立入左京亮入道隆佐記
天正六年の秋の比より、津国有岡面に、雑説申書、しきりに信長へ御敵に罷成由風聞候、さ様には有間敷事哉と、れき〳〵被㆓差下㆒、調共依㆑有㆑之、荒木信濃守も雑説可㆑申方由申、茨木城まて罷上、則安土へ罷越候処、中川瀬兵衛尉茨木城守候処、是非共安つちへ御越不㆑及㆓覚悟㆒候、安土にて腹を可㆑仕より、津国表へ引請、及㆓合戦㆒候共、手にためす切崩可㆑申処を安土にていぬ死さたのかきりと申留、既有岡へ荒木立帰、おもはす不㆑計、御敵を仕る、其刻国中之年寄共よせ及㆓談合㆒候処、中川瀬兵衛申処尤と各同心申、中に高つきの城もり高山右近、親は高山飛騨守言語道断、荒木摂津守覚悟相違、曲事之子細也、信長之御芳志忝処、只今相忘御敵申さるゝ段、沙汰限と一人申破といへとも、悉以同心致し、高山申処一円に各同心申さす候により、不㆑及㆓是非㆒総本マヽ次 にとうし申候、九月の末より十月中、御扱共にて、福すみ平左衛門佐久間右衛門尉堀久太郎矢部善七郎、此衆中、上下及㆓度々㆒候へ共、其しるしなく、扱相破候、然者【 NDLJP:146】十一月四日、信長二条之御殿御座候て、村井長門守を以、為㆓禁裏様㆒、大坂本願寺へ以㆓勅定㆒、和談之儀可㆑被㆓仰出㆒候由候処、俄に庭田大納言勧修寺中納言為㆓勅使㆒被㆓差下㆒、則御倉立入左京進入道被㆓差副㆒被㆑成㆓御下向㆒候て、平野に被㆑成㆓御逗留㆒、使者大坂へ被㆓差遣㆒候、種々談合出入無㆓申計㆒候、本願寺より被㆑申㆓様子㆒、又立入罷上、信長様へ村井長門守宮内卿法印以申上候処、数ヶ条之申分、大略相済、又立入罷下候、本願寺より申分者、兎角本願寺まて御免候ても、西国安芸本マヽ森 右馬守同事に被㆑成、御しや免無㆑之候へは、本願寺も西国より近年之芳志にて、かんにん仕候処、手前まて無事いたす事、迷惑由被㆑申、津国こおり山に、信長御陣すへられ、津国中を焼入にいらせらるゝ処へ、則立入差こされ、本願寺被㆑申様申上候、然者本願寺森右馬守同事御赦めん可㆑在㆑之由、御返事請取、立入々道罷下、もりへの御勅使被㆑差、可㆑有㆓御下向㆒由被㆓仰出㆒、丹波越に既路次すからけいこ、信長殿より被㆓仰付㆒申候、霜月廿六日に可㆑有㆓御立㆒に相定候処、中川瀬兵へ廿四日に帰参仕候故、勅使之御下向御延引と、信長より被㆓仰出㆒候、其に扱きれ申候、其まゝ高つき茨木帰参申、天正六年霜月より、七年之十二月まて、せめつめられ、其内に荒木者、尼崎へ九月比有岡を忍出候、女子共をは有岡に置、其身忍出、荒木父子共は、尼崎に籠城候、有岡には荒木久左衛門請取、籠城仕候処、惟任日向守、丹波国ことことく切あたかへ、荒木新五郎は、惟任日向守むこにて候まゝ、則日向守扱入られ、種々調共にて、有岡を明て渡可申に相究、先日向守むすめをうけとられ候、其跡に久左衛門も十一月廿八日九日を日限さし、尼崎表へ罷出、荒木摂津守と種々本マヽ調 隆仕、荒木同心不㆑申、久左衛門も尼崎をぬけて、あわ路のいわやへ舟にてのき申、跡に信長殿二条之御殿に御座候御息中将殿は、有岡表に御陣をすへられ、れき〳〵の者共、男女子共四百六十計、家を二間つくり、二間之家へ追こみ、裏表よりやきくさをこみ、火懸やきころさるゝ、其刻尼崎表に久左衛門女房をはしめ、九十七本はたものをあけられ候、こと〳〵くうつくしきいしやうきせられ、めもあてられぬ事無申計候、又京都へは荒木つのかみか女房、城の大手のたしにをき申女房にて候故、名をはだし殿と申候、一段美人にて、い名はいまやうきひと名つけ申候、一条より六条河原へ、車十二りやうにてわたされ候、其人数は出殿年廿四だし殿いもうと二人、つのかみ弟十九はうか本マヽへ 