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謙信家記

 
松山城攻山根城攻の事仁田山城攻 東上野の内輝虎公越中発向所々軍の事越中古志郡巣吉山城攻の事輝虎公諸大将批判の事輝虎公諸大将の政道心底勢の分限記さるゝ事越中の神保智略叶はざる事賀州松〔住イ〕の城攻の事輝虎公備定の事輝虎公生死の事信州海野平合戦の事景虎公関東勢催さるゝ事小田原発向の事信州川中島合戦の事信州塩尻合戦の後板垣信形敗軍の事太田三楽犬数寄の事信州笛吹峠合戦の事下総国こうのだい合戦 〈の事ノ二字脱カ〉北条氏康公生死の事武田信玄公生死の事江州姉川合戦の事
 
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謙信家記 三帥戦略
 

 宇佐美勝正 手稿

 
松山城攻山根城攻の事
 
武田信玄公・北条氏康公、両旗合せて上下四万四千余にて、武州松山の城へ押寄せ、十重二十重に囲みて攻めらる。城主友定、城を明渡す。此城、越国の輝虎公の旗下の城なり。落城二日過ぎて、輝虎公、上州前橋の城に着き給ふに、早や松山落城なり。輝虎公、太田三楽といふ侍大将に向つて、事の由を委しく聞き給ひて、友定、人質を呼出して成敗せられ、三楽に向ひて仰せ〔被申イ〕けるは、此辺に、氏康の持城はなきかと尋ね給ふ。三楽承りて、山根と申す所に、氏康の持城御座候由申す。輝虎聞きて、其儘利根川三本木の渡りに、船橋を架けさせ、武田・北条両家へ使者を立てらる。其使札に曰、
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今度輝虎為松山後詰、越国を打越え罷向ひ候と雖も、友定不叶落城之由、遠国無力数日を送り、昨日、当地前橋へ参着仕候。定而御両将、輝虎たぎらぬ後詰と可思召。所対我一人無面目候。乍去輝虎是まで参り、無参会空鋪罷帰事、偏に氏康・信玄に対し、弓箭の慮外に似申候。然るに氏康之御領地山根の城を輝虎攻申候間、無用と思召候はゞ、両旗を以て被防候へ。其時我れ城を巻きほぐして、退散申すか。兎角明日は卯の刻に罷立候。

とある状を差越し、其後三本木の渡りを打越え、舟橋の綱を切らせ、北条・武田の陣取の前を通り、山根の城へ押寄せ、一日一夜に、彼の城を攻落し、男女共に三千計切り捨て、次の日、又本の道を帰り、則ち前橋の城主長尾鎌忠、山根の城へ案内せざるとて、輝虎手討にせられ、鎌忠が郎等二千計り討殺し、前橋の城に、北条丹後といふ侍を差置き、三日の内に、越後へ帰城せられけり。輝虎公、誠に強き働とて、坂東武士舌を振ひけり。氏康公は、輝虎をくひとむべき由を宣ひけれども、信玄公、頻に止め給ひけるとかや。委しく古書に在り。

 
仁田山城攻 東上野の内
 
越国輝虎公、東上野仁田山といふ所に、氏康公旗下の城あり。彼の要害へ押寄せ給ふに、城中の者共五六十人程人数を出し、爰の谷彼処の峯の木蔭に旗を巻きて、伏せ置きたり。輝虎の軍使宇野といふ侍、小倉山といふに打上りて、要害の様を見て立帰り、輝虎公に申しけるは、城内の体を見候処に、軍勢を出し、向の谷峯に隠し置きたると見申候間、此御了簡遊ばされ、軍の御下知然るべき由を申しける。輝虎公宣ふ、必定人数を伏せ置きたると見えたる奥意は如何にとあれば、宇野申しけるは、伏を置きたると見申す事は、向の峯へ、鳥二つ飛行き、松の木に止り候と見申す処に、彼の鳥驚き、谷へ飛行き、又谷よりも驚き飛びて、要害を打越え飛去り候。又、今此時節に、木樵山人の、谷峯にあるべしとも覚えず候。又鹿むじなの居申すにも非ず、只伏兵あるべしと存候とぞ申しける。輝虎、聞き給ひて、さなれば敵を招くに、此敵曽て出間敷と見えたり。さもあらば、小城に長陣して何の益あらん。先手を遣して、早々城を攻破るべきと仰付けられ、逸り過ぎたる若者共、頓て城へ押寄する。案の如く、谷峯の伏共起り合ひて、先手を討立てたり。輝虎、此由を見給ひて、自ら采配を取りて、早々せんといふ所へ引き給ふ。城内の者共、輝虎をあざけり申す事夥し。輝虎公、悪口を悦び給ひて、則ちオープンアクセス NDLJP:45其夜に盛返し、即時に城を攻落し、撫切にし給ふなり。城中の兵共、強敵の輝虎に塩を付け、油断したる事、天運の尽きたる所なり。仁田山合戦仍如件。
 
輝虎公越中発向所々軍の事
 
越国輝虎公、越中・加賀・飛騨の国を心懸け給ひて、一年前より、心安き侍を、三箇国へ二人宛、鮭の商人に拵へ、国の険難、或は輝虎に志あらん侍の方へ、策略の為めに差越し給ふ所に、六人の侍共、三箇国を廻り、ありとあらゆる城の絵図、或は山川沼ふけ川迄の甲乙道筋迄を、絵図になして来り、亦、志の武士の方より、侍を差添へ、人質に起請を添へて参りければ、輝虎大に悦び、侍大将・足軽大将を呼び、軍評定あり。吉日を選びて、早や越中迄退治の事定まりけり。出陣法度書に曰、

