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東洋史上に於ける満鮮の位置

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東洋史上に於ける満鮮の位置

文学博士 白鳥庫吉


 私は、只今御紹介下さいました御話にも御座いました通り、成田山新勝寺とは、特に縁故があります。この中学校の顧問や校長を推薦したことがありますし、前山主石川照勤師からは特別の御援助を頂いたものであります。その後御無沙汰して居りましたが、現山主荒木師は、知識の普及と教化の向上をお図りになり、こゝに第三回目の夏季大学を御開きになりますに当り、何か話をせよとのことでありましたので、今日此処へ現はれて卑見を述べる様な次第になつたのであります。

 こゝに掲げました題に「東洋史上に於ける満鮮の位置」と云ふのは、東洋史全体から見て満鮮が如何なる位置にあるか、又日本とどう云ふ関係になつてゐるものであるか、と云ふことであります。

 今日に於ては、朝鮮は我国に併合されて一体となつてゐる。満洲に於ては我国は金州半島の租借地、東清鉄道等によつて特別の地位を占めて居ります。こゝに近頃のことゝして万宝山事件が起りました。

 満洲に於ける朝鮮人は、余り好遇されなかつたが、近頃は迫害して撤退を強要するまでになりました。この事朝鮮人は朝鮮内に於ける支那人を追払ふと云ふ様なことがつい此頃起つた。それでこの事件はオープンアクセス NDLJP:4目下日華両国政府間に論議の種子となり、只今解決中であります。

 乍併、これは目下の政治上の問題である。かゝる目下の事件を、今日この席上に於て是非せんとするのではありません。私は東洋史の専門家であつて、政治家ではない。歴史家は古いことを研究するのであつて、現時のことを専攻するのではありません。乍併現時の政治が時がたてばやがて歴史となるのであるから、現在の政治問題は過去に於ける政治と関係があるものであります。歴史は凡て過去現在未来に亙つて連絡のあるものである。それで現在を知る上に於て、はた又将来を推す上に於て、過去を知る必要があるのであります。併し専門家を除いた一般には現時の問題の方が面白く感ぜられるので、これに耳を傾ける者は多いが、過去のことゝなると没交渉の事となして顧ない。乍併過去のことゝ雖も死んでは居ないのであります。老後の為人を知るためには、それ以前の事を知る必要がある如く、一国に於ても、過去の事を知つておいて、始めて現在の事が判り、未来のことを推すことが出来るのであります。故に歴史といふものを心得ておく必要があるのであります。

 例へば万宝山事件と云ふものは、要するに、支那人が満洲は自国の領土である、そこに朝鮮人が居るのは邪魔であるから、それを追ひ払はふとするのであります。支那人には国権を充分に張つて、国家としての権力を完全に享有したいと云ふ欲望があります。又利益を外国人に多く占められてゐるから、それを回収しようと云ふ希望が、支那人間に近年盛んに起つて来ました。その時朝鮮人が満洲へドン入つて来て居りますので、彼等を追払はふとする。これは支那人が他地に於て虐待されてゐるので自国に活路を得ようとする結果に外ならないのでありまして、その結果、年々非常な勢で入り込んで来てゐる満洲に於ける朝鮮人を追放せんとして今度の事件が起つたのであります。これがもう一歩進めば、日本人を邪魔にし、条約による九十九ヶ年間の租借地からも日本人を追ひ除けようとするに至るでせう。若しこんな風になつたら我国はどうすべきであらうか。これは当局者のみに委ねるべき問題ではない。国民全体が考へておかねばならぬ問題であります。

 次に満洲から、日本人が支那人のために放逐されたとしたならば、朝鮮の方はどうなるか。只今は併合されてゐるとは云へ、朝鮮人は日本に全く悦服してゐるのではない。朝鮮人の思想は近年変つて参りました。古くは支那を崇拝し、支那によつて日本の勢力を脱しようと云ふ考へがありました。それで朝鮮の歴史を記さうと云ふ時には、朝鮮を創建してくれたのは、支那の殷時代の王族箕氏であるとなして、非常に感謝して居りました。所がこの数年来、それでは矢張り支那に屈服する事となるから、自国の君でさういふ人はないかと、段々探して近頃、檀君といふのを朝鮮の建国者であると云つて居ります。かくの如く自主的気運の漸く盛んなる朝鮮人の現在は、実力に於てなほ日本人の問題とはならないから、忍んでは居るが、実力が出来れば反抗しようといふ考へがあるのではないかと思はれます。

 以上述べました様に、満洲に於て既に勢力を失はんとして居る日本が、朝鮮に於てさうした事情に遭遇しないとも限らないのでありまして、かくては日本はその発展地を亜細亜の天地に見出し得なくなる、それで日本人たるものは、満鮮の事柄は何事に係らず知つておく必要があるのであります。然るに、私の経験によれば、専門家はともかくも、一般人の満鮮の歴史地理を充分に知る者の数は、今日に於ても甚だ稀れの様に見うけられます。今日に於てなほ然り、今を去る二十七、八年前の人々のこの方面の知識は皆無に等しかつた。そこで私は、明治オープンアクセス NDLJP:5三十八年ポーツマス条約談判締結の真最中、満洲を初めとして、支那方面に於ける日本人の知識をひろめねばならぬ。その為めには学者を糾合して一つの会を作り、知識を普及せしめるに如かずとなして、東京帝大の山上御殿に、大学の教授その他東洋に趣味を有する人々を集めて、さういふ会を作ることを力説いたしました。併し、当時の大学の先生達も、その他の人々も馬耳東風となし、甚しきに至つては私に罵詈讒謗を加へる者もあつたのであります。その後私は一人で活動して同志の者を集めようとしたが、其の効がない。然るに幸にも明治四十一年に至り、南満鉄道会社の後藤新平伯(当時は男爵)に会ふことを得て、伯に満鮮の歴史と地理とを根本的に調査する必要のある事を説きました。伯は他の政治家とは余程異つた見解を持つて居られて、よからうと云ふので南満鉄道会社の中に、満鮮の歴史及地理の研究調査部が設けられたのであります。これはその後七年にして東京帝国大学文学部の中に移され、今日も尚存続して居ります。その研究調査の報告は巻を重ねて既に二十巻に及ばうとしてゐる。同時に一方には、東洋協会と云ふ主に植民地に働く人を養成する学校がありまして、桂公爵が会長でありました。此の方とは直接の知合でなかつたので故平田伯を介して面接し、同協会の中に学術調査部と云ふものを設けて貰ひました。そして満鮮及支那の歴史、地理、宗教その他各般に亙つて調査して、学術的の雑誌「東洋学報」を出しましたが、これも今日迄続いて居ります。これは自分のやつた仕事を吹聴するに似てゐますが、さう云ふ意味ではない。如何に満鮮の歴史を知る事が必要であるかと云ふことを、私はその頃から考へて居つたと云ふことを、痛切に述べる必要がありますので、其の動機から只今の事を申し上げたのであります。