、つのかみむすめ十六御局、荒木久左衛門子十四一段の若衆、其外下々衆、妙顕寺へこしにてのほり、自せいをよみ、十二月十六日五ツ時分に、車にてわたされ候、上下京の見物、くんしゆ数しらす、涙をなかしめもあてられす、かやうのおそろしき御せいはいは、仏之御代より此方のはしめ也、源平の合戦にも、五人三人のせいはい、腹をきり申なとゝこそ承及候に、津国にて、せいはいやきうちはた物、京にての車さき、上下卅六人、以上六百人計之御成敗候か、
いまやうきひ大坂にて川なう左衛門尉と申者むすめなりおとゝい三人
みかくへき心の月のくもらぬは光と共に西へこそ行 荒木女房ちよほ たし殿廿四
晴元の御内に田井源介孫共也源介孫か此内に五人有男女共に
のこし置そのみとり子の心こそすて置し身のさはりともなれ ちよほ たし殿
書置も袖やぬれけんもしほ草きゝはてし身のかたみともなれ ちよほ たし殿
【 NDLJP:147】 露の身のきえのこりても何かせん南無阿弥陀仏にたすかりそする
三つ子をいたき共に生害 いはらき 隼人か御地
世中のうきまよひ共書すてゝ弥陀のちかひにあふそうれしき 荒木与作女 おさい
さきたちし此身は露もおしからし母の思ひそさわり共なれ おさい
なけくへき弥陀のおしへのちかひにて光と共に西へこそ行 局たし殿御地
もへ出る花は二たひさかめやとたのみをかけし有明の月 同つほね
たのめたゝ弥陀のおしへのくもらねは心のうちは有明の月 あらき与兵へ きへ
車に二人つゝ八両、すいぶん衆其外は大勢也、
天正七年十二月十六日五ツ時、村井長門守奉行、けいこの衆、越前之大名衆也、
佐々蔵助殿 金森五郎八殿 前田又左衛門殿 村井専次 村井長門守内衆
以上警固衆三千警固候
【惟任光秀丹波国退治事】丹波国惟任日向守、以㆓御朱印㆒一国被㆓下行㆒、時に理運被㆓申付㆒候、前代未聞大将也、坂本城主志賀郡主也、多喜郡高城波田野兄弟、扱にて被㆑送刻、於㆓路次㆒からめとり、安土へ馬上にからみつけ、つゝをさしほだしをうち、はたのおとゝい、はたのものに被㆑上候、前代未聞也、
天正七年六月十日京都を通也
美濃国住人ときの随分衆也 明智十兵衛尉
其後従㆓上様㆒被㆓仰出㆒ 惟任日向守になる
名誉之大将也、弓取はせんしてのむへき事候、
天正九年〈辛巳〉正月十八日に、江州於㆓安土㆒、御爆竹を信長させられ、諸大名をよせ、金銀をちりはめ、天下に其聞無㆑隠事候、就㆑其於㆓京都㆒可㆑有㆓御興行㆒之由、被㆑及㆓ 叡慮聞召㆒、同二月五日、以㆓内々上臈御局様㆒、御さこを被㆓差下㆒候、同下之御所(二条之)さま若御局様之五いを被㆓差下㆒候、則立入立佐入道を被㆓差副㆒、安土へ御下候、八日信長之御機嫌なのめならす、御返事被㆑出、内々御請被㆑申候、御使之衆上下共、けつこうほんそう御振舞にて、九日に京着仕候つる、就㆑中惟任日向守へ、正月廿三日御触状を被㆑出、五畿内を被㆓相触㆒候、触状如㆑此候、先度は爆竹諸道具拵らへ、殊きらひやかに相調、思ようすの音信、細々の心懸神妙候、然者重而京にては、切々馬を乗可㆑遊候、自然にわかやき、思々の仕立可㆑有㆑之候間、其方事者不㆑及㆑申、畿内之直に奉公之者共、