、今度越中表退治に付て、諸軍勢法に過ぎ、刈田乱妨可令停止事。

、諸軍勢酒会或は振舞興行無用之事。

、何様之意趣遺恨雖出来、之陣中堪忍仕、有帰陣以後、是非之儀可致之事。若此旨相背、於喧嘩口論者、可曲事

、陣中何様之不思議、雖出来、其当組而、組頭可是非の穿鑿、余組より決申間鋪事。

、戦中懸引之〔儀イ〕は、其組之将の下知次第に可相守事。

、組頭或は有士を、戦中に見失為討、軍終り陣中へ来者堅可戒事。

、於陣中喧嘩口論或放火〔火事イ〕或夜討雖有之、其組々にて可有理非穿鑿。余組は各当所を守而、其将々之可下知事。

 此外雖有之文字、断れて文体不続なり。

 一、糧は一人に三人前の積に拵へて可持事。

 右軍法なり。此外もあり。文字きれて見えず。

然して輝虎公、国の仕置被仰付候て、六月中旬に越国を立ちて、越中表へ出でられける。人数上下合せて一万三千の着到なり。然るに越中国糸魚川迄、相違なく押出され、一日糸魚川に宿陣あり。先手三千を、半日先へ押出し給ひけり。然るに先手より、飛脚到来していひオープンアクセス NDLJP:46ける様は、ひめ川といふ処へ、敵張り出して、川を前に当て陣取り申候。其勢五六千程の由を告げたりけり。輝虎聞き給ひて、其日の申の刻に、糸魚川を打立ちて、夜もすがら押行き給ひけり。然るに先手、ひめ川に着きて、向ひを見渡すに、川を十余町隔てて、軍兵一面に立ち、九備に敵は備へたり。勢の分際は、五六千程にぞ見えたりける。輝虎、此由を見給ひて、諸大将を集め仰せけるやうは、今此川を渡し、是よりすぐに海道を押寄すべきか、又、是より上に、道一里を廻り、上の瀬より打越ゆべきか、如何あらむと仰せける所に、柿崎といふ侍大将、進み出でて申しけるは、尤の御意にて候へども、今此期に及びて、諸軍川を渡し候はゞ、敵俄に押寄せ、討ち申すべく候。其仔細は、態と味方の川を越え候様に、敵行を致し、攻法を背き、十余町を退きて、陣を張り申候事、偏に此行にて御座候と存候。然れば敵の好む図に引懸けられ、たとひ理ありと申候とも、危き御事にて御座候。兎角我々存知候には、今暁此の川端に御陣を召され、戌の刻に及び候時、然るべき将を一両人仰付けられ、其勢千計り、上の瀬へ遣され、味方御本陣を始め、雲火迄皆消し候て、上の瀬に雲火を手に手にたかせ、諸陣上の瀬へ皆向ひ候体を見せ、其後川立を、五三人向へ越え候て、敵に横目を付け、其相図を以て、諸兵を御越なさるゝを尤と存候。其上、五月雨の末にて候へば、川水ひくを〔干候イ〕待ち候ても、日数を送り申すべく候間、此了簡を御分別候へとぞ申しける。輝虎公、此段聞召して、尤も然るべし。我も斯くこそ思ふなれ。貴殿計らひ申すべき由仰せられける。柿崎承りて、先づ諸軍の仮屋をぞ立てたりける。然るに日暮れぬれば、前の如く然るべき大将一人差添へ、其勢一千余人、上の瀬へぞ廻しける。其後に、総陣屋の火を消しぬれば、上の瀬に、雲火数箇所に焚き立てけり。敵此由を見て、扨こそ輝虎、上の瀬へ廻りぬるぞ。爰を渡さすまじきとて犇めきけり。川立、敵陣の様子を委しく見済して、一人罷帰りて申上げぬれば、輝虎、悦喜に思ひ給ひて、いざ時分能きぞ、川を渡さんとぞ仰せける。柴田、此由を、承り畏りて候とて、つくり橋といふ物を俄に懸けて、人音もなく、其夜の寅の刻には、皆渡し済しけり。扨其後に、諸軍を十一軍に備を割りぬれば、夜はほのと明行きけり。敵此由を見て、一戦にも及ばず引退く。勝に乗りて、輝虎自ら攻鼓を打立て、懸り給へば、敵軍悉く敗軍して、同国戸山の城へ引籠る。其日の迫合に、敵を討取る事、上下二千五百余の首帳を以て、其日の午の下刻に、勝鬨を取行ひ、直に戸山へ寄せらるべき由を、輝虎公仰せられ〔宣ひイ〕けれども、家老め申しけるやうは、一昨日も昨晩オープンアクセス NDLJP:47も、二夜休み申す事もなく、今日も終日相戦ひ候へば、何れも疲れ申すべく候。人は気分強き事も弱き事も、九分十分の物にて候へば、定めて諸軍草臥れ申すべく候間、一両日は此処に御宿陣御尤に候。兎にも角にも、軍は後の勝をこそ、本勝とは申候間、只今御逗留尤の由を申上げければ、輝虎公、尤と同じなされ、則ち先陣を後陣にくり、用心稠しくして、其夜はひめ川の端にぞ陣取られける。陣取の絵図別書に有之。然して一日対陣なされ、横目の者を差越し、敵の取沙汰を聞かるゝ所に、敵の取沙汰に曰、輝虎強敵にてあるなれば、定めて余日なく推寄すべき間、此城を二千にて堅め、残る人数をば、戸山の川に付け、一里程城を立退き、一日伏せ置き、夜に入りて、輝虎旗本へ、無二に切懸り討すべきなり。一日には、此城を、輝虎如何に強将なりとも、攻め敗る事あるまじ。さもあらば輝虎を打散らすべし。其内に加賀・能登の後詰押し来るべし。然るに於ては、輝虎敗亡疑あるまじなどいひ、僉議区々なり。然れども寄合大将なれば、評議定まらず候と、委細を、使の者罷帰りて申上げぬれば、輝虎、懇に聞き給ひて、家老を集めて、軍の評議をせられける。輝虎曰、各には何と思ひ給ふぞ。古今の軍略を見るに、敵備を設け、或は城郭を丈夫に構へ〔備へイ〕、相待ち備へ、或は待懸くる城へ押寄せて、利を取る事、十が一もあるかなきなり。然れば軍の根本は、不意を討つより外に、利を得難し。いざや夜懸に押寄せ、有無に蹈散らさんと思ふは如何に。其上寄合の敵をば、大軍を恐れず、一軍早く敗るに如くはなし。如何あるべきと仰出されける所に、直江申しけるやうは、御下知尤に候。其上今の代の城攻は、夜戦第一に御座候。其仔細は、鉄炮と申す物出来仕り、人数を損さし申す事、古法の例に過ぎ申候。先へ心を懸け候者は、鉄炮の的になり申候。敵は屏・矢倉を楯に取り「待懸け候なり。味方は皆的になり候〔てイ〕ば、乗敗らんと進み申す者は、死し申候。爰を以てさげすみ候に、中々寄手の損は、つくし難く覚え候間、相懸に夜戦御尤と申上ぐる。輝虎公尤と〔同心イ〕し給ひて、其儘行軍を定め、未だ横雲引かざるに押寄せ、上下三千計り討捕り、即時に城を乗取り給ひけり。城内の人数、漸くに二千計りに討ちなされ、舟橋を打越え、あんみやうじ山といふ所に陣取りける。斯かる所に、加賀・能登両国の軍勢、夜を日に継いで馳せ来りぬれば、あんみやうじ山の軍勢、程なく一万三千余騎にぞなりにける。輝虎公、此様を聞き給ひて、即ち戸山の城に、柿崎といふ侍に、五千の人数を差添へ、越国へ帰陣被〔可有イ〕成由を仰せられける所に、家老共申しける様は、迚もの儀に御座候間、あんみやうオープンアクセス NDLJP:48じ山の敵を御払ひなされ、高岡まで御手に入れられ、越中一国を御仕置なされ、御尤に候。其上敵は、臆病神の付纏ひ候て、夏野のはいし追立て申すよりは、また心安き御事に候。又勝つて甲の緒を締めよと申す御事は、時により、或は其敵に依りての儀なりとぞ承り及び候間、兎も角も、只御一戦尤と申上げぬれば、輝虎公の曰、尤も各の申分、我等も内々は、左様に思ひ候へども、我れ陣を張りて、戦を望み、備を立てあらば、敵よも取懸くる事あらじ。さもあらば、味方より率爾に軍を仕懸けんもなるまじ。其仔細をいふに、敵は堅陣を山に取りて、味方を目の下に見下すなり。殊に荒手の大軍、勇気を励まし、以前の恥を清めんと思ひ、死を軽んずべし。又味方は、長陣度々の迫合に疲れたり、或は武辺を極め、己が身構計りすべし。爰を思ふに、理ある事遠し。又敵の油断を窺ひ日を送り、長陣を張りては、治めもやらぬ敵地へ、深く蹈入りたれば、民の心も覚束なし。彼方此方とある内に、跡を取切られ、禍近きに起り、結句治めし国をも取返へされなば、輝虎が若気の至り、武略の薄き所なりといはれなば、今迄の武略、水の淡ならん間、此頃切取りし所々在々の仕置して、堅く治めんは如何に。此此城に、柿崎に五千差添へて、敵を守らせて置故〔おかばイ〕、よも押寄せて、攻め落とさるゝ事難し。其上我帰陣の様を見せ、半途に控へ、六七日も敵の様子を見て、敵を引懸けて、たやすく討つべきなり。若し又敵も帰陣せば尤なり。此了簡は如何にと仰せける。家老衆申上ぐるは、御意の趣、偏に根を深くし、葉を制する御事なれば、御尤に候。併し我々共存候は、糸魚川或は大津辺の城に、味方の御勢を籠められ候へば、御跡を御気遣に被思召儀にては無之候。其上味方の諸軍勢、是非今一度御一戦あれかしと勇み申候。又軍法に曰、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和にしか〔じとイ〕、孟子も言を出され候。天の利は、地の利に如かざれば、第一、人の和に如くはなし。又黄石公の言に、敵に依りて、転化すとかや承り候。今此御合戦に相当り申して候間、是非御一戦と申上ぐる。其時輝虎公の曰、我も内々、奥意は左様に思ひしかども、何れも諸軍勢の心をも引き、或は各存ずる所をも窺はん為めに、帰陣の言は言出しなり。天地人の三徳、第一人和なりとて悦び給ひて、扨其後に、手分をぞし給ひける。越国出陣の砌は、一万三千余騎なれども、糸魚川大津の軍勢、或は爰彼処より、降参の武士馳せ加はりける間、戸山の着到、上下二万余とぞ記しける。然れども輝虎公、大軍は、思ふ様に従はざるものなれば、所詮なき事なりとて、勇士を選み、或は足手頑丈なる者ども勝り、八千余オープンアクセス NDLJP:49騎相従へ、残りて一万二千をば、戸山に差置き給ひて、則ち上下八千を率し、戸山の舟橋を打渡り、一日対陣をなされ、敵地へ忍の者共を差越し、敵の風聞を聞届け、明日一戦とぞ聞えける。其夜の亥の刻に、忍の者罷帰りて、相言葉・相印、こまかに聞届け申候由、委細を言上申しけり。去る程に夜明けぬれば、総軍払つて押行きけり。彼方は高岡、此方は戸山との間に、あんみやうじ山といふ所あり。加賀・能登・越中三箇国の諸軍勢、上下一万二千計りにて、先度の恥を清めんとて、勇気を励まし、十三箇所に陣取りたり。輝虎勢、上下八千を、八手に分けて備へたり。敵・味方の間、漸く十七八町程隔りける。互に軍を好む備立にて、申の刻迄、足軽迫合にてぞ居たりける。然るに謙信公、毎日敵の合言葉・合印は能く聞かれければ、我勢五百騎勝りて、敵の合印・合言葉をいひ含め、扨其後に、八手を三手に組合せ、先陣一軍、申の下刻より軍を始め、西の刻迄少々戦ひ、相引に引きたりけり。右の五百の輝虎〔謙信イ〕勢、敵と一つに入交り、あんみやうじ山へぞ引取りける。然るに敵は、右の山に陣取りたり、味方は山をかけて控へたり。互に両陣相去る事、廿一町なり。敵味方陣取終りぬれば、戌の刻になり〔ぞイ〕にけり。輝虎公、諸軍勢は、一人に三人前糧を拵へて持ちける故、用意する間もなく、相認めたり。諸軍を集め、輝虎下知に曰、七千五百を四つに分ち、先づ千の人数を後陣に置かれ、扨五百を遊軍になし、但両方にて、是も千なり。二千の人数を一手に組み、先手に定め、扨二の手千五百、脇備千宛なり。右の脇備に、輝虎おはしまして、旗本の備はなし。然るに、先手は無言、二の手は二町程引下り、貝・太鼓・鯨波を上げよ。先手は乱れて、二の手は備を堅くして、討入るべき由を云含め、扱其後、味方討なきやうに、合印・合言葉を言付け、脇備と遊軍は、見物すべし。若し味方敗軍せば、遊兵横鎗を入れよ。それにても敗せば、両の脇備四方へ開き、味方を引かすべし。敵勝に乗つて追ひ来らば、後陣より懸けよと、如何にも細かに言含め、子の下刻に打立ちて、軍を始めらるゝと、一支も支へず、敵敗軍する。追討つ事廿七八町程、又右に、先へ越されたる五百、鯨波を揚げ、前後より包みたる上、敗亡沙汰の限り、敵を討取る事、八千五百三十余の首帳を以て、其夜の曙に、勝鬨を取行ひ給ふなり。此軍にて、越中大退治なり。但し越中国くりから峠を越し、加賀国〔つイ〕はたといふ所迄、輝虎公御働き候事、書付之あれども、文字切れて見え分けざる故、不書如件。
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越中古志郡巣吉山城攻の事
 