 以上述べました様に、満鮮に関しては、種々の研究が発表されて居りますが、それは純学術的のものであつて、一般人には容易く判りかねる。それでその研究の結果を全部こゝで二時間半で述べる訳にはゆきません。又話した所で有益であるとは考へられません。今日は大体を述べるに止まるのであります。

 先づ、満洲と朝鮮とは、東洋史、亜細亜の図面にどう云ふ歴史的意味を持つてゐるか、この事を述べるに先つて、東洋史とは如何なるものかを述べねばなりません。これを簡単に述べねば満洲と朝鮮のことは判りかねるのであります。

 東洋史は学校の教科中にもあるが、余り受けがよくない、固有名詞の送迎に疲れて少しも興味が起らないと云ふことを屢々聞いて居ります。乍併、我々は東洋人である。そして国史は東洋史の一部をなしてゐるものであります。故に理解の度の深浅を問はず、一応は之れを知つておく必要があるのであります。それに何事も判らないから興味が薄い、判れば面白くなつて来るものであります。それでありますから、暫く耐忍して御清聴下さる様切望いたします。

 亜細亜の地図を見ますと、中央に大きな山のあることに気付く。これは西蔵の高原でありまして、 その北の方に東西に横たはつて、広大なる蒙古の沙漠があります。この沙漠の一帯が東は遼東、即ち満洲、西は裏海黒海の辺まで及んで居ります。即ち露西亜の西南部に迄この地帯が拡がつてゐるのであります。それより北の方は深林帯であつて人跡稀れなる密林であります。その次はツンドラと云つて苔が生えて居る。此の中、亜細亜の歴史に活動した所の民族は、中央の沙漠曠野の方面に住んで居つたのであります。

 それを東の方から述べると、満洲から西比利亜の方面にかけて拡がつて居る人種通古斯がある。この人種を歴オープンアクセス NDLJP:6史上から云へば、古の粛慎、唐代の靺鞨、これから出た渤海、それから降つて女真、即ち金、只今の中華民国の前に支那を支配して居つた満洲人であります。之等はみな通古斯であつて、東蒙古から日本海迄に住んで居りました。一方には貝加爾湖の南にある盆地から亜爾泰、天山の方まで拡がつてゐるのは蒙古人であります。かの成吉思汗は即ちそれでありました。蒙古人は成吉思汗より前に既に活動して居ります。秦の始皇帝の時から漢代にかけての匈奴、宋代の契丹、女真、鮮卑等はみな蒙古人であります。蒙古人は、成吉思汗以前には、タタール即ち韃靼と呼ばれて居ましたが、成吉思汗が興つてからモンゴール即ち蒙古と呼ばれる様になつたものであります。それより西の方に天山と亜爾泰山の間に居るものは土耳古であります。土耳古と云へば、最近までコンスタンチノープルに都して居たオスマンリートルコを想起されるでありませう。土耳古人はもと天山の北、貝加爾湖の南に居つたものでありますが、これから東方から追はれて、西へと移り、一方に於ては露西亜に向ひ、一方にて於ては波斯、印度の方に入りまして、終りにはオスマンリートルコと云ふものを拵へた。その本地がこの天山、亜爾泰山の間であります。更に之と同じ人種はウラル山を根拠として、今日でもなほ残つて居りますフインノウグル人種であります。その中で最も著明なものは、ダニユーブ河の方まで行つてハンガリー盆地を占めて居るマジヤールと、露西亜の北方に今日まで国を支へて居る芬蘭土の二つであります。以上を総括して西の方から述べますと、芬蘭土人にマジヤール人の一組、之れと類したものは東の土耳古人、蒙古人、其の次は通古斯、満洲人、これだけの民族が亜細亜の歴史に活動したのであります。

 これを歴史上著明な個人に就て申せば、蒙古人からは成吉思汗、土耳古人と蒙古人の混血児として帖木児が出ました。その外匈奴からは、冐頓単于が出ました。又西洋の方に暴れたものにアツチラがあります。之等はみな沙漠の中に成長した英傑でありまして、亜細亜の歴史に大影響を与へたものであります。之等の民族を総べてウラル·アルタイ民族と申します。その拠つて居りました地勢の関係上、武力を有して居るが、文化に於てはさほど発達しない。破壊力に富んで居るけれども建設力に乏しい、国家は建設するけれどもその他の建設は不得手だと云ふ暴力団であります。亜細亜の歴史の舞台に活動したものは、北部のツンドラ、深林帯等からは一人も出て居ないで、只今申しました沙漠曠野の間に居た暴力団のみであります。

 目を転じて南はどうかと云ふのに、こゝは気候が非常によく、物産は豊富で、文化は夙に開けました。東の方には黄河、楊子江の流域に発達したのは支那の文化。恒河、インダス河流域に発達した印度の文化。その隣に波斯の文化があります。西の方には、チグリス、ユーフラテスに発達したアツシリヤ、バビロンの文化。亜拉比亜、埃及の文明。文明の根源地は亜細亜の南部であります。又根源でなくとも、早くから開けたものは皆亜細亜の南部の肥沃の地にあります。亜細亜の南方は先程述べました北方とは全く反対の性質を持つて居ります。

 一言にして云へば、北方の武力を有して居る民族が、始終南の方の文明国に討ち込んで来る、これが亜細亜の歴史即ち東洋史であります。これを支那に例をかりて云へば、先づ匈奴が、秦の始皇帝から漢一代の間、北方より討ち入つて漢民族と争ふ。後漢から三国、南北朝に入つては五胡が中国に入つて来て争ふ。唐代に於ては、回紇或ひは突厥或ひはキルギスとの争ひがあります。五代から宋に至つて契丹、女真、蒙古との争ひがあります。蒙古の時には成吉思汗が出て大帝国が作られ、その子孫の際には、支那全部が北狄の為めにとられて了ひましオープンアクセス NDLJP:7た。かゝる事柄は単に支那ばかりに起つたのではない。印度も何遍となく北方の遊牧民に侵入されて、終に莫其児の為めに半島の全部を征服されました。波斯も亦蒙古人に尽くとられた。オスマンリートルコは亜細亜の西北、シリア、埃及、亜拉比亜、小亜細亜を征服して了つた。――それですから、東洋歴史は複雑ではあるが之を約して申せば、北方の武力を有してゐる民族と、南方の文化を有してゐる民族との争ひであります。即ち文武の争ひであると云ふことが出来ます。この南北の対抗、文武の争ひと云ふのが亜細亜の歴史の大綱であります。