老若共可㆑出候、其方請取申可㆑触㆑之候、於㆓京都㆒陣参被㆑仕公家衆、又只今信長に扶持を請候公方衆、其外上山城奉公者共、不㆑残内々可㆓用意㆒旨可㆓申聞㆒候、於㆓大和㆒者筒井順慶、其外国持取次直参いたす者共、可㆓用意㆒事尤候、津国にては高山瀬兵衛親子、池田是は子共両人、親者伊丹城之留守居たるへく候、従㆓多田㆒者、塩川勘十郎同橘大夫是両人、河内にては、多羅尾父子三人、池田丹後、野間左橘、同与兵衛、其外取次者、結城安見新七郎、三好山城、是は安波へ遣候間、其用意可㆑除㆑之、但御望者、覚悟次第可㆑乗候、和泉にては、寺田又右衛門、松浦安大夫、沼間任世、同孫、其外直参之者共、根来寺連判扶持人共、其外杉坊佐野一流之者共可㆓用意㆒、次大坂在之五郎左衛門蜂屋かたへも、其用意可㆓申送㆒候、若狭よりは武田孫大内藤熊谷粟【 NDLJP:148】屋逸見山県下野可㆑出候、是は五郎左衛門可㆓申遣㆒候間可㆑申候、六十余州へ可㆓相聞㆒候条、馬数多可㆑仕候、其外手寄之あとに可㆑乗もの在㆑之者可㆓申付㆒候、長岡父子三人、但兵部大夫は、丹後に在之候、よく候、兄弟二人、一色五郎これも可㆑乗旨、可㆓申送㆒候也
二月二十三日 御朱印 信長
惟任日向守とのへ
【信長公馬揃事】抑禁裏様東之御門前にて、東西へ馬場広さ一町半町南北へ馬場之長さ四町半町、一条通りより近衛通より下まて、東西にらちをゆひ南北に御馬を被立畢、禁裏様には東之堀之土居に、立入立佐御奉行被仰出、禁裏様御さんしき五間三間、御女中方之御さんしき二間五間、たうしやう方之御座候御さんしき二間五間、以上十五間、御橋を被㆑懸候、其橋より北へ、見物之女房衆之さんしき、思々うち申され候、東より御覧候体、さなからかつきの小袖花のことし、信長も田舎の事をこそしろしめし候へ、都之見物程御始也、被㆑驚㆓御目㆒候、則為㆓ 禁裏様㆒被㆑成㆓御書㆒、今度之見物、筆にも御言にもつくしかたく、唐国にもかやうの事有間数と被㆑遊候、信長へ五人御勅使被㆑立候、庭田大納言、中山殿、甘露寺殿、広橋殿、勧修寺殿忝候由御礼被㆓申上㆒候、然者御官位を被㆓仰出㆒候はんとて、上臈御局さまを、三月朔日に為㆓ 勅定㆒、御勅書を被㆑参候、左府に被㆓仰出㆒由候、其内に為㆓御使㆒、村井長門守入道春長軒を、二月晦日夜、初夜以後立入所迄御出にて、庭田大納言殿勧修寺中納言殿甘露寺殿中山殿広橋殿五人御内談子細有㆑之、立佐入道馳走仕、則叡本マヽ慮 様へ被㆓仰上㆒候、為㆓其御使㆒、上臈さま信長之御屋舗本能寺へ御成候、上下京之小屋方材木方より、御さんしきの道具出用意仕候、御馬乗大名国々馳走不㆓得申㆒候、江州越州若州丹波丹後津国河内泉州和州伊勢美濃尾州山城、京之御公家衆には、日野殿正親町殿藤中納言殿御子息衛門佐殿竹内兵衛佐殿以上五人御馬乗候、其外公方衆は沼田殿彦部殿小笠原殿荒川殿松田監物殿才阿弥正実坊、其外名字不㆑存候、又三月五日に御馬乗有㆑之、はや馬共をすくられ、三百余騎にてくろき赤き頭巾思々出立、とうふく皮袴皮立付にて御見物者、御方之御所様御忍にて、御かつきの仕立にて、御女房衆にうちまきれられ、御見物なされ候、信長之御出立者はたにこうはい、
叡慮より白ふく御拝領、則色々御小袖をめされ、度々かへ共、御ふく拝領を御うわきにて、きんらんのそはつぎ、しやうぶかわの皮袴、なんばんすきん、并秋田城介殿はしやう〳〵皮の御どうふくに同ずきん黒皮袴、其外思々御馬乗に御出候、御子立城介殿、伊勢之御本所、三七殿御三人、以上御子立に候、男女五十人計有㆑之由候、