輝虎公、家老分侍大将〈名字名切れて見えず〉一人、越後国吉志の郡巣吉すよしといふ所に、要害を〔構イ〕へて、守護には置かれける所に、仔細ありて、此者一両年の間、春日山へ出仕せず。剰へ所々我儘をなし、諸役をも勤めずして居たりけり。此様子〔奥意イ〕は、輝虎公に不足はあらねども、直江山城といふ臣を恨む意趣あるの儀なり。輝虎、此事を聞き給ひて、山城丹後といふ侍に仰付けられ、是非の様子を聞き、両人の仲を直し候へとの由をぞ仰付けられける。御意承りて、両人の所存を聞届け、即ち仲を直しける。山城守、理なりけるとぞ聞えける。然れども後に和睦もなく、本の如くなりければ、其時輝虎聞き給ひて、両人の意趣は、私の事なり。我に対して、出仕をもせざる事は、臣として君を軽しむるに相似たり。理非の儀は如何にもあれ、一人は、我に対し逆臣なり。早々直江に罷向ひ、彼を討つべき由を仰付けられ、同じく柴田を差添へて、向はせ給ひける。此は霜月中旬の事なれば、北国は第一寒国なり、中にも越国は、雪深く降りける国なれば、馬の足叶はず、皆歩行立にてぞ寄せたりける。城内の人数上下五百人、寄手は二千計りにて攻め戦へども、要害嶮岨にして、殊に大雪降り、足手かゞまり、思ふ様にもならざりけり。然れば城中の者共、大木を切懸け、攻上らんとすれば、皆大木に打たれて、進み兼ねたりけり。其上深かりし雪なれば、そこへぬかりて、はひる事不利なり。かんじきといふ物をはいて走り廻り、自在ならずして、攻め倦みてぞ居たりける。此由、春日山へ聞えければ、北条丹後に、増田を差添へて、千五百をぞ向けられける。然れば北条、巣吉に着きて、直江・柴田と軍評議して、上の山へぞ廻りける。雪路を平路のやうに上り、一日の内に攻め敗りける。雪道〔のイ〕行品、別書に有之。総じて輝虎流の軍略に、たてもときといふ事有之。皆山城を攻むるに、石弓・木弓に当らずして能き事なり。龍陣或は鉾矢の備に組合せて、是を用ふる口伝あり。仍如件。
 
輝虎公諸大将批判の事
 
去る時輝虎公、侍大将或は心安き侍衆を召寄せ給ひて茶の会をなされ、其後に仰せけるやうは、信玄・氏康・信長三将、坂東にて名ある大将なり。是の三人の大将の政道、或は軍の取行一オープンアクセス NDLJP:51色なるか、亦色々違ひたるか、何れもの思ふ所、一手宛申すべき由、仰出されける処に、甘糟近江が申しけるやうは、我等共推参ながら、朝暮此三将をさげすみ見申して、我は相模牢人・甲州牢人・尾張牢人に、政道の道々相尋ね申す処に、三将三色にて御座候と申上ぐる。謙信聞き給ひて、三色なるといふ謂れは如何にと、尋ね給ふ。其時近江守申上ぐるは、智策武の三略と申す事、軍法の眼に仕候と承り及び候。然れば此三将、一略宛得てられたる道御座候と申す。輝虎の曰、其一略づつ得でられたるとある処は如何に。近江申上ぐる、氏康公、智略十分にして、策五分にて、武三分の大将にて候。又信玄公は策略十分にして、智略五分なり。武の儀打合ひ申す儀、一度も無之故、計り兼ね候。併し承り及び候に、氏康公同じ事と存候。然れども信長公、弱敵と計り迫合なれば、委細の儀述べ難く候と申上ぐる。謙信曰、然らば三将乍ら、二略に叶ひ、一略欠けたりと見えたり、如何と問ひ給ふ。近江守又申上ぐる。尤も御諚の通にて候。推参ながら申上ぐる意趣は、屋形様此段を御合ありて、智策武の略、分別尤に候。智略は氏康公、策略は信長公、武略は信玄公の、此三将の要を御胸中に納められて、尤に候と申上ぐる。輝虎公聞き給ひて、打ちうなづき給ひて、何れもへ酒を下されけり。
 
輝虎公諸大将の政道心底勢の分限記さるゝ事
 
去る時輝虎公、家老衆を召寄せられ、仰出されけるは、我れ諸国の大将の心底、或は政道、或は其国の勢の多少、又は城郭・山川の険難、今に細に知らざる事、偏に智の足らぬ所なり。是を知るべきやうを案ずるに、頼もしき侍を商人になし、諸国へ遣し、商を催す様にして、国の絵図を記させ、勢の多少迄を聞き極めて、胸中に治むべきと思ふなり。尤も一国に、人数何程あるぞなきぞ。又政道は、仕置にて大方知れ候ものなれども、正しきを知らざれば、危ぶむ所も悪し。又人の唱にも違ふ事もあり、又真の事もある物なれば、心元なき事なり。如何とありければ、家老共、尤に御座候とて、譜代頼もしき侍十二人に仰付けられ、諸国巡見し、諸大将の政道、或は勢の多少、或は国の険難・城郭迄、委細に書付けて、其年中に罷帰りけり。是れ輝虎三十より内にて如件。
 
越中の神保智略叶はざる事
 
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越中の国の住人神保越後、輝虎公に度々仕付けられ、領地を放火せられ、互に敵々にして、其遺恨、肺肝を運らしける。去時、神保、輝虎公を計りけるやうは、我が家老の内、或は外様の諸士、其外領分内地下人〔无イ〕によらず、みめかたち優なる若衆を選みける処に、東国牢人〈名字名切れて見えず〉 持ちける子に一人、誠に其さま優なるを選み出しける。然るに神保、件の子に向つていひけるやうは、汝を頼み、命を貰はんといふ。其時、彼小姓いひける様は、いか様にも御意次第と申す。神保満足して、件の小姓を結構に仕立て、小姓に申含めける様は、貴殿越後に行きて、才覚を廻らし、輝虎公を頼み奉公を遂げ、透間を窺ひ、輝虎を一脇刺に刺殺してたび候へ。若しさもあらば、貴殿が父に、越中半国を与へんといふ。小姓聞きて、未だ十六歳になりけるが、如何にも機嫌能く申しけるは、誠に我を斯く見付け給ふ事、偏に天の恵と申し〔いひイ〕ながら、某弓矢の家に生付きたる道なり。何卒智略を廻らし申すべしと、委細申請け、越後の国へ牢人す。扨其後に、彼小姓、越後春日山へ来りて、兎角計りけれども、中々法度きつくして、一夜の宿をも借り得ずして、やう春日山の近郷長峯といふ〔処イ〕の小寺へはひり、兎角を送りける処に、去る時輝虎公、海面へ舟遊山に出でられける処件の小姓、御帰に罷出でて是非御奉公をぞ望みける。輝虎公、件の小姓を見給ひて、安田といふ侍に預けられ、本国は何処の者ぞ、父は何といひける者ぞ。ゆかりを委しく聞かれ、其首尾を以て、召仕はるべきとぞ宣ひける。安田承りて、本国先祖をぞ尋ねける。然るに彼の者申す様は、本国は、関東の者にて候へども、国乱るゝによりて、信州へ牢人仕る処に、父は一年、こあらま合戦に討死仕り、母一人御座候と申す。又安田問ひけるやうは、其母は、何処にあるぞと問ふ。其時又申す様は、信州更科と申す所に有之と申す。安田、委細を聞きて、頓て飛脚を差越し、事の様を尋ぬれば、それといふ者一人もなかりける。斯くて使者のもの罷帰り、件の由を申す。安田、此由を聞きて、此者に問ひければ、未だ若年の余りにや、色を変ずる。扨其後に、前の様子ども、化変しければ、件の品々、一々言上しければ、輝虎公、不思議を立てられ、国中を払はれける。其後、法度弥〻厳しくなりければ、神保本〔意イ〕を遂げ得ずとかや。