 亜細亜の衰へたのは何によるか。これは武力のみあつて文化のない北方の民族が、南方の国を尽く圧倒して了つたといふことに原因して居ます。北方の民族は、文化を有してゐる支那人、印度人、波斯人、亜拉比亜人等を討ち破つて之等に代ると、南方の遊情な風に染まり、所謂文弱に流れて、元来の北方の強と称する性質を失ふ。南方民族の方は、文化の発達を阻害されて因循姑息となり、道徳は廃頽し進取の気象を全く失つて了ふ。かうして亜細亜は衰退して了ひ、紀元第十三、四世紀には其の極に達しました。其の最後に、欧亜を連絡する西亜細亜、バルカン半島、地中海の南部の全体がオスマンリートルコの領する所となり、その結果、土耳古はコンスタンチノープルとアレキサンドリヤとに拠つて、東西交通の要路を横断して了つた。そして、西洋に入る物貨に対しては、殆んど略奪にも等しき重税を課した。これが為めに欧羅巴に於ては経済界の恐慌を来し、他の航路の発見が企てられ、遂に葡萄牙人によつて、阿弗利加の南方を迂廻して印度に入る新航路が発見されました。かくて、葡萄牙人は、亜細亜の南方の文明国に来て、欧羅巴の物品を売り捌き、逆に亜細亜の物品を欧羅巴に持ち運んだ。次に和蘭人、英吉利人が順次に入つて来て、十九世紀から二十世紀に至り、今日まで英吉利が亜細亜の商業上の権利を壟断した様なものであります。又一方に於ては、露西亜が、葡萄牙人が亜細亜の南方に現はれると同時に、コサツク兵を利用して西比利亜の方から日本海の方まで入つて来た。それで、亜細亜の天地に於て政治上の争ひをなすものは亜細亜人同志ではなくして、欧羅巴の二国英露の競争が展開されたのであります。即ち、欧羅巴の中に於て、最も文明の開けてゐると唱へられる英吉利人が亜細亜の南方の文明国の方に向つて、政治上商業上の権力を得、最も野蛮と称せられる露西亜が、北方の野蛮の方に現はれて勢力を得て来たのであります。この両者が終に中央亜細亜に於て衝突しました。之れによつても明かなるが如く、従来は、亜細亜の何処に於ても、亜細亜人間の南北の争ひであつたものが、近世に至つて、欧羅巴人同志即ち英露の南北の争ひとなつたのであります。それでありますから、古より現代に至るまで、南方と北方とが相争ふと云ふことが、亜細亜の歴史を支配してゐる。即ち、南北の対抗闘争と云ふのが亜細亜の歴史の大綱であり基礎であります。この綱領を承知して各国のことを説けば、脈絡が貫通して居りますから、至極分り易く説く事が出来るものであります。

 もう一度繰り返して申しますれば、東洋の歴史は南北対抗の歴史であります。之が大綱となつて東洋の歴史が織り出されてゐるのであります。この南北対抗の東端に位するものは何か、即ち満洲、朝鮮及び日本であります。そこで、この東端の方面に住んでゐた民族について一々述べておく必要がある。併し、無論詳しく述べる事は時間が許しません。大ざつぱに申上げます。

 満洲には前述の様に通古斯民族が居りました。即ち、この民族は、歴史上に現れてからは、黒龍江の支流なる松花江、並びに長白山に源を発する嫰江の流域に拠つて居りました。それよりも北にある黒龍江の南方にも拠つそれよりも北にある黒龍江の南方にも拠つオープンアクセス NDLJP:8て居りまして、東は日本海の方まで拡がつて居たものであります。この通古斯民族は屢々南方に顔を出して来ました。支那の歴史に何回か現れて居る所の、粛慎、靺鞨、女真、満洲の名は、この民族に付せられたものなのであります。その他に、松花江の上流から東蒙古にかけて拠つてゐたのがありましてこれを様貊と云ひます。此の民族は元盛京省の方、即ち奉天から遼陽の間に拡がつてゐたものであります。

 次に支那人は、古い話でありますが、周の戦国の時分に燕といふ国があつて、今の北平に都して居りました。この燕は次第に地を東方に拓き、盛京省の方面を尽く支那人の領土にしてしまひ、こゝに遼西、遼東を設けまして、奉天遼陽をその中心といたしました。

 かくて支那人は、戦国から秦漢にかけて東方へ進出して来たが、それより北方にも西方にも発展することが出来なかつた。そこで更に進んで朝鮮半島に這入り込んで来ました。即ち平安道の西北部から入つて、黄海道並びに京畿道にどん殖民致しました。それで、朝鮮には初め支那人が多く、朝鮮人の中には、支那人の血液が随分流れてゐるといふ事は確かであります。でこの三道は支那の殖民地でありましたが、本国の命を奉じないで、独立してこゝに国を建てたものが先に述べました箕氏であります。古の朝鮮と云ふのはこゝに起つたのでありまして、只今の朝鮮の全部を云つたのではありません。之れを今迄の歴史によると随分古い事で、殷の末、周の初となつて居りますが、これは嘘であります。即ち戦国の時の事であります。かうして支那人は、満洲に於ては盛京省、朝鮮に於ては三道の方面に入り込んだのであります。

 又、咸鏡道、江原道、並びに平安道の一部には、吉林省の方面に拠つて居た通古斯種の様貊が入り込みました。貊族は、松花江の上流と、河口だけは支那人に領せられましたが、鴨緑江の殆んど全部と、豆満江の全部、並びに咸鏡道、江原道――これだけの地に拠りました。それでこの機貊種族と支那人とは朝鮮半島に於て互に争つたものであります。即ち朝鮮の北端に於ては、東に貊族、西に支那人が居りまして、山脈を中心として東西に対立し、相争つて居りました。

 さう云ふ関係で純粋の朝鮮人である韓族は、朝鮮の南部、慶尚道、忠清道、全羅道の三道にのみ存して来たのであります。韓族は文化の点に於ては、勿論支那人に及ばぬ、又或ひは北方から来た穢貊にも及ばない程、劣つてゐるのであります。さういふ微々たるものであるにも係らず、この朝鮮固有の土著の人民が独立を失はないで存して居たといふのは、朝鮮半島の北半が二つに分れて居て、西に支那人、東に穢貊といふ通古斯がゐて、互に相争つた為めに、朝鮮の南部が併呑されずに残つたことに依るのであります。之も亜細亜大陸の形勢の延長であります。亜細亜大陸は南北対立でありますが、朝鮮半島に於ては、大関嶺を真中に置いて、南北と云ふ関係ではなく、東西と云ふ対立が現れたのであります。この亜細亜大陸に見られる二元的現象の為めに、南端に位してゐた朝鮮土著の韓族が独立を失はないで、生存することが出来たのであります。

 かうした状態が暫く続きますと、漢の武帝の時から、三道は純粋なる支那の郡県と云ふものになつた。司馬晋の時分になつては、国内に事が多くなつて、その勢力が及ばなくなつた。その機会に、鴨緑江の流域に拠つて居た穢貊の高麗が、朝鮮の西北部から支那人の勢力を尽く追払ひました。この高麗は、日本の歴史に出て来る高麗百済の高麗でありまして、土著の朝鮮人ではなく、北方の戎狄なる通古斯であります。朝鮮半島に於ける支那人オープンアクセス NDLJP:9は、高麗の為めに尽く併呑され、貊族の一人舞台になつて了ひました。その儘続けば、南方の韓族、慶尚道、忠清道、全羅道の三道に拠つて居た三韓の民族は、高麗の併呑する所となつて了つたに相違ありません。然るにさうならなかつたのは、日本の勢力が恰度朝鮮の南方に現れた為めであります。

