謙信旗本にて脇へ廻り、信玄旗本を突崩すとあり。左様にて犀川を綱越にし、萱野へからまり、不意に謙信旗本を突崩したるなり。信玄も太刀、謙信も太刀にて、御幣川の中にての戦なり。信玄、軍配団扇にて、受けられたりとの事、越後にては沙汰なし。五箇度の川中島合戦に、上杉家中上下、謙信より直判の感状取りたるに、年号月日詳なり。五箇度の戦は、五戦記に詳なり。故に之を略す。
一、永禄四年九月十日の川中島合戦の時は、善光寺に、謙信二日逗留なり。高梨山へ懸り除くといふは偽なり。和田喜兵衛を手討は、永禄三年五月、上州高崎城下、鳥川といふ所にて【 NDLJP:266】の事なり。
一、信玄、五箇度の川中島合戦に、毎度勝れたる働あり。甲陽軍鑑には、之を記さず。誠に惜しき事なり。
一、上杉景勝の実父長尾越前守政景は、越後の国上田城主、武勇智謀勝れたる名将なり。若し別心などあつて、武田信玄と一味あれば、大事なりと、謙信、心許なく思ひ給ひ、政景を殺さんの志あれども、上田家中、多勢にて起らん事を思慮し、其頃、信州野尻の城主宇佐美駿河守定満を呼び、謙信密に相談あり。駿河守諫めけるは、政景は、家の総領筋にて姉壻なり。見えたる悪事もなきに、誅せらるゝ事不義なり。其上、政景を亡したりとも、上田一統に起りて、国中大乱となるべし。思ひ止り給へと言へども、謙信承引なし。駿河守思案して、左候はば、政景をば計果すべし。跡の上田も、起らざる分別仕り候。我等に任せ給へとて、野尻の城へ帰り、城下に弁財天の池とて、二里余の湖あり。いつも六七月には、船にて鯉・鮒を取る。定満、船の底に穴を掘り其れにのみを差置き、政景の川狩に託け、たばかり寄せ、彼の船に、駿河守も乗つて、政景と同船し、籾が崎より漕ぎ出し、湖水の深き所にて、のみを抜いて、船頭共は皆游ぎ逃ぐ。水涌き入り船沈んで、政景も定満も、共に生害、政景三十九歳、駿河守七十六歳なり。野尻城下も、上田城下も騒動斜ならず。謙信も斯様の事とは、思はざる故に、驚いて駿河守定満が遺言状を見給ふに、其文に曰く、政景を亡し給ひては、謙信末代迄の悪名なり。斯様に政景を殺し候へば、上田も起らず、無事に済み申候に付き、斯くの如くに仕り候。此上は、駿河守定満逆心か、又遺恨故に政景を殺すか、何れ不届を仰せられ候ひて、宇佐美本領を御取上げ、跡目御潰し、一子民部少輔勝行をば、御暇下され、追放なさるべく候。定満跡目御立て候はゞ、上田衆、意趣残り、始終乱の基になるべく候。謙信の御為め、国の乱れざる為めに、我等跡目を御潰しなされ、罪科をば皆我等に御被せ候へ。是乱を鎮むる仕方にて候と、書遺き候を、謙信見給ひ、駿河守は古今稀なる忠義、彼の身を殺して、以て仁を成すとは、之なりと落涙数行なり。されども、駿河守が子民部勝行は、所領没収して、浪人となるなり。謙信を十三歳より守り立て、越後の主とし、今又国の為めに死せし事、忠義世に稀なる事なり。
一、新発田因幡守治長は、信長の内通にて、天正十年の春より、景勝へ敵対せしが、思の外、【 NDLJP:267】其年に信長公亡び給ひ、新発田力を失ひ候を、景勝出馬して、一帰られ候へども落城せず。天正十五年迄持こたへる。景勝は、奥州堺赤谷の城小田切三河守が、会津盛隆へ一味し、兵糧を運送する迄察して、景勝直に赤谷の城へ押寄せ攻め落し、小田切が首を取り、其地より新発田城へ寄せ給ふ。其道二筋あり。近道には、三淵といふ大切所、一騎打の所にて、道より下は、千丈計りの崖にて、下は大海の淵なり。遠路は平地なり。皆近道を押寄せ給へと勧むるに、景勝の曰く、兵法に迂を以て直とし、患を以て利とすと見えたり。大将は近きとて危き道は行かざる者なりとて用ゐず。新発田が兵に、波多野忠右衛門秀綱といふ大剛の兵あり。六年此城持こたへたるは、赤谷城より兵糧・弓・鉄炮を、会津より運び続けたる故なり。赤谷落城の上は、新発田も落城なり。三淵の上なる一騎打は、道端の岩穴にかくれ居て、景勝の通り給ふ所を岩陰より飛出で、待懸けけれども、景勝智将にて、遠き本道へ廻り給へば、波多野が謀も叶はず、新発田因幡守一類、悉く滅びけり。景勝の智勇を、世以て美談せしとなり。
近世軍記下大尾