 
賀州松〔住イ〕の城攻の事
 

天正五丁丑七月中旬に、越後国輝虎公、越中へ発向あり。相伴ふ人々には、かちはた田あろオープンアクセス NDLJP:53う西殿〔藤イ〕・竹股・柿崎・いろへ・本〔庄カ〕清七郎・あかつ・安藤・長尾小四郎・須田・安田・中条、宇佐美を先として、都合其勢二万余騎の軍兵を相従へ、越後を立ちて、越中の国神保の城へ押寄せ、爰彼処神保領分を放火し給ふ処に、同国に差置かれける川口豊後守と申す侍大将、輝虎公に向ひいひけるやうは、委しき様子は存ぜず候へども、当国の風聞申すを承り候処に、信長去年、三州長篠にて、勝利を得、武田勝頼には、家康を差向け、信長は、江州安土に居城を構へられ候。此元を申すに、偏に輝虎公上洛の道を、妨ぐべきとの支度にて御座候。其上当国の神保を、信長の妹婿に致され、忍びに合力を仕られ、屋形様へ楯を突き申せとの奥意にて御座候間、此了簡を御分別尤と申す。輝虎具に聞かれ、扨は信長、我を計らんとの儀、中々、思寄らざる所なりとて、則ち白屋監物に西藤・長尾、此三頭に、五千余騎を差添へ、神保を押へ、頓て加賀国へぞ打出でらる。然るに信長公、旗本に長九郎右衛門といふ侍、上下千にて、松〔住イ〕の城に居城しけるに、輝虎押寄せ給ふに、長九郎右衛門、さすがの侍大将なれば、一日・二日は防ぎ戦ふといへども、強将の輝虎、是非攻め敗らんとの儀なれば、気を屈し、信長公へ、後詰の要を、頻に二三度迄註進す。信長、兎角に及ばず、安土を立ちて打出で給へば、相伴ふ〔供するイ〕人々には、柴田修理・佐久間玄蕃・丹羽五郎左衛門・長谷川〔於イ〕竹・前田又左衛門・木下藤吉〔〈郎脱カ〉〕・徳山五兵衛・大柿卜全・滝川伊予を先としして、其勢都合四万八千余騎にて、後詰に出でられ、加賀国へ打入り、松〔住イ〕の城を、上道一里半隔て、手取川といふ川を越し、何れも陣をぞ取りたりける。輝虎公、此の由を聞かれ、先づ此の城を攻敗り、其後、信長を引懸けて討つべしとて、彼の城を、前後左右より取巻き、二時に攻め落し、長の九郎が首を取つて、勝鬨を揚げ給へども、信長公押寄する事もなければ、輝虎公、諸軍に向つて宣ひけるやうは、今宵夜の内に、信長陣へ押寄せ、一戦を遂ぐべく候。さすがの信長、天下へ意見を申上ぐる事なれば、弱き大将といへども、脇々にての強将よりは、勝るべく候間、各心底を一つにして、武士の道を遂げらるべく候。抑輝虎は、今後信長と、始めての参会なれば、一入嗜み候。信長の押付を見ずんば、越後へ帰る事、諏訪八幡ぞあるまじと宣ひて、金〔打イ〕をせられける。輝虎公件の如くなれば、下々の諸士は申すに及ばず。扨其後に輝虎公、行軍を定め、明日卯の刻と軍評議して、一の鐘には諸軍したゝめ、二の鐘には武具を着し、三の鐘には打立つべしと相定め、上下一万五千余騎を、廿五備に定め、丑の下刻に打立ちて、信長の陣へ寄せらるゝ。信長公、此の由を聞きて、オープンアクセス NDLJP:54其儘陣を払ひて、其の夜の内に引き、越前迄退軍す。輝虎、夜のほの明に、信長陣へ押付け給へども、敵一人もなく捨雲丈計りぞ残りける。其の時郷人を召寄せ、事の要を聞かれ、あざ笑つて宣ひけるは、さすがの信長勢、其儘居られ候はゞ、蹴散らし、川へ切流し候はんものを。さりとては信長、功者なる大将かなとて、手をたゝいてぞ笑はれける。扨其後信長へ、使者をぞ立てられける。其の使札に曰、

今度輝虎、加賀へ発向仕る処に、松〔住イ〕之城主、輝虎に向ひ弓矢の所に、やさしくも信長後詰、殊勝に覚え候。其上某旗本を差向け、珍敷参会と存ずる処に、早々被引候事、貴殿弓矢一段〔高イ〕上に存候。誠に奥州之長鎗かつぎの侍の様には、少しも不存執事奉り候。併し信長被居候都あたりの京皮草履はきて、さゞめき渡る公方家の侍衆〔〈の脱字カ〉〕会釈よりは、輝虎との合戦の儀は、些か違ひ可申候間、互に武を嗜み、来年於越前一合戦可参候。然共越後、雪深き国にて候へば、暮春より内には成間敷候。三月十五日には、必ず輝虎も、越後を可罷出候間、貴殿も其節、安土を御出被成、実否を付る一戦尤に候。誠に信長、武田信玄他界之後、子息四郎に、数箇所の要害を掠め取られ給へど、其後信長、武勇の宜しき故か、去る長篠に於て、勝頼に仕勝ち、其後勝頼をば、家康に任せ、去年より江州安土に居〔住イ〕の旨、定めて謙信上洛の道を可妨との事無疑候。何事も来年一戦の期時候。恐惶謹言。

  年号月日 上杉管領輝虎

     織田上総介殿

件の状を、新屋源介といふ侍に差越し給ふ。其上信長への音信には、白布二千端なり。口上も有之。扨其後に、信長、謙信の使者に対面ありて申候は、我れ安土へ参り居住の事、一日も都近辺へ参り、折々遊山の為めにて候。全く輝虎の上洛妨ぐべきに非ず。誠に輝虎の弓矢は、摩利支天の業にて候。武辺は。誰も仕るとは申し乍ら、輝虎の儀は、亦各別の儀なり。併し輝虎上洛に付きては、越前にて防ぎ申して見申すべく候。それにてもなるまじく候はゞ、我等は江州長浜迄引取り、則ち長浜に於て、扇子一本腰にさし、只一騎乗入り、信長にて候、降参申すといひて、都へ案内者を致すべく候。定めてさすがの輝虎の、信長骨を折りて、取り申す天下を、召上げらるべしとは仰せらるまじく候。其時無事に致し、某は西国、輝虎は東を治め、日本国を両旗にて意見仕り、公方様を取立て申すべきと宣ひて、使者の者を様々もてオープンアクセス NDLJP:55なし、左文字の刀、皆家木の糸にて緘したる鎧一領下されて、罷帰るなり。状の返事も、如何にも取合はぬ文体なり。然して使者の源介罷帰り、信長よりの返事、又は口上の趣、速に申上げければ、輝虎委しく聞かれ、誠に一年柿崎申せ〔がいひイ〕し如く、信長は計略の大将なりと宣ひ、其後、加賀国大正寺迄働き、越前の国迄放火せられんと宣ひけれども、家老共の意見申上げ、同年十月中に、越後へ御馬入るなり。

 
輝虎公備定の事
 
同年十月中に帰陣ありて、何れも家老共を集め、領分の国々へ触れられけるは、来年三月中旬には、越府を打立ち、都を心懸け出陣ある間、一入士卒を禁じ、馬武具を用意致し、日限を違はず罷出づべく候。各着到を勘へ、書付を以て申越すべしとありて、越後・佐渡・飛騨・越中・加賀・能登・上野・出羽、右八箇国へ陣触れありける。但上州と庄内一郡の内は、半役なり。然して旗本の諸大将、各書付を以て、人数の積りを申上ぐる。総兵合せて六万四千の着到なり。斯くて輝虎公、春日山八幡に於て、家老衆寄合ひ、越前・若狭・近江の国の絵図を以て、備定ありけるなり。
 
輝虎公生死の事
 
享禄三庚丑年、上杉管領入道謙信輝虎公誕生。初陣十四歳より、弓矢を取始め、誠に其名万天の雲井に上る。惜い哉此君、年四十九歳にして、天正六戊寅年三月十三日、病死他界。輝虎公末期の〔言イ〕捨に曰、

     人間四十九年是一杯之酒〈次の文字切れて見えず追つて考ふべし〉

     極楽も地獄も先は有明の月の心に懸る雲なし

右此書は、甲・越・相・尾の四将、互に国を争ひ給ふ軍の説なり。此は天文より、天正五丁丑の年迄の軍戦、あら紙面に顕すものなり。はしの戦、其幾〔〈脱字カ〉〕といふ数を知らず。先づ此の一□〈文字切れて見えず勘之〉今に信長公計りまします。次第に信長公威高くして、天下之を仰ぐ事天の如く、誠に果報の君なり。然して此書物、偽も自然あるべく候。或は見、或は聞書の事にて候へば、不審あるまじく候。古歌に、