 日本がこの方面に現れたのは、司馬膏、東晋の末の事でありまして、此の時に初めて、日本、大和の勢力が朝鮮半島に打ち立てられたのであります。その順序はどうかと申しますと、こゝで日本の歴史を一瞥する必要があります。日本はそれまでは大和を中心として居まして、皇室の御勢力は、東海道及び山陽道、山陰道、並びに四国、東山道、北陸道の一部迄及んでゐたが、九州は未だ皇室の御勢力の範団には入つて居りませんでした。即ち支那で云ひますと、後漢から三国の頃にはまだ九州は全く独立の地位を占めて居て、大和の朝廷には帰順しなかつたのであります。そこにはどう云ふ者が居たかと云ふと、北部には卑弥呼、南部には、支那の歴史に於て狗奴といふ熊襲が居りました。熊襲は「クマ」のなまつた「クナ」とも呼ばれました。夫等が九州に独立して居て大和の朝廷に帰順しなかつたのであります。この中卑弥呼は、朝鮮の北部に拠つて居りました支那人と交通し、遥かに支那の都まで使を出して居ります。その時分の支那は恰も南北朝の時でありまして、魏の国から親魏倭王といふ称号をも貰つてゐます。この様にして、九州と支那との間に頻りに交通が行はれ、向ふの品物をどん輸入したが、大和の朝廷の勢力がまだ九州に及ばないので、朝鮮に使を出したかどうかは分らない。然るに時代の経るに従ひ、先づ北部の卑弥呼の子孫を平げ、次に熊襲を平げて、九州全体は初めて日本の皇室の御感光の下に帰しました。その時朝廷に於ては、前に卑弥呼が、頻りに支那と交通し朝鮮の南部と貿易して、利を収めた事を知つて居りましたので、支那の勢力が朝鮮の西北部から撃退されて、高麗が代つて北部に活動し、乱脈の有様となりました時に、唯今の慶尚道の南部、洛東江の河口の加羅の国に入り任那と云ふ国を拵へました。又、一方に於ては百済を討ち、一方には新羅を討つて、朝鮮半島の南部に於ける政治上の勢力を握つたのであります。之は恰度支那の勢力が朝鮮半島の西北部から撃退されると殆んど同時なのです。日本の勢力と支那の勢力とが、朝鮮半島に於て両立しないのは昔からであります。それでもはや高麗によつて支那勢力が撃退されてゐましたので、今度は日本と高麗とが争ふやうになりました。この争ひは屢々繰返されましたが、恰度明治の際と似てゐる形勢を示しました。朝鮮半島の南部には、任那、百済、新羅の三国がある中、日本に屈服したのは前二者であつて新羅は服従しない。兵力を送れば日本に服し、それが少しでも弛むと叛かうとする。叛くにも新羅一国の力を以てしては、日本に敵し難いから、北方の高麗に縋つて、自国の独立を図らうとしたのであります。それは恰度明治時代に朝鮮人が支那の勢力に縋つて独立を図らうとし、支那が破るゝに及で露西亜の勢力に縋つて日本の圧迫を逸れやうとした政略です。即ち、新羅は、高麗と云ふ大国によつて、任那を属国とし、百済に勢力を圧迫して居る日本の勢力を撃退して、自分の勢力を張らうとした。そこで、新羅が高麗と聯合したので日本は何遍か新羅を征伐したが失敗に終つた。背後に高麗がある限りは、新羅は機会があれば又起る。そこで新羅を降服せしめる為めには高麗を根本的に伐ち砕かねばならないと考へ、日本は高麗と大戦争をしました。その事が高麗の当時の金石文に書かれてゐます。これを好太王の碑文と云ひ、鴨緑江の北岸にあります。その中には、日本が朝鮮の南部の三国を臣とし奴としたと書いてあります。日本の敵国の王が書いてゐるのでありますから、間違ひとは云へまオープンアクセス NDLJP:10せん。それは東晋の末、南北朝の初めであります。又、日本は高麗と海戦し、二度共大敗北したと書いてあります。好太王と云ふのは広開土王と云ふのが本当の名で非常に偉い人でありました。その子に百歳まで生き、八十余年間位にあつた長寿王と云ふのがあります。これも亦偉い王でありましたが、この王が好太王の碑文を建てたのであります。この敵国の王様の金石文に日本軍の大敗北が記されてゐるのでありますが、これは勿論誇張でありませう。でも敗けた事は事実に相違ない。明治時代には外国と戦ふと、陸海軍共に連戦連勝しましたので、日本は戦へば常に勝つものと思つてゐるが、日本人でも負けた事はあるものであります。で当時の高麗と日本の戦争は、恰度日露戦争の様なものであります。露西亜が日本に敗けたので朝鮮半島に於けるその勢力を失つたが如く、日本は高麗に敗けたので、朝鮮半島に於ける日本の勢力は大打撃を受けました。即ち任那の官吏は堕落し、都を成安に遷さねばならなかつたのであります。乍併、加羅では新羅に近いから危険だと云ふので遷しました咸安の日本府も、やがて攻められて倒れて了ひました。それから後は、日本の朝鮮半島に於ける勢力は急激に衰へました。然るに、道徳的には、日本の勢力が残存して居りましたので、百済はこれを手蔓として日本の力をかりて新羅や高麗の圧迫を免れやうとした。すると新羅は、日本の弱くなつた勢力をも尽く撤退しようと云ふので、唐の太宗と通じました。それは恰度前に高麗に対してしたと同じ筆法であります。即ち、支那の大勢力によつて日本の勢力を尽く朝鮮半島から駆逐して了はふと云ふ政略をとつたのであります。そこで唯今の忠清道にある錦江と云ふ河の河口で日本と支那との海戦が行はれましたが、その時も日本軍は敗北しました。それで朝鮮半島に於ける日本の勢力は零になつてしまひました。然るに当時の支那に於ては、唐の玄宗皇帝が楊貴妃に迷つた為めに、国乱がありましたが、その機を利して新羅は朝鮮半島に於ける支那の勢力を尽く追払ひました。新羅は先に日本の勢力を追払ふ為めに支那を利用し、次に支那の弱るのを利して独力を以て朝鮮半島からその勢力を除去して、朝鮮半島を統一して君臨したのであります。之は天智天皇の時に当ります。日本は実にこの時に海外に於ける勢力を失つたのであります。

 新羅はかくの如く朝鮮半島を統一したものゝ只今の朝鮮半島の全部を取つたのではありません。咸鏡道、江原道、平安道の三道は外国人のものでありました。この中咸鏡道と江原道とは渤海国に属してゐた。之は通古斯族なる靺鞨が、吉林省の寧古塔から南の辺を都として、鴨緑江の殆ど全部と先述の二道とを領して建てた国であります。それで支那は鴨緑江を越えて入る事が出来ないので、平安道は間隔地となり、こゝに無所属地(ニユートラルゾーン中立地帯)が出来上りました。これは注意すべき現象であります。支那、渤海、新羅の三勢力が、各各この地、平安道を自国のものにしようとすれば、他の二国に牽制されるので無所属地となつたのであります。勿論名義は支那のものとなつて居りましたが、唐の勢力はこゝまで及ばないので、馬賊の出没する無所属地がここに初めて現出したのであります。