【武田誅伐事】就㆓今度東国之儀㆒申付、種々御感之趣被㆑染㆓勅筆㆒之儀、再三頂戴、無㆓冥加㆒奉㆑承候、抑武田年来対㆓天下㆒可㆑成㆓悪逆造意㆒、甚以不㆑軽㆓其科㆒条、為㆑遂㆓退治㆒、今春向㆓信州㆒令㆓進発㆒、数ケ城追破候、然処仁高遠城、信甲両国依㆑為㆓堺目地㆒、武田四郎弟仁科五郎在城候、彼要害数代丈夫相搆、於㆓此庄㆒、歴々者共楯籠候条、去月朔日押寄、衆口取詰、翌日二日悉攻崩、仁科始其外数百人討捕候、従其甲州押入候、以㆓右響㆒四郎居城令㆓退散㆒、彼国之山奥節所相搆、雖㆓逃入候㆒、即時追詰、同十一日、武田類身共、一人不㆑漏打果候、然間信甲駿上毛頭無㆓相滞㆒、平均申付候、依㆑之北条初、関【 NDLJP:149】東諸侍不㆑残令㆓出頭㆒候、如㆑此上東国之儀、島々外迄属㆓下知㆒候、弥国々末代別儀無㆑之様、置目等申付、隙明次第致㆓帰陣㆒、頓而上洛仕、是迄叡慮御礼旁可㆓申上㆒旨、以㆓御次㆒而於㆘預㆓奏達㆒候㆖は可㆑為㆓本望㆒候、恐々謹言
卯月三日 信忠判
万里小路殿
〈天正十年二月十四日夜、従北方赤雲天下ヲヽイ、其色光明しゆのとし、信長大吉事云々、即三月五日に、信州表へ被出御馬、信忠者二月初に御出陣候間、信忠之御手前にて、滝川手にて、悉被討捕候、其首上洛候、而こく門に被相懸候、武田四郎子太郎典廐以上三ツ、又四月廿一日比よりいぬいにあたり、白雲にちのく、自地直ニ立、末は長太刀なりにゆかみ、よひの間立、四ツ前よりきへ申候、此雲何にあひたるへき哉、不審々々〉〔〈以下虫食アリ〉〕隆さ□□□□三月廿八日に大閤様高麗国へ御馬を被㆑出候、禁裏様にも御人数為㆓御見物㆒、四つ足と唐門之間に、御さんしき被㆓仰出㆒、我等為㆓奉行㆒、御桟敷申付候、御馬廻計にて御通り、三四万計かと存候、警こ本マヽうき 驚㆑目候、おもひ〳〵の出立、金銀をちりはめられ、一日見くたひれ申候、則桟敷へ御座候て、てんはい被㆑参候、院の御所様にも、御桟敷被㆑懸、同前に御見物、御両御所共に奉行仕候、国々関東衆北国衆、人数持者、二月より先勢被㆓罷立㆒候、三十万のつもりにと承候、何も大名小名不㆓相残㆒、被㆓罷立㆒候、
【朝鮮国征伐事】文禄二巳五月廿八日に、高麗国へ諸勢被㆓取懸㆒、伊達一段働被㆑仕、御かん状天下一武篇と被㆓仰出㆒候由候、赤国もくそうか城へ被㆓取懸㆒、大将分者共四人討㆓捕首㆒、京着候て、聚楽かや木橋に首を被㆓相懸㆒候、
もくけう せんらこう ちやういそ けくしやくたう へゝそ
ほくしやうういへいき 先代未聞之儀候
大明国よりあつかひに、両勅使帰朝、一人は五月末に被㆓罷帰㆒候、御返事は来後九月候と可㆓相聞㆒候由候、然は大閤様、淀殿上様に若君様御たん生、八月初に御注進候間、近日なこやより御上洛之由候、定日は不存候、古今かようの御名誉之御大将様御座有間鋪、両年なこやに御在陣候へは、京都之地下人こと〳〵くめいわく仕候、地下ひつまり候、法印さへ無㆓御座㆒候て、めいわく〳〵無㆓申計㆒よし候、御上洛を待かね申候、御福力之御大将様にて候、地下中、惣間之屋、地子御ゆるし参候由候、千年万代御長久之三国共に如㆓御存分㆒之被㆓仰付㆒候様にと念願計候、
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。