オープンアクセス NDLJP:56     偽のなき世なりせば神無月誰が誠にか時雨初めけん〈文字切れて不審〉

扨右の三将他界の後、多く軍ありと雖も、て貯大切九当宮へ治め奉るものなり。依如件。

時天正七年庚辰八月上吉日宇〈佐美か。文字切れて一円 見えず〉

 
信州海野平合戦の事
 
村上義清、上田原の合戦に於て勝利を失ひ、越後へ行き、長尾景虎を頼み給ふ。景虎公武徳を以て、本地へ帰参の要をぞ頼まれける。景虎公、村上殿に対面ありて宣ひけるは、我が父為景、越中・能登・加賀三箇国を心懸け発向仕り、度々合戦勝利を得申すと雖も、我れ幼少にして、父におくれしかば存ぜず候。近国なれば、義清は能く御存にてあるべく候。為景合戦に勝つと雖も、天運尽きて油断仕り討死の事、其隠なく候間、一刻も早く北国へ働き、父が弔合戦仕り、都近く取続ぎ、公方の御目に懸り、先祖の名字をふまへ申度存じ、来春雪消え次第に、越中に発向仕るきべ存分にて候へども、貴公、年にも足らぬ景虎を御頼みある事、否とは弓矢の礼を知らざるに似申す間、主君への奉公、父の孝行を差置き、村上殿御本地へ、帰参の計略を廻らし申すべしとて、兎も角も義に当るを以て、景虎請負ひ給ふ事、寔に頼もしき心底なり。扨其後に、様々馳走ありて、景虎仰せける様は、総じて軍は、勝つても負けても、将の辱ならず。只時の運によるものにて候間、さのみ御きうふに思召なさるまじく候と、色々義清の心を慰め給ひて、又景虎宣ふやうは、武田晴信の弓矢取りやう如何と問ひ給ふ。村上の曰、十年以来、晴信、勝利を得申すの間、今は早や末を頼に、大事に致すやらん。総別其身生付やらん、弓矢をしめて取り、率爾の働これなく、勝の後は、合戦猶ほ前方より用心の深く、或は十里働くべき所をば、五里程働き申すと、委しく語り給ふ。又景虎、問ひ給ふ様は、今度上田原の勝負は如何と宣ふ。其後様々軍物語ありて、村上宣ふ様は、元より軍は、時の運によるとはいひ乍ら、〔某カ〕武略の末になり、滅亡を招ぎ申す故、何事も行になり、晴信、若年なる者に仕負け候事、誠に弓矢の辱なりとて、涙を流し給へば、景虎も涙を流し宣ふやうは、扱は晴信、後の勝を肝要にと思はれる仔細は、国を多く取るべき奥意なり。誠に晴信、賢き大将にて候。亦我等の心底は、国を取るにも構はず、後の勝にも構はず、差懸りたる一戦を、まはさぬやうにと存候。伝へ聞く、源の義経、武道今に申伝ふるに、知行は、四国の内伊予一国を持ちても、オープンアクセス NDLJP:57其名は、日本を皆持ちたる相模入道より、義経は遥に上なりとある儀、偏に義経、すべき軍を、まはさぬ武辺者の故なりと語られ、其後に景虎、家中の侍大将を召寄せ、当十月八日に信州へ出で、武田晴信と弓矢を始むべき間、陣触仕候へ。始めて晴信とはたえを合するなれば、人数多くしては悪し。只八千より上は、堅く無用と申付けらる。扨其後に、景虎勇〔〈士脱カ〉〕を選み、足手頑丈なる歩兵をすぐり、総兵八千を率ゐて、十月九日に越後を立ちて、信濃へ打入り、晴信に属しける侍衆の持分を焼払ふ。亦、晴信へも附かずしてありける大将衆の持分には構なく、爰彼処信州の小城共二つ三つ押破る。然るに、晴信旗下の侍大将共、早馬を以て申しける様は、越国景虎、村上に頼まれ、上下八〔千カ〕計りにて、当国へ乱れ入り、はし放火仕畢りぬ、御出馬尤に候と、櫛の歯を引く如く註進す。晴信、事の要を委しく聞き給ひて、同月十二日の申の刻に、甲府を立ちて、信州へぞ向はれける。然るに景虎、彼方此方を放火して、同国海野平へぞ打出でける処に、晴信も頓て同所へ向ひける。斯かりける所に、晴信足軽大将原美濃・小幡山城・山本勘介といふ此三人を召寄せ、宣ふ様は、景虎当年十八歳にて、若者と云へども、為景の子といひ、又義清に頼まれ、人の為めに出づるなれば、今日必ず合戦と、景虎も存ずべく候。猶ほ以て晴信も、防戦ふと思ふ仔細、義清を仕付け、義清叶はずして、牢人致され、景虎を頼み大方に合戦しては、信州の侍衆の思惑といひ、又景虎若年といひ、或は前方の勝利まで、皆水になりぬる間、一戦に極めて、其方三人物見に参り、敵の人数、又戦の様子を能く考へ候へと申付けらる。右三人物見に出で、敵の備色、合戦の持ち様、人数積り、委しく見て、三人罷帰り、晴信に向ひて、原美濃いひける様は、敵は合戦を持つて候。人数は、六千の内外と申す。又山本勘介申す様は、備の色は、すみやかの中の二こりと見申候といふ。晴信、事の様を委しく聞かれ、則ち備を計らひ立てよと宣ふ。勘介申すは、敵合戦持ちたると見申す所は、別手にて組合ひ、一手の如くに四方より見せ、鉾矢の備と相見え申し、矢を堅くとめて、味方の備は方円になされ、一手を二手に分けて、跡を円月に仕り尤に候、其上敵方、乙矢の働かざるは、五町右の方に、是は鉾矢の備尤に候。扨又、御旗本の跡備は、鴈行に成懸けられて待ち給へ。景虎若年にて、殊に荒武者なりとも、晴信公武勇を、兼ねて又は多勢を恐る。兎角して一戦を速に仕り候はゞ、時刻移り、味方吉方になり申候。晴信委しく聞きて、件の如くに備を立つる。扨其後に、晴信、諸勢へ下知せられけるは、各能く合言葉・合印を覚え、むさオープンアクセス NDLJP:58き働なきやうに含めける。扨又景虎、晴信の備を見て、我が備を九手に組合せ、一手になし、静に貝を吹きて、相懸りに懸りて、一戦を始むる。景虎左は負けて、一町程退く。晴信方、先手と左の方、此二備追立てられて、二町程引退く。勝に乗りて、越後勢攻懸る。然るに飯留兵部、能き所に立ちける故、景虎此の要を悟り、身一騎来りて采配を取りて、味方を引上ぐる処に、宇佐美駿河守といふは、敵を引懸けて、大返に返して尤と諫るに付きて、越後勢跡をも見ずして引退く。甲州勢、勝に乗りて攻懸る所に、山本勘介、如件の行を見知り、晴信を勧めて、喰留むる味方を引返す。誠に互に名人なり、越後勢討たるゝ。其数二百六十余人。甲州勢討たるゝ数二百余なり。互に相引に引退き、此合戦午の時に始まり、未の下刻に戦畢る。此年、景虎十八歳なり。
 
景虎公関東勢催さるゝ事小田原発向の事
 
上杉管領、北条氏康に討負け、関東に御座候事、勢次第に微になり候故、不成に付、越後へ立退き給ひける。抑〻此元を申すに、上杉と申すは、高家の源尊氏将軍代を取りてより此方、年久しく鎌倉扇谷殿と申奉り、関東の勢諸士、之を仰ぐ事、天の如く地の如しと雖も、乱国の時刻至り、政道道あらずして、皆法令の逆なる故、氏康に討負け給ふなり。然るに上杉、越国景虎を頼み宣ひけるは、我れ家を失ふ時至りて、既に関東を打捨て、当国へ来りぬる事、元より武道の拙きとはいひ乍ら、偏に当家の滅亡の時至りぬる故なり。仰ぎ願はくば、景虎武略を以て、関東を討従へ給へと、管領職を景虎に譲り、上杉の名字をも出し、東国をも残らず貴公に宛行ひ候間、我は上野一国に隠居仕り、誠にかん色とけらして宣ふ。景虎、是れ天の与ふる処と思ひ、弓矢取る身の面目、只此儀に過ぎずと思召し、則ち尤と同心して、憲政公を主君の如くに馳走せられける間、家老の者共も、礼を正しくして迎へ奉るなり。然れば景虎、家老を集め宣ひける様は、来春は、早々関東へ発向すべき間、其分別致さるべく候。誠に景虎若年にて、村上義清に頼まれ、又憲政公に頼まれ給ふ事、弓矢の面目、只此景虎に過ぎずと、日本国に沙汰する果報の程こそゆゝしけれ。然れども大軍を起す事なれば、兎や角やとありて、三五年を送りける。斯かりける処に、太田三楽斎より、飛脚到来していひける様は、関東中、大方氏康公旗下に罷成候間、近々御馬を出され尤とぞ申越しける。景虎、事の由を具に聞き給ひオープンアクセス NDLJP:59て、永禄二辛酉十月上旬に、越国を打立ち給へば、相伴ふ人々、柿崎・黒川・長尾遠江・竹股・いろへ・本〔庄カ〕・直江・甘糟・川田・須田・安田・中条・宇佐美駿河守を先として、一万七千余騎にて越後を立ちて、上州平井へ着き給ひて、太田三楽斎を召寄せられ対面ありて、景虎、三楽に宣ひけるやうは、我れ既に、上杉殿の御代官として、当地へ参観申す事、定めて関東に其聞えあるべきなり。今当国の体を見るに、大方氏康へ、心を寄せ候と相見えたり。然れば景虎、高王の威を持ちたりとも、東国の侍大将衆和合なくんば、いかでか我本望を達すべく候。此段如何あるべきと宣ひける処に、三楽、此の由を聞きて、御意尤に候。然れども当国は、源氏の国にて御座候へば、有合ふ諸士、苟くも我等を始め、皆源氏にて御座候。然るに氏康は、北条平家の儀にて候へば、此元を仰立てられ、廻文を廻され、御策略をなされ候はゞ、義に同心して、尤とある士をば召寄すべし。又義を存ぜず不義の輩をば、其儘差置かれ尤に候。大方東国、御一同仕るべくと存候と、委細を委しく申しける処に、則ち景虎、家老共を召寄せられ、種々の評議ありて、廻文をぞ運らされける。其の文の文体に曰、

景虎当国之諸大将へ申達候意趣者、既に関東之公方持氏公、天運尽き、永享十二年に当りて、都の公方より誅罰仕給ひて、御息堅王丸殿・春王丸殿・泰王丸殿、右三人の若君迄誅せられ候を、氏康取立てらるゝ事誠に非義の至り、不道に事なり。則ち当時景虎、当国発向之事、従都近衛殿を申請け、公方に取立てまゐらせ、上杉管領を仕すゑかへさん為め、御守に、長尾謙信景虎罷向ひ候。其上氏康は、北条平家也。然るに当国の儀は、八幡太郎義家、奥州退治より以前、頼義公六孫王誅罰より以来、源氏の持国、今以て同事也。然るに今各、氏康之武道に属し、上杉疎略の至り、誠に弓矢の道に、不非義、仰願くば景虎と心底を一つにして、氏康誅罰之策略を可被廻候已上。〈但此文字切れて見えず候間、文つゞき申すまじく候。又もまれあり。追つて校すべし。〉