 其後渤海は滅びて、契丹が起りました。契丹は蒙古人でありまして、シラムレン河の上流方面から出て吉林省、遼東の方面に居りましたが、これが朝鮮の北半を領することゝなりました。次に、女真といふ靺鞨の子孫即ち金が起りましたが、矢張朝鮮の北部を取つてゐる。蒙古が起ると同じく北半は尽くその郡県となつて了ふ。の蒙古が起りましたのは、新羅が亡びて高麗、即ち前の高麗ではなく王建の建てた高麗国の時分であります。蒙オープンアクセス NDLJP:11古は支那全部を支配して居りまして、遂に朝鮮に迄その勢力が及ぶことゝなりました。それでこの時になつて初めて此の北狄の、大陸の勢力が日本に感ずる様になつたのであります。

 支那に於て偉かつたのは、漢の武帝、唐の太宗であります。共に領土を拡げまして朝鮮半島に迄及びました。就中漢の武帝の如きは朝鮮半島に四郡を置いた程でありました。併し、共に日本に迄その手を伸ばす事は出来ませんでした。之れは何によるかと云ひますと、漢代には匈奴が、唐代には突厥或ひは回紇と云ふ北狄が居つたからであります。即ち南北対抗の形勢が、朝鮮半島の大部を領した大勢力にすら、北狄によつて内地の襲はれる虞れがある所から、東方に手を伸ばして、海狭をへだてゝ居る日本に伐ち入るだけの余裕を与へなかつたのであります。これは、南北何れの民族が支那を支配しようと同じ事でありまして、南北対抗の弱みに外ならないのであります。然るに、元は、自分の本地たる蒙古は勿論のこと、支那、満洲の全部を領して了ひ、朝鮮には高麗国があつたけれども、元の役人が来て政治を執つてゐたのであるから、これも亦元の領土と見て差支のない様な形勢となりました。それで些も後願の憂がなかつたので初めて、亜細亜大陸の勢力として、蒙古の勢力が日本に感じ国史上で、弘安の役といふ来冦が起つたのであります。日本が外国から攻められた事は、この時の忽必烈の襲来の外、後にも前にもない事であります。勿論その前に、日本の歴史には、刀伊の賊といふのがあつたと書いてありますが、これは女真の一部の海賊でありまして、日本の国家を狙つたものではない、外冦ではないのであります。それであるから、日本の国が、かくの如く幸福な歴史を持つて居りますことは、一つは勿論皇室の御威徳によりますが、一方には、地理上、南北対抗と云ふ関係が、亜細亜大陸に成立して居ります所から、東方に突進する大陸の勢力が鈍つて、日本の島迄は及ばない。その為めに、日本は外寇の虞れと云ふものがなかつたのであります。

 かうした幸福な歴史を持つ日本は、前述の如く、天智天皇の時に、朝鮮半島に於ける勢力を殆んど失ひました。その後に、藤原氏の専政があり、次いで、平氏の勢力が盛になり、引続いて源氏の幕府が起りました。こゝに武家の政治がはじまりまして、北条、足利、織田、豊臣、徳川がこれに続きました。日本は国内の力の統一されると、その力は朝鮮に及ぶより外に道がないのでありますが、武家政治の間は、朝鮮半島の方に兵を向ける事が出来ません。さうした大仕掛のことをすれば、正統なる君主を要求するは自然の勢ひであります。外国と兵を交へて勝つ為めには国力を団結せしめる必要があります。それには正統なる君主、皇室を戴くのが至当であります。これは武家にとつては非常に不利益でありますので、武家が政治を執つてゐる間は、勢力を外国に出す訳には参りません。唯その変態として、豊臣氏は武家でありながらも、兵力を朝鮮に向けました。その時と雖も国内に反対する者のあつたのは勿論であります。その中で著しいのは徳川家康の反対であります。若し家康が反対しなければ、皇室を仰がうと云ふ人が出て来るに相違なかつたのであります。それで、勢力の統一を欠いた結果失敗に終らさるを得ませんでした。この事を知つて居りましたので徳川氏は鎖国主義をとりました。この徳川幕府が倒れて、維新の大業が成り、明治の時代に入りますと、日本の国力は、西洋の文物を採用して、益〻盛になりました。そしてこゝに東方に於ける統一のある大勢力が現れたのであります。

 その間に朝鮮半島はどうなつてゐたか。高麗が滅びまして、足利氏の初めの頃になりますと、李成桂といふもオープンアクセス NDLJP:12 のが朝鮮半島を統一しました。そこでこゝに李氏の朝鮮が出来ました。その頃は、支那は弱く、日本も北狄も弱い所から、その機を利して朝鮮の勢力をどん北方に拡げて、李朝といふ王様の時には豆満江と鴨緑江までその勢力が張りつめてゐました。只今の朝鮮の区域と云ふものはこの時初めて出来たのであります。そしてこの李氏の朝鮮は、その時からずつと続いて、明治まで独立してゐました。

 すると、恰もその時に当り、北方から露西亜が現はれました。亜細亜の北方の民族を平げて、黒龍江、松花江の流域に顔を出し、遂に朝鮮の方面にも手を出さうと致しました。これは支那に於ては清朝の時代であります。そこで日本は自国の権益を擁護する為めには朝鮮を放棄して置く訳にはゆかなくなりました。そこで朝鮮は、日本と支那と露西亜の三勢力の争奪地になりました。露西亜が未だ充分に勢ひを得ない間は支那が頻りに朝鮮をとらうとしました。そこで日清戦争が始まつたのであります。之れによつて支那が撃退されました結果、日本と露西亜との対抗となり、日露戦争が勃発して、露西亜が撃退されました。これは南北対抗の経緯でありまして、新羅時代からの歴史を繰返したものに外なりません。露西亜といふ北方の勢力と、支那といふ南方の勢力が、共に撃退されまして、朝鮮からは亜細亜大陸の勢力が尽く失はれましたので、こゝに始めて朝鮮といふものが日本に併合されたのであります。そこで三国の勢力の紛争地たる朝鮮半島は漸く安定する事を得たのであります。

 次に満洲の方面はどうなつてゐるかといふと、こゝも矢張此の南北対抗の東方に位してゐるものであります。そこでこの勢力が各〻顔を出して来るのであります。先づ露西亜は東清鉄道を、日本は金州半島の租借地と南満洲鉄道を、そして支那は土地の主権を持つて居ります。それで支那の土地であつて支那のものでないと云ふ変挺な現象が起りました。これが今日の満洲の形勢であります。何故にこんな変な現象が起つたかと云ふと、之は亜細亜大陸の前の歴史の関係から、日支露の各〻が盛になれば、三国共に満洲を取らうとします。そこで妥協案が提出されたのであります。即ち、支那は実力が無いので、支那に委せておけば満洲は馬賊の横行する所となる。そこで日本と露西亜が入つて整理を付けることゝなつたのであります。これは、満洲の地が古より今日に至るまで三つの勢力の紛争地なので、その中の一国が専有する事を他の二国が許さない。そこで自然に出来た妥協なのであります。この事を承知しておいて初めて満洲の現状が判るのであります。

