『湯浅甚助直宗伝記』(ゆあさじんすけなおむねでんき) - “甚助は信長の近習にて、度々の戦功あり、後本能寺に於て殉死したり” -『改定史籍集覧総目解題』より
【 NDLJP:341】
湯浅甚助直宗伝記
織田信長公近習
〈本国紀州湯浅郷生国尾陽清洲〉浅甚助直宗幼少之時父ニ後レ信長御意ヲ以テ中島主水正之聟ト成如父介抱仕候甚助一代軍忠働之事有増信長記雖記之書洩儀有之今川義元与信長合戦之時甚助拾四歳ニテ供奉仕処少年之輩者出陣可為無用之旨信長公依仰尾州笠寺法印江被預置桶挟間御出戦之処鯨波鉄炮之音夥敷聞江依之右笠寺残居候小姓衆信長公御乗替馬ニ乗戦場ニ馳著則甚助敵ト鑓ヲ合撞倒シ首ヲ捕御前江持参之処若年之悴共軍中之姦ニ何トテ軍法ヲ背参候哉ト御立腹ニ付即時ニ本陣江帰然処敵之大将義元ヲ討捕合戦御勝利ニ付御機嫌不斜笠寺江御帰陣也法印御合戦勝利之儀賀シ被申其後右之小姓衆之儀被申上子細ハ御鋒及強キ武勇之励ヲ以テ少年之輩マテ如斯之手柄絶言語候旨侘言依被申何茂御赦免其後三州長篠合戦之砌甚助ヲ召テ先手滝川左近一益方江参可申渡者敵色メキ立タルソ早ク備ヲ崩シ撞懸ト下知シ給フ因玆左近陣処ニ馳向右之有増相述ル処如案家康公御先備ニモミ立ラレ武田方之侍大将馬場美濃守備崩シ此時甚助直宗甲州方之サイハイヲ手ニ懸タル武者ト鎗ヲ合撞落シ首ヲ捕サイハイヲ添実検ニ入ル此趣滝川一益委細見届後日ニ信長公江披露依有之信長公被成御感御先備軍使ニ参首尾合剰首ヲ捕猛威ヲ振馳帰候段神妙依被思召為御褒美御加増被下之右之有増ハ信長記ニ書漏候故如此候右甚助家来倉知道珍ト申侍方々属纒委細ニ存語伝候右之外武勇之誉数多雖有之義元合戦長篠合戦之儀者信長記ニ有之付略之天正十年壬午六月二日明智日向守謀叛之刻甚助義ハ町屋ニ旅宿仕候処光秀逆心ニ依テ京中騒動仕候付
【 NDLJP:342】真宗ハ本能寺江馳着猛勢乗越寺内江懸入則討死仕候生年三十八歳号義岳宗忠居士於京都本能寺討死之面々同所阿弥陀□
(寺カ)ニ石塔有之
本国紀州湯浅郷信長公在 湯浅甚助直宗
秀頼公在 寄合頭湯浅右近将監直勝 妻織田有楽女
妻中坊飛騨守女湯浅右近直治
中坊飛騨守秀政孫中坊長兵衛秀時 同美作守時祐養子
右水戸彰考館本謄写之
明治三十五年一月再校 近藤圭造
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