然して件の文、関東を廻らされ候処に、関東の諸士、道に当り候を感じ申すか。又景虎の威に恐れけるか、知るも知らざるもおしなべて、尤と同心す。景虎満足、中々是非に及ばず。扱又来春二月は、必ず小田原へ押寄すべしと定め〔沙汰しイ〕て、其年平井にて越年ある。然して新玉の年立帰りて、諸士弓を引くに手凍えず、夜寒迄、如何にも長閑になりければ、いざや能き時節なりけるとて、景虎、永禄三年二月中旬に、平井を打立ち給ふに、相伴ふ人々は、忍・岩付・ふかや・本城・鉢形〔蜂方イ〕・箕輪・安中・沼田・前橋・新田・足利・桐生・館林・大戸谷・山上を先として、関八州の諸オープンアクセス NDLJP:60士、馳せ集りける間、都合其勢十一万三千余騎、直甲の軍兵共、勇気を励まし伺候す。景虎の勢、中々申すも愚なり、然して景虎公、諸大将に対面ありて、宣ひける様は、早速廻文を以て申達候処に、各異儀なく、景虎に属し給ふ事、誠に道に当りて、心底難有候と仰せられて、皆礼を正しくして、軍の手分をぞせられける。十一万三千を、七十六備に組合せ、先陣・後陣の行列を定め、景虎総大将として、既に小田原へ押寄する。元よりの内通他なければ、太田三楽、先陣を申請け、小磯といふ所に陣を取れば、脇備・後備は、藤沢・田村・大神・八幡・厚木などいふ所に陣取りければ、押の勢は、未だ武蔵の内を出でず。然るに輝虎旗本は、先陣の一手離れて、三番に備へ給ふ。其日景虎出立には、さび色の総萌黄糸の鎧を着し、甲をば着けずして、白き手拭にて頭を包み、采配を取つて、総軍を乗廻し、下知しける有様、誠に日本の事は扨置きぬ。天竺・唐土にも、斯程の強将はあるまじとて、懼恐るゝ事是非に及ばず。然して諸軍、小田原・蓮池迄押込み、放火せられ、其儘城に構はず、鎌倉鶴ケ岡の八幡宮へ社参ありて、近衛殿を都より申下し、公方に作り立て、景虎は山内より、大石・小幡・長尾・白倉四人の侍大将を、近辺に打連れ、景虎則ち管領にぞなり給ふ、威勢の程こそゆゝしけれ。然るに景虎、八幡より帰られける折節、忍の城主成田といふ侍大将の頭、少し高きとありて、景虎大きに怒りて、扇子を取直し、既に打たんとし給ふ処に、小幡駿〔三イ〕河守中に立ちて、兎角制してけり。然るを余国の取沙汰には、成田を二つ三つ打たれけると、沙汰する事偽なり。然して成田陣所へ帰り、大きに立腹して手勢を打連れ、居城を指して引返す。元より一軍破れて全からずとあれば、諸勢、景虎の振舞を見て、思ひに、我々が居城へ皆引返し、相残る大将には、太田三楽計りなり。斯かる塩合を見切り、氏康の諸士、輝虎引かるゝを喰止めんと犇めく。或は地下人共起り合ひ、小荷駄を奪ひ、歩兵を討ちければ、景虎、心は隼り給へども、何事も思ふに叶はずして、上州平井へ引返し、五月上旬に、早々越後へ御帰陣ありて、其より都へ上洛し、公方へ御礼申し、弥〻管領に職し、殊に輝の字を下され、網代輿・文の裏書まで許され給ひて、六月下旬に越後へ帰陣なり。仍如件。〈此巻大方文字切れて見えず。〉

 
信州川中島合戦の事
 
永禄四辛酉八月上旬に、輝虎公、越府を立ちて、信州川中島へ発向あり、川中島の城を攻むべオープンアクセス NDLJP:61き支度して、爰彼処放火せられける処に、海津の城代頻に早馬を立て申しけるは、信玄公、早早御勢を向けらるべく候。越国輝虎、上下一万三千計りにて発向して、西条山に陣取り罷在候。早々御馬を出されずば、叶ふまじき由を告げたりける。信玄公、事の要を委しく聞き、同月中旬に甲府を立ちて、同廿四日に、川中島へ着しける。然るに輝虎公、陣所西条山の南方雨宮の渡りを取切り、信玄備を立て給ふ故、越後勢、糧の道を止められ、飢うる事是非に及ばず。然して信玄、六日対陣ありて、早々海津の城へ引取り給ふ。然れども輝虎公、西条山に居城せられける。然るに輝虎公、家中一同に申しけるは、早々帰陣御尤と申す。輝虎聞き給ひて、宣ひけるやうは、謙信遥々是迄出で候処に、信玄後詰有之とて、争でか防戦を遂げずして帰陣すべきやうやあると、忿り給ふ故、何れも家老共、是非なく口を閉ぢてぞ居たりける。斯かりける所に信玄公、敵の飢ゑたる色を見切り、山本勘介を召して、是非明日合戦に相極むるなり。汝備立を仕るべしと、馬場民部両人に仰渡さる。畏りて勘介申しけるは、味方二万の人数を、一万二千に分ちて先鋒となし、長坂源五郎・曽根孫次郎・三枝宗四郎・加藤弥五郎・曽根与□郎・真田源五郎・金丸平八郎、〈後土屋右衛門尉と号す、〉以上七人を以て、近習の使番と定め、各黒地に金の百足の指物を許されて、我れ先きにと勇気励ましける。亦景虎の先鋒柿崎和泉守・斎藤下野守・長尾越前守政景、左右二手となし相戦ふ。景虎麾下の兵を率ゐて、大勇を振ひ、喚き叫んで進み戦ふ。信玄旗本敗走して、音部川の辺に引退く。景虎勝に乗り、川中へ入り大勇を奮ふ。信玄・義信、敵軍に馳せ入り、大兵を突破り、鎗疵二ヶ所蒙り、遂に謙信・信玄両軍三千六七百人、互に入乱れ、喚き叫んで相戦ふ。或は其首を取るもあり、或は敵兵をつかむもあり、或は其首を奪ふもあり、或は鎗〔〈合せノ二字脱カ〉〕を劒を交へ、此時に至りては、甲州勢、信玄、何れの所にある事を知らず、越後の兵も、謙信何処に有るを知らず。時に謙信只一騎、萌黄の胴肩衣を着し、白手拭を鉢巻にして、月毛の馬に乗り、手づから三尺計りの劒を抜き、直ちに進みて、信玄、床机に腰をかけ居る所を馳せ向ひて、信玄を切る事三度なり。然れども信玄の兵数十騎、信玄を取囲んで、命を全うして、信州善光寺に引退き陣す。木取山に於て、二千八百五十の首級を実検す。信玄凱歌ときを唱へ、〔〈脱字アルカ〉〕謙信の軍兵三千百十七の首級を実検す。信玄の兵武田典厩信繁・諸角豊後守・足軽大将山本道鬼入道・初鹿源五郎・三枝新十郎、敵と屢〻劒を合はせ討死す。謙信飯山に陣して、四五日逗留して、使を信玄に遣して曰、今一度勝負を決すオープンアクセス NDLJP:62べしといふ。然れども信玄、甲府に帰られしといふ。
 
信州塩尻合戦の後板垣信形敗軍の事
 
信州塩尻合戦の事済み、木曽・小笠原討負けて引退く。然るに伊奈衆、此由を聞きて、其日申の刻の下りに、悉く陣を払ひて引退きしを見て、信玄公、家老板垣信形といふ侍大将、之を遁さじと押詰め、引行く敵を喰ひ止むる。敵も返し合せて、馬足軽などして、如何にも神妙に引退く体を見する。然るに信形同心に、荻原与惣右衛門・同九郎次郎といふ此兄弟の者、敵の退く様を見て、信形にいふ、何れも伊奈衆、軍法功者の敵にて候間、目附を出し、大手塩尻に於て、昼の戦知らずして、よもあるまじき所に、面々が内通したる大将両人迄、おくれを取りたるに、今申の半刻迄、退かざるは不思議なり。其上陣払に、風なけれども、陣屋に火をかけず火をかけたるも、結句消したると見え申候。如何様不思議の立支度多く候。能々御分別あれと諫む。信形聞きて、大に腹を立て汝臆病者かなとて、散々に叱りけり。既に日暮れ霧雨降り、東西暗き時刻を見合せ、伊奈衆、返し合せて備を立て、軍を始むると見え、少間ありて後、跡の陣屋に、手足頑丈なる者共を選み、上下三百人勝り、合印を能く結付ゆひつけ、三将をなし、三手に分け、能き者共を頭になし、右より密に隠し置きたる兵、三方より声を揚げ懸る。是を見て板垣郎等共、二つに分れて跡へ懸り、前後より敵を取包みて、討たんとすれども、郎等共、板垣が下知を聞かず敗亡す。下知に随はざるも理なり。敵行を能くしたる故、思ふやうに討散らす。信形敗軍沙汰の限りなり。右に諫めける九郎次郎討死す。此合戦の品、古書に委しく有之、仍如件。
 
太田三楽犬数寄の事
 
武州岩付の住人太田三楽斎、幼少より犬を好きてぞ飼はれける。然るに三楽斎、同国松山の城もち下なりければ、己が守護を居ゑ置き、相守らせける。去る時三楽、松山の城へ行きて、城代に申付けらるゝ様は、我居城岩付より此城迄は、路次はるなり。若し俄の事出来して、人馬の道留りなば、此犬の首に文を附けて、追放すべしとて、岩付にて飼立てたる犬を五十匹、松山の城に置き、又松山の城にて飼立てたる犬を、岩付にぞ置きたりける。去る時一揆オープンアクセス NDLJP:63殊の外に起り、北条氏康公、出馬たるべしとあり。岩付へ使を立てんとすれば、道塞りて叶はず、難儀に及ぶ時、件の犬の首に、竹の筒を手一束に切り、状を入れ、口を包みて追放す。彼の犬共、片時の内に岩付へ来り、三楽怪みて犬を見れば、首に件の文あり。三楽頓て武士を相随へて、松山へ後詰をしたりける。一揆の者共之を見て、此事早や岩付へ聞えたる事不思議なり。誠に三楽斎、二通を悟る名将なりとて、一揆治まる。其後、終に一揆起る事なし。三楽、武略の達者なり。
 