 それまでは歴史上の問題でありますが、それ以後はもはや歴史上の問題ではありません。私は歴史家の立場からして、そこまでの事を述べましたが、それから先の事は政治家として述べるのであります。私は政治家たるの資格がないでせうけれども、歴史によつて過去を知り、現在を知れば、将来について満洲の運命を卜する事も出来やうと思ふのであります。――先づ第一に、九十九年の租借の問題であります。租借であるから、その年限がたてば日本は之を引渡さねばなりません。併し日本はなか引き渡さないでせう。さうすれば支那が苦情を云ふ。その苦情に対して、日本はどう云ふ事をしてその苦情をなくす事が出来ませうか。露西亜が強くなれば満洲をとらうとする、その時日本と支那は之にどう当るか。これは今後の大問題でありまして、中にても最も影響を蒙るのは日本でありませう。支那は他にも領土がありますし、露西亜は無論大きいが、日本は満洲を除いて外に発展する余地を有しません。それで之を手離して了ふことになれば、日本の存在も余程危くなつて参ります。故に日本人たる者はこれについて深く考へて置かねばなりません。私はずつと以前に予言いたしまして、日露戦争オープンアクセス NDLJP:13の頃に或る雑誌に発表いたしました。それは要するに、日支露の三国が妥協する方法としては、満洲を中立地帯 Neutral Zone とするより外にないと述べたのであります。私は政治家ではありませんので、実行困難な考へかも知れませんが、過去現在を以て未来を推す歴史家としては、かうした事より以外に良策を発見し得ないのであります。

 満洲の形勢の方は其位でお判りだらうと思ひます。その余論として、日本は今よく治まつて強いけれども今後どうなるか、支那は発展して強国になり得るか、どう変展して行くものであるか、露西亜は果して強国になるか、これ等の事について述べたいと思ひます。それでお話の順序として、何故に露西亜がソビエツト政府になつたか、何故に支那が中華民国になつたか、何故に日本は四方に民国を控えて居るにも拘らず独り帝国として存在して居るか、その訳を簡単に述べて見ます。

 先づ支那の方から云ふと、支那が帝政を排して中華民国となつた事は甚だ異様の感を懐かせる事件であります。けれども支那の歴史を見れば、決して怪しむに足らない、当然の事なのであります。何も亜米利加辺の影響を蒙つたからではない、支那の儒教其のものに元来さう云ふ民主的の精神があるのであります。之は儒者も認めて居る事なのであります。

 突然かう云ふ事を申すと、儒者の側から反対をうけるかも知れませんが、私が見る儒教はどうしても、民主的、共産的性質を有して居ります。その一番いゝ例は井田の法であります。之は儒教の租税の取り立ての最も簡単な方法であります。先づ支那の全土を中央に収めて共有地とする、そしてその人口に応じて土地を平均に分けると云ふのが井田の法であります。その方法は、九百歩を九つに分ち、真中を公田として、八軒が各々百歩をとる。そして真中の公田を年貢に当てる。でありますから一人も困らない様に、貧富の差別のない様にするのが、井田の法でありまして、甚だ民的、共産的性質を帯びてゐるのであります。然も之が儒教の理想であります。それを南北朝から唐代になりまして、只書物に書くばかりでなく、実地に行ひました。それで日本が唐の制度を採用するに及んで、支那に於て行はれてゐる事だからと云ふので、日本も亦之を実施いたしました。平等に土地を分けるのですから、恨みの有り様がなく、現実の社会に最も適切な法に違ひありません。併し支那に於ても日本に於ても失敗致しました。この例を以て見れば、同じ様な事をやつてゐる現時の露西亜も失敗するでせう。日本では、失敗すると云ふ事を知らないで、大変いゝ事の様に思つて、近頃外国のさうした思想を迎へる人があります。けれども、それは間違でありませう。

 次に支那の帝王には尭、舜、禹の如く有徳の人がなる事になつて居ります。然も有徳と定めるのは人民でありますから、支那の帝王は一種の大統領なのであります。かうした支配者が、自分の存命中でも、年をとると、自分の権限、職責を充分に尽すことが出来ないと云ふので位を退いて摂政をおくのであります。尭が年老いると舜が位を摂し、舜が天子になつて老いると禹を挙げて位を搆せしめました。ちやんと年限を定めた大統領でないが、民意を重んじ、民を主とする。それですから、書経と云ふ支那の宝典を見ますと、一頁も民といふ文字の現れない頁はないでせう。それほど民を重んずるのが支那の儒教の精神であります。

 どう云ふ訳でさう云ふ道徳主義が支那に現はれたかと申しますと、闘争が猛烈を極め、併呑が非常に行はれ、オープンアクセス NDLJP:14殺伐な乱が続く結果、君主の地位が安定しない。長く君主たる為めには先づ人民から固めて行かねばならないので、凡て民の方に重きを置いて自治をやるのであります。それでなければ外国人が来てどん支那人を追ひ使ふのであります。支那の民族が、尽く蒙古の為めに支配されたのは忽必烈の時でありますけれども、それより前に外国人の支配を受けてゐます。外国人の支配の下にあつても、各々本分を守つて、何処迄も自分の社会を崩されない様にすれば安全だ、それで民権をうんと張つておいたので尭舜禹の伝統が出たのであります。そしてまた人民の要求が理想に凝り固まつて書経といふものが出来たのであります。

 さう云ふ道徳を持つ支那人は、個人としては強い、どんな困難にでも耐へる。自分の家庭はどこまでも絶やさない。張氏はどこまでも張氏。楊氏はどこ迄も楊氏。結婚をするにも異姓でなければ娶らないで、姓を永久に伝へる。支那に於ては、君主の地位は朝夕を待ちませんが、個人の一家は万世不易であります。それであるから支那人の個人としての活動は非常なもので、到る所に於て勢力を張り、発展して居る事は驚くべきものであります。支那人の行かぬ所は地理上に殆んどないでせう。どんな困難にも打ち克ち平気でゐる支那人が、他の方面からどん駆逐されて了へば、どうしても満洲より外に行く所がありません。昔支那人がこゝに入り得なかつたのは、別の民族が跋扈して居た為めでありますが、生命財産の安定を得た今日に於ては、支那人はどん満洲方面に来るのであります。然もどんな困難とでも平気で闘ふ支那人でありますから、日本人はどうしても之と競争が出来ない。さう云ふ具合に国家としては弱いが、社会として個人として強い、こゝに支那人の恐るべき性質があるのであります。

 かうした民的性質を有する支那人をして、帝政を覆して中華民国を作らしめたのは、支配者の圧制であります。支配者の圧制が支那人を駆つてこの民主主義を唱へしめたのであります。即ち北方の、蒙古並びに満洲方面に拠つて居りました民族が、絶えず支那の方面に入り込んで、支那人をいぢめましたから、その反抗、その反動として今日民主主義が起つたのであります。要するに、自分の安全を図る為めに、其の理想を綺麗に現はしたものが儒教でありまして、その儒教を現代的に直したのが現時の中華民国であります。

