瀬尾旧記
一信長公経西近江若州熊川へ御入泊り御供秀吉公家康公也若州高浜城主逸見験河守同子息帯刀允参上仕候と被申上
一信長公御悦有て一番御帳面に記若州大将軍と御仰有て翌日瓜生城主松宮玄蕃允舘へ御入り
一西津内藤筑前守易羽兵庫本マヽ守 麻生野金川右衛門大夫参上有
一信長公御大悦有て是より佐柿粟屋越中舘へ御移り
一三方熊谷大膳允藤井山県下野守此外国士堺谷迄御迎参上被申也
一信長公御大悦有て佐柿へ御移り先手は逸見駿河守同子息帯刀允其外御供多し
一天神馬場先き大槻へ御付被成候処に御馬高鳴身振少も先きへ不行諏訪馬場先に而駿河守落馬腹痛み騒動するなり
一信長公御馬より御下有て両社之御とかめと思召別当へ御使者立也
一大坊(当時有之)早速参上被申上畏て御座有時に出陣之門出か様之儀神前とかめと存るなり早く御宝楽を頼と御信心に被仰出畏て候
一天神諏訪両社へ御加持武運長久之御誓願有り還而右之段被申上
一逸見を連可参と上意承て御前に出す然とも腹之痛み少しも不止猶以痛みつよし
一信長公法印に御頼有此者貴僧に奉預度存候大坊畏而駿河供ない宿房へ御帰り也
一信長公打立へしとて子息(帯刀允)に父之役儀仰付御かちにて橋を過させたまい御馬に召す其より皆々馬上にて佐柿へ御入其時より返る橋と申也国士皆々御供に而粟屋か舘へ御入数万之軍勢に而敦賀(越前)へ押寄手筒山城主柴田勝家木下藤吉池田信輝撃之金崎城主朝倉中務生捕勝時上る其後に粟屋逸見国中攻落せと御上意也是より 信長公若州西近江しつめんため小勢にて若州へ御帰り成願寺御泊り法印御対面有目出度敬白す
一信長公貴僧武運長久之御加持に而早速手筒城攻落金崎生捕大悦甚敷是より若州西近江一見之ために罷帰り候以前預置申候逸見か父は(駿河守)いかゝと御尋有
一法印畏て快気仕剃髪之身と成り名を永薫と申也と言上有只今者古の知行処にて岩○(屋)奥三百石所有此所に洞湯と申取立之名主有此所へ参候と申立る尤と思召心地扨明朝は湯見に行湯之様子一見せん貴僧も御同道可被成仰有畏り奉り明早天に大槻より長尾過湯見へ御着し奥岩屋洞湯様子忍ひを以御覧有処に屋敷厳敷木戸打其下に池を堀有と申上る
一信長公御腹立有て急き召せと御諚意也御使者立つ洞湯には大さはき時に永薫此儀我故なり某参と申て参上有
一信長公仰未兵乱之砌牢人を抱申段不心得謀反之企其科重し人々取廻す
一大坊謹而御上意之御儀併拙僧預り也弟子分にて御座候外之意趣無御座と御願有猶以武運長久と被申上御捨免有此者は弓馬之道嗜と聞く此度之慰に的一手見物せんと仰出さるゝ【 NDLJP:158】俄に的山築馬場を拵ける早々とかくにわ花菱三まひ色こかたの紋を二つ并にかく也【カクニハ鉄炮ノ目当ヲ角ト云ト同シ家紋折敷ノ内ニ花菱ヲヱカキタルヲ用ヒ来レルハ此的ノ形也トイヘリ】是立る御持弓に以前二筋相添御出し有永薫的場に掛り早速(サソクト訓カ)をふみ花菱之只中射通し次の矢同矢つほを通す
一信長公祗候之侍衆一度に誉給へ此矢二筋之吉凶天晴手柄此悦に瀬尾(セヲト訓)と云名字を被下逸見を除け瀬尾永薫真清と名乗也此所的場と申此時より云其先は河上と申候也
一信長公御盃に御弓箭的矢二筋添永薫に被下頂戴仕御暇退出す此箭甲斐国了海と云名作之矢也是代々重宝也
一信長公熊川御通り朽木御入海津(江州)にて御勢揃【志云遠敷郡鈴岳堡不詳誰所拠一云鳥羽右兵衛今尋ルニ此山三田村ニアリ】鳥羽兵衛御前に被召若州北方郡之武士不残越前に発心也汝郡中を可守とて逸見知行之内岩屋三百石鳥羽兵庫弟兵衛に被下難有と罷帰り鈴ケ峰に城を立三田に舘を拵北方郡を守護すなり
信長公は海津より刀根山越を越前に御入也
一永禄御捨免有る永禄十一長年より之貢を請取村中清水の下に屋敷作り洞湯にカを 娘を連閑居有比は元亀元庚午十一月に洞湯を立除瀬尾永薫其子瀬尾庄司(以下継筆ト見ユ)其子瀬尾喜西其子瀬尾六兵衛其子瀬尾善大夫其子瀬尾治左衛門其子瀬尾善大夫其子瀬尾善大夫其子瀬尾善大夫
以上
右若州三方郡岩屋村百姓瀬尾善大夫自先祖所伝襲旧記也今請見其書文辞拙劣訛字不尠殆似不可読予就匆々写之一随本書不意改聊加朱墨便看読本書所記之矢鏃現存為神祀之且擬目的之絵以折敷内花菱及鱗形為家紋云爾又蔵若狭守護武田元信与逸見弾正忠書翰一通為先祖之証書臨写附于下
寛政十二年九月在小浜城下書之 伴信友
〈書中ニ見エタル畧系〉
逸見駿河守 剃髪称永蕭 依信長命──────────改逸見称瀬尾永薫真清帯刀允後瀬尾庄司────────── 喜西以下畧
〈若狭志云逸見昌経大飯郡高浜城主官駿河守出自与武田氏相同故世々為武田家執事云々天正元年織田侯滅朝倉義景三年撃越前国兵昌経病死無嗣云々コレラハ右永薫カ元亀ヨリ後ノ事ナリ右ノ記混シタル伝モアルカ後ニ考ヘシ但元亀元年信長云々ノ事国吉籠城次第ソノ外実記ニ合ヘリ〉
昨日午刻新城狼煙当城見ヘ候可然堺目無異儀候哉自右京亮方田辺よりの状進候哉尚々不可有油断候又我等事久村可申候恐々謹言
六月三十日 元信花押
弾正忠殿
右以以武辺叢書本再校了
明治三十五年一月 近藤圭造
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