信州笛吹峠合戦の事
 
天文十五年丙午末秋中旬に、武州・上野両国の上杉家の侍大将、諫議しけるは、甲州武田晴信当三月、信州戸石村に於て村上義清と相戦ひける処に、晴信方士卒を多く討たれ、其上晴信、両手の如く思ふ甘利備前・横田備中、彼両人討死す。扨其外の侍大将は、大方甲信の堺へ押に置き、晴信手前に、然るべき侍大将之なく、諸卒皆気を失ひ、晴信さうふせられ、殊に此頃は、存命に相煩ひ其聞えあり。いざや当時押寄せて、晴信退治尤と相談す。斯かりける処に、上野箕輪の城主長野信濃守、進み出でて云ひける様は、各の申され候処、信濃守一円同心之なく候。能き分別を定められ尤に候。抑〻上杉家の弓矢の体、又は国々の仕置の要、一つとして道へ当る事なく、皆逆になり、政道を取失ひ候事、偏に上杉滅亡の元なり。其上今程は、北条家に度々仕付けられ、其返報もならざる事、法令明にならざる故なり。何卒して、氏康に退治せられぬ行を分別致され尤に候。其上晴信、今度戸石にておくれを取り、家老を討たせ、殊に今程存命の段、甲州よりの牢人言とある事、寔しからず。各御親類にてもあらばあれ、件の牢人、弓矢の法を知らざる者なり。晴信家老を始め、諸士多く討たれけれども、戦場を堅くふまへて、勝鬨を作る。又、村上勝つといへども、戦場を棄て敗散す。源義経、八島の合戦に家老を討たせ、諸士悉く討たれぬれども、正に合戦をふまへ給ふ故に勝つなり。然るに各始め晴信負成り、其牢人言に従ふ事、智なきとは、さながら偏に弓矢不鍛錬の故なり。其上晴信は一将なり、当方は寄合の勢なり。然るに若年の晴信は仕負け、弓矢の道に当るべきか。能々思慮を廻らさるべく候。又吾斯く申候とて、晴信に返忠ある者と思召すべく候。其段今より以後に相見え申すべく候。信濃守に於ては、此一戦同心あるまじく候とて、座敷を立ちオープンアクセス NDLJP:64て、己が居城へ帰参す。然るに諸大将いひけるやうは、如何に信濃守、分別立いふとも、思立ちぬる一筋、いかで変化すべき。其上信濃守は、晴信忍を以て、本地へ帰参せし真田弾正と懇切なり。爰を以て思ふに、信濃守は、返忠も知らず。所詮早く打立つに如くはなしとて、相伴ふ大将きし・ふかや・上田又次郎・三田五郎左衛門・新田・館林・せん・山上・白井・前橋・沼田・安中・五かん・中根・白倉・和田・小幡・松枝、此等を大将として、都合其勢二万騎にて打出づる。然るに堺目の侍大将より、晴信へ註進しけるは、武蔵・上野の諸士一同に起り、御分国へ打つて入り申候間、早々御勢を向けられ然るべしと、透もなく、爰彼処より早馬をぞ立てたりける。其頃晴信、瘧病を煩ひける故に、上下甲州中、騒ぐ事夥し。然るに晴信、家老を集め、軍略の意見をぞ問はれける。家老共申上げける様は、武上両国の諸士、屋形様御煩を聞き、其上戸石御一戦の砌、御味方の諸士多く亡び申す故、定めて気に乗りてこそ、押寄せ申さんの計にて可之候。早速御眼力を以て、御勢を遣され尤と申す。晴信、此事を聞き給ひて、諏訪郡の押に典厩、穴山に、旗本足軽大将四頭を添へて差越し、笛吹峠へは、板垣信形を大将にして、向け申すべき由をぞ仰出されける。さて信形に相伴ふ大将小山田左兵衛・栗原左衛門・逸見をふ・勝沼南部・日向・小宮山・相木・あし田を大将分にして、十月四日に甲府を立ちて、笛吹峠へ押行きける。然るに関東勢、笛吹峠を越えて、五千余騎程、当方へ打出でける処に、板垣一文字に懸り懸けて相戦ふ。然るに関東勢、後陣勢を引付けんと、相遮れども、後陣の間遠ければ、引付け兼ねたりける。信形、件の色を見済して、自ら攻鼓を打ち相戦ひける間、何かは耐るべき、関東勢破亡して引退く。然るに甲州にて、晴信、家老を集めて評議せられける様は、上杉の侍、北条氏康に度々負けて、氏康へ仕懸くる事ならざる処に、某を侮り、彼方より一戦を仕懸くる事、第一武道の威軽き故なり。其上今度千一、板垣信形仕負けなば、弓矢取りての恥といひ、或は将の威を失ふ所なれば、我が気分悪しきとて、爰元にあるべきとて、取る物も取敢ず、甲府を打立ち給ふ。相供ふ人々には、甘利藤蔵・馬場民部・浅利式部・内藤修理・秋山伯耆・原加賀守・諸角豊後、原美濃守・小幡山城・安馬三左衛門・会根七郎衛門・山本勘介等を先として、其勢四千五百騎にて打立ちて、同月六日に、軽井沢へ御着あり。扨又関東勢、板垣に仕負けぬれども、さすが弓矢の国なれば、先戦の辱を思ひ、又は長野信濃守が意見を破りし一言にも恥ぢて、勇気を励まし、其勢一万六千程にて控へたり。晴信之を見て、寔に八幡大菩オープンアクセス NDLJP:65薩の御恵之に過ぎずとて、諸勢に向ひ下知し給ひける様は、先戦に〔合ひカ〕たる備を筒勢になし、荒手の者共、理も非もなく、無体に懸りて、先手一陣を蹈破りて、追払ふべしとぞ下知せられける。然るに逸雄の侍共、一文字に懸りて、火花を散らし戦ひけるに、何かは耐るべき、早早追立てらるゝ。元より寄合大将の事なれば、陣破れて、後陣全からずして、引立てらる。諸軍勢、親討たれぬれども子知らずして、峠を指して退〔逃カ〕上る。晴信の軍勢、勝に乗りて討つ程に、未の刻より申の終まで、追討に敵を討取り、其数上下四千三百余なり。上杉衆破亡して引退く。則ち晴信、其夜の亥の刻に勝鬨を執行ひ給ひ、其品古法の如く、別書有之。然るに晴信、勝つて甲の緒を締めよとて、張番を出し、四方に伏兵を置き、野陣を取られけるとかや。然るに晴信、上杉衆押に、板垣を、十二月迄罷在るべしと申して、差置き給ふ。是は長野信濃守押の為めなり。仍如件。
 
下総国こうのだい合戦 〈の事ノ二字脱カ〉
 

北条平氏康、上下一万余騎を率ゐ、下総国へ打出でらるゝ処、安房の屋形源義弘、八千余騎を打従へ、同国こうのだいといふ処へ出でらるゝ処に、氏康・義弘・互に勇気を励まし、其間二十町余隔て、備を立てらるゝ処に、一日戦陣ありて、次日義弘、備を三軍に備へ、行列を乱さず、三軍を未明に押寄せ、敵間十町余を隔てて、堅く備を立て、物見を出して、敵の備の色を見せ給ふ処に、氏康は、敵の近く押寄するを見て、始めは十三手に備へたる備を、二手を一手づつに組合せ、前後左右六軍になりて控へたり。此由を委しく聞かれ、扨は氏康は、軍を待ちたると見えたり。いざや味方より仕懸けんと思ふなり。如何あるべき由を、家老共に問はれける処、何れも尤と申す。其時義弘、下知せられけるやうは、氏康、先手を引懸けて討たんとありて、足手頑丈なる足軽五百人、能き大将差添へ、氏康先手へ近々と寄せ、鉄炮を打懸くべきなり。氏康先手逸り懸らば、一同にどつと引追ひ、留らば又取つて返して、打懸けして、味方近く引請くべき由を、委しく言含め、扨其後、備近く敵来らば、件の足軽、左へ附きて退くべき由を申渡し、差越し給ふ処に、件の足軽、卒行にて仕懸くる処に、案の如く氏康、先手追立てんと押懸くる。其にも構はず引退く。勝に乗りて追立つる。後には氏康六軍を三軍にして、一同に追懸くる。然るに義弘、敵を能き図に引請けて、自ら采配を取りて懸け給ふ処に、オープンアクセス NDLJP:66氏康先手敗軍する。利に棄てゝ〔乗りて〕追懸くる。氏康、旗本迄追立てられて、上道一里余を敗軍す。義弘敵を数多討取りて、余り長追すなとて取つて返す。実検をせられ、人馬を休めける処に、氏康、備をも立てず討散らされたる破軍の士卒、やう五千計りを集め、此儘引取るべきか、又芝居返の軍をすべきかと宣ふ処に、家老共いひける様は、彼軍の小勢を以て、気に乗りたる大勢に軍懸くる事、重ねて利を失ふ事、疑あるまじなどと申して、一人も引返して、合戦すべきと思ふ者なかりける処、松田尾張といふ侍大将、遅馳に馳せ来りて、氏康に向ひいひけるは、我れ敵のやうを見申候に、油断の色見え申候。其仔細は、敵を追払ひたる勢にて、張番を出さず、備をも堅めず、人数をまばらに打散らして、実検仕候間、敵油断は疑あるまじく候、いざや忍び懸りに押寄せて、一当御当て候へと、頻に申す。氏康尤とありて、取あわてぬやうにして、皆旗をしぼり、忍び懸りにせよ、敵間近くなりけると等しく、旗を差上げ、そら鉄炮を打懸け、風の吹くやうに一同に、義弘旗本へ切懸る。元より義弘油断なれば、一戦にも及ばず敗亡す。氏康自ら采配を取りて、鬨の声を作り懸け、上道一里余を追返す。義弘やう七八騎にて、逃げ延びけるとかや。其後氏康、堅く備を立て、用心稠しくして、芝居を取返し、勝鬨を執行ひ給ふ故、重ねて義弘合戦ならずして、我国を指して引退く。仍如件。