 此の民国は今三つに分れてゐる、見様によつては四つに分れてゐる。満洲に居る張氏、近頃反対を起した石氏、南方に起つた新しい広東軍、大勢力を有してゐる南京の蔣氏、その他馮氏といふのがある。之を一まとめにして、秩序のある立派な国家を打ち建て得るかどうか。之は見物であります。見物であるけれども私は之を終ひには出来ると見る。支那の統一は必ず出来る、何時までも分裂してゐるものぢやないと、かう私は予言するのであります。何故今の様に支那人は分裂してゐるか――支那人は今迄自分の国のみが世界中に於ける国であつて、自国の外に国はないと思つた。さう云ふと諸君はおかしい事を云ふと思ふかも知れませんが、支那の儒教はさうであります。天下といひ、天子と云ひます。天下は一域でありまして、この天下に於て人類を支配する者が天の子即ち支那の天子であります。そして之と肩を比べる支配者は外にない。自分の国家より他に中国と称するものは世界中にない筈だと考へてゐました。それで英吉利から使が来ても、英国入朝すといふ。入朝といふのは家来が君主に物を上る時の話であります。日本が行つても来朝とか来貢とかいふ、日英仏露、世界の何れの国たるを問はず、ひとしく藩国といつて自分の属国と心得てゐて、中国と同等の資格のあるものではないと考へてゐたのオープンアクセス NDLJP:15が、今迄の支那であります。かうした考へが打破せられましたのは、清朝の滅亡と同時でありますが、まだ地方は其の思想が固い。一朝には改める訳に行きますまい。何分にも支那人は外国を自分の属と思つてゐるのでありますから呑気です。みな属国と心得て居るのですからそれに対して海軍も陸軍も備へる必要がありません。租税はなるべく余計とつてはいけない。とらなくても差支ない、その中中国風に化して来ると夢見て居たのであります。然るにこの夢が破られて、中国の様な国は世界には幾つもあるといふことを近頃知つたのであります。こんな具合でありましたので、中央に勢力があつて、租税を納めて、中央の権力で統一をする練習が積まれてゐませんでした。併し、列国中の一国にすぎない事になりますと、教育もせねばなりませんし、海軍も陸軍も要る。鉄道も敷設せねばなりません。さうすれば金が掛る。すると今までは搾る事の様に思つてゐた所の租税をとらねばなりません。そこで何と云つても中央の集権が必要となつて参ります。その中央集権を形成する過程に今ある訳であります。それで動乱の中にかうした事情が段々判つて来て、どうしても一国として列強の中に伍して行く為めには一つの権力の下に統一されねばなりません。共匪はソビエツト露西亜風のやり方をしようとしてゐるが、之は乱民である、共産党の土匪である。支那は既に共産主義には失敗してゐるのであるから、賢明なる支那人が之を採用するとは思はれませんが、支那は早晩何等かの形式で統一される事でありませう。

 又露西亜がソビエツトになつたのはどう云ふ訳かと云ふと、これも支那と同様圧制の反動であります。露西亜にはスラブ民族がゐる。その本地の人間は独逸、英吉利と同様白人種であります。けれども其の国は北方に偏在して居ります。露西亜の大部分の地面は古から亜細亜民族の拠る所であつて、古から今の様な露西亜があつたのではありません。黒海の北の方の大部分は、遊牧民が入り込んで居ました。その大昔は白人系の遊牧民が居ました。スキタイと称する遊牧民が亜細亜の方面から東から西へ入り込んでゆく。その遊牧民に逐ひやられた亜細亜民族が露西亜の南部に拠る事は随分長い事であります。アツチラも欧羅巴の中に入る時は、露四亜の南部に拠つた。蒙古がハンガリー迄入る時分にも露西亜を領した。マジヤール人が只今のハンガリーに行くには矢張り露西亜の南部に拠つた。それ程露西亜民族は古から不敵な殺伐なる亜細亜民族の攻撃を受けて居つたのであります。成吉思汗の子孫からは百年余も支配された。それから後ロマノフ家になつても圧制と云ふのが露西亜の特色でありました。それで露西亜へゆけば、富める者と貧しい者、知識のある者と、知織のない者との二つしかない。私は明治三十六年、日露戦争の始まる前に、当時露西亜を横切つて旅行いたしました。宿るのでも非常に不便です。欧羅巴の大都会ならば、身分に応じて種々の階級の宿やを見出します。然るに露西亜のペトルブルグに於ては上の宿やか下の宿やか、紳士の行く宿やか労働者の行く宿やか、二種類しかない。かくの如き二つの階級の対立は、唯に宿やに於てのみ見出されるのではありません。万事がさうなのであります。私の友達は小用をしたくなつて仕方がない。英語で話したが通じない。仏蘭西語や独逸語でも解らない。士官に会つて始めて用を便じた。東清鉄道に乗りました所が、その機関長は外国語を知らない。自国語しか知らない。が、それに乗つてゐる士官や、その他の者が仏蘭西語でも独逸語でも自由に話せる。かう云ふ訳であるから、露西亜のは、富める者と貧しい者、知識ある者と知識のないものと、この二つしかない。そして圧制されて居る者といふのが大多数であつて、貧民は、生の胡瓜と黒い麴包の外は食べない程である。住居もまるで見られたものではない。日本にも見らオープンアクセス NDLJP:16れない様な所に住まつて居る。殊に猶太人は非常に虐待を蒙つた。さう云ふ社会に始めてマルキシズムが悪用されるのであります。僅かの人間が非常な贅沢をする。知識財産を壟断する。然るに大多数はまるでいくら稼いでも食ふことが出来ない程である。之を救ふのがマルキシズムである。然もその理窟を知つてゐる者は僅かである。マルクスの本当の精神を読み破つて居るものは僅かだ。大多数はマルクスの精神を知らなくてもいゝ。かうすれば富める者をぶつ潰してその財産をお前等にやると云ふので、尽く之について来る。無教育なのですから、富める者は皆ぶち壊して了へ、皆きり倒して財産を没収して了へ、と、深い理窟は分らなくてもよい、当座のものにありつけるのであるから、それで今の労農政府が出来た。理窟を知つてゐる人は極僅かなので、それを実際に応用して革命となれば、どうしても暴力を用ひる。その結果どうなるかと云ふと、今は非常な第乏にあります。自由平等と云ふ事を唱へておいて、今の政府は非常に圧制であります。その上に外国に秘密を洩せば忽ち殺して了ふ。外国人が来ればいゝ所だけを見せて、悪い所は皆隠して案内しない。かくの如く暴力に訴へて形成した労農政府も亦圧制をきはめてゐるのであります。