 
北条氏康公生死の事
 
永正十二乙亥年、平氏康公誕生。誠に此君、仁智勇の三徳に叶ひ、今世の若将といひ、年十四の夏より弓矢を取りて、切取り給ふ国々多し。後に大聖院と号す。元亀元年十月三日、其年五十六歳にて他界病死。
 
武田信玄公生死の事
 
大永元年辛巳、源晴信公誕生。此君智計略武の達者、周末世の良将たりとかや。初陣十六歳より弓矢を取りて、其名唐日本に発す。後に法性院と号す。天正元年四月十二日、行歳五十三歳にして、惜しい哉他界病死。
 
江州姉川合戦の事
 
オープンアクセス NDLJP:67

織田信長公諸勢三万余騎、徳川家康公手勢五千余騎、合せて三万五千余騎を率ゐて、江州横山といふ城に、大野木土佐守・三田村左衛門尉・野村肥後守・同兵庫頭・此等を宗徒の大将として、浅井籠め置きたる処に、信長彼城へ押寄せ、稲麻竹葦の如く取巻き、弓・鉄炮を打懸くる程こそあれ、鬨の声を揚げて攻めければ、城主共諫文しけるは、味方の勢に、敵の勢を合せて之を計るに、百にして其一を得たり。いかでか此勢を以て、運を開くべき事思も寄らず。いざや早馬を以て、浅井殿の後詰を待請け、同勢にして、兎角の一戦を遂げんと、談合終りて、則ち早馬をぞ立てたりける。浅井此由を聞きて、手勢計りにては叶ひ難しとて、義景へ加勢を頼み奉る趣、早馬を以て申入れければ、義景兎角に及ばず、朝倉孫三郎といふ侍を大将として、其勢一万余騎を差越し、義景も、頓て出張すべしとぞ申越しける。浅井備前守父子、越前勢を合せて、大〔崎カ〕山に打出で対陣す。信長、此由を見て、先づ横山の城を攻め落して後に、彼と討合すべきとて、揉みに揉んでぞ攻めたりける。城主弥〻怺へ兼ねて、又使をぞ差越しける。今一両日は、拘へて見申すべく候間、急ぎて後詰近々とし給へ。左もなくば城開渡し申すより外は無之候と、註進をぞしたりける。備前守、件の由を聞きて、家老の者共を呼寄せ、〔評カ〕議しけるは、義景の出勢を待ち得て合戦をせば、宜しかるべきなれども、横山の城落去に及んでは、其詮なかるべし。然らば急ぎ合戦を遂げて、勝負を決すべきと思ふは如何にと、宣ひければ、各承りて、此儀尤も然るべく候。先づ御行の要を承りたく候と申す。備前守云、大〔崎カ〕山より、信長本陣滝が鼻へば、五十町なれば、直ちに懸つて軍せば、人馬共〔疲るカ〕せべし。明朝、野村・三田村へ陣を移し宿すべし。其翌日の払暁、彼本陣へ切懸り、円を作りかけ、透間もあらせず、一当あつる程ならば、よも敗軍せぬ事あらんといひければ、皆尤と同じける中に、浅井半介といひし侍、進み出で申しけるは、我れ近年、美濃国に罷在りて、信長、弓矢の取り様を承り候に、心きゝなる大将にて、上の斯く仰せ候やうには、あわて候まじ。先づ明日野村・三田村迄も、〔安カ〕うはよも陣取らせ候〔まじカ〕し。誠に猿の梢を伝ふ如くなる武将なれば、勝利を得させ給はん事、なか〔なかカ〕一二とこそ存候へ。願くば今且く、軍の様を伺ひ御覧ぜよかしと、諫めける処に、遠藤右衛門尉といふ侍進み出でて、いや備前守殿計らせ給ふ所こそ、宜しく覚え候へ。唯一戦して、勝負を決せんには如かじ。其上我れ敵陣へ紛れ入りて、信長と引組んで、討ち果す程ならば、味方の勝利、何の疑候べきと申すにこそ、軍評議は極りける。終夜上下支度して、大〔崎カ〕オープンアクセス NDLJP:68より、未明に野村・三田村へ陣を移さんと犇きける。信長件の要を見給ひて、宣ひけるは、夜もすがら敵陣に火を焼くは、朝合戦に懸け来る事あるべしと、仰せられ候処に、家康公の曰、凡そ太公が曰、兵勝術密察敵人機、而速乗其利、復疾撃其不意とあり。唯疾々御行ありて、合戦の備定然るべく候はんとありければ、信長同心し給ふ。家康公重ねて云、今度は、敵、死生を極めて懸り来るにてあるべく候。朝倉が勢なりとも、又は浅井が勢にても、一方は某請取り申すべしと申されける。さらば朝倉が勢に向ひ候へとありて、稲葉伊予守を差添へ、則ち越前勢の先陣、家康公に定まりける。扨、又浅井が勢に向ふ先備は坂井右近、二の目は池田勝三郎と相定め、信長旗本までは、已上十三段なり。横山の城の押は、丹羽五郎左衛門を差向けらる。漸く五更の天にしり及びける。合戦の次第、軍使の者共、急度触れければ、諸軍残らず押廻しける処に、朝倉・浅井が勢、野村・三田村へ移り入りたりける処に、信長公、先手の者共、弓・鉄炮を以て攻め入りければ、吾もと抜駈して攻め入る。然るに、三田村に控へたる朝倉が勢の中より、若き軽卒出で、敵を追払はんと犇く処に、家康公先勢、件勢取合うて、姉川を追越し追返し相戦ふ。朝倉が勢共、面も触らず切つて懸るを見て、浅井が先陣押出す。斯かりける処に、木下藤吉、信長公に向ひていひけるやうは、御定の上、兎角のいぎには及ばざる儀と申し乍ら、浅井の郡を、某に給ひたりつる上は、此先陣をば、私に仰付けられ候へと申す。信長曰、一番は坂井右近、二番は池田に相定めける上、異議に及ばずと宣ひければ、藤吉是非に及ばずして、三番備をば請取りける。去る程に、浅井が勢五千余騎、自ら攻鼓打つて懸りければ、先陣の右近勢、枕を並べて、百余騎討たれければ、なじかは怺ふべき、先陣其儘追立てらる。先陣敗れければ、二陣の池田・三陣の藤吉を始め、残らず敗軍しければ、信長公旗本も、怺へずで、四五町程敗軍す。斯かりける処に、家康公の備先手酒井左衛門尉を始めとして、東参河の兵共二千余騎、馬を一面に立並べて、朝倉が二万余騎へ馳せ懸る。朝倉先陣八千余騎、鎗衾を作りて、相懸りに突いて、徳川衆小勢なれば、追立てらる。斯かりける処に、浅井備前守、味方の勇気を励まし、丸くなりて、一同に五千余騎、信長旗本へ切つて懸り追出づる。さすがの信長衆、浅井が五千に駈敗られ、十三手ながら敗軍して、既に信長旗本、危く見えける処に、家康旗本の勢を以て、姉川を乗越し、二陣に控へたる一万余騎の中へ、面も触らず切つて懸り、喚き叫んで攻め戦ふ。誠に東海道の名将、或は北陸道の良将、今日を最後とオープンアクセス NDLJP:69戦ひけるは、偏に龍虎二流の軍となりて、敵味方共に討たるゝ者、其幾千といふ数を知らず。然れども朝倉が勢共、終に家康に駈立てられ、虎御前を指して引退く。斯くて浅井備前守、信長勢を追立つると雖も、味方の朝倉勢敗軍しければ、機尽き、兎角を失ふ処に、氏家入道卜全・同伊賀守、其勢三千余騎にて、浅井が勢へ切つて懸る処へ、件の家康勢、横合に、浅井が手へ切つて懸り、火花を散らして相戦ふ。斯かりける処、遠藤喜右衛門、首を一つ提げ、信長旗本へ紛れ入りて、大将はいづくにおはしけるぞ、見参に入らんと、竹内久作といふ侍是を怪み、引組んで刺殺す。誠に遠藤、始めの言を換へざるは、誠に勇士の元といつつべし。然るに浅井が軍勢、爰彼処にて枕を並べて、八百人ぞ討たれける。皆首を取りて見れば、わられつの内へ、一足なけんと、文字を書付けて入れけるは、誠に強将の下、□士なりける。〔〈本ノマヽ〉〕然れば浅井備前守、心計りは進めども、朝倉勢は敗軍す。手勢は、残少く討たれぬれば、終に本望を達せずして引く。是は誠に本意なき事なりける。此軍、家康公一将なくんば、信長公、利を失ひ給ふ処なり。仍如件。此は元亀元年六月下旬となり。

右鎌信家記一巻者、宇佐美勝正手記する所にて、春日山八幡宮へ奉納ありし物なり。予其宮主に就きて、其書を一覧し、窃に請ひて書写せしむ。然し年久しく宝前に納め置きたる故、所々虫ばみ、或は朽腐して見るべからぬ所少からず。さり乍ら彼家の軍機親しく見る事、誠に不思議の奇遇ならずや。因て其後に筆して、忠好に与ふ。

  享保改元仲夏 源忠寛

 
謙信家記 大尾
 
 

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