 それであるから、私はこのソビエツトの主義を支那人や、日本人や、朝鮮人が真似ても決して利益はない。今苦んでゐる人は、富める者を倒したら一時はよいでせうが、それで財産が殖える訳ぢやない。富める者が単に貧しくなつたといふだけであります。その上一時入つて来た財産もいはゞ悪銭であります。善用されるものではないのであります。それでソビエツトでは、個人を認める事が出来ない。個人は無視される。幾ら自分が働いたつて、公のものに皆とられる。個人を発達させ個人を重んずると言ふ現代の人間の慾望を解しない。皆よくなると思ふから一時はよく働くでせうが、労働して死んだら自分の子孫にやれないとなれば、働かない人が出て来る。頭の働をして居る我々の様なものも皆働かねばならないのであるが、我々が労働者になつて何をなし得るか。甚だ不経済な話であります。さう云ふ訳でありますから、露西亜の政府が成功するとは思はれません。失敗するにきまつてゐます。それでその中労農の政府を廃して、他の形式が現はれて来ませう。即ち革正が行はれませう。露西亜の民族の大部分はスラブ民族であります。その他の者は亜細亜人でありますが、これは微々たるもので、一つの大きな国家を作つて長く続いたものはない。それで之等は尽くスラブに同化されるだけでありまして恐るゝに足りません。そして之が統一されると見るのであります。

 そこで日本を見ますと、日本の将来は諸君の方がよく御判りの事と思ひますが、先づ日本は何が故に帝政になつてゐるかについて述べませう。亜米利加が合衆国となるのは当り前であります。歴史も何も持たないものを、方々から寄せ集めて合体したのが合衆国であります。勿論その合体には仏蘭西の自由主義が作用して居ります。この合衆国が既に共和国であります。支那は、日本人が考へると変に思はれますが、儒教を尊崇してゐる国で、民主主義なる事は既に述べた通りであります。露西亜がソビエツトになるのも理由がある。その真中にあつて日本のみが独り帝政を続けてゐるのであります。万世一系の帝室を戴いてゐる。この事を今日の若い人々はどう考へてゐるか知りませんが、私達とは随分異なつた考へ方をしてゐる様であります。それで露西亜主義にかぶれる人もあります。露西亜のソビエツトの政治が、労農政府が出来るのはそれだけの理由があつての事であります。即ち前に述べました圧制がその理由なのでありますが、日本といふ国に於てその理由を発見することが出来るかオープンアクセス NDLJP:17どうか。それは疑問であります。といふよりも発見することは全然出来ません。併し、発見出来るとして今裁判されて居る人もある様でありますが、私から見ればそれは真似事なのであります。一体日本人は模倣性といふ外国のものをすぐ真似る性質を持つて居ります。之は一方から云へば大変にいゝ事であるが、又大変危険な所であります。日本人は古からさうだつたのですが、私は之を鵜呑み主義と称してゐます。善し悪しはかまはないで何でも呑んで了ふ。明治の際に欧洲の文物を採用した、古に於ては大化の新政に唐の制度を採用した。これはもつともよい事でありませうが、明治の時分には、何でも西洋でなくてはいけない、文明開化、文明開化と云つて、西洋のものを何でも彼でも取り入れました。私が十四五歳の頃には、勿論孟子なんていふものはやらない。そんなものはいらないと云ふ。それで中学では、論語孟子古事記等を文明開化には不要として皆廃して了ひました。之は明治十二三年の頃の事でありますが、日本人はこんな風に模倣性を有してゐるのであります。野球も亦然り。亜米利加で流行つてゐるから、こちらでも盛大にやるのであります。野球は必ずしも悪いのではありませんが、軽卒に模倣する所に弊害があります。虚心平気で考へる者にとつてはこれ程馬鹿気切つた事はないのであります。之は模倣で日本人が亜米利加人の真似をしてゐるのであります。亜米利加の様に富める国に於ては、少し位贅沢をやつてもよいでありませうが、日本は貧乏であります。貧乏な日本人が、富める国の真似をして、貴重な時間を野球に費す、これ程馬鹿気切つた不経済な話はないのであります。この軽卒な模倣性を発揮して、露西亜の真似をしようといふ者があります。ソビエツトと云ふものを露西亜でやつてゐる。之は面白い。自分は露西亜の如く上から圧制を蒙つては居ないが、生活の困難がある。露西亜の真似をしたら何とかなるだらう位に考へて居る者であります。マルクス主義をすつかり読破して自覚してやるのは幾分かよろしいけれども、ぶち破つて何かにありつかうといふ、実に危険な話であります。圧制を蒙つてゐない日本人にはそれだけの必要がないのであります。事実日本程圧制を蒙つて居ない国民はない。世界の歴史に於て日本程、幸福なる国民はありません。支配者から之程よく待遇された国民はないでせう。何故に。それは皇室があると同時に武家があつたからでありませう。之までは武家を逆賊の様に考へて来ましたが、それは間違であります。武家は言はゞ責任ある内閣であります。皇室は上で神として人民の信仰の中心であります。ゴツドである皇室が、よい神の権化でこそあれ悪い事をする訳はないのであります。皇室を神の権化と云へば馬鹿なと今の人は云ふでありませうが、私は歴史を話して居るのであります。昔の日本人は皇室を神の権化と考へて居つたといふのであります。その神様が人民の為めに悪い事を図つた事はない。乍併、皇室と雖も御身体は人間であらせられますから過がないとも申されません。そこで日本人は皇室を奥へおさめて、実際には武家に働かせました。武家が善悪の差別をつけ黒白の判決を下す。白の方に旗を上げれば、黒の方が憎むでせうが、全体としてよければ責任のない事で、武家は永続いたします。どつちも悪いとなるとその内閣は倒れます。武家が亡びます。こんな風に武家が一人であれば武力を頼りとして圧制を極めませうが、奥に日本人全体の神として崇め奉つて居る皇室がありますので、武家が悪い事をすれば、神の御輿を擁して、勤王を唱へる。そして横暴な武家を倒す。それであるから、王政の時分は勿論の事、外国の文明があればそれを輸入するものは皇室であります。武家の時分でも圧制の出来ないのは、皇室があるために権制が掣肘されるのによるのであります。その関係で、日本人は決して外国の歴史に見る様な圧制を蒙つた事オープンアクセス NDLJP:18がありません。之は大きく歴史を見て云ふ言葉であります。嘘ではありません。さう云ふ有難い支配者を持つ日本人が、何を苦んで露西亜のソビエツトの真似をするか。必要のない話であります。誠にそれは不思議な話であります。ソビエツトもやつて見れば、実際必要のない話である。露西亜の様に誅求されて、えらい目に会つて、色色酷い目にあつて、民の恨が重つて、あゝいふ深刻な革命が出るのですけれども、日本はそんな事はない。今不景気ですけれども、それは財政であります。要するに日本には革命の必要はなく、改良が必要である。金のある人はどん金を出して困る人を救ふ様にする。之が皇室の御趣旨であります。日本人民は大多数は同種族であります。違ふ民族ぢやない。近頃朝鮮人台湾人が入りましたが、大多数は同種族であります。之によつて、あの赤いソビエツトの共産主義にかぶれて之を善い事と思ふのは飛んでもない間違ひであると思ふのであります。



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